1巻2章 経済学の内容

 

 

§1 経済学とは、ふつうの職業生活において生活したり、行動したり、考えたりするなかで、人間について考察する学問である。だが経済学が関わる動機とは、職業生活における振る舞いにもっとも強く、確実に影響をあたえるものである。なんらかの価値がある人は皆、その高い本質を職業でも発揮する。他の場面と同じように職業においても、影響をあたえるものとは個人的な愛情であり、義務について理解する力であり、高い理想を尊敬する力である。能力のある発明家や組織が手段や策を改善していくのに用いる最高のエネルギーとは、崇高な競争によって触発されるものであり、自分自身の富を愛する心情からではない。しかし、それにもかかわらず、ふつうの仕事における一番つよい動機とは、仕事への物質的な報酬である給料への欲求なのである。自分のためだろうと、ほかのひとのためだろうと、崇高な目的があろうと、基本的な目的を充たすためだろうと、給料があいだに存在するのかもしれない。そういうわけで多様性に富んだ人間の本質が動き始めるのは給料なのである。だが誘因となるのは、はっきりとした金額合計なのである。労働者の人生において強固な動機となるものは、この明確で、正確な金の測量方法であり、そのおかげで経済学は人間に関する他の研究より優ることになった。化学者の素晴らしいバランスのおかげで、化学が他の物理科学よりも正確なものになったように、荒々しくて不完全なものであろうと、この経済学者のバランスのおかげで、経済学は他の社会学のどんな分野よりも正確なものになった。だが、もちろん、経済学を物理学と比べることはできない。経済学とは、人間の本質における変わりやすくて理解しがたい人間の本質を扱うものだからである。(1..1).

経済学のほうが他の社会科学より優っている利点とは、研究領域が特殊であり、適切な手段をとる機会が、他の学問分野より恵まれているという事実から生じているように思える。経済学が主として関わるのは、欲望であり、願望であり、その他のひとの心の動きである。すなわち外に向かってあらわれるものであり、原因となる力や量が正確に評価されたり、測定されたりする形をとり、行動の原因としてあらわれるものである。そのため科学的な方法によって、いくぶん扱いやすいものとなる。動機そのものではなく、あるひとの動機の強さを金の合計によって大体を測定すると、それはただちに科学的な方法と検査の序章となる。望みどおりの満足を手に入れるため、こういう測定もやむなしとあきらめる者もいるだろう。あるいは再度、ある種の疲れを経験することになろうと、金の合計によってその気になって測定する者もいるだろう。(1.Ⅱ.2)

経済学者が、心の動きそのものを直接測ろうとすることはなく、その影響をとおして間接的に測ろうとするということは重要なことである。たとえ自分の心の状態だろうと、比べるタイミングが異なれば、他のひとと正確に比べたり、測定したりすることは、誰にもできない。ほかのひとの心の状態をはかることができるのは、間接的に、推測的に、そのひとが受けた影響を間接的に、推測しながら見ることによる。もちろん様々な心の感情があり、高尚な本質からの感情もあれば低俗な本質からの感情もある。そうした感情は、本質が異なるものなのである。しかし、たとえ物質的な喜びや苦痛に限ったとしても、意識を比較することができるのは、その影響を間接的に比べた場合だけであることに気がつく。たしかに同じタイミングで、同じひとに起きない限り、こうした比較がある程度推測になるのはやむを得ない。(1.Ⅱ.3)

例えば、二人のひとのタバコに由来する喜びも、じかに比べることは出来ない。また、同じ人のタバコに由来する喜びであれ、タイミングが異なれば、じかに比べることは出来ない。しかし、もし迷っている男性がいて、2ペンスを葉巻に使おうか、それとも一杯の紅茶に使おうか、あるいは家まで歩いて帰るのをやめて乗り物に乗って帰ろうかと迷っていれば、そのときは通常の言い方にしたがって、同じ喜びを期待していると言えるかもしれない。(1.Ⅱ.4)

もし物質的な満足を比べてみたいのなら、直接比べてはいけない。どうにか対処できる動機をとおして、間接的に比べなくてはいけない。もし二つの喜びのうちの片方を手に入れたいという欲望が、人々に似たような環境で、もう一時間余計な仕事をする気をおこすならば、あるいは同じような生活程度で、同じ手段をもちいて、その仕事に1シリング支払う気にさせるならば、そのときには、こうした喜びは目的に等しいのだと言えるかもしれない。なぜなら、こうした喜びを求める気持ちが、同じよう状況にある人のために行動をおこす強い動機となるからである。(1.Ⅱ.5)

