2118.10 隙間読書 相川英輔「雲を離れた月」

以下の四篇が収録されている。

「雲を離れた月」

「ある夜の重力」

「7月2日、夜の島で」

「エスケイプ」


「雲を離れた月」

放課後の教室で秀才の源、おたくの島田、乱暴者の日隈、美少年でおだやかな酒見の四人が御狐様をする羽目に。御狐様は「二十歳までにこのなかの三人が死ぬ」と予言する。そして予言どおりに不可思議な出来事が…。

つきとめようと調べるうちに源は、酒見に再会。だが…。

年月とともに変わってしまったもの、失われてしまったものの多さ、とりわけ美少年酒見の変貌ぶりに悲しみの第一波がおしよせる。でも最後の場面で酒見がみせた優しさは昔と変わらず…いろいろあったけれど、この優しさは変わらないと思うと、悲しみの第二波、第三波がおしよせる。

ただ冷静な源の目をとおして物語をみることで、悲しさに流されない強さも伝わってくるように…。

御狐様のやり方が細かく書かれている点も、私のやったものとは違うようで地域性もあるのだろうかと興味深く読んだ。

2018.10.18読了


「ある夜の重力」

「雲を離れた月」と同様に顔に対する脅迫観念?に悩む男がでてくる。「雲を離れた月」の登場人物は顔の火傷が完治しているのに傷があると錯覚し続けるが、「ある夜の重力」の登場人物、榊は妻「春」のまえだろうと、友人「光安」の前だろうと、常に鼻から上をおおう仮面を被っている。顔をおおうことで安心を得るのである。

顔に対する脅迫観念にとらわれている登場人物を、「雲を離れた月」「ある夜の重力」とつづけて登場させている点に興味がひかれた。作者にとっても、私たち読者にとっても顔は社会との接点。その接点のゆがみ具合を顔にまつわる脅迫観念で、形を変えてあらわしているところが面白い。

面白いと言えば、結末も…。こういう結末には、初めてお目にかかる気がする。一瞬、唖然としてしまいながら、これで登場人物が救われてほしいと願う。いや、そうでもしないと救われないかと絶望的な気分にもなる。

家庭教師先の女の子との出会いと別れを絡めつつも、根底を流れるのはどう世と対峙すればいいのかという戸惑いと不安なのだろう。第三篇では、何がでてくるのか楽しみである。

2018/10/19読了

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チェスタトン「マンアライヴ」二部四章434回

彼の動機は、十分なくらい明確だ。だが、おそらく、その信念は明確なものではない。僕がみたところ、イノセント・スミスは、こうしたことについて根底から理解している。そう思っているけれど、けっして確実ではない。でも、論議したり、弁護したりすることに価値があるのは確かなんだ。

スミスが非難している考えは、こういうものだ。もつれた文明のなかで暮らすうちに、ぜんぜん間違っていないのに間違っていると考えるようになってしまった。突然怒ったり、幸せになったり、動きまわったり、突進したり、冗談を言ったり、挫折したりすることは間違っていると考えるようになってしまった。そうしたことは、ただ許すわけにもいかず、そうかと言って咎めることもできないものなんだ。

“So far his motives are clear enough; but perhaps his convictions are not quite so clear. I think Innocent Smith has an idea at the bottom of all this. I am by no means sure that I believe it myself, but I am quite sure that it is worth a man’s uttering and defending.

“The idea that Smith is attacking is this. Living in an entangled civilization, we have come to think certain things wrong which are not wrong at all. We have come to think outbreak and exuberance, banging and barging, rotting and wrecking, wrong. In themselves they are not merely pardonable; they are unimpeachable.

