ジェイゴウの子ども

ジェイゴウの子ども

(プロジェクト・グーテンベルクのなかに収められているアーサー・モリスン著ジェイゴウの子どもを訳しました)

このように素晴らしい機会を初めていただき、「ジェイゴウの子ども」によせられてきた好意を知ることになり、たいへん嬉しく思います。「ジェイゴウの子ども」を読んでくださった読者の皆様から、私が語ろうとしてきたことには幾分なりとも無駄ではなかったということを伺い、また書評家の皆様からも寛大な言葉をいただき光栄に思います。

この本への評価が同じ意見ではないということにも、心から満足している。なぜなら激しい抗議をうけ、少数の者たちから強く反対されたとしても、それは言う価値のあることについて何かを語ったということであり、たとえ不十分な形であるにしても語ることに成功したということになるからだ。こうした生活をしているのに、真実を語ろうとするなら、聞いている者の平安を乱さないわけにはいかない。「ジェイゴゥの子ども」については非難もいろいろうけたが、「ミーン・ストリート物語」をだしたときに、すでにそうした非難の多くをうけていた。さらに非難するひとたちが呼ぶのと同じようにして、批評家のなかでも親切なひとたちは、私のことをリアリスト(現実主義者)と呼んだのだ。その言葉はときとして賞賛するために使われるが、不名誉な非難の言葉になることもある。私の作品にたいする非難をたしかめたいと思い、現実主義者とはどういうものかという定義に関心をもつのは自然なことだ。まだ私にははっきりと示されてないのだから。

さて、今までに自分のことを現実主義者と呼んだことがないのは事実だし、どんな作品でも、現実主義者として描こうとしたものはない。スコラ哲学や詭弁家の部類にいれられるのなら同意はしない。私はただの作家にすぎないが、見えているように目の前の人生を描こうとする者なのである。順番などかまわない。図書館の目録作成者が用意したりするような、また文学という狭苦しい鳩小屋のような空間でつくられるような先例や慣習による縛りを拒む者なのだ。

だから「現実主義者」という言葉をつかう人たちにしても、「現実主義者」とは何かということについて意見の一致をみないこともあるだろうし、あまり理解しないまま「現実主義者」という言葉をいい加減に使うこともあるだろう。私はいい加減に「現実主義者」という言葉をつかうことを拒否するが、その意味を推し測ることは容易ではない。それにもかかわらず、「現実主義者」と呼ばれるひとは、学派の集まりを捨てて、それぞれの専門用語で自分の問題をあらわしているように思える。最初、スコラ哲学者は現実主義者だと罵るが、二十年間のあいだ、その作品が命を保つなら、そうしたひとも古典になる。英国の風景画家コンスターブルは現実主義者とよばれ、コローもそうだった。今、こうした画家のことを、誰が現実主義者と呼ぶだろうか。日本絵画の歴史は、一連の挿絵をうけいれてきた。イワサ マタヘイが元気よく現れ、人々の毎日の生活を題材にすると、やがて広重の時代となり、最後の繁栄をもたらした。土佐派や狩野派の露骨なまでの抵抗が続いたにもかかわらず、冒険をおかして横たわる影を描いた。浮世絵の波乱万丈の歴史をとおしてみると、自分の芸術に何かを見いだした画家で、現実主義者のそしりをまぬがれた者はいない。古典的な春信でさえ、現実主義者のそしりをまぬがれませんでした。今、こうした画家たちの作品を見れば、その評価はグロテスクにつきるものだろう。だから、すべての芸術の製作過程では、こうした道はとおるものなのである。勇気があり、自分の視野で考えるひとなら、目にするものを新鮮な言葉で解釈してから、物事に新しい現実と存在をあたえる。でもスコア派の哲学者たちがどんよりとした目で凝視する場所は、自分たちに関する先例やら慣習やらの山である。そこで先例や慣習から認められないものを見ては悩んだ挙句、そうしたひとに現実主義者とあだ名をつけては、鳩箱のように狭い自分たちの領域に、その作品があてはまらないといって罵る。そのようにしてスコア哲学の内外から、多くの者が大声で不平をいう。なぜなら真実とはおそろしいものであり、身体の弱い者であれば胃が痛くなるものだからだ。ただし甘さのあまり窒息するような、最少の一服であれば別だが。こういうわけで、想像力が事実を歪曲するという弱々しい主張を耳にすることになるのです。その哀れな主張とは、芸術家を花畑からしめだしてしまい、生垣から世界をのぞきこむことも禁止してしまうというものだ。美について何も知らず、生まれつき美を理解することができない者たちが、美しいものと可愛らしいだけのものを取り違えてしまう様子は、コンフィッツを求めるようなものです。さらに美が理解できない者たちが、芸術の目的について語るのは、ピンクのペロペロキャンディーや金メッキの箱が完璧な形で表現されているときなのです。しかし適切に語るなら、真実のほうが優るのだ。スコア派の哲学者たちは自らの莫大な労力にうめき声をあげ、飽きて別の先例について書きはじめ、他の慣習のことを考えだし、他所に鳩の巣箱のような分野を見いだすだろう。

日々の言葉に、芸術家が心を動かされると思うなら、その言葉を書いてほしいと私は求められてきた。たしかにそうした言葉は存在すると思う。さらに私にはそうした言葉がわかるのだ。自分の好きな場所に材料を求めるのが芸術家の特権であり、どのような者だろうと、そうした芸術家を咎める特権はない。芸術家の見ている前で、社会がおそろしい場を残したとすれば、さらにおそろしい生活も残したとすれば、咎めるべきは社会のほうなのである。こうした場や生活を思い描くということは単なる特権というよりも、むしろ義務であると言うべきなのである。ロンドン東部のショアディッチとの出会いは、私の運命である。その地で子どもたちが生まれ、育つ環境とは、まともな生活をするための手頃な機会というものが与えられず、あらかじめ犯罪人だときめつけられ、何もしてないうちからなかば犯罪人として非難されるようなものである。こうした場所のことについて学び、そこで暮らす人々のことを知り、彼らといっしょに語り合い、同じ釜の飯を食い、ともに働くという経験を私はしてきた。こうした場所があるのも、そこから悪がうまれるのも、昔も、今も社会に責任があるのであって、ひとりひとりが分に応じた責任があるのである。もし私が金持ちだったなら、ある程度、それなりの責任をはたそうとしただろう。もし政治家であったなら、別のことを試みていただろう。だが、そのどちらでもなく、ただの物書きなので、物語を書くことで義務を果たし、この地区の状況が不安をもたらすようにした。私に目をそらして、別の方向へと立ち去るべきだと言う人がいる。たとえば寓話のなかの司祭やレビ族など、尊敬すべき先例を見なさいということだ。

さて、そうした文学作品を書いて出版したところ、私が述べてきたように、人々のなかには不快の念をいだく者もいた。スコラ哲学者にいたっては言うまでもないことである。これもまた言うまでもないことではあるが、上流社会の人々も不快の念をいだいた。彼らが衝撃をうけたのは、キドー・クックやピジョニー・ポールのような、賤しい人間についての話を読んだからであり、また私の作品にはどこにも侯爵が彩りを添えてないことを知ったからである。また、そうした人達が喜んで読むのは、ビロードと羽飾りの衣装に身をつつんだ二人の男が、剣で相手の胃に穴をあけるという作品なのである。またジョゼフ・ペローとビリー・ラリーにいたっては、相手にパンチをくらわせながら、考えるとむかついてしまうくらいに、具合が悪くなるような、とても残酷な話を書いていた。こうした作品は、チャールズ・ラムが随筆「ホガースの天才」で書いた愚痴を無視したものだった。だが私の本に狼狽したのは、ジェイゴウという地区にたいして、またそこで暮らす人に対して責任を果たすように見せかけながら、何もしてきていなかった人たちであり、そして何もしないことを好む人たちなのである。義務をおろそかにしているという意識は不快なものではあるが、個人的な心地よさが彼らの神なのである。私の本に狼狽する人たちが固く信じていることは、芸術の唯一の機能とは、室内装飾のように自分にだけ心地よさを与えてくれるということなのである。さらに彼らが知っているのは、ジェイゴウの子供たちの運命について考えることから逃げ、目をそむけ、万事が順調で、この世は徳があって幸せなところであると言う方が、心地よいということなのである。こうした精神的な態度に楽観主義と名づけ、自惚れた態度で語り、楽観主義とは素質なのだと嬉々として話している。だから、そうした態度が自己中心的な悪徳にすぎないと指摘されると泣いたり、わめいたりするのだ。自らを惑わそうとして放蕩の材料を求めていた地で真実を発見すると、声に出してうめき、抗議をしたり、目の前の苦杯を持っていかせることがもっともな要求だと主張する。彼らは「ジェイコウの子ども」には、呻き声をあげ、抗議をした。ひるんで当惑をしていたので、どれほど抗議をしても彼らには足りなかった。そういうわけで、この書物のなかに、自分たちが座っている居間と職人の世界のあいだに通路を求めようとはしなかった。慈善家を公称する者にしても、自分の心にしたがって何も見ないでいるが、それでも職人が少しも利益をうみださないということを説明されると、当然のことながら憤る。ロンドンのイースト・エンドでの話だが、鍋を貸してくれと頼んだのに嘲られてしまい、取り乱してしまった女性が、こうした言葉で自己弁護をしている。「あたしが鍋を貸さないって言ったら、あんた、自分のかあさんにそう言えるかい? たとえブラウンの奥さんに貸したからにしても。それとか、あたしが使ってるからと言われたら、どんな気分? 修繕にだしているからと言われたら、どう思う? 持っていないと言われたら、どんな気分?」つきることなく異論をのべたてる彼女と、「ジェイゴウの子ども」を非難してくる人たちの心は相通じるものがあり、私は自分が間違いを犯しているということをすぐに悟った。それというのも(1)真実をむきだしにしたかたちで、ジェイゴウを書くべきではなかったからだ。(2)私の描写はシェイゴウと似ていない。(3)おまけに大げさに書いている。(4)真実ではあるかもしれないけれど、不必要なものである。なぜならジェイゴウのことは広まっていて、誰もが知っているからだ。(5)ジェゴウの家は取り壊された。(7)ジェイゴウのような場所はないからだ。

こうした様々な反対意見については、すらすらと簡潔に答えていいかもしれないが、そうするのは容易なことではない。実際のところ、人々が求めているものとは答えではない。ただし、私の作品が真実を述べていないとか、私の絵が正確でないということについて非難攻撃するということなら、話は別なのかもしれない。反対を述べる者のなかには、この国に争いをおこそうとして、機知を発揮する者もいる。そういう者たちは、私の技術的な面をとりあげ、「共感する心」に欠けていると非難する。ジェイゴゥについて書くなら、もっと泣けるものにするべきだと主張する。だが、もう私は書き方を自分のものにしているから、そういう結果を意識的にねらっているのだ。画家や詩人、彫刻家、小説家のように、題材の奴隷になることもないし、弄ばれることもない。私の物語とは、私がつくりあげた登場人物の物語であり、私はその中に入りこんで、登場人物と読者のあいだにある感情を観察してきた。告発の言葉が、私の小説ではあきらかに目立っている。こうした善人たちは、涙を流しながら物語を書くように望んだりしない。なぜなら、私が泣いているかどうか、どうすればわかるのだろうか。 わかるはずもない。人々の望みとは、私が泣くことではない。だが、公衆の面前で、私が嫌になるくらいに泣くことなのだ。いいかえれば、私がかわって泣くことなのだ。感情にかられた養老院の患者のように。また人々にかわって、私が共感しながら人前でパレードすることなのだ。そうすれば人々も共感するかもしれない。あるいは身代わりのひとにすすり泣きをしてもらうことで、責任というものから解放されると思って安堵するかもしれない。

だが、ジェイゴゥの私の描写が真実ではないという抗議は、別のものである。ほとんどの場合、あいまいな表現を目にするだろう。だが、はっきりと書こうとして、逸脱したこともある。ある一節だが、それは誇張した表現であり、起こりえないようなことを表現していた。さて告白してしまうが、こうした冒険にみちた無分別な結果になることを予見しながらも、気晴らしをするため、「ジェイゴゥの子ども」に罠をしかけたのだ。数年間にわたって、私はロンドンのイースト・エンド地区に住んでいた。もちろん、たまに訪れる程度の観光客としてではなく、すべてのイースト・エンドの住民にとって程度の差はあれ、私は親しみのある友人でもあり、対等な友人でもあった。両地区の差異は小さくなったけれど、ウェスト・エンドよりもイースト・エンドの方が社会的に大きな変化をとげていた。私が見たり、聞いたりしてきたのは、会議室に座っている人たちがひどい寓話だと言うような事柄だった。それにもかかわらず、私はそうした事柄を直視し、耳をかたむけてきた。だが極端な例について書くということは、私が意図していたことではなかった。典型的な事実こそ、私がのぞむものだった。極端な例を書いても信じてもらえないし、責任をのがれるというものだ。だから極端なところまで書くという代償行為をひきうける理由に思いあたっては—それはたとえば派閥闘争などの理由なのだが—、私だけの問題から道を切り開き、客観的かつ美しい表現をつかって、簡潔な事実や、ありふれた大らかな事実、近隣で悪評高いと難なく証明できる事実を書きあげたのだ。もし自分が書いた事実に感動したとしても、その思いは抑えることができるものである。たしかに計略はうまくいった。極端なところまで書くという代償行為はあからさまに罵られることもなく、対象としてきた普通の事実に照準をあわせた。ときとして結果そのものにユーモアがあることもあった。文芸雑誌の批評家が、あきらかに極端に書きすぎている例として、私の作品から二つ選んで、ジェイゴウのような生活を書く必要はないと言い続けたように。なぜなら、誰もがよく知っていることだからだそうだ。

幸いにも、私は自分の正確さを弁護する必要はなかった。私のための弁護は、それぞれの道の、議論の余地のない権威によって公におこなわれた。とりわけ、「ジェイゴウ」の証人になった信仰のふかい司祭と教会は、包み隠さず私の作品が正確であることを証言してくれた。特別な知識がある他の者達も、同様に証言してくれた。彼らに証言をもとめ、その支援を感謝しているけれど、私に語る資格があるかということについて偏見の目で見られることはなかった。私がロンドンのイースト・エンドに住んでいたからだけではなく(そうする人がいたとしても、同じものを見ることはないだろう)、なぜなら観察することが私の生業だからだ。

少なからぬ場所で遭遇するのだが、旧ジェイゴウ地区の家が撤去され、ジェイゴウ地区の窮乏がとりのぞかれたという愚かな幻想について述べる者たちがいる。だが、窮乏した状態は消え去っていない。煉瓦と漆喰でできたジェイゴウ地区は消えた。だが血と肉でできたジェイゴウの人たちはまだ生きているし、人口が過密して混みあったこの界隈に群がっているのだ。

最後に。構想のうえでも、意図のうえでも私の小説が必要としているのは、小説を語るときに事実にぴったり寄り添うことである。事実、私はそうした。もし異なる分野と様式で他の小説を書くなら、事実に寄り添うかもしれないし、あるいはそうするほうがいいように思えるなら無視するかもしれない。それは現実主義者か、それ以外の者なのかという分類とは関係のないことである。現実主義者とはどういうものかについて、正しい意見かどうかはわからないながら提案してきたけれど、自分が現実主義者かどうかということには関心がない。そんなことに関心をもつのは図表作成者だろうから。

アーサー・モリスン

1897年 二月

1章

ある夏の夜ふけの、旧ジェイゴウ地区でのことだった。ぎらぎらとした空のもとで、狭い通りはいっそう陰鬱だった。それというのも遠く離れたショアディッチで火事があり、空は銅のように光って、嫌な感じがしていたからだ。そのしたで空気は暑く、どんよりとしていて、身をひねって路上でねむりにつく人々を威圧していた。いたるところで、汚い地面からも、汚れた壁からも、むっとする様々な悪臭がただよっていた。そう、それがジェイゴウのにおいだ。

ショアディッチのハイストリートから狭い小道にはいると、数本の杭にぶつかるが、そこがオールド・ジェイゴウ・ストリートへの、おそろしい入り口なのであった。オールド・ジェイゴウ・ストリートは暗がりに沈むようにして、やがてジェイゴウ・ロウとぶつかった。ジェイゴウ・ロウを南にすすめばミーキン・ストリートにぶつかり、北にすすめばハニー・レーンにぶつかった。ジェイゴウ地区は、百年にわたって、ロンドンの中で最も汚れた奈落としてこの地に埋葬され、腐敗臭をただよわせていた。オールド・ジェイゴウ・ストリートの中ほどにくると、この奈落でも一番けがらわしいジェイゴ・コートにつうじるアーチ道があった。

二五〇ヤードか、あるいはそれにもみたない正方形、それがジェイゴウ地区のすべてであった。だが、この正方形に人々は数千の単位でむらがっているのだ。オールド・ジェイゴウ・ストリート、ニュー・ジェイゴウ・ストリート、ハーフ・ジェイゴウ・ストリートが平行にならび、東西をとおっていた。その片側にはジェイゴウ・ロウが、もう片側にはエッジ・レーンが平行にはしり、南北にのびていた。どの道にも悪臭がただよっていた。もっともひどかった頃のケート・ストリートやセブン・ダイヤルズ、ラットクリフ・ハイウェイと比べても大いに不快なもの、あるいは無駄で役に立たず、汚らわしいもの、そうしたものすべてがオールド・ジェイゴウにはあふれていた。

オールド・ジェイゴウ・ストリートはゆらめく赤い空のもと、陰鬱な雰囲気をかもし、空気もよどんでいた。こそこそ歩く生き物は大きなネズミのようで、次から次へとハイストリート沿いの水路の柵のあいだにもぐり込み、ジェイゴウ地区へと散らばっていた。火事に集まった人々は今や少なくなり、警官がその場をとりしきっていたが、隙のある者はすべてすりにねらわれた。まもなく侵入も終わり、空はゆらめいてもいなければ、明るさもなく、暗い赤に落ち着いていた。舗道では、ある者たちは疲れて身をよじりながら眠りにつこうと焦がれ、また別の者たちは眠りにつくことをあきらめ、座ったり、だらりとよりかかったりしていた。話している者も少数いた。彼らは住む家がないから、そこにいるのではなかった。だが、天気がこうなのだから、家の中で休息するのではなく、通りで休息するということもありえないことではなかった。だが、それにもかかわらず家にいる少数の者たちの住まいがあちらこちらに散見され、窓から明かりがみえた。この地区では、明かりをつけないで寝るような者は誰もいないからだ。それというのも、明かりがある程度ふせいでくれる三種類の害虫がいるせいだ。苦しんでない者にはわからない恐怖というものが害虫にはある。そうした者たちは害虫の話をされることすら拒絶する。人々の体のうえを、たとえ路上であっても、害虫は体をねじってぴくぴくしていた。体の隅々にまで、害虫は居座っていた。体のうえを害虫は転がり、明かりをつけた部屋にいても冒涜した。このオールド・ジェイゴウの、ありとあらゆる動く生き物の体の上につきまとい、昼も夜も、寝ているときも歩いているときもであった。そしてエジプトの第三伝染病をもたらし、しかもひっきりなしにであった。

赤い空からは息苦しい空気がただよい、さらなる圧迫感がましていた。ジェイゴウ・コートへの薄暗い入り口で、ひとりの老人がたちあがって呪いの文句をなげると、また座りこんで両手で頭をかかえた。

「ああ」かれはいった。「おれが死んであの世にいるなら、コーヒーの店をやるんだが」指のあいだから、彼は近くにいる者たちをみた。だがキドー・クックの天国での理想は、耳新しいものではなかった。かえってきた唯一の反応は、一ヤードほど離れたところで寝ている男が、音をたてて鼻をならしただけだった。

キドー・クックは自分のポケットをさぐり、パイプと紙でつつんだものをとりだした。「この夜の騒ぎからもらったおこぼれさ、反社会的だけど」かれはいった。「野次馬の中に、

やけに洒落たやつがいたんだ。でもパイプ一杯分も残っていなかったし、おまけにマッチもなかった。聞いているか?」寝ている男の方に体をのばした。「マッチはないか?」

「地獄にうせろ」

「ひどい言葉をいってくれるな。傷つくじゃないか。マッチを見つけてくれたら、そうするさ。なあ」

「地獄にうせろ」

痩せた、年配の男が壁によりかかって座っていたが、つぶれたシルクハットを目の上にひきあげ、マッチの箱をとりだすと「地獄だと? 地獄が離れているとでも? お前さんは地獄にいるんだよ」かれは骨ばった手をだらりとさげ、顔をあげた。壁にもたれたまま、かれが身震いをすると、脂でよごれた黒い癖毛が額にかかってゆれた。「神様、ここよりひどい地獄があるのかね」

「そうだな」キドー・クックはこたえ、両手でつつむようにしてパイプに火をつけた。「でも気持ちいいじゃないか。ベヴリッジの旦那。そうじゃないか」かれはマッチをかえしたが、その老人は帽子を前におろして何も答えなかった。

女が肩にショールをはおり、街灯のあるほうから、人目をさけるようにこそこそとやってきた。連れの男があとに続いて歩いていたが、少しふらついていた。男はジェイゴウの者ではなく、着ているものからすると、まともな職人だった。キドー・クックの怠惰な視線がふたりをとらえ、通り過ぎようとしたときに、瞑想にふけりながらいった。「幸運なビリー・ラリーがここにもいる。彼女にひろってもらって、いいなあ。彼女みたいな女をものにできるなら、むちで自分をぶってもいいなあ」

棍棒男と引き込み女というものが、ジェイゴウ地区の主な商売となりつつあった。棍棒は一フィートの長さの鉄棒で、片方の端には握りがついていて、もう片方には鉤がついていた。棍棒男は外套の袖に棍棒に棍棒を隠し、階段のかげをふらふらしながら、妻(結婚してようと、結婚してまいと)が、ひどく酔っぱらった余所者を連れ込んでくるのを待った。いきなり後頭部に一撃がとんできて、余所者は棍棒で見事になぐられてしまい、身につけているものは何でも、この取引の儲けとなってしまった。巧みな玄人の手による商売は、何の労もなくして、心地よい生活を生んだ。商売のほとんどは、もちろん、女性に頼っていた。女性の役割とは、職人を次から次へとその場所に誘いこむことだ。とりわけ勤勉な妻たちの収穫については、驚くような伝説があった。ひとりの女性が、祭りの夜、棍棒男のところへ二十五人連れてきたというものだ。しかしながら、これは何年か前の話であり、もはや範となる話でしかなかった。日曜学校の教科書のように、オールド・ジェイゴウの、義務を果たそうとする勤勉な主婦にむかって、主婦業を極めるにはどうすればよいか助言を伝える話なのだ。

男と女は、ジェイゴウ・ロウのはずれ近くの戸口で消えた。そこで消えたのには、理由がいくつかあった。そこは、ジェイゴウ・コートの入り口よりも、浮浪者が少なかったのだ。そこでは浮浪者同士の会話も少なくなり、断続的にいびきが聞こえる程度であった。静けさがジェイゴウでは、重要なことであるかのように、静かな夜だった。暑すぎて、むっとしているせいで、ほとんどの者が戦意喪失するからだ。暑すぎるせいで、石を投げることも、罵ることもできなかった。それでも、しゃがれた甲高い声が聞こえてきて、どうやら女たちが闘っているようで、さらに離れたところにあるハーフ・ジェイゴウ・ストリートから断続的に聞こえてきた。

しばらくすると、なにやら大きくて黒いものが、ジェイゴウ・ロウ近くの戸口から押しだされてきたが、そこはビリー・ラリーの連れ合いが入っていったところだった。黒いものは転がっていき、舗道に倒れて横たわっていた。しばらくのあいだ、人に気づかれることはなかった。静まりかえっていなければ、路上で眠りにつこうとしている者かと思うところだった。おそらく、数ヤード離れたところから顔をあげて見つめている者からすれば、寝ているようなものなのかもしれなかった。やがて彼らは四つん這いで腹這いになりながら、倒れている者のところまでやってきた。ジェイゴウのネズミもやってきた。男が倒れていた。顔には、ねばねばした油性のものがついていた。頭から暗褐色のしたたりが流れ、砕けた舗道から水路へと迂回しあんがら流れていった。あちらこちらで、さえないポケットの中味がひねられて山となっていた。そして男のベストは、時計の鎖があった筈のところが裂けていた。あきらかに、こん棒でずいぶんと稼いでいた。こん棒での稼ぎがあまりにもいいから、長靴は無視されて、男の足に残っていた。二人はひざまずいて、手際よくベストの紐をほどいた。ややして立ち上がったときには、手には収穫をにぎりしめ、そのままジェイゴウ・ロウの深い闇に消えていった。

少年が曲がり角のところでとびだしてきた。その子は排水溝へとよろよろむかいながら、ふたりにむかって辛辣な呪い文句をあびせた。痩せた子どもで、その背丈から判断すれば五歳に思えただろう。だが、その顔は重々しく、多感な時期をむかえた子どもの顔だった。ジェイゴウの子どもを知っている者なら、その子が八歳か、あるいは九歳だと見当がついただろう。

その子はズボンの両ポケットに両手をつっこみ、通りを重い足どりで歩いた。こん棒でやられた男を通りすぎたとき、ジェイゴウ・ロウの方に視線をふたたびはしらせた。それから親指をたてながら、「長靴のためにやられたんだ」と大騒ぎした。だが誰からも気にとめられることなく、ジェイゴウ・コートについた。ベヴェリッジ老がもう一度帽子をひっぱりあげ、やさしく穏やかに「ディッキー・ペロー」と呼んで、指で手招いた。

その子は近づいた。するとその瞬間、男の骨と皮だらけの手がのびてきて、襟首をつかんだ。「あーんまり見るんじゃなーい」ベヴェリッジは大声で言いながら、その子の耳元に近づいてきた。「もう、家に帰るんだ」言わんとするところをはっきりさせるため強調してから、ごくありふれた口調でつけくわえた。そしてそのまま壁の方へ戻った。

男の子は顔をしかめ、舗道をあとずさった。その子のぼろぼろの上着は、さらに大きな上着から雑につくられたものだった。数ヤード先の戸口にしりごみするときには、襟をたてた。オールド・ジェイゴウでは、正面の入り口は薪の搬入にだけ使われていた。その大半は、ずいぶん前からそこで燃やされていた。蝶番に扉がまだ残っていても、戸口は開いたままで、おそらく閉められることはないだろう。このようにして、夜のあいだ、ジェイゴウでは、戸口は黒い穴がならんだものであり、汚れていて、ぞっとするようなものだった。

ディッキー・ペローは用心しながら自分の穴へはいった。いたるところに、路上にも、階段にも、酔っぱらって横になっている者たちがいる筈だ。そうした者たちにつまずいてしまうので、足もとが危ういことだろう。しかしながら誰の姿もなかったので、段を数えながら二階まで登っていった。踏み板をとおりぬけ、手すりの失われた階段をあがるときは、必要にせまられて目をこらした。ついに二階の扉をあけて、家にもどった。

蝋燭から溶けだした油脂が山となり、つい先日までは蝋燭の上端だった部分が、今ではマントルピースのうえに広がって、その倒れた芯からは、炎が大きくなったり小さくなったりしながら照らしていた。寝台の骨組みは細い鉄なので、たわんでグラグラした状態のまま壁際に置かれていた。その寝台の汚れた敷布のうえには、中途半端な格好の女がひとり座っていたが、傍らの赤ん坊が悲しんで、苦しそうに息をしているのに、ほったらかしたままだった。その女のながい顔は苦痛に満ちていたが、なんの感情もなく、口元には力がなかった。

「どこをうろついていたんだい、ディッキー?」彼女はたずねた。たずねるというよりは、不平をこぼすかのようだった。「まだ子どもなんだから遅すぎるよ」

ディッキーは部屋をちらりとみた。「食べるものはあるの?」

「つくってないよ」彼女はだるそうに答えた。「たぶん食器棚にパンが少しある。あたしは何もほしくないんだ。暑すぎて。父さんもお茶の時間から戻ってきてないしね」

少年はくまなく探してパンの外皮をみつけた。パンをかじりながら、赤ん坊が寝ている場所へといった。「やあ、ルーイ」彼は身をかがめると、泥のついた頬をなでながらいった。「やあ」

赤ん坊は弱々しく仰向きになり、か細い悲しげな泣き声をあげていた。目は大きく輝いていたが、小さな顔は可哀想なくらいノミがたかり、奇妙なくらいに赤ん坊らしくなかった。「どうして、この子は怒っているの、かあさん?」ディッキー・ペローはたずねると、その小さな体を抱き上げた。

彼は小さな箱に腰かけ、膝の上で赤ん坊をあやしながら、パンをかんで一口あたえた。母親は物憂げな様子でぐったりしていたが、視線をむけていった。「その子が大きくならないから、あたしもほんとうに力がつきた。十ヶ月以上になるのに、はいはいをしないんだよ。いつも悩みの種だね、子どもというものは」

彼女はため息をついてから、寝台のうえで体をのばした。男の子は立ち上がると、まどろんでいる赤ん坊の目を覚まさないように注意深く抱っこをしながら、煤けた窓から外を見ようとした。鳥の群が頭上をのろのろと飛んでいた。だが、眼下のジェイゴウ・コートは暗がりに沈んでいた。崩れかけた裏庭が不十分なものながら、ジェイゴウ・コートとの境になっていた。ジェイゴウ・コートからこちらにかけて、あいだにあるものといえば闇だけだった。

男の子は自分の箱に戻り、腰かけた。ややして、その子はいった。「父さんは、外で寝ているんじゃないと思うけどなあ」

女は身をおこして座り、幾ばくかの気力をしめした。「なんだって?」彼女はびしっと問いただした。「卑しいランスやラーリィのように、通りで寝るっていうのかい? そんなことあるわけがない。あんなふうに暮らすなんてひどいもんだよ、まったく。わたしはそんなことには慣れていないからねえ。おまえだって、父さんが外で寝ているのを見たことなんかないだろ?」

「ああ、寝ているところはね。ジェイゴウ・コートにいるのは見たことがあるけど」それから一呼吸おいていった。「父さんがうまくやってくれたらいいね」男の子はいった。

母親はひるんだ。「何をいっているんだかわからないよ、ディッキー」彼女は言いながら、口ごもってしまい「おまえときたら、まったくいい気になって」

「なにか盗むんだよね、もちろん。ひとを傷つけるんだよね、知っているよ」

「そんなことをおまえが言うなら、父さんに言いつけるよ。そうしたらお仕置きされるから。あたしたちはそんな種類の人間じゃないよ、ディッキー、わかっておくれ。人に指さされるような人生はおくってきてないし、まっすぐに生きてきたんだ。いいかい」

「知っているんだ。母さんが父さんに言っていたのを聞いたよ。父さんがすごいダイヤモンドを家にもって帰ってきたときのことだ。あのネクタイピンだよ。どこで、あれを手に入れたの? 何ヶ月も、何ヶ月も仕事をしてなかったじゃないか。毛布はどうやって手に入れたの? 家賃はどうしているの? それに食べ物は? ルーイのミルクは? わからないとでも思っているの? もう子どもじゃない。わかっているよ」

「ディッキー、ディッキー、そんなこと言わないで」とだけ母親は言うと、物憂げな目に涙をうかべた。「よこしまな考えだよ、いやらしい。おまえは人に指さされないように、まっすぐな人生を歩まないといけない。大きくなったら、まじめにやらないといけないよ」

「まっすぐに生きる連中は馬鹿だと思う。キドー・クックがそういっている。キドーはブロード・ストリートと同じくらい、知識が広いんだ。大人になったら、洒落た格好をして、ギャングにはいる。あの連中は、うまいことやっているんだ」

「あの連中は、何年も、何年も、暗い刑務所にはいっているんだよ、ディッキー。おまえがそんなに卑しい低能な子なら、父さんに鞭でぶってもらうからね」それから母親はもとの姿勢にもどって、まじめにみえる表情をうかべた。「赤ん坊をかえして、おまえも寝るんだよ。父さんが帰ってくるまえにね」

ディッキーは赤ん坊を手渡したが、しなびたその顔は、眠りのおかげで安らかだった。そして自分を解放するかのように不格好な上着を脱ぎ、物思いにふけって壁を見つめた。「やられるのは、だまされやすいひとなんだ」彼はぼんやりいった。「だから、それほど悪いことじゃないと思う」ややすると、彼は背をむけて、突然言い添えた。「父さんがいつか小ざっぱりすると考えてみたら、母さん?」

母親は返事をしなかった。けだるそうに赤ん坊をかかえたまま、寝台にもどすのか曖昧な態度をとっていた。やがてディッキーは、丈が短くてみすぼらしいシャツを着たまま、寝台の足側の方から薄汚れた布団のなかにもぐりこむと、そのままくぐって壁際のほうに頭をだして、いつものように寝台の端っこの、横むきの自分の場所へ身を横たえた。

ひどく汚い天井が時々明るくなったり暗くなったりするのは、蝋燭の芯がおちて下の方へ流れてしまうからだった。母親が起き上がって、別の蝋燭の残りを見つけ、消えかけている炎に近づけて明かりをともす物音が聞こえた。彼は眠れないまま横たわっていた。しばらくして彼はきいた。「母さん、どうしてこっちにきて寝ないの?」

「父さんの帰りを待っているから。もうおやすみ」

ディッキーはしばらく黙りこんだ。だが頭はさえわたり、目もしっかり覚めていた。やがてもう一度いった。「おもての部屋に、あたらしい人たちがはいったね」彼はいった。「あの男のひとは、奥さんのことを鞭でぶったりしないの?」

「しないよ」

「男の子のことも鞭でぶたないかな、いらいらするような子でも?」

「大丈夫だよ」

「とっても気難しい人たちに見えるよ。近所の人にはよく見せかけているけど。ピジョニー・ポールが言うのを聞いたんだ。ポールの話だと・・・」

「ピジョニー・ポールの話なんか聞いたらいけないよ、ディッキー。そう言ったのに、忘れたのかい? もう、おやすみ。父さんが帰ってくるから」すると本当に、階段の方から足音がした。だが、その足音は踊場をとおりすぎ、そのまま上の階へ行ってしまった。ディッキーは目をあけたまま横になり、無言で上の方を凝視し、やがて頭上の汚れた窓へと視線を戻した。とても暑かったので、不快さに耐えかねて体をもそもそ動かすのだが、それでも赤ん坊が起きて泣かないように用心しながら、寝返りをうったり、足をほうりだしたりするのだった。空の色に変化があらわれていた。寝台から見える範囲だが、色が変わっている部分を観察していると、朱色はわずか数か所に収縮していき、やがていっせいに薄くなって小さな点となった。そのとき、ようやく階段から足音が聞こえた。足音は扉のところでとまった。そう、父親が帰ってきたのだった。ディッキーはじっと横になったまま耳をすました。

「まあ、ジョシュ、どこへ行っていたのかい?」ディッキーは、母親が問いかける声を聞いた。「待ちくたびれたよ」

「いいじゃないか、かまわないでくれ」ささやきではなく、しゃがれたがなり声が聞こえてきた。「ここに水はあるか? こいつを洗いたい、こん棒をね」

一瞬、間があいた。ディッキーには、ぼんやりとした放心状態の母親が、水が部屋にあったかと考えていることがわかった。そのとき間髪入れずして小さな金切り声があがり、こん棒で床を激しく叩く音がした。「ひどいじゃない」母親はいった。「お願いだから、ジョシュ、やめて。頭をひやして」片手の大きな影が平手打ちをしようとひらいた状態のまま、天井にむかって高々と持ち上げられ、ふたたび振りおろされた。「やめて、ジョシュ。お願い。どうかしたの。そんなことしないで」

「そんなことしないでだと? ふざけるな。そんなことしないなんてできるもんか? お前の口をとじるんだ。けんかを売られたら、やり返すまでじゃないか? おまえの有様を見たら、誰もが殺人事件だと思うだろう。だが、おれはそんな間抜けじゃない。さあ、床をもちあげるんだ」

ディッキーも、その緩くはめられている床板のことは知っていたが、その床板はかすかに軋んだ音をたてながら、引っぱり上げられていた。それは暖炉の右側にある床板だった。ふたたび床板が引っぱり上げられたとき、彼は寝たふりをしていた。彼の母親は静かに泣いていた。「やっかいなことに巻き込まれてしまうよ、ジョシュ」彼女はいった。「きちんとした仕事についてくれたらいいのに、昔のように」

床板は再び閉められた。ディッキー・ペローは、片方の目をとおして、上空が薄い紺色になった空をながめ、今度の収穫がいいものであったらと願い、できればその収穫のおかげで晩ご飯のときに雄牛のレバーがでてくるようにと願った。

ジェイゴウの外では、夜の闇がたちこめてきて、空気がひんやりとしてきたので、やすらかに眠りにつくことができた。オールド・ジェイゴウ・ストリートの舗道で、悲しげな顔の、血色のわるい人々が口を弛緩させてあけたまま、顔をあげて見上げている様子は、まるで骨と皮のひとびとが暗黒の谷にいるようであった。ジェイゴウ・ロウの近くで、こん棒で殴られて倒れていた者も、顔に血をこびりつかせたままだが、あたりがひんやりとしてきたのを感じて片方の足を動かした。

2章

ジェイゴウの外縁東側のうち、三分の四マイルをしめているのが、イースト・エンド奉挙伝導団と全知協会のはいっている建物であった。どちらも素晴らしい成功をおさめていたので、新しい建物が建てられ、キリスト教における位も高く、産業界における地位も高い主教が、もうその建物が完成した旨を宣言した。

イースト・エンド奉挙伝導団と全知協会の偉業は、ロンドン東部を遠く離れたところでもよく知られていて、アジアの無名な国々についてと同じ程度の知識しか、イースト・エンドについて持ちあわせていない者たちからも知られていた。たしかに、そうした人々からも、それなりに評価されていた。そこで、向上心にあふれるイース・エンドの住民がいつまでも求めているものとは、生活をよくし、物事について更によく学び、人間性をひろげることであった。しかも、そのような求めは、他の輝かしい幻想と同じ様に、比較して語られるべきことであり、上の位にたつ者をうみだすための特効薬となるものであった。こうした話題についての講義は、実にたくさんあった。たとえば絵画を借りてきて見せることで、知られていない事がらが明らかになったりするのだが、それは画家がわざわざ巧みに絵の中に隠したものなのであった。事情を知らされていない人たちは仕方なく、そのまま文学や政治上の問題について論争したり、文章に書いたりするのだが、つまらない知識のせいで妨げられることはなかった。それは人々が細かいところまでよく理解していたし、知性で武装していたからだ。だが、階級や社交クラブ、新聞、チェッカーのゲーム、音楽やブラスバンドの夕べというものがあった。そこでは、希望のない貧しい人々の生活は脚色され、悲惨さは隠されたものとなり、軽減された。援助をしようとこうした集まりにおしかけた哀れな者たちとは、商人の息子であったり、小さな店の経営者だったり、こぎれいな恰好をした事務員であり、敬われる商いについている若く、気の利いた職人だった。彼らが思うままに大切にしたのはクラブであり、音楽の夕べであり、つまらないチェッカーの盤であった。また自分たちを議論にまきこみ、たがいに向上するべきだと大声で主張する者たちも大切にした。ほかの者たちは、知りたいという残酷な衝動にかられて、行き当たりばったりで、夜の催しに少しだけ首を突っ込んでみたりするのだが、それでいながら、嫌になるほど何の感情もいだかなかった。要するに、上品に着飾った、行儀のよい若者たちが、全知協会で幾晩も、無邪気に過ごすということなのだった。しかも、知的な冒険という心地よい幻想をともなうものだった。

べつの若者で、さらに幸運な境遇にある者たちは、教育でうわべをかざって、仕入れたばかりの知識を整理しない状態でやってきた。その若者たちは外国風の考え方を身につけていながら、世界の情勢や物事の関係については程よく無知で、そうした姿は伝道師たちと相通じるものがあった。彼らがイースト・エンドの危険にみちた深部に首をつっこんで、二週間にわたって、その苦界や野獣のような残忍さと闘おうとするなら、両親たちも心配しないではいられないだろう。そこで彼らは、商人たちの息子や売り子たちのあいだに入ることにした。ほんの僅かの寄付でもすれば、そうした売り子たちは目をつぶってくれるからだ。おかげで安心してイースト・エンドを訪れることができたのだが、はたして自分たちの印象はどんなものだろうかと不安におもい、どのようにして印象をのこしたのだろうかと考えた。だが、暗黒地帯での身の安全を心配する人々のところに戻ってくると、知識をひけらかしたり、知ったかぶりをしたりして、イ-スト・エンドの権威を気取った。彼らはこう報告した。「イースト・エンドは、かつて言われていたような場所ではない。ウエスト・エンドにも、もっとひどい場所があるだろう。人々も、それなりにまともである。もちろん驚くほど不作法者ではある。だが、きわめて清潔で、物静かだし、服装もこざっぱりとしていて、ネクタイもしめ、カラーもつけているし、時計もさげている」