 

ふだんの生活でしているように、心の動力から、あるいは行動へとつながる動機から、このように心の状態を推し量る。そのときに重要視している動機の中には、高い品性からくるものもあれば、低い品性からくるものもあるが、そうした事実から、新たな困難が生じることはない。(1.Ⅱ.6)

 

自分への満足感について疑問に思っている人をみているとしよう。そのひとが、家への帰り道に見かけた、貧しい病人のことをしばらく考え、時間をかけて決意した。自分のために物資的な満足をとるべきなのか、それとも親切に行動して他の人の喜びを嬉しがるべきかと。以前は自分にむかっていた喜びが、今度は他のひとにむかうとき、心の状態に変化が生じるというべきだろう。そのとき、哲学者が心の変化を研究するはずである。(1.Ⅱ.7)

 しかし経済学者の研究は、精神状態そのものについてではなく、感情表現をとおしてである。そして感情表現とは、バランスのとれた行動の動機を等しくもたらすことに気がついたなら、経済学者は第一印象で、自分の目的と等しいものとして扱う。経済学者は我慢強く、用心をしながら、非常に警戒したやり方で、ふだんの生活で人々が毎日していることについて扱う。だが、私たちの心の高貴な感情と低俗な感情について、その真の価値を比べることはない。徳を愛する心と美味しい食べ物への願望について、比べることもない。修道院の共同生活において人々がするように、経済学者も、結果によって行動の動機を評価する。経済学者は通常の会話の流れを追いかけているが、知識の限界をはっきりと示そうと策を発揮するときにのみ、ふだんの会話とは違ったものになる。経済学者が仮の結論に到達するのは、あたえられた条件で、一般の人々を観察することによってである。個人の情緒的、かつ精神的な特徴を見抜く試みをおこなっているわけではない。しかし経済学者が、人生における情緒的かつ精神的側面を無視しているわけではない。
 反対に、経済学研究という狭い用途のためだとしてでもある。広がりつつある欲望が、強く、正しい特徴の形成を手助けするものかどうか知るということは重要である。広い用途のためだろうと、実際的な問題に応用されるときには、経済学者も、他と同様に、人間の最終的な目標に関心をもたなくてはいけない。そして、満足のあいだにある本当に価値あるものを考慮しなくてはいけない。その満足とは行動をおこす動機となるものであり、等しく影響力があるものである。こうした測定の研究が、経済学の出発点であるにすぎばい。しかし、それでも測定が出発点なのである。(1.Ⅱ.8)

§2 金目あての動機をはかることには、他にも幾つか弱みがあり、検討しなくてはいけない。こうした弱みが生じてくるのは、まず喜びや、その他の満足といったものが変化していくからである。そうした喜びや満足は、ひとが異なれば異なり、環境が異なれば異なるものでありながら、同じようにお金の合計によってあらわされる。(1.Ⅱ.9)

1シリングのもたらす喜びは(あるいは満足は)、同一人物であっても、ばらばらにはかるよりは、一度にまとめてはかったほうがよいのかもしれない。お金は増えていくものかもしれないし、そのひとの感覚も変化していくかもしれないからだ。先祖が似ているひとでも、外見が互いに似ているひとでも、同じような出来事に対して、しばしば異なる形で影響をうける。例えば、町の子供たちが学校ぐるみで、休日の日に、田舎にやってきたとしよう。子供たちのうち、どんな二人を比べてみても、同じ種類の喜びを、あるいは程度が等しい激情を、引き出すことは出来ない。同じような外科手術でも、ひとによって感じる痛みは様々である。私たちが判断する限りにおいて、同じように愛情深い両親であっても、片方がとりわけ気に入っていた息子がなくなれば、片方の親のほうがもっと苦しむことだろう。それほど感受性が強くない者は、ある種の喜びや苦痛であっても、それでも受け入れることができる。同時に、性質や教育の違いが、喜びや苦痛の能力を他のひとより優れたものにする。(1.Ⅱ.10)

