2019.11 隙間読書 坂口安吾「白痴」

「白痴」

作者:坂口安吾

初出:1946年 雑誌「新潮」6月号

終戦後、一年も経たないうちに発表された作品なので、爆弾投下時の描写も生々しい。爆弾投下に右往左往しながら投げやりに生きる演出家「伊沢」、伊沢が自宅の押し入れに密かにかくまう白痴の女との不思議な関係。発表当時、同じ時代に生きた人々にとって、戦争中の自分の姿を思い出させる衝撃的な作品であったのだろう。

今でも「白痴」における安吾の言葉は、鮮明な映像を突きつける迫力がある。


伊沢が押入れにかくまう白痴の女の不思議な存在さ。

白痴の女房はこれも然るべき家柄の然るべき娘のような品の良さで、眼の細々とうっとうしい、瓜実顔の古風の人形か能面のような美しい顔立ち


三月三十日の大空襲についても容赦なく語る。戦後一年もたってないときに、安吾のこの言葉は刃のように思えたことだろう。

三月十日の大空襲の焼跡もまだ吹きあげる煙をくぐって伊沢は当もなく歩いていた。人間が焼鳥と同じようにあっちこっちに死んでいる。ひとかたまりに死んでいる。まったく焼鳥と同じことだ。怖くもなければ、汚くもない。犬と並んで同じように焼かれている死体もあるが、それは全く犬死で、然しそこにはその犬死の悲痛さも感慨すらも有りはしない。人間が犬の如くに死んでいるのではなく、犬と、そして、それと同じような何物かが、ちょうど一皿の焼鳥のように盛られ並べられているだけだった。犬でもなく、もとより人間ですらもない。


安吾の目は、大空襲の風景も、投げやりになっている自分の気持ちも、赤裸々に捉えて語っていく。安吾に何もかも見透かされているような、そんな気持ちになって、清々しいまでの諦めの気持ちになる。

女の眠りこけているうちに女を置いて立去りたいとも思ったが、それすらも面倒くさくなっていた。人が物を捨てるには、たとえば紙屑を捨てるにも、捨てるだけの張合いと潔癖ぐらいはあるだろう。この女を捨てる張合いも潔癖も失われているだけだ。微塵の愛情もなかったし、未練もなかったが、捨てるだけの張合いもなかった。

安吾は不思議な終わらせ方で、作品の最後をまとめることが多いのかもしれない。この作品も、こんな一文で終わっている。ざっくりざっくり書いているようだけれど、最後になんとも説明できない不思議さが残る…安吾作品のそんなところがよいのだなあと思う。

停車場の周囲の枕木の垣根にもたれて休んでいるとき、今朝は果して空が晴れて、俺と俺の隣に並んだ豚の背中に太陽の光がそそぐだろうかと伊沢は考えていた。あまり今朝が寒すぎるからであった。

読了日:2017年11月8日

 

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