2018.08 隙間読書 マルグリット・デュラス「愛人ラマン」清水徹訳

1984年発表

清水徹訳(河出文庫)


 発表されると世界的ベストセラーになった「愛人ラマン」の原点は、訳者清水徹氏の解説によれば「この作品のそもそものはじまりには、写真集出版という企画があったらしい。デュラスの人生のそのときどきの写真と、彼女が監督してつくった十数本の映画からの写真を集めたアルバムに文書を添えるという仕事」なのだという。

 何枚もの写真に添えられた文章、それは時には「私」の視点で書かれることもあれば、「彼女」を見つめる視点で書かれていることもある。「一枚の写真」について、視点をかえて語ることから生まれる物語の広がりも心地よい。

 時制も、清水氏は原文どおりにデュラスの意図をくんで忠実に訳されているのだろう。大半は現在形で訳されているが、時に過去で、時に未来で語るというように錯綜、語ろうとしている対象への心の揺れがひたひたと伝わってくるかのようである。


 どうしてもタイトルの衝撃性と、仏領インドシナでの貧しい子供時代、華僑青年との恋愛など自伝的な要素に目をうばわれての感想が多いようだが、デュラスが夢にいだいていたという「わたしはずっと、わたしの名づけるところの『流れゆくエクリチュール』」にもっと目をむけて語られてもいいのではないだろうか?

「流れゆくエクリチュール」についてデュラスはこう語っている。

「流れるエクリチュール une ecriture qui court です。そう、出会うものは何でも区別することなく、ほとんど選びとるということもなく運んでゆくエクリチュール、そしてとくに、すべてを無罪たらしめるーこの場合で言えばね、兄を、母を、植民地主義の忌まわしさを、全部を無罪たらしめるエクリチュール」(清水徹訳 河出文庫)


以下に引用した箇所でも、前半の段落では作者の視点で主人公の娘を語り、その次につづく段落では娘自身の視点で思いを強く語る。

前半の方では、非常に長い文で、時には似たような表現を繰返して情景を語ったかと思えば、その次の瞬間には短い語で場面を語って印象づけている。

後半では、娘の思いは短く、力強い文で語られている…こうしたデュラスの書く姿勢(エクリチュール)が、「愛人ラマン」の魅力なのだと思う。


 ソフト帽の娘は、大河の泥のような光のなかで、ただひとり渡し船の甲板に立ち、手すりに肱をついている。男物の帽子が情景全体を薄い紫檀色に染める。色彩はそれだけだ。靄をとおして大河に照りつける陽光のなかで、暑い陽光のなかで両岸は消え、河の果てがそのまま空であるように見える。河は音もなく流れている、河は音をまったく立てない、身体のなかを流れる血液のように、水の外には風はない。情景内でただひとつ音を立てている渡し船のモーター。ときどき、わずかに風に乗って、ひとの声。それから、犬の啼き声、いたるところから聞こえてくる、靄の奥から、あらゆる村から。(以下略、清水徹訳)


 わたしは母に答えた、何よりやりたいのは、書くこと、それだけ、その他は何も。嫉妬しているのだ、母は。返事がない、眼差がちらり、すぐにそむけてしまう、かるく肩をそびやかす、忘れられない動作。(以下略、清水徹訳)


 「愛人ラマン」は少女の性愛の目覚めとかという視点から語る人が多いけれど、デュラスという作家が書くということに目覚めたときの思いやら、その書くことへの思いをどう試行錯誤しているのか…という過程が面白い本なのだと思う。デュラスも最後の方で「書く」ことへの思いをこう語っている。


 わたしは本を書くことにしよう。それが、その瞬間をこえたさきの、大いなる砂漠のなかに、わたしの眺めているものだ、わたしの人生のひろがりが砂漠の姿をとってわたしに見えてきているのだ。(以下略、清水徹訳)


 デュラスの実験的な時制の試み、長々と文を書いたかと思えば単語をたたきつけるようにぶつける…そんなデュラスの書き方に忠実でありながら、原文のリズムを日本語にうみだした清水氏の訳も非常に勉強になった。

2018/08/14読了

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