マーシャル経済学原理Ⅳ章

第Ⅳ章 経済研究の体制と目的

 §1 経済学者とは、事実に貪欲でなければいけないということを確かめてきた。だが事実そのものは何も教えてはくれない。歴史が語るものとは物事が起きる順序であり、何が同時に起きたのかということである。理性だけでも説明できるものであるし、そこから教訓をひきだすことが可能である。手をつけなければいけない作業が多岐にわたるので、そのほとんどを研ぎ澄まされた共通感覚にゆだねなければならない。そして共通感覚は、あらゆる現実的な問題における最良の仲裁者なのである。経済学とは共通感覚が働いたものにすぎず、分析を系統立てて行い、一般的な推論をおこなうことに助けられている。そうした分析や推論は、あつめたり分類したりという作業を楽にしてくれるものであり、特定の事実から推論をひきだすものである。経済学の範囲は常に制限されており、共通感覚の助けがなければ経済学は機能しない。困難な問題にあるときも、経済学のおかげで共通感覚は深まり、困難な状況にないときよりも、その感覚は深いものとなる。(1.Ⅳ.1)

経済学の法則とは、ある状況のもとで、人間がとる行動について述べたものである。また経済学の法則は、物理学と同じような意味で、仮説に基づいたものである。こうした法則は状況の様子を含むものであり、状況を示すものある。しかし、物理学より経済学のほうが、状況を明確にすることが難しく、失敗した場合には危険をともなう。人間の行動の法則は、引力の法則ほど単純でもなければ、明確なものでもなく、確かめられるほどはっきりしたものではない。だが、その行動の多くは、複雑な内容を扱う自然科学の法則として位置づけられるものなのかもしれない。(1.Ⅳ.2)

独立した科学として経済学が存在する理由(レゾン・デートル)は、経済学がもっぱら取り扱う人間の行動とは、そのほとんどが予測できる動機のもとにあるからである。そのため経済学は他の学問よりも、推論と分析を計画的に行うときに役立つ。どんな類の動機であれ、動機が高尚なものであろうと低俗なものであろうと、そのままの状態では動機を測定することはできない。測定が可能になるのは、動機から生まれて発展していく力を計るときだけである。お金とは、動機から生まれて発展していく力を完全に測定できるものではない。また現在の状況について注意深く考慮することもなく、話題にあがる金持ちや貧乏人の行動について検討することがなければ、お金が格段によい手段になるわけではない。だが慎重に警戒しながらであれば、お金によって、動機を生じて推進していく力というものをはかることができる。そしてその動機によって、人間の生活はつくられていくのである。(1.Ⅳ.3)

経済学について研究するとき、こうした事実について協力していかなければいけない。現代の問題をあつかう際、一番役にたつものとは、現代における事実である。はるか昔の経済の記録とは、ある意味つまらなくもあり、信用できないものである。過去の経済状況は現在とはまったく異なるものであり、自由企業、一般教育、真の民主主義、蒸気エネルギー、安価な印刷と電報というて点で異なるものである。(1.Ⅳ.4)

 

経済学は、知識を獲得することを第一の目的にして、現実的な事柄に光をあてることを第二の目的にしてきた。だが、研究にとりかかる前にしなければいけないこととは、なにが経済学の役に立つのか注意深く考えることである。それでも役にたつということを重視して、研究を計画するべきではない。目指す目的への経済学からの直接的な影響がなくなると、すぐに役に立つことばかり考えるようになり、思考の軌跡を解消したいという誘惑にかられるからである。実用的な目標をそのまま追求することは、あらゆる種類の知識の断片をまとめるようなものである。その知識とは、すぐに効く効果はあるにしても、相互につながりがなく、ほとんど光をなげかけないものである。私たちの精神的なエネルギーは相互に行ったりきたりするのに費やされるだけであり、なにも徹底的に考え抜かれることはなく、真の進歩は達成されない。(1.Ⅳ.5)