二人のひとの収入が等しいとしても、その収入から等しい利益をひきだしていると言うのは、危険だろう。また収入を同じ程度に減らされたとしても、同じような苦痛をうけていると言うことも危険だろう。一年に300ポンドの収入がある二人のひとから、税金を1ポンドとるとき、二人とも一番簡単に手放すことのできる1ポンド分の喜び(それとも満足)をあきらめることになる。すなわち、そのひとにとって、1ポンドで測れるものをあきらめることになるだろう。しかしながら、あきらめた満足の度合いは、等しいものではないかもしれない。(1.11.11)

 

それにもかかわらず、もし、つり合いをとりながらも個人の特質を生じるのに十分な平均をとるとしよう。同じくらいの収入の人が利益を得ようとして、あるいは損害を避けようとしてだすお金は、利益や損害を測る良い手段となるだろう。仮にシェフィールドに、数千の人が住んでいて、リーズにも数千人が住んでいるとする。それぞれが年に100ポンド稼ぎ、1ポンドの税金を課せられるとする。税金のせいでシェフィールドにおいて失われる喜びや被る損害も、リーズでひきおこされる喜びや損害も、同じような価値があるにちがいない。そして1ポンドによって増える収入が何であろうと、二つの町において同じように、喜びや、その他の利益の支配権を握るだろう。もし同じ商売をしているひとならば、こうした可能性が高くなる。おそらく感受性や気質も、どこか似ているだろうし、好みや教育も似ているからである。家族を単位としてとらえても同様である。二つの都市で、年収が100ポンドある数千の家族の収入が1ポンド減少した結果、失われる喜びと比べてみたとしても、こうした可能性は減らないのである。(1.Ⅱ.12)

次に考慮しなくてはいけないことがある。貧乏人の場合は金持ちとは違って、強い動機がなければ、品物についた値段を支払う気になれないということである。1シリングで測ることのできる喜びにしても、満足にしても、貧乏人より金持ちのほうが少ない。金持ちが葉巻1本に1シリングを使おうかと迷うときの喜びと、貧乏人が1か月かけて吸うことになるタバコの支給に1シリングを使おうかと迷うときの喜びと比べてみると、金持ちが感じる喜びは小さい。年収300ポンドの事務員と比べ、年収100ポンドの事務員のほうが、激しい雨の中でも歩いて仕事にいくことだろう。金持ちと違って貧乏人には、路面電車に乗ったり、乗合自動車に乗ったりするのにかかる費用の節約がより大きな節約にみえるからである。もし貧乏なひとがお金を使い、後になってからお金が足りなくなると、金持ちが苦しむ以上に、もっと苦しむことになるだろう。かかる費用のことで貧乏人が思い浮かべる節約は、金持ちが思い浮かべる節約より大きいものなのである。(1.Ⅱ.13)

 しかし大半の人々の行動や動機を考えてみれば、誤解の原因となるものは減る。銀行の損失によりリーズの人々は20万ポンドを奪われ、シェフィールドの人々は10万ポンドを奪われると考えてみよう。片方の町の銀行の株主がもう片方の町の株主より豊かであると感がる特別な理由がなければ、損失により引き起こされる失業が両方の町の労働者にかける圧力が不均一であると考える特別な理由がなければ、リーズでひきこされる損害はシェフィールドのおよそ二倍だと考えるかもしれない。(1.Ⅱ.14)

経済学が扱う多くの出来事は、だいたい等しい比率で、社会のすべての階層に影響を及ぼす。そこで幸せが同じような二つの出来事によって生じるものであり、その幸せについてお金で測るなら、二つの出来事における幸せの量が等しいと考えることは合理的であり、一般的なことでもある。そして更に、お金が生活においてよく利用され、それが西洋世界の二つの地域から、とくに好みもなく抽出されたグループにおいて、等しい割合で利用されるときのことである。物質的な富を同じようにつけ加えるということは、人生における充足感を同じようにつけ加えるということである。そして人類の真の進歩につけ加えるということでもある。(1.Ⅱ.15)

§3 他の見地から考えてみよう。欲望に対する行動から動機が形成されるとき、その欲望の程度について考えてみても、すべての行動がよく考えられた結果のようには思えないし、計算されたものであるようにも思えない。これは他のあらゆることにしても同様に、経済学が人間を普通の生活にいるものとして扱っているからである。そして普通の生活では、あらゆる行動の結果に、あらかじめ重点がおかれることはなく、生活へ衝撃をあたえるものが高い特質からくるものだろうと、低い特質からくるものだろうと関係ない。(1.Ⅱ.16)

