アダム・スミス 道徳感情論の部屋

Smith: The Theory of Moral Sentiments | Library of Economics and Liberty.
 
パート1    品性ある行動について
 
セクション1  品性という感覚
 
一章 共感するとは
 
1.1.1
 
 かなり自己中心的だと思われているひとでも、心にはなんらかの道徳規準が確かに存在している。その道徳規準があるために、ほかの人の運命の浮き沈みについて考えようとし、さらには周囲に幸せになってもらうことが必要なのである。ただし、その幸せを見ても喜びがあるのみ、幸せからひきだせるものは何もない。ひとの不幸をみたり、心に思いうかべたりするとき、窮状を気遣うこの感情は同情でもあり、哀れみでもある。ひとさまの悲しみが自分の悲しみの原因となることは明らかであり、例をあげて証明するまでもない。同情や哀れみのような感情は、人間の心にもともとある他の感情と同じであり、けっして徳の高いひとや思いやりのあるひとに限定されたものではない。たしかにそうしたひとたちであれば、悲しみをきわめて鋭敏な感覚で感じとるのかもしれない。だが社会の法を無情にも踏み破る極悪非道の悪党ですら、悲しみを感じないことはないのだ。
 
 
 
1.1.2
 
 他人の感情をそのまま追体験できないから、どんなふうに感じているのか思い描くことはできない。でも、同じような状況におかれたらと考えてみればいい。兄弟が拷問にかけられているときでも、安楽に過ごしていれば、その苦しみを感じとることはないだろう。自分が感じる以上に強く苦しみを感じることは、今も、昔も不可能なことである。ほかのひとの感受性を理解するのは、ただ想像力あるのみである。苦しみを感じるように手助けしてくれる能力は想像より他にない。すなわち自分が苦しい立場におかれた場合には、どう感じるのか想像すればいい。想像力で模倣するときには自分の感覚を使うのであり、ほかのひとの感覚ではない。想像力の力によって相手の境遇に自分をおき、同じ苦痛に耐えている自分を思い描く。いわば相手の体に入り込んで、ある程度同じ人物となり、その感覚を思い描き、なにか感じとることである。いくぶん程度は弱まるが、相手の苦痛からまったくかけ離れているわけではない。ひとの苦しみを切に感じて受け入れ、自分自身のものとするとき、その苦しみは私たちの心をついに動かす。さらに相手の感じていることを考え、震えおののくようになる。あらゆる種類の痛みや苦悩のせいで過度の悲嘆にくれてしまうように、悲しみの中にいる自分を思い描いたり想像したりすることで同じ感情にかられてくる。悲しみの程度はいきいきと心に思い描くのか、それともぼんやりと描くかによる。
 
 
 
1.1.3
 
想像力こそが、ほかのひとの窮状を憂える感情の源である。苦しんでいる人と想像のなかで立場をを交換することで、その痛みを感じるようになる。ほかのひとが感じていることを思い描いたり、心が動かされたりもする。悲しみそのものについて子細に考えるべきではないにしても、簡単な観察をたくさん繰り返していけば、明らかになることかもしれない。脚や腕をめがけ一撃がおろされようとしている場面を目撃すると、しぜんに身をちぢめ、手足を引っこめてしまう。その一撃がくだされたとき、かなりその衝撃を感じとり、受難者と共になって傷つけられたように感じる。綱渡りのロープのうえの踊り子を凝視するとき、観客はしぜんに身をよじって苦しみ、自分の体でバランスをとろうとする。そのようにして綱渡りの芸人が綱をわたるのを見ながら、もし同じ状況におかれたら感じるだろうことを思う。繊細な性格のひとや体が弱いひとがこぼす不平に、道ばたの物乞いがさらけだしている腫れ物や潰瘍を見つめていると、自分の体の同じ箇所がむずがゆくなったり、そわそわしてくるというものがある。悲惨な境遇にあるひとの惨めさをみて感じる恐怖は、他の部位よりも特定の部位に影響する。なぜなら、見つめている相手が悲惨であるとしよう。そして自分の特定の部位が同じように惨めな影響をうけるとしよう。すると自分たちが苦しむだろうものを思い描くことで、こうした恐怖が生じるからだ。こうして理解するだけで十分である。体の脆弱な部位に、むずむずとした不安な感覚を生じ、愚痴をこぼすようになる。どんなに屈強な男でも、悲嘆にくれる眼を見ているうちに、自分の目に鋭敏な痛みをおぼえる。これは同じ理由である。つまり、屈強な男にしても目というこの部位は繊細なものであり、弱者の体の他のどんな部位よりも傷つきやすい。
 
 
 
1.1.4
 
 仲間意識をよびおこすのは、こんなふうに苦痛や悲しみを生じる状況のもとだけではない。あらゆることを契機にして、いろいろな感情がうまれるだろう。でも観察者に思いやりの心があれば、状況について考えるとき、仲間と同じような感情が胸に芽生える。悲劇や物語の主人公に私たちは憧れる。その主人公を救い出す喜びは私たちの心をひきつけ、その喜びも、また主人公が絶望するときに感じる悲しみも真実である。主人公の幸せにも、悲惨さにも、仲間として思うということも真実である。誠実なひとが困難な状況にある友を見捨てず、感謝される様子を思い描くことができる。裏切り者に傷つけられたり、見捨てられたり、騙されたりしたひとが憤る様にうなずく。心あるひとには感じることのできる感情である。その状況を自分のものとして思い浮かべることで、受難者の思いはこうだろうと思えてくる。
 
 
 
1.1.5
 
 哀れみと同情とは、悲しみにくれるひとへの連帯感をしめしてくれる言葉である。もともとは、共感も哀れみや同情と同じ意味だったのだろう。でも今では、共感は、正確に言えば、どんな感情をもつ相手であろうと仲間意識をしめすのに使われている。
 
 
 
1.1.6
 
 共感とは時折、他のひとの特定の感情から生じるように見えることがあるかもしれない。感情とは時折、ひとからひとへすぐに広まるように見え、たとえ関係者をわくわくさせる知識があるとしても、その知識よりも優先されて広まるように見えるかもしれない。表情や身振りに強くでる悲しみや喜びは、観ている者にも同じような苦痛や心地よさを、いくぶんひきこすものである。ほほえみをうかべている顔は、その笑顔を目にするすべてのひとにとって心地よい対象である。一方で、悲しみにみちた風貌は憂鬱にみちた対象となる。
 
