道徳感情論 セクション2

セクション2 情熱の度合いが礼儀正しいものであれば

1.Ⅱ.1  過剰な感情

関係のある対象から喚起される情熱がすべて礼儀正しいものであるということは、観察者が理解できる程度の情熱だということでもある。明らかに、平凡な情熱にちがいない。もし、その情熱が高すぎても、低すぎても、観察者はその情熱を追体験することはできない。個人の不運や損害への悲しみや怒りは高いものとなりがちかだが、そもそも大半の人がそうなのである。さらに加えるなら、これはあまりあり得ないことかもしれないが、怒りや悲しみの程度が低すぎることもある。この過剰な感情のことを、弱さと名づけたり、怒りと名づけたりする。また欠点のことを、愚かさと呼んだり、無関心とか精神の不足と呼んだりする。そうした感情を追体験することは出来ない。だが、そうした感情を見て驚いたり、困惑したりすることはある。(1.Ⅱ.1)

1.Ⅱ.2 不作法にみえるも、優雅にみえるも共感次第

しかしながら、こうした平凡さにの中で、礼儀正しさの程度というものが形成されてくるのである。また感じる感情が異なれば、礼義正しさも異なってくる。その感情は高ぶることもあれば、沈みこむこともある。感情の中には、強く表現することが無作法になるものもある。そうした感情を強く表現されると、非常に無作法なものとして感じないではいられない。しかしながら感情の中には、強く表現されても、極めて優雅にみえる感情というものが往々にしてある。たとえ、それがやむをえず生じた感情だとしてでもある。無作法にみえる感情に、共感が少しもわいてこないのには、何らかの理由がある。優雅にみえる感情に、非常に強い共感をいだくのは、別の理由からである。人間の特質から生じる様々な感情を考えてみよう。多少なりとも共感に比例して、そうした感情が礼儀正しいものとして、あるいは礼義にそぐわないものとして、見なされていることに気がつく。(1.Ⅱ.2)

情熱が肉体のある状況や性癖に由来するとき、そうした情熱を強く表現することは下品である。なぜなら仲間が、そうした情熱に共感してくれるとは思えないからだ。例えば、極端な飢えというものは、多くの場合、自然発生的に生じるものであり、避けがたいものであるのだが、それでも常に下品なものである。さらにがつがつ食べることは、好ましくない作法として見なされている。しかしながら、それでも飢えに対してでさえ、なんらかの共感をいだく。仲間がもりもり食べているのを見ることは、好ましいことであり、そのことに嫌悪の情を表現されるのは不快なことである。健康なひとにとって習慣となった性癖のせいで、あるいはそうした性癖がないとしても、そのひとの胃袋は正確に時を刻むだろう。こうした粗野な表現が許されたらとしての話だが。包囲攻撃の日誌や航海日誌の記述を読むとき、過度の飢えが記された苦悩に共感することができる。受難者の苦しみを受けている自分自身というものを想像し、それが基となる悲しみ、恐怖、驚きというものをすぐに受けとめる。こうした感情に、受難者は苦しんでいるにちがいないからだ。自分たちでも、ある程度、こうした情熱を感じ、共感することもできる。しかし日誌の記述を読むことで空腹になることはないから、こうした場合、飢えに共感しているとは言い難い。(1.Ⅱ.3)

1.Ⅱ.4 女という魅力的な性に無感覚になってはいけない
自然が二つの性を結びつける情熱も、これと同じケースなのである。一般的なことだが、すべての情熱のなかで最も猛々しく、またそのなかでも強く表現される情熱がすべて、ときおり不作法になるものである。人と神の法によって、まったく悪意がないために、極端な耽溺が認められている人のあいだでにおいてでさえ不作法になるのである。しかしながら、こうした情熱にすら、ある程度、共感があるようにみえる。男に対して話すようにして女に話すことは不適切である。女という集団は、男よりも陽気で、からかうことが多く、もっと優しいものだから、私たちを奮い立たせることが期待される。だから、この魅力的な性に対してすっかり無感覚になるということは、同性に向かい合うときにおいても、男を侮蔑に値するものにしてしまう。(1.Ⅱ.4)

Ⅱ.5 欲望を処理するときには、蓋をかぶせた料理を扱うようにして臨むように
肉体に由来する欲望を嫌悪する気持ちには、強いものがある。こうした欲望の強い表現には、嫌悪を感じるものだし、不愉快な感じをうけるものである。古代のある哲学者によれば、こうした欲望というものは、野獣と共有する情熱であり、人間の本質とは関連のないものであり、威厳の下にひそんでいるものなのである。しかし、野獣と共有する情熱とは他にも多くあり、例えば怒り、自然な愛情、感謝というものがある。こういうわけながら、感謝などは野獣の感情には見えないものである。他人のなかに肉体への欲望をみるときに、妙な嫌悪感を心にいだくのには、もっともな理由がある。それは、その欲望を追体験するわけにはいかないためである。欲望を感じるひとにとって、そうした欲望は充たされるとすぐに、わくわくしていた筈の対象が好ましいものでなくなってしまう。そして、その存在は、不快なものになる。そこで少し前に夢中になっていた魅力をもとめ、むなしくあたりを見回すわけだ。そのようにして他のひとと同じように、その情熱をこれ見よがしに追体験する。私たちは食事をとるとき、食器の蓋をとるように頼む。もっとも激しく、情熱的な欲望の対象が、肉体に由来する情熱そのものだとしよう。そのときは蓋をかぶせた料理と同じようにして、欲望の対象を扱わなくてはいけないのだ。(1.Ⅱ.5)

