隙間読書 鏡花「おばけずきのいわれ少々と処女作」

『おばけずきのいわれ少々と処女作』

著者:泉鏡花

初出:明治40年5月「新潮」

平凡社「鏡花怪異小品集 おばけずき」

ISBN:978-4-582-76764-3

隙間読書もいいところであるが、でも短くはあるけれど鏡花の価値観やら当時の文壇の状況やらが凝縮された文である。

「僕には観音経の文句―なお一層適切に云えば文句の調子―其ものが有難いのであって、その現している文句が何事を意味しようとも、そんな事には少しも関係を有たぬのである」

なるほど、鏡花の作品を読むと夢幻の心地になるけれど、意味があんまり頭には残っていない…というのは、鏡花のこのスタンスのせいかと少し安心。

明治二十七年、日清戦争のときの文学者たちの窮乏ぶりとそれを救った春陽堂についてこう鏡花は記している。

「二十七八年戦争当時は実に文学者の飢饉歳であった。未だ文芸倶楽部は出来ない時分で、原稿を持って行って買って貰おうというに所はなく、新聞は戦争に逐(お)われて文学なぞを載せる余裕はない。所謂文壇は餓ひょうありで、惨憺極まる有様であったが、この時に当って春陽堂は鉄道小説、一名探偵小説を出して、一面飢えたる文士を救い、一面渇ける読者を医(いや)した。探偵小説は百頁から百五十頁一冊の単行本で、原稿料は十円に十五円、僕達はまだ容易に其恩典には浴し得なかったのであるが、当時の小説家で大家と呼ばれた連中まで争ってこれを書いた。先生これを評して曰く、(お救い米)」

でも春陽堂のホームページをみても、尾崎紅葉が「お救い米」と述べたような状況に言及していない。なぜだろう? どこまでも奥ゆかしい出版社なのだろうか?

鏡花の二番目の作品は、探偵小説「活人形」だということも初めて知った。「活人形」…題だけで心そそられる作品だが、筋も気になるところ。目次をみたが、探偵小説というより怪奇小説なのでは?…と思いながらも脱線読書道を進んでいく。

読了日:2017年7月22日

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隙間読書「トレント最後の事件」

「トレント最後の事件」

著者:E・C・ベントリー

訳者:大久保康雄

初出:1913年

東京創元社

 

富豪の殺人をめぐるミステリ。

この富豪の印象的な描写が随分でてくるけれど、その部分を組み立てて考えると、人物がうかんでこない…こんな人物がいるだろうか、いるはずがない、という白々しい気持ちに少しなってしまうけど面白い。

1913年、英国育ちのベントリーが、ヨーロッパよりも好調なアメリカ経済を牽引するほどの人物の殺人事件を描く…というのは少し無理だったのかなあとも思う。

でも当時の教養ある英国人が、アメリカの富の頂点にいる人達のことをどう思っていたのか、本音が聞こえてくるという点で興味深い作品である。

富豪の妻が語る言葉は、ベントレーの考えそのものではないだろうか。

あれほど老獪な彼のことですから、口に出さなくとも、きっと心の中ではわかっていただろうと思いますーわたくしよりも二十歳も年上で、大きな事業上の責任を負い、人生の全部を事業にそそぎこんで他のものをかえりみなかった人ですから、わたくしみたいに音楽や読書や非現実的な思想で育てられ、一人で楽しむことを好きな女を妻にすれば、大きな不幸をまねく危険のあることくらい、わからなかったはずはないと思うのですが、でも彼は実際にわたくしを、その社会的地位にふさわしく、十分に彼の名声を引き立ててくれる妻だと、本気で思いこんでいいたのです

上顎が総義歯の富豪が二十歳下の美女を妻にしたときに、そんなことまで求めはしないだろうに…と思ってしまうが。

 

「その世界では、生きるためには、ものすごく金持でなければならなかった―金のことしか問題にされず、金以外のことは何も考えない世界です。巨万の富をつくった人たちが、仕事に疲れたときや、余暇ができたときに夢中になるのは、せいぜいスポーツだけです。働く必要のない人たちは、働かなければならない人たちより、はるかに退屈で、しかも非情にたちが悪いものです」

「せいぜいスポーツだけ」なんて、ここまで書かなくても…と思ってしまう。でもアメリカのお金持ちは、そんなふうに英国人に言われるくらいに勢いをつけはじめていた時代なんだろう。