 
 
1.1.7
 
 だが相手の喜びや悲しみをいつまでも感じるわけではないし、どの感情にもあてはまるわけではない。表情や身振りをしめしたところで、どんな類の共感をよぶことのない感情もある。共感をよばない原因を理解する前から、そうした感情に嫌悪をいだき腹をたてている。腹をたてたひとが激怒にかられた行動をとるのは、敵に苛立つといよりも、自分に苛立つからである。怒りの原因を知らなければ、そのひとの立場を自分のものとして考えることもできないし、そんなふうに思う心を想像できない。だが腹をたてている相手の状況を理解することはできるし、立腹した敵がふるいかねない暴力も理解することができる。恐怖や怒りにもすぐに共感できるし、怒っているようにみえる相手にあらがいたい気分にもなる。
 
 
 
1.1.8
 
 悲しみや喜びを目にすると、いくぶん似たような気持ちになることがある。それは観察している相手にふりかかる運、不運について知るからである。こうした悲しみや喜びの情熱を感じながら、相手の運、不運を目にすることで、私たちは少なからず影響をうける。悲しみや喜びはこうした感情を感じているひとだけにしかわからない。また怒りとは異なって、相手の考えを教えてくれない。さらに相手の関心が自分とは逆だということも教えてくれない。運、不運について考えることは、そうした出来事に遭遇したひとに関心をもつことになる。だが怒りの原因について考えてみたところで、怒りをむけられているひとが腹をたてる気持ちに共感しない。自然は私たちが怒りにかられることを毛嫌いするようにしむけ、怒りの原因がわかるまでは怒りを鎮めようとするものである。
 
 
 
1.1.9
 
 ほかのひとの悲しみや喜びに共感することがあるかもしれない。でも、そうした感情をひきおこしている原因がわからなければ、その共感はまだ不完全なものである。ふつう悲しみがしめしているものは、受難者の苦痛だけである。だが、そのひとの境遇を知りたいという関心を抱かせる。また受難者に共感する傾向があるが、ほんものの共感のように鋭敏に感じとるものではない。私たちが最初に問いかけることは、「あなたの身になにがおきたのですか」だ。この問いに答えてもらうまでは不安である。それは相手の不運が漠然としているからである。あるいは相手の不運がどんなものだろうかと推察することで、自分自身を拷問にかけることになるからである。けれど悲しみや喜びの原因がわからなければ、私たちの仲間としての意識はさほどのものではない。
 
 
 
1.1.10
 
 だから共感する気持ちは、悲しんだり喜んだりという感情からは生まれない。むしろ、そうした感情をいだかせる状況から、共感は生まれてくるものである。時折ほかのひとのために怒りや悲しみを感じても、当の相手が、そうした感情を少しもいだいていないように思えることがある。それは相手の境遇に自分をおくとき、想像力のおかげで喜びや悲しみが私たちの胸にはやどる。だが現実から、相手の胸にやどる感情ではないせいである。他のひとが失礼なことをしたり不作法だったりすると、恥ずかしさで顔が赤くなることがある。だが肝心の相手には、その行動がよろしくないということがわかっていないように思えることがある。もし自分がそんな馬鹿げた行動をとれば、どんな混乱におちいるだろうかと、私たちは思わないではいられないからである。
 
 
 
1.1.11
 
 死の危険にさらされるような災難のなかでも、理性がなくなるという災難は、感情の火花が飛び散らない凡人にすれば恐ろしいものである。それでも不幸が最後にどうなるのかを見つめ、他のひとよりも深い哀れみの言葉をかけたりする。だが不幸のどん底にいる筈の哀れなひとは、笑うこともあれば、おそらく歌うことだってあるだろう。きっと自身の悲惨さをまったく感じていないのだ。だから相手の様子をみて感じる苦痛とは、その不幸をうけている相手の感情を反映したものでない。不幸を目にして感じる同情とは、そうした不幸な状況に自分が落ちぶれたら、何を感じるのだろうかという思いから生じるものである。だがそれと同時に、理性と判断力を働かせ、相手の不幸を見つめるということは、おそらく不可能である。
 
 
 
1.1.12
 
 母の心はどれほど痛むことだろう。病床にある我が子は苦しんでいるのに、その痛みを訴える言葉も知らない。ただ苦悶の声を洩らしているだけだとしたら。我が子が苦しんでいるという思いにかられた母は、なすすべのない子どもの現実に己の無力感をからませ、我が子の病の先がわからないという恐怖をかさねていく。苦悶、無力感…これらすべてのことが母の悲しみのもととなり、悲惨さや絶望を完璧なまでに描いてみせる。だが子どもは、今この瞬間だけが、不安なのである。子どもの不安はたいしたものではない。未来を考えたとき、子どもとは揺るぎない存在である。子どもが軽率なのも、慎重さにかけるのも、私たちの胸に拷問のようにやどる恐怖や不安を解毒するためなのである。やがて子どもが成長して大人になったとき、理性や哲学の力で自らの子どもを守ろうとしては、むなしく終わるのだ。
 
 
 
