2018.11 隙間読書 東雅夫「文豪ノ怪談ジュニア・セレクション『影』」

梶井基次郎「Kの昇天」

Kの死が溺死だったのか、それとも過失だったのかと思い悩んで手紙を送ってきた相手に、Kと海辺で知り合って一ヶ月ほどの「わたし」がKとの出会いについて記した…という設定。

手紙を書いてきた「あなた」とは女性なのだろうか? Kと「わたし」の海での位置関係は? という具体的なことは記されず……そのせいで影の魅力、月の魅力を強く感じるような気がする。

影をじーっと見凝めておると、そのなかにだんだん生物の相があらわれて来る。ほかでもない自分自身の姿なのだが。

K君が昇天していく場面は、なんど繰り返し読んでも飽きない美しさがある。

そしてある瞬間が過ぎて、K君の魂は月光の流れに逆らいながら徐々に月の方へ登ってゆきます。K君の身体はだんだん意識の支配を失い、無意識な歩みは一歩一歩海へ近づいて行くのです。影の方の彼はついに一箇の人格を持ちました。K君の魂はなお高く昇天してゆきます。

最後に東氏の註をまとめ読みしていると、柳田民俗学に影響をあたえたハイネ「精霊物語」「流刑の神々」、富ノ澤鱗太郎「セレナアド」、ラフォルグ「聖母なるピエロのまねび」、澁澤龍彦「幻妖」と読んでみたい本を続々と発見……うれしいような、幸せな満足感にひたる。

2018/11/6



岡本綺堂「影を踏まれた女」

冒頭の秋の描写も、おせきという娘の描写も美しいだけに、だんだん「おせき」が影をふまれて心が不安定になっていく様子が不気味である。


冒頭は子供達の遊びの様子を無邪気に語りながら、秋の月の描写がもしい。

秋の月があざやかに冴え渡って、地に敷く夜露が白く光っている宵々に、町の子供たちは往来に出て、こんな唄を歌いはやしながら、地にうつる彼等の影を踏むのである。


子供たちに影を踏まれた「おせき」の心が崩れていく様子を語る言葉も興味深い。

幾つかの小さい黒い影が自分の胸や腹の上に踊っている夢をみた。


「おせき」の影も、最初は要次郎と仲むつまじく描かれているだけに、後の彼女の影の急変が余計に印象に残る。

昔から男女の影は憎いものに数えられているが、要次郎とおせきはその憎い影法師を土の上に落としながら、擦寄るように並んで歩いていた。

2018.11.07読了



柳田國男「影」

東氏の註には、私の知らない柳田の側面が記されていて興味深い。

柳田がハイネを愛読し、その影響が顕著な恋愛詩を書いているとは!

柳田の恋愛詩の対象には、実在の人物がいるとは!

しかも其の女性が十八歳の若さで亡くなっているとは!

其の女性の死後、柳田が恋愛詩の筆を折っているとは!

柳田の意外な顔に驚きの連続であった。

「影」は典雅な語調にも魅力がるし、野に嘆きにきた人の影がそこにとどまり、その影が実体である人間よりもはるかに長く生きる…という影の勝利という発想にも魅力があるように思う。

斯して影なる二人は、手をとりかはして、名もなき小野を都とも思ひつ重ねつゝ、夕暮毎に其恋を楽むことも、早幾十年かになりぬ。今より後の千年も、亦かくして過るならむ。

唯憫むべきは此影の主なり、彼等は終にうち解くる日もなくて、各其嘆を嘆きつゝ、共に苔の下に入りき、其墓所さへもたち隔りつゝ。

2018.11.08読



水野葉舟「跫音」

森のなかに住む「わたし」は毎晩、毎晩、忍び寄ってくる足音をきく。ある晩、「わたし」も足音の主がこう歩いているのだろうと真似をして歩き、自分の部屋に近づいて覗き込むと其処には…という話。

山桜、ひめしゃら…幹がきれいな木が好きな私としては、なぜ葉舟が木の幹の描写をしているのかが気になった。

(略)森の大木の幹が、何とも云えぬ古びた色をしてその皺までが見える。

さらに友人の妹も「幹子」さんではないか?舞台になっているのが、森の中だからだろうが、それにしても幹にこだわっているなあ、なぜなのだろうか?