それでも、イースト・エンドについて語る者はごく少数だった。だが奉挙使節団を支持する者たちは多かった。ほとんどの者が支持することに納得したのは、イースト・エンドについての話を聞いていたり、慈善をよびかける文を読んでいたり、あるいは警察裁判所や審問報告書を読んで納得していたからだった。そこにでてくるイースト・エンドは、スラムの荒野だった。スラムには、餓死しそうな人間の有機体がびっしりつまっていたが、彼らには心もなければ、道徳もなく、たがいを生きたまま捕らえて食べていた。こうした支援者たちは、特別な祝祭のときに、品のよい聖職者にまざって三々五々協会を訪れた。そして全知協会が堕落した階級にすばらしい効果をおよぼしていることに驚き、彼らの性格にしても、習慣にしても向上していることに驚嘆するのだった。その祝祭とは、おそらく誰も酔いしれることのないコンサートだった。あるいは誰も大きな声で歌うこともなければ、帽子をかぶることもなく、相手の目にむかって一発くらわすような舞踏会でもなかった。でも大いなる驚きをもたらすものだった。イースト・エンドを観察してきた者たちが証言すれば、多額の寄付金がはいってきて、そこで新しい建物が建築されたというわけだ。

晴れわたった午後のある日のことで、すべてが前途洋々としてみえた。手持ちぶさたにしている人たちの一団が、協会の正面の扉近辺でぶらぶらして、ひもに吊された旗を見つめていた。扉から左の方にむかって新しい建物がのび、その建物は、滑らかで、凹凸のない煉瓦でできていた。テラコッタの広場の装飾は、定評のある真面目さでつくられたもので、等間隔に装飾がくりかえされていた。小売店主たちの友人や親戚、それから熟練した職人たちが大勢、その広場に座っていた。彼らは主教を待っていた。奉挙伝導団の高位の者たちは、演台にあがって、おたがいに離れて座っていた。広場の外では、手持ちぶさたにしている人たちにまざって、ディッキー・ペローが待っていた。そこで何が進行中なのか彼にはわかっていなかったが、これまでの噂やしきたりから判断すれば、こうした大きな建物での祝典では、奥で休息するときに、お菓子や紅茶を消費するものだと彼は信じていた。お菓子とは言い難いものがでてくることがあるにしても。ハイストリートのショアディッチには、分厚く切ったお菓子がウィンドーに飾られている店があった。幾切れも飾られた菓子は、見積もりがたいほどの価値があるものだった。彼はこの窓にあまりに近づいたので、顔をおしつけてしまい、肌から血の気がひいてしまった。ディッキーは、店の売り子に追い払われるまで、そこに立っていた。それからもう一度、うつろいやすい暗がりの、美味しそうな黄色い生地に干し葡萄がどっさりはいったお菓子を見てから、ディッキーは目をとじるしかなかった。一度、不注意な使いの少年が一切れお菓子を買ったあと、とてもぎこちなく持っていたことがあった。その少年が店の外に姿を現すと、菓子の三分の一が割れて落ちてしまった。その落ちてきたものをディッキーはつかみ、紛失に気がつかれるまえに持ち逃げしようとした。それは一ペニーの上等な菓子だった。かつてミーキン・ストリートで、なんとか自分の金で買った菓子は半ペニーで、これほど上等なものではなかった。

ディッキー・ペローは、この幸せな思い出を脳裏にうかべながら、遠慮がちに戸口に立っていた。大きな上着は見苦しくないように、ボタンでとめていたが、それにしてもひどい代物だった。それを着ていたら、どんなことをたくらんでいようとも、どのような状況であろうとも、中へといれてもらうことになり、人道的見地から可能なかぎり、お菓子へと導かれることになるだろう。

入場券は扉のところで、若く、熱心な伝道師が集めていた。伝道師相手にしても、立派な身なりの人すべてを相手にするにしても、ディッキーが知っていることは、さしあたり動けないときには、おだやかにあざけるということだった。急ぐ必要はなかった。伝道師もしばらくすれば、入場券を持っているかどうかということに関心を払わなくなるだろう。敵の注意が行き届いているときには、中に入りたいという欲望があっても、些細な衝動にかられた行動を見せるべきではなかった。

馬車が数台とまり、枢機卿たちが姿をあらわした。その聖職者たちのほうへ主教は近寄った。ディッキーの目にうつる主教は、めずらしい服を着ているけれど、感じのよい老紳士にすぎなかった。主教についてディッキーが考えたことといえば、奇跡が通り過ぎていくというくらいだったが、それはひもをつけて修理する必要があるように思える帽子を主教がきちんとかぶっているせいだった。

そのとき、主教の馬車がとまっているあたりに、また別な馬車がきた。馬車から三人の淑女たちがおりてきた。入場券を持っている者の友人で、人々は彼女たちに近づき、挨拶をしてから握手をした。すぐにディッキー・ペローはロビーを横切り、内壁にそってそれとなく移動していき、柱の陰や闇に隠れながら菓子を探した。

合唱団が力をこめて歌い、それから説話があった。枢機卿たちが語ったのは、建物に集まったイースト・エンドの人々がとても礼儀正しく、清潔であることへの驚きと喜びであり、根気強く、無私の聖体奉挙への感謝だった。

偉大な主教は、拍手をする人々やハンカチをふる人々にかこまれて、あらゆることについて天使のように高い声で話した。「ウエスト・エンドから差しのべられた支援の手が、はっきりとした形でイースト・エンドにあらわれる様子を見たことは、この日の喜びです。また、賞賛すべき集まりに自分がいることに、そしてこう言うのが許されるなら、その集まりはロンドンの偉大なるイースト・エンドを代表する集まりであり、聖体奉挙を渇望し、望む人々の集まりであることに喜びを感じえません。さらにこの聖体奉挙は、ここより恵まれた状況にある地区の方々が、実に気前よく準備してくれたものなのです。イースト・エンドの人々は、悲しいことに、大衆的雑誌などで不正確に語られてきました。イースト・エンドは、語られてきているような、暗い場所ではありません」(拍手)彼はあたりを見渡した。人、人だ。これほど行儀がよく、道徳感をもちあわせた、尊敬すべき人々を、自分の知っているウエスト・エンドの教区でも集めることができるだろうかと彼は考えた。この場にいるということが、自分のもっとも楽しい職務なのだ。そのようなことを考えていた。

ディッキー・ペローはお菓子を見つけた。ホールのうしろにある小さな部屋で見つけた。そこは演台にあがっていた主教や枢機卿が、式典のあとで、紅茶をのんで休むことになっている場所だった。この部屋の入り口には、重々しいカーテンがかけられていた。大勢の人々があつまった奥から、ジェイゴウのラットラインの網が投げられようとしていた。食卓はしかめ面をした男に守られ、その表情はショアディッチの菓子店の窓を見つめていた彼を追いはらった男のようだった。誰もまだそこにいなかった。ただ、しかめ面をした男が放心したかと思えば、せかせか動き、お菓子が食べられる時をまっていた。

ホールで拍手がおきた。新しい建物が完成したことが告げられたのだ。それから歌声が聞こえてきた。そのあとから軽やかな足音や、足をひきずるような重い足音が聞こえてきた。自由に歩きまわって新しい建物をみているのだ。そして重要な地位にある者たちも演台から降りてきて、紅茶をのみにきた。

部屋中に人々があふれ、少しずつまとまりながら立ったまま、食べたり飲んだりしていた。そのかたわらで、しかめ面の男は陶器の皿にかこまれてしまい、途方にくれ、まごついていた。そこにいる誰もが、この取るに足らない少年に気づきはしなかった。少年は軽々と身をかわしながら、人々の足やスカートのあいまに身を隠し、ときどき食卓の皿にそっと手をのばした。そして即座に姿を消した。そのとき愛想のいい主教が、紅茶のカップから6インチうえにある口元に笑みをうかべ、取り巻きの聖職者二人にむかって微笑みかけたとき、晩餐会の約束を思い出して、チョッキの丸いものを求めて手をおろした。

「おや、おや」主教はふと見おろしていった。「わたしの時計はどうしたんだろう?」

チョッキには黒いリボンが3インチほど垂れ下がっていたが、その先端は切られていた。主教は放心状態でまわりの枢機卿たちをみた。

そのとき3本離れた通りで、ディッキー・ペローはこぶしを閉じて、ズボンの尻ポケットに深く突っ込んでいた。そのこぶしに黄金の時計をにぎりしめたまま、オールド・ジェイゴウの方へとかけていった。

三章

追いかけてくる者は誰もいなかった。だがディッキー・ペローは、この目新しい手柄に興奮しながら一生懸命かけた。ジェイゴウの子どもなら誰もが最初に学ぶことだが、出来るだけ路上では、疑わしい逃亡をさけるようにという教えすら忘れていた。ジェイゴウ・ロウのかどからオールド・ジェイゴウへ飛びこみ、それでもまだ走り続けた。ディッキーより少し大きい少年のかたわらを通りすぎたときに、相手はするどい一撃をくらわせようと身構えた。でもディッキーは気にとめなかった。オールド・ジェイゴウのかどにいる骨格たくましい集団は彼を見ると、略奪品を手にした弱虫であることにすぐに気がつき、腕をつかもうとしたが、彼にはすばやく身をかわすだけの機転があった。ジェイゴウ・コートの道をとおって彼は疾走し、見慣れた戸口にはいると階段をあがった。青ざめた、猫背の子どもがひとり、清潔ではあるけど物欲しそうな様子で降りてきた。ディッキーはわきに寄ると、階段の途中から「起きて、でてきて」とさけんだ。

ジョシュ・ペローはベッドに腰かけ、油っぽい紙につつまれた揚げ魚を食べていた。紅茶の時間だった。三十二歳になる男で、中背の、がっしりとした体格で、厳しくも頑丈そうな顔は年よりも老けてみえた。口のまわりの髭はいつも三日くらい手入れしていないようにみえた。三日よりまめにということもなければ、三日をこえて怠惰になることもなかった。漆喰職人をしている、少なくとも警察裁判所では、彼は自分のことをそう語った。漆喰職人をしていたのは随分昔のことであったが、今でも、はね上げた泥のせいで点々とシミがとんでいる恰好で外を歩いた。漆喰職人独特の汚れだった。彼は誇りにかられると、家族で手に職をつけようと学んで、その職についているのは自分がただひとりだと強調した。それはずいぶん前に放棄された生業であったが、その職業を続けていた頃、彼はきちんとしたボイラーの修理工の娘と結婚した。その娘は、その頃はジェイゴウのことをまったく知らなかった。もうひとつ、ジョシュ・ペローには自慢にしていることがあった。彼を傷つけることができるのは、弾丸か、あるいは先のとがった鋼鉄だけだということだった。たしかに、これは真実にちかい自慢であった。この地区での喧嘩で、何回も、証明してきているからだ。そう、ジェイゴウ地区での喧嘩だ。今、彼は穏やかにベッドに腰かけ、指で油だらけの魚をつまんでいた。いっぽうで絶望にかられた妻が食器棚で探しているものとは、砂糖壺のかわりに紙袋にいれた砂糖だった。

ディッキーが穴蔵に入ってきた。「かあさん、とうさん、見て! 時計を手に入れたんだ、それも金時計だよ」

ジョシュ・ペローの口と手の動きがとまり、つまんだ魚の揚げ物が宙に浮いたままになっていた。女はふりかえると、うつむいた。「なんてことを、ディッキー。ディッキーったら」彼女は絶望にかられて泣いた。「おまえはとんでもない、卑しい子になってしまった。ああ、ジョシュ。この子が悪い人間になってしまう。あれほど私が言ったじゃないか」

ジョシュ・ペローは魚の小骨をのみこむと、指をなめてから扉へとかけよった。階下をすばやく見おろしてから、彼は扉をしめ、それからディッキーの方へと向きなおった。「どこで手に入れた、悪魔の坊や?」彼はたずねると時計をつかんだ。

「年をとった男が紅茶をのんでいるときに手に入れた」ディッキーは目を輝かせて答えた。「父さん、よく見て」

「その男はおまえを追いかけてきたのか」

「ううん、時計のことは何も気がつかなかった。ナイフでリボンを少し切ったんだ」ディッキーがかかげて見せたのは、刃と柄の残骸で、溝で見つけたものを大切にしていたものだった。「もう一度、その時計をみせてもらえるの?」

ジョシュ・ペローは不安な様子で妻のほうをみた。子どもに関することは、妻の主な関心事だった。彼女がどう思っているかは考えるまでもなかった。彼は時計を自分のポケットにすべりこませると、ディッキーの襟元をつかんだ。

「おまえにやるものがある、小さな泥棒に」彼は声をあらげると、自分のベルトをさっとひっぱりだした。「俺達全員が一年か二年のあいだ、刑務所暮らしになってもいいんだな。大人みたいに時計を盗みにいくとは」それから、たいそう腹をたててベルトでぶったので、ディッキーは驚いてしまい、息苦しくなって息もつけなくなり、哀れな悲鳴をあげながらジョシュのまわりを逃げた。赤ん坊は目が覚めてしまい、かぼそい声で泣いてかすかに共感をしてみせた。

服が裂け、古い上着から襟がとれかけていた。その有様を感じて、ジョシュ・ペローは上着から手をはなした。ディッキーは首をげんこつでいきなり攻撃され、よろめきながら部屋を歩いた。ベッドの柵につかまると、袖で顔をおおいながらすすり泣き、踊り場へと足をひきずっていった。

想像していた以上のしかり方だったが、母親は口出しをしない方がいいと知っていた。ディッキーがいなくなったので、ためらいながら彼女はいった。「すぐに質にいれない方がいいんじゃない、ジョシュ?」

「ああ、そのつもりだ」ジョシュは、手の中の時計をころがしながら答えた。「いい代物だ。上等品じゃないか」

「ウィーチのところに持っていくつもりじゃないだろうねえ。あの男はあまりくれないよ」

「心配するな。これを持ってオックストンまで行くつもりだ」

ディッキーはすすり泣いて階段をおりると、裏庭のほうへとむかった。裏庭で、同情してくれるはずのトミー・ランの姿をさがした。しかしトミーは見あたらなかったので、ディッキーは悲しくなってしまい、穏やかな理性の光にてらしながら、もしもと仮定しながら先ほどの出来事を思い出していた。トミーのためにも、英雄伝で飾り立てて時計の話をすればよかった。涙と鞭でぶたれた背中を見られてしまうよりは、そうしたほうがよかった。そこで身をかがめ、フェンスの破れたところにできた穴に体をおしこむと、またすすり泣きをはじめ、心の奥底にある悲しみを分かちあう友達をさがした。

鞭はひどい痕をのこした。とてもひどいものだった。からみあう革の鞭にぶたれた向こう脛は肌がさけ、背中までめくれあがったシャツの下には粘り着く血が少し残っていた。痣ができていたのは言うまでもない。だが彼を魂の奥底まで揺り動かしていたのは、どうしようもなく不当な仕打ちであった。誰からも助けてもらうことなしに、完璧なまでにジェイゴウの誰もが誇りにするような偉業をなしとげたのだ。歓喜にふるえながら、父親や母親から賞賛してもらおうと急いで戻り、父母の手にその手柄の品をわたしたのだ。それも実に快く、しかも気前よくわたしたのだ。だが、たぶんそのときは祝福のしるしに、温かい晩ご飯がもらえると期待していた。それなのに彼の報酬はこれだった。どうしてだろう? 虐待のせいで自分の心が傷ついたのを感じるだけだった。そういうわけで、すすり泣きながら二か所の柵を腹ばいになってとおりぬけ、ジェリー・ガリーンのカナリヤの毛むくじゃらの首に涙をこぼそうとした。

ジェリー・ガレンのカナリヤとは鳥ではなく、ロバのことだった。ジェリー・ガレンがたまにしらふでいるときに、足元が不安定な浅瀬を行き来するために使うロバのことで、ときどきガラス瓶やら敷物、炉床の灰止め石を背に積んだりした。時には、やむなく、空き地を囲んでいる手ごろな板や、空き家の建具を割ってつくった薪を積んでいることもあった。ぼろの袋をかけた様々な品を積んでいることもあったが、それらの品々は合法的な検閲にたえるものではなく、突発的に手に入れたものであった。休みの日は往々にして長く、ジェリー・ガレンのカナリヤは忘れられ、食べ物が与えられないまま、ジエリー・ガレンの中庭で過ごした。自暴自棄になってフェンスをかじりながら、しわがれた声で鳴き声をあげては近隣の人々の心をかき乱した。かくしてそのあだ名は、キドー・クックが哀れをさそう歌でひょうきんに歌っているうちに生まれ、使われるようになった。「カナリヤ」とよべば、呪いの言葉と同じくらい、その生き物の注意をひきつけた。

ジェリー・ガレンのカナリヤは、ゆがんだくつわで音をたてながら、いつまでも噛みつづけた。10フィートか12フィート四方の、汚れた中庭のいたるところで、木材は丸く、ばらばらになり、かまれて白い木肌がみえていた。ロバが大きな頭をむけると、歯肉から血がたれ、石のうえに円をえがいた。ディッキーが悲しみにくれていたにもかかわらず、ぴくりと動いた耳は歓迎をしめしていた。ジエリー・ガレンの中庭で、ディッキーはいつも慰めを考えて過ごすからだった。そのときもディッキーは、疥癬にかかった首を両腕で抱きしめながら悪事を語って聞かせた。そうするうちにトミー・ランに語って聞かせるつもりだった英雄物語が慰めにかわった。

「ねえ、カナリヤ、ほんとうにひどい話だよね」

Ⅳ章

ディッキー・ペローがポケットに主教の時計をしのばせてジェイゴウ・ローに駆けこんできたとき、ひとりの少年がげんこつで殴りかかってきた。そのときディッキーは理由を推測しようとして途方にくれた。それが気まぐれなら話はわかった。だが、その理由を調べるでもなく、殴り返すわけでもなかった。実際のところは、ランス一家とラリー一家が出てきたので、戦いが開始されたのだった。少年はつまらない出来事にまた遭遇したが、一般的な原則にしたがって相手を殴った。ランス一家とラリー一家は抗争状態、もしくは停戦状態にあっても監視をつづけ、たがいに敵の関係にあった。いわばオールド・ジェイゴウのモンタギュー一家とキャピレット一家だった。ラリー一家には、反対勢力の派閥に張り合う気持ちはあまりなかった。ランス一家は、「ロイヤル・ファミリー」の様式と称号を誇りとしながら、ジェイゴウを支配していた。だがラリー一家には、男にしろ、女にしろ、素晴らしい戦士がそろっていたので、ひとたび戦いとなれば、激しい戦いとなり、活気づくのだった。二つの家がジェイゴウで分かれていた。ランスに追随したものには、親戚もいれば長い付き合いの者たちもいて、ゲレン一家、フィッシャー一家、スパイサーズ一家、ウォルシャーズ一家がいた。一方でラリーのもとに集まったのは、ドーソン一家、グリーン一家、ホーンウェル一家だった。ジェイゴウの人々すべてがほとんど、どちらかについたので、どちらでもない者は危険にさらされた。ランスは、自分たちの一派でない者たちのことを、いかにも職人らしい手段であるが、こん棒でなぐりつけた。だがラリー一家も同じような実戦にでた。だから中立の立場をとるということは、両方から殴られるということになるのだ。だがランスとラリーが団結し、オールド・ジェイゴウがダブ・レーンにあらがうようって権力闘争に姿をあらわすと、戦いの風景が何マイルにわたって続いた。

これは、しかしながらランとラリーの戦いであり、ディッキー・ペローがジェリー・ガレンの裏庭から出てきて、ポスティー経由でショアディッチを進んでいったときは、まだ戦いの初期の段階だった。ポスティー通りとは、オールド・ジェイゴウの端にある杭(ポスト)のある通りだった。彼の目的は、通りがかった馬車から藁をひとつかみしたり、無防備な飼い葉袋から配合飼料をつかみとることだった。そうすることでジェリー・ガレンのカナリヤがしめしてくれた同情に報いようとした。だが、エッジ・レーンの角にあるポステイィー(杭)で、帽子をかぶり額に真紅のこぶをこしらえたトミー・ランが、両腕に飛び込んできた。彼は息を切らしながら、大喜びして、しきりに自慢した。ジョニー・ラリーとジョー・ドーソンと闘ってきたのだと彼はいった。次から次に闘ってきたのだ。それもすぐ近くで、ジョニー・ラリーのしなびた首をひっかいた。するとジョー・ドーソンの兄の方が、血のついたシャベルをふりまわしながら追いかけて来た。そういうわけで二人の子供たちは走りつづけ、人目につかない裏庭へと入った。そこで、ジョニー・ランはしかめっ面をしながら、想像上の憎しみをかきたてて武勇伝を語り、いっぽうで主教の時計の物語も抑えつつも、手をくわえながら語られ、ふたりの話は入りまじりながら、暗くなっていく闇のなかで張り合っていた。そうするうちにジョニー・ガレンのカナリヤは忘れ去られ、ほうびはもらえなかった。

戦いの夜はいきなり、気まぐれに、ジェイゴウではじまった。ボブ・ザ・ベンダーは鼻の骨が折れ、サム・キャッシュは病院で頭に包帯をまいてもらった。エッジ・レーンのバッグ・オブ・ネイルズでは、スノブ・スパイサーがブリキのポットではからずも殴られ、ココ・ホーンウェルの妻は片方の耳にかみつかれた。夜がふけるにつれて、罵りの言葉とそれに抵抗する言葉の応酬が、上の窓から下の扉にむかって、逆に下の扉から上の窓にむかって、明日も闘うつもりでいる者たちのあいだでくりひろげられた。かどで溝に飛び降りる連中の叫び声が聞こえ、離れたところでもつかみ合いをしている者の存在を告げていた。金切り声があがったが、それはサリー・グレンが戦いはじめたという合図であった。サリー・グレンの相手があげた悲鳴の響きには、ジェイゴウ者ならどうなっているか理解できた。サリー・グレンは弱い一派に属しているものの、オールド・ジェイゴウにおける女の勝者だった。それは彼女なりの戦い方で勝ちとり、保ってきた名声だった。その戦い方とは、最初から歯と爪はつかわないで、まずは敵にぴったりと体をくっつけ、抜け目なく顔をゆがめておおいかぶさると、間髪を入れずに犠牲者の首筋に歯をたて、かみつきながら絞めていくのだった。犠牲者の金切り声は遠くまで聞こえた。いつものことながら常軌を逸した所業に、ただならぬ驚きをほのめかしながら、機械的に、揚水機のように規則的に悲鳴はつづいた。その悲鳴は慣れた耳で聞けば、他の叫びとは区別がつくものだった。

ジャン・ペローはその夜は家に帰ってこなかった。おそらく主教の時計は、ビールにかわったことだろう。ディッキーは気丈にも家のことに心をむけて、ルーイの面倒をみた。そして寝つかれないまま物音に耳をかたむけ、明日に期待をこめた。トミー・ランが壊れた鉄の手すりを半分くれると約束してくれたからだ。その手すりを使ってラリーたちと闘うのだ。

Ⅴ章

ジェイゴウでの眠りはせいぜいよくても、中休みといったところだ。その理由とは、大勢の人々にあり、すでに述べてきたとおりだ。ディッキーは熟睡してしまい、父親が帰宅したことにも気がつかなかった。しかしながら朝がくると、ジョシュ・ペローが床にそのまま寝て、雷のようないびきをかいていたが、その姿は道の埃にまみれていた。父親が朝食をほしがるのは朝ではなかった。それはたしかだった。喉がかわいて目が覚め、凶暴になることだろう。そこでディッキーは食器棚から固いパンをひときれ確保すると、トミー・ランを探しにいった。洗面に関して言えば、彼はあまり好きではなかった。とにかく洗面をしないための理由があって、それも五十ほど申し分ない理由があった。唯一の水場は、裏庭の給水栓だった。その小さな栓はたいてい故障しているか、住人に丸ごと盗まれていた。もしそうでないにしても、そこにはタライもなければ、石鹸も、タオルもなかった。適度に清潔であろうとするということは、優位にたつことであり、ジェイゴウでは怒りを買うことだった。

戦いは早い時間から始まり、みるみるうちに進み、激高していった。ランスたちはすぐに集まり、ラリースたちをくまなく追いかけ、彼らの家にはいって攻撃した。ラリースに反撃の機会がくるのは、闘っているランスの一員が仲間からはぐれるときだけだった。いつものことだが武器を使い、俊敏に上昇気流をとらえながら、たくみに反撃した。ラリースたちは杖で襲いかかり、爪をつきだしながら、古い荷箱をはがしてつくった杖で応答した。ランスたちも、ラリースたちも同時にこん棒のことを思い出したが、誰もこん棒をもっていなかった。火かき棒や鉄の手すりをもっている者もいなかった。ジンジャー・スタッグは小道に追いつめられて、パド・パルマーの頬をのみで切りつけた。このようにして刃物類はうまく正当化され、使われる可能性は少ないながらも準備されていた。だれもが手近にあるものを何でもつかもうとした。

ジェイゴウ・コートとエッジ・レーンのなかほどにあるオールド・ジェイゴウ・ストリートには、「フィーザーズ」が建っていた。それはジェイゴウにある四軒のパブのうちでも、もっとも汚れ、不快なパブだった。そのフィーザーズに、ラーリィたちが大勢追いこまれ、カウンターの奥と酒場をランスたちからしばらく守ることになった。ランスたちが束になって追いかけてきると、椅子や瓶、錫のつぼなどが勢いよく飛んできた。そのかたわらでギャップの女将はカウンターのビールポンプに半狂乱になってぶらさがりながら、哀願したり、泣き言をいったりしていた。そのとき仕切り壁がガシャンと音をたてながら崩れ、それとともに棚やら瓶がたくさん落下してきた。それに乗じてランスたちが廃墟さながらのパブに突進すると、ラーリィたちを殴りたおしてつかみかかり、窓から裏庭へと放りだした。このようにして邪魔な敵がひそむ家を片づけたランスたちは、お礼に酒を要求してきて、それを飲んだ。そのあとビール装置のハンドルを取ってしまい、数本酒瓶をつかんで地下の酒蔵へとむかって、コルク栓をぬいた。ギャップの女将は、パブでのいつもの騒動なら鎮める術を、誰よりもよく知っていた。錫のつぼで殴られた男を相手にしても、大丈夫だった。だが、このとき彼女には、口出しをしないだけの分別はあった。今まで、何事にも気絶をしたことがない彼女だったが、だらりと無気力に座って、すすり泣きながらののしるのであった。

ランスたちは姿をけした。どの男も酒瓶を一本かそこら手にして、四方に散っていった。だが、それこそがランスたちの破滅の原因だった。今度は、ラーリィたちが罵りながら追いかけてきたからだ。八十人から百人くらいの集団が、ハニー・レーンからミーキン・ストリートへとジェイゴウを一掃した。そしてエッジ・レーンをぬけて、オールド・ジェイゴウ・ストリートへと逆行して、ジェリー・ゲレンの家へとむかった。ランスたちでいっぱいの家だ。ジエリー・ゲレン、ビル・ラン、それから残りの者たちも上の階へ逃げ、階段をバリケードでふさいだ。階下では、ラーリィたちが窓を割り、部屋から部屋へと略奪して、目についた家具は何でも粉々に破壊してまわった。上のほうの部屋では、窓辺においた植物に愛情をそそぐピップ・ウォルシュが、植木鉢を下に投げつけた。階段の上段にはビリー・ラーリィがいた。バリケードをのりこえてきたのだ。だが突進をくらって下まで転がり、家に運ばれることになった。さらにピップ・ウォルシュの妻は上から、路上の包囲者に、やかん一杯の沸騰した湯をかけた。

ジェイゴウ・コートから、ランスたちが奇襲をかけた。だが何の得にもならなかった。部隊は小規模で、しかも襲ってくるとは思われていなかったからだ。その建物から、すばやく応じる動きはなかった。ラーリィたちは一歩も退かなかった。

オールド・ジェイゴウ・ストリートの道の真ん中をとおって、サリー・グリーンがやってきた。顔は赤らみ、上半身裸になって踊りながら、しゃがれ声で勝利をつげた。背中から服をぬいだが、顔にも、喉にも爪痕がついていた。そして、その瞳は黒かった。だが大きな手に、髪の房の塊をぶら下げながら、ジェイゴウに挑む雄叫びをあげた。それはノラ・ウォルシュの頭皮からもぎとられたばかりの戦利品だった。ノラは、ランスの女傑だったが、毛髪をはぎとられた頭を隠すため、這いつくばって帰るとジンで気を取り直した。誰も、サリーの挑戦に答える者はなく、ただピップ・ウォルシュの窓からレンガが落ちてくるだけだった。そこで彼女はエッジ・レーンまで踊り続けながら戦利品を持ち帰った。

ジェリー・ゲレンの階段でのつかみ合いは、場所をかえての喚き合いとなった。ラーリィの一派が通りにある別の家へと進んでいくにつれ、そのジェイゴウ・ロウから連発されてくる喚き声が聞こえ、まもなくランスの群衆が疾走してくることを告げていた。ジェイゴウ・コートから出撃して敗れた部隊は押し戻され、コート裏側の建物ぞいのニュー・ジェイゴウ・ストリートを占拠し、追いやられた仲間を集めはじめていた。ランスたちが完全に酔っぱらい、もしくは半ば酔っ払ってやってきた一方で、ラーリィたちもジェリー・ゲレンの家を離れて突進してきたので、双方ともに鉢合わせとなった。混乱が生じ、帽子がふっとび、帽子や頭がぎこちない音をたてた。そしてふたつのギャング集団は散り散りになって、騒々しい混乱状態に陥り、双方が入りまじって、大声をあげながらつかみ合った。怪我をした頭をかばって通りをゆっくり進む男もいれば、大の字になって寝ている敵めがけ、ロープの結びめで殴りかかる者もいた。そうこうしているうちに、戦う者もまばらになり、散り始めた。それぞれの戦いにわかれ、追いつ追われつの突進する者はだんだん少なくなり、もう一度、ジェイゴウでは、みながそれぞれの小競り合いをはじめていた。キドー・クックはいつもユーモアを忘れない男なので、陽気に通りを駆け抜け、ひねった紙を巻きつけた長い棒をふりかざし、それでラーリィの者たちをだれかれとなく叩いた。叩かれて気がついたときにはすでに遅かったのだが、その紙をまきつけているものは下宿屋の火かき棒だった。

もはやジェイゴウでは、どちらにもつかない者は数少なかった。そしてほとんどの者は倒れていた。だがジョシュ・ペローは筋骨たくましい男だったが、中立の立場を尊重していたので、ランもラーリィも怖れなかった。そこで妻に金を少しわたすと、朝食にビールを捜しにでかけた。ピジョニー・ロールは売春婦で、住む家のない女なのに、まるでいいところの奥さまのように、闘うこともしなければ、用心棒をやとうこともなかったので軽蔑されていたのだが、かどの方や中庭をそっと歩いて、身を震わすと、頭から血を流している光景をみて泣きはじめた。老ベベリッジに関して言えば、この事件に興奮するあまり、自分の商売をおろそかにしてしまい(情にうったえる無心の手紙を書いていた)、ジェイゴウにとどまり、通りを大股で闊歩した。その痩せて、みすぼらしい老人あ、肉切り包丁をかざすと、近づいてくる人々に支離滅裂な言葉でいどみかかった。そういうわけで誰も老人に近寄らなかった。

ディッキー・ペローとトミー・ランは、ジェイゴウ・ローを心地よい速さで進んでいた。板がゆるんだ塀があったので、その板をおしのけてみると、とても小さな少年なら通れそうな穴があらわれた。塀の内側には、水たまりに手押し車が数台あった。ほとんどの手押し車が壊れ、なかには傾いてひっくり返っているものもあり、塀と手押し車に隠されたその場所は小屋でもあり、また、ねぐらでもあった。このようにしてラーリィがジェイゴウを一掃しているあいだ、ふたりはそこに隠れていた。そして相手方の若者の姿が見えようものなら、時々、塀の内側からあらわれ、その相手を何度も、何度も強く叩こうとした。だが鉄の手すりの破片は人目をひく武器ではあったが、愚かしいくらいに大きく、また重かったので、小さくて弱々しい手には、俊敏に動かすことができないものだった。それでもディッキーは、小さなビリー・ラーリィにおおいかぶさり、巧みにその腹にげんこつを食らわせた。トミー・ランの方も、ボビー・ハーンウェルの鼻から、たっぷり鼻血をながさせるのだった。だが、そのいっぽうで、トミー・ランの額には杖が思いっきりぶつかり、ディッキー・ペローは、目に強い一打をくらった。彼がその一打をやたらと大事にしたのは、尊敬すべき邪悪さがかもしだされるという考えからであった。心地よい間隔をあけながら、ふたりは自らの勇気をすみずみまで見せるのだった。さらにディッキーが打ち明けた気持ちによれば、大人になった日には長い剣を買い、ラーリィの頭を切り落とすつもりだということだった。だがトミーの心は銃にかたむいた。銃があれば、鳥だって撃ち落とせるのだ。

戦いは昼前には一時おとろえたが、午後になるとふたたび開始された。そしてディッキー・ペローも逃げる途中で反逆に転じ、いつのまにか小競り合いのなかにいた。だが、ある男がディッキーの鉄のかけらをひっつかむと、ラリーのひとりを殴り倒した。その手柄を助けたということは名誉なことであり、満足のいくことではあったが、ディッキーは武器をなくしてしまい、涙をこぼしてしまいそうになった。だが、トミー・ランは復讐に行こうとはせず、しかも武器は自分のためだけに使おうした。仕方なくディッキーは、ただ杖を手にいれるためだけに、悲しそうな様子で小競り合いを追いかけた。戦闘に使われていない棍棒は、見つけるのは容易ではなかった。そこでディッキーは、ジェイゴウからでてくると、ミーキン・ストリートにむかった。そこには店が数軒あるからだ。だが、ついていないことに棍棒を見つけることはできなかった。惣菜屋のあるミーキン・ストリートから、狭いラック・ロウの通りをぬけ、ジェイゴウへと戻ってきた。

ディッキーの母親は赤ん坊を残したまま、出来るだけ扉にしっかり錠をおろしたのだが、それでも心配そうなそぶりをみせた。たしかに彼女には心配するだけの理由があった。ジョシュ・ペローがいつ帰ってくるのか、はっきりしていなかったからだ。だが帰ってくれば、なにか食べ物をほしがるだろう。そのために彼はお金をおいていったのだ。だがディッキーは外出しているし、食器棚には食べ物がなにもなかった。窓から、彼女はジェイゴウ・コートでの男たちの戦いを見ていた。男がひとり、額に傷をつくった状態で、二時間ちかく舗道に横たわっていた。彼女について言えば、近隣の者たちから、いつも好意をいだかれているとは言いがたかった。その原因のひとつに、彼女の夫が棍棒を持ち歩いていないからということもあった。それに彼女はよそ者で、ジェイゴウのやり方にすっかり染まったというわけではなかった。たしかに彼女はみるみるうちにふしだらで、汚い女になったが、けっして酔っぱらうことはなかったし、口論をすることもなく、陰口を好き勝手にたたくこともなかった。彼女の夫も手をあげることはあったが、それもめったになく、椅子や火かき棒をつかって殴られることはなかった。このように立場がいいことに苛立ったジェイゴウの女たちは快く思わなかったから、容赦しようとはしなかった。それにハンナ・ペローは教会で結婚をしたのだ。こうした理由から、彼女は平和なときでさえも、おどおどしていた。しかも今はランスとラーリィが戦争状態であり、両方から嫌がられているものだから、彼女はおどおどしていた。ディッキーが帰ってきてお使いに行ってくれればいいのに。だが彼の気配はどこにもなかった。やがて正午がすぎて、午後になった。いつものようにジョシュは遅かった。きっと怒りっぽくなって家に戻ることだろう。夜どおし起きているせいでぼんやりした頭で、朝のビールを闘いとってくるのが彼の常なのだ。もし何も食べるものがなければ、騒動がおきるだろう。

とうとう彼女は心をきめ、ひとりで外出をした。騒がしかった外だが、一時的な静けさが漂っていて、その静けさはハニー・レーンとジェイゴウ・ロウの遠くから聞こえてくるように思えた。彼女はラック・ロウからミーキン・ストリートへ滑るように進んで、五分もしないうちに戻ってきた。彼女は小さなルーイを抱き上げると、家から離れた。

そしてディッキーが、杖のないまま、ラッキー・ローにふみこむと、甲高い叫び声があがった。また、もう一度、叫び声があがった。やがて規則的に息つぎをしながらも、長い悲鳴を連続してあげる声へとかわっていった。またサリー・グリーンがあばれている。彼が駆けだして、オールド・ジェイゴウ・ストリートへむかうと、目に飛びこんできた光景があった。

ひとりの女が汚らしい道に投げだされ、もんどりうち、身もだえをしながら悲鳴をあげていた。その片腕の下で押しつぶされそうになっているのはひとりの赤ん坊で、両目には泥がかかり、頬には切り傷ができて、弱々しく泣いていた。腕を思いっきり伸ばし、犠牲者の髪と胴をつかんで、サリー・グリーンはテリアのように首筋にくらいついていた。顎を食いしばり、頭は震えていた。

このようにディッキーはその場に出くわし、混乱してしまいながらも、即座にサリー・グリーンに飛びかかった。相手を蹴りあげ、一撃をくわえると、噛みついては大声で威嚇した。そこにいるのが、自分の母親とルーイだとわかったからだ。蹴り上げても、相手の婦人物のペチコートに虚しく阻まれたが、そうこうしているうちに殴り合いも段々おさまっていった。そして鋭い歯が肩の肉にまで食い込んだ頃、ようやく助けがやってきた。

ノラ・ウォルシュは、一度打ちのめされた覇者だが、今、どうにか元気を取り戻していた。彼女は窓から外を眺めていると、自分の敵を傷つけるいい機会だということに気がつき、瓶を一本かかえ走りだした。彼女は縁石のところで立ち止まると、瓶の底部分を打ちつけて、瓶から底部分を切り離そうとした。やがて歓喜の声をあげると、サリー・グリーンの髪をつかみ、鋸の歯のようにぎざぎざした瓶の切断面を相手の顔におしつけた。血のせいで何も見えなくなったので、サリーはペローの妻をつかんでいた手をはなした。そして道にひっくりかえった状態で、それでも荒々しく闘おうとした。だが虚しい努力だった。ノラが胸にのしかかったまま、何度も、何度も、底を切断した瓶で突き刺してきた。やがて瓶は粉々になってしまった。サリーのわめき声も、抗おうとする動きも止まった。ひとりの男がノラを引き離した。腕にノラを抱えると、やがて男は走り出した。ラーリィたちの者は、サリーが病院へと運ばれた痕をたどることができた。

ハンナ・ペローは興奮にかられ、望みを失いながら、家にはいった。彼女は使いにでた途中で、ランスの女を捜していたサリー・グリーンに出くわしたのだ。ミセス・ペローはランスではなかったが、ラーリィでもなかったので、サリーにすれば同じようなことだった。さらに彼女にはいろいろ嫌がられているところがあった。彼女は走って逃げようとしたのだが、意味のないことだった。ようやく今、出血して泣きじゃくりながらも、家の中へと優しく連れて行かれ、階段をあがっていくのを感じた。運んでもらっていると言ってもよかった。ベッドに体をおろされた。何者かが髪をほどき、顔から首筋をなでながら、しわがれた声で慰めの言葉をかけてきた。そのとき彼女が目にしたものとは、粗野な、あばた面の、目のふちが赤くなった怖ろしい顔が、自分におおいかぶさってくるさまだった。それはピジョニー・ポールだった。

ディッキーもあとにつづいたが、もはやジェイゴウ・ロウを退却してきたときの英雄ではなかった。顔じゅうを涙だらけにして歪め、両腕に赤ん坊をかかえ、その両目から泥をぬぐった。小さな箱に腰かけ、ベッドの母親を見てしまわないように怖れながら、赤ん坊の世話をした。