1.1.13.1
 
 私たちは死者にさえ共感をいだく。だが死者にとってほんとうに重要なこととには、目をつぶっている。それは、死者には悲惨な未来が待ち受けているということである。死者のありように心を滅入らせるが、幸せにすることはできない。悲惨だ、と私たちは思う。太陽の光を奪われ、会話をかわす生活から閉め出されるなんて。さらには冷たい墓のなかに横たえられ、腐敗して地中の虫の犠牲となることも。ついにこの世で考えてもらうこともなくなり、親しくしていた友人や身内の愛情や記憶から、みるみる消し去られていくことを悲惨だと思う。たしかにそうだ。死という凄惨な不幸にのたうちまわる者の気持ちになることは、とうていできやしない。だからかつての仲間が忘れさられる危機に瀕したり、むなしい名誉をたたえて弔意をのべたりするときに、仲間によせる気持ちがずるいものに見えてくる。これが自分の貧苦につながるなら、悲運におかれた死者の憂鬱な思い出を鮮明に残そうとして努力する。共感するといっても、死の不幸にあるひとを慰めるほどの余裕はない。せいぜい死の不幸におまけを添えるくらいのことしか出来ないだろう。死の不幸にたいして出来ることすべてを考えてみたところでむなしい。人々の絶望や後悔、恋慕の情、そのまた友達の悲嘆を癒してくれるすべてのものですら、死の不幸にある者を慰めることはない。死の不幸にある者の悲惨さについて思う私たちの気持ちがいっそう強くなるだけである。その一方で、死者の幸せとは言うまでもなく、こうした状況から一切影響をうけない。またこうした状況について考えてみても、休息についている死者の、ふかい安らぎを妨げることはできない。だが、死とは悲しみにみちた、果てのない憂鬱だと考えるひともいる。夢想家は、憂鬱の原因を死者の特質のせいにする。死を憂鬱なものだとする考えが生じるのは、死者に起きた変化に自分を結びつけ、私たちが死者の変化を意識するからであり、死者の状況に身をかさねるからである。もしこのように語ることが許されるなら、私たちの存在を、すなわち生き生きとした魂を、死者の生命のない体に感じ、こういうことになれば自分がどう感じるのだろうと思うからである。想像力がかきたてるこの幻影のせいで、体が腐り朽ちていくさまを予見することが私たちにとってつらいものとなる。また死んだら痛みはない筈なのに、こうした状況を考えると、生きているときから惨めな気持ちになる。死の恐怖がもとになり、人間の本質のなかでももっとも重要なものである道徳規準が生じる。道徳規準とはすなわち死の恐怖であり、幸せへの弊害となるものである。だが人間の不正をしようとする心をおさえるものである。道徳規準はひとりひとりを打ち負かして屈辱をあたえるが、一方で社会を守り保護してくれるものである。
 
2章 たがいに共感するよろこび
 
1.1.14
さて共感についてだが、共感する理由が何であってもいい。わくわくしてもかまわない。何よりも嬉しいのは、ほかのひとが共感している姿をみることであり、その共感に私たちの胸中にある感情すべてをみいだすことである。だが共感をいだかれるのとは逆の状況になると、動揺してしまう。自分を愛するあまり、感情の原因をつきつめるのが好きなひとがいる。そうした感情を分析するひとは道徳規準にしたがって、喜びや苦痛を説明し、そうすることに途方にくれたりはしない。また、こう言う。人間は自分の弱さに気がついているし、他人からの助けが必要だと知っているのだと。悩みを受け入れてもらったことに気がつくと、いつでもうれしくなるものである。他人からの助けが保証されるからである。一方で反対の状況をみるとん嘆き悲しむ。抵抗されるだろうことが保証されるからである。しかし喜びも、苦しみも共に、いつもただちに感じられるものであり、つまらないことをきっかけに感じられる。だが、利己的な思考からは喜びも、悲しみもあきらかに生じない。友だちを楽しませようとした後で見渡してみても、自分以外には誰も冗談に笑っていない。そんなときに屈辱を感じる。反対に仲間が陽気になってくれると嬉しくなり、こうした感情の一致をほめたたえる。
 
1.1.15
陽気な心が仲間の共感をうんで、さらに陽気にもりあがることがあるかもしれないが、よろこびを生じているようには見えない。だが、よろこびがないからといって、絶望から苦痛を生じるように見えるわけではない。陽気さも、絶望もともに、あきらかに幾分よろこびを生じたり、苦痛を生じたりはする。なにかの本でも、詩でも、同じものをしょっちゅう繰り返し読んでいると、もうその本を読んでも自分では楽しみが見つけられなくなる。でも友人に読んであげるときには、よろこびを感じることができる。友人にすれば目新しいことなのである。その本は当然ながら友人をわくわくさせることになり、私たちも驚いたり、賞賛したりしている友人に共感してしまう。だが、その本は私たちをもうわくわくさせることができない。私たちがみているような角度ではなく、友だちがみているような角度から、すべての考えを光にあてて見てみる。私たちは共感を楽しむが、その共感は私たちを元気づけてくれる楽しみをともなうものである。反対に相手が楽しんでいないようだと苛々して、本を読んであげることを楽しめなくなるだろう。同じような事例がもう一つある。友だちが陽気だと、私たちもあきらかに陽気に活気づく。だが沈黙していると、たしかに私たちは絶望してしまう。だが、友だちが陽気にしていると喜びをひきだす原因にもなるかもしれないし、友だちが沈黙していると苦痛を感じの原因になるかもしれない。だが、どちらかが唯一の原因だということはない。このように自分の感情が他のひとと一致していることは喜びの原因にも思われるが、一致していないときは苦痛を引き起こす。喜びも、苦痛もこれだけでは説明がつかないものである。私の喜びに対して友だちがいだく共感は、喜びを生き生きと表現することで楽しみになるかもしれない。だが私の悲しみに対していだく共感は、何ももたらしはしない。ただ悲しみをきわだたせるだけである。それでも共感は喜びを生き生きとしたものにして、悲しみを癒してくれる。他のひとの喜びの原因をしめすことで、共感は喜びを生き生きとしたものにする。また共感は、好ましいと同時に感じることができる感覚を心にしみこませることで、悲しみを癒してくれるのである。
 
1.1.16
 したがって私達が友だちとやりとりをしたいのは、好ましいと思う感情より、嫌だと思う感情のほうである。でも嫌だと思う感情をともなう共感よりも、好ましいと思う感情をともなう共感から得る満足のほうが大きいのである。そして共感がないとショックを受けるのである。

1.1.17

不運にみまわれた人々が、悲しみの原因について語り合うことのできる相手をみつけたら、どんなに楽になることだろう。相手の共感のおかげで、絶望は軽くなるようにみえる。悲しみを分かち合おうと不作法に言われるわけではない。相手は同じ類の悲しみを感じているだけでなく、悲しみを自分自身へひきよせたかのようであり、その思いのおかげで悲しみが軽くなるような気がする。しかし不運について語ることで、自分の悲しみを再び話すことになる。記憶のなかで、苦痛をもたらした状況について思い出をよびおこしていく。そのため以前よりも涙にかられ、悲しみという弱さに身をゆだねがちになる。しかし、これはまた喜びでもあり、あきらかに安堵できるものでもある。なぜなら相手の共感は、悲しみの苦さを補ってあまりうるものだからである。この共感をひきだそうとして、不運な人たちは悲しみを生き生きと蘇らせる。反対に不運な人たちを無情に侮辱しても、かえってその災難が大したことでないように見えてくる。仲間が喜んでいても何とも思わない様子は、思いやりに欠けている。しかし苦労話を聞いているときに真面目な顔をしないのは、人間性を欠いていることいちじるしい