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2018.10 隙間読書 香山滋「金鶏」

1948年(昭和23年)岩谷書店にて初出。

国書刊行会の復刻版「木乃伊の戀」で読む。


香山滋44歳のときの作品。ふと今見れば、本には「装丁・挿絵 香山滋」とある。絵が好きだったんだなあ、道理で視覚に強く訴える場面が多い。

なかでも挿絵を描き、その下に文中の一節「美しい外交官夫人に戀した金鶏は、彼女の胸に己れの姿を刻印した」と書いている場面は、香山のお気に入りだったのだろう。思わず見入ってしまう。

香山が挿絵で描いた外交官夫人の目は左右がアンバランス…読んでいても、同情すべき立場の女性なのに、その心の冷たさ、残酷さが印象に残る人物である。そして髪の毛はじっと見つめていると人の顔が幾つもうかんでくるようにも…やはり、この美しい外交官夫人には、人の心の勝手さ、嫌らしさが反映されているように思う。比べると浮気相手に搾り取られる夫も、外交官夫人の一言を真に受けてしまう金鶏も純情に思えるのだが…。


「金鶏」は短編だが、長編にしても楽しめそうな要素が多い。

外交官夫人への恋、外交官夫人への侯爵の恋、外交官夫人の胸に刻まれた金鶏、金鶏への侯爵の闘い、外交官夫人のかつての夫のエジプト娘への浮気、夫への金鶏探しの依頼、外交官夫妻の金鶏をさがす旅と苦難、密林のなかの処女洞窟とその中の財宝、財宝を隠した船長と木乃伊の女との恋、浮気したせいで生きながら木乃伊にされた三千五百年前の王妃、鳥となって甦った王妃の浮気相手、木乃伊の女と瓜二つの外交官夫人に恋する鳥…

これだけ興味深いエピソードがあるのだから、秘境への冒険長編小説が書けそうではないか。


文がたくみなわけでもないが、なぜか視覚的に残る文が多い。なかでもミイラは、怖くなるほど生き生きと描写している。


妃がミイラに生きながらされる場面

妃は、メムノニヤのミイラ職人に、生きの身を剖れ乍ら、ネブ・ワァの神に祈り叫んだ。(わらははいつの日にか必ず甦る―その日にこそ、いとしきクリベよ、お身も共に甦って、うつし世に果たし得ざりし戀を完成せしめようものを)


ミイラの妃が甦る場面…怖い。

妃は甦った。全身を螺旋状に巻き附けてゐる棕櫚の樹液を浸した繃帯をみづからの手で解きほぐして、甦へれるクリベの前に立ったのである。


ミイラから甦った妃がまた死んでいる場面…やはり怖い

だが、そのときには、妃はその日をも待たず、縫合はされた胸腹の糸のほぐれに再び悲しい屍となつて横たはつていた。


 これほどミイラを見るがごとく書いた作家はいないのではないだろうか? 香山滋のミイラ愛はどこからきているのか…と思いつつ頁をとじる。

2018 /10/17読了

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チェスタトン「マンアライヴ」二部四章第433回

そうなんだ、イノセント・スミスは、余所で数百回と繰り返してきたように、ここでも振る舞ってきたけれど、その行動のもとになっているのは明らかに、非難されるいわれのない信念なんだ。それは現代世界においては奇妙な、大げさなものだ。だが現代世界にはあてはめたところで、せいぜいそのくらいの印象のものだろう。彼の信念は簡単に説明できる。すなわち、まだ生きているあいだは死ぬことを拒む。あらゆる電気ショックを知性にあたえてみて、自分がまだ生きているといことを、二本足で世界を歩き回っているということを彼は思い出すんだ。だからこそ、彼は親友にむけて銃弾を発射した。だからこそ、はしごと折りたためる煙突を用意して、自分の資産を盗んだ。だからこそ、世界中をとぼとぼ歩いた挙げ句に自分の家にもどった。だからこそ、永遠の忠誠をちかった女性を連れてきては、学校や下宿や会社に(言わば)置き去りにするわけだ。つまり、とつぜんロマンチックな駆け落ちをすることで、何度も彼女を再発見するというわけなのだろう。彼が永遠に花嫁を奪い返そうとしているのは、彼女には永遠の価値があると感じていたいし、逃げてしまう危険があるかもしれないと感じていたいからなんだ。

“Yes, Innocent Smith has behaved here, as he has on hundreds of other occasions, upon a plain and perfectly blameless principle. It is odd and extravagant in the modern world, but not more than any other principle plainly applied in the modern world would be. His principle can be quite simply stated: he refuses to die while he is still alive. He seeks to remind himself, by every electric shock to the intellect, that he is still a man alive, walking on two legs about the world. For this reason he fires bullets at his best friends; for this reason he arranges ladders and collapsible chimneys to steal his own property; for this reason he goes plodding around a whole planet to get back to his own home; and for this reason he has been in the habit of taking the woman whom he loved with a permanent loyalty, and leaving her about (so to speak) at schools, boarding-houses, and places of business, so that he might recover her again and again with a raid and a romantic elopement. He seriously sought by a perpetual recapture of his bride to keep alive the sense of her perpetual value, and the perils that should be run for her sake.

