2018. 隙間読書 東雅夫「猫のまぼろし、猫のまどわし」

創元推理文庫


「猫」別役実

「尻尾をつかまれると、言ってみれば形而上的な不安に襲われるのである。そしてそれが『化ける』ための最初の条件となる」という一文も興味深く、この短編を冒頭に選んだ「猫のまぼろし、猫のまどわし」の次頁も興味深く…。

「猫」の中に出てくる「新案特許『尻尾固定機』を作製した」という一文にクスリ。笑いつつ「猫」のために北村紗季氏が描かれた扉絵を見たら、尻尾固定機を思わせる絵が…思わず感動、そして感謝。


萩原朔太郎「猫町」

「人は私の物語を冷笑して、詩人の病的な錯覚であり、愚にもつかない妄想の幻影だと言う」とあるけれど、猫町を見ることができるのは詩人の特権…凡庸な私にも猫町の美しさが伝わってくる。

北村紗希さんの口絵は「猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ。そして家々の窓口からは、髭の生えた猫の顔が、額縁の中の絵のようにして、大きく浮き出して現れていた」の世界でよいなあ。


ブラックウッド「古い魔術」

西條八十訳は平仮名の使い方で、猫のしなやな動き、話の不思議な展開を連想させる気がした。たとえば次の箇所などどうであろうか?

「催眠術にかけられたようになってかれは、たたずんだまましばらくこれら判断つかないけしきを見つめていた」

火刑にされた魔女…という途絶え、忘れられた記憶を、作家の想像力で蘇らせている点がつよく心に残る。忘れられた部分を復活させるということも文学の役割でなかろうかと。

「こんな事件はそのあとを継いだ子孫たちが、わざわざ記録に残して、子供たちに語り継ぎたいことでもなかろうから」(「古い魔術」より)

火刑にされた魔女というテーマは、カー「火刑法廷」を思い出してしまう。

「古い魔術」北村紗希さんの扉絵は「彼女は、みじめな、ぼろぼろの衣装を着ていたが、それが立派に似合っていた。こめかみのあたりは、芸香と馬鞭草の葉が」の「彼女」が妖しく見つめている。私もこめかみの草冠を凝視「ああ、これが正体不明のあの草なんだ」と知る。さらに娘は猫手で手招きしているではないか⁉︎ 細かく描かれた扉絵を堪能。


江戸川乱歩「猫町」

「萩原朔太郎の『猫町』を敷衍するとブラックウッドの『古き魔術』になる。『古き魔術』を一篇の詩に抄略すると『猫町』になる。私はこの長短二つの作品を、なぜか非常に愛するものである」なんて褒め上手な乱歩先生と感心。

北村紗希さんの扉絵は「一面の煉瓦、その真ん中に石で畳んだ窓があり、窓の上にはBarberと書かれ、横には理髪店の看板の青赤だんだらの飴ん棒がとりつけてある。そして窓一杯に覗いている大きな猫の顔」からか? そうか、この猫は雄猫なんだ、床屋さんだし…と絵を見て再認識。


江戸川乱歩「萩原朔太郎と稲垣足穂」

乱歩と朔太郎が二人で木馬に乗る回想が微笑ましい。乱歩37歳、朔太郎45歳のときだろうか。木馬場面を想像していると二人の自由な気分に私もひたることができる。

北村紗希さんの扉絵は酒徒朔太郎に敬意を表して酒瓶がならぶ。瓶のラベルに目をこらせば「旅順海戦館」「死なない蛸」「人間椅子」「猫町」「朔太郎 ?」と二人の作品が記されている。「死なない蛸」の瓶は蛸の足模様と楽しい細かさ。こんな酒瓶なら欲しい。


萩原朔太郎「ウォーソン夫人の黒猫」

「頭脳もよく、相当に教育もある」夫人は最初から狂気の人か?それとも徐々に?色チョークをばらまいて確かめる場面は、私の苦手ミステリ「見えないグリーン」にもあったような…。元のW・ジェイムズの実話を朔太郎も、スラデックも読んだのだろうか?

