2018.01 隙間読書 谷崎潤一郎『途上』

初出:1920年(大正9年)改造

読んでいるうちにクスリクスリと笑いたい衝動にかられる。でも谷崎潤一郎の作品で笑ってはいけない…と我慢して読みすすめる。でも笑いたい…笑いを我慢したまま不完全燃焼に終わったような作品。

湯河は会社からの帰り道、探偵につきまとわれる。探偵は湯河の身元調査を依頼されたと言う。そこで明らかになっていく湯河の過去。前妻を労わるように見せかけ、実は死ぬように仕向けては次々と失敗。そのどぎついまでの繰り返しに苦笑してしまいたくなる。

フォロワーさんから、「途上」は「プロバビリティの犯罪」と称するミステリの先駆的作品で、乱歩はこの作品に触発されて「赤い部屋」を書いたこと、冗談小説のつもりで谷崎も書いているだろうから笑ってもいいことを教えて頂き安心、今度は思いっきり笑って再読しよう。

2018年1月16日読了

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第276回

彼らはハイベリー近くの、細長い家に落ち着いた。細長い家としか言いようのない建物である。スミスは結婚したと厳密な定義でも言うことが可能であり、しかもその結婚は幸せなものであり、妻より他の女を気にすることもなければ、家より他の場所を気にすることはないようには思えたけれど、それでも身を落ち着けたとは言い難いものがあった。「僕はとても家庭的な人間なんだ」彼は重々しく説明した。「ティーの時間に遅れるくらいなら、割れた窓から入ってくるくらいに」

 

“They had settled down in these high narrow houses near Highbury. Perhaps, indeed, that is hardly the word. One could strictly say that Smith was married, that he was very happily married, that he not only did not care for any woman but his wife, but did not seem to care for any place but his home; but perhaps one could hardly say that he had settled down. `I am a very domestic fellow,’ he explained with gravity, `and have often come in through a broken window rather than be late for tea.’

 

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2018.01 隙間読書 芥川龍之介『手巾』

『手巾』

作者:芥川龍之介

初出:1916年(大正5年)10 月「中央公論」

青空文庫

ツィッターで初版道さんがこの作品について「三島由紀夫は『芥川の短編小説の「いくつかは、古典として日本文学に立派に残るものである』とし、『もっとも巧みに作られた物語』に『手巾』を挙げ、短編小説の極意と評価。一方、田山花袋は同作を『かういふ作の面白味は私にはわからない。何処が面白いのかといふ気がする』と語り、実に両極端です」と紹介されていたのに興味を覚えて読む。

アメリカ人の妻をもつ長谷川という帝大教授がベランダの岐阜提灯を眺めながら読書をしていると、西山という婦人が訪ねてくる。その婦人は、長谷川の教え子の母で、その教え子は一週間前に亡くなったのだと言う。

そう語りながらも微笑みをうかべている婦人に疑問を感じながら、長谷川が物を拾おうと身をかがめたとき、その婦人の手がふるえ、にぎっていた手巾を裂かんばかりであることに気がつく。

妻に武士道について語り満足する長谷川。彼は西山の母親の名刺をはさんであったストリンベルクの本を開くと、このような言葉が書かれていた。

私の若い時分、人はハイベルク夫人の、多分巴里から出たものらしい、手巾のことを話した。それは、顔は微笑してゐながら、手は手巾を二つに裂くと云ふ、二重の演技であった、それを我等は今、臭味(メツツヘン)と名づける。…

お盆につかう岐阜提灯が飾られたベランダ。そこに訪ねてきた死んだ学生の母。その母の名刺がはさまれた頁には、母の気持ちを語るようなストリンベルクの言葉。母が訪ねてきたのも、意味ありげな言葉が書かれている頁に母の名刺がはさまれたのも、そこにはすべて亡くなった学生の影が感じられるのだが。

この作品を武士道と関連すけて書いている人が多いようだが、私は亡くなった学生が愛していたストリンベルクの言葉を、自分の母をとおして敬愛する先生のまえで演出して別れを告げた作品のようにも感じられた。