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M.R.James “Lost Hearts”&「消えた心臓」紀田順一郎訳

原文はネット上より。

M.R.ジェイムズ怪談選集1紀田順一郎訳(創元推理文庫)

初出:1893年10月23日の茶話会にて朗読

「ベルメル・マガジン」1895年12月号掲載


主人公の悪い男はM.R.ジェイムズや同僚たちがモデルかも!

M.R.ジェイムズが最初の作品「アルベリックの貼雑帳」で書いたのは、聞かせる相手とおそらく共通の趣味であった古本にまつわる怪談であった。

第二作めの「消えた心臓」の主人公アブニー氏は、「こうるさい隠居」「杓子定規な生活」「異端信仰の研究では右に出る者はない」「本の虫以外の何者でもない」「長身で痩せた、謹厳そう」な人物。

これはM.R.ジェイムズ、あるいはその同僚たちのようではないか。聞いている者たちは、最初「まるで君のことみたいだね」「いや君みたいだ」と笑って反応したのでは…?でも、途中からまさかの展開に、さぞ慄然としたことだろう。

怪談を語りつつも自虐精神、ユーモア精神は忘れない…ところが英国怪談らしさであり、M.R.ジェイムズの魅力ではないだろうか。ただ、そのユーモア精神は、なかなか私たち日本人には理解しがたいもの。それがM.R.ジェイムズの分かりやすいようでいて分かりにくい部分になっているのかも…と思った。



なぜ家について細かく語るのか?

M.R.ジェイムズがモデルと思われる悪人が金ぴかの豪邸に住んでいるという滑稽味もあるのでは?

まずはアブニー氏の住まいアズワービー館に少年ステファンが到着する描写から始まる。怖い思いをすることになるステファンのことにはほとんど触れず、ひたすらアズワービー邸の外観について語る。その意図とは…? そしてどのような家だったのだろうか?

「アン女王時代に建てられた丈の高い、真四角の赤い煉瓦造り」

「家には細長くせまい窓がたくさんあって、それぞれが白木の桟で細かく仕切られていた。」

「玄関を飾る切妻壁(ぺデイメント)には丸窓が穿たれていた」

クイーン・アン様式の家だから、だいたい、このような感じの家ではないだろうか?

ただ前部分の「列柱様式の回廊」をめぐる表現、その他、M.R.ジェイムズのこの家を語る口調にかすかに皮肉めいたものを感じると同時に、物語の萌芽を感じてしまうのだが、考えすぎだろうか?

a stone-pillared porch had been added in the purer classical style of 1790

「石柱のある玄関だけは1790年代の古典派様式により増築されていた」

1790年代なら、英語は”1790’s”になるのでは…という細かな疑問もあるのだが、それはさて置き(でも原文好きの皆様、教えてください)

この作品で最初の犯行が起きたのは1792年3月。古代の秘密儀式へと傾倒していったアブニー氏は、まず犯行を犯すまえに儀式の場らしい雰囲気をととのえようと、犠牲者をむかえいれる玄関を古典建築めいたものに増築した…と考えられないか?


There were wings to right and left, connected by curious glazed galleries, supported by colonnades, with the central block.