北村紗希さんによる「ウォーソン夫人の黒猫」は、「再度鍵穴から覗いた時、そこにはもはや、ちゃんといつもの黒猫が座っていた」場面を再現。背後の点描は猫の幽霊にも、夫人のまいたチョークの粉のようにも見える。粉をまいた時点で夫人は狂気の人だったのかも…と扉絵を見て思った。


エリオット・オドネル「支柱上の猫」(岩崎春雄訳)。

オドネルの父親はアイルランド人で英国国教会の牧師と知る。他にも未訳ながら英国怪談らしい雰囲気の作品を書いていて私的には面白そう。冒頭のクロウ夫人ことCatherine Croweはボードレールにも影響をあたえた…とのこと。こちらも読んでみたい。

北村紗希さんの「支柱上の猫」扉絵は、「座りづらい支柱の先という場所で、アンゴラにも匹敵するような大きな身体ですから、足を重ねて座るその様子は何かバランスを欠いているようにも見えるのですが、猫自身は結構心地よさそう」という座り方を描いていて、こんな座り方なんだと納得。


池田 蕉園「ああしんど」

31歳で亡くなった画家、蕉園が25歳のときに書いた作品。この時期は作品も評価され、私生活も婚約、破局、別の相手と結婚と激動の時期。そのせいか「ああしんど」は蕉園の心の叫びのようにも。北村紗希さんの扉絵の猫は尻尾は分かれていないけど、老猫感がよくでてる。


泉鏡花「駒の話」

黒塀に白い猫、白い着物の女の色の対比も心に残る。駒ちゃんの鮮やかな鼠の捕まえ方もユーモアたっぷり、シミ一つ残さない鼠の殺し方も潔癖症の鏡花先生らしいと微笑。駒が女に化ける不思議さ、子猫への愛、老猫になる切なさ。いろいろと詰まった作品。

「駒の話」北村紗希さんの扉絵、駒が乗っているのは菊と萩の柄の着物だろうか?駒が人間に化けたときの「白地の中形の浴衣を着て、黒い帯を引かけに」という姿から? 鏡花の文は「冬の日」とあるのに一方で「こぼれた萩」とあるのは不思議な気が…。季節が今とはずれているのだろうか?


岡本綺堂「猫騒動」

「夏祭浪花鑑」と同じテーマ、しかも夏祭の団七と同じ魚屋が同じようなことを…。でも夏祭は、その結果に至る心理と報いが細かく描写されているけど、綺堂は事件にまつわる不思議を細かく描写。近松半二と綺堂の重点の置きどころが違うのだなあ…どっちもいいけれど。

「猫騒動」北村紗希さんの扉絵に、これが「盤台」か…とまじまじと見る。


『鍋島猫騒動』(東雅夫訳)

絵草紙の猫も、北村紗希さんの扉絵の猫もちゃんと尻尾が二つに分かれている!絵草紙の絵に「又七郎の怨霊」と丁寧な註⁈がついているのも何となく怖い。絵草紙を現代に蘇らせてくれた東先生に感謝。


『佐賀の夜桜怪猫伝とその渡英』

作者の上原虎重は、この怪猫の話が外国に伝わる様子をユーモアたっぷりに紹介。 「単独旅行ではなく、四十七士や文福茶釜などと一緒の賑やかな団体旅行ではあったが、兎に角洋行をした」

北村紗希さんの扉絵は、文中の「咲き乱れた桜花を背景に、爛々たる眼のローヤル・タイガーのような巨大な猫が牙をむいて」という怪猫を描かれている。これがローヤル・タイガーかとしばし見つめてしまった。