でも富豪像への疑問はつきない。妻の部屋よりも小さく、質素な部屋で暮らしているのに、靴道楽? 性格は悪いが、嘘はつかない? 嫉妬にかられて狂気のひとになる? 殺される人物だから、人間性に統一がなくてもよいものなんだろうか? ミステリの世界はわからない。

 

訳について少し引っかかった箇所をメモ。

that it was a lie put out by some unscrupulous “short” interest seeking to cover itself. 「いや、から売りしていた不届きな連中が、それをごまかそうとして流したデマだろう」(大久保康夫訳)

 

「それは嘘だよ。節操のない空売り筋が、利益をとろうとして嘘をながしているんだ」…という意味なのでは?

 



I felt that the only possible basis of our living in each other’s company was going under  my feet. And at last it was gone.

 

「わたくしは、同棲をつづける唯一の理由が、だんだん薄らいでいくような気がしていたのですが、それがとうとう消えてしまったのです。」(大久保康夫訳)

 

living in each other’s company は「一緒にくらす」という意味だが、「同棲する」と訳すとまだ少しは愛情がある気もするが、ここで言いたいのは「一緒に暮らしているだけ」という冷えた感じなのではなかろうか?

going under my feet は「薄らいでいく」というよりも、もっと鬱陶しい気持ちが込められていて「気に障る」というような意味ではなかろうか?

読了日2017年7月22日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部一章第236回

上記の話を構成しているものは、下記に署名した人物の意見であり、手紙の書き方としては新しいものである。二人についてはそれぞれ語られているが、それは相手の目にうつる己の姿なのである。下記に署名する者は、この物語が正確であることを保証するものである。もし疑問がある場合、下記に署名する者は、自分たちが知らない事柄について知りたいと思う次第である。

下記に署名する者は、「スポッティッド・ドッグ」へと席をうつしてビールをのむことにする。敬具

ケンブリッジ・ブレークスピア・カレッジの学長 ジェームズ・エマーソン・イームズ

イノセント・スミス

 

“The above narrative has been constructed on a principle which is, in the opinion of the undersigned persons, new in the art of letters. Each of the two actors is described as he appeared to the other. But the undersigned persons absolutely guarantee the exactitude of the story; and if their version of the thing be questioned, they, the undersigned persons, would deucedly well like to know who does know about it if they don’t.

“The undersigned persons will now adjourn to `The Spotted Dog’ for beer. Farewell.

                              “(Signed) James Emerson Eames,
                  “Warden of Brakespeare College, Cambridge.

“Innocent Smith.”

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チェスタトン「マンアライヴ」二部一章第235回

それから彼は言いたしたが、その声は不自然なほど現実的であった。「今、僕には知っていることがあるんだ、イームズ。それを知ったのは、雲が桜色にそまっていくのを見たときだけど」

「何を言いたいのか?」イームズは訊ねた。「何を知ったというのだ?」

「殺人は悪いことだと初めて知ったんだ」

彼はイームズ博士の手を握ると、おぼつかない足どりで扉の方に手さぐりで進んでいった。扉のむこうに姿を消すまえに、彼は言いそえた。「とても危険なことだね。ほんの一瞬たりとも、死を理解しているように考えるなんて」

イームズ博士は、この攻撃者が立ち去ったあとも、数時間にわたって休みながら思索にふけった。そして立ち上がると、自分の帽子と傘をとり、散歩にしてはきびきびとした足どりで出かけた。しかしながら幾度も汚れのついたブラインドがかかる屋敷のまえで立ちどまると、首をかすかにかしげながら熱心に観察した。その様子は狂気にかられたひとのようでもあり、これから屋敷を買おうとしているひとのようでもあった。彼にはどうも確信がもてないでいたが、このふたつの立場はまったく異なるものなのだろう。

 

“Then he added suddenly in a voice of unnatural actuality, `But I know something now, Eames. I knew it when I saw the clouds turn pink.’

“`What do you mean?’ asked Eames. `What did you know?’

“`I knew for the first time that murder is really wrong.’

“He gripped Dr. Eames’s hand and groped his way somewhat unsteadily to the door. Before he had vanished through it he had added, `It’s very dangerous, though, when a man thinks for a split second that he understands death.’

