2019.05 隙間読書 三島由紀夫「鴉」

昭和22年8月「光耀」発表、三島22歳のときの作品。

主人公の知り合いが幽霊となってでてくる作品である。冒頭から鴉が部屋に入り込み、主人公の目には何度も弔いの花である菊が目に入り、不思議な寂しい路地に入り込み、寒さを感じ……と、いかにも幽霊が出てくるにふさわしい雰囲気をあちらこちらに漂わせていながら、不思議と「鴉」は怖くない。むしろ爽快な作品である。

そこは倉庫通りといはれている寂しい街路だつた。しかし気がついてみると行手にも後にも人一人通つてゐない。一体まあどうしたことだ。若い衆は不思議な気がした。(三島由紀夫「鴉」より)

幽霊がでてきても、なぜか「鴉」には爽快で、お茶目なところが感じられる。その爽快感が心地よく、怖いばかりが怪談ではないのかも……と思った。これは三島の死に対する感覚のせいでもあるのだろうか? 三島は「死」を暗いものとして捉えず、出発点として捉えていたのではないだろうか? 死の世界から来る幽霊は恐るべき存在ではなく、極楽浄土の世界を伝えてくれる麗しい存在なのは?。

幽霊に出会い、言葉をかわして、旅にでないかと誘われた主人公の胸には、このような思いが行き来する。

彼は歩きつつ非常な速さでさまざまのことを空想した。船・出帆。どんなにそれはよいだらう。美しい雲が影を落としてゐる真青な海を毎日舟がすべるやうに走つてゆく。ときどき飛魚が甲板にとびこんで来てお客も船員も一緒になつてそれをつかまえる。夕べはスコールが、さはやかに波の面を打つておしよせる。そのあとから環(たまき)のやうな七色の虹があらはれる。椰子の茂る南の島々。名前も知らない賑やかな港々。さういふ港ではまだ俺の知らないどんな素晴らしい娯(たの)しみがあることだらう。海の雲はますます花やかに色をかへて、印度の壮麗な御殿のやうにみえるだらう。あの印度では、空はここよりももつと青く、空の青さに顔が染まらぬやうにと女たちは紗の布を顔にかけて外出(そとで)をするといふなあ。そんな国へと上陸する者はどんなに幸福だらう。(三島由紀夫「鴉」より)

幽霊であることを悟った主人公は、それでものんびりと「鴉は人を化かすものだらうか。」と考え、最後にこう呟く。

「あの鴉め。明日もやつてくるといいなあ。今日怒らして了つたから、明日から来ないんぢゃないだらうか。あいつが来なかつたら…… あいつが来なかつたら…… 俺は明日からどうして暮らせばいいんだ。」 (三島由紀夫「鴉」より)

死者との関連を思わせる鴉は、主人公にとってこれほどまでに大切な存在なのである。この呟きは一見滑稽なようにも思えるが、幽霊というものが私たちの心にいかに大切な存在かを示してくれているのでは? その大切さが伝わってきたら、たとえ怖さはなくても怪談なのでは? 三島由紀夫の怪談をもっと読みたいと思いつつ頁をとじる。2019.05.21読了

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