1.1.18 友を許せるとき、許せないとき

 愛とは心地よいものであるが、怒りは不快な感情である。だから怒りの矛先をむけつつも、友達が自分との友情を選ぶと、私たちは大変心配になる。また自分がうけてもいい筈の好意なのに、友達が何とも思わないこともある。それでも友達のことを許せる。だが自分が侮辱されたときに友達が無関心であれば、我慢できなくなってしまう。友達が自分の怒りに共感しないときに、かえって感謝をすることがある。その感謝をうけとめてもらえなくても、私たちはさほど怒りはしない。友達になることを避けてとおることはたやすい。でも自分と一致しない人を敵だと思わないことは難しい。私たちはたまに、友達に憎しみをいだく相手に怒って、そうした人と危険な論争を好んでする傾向がある。だが相手が友達と親しくなれば、口論は真剣なものとなる。愛や喜びという心地よい感情は、付加的な喜びを生じなくても、心を充たし支えるものである。悲しみや怒りのような感情が苦々しく、苦痛にみちたものになるほど、共感してもらい、癒されるという慰めを強く求める。

1.1.19 不幸なひとが幸せでも、冗談が予想よりうけても私たちは不機嫌になる

どんな事態であれ、影響をまともにうける人にすれば、共感はありがたいものである。いっぽうで、共感してもらえないときには傷ついてしまう。だから私たちも相手に共感できると嬉しく、共感できないときには心が傷ついてしまう。私たちは成功を祝うためにも駆けつける。そして苦しむ人を慰めるためにも駆けつける。心のなかにある情熱をすべて分かちあえる相手と会話をしていくときに喜びを見いだす。だが相手の状況によっては、その悲しみの痛々しさに影響をうけることもある。でも喜びのほうが大きく、悲しみを補ってあまりうるものである。それとは反対に相手に共感できないという思いには、いつも不快になる。共感のせいで感じる苦痛がなくなっても嬉しいことではない。相手の不安を分かちあえないことに気がついて傷ついてしまう。もし不運を嘆き悲しむ人がいて、その境遇を自分のこととして考えてみても、強烈な何かが私たちにおきるわけではない。ただ相手の悲しみに衝撃をうけるのである。悲しんでいるひとに小心者だとか弱いとか言うのは、悲しみを分かち合うことができないせいなのである。それとは逆の場合もある。幸運には恵まれていない筈のひとが、とても幸せそうにしていたり、元気そうにしているのを見ても、私たちは不機嫌になる。相手が喜ぶ様子に傷ついたりもする。その様子をみて軽薄とか愚かとか言うのは、相手の喜びについていけないからである。親友の笑いが本来より大きくて、いつまでも続いたり、実際に自分が笑える以上に笑われると、私たちはユーモアの心を失ってしまう。

1.1.20 相手の感情と重なるときはいいけれど、重ならないときもある

 ある状況で中心となって行動している人の感情と、その行動に共感しながら観察している人の感情が完全に一致することがある。その場合、行動する人の感情と観察する人の感情が正しく、適切に、ふさわしい形で、その場の状況にむけられているようにきっと思えるはずである。反対にそうした状況を間近に感じているのに、自分の感情が相手と一致しないこともある。その場合、そうした感情を生じている原因が間違っていて、不適切で、ふさわしくないもののように思えるはずである。ほかの人がいだいた感情をもっともだと認めることは、相手にすっかり共感しているということでもある。私の怪我に憤る人が、同じくらいに自分の怪我に憤る私の様子をみても、怒って当然だと思うことだろう。私の悲しみに共感する人は、悲しむのももっともだと認めるしかないだろう。同じ詩をいいと思い、同じ絵をいいと思い、私と同じようにいいと感じる人なら、憧れる私の思いを認めてくれることだろう。同じ冗談に笑い、私と一緒に笑う人なら、私の笑いが妥当でないと拒むわけにはいかないだろう。反対に、それぞれの場面で、同じ思いを感じなかったり、私の思いと釣り合いがとれないような感情しか抱いていなければ、思いが一致しないという理由で私の感情を非難しないではいられない。もし私が悪意にみちるあまり、友の憤りとの釣り合いをこえるとしよう。もし私の悲しみが過ぎるあまり、優しい同情も寄り添えないとすれば。もし私の憧れる気持ちが高すぎるあまり、あるいは低すぎるあまり、相手の気持ちと釣り合いがとれないとしたら。もし相手が微笑んでいるだけなのに、私が大声で笑い転げたとしたら。あるいは逆に相手が大声で笑い転げているのに、私が微笑んでいるだけだとしたら。いずれにせよ状況を考え、自分がどう状況から影響されているのか観察してみるとすぐに、相手と私の感情には多少の不釣り合いがあるので、賛成してくれない相手を背負い込むことになる。すべての場合において、相手の感情が私の感情を判断する基準であり手段なのである。

1.1.21 相手の意見を認める、認めないってことは、相手が自分に賛成かどうかってこと

 他の人の意見に同意するということは、相手の意見が正しいと認めることである。そして他の人の意見が正しいと認めることは、相手の意見に同意するということである。もし、あなた方を納得させる議論が同じように私を納得させるのなら、あなた方がよせる信頼をきっと認めるだろう。もし納得できなければ、きっとあなた方の信頼を認めることはないだろう。片方がかけた状態では、信頼している自分も、納得している自分も、おそらく思い描くことはできない。だから他の人の意見を認めるという行為も、認めないという行為も、相手が自分の意見に賛成なのか、それとも不賛成なのかということを観察するだけのことなのだ。そして他の人の考えや感情に賛成なのか、不賛成なのかということについても、同じなのである。