“Dr. Eames remained in repose and rumination some hours after his late assailant had left. Then he rose, took his hat and umbrella, and went for a brisk if rotatory walk. Several times, however, he stood outside the villa with the spotted blinds, studying them intently with his head slightly on one side. Some took him for a lunatic and some for an intending purchaser. He is not yet sure that the two characters would be widely different.

 

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隙間読書 泉鏡花「竜潭譚」

『竜潭譚』

作者:泉鏡花

初出:「文芸倶楽部」1896年(明治29年)

青空文庫

(写真は「鏡花怪異小品集おばけずき」)

 

簡単にいえば、神隠しにあった少年の物語である。

何回読んでも、ここにはどういう意味があるのだろうか…と考えてしまう箇所が次から次に出てくる作品である。だが、そうして立ちどまることが楽しい。すっきり明確に進んでいく隙のない話よりも、読むたびに考え込んでしまう『竜潭譚』の方が楽しい…そんな分からない楽しさを再確認させてくれる作品である。

姉に内緒で躑躅の丘を訪れた少年、その躑躅の丘の描写は何度繰り返しても心地よく、夜中にぶつぶつ呟いてでも読みたくなる。

行(ゆ)く方(かた)も躑躅なり、来し方も躑躅なり。山土の色あかく見える。あまりうつくしさに恐しくなりて、家路に帰らむと思ふとき

躑躅の丘で迷子になった少年を語るくだりでは、少年の背中がみえてきそうである。

再びかけのぼり、またかけおりたる時、われしらず泣きてゐつ。泣きながらひたばしりに走りたれど、なほ家ある処に至らず、坂も躑躅も少しもさきに異らずして、日の傾くぞ心細き。肩、背のあたり寒うなりぬ。ゆふ日あざやかにぱつと茜さして、眼もあやに躑躅の花、ただ紅の雪降積めるかと疑はる

先日、読んだ翻訳書ではすべて「ブルー」と表記していて寂しい気がしたけれど、鏡花にかかれば

「空のいろの真蒼(まさお)き下」

「空の色も水の色も青く澄みて」

「白き鳥の翼広きがゆたかに藍碧(らんぺき)なる水面を」

「薄暮暗碧を湛える淵」

とブルーをあらわす日本語はこんなにもあるものかと思う。

「ブルー」一語で読者に想像させる書き方もあるのだろうが、どの漢字で表現するのか、そんなセンスまで含めて楽しみたい。…というわけで脱線読書道はきわめて偏ったものとなっていく。

2017年7月⒚日読了

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チェスタトン「マンアライヴ」二部一章第234回

「君は、骨と皮だけという状態だとはあまり思えないのだが」イームズ博士は微笑みをうかべながら言った。

「このありさまは、たぶんに祝宴のせいだ」がっしりとした若者は答えた。「骸骨だってスタイルを保てないじゃないか、いつも食べていたなら。でも僕が言いたいのは、そういうことじゃないんだ。僕が言いたいのは、一瞬、死の意味を見たということなんだ。そう、頭蓋骨と大腿骨からなる骸骨を見たんだ。その骸骨のおかげで、これからの人生を考えただけじゃない。今の生活のことも考えてみたよ。僕たちの精神は弱いものだから、来世では歳をとってしまうだろよ、だから死があって、死のおかげで僕たちは若いままでいるんだ。神は、不死を僕たちそれぞれに切り分けてくださるというわけだ。乳母が指の長さではかって、バターを塗ったパンを切り分けてくれるように」

 

“`You can scarcely be called a skeleton,’ said Dr. Eames, smiling.

“`That comes of being so much at the feast,’ answered the massive youth. `No skeleton can keep his figure if he is always dining out. But that is not quite what I meant: what I mean is that I caught a kind of glimpse of the meaning of death and all that—the skull and cross-bones, the ~memento mori~. It isn’t only meant to remind us of a future life, but to remind us of a present life too. With our weak spirits we should grow old in eternity if we were not kept young by death. Providence has to cut immortality into lengths for us, as nurses cut the bread and butter into fingers.’