家のそとでは、戦いがもう一度召集されていた。ラーリィたちは、サリー・グリーンに報復しようと走った。やがてランスたちは、気合いのはいった彼らと遭遇した。バッグ・オブ・ネイルズのあたりで、ランスは柱と柱のあいだに追い詰められ、狭い路地をぬけてショアディッチ・ハイ・ストリートへとむかった。そこでは抵抗がつづき、ついにファグ・ドーソンが、脇の下に靴屋のナイフをはさんだ状態で倒れた。するとランスたちはその場から逃げだしたが、ラーリィのほとんどがあとを追いかけた。それからファグ・ドーソンは、警察によって薬屋のところに運ばれ、もうランスをふたたび倒すことはなかった。彼の左肺にまでナイフは貫通していたからだ。

こうして戦いは終わった。ジェイゴウの派閥争いは、頭やあばらを損傷することもあれば、あちらこちらに常軌を逸した切り傷をつくることもあり、また今回は、殴られたり、その他のよろしくないことが原因で、病院で死亡した者もひとりでた。だが誰もがとおるハイ・ストリートでの殺人となると、警察も一線をこえ、ジェイゴウへと徒党を組んで入ってきた。通常であれば、郵便配達夫のあいだから、ときどき姿をみせる二人一組の警察官が、ジェイゴウがこれまでうけてきた干渉のすべてだったが、今回は三人の警察官がやってきて、オールド・ジェイゴウ・ストリートをいっしょに歩き、特定の相手を捕まえようと検挙の手を入れようとしていた。一団となって突撃してきたので、騒動はやんだ。ランスにしても、ラーリィにしても、キックの練習をして、この二、三人の警察官を押し倒せば、こんなに楽しいことはなかっただろう。だが、この運動をするには、あまりにも多くの者たちがいた。そういうわけで警察官たちは、何時間もかけて、ジェイゴウにもっとも近い通りを調べた。もちろんファグ・ドーソンを刺し殺した犯人を知る者は誰もいなかった。調べにあたった警察官たちは、オールド・ジェイゴウで何か知っている者を見つけることはなかった。ただ発見したのは、ひどい憎しみによる害だった。それは、このあたりで従われている唯一の戒律だった。すなわち「汝、警察の手先となることなかれ」

その夜、ジョシュ・ペローとビリー・ラーリィのあいだに、戦いがあるだろうと思われていた。ビリー・ラーリィが回復したからだ。ジョシュ・ペローは帰宅すると、妻のことを知り、すぐさまランスを倒した。その夜、ジェイゴウに警察がきていなければ、ジョシュ・ペローが報復にきて、ラーリィのあいだには、痛い思いをする者が大勢でたことだろう。サリー・グリーンの夫は数年前に家からいなくなっていたので、サリーの兄のビリー・ラーリィがジョシュの復讐の対象であることは明らかだった。妹が女たちのあいだで高く評価されているのと同様、彼も男たちのあいだでは高く評価されている戦い手であったので、面白い戦いになることが予想された。もちろん、その戦いは、すべての戦いのように、ある日曜日の朝、ジェイゴウ・コートでおこなわれ、おそらくハイ・モブの誰かが命をかけることになるだろう。

6章

朝になっても、警察はジェイゴウにとどまった。その存在に、多くの者たちは困惑した、とりわけディッキーが一番困惑し、警察官の姿を見かけようものなら、ぐるりと向きをかえたり、他の方向へと歩いたりした。ディッキーは早いうちにオールド・ジェイゴウ・ストリートから離れ、ミーキン・ストリートへとむかった。その通りでは、雑貨店のウィンドゥには砂糖菓子が飾られ、レストランの店先にはプディングが飾られていた。ディッキーはこうした通りをぬけ、ショーディッチ・ハイ・ストリートへと向かおうと試みた。そこで菓子店をまじまじと見つめると、慰めという王冠を授かるからだ。だが、ミーキン・ストリートをぬけたところにある、ウィーチのコーヒー店に近づいたときのことだ。ウィーチが戸口にたって、にやりと笑みをうかべると、愛想よく挨拶をしながら、ディッキーにむかって手招きをした。アーロン・ウィーチは愛想のいい男で、貧民窟で賛美歌をうたい、店でもその調べを口ずさんでいた。頬ひげをはやし、頭はなかば禿げあがり、白い前かけをしたこの男は商売上手で、少年相手のときは身をかがめ、優しく話しかけるが、それでいながら相手の目を射るように見つめるのだった。だが大人相手に話すときには、視線はほとんど相手のチョッキにあわせたままの男だった。

たしかに、アーロン氏には子どもたちを魅了するところがあった。彼は少年少女を客にしていて、しかも、その子供たちは、飲み食いしたぶんだけの支払いが、十分にできるわけではなかった。だが彼はいつも寛大なので、小さな客にとって近づきやすい人物だった。日曜日でも(もちろん、安息日だから、彼は店のシャッターを固くおろしていた)、扉をたたく特別な音がすれば、彼は急ぎ足で出ていくのだった。コーヒーを売るためではない。ウィーチは安息日を守らない人物ではなかった。

そのとき、彼は入り口にたって、ディッキーにむかって頷くと手招きをした。ディッキーは不思議に思いながら、ただ殴られる範囲にはいったにすぎないと分かったときには、いつでも逃げられるように用心しながら、彼のところへいった。

「おや、まあ、ディッキー・ペローじゃないか」ウィーチ氏は愛想のいい驚きをこめていった。「コーヒーを飲んでいかないか」

ディッキーは、相手がどうして自分の名前を知っているのだろうと訝りながらも、たまたま知ったのだろうと考えた。

「ケーキも食べていくといい、そうだとも」ウィーチ氏はつけくわえた。

ディッキーの目は点になった。ケーキも食べていいのだ。

「ああ、わかっているさ」ウィーチ氏は得意げにいった。「いつだって、わかっていたさ」彼はディッキーが頭にかぶっている帽子をなでると、店のなかに招き入れたが、この時間、客の姿はなかった。店の奥のところで立ち止まると、ウィーチ氏は優しく肩に手をかけ、ディッキーを席につかせた。

彼はコーヒーをもってきた。菓子は一切れではなかった。二切れだった。たしかに、その菓子はエレベーション・ミッションほどの品質でもなければ、ハイ・ストリートの店先で飾られているものほど、素晴らしいものではなかった。色は茶色で不格好だったし、食べても固いし、干しぶどうは少ない上に、入っていても砂でじゃりじゃりしていた。それでも菓子ではあったし、批判的に考えたところで仕方なかった。ディッキーはあまり味もわからないまま菓子をたべたが、それはウィーチ氏が卓のむこうから鋭い目つきで見ているからだった。やがて奇妙な理由から、彼は泣きだしたいという妙な衝動にかられた。こんなに親切に、気前よく、何かもらった体験は初めてだったからだ。

彼は最後のかけらを飲み込むと、カップに残ったコーヒーで流し込んだ。それからウィーチ氏のほうを困惑してながめた。

「飲み込んだかい」施しの主はいった。「美味しそうに食べていたから、見ている私も嬉しいよ。君のような小さい子どもが好きなんだ。とりわけ君のように賢い子が」

ディッキーは、思い出してみても、賢いなんて言われたことはなかったので、ようやく不思議に思いはじめていた。ウィーチ氏はよりかかりながら、しばらく微笑んで彼の方をじっと見つめるといった。「ああ」彼はいった。「いつでも欲しいときには、コーヒーと菓子を食べることができるよ」

ディッキーはさらに訳がわからなくなり、表情にもそれがでていた。「なあ」ウィーチ氏は目配せをすると、にやりとして頷きながら訊いてきた。「あの日、見つけたのは素晴らしい時計だったんだろう。持ってきてくれよ」

ディッキーは警戒した。どうしてウィーチさんは時計のことを知ったのだろう。もしかしたら、時計をなくした、あの滑稽な老人の友達なのかもしれない。ディッキーは立ち上がりかけたが、気のいい主は体を近づけると、彼を席に戻した。「怖がらなくていいんだよ」彼はいった。「だれにも、なにも言ったりしないから。でも、全部知っているから、その気になれば言うこともできる。おまえが見つけた時計は、金の時計で、リボンが少しついている。なあ、家にいって取っておいで、いい子だから。父さんはどうしだんだ? どうして鞭でぶって、時計を自分のものにしたんだろう? 苦労した挙句、おまえさんがもらったものと言えば、この有様だ。さあ、すべてを知っているんだよ」それからウィーチさんは、にやりと笑ったまま、ディッキー・ペローを凝視した。

「誰に話したのか?」ディッキーは、ようやくたずねた。

「とんでもない」強調してこう言うと、人差し指で小鼻をたたいた。「話すつもりはない。知らないところで話がひろまることもない。心配しなくていいよ。そこらの小鳥が陰口たたいているのを聞いたのか、それとも別のところで聞いたのかは忘れたが。とにかく知っているんだ。私の知らないところで、何かやろうとするのはよくないよ」

ウィーチ氏は顔を近づけてきた。にやにやした笑いが顔一面にひろがり、その目を細め、こめかみからディッキーの頭へと人差し指を動かした。ディッキーが自分の席でぎこちない動作をしているのがわかっているように見えた。どんな不思議な手段をつかったら、この新しい友達は時計のことをよく知っているのだろう。この疑問に、彼は困惑した。アーロン・ウィーチとトミー・ランスが、一時間前に会話をしていたことを知らなかったからだ。

「でも大丈夫だから」ウィーチさんは機嫌よくつづけた。「そんなことを人に知らせるような弱虫ではないから。さて、時計の話をしていたんだった。あれだけ難儀な思いをしたあとで、お前さんが受け取ったものは、鞭でぶたれたことなんだよな。ひどすぎる話だ」ウィーチ氏の声にはいたわりがみち、同情心にあふれていた。「あんな素晴らしい時計を見つけたのに、金の時計を見つけたのに、何ももらえないで、鞭でぶたれただけなんて。気にしなくてもいい。次にやるときは、うまくやってあげるから。賢い子どもがぞんざいに扱われるのを見るのが嫌なんだ。別のものを見つけたら、何か良さそうなものを見つけたら、ここに持っておいで」

ウィーチ氏の親しみのこもった、同情にあふれる声に、ディッキーの疑念は消えてしまった。「それは失敬したものなんだ、こっそり入ってね」

「なに」ウィーチ氏は声をあらげた。理解不可能な言葉が、突然とびだしてきたのだ。「なに、なんだと。失敬しただと。何を失敬したのか。こっそり入るだと? だれも、そうしたことは話していないし、私も知りたくもない。そうしたことはいけないことだと思う。私はそんなことは知らない。知りたくもない。わかったか? いいな。そうした話はするんじゃないぞ。もしするなら、私のそばに近寄るな。もし何かを見つけたなら、それはいい。私のところにくれば、もしいい品であれば、何かをあげよう。どこで見つけたのかということには、誰も関心がない。私も知りたくはない。だが、こっそり入って失敬するなんていうのは、私には許せないし、そんなことは知りたくない。いいか。こっそり入って失敬するなんて話は、立派な方々には許せない話だからな」

ディッキーは恥ずかしさに赤面し、罪を理解することはできないながら、それでも罪を感じていた。だが、ウィーチ氏の徳にかられた憤りは、憤りにかられたときと同じように、すぐに静まり、先ほどまでの好人物にもどった。

「何かを見つけたら」彼はいった。「ああした時計を見つけたら、誰にも話したらいけない。誰にも見せたらいけない。ここにこっそり持っておいで。通りに警察官のいないときだ。店の裏手にまわって、こう言うんだ。『ナイフを研ぎにきました』いいか?『ナイフを研ぎにきました』研いでもらうナイフなんかない。他のひとが知らない何かを持ってきたと告げる手段なんだ。そうしたら、お前に何かをやろう。お金か、菓子か、ほかのものか。忘れるな『ナイフを研ぎにきました』いいか」

たしかに、ディッキーは完璧なまでに理解した。そのときディッキーは、新しい世界の、目もくらむばかりの喜びを見た。菓子も、コーヒーもいくらでも食べ放題、飲み放題だし、ディッキーが心ひかれるものがあればいつでも思いのままだ。とりわけ何よりも、実物の金が手に入るのだ。ペニーが無尽蔵に、そしておそらくシリングだってたくさん手に入る。夕食にレバーの塊を買えるくらいの金も、あるいは牛の胃(トライプ)が買えるくらいの金も、思い描くものは何でも手に入れることができる。寒い夜に缶からサビロイ(乾燥ソーセージ)やベイクドポテトを食べることも、ルーイを乗せてあげる小さな二輪車も、おもちゃ屋から帆のついたボートを買うこともできるのだ。

「この世には、見つけようと思えば、いくらでも見つけることができるものがある。それにお前さんみたいに賢い子なら、毎日でも見つけることができる。もしお前が見つけなくても、誰かが見つけるだろう。そうしたものを見張っている連中はたくさんいる。お前さんも、そうした連中のようにきちんとやったわけだ。何か気にかかっているのか?」ウィーチ氏は厳しくも、真面目な表情になって、人差し指を印象的な仕草でたてた。「私が知らないなら、お前さんは何もすることが出来ない。もし、お前さんが一言でもいえば。もし、お前さんが一言でもいえば」彼はドシンと音をたてながら、拳で食卓を叩いた。「お前さんの身に何か起こしてやるさ。なにか悪いことを」

ウィーチ氏は立ち上がると、ふたたびにこやかになった。だが、仕事をしているときの機嫌のよさであった。「さあ、もう行きなさい。でも何か見つけたら」彼は言った。「油断をするな。そのまま出かけて騒動にまきこまれるんじゃないぞ。コーヒーが一ペニーで、菓子が一ペニーだ。あわせて二ペンスだ。だが、今日は一ペニーにしておく。二ペニーの借りがあるんだからな。なにか持ってきて、すぐに支払った方がいい。じゃあな」

楽しみには、思いもよらない請求書がついてきた。人生ではじめて、ディッキーは負債を負った。コーヒーや菓子がけっして贈り物ではないことに気がついて、少々失望もした。だが、たしかに今から思えば、贈り物だと考えていたのは愚かだった。ディッキー・ペローの世界では、人々は贈り物をしたりしなかった。それは愚か者のすることだった。こうしてディッキーは、両手をやぶれたポケットにつっこんで、小さな頭に思いをめぐらした。その顔には、昨日の涙が泥で筋をえがいたままだった。そしてアーロン氏の店の扉から重い足取りででていき、ミーキン・ストリートへむかった。

今、ディッキーは慎重に社会とむきあい、事実に直面しなければならなかった。たしかにこの世は、これまでも、彼にすれば用心しなければいけないものだったが、そのことを知らなかったわけではなかった。もう彼も、他の少年たちなら自分で盗みをする年頃であり、一人前の大人のように借りができていた。ウィーチ氏がいった言葉は真実だった。ジェイゴウではいたるところで、だれもが自分のために警戒をしている。あきらかに、他の者の手におちないように、彼も自分の持ち物を守らなければならなかった。馬鹿正直なせいで、彼は自分のものを失ってしまい、かわりに父親がその品を手に入れた。父親は自分の力でやすやすと盗むこともできたのに。なんといっても屈強な男なのだから。夜になるのを待って、他の男を打ち倒すだけでいいのだから。ウィーチ氏以外は誰も、将来、盗人になろうとする者の気配に気がつくことはなかった。それぞれが自分を守るだと? そうだ、目をしっかり開けて見張らないといけないのだ。

7章

ミーキン・ストリートには、何の機会も転がっていなかった。小売商も、レストランの店主も、自分たちの隣人についてよく知っているものだから、商品をしまわないで、そのままにしていることはなかった。まもなくディッキーはショアディッチ・ハイ・ストリートについた。その通りでは、もう少し好意的な雰囲気がただよっていた。彼がよく覚えている店も数軒あったが、そうした店では、ときどき商品が出入り口の付近や窓の外へ飾られていることがあった。だが、その日はそうした機会はないようだった。人について言えば、彼はポケットをねらうには背が低すぎた。さらにたしかにハイ・ストリートは、不確実ながら分け前となる通行人の姿がほとんどなかった。さらに自分が知っている人から略奪することは控えなければいけないということも知っていた。司教の時計のように珍しい機会であれば、話は別だ。それは数年に一度のことだ。

ディッキーは店から店へと、戸口や窓にまとわりつき、店主が一瞬でも留守にする時を見つけようとした。一瞬でも留守になれば、ひったくることのできるものもあることだろう。だが彼の願いはむなしかった。どの店からも、彼は立ち去らなければならなかった。ぶらぶらしている少年の目的に気がつかないほど、ショアディッチの商人は鈍くはないからだ。そうこうしているうちに二時間近くが経過していた。だが、ついにその時がきた。それはハイ・ストリートにある、好都合な一角で起きた。ポスティーズから遠くないあたりだが、道の向こう側でのことたった。子守りの少女が、店のドアのところに乳母車を置きっぱなしにしていた。乳母車には、小さな毛皮のひざ掛けがふんわりかけられ、その下から小さな丸々とした足がつきでていて、高々と動かしていた。ディッキーは店に背をむけ、乳母車に手がとどくところまで横歩きになって進んだ。だが、そのとき、たまたま子守りの少女が戸口にでてきてしまい、膝かけをもちあげようとしていた彼の腕はつかまれてしまった。すぐに彼は膝かけを落とし、ゆっくりと向きをかえたが(子守りの少女に追いかけられる事態を馬鹿にしていたのだ)、ひとりの男が肩をつかんできた。イタチのようにすばやく、ディッキーは男の腕をかわして、肩から相手の手をふりほどいた。しゃがみこんで、一瞬、指先をついて、男の手から逃れようとした。そして通りへと飛び出していった。男は追いかけようとした。だがディッキーは走り、馬の腹の下をくぐりぬけ、さらに駆けている馬の頭のまえを突っ切り、運転手が背中をむけているあいだに路面電車のプラットフォームを横切って、ようやくポスティーズへと着いた。

前かがみになりながらジェイゴウへたどり着いたが、彼は失望にかられていた。エッジ・レーンを横断していたとき、余所者に気がついて驚いた。申し分ない洒落者がゆっくり歩き、自分の右の方にも、左の方にもいる垢じみた住民をながめた。山高帽をかぶり、黒い服を着こみ、その服の柄はエレベーション・ミッションで見かけたものと同じだった。たしかに、聖職者の服装だった。その男は背が高く、頑丈な体の持ち主で、その顔も筋骨たくましく、角ばっていた。歳の頃は三十五歳くらいだった。警察が掌握している今だから、ジェイゴウに冒険にきたのだと、ディッキーは考えた。さて、別のときに来たなら、どんな服装になって、ここを離れることになるのだろうかとも考えた。だが余所者の姿が見えなくなり、オールド・ジェイゴウ・ストリートへと進んでいくうちに、ディッキーは警察がいなくなって、ジェイゴウに自由が戻ったのに気がついた。

ディッキーは壊れた階段をのぼって、裏手から二階にはいった。夕食について、期待なかば、でも、あるだろうかという不安のほうが大きかった。やはり、なにもなかった。母親は布きれを首にまきつけた状態で、ベッドに横たわって、昨日の傷を癒していた。そうしながら自らを憐れんでいた。母親から一ヤードほど離れたところに、ルーニーは寝かされていたが、顔色が悪く、ほかにも具合の悪いところがあるようだったが、それでも放置されていた。ディッキーは抱き上げようと近づいたのだが、そのせいで、彼女はいちだんと大きな泣き声をあげた。やむなく寝かせておくことにした。ルーニーは、いやいやをするかのように頭を動かしていた。そして小さく、やせこけた手を、顔のほうへ力なくのばしては、熱にうかされたように指先を動かしていた。頭にはこぶができていた。昨日、道の石にあたって出来たこぶで、かたく、ふくらんでいた。妙な静けさが立ちこめ、悲しそうな泣き声には、恐怖にちかい響きがあった。サリー・グリーンの犠牲者たちが叫び声をあげながら、不安にかられて仄めかす感情と同じものだ。

父親はおそらく盗品をもとめて、出かけていた。食器棚には食べられそうなものが何もなかった。家には、いるだけの価値がないように思えた。彼はもう一度、ルーイを見た。だが手をふれることは控え、外出をすることにした。

踊場のむかいの部屋は、扉が開けっ放しになっていた。その部屋から、誰の声も彼の耳には聞こえてこなかった。今まで、この扉があいていたことがなかったので、彼は思い切って中をのぞいてみた。その部屋を借りていたのは余所者たちで、最近やってきたばかりの、いわば侵入者だった。彼らの名前はローパーだった。ローパーは顔色の悪い、かつての家具職人だが、不運にあって職を失ってしまった。その細君も顔色が悪く、嫌われていた。それというのも、服装がきちんとしていて、過剰なまでに石鹸と水をつかい、噂話からは距離をおいていたからだ。その赤ん坊も、ひどく顔色が悪かった。さらにディッキーと同じくらいの年齢の、猫背の少年もいたが、その少年も顔色が悪かった。ローパー家の者たちは皆、余所者だということで嫌われていた。それは、彼らは自分たちの部屋を飾っているのだが、その飾り方が見事なくらいに醜悪であったからだ。また、ローパーが酒を飲むでもなければ、喧嘩をするでもなく、妻を殴るでもなく、仕事をさがす以外は何もしないということも、嫌われていた。こうしたことすべては、ひどく傲慢なことであり、ジェイゴウの習慣や先例を厚かましくも破壊してしまうものだからだ。ペローの奥さんもかなりひどいが、こうした連中もまたひどい。

ディッキーはこうした部屋を見たことがなかった。すべてがとても清潔だった。床も、窓も、ベッドの寝具もすべてが清潔だった。床にはカーペットも一枚あった。壊れていない椅子もあった。マントルピースには、ピンクのガラスでできた花瓶もふたつあった。そして置時計がひとつあった。誰も室内にはいなかったので、ディッキーはさらにもう一歩すすんだ。置時計にふたたび惹かれていた。小さく、安物のニッケル塗装の時計で、円柱のかたちをした、アメリカ人の手によるものだったが、ディッキーはすぐに司教の時計のことを思い出した。それは主教の時計のように金ではないことは確かだが、もう少し大きかった。それに時の音をうつことも出来た。そう、たしかに時の音が響いていた。ディッキーはうしろを振り返り、踊場をうかがった。それから部屋にとびこみ、時計をひっつかみ、だぼだぼの上着の胸のしたに隠し、階段へむかった。

階段をなかばで、顔色の悪い、猫背の少年がのぼってくるのに出くわした。家にひとり残されていたその少年が、入り口のところに立っていた。彼はディッキーのあわてぶりをみた。そして彼の上着の下が、疑わしいことに盛りあがっている様子をみた。そこで即座にディッキーの腕をつかんだ。「どこにいってたんだ?」鋭くたずねた。「うちの部屋に入っていただろう? 部屋から何をもってきた?」

「おまえのものは何もとっていない。はなせ。そこをどくんだ」ディッキーは相手をおしのけた。「通さないつもりなら、おまえのことを殺してやるからな」

だが、片方の腕も、手も、上着のふくらみをおさえてふさがっていたので、もう一方の手で相手の攻撃を払いのけようとしたが、しばらく、その動きにはついていけなかった。ふたりの子供たいは言い争い、階下で取っ組み合いをしているうちに、建物の出口から通りへとでた。猫背の少年は弱かったが、怒りにかられていたものだから、殴りかかったり、噛みついたり、泣いたりした。ディッキーも怒りにかられていたが、相手をふりきって駆け出す機会がないかとうかがっていた。そのまま、ふたりとも通りに四つん這いになってでていった。ディッキーは一歩ずつ、家があるその建物から離れていった。ラック・ロウの曲がり角のところで、相手の顔に腕をまわして蹴り上げた。すると猫背の少年は急に倒れ込み、あえぎながら横たわって、啜り泣いていた。そのあいだに、ディッキーはラック・ロウを大急ぎで走り抜け、ミーキン・ストリートの角をまがった。

ウィーチ氏は、今度は忙しくしていた。客がいたからだ。だが、入り口にたつとすぐに、ディッキーのことにも、彼の隠している上着のふくらみにも気がついた。

「おや、ディッキーじゃないか」彼はいうと、そばにきた。「来るとは思っていなかった。さあ、おいで。お菓子の世界へ、おいで。おいしいお菓子の山にいこう。ここにおいで」そのまま歌を歌いながら、ディッキーを店の小部屋にとおした。

そこでディッキーは時計をみせたが、ウィーチ氏は何の賛辞もしめさないで手にとって調べた。「これより、もっとましなものを見つけないとだめだよ、いいかい」彼はいった。「でも、こんなものでも、とにかく持ってきてくれた。これで君の借りはなくなると思う。ところで、晩ご飯を食べたいんじゃないか?」

たしかにそのとおりだったので、ディッキーも同意した。

「よし、わかった。お菓子の世界へおいで。こっちにきて、座りなさい。温かい料理をもってくるから」

その料理とは、塩漬けの薫製にしん、いつもの泥のようなコーヒーであり、こんがりと焼けたトーストに一切れのパンもでてきた。ディッキーにとって、これはご馳走だった。さらにコーヒーショップで、晩ご飯をとるということには、大人の威厳があるように感じられた。ウィーチ氏の店でくつろいでいるそのとき、そのおかげで頑張るように励まされているように感じられた。席にもたれ、足をぶらぶらさせながら壁に目をむけると、そこには食料品店の暦がかけられていた。日曜学校でおこなわれた記念行事の、過去の日付の請求書が山となっていて、それは遠くからでも目立ち、この店の高尚な道徳をしめしていた。

「食べたか」ウィーチ氏が耳元でささやいた。「よし。もう、このあたりをうろついているんじゃないぞ。ニシンが1ペニー、コーヒーが1ペニー、菓子が1ペニーだ。そういうわけで、今、おまえさんには3ペンスの貸しがある」

8章

ディッキー・ペローと猫背の少年が取っ組み合いながら、通りを苦労しながら進んでいたそのときに、オールド・フィッシャーが上の階の奥から降りてきた。そこで彼は、息子のボブ、ボブの妻、ボブの二人の妹たち、それからボブの五人の子どもたちと一緒に暮らしていた。その室内には、十人が一致団結すればかなうはずの清潔さが微塵もなかった。よごれた顔に泥がこびりついたオールド・フィッシャーが、二階の開け放った扉のところで足をとめた。そしてディッキーがしたように、中をのぞきこんだ。泥がどこにもない室内に当惑しながらも、静けさに勇気づけられて、オールド・フィッシャーも中に入るという冒険をした。誰もいなかったので、オールド・フィッシャーは、マントルピースのうえにある、ピンク色のガラスの花瓶が3ペンスだろうと値ぶみをした。それから部屋のかどにある収納箱へとむかい、その蓋をもちあげてみた。その中には、ルーパーの道具がはいっていた。もし仕事で急に呼ばれたら、必要になりそうなものを、その日の朝、ルーパーはそこから取り出して、カーテン・ロードへと歩いていったのだ。あきらかに、この部屋で、もっとも価値があるものだったので、オールド・フィッシャーは小さな品をいくつかポケットに滑りこませてから、さらに大きな品をふたつかみして、重い足音をひびかせながら階上の部屋へと持っていった。やがてボブの女房を連れて戻ってくると、ふたりして、さらにとりかかった。だが、ふたりが姿をみせたとき、踊り場には猫背の少年がいた。そこですすり泣きながら、袖で顔をぬぐっていた。あらたに略奪されている様子をみて、少年は鋭い叫び声をあげた。そしえ踊り場に力なく立ちつくし、涙があふれる瞳で、その男女が階段をあがっていく様子を見た。オールド・フィッシャーはぎこちない様子で、重い足音をひびかせながら女につづいて歩き、その前にいる女は無関心な様子で見おろしてきただけだった。彼らが上の階に姿を消したときになって、ようやく父親と母親の足音が、階下から猫背の少年の耳にとどいた。

9章

ディッキーは、ウィーチ氏のところで晩ご飯を食べたのはいいが、その結果、むっつりとしながら戻ってきた。わかりにくい計算に追いこまれることになったからだ。二ペンスの借金からはじまったが、先ほど、ウィーチ氏にはすばらしい時計で返済してきた。ディッキーの目には素晴らしい品のように思える品であったが、ニシンを食べてしまい、3ペンスと半ペニーの支払いを負う取引となった。こうした時計の値段がいくらするものか、ディッキーには見当がつかなかったが、思いもよらない金額にちがいないと思いはじめていた。ウィーチ氏が金額をしめしたときには、借金の額の修正はきわめて正確であるように思えた。結局、借金が3ペニー半に増えたという事実だけが明らかに残り、彼は困惑することになった。彼は、ノートン・フォルゲートの店でそうした時計を見たことを思い出した。店のひとに値段をきいても、店のそとに追いはらわれるだけだろう。だが、おそらく値札がついているだろうから、眺めている客に値札を読んでと頼めばいい。こう考えていくと、最後には、たまには「読み」も役に立つ知識だという思いにたどりつくのだった。いっぽうで、時間もかかるし、わずらわしいこともある「読み」の勉強に価値があるのだろうかとも考えるのだった。ディッキーは、学校に行ったことがなかった。初等教育の法案は、議会の他の法案と同様に、ジェイゴウでは効力を発揮しなかった。ジェイゴウから離れた、ハニー・レーンの一角には公立小学校があり、そこに子どもたちは自由に通うことができたが、ジェイゴウの子供たちのうち、時々でも通う者は本当に少数だった。それも援助がうけられるときや、紅茶やスープのような類の引換券がもらえるときに限られていた。そして、ほとんどの両親はジョシュ・ペローの意見と同じであった。すなわち、学校に行くなんて、やらないほうがいい行為なのであった。当時、子供の勉強をみてもらうということもなかったし、知識を学んだり、そうしたしんどい思いをする機会というのもなかったからだ。このように学ぶということはジェイゴウでは馴染みのある行為でもなければ、なにかに結びつく行為でもなかった。

さて、ディッキーが心配していたのは、自分のしでかした冒険のせいで、アパートのなかに騒動が起きているのではないかということだった。そこで家へと戻る道はまわり道をした。ジェイゴウ・ロウのむこうの地区を通りぬけ、ハニー・レーンにはいり、いちばん遠いところからニュー・ジェイゴウ・ストリートについた。ジェイゴウ・コートに裏が面している家を選ぶと、通りから裏に忍び込み、裏庭の破れた塀からジェイゴウ・コートへと腹ばいに進んだ。進んだ先では、右にも、左にも、家の入り口があった。片側に、四軒の家がならんでいた。目の前には狭いアーチ道があらわれ、オールド・ジェイゴウ・ストリートへと向かっていた。アーチ道の右側には、彼の家の窓もあった。彼は静かに裏庭へとまわったが、台所のドアのところでトミー・ランと出くわした。

「おや」トミーが声をかけてきた。「たいへんな騒ぎだ。ひどいことを言っていやがる。あのルーパーの連中ときたら。ルーパーが言うには、フィッシャーの者たちがこっそり入って盗んだそうだ。それで大騒ぎをしているんだ」

階段からは、たしかに叫んだり、相手を呪う声がしてきて、どしんという物音や、啜り泣いたり、大声で泣きわめく声が聞こえてきた。二階の踊場から階段の途中にかけて、大勢のひとが、男女とわず、ランスもラーリィも入り乱れて集まっていた。ランスがラーリィに加勢したのは、進撃するには都合のよくない時間だった。それに両者とも互いに戦いをしたあとだったから、結集しようともしなければ、そうしたいとも思わなかった。ただ、攻撃対象が共通していただけだった。攻撃すべき相手は、ここにいた。その相手とはルーパー一家で、害をおよぼす余所者であり、盗まれたと文句を言って、近隣の者の名誉を傷つけていた。ジェイゴウでのルーパー一家は、家具を持っていたり、お高くとまっていたりするせいで、鼻持ちならない存在だった。じゅんぐりに、隣人を泥棒呼ばわりしているにちがいない。あの連中には、これまでも長いあいだ我慢してきた。そろそろ思い知らせてやるときであり、いらいらするお上品さを蹴散らしてやるときだった。もし、その混乱のあいまに、持ち運びできる家具や寝具が、ふさわしい持ち主の手にわたったとしても、それは当然のことではないだろうか。

この場に不可欠な罵り合いの応酬が、戦いの前段として放たれた。この罵り合いに励まされて、動きはもっと活発になってきた。ディッキーが、トミー・ランのうしろにつづいて、スカートや足をかきわけ、階段を苦労しながらすすんでいくと、ようやくルーパー一家が見えた。ルーパーさんは顔を真っ赤にしていたが、奥さんのほうは普段より青ざめながら、必死にドアを閉めようとしていた。部屋のなかでは、猫背の少年と赤ん坊が泣いていた。部屋の外を見てみると、踊り場にいる人たちはドアに足をさしこみ、中におしいろうとしていた。中に入ると殴ったりの乱暴をはたらいた。ルーパーさんは手首をつかまれた。ノラ・ウォルシュは奥さんの髪をつかんで、相手の頭をひきずりおろした。乱闘のあいまに、奥さんの顔がみえたが、血の気がひいていて、汗がビーズのようにうかんでいた。ノラ・ウォルシュの赤いこぶしが、奥さんの顔を二回殴るところも見えた。そのとき誰かが階段をかけあがってきて、ディッキーをわきにおしやった。まわりの人々の肩越しに、ディッキーが見たものとは、山高帽と、そのしたにある頭だった。それはエッジ・レーンで見かけた余所者だった。活動的で、大胆不敵な男だ。ノラ・ウォルシュの肩を彼はつかむと、人々のほうへ彼女を放り投げた。その男が近づくと、ルーパーの腕をつかんでいた男は手をはなして戻っていった。

「どういうことだ?」その場にあらわれた男は、厳しく、険しい顔つきでたずねた。「いったいどういうことだ?」彼は周囲の者に、順々に厳しい顔をむけた。すると視線をむけられると、何人かの者たちは不安そうな様子で後ずさりをした。他の者たちは、ぼんやりとした、表情のない顔をしたが、それは警察がジェイゴウで取り調べをするときに見かける顔だった。ディッキーはこの男が打ち倒され、蹴られ、服をはがれてしまう様を見ることを期待していた。だが身なりのいい余所者は、ジェイゴウでは目新しい存在だった。この男はジェイゴウの人々のあいだにいきなり姿を現し、そのうえ恐れを知らなければ、自信にもみちていたから、ジェイゴウの人々はどうしたものか心を決めかね、その場にたちつくしていた。洒落者は、よく考えないで攻撃していい人種ではなかった。こうした人種に手をだせば、その後、取り調べがついてくるものだ。その取り調べをささえるだけの資金も動くだろうし、無慈悲な復讐が確実におこなわれるだろう。この状況で手をだすことは、あまりにも危険なことに思えた。それにこの男がひるむこともなく、自信にみちているには、そうするだけの理由がかならずあるにちがいない。即座に警察を呼び出せるのかもしれない。警察がすぐにジェイゴウへ戻ってくるかもしれないのだ。そうしたらこの男はジェイゴウの人々を放りだしてしまい、支配下におき、厳しくも知的なその目で恐怖におとおしいれることだろう。まるで野獣のなかの調教師のように。

「いいか、よく覚えておくんだ」鋭い音をたてながら床を杖でたたくと、彼は言葉をつづけた。「私の教会のなかならば、こうしたことには耐えられないだろう。お前たちの教会のなかでも耐えられないことだ。他のどんな場所でも耐えられない。出ていくんだ。そして自分自身を恥じ入るがいい。みんな帰るんだ、それぞれの家に。家に帰っても何かすれば、またすぐに話をしに行くからな。さあ、行くんだ、サム・キャッシュ、頭を怪我しているじゃないか。帰って手当をしたほうがいい。あとで様子をみにいく」

階段にいた人々は、罰をうけた生徒たちのように姿を消した。他の者たちは、しばらく顔をそむけ、自分を正当化する理由を口ぐちにつぶやくと、足をひきずって歩きはじめた。だれもが、もはや面白そうには思えない場所から早々とはなれ、おどおどした様子で歩き出した。サム・キャッシュは、その余所者と通りで一度出くわしていたので、他の者ほどその出現に驚きはしなかった。それでも立ったまま、大胆にも厚かましい所業を行うか検討していたのだが、それも自分の名前を突然呼ばれたせいで、すっかり驚愕してしまった。そのため困惑してしまい、こともあろうに不名誉にも背中をみせながら、階段をこそこそと降りていくその様は、他の者たちよりもはるかに見苦しいものがあった。この余所者は、どうして自分のことを知っているのだろう。なぜ名前まで知っているのだろう。あきらかに、この男は警察と関係があるにちがいない。たしかに名前は即座にでてきた。それというのも、サム・キャッシュが仲間と路上で口論したからなのだ。余所者に路上で初めて出会ったとき、ジェリー・ゲランに大声で名前を呼ばれていたことをすっかり忘れてしまっていた。ジェリーが、ルーパー一家をはやく殴るように言ってきたものだから、余所者は名前を思い出したという訳なのだ。知性の持ち主なら何とも思わないことにも、なんとも嫌な狡さをもつ者ならば、謎やら恐怖やらを感じてしまうのが、ジェイゴウらしいところなのだった。

人々はその場から散りはじめたが、ディッキーは少しドアを開けたままにしておいた。そして他の者たちが姿を消してからも、自分の家の戸口にたっていた。すると猫背の少年が失神しかけている母親の背後から、覗き込んできた。「そこにいるあいつ。あいつもいたんだよ」彼は、ディッキーを指さしながら、声をはりあげた。「あいつが最初にやったんだ。時計をとったんだ」ディッキーはドアのかげにうずくまり、すばやく閉めた。

侵略者たちは皆立ち去った。その余所者がルーパー家にむかい、部屋に入るより前に、フィッシャー家の連中が、まず最初に階段をあがっていった。五分もしないうちに、余所者は姿をあらわし、上の階へと大股に歩いていった。やがて上から戻ってきた。そのあとすぐに、自分のまえにオールド・フィッシャーとボブ・フィッシャーの家内をよびよせた。ふたりは不機嫌であり、嫌々ながらだが、道具類をもってきた。

このようにしてヘンリー・スタート師は、自分の教区民に、はじめて語りかけた。その教会はジェイゴウだけでなく、ミーキン・ストリートや、そのむこうの細い路地も教区に含んでいた。ジェイゴウほど残忍ではない、こうした地区にたいして、彼の前任者は好意をむけてきた。毎週日曜日には、馬小屋や使われていない商店の裏通りで演説をして、パンをくばり、話をいつも聞きにくる老女には6ペンスをあたえた。ジィゴウへ行くことは、その者にすれば無駄な労力であった。教会が発足してから、たしかにジェイゴウはそのように扱われてきた。

10章

ディッキーは踊場から戻って扉を閉めると、かんぬきをかけた。がっしりとしたかんぬきは、ジョシュ・ペローがそこに置いたものだった。おそらく、やぶれかぶれで窓から逃げ出すことになったときに使うつもりなのだろう。しばらく彼は耳をすました。だが外からは、攻撃をほのめかすような音の気配はしてこなかったので、母親の方をむいた。

ジョシュ・ペローは早朝から外出していた。そしてディッキーも室内を物色して、夕食になりそうなものをさがすより他になかった。ハンナ・ペローは自己憐憫の情から疲れ、自分がないがしろにされているように思い、名誉がふみにじられ、軽んじられているようにも感じていた。そこで痛む首にいだいていた憐憫の情を、馬鹿にされている妻や母としての孤独な状態にむけることにした。そう思う方がましだったので、みずからを殉教者としてとらえ、物悲しい喜びをいだきながら、家庭のなかの尋常ではない出来事や投げやりな日々の生活について、弱々しく咎めてみせた。ルーイはまだ落ち着かず、泣いていた。ハンナはベッドから離れた。自分が大切にされないのだから、赤ん坊の世話をする気持ちにはなれなかった。彼女は自分なりに悲しみを堪能していた。それにルーイには、だいぶ前に食べ物をあげたけど、そのときは食べなかった。いっしょにいても何もすることはなかった。そこで油がたれたマントルピースのところに敷物をひきずって持っていくと、ディッキーに声をかけた。「おかえり、ディッキー。おいで。さっき、お前のことをとがめようとしたら邪慳にしたね」そこであらたな苦しみに、彼女はため息をついた。

ルーイはあおむけに寝ていたが、弱々しい、むなしい動きで、怖れるあまりびくびくしている小さな顔を、明かりからそむけようとした。その小さなこぶしに握られているのは、汚れたパンの塊で、数時間まえからつかんでいるものだった。ディッキーは柔らかいところをむしって食べさせようとしたが、乾いた、小さな口がパンのかけらをこばみ、今までにないような泣き声をあげながら、とりつかれたように頭を左右にふった。ルーイにふれると、全身いたるところが熱くなっていたので、すぐに母親にいった。「かあさん、ルーイの具合が悪いみたいだ。なにか薬をのませたほうがいいよ」