読了日:2018年1月12日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第275回

スミスにはこのことを告げたり、記録したりする方法が他に思いつかなかったものだから、その頃にはすっかり他人となっていた旧友に電報を送って、「二本足の男を見た、いやはや(ザ・マン・ワズ・アライヴ)」とだけ伝えた。

楽観主義が放たれてロケットのように噴出して星に突っ込んだそのときに、彼は恋におちた。たまたまであったが、彼は高く、険しい堤防にむかってカヌーから銃をうち、自分が生きているということを証明しようとした。でもすぐに疑念がわいてきて、その生きているという事実が継続しているのかと疑っている自分に彼は気がついた。さらに悪いことに、彼はボートに乗っている無邪気なレディも同じように危険にさらしたことにも気がついた。つまり彼女は哲学的な否定の告白もしていないのに、死に至りそうになった。彼は息をきらしながら謝罪して、荒々しく、ずぶぬれになって苦労しながら彼女を岸に戻した。とにかく、彼女をあやうく殺しかけたときと同じ性急さで、彼は彼女と結婚した。彼女こそが、緑の服に身をつつんだレディで、私が先ほど「おやすみなさい」と声をかけたレディであった。

 

Smith could think of no other way of announcing or recording this, except to send a telegram to an old friend (by this time a total stranger) to say that he had just seen a man with two legs; and that the man was alive.

“The uprush of his released optimism burst into stars like a rocket when he suddenly fell in love. He happened to be shooting a high and very headlong weir in a canoe, by way of proving to himself that he was alive; and he soon found himself involved in some doubt about the continuance of the fact. What was worse, he found he had equally jeopardized a harmless lady alone in a rowing-boat, and one who had provoked death by no professions of philosophic negation. He apologized in wild gasps through all his wild wet labours to bring her to the shore, and when he had done so at last, he seems to have proposed to her on the bank. Anyhow, with the same impetuosity with which he had nearly murdered her, he completely married her; and she was the lady in green to whom I had recently said `good-night.’

 

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2018.01 隙間読書 織田作之助 『夫婦善哉』

『夫婦善哉』

作者: 織田作之助

初出: 1939年(昭和14年)

『雨』の翌年に発表された作品で、『雨』と同じように大阪の昭和14年当時のざわめきが聞こえてくる作品。またこの作品でも浄瑠璃が大事な小道具として使われ、大阪の生活には浄瑠璃がとけこんでいた…ということが分かるので読んでいて楽しい。

芸者の媟子は、妻子のいる柳吉と駆け落ちをする。やがて二人で理容関係の品物を商う店を始めるが、その合間に柳吉は浄瑠璃を習い始める。その情けない練習ぶりを織田作之助はユーモアたっぷりに描く。

退屈しのぎに、昼の間の一時間か二時間浄瑠璃を稽古しに行きたいと柳吉は言い出したが、とめる気も起らなかった。これまでぶらぶらしている時にはいつでも行けたのに、さすがに憚って、商売をするようになってから稽古したいという。その気持を、ひとは知らず蝶子は哀れに思った。柳吉は近くの下寺町の竹本組昇に月謝五円で弟子入りし二ツ井戸の天牛書店で稽古本の古いのを漁って、毎日ぶらりと出掛けた。商売に身をいれるといっても、客が来なければ仕様がないといった顔で、店番をするときも稽古本をひらいて、ぼそぼそうなる、その声がいかにも情けなく、上達したと褒めるのもなんとなく気が引けるくらいであった。


いろいろあった二人だが、最後は仲睦まじくぜんざいを食べに行く。店の様子がありありと描かれているが、モデルとなった店があるのでは?