1.1.22 笑わないときもあるけど、ほんとうは笑うべきだって理解している

 でも中には、共感しているわけでもない。感情が一致しているわけでもない。それなのに相手が正しいと思える場合も、たしかにある。そういう時、相手を賞賛する気持ちと、こうした一致を認める気持ちはちがうもようにみえるかもしれない。しかし少し注意をむけてみれば、共感していないようにみえても、感情が一致していないよいうにみえても、相手を正しいと思う気持ちには、やはり共感や感情の一致が根底にあることを確信することだろう。くだらない本性から生じる事柄を、一例にあげてみよう。なぜなら、そうした事柄は制度が正しくないからといって、堕落してしまうようなものではないからである。冗談を言われてそのとおりだと思うことも、しょっちゅうかもしれない。仲間の笑いが正しいものだと思い、状況にあっていると思うことも、よくあるのかもしれない。でも、自分では笑わない。おそらくユーモアの墓場にいるのかもしれないし、あるいは注意がほかの対象にむかっているのかもしれない。しかし経験から、どんな種類の冗談に笑うことができるのか、ほとんどの状況において学んでいる。そこで、これは笑っていい冗談だなと判断するわけである。だから仲間の笑いが正しいものだと考え、その状況では笑うのが自然でふさわしいと感じる。そのときの気分では笑う気にならなくても、ほとんどの場合、心から一緒に笑うべきだと理解しているからである。

1.1.23 

 他の感情すべてにも、同じようなことがよくおきる。見知らぬ人が深い苦悶の表情をうかべて通り過ぎたあとすぐに、父親の死の知らせを受け取ったばかりなのだと教えられたとする。この場合、父親を亡くした男の悲しみを認めないわけにはいかない。しかし人間らしい心が不足しているわけではないのに、激しい悲しみを分かち合うこともないし、相手の話をきいて問題の第一楽章を心にいだくことが、ほとんどできないのである。男にしても、その父親にしても私たちからすれば、まったく面識がなく、私たちは二人とは関係のないことに身を捧げて生きているのである。だから自分とは異なる境遇におかれた男があじわう絶望を、時間をかけて想像して思い描いたりしない。しかし経験から、こうした不運は悲しみをある程度かきたてるものだと知っている。男の境遇をよく考え、あらゆる角度から思い描くことで、きっと男に心から共感するだろう。相手の悲しみを認める土台となるものは、こうした条件つきながら共感しているという意識である。だが、こうした場合でも実際には、共感しているわけではない。まず経験があって、それからその経験に対応する感情がある。このことから、よく知られているルールがひきだされ、感情への認識をあらためていく。すなわち他の多くの事例のように、私たちが今感じている感情が、適切なものではないということである。

1.1.24 モラルも徳も心にある

 モラルにしても、感情にしても心にあるもので、そこから何らかの動きが生じる。徳にしても、悪徳にしても結局のところ、すべて心にもとづいている。モラルと感情は異なる二つの面であり、また異なる二つの語りであると考えられる。まず一つは、そうした感情を呼び起こす理由、あるいは動機に関連している。そして次に関連しているのは、かかげられた目的であり、心が生み出そうとしている効果についてである

1.1.24 モラルも感情も面の裏表

 モラルにしても、感情にしても心にあるもので、そこから何らかの動きが生じる。徳にしても、悪徳にしても結局のところ、すべて心にもとづいたものである。モラルと感情は面の裏表であり、また語り方をかえた同じ話なのである。そうした感情を呼び起こす理由や動機に関連したものでもあり、あるいはかかげた目的に関連していたり、心が生み出そうとしている効果について関連したものである。

1.1.25 心にすべて共存している

 感情が生まれる原因や対象がふさわしいものであっても、ふさわしくないものであってもいい。釣り合いがとれていても、不釣り合いでもいい。感情の結果として起こす行動が適切なものでも、不適切なものでも、礼儀正しいものでも、乱暴なものでも、共存していくものである。

1.1.27 そうした感情になる理由が大切

 哲学者たちは近年、感情の傾向について主に考えるようになり、そうした感情がおきる原因と自分たちとの関係に注意をはらわなくなってきている。しかしながら日常生活で、ほかの人のふるまいについて判断したり、そうした行動にむかわせる感情について判断したりするときは、感情の原因やその関わりについて、いつも考えている。激しく愛したり、悲しんだり、怒っているひとを咎め立てるとき、そうした感情が生じる破壊的な効果を考えるだけではない。そうした感情から、ほとんど見つけられない理由について考えるのだ。なにかを気にいるということで生じる利点は、さほど大きくない。不運もさほどひどいものではない。相手からの挑発もなみはずれたものではない。そうすうれば激しい感情を認めることもできるだろう。あらゆる点において感情と理由のつりあいがとれていたならば、私たちは身をゆだね、いわば激しい感情を認めただろう。

1.1.28 ポイントは自分の感情とぴったり一致するかってこと。

 どんな感情にしても、その理由が適切なのか不適切なのかについて、このように判断することもある。そのときに、自分と一致する感情ではなくて、他に判断のもととなる法令や教会の法令を使いなさい、ということはまず不可能である。もし、切実にその感情を感じて、そうした状況がひきおこす感情が自分たちの感情とぴったり合致するなら、きっと対象にぴったり合った、ふさわしい感情だと認めるだろう。もし合致しないときには、エスカレートした不適切なものだとして、そうした感情をぜったい認めないものだ。

1.1.29 すべての基準は自分にある

 ある人の能力はすべて、他の人の同じような能力を判断する物差しになる。私たちは自分の視野から相手の視野を判断し、自分の耳から相手の耳を、自分の理由から相手の理由を、自分の怒りで相手の怒りを、自分の愛で相手の愛を判断する。そうしたことがらについて判断する術は他にはないし、見つけることもできない。

4章 引き続き同じテーマについて

1.1.30 感情が関係ないときもあれば関係あるときもある

 ほかのひとの感情が適切なものか、不適切なものか判断する基準は、自分の感情と一致するか、それとも不一致なのかということにあり、二つの異なる状況にもとづくものかもしれない。まず一番目にあげられる状況としては、私たち自自身も、感情について判断しようとしている相手も、感情の原因とは、特別な関係がいっさいないと考えられる場合である。そして二番目にあげられる状況としては、感情が私たちの誰かにに影響していると考えられる場合である。

1.1.31 同じ視点から共感はうまれない

 対象が私たちとは特に関係がなく、また感情について判断する相手とも特に関係がないのなら、相手の感情が私たちの感情とすっかり一致した場合はいつでも、趣味の高尚さも、すぐれた判断力も、相手に理由があるのだと考えるものである。美しい平原も、偉大な山も、装飾をほどこされた建物も、絵画の表現も、会話の構成も、関わりのない人の行いも、異なる数量の配分も、そして宇宙のすばらしい機械が神聖な車輪とバネをうごかして感情を生じながら絶え間なく示す様々な外見も、知識と判断力からなる全般にかかわるものであり、私たちと私たちの仲間のどちらにも、個人的な関係はない。私たちがともに同じ視点からながめると、共感する機会をのがし、共感がうまれるような状況を想像する機会をのがし、つまり感じたり感動しいたりという心のハーモーニーをうむ機会をのがしてしまう。それにもかかわらず、異なるかたちで影響をうけるなら、異なるレベルで意識が生じることになり、生活の行動パターンが異なっていても、複雑な対象のある部分には心地よく身をゆだねることができる。あるいは、心に本来ある鋭敏さから、異なる意識が生じ、その心から感情が語られもする。