『ナベシマの吸血猫」A・B・ミッドフォード / 円城塔訳

「オ・トヨ」とか「ルイテン」とか、カタカナにした日本語の固有名詞が新鮮。日本でない何処か別の国の物語を読んでいるような錯覚におちいる。

北村紗希さんの扉絵は、顔をかくす袖が猫の顔になっている! 外国にわたった怪猫だから尾は二つに分かれていない、配慮が細かいなあと感心。


『忠猫の話」A・B・ミッドフォード / 円城塔訳

ほとんど悪者の猫が多い中、珍しくご主人の娘を鼠から守ろうと奮闘して闘い死んでいく猫たちの物語。

北村紗希さんの扉絵は、忠猫たちの後ろにいるのはもしかしてトトロ? このトトロのおかげで優しい気分になる。


『白い猫』J・S・レ・ファニュ / 仁賀克雄訳

八十年前、大叔父が結婚の約束をして捨てた女、エレンは失恋の痛手から死んでしまう。それ以降、一族の男が白い猫を見ると、その者は死んでしまう。白い猫がくり返し現れ、そのたびに死者がでる恐怖がじわじわも伝わる作品。でも「わたし」は、このエレンと思われる女を平原で見かけたが長生きをしている。白猫の姿を見たものだけが死ぬという、よく分からない設定もいい。

北村紗希さんの扉絵は、捨てられた娘の顔も、その娘に抱かれている白猫の表情も驚くほど似ている。細かいなあと感心。


『笑い猫』花田清輝

思わず「怪猫有馬御殿」とは、どんな映画なのだろうと知りたくなる書き方である。動画で見たら、いきなり猫手の女がでてきて花田清輝がこれだけ「怪猫有馬御殿」について言葉をかえつつ繰り返したくなる気持ちがわかった。


『猫の親方 あるいは長靴をはいた猫』シャルル・ペロー / 澁澤龍彦訳

執念深い猫、化け猫の話が繰り返されたあとに、この機転のきいてユーモラスな猫の話を読むと心が軽くなる。

北村紗希さんの扉絵は、長靴と袋だけでなく、マントとベルトもしていて、最後に立派な貴族になった猫の姿がうかんでくる。


「編者解説」東雅夫

このアンソロジーの意図が軽妙に語られてクスリと笑いながら読む。

ヴァンパイアと化け猫の共通性は、この解説を読んで初めて知った。

この解説の最後にまで、北村紗希さんの挿絵があって楽しい。山猫軒の猫だろうか? 猫づくしの一冊を楽しんだ。

2018/12/8読了

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ジョージ・エリオット「ミドル・マーチ」第一巻第一章(No.5)

和訳)

姉のドロシアはパスカルのパンセや英国国教会主教のジェレミー・テーラーの節をたくさん諳んじていた。そんな彼女だから、キリスト教の見地に照らして人間の運命を考えてみると、女性の装いについて気づかったりするような振る舞いは、ロンドンにあるベドラム精神病院で時間をつぶすにも等しい愚行に思えた。永遠の意義をもつ精神的な生活に心をくだきながら、かたや縁飾りやドレープの芸術的な凹凸について強い興味をいだくような生き方は、彼女にはできなかった。

英文)

Dorothea knew many passages of Pascal’s Pensées and of Jeremy Taylor by heart; and to her the destinies of mankind, seen by the light of Christianity, made the solicitudes of feminine fashion appear an occupation for Bedlam. She could not reconcile the anxieties of a spiritual life involving eternal consequences, with a keen interest in gimp and artificial protrusions of drapery.

メモ)

ここでドロシアが好んでいる作家パスカルやジェレミー・テーラーは独特のスタイルで知られている。美的傾向があると同時に、宗教的な喜びにみちた文を書く作家である。この箇所では、ドロシアが考えることよりも、他の喜びに引きずられそうになることを防いで、「よいひと」になりたいと思う様を描き、その若々しい願いを書いている。

パスカル「パンセ」第二版

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ジョージ・エリオット「ミドル・マーチ」第一巻第一章(No.5)

和訳)

さらには育ちのよい娘らしい倹約も見受けられた。当時、倹約の対象は第一に衣装であり、経済的余裕があれば、もっと階級をはっきりとさせる費用として使われた。そうした理由があったのだから、宗教的な理由がなくても、質素な服装を十分に説明したことだろう。だがミス・ブルックの場合、おそらく宗教だけが衣装を決めた理由だった。そしてシーリアはおとなしく姉の意見にしたがい、それに世知を足しただけで、はげしく動揺することはなく重大な意見を受けとめた。


英文)

Then there was well-bred economy, which in those days made show in dress the first item to be deducted from, when any margin was required for expenses more distinctive of rank. Such reasons would have been enough to account for plain dress, quite apart from religious feeling; but in Miss Brooke’s case, religion alone would have determined it; and Celia mildly acquiesced in all her sister’s sentiments, only infusing them with that common-sense which is able to accept momentous doctrines without any eccentric agitation.