母親はいらだたしげに、かぶりを振ってみせた。「ああ、お前にしても、ルーイにしても厚かましいねえ」彼女はいった。「具合が悪そうだと随分心配しておきながら、お前も、父さんも、結局は私をひとりにして行ってしまったじゃないか。おかげで倒れかけて、この部屋に運ばれてきたんだよ。もう出ていって、私のことを痛めつけないでおくれ」

ディッキーは、もう一度だけルーイをみてから、背をまるめて外に出ていった。踊場に人影はなく、ルーパーさんの扉も閉められていた。山高帽をかぶった余所者はどうなったのだろう。ルーパーさんの部屋のなかにいるのだろうか。この懸念のせいで彼は早足になった。余所者から、時計について訊かれたらと、怖れたからだ。そのまま通りにでると、物思いに沈んだ。いまさらだが、時計のことが気にかかっていた。いくら考えてみても、自分のことを咎めることはできなかった。とにかく時計は、彼の手中におちたのだ。そしてジェイゴウのならわしや倫理感にしたがえば、持ち逃げしたからには、その時計は彼のものだった。このとおりにやったのだが、率直にいえば、もはやその仕事には関心がもてなかった。そうだとはいえ、扉のむこうにいる女の顔をみてから、彼女に同情していた。彼女は自分の時計をなくしてしまったのだ。あきらかに彼女は時計を所有して楽しんでいた。たしかに、ウィーチさんのところにすぐに持っていく必要がなければ、彼だって楽しんだことだろう。それから自分なら時計をどうしただろうか思い描いて、彼は想像にふけった。先ずは、もちろん時計をあけてみて、そのつくりとカチカチいう音の秘密を発見するんだ。おそらく、そうすれば時計の作り方も発見できる。それから、何回も巻き上げては、ルーイに内部をこっそり見せてあげよう。マントルピースに時計を飾れば、一家の社会的な立場もあがる。そうすれば時間をきこうとして、皆が丁寧な物腰で訪れるにちがいない。そこで自信たっぷりに教えてやるんだ。そう、たしかに時計は、たっぷり金をかせいだときに買う品々のなかでも、ひときわ目立つものだ。だから、もっと盗んで稼がなくてはいけない。それが金持ちになるただひとつの方法だから。

ふたたびルーパーさんたちのことを考えてみた。災難だったにちがいない。長いあいだ、時計がもたらしてくれる喜びを経験したあとで、突然、ルーパーさんたちはその時計をうばわれたのだから。それにノラ・ウォルシュに顔を殴りつけられ、髪をつかまれても、それでも奥さんは抵抗することができなかった。ディッキーは、彼女が可哀想になり、すぐに別の時計をあげようと心にきめた。あるいは時計でないにしても、時計とおなじくらいに喜んでくれそうなものにしよう。今朝、時計をひとつ手に入れた。午後、もうひとつ手に入れてみようか。時計を手に入れそこねたとしても、なにか手に入れて、ルーパーさんにあげたらいい。こう決心すると、ディッキーはみるみる意気揚々としはじめ、慈善家の気分を味わいだしていた。

ふたたび彼はこっそり歩き始めたが、それでも有望な盗みをしたあとであり、盗むということが毎日の勤労になりかけていた。ミーキン・ストリートでは、やめておいた。食料品店にも、惣菜屋にも、時計とひとしい価値の、慰めとなりそうなものは見当らなかった。ポスティーズをとおりぬけると、すぐにショアディッチ・ハイストリートに到着し、それから取りかかった。

今回、彼の動きは、疑いを生じないものだった。午前中は、とくに対象となる物が見えてなかったので、店という店をぶらついては、なにか持ち運べそうな物がないかと機会をうかがった。でも今は、対象となる物をさだめていたので、やすやすと歩き回ることができたが、店の正面で立ち止まったり、ぶらぶらしたりすることはなかった。ねらう物は、どんな物だろうと、小さくて、魅力にあふれ、心をひかれる特徴をそなえたものでなくてはいけない。せめて時計と同じくらいに心ひかれる物でなくてはいけない。小さくなくてはいけないのは、隠したり、持ち運ぶときに便利だから、という理由だけではなかった。こっそり見せるのにも、小さい方が簡単だからだ。でも、堂々と自分の贈り物をみせたり、感謝の言葉をかけてもらったり、その言葉をひきおこす思いにふれることができたら、嬉しかったことだろう。だが、時計を盗んだことを非難されたあとなのだから、包まれていない贈り物をすれば、そこには自白めいた趣があり、和平の贈り物にもとれることだろう。たとえ、その品物がすっかり拒否されるのが当然の成り行きだとしても。

包装紙につつまれたものなら、そういうことにはならない。林檎でも、そうはならない。魚だと、意図するところから反してしまう。ハイストリートを端から端まで歩きながら、よさそうな品はないか、油断している店はないかと目をひからせた。だが、すべてむなしく終わった。時計をドアの外にさらしている者は、誰もいなかった。ドアのなかにある時計を盗ろうとすることは、狂気の沙汰だった。それほど手を出すのが難しくないものは、この状況にそぐわない物だった。どれも大きすぎたり、安っぽいものだったり、心ひかれないものだった。奇妙なことに、自分のために盗んだときよりも、ディッキーは失敗を怖れていた。

彼はさらに南にすすんで、ノートン・フォルゲートにいた。安い中古品をごちゃごちゃと扱う店が一軒あって、そこには鞍、かみそり、ひも、ダンベル、ピストル、ボクシングのグローブ、旅行鞄、かばん、ビリヤードボールがならんでいた。たくさんの品物が、戸口の横にある柱に鈴なりにかけられ、その奥は洞窟のように暗かった。戸口の横にある柱の片方に、ピストルが一丁かけられていた。ピストルほど心をそそられるものは、ほかにはないだろう。たしかに時計を置いておくより、ずっと気がきいているというものだ。それに時計よりも小さく、手ごろな類の大きさだ。おそらくピストルをあげれば、ルーパーさんたちは大喜びすることだろう。彼はそこに立ったまま、しげしげとストルをながめた。だが困難が待ち受けていた。まずピストルは、彼の手が届かない高さにあった。つぎに、丈夫なひもにピストルの用心鉄はつるされていた。ちょうど店のなかをのぞきこんでいたそのときに気づいたのだが、ぎらぎらとした目が、奥の暗闇から、ヒョウのように彼をうかがっていた。そこで彼はあわてて歩きはじめたが、それでもユダヤ人の店主は扉にちかづき、彼が離れていくのを最後まで無事に見とどけた。

それから彼はビショップゲートまできた。そこで、ついに贈り物をえらんだ。それは玩具店でのことだった。ひときわ目をひく色彩にかざられた玩具店で、二輪車や人形、店のうえにはフラフープがつるされ、その下には木馬がおかれ、扉のそばにあるふたつの籠を守っていた。ひとつの籠には、独楽、独楽の糸、ボート、毛むくじゃらの犬が山盛りになっていた。もうひとつの籠にはたっぷりと、かがやく、丸い、金属の箱がはいっていた。箱にはすばらしい絵が色鮮やかに描かれ、どの箱にもくるくる回る柄がついていた。彼がみていると、その楽器が陽気な金属音を奏で、その調べが店の中からきこえてきた。ディッキーはのぞきこんだ。そこには幼い少女を傍らに連れた婦人がいた。少女は、店の女の手にのせられている、かがやく、まるい箱をくいいるように見つめていた。その音は箱から聞こえてきたもので、店の女が柄をまわすと、調べが流れてきた。ディッキーは大喜びをした。これだ。これこそが、その品であることはあきらかだ。可愛らしい、小さな箱は、柄をまわしさえすれば、いつでも音楽を奏でてくれる。時計五十個分の価値がある。たしかに、バレルオルガンの弾き手と同じくらいに素晴らしいもので、もし金持ちになれば、最初に買うだろう。

店番の少年が、窓の外にある品物を見張っていたのだが、その目がディッキーに注がれた。そこでディッキーはぼんやりした様子で口笛をふくと、気にとめない素振りでぶらぶら歩いた。彼は大きな荷馬車のかげで向きをかえると、道を横切って、手ごろな戸口をさがした。もう心はきまっていた。今、やるべきことは玩具店のまえで腰かけ、機会をうかがうことだ。

火事後の店で、板で囲われている店があった。そしてその戸口からだと、行きかう馬車で混んでいる大通りの向こうにある玩具店が、完璧なまでによく見えた。さらに、誰にも気づかれないで、座っていることができた。その場所に彼は腰かけたが、店番の少年に気がつかれることもなく安全だった。少年が注意をむけているのは、店側を歩く通行人だけだったからだ。新しいおもちゃを握りしめた少女が、母親とならんで店から出てくると、元気よく動きまわっていた。しばらくディッキーは思いをめぐらし、少女のオルゴールなら容易にひったくることができるだろうとも考えた。だが、結局、少女は一個しか持っていないのだ。それにひきかえ、店の女はたくさん持っているけれど、一度に演奏できるのはせいぜい一個だおうというものだ。

ふたたび店の少年を観察しはじめたのは、やがて機会がめぐってくるだろうという自信があったからだ。女性がなにかの値段をたずねるために立ちどまった。すると店番の少年が答える頃には、ディッキーはもう通りのなかほどにいた。だが、あまりにも短い答えだったものだから、少年はすぐに警戒の姿勢にもどった。

ついに店の女性がなかに来るよう、少年に声をかけるときがきた。そしてディッキーも敏捷に動いたが、そのまま店にむかったのではなく、目立たないように用心しながら、オルゴールがはいった籠の横にたどり着いた。背後にすばやく目をやりながら、真っ赤な絵の描かれたオルゴールをつかみ、通りへと駆け出した。

駆け出したので、店の少年も急いで姿をあらわしたが、もうオルゴールはディッキーの上着のしたに消えていた。ディッキーは走るのがはやかったが、少年も遅いほうではなかったし、さらに身長もあり、脚力もあった。ディッキーが別の通りにたどり着き、角をまがってワイドゲート・ストリートにさしかかった頃、追いかける少年は十ヤードも離れていなかった。

それは、彼が「ホットビーフ」と呼ばれた最初の経験であった。ホットビーフという表現はジェイゴウの隠語で、「泥棒をつかまえて」という叫びをあげて、人々をいそがせようとするときに使われる言葉だった。ワイドゲート・ストリートから、サンディズ・ロウを横切ってレーベン・ロウへと懸命に走り、上着のへりをつかみ、その下にはオルゴールをいれて走った。サンディズ・ロウを横切っているとき、ぶらぶらしていた若者が店の少年の肩にぶつかってきた。ディッキーは感謝した。おかげで数ヤード先に進むことができたのだ。

だが、他の者たちも追跡にくわわりだしたので、ディッキーは初めて恐怖というものを感じはじめていた。ついていない一日だった。二回も追いかけられたのだから。そして今も、ついていないことにはかわりはなかった。彼には、もう考える余裕がなかった。恐怖におそわれ、茫然としていた。追跡されるという恐怖だ。それは判断力をうばうもので、物事のなりゆきにたいして感じる不安とは、比べようもないほど大きかった。でも、スピタルフィールズ・マーケットを避けなくてはいけないということは覚えていた。そこには、彼をひきとめる男たちがたくさんいるからだ。それにスピタルフィールズ修道院のように男たちの面倒をみている多くの場所にいけば、少年をひきとめるという徳をおこなう者が多いのだ。ベル・レーン沿いに右のほうへ、彼は死にものぐるいになって速度をあげて突進した。しばらくのあいだ、彼の目には何も見えなければ、何も記憶に残らなかった。ただ、怖ろしい叫び声が追いかけてきて、もう少しで肩をつかまれそうだったことに恐怖を覚えただけだった。だが、疾走はつづかなかった。疲れていないときは十分に敏捷だが、彼は体がちいさく、食事も十分にあたえられていなかった。もう足はがくがくしてしまい、息もきれているのを感じていた。後頭部をなにかが叩いてきたので、取り乱しながら、店番の少年が棒をもってきたのだろうかと考えた。角を曲がった。ただ本能にしたがって道を選び、顔は青ざめ、目を見開き、口で息をしていた。あと少しで追いつかれ、倒れることだろう。また通りにでた。通りをもう少し進まないといけない。せめてあと十ヤード。転がるようにしてよろめきながら、最後のかどをまがったところで、途方もなく肥った女とぶつかり、倒れそうになった。女は、髪に櫛をいれることもなく、服も肩からずり落ちていた。

「こっちにおいで、ぼうや」女はいうと、肩をつかんで、自分が立っていた戸口へとひきいれた。

彼は危機一髪のところで救われた。通りのはしには行きつかなかっただろうから。そうしてくれた女が(おそらく彼女には、不正なことをする息子たちがいるのだろう)、そのだらしない体で入り口をふさぎ、そのあいだに追跡者はとおりすぎた。ディッキーはしばらく階段の手すりにつかまっていたが、やがて家の裏手から出た。息をきらし、あえいでいた。周囲は色をうしない、宙を舞っていた。だが彼は上着のふちをつかみ、その下にあるオルゴールをたしかめた。裏口から、丸石で舗装された裏庭へとでると、そこは他の家の戸口も面している庭で、行商の手押し車が二台置かれ、埃まみれの鶏が数羽いた。ディッキーは戸が閉まっている階段のところにすわると、戸によりかかった。

彼の心臓の鼓動は落ち着きを取り戻しはじめ、穏やかなものになりつつあった。その時ようやく、息苦しい恐怖から解放されて、息をつくことができた。彼は立ち上がると、その場を離れたが、まだ喘いだまま、足のわななきを感じていた。裏庭はアーチ型の屋根がかけられた路地へとつづき、そこから彼は通りへと出た。すると左へと曲がるだけで、ブリック・レーンにでた。ついにオールド・ジェイゴウまでは、妨げるものはなかった。歩いているうちに息づかいも元にもどり、自信も回復してきたので、ジェイゴウ・ロウへの避難所のことを思い出した。そこで時間をかけて、手柄の品をたしかめようと思っていると、いつの間にか運搬車や手押し車に囲まれていた。彼が道をかき分けて進むうちに、ほどなくして、たてかけられた手押し車に隠れ、それからオルゴールをとりだした。きらきらと輝き、飛ぶように疾走しても、傷はオルゴールにはついていなかった。だが彼の両手には傷ができ、向う脛にも傷ができていたが、どのようにして傷ができたのかは覚えていなかった。オルゴールの上には、健康そうな少年の絵が深紅色で描かれ、その少年は、ピンク色で描かれた血色のいい少女に、鮮やかな紅の花束をわたしていた。そして赤い煉瓦の建物が背景に描かれ、構成をひきしめていた。まばゆい円筒が左右にわたってはめられ、そこには模様が刻まれていた(ディッキーは、その円筒が銀だと確信した)。その真鍮の柄には、抗いがたい魅力があった。ディッキーは手押し車にはい上がると、周囲を見渡して、板塀の隙間を覗き込んだ。すると近くには誰の姿も見えないことがわかったので、上着でオルゴールを上手に覆い隠しながら柄をまわした。

あらゆる困難をのりこえても、手に入れる価値のある品だった。穏やかになしとげた仕事の成果が、この調べなのだ。それからディッキーは頭と耳を、オルゴールをおおっている上着のふくらみに押しつけ、耳をかたむけた。口をあけたまま、両目は果てしない空間をさすらっていた。その調べを演奏し終わると、もう一度演奏してみた。すると周囲が気にならなくなった様子で、隠していたオルゴールをとりだして演奏したのだが、板塀のむこうから、バンという音が聞こえてきたので演奏をやめた。通りがかりの少年の杖がたてた音だった。だが、ディッキーに隠れ場を放棄させ、音楽を奏でる箱をどこかに持ち去らせてしまうに十分な音だった。

彼が願っていたのは、家に持ち帰り、ルーイに演奏してみせることだった。だが、それは検討するまでもないことだった。彼は時計を盗んだときのことを覚えていた。だがジェリー・ゲレンのカナリーがいた。カナリーをディッキーはさがし、ようやく見つけた。カナリーは、きらきら輝く箱が目に反射すると、まじめくさった表情で瞬きをした。上着の下にふたたび隠されながらも、オルゴールが調べをかなでると、カナリーは耳をおしつけてきた。

トミー・ランにオルゴールを見せたらいけない。ルーパーさんたちに情けをかけて尽くしている様子を知られると、呆気にとられるかもしれないからだ。たしかに、それが賢明なのだが、その考えを守ることは、ディッキーには難しかった。我慢をかさね、手際よく事をすすめ、一生懸命にはしり、ひどい恐怖と闘いながらも、獲得したその品は、たしかに権利という点で考えると、彼のものであり、時計もまた同じように彼のものだったはずだ。それなのに、そうした品々に二度と触れることはない。だが男らしくも、その誘惑をはねのけると、ジェリー・ゲレンの家の表口のほうにでた。もうオルゴールを見ることはなかったが、それが変わらず美しいことはわかっていた。また誘惑にかられる前に、ルーパーさんのところに持っていこう。

だが、さりげなく贈物をあげることは容易ではなかった。ルーパーさんたちの扉は、当然のことながら固く閉ざされていた。しばらくのあいだ、扉のところにオルゴールを置いて、ノックをしてから駆け出そうという計画を練っていた。だが機会があれば、ルーパーさんたちが大喜びをする顔をみてみたい。この特権をあじわう資格が自分にはあるように思えた。そこでしばらく待ち、耳をすましてみた。ついにあきらめて通りに出てくると、ふらふら歩いた。

六時になろうとしていた。燻製ニシンのにおいがジェリー・ゲレンの戸口や窓から漂ってきていた。窓が上げられた窓辺にはジェリー・ゲレンがいて、短く刈った頭や狐のようにずる賢い顔をのぞかし、パイプをふかしながら、両肘をつくと外をじっと見つめた。オルゴールの箱をみえないように隠したディッキーは、何もたくらんでいないようにみえ、意のままになる持ち物なんて持ち合わせていないようだった。マザー・ギャップの近くにはならず者がいたし、ラック・ロウにもならず者がいた。どの角にも、ポスティーズまでのあいだには、ならず者がいた。皆、手ぐすねひいて待ち、目を光らせていた。つい先ほど見かけた子どもは、捨てられていたビールの空き缶をもって歩いていたところ、自分の一ペニー銅貨と、貧相で、古くなった独楽を奪われてしまい、絶望の涙をうかべながら、相手を追いはらっていた。だが、こうした出来事は十分ありふれた光景だったし、それよりも小遣い銭にも事欠く者の方が多かった。幼すぎたり、歳をとりすぎていたり、闘うには体力がない者たちは、ジェイゴウでは、自分の持ち物を隠しておかねばならないのだ。

通りのむこうから来たのはビリー・ラリーで、巨体に、赤ら顔のビリーは足をひきずりながら、自分より背の低い男の上着につかまっていた。ディッキーは、小さいほうの男が玩具を専門にあつめている(つまり、それは時計を盗むひとという意味である)ことを知っていたので、自分がよい仕事をしたのだと考えた。ディッキーの仕事のおかげで、ビリー・ラリーはビールの販売店で、もうビールにありついていた。ビリーが鞭打ちをみくだして、面子がつぶれると言うことはあまりなかったが、それでも自分で盗みにまわるほど落ちぶれてはいなかった。妻が多くの男たちにこん棒をくらわせてくれたおかげで、彼がやらなくてはいけないことは、もう一杯酒を飲むことであった。一番近いところにいる人物に、ビールを買う金を要求するのだが、ただ相手を強打するだけでよかった。あるいは手近なパブに歩いていき、なみなみと注がれた大ジョッキを選び、つばを吐きかけるのだ。そう、ビールを欲しがる相手から、ビールをうばい、自分の思うままにするための儀式をおこなうのである。ランにしても、ラリーにしても、同じような生活手段を追い求める者たちが他にもいた。だが、そうした者たちのなかでも、ビリー・ラリーはひときわ体が大きく、大男はジェイゴウでは稀だったので、困難にでくわすことはあまりなかった。それに過去に実際にあったことだが、余所者のビールを奪いとったところ、その相手が、ショアビッチの探検にきていいたマイル・エンドのプロボクサーだったこともあった。ジェイゴウの者にすれば、ビリー・ラリーに盗みを気づかれてしまう事態は望ましくはなかった。盗みに気づかれると、盗みをした者は探しだされてしまう。首筋を押さえつけられ、生血を最後の一滴まで吸いつくされるのだ。おそらく全てを奪い去られた挙句、もしビリー・ラリーがまだ素面で、仕事ができる状態であれば、ぶちのめされることだろう。

ディッキーは、その男を興味ぶかそうに見つめた。父親が一週間以内に、闘うことになる相手だ。おそらく二、三日以内に決着はつくことだろう。第一日曜日には、きっと、ラリーは父親にふさわしい相手だと思われているだろう。足のよろめきが昨日の戦いのせいなのか、それとも今日飲んだビールのせいなのか、ディッキーには判断がつきかねた。だが戦いの火ぶたがきられるまで、一刻の猶予もないことはあきらかだった。

ディッキーが背をむけると、ひとりの男がおおきな手押し車をおして、エッジ・レーンから角を曲がってきた。その横の歩道を歩いていたのは、あの人だった。あいかわらず冷静で、黒い服を着て、山高帽をかぶっていたが、傷もできていなければ、汚れもついていなかった。だが、その日の午後、彼はもうジェイゴウで自己紹介をすませていた。通りから別の通りへとさすらい、また小道から他の小道へと進み、隅々まで行ったり来たりしていた。抑制のきいた物腰にも、助けの手を喜んでさしのべようとする姿にも、くじけることのない強さにも、ジェイゴウの人々は狼狽し、当惑していた。また警察のような印象を残す外見のせいで、彼には不思議な、警察との強いつながりがあるにちがいないと、ジェイゴウの人々は考えた。だが彼は、家宅捜査のような手段をとろうとはしないで、さしあたり自分の小教区を見て、教区民と話しをしたかと思えば、別の場所でも話しをして満足していた。キドー・クックと出会ったときの出来事のおかげで、人々はふさわしい敬意を彼にいだくことになった。オールド・ジェイゴウ・ストリート界隈を、二度目に散策していたときのことだが、彼がフェザーズに近づくと、にんまりとした笑みをうかべた大勢のひとが、食堂の窓に顔をおしつけていた。その横を通り過ぎると、戸口からキドー・クックがでてきて、厚かましいくらいに馴れ馴れしい態度で、にやにや笑いをうかべ、でも表面上はこびへつらうように頭をさげ、ビールが四分の一はいったジョッキをさしだしてきた。

「どう思われたかね、旦那?」心をこめたふりをしながら、彼は尋ねた。「仰天されただろうよ、下層民のありさまには。わかっているとも、むかむかするだろう。そうだな、すこし飲んだ方がいい。ごちそうするよ」

その人は、冷ややかなくらい厳格な様子で、相手の言葉を聞き流すと、それでもジョッキを受け取った。だが、その途端にジョッキを宙につきだし、キドーの顔にビールをぶちまけた。「教えなくてはいけないことが幾つかあるようだ」彼はいって、でも筋肉はどこも使うことなく、ジョッキを戻しただけだった。

キドー・クックは咳きこみ、びしょ濡れになって困惑しながらも、本能的にジョッキをとって、マザー・ギャップの店の扉まで戻った。一方、食堂の窓に顔をおしつけていた多くの人々も体をゆらし、喜びに有頂天になりながら笑い転げた。ずぶ濡れになった顔にビールの痕跡をのこし、そのせいでキドーは痛ましくらいに苦労しながら歩いていたが、それでも自覚していたのは、自分が完敗したということであり、また忍耐強い、晴れやかな笑みをうかべた男の方が優位にたっているということであった。その男は、落ち着き払って立ち去った。

この事件の少しまえに、その男はルーパーさんの部屋から出てきたばかりだった。そう、ディッキーが出かけたあとに、彼はペロー一家の住まいをのぞき、時計のことについて話してきたのだった。だが、あきらかに時計はなく、ペローの奥さんはその話に微かながら憤りをみせた。それにその出来事については、たしかに何も知らない様子だったので、とりあえず今のところ、彼はそれ以上追及しないことにした。それに猫背の少年の話は要領を得ないところが多かった。ディッキーが時計を持っているところを見たわけではなく、ただ階段で出会ったとき、上着がふくらんでいたというだけなのだ。たしかに疑わしいかもしれないが、犯罪を証明できないような場面で、自分の威信を地に落とす危険をおかすわけにはいかなかった。そこで、その場にふさわしくハンナ・ペローの災難を哀れみ、赤ん坊の具合がよくないようだから病院に連れていった方がいいと言うにとどめ、ジェイゴウを歩きはじめた。

つぎに来たときには、彼は手押し車をディッキーの家の前にとめ、ルーパーさんの部屋へ上がっていった。ジェイゴウにもはや彼らが住めないと考え、その男がダヴ・レーンの近くに頃合いの部屋を見つけてきたのだ。そういう次第で男の教会に元気づけられ、ルーパーさんたちも出てくると、手押し車をもってきた男の力をかりて、寝台を各部分に分解し、寝具類は束にして運び、二脚の椅子も、ピンクの花瓶も、古いカーペットも、自分たちの持ち物であった二、三のものといっしょに手押し車に積み上げた。

ディッキーは、上着の下に隠したオルゴールの箱に手をやりながら、手押し車の後方をうろついた。そして機をうかがっていたが、ようやく寝具の束のしたに贈り物をつっこむと、その場を離れた。だが猫背の少年は鋭い視線で、油断なく彼を見張っていた。「あそこを見て」と金切り声をあげた。「あいつが手を手押し車につっこんで、何かをとったよ」

「嘘つきめ」ディッキーは言い返したが、心では憤りを感じ、傷ついていた。だが用心深く後ずさりをした。「なにもとっていないよ」その証拠に両手をひろげ、上着をひろげてみせた。「おまえの寝台の枠をとったところで、仕方ないじゃないか」

彼は、なにも持っていなかった。それはあきらかだった。実際、手押し車のうしろの方には、簡単に持ち去ることができそうなものは何もなかったし、隠すことができそうなものもなかった。少し怒っている引っ越しの荷物も、急いで運ばれていた。窓からは顔がのぞき、浮浪者が手押し車にさわりはじめ、騒動がいつ起きてもいい状況になってきたからだ。たしかに、あの人物がびくびくとした畏敬の念をいだかれていなければ、ルーパーさんたちは部屋からでてくることもできなかっただろうし、自分たちを危険にさらすこともできなかっただろう。誠実さを疑って攻撃することほど、ジェイゴウでは危険なことはないからだ。他のひとのものを盗むことは理にかなっているし、合法的なことなのだ。だから盗まれないようにすることは、当然のことであり、適切なことなのである。だが盗みをしたと人を責める行為は運動家らしくないものであり、むかつくような暴行行為であり、恥ずべき罵詈雑言であり、許し難いことなのである。人から盗むことがあってもいい。悪態をつくこともいい。たとえ人を殺すことがあってもいい。だが相手をおとしめるようなことは、たとえ何も持っていないような相手にたいしてであろうとも、ジェイゴウ中から憎悪をかきたてるような行為なのである。この地の素晴らしい名声を傷つけるならば、たとえば通りにひどい名前をつけるようなことをすれば、ジェイゴウから怒鳴り声や叩きつける音が聞こえてくるだろう。

手押し車がようやく動き出し、見物人がざわめいたり、ひそひそ囁いたり、口笛をふきならすなかを進んでいった。男が手押し車をひいて、ルーパーがうしろからおした。妻は礼儀正しいながらもみすぼらしく、貧弱で、顔には傷がついていた。そして赤ん坊を抱きかかえてすすみ、かたわらには猫背の少年がいた。この一行を護衛するのが、ヘンリー・スタート師であった。

少々距離があるせいで、なかには自信を取り戻した者もあらわれ、一行がエッジ・レーンから二十ヤードのところにくると、嘲りの声をとばしたが、それは「やぁい」という声であったり、綴ることが不可能な類の声で、蔑みや軽蔑をあらわす声だった。ルーパーさんは苛立ってうしろを振り返ったが、他の者たちは気にかけないで進み続けた。だがそのとき、レンガがとんできた。それはわずかにルーパーさんの奥さんからそれると、手押し車の車輪にあたった。さすがにあの人物も足をとめ、ぐるりと後ろを振り返った。ココ・ハーンウェルが石を投げた犯人なのだが、手を尻ポケットにやって、マザー・ギャップの窓から見つめている人々をわかせた。だが、そのときようやく、その人が厳しい目をむけていることに気がついた。その人から杖で指し示されると、不名誉なことに彼は逃げ出し、ジェイゴウ・コートへと駆け込んだ。

こうしてルーパーさんたちはジェイゴウを去っていった。ダブ・レーンは石を投げれば届くくらいの距離にあったが、荷物を部屋にはこぶあいだ、手押し車をめたままで部屋の整理にあたった。戸棚をおろし、さらにその上に寝台をのせて運ぼうとすると、オルゴールの箱がでてきた。ルーパーさんはオルゴールの箱を手にとると、司祭の目の前にさしだした。「これをみてください、司祭さま」彼はいった。「司祭さまもご存知のように、この箱については、何も覚えがないのですが。これは私のものじゃありませんし、以前、見た覚えもありません。きっと盗みをなすりつけるために、置いていったものにちがいない。もし、このことで尋ねられることがあれば、司祭さまが説明してくださいますよね。こんなところに置くなんて、ペローの坊主の仕業にちがいないですよ。手押し車の後ろにいたときにやったにちがいない」

だが、ディッキーの贈り物のことで誰も咎めにこなかった。そしてジェイゴウでは、黄昏のなか、ディキーはうろ覚えの調べを口笛で吹こうとしては上手く吹くことができず、オルゴールの箱がなくなっても悔いはないと自らに言い聞かせるのだった。

⒒章

ジョシュ・ペローが家に戻ったのは紅茶をのむときで、しかも上機嫌だった。その日のほとんどの時間をバッグ・オブ・ネイルズで過ごし、ハイ・モブスメンのご機嫌をとってきたのだった。ハイ・モブスメンとは、盛大に様々なことを実践している連中のことで、押し入り強盗や無駄話、詐欺、売春に手を染め、いい身なりをした外部組織で万引きやすりなどを行う連中と一緒に、競馬の配当を踏み倒したり、詐欺行為を働いたりしていた。身分が高いけれど、こうした破廉恥行為をする連中は、ジェイゴウから遠く離れた場所に住んでいた。馬飾りをつけたポニーを走らせ、軽馬車ギグーでくる者もいた。それはバッグ・オブ・ネイルズを実に都合のいい場所だと考えたからで、知り合いとのやりとりを遮断した。まさに行きつけの酒場だった。そこで人々はおちあい、なにがしかの約束をかわしては、悪たくみをしたり、ソブリン金貨を投げて賭け事をしたりした。こうした身分の高い連中を見ては、ジェイゴウのひとたちはうっとりとして、深い畏敬の念をささげた。ジェイゴウの住民のあいだに花開く野望とは、自分たちも、こうした眩いひとになりたいということだけだった。ある日、老ビバリッジがディッキーに話したのは、こうした連中についてであり、子どもでも半分はわかるような言葉で話してくれた。その老人は、バッグ・オブ・ネイルズがみえる縁石に腰をおろし、粘土でできた、黒ずんだパイプを少しくわえた。ディッキーをかたわらにひきよせ、パイプで指し示しながらいった。「毛皮を着た、あの男が見えるか?」

「どうかしたの?」ディッキーはこたえた。「アイスクリーム色のコートを着て、タバコをふかしている男のひとのこと? うん、みえるよ」

「それから、つば広の帽子をかぶった赤ら顔のひとは見えるかい、傘をもったひとだ」

「うん」

「どういう連中だかわかるか」

「ハイクラスのギャング集団だよ。いけすかないよ。めかしこんでるけど」

「そのとおりだ。いいか、ディッキー・ペロー、ジェイゴウの小僧や、あの連中を見ておくんだ。よく見ておくんだ。いつの日か、おまえが賢ければの話だが。ジェイゴウの他の連中よりも賢さを持ち合わせ、やくざっぷりも、ずうずうしさも誰にも負けなければの話だ。そして幸運にも恵まれたら、それも千分の一の確率なんだが、そのときはお前も連中のようになることができるんだ。贅沢のし放題、好きなときに酒を飲んで、真っ赤な、にきび面をしているだろう。あそこに見えているものが、おまえの人生の目的であり、人生の手本だ。読み、書きを学ぶんだ。できるだけ多くを学ぶんだ。ずるさも学び、誰も容赦するな。そして決して立ち止まるな。そうすればおそらく」彼は、バッグ・オブ・ネイルズのほうに手をさしだした。「あれが、お前にとって最上の世界なのだ。ジェイゴウに生まれ育ったお前が、ここから抜けだす唯一の道だ。ああすれば牢獄にはいることもなければ、びくびく脅えることもない。悪のかぎりをつくせ、そうすれば神様も助けて下さる、ディッキー・ペロー。神様は慣れていらっしゃる。お前はジェイゴウで生まれ、育ったのだから」

老ビバリッジは話す内容も、話し方も非常に変わっていたので、ジェイゴウの人々は寝言をいっているか、このうえない愚か者だと思っていた。だからディッキーも、話されたことを振りかえって考えたりはしなかった。

ジョシュ・ペローがハイ・モブの連中のあいだで遂行しようとしていたこととは、ビリー・ラリーとの戦いに戻してくれそうな、モブの輩を見つけることだった。個人的な事情での仲たがいが、喧嘩の最初の原因だとしても、それでも商売をないがしろにするわけにはいかなかった。仲たがいであろうと、他のものであろうと、金をうんでくれそうなものなら、利用しない手はなかった。特別な報酬をだすだけの価値ある戦いが目前でくりひろげられるなら、観客も自分たちがみている娯楽に金を支払うというのが、まさに筋であろう。

だが、その日、モブの偉い連中はバッグ・オブ・ネイルにはいなかった。日曜日が、ハイ・モブの連中が集まる日だった。日曜日は、言わば、ジェイゴウの市がたつ日であり、週払いの家賃を払う日であった(だがジェイゴウの家賃は、ほとんどの場合、日払いであり、夜ごとの払いであった)。さらに他のつけも清算される日であったが、なかには踏み倒す者もいた。さらにハイ・モブの連中は、派閥闘争をしているときには、ジェイゴウのことを少しも信用しようとはしなかった。そこで、ただ通り過ぎていくだけだったので、いつもと比べて三分の一くらいの時間に滞在が縮められていた。ジョシュは、長いあいだ待ち続け、しつこく誘いかけたが、むなしい結果におわった。やがて昔からの馴染みの客が到着した。かつて「用心棒」として、すなわち、こう表現することが許されるなら、体を危険にさらすこともある競馬場への冒険のときに、ポン引きやならず者として雇ってくれた男だ。こうした機会に、ジョシュは思いっきり殴ったり、殴られたりすることで金を稼いでいたのだが、彼を雇った男も、ジョシュの能力に関して高く評価し、感謝の念をいだいていた。そこで男は今、きたるべき戦いの話に耳をかたむけ、賭けと何がしかを与えることに同意すると、ジョシュにも何らかのものを与えた。いっぽうで友人たちと、好ましい賭け率で賭けをしては利益をえようとした。それというのも、ビリー・ラリーは悪名高い男で、ジェイゴウでも最高の乱暴者にちかい男であり、かたやジョシュの評判といえば、それほど悪名高いものでもなければ、噂がひろまっていなかったからだ。このようにして問題が解決したので、ジョシュは機嫌よく紅茶をのみに帰ってきた。ビリー・ラリーなら、賭け金に応じてくれそうな、別のハイ・モブの連中を見つけることも、さほど難しくないからだ。

ディッキーは家に戻り、ルーイによりそってベッドに腰かけていた。ジョシュが息子から呼ばれると、赤ん坊の具合が悪いのはあきらかだった。「両目ともおかしい」彼は妻にいった。「やぶにらみになるかもしれない」

ジョシュはとりわけ子煩悩な性質ではなかったが、子供たちの衣食は面倒をみるものだと思っていた。おそらくそれは漆喰工事の仕事をしていた頃の、輝かしい日々の習慣なのだろう。彼が紙につつんで、上着のポケットにいれて持ち帰ったのはトライプ(牛の胃)で、その日の儲けを夕食にしたのだ。トライプが茹であがると、ディッキーとふたりで、ルーイの口に一口もっていき、そのままビールで流し込もうとしてみた。だが、その試みもむなしく、ルーイはトライプを拒絶するとむせこんだ。その様子をみて、朝一番に無料の診療所に連れて行かなくてはいけないと、ジョシュは判断した。そして朝がくるとジョシュはルーシーを連れて行き、ディッキーも父についていった。妻のほうは首の養生につとめていたこともあったが、それだけではなく、本当のところをいえば、外にでて危険にさらされることを怖れていたのだ。その診療所は慈善施設ではなく、ミーキン・ストリートにある、そうした張り紙がはってある店だった。離れたところに住んでいる医療関係者が経営しているという、よくありがちな店なので、病気の発作をみたり、死亡証明書に署名するようなことには出来るだけ関わらないようにしていた。貧乏な学生が、ただ貧しいということで適しているからと、その診療所での仕事を任されていた。診察と薬の金額は一定で、六ペンスだった。だが、かなりの専門知識をもつ人物が、金文字が描かれた黒ガラスの、正面の窓のむこうにいるのだから、六ペンスの診療をうけに数百人のひとがきた。医師の資格がある者がミーキン・ストリートを訪れることは、まずめったになかったからだ。このようなわけで、診療所は小売商人たちの手中にあった。人々を客にするために、また最高の客になってもらうために、小売商人は診療所に寄付をした。それはもっともなことであり、商売熱心なことでもあった。こうして診療所は繁盛したが、貧乏な学生医師は手をぬくことを覚え、同情心を忘れていき、ときどき信仰療法をおこなっていることも明らかであった。ほんとうは、科学的な治療がまったく不可能なわけではなかった。診療所には、二種類の薬品がいつも十分にあたえられていたからだ。トルコルバーブと硫酸である。どちらも有用で、安い薬品であり、様々な調合をすることができ、手軽に扱うことができた。たとえば一オンスか二オンスの硫酸であれば、購入にかかる金額は少額ながら、水で希釈して何ガロンにもすることができた。いっぽうで優れた薬をいくつもつくることが可能で、しかも、それぞれの効果が異なる薬をつくることができるので便利な薬品であった。だが実際には、そうならなかった。手元には二、三の薬しかないことが多かった。いじるのが面倒なせいもあるのだろうが、治療に役立ちそうな薬はルバーブと硫酸の二領域に限定されていた。

診療所は中々忙しかった。待っている者も数人いた。診療をうけて薬をもらうまでにかかる時間が二分、それで六ペンスの代金で、診療はすすめられていった。だがルーイの目は、他の者のようにはっきりと診断がくだせなかった。ルーイには、「ここが痛い」とか「そこがこわばった感じがする」というように、症状を簡潔に説明することができなかった。ぐったりと横たわっているだけで、ぼんやりと上のほうをむいたその目は(もう明かりに反応しなくなっていたが)、少々やぶにらみ気味であり、奇妙で、悲しそうな泣き声をあげていた。ディッキーと父親も、すこしも説明することができなかった。若い医学生の頭を横切った思いとは、神経や脳の分野に関する熱帯病学者ロスの姿を再現することができていたなら、些細なことまで学んでいたのにという悔いだった。そうすれば診療所の威厳もついてくるのに。だがすぐに、この症状にルバーブを処方した。粉末をつくり、ジョシュに赤ん坊を安静にしておくように指示すると、もらった六ペンスを他の者からもらった金のなかに放り込んだ。何はともあれ、二分で診療を終えたのだ。

その結果、診療所への信頼は強められることになった。粉末を処方されたあと、目に見えてルーイの具合はよくなったからだ。実は、食料品店で買ってきた流動食をスプーンであたえたところ、ミルクを欲しがるようになったというわけなのだ。

12章

「ディッキー・ペロー、こっちにおいで」アーロン・ウィーチさんが悲しみをこめながら、叱責する口調で声をかけてきたのは、それから数日後のことだった。「こっちにおいで、ディッキー・ペロー」

