チェスタトン「マンアライヴ」二部四章第403回

「ムーンさんは」ピムは上機嫌でいった。「この制度について、ずいぶん時代遅れの考え方をしている。おそらく、この制度について厳しくとらえ、画一的な考え方をしている。離婚について考えるとき、ムーンさんは鉄のような心でとらえるのだろう。ジュリアス・シーザーの離婚について考えるときも、ソルト・リング・ロビンソンの離婚について考えるときも、同じようにみているんだ。ろくでなしの浮浪者や労働者が妻から逃げ出すときと同じように。でも科学の視点はもっと広いものだし、人間らしいものなんだ。科学者にとっての殺人は、絶対的な破滅への渇きからなんだ。それと同じように科学者にとっての盗みとは、つまらないものを手にいれることへの飢えなんだ。だから科学者にとって一夫多妻制とは、多様性を求める本能がいちじるしい発展をとげたものなんだよ。こんなふうに苦しむ人間には不変性を求めることはできない。あきらかに肉体的な理由があって花から花へと飛びまわる。それはあきらかに、断続的なうなり声がきこえるから、そのせいで今、ムーンさんが苦しんでいるように見えるのと同じことだ。

“Mr. Moon,” said Pym with exquisite good temper, “probably regards the institution in a more antiquated manner. Probably he would make it stringent and uniform. He would treat divorce in some great soul of steel—the divorce of a Julius Caesar or of a Salt Ring Robinson— exactly as he would treat some no-account tramp or labourer who scoots from his wife. Science has views broader and more humane. Just as murder for the scientist is a thirst for absolute destruction, just as theft for the scientist is a hunger for monotonous acquisition, so polygamy for the scientist is an extreme development of the instinct for variety. A man thus afflicted is incapable of constancy. Doubtless there is a physical cause for this flitting from flower to flower— as there is, doubtless, for the intermittent groaning which appears to afflict Mr. Moon at the present moment.

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チェスタトン「マンアライヴ」二部四章第402回

四章

行き当たりばったりの結婚をしたのか、それとも一夫多妻の容疑で訴えるべきなのか

「現代人は」サイラス・ピム博士はいった。「もし思慮深く振る舞うことが可能であれば、注意をはらいつつ、結婚の問題へと到達しないといけません。結婚とは一段階なのですから。人類が目標にむけて前進していく長い過程における一段階なのですから。その目標がどんなものかということはまだ想像できませんし、おそらくは欲望に即したものでもないでしょう。紳士の皆様、結婚の倫理的な位置とは何なのでしょうか? 私たちは、それを乗り越えたのでしょうか?」

「それを乗り越えたかだって? 」ムーンは声をあげました。「それを乗り越えた者は誰もいない! アダムとイヴの頃から結婚してきた人を見てみろ。みんな完全に死んでいるじゃないか」

「それはあきらかに何とも滑稽な質問だ」ピム博士は冷ややかにいった。「ムーン氏の結婚についての見解ですが、どれほど熟慮されたものなのかは分かりません。どれほど倫理的なものなのかも分かりません」

「分かるとも!」マイケルは怒りにかられ、暗闇からいった。「結婚とは、死に対する決闘だ。名誉を重んじる男なら辞退できないものだ」

「マイケル」アーサー・イングルウッドは低い声でいった。「静かにしろ」

Chapter IV

The Wild Weddings; or, the Polygamy Charge

“A modern man,” said Dr. Cyrus Pym, “must, if he be thoughtful, approach the problem of marriage with some caution. Marriage is a stage—doubtless a suitable stage—in the long advance of mankind towards a goal which we cannot as yet conceive; which we are not, perhaps, as yet fitted even to desire. What, gentlemen, is the ethical position of marriage? Have we outlived it?”

“Outlived it?” broke out Moon; “why, nobody’s ever survived it! Look at all the people married since Adam and Eve—and all as dead as mutton.”

“This is no doubt an inter-pellation joc’lar in its character,” said Dr. Pym frigidly. “I cannot tell what may be Mr. Moon’s matured and ethical view of marriage—”

“I can tell,” said Michael savagely, out of the gloom. “Marriage is a duel to the death, which no man of honour should decline.”

“Michael,” said Arthur Inglewood in a low voice, “you MUST keep quiet.”