1.Ⅱ.6 自制が肉体の欲望をおさえこむ
適切にも「自制」とよばれる徳は、こうした肉体の欲望をおさえることで成り立つ。健康と富が定める範囲のなかに、肉体的欲望をおさえるということは、思慮深いことでもある。しかも、こうした範囲は、上品になるために必要とされるものでもあり、礼儀正しくあるために必要とされるものでもある。また繊細であるために必要とされるものでもあり、慎み深くあるために必要とされるものでもある。こうした範囲のなかに肉体の欲望をとどめるということこそ、自制によっておこなわれるべき仕事なのである。(1.Ⅱ.6)

 1.Ⅱ.7 肉体の苦痛に同情しても共感するとまでは言い難い

肉体の欲望を嫌悪するのと同じ理由で、肉体の痛みがこの上なく耐えがたいものであろうとも、その痛みのせいで泣き叫ぶということが男らしくないことのようにも、見苦しいことにもいつも思えるものである。しかしながら肉体の痛みには、大いに共感するところがある。もし、これまでに観察されてきたことだが、殴りかかる場面を目撃して、他の人の足や腕に一撃がくわえられようとするなら、自然に後ずさりをして、足や腕を引っ込めるだろう。そして一撃がくわえられると、ある程度はその一撃を感じとり、受難者と同じように衝撃をうける。しかしながら私が怪我をしているかと言えば、明らかに、少しも傷ついてはない。そういうわけで、激しい悲鳴を聞いたとしても、受難者についていくわけにはいかないので、きっと相手のことを軽蔑することだろう。だが、これは、肉体に起源がある情熱の場合である。そうした情熱は、まったく共感をうまないものである。共感をうんだとしても、この程度のものである。だから、その共感とは、受難者が感じる暴力とは釣り合いのとれていないものなのである。(1.Ⅱ.7)

 1.Ⅱ.8 肉体への影響よりも想像力への影響の方が大きい

肉体に由来する情熱とは、想像力に由来する情熱とまったく異なるものである。私の体の骨格が、仲間の体の骨格に生じる変化に影響されることはほとんどない。しかし私の想像力を更にのばすことは可能である。また、こう表現することが許されるなら、自分が慣れ親しんだものの外形や形について推測することも、更に簡単なことである。このため愛における絶望も、野望における失意も、肉体上のひどい災いが生み出す共感よりも、更なる共感をよびおこすものである。こうした情熱とは、完全に想像力から生じるものである。すべての財産を失った人でも、もし健康であれば、その体のうちに何も苦しみは感じはしない。その人が苦しむものは想像力のみであり、想像力がその人に描くものとは威厳を喪失した姿であり、友達から無視された姿であり、友からの侮蔑であり、他人にすがっている様であり、欠乏や悲惨さに苦しむ姿であり、じきにわが身にふりかかってくるものである。こういうわけで、私たちはその人に強く共感するのである。なぜなら自分の体を駆使して相手の体を形成するよりも、自分の想像力を駆使して相手の想像力を形成する方がたやすいからである。(1.Ⅱ.8)

 

1.Ⅱ.9 どんな不幸からも喪失感が生じる

情婦を一人失うよりも、足を一本失うほうが一般的に切実な不幸として見なされている。足を失えば、それは途方もない悲劇であろう。しかしながら不幸も、そうした類の喪失を生み出すものになる。その他の不幸がとても軽薄なものに見えようとも、立派な喪失感を生じるのだ。(1.Ⅱ.9)

1.Ⅱ.10 痛みは治ればすぐ忘れるが、想像力の痛みは続くもの

痛みほど、すぐに忘れられるものはない。痛みがなくなると同時に、痛みの苦痛も終わり、痛みについて考えてみても、不安になることはもはやない。痛みがなくなったそのときに、自分自身で追体験できないのは、以前、心に抱いていたはずの不安や苦痛である。さらに友人からの偽りのない一言の方が、不安がいつまでも続く原因となるだろう。この一言が生じる苦痛とは、けっして言葉を介してではない。最初に私たちを悩ませるものとは、感覚をとおしてとらえた対象ではなく、想像力という思考力なのである。その思考力とは不安の原因になるものだから、それゆえ時が経過して、他にも事が起きて、想像力という思考力を記憶からある程度消し去るまで、想像することで想像力が心のうちを浸食し続け、傷がうずく。(1.Ⅱ.10)

 1.Ⅱ.11 病の痛みには共感しないが、病からくる恐怖には共感するもの

痛みとは、脅威をともなうものでもなければ、強烈な共感をよびおこすものでもない。私たちが共感するのは恐怖の念であって、受難者の苦悶ではない。しかしながら恐怖とは、想像力に由来する情熱であり、不確実さと不安定さのせいで不安を増大させるものである。恐怖とは、現実に感じるものを表現しているのではなく、これから苦しむことになるだろうものを表現しているのである。痛風や歯の痛みは非常に痛いものであるけれど、少しも共感をよびおこさない。もっと恐ろしい病気の方が、たとえ痛みがまったくなものだとしても、この上なく強い共感を喚起するのである。(1.Ⅱ.11)