ウィーチさんは立ちどまると、もったいぶって頭をふってみせた。ディッキーは下をむいた。

「あの日、何を見つけたんだ? 私のところに持って来なかったね?」

「別になにも」ディッキーは一歩さがった。

「そんなふうに答えるのはよくないことだ、ディッキー・ペロー、私にはわかっているんだからな。私の目をごまかそうとしても無駄だってことを覚えておいたほうがいいぞ。」ウィーチさんの細い目が顔をさぐるのを感じながら、ディッキーは黙りこくったまま、その凝視をかわした。「恩を仇で返すとはこのことだ、恥知らずの坊主だ。おまえがどこで時計をみつけたのか、警官に言ってしまおうか。おい、走って逃げるなんじゃないぞ。なんてこった。おまえが腹をすかせているときには、面倒をみてやったのに。コーヒーやら菓子をだして、父親のように助言をしてやり、燻製ニシンもだしてやったじゃないか。三ペンスと一ペニーの借りがあるんだぞ。それなのにお前は恩を忘れ、見つけたものをよそに持っていくんだからな」

「そんなことしてないよ」ディッキーは勇気をふるいおこして抗議した。だがウィーチさんの狡さときたら相当なもので、前回の訪問のあと、ディッキーがなにか別の「見つけ物」をしたことを抜け目なく推測しては、時間をかけて真実にたどりついていった。

「もう他所に行くんじゃないぞ。いまわしい嘘をついて、罪を重ねるようなことをしてもいけないし、恩知らずなことをしてもいけない。何をみつけてもな」彼は厳しい口調でいった。「それは弱虫のすることだ。それに私はかならず気がつくからな。そんなこともわからないのか? おまえはひとつ罪をおかした。そして、それを隠そうとして、ふたつめの罪をおかしている。私の恩も忘れて、なんて恩知らずなんだ。あれほど親切にしてやったのに。最初の約束を破るなんて。燻製ニシンの代金が払えるなら、払うがいい。もし払わないなら、お前の父さんのところにいって三ペンスと一ペニーの借りがあるという話をしてもいいんだぞ。お前さんがそんな態度をとるなら、そうしないといけないだろう」

ディッキーにすれば、そうされることが嫌でたまらなかったのだろう。こわばった顔が物語っていた。

「それなら何か見つけて、すぐに支払うんだ。そうすれば言ったりしないから。いい子でいれば、きつくあたったりしないよ。だが、もうこれ以上ふざけるんじゃないぞ。私の目にはすべてお見通しだからな。さあ、行って、何かすぐに見つけてくるんだ」そこでディッキーは出かけた。

13章

オールド・ジェイゴウをはじめて訪れてから数日後、ヘンリー・スタート師がはじめて講話をした地区の教会とは、馬小屋を改築した建物で、ミーキン・ストリートの裏の路地にあったが、数ヤードほど離れていたので、ジェイゴウの様子も、物音も伝わってこなかった。ジェイゴウでは、その日曜の朝は決戦をむかえる朝であり、刺激にみちた時をむかえようとしていた。闘いで金がはいると確信することがよく効く塗り薬となって、ビリー・ラリーの痣をいやしてくれた。たしかに痣ができていた。そして彼が急いでやってきたのは、その金につき動かされたからであり、賭けをしている人たちの心が急変して金貨が溶けてしまわないようにと、また警察のせいで賭けをする人たちが不幸にも減ってしまわないようにと案じてのことだった。ジョシュ・ペローのせいで微塵たりとも動揺することはなく、相手の非情さも、よく知られた猛々しい戦いぶりも、気にすることはなかった。体重の差が十四ポンド半もないせいだろうか。それとも身長の差が四、五インチほどしかなく、ビリーのほうが低いとはいえ、差がわずかしかなく、手のとどくとろにある同じような利益をねらっているせいだろうか。それにビリー・ラリー自身が非情であることも、猛々しいということも、十分に証明されていた。

十一時を過ぎていた。週あたりの家賃を、それも翌週分の家賃を引き出したり、あるいは少しだけ引き出したりして、人々は金を手にしていた。オールド・ポール・ランは、六十年間にわたって馬小屋を経営したり、不正を働いたりして、金をこしらえてきた女だが、自分が貸している六軒の家をまわって、その夜、家に残りたそうにしている借家人のところに行った。だが多くの者が、ジェイゴウ・コートでのコイン投げの賭けで文無しになっていた。それでも賭けがまだひっきりなしに続き、人が大勢いるあたりや、オールド・ジェイゴウ・ストリート界隈の雑踏では、人々が賭けに興じていた。やがて一文無しになっていることに、男たちは気がつくのであった。その日の食料や宿代だけでなく、火曜日の競馬に賭けようと取っておいた最後の数ペンスまで失くしていた。それなりに認めてもらえる闘いが、いつものように、あちらこちらで繰り返された。いっぽうで女たちは、ぞっとするような老いから若きにいたるまで、道端の石に腰をおろしたり、戸口の階段にかけたりして、ジェイゴウについて美辞麗句でみたしていた。

やがてエッジ・レーンとポスティからやって来たのは偉いモブの旦那たちで、格子柄のスーツに山高帽、金の鎖、大きな指輪という格好でふんぞりかえって歩き、羨望の視線をあびながら、あちらこちらで、その名前や手柄が語られた。「あの男だ、リージェント・ストリートで、百ポンド札九枚のために喧嘩をしたのは。」「あの男だ、偽札づくりで五回牢屋に入ったのは。でも金はでてこなかった」「あの男だ、フランスで馬券屋をゆすって、船のなかで警察に発砲したのは」というような具合に語られた。そして偉いモブの旦那たちがきた。

当然のことながら、ただの闘いであれば、それほどの関心事にはならなかった。そうした事はありふれていたからだ。だが、今回の件には金がかかっていた。さらにビリー・ラリィに抗う者を見かけることは稀であったし、さらに決闘の申し込みをする者なんて見かけることはなかった。さらに情勢はランとラリィに有利であった。それに二週間もたっていない闘いが原因の戦いなのだ。ジョシュ・ペローだろうと、ビリーを相手にそう長く持ちこたえるわけがないとランは考えていた。それでもジョシュ・ペローを応援する者がいないわけではなかったから、ビリーの人気も幾分陰りがみえてきていた。それというのも、伝わってきた話によれば、顔をめった切りにされた件で、ノラ・ウォルシュを召喚してやるとサリー・グリーンが病院で息巻いていたからだ。あまりにひどい仕打ちだったから、無視するわけにはいかない。むかつく仕業で、まともな感情をもちあわせている者なら、誰でも嫌に思わざるをえない。サリー・グリーンのように、ジェイゴウでも人目をひく者ならば尚更だ。自分の体をとても大事にしなければならないのだから。だが、こうしたことが掛け率に影響をあたえることは一切なかった。三対一でビリー・ラリィに賭け、ジョシュに賭ける者はほとんどなく、戦いがはじまる前には四対一になっていた。

ジョシュ・ペローは、この一週間、頑として酒をたってきた。そのあいだ家族の暮らしぶりも、だんだんよくなってきた。毎日、彼が家に肉を持ち帰ったからだ。今、彼は部屋の窓辺に動じることなく腰をおろし、ジェイゴウ・コートの人々をながめ、自分がよばれる時を待っていた。その朝、彼は部屋から一歩もでないで、ビリー・ラリーとの闘いに力をたくわえていた。

ディッキーのほうは、興奮のあまり、ほとんど寝ていなかった。数日間、この闘いのことを考えては、仲間と楽しんでいた。だが今や、身震いをしては体をぶるぶる震わせている有様で、この動揺から解き放ってくれるものは何もなく、荒々しい動きが始まるのを待つだけであった。ディッキーは階下に数百回となく駆け下りては、偉いモブの旦那たちが来ているのかどうか確かめ、まだ来ていないと報告しに戻った。とうとう偉そうな、格子柄の旦那たちが目にはいると、大急ぎで、前のめりになりながら階段をかけあがると、「やつらがきたよ、父さん! やつらがきた! やつらが通りをやってくるよ、父さん!」とさけび、部屋と踊り場を意気揚々と飛びまわった。

やがてジェリー・ゲレンとキドー・クックが、介添え役としてやってきて、ジョシュを連れ出しにきた。そうしてディッキーは表面上すこし静かになったけれど、動悸がするし、喉はしめつけられ、顎がふるえるせいで歯の根がカチカチなった。ジョシュは汚れのついた上着と胴着を脱いで寝台にほうりだし、下手くそに繕ったあとがある青いシャツ姿になった。ズボンの吊りバンドをひきあげ、ベルトをしめて支度をととのえた。

「じゃあな、おまえ」にやっとしながら妻に声をかけた。「すぐに戻ってくるからな」

「一、二回パンチをくらってな」キドー・クックも、にやっとしてくわえた。

ハンナ・ペローは腰をおろしていたが、顔から血の気がひいた状態で、赤ん坊を膝にのせていた。朝からずっとそんな風に座ったままで、不幸にうちひしがれ、絶望にかられていた。ときおり両手で顔をおおったかと思えば、絶望のあまり泣き出したりもした。「やめて、ジョシュ。神様、お願いしますから、ジョシュを。行かせないで」と言ったり、「ジョシュ、ねえジョシュ、私はいっそうのこと死んでしまいたい」と言ったりした。以前も、たしかにジョシュが決闘をしたことがあった。それも一回ではなかった。だが、その決闘のことを知ったのは、後になってからのことだった。こうした心のまま、長いあいだ待つのは、また別の辛さがあった。一緒に行くと言いはってみたが、結局、何もすることはなかった。

さて、ジョシュが戸口のところに行ってしまうと、ルーイに顔をおしつけ、彼女はまた顔をかくした。「頑張って、とうさん」ディッキーが声をかけた。「応援してるよ」言葉がのどにつかえていたが、父親のことは何の心配もいらないのだと思いこもうとした。

扉がしまると、すぐに窓辺にかけよったが、三、四分たたなければ、ジョシュがジェイゴウ・コートに姿をあらわすわけがなかった。窓を吊している紐は切れていて、窓が開いた状態で、つっかえ棒がしてあった。興奮のあまり棒を動かしてしまい、窓が頭を直撃してきた。だが、その衝撃をほとんど感じることのないまま、震える両手で棒をつかって窓をささえ直したが、髪にかくされた頭皮には痣ができていた。

「みないの、かあさん?」彼はたずねた。「ルーイも抱っこして見せてあげたら?」

しかし母親は見ようとしなかった。ルーイにしても、なにも見ていなかった。彼女はもう一度、診療所に連れていかれたのだが、寝ていても元気はなく、長いこと全身をふるわせ、顔を痙攣させているだけだった。小さな顔もいっそう、やせ細って老けこんでいた。しかも、恐ろしいほどノミに食われ、血の気がなく、青ざめていた。ルーイはなにかの病気だと、ペローの奥さんは考えはじめていた。麻疹なのかもしれないし、百日咳なのかもしれなかった。そして子どもは、いつも心配のもとであると愚痴をこぼした。

ディッキーは窓から身をのりだし、壊れた窓枠にしがみつきながら、熱にうかされたように、足先で壁をくずした。ジェイゴウ・コートは、前よりも混んできていた。硬貨の投げ合いはつづいていて、しかも前よりも慌ただしいのは、残された時間がわずかだからだ。はじの方では、つかみ合いがつづいていた。立ち上がって、偉いモブの旦那たちを見ようとする者もいた。総勢八人から十人のモブの旦那たちは、熱狂にかられた集団のなかに立っていたが、その集団はニュー・ジェイゴウ・ストリートの裏塀ぞいに集まっていた。なかでも最も人が多く集まっているのは、コッコー・ホーンウェルの戸口の階段だった。その階段に腰をおろしているのはビリー・ラリィで、頭だけがまわりを囲んだ人ごみから見えた。約束をはたそうと待っている姿であった。

やがて一団がアーチの下の道にあらわれ、人々のほうにむかって突き進み、すぐ近くにまでやってきた。コイン投げを邪魔されて、一ペニー銅貨をポケットにしまいこんだ者もいたが、他の者たちはコイン投げをせわしなく続け、コインをとばしていくあいだにちらりと見るだけだった。ジョシュ・ペローの短髪も、むきだしになった肩も、一団のなかで人目をひいた。その一団がくると、他の者たちもコッコー・ホーンウェルの戸口から動きだした。その一団の中央には、ビリー・ラリィの、血色よく輝く、毛むくじゃらの長身があった。

「相手もコートにきたよ、かあさん」ディッキーは教えると、いっそう早くつま先を動かしては壁をくずした。

偉いモブの旦那たちがコートの中央まできた。ふたつの集団から何人かでてきて広がると、群衆を押し返した。それでも、まだ半ダースくらいの二人組の者たちは、壁際の離れたところでコイン投げをひときわ早い速度で繰り返していたが、群衆がおしよせてくると四方に散っていった。

今や、いびつな形の空き地がひろがり、そこは丸石や家のがらくたが雨ざらしにされた、直径五、六ヤードの空き地で、ジェイゴウ・コートの中央に位置していた。その空き地を囲んでいる群衆は大声をあげ、立錐の余地もない程つめかけ、後ろの方にいる人たちはブロックの上に立ったり、塀にぶら下がったりしていた。どの窓からも鈴なりになった人々が顔をだしていた。そのなかには女たちもいて、荒々しく、ときに陽気な声を響かせていた。二つの集団は人ごみのなかで混ざり合いながらも、空き地で相対時し、その中央にはビリー・ラリィとジョシュ・ペローが、介添え役をしたがえて立っていた。

「さてと、もう始めていいか?」偉いモブの旦那のひとりが大声でたずね、仲間を見わたした。「大きい方に三対一で賭けよう。三対一だ。それから、ラリィには四賭けよう。四対一を賭けよう」

だが仲間は頭をふった。そして、もう少し待った。ラリィとペローがすすみでた。コイン投げをしていた最後の連中も銅貨を片づけると、塀にぶらさがった。

「決闘がはじまるよ、かあさん」ディッキーはさけび声をあげると、真っ青になりながら見つめ、肘も、足もひっきりなしに動かしているものだから、窓の外にとびだしていきそうだった。そこにいる母が途切れ途切れにもらしているものは、めそめそとした啜り泣きであったが、ディッキーの耳には聞こえてこなかった。

スパーリングの練習はあっというまに終わった。ジェイゴウでの殴り合いには、繊細なところは微塵もなかった。殴り合いは荒々しくおこなわれ、おもに打ったり、殴ったりして、急に襲いかかることもあれば、狼藉をはたらくこともあった。ふたりの男の様子のうち、ジョシュのほうが小柄で、身長がひくく、こわばった浅黒い肌の持ち主だった。いっぽうラリィは肉づきのよい、どっしりとした男で、そうした肌を持ち合わせていなかった。顔にも、両の手にも固くなったところがあり、それを見るたびに、仲間たちは鉄よりも柔らかいものは攻撃できないというジョシュの自慢を思い出すのだった。そして胸板も厚かった。それにもかかわらず、彼に賭ける者が少ないのは、ビリー・ラリィの体の大きさと戦歴のせいだった。

双方が突進して組みあったが、重さのせいでジョシュは押し戻された。ラリィの大きな拳が左からも、右からももとんできて、壮絶な音をたてながら、顔を殴りつけてきたが、それでも革のような肌には、何の痕ものこらなかった。そしてジョシュは体をはって闘い、拳骨をつくると力をこめて、指の関節部分を相手のあばらにつきたてた。殴られるたびに、ビリーの唇から、ひどいうめき声が漏れてきた。

叫び声があがった。「やっけろ、とうさん。とうーさん! とうーさん!」ディッキーは窓からさけび、ついには声がつまり、喉がしめつけられたようになって咳をした。ふたりともつかみ合い、でこぼこの石畳のうえで、体が前後にゆれた。ビリー・ラリィの鼻から口と顎にかけて血がほとばしった。ふたりが転がった瞬間、父親がラリィの肩に歯をたてる様子がディッキーの目にとびこんできた。双方ともに動きはすばやく、相手をゆさぶりながら相手の足場を崩そうとした。そのときペローは穴につまずいて、足をとられてしまった。そして下に組み敷かれると、ラリィが上になった。

歓声があがり、わめき声につつまれながら、双方の男が介添えにつきそわれて自分の陣地へと連れもどされた。ディッキーは窓わくから手をはなし、母親のほうをむいた。その目は興奮にかられ、息もつけない有様で、言葉もとぎれがちになった。

「父さんが、あいつの鼻をなぐった、こんなふうに。とうさんに叩かれた胸のところが、紫になっているよ。息が荒くなっている。顔も血だらけだ、かあさん。もし穴につまずかなければ、とうさんが投げ飛ばしていたのに。二回くらい、あいつの顎を殴っていたのに!」

ディッキーは窓辺にもどり、壁をけったり、さけんだりした。勝負のあいまの休憩だった。やがて二人の男は駆けると、こんがらがった結び目のように組んだ。だが、この体と体をぶつけての喧嘩はあっという間に終わった。ジョシュは相手の息の根をとめるのをやめ、頭部をいたわってやることにすると、相手が痣のできた体を左右に動かすのを待ち、それから戻った。ラリィがあとを追いかけてきたが、息をきらして、もうあえいでいる始末だった。ジョシュは先を進んでいるように見せかけたところで、相手をかわして避けると、足でひっかけ、追跡をふりきった。もう一度、体当たりしたときに、ジョシュは相手のあばらをおしてから、届かないところへと逃げた。ラリィの息はあがり、応援している者たちからジョシュにむかって獰猛な大声があがった。ジョシュは自分の戦略をよく心得ていて、逃げるのかと相手をののしってから、わざと立たせて闘った。「四対一で賭ける」最初、ジョシュにそう賭けた偉いモブの旦那のひとりがいった。「ペローに一ポンド金貨を賭けよう」

「あの賭けからおりた」他の旦那が答えた。「同じ金額を賭けることにした、いいかな」

「わかった。同じ金額を賭けろ、一ポンドだ」

ペローは、ラリィの側からの叫び声にひどく刺激され、相手方をむいて、猛然と襲いかかった。そのせいで息をきたしたが、敵ほどではなかった。この激しい喧嘩の勢いにのって(彼は頭から突っ込んでいった)、ビリィのあばら骨にもう一度、拳骨をみまってやった。

双方の男はうなり声をあげながら、すでにあえいでいた。殴り合う音が響き渡り、カーペットを打ちつけているかのような混乱であった。ディッキーが、父親がすばやく身をかわしながら走っている様子をみて、胸がしめつけられ苦しくなっていたのは、簡単に勝てる戦いだと誤解していたせいであるが、今や、もう一度、興奮にかられてまくしたてていた。

「とうさんが、もう一度、あいつの顎を殴った。あいつの目は、両方とも腫れ上がっている。やっちまえ、とうさん。やつをぶん殴れ。とうさん、やつをとっつかまえろ」

ハンナ・ペローも窓ににじりよって見た。彼女の目にとびこんできたのは、薄汚れた人々が体をゆすり、わめいている姿であり、人々が押し合うせいで輪郭がかわっていく空き地であった。そのなかにいるのは彼女の夫とビリー・ラリィで、痣をつくり、血まみれになって掴みあいながら闘っていて、怒りにかられて相手を強打していた。やがて彼女は寝台にのろのろ戻り、ルーイの小さな、薄汚れた子ども服に顔をおしつけたが、やがてルーイは体をこわばらせ、発作的にふるえだしたので、母親はふたたび顔をあげた。

表では、試合が終わっていた。一分間、男たちは殴り合いをつづけたが、ラリィは腹部のボディーブローにひるみながら、死にもの狂いになって、右手で耳を強打してきたので、ペローはひっくり返った。

歓喜の叫び声がラリィの仲間からあがったが、その一撃はディッキーの心臓をゆさぶった。だがジョシュは、キドー・クックが近づく前に立ち上がっていた。ディッキーは、父が自分のコーナーにきたとき、顔一面に笑いをうかべているのに気がついた。この男には、革のような頑丈さがあって、それゆえの有利さが、このとき際立ってきていた。敵は厳しい攻撃をあびせてきて、その攻撃はますます激しく、厳しいものになっていたが、それでもしっかり持ちこたえた。砕けた石畳に倒れこみ、ラリィが体重をかけてきて、石畳に横たわったまま叩きのめされた。だが顔には汗がながれ、背には汗がつたい、前歯は欠け、唇は切れていたけれど、彼には闘いの痕跡が残っていなかった。一方、ラリィのほうは、左目のまわりが青黒く腫れ上がって、目は細長い線と化していた。鼻も打ち砕かれた塊となり、そのせいで頭から腹まで血まみれになっていた。もちろんジョシュもだが。さらにラリィの胸も、横腹も、痣でまだらになっていた。

「とうさんは大丈夫だ、かあさん。とうさんは笑っていたよ。やつの鼻を顔に叩きつけてやったんだ」

ふたたび二人は、次の試合のために飛びだしていったが、ペローは俊敏かつ大胆にうごき、ラリィの方は慎重で面白味に欠ける動きだった。ジョシュは飛びかかると、もう一度、傷ついて敏感になっている相手のあばら骨を攻撃した。無情にも頭を二回ほど強打して、左手で鼻を攻撃する様子は、水面で鋼鉄の武器をふりまわすかのようだった。そのせいでラリィは雄牛のように突進してきた。追い立てられた挙句、ジョシュは強打をくらい、しばらく無反応だった。やがて身をかわすと、そっと立ち去った。だが、ふたたび戻ってきたときには闘志がもどり、悪意をみなぎらせていた。そして今、ペローは、頑丈な、あの手を取り戻していた。ラリィの指関節は皮膚がむけ、切り傷ができ、傷口がむきだしになっていた。強情な鼻っ面をたがいにつきあわせたときには、その衝撃はよい結果をもたらしはしなかった。かたやジョシュは、角のような拳を振りあげてきたが、その拳は固く、弾丸の袋なみの耐久性があった。

だが、攻撃目標に到達して足をとめようとしたそのとき、ジョシュは突き出た石に足をとられ、ビリーの腕に倒れこみ、そこでもがく羽目になった。あっという間に、大男の左腕に、首をはさみこまれた。ジョシュ・ペローは絶体絶命の危機に陥った。間髪をいれずして、力をこめ、ラリィは抱えこんだ頭を何度も強打した。そのあいだ、ジェリィ・ガレンとキドー・クックは取り乱したり、ひるんだりしながらも小躍りし、群衆は大声で叫び、わめいた。

ディッキーは胸がつぶれるような思いで、窓から身をのりだすと、金切り声をあげて叫んだが、自分でも何を叫んでいるのかわからなかった。父親が両手をつかって、相手の背中に、あばら骨に攻撃をしようとしている姿が見えたが、ラリィは父の顔を殴りつけ、それも顔がぐしゃりと潰れてしまいそうな殴り方だった。そのとき虚をつくかのように、ジョシュ・ペローの右手が背後から伸びてきて、相手の肩ごしに襲かかり、顎をつかんだ。じわじわと筋肉をひきしめ、ジョシュは膝を折り曲げながら、自分のほうに相手を無理やり引き寄せた。引き寄せられながらも、ラリィは体をゆすって抵抗したのだが、闘う力には欠いていた。ついにジョシュが全力でひねりをきかせると、ラリィの足が地面からだんだん離れて宙に上がっていった。やがてジョシュは相手をどさりと放り投げ、蹴り上げると、全体重をかけて相手のうえにのった。

ランスたちは、再度、怒声につつまれた。ジョシュはすぐに立ち上がり、キドー・クックが座っていた石に腰をおろすと瓶から酒をあおった。ビリィ・ラリィは、屋根から落ちた男のように横たわっていた。介添え役があお向けにすると、自分たちの陣地まで引きずっていった。そこでも力なく、意識を失ったまま横たわっていた。後頭部には切り傷ができていた。

時計を持っている偉いモブの旦那は、少し待ってから、ようやく「時間だ!」と叫んだ。ジョシュ・ペローは立ち上がったが、ビリー・ラリィは打ちのめされ、意識をなくしたままだったので、何も聞こえはしなかった。彼は打ち負かされたのだ。

ジョシュ・ペローに、大声をあげ小躍りをしている群衆は魅了された。ジョシュはもみくちゃにされながらも、にやりとした笑みをうかべ、あちらこちらで背中を平手でたたかれたかと思えば、飲み物をすすめられたりした。その群衆から離れたところでは、あいかわらずコイン投げに取りつかれている者たちが、ペニー銅貨をひっぱりだしては再び賭けに興じた。

ディッキーは走りまわっては笑い声をあげ、顔を紅潮させて有頂天になっていた。目の前がぐらぐらするなかで、扉がようやくはっきりとした形をとりはじめると、すぐに階下へと駆け下りていった。母親は安堵し、喜びも感じながら、この一件で金がいくら入ってくるのだろうかとさっそく推測をめぐらした。赤ん坊を寝台に横たえ、窓から外を見た。

ジョシュは群衆に囲まれていたが、彼女に合図をおくってきた。むきだしの肩を指さし、手でたたいた。服が欲しいのだ。彼女はシャツやら上着、ベストをあつめ、階下へと急いだ。ルーイを数分寝台に寝かしておいたところで、まさか危害がくわえられることはあるまい。そして心から、ハンナ・ペローがひしひしと感じていたのは、自分が人々から注目される人物なのだという思いだった。そこで外出するにしても、何の呵責も感じなかった。

「奥方に万歳三唱」群衆のあいまをかきわけて彼女が進んだとき、キドー・クックが唱えた。「その男が、おまえに二度、三度と頭をさげて挨拶をすることになると言っただろう」ジョシュ・ペローは、ほんとうに金持ちになっていた。五ポンドの大金持ちだった。ソブリン金貨が積み上げられた結果であり、ジョシュを応援していた者たちはソブリン金貨をつみあげたが、彼の取り分は三対一だった。だから今や、彼が大勢の応援陣にビールをご馳走していた。そしてまた、妻にも祝いに参加してほしいと願っていた。自分がサリー・グリーンの兄に復讐しようと考えたのは、妻が怪我をしたからではなかったのか。だからハンナ・ペローもびくびくしながらではあったが、マザー・ギャップの店で休もうと連れて行かれたときには嬉しくもあった。

そこで彼女は一時間、ジョシュの横に座った。一度か二度、ルーイのことを考えてみたが、もともと鈍い性質なので、その心配は心をすり抜けていった。たぶんディッキーも戻ってくるだろうし、たまに三十分の息抜きもしたらいけないというのも厳しい話だ。やがてディッキーが姿をあらわしたが、その顔に切羽詰った表情がうかべながら、戸口のところから中をのぞきこんだので、ジョシュは物惜しみをしていると思われているのかと考え、一ペニーをやろうとした。

「かあさん」ディッキーはいって、彼女の腕をひっぱった。「ピジョニー・ポールが家にきている。ルーイの面倒をみてくれている。すぐに戻ってくるよう、かあさんに伝えてと言われたんだ」

ピジョニー・ポールが?彼女がどうして部屋にいるのだろう? 人々から敬われているハンナ・ペローの怨霊が、怒りにかられながら立ち上がった。行かなくてはいけないと考えたのだ。彼女は立ち上がって、なにが起きたのかと戸惑いながら、スカートのまわりにまとわりつくディッキーと一緒に、家に戻っていった。

ピジョニー・ポールは、赤ん坊を抱えて窓辺にすわっていたが、その悄然とした顔から血の気がひき、怖れが浮かんでいた。「ここに、ここにきたのには理由があるんですよ、ペローの奥さん」彼女はかすれ声で話したが、その声はとぎれがちで、そのたびに静けさがたちこめた。「ここにきたのは、奥さんが外に出たのを見たからで。赤ん坊がひとりになってしまうと思ったからですよ。そうしたら、この子が…この子はひきつけをおこしていました。顔はこわばって、真っ青でしたよ。小さな口で歯ぎしりしてました。たった今、この世を去ったところです…でも、どうすればいいかわからなくて。この子ときたら…なんて、なんて」

ハンナ・ペローは呆然と見つめながら、子どもを抱き上げたが、その腕はだらりと下がった。しなびて老けた表情は、ルーイの顔から消えていた。虚空を見つめる瞳は、瞼がとじられていた。血の気が失われた唇は、かつての噛みしめる苦しみはなく、微笑みすらうかべていた。それというのも、死んだ子どもたちと遊ぶという、あの天使の顔を見たからであろう。

ハンナ・ペローはうつむいた。「こんなことが」呆けたように彼女はいうと、寝台に腰かけた。

奇妙な、しわがれ声が体からあふれ出してきた途端、ピジョニー・ポールは部屋から重い足どりで出ていったが、そのときの彼女の様子は、片方の腕をまげながら顔におしあてて、まるで学校にかよう子どものように泣いていた。ディッキーは、この様子をながめているうちに、訳がわからなくなってきた。やがてジョシュも戻ってきて、呆けたように凝視し、口をぽかんとあけたまま、忍び足で歩いた。だが、あとをついてきたキドー・クックに声をかけられると、彼は小さな体をつかんで診療所にむかい、扉をがちゃがちゃ音をたてて若い医学生を起こしたのだった。

ジョシュ・ペローがさらに運に恵まれたらしいという噂が、ジェイゴウにひろまった。それというのも、まちがいなく保険金がおりてくるからだ。だが実際のところ、ペロー一家は、そうした保険金をかけるということを怠っていた。

ハンナ・ペローは、冷淡にも安堵を感じていた。ジョシュには、別に何の感慨もなく、ほかに何もすることがないのだから、マザー・ギャップの店にいけば、その日を楽しく終わりにすることができるし、元気もでるのにと思うだけだった。

そういうわけで、その夜の八時、ペロー家のひとたちの姿を見かけたのは、暗くなりかけた部屋であり、その部屋には、考えられないくらい、小さな死体が寝台に横たわっていた。ぼろ服をきた子どもが、そのうえにおおいかぶさり、寝台に両腕をのばして、疲れ果てるくらいにすすり泣き、泥まじりの涙に顔を濡らしていた。「ねえ、ルーイ。ルーイってば。聞こえてるかい? もう僕に会いにきてくれないの?」

ヘンリー・スタート師がラック・ロウの教会から、キングスランド・ロードにある下宿に戻るとき、マザー・ギャップの汚れた窓ガラスの奥から聞こえてきたのは叫び声であり、暴力沙汰が起きているらしい物音も聞こえてきた。大勢の者たちがうめくような声で、ジェイゴウの歌を歌いだした。

「刑務所にはいって難儀な思いをした六か月。おまけにもう六か月、刑務所暮らし。通りであいつに会ったせい。あいつの持ち物をはぎとったせい。

トゥラリ・トゥラリィ・ルーラル、トゥラリ・トゥラリィ・レイ。通りにあいつがいたせ。あいつの荷物をはぎとったせい」

14章

はじめてジェイゴウに来て四年になる秋の日に、ヘンリー・スタート師はシティにある弁護士事務所からでてくると、東のほうに向かって歩きだしたが、その胸にあふれる希望にしても、勝利したという思いにしても、ジェイゴウが自分の管轄になってからというものの、これほど強く感じたことはなかった。それというのも土地の購入は済んだので、そのうえに教会と付属の建物を建てればよいだけになったからだ。だが、そのとき彼の心に去来した思いとは、自分が闘ったから素晴らしい結果が生じたという満足ではなかった。これから施設を充実させていくことになるのだという期待であり、そこには今まであじわってきた怖ろしい失望の影はなかった。

四年の月日が経過してから、ようやく彼はその地を購入する金を集めた。資金はある程度、彼は自分のポケットから払った。結婚はしていなかったので、貯えをする理由はなかった。いまでも地区の教会を設立することに心をくだいていた。教会を建設しないといけないから、さらに金が必要となるだろう。ほかにも支払いの請求があった。聖職者の収入である聖職禄は微々たるもので、年額にして200ポンドにもみたなかったが、そのなかから、130ポンドを支払いが仮の教会と隣の部屋の家賃、オルガン奏者への謝礼、光熱費やガス代、掃除代や修繕費用にあてられた。その金額は、ないがしろにできない安心を手にいれるために必要な金額であり、そのほかにも些細な金額ながら、無数に金のかかる事柄があった。それでもジェイゴウの人々は、牧師が仕事で稼がなければいけない莫大な金額について、あてずっぽうに推測した。この上流階級の男は、確かな収入のあてもないのに、ジェイゴウにきて、どのように生活しているのだろうか。ほんとうに、なにか他に動機があるのではないだろうか。

それにもかかわらず、彼はジェイゴウの人々に、これまで経験したことがないような影響をおよぼした。そのひとつに、信じられないほどの洞察力をそなえていると思われるあまり、畏怖の念をいだかれるようになったということがあった。ジェイゴウの人々は卑劣なほどずる賢く、狡猾そのものであり、ほとんどの余所者は心が折れてしまうのだが、彼の冷酷なまでの知性にむかい合うと、そのずる賢さも敗北を喫するのだった。そして悪知恵のはたらく浮浪人は、彼らの言葉にしたがえば「ブロードストリートのように抜け目ない」ので、最初のうちは拗ねたり、ひるんだり、すぐに見抜かれるような嘘をついたりしたが、じきに彼をだまそうとする望みも、試みも破棄した。このようにして、彼は敬意を獲得した。自分はジェイゴウの人々の金づるにならないという姿勢を、彼は一度はっきりみせ、理由のない心づけをほどこすことは拒み、数シリングだまされることも、石炭をくすねられることも、毛布でいじめられることも拒否した。やがて彼の心にはっきりと形をあらわしたのは、慈善の心であり、神の慈しみであり、正確なまでの判断と抑制だったので、愛情とひとしい敬意をいだく人々を所々で見かけるようになった。やがてジェイゴウの人々は、彼のことをファーザー・スタートと呼ぶ慣わしに、時間をかけながらも親しんでいった。

スタート神父はだまされることがなかった。自らの機知を頼みの綱として暮らしているジェイゴウのすべての人々は、その事実をおぼろげに受けとめた。シリングにしても、シリングに交換できる服にしても、スタート神父からまきあげることはできない。悔い改めたり、救いを求めたりという子供だましの方法では、他数の者をあざむくことはできるかもしれないが、スタート神父には通用しなかった。がっしりとした無頼漢のなかには嫌がる者もいたが、ジェイゴウの多くの者たちは、ときどき近隣の地区に出撃しては、儲けになりそうな感傷家を探しに行った。そこでカモになるのは、黒っぽい服のホワイトカラーであり、まじめで、時には未熟な説教師であることもあれば、平信徒であることもあり、慈善団体の役員であることもあった。自らのためにイーストエンドにちょっかいをだそうとする者であることもあれば、安心して伝道をおこなおうとする者の場合もあり、なかにはロンドン市長公邸の基金をしはらう者もいた。そうした者たちは、おもに二つの型に分かれていた。まずは、ただ温厚なだけの人物で、ジェイゴウの言葉でいうなら「ウールの男」という種類の男だ。どのような話だろうと、物思いに沈んで哀れみをさそうように語れば、こうした男には十分だ。それから、別のタイプの男とは、騙されやすい、青二才で、知りもしない経験に自信をいだいているが、それなりに用心して近づけば、たやすく金をせびることができる。荒っぽいながら用意周到な手口が、大抵の場合、どちらの種類の男にも使われたが、それは突然、宗教に目覚めたという告白をすることであった。この告白をするために、穏やかな幸せがただよう雰囲気をかもしだすか、あるいは熱狂的なまでに高揚した雰囲気をだすか、相手の好みにあわせた雰囲気をつくった。うまくやるには繊細さが要求されるのだが、まじめな求道者をよそおい、救いをさしだされてもためらうのだ。そうした態度をとりながら、あいまいなうちに答えをひきのばし、靴や外套、半クラウンを産みだしたが、弱い仲間にたいして教会に行くように説き伏せるために使うという理由が語られた。だがスタート神父にすれば、そうした文言は許し難いもので、役に立たない人物でいる方がまだましだった。たしかにそうしたところで、誇りを傷つけてしまい、鼻であしらわれるようになるだけだった。こういうわけで、はじめてフルフィ・パイクがスタート神父のところにきて、ついに神を見つけたと言ったとき、スタート神父が問いただしたのは、その神とは籠のなかにいたのだろう、貨物列車からひっかけられた籠のなかにいたのではないかということであり、そうであるなら商店に返品する行為をとりなさいということだった。これほど嫌になるくらいに、頭が現実的に回転していく男を相手にすれば、何もすることができなかった。さすがにジェイゴウの人々も諦めてしまった。

スタート神父は、間に合わせの教会を見つけておきながら、馬小屋のほうをしばしばつかった。教会に隣りあわせた馬小屋で活動するクラブを組織し、神父自らは閉店している店舗のうえに住んだ。そのクラブには、ジェイゴウの男なら誰でも参加を許されたが、ただひとつだけ条件があって、それは敷地内では正しい行いをするということだった。こうして、馬小屋で人々は煙草をすい、飛び跳ねたり、鉄棒にぶら下がったり、ボクシングをしたり、カードに興じたり、ベガラルの玉遊びをしたりしたが、たがいに干渉をすることはなく、ほんとうに必要なときだけ口出しをするのだった。女たちもそこで縫い物のつどいや、歌のつどいをひらいて集まった。万事が見えない規律で治められ、実行にうつされていたが、鋼鉄からできている堅固さがあった。

今や、立派な教会を建てることが可能な土地を手にいれたのだ。スタート神父が心に思い描く教会とは、かたわらに清潔な下宿屋をそなえ、夜の仮の宿となるもので、集会室もあれば、風呂も、洗濯小屋もあるものだった。一気に、この住まいをつくりあげ、ジェイゴウのなかでも、もっとも闇につつまれたこの場所を拭い去ろう。それというのも新しい敷地はジェイゴウ・コート全体にかかっていたからで、オールド・ジェイゴウ・ストリートにあるその敷地は、数軒の家にはさまれ隠されていた。

これが将来への夢であった。どこかの新興成金が事業に関心をもってくれさえすれば、おそらく遠からず実現する夢なのだから、たしかに将来への夢だといえた。だが、この敷地への金をあつめることには、かなりの困難がつきまとった。まずロンドン向上委員会と全知組織がこつこつと基金のために働き、実際に金を集めていた。だがそういう動きにたいして、イーストエンドの改善をしたいという思いはあっても、習慣から人々が背をそむけてしまうことも事実であった。ちょうどその頃、機を同じくして、胡散臭い男があらわれた。慈善事業の大御所でもあり、財界が後ろ盾についているということもあって、ある金額をひきうけて、貧困と罪をいっしょに解決しようとした。そして多くの人々も、この新しい事業に嬉々として、見せびらかすように、その男のまえで金を寄付しては、病院を維持する金にしようとし、施しをうける人に食べ物をあたえる金にしようとした。だが、この贈り物は不十分で、必要とするひとに届きがたいものだった。そこで、こうした寄付は不必要なものだと考えられるようになった。手をさしのべているのに、希望が打ち砕かれていくとは惨めではないだろうか? さらにスタート神父は、感傷的な自信過剰家という敵を喜ばすようなことはしなかった。フラッフィ・パイクやその仲間が、興味深い懺悔をしている場に直面しても、彼はあくまで冷淡であり、皮肉屋であった。計算した挙句すすり泣く人より、いかにもという悪党を好んだ。彼が運営しているクラブでは、ボクシングやドミノ倒しなど信仰とは関係のないことが許されていた。彼は毎日、親しみをこめて、最下層の人々と握手をかわした。好みも卑俗で、下品であった。彼のクラブの仲間ときたら、じつに怖ろしい連中だった。このように、自信過剰家たちは頭をふりながら言うのだった。だから、そうした懸念は、スタート神父に金を寄付してくれるかもしれない人々のあいだでも知られることになった。スタート神父! その名前は、輝かしいローマカトリックの教義をうけた人のものなのに。大勢のひとが匿名の手紙を書いて、みずからを慰めたこととは、彼の目に地獄がうかぶようにしむけ、おそろしい天罰がくだると言うことだった。

そういうわけでスタート神父はジエィゴウをさすらい、生涯をとおして絶えることのない緊張と争いの日々をさすらうのだった。たとえ、その日々に、成功の跡が残らないとしても。それというのも、ジェイゴウは昔のままだったからだ。他のジェイゴウの者ほどには、卑しくない者があらわれて街が変化していたなら、どうであっただろうか。かつては嘲られていたとしても、ジェイゴウの人々が仕事をするように説き伏せられたなら、家をきれいにするようにと説き伏せられていたなら、どうであっただろうか。そうであればスタート神父はいそいで、ジェイゴウの人々のことを心から追いやり、ジェイゴウからの影響にいつまでものみこまれてしまうことはなかっただろう。神父のいた社会へと、不道徳なところがどこにもない社会へと戻ったことだろう。だが、ジェイゴウの人々のなかで、彼は日々をすごした。常識的な意味で考えると、伝道は少しもしなかった。この地において、伝道とは遊び人の自惚れにすぎなかった。そのかわり、労働につとめ、相手をなぐさめ、ジェイゴウの生活にとけこみ、よくないことには蔑みと嘲りの言葉をつきつけ、些細なことでも予想もしていない結果には感謝の言葉をささげた。少数の者のためだろうと、たった一時間であろうと、悪い行いから相手を遠ざけるためにそうした。自分がいなければ、ひどい不正が栄え、咎められることもないということを意識していた。心におもくのしかかる思いとは、ジィゴウの死亡率がロンドンの死亡率の四倍を超えていようとも、ジェイゴウの鼠は子孫をつくり、仲間をつくり、妨げられることもないまま、急速に増えていき、世界を冒していくというものだった。