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2018.08 隙間読書 ヴィーズ「尼」森鴎外訳

「諸国物語」収録

デンマークの作家、グスタフ・ヴィーズ Gustav Wied (1858~1914)が書いた作品。ヴィーズは、今では忘れられた作家となっているようで本も流通していない。グーテンベルクにはデンマーク語版の本が二冊入っているが、ダウンロード数も実に少ない。今では、まったく読まれていない作家のようである。

この「尼」という作品の原題も調べてみたけれど、分からないままである。どなたかご存知の方がいれば教えて頂けたらと思う。

この短編は「おれ」の視点から語られる。登場人物は「おれ」の兄の牧師、それから尼二人である。片方の尼は年老いて太っていて、もう片方は若く、美しい。この尼二人の対比も、「おれ」が若い尼と接吻しようと煩悶、四苦八苦する様も、接吻したことを聞いた時のの兄の反応もすべてユーモラスである。

このユーモラスな面白味を翻訳するのは難しいものである。翻訳する側にすれば、意味をとるのに懸命になるあまり、肝心の面白さが分からなかったり、訳せなかったりする。でも森鴎外の訳はくすりくすりと笑えるし、このユーモアあふれる短編を「諸国物語」というアンソロジーの冒頭にもってくるとは…と森鴎外の意外な一面を発見したような思いがした。

2018/08/15読了

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2018.08 隙間読書 井原西鶴「諸国ばなし 公事(くじ)は破らずに勝つ」

【原文】

大職冠、さぬきの国、房崎の浦にて、竜宮へ取られし、玉を取り返さんために、都の伶人を、呼びくだし給ひて、管弦ありし、唐太鼓、ひとつは南都東大寺にをさめ、またひとつは、西大寺の宝物となりぬ。

【現代語訳】

大職冠、藤原鎌足公が、讃岐国、房崎の浦で、竜宮へ取られた、唐土渡来の宝珠を取り返すために、都の楽人を呼び下されて、海上で音楽を奏した時に用いた唐太鼓の、一つは奈良東大寺に納め、またひとつは西大寺の宝物になりぬ。

(原文、訳文ともに小学館日本古典文学全集67巻より)


「諸国物語」の冒頭にでてくる物語。

この二つの太鼓のうち東大寺におさめられた太鼓をめぐる話で、興福寺が毎年東大寺から借りていたのだが、東大寺が貸し渋るので興福寺側が知恵をはたらかせ、太鼓の革をやぶることなく解決したというもの。


冒頭から「竜宮へ取られし」なんて言葉がでてきてうっとり。

「大職冠、さぬきの国、房崎の浦にて、竜宮へ取られし、玉を取り返さんために、都の伶人を、呼びくだし給ひて、管弦ありし、唐太鼓」という「唐太鼓」にかかる言葉の豊かさにうっとり。

何となくデュラスの綿々とつづく長文をつらねる書き方を連想してしまった。

2018/08/15読了

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2018.08 隙間読書 マルグリット・デュラス「愛人ラマン」清水徹訳

1984年発表

清水徹訳(河出文庫)


 発表されると世界的ベストセラーになった「愛人ラマン」の原点は、訳者清水徹氏の解説によれば「この作品のそもそものはじまりには、写真集出版という企画があったらしい。デュラスの人生のそのときどきの写真と、彼女が監督してつくった十数本の映画からの写真を集めたアルバムに文書を添えるという仕事」なのだという。

 何枚もの写真に添えられた文章、それは時には「私」の視点で書かれることもあれば、「彼女」を見つめる視点で書かれていることもある。「一枚の写真」について、視点をかえて語ることから生まれる物語の広がりも心地よい。

 時制も、清水氏は原文どおりにデュラスの意図をくんで忠実に訳されているのだろう。大半は現在形で訳されているが、時に過去で、時に未来で語るというように錯綜、語ろうとしている対象への心の揺れがひたひたと伝わってくるかのようである。


 どうしてもタイトルの衝撃性と、仏領インドシナでの貧しい子供時代、華僑青年との恋愛など自伝的な要素に目をうばわれての感想が多いようだが、デュラスが夢にいだいていたという「わたしはずっと、わたしの名づけるところの『流れゆくエクリチュール』」にもっと目をむけて語られてもいいのではないだろうか?