短い作品ながら東氏の註をまとめ読みしていると、気になる本ばかり。ラング「夢と幽霊の書」、横山茂雄「遠野物語とその周辺」、東雅夫「遠野物語と怪談の時代」、葉舟「心の響 列伝体代表的新体詩集」、葉舟の怪奇幻想小品も読んでみたい。

2018.11.09



泉鏡花「星あかり」

墓原、卵塔場…墓地をあらわす日本語もいろいろあるものと思いながら読んでいくうちに、だんだん自分が墓地を歩いているような気持ちになる。この迫るような墓地描写は、墓散策を愛した鏡花の実体験に由来するものではないだろうか?

冷たい石塔に手を載せたり、湿臭い塔婆を摑んだり、花筒の腐水に星の映るのを覗いたり、漫歩(そぞろあるき)をして居たが

東氏の註にも「十八世紀ロマン派の墓畔詩人さながら、鏡花も仄暗い墓地のたたずまいを愛してやまなかった」とある。


以下の文は長いけれど、これで一つの文。鏡花らしい心地よい長文のリズム。最初は「自分」の様子について形容する言葉がつづき、それから自分の思いを「~してはならぬ」の繰り返しで強く語った次にくるのは「まあ」で始まる驚き。そこで待つのは屋根や挽臼が睨めつける不思議な世界。その不思議な世界に驚く「自分」の心をまた形容詞の連続で語る。ひとつの文でこれだけの心の動きを表現する鏡花はすごいと吐息。

何か、自分は世の中の一切(すべて)のものに、現在(いま)、恁(か)く、悄然(しょんぼり)、夜露で重ッ苦しい、白地の浴衣の、しおれた、細い姿で、首(こうべ)を垂れて、唯一人、由比ガ浜へ通ずる砂道を辿ることを、見られてはならぬ、知られてはならぬ、気取られてはならぬというような思(おもい)であるのに、まあ! 廂(ひさし)も、屋根も、居酒屋の軒にかかった杉の葉も、百姓屋の土間に据えてある粉挽臼(こなひきうす)も、皆目を以て(もっ)て、じろじろ睨(ね)めつけるようで、身の置処ないまでに、右から、左から、路をせばめられて、しめつけられて、小さく、堅くなって、おどどして、その癖、駆け出そうとする勇気はなく、凡そ人間の歩行に、ありッたけの遅さで、汗になりながら、人家のある処をすり抜けて、ようよう石地蔵の立つ処。

2018.11.09読了



北原白秋「秋」

谷中天王寺前に住む「僕」が目にした影のない男。その話だけでも怖いが、さらに「僕」の家でかつて書生をしていた青年が影のない男の家をのぞくと…という展開も怖い。

だが何よりも、今とはまるで違う谷中界隈の描写に心をうばわれる。谷中墓地から抜けた「僕」が目にするのは……

下は根岸から三の輪、三河島、浅草、向島、千住、田端へかけて、まるでイルミネーションの海だね。

そして東氏の註も谷中界隈の歴史について地名ごとに詳しく記しているので、谷中の歴史散歩をしているようで楽しい。御殿坂の下の乞食坂、道灌山の高台にあったガス・上下水道・電話完備の渡辺町のことも、渡辺町が金融恐慌を機に渡辺家から離れたことも初めて知ることばかりで楽しかった。

2018.11.9読了



山川方夫「お守り」

団地で起きた現代のドッペルゲンガー。大勢の人々が同じ規格の家に暮らし、おそらくその生活リズムも同じ……という不気味さ、不安さ。さらにその不安さから身を守ろうと、双方のドッペルゲンガーが同じお守りを身につけるという切なさ。

この作品が書かれた1960年は、全国あちらこちらで同じ規格の公団団地が建設された時期。まだ新しい公団住宅に住む人々を眺めながら山川が感じた不安に思わず息苦しくなる作品である。