ラック・ローで、ジョシュ・ペローに出くわしたとき、彼は上着の裾に何かをしのばせ、家に向かうところだった。「やあ、ジョシュ」とスタート神父は声をかけ、ジョシュの肩をぽんと叩いた。彼がふりかえると、手をさしだした。

ジョシュは、上着にしのばせた物を移動させながら、握手するよりはやく、ひとさし指をあわてて上にやって、帽子の先にさわった。にやりとした下品な笑いをうかべ、周囲に目をはしらせ、満足なかば、困惑なかばという表情をうかべた。こうした状況で、ジェイゴウの人々がみせる態度だった。これからスタート神父がかわそうとしているのが、親しみのこもった会話を一言か二言のつもりなのか、それとも気がついたことを隠しながら、時計や財布、飾りピンなどについて、破滅につながる質問をするつもりなのか分からないからだ。

「やあ、これはどうも、神父様」ジョシュは答え、愛想よくにこにこしたが、その笑みは教区司祭がさしのべてきた手のむこうにある壁にむけられていた。

「さて、今まで何をしていたのかい?」

「ああ、ちょっとした仕事ですよ、神父さま」いつでも、どこでも、ジェイゴウでは、答えは同じだった。

「いつものような、ちょっとした仕事でないと思いたいね、ジョシュ。どうかね?」スタート神父は微笑んで、まるで子どもを相手にするときのように、ジョシュのボタン穴を引っぱった。「キングズランド・ロードで、六月の休みの日に、若い紳士がおそわれたと聞いたが。なあ、ジョシュ?」

ジョシュ・ペローはそわそわすると、まごつきながらにやりとした。怖ろしい顔をしてみせようとしたが、うまくいかなかった。そこで、もう一度にやりとした。六月から、彼はぶらぶらしているだけだったからだ。やがて彼は口をひらいた。「大丈夫さ、神父様。その紳士にそう言ってやればいいのさ」

にやりとした笑いをうかべながら、まずは壁に視線をはしらせ、それから舗道の敷石に視線をおとし、それから通りに目をむけた。だが、けっして相手の顔はみなかった。

「そういえば、ときどき何かいいものが、服のふくらみに入っていることがあるじゃないか、ジョシュ? わたしの目に見えるのは、時計のような気がするんだが? ちょっとした仕事を、他にもしているんじゃないかね?」

ジョシュが上着のしたに隠しもっていたのは、ニッケルでめっきされたアメリカ仕様の、小さな置時計だった。そこで少しその時計のことを打ち明け、きっぱりと不服申し立てをした。「してませんよ。だから助けてください、神父さま。正直で、ちっともやましいところのない取引をしてきただけです、神父さま。物と交換してきただけです。まじめに宣誓供述書に手をかけて誓いますよ。ただ、それだけの話です、神父さま。正直な話をいえば」

「そうかい、ジョシュ。それが手に入れたものなら嬉しい話だ、ジョシュ」スタート神父は、まだジョシュのボタン穴をいじりながら、話をつづけた。「お前は時間を守るような、熱心な信者ではけっしてないからな、ジョシュ。でも、そうした生活をあらためる心づもりをしたというなら嬉しいよ。もう言い訳はできないぞ、いいか。日曜日の朝、時間きっちりに来るんだ。忘れるんじゃないぞ。待っているからな」それから、もう一度、スタート神父は握手をすると立ち去ったが、ジョシュ・ペローは心をきめかねたような笑みをうかべながら、教会への招待をなんとか受けとめようとしていた。

たしかに時計は交換して手に入れた物だったが、やましいところがまったくないわけではなかった。事実はこういうことだ。その朝はやく、ジョシュがブリック・レーンの角を大急ぎで曲がったとき、9ポンドか10ポンドのタバコの包みをかかえていた。そこであとから、その角を急いで曲がってきた者たちを意識した。彼が次の角を曲がらないうちに、その角を曲がってきた者たちもいた。ジョシュの姿が、後ろから来る者たちの前にさらされたので、抜け目なく、タバコの包みを処分してから、ミーキン・ストリートに飛びだすことにした。こうしたことができる場所が一か所あったが、それはウィーチさんの店だった。ぬかるんだ裏庭があるのは、ミーキン・ストリート裏手の、いりくんだ路地の奥で、そこにはウィーチ氏の裏塀があった。ジェイゴウではめずらしいことではないのだが、不正な手段で追い立てられると、塀から略奪品を投げ込み、人ごみに戻ってから、アーロン・ウィーチ氏を訪れて、略奪品をできるだけ早く金に換えた。この作戦そのものは単純で、中庭をつかうことで楽に遂行することができた。だが逼迫した場合だけのことだった。アーロン・ウィーチ氏は卑しい雇い主にすぎず、こうした状況のように取引で優位にたっているなら、さらに人物が下卑てくるからだ。だが今回は、この戦略をとる必要があるように思えたので、ジョシュはぬかるんだ裏庭へむかうと、塀から包みを落とし、口笛をおおきく吹いた。それから裏庭をはなれ、もとの道の歩道へと戻った。

数時間後、彼がアーロン・ウィーチの店を訪ねると、この抜け目ない商売人は、物惜しみすることのない身ぶりをしながら、一枚ずつ手のひらにシリング貨幣をのせて数え、そのたびに、これでもう最後だとでも言うかのように、間をあけた。だがジョシュがしつこく、片手をひろげて粘ったので、ついにはウィーチさんも五シリングだしたが、そのあとは動きをぴたりととめ、この強欲ぶりに憤慨した。しかし、それでもジョシュは満足しなかった。それに彼は扱いやすい客ではなく、ふだん店で盗品を売買する少年たちを相手にするようなわけにはいかなかった。ウィーチさんは、結局、安い置時計をひとつつけることで妥協した。長い間、手元においてあったものだが、ジョシュは喜んで受け取った。もう、それ以上は貰えそうになかったからだ。そうしてデイッキーにすれば、五時頃家に戻ったとき、肝をつぶしたのは、目にとびこんできたのが、マントルピース上の、脂っぽい蝋燭の燃えさしにかこまれた置時計で、四年前、ルーパーさん一家のところにあったものだからだ。

15章

ディッキーは学校にかよっていた。いわば、時々、不定期な間隔で、ハニー・レーンのジエイゴウとの境にある公立小学校に、姿をあらわすという感じだった。なにかが与えられるときは、もちろん出席した。だが、時たま、そうした誘いがなくても、学校にいった。多分そうしたのは、午後、気分転換をしようと考えたせいであり、また外が寒く、学校が暖かいからでもあった。彼は半日児童(規定時間の半分を出席し、他は工場などで働くことを許可された13歳以下の学童)の組にいれられていた。それは様々な生徒を登録する制度だ。だが、工場で働いていなくても問題はなかった。ほかの少年たちは、半日児童かどうかということは関係なく、ディッキーのように少ししか学校に通わなかった。ジェイゴウで無理強いを企てても無駄だということを、学校関係者たちもだいぶ前に理解していた。

ディッキーは馬鹿ではなかったので、大きくなるにつれて読み、書きの類を身につけた。さらに泥棒としての経験を積み、執政官の命令で、樺のむちで六回ほどむち打ちの刑をうけた。もう、めったにポケットをねらうことはなくなった。ほとんどの場合、儲けが少ないからだ。それでも、それほど背が高くならないと言われたりすると、安堵したりもした。そうこうしながら、すりの経験をたっぷりつんでいったが、やがて、もう、すりを働くことはなくなっていた。そういう運命だったのだから仕方ない。背の高い男が、すりで成功することはない。仕事をするには体をおりまげないといけないし、そうすれば見物人の目をひいてしまうからだ。

それからディッキーは、ちょっとした窃盗をおこなったが、それはロンドンの路上なら、どこでもできる行為だった。折をみては、彼が偵察したのは、「いいものが走っているぞ」と叫んで稼ぐ一団だった。ラック・ロウを経由してミーキン・ストリートを横切って、前方のジェイゴウ・コートの道をすすめば、やがてベルスナル・グリーン・ロードについた。そのはずれには、鉄道会社の大きな貨物駅があった。そこでは、手押し車と貨物車が、駅からの荷物を満載したまま、一日中行きかっていた。そしてジェイゴウの連中のなかには、たびたび、その荷物を略奪する者たちがいた。機敏な偵察が見張り場所につき、荷台の後尾扉が無防備になっている貨車が通りかかるのを見張った。そうした貨車が近づくと、偵察役が「いいものが走ってくるぞ」とラック・ロウにむかって叫んだ。その合図に素早く反応して、一団は急いで走り、偵察役が手をひらひらとさせながら仄めかす空き地や道をめざした。手押し車からひったくれる物をすべて掴んでから、空き地へと姿をくらましたが、ときには数名の者がわざと残り、違う方向へと追い手を導いて時間をかせいだ。次から次へと獲物をねらい、略奪した品物はいい収入となった。そのほかにも、タバコの包みを満載した貨車がたくさん通ったが、鉄道の駅から来るのではなく、すぐ近くの工場から来る列車だった。その列車からくすねると、とりわけいい稼ぎになった。ディッキーは、偵察役として素晴らしい成功をおさめた。その仕事はとても安全なものだった。だが、仕事への分け前として十分に思えるだけの、僅かなペニー銅貨を仲間からひきだすことが、いつも簡単だとはかぎらなかった。それにウィーチさんも喜ばなかった。もう今では、デイッキーは一番の儲けをもたらしてくれる取引相手になっていたが、手押し車を襲撃したところで、たいした儲けにはならなかったからだ。「いいものがあるぞ」と叫んで略奪する少年たちは、ホクストンのパブの主と組んで、略奪品を守っていたからだ。それにデイッキーは子供じみた考えを脱していて、ウィーチさんが一マイル離れたところから聞いているとも思わなければ、壁のむこうから見ているとも思わなくなっていた。それでも、常連のデイッキーの労力をふみにじって警察に内通するという、怖ろしい武器がウィーチさんにはあった。そのほかのことに関しては、問題はなかった。父親は、彼が何をしてきたのか気にもとめなかった。母親にしたところで、持ち合わせが不足しているときには、彼に一ペニーか二ペニーを無心する運命を甘受していた。たしかにハンナ・ペローは、かつてと比べるとジェイゴウでの暮らしに慣れていた。噂話もよくしたし、まわりの連中に厳しい一線をひくことはなかった。それに母が酔っぱらっている姿をデイッキーが目にすることもあった。それでもオールド・ジェイゴウ・ストリートの住人から見れば、彼女は物静かな女性で、喧嘩をすることもなければ、闘ったりすることもなかった。闘うということに関しては、家族のために、ジョシュがじゅうぶんすぎるくらいに闘うだろう。家族は、ふたたび四人になっていた。忘れられたルーイの場所には、二歳になるエムがいた。

家に戻ったデイッキーは、マントルピースのうえに置時計があって、しかも母親がウィーチさんの店からのものだと説明したので、尚更あの置時計だと確信し、その時計に奇妙なくらいに苛立った。時計をウィーチさんの店に持っていってから四年の月日が経過していたが、不運な、猫背の少年から解放されていなかった。彼もハニー・レーンの公立小学校にかよっていた(ダヴ・レーンとジェイゴウの境にあった)が、毎日通学していて、熱心に勉強するものだから、先生たちに気に入られていた。それとは反対に、デイッキーが関心をもたれることはなかった。だが、たまに不運な機会にめぐりあわせることもあったが、大なり小なり、その陰には猫背の少年の存在があった。先生は不可解なことながら、鼻やら歯やら、自分の似顔絵を描いたのがデイッキーだと気がつくのだが、その話の出どころはボビー・ルーパーだった。足し算をすることになっている日の午後に、運悪く学校にきてしまい、デイッキーは隣席の子の石版を見ては、答えを写そうとした。だが、すぐに猫背の少年に手でさえぎられ、そこでびっくりするのがデイッキーの役割だった。一度、夕食を食べないで空腹だったものだから、彼が先生の机から、サンドイッチを一切れ盗んだことがあった。部屋にはだれもいないので見られていないと思ったのだが、猫背の少年が気づいて、指さしてきた。その痩せた顔は悪意で青ざめ、彼のほうを指している指も怒りに震えていた。でもデイッキーには、二週間にわたって、ミーキン・ストリートの、小さな果物商のまえを通る勇気がなかったのだから無理もない。オレンジをひとつ取ろうとしたのだが、そのとき学校の出来損ないの仲間が裏切ったせいで、果物商から厳しい追跡をうけた。板が一枚くるくる回転しながら飛んできて、痣ができた。猫背の少年が、ついやせる限りのエネルギーを傾けて身を捧げているのは、四六時中、デイッキーを監視することのようにみえた。デイッキーとしても、おとなしく侮辱をうけているわけではなかった。はじめのうち、彼は脅かそうと試み、やがて皆のまえで敵の身体的欠陥を嘲った。そして、いっそう腹立たしいときには、ボビィ・ルーパーの頭めがけて、獰猛に拳をふりあげ、相手を泥の山にひっくり返した。だが、体当たりの報復をやってみたところで、猫背の少年はくじけなかった。猫背の少年は、殴られて泣きわめきながらも、自分なりのやり方で、もっとひどい復讐をやり返した。一回か二回ほど見物人たちが目にしたのだが、みにくい子どもはこうした仕打ちをうけ、デイッキーの耳を殴りつけて抵抗しようとした。犠牲者である少年は、さらに、べつの仕返しをくわだてた。体の大きな少年たちのところに行っては、デイッキーときたらうぬぼれていて、喧嘩をしたら、一発で打ちのめしてやると言っていると告げ口をするのだった。これを聞いた大きな少年は、すぐに鞭をもって、デイッキーのところにやってきた。ただ、めったにないことではあるが、猫背の少年がデイッキーの復讐の道具を高く評価しているときにはこなかった。そういうときに来れば、デイッキーにぶたれてしまうからだ。だが、こうした失策をやらかすことは滅多になかった。それに、以降は、デイッキーも挑発にのることはなかった。ただ原則として、つかまえられるときには、ボビィ・ルーパーをどんどん踏みつけて溝に転がしていた。

その日の午後も、デイッキーはふたたびやられてしまった。二日前に、紅茶とお菓子が、善意の学校運営者のおかげで、学校にかよう生徒のために届けられた。結果として、その日の出席率はすばらしく、もちろん、デイッキーもふくまれていた。だがエマのために家に持ち帰ろうとして、ポケットいっぱいにお菓子を隠そうとしているところを、ボビィ・ルーパーが告げ口をした。そのせいでデイッキーは前に引っぱりだされると、略奪品を取りあげられてしまい、不名誉なことに追い出されてしまった。彼は外で待ち伏せ、長くて、しなやかなキャベツの芯をつかって、獰猛にも仕返しをした。だが、その日の午後、ビル・ベーツという、彼より頭ひとつぶんだけ背が高く、二歳年上の少年が、リンカーン・ストリートで不意に襲いかかってきた。デイッキーはむなしく抗い、精一杯蹴りつけたが、ビルが鞭打ちをくらわしたせいで、彼には痣ができ、血も流れ、埃まみれになって、憤怒と痛みのあまり泣きわめいた。これは猫背の仕業だ、まちがいない。デイッキーは足どりも重く家路についたが、ショアディッチ・ハイストリートで遭遇した出来事のおかげで元気を取り戻した。そこで、行商人が覆いのかかった馬車とぶつかり、手押し車一杯分の咳止めドロップをひっくり返してしまい、咳止めドロップが泥のなかに飛び散っていた。御者も、行商人も、相手の名前と住まいをききだしては罵り、互いの目つきや母親のことにいたるまで誹謗した。デイッキーは、手のひらいっぱいの咳止めドロップをかき集めた。たしかに泥だらけになっていたが、簡単にぬぐいとることができた。そこで普段より陽気に帰宅した。だがルーパーの、古い時計が目にはいると、もう一度猫背のことを思い出した。ほろ苦い怒りを感じ、彼はすぐに猫背を探すことに決めながら、その日の午後こっそり手にいれたものを興味ぶかげに取りだした。

通りに姿をあらわすと、手がのびてきて、デイッキーはつかまれそうになったが、本能がはたらいて、すばやく身をかわした。彼は上の部屋へと駆け込み、ポケットの中身をあけると安全な場所にしまいこみ、残りのせき止めドロップや「こわれた残骸」と名づけているナイフ、ボタンをいくつか、ひもを少々、チョークを少し、小さくなった石筆三本、大理石ふたつも一緒にしまいこんだ。そうしてから通りにふたたび出ると、自分の、この極貧ぶりに自信をいだきながら、周囲を見わたしたのだが、猫背の少年のことを忘れてしまうくらいに、あたりの光景は刺激的なものだった。

奥のほうからでてきた、ごろつき連中は不意に、共同で作業をするという考えにとりつかれたようで、二十人から三十人の集まりで軍をつくっていた。数に自信があるものだから、通りに散らばっては、ありとあらゆる通行人をとめ、男も、女も、子どももひきとめては、すべてのポケットを空にした。人で込み合った場末の浮浪者も、その他大勢のならず者も、デイッキーをつかまえようとしては失敗した連中だったが、今では他のことで忙しく、四、五名の者たちと一緒になって、ひとりの女を転がしているものだから、その女は道のまんなかでもがき、古びた服の山のあいまから、やせこけた足をつきだしていた。それはビディ・フリンで、今ではもうあまりにも歳をとり、やつれていたので堅気の仕事をするしかなく、籠をもってオレンジを売ったり、ナッツを売ったりしていたが、かつてはハイ・ストリートで夜の取引をしては、道をふみはずしていた女だった。彼女はまたとない捕虜だった。女ひとりで、すべての持ち物を身につけていたからだ。スカートの下にはもちろんのこと、胴回りにも糸でくくりつけ、財布を隠していた。だが、すぐに見つかってしまい、引っぱりだされると2.8ペンスのファージング硬貨やら、縁起のいい靴の先端がでてきた。その靴の先端は、はきつぶされて丸くなっていたけど、ぴかぴかに磨かれていた。さらに真鍮のブローチもつけていた。だが不幸なことに、もう今では結婚指輪はピンの針金くらいの太さいしか見えない有様で、節くれだった指の関節から抜くことはできなかった。とにかく、その指輪には少しも価値はないだろう。そこでビディ・フリンは逃げようとしたり、泣きわめいたりしているうちに疲れ切り、そのまま放り出され、彼女の空になった籠も投げ出された。彼女はおぼつかない足どりで歩きながら、泣きわめき、頭をふらふら揺らした状態で、手を壁についていた。ならず者たちはオレンジを分け合い、皮をむいて味わうと、この目新しい、勇ましい行為をふりかえった。デイッキーは、ジェイゴウ・コートの通りから、この様子を眺めていた。

騒ぎは、しばらくすると弱まっていった。そして今度、乱暴者たちが考えはじめたのは、マザー・ギャップの店に無理やり侵入することだった。だがその考えも、若者がひとり、正方形の包みをわきに抱え、すごい勢いでラック・ロウから走ってきたときに消し飛んだ。包みの外観は、路上窃盗の少年たちにはおなじみのもので、煙草の包みだった。彼はすぐに逮捕された。

「それをつめこむんだ、ビル」彼は、自分が逮捕されることを悟って叫んだ。「やつらがくる」

だが半ダースもの手が、彼の略奪品にのびてきた。品物はつかみ去られ、彼は舗道に放り出された。ラック・ロウの石畳から、騒々しい音がしてきた。やがて軽量馬車が音をたてながら、オールド・ジェイゴウ・ストリートのほうへやってきた。馬は全速力で駆け、御者は鞭をふるいながら叫んだ。「やつを捕まえろ。泥棒を捕まえろ」

その光景は目新しいもので、しばらくのあいだ、乱暴者たちはじっと見つめ、にんまりするだけだった。この男はまだ青二才にちがいない。この界隈に慣れていないのだろう。ラック・ロウから奪われた品物を取り戻そうとするくらいだから。しかも中味は煙草なのだ。顔から血の気がひき、狼狽しながら、荒々しく呼びとめ、周囲をみわたした。「わたしの馬車から、盗みを働いた男がいるんだ。どこに行ったんだ?」

「むだですよ、旦那」誰かがこたえた。「いまさら騒いでも遅いですよ。それなのに奴を追いかけるつもりで?」

「なんてことだ」その男は汗をかきながら言った。「やられた。二ポンド貨幣の価値があるタバコなのに。月曜日に、この仕事についたばかりなんだ。9ヶ月ぶりの仕事なのに」

「こういう包みか?」他の男がへらへら笑って、荷台のうえに包みをかざしながら、きいてきた。

「それだ、返してくれ。なんてことだ。助けてくれ、助けてくれ」

ならず者たちは荷台に身をのりだすと、げらげら笑って、中身を放りだした。御者は大声でわめいて、鞭で必死に闘った。ビル・ハンクスは一撃をくらって、片目がほとんど見えなくなってしまった。だが、そのせいで、御者はますます不利になってしまった。荷車から、泥の山へとひきずりだされたのだ。地べたに押し倒されると、ポケットを空にされ、長靴もぬがされた。さきほど鞭でぶたれた男が、今度は御者の頭のあたりを蹴りつけてきたので、しまいには蹴りのせいで、頭は泥のなかで、生命力に欠けた塊と化していった。

馬と荷車をどうしようかという話し合いがもたれた。売るにしては大きすぎるし、危険もあった。そこで黄昏はじめていたので、人事不省の御者を荷馬車の床にころがすと、馬車後部の尾板をあげた。それから、ならず者のひとりが馬を走らせ、慌ただしい通りですべてを消し去ろうとした。

獲得した品がたくさんあるものだから、群衆はその品を隠すことにいそしみ、塀と塀のあいだに見張りをたてながら売買をおこなった。その場に残った者たちはおとなしく、ラック・ローをぶらついたが、いつもの狼藉者の集団よりも人数は少なかった。

そのときデイッキーは猫背の少年のことを思い出し、ダヴ・レーンへ前かがみになりながら行った。だが、ボビィ・ルーパーの姿はどこにもなかった。ジェイゴウとダヴ・レーンは反目しあっている地区で、争いの活気にあふれ、戦いの種がくすぶっていた。ただ短い期間ながら、はっきりとした和解の期間は別であったが、そのあいだも更に猛々しい、次なる攻撃をダヴ・レーンへくわえることに人々の心は捧げられていた。ジェイゴウの人々とは、いつも攻撃者であり、征服者であるからだ。デイッキーが用心深く隠れ場所にひそんでいたのも、そのせいだ。近づきやすいとは言いがたいダヴ・レーンの少年たちに見つかって、連れて行かれないように用心したのだ。どこにルーパーさん一家が住んでいるのかということも、彼は知っていたので、そこに行って戸口をうろうろした。オルゴールの音色が弱まるときのような、乱れた金属音が聞こえてこないかと思ったこともあった。だが、それらしいものは聞こえてこなかった。さしあたり彼が満足を覚えたのは、ルーパーの家の窓に石を放り込んで逃げ出したときだった。

夜になり、ジェイゴウは暗くなった。鼠があたりを駆けはじめ、売春婦の用心棒は踊り場のかげにひそんだ。階段で、ピジョニー・ポールが酔っぱらっていたのは、少量のジンではあったが食べ物をとらないせいであり、ぞっとするような歌を歌って、涙をながして悲しんだ。ならず者たちは三々五々散らばって、その日の午後の儲けをつかった。デイッキーがラック・ロウですれちがった集団が、その夜早々と意気消沈していたのは、老ベヴェリッジをひっくり返そうと試みたせいだった。彼は疑う気配もなく、自分の街から近づいてきたのだ。だがその老人は、鞘からナイフをとりだすと、ノバー・サグの腕をつき、その肉をきりつけ、肩も刺し、上着を引き裂いた。そこで仕方なく、ノバー・サグは袖から血を流しながら、他のふたりと一緒に立ち去って、腕をしっかり布でつつむことにした。そういうわけで老ベヴェリッジはにやりとすると、荒々しく何かをつぶやきながら、大またに通りの方へ歩きだしたが、その手にはナイフがまだ握られていた。10分後には、冷静さを取り戻して歩きだしていた。このようなことをトミィ・ランは裏庭に腰かけて、パイプをふかしながら話してくれた。そのパイプにはつめられた煙草は、父親がならず者たちから、一ポンドにつき二十五ペンスで買ってきたものだった。やがて二人の少年たちは、吐き気をもよおしそうな、家のへとゆっくり戻った。

16章

日曜日の朝、ジョシュ・ペローが教会にいると、スタート神父に出くわした。呼び出されたから来たのではなく、神父が彼の心をひきつけ、ミーキン・ストリートのキドー・クックの心もひきつけたのであり、そのせいでここまで足を運んできたのだ。神父はふたりの時間を厳守する様子にうれしそうにしながら、その習慣を捨てることのないようにと励ました。ふたりのジェイゴウの男は曖昧な笑みをうかべながらも、求められるままに服従すると、しばらくのあいだ、他の者たちが到着する風景に目をみはっていた。その者たちも教会にくるとは思えないような友人であり、知り合いだったからだ。事実は、スタート神父が長い時間をかけて努力してきたおかげで、多くの人々が小屋につくられた教会にしばしば通うようになったということだ。同じようにして神父はジョシュとキドーも教会に連れてきたのだが、この地区に恐怖をひきおこしたり、人々を困惑させたりする面影は消えていた。それに多くの人々も、これほど居心地のいい場所を他に見つけることはなかったので、自ら進んでしばしば通うようになっていた。とりわけ雨がふる日曜日には、人々は教会に通う気になった。教会にいけば、暖炉に火がくべられているだろう。火がなくても部屋はきれいで、壁には絵が飾られ、花も飾られていることが多く、いつも音楽がながれている。そうした場所で、スタート神父は一時間の四分の一ほどのあいだ話をするのだが、それが説教くさいとは誰も思っていなかった。好きなように身を任せて、うたた寝をしたりしながら聞いていればいい話なのだ。だが、ほとんどの者が何らかの形で耳を傾けていた。それはひとつには、聞いていないことが神父にばれているのではないかという不安な気持ちのせいであり、また、話そのものが簡単に理解できるというせいでもあった。うんざりするような脅かしではなく、自分たちについて、親しみのわく知識をもとに語っていた。たしかにその話には、元気づけるような目新しさがあり、紳士が話すにしてもわかりやすいものだった。

ジョシュ・ペローとキドー・クックは、ここに来たことを悔やんではいなかった。安らいでいたからだ。以前は馬小屋だったかもしれないが、こんなに居心地のいい部屋で座ったことはなかった。しなければいけないことは何もなく、いつも見張っている必要もなければ、警察を避ける必要もなかったので、機転のはたらく頭も、その日は休みだった。やっかい事も忘れてしまった。勇気を奮い立たせて、そうしたことを考える必要もなかった。でも本当のところをいえば、煙草のおかげで、幸せにひたっていたのだろう。

神父は話をした。スタート神父は新しい教会のための土地を購入したことを告げ、簡潔に自分の計画を語った。借家人たちには、家が取り壊される前に、立ち退きの知らせをだすつもりだが、それはよい知らせになるだろうと彼はいった。確かにしばらくのあいだ、家賃を払わなくてはいけない。だが、ほとんどの者にとって、家賃は少なくなることだろう。

祝福を終えたあとで、スタート神父が窓から、閉まっている商店の方をみると、ジョシュ・ペローとキドー・クックが笑いあいながら、互いを肘でついてラック・ロウを歩いていた。お互いに相手が讃美歌を歌おうとしたことを非難していたのだ。

17章

スタート神父の予告は、人々のあいだで話題となった。多くのひとが残念に思ったのは、そんなにたくさんの金が、ジェイゴウのために使われるということになっても、煉瓦や漆喰につかわれるだけで、自分たちに配られるわけではないということだった。そして急に土地や家の値段を計算しはじめ、苦労しながら壺単位で、ガロン単位であらわそうとした。さらに惜しまれることがあった。それはジェイゴウ・コートが消えてしまうことが、この社会ではずいぶんと危険であるように感じられることだった。ジェイゴウ・コートがなくなれば、ジェイゴウはどうなるのだろうか。日曜日の朝はどこで過ごせばいいのだろうか。喧嘩はどこでやればいいのだろうか。それにコイン投げをするのに、これほど都合のいい場所がどこにあったか。だが人々が怖れているのは、おもに警察のことだった。ジェイゴウ・コートは失敗することのない聖域であり、これまでも使われてきた非難場所であり、いつも安全な場所だった。二、三人の警官が追跡に夢中になって、疾走する泥棒を追いかけ、ジェイゴウ・コートに飛び込んできたときもあった。そのようなときでも逃亡者がアーチ道めがけて一直線に走り、ひとたびジェイゴウに飛び込めば危険は去った。右でも、左でも、いつでも開けっ放しのドアに駆けこみ、裏庭をとおって別の家に入ればよかった。もっといいのは、奥の低い塀をよじ登ると、目の前には裏口のドアがあらわれるが、そのドアをぬけてニュー・ジェイゴウ・ストリートへ出てしまうことだ。アーチ道をこえて追いかけるような危険を警察が選ぶわけがなかった。ただし多勢で軍団をくんでいるときは別だが。若い警察官がかつてそうしたことがあったが、熱情にかられるあまり二人の仲間から遅れをとってしまい、道から姿をあらわしたかと思えば、地べたにのびていた。上の方の窓から、器用にも落とされてきた暖炉の炉格子にあたったのだ。

天からの贈り物と言うべき場所を、このように撲滅してしまうとしたら、それは不幸なことだろう。ジェイゴウは、二度と同じ場所には戻らないだろう。そのままにしておいても、オールド・ジェイゴウは便利だし、なにかと気持ちのいい場所なのにと人々は囁き合った。他の場所に住んでいる自分たちの姿なんか想像できない。それに、ジェイゴウ・コートがなくなれば、もうジェイゴウではないことも確かだ。しかも、こうしたことが、ジエィゴウを援助するために集められた金でされるのだ。ジェイゴウの人々が考えついた唯一の説明とは、うまく算数の計算をして、ついには首尾よくいったのだろうということだった。地主には、家やら土地やらの合計金額(ジェイゴウの見積もりは、百ポンドから十万ポンドにまで様々だった)が支払われることになっていた。この件に関しては、スタート神父にこっそり分け前を返すのだろう(だいたい、半分くらいだろう)。これは、結構な取引をもってきてくれた神父への手数料となる。あらゆる可能性を考えてみると、これがもっともらしい説明に思えた。スタート神父の活動について、他には合理的に説明がつかなかった。そうであれば家賃をいくらか安くする余裕を彼が持ち合わせていても不思議ではなかった。それに毎週日曜日の説教のために、政府から賃金をたっぷり、すでに受け取っていないか(名目は様々であるが、一週間につき十ポンドから三十ポンドになるだろう)

なおかつ家賃は下がるだろうと、人々はすばやく頭をめぐらした。すばやい頭の働きこそが、ジェイゴウでは大いに物をいった。そこで好まれるのは、一ヶ月後にもらえる定期収入の仕事よりも、一シリングの日雇い労働だった。神父が宣言してから現われた効果とはまず、消失することになる家の貸し間に借り手がおしよせ、すでにその家に住み着いている者が立ち退くのだから、そこに宿を貸してくれと言ってきたことだが、冷静に相手をみてみると、ろくでもない住人だということがわかった。借り手はすっかり落胆したが、住人の方は望んでいた以上の幸運を手にいれたわけだ。思いがけないことが起きたのだ。新しい建物を建てる償いの金が保障されたのだ。だが、そのために多くの者が、家を取り壊されると避難所を探すのに四苦八苦することになることも、需要が生じるせいで家賃があがるだろうということも、スタート神父にはわかっていた。だから貸間を貸せるあいだは、しばらく何も言うまいと心に決めた。神父はみずからの決意を知らせたあとで、その決意が歓迎されたとはいえ、やはり悔やむのであった。節約した金が、ただ溶けていくことをひしひしと感じ、そして避けられないことではあるが、安心を求める富裕層が誰ひとりとして借りにくることはあるまいと思うからだった。借り手が地役権を一時的に支払ったあとでは、家賃の支払いはさらに望めない。家賃を要求しておいて、借り手が退去するときに一括して返した方がよかった。合計金額をしめせば、それにつられておとなしく立ち去ったことだろう。おとなしく立ち去ってくれるかということについても、一騒動が予期された。それにしても、思いがけずシリング数枚を授けたおかげで、ジェイゴウに何がもたらされたというのだろうか。酔っぱらいだけではないだろうか。このように考え、スタート神父は幾千回となく途方にくれたが、おそらく自分は正しいことをしたのだと言い聞かせた。

古い建物は建っていたけれど、家屋解体業者に売られた。そして家屋解体業者の手に、住人を追い払う仕事も委託された。数週間にわたって、その日は延期された。だが、ついにその日はやってきて、高さのある仮囲いが設置された。翌朝、その囲いは消えていた。だが、かわりにジェイゴウでは、やかんを火にかけるパチパチという大きな音が聞こえてきた。デイッキー・ペローとトミー・ランは、エッジ・レーンでたき火をした。ジェリー・ゲレンのカナリヤは、安価な焚き火用の薪となる、重い積み荷をまえにして、たっぷり汗をかいていた。

やがてジョシュ・ペローとかつての仇敵ビリィ・ラリィは、新しい貯蔵物の共同管理者に任命され、毎朝、塀が壊れていなければ、ふたりとも半クラウンもらった。そしてついに立ち退きの日がやってきた。もう一度、警察がジェイゴウを制圧して、無頼漢たちを武器護送車にのせて護送した。

ペロー一家がどうなったかといえば、あっさり別の部屋を見つけることはできたが、ジェイゴウの住民ならの特権で、いつものことだが高い家賃を支払わなければならなかった。でも、ひとつの部屋に四、五年とどまって、いつも家賃を支払うという規則正しい生活をおくったところで、そうした日々が悪名高いものになることは滅多にないことだし、どこかで部屋が空いたり、空きそうになったりしたときに、その部屋に移り住む術をもたらしてくれるわけでもなかった。一家は道をこえることなく、未亡人が二日前に死んだばかりの部屋へと移った。そこで未亡人は内職でつくっていた袋にかぶさって死んでいたのだが、そのとき彼女は床の上に、頭をひざのあいだにうずめながら座っていた。そのかたわらで子供たちは、何が起きたのか理解できないまま、腹をすかせて泣きわめいていた。この子どもたちは感化院へいった。その場所に残された多くの子どもたちよりは幸運だった。その部屋は妥当な家賃であり、十フィート四方の広さがあった。

他の借家人たちは、新しい住まいのことを全然考えずに、住まいを見つけるために何もしなかった。やがて気がついたときには、自分たちの姿も、自分たちの家財も屋根の下にはなく、オールド・ジェイゴウ・ストリートの路頭にあった。そうこうしてから一致団結して、神父の貸間を貸すように要求した。ほとんどの者が、立ち退きをしなければいけない場合でも部屋があるかぎり、ほかの部屋に住むことはなかった。何度も、何度も立ち退きを要求されるのは、家賃を支払わないせいだった。それにもかかわらず、騒げそうなときには補償をもとめて騒ぐこの有様は、生涯にわたって住居を変えたことなどない人物であるかのようだった。

誰も警察を阻むことはなかった。あまりにも警察の数が多かったからだ。さらにスタート神父の姿も、そこにはあったからだ。彼をまえにしたとき、最高の行動をとらない猛者などいなかった。それでもジェイゴウのあいだでは喧嘩が起き、時として争いに近いところまでいくこともあった。ジンジャー・スタッグの奥さんが断言したところでは、新婚祝いのうち、長いこと所在が不明だった品物が、ウォルシュ夫人の家財からあらわれたということだった。ココ・ホーンウェルの家庭用品である古着やら杖やらの寄せ集めが、フィッシャー家のものと道ばたで混ざっていた。家と家がたがいに争うこともなく品々が集められている様子は、神父から極端なまでの影響をうけた結果だった。ラファーティの奥さんにも人々は首をかしげたが、それは不安定な木の洗面台をつかう人物には似つかわしくない誇りをみせるからであり、近隣のリーガン一家の卑しい集まりを嘲笑しては、辛辣で、威勢のいい口喧嘩の種をまくからであった。

さいわいなことに、雨は降っていなかった。立ち退いた人々は道端で自分たちの荷物の近くにしゃがみこんだり、その上に座りこんで口喧嘩をしたり、悲嘆にくれたりした。ジンジャー・スタッグは瀬戸物をいくつか、家で使っていた古いマットレスで覆ってみたが、うっかりその上に座ってしまったときに、スタート神父に出くわしたので憤怒にかられながら弁償をもとめた。

新しい貸間を捜索しようとするスタート神父の努力は、最初のうちは、ささやかな成功しか収めなかった。貸してもらえる貸間は、確かにありそうだ。だが貸間はあっても、金を払わなければいけないものに、人々は嫌悪をむきだしにした。ジェイゴウの人々の常だが、かつては無料だった部屋代の支払いには我慢できなかったし、なぜ支払わなければいけないのか理解することもできなかった。スタート神父は、長いあいだ、無料で使える部屋を提供してくれたのにと、ジェイゴウの人々は言いあった。それなのに今頃になって、どうして部屋の提供をやめてしまうのだろうか。もし撤去したのが、新しい教会に部屋をつくるためだというなら、同じような条件で、似たような住まいを見つけることが、公平だというものだろう。そこで人々は座って、彼がそうしてくれるのを待った。

ようやく司祭は、住まいを失った人々のために本気で仕事に取り組みはじめ、一家族か二家族をいっしょに連れていっては、自分で見つけた部屋へと案内した。このとき他の者たちは、こうした場合には家賃を前払いで支払うことが必要であることを知って、気を取り直した。家賃を払わなくてはいけないくらいなら、スタート神父が見つけてくるような部屋を、自分で選んだほうがいいと思うのだった。もちろん、神父が自分のポケットから出した金がなければ、こうした状況にはならなかった。ある者は、極貧の淵にいた。また他の者は家賃の前払い金をかき集めることができず、ジェイゴウの賃貸を借りることができなかった。本物の無一文と自称無一文を区別しながら、今や第六感となった洞察力を働かして、スタート神父は控え目に、ひそやかに人々を助けた。施しをするという前例をつくることは、ジェイゴウでは有害な行為であり、ジェイゴウの特徴である怠け癖を助長し、慈善家の難儀を長びかせてしまうことになるからだ。さらに増えていくのが避けられない事例は、案じるあまりの責任感からでもあり、用心深く世話をすることからもきていた。

そういうわけで、オールド・ジェイゴウ・ストリートでの野宿暮らしをする人たちはいなくなっていった。その理由のひとつとしてあげられるのは、追放された人々のなかには、非生産的に仕事をしないで過ごすこともなければ、時間も無駄にすることのない人々がいたからであった。また戦いがダブ・レーンとのあいだに生じ、略奪がおこなわれていたせいでもあった。ダブ・レーンはけっして敬意に値するような場所ではなかったが、ジェイゴウのような場所ではなかった。その地区の言葉をそのまま使えば、ダブ・レーンの住民もひどく汚いけど、ジェイゴウの連中はヤニのように汚かった。ダブ・レーンの住人のなかには、運搬作業をしている者たちが大勢いた。そのため、金まわりのいい時期ともなれば、友達といっしょにミーキン・ストリートへくりだした。ユダヤ人の仕立屋が店をかまえていて、そこで風変わりな柔らかい外套や、上等なことでよく知られているズボンを買った。粋な仕立てのズボンには手の込んだボタンがついていて、両横が二重になってごまかせるようになっていた。だが、このあたりではジエィゴウの人々と出くわすことが多く、そのたびに大勢の手にかかってひっくり返され、思いっきり殴られ、身ぐるみはがされた。あるいは逃げ出して追いかけられても、ズボンや外套、ブーツを奪われてしまうのが常だった。ダブ・レーンとの戦いは折々の利益をもたらしてくれるものだから、安全な場所で怠けていることに忠義をつくすジェイゴウの住民はいなかった。

