アダム・スミス 道徳感情論 1.Ⅱ.19 情熱そのものには妥当性はないけれど、情熱をあたえてくれるものには妥当性があるんだよ

相手の価値とはまったく釣り合いがとれない全ての情熱のなかでも、愛とはただ唯一、弱い者の心にある愛であろうとも、優雅であったり、好ましかったりする何かがあるように思えるものである。愛そのものは、何はさておき奇妙なものであるかもしれない。だが、本来は嫌なものではない。愛の結果として、死がもたらされることもあれば、恐ろしいことがあるかもしれない。だが、愛に対する心構えが害となることはめったにない。それからさらに、情熱そのものには妥当性というものはないけれど、情熱をつけ加えるものには妥当性がある。愛とは、人間らしさや度量の大きさ、親切にする心や友を大事にする心、敬う気持ちがはっきりと混ざり合うものである。やがて明らかにされる理由から、情熱がやや過度なものだと気がついていても、私たちには共感する傾向が強い。そうした共感がしめす情熱は、好ましくないとは言えないものをつけ加え、想像力のなかで情熱をささえることになる。だが、情熱にともないがちな悪徳に妨げられることはない。片方の性において、情熱とはこの世の終わりの廃墟へとつながる道であり、非難をあびる原因になるものでもある。かたや死をもたらすものと思われている他方の性においては、情熱が生じるものとは労働にとりくめなくなる事態であり、義務を無視してしまうことであり、名声や広く知られた噂というものを軽蔑することである。それにもかかわらず、情熱のおかげで感受性や器の大きさが生じるとみなされ、多くの人にとって、情熱とは、自慢すべき対象なのである。だが情熱を感じたとしても、名誉なことではないと感じているように思われたがる。(1.Ⅱ.19)

 

 

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