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隙間読書 幸田露伴『幻談』

『幻談』

作者:幸田露伴

初出:昭和13年9月

青空文庫

 

頭が朦朧としてくるような今日の暑さも、『幻談』の書き出しに心がすーっと怪談モードになって涼やかになっていく。漢語文、文語体と試行錯誤して日本語で書こうとしてきた幸田露伴も、この作品を書き上げた昭和十二年はおよそ70歳。日本語でどう書こうか…と考えてきた露伴の終着点も近い…つぎのように始まる冒頭の文を読みながら、露伴の日本語の冒険旅行をしばし思う。

 

「こう暑くなっては皆さん方があるいは高い山に行かれたり、あるいは涼しい海辺に行かれたりしまして、そうしてこの悩ましい日を充実した生活の一部分として送ろうとなさるのも御尤(ごもっとも)です。が、もう老い朽ちえてしまえば山へも行かれず、海へも出られないでいますが、その代り小庭の朝露、縁側の夕風ぐらいに満足して、無難に平和な日を過して行けるというもので、まあ年寄はそこいらで落着いて行かなければならないのが自然なのです。山へ登るのも極くいいことであります。深山に入り、高山、嶮山なんぞへ登るということになると、一種の神秘的な興味も多いことです。その代わりまた危険も生じます訳で、怖しい話が伝えられております。海もまた同じことです。今お話し致そうというのは海の話ですが、先に山の話を一度申しておきます。」(『幻談』より)

 

「危険も生じますので、怖しい話が伝えられている」というわけで、『幻談』には海の怪談、山の怪談がそれぞれ一つずつ収められている。

山の怪談は、1865年、ウィンパーがマッターホルン初登頂したときの遭難事故。海の怪談は、江戸時代末期、深川の釣り船がひろいあげた釣り竿をめぐるもの。

この『幻談』についてのコメントを読むと、「なぜ山の怪談があるのか」と疑問を書かれている方が多い。ウィンパーの悲劇がよく知られた遭難事故についてノンフィクション風に書かれているのに対して、釣りの怪談は落語の語りを聴いているかのように、露伴の語りが工夫されているので違和感があるのだろう。でもウィンパーの悲劇も、深川の釣り船も、時代的にはほぼ同じ時代、山と海の怪談を楽しんでもらおうという露伴の意図があってのことだろう…だが、やはり露伴の語りは西洋の世界を語るときは真価を発揮しないかな。

…と言うわけで、山の怪談はとばして深川の釣りの怪談。

釣りの怪談の主人公は、こんなふうに紹介されている。露伴が語ると、窓際族もよいものだなあと我が身と重ねて考えたりもして、正しい窓際族の在り方を思ったりしないではいられない人物である。

これもやはりそういう身分の人で、物事がよく出来るので以て、一時は役づいておりました。役づいておりますれば、つまり出世の道も開けて、宜しい訳でしたが、どうも世の中というものはむずかしいもので、その人が良いから出征するという風には決っていないもので、かえって外の者の嫉みや憎みをも受けまして、そういう役を取り上げられまする、そうすると大概小普請(こぶしん)というのに入る。出る杭が打たれて済んで御小普請、などと申しまして、小普請入りというのは、つまり非役になったというほどの意味になります。この人も良い人であったけれども小普請入になって、小普請になってみれば閑なものですから、御用は殆どないので、釣りを楽みにしておりました。別に活計(くらし)に困る訳じゃなし、奢りも致さず、偏屈でもなく、ものはよく分る、男も好し、誰が目にも良い人。そういう人でしたから、他の人に面倒な関係なんかを及ぼさない釣を楽しんでいたのは極く結構な御話でした。

のんびりと暮らしている小普請族の語りは、釣りの蘊蓄話から始まって、だんだんこの俗世を離れたものになっていく。

釣りはしないけれど、こんな釣り船での過ごし方の描写を読むと、釣り船にのって海風に吹かれたくなってくる。

船頭は客よりも後ろの次の間にいまして、丁度お供のような形に、先ずは少し右舷によってひかえております。日がさす、雨がふる、いずれにも無論のこと苫というものを葺きます。それはおもての舟梁とその次の舟梁とにあいている孔に、『たてじ』を立て、二のたてじに棟を渡し、肘木を左右にはね出させて、肘木と肘木とを木竿で連ねて苫を受けさせます。苫一枚というのは凡そ畳一枚より少し大きいもの、贅沢にしますと尺長の苫は畳一枚よりよほど長いのです。それを四枚、舟の表の屋根のように葺くのでありますから、まことに具合好く、長四畳の部屋の天井のように引いてしまえば、苫は十分に日も雨も防ぎますから、ちゃんと座敷のようになるので、それでその苫の下即ち表の間―釣舟は多く網舟と違って表の間が深いのでありますから、まことに調子が宜しい。そこへ茣蓙なんぞ敷きまして、その上に敷物を置き、胡坐なんぞ掻かないで正しく座っているのが式です