1.1.33 役に立つから判断やセンスを受け入れるわけではない

 こうした特質の有益さについては、最初に私たちに推薦するものとして考えられているのかもしれない。たしかに疑いようもないことだが、有益さについて考えてみるということは関心をむけてみることであり、新たな価値を特質に生じるものである。けれど本来は、他のひとの判断を受け入れるのは、有益さからではない。正しくて、間違いがないからであり、真実と現実に一致するからなのである。そしてこうした特質が有益さにあると考えるのも、自分と一致しているからなのである。美的センスについても同じであある。もともと認められていたセンスは、有益だからではない。対象にふさわしい繊細さと正確さが、センスにはあるからである。こうしたすべての特質に有益さをもとめる考えは、明らかにあとになって思いついたものであり、私たちの賞賛をもとめて推薦しているわけではない。

1.1.34 互いに耐えられなくなるとき

これらの対象は、なんらかの形で影響をあたえ、感情を判断する相手も影響をうける。こうした調和と一致をたもつことは更に難しいことであり、同時に更にもっと重要なことでもある。私の友人は、もちろん、私にふりかかった不運を見つめることもしなければ、私にあたえられる侮辱を見ることもないわけだから、私と同じ視点にたって不運や侮辱を見るわけではない。不運や侮辱は、私たちに密接に影響をおよぼすものである。だが同じ視点から不運や侮辱をみないまま、絵を描き、詩を書き、哲学のシステムを構築するので、異なる形で影響をうけやすい。だが感情が一致していないのが容易にみてとれるのは、取るに足らないことがらである。そして私に影響を及ぼすこともなければ、私の友達にも影響をおよぼさないようなことである。さらに私にふりかかる不幸や侮辱のほうに興味を感じるだろう。こうした絵や詩、あるいは私が感嘆している哲学のシステムまで軽蔑したところで、この文がもととなって口論になる危険はない。意見が逆だとしても、私たちの感情はまだ同じだからである。しかし影響をとりわけうけるような対象の場合、まったく異なってくる。思索に関する判断も、センスに関する感情も、私とは異なる。だが自分とは反対の判断も、感情も、易々とみわたすことができる。何らかの感情がかきたてられるなら、会話に楽しみを見いだしたり、こうした事柄に楽しみを見いだしているのかもしれない。しかし遭遇した不運について仲間を思いやる気持ちがなければ、心みだしている悲しみと釣り合う感情がなければ、私の怒りと釣り合うような感情がなければ、そのときは、もはやこうした事柄について打ち解けて話すことはない。そして互いに耐え難くなってくる。私があなたの友人を支えることはできないし、あなたが私の友人を支えることもできない。あなたは私の暴力や激情に困惑し、私はあなたの冷淡な無感覚と感情の欠落に怒る。

1.1.35 見ている者と演じる者

見ている人と主として演じている人のあいだで、感情がどこか一致する場合がある。そうした場合、見ている人がまず心がけなければいけないことは、できるだけ演じている人の状況に自分をおくことである。また受難者にふりかかるだろう苦しい環境を、すべて切実に感じとることである。仲間の状況をすべて受け入れ、仲間がかかえる出来事は些細なことでも、受け入れなくてはいけない。できるだけ完璧になるように試み、共感を見いだせるような状況へと、想像の力をつかって変えていかなければならない。

 1.1.36 二つの立場
だが、こうしてみても、観察者の感情が受難者の感じている暴力にまでおよばないことも多いだろう。人間とは、生まれつき同情的ではある。でも、ほかの人の身になにかがふりかかるとき、その出来事に主としてかかわる当事者の心を自然にうごかしていく情熱と同じものを、心にいだくことは決してない。立場を想像して交換してみることで、共感がうまれる状況に身をおいてみても、それは一時的なものにすぎない。観察者におしつけられるのは、自分は安全なところにいるという考えであり、実は自分は受難者ではないという考えである。似たような感情をいだくことはできなる。でも、暴力に対処している受難者と、同程度の感情をいだくことはできなくなる。そのことに気がついた当事者は、さらに完璧な共感をつよく望んでくる。そうした安心感にあこがれはしても、観察者の感情と一致しなければ、安心感をあたえることはできない。乱暴な感情だろうと、不快な感情だろうと、あらゆる感情の面で、観察者が相手の心にあわせて心の拍子をとると、唯一の慰めとなるものが組み立てられる。だが慰めを期待することができるのは、相手にあわせて情熱をダウンした場合だけだ。もしこんな表現が許されるなら言ってしまおう。まわりの感情とあわせたり、一致させたりすることで、もともとの鋭い響きは減り、つまらないものになる。観察者と当事者とでは、ある意味、常に感情が異なるものである。深い同情であっても、本来の悲しみと完璧に同じわけではない。立場を交換することで、心の奥にある意識から、共感的な感情が生じるのである。心の奥の意識は想像上のものであり、意識の度合いを弱めるだけでなく、意識の質に変化をもたらし、まったく異なるかたちに修正するものである。こうした二つの立場における感情は、あきらかに他方の感情と一致するものであり、社会が調和していくには十分なものかもしれない。程度はことなれ、この二つ立場の感情は重なるものであり、求められ必要とされることである。

1.1.37 観察者の目になれ、当事者の目になれ 
 こうした一致をうみだすために、自然の女神が観察者に教えることとは、主としてかかわる当事者がおかれた状況を確かめよ、ということである。同様に自然の女神が当事者に教えることは、観察者がおかれた状況をいくらかでも確かめよ、ということである。観察者は相手の状況に頻繁に自分をおくことで、似たような感情を心にいだく。当事者もまた自分を相手の状況におくことで、かなり冷静になって自分の未来を思いえがく。観察者がみるだろうから、当事者は自分の未来にはかなり敏感である。実際に受難者だとしたら感じるだろうことを、観察者は常に考える。それと同じように、自分が観察者なら思うように、当事者も想像するようになる。観察者も共感するせいで、当事者の目で状況を見るようになる。同じように当事者も共感するせいで、観察者の目で状況を見るようになる。とりわけ観察者の観察のもとで、その存在と行動をとおして状況をみるのである。このようにすると当事者がいだく感情とは、もともとの感情より弱く感じられるものである。暴力についても本来の暴力より弱いものにしてから、当事者は観察者となって、観察者が感じるように思い描き、遠慮のない公平な光にあてて見るようになる。