経済学が特に関わる人生の局面とは、人々の行為をほとんど計算したものであり、人々が体験することになる特定の行動の有利も、不利も合計したものである。そして更なる人生の局面とは、習わしや習慣にしたがい、つかの間でも計算ぬきに物事を進めるときにあらわれるものである。習わしや習慣そのものは、異なる行動の有利な点、不利な点を、近くで、注意深く観察することから生じるものである。一般的には、バランスシートにおける二つの様相について、正式に評価したものではない。しかし、その日の仕事や集まりを終えて帰宅した人はお互いに言うことだろう。「こうするとは言わなかったけれど。ああしておいたほうがよかったなあ」など。ある行動について他の人より上手に反応させるものとは、必ずしも自分本位な利益のためでもなければ、物質的な利益のためでもない。更に、しばしば論じられていることだが、「こうした案や、ああした策はわずかながらトラブルを回避するし、お金も少し節約するけれど、それでも他の人にとって公平なことではない」、しかしながら「そうした案のおかげで目をむけることにもなったし」、あるいは「感じとるということにもなった」ということなのである。(1.Ⅱ.17)

習慣や習わしというものが一連の状況下で現れ、他の状況に影響を及ぼすとき、努力と努力によって達成される結末のあいだには、正確な関係はない。後進国においては、まだ多くの習慣や習わしが、自力でダムを築こうとしているのに監禁されたビーバーと似た状態にある。そうした習慣は、歴史家に多いに示唆するものであり、立法者によって判断されなければいけないものである。しかし現代世界の、商業に関する事柄においては、こうした習慣は、速やかに消えていかなければいけないものである。(1.Ⅱ.18)

このように人々の生活において、もっとも組織化されている部分とは、一般的に、人々が生計をたてている部分なのである。なんらかの職業に従事している人々の仕事については、注意深く観察すれば、ありふれた表現でも、他の人の仕事と比較観察して調査することが可能である。さらに数で示された評価は、お金の合計として考えることもできるし、十分な動機ともなりうる一般的な購買力として考えることもできる。(1.Ⅱ.19)

楽しみを先送りすることへのためらいや、将来にそなえての節約を躊躇する気持ちを判断するものは、富の山にかかる利子である。そして、その富とは、将来のために節約する動機と十分なるものである。しかしながら、この判断は、なんらかの困難をともなうものである。すなわち、どれを延期しなければいけないのかという調査をともなうものだからである。(1.Ⅱ.20)

§4 他の場合同様にこの場合でも、心にとどめておかなければいけないことがある。それは、たとえ消費されるとしても、お金を稼ごうとする欲望は、必ずしも、低い次元の動機から生じないということである。お金とは、目標にむかう手段なのである。そして、もし目標が高尚なものだとすれば、目標実現のため、手段を求めようとする欲望は卑しいものではない。仕事をしながら大学を出ようと一生懸命に働き、できる限り貯金している少年が、お金を喉から手が出るほど欲しがっているとする。だが、その少年がお金を切望しても、卑しいことではない。簡潔にいえば、お金とは一般的な購買力であり、すべての目標を達成するための手段としてみなされるものである。その目標が低いものだろうと、高いものだろうと、また物質的なものであろうと、精神的なものであろうと関係ない。(1.Ⅱ.21)

「お金」や「一般的な購買力」、「物質的な豊かさを制する心」が、経済学者の群れの中心であるということは真実である。これには理由がある。だが、お金や物質的豊かさが、主要な努力目標としてみなされているからではない。あるいは経済学者の研究に主な議題を与えるからでもない。私たちのこの世界において、「お金」や「一般的な購買力」、「物質的な豊かさを制する心」とは、人間の動機を大きな規模で測定してくれる便利な手段の一つだからである。昔の経済学者がこうしたことを明確にしていたならば、事実を誤って伝えるという、多くの嘆かわしい事態は避けられただろう。またカーライルやラスキンの、正しい努力目標や富の正しい富の使い方に関する素晴らしい教育内容が、経済学へのひどい攻撃によって損なわれることもなかっただろう。そうした攻撃は、間違った信念にもとづくものであり、経済学が関係しているのは、富への自己的な欲望だけであるとか、経済学とは浅ましい我儘な行動をふきこむものであると思い込んでいるせいである。(1.Ⅱ.22)