メモ)

ジョージ・エリオット「ミドルマーチ」手稿

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ジョージ・エリオット「ミドルマーチ」第一巻一章 (No.4)

和訳)

もし一世代二世代さかのぼって過去を調べたくらいでは、ヤード丈を測るような仕事をしたり、小包を結えるような仕事をしている者を見つけ出すこともなければ、提督や聖職者より低い階級の者を見つけ出すこともないだろう。クロムウェルにつかえ、清教徒のジェントルマンと思われる先祖もいたけれど、後に英国国教徒となって政治的問題を切り抜け、かなりの所領の主となった。こうした家に生まれた娘たちが静かなカントリーハウスに住んで、応接間ほどの大きさしかない教会に通ううちに、けばけばしい衣装飾りについて、商人の娘の野心として見なすようになったのは自然の成り行きだった。

if you inquired backward for a generation or two, you would not find any (1)yard-measuring or parcel-tying forefathers – anything lower than an admiral or a clergyman; and (2)there was even an ancestor discernible as a Puritan gentleman who served under Cromwell, but afterwards conformed, and managed to come out of all political troubles as the proprietor of a respectable family estate. Young women of such birth, living in a quiet country-house, and attending a village church hardly larger than a parlour, naturally regarded (3)frippery as the ambition of a huckster’s daughter.

メモ)

(1)仕立て職人、店員、郵便配達夫、大工。ネイティヴの方は、「そうした職業をだいぶ前に経過していた」というようにとらえていた。一世代二世代では探せないが、それよりも前になればいただろう……という解釈の方がいた。

(2)ブルックス家の運命はこうして逆転したけれど、清教徒のクロムウェルと結びつけられて語られているということは、英国国教会が社会の通念であった19世紀の英国においては、信じることができないということを語っている。

A portrait of Cromwell completed in 1656 by Samuel Cooper(クロムウェル肖像画)

(3)”Huckster”という単語はずうずうしい商人の意味があり、だましとったりする人や吝嗇家の意味がある。さらに加えるなら、生活のために働かなくてはいけない人は見くだされていた。”Huckster”には、社会をのぼっていくという意味や新興富裕層の意味があるので、”ambition”という単語がでてくるわけである。そこでエリオットは、この豪華な服を着ている人物像を語るにあたって、衣装のわりには高い身分の人に見せようとはしないのである。

当時、カール・マルクスも頻繁に”Huckster”や”Huckstering”という単語を使っていたが、その単語には「搾取する仕事」という意味があった。このことから分かるように、”Huckster”にはある階級の人々のその言葉への考えが反映されていた。

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ジョージ・エリオット「ミドルマーチ」第一巻一章(No.3)

訳)

そうは言っても、シーリアの方がふんだんに膝飾りのある衣装を着ているわけではなかった。だが近くで観察した者だけが、彼女の衣装は姉のものとは異なっていて、その着こなしにかすかな艶めかしさがあることに気づくだろう。ミス・ブルックの質素な衣装は、不確かな立場のせいであったが、妹もほぼ同じ立場にあった。それにはレディであるという誇りが関係していた。ブルック家の一族は、正確な意味での貴族ではないけれど、「申し分のない身分」であることには疑念の余地がなかった。

英文)

Nevertheless, Celia wore scarcely more trimmings; and it was only to close observers that her dress differed from her sister’s, and had a shade of coquetry in its arrangements; for Miss Brooke’s plain dressing was due to mixed conditions, in most of which her sister shared. The pride of being ladies had something to do with it: the Brooke connections, though not exactly aristocratic, were unquestionably “good:”

メモ)

奇妙な英国の妄想とも言うべき社会的な階層が、ここで明らかになる。この妄想がミドルマーチの重要な根幹となっている。

 

 

Pyramid of Capitalist System

(1911年に刊行された漫画「資本主義制度のピラミッド」)