1.Ⅱ.12 慣れた苦しみには共感できないが、目新しい苦しみには共感する

外科手術の様子を見た人の中には気を失う人もいれば、具合が悪くなる人もいる。肉を引き裂くことで生じる肉体的な苦痛は、過度の共感を引き起こすように見える。まざまざと強烈に思いうかぶ苦痛とは、外的な理由から生じる苦痛である。内部の乱れから生じる苦痛を思いうかべることは、それほどない。隣人が痛風や結石にひどく苦しんでいるとき、その苦痛を思いうかべることはほぼ不可能である。だが切開手術をうけたり、傷ついたり、欠損したりしいての苦しみを、はっきり思い描くことは可能である。こうしたことが強く影響してくるのは、それぞれの出来事が目新しいせいである。解剖に数多く立ち合い、切断手術にしばしば立ち会ってきた者は、その後いつまでも、こうした類の手術を見ても動じることなく、見事なまでに何も感じることがない。幾多の悲劇を目にしたり、読んだりしてきたが、そうした悲劇がおこす感情への感受性が鈍ることは滅多にない。(1.Ⅱ.12)

ギリシャ悲劇の中には、肉体的な苦悶を表現することによって、同情を喚起しようと試みているものがある。名射手ピロクテテスも、苦しみが極みに達すると叫び声をあげて気を失った。ヒッポリュトスとヘラクレスは共に、厳しい拷問をうけて息をひきとろうとしているところが紹介される。ヘラクレスの不屈の精神も、その拷問には耐えられなかったように見える。しかしながら、こうした全ての場面において、私たちの興味をひくのは苦痛ではなく、その他の状況なのである。私たちに影響をあたえて拡散していき、その何とも言えない悲劇や想像力に好ましい冒険物語の無謀さにまで広がるものとは、ピロクテテスの痛む足ではない。ヘラクレスとヒッポリュトスの苦悶に関心をもつ理由とは、ただ死がその結果にあることを予感するせいなのである。もし、こうした英雄が救出される運命にあるなら、苦しみを表現する様子を滑稽だと考えるだろう。腹部の痛みの絶望には、どんな悲劇があるというのだろう。しかしながら痛みほど申し分のないものはない。肉体的な痛みを表現することで同情をひこうとする試みは、ギリシャ悲劇の例にあるように、秩序の最大の崩れとして見なされるものかもしれない。(1.Ⅱ.13)

1.Ⅱ.14 苦痛に耐える人を賞賛したくなるとき

肉体的な苦痛に対して共感をいだくことはあっても、その共感がいつまでも礼儀正しくあるための礎になることもなければ、苦痛に耐えるための忍耐力の礎となることもない。非常に厳しい拷問をうけていても、弱みをみせず、うめき声をもらさず、共感を分かち合うことのない人は、私たちから非常に高い賞賛をうけるものである。そうした堅固さがあるおかげで、厳しい拷問をうけている人は、私たちの冷淡さにも、無関心さにも合わすことが可能なのである。こうした趣旨でおこなう気高い労苦に対して、私たちは賞賛し、心から賛成するのである。そうした人の態度が正しいと認めつつも、人間の特質に共通する弱さを体験することで私たちは驚き、賞賛に値する行動がどうすれば可能かと不思議に思う。賞賛の感情とは、不思議に思う気持ちと驚きが入り混じって喚起されるものであり、そこから賞賛とよぶにふさわしい感情が構成される。賞賛の気持ちから拍手喝采をすることも、これも自然な表現である。(1.Ⅱ.14)

二章 想像力という才能や癖に由来するこうした情熱について アダム・スミス 道徳感情論 情熱について語る時、あざけったり、からかったりしないではいられない

想像力に由来する情熱のなかでも、想像力から生じた独特の才能や癖に端を発するものがある。情熱をいだくことがどこまでも自然なことだと認められていても、少しも共感することはない。人間の想像力とは、独特の解釈を獲得したものではないので、情熱を分かち合うわけにはいかない。こうした情熱とは、人生のある局面において、避けがたいものであると考えられている。だが、いくぶん、常に奇妙なものである。こうしたことは、性が異なる二人のひとのあいだで、たがいの考えを相手に伝えたりするうちに、長い時間をかけて、自然に育っていくものである。だが、私たちの想像力とは、恋する人の想像力と同じような筋道をたどるわけではない。だから、恋する人の情熱の激しさを追体験することはできない。もし友が負傷すれば、その友の怒りを共感することはたやすいし、友が怒りを感じている相手に怒りを感じる。もし友を援助するなら、友の感謝をうけることは容易なことだろうし、恩人としての高い価値をおかれることだろう。しかし友が恋におちているなら、その情熱が他の情熱と同じくらい理にかなったものだと考えるかもしれないが、それでも決して同じ種類の情熱をいだこうとは思わない。そうした情熱が対象の価値とは釣り合っていないように見え、すべての人にとって不釣り合いなものに見え、たとえ情熱を感じる人であろうとも不釣り合いであることにかわりない。さらに愛にしても同じである。愛とは、ある年齢のときには自然なものだから、許されるものである反面、いつも笑われるものである。なぜなら、愛とは追体験できないものだからである。愛について真剣に、強く表現するということは、第三者には奇妙なことに思える。情人は、相手の女性にすれば良い仲間かもしれないが、他の者にとってはそうではない。そしてその男がまじめであれば、自分の情熱のことを嘲笑したり、からかいながら扱おうと試みるだろう。あざけったり、からかったりという形こそ、情熱について耳を傾けようとする唯一の形である。なぜなら、あざけったり、からかったりといいうことが、情熱について語りたくなる唯一の形なのである。私たちはカウリーやペトラルカが語るような、まじめで、学者ぶっていて、長々とした愛の詩にうんざりしている。カウリーにしても、ペトラルカにしても、愛情からくる暴力について大げさに語ることは決してない。だがオウィディウスの陽気さや、ホラティウスの勇ましさは常に好ましいものである。(1.Ⅱ.15)