もう一度、ある人の行動の動機というものが、これから稼ぐお金によって与えられるとして考えてみよう。このように利益を蓄えようとしているのは、他のことに心を閉ざしているからではない。人生において、ただ仕事の関係の場合でも、誠実さと正直さが求められるものである。たっぷりとまではいかなくても、当然備わっているものとして考えられている。さらに、少なくとも卑しさというものがなく、誠実なすべての人が備えているプライドのせいで雄々しくふるまうことができるのである。再度くりかえすが、人々が生計をたてている大半の仕事は、それ自体に喜びがあるのである。社会主義者は、もっと多くの仕事がそうなるべきであると議論しているが、それも真実である。たしかに、一見したところ魅力的にはみえない仕事でさえ、しばしば大きな喜びがあるのは、能力をのばすという見通しがたつからであり、競争をあおり、権力を手にしようとする本能がくすぐられるからである。競走馬や体操選手が、あらゆる筋肉をうごかして競争相手より前に出るときは、緊張しながらも喜んでいる。同じように、製造業者や商人は、自分の富に何かをつけ加えようという欲望に活気づくというより、競争相手に勝利するという期待に活気づくのである。(1.Ⅱ.23)

§5 経済学者が行ってきた実践の一つに、人々を一般的に職業へと引き寄せる利益すべてを慎重に考慮するということがある。たとえ、その利益がお金の形をとるかどうかということは、関係のないことなのである。他のすべての条件が同じなら、人々は自らの手を汚す必要のない職業を好む。そうした職業についていると、社会的に恵まれた地位などを享受できるからである。こうした利益はすべての人にぴったり同じようにではないが、きわめて近い形で影響している。だから、その魅力的な力と等しいものとしてみなされる賃金によって、評価したり、測定することが出来る。 (1.Ⅱ.24)

再び、承認を求め、周囲の軽蔑を避けようとする欲求について考えてみよう。そうした欲求は行動を刺激するものであり、どんな階級の人々にたいしても、定められた時間と場所において、等しく作用するものである。そのときの場所と時の状態が、承認されたいという欲求の激しさに強く影響するだけでなく、承認を求めている人々の範囲にも影響する。例えば、専門的な職業についている人や芸術家は、同じ職業の人から認められるか、認められないかということにとても敏感であるが、ほかの人の意見は少しも気にしない。経済学の問題はたくさんあるが、目標をみつめるための関心も、そうした動機の力を子細に評価する関心もむけられないとするなら、そうした議論はまったく非現実的である。((1.Ⅱ,25)

同僚にとって利益にみえることをしようとする人の欲望には、わがままの痕跡があるのかもしれない。同じように、一生をとおして、あるいは将来まで家族がうまくいくようにという人の欲望には、個人的なプライドの要素があるのかもしれない。しかし、それでも家族の愛情というものは利他主義の純粋な形式なので、家族関係そのものに均質性がなかったとしたら、その行動にも規則正しさが微塵もみえないことだろう。しかしながら、家族の行動とは、規則正しいものである。また、家族の行動とは、経済学者によって、その様々な構成員のあいだで、とりわけ家族の収入を配分するという関係において評価されており、子どもたちに将来の職業を準備させるために支出したり、稼いだ本人が死んだ後に享受してもらうことになる筈の富を蓄積するのである。(1.Ⅱ.26)

経済学者がこうした動機にもとづく行動を計算することを妨げるものとは、意志の欠如なのではない。能力の欠如なのである。さらに経済学者が歓迎する事実であるが、もし十分に広い平均値をとることができるなら、慈悲深い行動を統計学上の収益に反映することもできるし、ある程度、原則にすることも可能である。動機には、発作的なものや不規則なものはほとんどなく、忍耐を重ねながら広く観察することで、見つけることができる原則というものがあるからである。平均的豊かさの人口10万の英国人が、病院や教会、使節団を支援するために使うことになる寄付金を予言することは、そのなれなれしさに耐えることができれば、この頃では、おそらく可能なことであろう。予言が可能な限りにおいて、病院の看護や宣教師、その他の宗教的な牧師といったサービスの需要と供給について、経済的議論をかわすための基礎というものがある。こうした行動の大半は、隣人への義務感や愛情に由来するものであるが、原則に分けることも、原則に直すことも、測定することもできないでいるということは、たいていの場合、常に真実なのである。経済学の仕組みというものが、行動に重荷をかけることができない理由とは、行動に原則をあてはめることができないからであって、行動が利己主義にもとづいているせいではない。(1.Ⅱ.27)