法善寺境内の「めおとぜんざい」へ行った。道頓堀からの通路と千日前からの通路の角に当っているところに古びた阿多福人形が据えられ、その前に「めおとぜんざい」と書いた赤い大提灯がぶら下っているのを見ると、しみじみと夫婦で行く店らしかった。

ここの善哉はなんで、二、二、二杯ずつ持って来よるか知ってるか、知らんやろ。こら昔何とか大夫ちう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな、一杯山盛にするより、ちょっとずつ二杯にする方が沢山はいってるように見えるやろ、そこをうまいこと考えよったのや。

織田の周囲には、ぜんざい屋をやっていた浄瑠璃の師匠がいたのではないだろうか…と思わせるくらいにリアリティがある文である。リアリティがありながら、どこかほのぼのした気持ちになるのが織田作之助の魅力のように思う。


蝶子と柳吉はやがて浄瑠璃に凝り出した。二ツ井戸天牛書店の二階広間で開かれた素義大会で、柳吉は蝶子の三味線で「太十」を語り、二等賞を貰った。景品の大きな座蒲団は蝶子が毎日使った。

夫婦善哉の最後である。いろいろあった二人だが、仲睦まじく義太夫大会に出る。場所は「雨」にも出てきた天牛書店の二階広間。古本屋の二階で義太夫大会がひらかれていた時代を思い、やはり今度もほのぼのしてしまった。「雨」では義太夫大会の景品は湯呑み、夫婦善哉では座布団…景品にも、当時の浄瑠璃が庶民的なものだったことがうかがえる。

織田作之助は、どうして作品に浄瑠璃を書いたのだろうか? それだけ浄瑠璃が大阪の人に親しまれていたということなのだろうか?

読了日:2018年1月11日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第274回

彼が奇跡について抱く信条は、この絶対的な試練をうけたキリスト教のものであった。しばしばであるが、その信条が自分からも、他の人からも失われかけているように彼は感じた。彼が自分につきつけたピストルは、ブルータスが述べた短刀と同じものであった。彼はたえず無分別な危険をおかし、高い崖をよじ登ったり、無鉄砲なスピードをだしたりすることで、自分が生きているという確信を保った。彼がひそかに大切にしていたのは些細な、しかも狂気じみたことがらで、ぼんやりと意識している現実を思い出させてくれるものである。学長が石の樋にしがみつき、その長い脚をぶらぶらさせ、翼のように宙にばたばたさせている様子を見ていると、どういうわけか露骨な皮肉を思い出したが、それは人間についての古い定義で、人間とは羽のない二本足の動物だと言っていた。惨めな教授は頭から叫び声をあげたが、その頭に彼は念入りに知識をたくわえてきたはずなのに、今助けてくれているのは彼が冷遇し、無視してきた二本の脚の方であった。

 

“His creed of wonder was Christian by this absolute test; that he felt it continually slipping from himself as much as from others. He had the same pistol for himself, as Brutus said of the dagger. He continually ran preposterous risks of high precipice or headlong speed to keep alive the mere conviction that he was alive. He treasured up trivial and yet insane details that had once reminded him of the awful subconscious reality. When the don had hung on the stone gutter, the sight of his long dangling legs, vibrating in the void like wings, somehow awoke the naked satire of the old definition of man as a two-legged animal without feathers. The wretched professor had been brought into peril by his head, which he had so elaborately cultivated, and only saved by his legs, which he had treated with coldness and neglect.

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第273回

「否定はしないけど」彼は言った。「司祭は思い出させるためにあるんだ。いつか人は死ぬものだということを。僕はただこう言いたい。今はたしかに妙な時代だよ。こんな時代に必要とされるのは別の類の司祭だ。それは言うなら詩人だ。まだ死んでいないと人々に思い出させるための。知識ある人たちのなかで僕は活動しているけど、彼らは死を恐れるほど生き生きとはしていない。臆病者になるだけの血も十分に持ち合わせていない。ピストルの銃身が鼻の下に突きつけられるまで、彼らは自分たちが生を授かっていたってことを知らないんだ。永遠のながめを見ているあいだ、生ある者は死ぬということを学んでいるのは真実だよ。でもあの小さな白ネズミにすれば、死とは生きることを学ぶ唯一の機会だということも真実なんだ」

 

“`I don’t deny,’ he said, `that there should be priests to remind men that they will one day die. I only say that at certain strange epochs it is necessary to have another kind of priests, called poets, actually to remind men that they are not dead yet. The intellectuals among whom I moved were not even alive enough to fear death. They hadn’t enough blood in them to be cowards. Until a pistol barrel was poked under their very noses they never even knew they had been born. For ages looking up an eternal perspective it might be true that life is a learning to die. But for these little white rats it was just as true that death was their only chance of learning to live.’