1.Ⅱ.16 航海の話を聞くのは餓えを知りたいからではない、餓えからくる絶望を知りたいからなんだ

こうした類の愛情に、ぴったりと共感することはない。特定の人に情熱をいだくということを、想像することもない。それでも同じような種類の情熱をいだいたとき、あるいは、そうした情熱をもちたいと思うようなとき、すぐにこうした期待の高ぶりを体験するが、それは満足からくる幸せであり、絶望におそれおののいたときに味わう失意と同じようなものである。情熱に心ひかれるわけではない。希望や怖れ、あらゆる種類の絶望など、心をとらえる他の情熱へのきっかけとなる状況に興味をいだくのである。同じようにして航海について語るときにも、私たちの心をとらえるのは飢えではなく、飢えから生じる絶望なのである。愛情で結びついた恋人の気持ちを同じようにして追体験することはないが、その結びつきからロマンチックな幸せを期待する恋人たちの気持ちに、私たちもやすやすと合わせていく。状況によっては、怠けにかられて弛緩してしまう心の持ち主もいる。また荒々しい欲望に疲れた心の持ち主もいる。そうした人が、静かで平穏な生活に憧れることは仕方がない。悩ましい情熱に満足しながら、そうした生活を見いだそうと望むことも当然なのである。のどかな静けさと安らぎにみちた生活について考えることもやむを得ない。優雅で、優しく、情熱的なティブルスも、そうした生活について語ることに大きな喜びを感じている。それはギリシャ神話の黄泉の国「幸福の島」で詩人たちが語るような生活である。友人に囲まれて、自由に安らげる生活であり、労働からも、心配事からも解放され、その結果、荒れ狂う情熱すべてから解放された生活である。こうした舞台のなかでも私たちを最もひきつける場面とは、楽しみのある生活ではなく、期待のもてる生活として描かれているものである。この情熱というものは愛と混じり合いながら、おそらくその基盤となるものである。満足から程遠いものであったり、少し距離のあるものであるとき、その情熱は消失してしまう。だが、すぐに心を動かすものとして語るときには、その情熱が総攻撃をかけてくる。幸せな情熱とは、この見方によれば、怖ろしいものであり憂鬱なものでもある。自然なものであり、好ましいものである希望をくじくものが何であれ、私たちは震えてしまう。つまり、このようにして味わうものが、恋人についての不安であり、心配であり、絶望である。(1.Ⅱ.16)

 1.Ⅱ.17 共感するのは恋人たちの愛情ではなく、そこから生まれる悲劇である

このことから察するに、昨今の悲劇や恋愛小説において、こうした情熱はとても心ひかれるものに思える。悲劇オーファンで私たちをひきつけるものは、カスタリオとモニミアの恋愛ではなく、その愛を生じることになる悲劇なのである。作者は二人の恋人について語りながらも、恋人たちが互いを愛おしく思う気持ちについて確信をもって表現しているが、そこで生み出そうとしているものは笑いであって、共感ではない。こうした恋人たちの場面を悲劇で描くことを許して、いくぶん不適切なところがありながらも我慢してもらっている。それは劇中で表現される情熱に共感するからではない。危険や困難について関心をいだくからであり、その困難から喜びが生まれるだろうことを観客が予見するからである。(1.Ⅱ.17)

 1.Ⅱ.18 二流どころの情熱

社会の慣わしが女性に課している慎み深さとは、こうした偏りのせいであり、奇妙な悲しみを慎み深さにあたえるものである。しかしながら、更に、つきることのない興味深さをあたえるものである。私たちが魅せられる「パイドラの悲劇」とは、その放縦さや罪悪感にもかかわらず、フランスの悲劇として、その名前で上演されている。その放縦さや罪悪感こそが、私たちに勧める理由だと言われることもあるかもしれない。ヒロインの恐れや恥じらい、悔やんだり、恐怖におののいたり、絶望にかられるヒロインの姿は自然なものであり、心ひかれるものである。もしこのような言い方が許されるものなら、二流どころの情熱とは愛という状況から生まれるものであり、かならず荒々しく猛り狂ったものになる。共感しているという言い方があてはまるのは、こうした二流どころの情熱をともなう時だけである。(1.Ⅱ.18)