英国の初期における経済学者が関心をむけていたのは、個人における行動の動機だけであった。しかし実際のところ、経済学者が関心をもつ対象は社会学の学生と同じである。それは主として、社会組織のメンバーとしての個人を対象としているのである。カテドラルとは、材料の石以上のものである。人とは、思考と感情の流れ以上の存在である。それと同じように、社会生活とは、個人の生活を合計した以上のものなのである。全体の行動とは、構成している部分からつくられるものである。ほとんどの経済問題において、最高の出発点とは、個人に影響をおよぼす動機の中に見いだされるものである。また孤立した原子としてではなく、特定の貿易や産業グループとしてみなされている。しかしドイツの物書きが主張しているように、経済学が関心をよせているものとは、集団での財産所有権であり、重要な目標を集団で追求していくことである。時代が益々まじめになり、人々がどんどん知的になり、電信や新聞の力が高まり、コミュニケーションの手段が他にもあらわれるようになって、公益のための集団的行動の範囲が広がりつつある。こうした変化とは、力をあわせて行う動きを拡大するものである。金銭上の儲けにくわえて、様々な影響のもとに成長しつつあるものとは、こうした変化であり、種類が異なる任意団体である。そうしたものが経済学者に開いているものとは、動機をはかるための新しい機会の門戸である。だが、その行動とは、いかなる原則にあてはめることも不可能に思えるものなのである。(1.Ⅱ.28)

だが、実際には動機が多様性に富んでいるということは、動機をはかることが難しいということでもある。こうした困難に打ち勝っていく方法こそが、この本で主に取り上げているテーマなのである。この章でふれているあらゆる点は、もっと細かいところまで、主な経済問題に関して論議を必要とするものだろう。(1.Ⅱ.29)

§7 仮の結論であるが、経済学者は個人の行動について研究する。だが個人の人生に関連してというより、社会に関連づけて研究する。それゆえ個人の気性や性格の特性には、あまり関心をはらわない。経済学者は、すべての階級の人々の行動を注意深く観察する。国中の人々の行動を観察することもあれば、ある地方に住んでいる人々の行動だけを観察することもある。だが特定の商業に従事している人々の行動を観察していることのほうが多い。統計学の助けをかりたり、あるいは他の方法をもちいたりして、経済学者が特定の集団を観察して確かめることがある。その集団が、欲しいものの価格として喜んで支払おうとするお金は、平均でいくらなのかということである。あるいは人々が嫌う努力や禁欲をさせるには、お金をいくらあげなければいけないのかということである。このようにして動機を測定してみても、完璧に正確だというわけではない。それは経済学者が、もっとも進んだ自然化学者として扱われてきたからである。実際は、自然科学者のなかでも一番遅れているといったほうが真実に近いとしても、そのように扱われてこなかったからだ。(1.Ⅱ.30)

だが、それでも動機を測定するには十分正確であり、経験をつんだ人たちであれば、こうした種類の動機に由来する変化から生じる結果について、うまく予想することが可能である。例えば、このようにして経験をつんだ人たちがきっちりと見積もる支払は、労働力を適切に供給していくのに必要となるものであり、最下層から最上の階級にいたるまで、いかなる階級の労働力にも必要となり、どんな場所であろうとも、新しい商いを始めようと計画するのに必要となるものである。今までに見たことのないような工場でも訪ねると、1週間に1シリングか2シリング以内でそこの労働者が稼いでいるものを表現することが可能になるが、それを可能にするのはただ単に、そのひとがどれほど職業に熟練しているかという観察をとおしてであり、また、ひとを最大限に働かせているものがどれほど肉体的能力や精神的能力、倫理的能力に影響を与えているかについて観察することにより表現できるのである。さらにまあまあの確実さで予言できるのは、何かの供給を減少した結果、価格が上昇するということであり、また価格が上昇すれば供給に作用するということである。(1.Ⅱ.31)

