アダム・スミス 道徳感情論 1.1.8追加

Smith: The Theory of Moral Sentiments | Library of Economics and Liberty.

パート1    品性ある行動について

セクション1  品性という感覚

一章 共感するとは

1.1.1

 かなり自己中心的だと思われているひとでも、心にはなんらかの道徳規準が確かに存在している。その道徳規準があるために、ほかの人の運命の浮き沈みについて考えようとし、さらには周囲に幸せになってもらうことが必要なのである。ただし、その幸せを見ても喜びがあるのみ、幸せからひきだせるものは何もない。ひとの不幸をみたり、心に思いうかべたりするとき、窮状を気遣うこの感情は同情でもあり、哀れみでもある。ひとさまの悲しみが自分の悲しみの原因となることは明らかであり、例をあげて証明するまでもない。同情や哀れみのような感情は、人間の心にもともとある他の感情と同じであり、けっして徳の高いひとや思いやりのあるひとに限定されたものではない。たしかにそうしたひとたちであれば、悲しみをきわめて鋭敏な感覚で感じとるのかもしれない。だが社会の法を無情にも踏み破る極悪非道の悪党ですら、悲しみを感じないことはないのだ。

1.1.2

 他人の感情をそのまま追体験できないから、どんなふうに感じているのか思い描くことはできない。でも、同じような状況におかれたらと考えてみればいい。兄弟が拷問にかけられているときでも、安楽に過ごしていれば、その苦しみを感じとることはないだろう。自分が感じる以上に強く苦しみを感じることは、今も、昔も不可能なことである。ほかのひとの感受性を理解するのは、ただ想像力あるのみである。苦しみを感じるように手助けしてくれる能力は想像より他にない。すなわち自分が苦しい立場におかれた場合には、どう感じるのか想像すればいい。想像力で模倣するときには自分の感覚を使うのであり、ほかのひとの感覚ではない。想像力の力によって相手の境遇に自分をおき、同じ苦痛に耐えている自分を思い描く。いわば相手の体に入り込んで、ある程度同じ人物となり、その感覚を思い描き、なにか感じとることである。いくぶん程度は弱まるが、相手の苦痛からまったくかけ離れているわけではない。ひとの苦しみを切に感じて受け入れ、自分自身のものとするとき、その苦しみは私たちの心をついに動かす。さらに相手の感じていることを考え、震えおののくようになる。あらゆる種類の痛みや苦悩のせいで過度の悲嘆にくれてしまうように、悲しみの中にいる自分を思い描いたり想像したりすることで同じ感情にかられてくる。悲しみの程度はいきいきと心に思い描くのか、それともぼんやりと描くかによる。

1.1.3

想像力こそが、ほかのひとの窮状を憂える感情の源である。苦しんでいる人と想像のなかで立場をを交換することで、その痛みを感じるようになる。ほかのひとが感じていることを思い描いたり、心が動かされたりもする。悲しみそのものについて子細に考えるべきではないにしても、簡単な観察をたくさん繰り返していけば、明らかになることかもしれない。脚や腕をめがけ一撃がおろされようとしている場面を目撃すると、しぜんに身をちぢめ、手足を引っこめてしまう。その一撃がくだされたとき、かなりその衝撃を感じとり、受難者と共になって傷つけられたように感じる。綱渡りのロープのうえの踊り子を凝視するとき、観客はしぜんに身をよじって苦しみ、自分の体でバランスをとろうとする。そのようにして綱渡りの芸人が綱をわたるのを見ながら、もし同じ状況におかれたら感じるだろうことを思う。繊細な性格のひとや体が弱いひとがこぼす不平に、道ばたの物乞いがさらけだしている腫れ物や潰瘍を見つめていると、自分の体の同じ箇所がむずがゆくなったり、そわそわしてくるというものがある。悲惨な境遇にあるひとの惨めさをみて感じる恐怖は、他の部位よりも特定の部位に影響する。なぜなら、見つめている相手が悲惨であるとしよう。そして自分の特定の部位が同じように惨めな影響をうけるとしよう。すると自分たちが苦しむだろうものを思い描くことで、こうした恐怖が生じるからだ。こうして理解するだけで十分である。体の脆弱な部位に、むずむずとした不安な感覚を生じ、愚痴をこぼすようになる。どんなに屈強な男でも、悲嘆にくれる眼を見ているうちに、自分の目に鋭敏な痛みをおぼえる。これは同じ理由である。つまり、屈強な男にしても目というこの部位は繊細なものであり、弱者の体の他のどんな部位よりも傷つきやすい。

