近代デジタルライブラリー – 遊女物語 : 苦海四年の記念. 続.
遊女物語は和田芳子さんという女性が花魁をしていた頃の日記であり、大正二年に文明堂という出版社より出され話題になったようである。明治・大正の生活や言葉を知りたく、国立国会図書館デジタルライイブラリより写経させていただいた。
自序
苦界四年の思い出は、悲しかったこと、苦しかったこと、辛かったこと、嫌であったこと、たまには亦嬉しかったことも、女心のいと狭い胸に充つ満ちて、溢るるばかりであります。私に若し、文学の素養がありましたらば、我が心の底を打明けて、或は此の薄明の女の爲めに、泣いても下さるように、或は世の爲め人の爲めに、聊かにても何物をか献げたく、こうも書いてみやう、ああも寫して見やうと、心には思つてゐましても、学問浅く、文字拙く、暇もない身の、只だほんの心覚えに書いて置きましたものを、御親切な高瀬さんが、筆を入れて下さつたのでそれをまた同情厚き書肆文明堂さんが引き受けて、世に公にして下さつたのが、前の「遊女物語」でした。
然るに、こんな詰まらない書物が、意外にも世間のお目に留まりまして、幸ひに、私の境遇に同情して下さる方々もあり、又少しは社會研究の参考にもなると、新聞や雑誌に、ほめても下さいまして、賤しい身の、不束な私は、ただただ恥入るばかりでございました。さても、身の恥を、再び世に晒すやうではありますけれど、世の同情に甘へ世の推奨を力と頼みまして、世に出で出での後の思ひ出にと、又も此處に書き集めましたのが、此の「続遊女物語」であります。
さきには、現に勤めの身の、足を洗って、世に出づる日も、半年の後を待たねばならぬと云ふ時で、楼主に憚る所もあり、朋輩の感情を悪くしてもと、言ひたいこと、書きたいことも、思ふに任せぬこともありましたが、此度は、泥水の中を脱け出づるの日も、此の書の世に現はるると前の日と、定まりましたので、遊女生活の内幕など、事実有の儘を、忌み憚る所なく書きました。けれども、書中にも書いて置きました通り、前編が世に出まして以来、
私の身は、非常の多忙を極め、一月二十五日の夜、某新聞記者が始めて訪ねて下さいましてから、三月三十一日に至るまで、名指しのお客ばかりが、すべて四十九人、其のお客様がまた、二度三度四度と馴染みを重ねて下さつたり、古い馴染みの方も尋ねて下されば、名指しでない、普通初會のお客様もありまして、目も廻るほど忙しい其の上に、前編を出して後は、手紙を書いてゐても、亦本を書くのなどなど、朋輩衆に睨まれるのが五月蠅くて、筆を取るにも、そんな人達の目も避けねばなりませず、いといとさへ拙い筆の、尚更に拙い上に、亦しても、思ふことを、思ふようにも書けながつたのであります。文章の添削、編集の体裁等は、今度も亦高瀬さんにお願ひしましたのです。茲に厚く御礼を申述べます。
更に私は、書肆文明堂御主人に、深く感謝しなければなりません。私は文明堂さんの義侠的好意を以て、今日正に此の楼を出づることになつたのであります。早く、一日も早く、半時も早く、此の牢獄のやうな苦しい楼を脱けて出たひ、此の泥のやうな汚い仲間から飛んで出たいと思つたのは、長い間でありました。否、身を捨てて此の里に入つた其の時から、此の思ひは、常に絶えなかつたのであります。然るに今は、長い間待ち望んでゐた時がきたのであります。年期約束の時さへ来れば、身は自由になろ得らるるものの、一日でも半時でも、早ければ早い程嬉しいものであります。喜ばしいのであります。殊にこの度は、文明堂さんが、私の汚い身を落籍して下さつたのではありません。私の境遇に同情し亦私の拙い筆を買つてくださつたのであります。私は心からして、永久に此御恩を忘れないことを誓ひます。
客となつて、贔屓にして下さつた方々のことを、此の物語の材料にしたしたことは、申譯がありません。取分け公にすべきでないお手紙を、前篇に出しました爲めに、御迷惑なさつた方も、三五人はありましたさうですが、書肆さんの御注意もあり、皆御本名は隠してもありますし、悪い心があつての悪戯でもありませんかつたので、幾重にも御勘弁を願ふのであります。なほお客様から戴いた、お手紙やお端書の数は、二千以上に上つて居りますけれど、此等はみな、ここを出る前に、焼いて了いますから、何うぞ御安心下さいませ。