 

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2018.01 隙間読書 織田作之助 『雨』

『雨』

作者:織田作之助

初出:1948年(昭和13年)

大阪に生まれ、大阪で育った織田作之助の処女作。当時の大阪の雰囲気が漂い、とくに浄瑠璃が人々の暮らしにこんなにとけ込んでいたんだと伝わってくるのが何よりの魅力。

野心家の教員軽部は、つい手を出したお君と結婚することに。お君とその子、豹一の心の移り変わりも面白いが、やはり大阪人と浄瑠璃の関係が分かるところが興味深い。


軽部の倫理は「出世」であった。若い身空で下寺町の豊沢広昇という文楽の下っ端三味線ひきに入門して、浄瑠璃を習っていた。浄瑠璃好きの校長の相弟子という光栄に浴していた訳である。そして、校長と同じく日本橋五丁目の上るり本写本師、毛利金助に稽古本を注文していた。お君は金助の一人娘であった。

若い教員が浄瑠璃を習っていたのか、太夫さんではなく三味線さんに習うのか、浄瑠璃好きの校長の相弟子なんて今の接待ゴルフみたいなものだろうか…と興味はつきない。


金助は若い見習弟子と一緒に、背中を猫背にまるめて朝起きぬけから晩寝る時まで、こつ〳〵と上るりの文句をうつしているだけが能の、古ぼけた障子のように無気力なひっそりした男であった。中風の気があったが、しかし彼の作る写本は、割に評判がよかった、商売にならない位値が安かったせいもある。

写本師なんて仕事があったのだなあと、そのこつこつ写す姿が浮かんでくるよう。今でもいるんだろうか?


その年の秋、二つ井戸天牛書店の二階広間で、校長肝入りの豊沢広昇連中素人浄瑠璃大会がひらかれ、聴衆百八十名、盛会であったが、軽部武寿こと軽部武彦はその時初めて高座に上った。最初のこと故勿論露払いで、ぱらり〳〵と集りかけた聴衆の前で簾を下したまゝ語らされたが、沢正と声がかゝったほどの熱演で、熱演賞として湯呑一個をもらった。その三日後に、急性肺炎に罹り、かなり良い医者に見てもらったのだが、ぽくりと軽部は死んだ。

天牛書店ってこの前本を注文した店ではないか?古本の老舗なんだなあと知る。素人浄瑠璃大会に180人の観客が集まるなんて、しかも会場は古本屋の二階…なんか素敵な時代があったのだなあ…。お君と豹一の心の変化には疑問は多々あれど、古本屋の二階で素人浄瑠璃大会をひらいていた時代に心をよせて終わりにしよう。

読了日:2018年1月9日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第272回

彼のなかに、旧世界の人々がお祭り騒ぎのような荘厳さと呼ぶものを見出したのは、仮面舞踏会や結婚式の宴の挙行について話題にしているときだった。とは言っても彼は異教徒でもなければ、悪ふざけを口にしているのでもなかった。奇矯な行動の源となっているのは信頼しているという不動の事実であって、その事実自体は霊的なものであり、子供っぽくもあり、キリスト教徒らしいものでもあった。

 

“There was something in him of what the old world called the solemnity of revels—when they spoke of `solemnizing’ a mere masquerade or wedding banquet. Nevertheless he was not a mere pagan any more than he was a mere practical joker. His eccentricities sprang from a static fact of faith, in itself mystical, and even childlike and Christian.

