アーサー・モリスン倫敦貧民窟物語「ジェイゴウの子ども」14章97回

そういうわけでスタート神父はジエィゴウをさすらい、生涯をとおして絶えることのない緊張と争いの日々をさすらうのだった。たとえ、その日々に、成功の跡が残らないとしても。それというのも、ジェイゴウは昔のままだったからだ。他のジェイゴウの者ほどには、卑しくない者があらわれて街が変化していたなら、どうであっただろうか。かつては嘲られていたとしても、ジェイゴウの人々が仕事をするように説き伏せられたなら、家をきれいにするようにと説き伏せられていたなら、どうであっただろうか。そうであればスタート神父はいそいで、ジェイゴウの人々のことを心から追いやり、ジェイゴウからの影響にいつまでものみこまれてしまうことはなかっただろう。神父のいた社会へと、不道徳なところがどこにもない社会へと戻ったことだろう。だが、ジェイゴウの人々のなかで、彼は日々をすごした。常識的な意味で考えると、伝道は少しもしなかった。この地において、伝道とは遊び人の自惚れにすぎなかった。そのかわり、労働につとめ、相手をなぐさめ、ジェイゴウの生活にとけこみ、よくないことには蔑みと嘲りの言葉をつきつけ、些細なことでも予想もしていない結果には感謝の言葉をささげた。少数の者のためだろうと、たった一時間であろうと、悪い行いから相手を遠ざけるためにそうした。自分がいなければ、ひどい不正が栄え、咎められることもないということを意識していた。心におもくのしかかる思いとは、ジィゴウの死亡率がロンドンの死亡率の四倍を超えていようとも、ジェイゴウの鼠は子孫をつくり、仲間をつくり、妨げられることもないまま、急速に増えていき、世界を冒していくというものだった。

So Father Sturt tramped back to the Jago, and to the strain and struggle that ceased not for one moment of his life, though it left never a mark of success behind it. For the Jago was much as ever. Were the lump once leavened by the advent of any denizen a little less base than the rest, were a native once ridiculed and persuaded into a spell of work and clean living, then must Father Sturt hasten to drive him from the Jago ere its influence suck him under for ever; leaving for his own community none but the entirely vicious. And among these he spent his life: preaching little, in the common sense, for that were but idle vanity in this place; but working, alleviating, growing into the Jago life, flinging scorn and ridicule on evil things, grateful for tiny negative successes—for keeping a few from ill-behaviour but for an hour; conscious that wherever he was not, iniquity flourished unreproved; and oppressed by the remembrance that albeit the Jago death-rate ruled full four times that of all London beyond, still the Jago rats bred and bred their kind unhindered, multiplying apace and infecting the world.

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