アルフレッド・マーシャル経済学原理 チャプター2の脚注(後半)

7.(1.2.16)これは満足を感じている集団について、とりわけあてはまる。その満足とは、「追求の喜び」と名づけられているものである。追求の喜びとは、狩りをしたり障害競走をしたりと試合や娯楽をとおして、陽気に競争するだけでない。職業や仕事についての真剣な競争を含むものである。私たちは追求する喜びに多大な注意をはらい、賃金や利益を制する原因や産業組織を形づくる原因について話し合う。
 中には性格が気まぐれな人もいて、そういう人は自分の行動の動機について適切な説明をすることができない。しかし、しっかりとした考え深い人ならば、衝動といえども習慣からくるものであり、その習慣とは多少なりとも慎重に選んだものをとりいれたものなのである。こうした衝動とは、高い特質からくる表現であることも、そうでないこともあるだろう。良心からきていることもあれば、そうでないときもあるだろう。社会的つながりの圧力にまけて生じた場合も、そうでない場合もあるだろう。肉体的な必要にせまられての場合もあれば、そうでない場合もあるだろう。いずれの場合でも、意図的にそうした衝動を優先することを決意し、当面は考えないことにしたのである。なぜなら、これまでにも、そのように優先していくことを意図的に決意してきたからである。他人に及ぶ行動のすぐれた魅力とは、そのときは計算した結果ではないにしても、多少は意図的に決定したものであり、以前にも似たような事例でなされた決定なのである。
8(1.2.21).クリフ・レスリーの「お金への愛」という素晴らしい小論を読んでほしい。お金のためにお金を追い求めるだけで、お金を使って何をしようかということは気にかけず、とりわけ仕事に費やしてきた長い人生の最期の場面においても気にかけない人のことを、よく耳にする。だが、これも他の場合と同様に、もともとの目的が存在しなくなってから、何かをするという習慣が続けられているということなのである。富を所有することで、仲間に対して権力を感じるようになり、苦くも喜ばしい一種の妬ましい敬意を感じる。
9.(1.2.22)実際、私たちの経済学と同じような経済学があるものとして、世界は考えられている。しかし、その経済学には、いかなるお金もない。脚注Bの8とDの2を参照。
10.(1.2.23)ドイツで考えられているような経済学の大まかな範囲に関する指摘の幾つかを脚注Dの3にあげておく。

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