スタート神父が仕事の大半を終わらせ、オールド・ジェイゴウ・ストリートへ戻ってきたとき、ディッキー・ペローがまだ残された家財の山のかたわらに座っている姿が目にはいった。その家財の山は、他に比べても、小さく、貧相なものだった。ペロー一家は、その日の朝はやく、めずらしいことに行儀よく、新しい住まいに移っていった。だがディッキーは、赤ん坊がひとり上にのったままの荷物の山を守りながら、イグサ編みに熱中していた。

「そこにいるのはディッキーじゃないか」スタート神父は満足げな声で話しかけてきたが、その声音を聞くためなら、ジェイゴウの者は何でもすることだろう。ただし、満足そうな声を聞くためといっても、正直者になるということは除いてだ。そこでディッキーは不意をつかれ、顔をあげると頬をそめ、それでも幸せな気持ちで振り返った。

「イグサの袋じゃないか?」神父は語りかけながら、足をとめ、家財の山からイグサを一本手渡した。「だれのものかい?」

その袋も、イグサも、赤ん坊も、ベーツの奥さんのものだったが、ベーツの奥さんは未亡人なので、そのときも、ひとりで新しい部屋を探していた。ディッキーは、魚屋の籠を編むところをしょっちゅう見ていたが、やってみる機会がなかったので、イグサ編みが面白い気晴らしに見えたのも当然のなりゆきだった。そのような訳で、彼にすればこの機会は嬉しいものだったし、ベーツの奥さんにすれば、自分の家財を気にかけてくれる者がいることは嫌なものではなかった。それにイグサ編みを一生懸命続け、身につけた技のおかげで、一時間編むことで3.25ペニー稼ぐことができた。彼女は儲けに貪欲になるあまり、三十分といえども稼ぎを失いたくなかった。こうしてディッキーがその仕事を続けることになったが、一生懸命に編み続けるその熱意は思ってもみないことだった。

スタート神父はディッキーと会話をつづけ、やがてその少年は優越感にひたるあまり、ほとんどイグサを編むことができなくなってしまった。ディッキーよ、お前は、毎日働きたくないのか、それから賃金をもらいたくないのかとスタート神父はたずねた。ディッキーはうまい答えを見つけることができなかった。だが断固として、しかも真面目に心から、そうしてみたいと考えた。スタート神父は、ディッキーのうぬぼれをくすぐった。他のジェイゴウの少年たちよりも、お前はもっとましなことが出来るではないか。お前なら、賃金を定期的に稼ぐこともできるし、もっと快適な暮らしをおくって、いい食べ物をたべ、いい服を着て、警察におびえることもなければ、自分がしたことを恥じる必要もない生活をおくることができるではないか。他の者には出来ないが、お前なら出来るだろう。他の者たちは、あまり賢くはない。それにもかかわらず自分たちのことを賢いとか、経験豊富とか言っているのだ。「だが」スタート神父はつづけた。「あの者たちのうち誰ひとりとして、私をだませた者がいるだろうか?」そしてディッキーには、誰もそのような者がいないということがわかっていた。「大半の者が仕事をしない」神父の話はつづいた。「仕事をしてみようとする勇気もなければ、仕事をなしとげる頭もないせいだよ。もし、そういうものを持ち合わせていたら、ジェイゴウでみじめな生活を送ったりしないで、まともな仕事をして快適に暮らしているはずだ」

ディッキーは、イグサの袋づくりのような仕事にすでに熱心にとりかかっていたので、自分は仕事をするほうの人間だという優越感にひたりながら、耳をかたむけた。そうだ、もしその気になれば、自分は仕事につくこともできるだろうし、ジェイゴウの友達から羨望の眼差しをむけられながら、生き方をかえることができるだろう。でも、どうすればいいのだろう。ジェイゴウで生活している少年を雇う人間なんかいない。それは周知の事実だ。ここに住所があるということは、このあたり数マイル四方では、滅茶苦茶な人間の証となっていた。

ベーツの奥さんが荷物をとりにやってくると同時に、ディッキーは喜びにふるえながら駆け出し、母親とエムにむかって、スタート神父の部屋で紅茶をのむことになったと告げた。

やがて解体屋が悪臭ただよう、古い家を壊して、一世紀にわたって悪名をとどろかせてきた、秘密の歯牙を赤裸々にさらした。まずとりかかったのは、かつて織工たちがいた建物から、幅広の窓枠をおろすことだった。その窓枠にも、すばらしい面があるもので、見えない地下にまで、明かりと空気をとどけていた。その地下に、男も、女も群がって暮らし、子どもをもうけては死んでいく有様は、巣の中の狼のようだった。やがて息苦しい埃の雲から現れたのは、社会の害虫ともいうべき住民だった。だが、けっして洒落者ではない解体屋でも、なかに入ることを拒否する部屋がいくつかあった。そこで、なだめすかしてくれるものといえば、賃金を割り増しにするという約束をして、その仕事が終わればビールにありつけることをうけあうこと以外になかった。

18章

グリンダーさんは、ベスナル・グリーンに店をだしていた。その店には、輝かしい文字で、「油絵の具、絵の具、イタリアの雑貨店」という看板がかかれていた。その名のとおり、その店では油絵の具や絵の具も扱っていたが、壺や鍋、やかん、ブラシ、シャベル、モップ、ランプ、釘に、糖蜜も売っていた。こうした在庫品をおいておくには窮屈な店なので、通れそうなところが出入り口となっている有様で、舗道にまで品物が高く積み上げられ、窓は輝く缶の土手になかば埋もれていた。スタート神父は上得意のひとりでもあった。油絵の具や蝋燭、そのほか教会や集会所で必用な品々はすべてグリンダーさんの店から購入していた。グリンダーさんは、働いていた少年がもっとよい働き口をみつけ、店を辞めてしまったところだった。そこでスタート神父は決断をくだし、絵の具売りの店主を説得して、ディッキー・ペローを店の新たな働き手にしてしまおうと考えた。グリンダーさんは承諾してくれた。おそらく、この試みのせいで盗まれたとしても、神父がその損失を埋め合わすと約束したからであり、上客には従う主義だったからでもあった。それでも幾分かは、グリンダーさんがこうした少年に出世の機会をあたえようとしていたからであり、油絵の具屋にはよくあることだが、彼は悪い人間ではなかったし、かつては自身も使い走りの少年をしていたからだ。

月曜日の朝がきたので、ディッキーは服をできるだけ上手に繕ってもらい(ハンナ・ペローにしても、ほかのジェイゴウのひとと同様、スタート神父に抗うことはできなかった)、母親のエプロンを小さく詰めたものを前にかけ、グリンダーさんの鍋とやかんの山のかたわらにたち、何かを売りたいという苦しみにもだえるうちに、こうした状況にすっかりうぬぼれてしまった。グリンダーさんが寝床から出てくるよりもずっと早くから、店の扉のところで待っていた。そして今、店の外にある品の見張りをしているのだ。また、この界隈の人たちに見過ごされないようにすることも勤めであった。錫の深鍋をあちらこちら袖でぬぐいながら、ジェイゴウの友達が通って、新しい、重要な任務についている自分の姿を見てくれないかと胸を高鳴らせた。見張っている品々は期待を裏切ることなく、興味をひきつけるものであった。そこで彼は何度も繰り返してはソースパンの値段を覚えたが、それは錫のうえに青い絵の具で描かれていた。その値段は大きさで分けられ、一番下にある大きな鍋は八ペンスから半ペニーほどで、一番上にのっている小さな鍋は三ペンスから半ペンスだった。それから長めの品が集められた一角もあったが、そこには一ペニーで売られている小さな石油ランプが並んでいた。そのランプは、一か月ほどハーフ・ジェイゴウ・ストリートのみすぼらしい屋根裏部屋で炎を燃やし、オールド・マザー・ラリィのところで脂で汚れた燃えかすになるまで燃え続ける類のものだった。その石油ランプよりも小さいけれど、品質はいいものが四ペンスから半ペニーの値段で並んでいた。ジェリー・ゲレンの店を焼き、寝床を焼いたのも、そうした品々だった。それと同時にディッキーは、四方に微々たる金額の鼠取りがぶらさがっている1.8ペンスの靴ぬぐいの方に頭をむけた。

自分の状況に慣れるにつれて、ディッキーはわずかな汚れでもかきあつめ、エプロンの前で拭おうと考えた。よく働いて、仕事に励んでいるような姿になりたいと考えたのだ。また深鍋やネズミ取りを見ている女がいれば、店に入らないうちに声をかけて、女たちの観察の邪魔をした。グリンダーさんから女達をきりはなして、自分が相手をしようとしたのだ。彼の脳裏にうかんでくる少年は、ビショップ・ストリートのおもちゃ屋で働いていて、数年前、スピタルフィールズの青果市場で彼を追いかけてきた少年だ。盗みをはたらく若者の誰かが、ネズミとりをひったくれば、自分もそのあとを追いかけるのにと思った。

グリンダーさんに呼ばれるたびに、ディッキーは機敏に動き、嬉々としたがった。新しい任務はどれも目新しく、喜ばしいものだった。それに一日中ずっと、実際の商店経営という長いゲームをしているのだ。だからお茶の時間になっても―――毎週、日曜日にもらう3.6ペンスにくわえ、毎日、紅茶をもらうのむことになっていた―――彼は紅茶をのむのに五分もかからなかった。手押し車が一台あった。赤帽が鉄道の駅で使うようなもので、それよりも小さかった。その手押し車が彼の特別な道具で、配達用の小さな荷物を集めて、少数ではあるが、自分で購入した荷物を持っていかない客に届けた。この手押し車が器用に扱えるようになったので、心から喜んでいた。急いで紅茶をのみこんで、二百ヤード離れたところにあるパブへと、手押し車を押してそそくさと出かけた。

仕事が楽しくて仕方ないという熱のあげようは一日か二日で冷めたが、仕事への誇りはそのまますべて残った。ダヴ・レーンとの戦いがふたたび盛んになってきたが、ディッキーは巻きこまれることなく、離れたところから見つめるだけだった。白日夢で、ディッキーが思い描く己の将来は商人であり、自分の店をもち、そのドアには金の飾り書きで「R.ペロー」と書かれていた。そのときには、彼も使い走りの少年を雇い、応接間のある家に住んで、応接間にはクッションをしいた椅子があって、飾られた花が影をおとし、成長したエムがピアノを弾いているのだ。たしかにスタート神父は正しかった。盗みとかは愚か者のすることだ。まじめに商売した方がいい。

猫背のボビー・ルーパーも、一度、店の前を通り過ぎた。ディッキーは、自分にあらたにそなわった威厳を気にするだけで、敵は放っておいた。そのようなわけで、この一年以上の年月で初めて、ののしることもなければ、なじることもしないで、ボビーの通行を許すことにした。他の者たちも、ディッキーの新しい仕事に呆気にとられ、行ったり来たりしながら、距離をおいた安全な場所に身をひそめ、ディッキーを見つめ、店を見つめた。ディッキーにすれば、これ見よがしの警戒をしてみせるだけで、注意をむけることはなかった。そこで猫背の少年は、敵意をこめて嘲りわらいながら舌をだしてみたが、最後には背をむけて走り去った。

二度、キドー・クックも通ったが、ウィンクをしただけで、気づいた素振りは見せなかった。そこでディッキーは、自分の信用を傷つけてはいけないというキドーの気遣いに感謝した。一度、老ベヴェリッジも通ったが、大股に歩くものだから、彼のボロ着も、「生活に困っています」と帽子にチョークで書かれた言葉も飛び去っていったが、それが街を散歩するときの、彼のいつもの歩き方だった。ディッキーの姿に気がつき、彼はふと立ち止まって言った。「ディッキー・ペローか? こんなところに、どうして?」それから足早に立ち去ったが、キドー・クックと同じように気遣っている様子がありありとしていた。トミー・ランの場合、彼の心を遠ざけたのは、ディッキーが最初から拒んだせいで、夜中のお祭り騒ぎ用の、錫のカップにはいった糖蜜を隠すことをしてまで、拒んだせいだった。それに姿もみせることはなかった。このようにして一週間ほどが過ぎた。

だがウィーチさんは、ディッキーのことを思い出しては寂しくなった。ディッキーからの訪問をうけることなく過ごす日は、稀だったからだ。しかもディッキーには、良い品を持ってくる腕があった。それなのにウィーチさんは、ディッキーのこの働きに、一週間に十シリングを払おうとはしなかったのだ。そのようなわけでウィーチさんは調べているうちに、ディッキーが絵の具屋で働いている事実をつきとめた。当然のことだが、彼は困惑した。さらに困惑したのは、そうした人生をおくるようになれば、ディッキー・ペローには怖れるものがなくなるだろう。そして都合の悪いことに、新しい仲間にむかってウィーチさんの商売のことを話すかもしれない。こういうことを考え、この慈善家は物思いにふけるのだった。

19章

ディッキーが使い走りに出かけたあと、グリンダーさんが店の入り口に立っていると、その前に現れたのは、頬ひげをはやし、にやにやとした笑いをうかべた男で、その男は通りの方に素早く視線をはしらせてから、絵の具屋のネクタイに視線をむけ、微笑みをうかべながら長々と見つめた。

「こんにちは、グリンダーさん、ちょっと失礼」ウィーチさんは左のほうの手で右手をさすりながら、機嫌よく会釈した。「わたしもミーキン・ストリートで商売をしているんですよ、ウィーチという名の店で。たぶん、うちの店をご存知でしょう?こちらに寄ったのは、聞きたいことがあったからなんですが」グリンダーは、相手を店に入れた。「聞きたいことがありましてね。事情を確かめたいと思って、まあ、どうでもいいことなんですが。真鍮の焼き串を、一本一シリングで売っているのは確かなんですか?」

「真鍮の焼き串を一シリングでだって?」グリンダーさんは大声をあげ、その言葉に憤慨した。「まさか、そんな高値で売ったりはしてませんとも」

ウィーチさんは軽く驚いてみせた。「ジャムやピクルスの七ポンド瓶を六ペンスで売ってませんか」彼はカウンターのむこうに並べられた品々に目をやりながら、さらに訊いてきた。

「売ってませんとも」

「ドアマットを四ペンスでは?」

「四ペンス? そんな筈がありません」

ウィーチさんはまごつき、顔には当惑をうかべた。それから疑わしそうに耳をなでまわしてから、ぼんやり呟いた。「たしかに、あの少年は四ペンスと言ったんだが。ピクルスは六ペンスだと言った。店が閉まってから届けてくれると言ったが。でも」彼はきびきびとした口調を取り戻していった。「別に損害をこうむったわけではありませんから。きっと間違えたのでしょう」彼は背を向け、立ち去ろうとした。だがグリンダーさんはひきとめた。

「ちょっと待ってくれ」グリンダーはいった。「もっと話してくれないか。どういうことなんだ? 店が閉まったあとから、ピクルスを持っていくだと。ドママットが四ペンスだと」

「ああ、たぶん単なる間違いだと思いますよ。ただの間違いですよ」ウィーチさんは答えながら、ドアの方にむかった。「揉め事には、誰もひきこみたくないしね」

「揉め事にだと? ロースト用の真鍮の焼き串を一シリングで売っていれば、わたしが揉め事にひきこまれることになる。その話は、もっと知らなければいけない。包み隠さず話してほしい」

ウィーチさんは考え込みながら、しばらくの間、絵の具屋の胴着の一番上のボタンのあたりを見つめ、それから言った。「わかりました、おそらく話した方がいいでしょう。あなたの立場はわかりますよ、グリンダーさん。わたしは絵のことも好きですし、商売もしていますからね。あの少年はどこにいますか?」

「外出中です」

「すぐに戻ってきますか?」

「いいえ、まだ戻りません。応接間にどうぞ」

そこでウィーチさんが、正直なところ乗り気でない様子で、グリンダーさんに説明した話によれば、ディッキー・ペローがしつこく頼んできたのは、先ほど言った値段で品物を買うことであり、その他の品物についてもせがんできた。そうした品物の名を易々とあげてみせたので、絵の具屋の主人はあっさりと信じてしまった。そして、それらの品々は、ディッキーが仕事から帰るとき、夜に届け、代金を支払うことになっていた。だが、「それは多分」とウィーチさんは結論をだし、人間の本質について意固地なまでの信念をひけらかした。「多分、あの少年は商売に慣れていないから、値段を間違えたんじゃないか。自分の主人の商売を繁盛させようと頑張っていたのだろう」

「その心配はない」グリンダーはいうと、陰気な様子で頭をふった。「その心配はまったくない。あの子は、私が一番安く仕入れたドアマットが1.6ペンスだということを知っている。外でお客さんにむかって、そう言っているのを、この耳で何回も聞いてきた。焼き串についている値札も、5.9シリングだとわかるように値札をつけてある」ウィーチさんが先ほど見た値段で、主人は値段について話した。「あの子は熱心なあまり、純粋になれないんだろう」ディッキーの主人はつづけた。「私には馬鹿なふるまいをしないのだが。それは慰めだな。馬鹿でも屑籠に捨てるのは惜しい。でも、あの子が戻ってきたら、すぐにクビにしよう。あんたに誓約書を書いてもいい」

「ちょっと待って下さい」ウィーチさんはいった。「そんなことをすれば、怖ろしいことになるじゃないか。あなたの絵も壊される羽目になる。ご近所さんは、ああした連中だからね。つまらない、親切心からの情報の出どころが私だと知れたら、どうなるだろうか。私も商売をしているし、商売がどういうものか知っているから教えてあげたのに。それなのに、私の生活も安全ではなくなるなんて。ひどいじゃないか、グリンダーさん」

「おそろしいだと? ジェイゴウの人間だからということかね?」

「そういうことですよ。あそこはおそろしい場所だから、グリンダーさん。忠告しておきますけど、あの少年の父親はひどい連中の仲間ですよ。ここに来て、正直に話したのが知れたら、殺されてしまうかもしれないし、この店も略奪にあうかもしれない。きっと襲われる。だから、話した内容は言ったらいけないし、親切にも正直な忠告をしてくれたのが誰なのか明かしてはいけない。誰にも言ってはいけない」

「わかった」単純なグリンダーさんは答えた。「誰にも言ったりしない。では、さっそく、あの子を追い払おう。言うとおりにするよ、ウィーチさん。ところで、何か持っていかないか?」

ウィーチは徳の高い手のひらで、その提案をおしとどめた。「それにはおよびませんよ、グリンダーさん。お気持ちだけで結構ですよ。何かほしい訳ではありませんから。良心にしたがって行動することができてうれしいくらいですよ。いわば私の心にしたがっただけですよ。『親切の種をまけ』と、賛美歌にもありますからね。あの少年が戻ってくる頃では?」

注意深く目をこらしたあとで、ウィーチさんは戻っていった。

20章

ディッキーは使い走りをおえ、空になった手押し車をグリンダーの方へと押しながら、以前よりも責任感をひしひしと感じていた。金を運んでいたからだ。パブの主人は四シリング三ペンス支払い、他の場所でも二シリング十ペンスの売り上げがでた。ディッキーは誇らしげな署名を、黒く、大きく、領収書に鉛筆で書きしるした。それから、あちらこちらの戸口で立ち止まっては何度も金を数え、ちゃんとあるか確かめた。足をとめるあいだに、四シリング三ペンスに二シリング十ペンスを心の中で足して、次に七ペンス一シリングから、それぞれの金額を引いてみて、合計が正しいか確かめてみた。ようやく鍋の山に手押し車をとめ、店にはいった。

「ウォーカズの支払い分です。それからウィルキンスの支払い分です」 ディッキーはお金をおきながら言った。「二シリング十ペンス、それから四シリング三ペンス、合計七ペンス一シリングです」

グリンダーさんはしばらく、ディッキーを不機嫌そうにながめてから、金を数えた。はした金は現金いれの引き出しに放り込み、残りのコインは握りしめた手のなかで転がしながら、それでもふさぎ込んで少年の顔を見つめた。「おまえの一週間の賃金は、三シリング六ペンスだ」彼はいった。

「はい、そうです」グリンダーさんが答えを求めているように思えたので、ディッキーは答えた。初めての賃金を受け取る最高の瞬間は、彼にすれば、その週を照らすかがり火であり、土曜の夜が近づくにつれて、そのときが煌々と輝きをましてきた。

「一週間三シリング六ペンスと紅茶です」

ディッキーは怪訝に思った。

「そういうことなら、考えるところがあるとしても、たとえば真鍮の焼き串のことだが、三シリング六ペンスを払うとするが、それで出ていってもらうことにする。ひどい仕打ちをうけたくなければ」

ディッキーにはまったく訳がわからなかった。だが、少し不安になるものがあった。

「たぶん、何も気がついてないと思っているのだろう。たとえば七ペンスのピクルスの瓶のことだ。何も疑っていないと思っているのだろう。たとえばドアマットのことだ。さあ、おまえを一週間後に解雇する。いや、それより一週間分の金をやるから、ここから立ち去って、もう、もめ事をおこさないでくれ」

グリンダーさんは言葉をとめ、冷ややかな嫌悪をこめてディッキーをながめた。それから言葉をつづけたが、自分に言い聞かせているかのようだった。「それが一番だ」

彼は右手から左手へと、ゆっくり時間をかけて金をおとした。ディッキーは口がかわき、引き出しも、ピクルスの瓶も目の前で、グリンダーさんの頭の両側でゆらゆらしてきた。どういうことだろうか。

「さあ、金はここにある」グリンダーさんは大声でいうと、ふと気力をとりもどして、手をカウンターにおいた。

「二週分で、三シリング六ペンスある。家に帰って、汚い妹といっしょにお茶を飲めばいい。私の店から出ていけ」

ディッキーは思わず金を握りしめていた。ややしてから、彼はとぎれとぎれに話していた。「な、なぜですか」彼はしゃがれ声で訊いた。「なにもしてません」

「いいや、なにもしてない筈がない。身に覚えがあるだろう。出ていけ! このあたりで見かけたら、鍵をかけるからな」

ディッキーは、ドアの方へこっそり立ち去った。すすり泣きがこみあげてきたが、戸口のところでふりむいて、唇をふるわせながらいった。「もう一度、チャンスをいただけませんか、旦那さま。どうか助けてください、頑張りますから。ぼくは…」

グリンダーさんが店の奥から形相をかえて飛びだしてきたので、ディッキーはあきらめ、逃げ出した。すべてが終わったのだ。「R・ペロー」という文字が描かれた店の夢は、今となっては消え去った。クッションをしいた椅子のある居間も、エムがピアノを弾く居間も消え去った。手押し車とも、永遠に縁が切れてしまった。ディッキーは十三歳だった。この歳になれば、ジェイゴウの子どもたちは、子供っぽい涙をながすことはなかった。だが隠れて泣く場所を見つける前に、あふれてくる涙をこらえることができなくなった。身を隠す場所もない通りで、不面目なことに涙があふれてきた。

彼は暗がりへと角を曲がり、顔を戸口に隠した。身を切られるように辛かった。やがて啜り泣きがおさまると、彼は湿った手のひらに握りしめた金のことを思い出した。それはせめてもの慰めだった。七シリングは、ディッキーの目には莫大な金額だった。この日まで、これほどの金額を手にしたことはなかった。これだけの金があったなら、世の問題の大概は解決したことだろうが、今回の件は別だと彼は思った。もちろん、その金は家に持って帰らなければならない。父親と母親から同情をひきだすには役立つかもしれない。だが、そのとき脳裏をよぎったのは、二週間働けば同じ金額の金がもらえ、毎日おいしい紅茶を飲み、責任感に誇りをいだいて働いただろうという思いだった。それに、あの手押し車ともお別れなのだ。こう思うと、彼の唇はふたたび歪み、両目は袖を求めることになり、また別の戸口を探して角をまがった。

彼は視線を白いエプロンにおとしたが、今やそのエプロンは染みができ、真面目に働いた証の汚れができていた。エプロンを見ていると、さらに悲しくなってきた。そこでエプロンをほどき、上着のしたに抱えこんだ。どうしてグリンダーさんの怒りを買うことになったのか、何故ピクルスやドアマットの話をしてきたのかと、ぼんやりと訝しく思った。だが悲しみのせいで苦しむうちに、些細な疑念は消えていった。こうして惨めな思いにかられ、オールド・ジェイゴウの方へと重い足を引きずって帰った。

22

彼は父親にその七シリングを渡したが、その結果、職を失ったことに対して怒りの鞭打ちをうけることになった。彼が声をあげずに泣いたのは、鞭のせいではなかった。今、とにかく彼が怖れているのは、スタート神父に会うことだった。スタート神父に咎められるくらいなら、あるいはグリンダーさんから理解しがたい、不可解な事情から不名誉な扱いをうけるくらいなら、鞭で五十回ぶたれたほうがましだった。非難以外の何が、神父に期待できるだろうか。この世は、彼に不利になるようにできていた。彼は、すっかり絶望にかられていた。主の気に障ったのだ。なぜかは理解できないが、あきらかに、彼のしたことに瑕疵があったにちがいない。だが、どのような罪を犯したのかも、その罪の埋め合わせをどうするのかということも、彼には理解できなかった。彼が思いだしたのは、ネディ・ライトのちびのときも、確かこういう思いをしたということだった。ネディのおかげで、彼は十歳にして、この世は無情だということに気がついた。それは不要になった犬さながらに、ネリーが首に煉瓦をしばりつけてきて、ハガーストーン・ブリッジから運河に恐る恐る突き落としたからだ。

それから彼が足をひきずりながら、ジェイゴウ・ロウを歩いていると、手が肩にふれ、それからしわがれ声が聞こえた。「どうしたんだね、ディッキー?」

彼はふりかえった。すると目にとびこんできたのは、穏やかだけれど、下品なところがあるピジョニー・ポールの顔で、かみ切れない、粘着質のものを食べようと苦労して顎を動かしていた。ポールがポケットから取り出したのは、ねばねばする紙で、その紙は粘着性のあるタフィーの破片をつつんでいた。タフィーは、金を持ち合わせているときの、彼女の贅沢だった。「すこし食べな」彼女はいった。「どうしたんだね?」

だがディッキーは、その手をおしのけると逃げ出した。また涙があふれてくるのを怖れたからだ。涙をうかべているところを見られるなんて、不名誉もいいところだ。どこかの穴にでも、身を隠してしまいたかった。

彼はニュー・ジェイゴウ・ストリートへむかった。立ち退きをせまられた後、そこにジェリー・ガレンは移り住み、家族も、カナリーも一緒に移り住んだ。ディッキーは歩みをゆるめると、ジェリーの家の戸口近辺をうろついているうちに、いつしか共用通路にいた。ジェリー・ガレンのカナリーと人目につかないように会ってから、ずいぶんと時が経過していた。たしかに十三歳になっていたから、実際のところ、彼はもう子どもではなかった。だから、こうした愚かな弱々しい行為に耽溺するのはよくなかった。それにもかかわらず、彼は裏口のほうへ行った。そこには老いぼれロバがいて、あいかわらず疥癬にかかり、弱々しかったが、はっきりと終わりに近づいたようでもなかった。木の柵のあちらこちらを囓っていたが、かつての住処の柵のように、白く、丸くなるまで囓ってはいなかった。カナリーにとって、今日は本当に運のいい日だった。ディッキーの足音がしてきたので、カナリーは干し草の山から鼻をあげた。埃にまみれた、かび臭い干し草が、部屋の隅の方に掃き寄せられていた。ディッキーは裏庭にはいって、カナリーの首に腕をまわした。ややしてから上の方の窓を、やましさを感じている様子で見上げた。誰も見ていなかった。それから五分もしないうちに、ディッキーはもう小さくはないのだけれど、自分の災難をカナリーに話しはじめていた。あらたな涙が、ぼさぼさの毛がはえたカナリーの首筋をぬらし、そして埃だらけの藁にもこぼれた。

ようやく彼の悲しみも薄らいできた。今の自分を恥ずかしく思いながら、彼は混乱におちいり、カナリーだけが自分のことを理解できるし、同情してくれる唯一の生き物だという訳わからない考えにとりつかれた。カナリーは鼻先を古い上着の奥におしつけると、共感をこめて鼻をならして、破れた裏地に軽くふれた。ディッキーの頭は、落ち着きを取り戻しはじめていた。たしかにウィーチさんの処世術とは、結局、正しいものなのだ。ジェイゴウの出身だから、ジェイゴウの他の者たちがそうであるように、ジェイゴウの外では世を荒らすにちがいない。ジェイゴウの連中ときたら、未来の理想像を追い求めて普通の道をあゆむような愚かなことはしないで、まっさかさまに落ちていくだけなのだ。スタート神父は、別の世界で生きている方なのだ。ジェイゴウの暮らしから離れ、他の人間に過大な期待をよせるなんて、ディッキー・ペロー、お前はどういうつもりなんだ? そうしたことをしたところで、敗北をあじわい、砂をかむような思いしか残らなかったではないか? 老ベヴェリッジがいったように、ジェイゴウで育った者はジェイゴウの人間なのだ。なぜ避けがたい事実に抗い、自分を傷つける必要があるのだろうか。ジェイゴウの外で生きていくとしたらと、老ベヴェリッジが数年前に話したことがあるが、それは牢獄にはいるか、絞首台にあがるか、ハイ・モブの旦那たちになるしかない。彼にも機会があり、憧れでもあり、目標でもあったのは、ハイ・モブの旦那たちだった筈だ。絵の具屋とか定期的に賃金をもらうことを夢みるなんて、愚か者のすることだ。彼の寝台はジェイゴウでつくられたのだから、そこで寝なければいけない。人生における望みとは、望みをいだくことが許されたらの話だが、ハイ・モブの旦那になることだ。誰に対しても容赦なく、何事も思いとどまることなく、悪逆非道をつくすのだ。そう老ベヴェリッジは、数年前に語ったことがあった。その道は目前にひらけているのだから、しりごみをしてはいけない。牢獄行きになろうと、絞首台行きになろうとかまわない。たしかに、外にはそうしたものが待ち受けているが、ひるむことはできない。どちらも、ジェイゴウを脱出したら待ちかまえている怖ろしい道だが、それでも出口であることにはかわりない。

袖で注意深く顔をぬぐうと、馬鹿げた自分の野心は心のすみにおしやり、勇敢な気持ちをふるいおこして出ていった。いい結果になろうと、悪い結果になろうと、自分の運命を切り開くのだ。たとえジェイゴウの鼠になろうともかまわない。悪逆非道のかぎりをつくすのだ。だが、スタート神父は避けなければいけない。

ディッキーはショアディッチ・ハイ・ストリートに行き、その夜、その界隈とノートン・フォルゲートをうろついた。だが手をのばしても、何もとることはできなかった。なにひとつとることはできなかった。仕事にまじめに励んだ一週間のせいで、自分の腕がにぶったのではないかと怖れた。露店の林檎ひとつとることすら失敗した挙句、走らなければいけなかった。そうこうしているうちにベスナル・グリーン・ロードへときた。

だが、そのとき或る考えがうかんできて、ふと彼は足をとめた。グリンダーさんはどうだろうか。もしふたたび近づいたら、鍵をかけるとディッキーを脅かした。だがジェイゴウの子どもなら、その手の脅かしは怖れるに足りないということをよく知っていた。彼は歩きつづけた。自分がいなくなってから、もとの雇い主がどうやっているのか、店の外の商品を見張っているのは誰なのか、ふと確かめたい衝動にかられたのだ。おそらく誰もいない筈だ。そのときディッキーは、あることを思いついた。

折り畳んで、上着の奥にしまい込んでいた汚れたエプロンのことを、彼はすっかり忘れていた。それをひっぱりだすと、もう一度、前の方で結んでみた。グリンダーさんの店での習慣は知っていたので、もし上手く機会をとらえたら、エプロンで盛装した格好のおかげで、思いのままに品物に手をのばして、つかむことができるだろう。通行人に妨害される心配もない。まだ店番の少年のように思われるからだ。

エプロンをすると、彼はいそいだ。グリンダーさんの店が閉まる時間になるからだ。通りをはさんで、店とは反対側の方に身をひそめた。そこは暗いので、気づかれることなく様子をうかがうのに都合がよかった。だがグリンダーさんはすでに、通りから商品を店のなかにしまいこみ始めていた。ディッキーが見ていると、彼は長い棒をもってきて、天井からガチャガチャと音をたてるバケツやジョウロ、ドアマットの山をはずした。ドアマットを舗道においたまま、バケツやジョウロを店にしまいこんだ。こうしたバケツやジョウロは、夜間、家の裏にある納屋で保管されることを、ディッキーは知っていた。そこで急いで通りをわたると、走りながら、自分の古いナイフの刃をぬいた。ドアマットを吊している糸を切り、分厚いマットを選んで、丸めて腕に抱え、暗がりへとかけこんだ。それから一番ちかい曲がり角へと、静かに走り去った。

ほどなくしてグリンダーさんは外にでてきて、ドアマットをつるしている糸を指でたぐりよせたが、糸の先にはなにもなかった。身をかがめ、よく見てみると、糸は切られていた。彼は周囲を疑わしそうに見ると、ドアマットをほうって数を数えはじめた。そのあとで背のびをして通りをながめ、通りの端から端まで、そして奥の小道も、口をぽかんと開けたまま覗き込んだ。暗闇のなかを右へ、左へと駆けだした。やがてドアマットのある場所へ戻ると、自分の頭をかいた。最後に通りをもう一度見てから、腕にドアマットをかかえて中にしまいこみ、歩きながら数をかぞえた。ドアマットをしまいこんで、また腕いっぱいの鍋をとりに行くとき、彼は外に立つと、ベスナル・グリーン・ロードのあちらを眺め、こちらへと視線をうつしては、疑わしげにじっと見つめた。

アーロン・ウィーチさんが最後の戸をしめようとしていたとき、「ナイフをといで」とディッキー・ペローが言ってきたが、それは昔からの、例の合図を繰り返したのだった。

ウィーチさんは驚いたように見えた。「それは、どうしたんだい?」彼はたずね、疑わしそうに、ドアマットを指さした。それから、ほとんど人影のない通りを一瞥してから、二十ヤードほど離れたジェイゴウ・ロウへと走り、あたりを見渡した。誰も隠れていなかったので、彼は戻ってきた。店に入ると、扉をしめた。それからディッキーの顔に鋭い視線をそそぐと、いきなり尋ねた。「誰にそいつを持ってくるように言われたのか?」

「誰かに言われた?」ディッキーは気を悪くしていった。「誰にも言われていない。欲しくないか?」

「いくらもらうように言われたのか?」

「言われた? いくらだって?」

「そうだ。いくらだって言われたのか」

ディッキーは困惑した。「なんのことだかわからないけど」

ウィーチさんは、いきなり大きな笑い声をあげたが、その一方で、少年の顔に鋭い視線をそそいだ。「そうか、もちろん冗談だよなあ、ディッキー、なあ」彼はいうと、ふたたび笑った。「でも、わたしをからかったらいけないよ、いいね。グリンダーさんは昔からの友達だから、ふざけるのが好きだって知っているけど。もし要らないと言われたら、どうするように言われたのかね?」

「言われた?」ディッキーは、さらに当惑していた。「何も言われていないよ。今日の午後、あのひとはぼくを首にして放りだしたんだ」

「それなら、なんのためにエプロンをしているんだい?」

「ああ」ディッキーは、下をむいていった。「もう一度、エプロンをしたのには理由があるんだ」それからドアマットを見つめた。

ウィーチさんは事情を察してにやりとした。今度は、本当ににやりとした。「よかったな、ディッキー」彼はいった。「おまえの頭を無駄にしたらいけない。お前みたいに回転がはやい子が、店番の少年をするなんて勿体ない話だ。朝から晩まで奴隷のように働いた挙句、感謝されないんだからな。なんで首になったんだ?」

「わからない。彼の頭にきいてくれ。このマットにいくら払うか? 二シリング三ペンスのマットだ」

「なにか食べていかないか?」ウィーチさんは誘うと、干からびた菓子の山をみた。

「いや、いらない」ディッキーは、むっつりと答えた。「金がほしい」

「わかった」ウィーチさんは逆らわずにいった。「長い間、飲み食いしてなかったと思ったんだが。でも、たっぷりはずむつもりだ。グリンダーのところで、感謝もされないで働いていたことは知っている。二ペンス払おう」

だがディッキーは、マットを抱えたままだった。「二ペンスだと割に合わない」彼はいった。「四ペンスほしい」彼は、誰に対しても容赦するつもりはなかった。たとえウィーチさんが相手でもだ。

「なんだって。四ペンスだと?」ウィーチさんは憤慨のあまり、息をつまらせた。「なんだって、どうかしている。それなら持ち帰ってくれ」

ディッキーはマットを丸めると腕にかかえ、ドアの方にむかった。

「おい、待て」彼が出ていこうとする様子を見て、ウィーチさんはいった。「三ペンスだそう。お前がひどい扱いをうけてきたのを知っているからね。三ペンスだ。それに菓子をひときれだ」ディッキーが躊躇してないことに気がついていて、彼はつけくわえた。

「お菓子はいらない」ディッキーは、かたくなに言いはった。「欲しいのは四ペンスだ。それより少なければいらない」

抜け目ないウィーチにすれば、ディッキーが余所で売買する場所を見つけてしまう事態は避けたかったので、この搾取を甘んじて受けることにした。「よし、わかった」ため息をつきながらいうと、ペニー銅貨をとりだした。「じゃあ、今回だけだからな。次回は、この埋め合わせをしなければいけないぞ。覚えておいてもらいたいが、こういうことをするのは、お前がひどい扱いをうけていたからだ。このまま出ていくんじゃない。そんなことをすれば、今度は、お前が恩知らずになるぞ」

ディッキーはペンス銅貨をポケットにしまいこんで家に戻った。一方でウィーチさんがくすりと穏やかに笑ったのは、今朝のドアマットが四ペンスだという自分の予言を思い出したからで、それから盗品を運びいれたが、そこはまだ新しい、未使用の品をしまっておく部屋だった。それでも、グリンダーの店をのぞいてみて、ディッキーが本当に辞めたのか確かめなくてはいけないと考えた。

このようにしてディッキーの、グリンダーさんの店とのかかわりは終わった。スタート神父が次に油絵の具屋と会って、ディッキーの進歩の程度をきいたときに待ち受けていた答えとは、窃盗犯に払うような金はないという、陰気な祝いの言葉だった。グリンダーさんは利口なので、在庫品を自分で大量販売してしまうというディッキーの計画に気がついて、始めのうちに見破ったようだった。神父の推薦を考慮して、少年を警察にひきわたすことはやめ、一週間分を前もって支払ってから、彼を解雇した。スタート神父は、その金は払うと言い張り、重い心で戻った。教区の人々のなかでも、とりわけ有望な若者がこうなるなら、他の者はどうなるのだろうか。しばらくディッキーには全然会わなかったが、他の者たちのことを考えながらも、この一件は彼の記憶にのこった。ディッキーは数千人いる者たちのひとりにすぎないが、このような期待外れは、ジェイゴウの者が相手なら、百人に一人の割合で味わうものだからだ。

その夜、まんじりともしないで横たわりながら、それでも目は閉じたまま、ディッキーは父親と話している母親の声に耳を傾けていたが、母親の考えでは、おそらく敵が入れ知恵をして、ディッキーの解雇につながるような話をしたということだった。誰が話したのかということになれば、おそらく店番の職がほしい誰かがしたのだろう。ジョシュ・ペローは、この推察に生返事をしただけだったが、ディッキーには一縷の光がさしてきた。確かにそうであれば、グリンダーの変化も説明がつくだろう。でも、誰がこのような噂をひろめたのだろうか。

マントルピースのうえにおかれた小さな置き時計が、静寂をやぶって、カチカチとせわしく時をきざんだ。そしてディッキーはすぐに、猫背の少年のことを考えた。まちがいなく、あいつの仕業にちがいない。ほかに誰がやる? じっと見て、せせら笑いながら、店のまわりをうろついていたではないか、それも昨日か一昨日のことではないか? 機会があるたびに、学校の中だろうと外だろうと、悪意をいだいて追いかけ回していたのは、彼ではないか? それにボビー・ルーパーは、うその話をするこつを知っていたではないか? でもボビー・ルーパーとは関わりのない四年間のどこに、無礼な仕打ちをうける原因があったのだろうか? ディッキーは横になりながら、怒りにふるえ、そして相手がうけるべき復讐をくだそうと決意した。ダヴ・レーンとの戦いはしばらく前に終わっていたが、そのせいで彼にすれば、自分の敵をつかまえるのは容易なことだった。

22章

ジェイゴウとダヴ・レーンの不和は永遠に続くものであり、ランスとラリーの間柄のようだった。だがランスとラリーの不和のように、その不和は発作的に起きるものであり、一定の間隔をあけて起きるものだった。どちらの場合も、党派間の親しみをこめたやりとりが目立つようになると、その激情も終わりに近づいてきた。ボブ・ランとビリー・ラリーは同じジョッキで、愛想良く飲み、ノラ・ウォルシュとサリー・グリーンはたがいを「マム(奥さん)」と呼び合った。その一方で、ジェイゴウの人々とダヴ・レーンの人々はカウンターで一緒に飲み、タバコを少し貸しては、相手を「相棒」と呼んだ。戦いのときの激情は、今や消え去ってしまい、和解することが義務であった。ダヴ・レーンの人々は鞭で激しくぶたれ、靴も、ズボンもミーキン・ストリートで奪われてしまったが、それでも買おうとはしてなかった。ダヴ・レーンそのものは、端から端まで、勝利したジェイゴウの人々によって一掃され、両方の派閥の人々は包帯をまいた頭で、あちらこちらに群れていた。戦いを終えて満ちたりた今、戦うべき理由は残されていなかった。さらに戦いが長いあいだ尾をひくようであれば、警察が大挙してあらわれ、具合のよくない監視をしては、界隈の人々をしたがわせ、ジエイゴウへ、ときにはダヴ・レーンへとしばしば近づいては、昔の話を捜査してきた。だから平和の宣言がなされると、そのあきらかな証として、ダヴ・レーンの人々は一緒にジェイゴウを訪れては、マザー・ギャップの店での合唱会にくわわった。マザー・ギャップの店が選ばれたのは、大事な場面に使われる場所だということもあるが、カウンターの背後にある大きな部屋のせいだった。その部屋は「クラブルーム」と呼ばれていて、昔は二つの部屋と大きな物いれがあったところで、壊れた区切りやヒビの入った壁をとりはらって出来た部屋だった。

ダヴ・レーンの人々が陽気な集団となって、一方で少し疑わしそうな様子で、マザ-・ギャッのドアを押して入りはじめたとき、あたりはほとんど暗くなってはいなかった。彼らは帽子を目深にかぶり、両手をポケットに突っこむと、猫背になりながら上着のボタンをしっかりかけた出で立ちで、ジェイゴウをうろつき、挨拶をされると不自然に丁寧な物腰でにやにやしたが、それでも労を惜しまない真心をみせるという点では、ジェイゴウの人々にひけをとっていた。

フェザーズの集会場には、敵の党派であるジェイゴウの人々は三、四人だけで、カウンターに群がっていた。ジョシュ・ペローも、その三、四人のなかの一人で、役員としてダヴ・レーンの人々に歓迎の言葉をのべ、席をすすめる役目を仰せつかっていた。ジェイゴウの人々は、ある程度、もてなすべき立場にいた。そこで話し合いの挙句、客が座らないうちから着席しているなんて、自分たちらしくない振る舞いだという結論に至った。こうした場面での、ジェイゴウの細目は驚くべきものだった。

そこでジョシュ・ペローは、集会場の扉の片側に、ビリー・ラリーはもう片側に立ち、中にはいってくるすべての者と握手をかわし、苦労しながらも陽気な笑みを絶やさなかった。ジェイゴウの人々の微笑みは、みずから努力して顔にうかべている微笑みであり、他の地区の人々の微笑みとは違っていた。その笑みはさっと消えてしまい、顔に――ジェイゴウの人々の顔だが――緊張、悲しみ、驚愕が交互にあらわれる様は、嘆き悲しんでいる最中に、だまされて陽気なことをしてしまう人の表情であった。そのようなわけで、にやにやとした笑いとは、意識して努力した結果うまれるものだと思われていた。

ダヴ・レーンの人々は期待を上回って、大勢でやってきたので、まもなく集会室は、ジェイゴウの人々がきても、これ以上はいることができなくなるだろう。すでに客はきているのだが、それでもまだ集まり続け、人々は体を押し込んで場所を見つけた。どうすれば一番いいのかということは、少々心許なかった。そうしている間に、即席合唱会がはじまった。それは少なくとも二十人ほどの人々が、すぐに好意の証をみせようとしたからだ。次から次へと新しい参加者があらわれた。ダヴ・レーンの人々が大勢、立ち上がったので場所は少し空いたが、また新たな人々が次から次にやってきたので、とうとう集会室にはもう人々が入るのは無理な有様で、壁は飛び散ってしまいそうだった。天井は低く、紫煙がたなびき、端でテーブルに立って歌っている男たちの顔をおおい隠していた。紫煙のしたに、人々の頭や帽子、陶製パイプが密集していて、さらに包帯やら目の周りの黒痣がその風景に変化をそえていた。

こうして中に入ってきたダヴ・レーンの人々は、席があれば、嬉々としてカウンターにむかった。ジェイゴウの人々は、男も、女も、フェザーズのドアの周囲にひしめいていた。ディッキーは他の少年よりも恵まれているので、いわゆる音楽が聞こえてくる場所なら何処だろうと出かけ、その日もカウンターを通りぬけて集会場のドアへと進むことには成功したが、それ以上は進めず、今や、おしつぶされながら立ちつくしているのは、顔はココ・ハーンウェルが着ている上着の背中の裾にぶつかり、後頭部もフルフィ・パイクのモールスキンのウエストコートにおされているせいだった。そのウエストコートは、真珠貝のボタンに前が飾られ、ポケットは巧みに隠されていた。歓迎役のひとりであるパッド・パーマーも歌っていた。彼は、自分の合唱にステップダンスをくわえ、その場に居合わせた者も共感しながら、足をふみならして歌った。

「彼女は戦士だ。噛みついたり、ののしったり、引き裂いたり。通りをうろつくコソ泥連中は、ローティ・サルと彼女を呼ぶ。だが俺はちがう。俺ならローティ・セーラーと呼ぶ。俺なら」

ガシャン! ガチャン!