「流れゆくエクリチュール」についてデュラスはこう語っている。

「流れるエクリチュール une ecriture qui court です。そう、出会うものは何でも区別することなく、ほとんど選びとるということもなく運んでゆくエクリチュール、そしてとくに、すべてを無罪たらしめるーこの場合で言えばね、兄を、母を、植民地主義の忌まわしさを、全部を無罪たらしめるエクリチュール」(清水徹訳 河出文庫)


以下に引用した箇所でも、前半の段落では作者の視点で主人公の娘を語り、その次につづく段落では娘自身の視点で思いを強く語る。

前半の方では、非常に長い文で、時には似たような表現を繰返して情景を語ったかと思えば、その次の瞬間には短い語で場面を語って印象づけている。

後半では、娘の思いは短く、力強い文で語られている…こうしたデュラスの書く姿勢(エクリチュール)が、「愛人ラマン」の魅力なのだと思う。


 ソフト帽の娘は、大河の泥のような光のなかで、ただひとり渡し船の甲板に立ち、手すりに肱をついている。男物の帽子が情景全体を薄い紫檀色に染める。色彩はそれだけだ。靄をとおして大河に照りつける陽光のなかで、暑い陽光のなかで両岸は消え、河の果てがそのまま空であるように見える。河は音もなく流れている、河は音をまったく立てない、身体のなかを流れる血液のように、水の外には風はない。情景内でただひとつ音を立てている渡し船のモーター。ときどき、わずかに風に乗って、ひとの声。それから、犬の啼き声、いたるところから聞こえてくる、靄の奥から、あらゆる村から。(以下略、清水徹訳)


 わたしは母に答えた、何よりやりたいのは、書くこと、それだけ、その他は何も。嫉妬しているのだ、母は。返事がない、眼差がちらり、すぐにそむけてしまう、かるく肩をそびやかす、忘れられない動作。(以下略、清水徹訳)


 「愛人ラマン」は少女の性愛の目覚めとかという視点から語る人が多いけれど、デュラスという作家が書くということに目覚めたときの思いやら、その書くことへの思いをどう試行錯誤しているのか…という過程が面白い本なのだと思う。デュラスも最後の方で「書く」ことへの思いをこう語っている。


 わたしは本を書くことにしよう。それが、その瞬間をこえたさきの、大いなる砂漠のなかに、わたしの眺めているものだ、わたしの人生のひろがりが砂漠の姿をとってわたしに見えてきているのだ。(以下略、清水徹訳)


 デュラスの実験的な時制の試み、長々と文を書いたかと思えば単語をたたきつけるようにぶつける…そんなデュラスの書き方に忠実でありながら、原文のリズムを日本語にうみだした清水氏の訳も非常に勉強になった。

2018/08/14読了

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隙間読書 2018.08 綿貫六助 「幽霊寺の恋愛」

昭和4年8月 雑誌「グロテスク」収録


乳飲児をかかえながら、夫「大木」を亡くした夏子。共に寺で夫の最期を看取った修作は夏子に恋慕するように。なんとか夏子をものにしようとするが、そのたびに大木の幽霊が大騒ぎをする…という話。


夫「大木」と比べると何とも野暮ったい修作だが、その真面目さ故に修作聖人とも呼ばれる男である。「大木」と「修作」はこのように書かれている。

まずは大木について…。

某大学の哲学科にいた大木と、×××××きたのは彼女が十四の春で、革命家を以て自ら任じてゐた熱情的な詩人、颯爽とした気品の高さ、美男子な大木は、純真な夏子の胸に慕わしく懐かしい王國であった。同校生徒から首領に押されて、不良学生の排斥運動、その頃から躓き始めて、我とわが、気慨に乗倒(まっさか)さまの急坂落(さかお)し、??落魄の挙句を、肺患いに悩み、かねて住職の籍をおいた雲高山に帰山すると、不浄な反逆者として檀徒からも爪弾き、放逐される処を、修作の義侠で、重態な身を辛うじて寺に踏停まったものの名状できぬ困窮の中で死んだのだ。

