2章の脚注(途中まで)

この章の脚注
4.(1.Ⅱ.1)社会科学の合計に対して経済学が関連する点は、巻末解説C、1、2に書く予定である。
5.(1.Ⅱ.8)哲学者の中には、どんな環境でも、二つの喜びは等しいものであると反論する者もいる。そうした反論は、経済学者がからむ文言より、他の分野の者がからむ文言にあてはまるように見える。経済学の用語を習慣的に使う者に、不幸にして時々見受けられることであるが、経済学者とは快楽主義や功利主義の哲学のシステムに束縛されるという考えをほのめかすことがある。経済学の用語を使う者にすれば、最大の喜びには、自らの義務をおこなうという努力を伴って当然なのである。その一方で、「喜び」や「痛み」が、すべての行動の動機になると語っている。そこで経済学の用語を使う者は、哲学者の叱正に自らをさらすのである。また、哲学者が一緒になって主張する原則の一つに、義務をおこなおうとする欲望が、喜びを求める欲望とは異なるというものがある。もし、たまたま原因について考えたとしても、そこには期待されるものがあるものであり、正確には「自己満足」と「永遠の自己満足」のための欲望として語るべきものかもしれない。(T・H・グリーン、倫理への助言を参照)
倫理的論争でどちらかの肩をもつようなことは、はっきり言えば、経済学の分野ではない。行動をおこす全ての動機とは、それが知覚できる欲望である限り、適切に、かつ簡潔に「満足」への欲望として語られるものなのかもしれない。だから、あらゆる欲望の対象について語る機会があるときには、「喜び」の代わりに、「満足」という言葉を用いたほうがいいのかもしれない。たとえ、人の高い特質に属するものだろうと、低い特質に属するものだろうと関係ない。満足の反対語は、単純には、「不満足」(dissatisfaction)である。しかし、ここでは、もっと簡潔で色のない単語である「損害」(detriment)を使うほうがいいのかもしれない。
しかしながら、ベンサム派の支持者が(ベンサム自身はそうではないけれど)「痛みと喜び」を大いに利用して、利己的な快楽主義から完璧な倫理の教義へと橋渡しをしていることについて言及する者もいるかもしれないが、独自の主な前提条件をとりいれる必要を理解しているわけではない。そうした前提条件にたてば、必要性とは絶対的なものに見えるからである。たとえ形式に関して、意見が異なるとしてでもある。無条件に価値のある命令として、前提条件をみなしている者もいる。一方で、簡潔な考えとして前提条をみなしている者もいる。道徳的天分が由来しているものが何であろうと関係ない。道徳的天分の兆候とは、人が体験から判断することで生じるものであるが、それは真の幸せとは自尊心をともなうものであり、また自尊心とは人として進歩しようと生きる状況でいだくものなのである。
6.(1.Ⅱ.10)エッジワースの数理物理学を参照。

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