そのため、科学の目的にすれば最上の分類の仕方とは、こうして互いに似ている事実やら推論やらをあつめることである。そうすれば、それぞれの研究が隣接する分野に光をあてることになる。このようにして一連の思考の過程を研究することで、自然の法とよばれる基本的な単位に近づくことになる。最初は単独で、そして次に相互に結びつけた形で、法の活動の跡を追いかける。このようにして、ゆっくりと、でも確実に進歩していく。経済学者が忘れてはいけないこととは、経済学の研究を実用的に用いるべきだということである。だが経済学者の特別な任務とは、事実を研究して解釈することであり、単独で働いたり、結びついて働いたりするそれぞれの原因の結果が何であるか見つけることである。(1.Ⅳ.6)

§3 こうしたことを説明するには、経済学者が述べていることについて主だった質問をあげることが必要かもしれない。経済学者は以下のように述べている。(1.Ⅳ.7)

とりわけ今の世において、消費と製造、富の配分と交換に影響する原因とは何だろうか。産業や貿易の組織、大量販売と小売り販売、外国貿易、雇用主と労働者のあいだの関係に影響する原因とは何だろうか。どのようにして、このような動きは相互に影響し、作用するのだろうか。そしてその結論とは、現在の傾向とは異なるものだろうか。(1.Ⅳ.8)

限界があるにしても、物の値段とは望ましさを計る手段ではないだろうか。良好な生活状態を促進するものであれば、社会のあらゆる階層の富であろうと、まず、富を増やすものではないだろうか。どんな階層だろうとも、収入が十分にないことで、産業の効率性は、どのくらい機能するものだろうか。どんな階層の収入であろうとも、もし産業の効率性が機能するなら、収入の増加はどのくらいになるものだろうか。(1.Ⅳ.9)

 

実際のところ、経済の自由はどのくらいの深さで、ある場所に、社会のある階層に、産業の特定の分野に浸透するのだろうか。(ある特定の時代に、なぜ浸透していたのだろうか)他には、そこではどんな影響がもっとも勢力があるのだろうか。こうした影響力はいかに結びつくのだろうか。経済の自由とは連携したり、独占したりする傾向にあるのだろうか。また連携や独占の効果とは何だろうか。長期的に見ると、社会の様々な階層の人々が行動に影響をうけるのは、どのようにしてなのだろうか。最終的な結果が機能しているのであれば、中間にある効果とは何なのだろうか。税制度のおよぶ範囲はどこまでなのだろうか。税制度はどんな重荷を共同体に課すのだろうか。どれだけ歳入があれば国家に利益がもたらされるのか。 (1.Ⅳ.10)

 

§4こうした疑問は、経済学者が直接取り扱わなくてはいけないものである。そして事実を集めたり、分析したり、推論したりということに関連して取り扱わなくてはいけないものである。現実的な問題の大半は経済学の枠外にありながら、経済学者の仕事にせまる主な動機となるものである。現実的な問題は、時代によっても、場所によっても異なるものであり、経済学者の研究のもととなる経済的な事実や状況よりも影響が大きい。次にあげる問題は、この国においては、今とりわけ急がれるもののように思える。(1.Ⅳ.11)

経済の自由からの良い影響をふやし、悪い影響を減らしていくためには、どう行動すればいいのだろうか。良い影響も、悪い影響も、最終的な結果に影響するものであり、途中の経過にも影響していくものであるが、影響を増やしたり、減らしたりするために、どう行動すればよいのだろうか。もし、ある影響が良くて、ある影響が悪いとしよう。悪い影響に苦しむ者は良い影響を受けないものだろうか。他の人の利益のせいで、悪い影響をこうむる人が苦しむというのは、どのくらい正しいものだろうか。(1.Ⅳ.12)

さらに等しくなるように富を分配することが望ましいということを当然とするなら、どうすれば資産制度における変化、自由貿易の制限を正当化することができるだろうか。たとえ、そうした変化や制限が、富の総計を減らすようにみえるとしてもである。言い換えるなら、どのようにすれば貧困層の収入の増加と労働時間の短縮の両立を目指すことができるののだろうか。そうすることで、国家の物質的豊かさが減ることになるとしてもである。不公平さを生じることもなければ、進歩をすすめようとする指導者のエネルギーを弱めることもないように、貧困層の収入の増加と労働時間の短縮は成し遂げるにはどうすればよいのか。どうすれば、税の重荷は、社会の異なる階層に分配することができるのか。(1.Ⅳ.13)

