アダム・スミス 道徳感情論 1.Ⅱ.25 憎悪を追いはらおうとする理由

これまで考えてきた情熱についても同じように、目に見える結果もあれば、間接的な効果というものもある。目に見える結果というものはとても不快なものであるから、そうした結果が生じたばかりだとしても、嫌悪の情が生じる何かがあることは確かである。そのため、目に見える効果をひきおこす情熱とは、私が以前に観察したところでは、そうした情熱が生じる理由を教えてもらわなければ、その表現の仕方に共感したい気持ちになることもなければ、共感しようとして準備を整えることもないのである。悲惨な物悲しい声は、遠くから聞こえてくるものでも、その声を発している者に無関心でいることを許さないものである。その声が耳にはいるとすぐに、その者の運について関心をいだく。さらにその声が続くようであれば、私たちは思わずその声の主を助けようとして駆け寄る。同じように、微笑みをうかべた顔を見れば、悲哀を感じていたときも、陽気で軽やかな気分にまで気持ちを昂揚してくれる。そうした陽気な気分には共感したくなるものであり、微笑みが表現する喜びを共有したくなるものである。そして考えが後ろ向きになったり、関心がうしなわれたりする前のように、自分の心がみるみる膨らんで有頂天になるのを感じる。しかし、それは他の状況では強い嫌悪と怒りをともなうものである。しゃがれた怒声の荒々しさや、耳障りな様は、離れたところから聞いていても、恐怖、あるいは嫌悪の情をいだかせるものである。痛みや苦痛に泣きさけぶ者のように、怒声にむかって飛んでいくのではない。男にしても、女にしても、神経の弱い者は震え、恐怖のあまり何もできなくなるが、自分自身が恐怖の対象ではないことには気がついている。恐怖を心にいだくのは、しかしながら、そう感じている人の状況に自分をおく場合である。勇ましい心の持ち主でさえ不安には思うが、怖がるほどのものではない。だが怒らせるには十分なものである。怒りとは、他の人の状況に身をおきかえた場合に、感じる情熱だからである。嫌悪も同様である。単なる悪意の表現には、誰も奮い立つことはない。だが悪意を表現する本人は奮い立つものである。もともと怒りにしても悪意にしても、どちらの感情も嫌悪される対象である。その荒々しくて嫌な見かけに興奮することもなければ好感をもつこともなく、共感を感じることもしばしば妨げられる。悲しみがひきつける力は憎悪ほど強くないし、その悲しみを観察できる人に魅せられることはない。また、私たちはその理由を知りもせずに嫌悪して、その人と自分を切り離してしまう。憎悪のように更に荒々しくて、好感をいだくことができない感情を相手から追い払うのは、そうした感情を伝えることは容易ではないし、めったにできることでもないからである。それは昔からの自然の摂理のようである。1.Ⅱ.25

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