アビジット・バナジー 「なぜ貧困と闘うことが難しいか」6回

1-5セルフ・ターゲッティング(自分で設定した目標)

 

目標設定の代わりとなるものが、セルフ・ターゲッティング(自分で設定した目標)である。セルフ・ターゲッティングという考え方は、もちろん新しいものではない。悪名高いヴイクトリア時代の貧しい家について、スクルージーは誉めたものの、クリスマス・キャロルにでてくる憐れみ深い紳士が言った「多くの者はそこに行くことはできないが、そこに行くくらいなら死んだ方がましだろう」という言葉は、まさにそのとおりだろう。あまりにも悲惨な場所なので、頼みとするものがない絶望的なまでに貧しい者だけが行こうとするだろう。最近、インドで国立農村雇用計画(NREGS)というものが打ち出された。その計画は、農村の家庭すべてに、技術を必要としない公共部門の労働者として、最低賃金で100日のあいだ(雇用を探す15日もふくむ)村で働く資格をあたえるというものである。この計画はこうした方向にむかうための、まさに最大の努力となるだろう。

 

この計画の背後にある理論とは、よく知られたものである。目標の設定が必要なのではない。もっとましな選択肢がない人々だけが、排水溝を掘り、レンガを運ぶなどの示された仕事をやりたがるだろう。それが必要にもとづいた仕事であるという事実のせいで、仕事を探すのに誰の許可も必要としないことになる。これには柔軟だという長所がある。極貧の多くは一過性のものであり、予測できないものである。たとえば家族のなかの収入の稼ぎ手が思いがけず病気になると、家族がBPLとして分類されるのには長い時間がかかるが、働く権利は求める者のために、いつでもあるということなのである。

 

不都合な点もはっきりしている。家族に肉体労働をできる者が誰もいなければ、どうなるのだろうか。さらに労働とは、社会的な富である。貧しいということを証明するために排水溝を掘らせても、排水溝を掘ってもらいたいと思わない限り、それは勿論むだなことになる。排水溝が欲しいのではなく、誰が貧乏なのかということを知りたいのであれば、お金をあげて生産的なことをさせればいい。NREGSの文書にある元々の重要な部分とは、労働力を投資して村の公共資産をつくる際、村が何を必要としているのか知ることにあるのである。

 

汚職もまた難題である。これはいつものことであるが、NRGESが無理にやらせているように思われてしまい、そのため固定予算がないという事実がとりわけ、余計な名前をくわえてしまう。これは批判屋が話題にあげる偽の総員名簿の問題である(総員名簿にはNRGESの業務が記録されている)。こうした理由からプログラムが要求するのは、すべての総員名簿を目につくところに展示することであり、またプログラムの支援者は社会の会計監査と呼ばれるものをかなり重視している。こうした会計監査のあいだに、関心のあるボランティアは総員名簿に名前がある人々を見つけようと試み、また、そうした人々に支払要求を受けたかどうか尋ねるのである。

( この次からが今回の訳になります )

  

こうした会計監査により、NREGSを実施していく途中において、かなりの不正があったことが明らかになった。シャールカンド州において、アトランダムに選ばれた五つの村にアラーハーバード大学の研究者が社会監査を行い、その結果、お金の三分の一がなくなっていることに気がついた(2008年、ドレーズ、ケーラ、シダータ)。さらに怖ろしいことに、シャールカンドの社会監査に関わった活動家の一人が殺害されたが、おそらく監査によって明るみになったことと関係があるのだろう。一方で、シャティーガでアトランダムに選ばれた9個のプロジェクトでは、請求された賃金の支払いの95%が実際になされていた。

 

5%がうまくいくように見え、3分の1はそう見えないので、水準点をどこにおくべきか明確ではない。これはよく耳にすることだが、「プログラムが十分機能していない」という批判にともなってくる問題である。インドの監察官や報告長は、政府の組織からプログラムの監督業務を任せられているが、プログラムに登録した者のうち3.2%が実際に許可された100日間ずっと働くが、平均すると登録家庭はそれより20日ほど働く日が少なかった。これを受け、プログラムを運営している農村開発省も指摘したが、プログラムに実際に参加している家族の(つまり実際に働いた家族)働いた日数の平均は40日ほどであり、100日すべて働いたのは10%である。

 

しかし、どのようにして40日(あるいは100日すべて働いた家族が10%)が多すぎる、または少なすぎると言うのだろうか。もし誰もこうした仕事を引き受けることにならなくても、NREGAの最低賃金の仕事があるおかげで民間の賃金も押し上げられて、人々が民間で働き続けることになれば、成功したといっていいだろう。もし誰も仕事を引き受けなくても、必要なときに仕事があるという保証のおかげで、人々は利益というリスクについて心配もしなければ、果敢に立ち向かおうとする。反対に、すべての人がNRGAの仕事をやりたがっても、100日の仕事につくことができる人が50%しかいなければ、深く失望してしまうだろう。先ほど言及したCAGのレポートでは、需要が満たされていないので、プログラムに人手が足りていないと非難している。だが、それがどれ程なのかはわからない。

 

前述した西部での調査で発見されたことだが、調査対象の村では、ジョブ・カードを使って貧乏になることを予言できなない(最低賃金ながら技術のいらない仕事につけるジョブ・カードは、このプログラムに登録することで手にいれることができる)。このプログラムがかなり目標からずれたものだということになるのだろうか。あるいは保障のために皆がジョブ・カードを欲しがるということなのだろうか。だが実際には、二者択一を迫られたときのみ、ジョブカードを使うつもりでいるのではないだろうか。

 

さらに重要なことがある。たとえ目標設定が妥当なものであり、漏れていく人も他のプログラムと同じ程度であるとしてでもだ。どうすれば、お金を稼ぐために輪を飛び越えていく価値があるとわかるのだろうか。言い換えれば、こういうことである。プログラムの労働から稼ぐ資産には、時と努力をかける価値があると確信しているから、適切な目標を設定するために話し合ってもいいと考えたのである。

 

もしプログラムがきびしく評価されていれば、大半が責任をとらされているだろう(NRGSに参加しない様々なグループの詳細な調査もあわせて)。だが先ほどの国中にプログラムを広げようとする方針からも、インドには、こうした評価が根づかないということになる。すなわち自分で目標を設定するということは、トラブルを自由に話し合う場にするという考えが根づかないということなのである

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