アダム・スミス 道徳感情論 1.1.34 互いに耐えられなくなるとき

これらの対象は、なんらかの形で影響をあたえ、感情を判断する相手も影響をうける。こうした調和と一致をたもつことは更に難しいことであり、同時に更にもっと重要なことでもある。私の友人は、もちろん、私にふりかかった不運を見つめることもしなければ、私にあたえられる侮辱を見ることもないわけだから、私と同じ視点にたって不運や侮辱を見るわけではない。不運や侮辱は、私たちに密接に影響をおよぼすものである。だが同じ視点から不運や侮辱をみないまま、絵を描き、詩を書き、哲学のシステムを構築するので、異なる形で影響をうけやすい。だが感情が一致していないのが容易にみてとれるのは、取るに足らないことがらである。そして私に影響を及ぼすこともなければ、私の友達にも影響をおよぼさないようなことである。さらに私にふりかかる不幸や侮辱のほうに興味を感じるだろう。こうした絵や詩、あるいは私が感嘆している哲学のシステムまで軽蔑したところで、この文がもととなって口論になる危険はない。意見が逆だとしても、私たちの感情はまだ同じだからである。しかし影響をとりわけうけるような対象の場合、まったく異なってくる。思索に関する判断も、センスに関する感情も、私とは異なる。だが自分とは反対の判断も、感情も、易々とみわたすことができる。何らかの感情がかきたてられるなら、会話に楽しみを見いだしたり、こうした事柄に楽しみを見いだしているのかもしれない。しかし遭遇した不運について仲間を思いやる気持ちがなければ、心みだしている悲しみと釣り合う感情がなければ、私の怒りと釣り合うような感情がなければ、そのときは、もはやこうした事柄について打ち解けて話すことはない。そして互いに耐え難くなってくる。私があなたの友人を支えることはできないし、あなたが私の友人を支えることもできない。あなたは私の暴力や激情に困惑し、私はあなたの冷淡な無感覚と感情の欠落に怒る。(さりはま訳)

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