1.1.38 他人のほうが心静まるもの
 しかしながら一人の友でも,仲間は心に静けさと平穏をいくらかでも戻してくれるので、精神がここまで妨げられることは余りない。心中がいくぶん静まり、相手の立場に身をおく時がくる。状況をてらす明かりのなかで思いだすとき、私たちも同じ光のなかで自分の状況をみるようになる。共感の効果がただちにきいてくるためである。友の共感にくらべ、知り合いにはあまり期待しない。知り合いには、こうした状況を打ち明けることができないが、友人には打ち明けることができる。だからこそ知り合いの前では平静さをよそおい、相手が厭わないで考えてくれそうな一般的な状況にまで、自分の考えをあわせようとする。他人の集まりには、共感をもとめない。だから他人の前では、一段と静かになり、相手のレベルにまで情熱をダウンしようとする。そのなかに私たちがいる仲間は、こうしても異存がないように思われているのかもしれない。あるいは偽りの姿でしかないのかもしれない。もし私たちが自分自身の主であるなら、知り合いにすぎなくても、その存在は心を静めてくれるからだ。むしろ友達よりも心を静めてくれる。他人の集まりのほうが、知り合いの集まりよりも心を静めてくれるものになるだろう。

1.1.39  平静を取り戻すには人づき合いをして会話をすること

 だから心に平静さを取り戻すのに一番効き目のある治療とは、人とつきあったり、会話をしたりすることである。もし不幸にも心が平静さを失っているときは、いつでも効き目がある。最高の保存料のように、平静さを同じように、幸せな状態に保つ。仕事を退いて思索にふける人は、悲しみについて、あるいは怒りについて、家で熟慮しながら座っていることが多い。しかしながら往々にして慈悲にあふれ、器がおおきく、ユーモアを解する優れた心の持ち主である。だが、この世の人々と等しい性分は持ち合わせていない。 5章 好ましい長所やら尊敬すべき長所やら

1.1.40 長所がまた長所をうむ

 人とつきあったり話したりという二つの異なる試みにも、当事者の感情にはいりこもうとする観察者の試みにも見いだされるものがある。また傍観者にあわせて感情をダウンしようとする当事者の試みにも、見いだされるものがある。それは長所についての、二つの、異なる組み合わせである。優しくて、おだやかで、感じがいいという長所と、腰が自然とひくく、人間性が優しいという長所が、当事者の試みにも、観察者の試みにも見いだされる。偉大であり、威厳にみち、尊敬に値する長所とは、無私の心であり、自制する心であり、情熱を抑制しようとする心である。その長所が私たちの行動を気高く、名誉があって、礼儀正しいものにして、本質から生じる動きすべてに影響をあたえていく。こうした長所を生み出してくのは、他の長所なのである。

1.1.41 共感的心情の持ち主もいれば、自分のことだけしか考えない人もいる

どれほど好ましく思えることか。共感的心情の持ち主と、打ち解けて話している相手の感情が、すっかり響きあっているようにみえるときに。相手の災難を悲しみ、相手がうけた侮辱に憤り、そして相手の幸運を喜ぶときに、共感的心情の持ち主がどれほど好ましく思えることか。相手の状況を切実に感じては感謝され、どんな慰めであれ、優しい友達の、思いやりのある共感から生まれる慰めを感じる。だが、それとは反対の場合、どれほど不快に思えることか。とげとげしく冷淡な心で、自分のことだけを考えるときに。しかも、他人の幸せや不幸をまったく感じないときに。こうしたときにも、私たちは相手の痛みに分け入っていく。他人の不幸や痛みに無感覚な者の存在は、親しく話しをする限られた生の持ち主すべてに、苦痛をあたえるにちがいない。なかでも共感的心情をいだくことの多い不運なひとや、傷ついたひとには、とりわけ苦痛をあたえることだろう。

1.1.42 うっとうしい悲しみもあれば敬意をはらいたくなる悲しみもある
一方で、なんとも気高いまでの礼儀正しさと上品さを感じる行動がある。自身に関係したことであるにもかかわらず、行動に平静さと自制心を保っているおかげで、あらゆる情熱が威厳にみち、私たちがついていける程度にまで情熱をトーンダウンさせる人の行動である。でも、やかましいまでの悲しみにはうんざりだ。デリカシーというものに欠けているし、私たちに悲しむように迫ってきて、ため息やら涙やら、わずらわしい嘆きを要求してくる。畏敬の念をいだくのは、控えめで、静かで、威厳のある悲しみなのである。そうした悲しみを発見するのは、腫れぼったい目であったり、唇や頬のわななきであったり、冷ややかだけれど、冷静で、感動させる行動なのである。そうした悲しみは、私たちにも同じような悲しみを求めてくる。私たちは悲しみにうやうやしい注意をむけ、心配のあまり行動全般に関心をよせる。不適切な言動により静けさが妨げられないようにするが、その静けさとは労苦の賜でああり、多大な努力を要して支えるものなのである。

1.1. 43 怒りにもいろいろある
怒りが傲慢かつ残虐であり、抑制されることも、抑えられることもないまま、憤怒に身をゆだねるとき、その怒りは嫌なもののなかでももっとも嫌なものになる。だが私たちが賞賛する怒りとは、崇高で、寛大なものであり、巨大な悪を追求するものである。けっして受難者の胸をかき乱しがちな怒りなのではなく、公平な観察者の胸に自然にわきあがる怒りなのである。受難者の姿をみて公平な観察者に呼び起こされる憤りは、言葉も許さず、身ぶりも許さない。つまり公平な感情で語ることのできない憤りというものを解き放そうとしない。公平な感情の持ち主は、頭のなかで復讐を企てることもなければ、罰をあたえることもなく、無関心なひとが復讐や罰の実施をみて反応する喜び以上のものを感じることもない。どんな言葉であれ、身振りであれ、その怒りは認めず、公明正大な感情に照らした指示を逸脱して状態から抜け出すことも認めない。また頭のなかでも、さらなる復讐を試みたりはしないし、もっと厳しく罰したりはしない。その復讐や罰の程度は、平凡なひとが許容できる範囲をこえることはない。

