1巻1章

  政治経済あるいは経済学とは、仕事をするという普通の生活において、人間についてとらえる研究である。政治経済あるいは経済学とは、幸福を達成したり、幸福になるのに必要な物を使用することに、密接に関係がある個人や社会的行動について、検証するものである。(1.1.1)

  よって政治経済あるいは経済学とは、富についての研究でもある。いっぽうで更に大事なことは、人間についての研究の一分野でもあるということである。なぜなら人の性格とは、毎日の仕事で形づくられるものだからである。それゆえ私たちが手にする物質からできた資源のほうが、他からの影響よりも大きいのである。ただし宗教的な理想の場合は別である。世界の歴史を形づくる二大勢力とは、宗教であり、経済学なのである。あらゆる地において、しばらく主流をなしてきたのは、陸軍の情熱と芸術的な精神だった。しかし宗教と経済の影響というものが、重要なグループから移されることはなかった。そして他のすべてより、常に重要であり続けた。宗教的な動機のほうが、経済的な動機より激しいものではある。でも宗教的な動機からの、既成の権威や権力に対抗しようとする実力行使が、生活にまでひろがることはあまりなかった。それというのも、仕事によって生計をたてるのだが、精神活動が最高の状態になる時間に、仕事は思考を満足させてくれるからである。そうした時間に特徴を形づくるのは、仕事で能力を用いるときの方法でもあり、仕事から思いつく思考や感情であり、雇用主や従業員という仕事仲間との関係なのである。(1.1.2)

収入の合計金額が人格におよぼす影響は、たいていの場合、多少なりとも、その収入を得る手段がおよぼす影響に等しい。年収が1000ポンドだろうと5000ポンドだろうと、家庭生活の満足感には何の違いも生じないかもしれない。しかし収入が30ポンドか150ポンドかということは、大きな違いを生じる。それというのも150ポンドの暮らしの家族には、完全な生活をするための物的条件があるけれど、30ポンドの暮らしの家族にはないからだ。宗教においても、家族の愛情においても、友情においても、こうした能力の多くにおいて、貧しい人々でさえ、最高に幸せな状態をうみだす能力を発揮する場を見つけるのかもしれない。しかし極貧にかこまれた状況では、とりわけ混みあった場所においては、幸せを生み出す高い能力があろうとも、その能力は弱まるのかもしれない。大都市で最下層とされる人たちには、友情の機会というものがない。そうした最下層の人々は人並みの生活をするのに必要なものも知らなければ、くつろぎも知らない。家族がまとまる生活も少しも知らない。そして宗教も、最下層の人の心をひきよせることにしばしば失敗する。あきらかにこうした人々が肉体的にも、精神的にも、道徳面でも不健全な状況にあるのは、貧困以外のところに理由があるせいでもある。だが、貧困が主な理由なのである。(1.1.3)

さらに最低辺の人々以外にも、町や地方には、食料も、衣服も、住居も不十分な状態にある人々が大勢いる。そうした人々の教育は、賃金のための仕事につくということもあって、早い時期に中断している。人生の早い時期から長い時間、栄養のゆきわたらない体で、疲れる労働に従事しているため、精神的能力を高める機会に恵まれない。だが、貧しい人の生活は必ずしも不健全なものでもないし、不幸なものでもない。貧しい人は神や人間に対する愛情に喜び、感情を自然に洗練された状態にたもちながら、物質的には豊かな人と比べても劣らない生活をおくるのかもしれない。しかし、それにもかかわらず、貧困とは明らかに不幸なのである。たとえ貧しい人がよしとしても、その疲れはしばしば苦痛となり、喜びはない。さらに病気になると、貧困によって引き起こされる苦しみは10倍となる。しかし心が満ち足りていれば、こうした不幸に妥協することにもなるだろうけれど、妥協するべきでない人たちもいる。過度に働かされた挙げ句に教えてもらうこともなく、疲れてやつれた人たちには、精神的な能力をつかって上手く対処する機会もない。(1.1.4)

一般的に貧困がともなう不幸には、かならずしも因果関係がないものであるけれど、それでも概して言えば、「貧しい人を追いやるということが、貧しさなのである」。そして貧困の理由について研究するということは、人類が堕落する理由について研究することでもある。(1.1.5)

奴隷とは、アリストテレスによれば、自然のさだめだとして見なされている。奴隷自身も、大昔からそう見なしてきている。人間の威厳とは、キリスト教によって語られたものなのである。人間の威厳は、ここ数百年間において、だんだん熱心に主張されるようになってきた。しかし近年、教育が普及してきたことにより、そうした言葉の意味を感じるようになってきた。そこで今になってようやく、いわゆる「下層階級」と呼ばれる人たちがいるということが、避けられないものかどうか調べようとしている。すなわち、多くの人が生まれたときから過酷な労働を運命づけられ、他の人が洗練されて文化的な生活をおくるのに必要な品を提供していく必要があるのかどうかということである。かたや働く人は、貧困と辛い労働のせいで、そうした生活を共有できないでいるのだから。(1.1.6)