エリオットは”good”という言葉で、控え目に姉妹の社会的な立場をあらわした。

 

 

 

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ジョージ・エリオット「ミドルマーチ」第1巻1章(No.2)

訳)

ミス・ブルックには、粗末な服をまとうことで際立つ美しさがあった。その手も、腕も見事なかたちをしているのだから、イタリアの画家たちの目にうつった聖母マリアのように流行から離れた袖であろうが、そうした袖を着たところで問題はなかった。彼女の横顔も、背も、姿も、その地味な衣装ゆえに、いっそう威厳がそなわっているように見えた。田舎風の衣装ということもあって、その姿は聖書からの素晴らしい引用、あるいは現代の新聞のなかにまぎれこんだ古の詩という印象をあたえた。彼女は驚くほど賢明なものとして語られたが、そのときには姉妹のシーリアの方が世知にたけているという言葉が添えられるのであった。



英文)

(1)Miss Brooke had that kind of beauty which seems to be thrown into relief by poor dress. (2)Her hand and wrist were so finely formed that she could wear sleeves not less bare of style than those in which the Blessed Virgin appeared to Italian painters; and (3)her profile as well as her stature and bearing seemed to gain the more dignity from her plain garments, (4)which by the side of provincial fashion gave her the impressiveness of a fine quotation from the Bible, – or from one of our elder poets, – in a paragraph of to-day’s newspaper. She was usually spoken of as being remarkably clever, but with the addition that her sister Celia had more common-sense.



メモ)

1)

最初の文はミス・ブルック(ドロシア)の美しさを強調する文で、その美しさは粗末な服をまとうことで際立つ。服が彼女の美しさを作り出すのではなく、彼女の美しさが質素な服に価値をあたえていることに注意したい。

この冒頭の文は、エリオット自身の文学のスタイルを反映するものでもあって、これからの文学に対する疑問を提起している。エリオットの文学には「粗末な服をまとうことで際立つ美しさ」に該当するものがあるのではなかろうか?小説における「粗末な服装と」は何か?主題やスタイルの選択なのか?


2)

ジョヴァンニ・バッティスタ・サルヴィ「聖母マリア」(ナショナルギャラリー)

エリオットはミス・ブルックの美しさや服装を、イタリア絵画の聖母マリアと比較している。マリアの袖は簡素で(流行からかけ離れた)ものだが、彼女の腕そのものは美しい。


3)

James Tissot’s The Bunch of Lilacs, (1875) 

ドロシアは質素な衣服であらわれる。彼女は姉妹のシーリアのように、当時の女性としては標準的な女らしさを持ち合わせていなかった

当時の社会が女性たちに求めていたのは、上の絵のように心よりも外見を磨くことであった。ドロシアの「地味な衣装」は、彼女の関心がどこか他にあることを示唆している。


(4)

ドロシアの生まれついての美しさは質素な衣装と相対するものであり、それは聖書の言葉や詩が新聞の散文と相対するようなものである。つまり彼女の外見は言語のもっとも崇高なかたちである教令集や詩になぞらえられている。いっぽうで彼女の服装は、当時、言語の一番低俗な形だと考えられていた印刷された散文になぞらえられている。

ミス・ブルックは、この時代に属していない。彼女がもたらしてくるのは聖書のような古代、昔の詩のようにいつだか分からない時であって、現在の新聞とは対比をなすものである。

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ジョージ・エリオット「ミドルマーチ」1巻1章(No.1)

訳)

1章

わたしに素晴らしいことなんかできない、だって女なんだもの。

いつも素晴らしいことのすぐそばまでは近づくのに。

「メイドの悲劇:ボーモントとフレッチャー」



原文)

Chapter 1

Since I can do no good because a woman,

Reach constantly at something that is near it.

The Maid’s Tragedy: BEAUMONT AND FLETCHER.