1.1.4

 仲間意識をよびおこすのは、こんなふうに苦痛や悲しみを生じる状況のもとだけではない。あらゆることを契機にして、いろいろな感情がうまれるだろう。でも観察者に思いやりの心があれば、状況について考えるとき、仲間と同じような感情が胸に芽生える。悲劇や物語の主人公に私たちは憧れる。その主人公を救い出す喜びは私たちの心をひきつけ、その喜びも、また主人公が絶望するときに感じる悲しみも真実である。主人公の幸せにも、悲惨さにも、仲間として思うということも真実である。誠実なひとが困難な状況にある友を見捨てず、感謝される様子を思い描くことができる。裏切り者に傷つけられたり、見捨てられたり、騙されたりしたひとが憤る様にうなずく。心あるひとには感じることのできる感情である。その状況を自分のものとして思い浮かべることで、受難者の思いはこうだろうと思えてくる。

1.1.5

 哀れみと同情とは、悲しみにくれるひとへの連帯感をしめしてくれる言葉である。もともとは、共感も哀れみや同情と同じ意味だったのだろう。でも今では、共感は、正確に言えば、どんな感情をもつ相手であろうと仲間意識をしめすのに使われている。

1.1.6

 共感とは時折、他のひとの特定の感情から生じるように見えることがあるかもしれない。感情とは時折、ひとからひとへすぐに広まるように見え、たとえ関係者をわくわくさせる知識があるとしても、その知識よりも優先されて広まるように見えるかもしれない。表情や身振りに強くでる悲しみや喜びは、観ている者にも同じような苦痛や心地よさを、いくぶんひきこすものである。ほほえみをうかべている顔は、その笑顔を目にするすべてのひとにとって心地よい対象である。一方で、悲しみにみちた風貌は憂鬱にみちた対象となる。

1.1.7

 だが相手の喜びや悲しみをいつまでも感じるわけではないし、どの感情にもあてはまるわけではない。表情や身振りをしめしたところで、どんな類の共感をよぶことのない感情もある。共感をよばない原因を理解する前から、そうした感情に嫌悪をいだき腹をたてている。腹をたてたひとが激怒にかられた行動をとるのは、敵に苛立つといよりも、自分に苛立つからである。怒りの原因を知らなければ、そのひとの立場を自分のものとして考えることもできないし、そんなふうに思う心を想像できない。だが腹をたてている相手の状況を理解することはできるし、立腹した敵がふるいかねない暴力も理解することができる。恐怖や怒りにもすぐに共感できるし、怒っているようにみえる相手にあらがいたい気分にもなる。

1.1.8

 悲しみや喜びを目にすると、いくぶん似たような気持ちになることがある。それは観察している相手にふりかかる運、不運について知るからである。こうした悲しみや喜びの情熱を感じながら、相手の運、不運を目にすることで、私たちは少なからず影響をうける。悲しみや喜びはこうした感情を感じているひとだけにしかわからない。また怒りとは異なって、相手の考えを教えてくれない。さらに相手の関心が自分とは逆だということも教えてくれない。運、不運について考えることは、そうした出来事に遭遇したひとに関心をもつことになる。だが怒りの原因について考えてみたところで、怒りをむけられているひとが腹をたてる気持ちに共感しない。自然は私たちが怒りにかられることを毛嫌いするようにしむけ、怒りの原因がわかるまでは怒りを鎮めようとするものである。

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