2018.11.09読了

渡辺温「影 Ein Marchen」

註によれば、谷崎潤一郎と小山内薫が選者となって実施したプラトン社の映画筋書懸賞募集で一位になった作品とのこと。

予想外の展開が続く筋も面白く、視覚に残る文も心地よい。

画室のそとでは、この時、一人の肥った巡査が入口の扉を激しく叩いていた。

夜明けの光が次第に白く、丘にひき懸かった深い霧の中へ流れていた。

多くを語らずして雄弁に語る、この余韻の残る最後の文を読むと、二十七年という渡辺温の短い生涯を惜しまずにはいられない。

2018.11.09読了



稲垣足穂「お化けに近づく人」

27歳の若さで亡くなった詩人、沙良峰夫の思い出を正直に散りばめた作品。今まで知らなかった詩人「沙良峰夫」の会話が聞こえてきそうな気がする。

たといかれが何かまじめな勉強をしている時間について云ってみても、どうやらそれは、「近代文学の困った数ページをひとり踊りしたにすぎない。初めからこんどのことが判っていたなら、そのきゅうくつなシャツを脱がせてやりたかった。

あくまでも親しくしていた仲間として率直に、でも愛情をこめて沙良峰夫を語っている。

なぜなら、全く不意にかれを訪れたのは、このたびの無理な出京を追うてきた北方の使者ではありません。それは、かれが日頃から霧の深い夜に場末の酒場かどこかで逢うことを願っていた男、こうもりみたいな羽根のある人物に他ならなかったからです。しかもかれと議論するのではなく、かれを迎えにきたのであったところのその人物は、彼を引き立てて、ネオンサインを映した街の石だたみの隙間からもろともに降りて行ったのでした。

友の死をかくも美しく、万感の思いをこめて語る言葉が他にあるだろうか。こんなふうに語られる沙良峰夫の作品を読んでみたい。

2018.11.09読了



城昌幸「影の路」

銀座通りが煉瓦路だった時代。「私」は裏通りの互いに二階から行きかうことができるくらいに隣り合った家に住んでいた。子供時代、隣の二階で知り合った物寂しい女に可愛がってもらった。月日は流れ、結婚した妻はその女によく似ていた。妻が亡くなってから親しくなった女も二階の女に似ていた…。

隣の家に出入りできる様子も楽しく、どの女も二階にいた女と似ているという不思議さも楽しい。ただ、最後の一文だけが後味が悪いもののように思える。この後味の悪さが魅力なのだろうか?

2018.11.09読了



澁澤龍彦「鏡と影について」

まずは仙人「朱橘」のエピソードをしるした物語で始まる。

一瞬にして飛び去る鳥さえ、その影を水面にちらりと落とさずには、この池の上を渡ってゆくことはそもそもできないのである。しかるに、青衣の裾をひるがえして水の上を走りまわる小さな童子の影だけが、そこにはまるで映らない。この童子には影がないのである。

この童子が「朱橘」の分身なのだが、影のある鳥との対比のせいだろうか? 童子のこの世のものではない感が強く感じられる箇所である。

後半「朱橘」がなぜ分身の術を取得したのか…という箇所は、東氏の註によれば二十世紀イタリアの作家パピーニの短篇小説「泉水のなかの二つの顔」を本歌取りしてなったものだそう。

かつて朱橘がよく覗き込んだ井戸には、影だけが残されたまま、朱橘は帰国する。五年後朱橘が国から井戸に戻ると、影は再会を喜ぶ。最初は懐かしく思った朱橘も、五年前の自分が鼻につきだし、ついには井戸に突き落とし殺してしまう。

わたしがいまも心楽しく生きているのは、このようにしてわたし自身の古い過去と絶縁したためにほかならぬ。

後半になって、仙人の物語から現代にも通じる心の葛藤へと鮮やかに転じているのにまず驚いた。ところどころにあらわれる仙人らしい惚けたユーモアにあふれた口調も心に残る作品。

2018.11.10読了



只野真葛「影の病」

影の病なるものが、昔から日本にあるとは…。最後のこの作品が、シンプルなせいか、東氏の訳のせいか、一番こわく感じた。

2018.11.10読了

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