~註~

The Maid’s Tragedyは、1619年に発刊された戯曲。フランシス・ボーモントとジョン・フレッチャーによって書かれた。

フランシス・ボーモントとジョン・フレッチャーは、エリザベス女王時代の演劇集団「ザ・キングズ・メン」の一員だった。ザ・キングズ・メンには俳優リチャード・バーベッジとウィリアム・シェークスピアがいた。

この台詞を言っているのは王の愛人でもあり、偶然殺人をおかしたエビアドネである。この台詞は女性に課せられた限界をはっきり表現していて、家のなかで働きたいという気持ち、こうした限度を超えたいという複雑な気持ちをあらわしている。

この台詞はネット上で調べると英語圏の人にとっても理解が難しいようだが、おそらく( )内の語が省略されているのではないだろうか?

Since I can do no good because (I am) a woman,

(I) Reach constantly at something that is near it.

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2018.11 隙間読書 谷崎潤一郎「厠のいろいろ」&「陰翳礼讃」

今週末に早稲田中野校で東先生の講座があるので予習に読む。

読んでいくうちに谷崎潤一郎は関西の人では…それなのに少しも関西弁の響きがないと些細なことが疑問に。調べてみると谷崎は東京で生まれ、東京で育ったのであった…。関東大震災後に関西に引っ越しているから、40歳過ぎてからの関西移住となる。

私事ながら文楽を鑑賞していると、私がいいなあと思った関東出身の太夫さんでも、地元大阪の人は違和感を感じる、大阪弁が母語でないと分からない違和感かもと言う。

この太夫さんの語りのどこに違和感…?と考えることが最近多いので、関西に住みながら関東の言葉で書く谷崎の気持ちはいかほどのものだったか…と思う。関西弁の助手もつけたりしたそうだから、「意味のふかい関西弁で書きたい…でも書けない」というジレンマもあったのではないだろうか?


厠で印象に残った箇所を二か所ほど引用してみる。


糞の落ちて行く間を蝶々がひらひら舞っていたり、下に本物の菜畑があるなんて、洒落た厠がまたとあるべきでものではない。

厠がまるで天国のようではないか?こんな厠なら、ずっといたい。


だから便所の匂を嗅げば、ほぼその家に住む人々の人柄が分かり、どんな暮らしをしているか想像できるのであって、名古屋の上流の家庭の厠は概して奥ゆかしい都雅な匂がしたと云う。

ほんとうに家ごとに匂いが違ったのだろうか⁉

かつての日本の厠は、自然を感じながら一人でこもる瞑想空間だった…ということが分かり、今ではそんな厠空間が失荒れていることが残念になる。菜の花畑と蝶々のみえる厠を体験してみたかった。


陰翳礼讃で印象に残ったのは障子について書いた箇所。

その夢のような明るさをいぶかりながら眼をしばだたく。何か眼の前にもやもやとかげろうものがあって、視力を鈍らせているように感ずる。それはそのほのじろい紙の反射が、床の間の濃い闇を追い払うには力が足らず、却って闇に弾ね返されながら、明暗の区別がつかぬ混迷の世界を現じつつあるからである。

障子の魅力について丁寧に語り、障子の醸し出す魅力について「明暗の区別がつかぬ混迷の世界を現じつつあるから」と語る件が心に残る。

私自身、我が家の二面が障子になった部屋が好きである。中から障子ごしに光を感じたり、暗くなれば外から障子のある部屋を眺めて闇にうかぶ障子の白さを楽しむんだり…。そんなことをしながら心落ち着く思いがするのは、「明暗の区別がつかぬ混迷の世界」を楽しんでいるからと納得した。

2018.11.26読了

 

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2018.11 隙間読書 丸山健二「夏の流れ」

講談社文芸文庫

丸山健二が二十三歳のときの作品。この作品で丸山は最年少の芥川賞受賞者となる。


さぞや難解なのでは…と怖れながら頁をひらく。

切り落とされた無駄のない言葉からヒタヒタ心に沁みこんでくるもの…それは幸せに生きる看守家族の幸せが死刑囚の絶望と無関心ゆえに成立している幸せである事実。そして親切そうにふるまう神父の親切が偽善である事実。

「夏の流れ」は、けっして難解ではなかった。でも私たちのしあわせが、他人の不幸に無関心だから成り立っている事実に辛くなり、やるせない気持ちになる作品である。


看守の妻が、新しく入った死刑囚のことで夫と会話している場面「人間じゃないわね」「人間さ」という簡潔な夫婦のやりとりも、丸山の人間観をあらわしているようで切ない。世の人が「人間じゃない」と考える死刑囚の姿も、丸山にすれば「人間」の一面なのではないだろか?