1.Ⅱ.19 情熱そのものには妥当性はないけれど、情熱をあたえてくれるものには妥当性があるんだよ
相手の価値とはまったく釣り合いがとれない全ての情熱のなかでも、愛とはただ唯一、弱い者の心にある愛であろうとも、優雅であったり、好ましかったりする何かがあるように思えるものである。愛そのものは、何はさておき奇妙なものであるかもしれない。だが、本来は嫌なものではない。愛の結果として、死がもたらされることもあれば、恐ろしいことがあるかもしれない。だが、愛に対する心構えが害となることはめったにない。それからさらに、情熱そのものには妥当性というものはないけれど、情熱をつけ加えるものには妥当性がある。愛とは、人間らしさや度量の大きさ、親切にする心や友を大事にする心、敬う気持ちがはっきりと混ざり合うものである。やがて明らかにされる理由から、情熱がやや過度なものだと気がついていても、私たちには共感する傾向が強い。そうした共感がしめす情熱は、好ましくないとは言えないものをつけ加え、想像力のなかで情熱をささえることになる。だが、情熱にともないがちな悪徳に妨げられることはない。片方の性において、情熱とはこの世の終わりの廃墟へとつながる道であり、非難をあびる原因になるものでもある。かたや死をもたらすものと思われている他方の性においては、情熱が生じるものとは労働にとりくめなくなる事態であり、義務を無視してしまうことであり、名声や広く知られた噂というものを軽蔑することである。それにもかかわらず、情熱のおかげで感受性や器の大きさが生じるとみなされ、多くの人にとって、情熱とは、自慢すべき対象なのである。だが情熱を感じたとしても、名誉なことではないと感じているように思われたがる。(1.Ⅱ.19)

1.Ⅱ.20 人とつきあうには抑制が肝心

友人について話すときも、研究について話すときも、職業について話すときも、なんらかの抑制が必要であるということは、同じ理由による。友人にしても、研究にしても、職業にしてもすべて、期待をもてないものでありながら、友達が私たちの関心をひきつけるのと同じ程度に、そうしたことすべてが友達の関心をひきよせるものである。しかしながら人類の半分が互いにうまく付き合うことができないのも、こうした抑制が欠けているせいである。哲学者の仲間になるのは哲学者のみである。それと同じようにして、ささやかながら仲間の絆をもつ者だけが、同じクラブの一員となるのである。(1.Ⅱ.20)

3章 反社会的な情熱について

1.Ⅱ.21 私たちは情熱を感じる人にも共感するし、情熱に反対する人にも共感する

 別な情熱というものもあり、それは想像力に由来するものである。だが、その情熱を追体験し、感じがよくて、適切なものとしてとらえる前にしておくべきことがある。それは自制に欠けた本性から生じるレベルにまで、情熱のレベルを低く下げることである。情熱とは嫌悪の情であったり、怒りであったりするが、それぞれすべての情熱に調整がくわえられている。そうした全ての情熱に関して言えば、私たちの共感は二つの立場に分けられ、情熱を感じる人と情熱に反対する人の間に分けられる。こうした二つの立場にある人の私欲とは、まったく逆である。情熱を感じている人への共感から駆り立てられて求めるものが何であろうと、もう片方の立場の人に同情するということは、恐怖へとつながることである。二つの立場の人が共に友であるならば、その双方のことを心配する。一方が苦しむかもしれない恐怖を考えると、他方が苦しんできた怒りはしずまることになる。挑発をうけている人に共感はしても、その人をかりたてる情熱には共感しないものである。元々の感情に比べると、共感する感情の方が劣るという一般的な理由のせいだけでない。共感にはよくある特別な理由のせいである。すなわち、もう片方の立場の人に対しても、逆の形で共感するからである。怒りを感じがよく、好ましいものにしてしまう前にするべきことがある。怒りという感情を卑しめ、おとしめることで、他の情熱ではなく、怒りが自然と生じてくるようにすることなのである。(1.Ⅱ.21)

1.Ⅱ,22侮辱そのものに憤って共感するわけじゃない、侮辱をうけて耐えている人の性格に好ましさを見いだすから共感するんだ
人間は怒りを感じると同時に、他の人への侮辱についても強く意識する。悲劇や小説における悪役が憤りの対象となるように、英雄は共感や愛情の対象となる。イアーゴを憎むのと同じように、私たちはオセローを尊敬する。またイアーゴへの罰を喜ぶように、オセローの失意を悲しむ。しかし自分の兄弟がうけた侮辱については仲間として強く意識するが、受難者が憤るよりも更に強い調子で、侮辱に憤るわけでもない。ほとんどの場合、受難者は忍耐強くなり、穏やかさも、親切心も増すが、熱情を求めているようにも、また恐怖が慎み深さの動機になるようにも見えない。だが、受難者を侮辱をした人への怒りは強まっていく。受難者の好ましい性格に、侮辱という暴虐行為をうけているのだという人々の思いが増すからである。(1.Ⅱ.22)

1.Ⅱ.23 侮辱されている人への共感
しかしながら、侮辱に憤る情熱は人間性に必要なものとして考えられている。軽蔑をされる人とは、侮辱をうけても座っているだけの人であり、侮辱をはねかえすこともしなければ、復讐することもない人である。そうした人の関心を示さない様子も、何も感じない様子も理解することはできない。そうしたふるまいを見て、人々は懐がせまいと言い、敵の横柄さに腹をたてるのと同じくらいに立腹する。無礼な言葉を投げつけられても、冷たい扱いを受けても、辛抱強く耐えている人を見れば、どんな下層の民でも立腹するものである。こうした横柄さに憤りの声があがり、横柄さに苦しむ人が憤る様を見ようと望む。苦しんでいる人にむかって怒りとともに呼びかけるのは、その人を守るためでもあり、復讐してもらうためでもある。やがて、苦しんでいる人の憤りが冷めたら、人々は心から賞賛して、その人に共感するだろう。受難者への共感のせいで、敵にたいする人々の怒りが勢いづく。そして今度はかわって、受難者が攻撃する様を見て嬉しくなり、過度なものでなければ、受難者からの復讐を心から歓迎する。それはまるで、自分にたいして侮辱がされたかのようである。(1.Ⅱ.23)

