アビジット・バナジー「子供たちに与えられたのは教育をうける権利であって学校の椅子に腰かける権利でない筈、子供たちの学習を妨げているものとは何か」

Learning curbs – Hindustan Times.

ヒンドゥスタン・タイムズ 2012年4月10日

ジャワハルラール・ネルーはインドの教育に多大な貢献をなした。インド工科大学、インド商科大学、インド統計大学などを私たちに設立してくれた。しかしながら誕生日が子供の日として祝われる男性のわりには、初等教育に関しては比較的何もしなかった。第1回5カ年計画では、総計2000ルピーの支出から、およそ12ルピーを初等教育への投資に割り当てた。これはネルーが子供たちについては心配しなかったからではない。その反対である。しかし外部からの緊急介入が必要な問題として、ネルーは初等教育をとらえていなかった。

共通点があるわけではないが自由市場のエコノミストの多くのように、ネルーは人々が子供たちを教育する方法を見つけるだろうと信じているように見えた。自由市場の考え方とは、もちろん、必要とされているものを市場が供給するというものだ。一方、ネルーは地域、あるいはNGO(非政府組織)が学校を運営するという観点にたって考えていたのだろう。しかし基本的な原則は同じである。両親は何が子供たちのためになるかを知っていて、子供たちのためになることを喜んでするというものである。

ある意味、これは次の事実から生じていると考えるかもしれない。今や、ほとんどの子供たちが学校に通っているが、国中にキノコのように現れてきている安価な私立学校に子供たちをなんとか通わせようとする貧乏な両親が増えてきているということだ。両親のこうした積極的な動きにたいして、何か証明できる術を持ち合わせているのだろうか。

こうした健全な傾向には、ただ一つ核となる問題がある。それは子供たちが学ばないということである。年次教育報告書(Aser)の結果によれば, 毎年、5年生の生徒の半分が2年生の教科書を読むことが出来ないし、数学の結果はさらに悪い。

なぜ学習が遅れているのかという問題には、もちろん多くの理由がある。最近では、公立学校の(数多い)失敗に関する論議がさかんである。ある調査によれば、公立学校の教師は教えることになっている時間の総合計の半分しか教えていないという。私立学校は教員の出勤率に関して、多くの場合ましである。そこで両親は私立を好む理由として、しばしば教員の出勤率をあげる。

不幸なことに、私立学校も平均的な学力の子供たちを学ばせるという点に関して、公立学校よりましだというわけではない。もちろん平均的な結果は私立学校のほうがましだということは真実である。しかし子供を私立学校にやる両親の多くは豊かであり、子供の教育に関心がある。ラクミニ・バナジーと共著者のような似たような者同士を比較するように、同性の兄弟を比較してみなさい。たしかにこれは理想的な方法ではない。兄弟のうちでも私立にやるほど大事にされている方は、別の点でも(どれほど学習時間にあてているかという点に関しても)大事にされているからだ。しかし、このように限定的とはいえ比較してみると、大体において私立にやることから得る利点は少なくなるものである。私立の利点はわずかであり、例えばサマーキャンプに参加してビハールの政府派遣の教員に教わって得るものとくらべたら、私立で学ぶことは少ない。

なぜ私立学校は、平気的な生徒にもっと学力をつけることができないのだろうか。完全に答えるには難しい質問だが、私が知っていることすべてに基づいて考えると、話の一部はとても単純である。教育に携わるすべての人々は、教員、両親、行政もふくめてすべての人々が、教育とは平均的な生徒が平均的な学校で学んで身につくようなものだと考えていないのである。こうした観点にたつと、教育の目指すところとは一番出来る生徒が難しい試験に合格する機会を与えるものであり、その生徒は合格することで政府の仕事につくという特賞をひいたり、技術学校で職についたりするのである。当たり前のことながら残りの生徒は落ちこぼれていくだけである。

そのせいで公立学校だろうと、私立学校だろうと、クラスの落ちこぼれていく多くの子供たちの顔に、教員は注意をむける余裕がないのである。こうした子供たちは十分に読むことも学ばないまま、今や理科や公民の授業に我慢しているのである。それでも教員は教え続けなければいけないし、もの凄いスピードでシラバスをカバーするように教え続けなければいけない。その結果、ごく少数の生徒だけが勝利するのである。これこそが両親が教員に期待していることであり、校長や行政が期待していることなのである。

しかし、頂点にたつ生徒のためにだけ、教育があるという根拠はない。実際のところ根拠となるのは、まったく学校に行かないより4年生まで行った方が得るものがあるということである。また4年までに得たものは、8年から12年まで学んで得たものと同じだということである。平均的な両親がこうした考えを受け入れられない理由とは理解できる。4年生で学校をでても証明書類が発行されないからだ。しかし少し文章を読んだり、基本的な算数をする能力は、農業をしたり、店をひらいたりと何かをやろうとするときに役にたつものなのである。

教育をうける権利があたえられたら、この不合理なエリート主義が抹消されるだろうと思われていたのかもしれない。悲しいことに、どちらかと言えば、現状をさらに強化しているように思える。実際に学習出来ている生徒がいるかどうかは別にして、シラバスをすべて教えるということは現状では法律で定められている。10年生のテストは平均的な学生の学力に到達したということを示す正式な認定書だったが、今では行われていない。とりわけ注目すべきことは、教育をうける権利が与えられたのであって、学校のベンチに座る権利が与えられたわけではないということだ。それにもかかわらず、法案では学校の施設がどのようなものであるかを定めるだけで、学校がすべての子供に最低限の学力をつけさせるにはどうすればよいのか定めていないのである。(LadyDADA訳)

 

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