「左右の翼は入念に磨きたてられた列柱様式の回廊で、それが母屋へと連絡していた」

glazedの意味が「なめらかな」なのか「ガラスばり」なのか悩ましい。だが「ガラスばり」と考えると、当時、ガラスはまだ高価なものだったはずだから、この家の成金趣味めいたところを所々で仄めかしているM.R.ジェイムズの意図に重なっていく。

英文の順番のまま大まかな意味を考えると、左右に別棟の建物があって、妙なガラスばりの回廊でつながっていて、その回廊は列柱で支えられていて… central blockって何だろう?紀田氏の訳にも見当たらない。想像しにくいけど、中央にブロック塀があって、その両横にガラスはりの回廊がのびていくのだろうか…。

Each was surmounted by an ornamental cupola with a gilded vane.

「両側ともに装飾の丸屋根をいただき、そのうえに金色の風見が光っていた」

gildedは「金めっきの」という意味で、あまり良い意味で使われていないようである。ここでも過度に家を立派にみせているアブニー氏を揶揄しているのでは…という気がする。


In the marble-paved hall stood a fine group of Mithras slaying a bull,

大理石を敷きつめたホールには、一群の選ばれたミスラ教徒が牡牛を地祭りにあげている彫像が置かれていたが」

大理石の産地が多いフランスやイタリアと異なり、イギリスで「大理石を敷きつめたホール」はかなりお金持ち感があるのではないだろうか?

M.R.ジェイムズや同僚たちが、こういうお金持ち感のある建物を好んだ、住んでいた…とは思えない。むしろ擦り切れたカーペットをしいて生活していたようなイメージがある…先入観だけど。

自分たちをモデルにしたような悪い主人公が、自分たちの住まいとは大違いのお金持ち感のある家に住んでいる…というところにも、英国らしいユーモア感があるのではないだろうか?

古書愛とかは似ているけれど、暮らしぶりは成金傾向で違うから、悪いことをする人物として描いても許されたのではないだろうか?



丁寧に説明して訳すと逃げ出す「怖さ」というものの勝手さよ…!

紀田氏の訳はとても丁寧に調べて訳されていて、こんなに丁寧な訳でM.R.ジェイムズ全作品が読めるとは…なんて幸せな世だろうと感謝したくなる。

その一方で分かりやすい表現をしてくださるあまり、怖さがなくなってしまう箇所も。分かりやすさと怖さは両立しないのかも…と思う。紀田氏はあまり怪談を耳で聞かない方かも…という印象を訳文から受けた。訳は正しくても、この言葉では怖さが減じてしまう…と思った箇所も幾箇所か。ほんとうに「怖さ」とは勝手な感情よ…と思いつつ、間違っていないけど違和感を感じた箇所を以下にメモ。


The moon was shining through the window, and he was gazing at a figure which lay in the bath.

「月光がさしこんでいて、だれかが浴槽のなかに横たわっているのが見えた」


and the arms began to stir.

「両腕がもぞもぞ動きはじめた」

「もぞもぞ」の方が怖いのか、怖くないのか…人によって感覚が違うかとも思うが。


平井訳を意識されたのだろうか…わかりやすい訳を心がけるあまり、かえって怖さが失われているように感じる箇所もあった。どうもわかりやすさと怖さは両立しないものらしい。


he felt as if an endless procession of unseen people were sweeping past him on the wind, borne on resistlessly and aimlessly, vainly striving to stop themselves, to catch at something that might arrest their flight and bring them once again into contact with the living world of which they had formed a part.

「柵によりかかって室内を眺めていると、なにやら目に見えない幽霊のようなものが、あとからあとから漂い流れていくような気がした。あてでもなくフワフワ流されながら、必死になにかにすがりつことしている。何でもいいからこの世のものにつかまることができれば、自身の生命を回復することができるというのに、どうしてもそれができないーという感じなのだった。47頁

an endless procession of unseen people は「目にみえない人々の、終わりのない行進」とM.R.ジェイムズの意図そのままに日本語訳をした方が怖い気がする。「幽霊」はあまりに説明しすぎているのかもしれない。

後半もわかりやすい訳を心がけるあまり、M.R.ジェイムズの意図からずれているのではないだろうか?「その一部分をかたちづくっていた、生命ある世界にふれようとして」というような意図ではないだろうか?


Here was a new excitement added to life: Stephen eagerly grasped at the opportunity of sitting up till eleven o’clock.