小普請の旦那が船頭「吉」が漕ぐ釣舟ででかけた帰り、素晴らしい釣竿を握りしめたまま溺れ死んでいる男の水死体を海面に発見する。江戸時代は水死体もさほど珍しいものではなかったのだろうか? さほど驚きもせず、ただその水死体が手にしている素晴らしい釣竿に目を奪われる。釣竿を持って帰ろうとする吉をおしとどめるも、釣竿をみるうちに小普請の旦那もつい水死体から釣竿をもぎとってしまう。このあたりの旦那の心のゆらぎがユーモラスだけど、釣竿をもぎとる瞬間、その後の描写は何とも不気味、簡潔なんだけど小普請の旦那の胸中をよく語っている。

指が離れる、途端に先主人は潮下に流れて行ってしまい、竿はこちらに残りました。かりそめながら戦ったわが掌(て)を十分に洗って、ふところ紙三、四枚でそれを拭い、そのまま海へ捨てますと、白い紙玉は魂でもあるようにふわふわと夕闇を流れ去りまして、やがて見えなくなりました

さて翌日、釣りにでた帰り、海のうえで見かけたのは、何度も海面に突き出ては沈む竹竿であった。その光景に小普請は、水死体から取った竹竿を海に返してしまうのであった。

釣りの蘊蓄話に耳を傾けて浮世を忘れているあいだに、いつのまにか怖い話にかわって背筋が寒くなる一篇。露伴もこのあたりになると読みやすい。すべて「ブルー」と連発して訳す翻訳書よりも頭に入る。もっと露伴を読んでみよう。

読了日:2017年7月16日

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隙間読書 レンデル「死が二人を別つまで」

「死が二人を別つまで」

A New Lease of Death

ルース・レンデル

初出:1967年

訳者:高田恵子

出版社:東京創元社

向ケ丘遊園読書会の次回課題本ということで久々に翻訳ミステリを読んだ。読み終わるころには本が付箋だらけの状態に。読んではすぐ忘れる私、翻訳書の場合、付箋は些細だけれど首をかしげた箇所にはることにしている。と言うわけで読解力不足がたたって疑問に思うことが多々あった。

まずはタイトルに付箋。A new Lease of Death は a new lease of life のもじりだと思うが、このa new lease of life は「命拾い」「寿命をのばす」「意欲を取り戻す」という意味がある。このタイトルは曖昧な表現ながら、「死者復活」という感じの、黒い笑いをこめた表現ではないだろうか? 「死が二人を別つまで」という題は恰好いいけど、黒い笑い感がでてない感じがする。

以下はネタバレ駄文。訳は東京創元第七版 高田恵子訳より。

 


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隙間読書 幸田露伴「観画談」

「観画談」

作者:幸田露伴

初出:大正⒕年7月

青空文庫

(カバー写真は岩波文庫)

幸田露伴は文学史のなかの作家、私には遠い存在だった。

ふと読んでみようと思いたったのは、先月の英国怪奇幻想小説翻訳会で宮脇先生に勧められたから。鏡花の話をしてくださったついでに「幸田露伴も漢文で書いていますが、お化けの話をたくさん書いていて面白いですよ」と教えてくださった…いったい何の会なのだろうか、宮脇先生の雑学を楽しむ会なのかもしれない。

そういうわけで、何となく、初めての幸田露伴である。どれを読もうか…と青空文庫をぺらぺら。文体が多種多様なのにびっくり。紫式部みたいな文もあれば、漢文の教科書みたいなものもあるし、村上春樹みたいにくだいて書いた作品もある。どの文体にしようか悩んだんだろうな、きっと。これだけ文体をかえて書けるなんて凄い!