1.Ⅱ.24 目に見える効果もあれば間接的な効果もある

 復讐をめぐって個人への情熱が機能することが知られているのは、相手を侮辱したり傷つけたりすることが危険なものだからである。復讐をめぐって社会への情熱が機能することが知られているのは、正義の保護者としての役割があるからであり、その情熱が誰にでも等しくむけられるからである。これから示すように、復讐をめぐる情熱というものは重要なのである。しかし、そうでありながら、情熱そのものは不快なものである。そこで他のひとのなかに情熱というものがあらわれると、嫌に思う対象になるのは自然である。何らかの体の現状にむかっての怒りの表現が、露骨なほのめかしをこえるものであり、その表現がまちがっていると思えるものだとしよう。その場合、特定のひとを侮辱しているとみなされるだけでなく、すべての仲間に無礼をはたらいているものとしてみなされる仲間を敬う気持ちがあれば、荒々しく騒々しい感情にかられることもないはずだし、不快な気持ちになることもないはずである。だが、実際にはそうした感情にかられた。こうした情熱の結果が、遠くはなれたところで起きることは好ましい。間近なところで起きる出来事というものは、あらがいながらもその出来事へ導かれる人にすれば、害となるものである。想像力に働きかけて、対象を好ましいものにしたり、あるいは嫌なものにしたりするものとは、身近な出来事である。けっして遠く離れた出来事ではない。例えば監獄は、宮殿よりも役に立つ。宮殿を建設する者は一般的に、監獄を建設する者よりも、愛国心からなる闘争心に導かれる。しかし監獄の影響とは、即効性のあるものであり、監獄のなかに閉じこめられた悲惨な境遇にある人に怖気をふるうものである。想像力のせいで遠く離れた監獄もたちどころに思い描くことができる。そして監獄に影響をうけながらも、遠く離れたものとして監獄を見ている。それゆえ囚人とは常に嫌な対象だろう。目的どおりに機能すればするほど、監獄は遠くから思い描くものとなる。監獄とは反対に、宮殿とは常に好ましいものである。だが、その遠く離れたところからの影響は、人々にとって、しばしばよろしくないものなのかもしれない。宮殿とは贅沢をすすめるものになるかもしれないし、またマナーが崩壊した例となるかもしれないからだ。しかしながら宮殿の効果のなかでもすぐに見いだされるものがあり、それは宮殿内で暮らす人々の衣食住の便であり、喜びであり、陽気さなのである。その効果は好ましいものであり、想像力に心地よい考えをたくさん吹き込む。すなわち宮殿に暮らす人々には能力があり、さらにもう少し先の結果を追いかけようとする気持ちにはめったにならない考えである。絵画や漆喰で模倣された楽器や農作業の道具などの装飾品はよく見かけるものであるが、ホールや食堂の感じの良い装飾品である。同じような装飾品でも、外科手術や解剖のための器具、切断ナイフや骨を切断したり頭蓋骨をひらくためのノコギリなどを題材にしたものもあるが、そうしたものは理性に反するものであり衝撃的なものである。しかしながら農具よりも、外科手術の器具のほうが常によく磨きこまれ、本来の目的の意図にあうように準備してあるものである。間接的な効果ながら手術の道具には、患者の健康に好ましい効果がある。しかし、すぐにあらわれる効果とは苦痛であり、苦しみである。手術道具を見ると、私たちはいつも不愉快になる。戦争の道具も好ましいものである。だが、その目に見える効果とは、外科手術の器具と同様に痛みであり、苦しみである。しかし、それは同時に敵の痛みであり、苦しみであるが、その敵に同情することはない。私たちについて考えてみれば、戦争の道具が直接結びつくものとは、勇気、勝利、名誉についての考えであり、好ましい考えである。戦争の道具とは、衣装のなかでも最も高貴なものであると思われているし、戦争の道具を真似たものは建築のすばらしい飾りの一つだと思われている。心の本来の特質も同様である。古代のストア派の考えでは、賢く力があって善良なる神のもとで、世界はすべて統治されている。だから、すべての出来事は宇宙をかたちづくる必要な計画の一部分であり、全体の秩序や社会全体の幸せを推進する傾向があるものとしてみなされている。そこでは、人類の悪徳も愚かさも、宇宙をかたちづくる計画において必要なものである。同じようにして知恵も徳も、また必要なものなのである。このようにして悪から善をひきだす永遠の芸術とは、自然の偉大なはたらきを完璧なものにするし、また同じようにして繁栄したものにもする傾向がある。しかしながら、こうした類の思索がどれほど深く心に根ざしていようとも、悪徳にたいして自然にいだく嫌悪を減らすことはできない。悪徳の目に見える効果とは破壊的なものである。そして間接的な悪徳の効果もはっきりしているから、想像力で追いかけることができるものである。(1.Ⅱ.24)