少年は新しい刺激にわくわくした。懸命になって、十一時まで起きているように努力した。」47頁

M.R.ジェイムズの口調をそのまま伝えて「人生に新しい刺激がそえられた」としてもいいような気もする。


but did not seem to notice his step.

だれかが覗き見しているようとは気づかなかったのだ」47頁

「彼の足音には気がつかなかったようだ」と直訳をしておいた方が、ステファンの足音に気がついてしまうかも…というハラハラ感はあったように思う。


The wind had fallen, and there was a still night and a full moon.

「いつしか風はやみ、森閑とした夜空にが出ていた。」47頁

些細なことではあるが、いつか訳したくなったときのために「月ではなく満月」とメモ。


Still as the night was, the mysterious population of the distant moon-lit woods was not yet lulled to rest. From time to time strange cries as of lost and despairing wanderers sounded from across the mere. They might be the notes of owls or water-birds, yet they did not quite resemble either sound

「静かな夜であったが、月光に照らされた遠方の森では妖しい鳥の群れがいまだ巣につかないのか、ときおり池をわたって、行き暮れた旅人のような鳴き声を立てていた。梟だったろうか、水鳥だろうか。いや、そのどちらにも似ていないようだった。」47頁

わかりやすく訳せば、上の訳になるだろうが、populationは「群れ」とか「集団」という意味ではあるが、まだ鳥だとは分からない。この文を読んでも、正体がなんだか分からない。その怖さを楽しみたくてM.R.ジェイムズはこの怪談を語っているのではないだろうか?


Something in the form of the girl recalled irresistibly his dream of the figure in the bath. The boy inspired him with more acute fear.

女の子の姿は、いやおうなく、夢に見た浴槽での姿を思い起こさせた。男の子の方は、もっと怖ろしい格好をしていた

Somethingという言葉に、正体不明の怖さが潜んでいる気がする。後半の方は、もっとM.R.ジェイムズの口調そのままで読みたいようにも思った。


わかりやすい怪談のようでいて背景となる知識も(その建築がどういう印象を「もたらすものかとか…)、ユーモアの感覚も知らない私たちには、M.R.ジェイムズは手ごわいかも…でも読みたい…その全作品を訳してくださった紀田純一郎氏に感謝しつつ頁をとじる。

2018/10/15読了

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チェスタトン「マンアライヴ」二部四章第432回

死んだような沈黙のなか、ムーンは説明を続けた。「色に関する、この奇妙な、偶然の一致は何を意味しているのだろうか?自分としては、 一瞬でも、疑うことはできない。こうした名前がただの気まぐれでついた名前ではないか、全体的な計画や冗談の一部分ではないかなんて。おそらく、一連の服装からつけられた名前だと思う。ポリー・グリーンは、緑の服装のポリー(あるいはメアリー)という意味で、メアリー・グレイは灰色の服装のメアリー(あるいはポリー)という意味なんだ。こうしたことから説明されるのは…」

サイラス・ピムはぎこちなく立ち上がったが、その顔からは血の気がひいていた。

「君はつまり言いたいのはー」彼はさけんだ。

「そうなんだ」マイケルはいった。「ぼくが言いたいのは、そういうことなんだ。イノセント・スミスはたくさんプロポーズをしたし、知っているかぎりでもたくさん結婚をした。でも、彼の妻はたった一人なんだ。その女性は、一時間ほど前までその椅子に座っていた。今、庭でミス・デュークと話をしている」

Amid a dead silence Moon continued his exposition. “What is the meaning of this queer coincidence about colours? Personally I cannot doubt for a moment that these names are purely arbitrary names, assumed as part of some general scheme or joke. I think it very probable that they were taken from a series of costumes— that Polly Green only meant Polly (or Mary) when in green, and that Mary Gray only means Mary (or Polly) when in gray. This would explain—”

Cyrus Pym was standing up rigid and almost pallid.
“Do you actually mean to suggest—” he cried.

“Yes,” said Michael; “I do mean to suggest that. Innocent Smith has had many wooings, and many weddings for all I know; but he has had only one wife. She was sitting on that chair an hour ago, and is now talking to Miss Duke in the garden.