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2018.01 隙間読書 Robert Aickman “THE SAME DOG”

“THE SAME DOG”(『同じ犬』)

作者:ロバート・エイクマン

英国怪奇幻想小説翻訳会で、今月から6回に分けて取り組むTHE SAME DOGだが、とりあえず年末年始に最後まで訳してみた。ネット上の他の方々の感想を見れば、「怖い」と語る方もいれば、わりと多いのが「最後がつまらない」。

でも、どうとも解釈できる部分もあり、次の場面につながる視覚的な場面もあり…私自身は結構気に入った…と書かないと、しばらくチェスタトンを忘れて訳したのがむなしいもの。

英国サリー州に住むヒラリーという少年が主人公。このサリーという地も、何か意味があるのかもしれない…ハリーポッターの舞台だし。またヒラリーという名前も、男にも、女にも使える名前で、この曖昧な感じが、どうとでも解釈できるこの作品につながっているのかも?

ちなみにヒラリーの名前の由来になっている聖ヒラリーは、フランスの聖職者で、アリウス主義に反対した聖人だそうだ…このあたりも作品とどこか関係があるのかもしれないが、よく分からない。

ヒラリーが母をなくし、男兄弟のなかで育ったことも、女子の生まれない家系であることも、エイクマンは意図するところがあって書いたのかも?ヒラリーと親しくなるメアリーの存在を強調するためだろうか? メアリーもよくある名前だが、聖母マリアを意味する名前でもある。母を亡くしているヒラリーにとっての親友メアリーのイメージを与えようとしているのではないだろうか?

ヒラリーと活発なメアリーが仲睦まじく戯れる場面は印象深い。とりわけメアリーが、ヒラリーの首筋に唇をはわせる場面は、その後のメアリーの運命を示唆しているようでもある。またメアリー自身が吸血鬼とかいった類の不思議な存在である可能性を示唆しているようにも?

ヒラリーとメアリーは二人してサリーの田舎を散策し、フェアリーランド、ジャイアンツランドという地図を描いていく。これも最後にでてくるメアリーランドとのつながりでは?

ヒラリーとメアリーは探索中に幽霊屋敷のように朽ちかけた家に遭遇し、黄色い肌の、毛がない犬に吠えられる。最初怯えていたメアリーを、ヒラリーが無理やり連れて行くのだが、途中で立場が逆転する。

黄色い犬とメアリーがたがいを見つめあった瞬間、メアリーの心に何かスイッチが入ってしまった。もうメアリーは怖がらず、今度はヒラリーの方が怯える。無理やりメアリーを連れて帰ろうとしたとき、ヒラリーは屋敷の屋根のうえに頭のはげた男がいることに気がつくが、なぜかメアリーには言えない。

このあと場面はいきなり急転換。ヒラリーはベッドに横たわり、看病をうけている。周囲はメアリーのことをけっして語ろうとしない。ヒラリーはようやくメアリーが死んだことを、全身を切り裂かれ、噛みつかれて死んだことを知る。

このあとも場面は急転換。二十年が過ぎ去り、第二次世界大戦後である。ヒラリーの二人の兄たちは大学に進学しないで軍隊へ、それぞれが家庭と二人の男の子供をもうけ独立している。

ヒラリーは軍の友人カルカットを連れて、休暇中に実家に戻る。そこでメアリーの話をしたところ、カルカットはその犬は射殺されたのかと訊くが、ヒラリーには分からない。そこで二人が幽霊屋敷を訪れたところ…。

ヒラリーとメアリー、どことなく響きが似た名前だが、死んだのはメアリーなんだろうか?それにしては記述が曖昧。もしかして死んだのはヒラリーの方で、あとの幻想はヒラリーの幽霊が見たものということはないだろうか? 幽霊の視点で語る…ということはないかもしれないが。あるいはメアリーという女の子はそもそも存在していなくて、孤独なヒラリーの想像の産物とか?

どこからどこまでが現実で、どこからが想像なのか…この曖昧な感じがいいなあと思うのだけれど、それはただ単に私が無知なだけかもしれない。

背景にはいろんな深い意味がありそうなこの作品、のんびり半年かけて一緒に読んでいきたい方は、気のむくときの参加でかまいませんのでぜひご連絡を。翻訳しない参加も歓迎です…と宣伝して、ようやく通常モードへ。

読了日:2018年1月8日

 

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