労働の分割について、現在の形に満足したままでいいのか。大勢の人々が向上する見込みのない仕事に、ひたすら専念していることは必要なことなのか。働き手の集団のなかにいながら、より高いレベルの仕事をするため、労働者に新しい能力を教えることは可能なのだろうか。とりわけ、雇用先の会社の経営を協力的に引き受けるため、労働者に新しい能力を教えることは可能なのだろうか。(1.Ⅳ.14 )

私たちの文明のような段階において、個人と集団の行動における適切な関係とは何か。こうした行動に特別な利点が生じるようにするために、古いものであれ、新しいものであれ、様々な形の任意団体には、どのくらい集団行動が委ねられるものだろうか。政府や帝国、地方をとおして実施するとき、どんな商取引が社会によって行われるべきなのだろうか。たとえば、出来る限り、集団での所有権を計画したり、未開発の土地や芸術作品、教育手段や娯楽手段を使うことを計画してきただろうか。こうした物質的なものと同じように、文明化された生活に必要とされるものとは、ガス、水道、鉄道などのように、全体での行動が必要なものを供給することである。(1.Ⅳ.15)

政府がみずから直接あいだに入らない場合、個人や自治体が各自の問題を好きなように管理することは、どこまでが許されるのだろうか。鉄道はどのくらい規制するべきなのだろうか。ある程度、独占的な位置にある他の問題はどう規制するべきなのだろうか。また土地はどう規制するべきなのか。その他の、ひとの力では量を増加することができないものはどうすべきなのか。資産について、今ある権利を全力で維持することが必要なのだろうか。それとも与えることになったり、幾分失うことは最初から必要不可欠なことなのだろうか。(1.Ⅳ.16)

富をつかう主な手段とは、完全に正当なものだと認められるだろうか。経済的な関係において個人の行動を強制したり、指導したりするときに、社会的な意見という道徳面での圧力にとって、どんな目的があるのだろうか。経済的な関係において、政府の干渉が硬直した荒々しいものであり、善よりも害があるとしても、どんな目的があるのだろうか。経済的なことがらにおける、ある国から他の国への義務とは、同じ国の者同士の義務とは、どういう点において異なるのだろうか。(1.Ⅳ.17)

 経済学とは、このように経済的な面の研究であるとされ、また、ひとの政治的、社会的、個人の生活にかかる研究とされる。なかでも、とりわけ個人の生活を研究するものとされる。研究の目的とは、自らのために知識をえることであり、人生の現実的なふるまいについて導きをえることであり、とりわけ社会的な生活について導きをえることである。こうした導きへの必要性は、今はさほど急ではない。私たちよりも後の世代のほうが、抽象的な思索や過去の歴史における曖昧な点に光をなげかける調査をするために、暇な時間が十分にあるのかもしれない。だが、現在の困難について、すぐに助けをだすことはできないのである。(1.Ⅳ.18)

しかし、現実的な必要性に主として導かれたとしても、経済学は可能な限り、団体組織について緊急性のある話し合いを避けるものであり、国内外の政策についての外交交渉をさけるものである。こうした政策について、政治家が考慮せざるをえなくなるのは、自分が提案することができる基準のうち、国のために実現したい目標に一番近づくものとは何なのか決めるときである。経済学が目指すものとは、政治家の目標決定を手伝うことだけでなく、その目標に捧げられた幅広い政策のうち、最高のものとは何かを決定することでもある。しかし、経済学は、政治的なことがらをたくさん避けてしまう。しかしながら経験をつんだひとであれば、そうしたことは無視できないものである。それゆえ経済学とは、科学と芸術というより、純粋に応用的な科学なのである。さらに「政治経済」という狭い語で語るより、「経済学」という幅広い語で説明したほうがいい。(1.Ⅳ.19)

 

