The Economist 「国の本当の豊かさとは?実はまだ豊かな日本」 豊かさを計る方法を新たに提案してくれるレポート

Free exchange: The real wealth of nations | The Economist.

The Economist 2012年6月30日

「豊かさとは、かならず優位にたつものである」と、ジョン・ケネス・ガルブレイスはかつて書いた。「しかしながら、よくあることではあるけれども反対に、こうした事例が広く納得されているとは証明されていない」。あきらかに豊かさが優位にたつにもかかわらず、国家は自分たちの豊かさを掌握するにあたって貧弱な仕事しかしていない。自国の豊かな天然資源、技術力の高い労働人口、すばらしいインフラ整備というものを自慢することはあるかもしれない。しかし自然、人間、物質などの資産合計を、一般に理解しやすい貨幣で測定することはされてない。

エコノミストはたいていの場合、むしろGDPを用いることに落ち着く。しかしGDPとは収入の測定方法であり、豊かさを測定するものではない。GDPとは品物やサービスの流れに価値をおくものであり、資産の蓄積に価値をおいていない。経済をGDPで正確に測定するということは、賃貸対照表を少しも見ることなく、四半期の利益でのみ、会社を評価するようなものである。幸いにも、ケンブリッジ大学のサー・パルサ・ダスグプタの調査のもと、国連は今月20カ国のバランスシートをレポート(http://www.ihdp.unu.edu/article)にまとめて刊行した。そのレポートでは、資産を3つの種類に分けている。まず「製造されたもの」や物質的、資本的なもの(機械、建物、インフラなど)、次に人的資源(人口における教育や技術の割合)、第三に天然資源(土地、森、化石燃料や鉱物を含む)である。

この測定によれば、アメリカの豊かさは2008年には118兆ドルに達し、この年のGDPを10倍上回る。(こうした数値は2000年の価格をもとに計算した)。しかしながら一人あたりの豊かさは日本より低い。この測定では、日本はトップグループにはいる。GDPで判断すると、日本の経済は今や中国より下である。しかし国連によれば、2008年において日本は中国より2.8倍豊かなのである。(表を参照)

 

 

政府は、しばしば国の一番大きな資産は人であるという。レポート中のナイジェリアとロシアとサウジアラビアをのぞくすべての国で、これは真実であることがわかった。学校での平均年数、労働者が受け取ることのできる賃金、退職(あるいは死ぬまで)までに働くことが出来る年月をもとにして、国連は人的資産を計算してみた。人的資産が占める割合は、イギリスにおいては豊かさのうち88パーセントを占め、アメリカでは75パーセントを占めている。平均的な日本人は、誰よりも人的資産を多く持っている。

レポートによれば、1990年から2008年にかけて天然資源を使い果たさなかったのはわずか3カ国であるが、日本はまたそのうちの一つである。それにもかかわらずロシアをのぞくすべての国はさらに豊かになり、むしばまれた天然資源の分を補うため、他の資源を十分に蓄積した。調査対象の20カ国のうち14カ国において、こうして更に豊かになるということは人口が増加するということであり、1990年より2008年のほうが一人当たりの豊かさが増している。例えばドイツでは人的資源は50パーセント以上増加した。中国では、製造物の資源は実に540パーセントにまで膨張した。

1ドルの価値をボーキサイトから頭脳まであらゆることにあてはめることにより、国連は3つの種類の資本を比較し、同じ単位で計ろうと試みた。3種類の資本とは、代用することが可能だということを示すものである。すなわち、ある国は1兆ドルの価値のある牧草地を手放して、代わりに1兆ドルの価値のある技術を得ることが可能であり、そうしても生活は以前とくらべて困ることにはならない。「構造は、経済政策を「資本をやりくりする問題」にする」と、サー・パルサはいう。

例えばサウジアラビアのような国は、1990年から2008年にかけて合計370億ドルの化石燃料を失った。一方で学校を卒業した人間と大学を卒業した人間の合計を加えてみる(人的資源はほぼ1兆ドルの伸びである)。しかしながら豊かな国のなかには、人的資源への投資が目減りする利益のように見える国もある、とレポートは報告している。おそらく政府はそのかわりに投資の方向を自然資源にあらため、図書館より森を補充するべきなのである。

天然資源が代替可能であるという考えに、環境保護者(このレポートへの寄稿者も含めて)は神経質になっている。環境保護論者の指摘によれば、環境が提供するサービスの多くは、水や大気の浄化など、代替のきかない必需品ばかりである。しかしながら理論上は、こうした天然資源のあきらかな価値は価格に反映されるべきだということになる。その価格は不足してくるほど、急激に上昇するだろう。優れた資源管理マネージャーは注意深く資源を管理するが、それは天然資源の喪失をうめあわすためには、人的資源や物質的資源の量をふやすことになると知っているからだ。

しかしながら実際、天然資源とは上手にしっかりと値をつけるのが難しいものである。結果として、国連のレポートは資源を浄化する方向にむかい、例えば所有したり、売り買いすることができない大気を浄化することなどである。天然資源とはガス、ニッケル、木材のように、市場価格が存在するものに限定されている。しかし、こうした市場価格でさえ、商品の真の社会的価値を反映していないかもしれない。養蜂は、経済理論家に愛されている一つの例である。蜂は蜂蜜をつくり、その蜂蜜は市場で売られる。しかし蜂は近くのリンゴの木に受粉するが、それは購入したり値段をつけたりすることのできない有益なサービスである。

蜂を数えるには?

このレポートの著者たちは、こうした限界を誰よりもよく承知している。彼らの評価は実例に即しているが、明確ではないと、サー・パルサはいう。計算方法は明らかに未完成である。70年前に最初に見積もられたGDPが未完成だったように。サー・パルサは、もっと多くのエコノミストが大変だけれども、一見価値がないように見えるものを評価するという意義のある仕事をすることを望んでいる。この仕事に報われることはないと、サー・パルサはいう。しかしエコノミストたちのなかには、この仕事に着手したものもいる。ヴァーモント大学のテイラー・リケッツと彼の同僚は受粉の効果をすでに計算している。コスタリカのコーヒー栽培者たちは森にある2区画あたりの畑で、野生のミツバチから1年間に62000ドルの利益を受ける。

エコノミストたちがこうした豊かさは測定可能だということをすでに示した今、次はなんと呼ぶべきなのか決めなくてはいけない。初期の学術的な仕事で、サー・パルサは「多くのものを含む豊かさ」と呼んだ。国連のレポートでも「包括的な豊かさ」と名づけられている。もし、この考えが受け入れられるなら、名前は必要なくなるかもしれない。「やがてすぐに」サー・パルサはいう。「どちらの形容詞も捨てて、ただ「豊かさ」とのみ呼ぶようになるだろう」(Lady DADA訳・BlackRiverチェック)

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