思へば、私の半生は夢でありました。不幸な、不思議な長い長い夢を見てゐたのでありました。今日は、いよいよ、此の長い長い夢から覚むるといふ唯今、振り返つて、四年有余の夢の跡を、眺めて見ますると、身も戦慄はるるばかり、恐ろしくも、嫌な思ひがするのであります。何とは知らず、熱い涙が、はふり落つるのであります。此の身自らが、苦しい、悲しい、辛い嫌な思ひをしたばかりでなく、何れほど、浮世の男の方を、苦しい目、悲しい目に遭はせたであらう、嫌な腹立たしい思ひをさせたであらう。ああ、今日が来て欲しい。一刻も早く、此の罪の世界から逃れ出でて、新しい生活に入りたい。人間らしい生活がして見たい。もうもう何んな事情がありましても、親の爲めであれ、此ればかりは宥して貰あはねばなりません。女工となつて、よし労働はするとても、二度と再び罪の世界に帰らうとは、露ばかりも思ひません。萬一再び此の決心を翻へさねばならぬやうな、場合に出遭ひましたならば、私はもう死ぬより他はありません。
さるにても、不思議なる女心よ、苦しんでは泣き、辛くては泣き、涙を隠して、心にもなく笑ひ、思ひの外に唄ひ、偽りの媚を献げて、浮世の男の方を、罪の手に弄んだ、此の泥のやうに濁り、死屍のように穢ない、罪の里、悪の世界を、嬉しくも脱げ出でんとするに當りまして、訝しくも、名残の惜しまるるのであります。此の楼に対してでもありません。朋輩に別るるが爲めでもありません。不思議なる女心よ。
大正二年四月二十日、罪の夢より醒むると云ふ今日、櫻花は早くも散り果てて、若芽に心も晴れんとする時、新宿大萬楼の二階に於て。
芳子事 和田元子識す 当年二十六歳
『遊女物語』を出して後
身は遊女、辛くても、悲しくても、借金の抵当に、手も足も束縛せられて、心の思ふままに起つことも、動くことも出来ず、日ごと夜ごと肉を売り、偽りの情けをひさいで、世の浮かれ男に、侮蔑せられ、愚弄せらるる醜骸にも、猶ほ聊か思ふ思ひの存するありて、わが身を苦界に沈めし事の始終より、苦界に入りて、見しこと、聞きしこと、思ひしこと共を書き記し、其れを『遊女物語』と名づけて、世には出だしました所、不束な身の仕合せなのか、さりとも不仕合せなのか、意外の評判を蒙むりまして、新聞には歌はれる、態々此の賤しい身を訪ねて、御同情やら、お世辞やら、お世話やら心々に持ち運んできて下さるお客様も、少なくないと同時に、身に降り掛かつて来た、非難やら、迷惑やら、冷評やら、心配やら、困難やらも亦雨のやうで、楼主からは叱言を喰ふ、朋輩からは、嫉妬交じりの嫌味を言はれる、『診て貰った先生』までも、事実は棚の上に上げて置いて、身の名誉が何うの斯うのと、東京日々新聞を突付けての強談判、すると亦、彼の本の中で罵倒せられたお客様から、脅迫の文句で埋めた手紙が来る手紙を引張り出されたお客の中には、更に手紙を寄越したり、亦は自身わざわざお登楼になつたりして、僕の名誉を毀損したと、私をお責めになる方もあり、或は、此の手紙に僕の名は変つてゐるが、もと居た家の町名番地が書いてあつたり、病気をして転地すたことが載つてゐたりするから、知る人が読んで見ると直ぐに僕だと云ふことが判るに相違ない、若し此の事が、僕の親父(世に名ある人)に知られ、又妻の里(有名な金満家)にでも知られたら大変、其れこそ僕の一生の浮沈に関する大事だ、再販には是非彼の手紙の所を削除して呉れなどなど、頻りに迫つて来る人もあつたりして、私は一時困惑の極に達し、ますます苦界の苦しさを覚え、直ぐにも飛び出したいのですが、縛られてゐる身は、思ふに任せず、ええ儘よ、何うせ苦界だ、何處まで自分は、此の苦しみに堪へ、嫌な思ひを忍び、自分の立場に立つて行くことが出来るであらうかと猶ほ笑顔の中に悲しみをつつみ、強い言葉の中に弱い心をおおひ、泥水の中に身は汚れて、洗ひも得せずゐるのであります。
女将の小言
「遊女物語」の製本が出来て、書屋さんから送つて頂いたのは、一月二十四日のお午頃であつた。世には賤業婦だ、売笑婦だと、一口に言ひ罵らるる身の恥を、書いて自ら公にしたやうなものの、此は實に、私が苦界に於ける四年間、血に泣いた涙の記念である。事実として、ありの儘に、果敢なき身の運命やら、苦しく悲しき苦界の苦心やらを、筆に寫した記念である。手に取つて、一頁一頁と披き見れば、今更に万感潮のやうに、胸に湧いて来るのである。
私は、古い親しい友達にでも逢つたやうな心地で、臥しながら、自分の筆の跡を、第一項から讀んでゐると、昨夜の疲れにか、平時しか眠りに落ちて了つた。