 §5.経済学者は、三つの優れた能力を必要とする。それは理解力、想像力、推論する力である。とりわけ必要とされているのは想像力であり、遠く離れたところのものだろうと水面下のものだろうと、目に見える出来事の跡をたどるのに必要である。また遠く離れたところのものだろうと、水面かのものだろうと、目に見える理由の結果の跡をたどるのに必要である。(1.Ⅳ.20)

自然科学、なかでも物理学は、ひとの行動全般について研究に取り組むものである。自然科学について調査する者は正確な結論を求めるが、そうした結論は、継続的に観察して実験していくことで、証明されるものである。表面上の理由や結果で満足するなら、その者の間違いはすぐに見つけられるものである。あるいは、自然の力の相互作用を無視するなら、その力を囲む全てによって、あらゆる動きは性質を変えるだろうし、変えられてしまうものである。物理学の学生は、ただ一般的に分析するだけで満足するのではない。量で動きをとらえようと試み、問題における適切な関係をとらえようと試みる。(1.Ⅳ.21)

人間について語る科学では、正確さを達成することは難しい。正確さにそむかない道とは、唯一、見通しのよい道をとることである。見通しのよい道が、いつも誘いかけてくる。たとえ誠実さにかけた道だとしても、意志の固い仕事をすることで正確さへの道をたどるとき、なるだけ正確さにそむかない道をたどりたいという誘惑に強くかられる。歴史について正確に研究しようとする者がうまくいかないのは、研究しようとする能力がないせいであり、相関的な関係について評価できる観察基準がないせいである。こうした評価は、論争をしていくなかで、あらゆる場面にひそんでいる。歴史学者は、相関的な関係について絶対的な評価をしないのだから、何らかの理由が他のことが原因でくつげされたと結論づけることはできない。結論をだそうとするには、相関的な関係について、絶対的な評価をしていなければいけない。歴史学者に、どれほど主観的な印象に基づいているのか気づいてもらうには、ただ努力してもらうしかない。経済学者も、こうした困難に邪魔されるものの、人間の行動について研究している他の研究者ほどではない。自然科学者の仕事に正確さと客観性をあたえるという美徳に関して、経済学者も同じように貢献している。とにかく経済学者は、現在の、あるいは最近の出来事に関して、唱えることができる説のうち、どの説が明確であり、最大限に正確な数なのかについて、観察した事柄をまとめている。更に経済学者が有利なのは、表面下にあって簡単には見ることが出来ない理由や原因を探し求め、複雑な状況を分析し、再構築するという点にあるのである。(1.Ⅳ.22)

さらに小さな事柄では、ただの経験が見えない世界をしめすことになる。そうした経験のせいで、人々は災難を探すようになるが、例えばその災難とは、精神力への災難であり、金遣いの荒い放蕩者をいい加減に助けてしまうような家族生活への災難である。表面的に見えているものが、利益になろうとも関係ない。しかし更に努力をつんで、広い視野をもち、想像力を勢いよく発揮することが、真の結果をたどるために必要とされることである。たとえば、雇用の安定を促進するための、もっともらしい多くの計画には、そうしたことが必要とされるのである。真の結果をもとめるために必要な知識とは、信用貸しや自由貿易、外国との貿易競争、収穫や価格の変化が、どれほど密接に関係しているかということであり、また、こうしたことすべてが、よかれあしかれ、雇用の安定に影響するということである。見逃してはいけないのは、西洋世界においてはどこであろうとも、経済的な出来事の大半が、ある職業における雇用に影響しているということである。将来の失業の原因を扱うだけであれば、目にする災難を治療できそうにないし、目に見えない災難を生じることにもなりそうである。さらに遠くにあるものを探して天秤で計るのであれば、その作業は心を厳しく鍛えることになる。(1.Ⅳ.23)