1.Ⅱ.25  憎悪を追いはらおうとする理由

これまで考えてきた情熱についても同じように、目に見える結果もあれば、間接的な効果というものもある。目に見える結果というものはとても不快なものであるから、そうした結果が生じたばかりだとしても、嫌悪の情が生じる何かがあることは確かである。そのため、目に見える効果をひきおこす情熱とは、私が以前に観察したところでは、そうした情熱が生じる理由を教えてもらわなければ、その表現の仕方に共感したい気持ちになることもなければ、共感しようとして準備を整えることもないのである。悲惨な物悲しい声は、遠くから聞こえてくるものでも、その声を発している者に無関心でいることを許さないものである。その声が耳にはいるとすぐに、その者の運について関心をいだく。さらにその声が続くようであれば、私たちは思わずその声の主を助けようとして駆け寄る。同じように、微笑みをうかべた顔を見れば、悲哀を感じていたときも、陽気で軽やかな気分にまで気持ちを昂揚してくれる。そうした陽気な気分には共感したくなるものであり、微笑みが表現する喜びを共有したくなるものである。そして考えが後ろ向きになったり、関心がうしなわれたりする前のように、自分の心がみるみる膨らんで有頂天になるのを感じる。しかし、それは他の状況では強い嫌悪と怒りをともなうものである。しゃがれた怒声の荒々しさや、耳障りな様は、離れたところから聞いていても、恐怖、あるいは嫌悪の情をいだかせるものである。痛みや苦痛に泣きさけぶ者のように、怒声にむかって飛んでいくのではない。男にしても、女にしても、神経の弱い者は震え、恐怖のあまり何もできなくなるが、自分自身が恐怖の対象ではないことには気がついている。恐怖を心にいだくのは、しかしながら、そう感じている人の状況に自分をおく場合である。勇ましい心の持ち主でさえ不安には思うが、怖がるほどのものではない。だが怒らせるには十分なものである。怒りとは、他の人の状況に身をおきかえた場合に、感じる情熱だからである。嫌悪も同様である。単なる悪意の表現には、誰も奮い立つことはない。だが悪意を表現する本人は奮い立つものである。もともと怒りにしても悪意にしても、どちらの感情も嫌悪される対象である。その荒々しくて嫌な見かけに興奮することもなければ好感をもつこともなく、共感を感じることもしばしば妨げられる。悲しみがひきつける力は憎悪ほど強くないし、その悲しみを観察できる人に魅せられることはない。また、私たちはその理由を知りもせずに嫌悪して、その人と自分を切り離してしまう。憎悪のように更に荒々しくて、好感をいだくことができない感情を相手から追い払うのは、そうした感情を伝えることは容易ではないし、めったにできることでもないからである。それは昔からの自然の摂理のようである。1.Ⅱ.25

 1.Ⅱ.26 悲しみや喜びを音楽で伝えることは可能だけれども、怒りを伝えることは難しい
悲しみや喜びの抑揚を音楽が模倣するとき、こうした情熱で実際に意気昂揚としたり、少なくとも心に情熱をいだきたい気分になる。しかし音楽が怒りの調子を模倣するとき、私たちの心には恐怖が芽生える。喜び、悲しみ、愛、憧れとは、もともとが音楽的な情熱なのである。その本来の調子はすべて優しく、明確であり、心地よく聞こえてくる旋律であり、定期的に休止をいれることではっきりする楽節で表現される。こうした説明によれば、その休止は、調子を同じような雰囲気で、規則的に繰り返していくことに適したものである。反対に、怒りの声、それから怒りと質を同じくする情熱とはすべて過酷なものであり、不調和なものである。怒りをあらわす楽節とは不規則なものであり、ときに長く、ときに短く、定期的な休止がはいってはっきりすることはない。そのため音楽が、怒りのような感情を模倣することには困難をともなう。しかも怒りを模倣した音楽が、もっともよく伝わるというわけではない。(1.Ⅱ.26)

1.Ⅱ.27 怒りとは幸せの最大の毒である
こうした怒りのような激情が観ている者にとって不快なものであるなら、怒っている当人にとっても不快なものである。憎悪とか怒りという感情は、よき精神の持ち主がしあわせになるには、最大の毒となるものである。こうした激情の渦中で感じるものとは、粗暴かつ耳障りで発作的なものであり、心を引き裂いて悩ませるものであり、心の落ち着きと静けさを完全に破壊するものである。落ち着きと静けさとは幸せになるのに必要なものであり、憎悪や怒りとは反対の感情である愛や感謝によって、一番よく進められていくものである。心がひろく人間味にあふれたひとを悲しませるものとは、ともに生活している者の誠実さに欠けた行いや、恩を忘れたふるまいによって失われる金額なのではない。何を失おうとも、何かがないとしても、そうした心のひろいひとは、一般的に幸せになることができる。心のひろいひとをもっとも悩ませるものとは、自分にむけられる不誠実さや恩を忘れたふるまいなのである。更にこうした行動が招き寄せてる情熱とは不快なものであり、不協和音をかなでるものであり、苦しみとなる侮辱の大半をなすものだという。(1.Ⅱ.27)