貧困と無知がだんだんと消え去るだろうという期待は、19世紀の労働者階級が着実に進歩していくことに支えられているのかもしれない。蒸気機関のおかげで、労働者は疲れて、卑しくさせる労働から解放された。賃金も上昇した。教育は改善され、一般に普及した。鉄道と印刷機は、国内の異なる地域で同じ商売をしている人たちが、お互いに簡単にやりとりすることを可能にし、さらに幅広くて先見の明がある政策を引き受けて実行することも可能にした。知的な仕事への需要が増えたことが原因となり、職人階級は急激に増加し、今では技術のいらない労働をする人たちよりも数が多くなった。職人の大半は、もともとの意味での「下層階級」に所属するのをやめた。そして職人のなかにはすでに、一世紀前の上流階級の大半のように、洗練されて上品な生活をおくっている者もいる。(1.1.7)

こうした進歩のほうが、実用的な関心をもとめ、次の問いかけに不可能とする人よりも果たす役割が大きい。世界中のすべての人に公平な機会をあたえて、文化的な生活をおくり、貧困の苦痛から解放できないだろうか。また、過度に機械的な労働から生じる淀んだ影響から解放できないだろうか。そして今、この問いかけが、まじめな人々が増えている時代だということもあって、最前列へとむけられている。(1.1.8)

この問いかけには、経済学は十分に答えることができない。答えは、道徳に関したものにもなるし、人の政治的能力に関したものにもなるからだ。こうした事柄について、経済学者は特別な知識をえる方法を持ち合わせていない。他の人がするようにするだけであり、掌中で最善をつくすまでである。しかし、答えの大半は事実と推論にあり、それらは経済学の範疇にある。事実と推論とは、経済学が関心を主にむけるものでもあり、また一番関心をはらうものでもある。(1.1.9)

経済学で扱う重要な論争とは、人々が満足すべき生活状態にあるようにするためのものである。もし重要な論争であれば、あらゆる年齢の、優れた能力の持ち主である多くの思索家の注意をあつめてもよかった。さらにそうであれば、今や完成をめざして前進していてもよいはずだ。しかし事実は、なすべき仕事の難しさと関連して、経済学者の数は常に少ない。だから経済学はまだ揺籃期にある。この理由のひとつとして、満足すべき生活状態に関する経済学の収穫ということが、見過ごされてきたということにある。たしかに、経済学というものは研究対象が富だということもあり、多くの学生が一目で嫌ってきた。学生というものは知識の限界点を押し進めるために努力するものであり、自分の富についてはほとんど関心がないからだ。(1.1.10)

だが更に重要な理由とは、産業労働者の生活の経済状態の大半も、現代の経済学がかかわる製造、分配、消費の方法の大半も、最近、考えられたものでしかないということにある。本質における変化が、ある部分において、外に現れる形における変化ほど大きくはないということも真実である。さらに現代経済理論の大半は、最初にうける印象よりは、保守的な集団に適合させることができるものである。しかし本質における一致というものは、さまざまに変化する形の基礎をなすものであり、見つけるのはたやすいものではない。形式における変化が、あらゆる経済学者に影響をおよぼすため、別な状況で過去の経済学者のやり方を踏襲しておこなったとしても、過去の学者のようには役立たない。(1.1.11)
現代の生活における経済状態はさらに複雑なものになっているが、多くの点で、過去の経済状態よりも明確である。仕事とは、他の関心事よりも明確に区分できる。他人にたいする個人の権利と社会にたいする個人の権利は、さらに明確に説明することができる。とりわけ習慣から解放されて自由活動が活発になることで、常に用心するようになり、大仕事に奔走するようになる。また新たな正確さと新たな重要性が生じ、異なるものと異なる労働の相対的価値を左右する根拠がうまれてくる。(1.1.12)

§4 現代の産業労働者の生活様式は、厳しい競争にさらされる存在となったことで、過去の労働者とは区別されるとよく言われる。しかし、この説明では十分ではない。競争の厳密な意味とは、売り買いの指示に特別な関係があるものであり、ある人と他の人の競い合いのように見えるということである。こうした種類の競い合いは、あきらかに過去の競い合いよりも激しいものであり、拡大したものである。だが競い合いは派生的なものにすぎない。あるいはこう語るひともいるかもしれない。競い合いとは、現代における産業労働者の生活の基本的特徴から、偶然生じた結果であると。(1.1.13)

こうした特徴を適切に表現する言葉はない。現在も目にするように、こうした特徴は、ある種の独立心であり、自分の道を自分で選ぶという習慣である。思案したりする一方で機敏に選択したり、判断したり、将来を予想したり、目的にあわせて自分の道を形づくるということである。こうした特徴のせいでしばしば、人々は互いに競い合うのかもしれない。一方で、あらゆる種類の善と悪を結びつけて協力する方向にむかう傾向にあるのかもしれない。実際にはそうなのかもしれない。しかし、集団で所有したり行動したりする傾向は、以前とはまったく異なるものである。なぜなら、そうした傾向は、習慣からの結果でもなく、近所の人と共同していくという受け身の姿勢でながされた結果でもない。だが自己的な目標であろうと、自己本位でない目標であろうとかまわない。目標を達成するのに一番ふさわしい個人の行動について注意深く考えて、自由に選択した結果だからだ。(1.1.14)

 

 

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