比する修作については以下のとおり。

夏子に従えば、白金のやうに気高く重々しく鋭く輝かな恋人は遠く去り、ひらめきは消えて、恩人とは云え鉛の如く鈍重な修作が目の前にゐるのだ。

あんまりな書きぶりではあるが、この人の良い修作をコケにして笑う…という毒のあるユーモアも、この作品の魅力である。


なんとか夏子と結ばれたい修作は思案する。

『こんなこッて煤の落ちる汚ねえうちへお夏さんを寄せられるかい。小汚ねえうちだなあ。煤とゴミと小便ばつかりだ。あああッ!』嘆声を漏らした。

「あの親爺の宿屋の二階ぢゃ、どうしても、お夏さんがかたくなつてゐて駄目だ。ハテナお寺にするほか法はねえかな…」


お寺の大木の位牌の前で、修作は夏子と結ばれようとする。そのたびに大木の幽霊は、にぎやかに気配をあらわす。この幽霊があらわれるときのにぎやかさも、この作品の魅力だろう。以下の段落は作品より。


生毛で白くほかした襟足からふつくりとした頰にかけて厚い××××××ようとする途端に、

ードンドン! ドドドッ!ドドンドドンドン!ードン本堂の方から、余韻も響きもなく、かすかにきこえてくる。二人は耳を欹てる。ードドン!ドンドドン!チン!チン!ー

『あッ、大木さんがきたッ!』かう云う聖人の手はふるへ、夏子の頰には吹出物のやうな冷汗が滲み出した。

さらさらさらッと襖をあける音、みしりみしりッと近寄る気配。


さらに修作聖人が別の機会をとらえ、夏子にせまると大木の幽霊は現れる。以下のとおりである。


その時、大木の立つた姿が絞るやうに消える聖人眼に、大木の死の床が現れた。それは夏子と二人で看病した大木の寝床。汚れた布団から骨ばかりな真ッ青な手が出た。かすかに死苦の羨ふ物凄い顔がぬッと出て、くぼんだ眼をひらくと、二人の抱擁を睨みつけた。


修作聖人の滑稽さ、にぎやに現れる幽霊…これは何となく英国幽霊譚のなかにありそうな気がしなくもない。綿貫六助なんて作家は、今日初めて知ったのだが、元軍人で早稲田の英文に学んだ人らしいから英国怪奇譚を読んだことがあるのかもしれない。

2018/8/11読

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隙間読書 2018.08 梶井基次郎「Kの昇天ー或はKの溺死」

文豪ノ怪談 ジュニア・セレクション「影」収録


梶井基次郎が25歳のときに同人誌「青空」20号に発表した作品。梶井はその頃すでに胸を患い、それから6年後に亡くなっている。


K君の溺死の原因について過失なのか、自殺なのか悩む「あなた」に「私」があてた書簡体小説。

K君の死の謎を解く一つの鍵であるかも知れないと思うからです。

…という「私」の言葉にあるように、この書簡体小説はk君の死の謎に思いもめぐらす。そういう点ではミステリともいえるのだろうか? あるいはK君が梶井自身だとすれば、私小説の変形ともいえるのだろうか?


読み手によって、どう受けとめるのかという幅が非常に広い作品でもある。

東氏の註には以下のように記されている。

本篇をアンソロジー『幻妖』(1972)に採録した澁澤龍彦は解説中で次のように記している。「私は昔から、このドイツ・ロマン派風の快活な、死を描いて快活な、「Kの昇天」という短編を好んできた」

一方、フランス文学者の柏倉康夫氏の評によれば、本篇は「透明感をそなえた悲愴な作品」とのこと。

「私」が思い描くk君の最後の場面を読んで「快活な」と思う読者もいるかもしれないし、「悲愴な」とも思う読者もいるかもしれない。文豪ノ怪談ジュニア・セレクション「影」の冒頭に、美しいけれど、読み手によって感じ方にこれだけ幅のある作品がくるのも、やはり「影」の文学らしい。

K君は病と共に精神が鋭く尖り、その夜は影が本当に「見えるもの」になったのだと思われます。肩が現われ、頸が顕われ、微かな眩暈の如きものを覚えると共に、「気配」のなかからついに頭が見えはじめ、そして或る瞬間が過ぎて、K君の魂は月光の流れに逆らいながら徐々に月の方へ登ってゆきます。K君の身体はだんだん意識の支配を失い、無意識な歩みは一歩一歩海へ近づいて行くのです。影の方の彼はついに一個の人格を持ちました。K君の魂はなお高く昇天してゆきます。そしてその形骸は影の彼に導かれつつ、機械人形のように海へ歩み入ったのではないでしょうか。


以降の「影」に収録されている作品を楽しみにしつつ頁を閉じる。

2018/08/05読了

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2018.08 隙間読書 有吉佐和子「悪女について」

明日のミステリ読書会のために「悪女について」を再読して思うこと。それはこの作品の華やかさ、構成の力強さが有吉佐和子の強みであり、また同時に弱みにもなっているのではないだろうか…ということである。

「悪女について」は、有吉佐和子の才気煥発さがきらめく作品である。多様な一人称での語り口の魅力、複数の視点で主人公「富小路公子」を語る面白さは読むたびに感嘆してしまう。

ただ、その一方で不思議に思うのだが、これだけ有吉佐和子が饒舌に「富小路公子」について語っているのに、どうも富小路の存在が薄っぺらなものに思えてくる。これは何故なのだろうか?

