アルフレッド・マーシャル 経済学原理の部屋

Marshall: Principles of Economics | Library of Economics and Liberty.

第一版への序文

 経済の状況はたえず変化しているものであるから、それぞれの時代にいきる人々が、めいめいのやり方で、自分の問題をみる。英国では、ヨーロッパ大陸の国々やアメリカと同じように、経済に関する研究が以前よりも活発なものとなっている。しかし、こうした活動から明らかになることは、経済学とは遅々とした、でも継続的な学問の一つであるということだけである。現世代が書いた論文は最高のものでも一目みて、昔の論文の執筆者とは対立するようにみえるものもあるかもしれない。しかし論文が適切な場所に落ち着き、角がとれてくると、学問が発達していくなかで、継続性を断ち切るような、真の裂け目となるものが含まれていないことに気がつくであろう。新しい説は古い説を補足し、拡充し、発達させていき、ときには修正することもあれば、強調事項を加えて異なる調子をあたえることもあるだろうが、めったに古い説をくつがえしたりはしない。(1ページ)

 この論文は新しい論文の助けをかり、この時代の新しい問題について言及することで、古い説を新しい形で示そうとする試みである。その全般的な意図や目的は1巻でしめされている。一巻の終わりにある短い説明で、経済研究の主要対象からひきだされるものについて説明し、調査から生じる産物の主だった実際的なものについて説明している。英国の伝統にしたがえば、経済学の機能とは、経済についての事実を集め、並べてみて、分析することである。たくさんある原因のなかでも、なにが即座に、最高の効果を生じるのか決めていくときに、観察と経験に裏づけられた知識を用いることである。経済の法則とは、傾向について直接法で表現した文であり、命令文でかかれた道徳の教えではない。事実に関する経済の法則と論証は、データの一部にすぎない。現実的な問題を解決するとき、人生の指針となるかもしれないおきてをつくるとき、良心と良識によって、そのデータを論考すべきなのである。(2ページ)

しかし道徳の力というものは、経済学者が考慮しなければいけない人々のあいだには存在する。「経済の人間」の行動という観点から、理論科学を構築しようとする試みがされてきている。経済の人間は、道徳の影響を受けないものであり、慎重に、かつ精力的に金銭の儲けを追求するものであり、無意識のうちにも自分本位に儲けを追求している。しかし経済の人間が成功した試しはないし、徹底して実践してみた試しもない。経済の人間は利己的だとみなされたことはないので、つらい労働に耐えるとも信じてもらえないし、家族のために備えるという私心のない願望を犠牲にするとも信じてもらえない。しかも、その動機にはいつも、家族の愛情があると暗黙のうちに見なされている。しかし、こうした家族への愛情があることが、私心のない動機があることが、なぜいけないのだろうか。その動機から起こす行動が、どんな階級においても、どんな時代においても、どんな状況においても、ある程度同じものであることが、なぜいけないのだろうか。その行動が世間の状態をだめにするのだろうか。そんなことはないように思える。この本では、ある状況で、ある産業グループの人が期待するような、平均的な行動が問題にされている。どんなものであれ、動機からくる影響をとりのぞくようなこともしていないし、私心のないものだからといって普通の行動をとりのぞくようなこともしていない。もしこの本に特徴があるとすれば、顕著な点は本そのものに由来するものであり、また継続の原則を用いたことにあるといえる。(3ページ)