「標準的な規則」や他の考えのせいで、いかなる職業においても、賃金がいつもより高い状態が続いているときには、想像力を働かせては人々の生活の跡をたどり、標準的な規則が足かせとなり給料が気持ちよく支払ってもらえないため、仕事ができないでいる人々の生活の跡をたどろうとする。人々の生活は上昇しているのか。それとも下降しているのか。もし上昇する者がいると同時に、押し下げる者がいるとすれば、それはよくあることだが、上昇する者が多数であって下降する者は少数なのか。それとも反対だろうか。もし表面的な結果をみれば、上昇する者が多数だと思うかもしれない。しかし、もし想像力に科学を働かせながら、すべての取り組みについて考えてみるといい。その取り組みの途中で禁止するということが、産業別労働組合が認めていようといまいと、人々が最高の働きをすることを妨げることであり、最高の賃金を得ることを妨げることであるならば、押し下げる者が多数であり、上昇する者は少数になる。いくぶん英国の影響をうけながら、オーストラレーシア人の移民は勇敢な冒険をしながら、今よりも心地よく安らぐという約束を労働者とかわし、一見したところ正しく見える。オーストラレーシア人は、広大な母国から資産を借りたおかげで、蓄えをたくさん持っている。産業が衰退し落ち込んでいく中で示された近道とは一時的なものであり、些細なことなのだのだろうか。しかし、英国も同じような道をたどっていくと言われているし、更に英国にとって落ち込みはもっと深刻なものになるだろう。必要とされ、私たちが望んでいることが、近い将来に実現するかもしれないが、それは同じ種類のこうした計画について広く研究することであり、戦艦が悪天候でも確実に航海するような新しいデザインについて判断するときに使われる知性の指示について研究することでもある。(1.Ⅳ24)

こうした問題において、もっとも要求されるものとは知性であり、時には批判的な能力でもある。しかし経済学の研究において求められ、培われてきたものは、共感の能力である。とりわけ、このすばらしい能力のおかげで、仲間の立場に身をおくことだけでなく、他の階級の立場に身をおくことが可能になる。例えば、異なる階級への共感とは、研究によって可能になってきたものである。そうした研究が、日々、ますます求められるようになってきている。その研究は、人格と収入における影響について、また雇用手段と支払い習慣における影響について研究することであり、国家の効率をあげ、確実さと愛情を強固なものにして、経済集団のなかで個々をまとめる方法を研究することでもある。個々とは、家族であったり、同じ仕事における雇用主と雇用人であったり、同じ国の市民同士であったりする。それはまた、私欲のない個人が、職業的なしきたりや産業別労働組合の習慣が残る階級の私欲と混ざる時の、善悪についての研究でもある。あるいは、現在および未来の世代のために、富を増やし機会を増やしていく方向へ向こうとする動きについての研究でもある。(1.Ⅳ25)

§6 経済学者が想像力を必要とする目的は、理想をひろげることにある。しかし必要なことの多くは、理想について擁護する経済学者の考えが、未来から離れたものにならないようにするということである。(1.Ⅳ.26)

 幾世代が過ぎた後では、現代の理想や方法は幼い者が抱くもののように見え、成熟した大人が抱くものには見えないかもしれない。確かな前進が、すでに一つなされている。どうしようもなく弱いとか卑しいということが証明されるまで、すべての者が経済の自由を享受するということを学んできている。しかし、このようにして始まった進歩が、最終的にどのような目標へ到達するのか、自信をもって推測する立場にはない。中世の後半に、産業の構造についてなされた荒々しい考察は、すべての人間を受け入れるように見なしてきた。あとに続く世代はいずれも、組織がさらなる進歩をとげるのを見てきた。だが、私たちの世代ほど、大きく進歩した世代はなかった。私たちの世代は進歩を研究してきたが、その進歩を熱く願う気持ちも成長し、研究そのものも成長してきた。だが以前は、比較できるところを探そうと広い分野で努力し、いろいろ努力したが、見つけることは出来なかった。しかし最近の研究の主な結果から、前の世代よりもよく理解できるようになったが、それは進歩がすすむ理由について知らないということであり、産業組織の最終的な運命について予想もしていないということなのである。(1.Ⅳ,27)