富小路の生い立ち、育ち方を考えたときに、なくてはならないと思われる影が、有吉佐和子の語りからは見出せない。そのせいもあって富小路はたしかに豪華で、きらきらした、でも寂しい女性には思えるけれど、そこには一抹の影も見出せない。それが富小路の存在を華やかにも、薄っぺらにもしていると思うのだが、どうだろうか?

さて以下はネタバレにもなるかもしれないのでご注意を。

富小路の死は、事故死か自殺か曖昧なままで終わる。だが私は他殺かなあと考えたい…ミステリ読書会で読むことだし。

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チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第402回

「なぜだって! 蒸気船を沈められるくらいの証拠を手にしたからだ」モーゼスはわめいた。「書類を手にいれたからだよ。君たちの素晴らしいイノセントは口は悪いし、物を破壊するからだよ。さあ、これが彼が破壊した家庭だ。僕も自分が聖人だと言うつもりはない。でも名誉にかけて言うが、可哀想な女たちを不利な立場に追いやったりしない。女達を見捨てたり、たぶん殺すこともできるような男なのだから、小屋を壊したり、教師を銃で撃つこともできるだろう。でも、いずれにせよ他の話まで気にしたりはしない。」

「私が考えるところでは」サイラス・ピム博士は上品ぶった咳払いをした。「やや不規則なかたちで、私たちはこの問題に近づいているのです。これが訴状にある四番目の告訴です。たぶん皆さんの前に厳正な、規則正しいやり方で示したほうがいいのでしょう。

マイケルのかすかなうめき声が、暗がりにしずんでいく部屋の沈黙をやぶった。

“Why! Because we’ve got proof enough to sink a steamboat,” roared Moses; “because I’ve got the papers in my very ‘and; because your precious Innocent is a blackguard and ‘ome smasher, and these are the ‘omes he’s smashed. I don’t set up for a ‘oly man; but I wouldn’t ‘ave all those poor girls on my conscience for something. And I think a chap that’s capable of deserting and perhaps killing ‘em all is about capable of cracking a crib or shootin’ an old schoolmaster—so I don’t care much about the other yarns one way or another.”

“I think,” said Dr. Cyrus Pym with a refined cough, “that we are approaching this matter rather irregularly. This is really the fourth charge on the charge sheet, and perhaps I had better put it before you in an ordered and scientific manner.”

Nothing but a faint groan from Michael broke the silence of the darkening room.

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チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第401回

「さて、人生の道徳に関する根本にすみやかに戻ることにする」マイケルは言った。「なぜ、数ある職務のなかでも、下宿屋の嘘つき老嬢と手紙のやりとりをするのだろうか?」

「それは人としての職務ではない」グールドは言った。「喜びでもない。たしかだとも。彼女は魅力のある男を連れているだけなのだから。下宿屋の嘘つき老嬢がしているのは、そういうことだ。でも訴追人の職務のひとつにあたるから仕方ない。無邪気にも飛びまわる友人スミスの経歴を追いかけなくてはいけないから。僕が名前をあげた人達全員にしても、嘘つきレディの場合と同じ理由からだよ。」

「それならば、なぜ、そうした人たちを起訴しようとしているのか?」イングルウッドは訊ねた。

“Again, to go at once to the moral roots of life,” said Michael, “why is it among the duties of man to communicate with old Lady Bullingdon who lives at Penge?”

“It ain’t one of the duties of man,” said Gould, “nor one of his pleasures, either, I can tell you. She takes the crumpet, does Lady Bullingdon at Penge. But it’s one of the duties of a prosecutor pursuin’ the innocent, blameless butterfly career of your friend Smith, and it’s the sime with all the others I mentioned.”

“But why do you bring in these people here?” asked Inglewood.

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