更に、経済学者は、こうしたことについて単純に考えてみることから始め、今度は分析にかかり、異なる種類の産業がある地域に分布する理由や、離れた場所に住んでいる人々が商品を交換しあう条件などについて分析する。そして支払い猶予期間の変動が外国貿易にあたえる影響について説明したり、予報したりする。あるいは税という重荷が、人々に課税されてから、必要となる品が提供されるまでを説明したり予報したりする。(1.Ⅱ.32)

こうした分析をしていく中において、経済学者は人をそのまま取り扱い、抽象的なものとしても扱わず、あるいは「経済的な」人としても扱わない。その代わり、血や肉のある人として扱う。経済学者が扱うのは、自分たちとおおいに関係のあるような仕事をする人生において、自己中心的な動機にかなり影響される人なのである。それはまた虚栄心や無頓着とは関係のない人たちであり、自分のために仕事をうまくやることに喜びを感じる人であり、家族や隣人、あるいは国のために自分を犠牲にすることに喜びを感じる人であり、自分自身のために徳の高い生活をすることを愛する人でもある。経済学者は人をそのままの姿で扱う。だが、主として人生のこうした面に関することは、動機に根ざした行動が規則的なものであるため、予測することが可能なのである。またエンジン動力の見積もりは、結果から証明することができる。このように経済学者は、科学的基礎にもとづいて分析を成し遂げるのである。(1.Ⅱ.33)

第一に経済学者が取り扱うのは、観察することが可能な事実であり、測定や記録が可能な量なのである。そこで、そうした事柄に関して意見の違いが生じたときでも、違いをみんなで吟味して、しっかりとした記録に残すことが可能になるのである。このようにして経済学は、その研究にしっかりとした基礎を築く。第二に、経済学として束ねられる問題は、人の行動に関したものである。また、それはお金の価値によって測られる動機の影響をうける。経済学の問題とは、均質のグループをつくろうとして見いだされるものである。もちろん、経済学には共通する課題が山積みである。それは事例の特徴からも明らかなことである。ア・プリオリ(原因から結果へというように)に明らかではないけれど、そこで明らかになる真実とは、主な課題が、基本的にまとまったものであるということである。その結果、共にそうした課題を研究することによって、同じ類の経済を達成することになる。それは言わば、それぞれの人が個々の郵便配達人に手紙を預けるのではなく、郵便配達人をたった一人派遣して、すべての手紙をある街区に配達するようなものである。つまり分析と理由づけの過程がそれぞれのグループに求められているものであり、他のグループにとっても役に立つということなのである。(1.Ⅱ.34)

だから、あまり堅苦しい調査には悩まないほうがいい。例えば、経済学の範疇で、なんらかの報酬が生まれるかどうかということに関するものである。もし、そうしたことが重要なら、できる限りにおいて考慮しようではないか。仮に、そこに独創的な意見が生じるようなものであり、その知識が正確なものなのかどうかと吟味することも、また、よく確かめられたものなのかどうかと吟味することも不可能だとしてみよう。分析したり推論したりする一般的な経済学の仕組みが、その調査で掌握できないものなら、そのときは、純粋な経済学の研究の域にとどめておこう。でも、単純に考えてみよう。そうしたことまで研究の域に含もうと試みることは、私たちの経済に関する知識の確実性と正確さを低下させることであり、その試みが報いられるだけの利益はない。また、そうした判断が、倫理的本能や常識によってなされるものであるということは常に記憶しておくべきである。こうしたときにおいて、経済学者が最終的な審判者として、経済学や他の科学のおかげで学んだり考えたりした知識を、実践的なことがらにあてはめるようになるのである。(1.Ⅱ.35)