 この原則があてはまるのは、動機の倫理的特徴だけではない。たしかに動機の倫理的特徴から、目的をえらぶときに影響をうけるかもしれない。動機の判断力、活力、こうした目的を追求する進取の気性にも、こうした原則があてはまる。強調したいのは、「都会の人間」の行動には、継続的に、なだらかに変化していくグラデーションがあるという事実である。都会の人間の行動とは、計画的な、広範囲にわたる計算にもとづくものであり、また実務的なやり方で事を処理したりする力も、意志もない普通の人々に、活力と能力でもって実施されるものである。救出をいとわない気持ちも、金銭の報酬を手に入れようとして骨の折れる仕事をいとわない気持ちも、売買に最高の市場を探そうと用心するのも、自分や子どもに一番都合のいい仕事を探そうとして用心するのも、すべて普通なのである。このように似かよった言葉はすべて、ある場所と時代で、特定の階級を構成する人々に関連するものにちがいない。しかし、そうした言葉がひとたび理解されると、普通という価値理論が同じように、事務職ではないクラスの行動にも適用される。だが商人や銀行家の行動のように、細部にいたるまでぴったり同じというわけではない。(4ページ)

正常な行為と異常なものとして一時的に無視される行為のあいだには、明確な区別がない。同じように正常価格と現在価格、あるいは市場価値、臨時価値のあいだにも明確な区別はない。後者の現在価値、市場価値、臨時価値とは、そのときにおける出来事からいちじるしい影響をうける価値である。一方で、正常価格とは最終的には達成される筈のものであるが、それは目の前に示された経済状況がみずからの影響にさまたげられることなく、作用する時間がある場合である。しかし、この二つのあいだには克服できない隔たりはない。そうした価値は、継続したグラデーションになる。生産物の交換について刻一刻と変わりつつある変化について考えるなら、正常だと考える価格も、その年の出来事に関連した現在の変化を指し示しているだけなのである。更にその年の出来事に関連した正常価格は、その世紀に関連した現在価値でしかない。その時代を構成する要素があらゆる経済問題の中心にくるが、その要素自体も継続しているものだからである。自然界では、時を長期間に分割したり、短期間に分割したりすることは完全にはできない。しかし、わずかなグラデーションをえがきながら片方から片方へと移り変わっていく。ある問題にとって期間が短くても、別の問題にとっては期間が長いということになる。(5ページ)

 たとえば、このようにして全てとは言わないまでも、資本における収益と利益を区別しているかなりの部分が、私たちが見ている期間の長さを主題としている。自由資本や流動資本の利子、あるいは資本の新たな投資の利子は、資本の以前からの投資から生じたある種の収益として、もっと適切に扱われる。以後は、この収益のことを準地代とよぶ。流動資産も、特別に枝分かれしていく生産の過程において沈んだものも、資本における新旧の投資も、明確には区別されない。流動資産も、投資も、それぞれが一方にむかって、だんだん変化していく。土地の収益はそれ自体は問題にされないが、大きな概念における主な項目としてみられている。しかしながら土地の収益にはそれ自体に特質があり、実践と同様に理論の見地からもきわめて重要なものである。(6ページ)

繰り返すが、人間と人間が使う機械のあいだは、はっきりと線引きをすることができる。人間と商品の需要と供給のあいだにも、はっきりと線引きをすることができる。努力して犠牲をはらうということ自体に、商品の需要と供給の特質があるのであり、需要と供給に付随して特質が生じるわけではない。つまり結局のところ、こうした商品そのものは、一般的に人間の努力と犠牲の産物なのである。労働の価値論、および労働からつくられる商品の価値論を、切り離して考えることはできない。労働の価値論も、商品の価値論も、大きなまとまりの一部なのである。どんな違いだろうと細部にいたるまで違いをみつけ調査してみると、ほとんどの場合、種類の違いというよりも、程度の違いであることがわかる。鳥類と四足動物のあいだには大きな違いがあるにもかかわらず、その構造にはひとつの基本となる概念がある。同じように需要と供給の平衡に関する一般理論は、配分と交換に関する主要問題の、様々な部分を構成する構造の基本概念である。(7ページ)