1.Ⅱ.28 怒りがみとめられるとき

どれだけ多くのことを要求することで、怒って満足している状態が気持ちよいものとなり、観察者たちが私たちの復讐に共感するようになるのだろうか。先ずは挑発があるにちがいないから、ある程度、怒り返さなければ、軽蔑されてしまうだろうし、いつまでも侮辱されることにもなるだろう。些細な怒りは無視した方がいいし、ひねくれた意地の悪いユーモアとは、何よりも軽蔑に値するものであり、あらゆる口論の機会に火をつけるものである。憤ってしまうのは、その怒りが礼儀にかなっているかという感覚からである。また、怒りについてひとが期待したり、求めたりする感覚からくるものである。激怒という不快な激しい感情を心の内に感じるからではない。人間の心が受け入れることの出来る情熱とは、正しいか疑ってしまうような情熱ではない。生まれつき持ち合わせる礼儀正しさについての感覚に照らして、注意深く意見を求めなくてはいけない放縦な情熱でもない。冷静かつ公正な観察者の感情とは何かと、勤勉に考えなくてはいけないような情熱でもない。器の大きさが、あるいは社会で階層と威厳を保つことが、この不快な情熱を高貴なものにかえる唯一の動機なのである。この動機が、言葉遣いと態度そのものを特徴づけるにちがいない。言葉遣いと態度は、はっきりわかるように開かれたものであり、単刀直入なものにちがいない。疑問をはさむ間もなく決心してしまうが、傲慢になることなく元気づけてくれる。嫌悪もなければレベルの低い下劣さもなく、寛大さと率直さにあふれ、すべてが適切に考えられている。相手が害をあたえる者だとしてでもある。つまり全体から見れば、気取って情熱を表現しようと苦労しなくても、人間らしさが消えなかったということは明らかである。復讐するようにという命令を放棄することがあるにしても、それは嫌々ながら必要に迫られてのものであり、何度も繰り返して挑発された結果である。このように抑制して加減するとき、怒りは寛大で高貴なものだと認められるのかもしれない。(1.Ⅱ.28)

1.Ⅱ.29 すべてのひとが愛情に共感する理由

 

他のひとと分かち合うような共感であっても、先ほど取り上げた怒りという激しい情熱についての共感なら、ほとんどの場合、それは無様で嫌なものである。また、怒りとは反対の感情に対して抱く共感は倍にふくらみ、いつも心地よく、魅力的なものに思える。寛大な心も、慈悲あふれる心も、思いやりの心も、深く同情する心も、互いに親しくつき合って相手を敬う心も、社会における善意の感情すべてが、表情や行動で表現されるときには、特に関係のない者が相手だとしても、あらゆる場面で、先入観なしに観ている者は喜ぶものである。こうした思いやりや同情などの感情を感じているひとへの共感とは、正確に言えば、おもいやりや同情をむけられているひとへの関心と一致するのである。幸せのなかで見いだす関心のせいで、第三者の感情に対する共感が生き生きとしたものになり、また、第三者の感情も同じ対象へとむかっていく。そのため、優しい愛情には、いつも強く共感する傾向にある。優しい愛情とは、あらゆる点で好ましいものに思える。優しい愛情を感じて生じる満足とは理解することができるものだし、その愛情をむけられているひとが感じる満足も理解することができる。憎悪や憤りの対象になるということは、苦痛をもたらすものであり、勇敢な男であろうと恐れるものであり、敵からの災いよりも苦痛にみちたものである。だから、愛されているという意識には、満足感がある。繊細で感受性の豊かなひとであれば、愛されているという意識が幸せになるために重要であり、その意識からひきだされる他の何よりも重要なのである。友達のあいだに口論の種をまいたり、優しい愛情をひどい憎悪にかえたりするようなことに喜びを見いだすひとのような、嫌悪すべき特徴とは何なのであろうか。そして、このようにひどく嫌われる無礼の大半は、どこにあるのだろうか。無礼が人々から奪ってしまうものとは、友情が続いていたとしたら相手に期待できたかもしれない、愚かしいコネなのだろうか。いや、無礼が人々から奪い去るものとは、友情そのものであり、互いの愛情なのである。その友情にしても、愛情にしても、共に満足をひきだすものなのである。無礼とは、心の調和を妨げるものであり、以前はあったはずの幸せな交流に幕をおろすものである。こうした愛情も、調和も、心の交流も、優しくて繊細な心の持ち主だけが感じるものではなく、粗野な庶民すら感じるものである。そうした感情から期待される僅かな恩恵が重要なのではなく、幸せそのものが重要だからである。(1.Ⅱ.29)

1.Ⅱ.30  家庭での愛
 愛という感情そのものは、愛を感じる人にとって好ましいものである。愛とは心をしずめ、感情をつくりあげるものであり、生き生きとした動きで好意をしめすようにみえるものであり、また、ひとの体の健康状態を促進するもののようにもみえる。さらに愛をもっと魅力的なものに表現するものとは、感謝と満足する心への自覚だが、それは、愛の対象となるひとの中に呼び起こされる筈のものである。感謝と満足の相互関係とは、片方の感情がもう片方の感情を幸せなものにするというものである。相互の愛と尊敬を支配するすべてから、どんな喜びを家族に見いだそうと、互いへの愛と尊敬を支配する喜びをとおして、両親と子供たちはお互いに仲間なのである。互いへの尊敬すべき愛情もなければ、優しい甘やかしがなくても、仲間なのである。家庭で自由と愛情、相互のからかいと優しさが見せてくれるものとは、利益を競争して兄弟が分かれることでもなく、ひいきをめぐる競争が姉妹を疎遠にしてしまうことでもない。家庭では、あらゆるものが、平和、気持ちよさ、調和、満足についての考えを伝えることになるのだろうか。それとは反対に、同じ家に住む者のうち半分が、他の半分と耳障りな喧嘩をしている家に入るとき、どれほど不安になるであろうか。家庭では、互いに影響をうけているような人あたりのよさと親切な心にかこまれることになり、疑い深い表情も、情熱の急なほとばしりも、心のなかで燃え上がる互いの嫉妬を裏切ることになり、実行にはいたらない。仲間の存在のせいで課せられる拘束力から、刻々と燃やしつくされるのは、疑い深い表情と情熱のうち、どちらなのだろうか。(1.Ⅱ.30)

 

 

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