2章の脚注

4.(1.Ⅱ.1)社会科学の合計に対して経済学が関連する点は、巻末解説C、1、2に書く予定である。 5.(1.Ⅱ.8)哲学者の中には、どんな環境でも、二つの喜びは等しいものであると反論する者もいる。そうした反論は、経済学者がからむ文言より、他の分野の者がからむ文言にあてはまるように見える。経済学の用語を習慣的に使う者に、不幸にして時々見受けられることであるが、経済学者とは快楽主義や功利主義の哲学のシステムに束縛されるという考えをほのめかすことがある。経済学の用語を使う者にすれば、最大の喜びには、自らの義務をおこなうという努力を伴って当然なのである。その一方で、「喜び」や「痛み」が、すべての行動の動機になると語っている。そこで経済学の用語を使う者は、哲学者の叱正に自らをさらすのである。また、哲学者が一緒になって主張する原則の一つに、義務をおこなおうとする欲望が、喜びを求める欲望とは異なるというものがある。もし、たまたま原因について考えたとしても、そこには期待されるものがあるものであり、正確には「自己満足」と「永遠の自己満足」のための欲望として語るべきものかもしれない。(T・H・グリーン、倫理への助言を参照) 倫理的論争でどちらかの肩をもつようなことは、はっきり言えば、経済学の分野ではない。行動をおこす全ての動機とは、それが知覚できる欲望である限り、適切に、かつ簡潔に「満足」への欲望として語られるものなのかもしれない。だから、あらゆる欲望の対象について語る機会があるときには、「喜び」の代わりに、「満足」という言葉を用いたほうがいいのかもしれない。たとえ、人の高い特質に属するものだろうと、低い特質に属するものだろうと関係ない。満足の反対語は、単純には、「不満足」(dissatisfaction)である。しかし、ここでは、もっと簡潔で色のない単語である「損害」(detriment)を使うほうがいいのかもしれない。 しかしながら、ベンサム派の支持者が(ベンサム自身はそうではないけれど)「痛みと喜び」を大いに利用して、利己的な快楽主義から完璧な倫理の教義へと橋渡しをしていることについて言及する者もいるかもしれないが、独自の主な前提条件をとりいれる必要を理解しているわけではない。そうした前提条件にたてば、必要性とは絶対的なものに見えるからである。たとえ形式に関して、意見が異なるとしてでもある。無条件に価値のある命令として、前提条件をみなしている者もいる。一方で、簡潔な考えとして前提条をみなしている者もいる。道徳的天分が由来しているものが何であろうと関係ない。道徳的天分の兆候とは、人が体験から判断することで生じるものであるが、それは真の幸せとは自尊心をともなうものであり、また自尊心とは人として進歩しようと生きる状況でいだくものなのである。

6.(1.Ⅱ.10)エッジワースの数理物理学を参照。

7.(1.2.16)これは満足を感じている集団について、とりわけあてはまる。その満足とは、「追求の喜び」と名づけられているものである。追求の喜びとは、狩りをしたり障害競走をしたりと試合や娯楽をとおして、陽気に競争するだけでない。職業や仕事についての真剣な競争を含むものである。私たちは追求する喜びに多大な注意をはらい、賃金や利益を制する原因や産業組織を形づくる原因について話し合う。  中には性格が気まぐれな人もいて、そういう人は自分の行動の動機について適切な説明をすることができない。しかし、しっかりとした考え深い人ならば、衝動といえども習慣からくるものであり、その習慣とは多少なりとも慎重に選んだものをとりいれたものなのである。こうした衝動とは、高い特質からくる表現であることも、そうでないこともあるだろう。良心からきていることもあれば、そうでないときもあるだろう。社会的つながりの圧力にまけて生じた場合も、そうでない場合もあるだろう。肉体的な必要にせまられての場合もあれば、そうでない場合もあるだろう。いずれの場合でも、意図的にそうした衝動を優先することを決意し、当面は考えないことにしたのである。なぜなら、これまでにも、そのように優先していくことを意図的に決意してきたからである。他人に及ぶ行動のすぐれた魅力とは、そのときは計算した結果ではないにしても、多少は意図的に決定したものであり、以前にも似たような事例でなされた決定なのである。 8(1.2.21).クリフ・レスリーの「お金への愛」という素晴らしい小論を読んでほしい。お金のためにお金を追い求めるだけで、お金を使って何をしようかということは気にかけず、とりわけ仕事に費やしてきた長い人生の最期の場面においても気にかけない人のことを、よく耳にする。だが、これも他の場合と同様に、もともとの目的が存在しなくなってから、何かをするという習慣が続けられているということなのである。富を所有することで、仲間に対して権力を感じるようになり、苦くも喜ばしい一種の妬ましい敬意を感じる。 9.(1.2.22)実際、私たちの経済学と同じような経済学があるものとして、世界は考えられている。しかし、その経済学には、いかなるお金もない。脚注Bの8とDの2を参照。 10.(1.2.23)ドイツで考えられているような経済学の大まかな範囲に関する指摘の幾つかを脚注Dの3にあげておく。

 

 

 

 

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