「連続性の原理」が適用されているもうひとつのものに、言葉への使用がある。明確に定義したグループ群に、経済的な商品を分類しようと試みられてきた。そのグループ群について、多くの短いけれど鋭い案をだすことが可能であれば、論理的かつ正確でありたいという学生の要求をみたすだろうし、深淵な雰囲気と同時に手軽に論じることのできる信条を好む一般の人々の要求もみたすだろう。しかし大きな影響が生じるのは、この試みを認めたときであり、自然が何もしないのに分割線がはっきりしたときである。経済の原則が単純で絶対的なものになればなるほど、より大きな意志がはたらいて混乱となるだろう。経済の原則に語られる分割線は、現実の生活に見いだせないかもしれない。でも混乱のさなかで、実行にうつす試みがなされるだろう。現実の生活には明確な分割線などなく、資本と資本でないものの間にも、必需品と必需品でないものの間にも、生産的なものと生産的でないものの間にも分割線はないのである。(8ページ)

発達についての継続論は、現代の学校で教えられている経済の考えのなかでも、よく知られている。経済の思想に作用する主なものは、ハーバート・スペンサーに代表されるような生物学についての思想であり、ヘーゲルの「哲学の歴史」や、ヨーロッパ大陸やその他の地域についての倫理哲学に代表される歴史と哲学についての思想である。昨今の書物の考え方には、こうした二種類の思想からの影響がなによりも強く作用している。しかし、その思想の状態は、クールノの「富の理論に関する数学原理」に代表される、継続性に関する数学的概念に影響されている。クールノの教えによれば、経済的な問題の様々な要素を考慮にいれて困難にむかいあことが必要であり、それはAがBを決定し、BがCを決定するという因果関係の連鎖で決定することではなく、相互に互いを決定していくということである。自然の行動は複雑である。長い期間をかけて単純なものにしようとしても、また基本的な提案を続けてしても、何も得るところはない。(9ページ)

クールノに導かれ、またテューネンからも少なからず影響をうけているうちに、私はある事実に重要性をあたえることになった。その事実とは、物質的な世界と同じように道徳的な世界において、本質について観察するということは、総量について言及するだけでなく、量の増加について言及することである。とりわけ大切なことは連続関数だとする要求のおかげで、製造コストの利益の一致に対してバランスがうまれ、限界収益点利益について安定した釣り合いをたもつことになった。こうした面における継続性について、数学の記号や図を用いることなく、全てをはっきりと見ることは簡単ではない。後者の図を使用するには、特別な知識は求められない。さらに数学の記号よりも図のほうが、経済的な生活状況について、もっと正確に、かつ簡単に表現する。そのため図は、この巻の脚注の補足解説で用いられている。だが図は省略されてもいいものである。本文のなかにおける議論は脚注の図に基づいていないため、図は省略してもいいものである。しかし経験からいえば、図のおかげで、多くの重要な原則について、助けなしで、しっかり理解することができる。純粋な理論には多くの問題がある。そのため、かつて図表の使い方を学んだ者ならば、よろこんで純粋な理論を扱う者は誰もいないだろう。(10ページ)

 経済的な問題で、純粋な数学を主として用いるということは、自分の考えを自分のために書き記す人を素早く、簡潔に、正確に助けることのようにみえ、結論の根拠が十分だと確かめることのようにみえる。十分だというだけにすぎないとしても。(すなわち、方程式とは、数において、未知数なのである)。それでも多くの記号が用いられなければならないが、書いている本人にとっても数学の記号は骨の折れるものである。クールノの天分は、その領域を通過する者すべてに、新しい精神活動を与えるにちがいない。そしてクールノに近い天分のある数学者なら、経済理論の難しい問題を正面にだすのに、好みの武器を使うかもしれない。だが言及されるのは、経済理論の外縁だけなのである。経済論を数学に長々とおきかえたものを、まして自分がおきかえたものではないものを、長々と時間をかけて読む者がいるのかは疑わしく思える。数学的言語を利用した見本が少しばかり脚注に加えられているが、それは私の目的に役立つと証明されたものである。 1890年9月(12ページ)

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