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2018.10 隙間読書 夢野久作「あやかしの鼓」

初出:「新青年」博文館1926年(大正15年10月)

青空文庫


能ミステリを読んでみたい…とツィッターで呟いていたら、親切なシンポ教授が「勿論チェック済みですよね」と教えてくださった夢野久作の短編である。勿論、チェック済みではなかったので早速読んでみる。

手にとる者すべてに災いがふりかかる怪しい鼓をめぐる因縁話がまず面白い。

それから鞭を愛する美女の登場も面白い…サドも訳されていない大正15年当時、こんな怪しい美女を創るとは。


まず最初の頁から鼓をめぐる因縁が描かれ。この頁だけで最後まで読んでみたいと思ってしまう。夢野久作がこんなに読者に読ませようと思わせるサービス精神旺盛な作家だったとは意外。

同時にこの名称は能楽でいう「妖怪(あやかし)」という意味にも通っている。

この鼓はまったく鼓の中の妖怪である。皮も胴もかなり新しいもののように見えて実は百年ばかり前に出来たものらしいが、これをしかけて打ってみると、ほかの鼓の、あのポンポンという明るい音とはまるで違った、陰気な、余韻の無い…ポ…ポ…ポ…という音をたてる。

この音は今日迄の間に私が知っているだけで六、七人の生命を呪った。しかもその中の四人は大正の時代にいた人間であった。皆この鼓の音を聞いたために死を早めたのである。

最初のこの数行を読んだだけで、鼓のあやしさにひきこまれ、最後まで読みたくなるではないか。


夢野久作は、この怪しい美女の姿をどこから連想したのだろうか?

「よござんすか。それとも嫌だと云いますか。この鞭で私の力を…その運命の罰を思い知りたいですか」

私の呼吸は次第に荒くなった。正しく綾姫の霊に乗り移られた鵜原未亡人の姿を仰いでひたすらに喘ぎに喘いだ。百年前の先祖の作った罪の報いの恐ろしさをヒシヒシと感じながら…。

「サ……しょうちしますか……しませんか」

と云い切って未亡人は切れるように唇を噛んだ。燐火のような青白さがその顔に颯と閃くと、しなやかな手に持たれたしなやかな黒い鞭がわなわなと波打った。

これが大正15年の小説だとは思えない、現代小説としても通用しそうな気がする。大正時代とは自由な時代だったのだと思う。


それにしても最初から面白かったなあ。ただ後半、なぜ鼓の呪いがとけたのかが曖昧で、終わり方がすっきりしない気もするが、最初がとにかく面白い。

シンポ教授から教えていただいた他の能ミステリ、斉藤栄「鎌倉薪能殺人事件」、「天河伝説殺人事件」、鳴神響一の時代ミステリ「能舞台の赤光 多田文治郎推理帖」、皆川博子「世阿弥殺人事件」、紀和鏡「薪能殺人舞台」も読まなくてはとここにメモ。

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2018.10 隙間読書 世阿弥「葵上」

タイトルの葵上は登場せず、舞台上では一枚の小袖が紫上のかわりに置かれるのみ。物語の中心は、鬼になってしまうほどの六条御息所の源氏への思い、葵上への嫉妬である。

でも舞台の上で雄弁に語られる六条御息所の思いより、見えない存在、見えない世界をほのめかす言葉の「月にはみえじかげろうふ」や「水暗き、沢辺の蛍の影」の美しさが心に残る。


訳はインターネット上のものから。

月をば眺め明かすとも、月をば眺め明かすとも、月には見えじかげろふの、梓の弓のうらはずに、立ち寄り憂さを語らん、立ち寄り憂さを語らん。

どれほど月を眺めて夜を明かしても、月には見えない陽炎のようなものだから、せめて梓弓の側まで立ち寄って、胸の辛さを語ろう。

恨めしの心や、あら恨めしの心や、人の恨み深くして、憂き音に泣かせ給ふとも、生きてこの世にましまさば。水暗き、沢辺の蛍の影よりも、光る君とぞ契らん。

恨めしい心よ。ああ、何と恨めしい心よ。私のこの深い恨みで、たとえ葵上を泣かせたとしても、生きてこの世にいらっしゃる限り、水暗き沢辺の蛍の影よりも光る君と契るでしょう。