「この前入った人どうしてるの?」

また、妻がきく。

「誰?」

「親子二人殺した人よ。ほら体の大きい」

「あいつか。おとなしいもんさ」

「そう。きっと平気なのね。子供まで殺したんでしょう、ひどい人ね」

「まあな」

「人間じゃないわね」

「人間さ。出かけるぞ」

丸山健二(「夏の流れ」より)


死刑執行翌日、看守の「私」が妻と子供たちと海水浴に出かけた先で、看守を辞めた同僚について語る場面。妻の神経のなさに驚くと同時に、そうした妻が命を身ごもっているという事実にうちのめされる。


「あの人にはむいていないのよ」妻が言った。

「何が?」

「あなたのお仕事」

「俺はむいているかい?」

「そうね、堀部さんなんかも」

「そうかな」

「そうよ」

「あっ」

妻が

小さく叫んだ。

「どうした?」

「なんでもないわ」と妻は言った。「おなかの赤ちゃんが動いたの」

「そうか」

妻は水平線の遠くを走る、白い漁船の群を見ていた。

「子供たちが大きくなって、俺の職業知ったらどう思うかな?」

「どうして? あなた今までそんな事言ったことないわ」

「そうか」と私は言った。「ただ、思ってみただけだ」

丸山健二(「夏の流れ」より)


蚊帳の色の安心感、死刑囚の運命を暗示しているような指についた魚のにおいの不快さ、看守も看守の妻も吸い込んでいくような海の広がり…簡潔な言葉が五感に訴えてくる作品である。

この作品をスタートにして、近年「会話や地の文によるストーリーの説明が極力排除され、登場人物の濃厚な内面描写が続く」という丸山作品にどう変化していくのか…その過程をじっくり読んでみたい。

2018.11.25読了

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2018.11 隙間読書 ブラックウッド「いにしえの魔術師」夏来健次訳

発行:アトリエサード社


ヴェジンがふと列車から降り立った街は、実はゆかりのある土地だった。かつてその街に住んでいた先祖と同じような出会いを経験、やがて記憶が少しずつよみがえる…今まではそんな不思議な雰囲気を楽しみながら読んでいたが、今回、少し印象が変わった。それは夏木氏の雰囲気をだそうとする訳に気づくところがあったせいかもしれない。

「いにしえの魔術師」は不思議な物語である。同時に、そのなかに光るのは危険にいどみ、なんとか切り抜けていこうとする強さ。そうした冒険の物語も、不思議な物語のなかに入れ子になって面白さをだしているのだなあと思った。

たとえば以下の赤字の箇所に、冒険の物語としての「いにしえの魔術師」を感じた。


「そのために彼らは見張りつつ待ち受けているのか?」とヴェジンは心もふるえる恐れとともに自問したと言う。「ぼくが彼らの仲間に加わるか—それとも拒むかを見きわめるために? その如何は彼らが決めるわけではなくて、結局のところぼくに委ねられているのか?」

 そう覚った瞬間にこそ、この冒険行の奇怪な本質が初めてあらわになり、そして心の底から危機を感じとった。自らのささやかで脆弱な人格の平穏が失われようとしているのを感じた。そして激しいおびえに襲われた。(夏木健二訳)

   “Is this why they wait and watch?” he asked himself with rather a shaking heart, “for the time when I shall join them—or refuse to join them? Does the decision rest with me after all, and not with them?”

    And it was at this point that the sinister character of adventure first really declared itself, and he became genuinely alarmed. The stability of his  rather fluid little personality was at stake, he felt, and something in his heart turned coward.


冒険に挑もうとする精神は、街から屋敷へと舞台をかえ、ブラックウッドの他の作品にもみられるように思う。不思議な体験を語りながらも、強さを失わないで話が展開していく点がブラックウッドの魅力かもしれない。他の作品にあたって確かめたい。

21018.11.24読了

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