たぶん初めての幸田露伴、私の意志がくじけないように漢文調はうすめ、紫式部調でもなく、村上春樹みたいでもない…という文の感じで「観画談」を読むことにした。

淡々とした筋である。でも最後に「で、何なの?」とは言いたくならない。筋は

「苦学生の通称『大器晩成先生』は神経衰弱のため、都会を離れることに。古寺に泊まった晩、大雨で川が決壊しそうになり高台へ避難。高台の草庵には不動の僧がいて不思議度が高まる。さらに草庵の絵を眺めていると絵の中の船頭が大きな口をあけたので、大器晩成先生もニコッとした。そして神経衰弱は治る」

どこが面白い?という筋だが、それでも読んでしまうのは幸田露伴の筆力だろう。

大器晩成先生が雨に降られる場面の描写である。何ということのない風景描写のようだが、江戸時代、戯作には風景描写はほとんどなかった。明治になってから風景描写をするようになった…これも英国怪奇幻想小説翻訳会での宮脇先生の話だが、半世紀のあいだに風景描写も完成されたのだなあと思いながら読んだ。



「路が漸く緩くなると、対岸は馬鹿馬鹿しく高い巌壁になっているその下を川が流れて、こちらは山が自然に開けて、少しばかり山畠が段々を成して見え、粟や黍が穂を垂れているかとおもえば、兎に荒されたらしいいたって不景気な豆畠に、もう葉を失って枯れ黒んだ豆がショボショボと泣きそうな姿をして立っていたりして、その彼方に古ぼけた勾配の急な茅屋が二軒三軒と飛び飛びに物悲しく見えた。天は先刻(さっき)から薄暗くなっていたが、サーッというやや寒い風が下して来たかと見る間に、楢や槲(かしわ)の黄色な葉が空からばらついて降って来ると同時に、木の葉の雨ばかりではなく、ほん物の雨もはらはらと遣って来た。渓(たに)の上手の方を見あげると、薄白い雲がずんずんと押して来て、瞬く間に峯鑾(ほうらん)を蝕み、巌を蝕み、松を蝕み、忽ちもう対岸の高い巌壁をも絵心に蝕んで、好い景色を見せてくれるのは好かったが、その雲が今開いてさしかざした蝙蝠傘の上にまで蔽いかぶさったかと思うほど低く這下がって来ると、堪らない、ザアッという本降りになって、林木(りんぼく)も声を合せて、何の事はないこの山中に入ってきた他国者をいじめでもするように襲った」



不気味な要素がそっと散りばめられた「観画談」、もう一度再読してみたい。

読了日2017年7月13日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部一章第233回

「先生の助言にしたがいましょう」がっしりとした体格の青年は言った。「残りの弾はとっておくとしよう。恥ずべき状態にある連中のために。ちょうど昨夜の先生と僕のように。酔っぱらっていたからと言いいたいくらいですよ。この弾は、悲観論者のためにとっておきましょう。蒼白い顔をした連中の薬として。こんなふうにして世界を歩いていきたいんだ、すばらしい驚きのような存在として。ふわりふわりと漂っていたい。まるで薊の冠毛のように。そっと近づいてみたい。まるで朝日が昇るように。雷ぐらいに嫌がられる存在でもいい。そよ風がないでいくように、記憶に残らない存在でもいい。みんなから楽しみにされたくないんだよ。よく知られている冗談男としては。それから現実にある冗談をいう男として。僕の才能を汚れのないものにしたいし、同時に暴力的なものにもしたい。死でもありたいし、死後の生でもありたい。ピストルをつきつけるつもりだよ、現代人の頭にむけて。でも殺すのに使いはしない。ただ現代人に生命を蘇らせたいんだ。新たな意味を見つけたんだよ、宴の場に骨と皮の人間がいることに」

 

“`Because I mean to follow your advice,’ answered the massive youth, `I mean to keep the remaining shots for people in the shameful state you and I were in last night—I wish we could even plead drunkenness. I mean to keep those bullets for pessimists—pills for pale people. And in this way I want to walk the world like a wonderful surprise— to float as idly as the thistledown, and come as silently as the sunrise; not to be expected any more than the thunderbolt, not to be recalled any more than the dying breeze. I don’t want people to anticipate me as a well-known practical joke. I want both my gifts to come virgin and violent, the death and the life after death. I am going to hold a pistol to the head of the Modern Man. But I shall not use it to kill him—only to bring him to life. I begin to see a new meaning in being the skeleton at the feast.’

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