舞台では見えないものの存在を感じることができるのだろうか…と楽しみである。

2018/10/13読了

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チェスタトン「マンアライヴ」二部四章第431回

赤い髪だけではない。もう一本別の糸があって、あちらこちらに分散した出来事につながっていく。こうした女性たちの名前には、どこか不可解な、ほのめかしている何かがある。覚えているませんか?トリップ氏が、 タイピストの名前はブレークだと思うと話していたことを。でも彼の記憶は正確さに欠けていた。言わせていただくなら、その名はブラックだったかもしれないのですよ。そうだとすれば、この件は奇妙につながっていきますね。レディ・ベリントンの村にはミス・グリーン。ヘンドンの学校にはミス・ブラウン、出版社にはミス・ブラック。色の糸はそのまま、西ハンプテッドのビーコン・ハウスに住んでいるミス・グレイで終わる。

“Besides this red hair, there is another unifying thread that runs through these scattered incidents. There is something very peculiar and suggestive about the names of these women. Mr. Trip, you will remember, said he thought the typewriter’s name was Blake, but could not remember exactly. I suggest that it might have been Black, and in that case we have a curious series: Miss Green in Lady Bullingdon’s village; Miss Brown at the Hendon School; Miss Black at the publishers. A chord of colours, as it were, which ends up with Miss Gray at Beacon House, West Hampstead.”

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2018.10 隙間読書 世阿弥「敦盛」

日本古典文学全集58巻「謡曲集」より。

作者:世阿弥


最初、現代とは価値観が違いすぎると困惑しつつ読んだ。いくら敦盛の幽霊とはいえ、自分のことを弔ってくれたからと、命を奪った相手を許して感謝するものだろうか?

でも最後の詞章を繰り返し読んでいるうちに、少し世阿弥の気持ちに近づいたかも…と美しい錯覚にとらわれる。


まずは大体のあらすじから…。

熊谷の次郎直実は出家して、蓮生法師と名をあらため、自分が殺した平家の敦盛の菩提を弔いに一の谷へ行く。

そこに草刈男たちが来て話をしていくが、一人残った草刈男は自分が敦盛であることをほのめかして姿を消す。

連生法師が弔っていると、武将姿の敦盛があらわれ、平家の思い出を語り、弔ってくれたことに感謝して消えていく。

この最後の部分が謎…狭量な私には理解できなかったけど、でももしや…と思うようになった。


つひに討たれて失せし身の、因果は廻り合ひたり、敵はそれぞれと討たんとするに、仇をば恩にて、法事の念仏して弔はるれば、つひには共に生まるべき、同じ蓮(はちす)の漣生法師(れんせいほうし)、敵(かたき)にてはなかりけり。跡弔ひて賜(た)び給へ。跡とぶらひて賜(た)び給へ。

ついに討たれて死んだ。その身の、因果はめぐって 今ここであなたとめぐり合った、敵はそれだと思って討とうとしたら、仇を恩で、報じ 法事の念仏をとなえて弔ってくださるので、そうだとすると 最後にはともどもに その上で生まれるはずの、同じ蓮(はちす)の台の蓮生法師法師、あなたは敵ではなかったのだ、どうかわたくしの跡を弔ってください、跡を弔ってくださいませ。 (日本古典文学全集の現代語訳)

「つひには共に生まるべき」の箇所だけれど、「生まる」は「埋まる」と掛けているのではないだろうか。

「共に死んで地中の埋まる身だから」という裏の意味があるのではと想像してみると、少し「敵にてなかりけり」という言葉も理解できるように思う。

「同じ蓮(はちす)の」という詞章は、蓮の地中の根、地上の花の両方をさしているのではないだろうか。

「わたしと同じように、あなたも共に地中に葬られる身なのだから」と仄めかしつつ、幽霊が「跡弔ひて賜(た)び給へ」と言っているのでは…と考えてみたのだが、そんな意地の悪い幽霊はいないだろうか?

答えのでないまま頁をとじる。

2018/10/11読了

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