アルフレッド・マーシャル 経済学原理 第一版の序文終了(9,10ページ)

クールノに導かれ、またテューネンからも少なからず影響をうけているうちに、私はある事実に重要性をあたえることになった。その事実とは、物質的な世界と同じように道徳的な世界において、本質について観察するということは、総量について言及するだけでなく、量の増加について言及することである。とりわけ大切なことは連続関数だとする要求のおかげで、製造コストの利益の一致に対してバランスがうまれ、限界収益点利益について安定した釣り合いをたもつことになった。こうした面における継続性について、数学の記号や図を用いることなく、全てをはっきりと見ることは簡単ではない。後者の図を使用するには、特別な知識は求められない。さらに数学の記号よりも図のほうが、経済的な生活状況について、もっと正確に、かつ簡単に表現する。そのため図は、この巻の脚注の補足解説で用いられている。だが図は省略されてもいいものである。本文のなかにおける議論は脚注の図に基づいていないため、図は省略してもいいものである。しかし経験からいえば、図のおかげで、多くの重要な原則について、助けなしで、しっかり理解することができる。純粋な理論には多くの問題がある。そのため、かつて図表の使い方を学んだ者ならば、よろこんで純粋な理論を扱う者は誰もいないだろう。(10ページ)

 経済的な問題で、純粋な数学を主として用いるということは、自分の考えを自分のために書き記す人を素早く、簡潔に、正確に助けることのようにみえ、結論の根拠が十分だと確かめることのようにみえる。十分だというだけにすぎないとしても。(すなわち、方程式とは、数において、未知数なのである)。それでも多くの記号が用いられなければならないが、書いている本人にとっても数学の記号は骨の折れるものである。クールノの天分は、その領域を通過する者すべてに、新しい精神活動を与えるにちがいない。そしてクールノに近い天分のある数学者なら、経済理論の難しい問題を正面にだすのに、好みの武器を使うかもしれない。だが言及されるのは、経済理論の外縁だけなのである。経済論を数学に長々とおきかえたものを、まして自分がおきかえたものではないものを、長々と時間をかけて読む者がいるのかは疑わしく思える。数学的言語を利用した見本が少しばかり脚注に加えられているが、それは私の目的に役立つと証明されたものである。 1890年9月(12ページ) (さりはま訳)

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