1.1.44 自分自身を愛するように隣人を、隣人を愛するように自分自身を

したがって他のひとのことを思いやって自分のことは考えないということも、利己的な心を抑えながら優しい情愛にみちた自分の心を満足させるということも、人間の本質を完璧にするものであり、ひとの心に感情と情熱の調和を生み出し、完全な優雅さと礼儀正しさをつくりだす。自分自身を愛するように隣人を愛するということがキリスト教の教えであるように、隣人を愛するように自分自身を愛するということが自然の素晴らしい教えなのである。あるいは隣人が私たちのことを愛するようになるときにも、同じようになると言うべきかもしれない。

1.1.45 徳にしても知性にしても並じゃ驚嘆できない

洗練された振る舞いと優れた判断力が、賞賛と賛美に値する特質として見なされるとき、感情が繊細であり、理解が正確であるということになる。通常の状態で、そうした感情や判断に出会うわけではない。つまり徳という感覚も、自制心も、普通の状態にあるのではなく、こうした特質が並はずれた状態にあるときにあるのだと理解するべきなのである。慈悲の心からなる好ましい徳が必要とするものは、たしかに繊細な心であり、不作法で教養のない者には及びもつかない心なのである。寛大な心からなる優れた徳にしても、高貴な徳にしてもたしかに要求してくるものとは、普通の自制心をこえたものであり、死ぬべき運命にある最も弱い者が発揮するような普通の自制心ではない。知的なものに関して言えば、ありきたりの程度なら、それは能力とは言えない。同じように徳に関しても、ありきたりの徳であれば、それは真の徳とは言えない。徳とは素晴らしいものであり、並はずれて偉大で美しいものであり、無教養で並のものからは生じない。好ましい徳とは、かなり鋭敏な感覚からなるものであり、その感覚の美しく、思いもよらない繊細さに驚嘆するのである。崇高であり、尊敬すべき徳とは、かなり高い自制心である。その驚くべき力が、人間の特質である、制御できない情熱をこえることに驚嘆するのである。

1.1.46 徳のある人と礼儀正しい人は違うもの

この点に関しては、重要な違いがある。徳があるということと、単に礼儀正しいということのあいだにも、重要な違いがある。賛美に値する特質および行動と、ただ認めるだけにすぎない特質のあいだにも、重要な違いがある。多くの場合、どれほど礼儀正しく行動するとしても、ごくありふれた普通の感受性と自制心しか要求しない。その感受性と自制心は、どんなに価値のない者でも持ち合わせている。しばしば、それがどの程度のものかということは問われない。例えば低俗な例をあげよう。空腹なときに食べるとする。これは、普通の場合、たしかに正しいことであり、適切なことである。どんな人からも、認めてもらえることである。しかしながら道徳にかなっていると言うには、これほど道理にあわないことはない。(1.1.46)

 

1.Ⅰ.47 礼儀正しさに欠ける徳の方が完璧にちかいこともある

それとは反対に、尊敬に値する徳でありながら、その行動がもっとも完璧な礼儀正しさには至らない徳というものも、しばしば存在する。なぜなら、徳を実践することが極めて難しい状況で、完璧な礼儀正しさを期待することはできない。礼儀正しさに欠ける行動のほうが、まだ礼儀正しいかもしれない。よくあることだが、こうした場合、自制するよう最大の努力を求めることになる。ある状況においては、人間の特質にしっかりと根ざしたものがある。すなわち自制心を最大限に発揮してみたところで、不完全な生き物である人間がすることだから、人情味あふれる弱い声をおさえることは出来ない。また激しい情熱を中庸の極みまで減じることもできない。でも中庸をとれば、公平な観察者も情熱を体験することができる。こうした状況では、受難者の行動は完璧に礼儀正しいとは言えないまでも、何らかの賞賛に値するし、ある意味において徳と呼んでいいものなのである。

その行動から、心広く寛大であろうとする努力が、伝わってくるかもしれない。だが、たいていの人はうまくいかないものである。すべて完璧という状態には到達しないかもしれない。でも、試行錯誤の過程で発見され、要求されるものに比べれば、大体において、完璧にちかい状態であるかもしれない。(1.1.47)

今の段階からステップアップできるかが問題
こうした場合、ある行動がうけるべき非難や賞賛の程度を決めるとき、しばしば二つの異なる基準をもちいる。最初の基準とは、完全なまでの礼儀正しさと完璧さについての考えである。だが、こうした難しい状況では、人間がどんな行動をとろうとも、礼儀正しさにも、完璧さにも到達したことはなかったし、今でも到達できないでいる。礼儀正しさや完璧さと比較してみると、すべてのひとの行動は、いつまでたっても非難されるべきものに思え、不完全なものに見えるにちがいない。第二に、こうした完璧に近いところにいるのか、それとも離れたところにいるのかという、どの段階にいるのかという考えである。人の行動のかなりの部分は、一般的には、こうしたどこかの段階に到達するものである。こうした今の段階を越えるものは何であれ、賞賛に値するように見えるに違いない。たとえ絶対に完璧な段階から、取り出された状況だとしてでもある。それとは反対に、今の段階を越えようとしないものは、非難されるだろう。(1.1.48)

1.1.49 完璧さに基準を求めないで、同じ集団のなで共通の尺度を用いてごらん

想像力に語りかけてくる全ての芸術の産物についても、同様に判断する。批評家が詩にしても、絵画にしても、偉大な匠の作品を仔細に検討するときには、心のなかで完璧かどうかという見地にたって作品をみる。人の心にしても、その手による作品にしても、完璧さには到達しない。こうした完璧さを求める基準と作品を比較するかぎり、欠点と不完全さしか見いだせないかもしれない。しかし、同じ類に属する異なる作品群という集団で考えてみると、完璧さを求める基準とはまったく異なる基準で、どうしても比較することになる。異なる基準とは、特定の芸術において達成される卓越した点についての、共通する尺度である。この新しい尺度で判断するとしよう。競合する大半の作品より完璧に近ければ、最高の賞賛に値するように見えるかもしれない。(1.1.49)

 

 

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