其の夕べ、風呂に入つて後、平常の通り、お化粧をして、見世に出やうとしてゐると、主人の部屋から、一寸来て呉れと呼びに来た。行つて見ると、女将さんが、
「お前、本を書いたさうだが、一寸見せてお呉れ。何んなことを書いたか、讀んで見たいから。」
何うして、誰れから聞いたのか、早くも本のことを知つてゐる。今更「嫌で御座います」と、断る譯にも行かず、
「御覧になつても、詰まらないものですよ」
と、自分の部屋から、持つて来て、女将さんに渡した。
其晩は、お客様が二人あつたので、何もかも忘れて、夜は明けた。
其日も暮れて、見世に出やうとしてゐる所を、又女将さんから呼ばれたので、何事かと思って、行つて見ると、
「お腕前は確かに拝見しましいたがね、楼にゐる中に、斯んなことをされては困りますよ。廃業してからなら、何を書いたつて、差支へもなし、私だとて、知つてゐることなら、幾らでも、教へて上げるわね」
「あら、女将さん、廃業してからだの、楼にゐる中だのと、別に異つたこともないじやありませんか。決してご迷惑になるやうなことは、書いてありませんから。」
「第一院長さんの事なんか、書いて可けないじやないか。お前もお世話になつた方だし、楼でも始終御厄介になつてゐるじやないかね。」
「でも、御名前が出てゐませんから、別に分かるような気遣ひもありませんわ」
「分かるよ。院長さんと云へば、此邊には、外にも誰もゐないから、直ぐ分かるよ。彼んな身分のある方だから、何れほど御迷惑なさるか知れない」
「ですけど、嘘偽りを書いた譯でも御座いませんもの。」
「嘘も眞實もないわね。可けないことは可けません。加之、楼の花魁衆の名前まで、みんな出してさ、本の上にまで恥を晒して、好い面の皮だつてさ。早くみんなの前で、悪かつうたと謝りなさい」
「皆さんのお名前が出たつて、別に悪いこともないじやありませんか。却つて皆さんの爲めにも、お見世の爲めにも、廣告となって、可いかと思ひますわ」
「可かないよ。實際みんなが不平を言つてるじやないか。斯んなことがあつては、楼が治まらないよ。出来た本を、みんな焼いて了う譯にも行くまいが、消せるものなら、本屋さんに頼んで、差障りのある所は、みんな消して了うやうにお仕よ。私からも話しますがね、直ぐみんなに詫びなくちや可けないよ」
と、さんざんに叱言を喰はされ、嫌なことを言はれましたが、實を云ふと、私は寧ろ女将さんから、「お前がまあ、彼の忙しい中に、斯の本を書いたかい、大萬楼から花魁の作者が出たと、お蔭で私の鼻が高くなるわ。」くらゐに、ほめられたかつたのである。然るに、意外にも、身勝手屁理屈のお叱言を頂戴した。蓋し花魁達の不平と云ふのは、かねて私と仲の悪い人達が、嫉妬交じりに、お女将さんを燃け付けたのである。私は心に少なからぬ不平と不快を抱いて、其のまま見世に出た。
直ぐ初會の客が登楼つたので、私は二階の自分の部屋で、其の鉄道院の役人とか云ふ客を待遇してゐると、再び女将さんに呼ばれて、行って見ると、女将さんの話に、
「今二六新聞社から電話が掛つたから、私が出て聞いて見ると、お前の本名を、何と云ふか尋くんだよ。變だと思つたから、私は君香なんて云ふ女郎は、此楼にはゐませんてッて切つて了つたんだよ。お前へ、二六へ、何か書いたものでも、送つてゐや仕ないかえ。」
「否え、私、そんな事知りません。」
「さうかい」
と、女将さんはなほ、怪訝いと云ふやうな顔をしてゐましたが、私は面倒くさいから、直ぐ部屋に返つた。
僕が先頭第一だ
同じ晩(二十五日)の十一時も半ば過ぎた頃、おばさんに呼ばれたので、行つて見ると、初會の客で私を名指しだと云ふ。
年齢は二十八九、中肉の丈高く、長顔の色白、眉は太いけれど薄く、目は大きくて凄味があり、鼻は高いが、口元が悪い。髪はハイカラ。
赤縞の糸織の着物に、銘仙の絣の羽織を引掛け、縮緬の兵児帯を締めてゐる。眼鏡は金縁、帽子は茶の中折。
大分酔つてゐるらしく、酒はもう飲まないと云ふ。親子丼を通した後で、
「君、面白い本を書いたってね。其れを聞いて、君を訪ねたのは、僕が先頭第一だらう」
「おや、然でしたか。有りがたいのね。御苦労さま!!」
「併し、悪意があつて、君を訪ねたんじやない。本の売れるやうにしてあげるから、何でせう、一部譲つて呉れませんか、本屋では、まだ売出してゐないやうだから。」
「生憎一冊も、持合せが御座いません。」