無慈悲な雇用主や政治家のなかには、前世紀の早い時期から排他的かつ階級的な特権を守りながら、政治経済学の権威を自分の味方につけた方がいいと気がついた者もいる。さらには自らのことを「経済学者」として語る者もしばしばいる。われわれの時代においても、この「経済学者」という肩書きが、惜しみなく一般大衆を教育する支出を出そうとすることに抵抗する者によっても用いられてきている。現在の経済学者が満場一致で主張していることだが、教育へ支出することが真の経済であり、教育への支出を拒むことは、国家の観点からみて、間違った愚策なのである。それにもかかわらず、いまだに教育への支出を惜しむ者がいるのである。しかしカーライルやラスキンは、輝かしさも高貴さも詩作にいっさい関係のない作家に囲まれてしまい、多くの経済学者が嫌悪することとはいえ、言ったことや行動に責任をもたせることを怠ってしまった。その結果、カーライルやラスキンの考え方や特徴について、広く誤解されるようになってしまった。(1.Ⅳ.28)

事実、現代経済学の創設者たちは、ほとんどの者が穏やかで、共感的な性質の者であり、厚い慈悲の心に影響をうけている。彼らは自分自身の富については、少しも気にかけることはない。一般大衆のあいだに、富が広がっていくことを気にかける。だが反社会的な独占には、強く反対する。幾世代にもわたって、経済学者は、階級的な法律に反対する運動を支援してきたが、その法律は、雇用主協会への参加が認められている産業別労働組合の特権を拒んだ。また経済学者の活動には、昔の救貧法が、農業や他の労働をするひとの心や家庭にふきこんだ毒の治療を求めようとしたものもある。経済学者は工場法を支援して、政治家や雇用主のなかには従順になるように求め、激しく妨害する者もいたが屈しなかった。経済学者が例外なく身を捧げた主義において、すべての人々がよい状態で生活できるようになることが個々の努力の最終目標であり、すべての公共政策の最終目標である。さらに経済学者は勇気においても、用心深さにおいても優れていたが、冷淡であるようにも見えた。なぜなら手探りで道を歩いている途中なのに、急激な進歩を擁護する立場にあるとは思いもしなかったからである。ただ一つ確実な安全策とは、自信にみちた希望をいだく人にあるものであり、その人の想像力こそが強く求められるものであって、固定された知識でもなければ、鍛え抜かれた思考でもない。(1.Ⅳ.29)

経済学者たちは、必要以上に用心しているのかもしれない。当時の偉大な予言者ですら見通すことができた範囲とは、ある部分、現代の教育をうけたひとが見通す範囲よりは、ずっと狭いものだからである。生物学の研究からも或る程度わかることだが、環境が性格をつくりあげることに影響しているという事実は、社会学においても優勢をしめている。したがって経済学者が学んできたこととは、人間が進歩していく可能性についての見方を広げ、希望にあふれたものにするということである。経済学者が学んできた信念とは、注意深い思考によって導かれる意志は、環境を変えることが可能であるということである。また意志の力とは、性格を変える力に匹敵するものであるということである。また経済学者が学んできた信念は他にも、生活の新しい状況を好ましいものに変えるということである。すなわち経済を好ましいものに変えるということであり、また道徳、つまり一般大衆の経済状態を好ましいものに変えるということである。今でも、この偉大な目標への近道が信頼できそうなものであろうとも、拒むことが経済学者の義務である。なぜなら近道をするせいで、活力と進取の精神がだんだん弱まっていくからである。(1.Ⅳ.30)

財産の権利は、経済学を築き上げた卓越した頭脳の持ち主から、あがめられることはなかった。そうした結果、経済学の権威は、既得の権利を正反対の方向へ要求したり、反社会的な使い方をしようとする者たちから、不当に扱われてきた。慎重に経済学について研究しようとする傾向は、個人の所有権を理論の原則におかないで、充実した進歩から切り離すことのできなかった観察に原則をおいている。また社会生活が理想的な状況にあるために不適切に見える権利を廃止したり、変えていこうとしたりして、責任あるひとたちが注意深く、試験的にすすめていくものを観察することに原則をおいている。(1.Ⅳ.31)

この章の覚え書き
16.このセクションは、経済学の課程を創設するように主張したものを再生したものであり、1902年にケンブリッジ大学で講演された政治学の部門と関連づけられている。その結果、経済学の課程は明くる年に承認された。

 

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