ディッキーは、ココ・ハーンウェルの上着の裾にしがみつき、踏みつぶされないようにした。それからしばらくのあいだ、慌ただしく走りまわる男たちのなかに放りだされ、押しつぶされそうになったり、叩きつぶされそうになったりする有様は、白波のあいまに漂う水泳

選手のようで、喚き声やらガラスが砕ける音が周囲をつんざいていた。

元々、頑丈につくられていた床ではなく、小さな、ふたつの小部屋をささえ、軽く、簡単に動かせる食器棚に耐えられる程度の強度の床だった。古く、もう腐っている床なのに、合唱のときに、大勢で踏みならしたものだから、床は完全に抜けてしまった。そして人々はもがきながら、五フィートほど下の貯蔵庫の樽めがけて転落すると、恐怖にかられ、テーブルや鍋、木材、火のついたパイプ、ばらばらに砕けた建具につまずきながら歩いた。

騒乱の最中に、ダヴ・レーンの人々は、罠だったのだと大声でわめいた。すると即座に、ジェイゴウの人々とダヴ・レーンの人々は掴みあいをはじめたが、くずれおちた床板のなかで、人数の少ないジェイゴウの人々には苦しい戦いとなりそうだった。ビリー・ラリィは必死に、床材の破片でうちのめし、かたやジョシュ・ペローとプッド・パーマーは、ブリキ製の鍋で、ダヴ・レーンの人々を殴りつけた。そのとき表のほうから、ダヴ・レーンの住民が中でジェイゴウの人間を皆殺しにしているという叫び声があがった。するとジェイゴウの一団が怒涛のごとくドアから流れ込んできて、床下の混乱への入り口となっている集会室にきた。

ディッキーは痣をこしらえ、すっかりおびえていたが、じきに敷物のように投げ出されてしまった。それでもどうにか柱につかまって、カウンターのほうへと這いあがってきた。マザー・ギャップは髪をふり乱して、取り乱しながらも、鍋や割れたガラスのあいだで踊りを踊っていたが、その顔は汚れ、聞き取り難い叫び声をあげていた。ディッキーはカウンターにそって歩いていって、はずれまでくると崩れた壁をのりこえたが、そこでキドー・クックの腕のなかに落ちた。キドーは、おしかけた人々と一緒にやってきたのだ。「この坊主をほうりだせ」キドーはわめき、ディッキーをころがしながら、頭上にもちあげた。足と腕をつかまれて、頭はドアの角にぶつかり、あたりの景色が二回転ぐるりと回ったとき、ディッキーは音をたてて倒れていた。彼は息をきらし、オールド・ジェイゴウ・ストリートの旗の上に倒れていた。

だが、すぐに彼は態勢を立て直した。群衆がマザー・ギャップの店を正面から叩きつけていた。さらに援軍も四方から駆けつけてきて、聞きなれたかけ声をあげた。「ジェイゴウ! ジェイゴウ! しっかりしろ!」ダヴ・レーンの人々は、ジェイゴウの歓待を罵った。それはダヴ・レーンの住民に災いあれと言っているようなものだ。

あちらこちらで、取っ組み合いをしている光景がひろがり、集会室にたどり着かなかった者も、あるいは押し出されてきた者も、ダヴ・レーンの人々はそうした騒乱の只中に脱出してきたのだった。ディッキーは揺さぶられたせいで、痛みが残っていたが、決然として立ち上がった。フェザーズに入る前に、あたりにダヴ・レーンの少年たちがいることには気がついていた。だから連中を見つけ出して、鉄拳をくだすことは、あきらかに義務であるように思われた。さらに、父親の身を案じてもいた。マザー・ギャップの隣家の暗い通路をぬけ、裏庭へと、壊れた塀へと急いだ。集会室の壁にはめられたドアがあるので、ドアから中の様子を確かめることができるだろうと考えたのだ。

何はともあれ、ドアの向こうに見えたものは貯蔵庫だったが、そこは身もだえして苦しむ人たちの巣窟であり、相変わらず、大きく、やかましい音があがっていた。短駆が光をうけて黒く浮かび上がり、その者はドアにつかまって、騒動をながめていた。ディッキーは、それが誰なのか気がついた。彼はボビー・ルーパーに飛びかかって、その腕をつかんで、激しく殴りつけた。猫背は泣きだしそうになりながらも、やり返して逃げ去ろうとした。だが相手の心ない仕打ちを心に描いていたせいで、ディッキーは怒りにかられていたので、ついにボビー・ルーパーはよろけて、突き出した床板の破片のうえにひっくり返り、そのまま投げ飛ばされると、まっさかさまに貯蔵庫へと落下した。彼は樽にぶつかると、もんどりをうって、その樽と他の二つの樽とのあいだに出来た隙間に転がり落ちた。ディッキーは覗き込んだが、猫背は微動だにしなかった。そのときダヴ・レーンのある者たちが、集会室の壁に吊り下がっているランプめがけて、鍋を放り投げた。次の瞬間、ランプは砕け散って落下した。そして暗闇があたりをつつみ、その闇に乗じて、余所者たちは闘おうとした。

ディッキーは、自分がしたことに少し怖気づいた。だが、ボビー・ルーパーが相手なら、どんなことをしても許されると感じていた。ダヴ・レーンの人々のうち何人かは、裏のドアから逃げ出した。貯蔵庫の天井は低く、樽と折れた根太のあいだは五フィートもなかったのだ。そこで、こうした連中を避けながら、ディッキーは塀をくぐり抜けた。最後には、敵も何とか逃げ去り、明かりがようやく灯されたとき、ジェイゴウの人たちは、暗闇のなかで、たがいに何度も殴りつけている自分たちに気がついた。

スタート神父は、集会室から人々が出ていくという尋常でない事態を知らされて、ついに戸口に閂をおろして、状況を調べにやってきた。彼が到着したとき、ジェイゴウの人々は貯蔵庫から脱出していた。そういう訳で、彼が猫背の少年を樽のあいだから引きあげ、屋外に運び出して、家に連れて帰った。骨は折れていなかったし、関節もはずれていなかったが、それでも重傷であることにかわりなく、打撲傷がたくさんできていて、頭皮には切り傷もできていた。外科医にそう告げられたスタート神父は、彼をダヴ・レーンに連れて帰った。それからボビー・ルーパーは、二週間寝込んだ。

かつてないほど、たっぷりとした膏薬を塗布され、ダヴ・レーンの住民の頭も、ジェイゴウの住民の頭も、その夜は膏薬に飾られていた。だがジェイゴウの人々には、その傷を償ってくれる楽しみが待っていた。樽のあいだに、煙草の束も、長靴もたくさん落ちていたのだ。隅のほうには、雑多な品が混じり合いながら一杯になっていたが、それは一ヶ月前から、マザー・ギャップが大勢の人々に頼まれて転売していた盗品だった。そこで少なからぬ数の戦士たちが、品物を腕にかかえて家に持ち帰ったが、以前にも、同じ品物を腕にかかえ、ポスティのあいだを走ったことがあった。そして品物を売り、マザー・ギャップがだしてくれるものと引き換えていたという訳だ。

フェザーズの一階は、壊れた枠組みをまだとどめていた。四年前にうけた損傷は、今回と比べれば、たいしたものではなかった。マザー・ギャップは涙をながしながら、冒涜の言葉をはいて、長年にわたる不正で貯えた資金を取り崩すと、新しい床板を買った。だが、これは窃盗罪だ。煙草をもっていったり、長靴をもっていったり、樽のあいだから他の品々をどっさり持っていくことも、すべて窃盗罪にあたると、彼女は心をえぐられる思いで考えた。「ひどい、なんてひどい連中だろう、そんな泥棒をするなんて。盗人猛々しいよ、まったく」マザー・ギャップは言った。

ジョシュ・ペローは、貯蔵庫で、すっかり足をくじいてしまい、肩をかしてもらって帰宅した。

23章

一週間以上、ジョシュ・ペローは歩きまわることができなかった。そのせいで惨憺たる一週間だった。しばらく運に恵まれない日々がつづき、気がついてみれば、手元にある貯えを合わせても、十四ペンスしかない状態で横になっていた。そこでジェイゴウ・ロウの奥の一階で、質屋を経営しているポール・ランの店で、上着を質にいれ、九ペンス借りた。さらにジョシュは、ディッキーがグリンダーさんの店を辞めさせられたことを罵ると、外にいって、家に金をいくらか入れるようにと言った。ディッキーは体を起こしたが、フェザーズの戦いを終えた朝だということもあって、まだ痛みが残り、立とうとしても体がこわばって言うことを聞いてくれなかった。まだ、具合は少しもよくなっていなかった。それでも行かないわけにはいかなかったので、彼は出かけたが、スリをするなんて無理だとよく分かっていた。体を曲げようにも、関節が拒むからだ。だが、彼は少年窃盗団が一儲けしようとしていることに気がつき、彼らを見張ることにしたおかげで成功をおさめ、その夜、家に七ペンスを持ち帰った。それからキドー・クックも、合唱会の夜、腕一杯に品物をかかえてマザー・ギャップの店を出てきたあと、自分が騎士になれそうなくらいに金持ちになっていることに気がついたので、ジョシュに八ペンス貸した。それでもハンナ・ペローのショールは質に入れられた。だが、そのショールは次の日に取り戻され、上着も一緒に取り戻された。ディッキーが家にソブリン金貨を一枚持ってきたからだ。

ソブリン金貨も赤子から盗むようなもので、厳しい言い方をすれば、ほとんどスリとはいえないような容易さだった。ディッキーが足どり重く、シティの方へとむかっていると、セントポール寺院の外側に人だかりができていたが、いい身なりの人たちで、前に進もうとはしていなかった。カテドラルの内側で、何かが起きているのだ。ディッキーはハイ・モブの旦那の姿に気がついたが、その旦那は財布専門の、つまり財布をとりあつかう泥棒だった。ディッキーは勉強のために、男の動きを見ていた。その男が凄腕の泥棒であり、しかもたったひとりで働き、誰も援護する者をつけていなかったからだ。ディッキーは幾重もの人ごみのなかにいる男を見ていたが、その男はつぎからつぎへと淑女をねらい、その傍らに立ったかと思えば、今度は背後にまわった。男が腕をひきよせ、自分のポケットに何かを滑り込ませてようやく、男が何かに触ったのだとわかるのだった。やがて男は、人ごみのなかを別の場所へと移動していき、ほとんどの者が立っている場所で、こっそりと揉みくちゃにした新聞紙を落として、そのまま人ごみを離れた。彼は、自分で安全だと判断できる範囲で、仕事をしたのだ。ディッキーは丸めた新聞紙のほうへと人ごみをくぐり抜けていき、上着の下に新聞紙を滑りこませると、やはり逃げ去った。新聞紙のなかには、ニュース以外のなにかがあるということがわかっていた。たしかに、そのなかには財布があった。その財布は、できるだけ素早く空にされると、そこに落とされたのだ。金なら足がつかないが、なじみのない財布は滅亡のもとになるからだ。ディッキーは、この危険は少しも気にしなかったが、できるだけ急いで裏通りの隅へむかい、そこで財布を調べた。中味はもう消えているだろうが、もし上質のものならば、ウィーチさんからセント銅貨をもらえるかもしれない。それは、かなりの上等品だった。片方の財布には、銀のような、大きな留め金がついていたし、もうひとつの財布は新しいものだったので、ディッキーが満足感を覚えながら、店頭に並んでいるときの輝きをもつ裏地をながめていると、側面に巧妙に隠されたポケットに気がついたのだが、それは表地におおわれた状態で、ぴったりとしていた。だが、その中にはソブリン金貨が一枚入っていた。彼は、それを見て息をのんだ。あきらかに、財布泥棒は手探りをしながら、自分のポケットのなかで財布をからにしたのだが、その隠しポケットを見逃してしまっていた。ディッキーは、まだ思いのままに走ることはできなかったが、それでもオールド・ジェイゴウの自分の家の階段にたどり着くまで、走ることをやめなかった。やがて八日か九日が過ぎると、ジョシュはジェイゴウへと出かけたが、ただ自分の足首をいたわるだけだった。

今、ジョシュが心から望んでいるのは、上手く盗みをすることだった。そこでハイ・ストリート・ショアディッチを横切ると、キングランド鉄道駅に行って、カノンベリー行の切符を買った。

だが、運からは見放されてしまった。それはあきらかだった。彼は重い足どりで、北部の郊外を、三時から暗くなるまで歩いたが、何も手をつけることはできなかった。金はつかった。たしかによく使った。くるぶしを酷使することを怖れ、数軒のパブで休憩したからだ。静まり返った庭園の門から、中をのぞきこんでは、庭仕事の長靴が誰もみてないところに置き去りにされていないか、あるいは近辺の東屋にテニスのラケットがないかと期待するのであった。だが、何も目に入らなかった。個人が所有する馬場の戸口から、中をのぞきこんでは、下男が留守にしていないか、無防備に馬具が積み上げられていないかと確かめた。だが、それも空しかった。静まり返った地域を調べ、台所の入り口を観察しては、うっかり落ちているスプーンを探した。ある家に忍び込んだときには、戸口で料理人に出会ってしまい、古い瓶を買い取りますと下手な言い訳をしなければならなかった。彼は重い足どりで通りから通りへと、空き家を探して歩いた。家具が備えつけられているけれど、人が住んでいない家だ。だが北部の地域には、空き家は一軒もないように思えた。そういうわけで彼は疲れ、怒りっぽくなり、その日の午後に心動かされたパン屋の馬と荷車を盗んでこなかったことに自ら悪態をついた。

夕闇につつまれ暗くなっていた。ジョシュはパブに腰をおちつけると、長めの休息をとり、パンとチーズを食べた。何も盗まないで家に帰るわけにはいかなかった。しばらくのあいだ、カウンターのうしろの棚に置かれたグラスのなかの、ひとつかみの銀貨を盗む可能性について思案した。だが、それは手の届かないところにあったし、この場所には大勢のひとがいすぎて、カウンターによじ登るなんて試みはできそうになかった。ジョシュは怒りにかられ、不機嫌になった。その感情をなだめるのは、それほど腹立たしい仕事ではなかった。それに少なくとも、代金はたしかに持っていた。十時近くになってからパブをはなれ、キャノンベリーの人ごみへとむかった。途中でなにかを見つけようと、彼は考えた。それから始発の列車に乗ればいい。暗い道でだれかを殴り倒せばいい、ただそれだけのことだ。目新しいことは何もなかったが、今回はちがうやり方で盗みをしたほうがいいだろう。痛むくるぶしのせいで、歩く速度はゆっくりしたものであり、ともすれば倒れることもあったからだ。暴力をふるって強盗をして捕まれば、投獄だけではすまないだろう。むち打ちの刑もうけることになるだろう。むち打ちのことを考えたり、言われたりすれば、オールド・ジェイゴウの人々は身震いをした。

だが駄目だった。うち倒すだけの値打ちがある者はやってこなかった。たしかに、今夜は運から見放されていた。街角につくと家があり、その家とよく似合う庭園の塀が長々とつづいていた。その場にぐずぐずして、あたりを見まわすうちに、ジョシュの目は梯子にとまったが、その梯子は庭のある角の家の裏にたてかけられていて、屋根へとわたされていた。二階の窓のすぐ横をとおるようにたてかけられていたが、その窓は上の窓枠が少し開いていた。これなら大丈夫だ。いつもの仕事のやり方ではないが、望みがありそうに思えた。彼は襟元から胴着のなかへ杖をさしこむと、用心深く壁をよじ登り、自分の強健な足に苦しみをあたえた。梯子は難なく登ることができたが、上の窓枠が動かないので、杖で窓枠をおしてガラスを割った。ついに窓枠を上げて、彼は暗い部屋へと這い上がっていったが、化粧台に道をさまたげられた。家の中は、すべてが静まりかえっていた。化粧台のうえで時計が刻む音が、はっきりと耳に響いた。ジョシュはその音を感じて、ついに音をたてている物を見つけた。それは留め金から鎖がぶらさがっている時計だった。

その家は静まり返っていた。おそらく、これには罠がしかけられているのではないだろうか。ジョシュは正面の窓を調べてから、壁をのぼるべきだと思ったが、長い間待っていた機会が到来したおかけで舞いあがり、思慮深さを失ってしまった。とにかく偵察してみよう。ドアは少し開いていて、その向こうの踊り場は暗かった。

階下の客間では、吹き出物だらけの、太った男がひとり、上着と靴をぬいだ姿でソファに座っていたのだが、その男は、家の高いところにある、開けはなった窓から物音がしてくるのに気がついた。彼は傍らのグラスから酒を一口飲むと、耳をすました。それから立ち上がると、足音を忍ばせて上の階へむかった。

ジョシュ・ペローは、踊り場にでた。長くのびている踊り場で、端には階段があり、階下のどこからか洩れてくる照明が照らしていた。そのような訳だから、罠がしかけられている状況ではなかった。それでも、つま先立って歩き、長い階段をのぞきこんだ。そのとき、荒い息づかいが聞こえてきて、それは貪り喰っている雄牛のようであった。そして階段の手すりのむこうに、肥満気味の顔がのぞき、それに続いて、はだけた白いシャツから太った体もみえてきた。

ジョシュは暗がりに身をひそめた。その男は明かりを持っていなかったが、早晩彼に気がつくにちがいない。踊り場が狭いからだ。すぐさま、いきなりやる方がいいだろう。その男が最上段に踏み出したとき、ジョシュは飛びかかると、まっすぐ左パンチをくらわし、そのパンチは男の、えらのはった顎に命中した。次の瞬間、男はすさまじい音をたて、うめき声をあげながら滑りおちていき、階下で、山となって倒れていた。ジョシュは出てきたばかりの部屋に突進すると、窓からはいだして、梯子をおりていったが、その有様は漆喰塗りをしていた少年時代に、たくさんの梯子をおりていたときのようだった。梯子をおりる前に様子をうかがうと、塀のうえの笠石に飛び降り、そこから下に降りてから、街の暗い通りへ駆け出していったが、抑えようとしても呻き声がもれ、その耳はかすかだけれど、悲鳴を聞きとっていた。

彼は通りを少々走っては、角にぶつかるたびに曲がり、やがて歩き始めた。疾走したときに、くるぶしに負荷をかけてしまい、今や痛くて仕方なかった。さらに杖を寝室に置いてきてしまった。だが、もうハイベリーにきていたので、キャノンベリー・ロード・ステーションは半マイルも離れていなかった。彼は歩きながら、声にださないでにやりとした。あの家の持ち主である太った男の様子も、階段を転がりおちる様子も、この冒険におかしみをそえてくれたからだ。街灯の近くを通ったとき、自分が盗んできた品物をのぞいてみた。暗闇のなかでは、どのような時計であろうと、鎖であろうと、すべて同じに見えるからだ。もしかしたら、その品物は、鉄でおおわれたウォーターベリーの真鍮時計にすぎないかもしれない。だが、そうではなかった。両方とも金で、ずしりとした重さがあった。まさしく、そこにあるものは金の時計と鎖だ。そうしてジョシュは足をひきずりながらも、にんまりとした笑いをうかべて帰途についた。

24章

だがジョシュ・ペローの運は、彼が考えている以上についていなかった。あの太った、吹き出物だらけの男は、モブの旦那のひとりだったからだ。しかも、とても高い地位にいるモブの男だったから、こうしてモブの旦那だったと書かれることは、不名誉なことであり、侮辱であり、はなはだ傷ついてしまうことだった。彼は家賃を年に百二十ポンド支払い、賃金も結構な金額を支払い、毎週日曜日には立派な教会の献金皿に半クラウンいれた。彼はたしかにハイ・モブソンの王であり、仲間内ではムガルの王とよばれていた。粗野な盗みをすることはなかった。けっして雑談を話しかけて強要することもなければ、財布をよこせと主張することもなく、杖を働かせることもなかった。安穏として家に座ったまま、見込みのありそうな投機に資金をだしたり、ときには計画を練ったりした。それは撒き餌をまいたり、予め出費をすることが必要となる大がかりな詐欺や、郵便列車から金を略奪する計画、あるいは組織や財源を必要とする銀行詐欺だった。こうした投機が金を生じたとき、彼が一番大きな分け前をもらった。そうした行為でも、投獄という可能性から語られると、人々は行動も、頭脳も隷属せざるをえなかった。そういうわけで数年間、ムガルの王は、豊かに、非難されることなく暮らした。その生活は、分別を欠く肉体の動きをすることもなく、特徴となるのは様々な甘やかしで、その甘やかしが上品な郊外の地位と結びついていた。彼は偉そうに振る舞い、仲間を鼻であしらっては、無分別な行動をとるようにそそのかし、仲間の手柄で儲けた挙句、その有罪判決について、朝刊を満足そうに読むのだった。だが、こうしてきたにもかかわらず、思いがけない乱暴者のせいで、自分の家で盗みにあい、しかも階下へと突き飛ばれたのは屈辱であり、怒りにかられたムガルの王はその屈辱に打ち負かされた。彼のように高い地位の者にすれば、こうした災難は起こりそうもないことであったからであり、さらに盗みにあって怒りにかられている被害者そのものが、泥棒であったからだ。

しかしながら泥棒が逃げ去ったのは、明らかであった。しかも持ち去っていったのは、この家のなかでも最高の時計と鎖で、裏にはムガルという装飾文字があった。そこで、この地位の高い被害者が警察をよびにやってから、心をくだいたのは、殴られたあとを目立たなくすることであり、また血を洗い流すことであった。彼の身体の状況では、軽く殴られただけでも、おびただしい血を流すほどだった。太った体からの恩恵は明白だった。しかもジョシュ・ペローの拳は、どのような場合も生易しいものではなかった。

こうして、警察だけが、裏にムガルの装飾文字を刻んだ金時計を持っている男を探しているのではなく、地下組織の通信を経由して、電報で指示がだされ、やがてどのロンドンの盗品売買の店にも、ムガルという装飾文字に気をつけろという指示が伝わっていった。そういうわけで明くる日の昼には、ポケットに嬉々としてサソリをいれる者はいなくなった。ジョシュ・ペローが、オールド・ジェイゴウ・ストリートにある奥の部屋で、満足げに眺めている品は、役にたたない道具も同然だった。

ジョシュは、その朝、くるぶしの具合がひどくなり、腫れてしまった。彼は濡れた布きれで根気強く、くるぶしを軽くほぐし、力をこめてもんだので、一時になる頃には靴の紐をしめて外出できるまでになった。彼はぐずぐずすることなく、略奪品を故買しようとして、ホクストンへとむかった。その時計はひときわ上物に見えたので、通常の価格をうわまわる値段で交渉しようと決意した。ありふれた泥棒の略奪品には、ハイ・モブの連中が盗んでくる品のような値段がつくことはなかった。そうした盗品すべてを売買している組織は複雑なものではなかったが、最初に生みだされたのは七十年前のことであり、ユダヤのソロモンという故買屋の王子によって組織されていた。ブローチは固定価格で買い取られ、良品だろうと粗悪な品だろうと関係なかった。布の束も固定価格で買い取られ、質は鑑みられなかった。このようにして銀の時計は六シリングになり、それ以上でもなければ、それ以下でもなかった。金の時計は、二倍になった。めったにないほどの上物であれば、例えば金持ちの時計とかであれば、十八シリングで買い取られたが、それも泥棒が物に関して目が利く人間で、金額への要求が納得できる場合だけだった。それでも、ただの時計を路上でもらい受けるのに、たいてい三人の男が必要だった。ひとりが向かい合い、ひとりがつかみ、三番目が盗人から品物を受け取った。盗品を故買する取引は儲けが少なく、故買屋に異議をとなえることもあった。今回、ジョシュは故買屋に圧力をくわえることを心にきめ、ソブリン金貨くらいのものを手にいれようと全力をつくすことにした。それに鎖はこれほどずっしりとして重いのだから、重さで売りを有利にしようと闘うつもりでいた。こう考えながら、古着屋の慣れ親しんだ戸口へと入った。

「なにを持ってきた?」故買屋はたずねると、来たる返事への軽蔑をいつものように漂わせながら手をさしだして、あらかじめ買い叩こうとする姿勢をみせた。この故買屋は、何も自分で買いはしなかった。持ち込まれた物はなんであれ、姿をみせない仲間を代表して、その品をよく吟味した。取引を完結させるのは、みすぼらしい第三者で、隣接している中庭にいた。だが故買屋は、仲間の利益には驚くほど敏感だった。

ジョシュは、広げられた手に時計をおいた。故買屋は顔の高さまで、時計を持ち上げるとひっくり返し、検分を開始した。彼はジョシュをじっと見つめ、それから再び時計を見ると、用心深く鎖をつまんで急いで返した。「こいつはいらない」彼はいった。「おれも、あいつも買わない。いらない、お断りだ」彼はそっぽをむくと、手をふりはらったが、それは汚らしいものを放り出すかのようだった。

「どうしたんだ?」ジョシュは驚いて尋ねた。「裏の文字のせいか? 教会に送れば、簡単にどうにかすることができるだろう?」

時計は、処分が難しいときには教会に送られる。だが故買屋は手をふって、この提案をしりぞけた。「持ち帰れといったはずだ」彼はいった。「それを買い取るつもりはない」

「それなら鎖だけでもどうだ?」ジョシュは尋ねた。だが故買屋は、店の奥のほうへと歩み去りながら、見込みはないと言いたそうに両手をふってみせたが、その様子はずぶ濡れになってタオルを探している男のようだった。ただ、こう繰り返すだけだった。「何も買わないから、帰ってくれ。何もかわない」

ジョシュは、自慢の品をポケットにしまいこむと、通りへと戻った。彼は困惑していた。コーエンはどうしたのだろうか? 警察のたくらみを疑い、自分を罠にかけようとしていると思ったのだろうか。ジョシュはそう考え、憤りのあまり、鼻をならした。自分はおとりなんかではない。だがおそらく警察は、最近のコーエンの商売に、さしせまった関心をみせたのだろう。だから、しばらくのあいだ、故買を中止することにしたのだ。この推測はたしかなものではなかったが、今のところ、他に思いつく理由はなかったので、ジェイゴウへと戻った。マザー・ギャップに交渉してみよう。

だがマザー・ギャップは、手に時計をとることすらしなかった。彼女の目は、離れたところからでも、時計を確認できるほどしっかりしていた。「おやおや、ジョシュ・ペロー」彼女はいった。「何を持ってきたんだい? わたしを刑務所におくりたいのかね? この家を壊して、可哀想な未亡人を破滅させたのに、まだ満足していないのかね? さあ、もう出ていっておくれ。あんたには、もううんざりだ」

それは珍しいことだった。故買屋全般に指導があったのだろうか。だがフェザーズでは、男たちが仕事をしていて、板をおろしたり、壁を元に戻したりしていたが、そのうちの二人は、仕事にくる途中で、ひどい目にあってしまった。そこで今度は、四人の警察官と一緒にきた。おそらくマザー・ギャップは、警察官の目を怖れているのだろう。もし、そういうことだとすれば、ウィーチしかないだろう。

ウィーチは大喜びをした。「よく見せてくれ。すばらしい時計だ、ペローさん。すばらしい、上物の時計だ。それになんて綺麗な鎖だ」だが彼は目を細めて、大きな組文字を見つめると、こう言った。「素晴らしい品だ。他の品より、ずっと素晴らしいのは、たしかだ。ずいぶんと値のはる物にちがいない。私が請けあうよ。それを売ろうと考えておいでで?」

「ああ、もちろん」ジョシュは答えた。「だから持ってきたんだ」

「さようで、見事な時計ですな、ペローさん、実に見事です。それに鎖も、時計とよく合っている。でも、私に無茶を言ってはいけませんよ。この小さな品に四ポンドでは、どうです?」

その金額は、ジョシュの途方もない望みを倍にした金額を上まわっていたが、それでも彼は貰える物すべてを貰おうとした。「五だ」彼は頑なに主張した。

ウィーチは、穏やかな非難をこめ、彼を凝視した。「五ポンドといえば、大金だよ、ペローさん」彼はいった。「それは無茶というものだ。どうすれば組文字を消せるかわからんが。でも素晴らしい品物だから、言い争いはやめておこう。それに、今、この家にはそんな大金ありませんよ。家のなかに、そんな大金はしまっておけませんから、ご近所さんがこうですからね、ペローさん。明日の朝十一時に、もう一度持ってきてください」

「わかった、明日、出直そう。五ポンド金貨だぞ」

「もちろん」ウィーチさんは、咎めるような微笑みをうかべて答えた。「そこまで払う必要はないんですよ」

ジョシュは有頂天になり、痛むくるぶしのことは忘れてしまった。五ポンドにもなるような金を扱うのは、数年前のラリィとの戦い以来だ。あれからジョシュは、金がたっぷりからむ取引はやめ、これだけの金額を扱う喜びから遠ざかっていたので、ひときわ嬉しかったのだ。

ウィーチさんもまた、喜んでいた。ムガルのような有名な人物に親切にするということは、またとない商機となるからだ。こうした取引が、どれほどの利益にむすびつくかは言うまでもないほどだった。

その夜、ペロー家では、ウォーカーの総菜屋から紙に包んで持ってきた総菜で、温かい夕食をとった。明くる朝の十一時、時計と鎖をポケットにいれたジョシュが、ウィーチさんの店から二十ヤード離れたところにきたとき、私服の警察官がその腕をつかみ、もう一人の警察官がもう片側にあらわれた。「おはよう、ペロー」最初の警察官が、陽気に声をかけた。「ちょっと警察まできてもらいたんだが」

「おれが? どういうことで?」

「そうだな。まあ、きてくれ。おそらく、なんでもないから。ハイベリーで盗まれた金の時計と鎖を持っていなければだが。ただの確認だ」

「わかった」ジョシュは観念して答えた。「観念した。黙って行くことにしよう」

「それがいい、ペロー。馬鹿な真似をしたりするんじゃないぞ、いいか」彼らは移動していった。そしてウィーチの店を通り過ぎたとき、絆創膏をはりつけた輝く頭に、頬髭をはやした顔がみえ、薫製ニシンがつるされ、プラムケーキが置かれた窓辺のカーテンのむこうから、こちらをのぞいていた。その顔を見た途端、ジョシュはいきなり身をかわして、腕をほどいて自由になると、その家の入り口へと駆け込んだ。ウィーチさんは頬髭も、エプロンも後ろに放りだし、裏のドアから駆けだした。即座に私服警官がジョシュに飛びかかり、彼を通りに引きずりだした。「どういうつもりなんだ?」彼をとりおさえた男が、憤然として怒鳴りつけ、なにか言いたそうに、もう一人に視線をむけた。「これが、黙って行くってことなのか?」

ジョシュの顔は、憤りのあまり、蒼白になりながら、睨みつけた。「わかった」食いしばった歯のあいまから、彼はうめいた。「今度は、黙って行く。逆らったりしない」

25章

その日の朝、デイッキーが盗んだものは、たいしたものではなかった。彼が握りしめて駆けだしたものとは、真新しい、二フィートの物差しで、それは高級家具づくりの職人がカーテン・ロードにある店の戸口で、事務所の机をつくっていたときに、まだ完成していない事務所用テーブルのうえに、うっかりと置き忘れてしまったものだった。たいしたものではなかったが、そのおかげでウィーチの店で、なんらかの夕食にありつけるかもしれないし、そうしたほうが家に帰るよりもいいだろう。帰ったところで、おそらく何もないからだ。そこで昼頃、父親の不運について何も知らないまま、ホリウェル・レーンとベスナル・グリーンを経由して、ミーキン・ストリートへむかった。

ウィーチさんが自分を見る様子には、なんだか変なところがあるとデイッキーは思いながら、それでも中にはいると、二フィートの物差しを愛想良く受け取り、ベーコンの薄切りをだしたあと、さらにお菓子を一切れだしてくれた。とても気前がよかった。さらにウィーチさんの様子には、ふだんとはちがって感じのいいところがあった。食事がおわると、彼は自分からすすんで、ペニー銅貨を追加してくれた。デイッキーは驚いたが、異議を申し立てる筈はなく、そのことについて少しも考えてみなかった。

ラック・ローに足をふみいれたところで、すぐに教えてもらったのは、父親が連行されたということだった。その知らせは十分もしないうちに、ジェイゴウにひろまっていた。ジョシュ・ペローは、ミーキン・ストリートをひっそり歩いていたんだ。このようにして、話はひろまっていった。かぎ煙草やら飲み物を売る連中があらわれ、やがて気取った男たちがあらわれた。ジョシュはウィーチのドアへ行こうとしたのだが、取り押さえられてしまった。ジョシュも、愚かなことを考えたものだ、ウィーチの店をぬけて裏庭に出ようとしたのだからと、ジェイゴウの人々は話した。結局そのようなことをしても、無駄に終わったのだ。

ハンナ・ペローは自分の部屋に座っていたが、憔悴しきって、嘆き悲しんでいた。ディッキーには彼女を奮い立たせることができなかったので、ついに一人で出かけると、コマーシャル・ストリートの警察署周辺を偵察して、入手できる情報をすべてあつめた。一方、噂話をひとつ、ふたつ聞きつけたペローの奥さんは慰めをもとめ、マザー・ギャップのところに出かけた。小さなエムは体を洗ってもらうこともなく、困惑したまま泣いて、それでも自分で身のまわりの世話をする様子は、とても二歳の子どもには見えなかった。

ジョシュ・ペローは、明日、法廷に連行されることになるらしい。ディッキーが確かめたところでは、ロンドン北警察署の法廷だ。そこで明くる朝、ディッキーはふさぎこみながら重い足どりで歩き、ストーク・ニューイントン・ロードへと二マイルの石畳をたどった。かたや母親と、彼女に同情した三人の友人は、些細な賄賂がかなり求められる状況を予見して、そうした重要局面の足しにしようと、途中、路面列車の車内で、運賃箱に投げ入れられる一ペニーの運賃を盗んだ。

ディッキーは、守衛の警察官がみすぼらしい身なりの少年をどう扱うのか不安だったので、その四人の女たちが来るのを待ち、女たちのあいだに隠れ、気がつかれないようにして中に入った。ジェイゴウの者たちも数名いたが、興味をいだいていたのはジョシュの冒険だけではなく、コッコー・ホーンウェルで騒ぎを起こした男にも興味をもっていた。その前の晩、酒がたっぷりはいった状態で、ダルストンで三人の警察官を相手に、活気あふれる騒ぎをおこしたのだ。人々は同情まじりの関心をいだきながら待ち、そのあいだに運が酔っぱらいと乱暴者の一団を処理していった。

ついにジョシュが連行されてきたが、静かに被告人席に身を隠すその様子は、これから起きる流れについて、よく知っている人のものだった。警察は、逮捕にいたった証拠をあげたが、それは寄せられた情報にもとづいた結果であり、ジョシュのズボンのポケットから、時計と鎖がでてきた結果でもあった。訴えを起こした男は、頭が絆創膏で飾りたてた、人目をひく盛装姿で、証人台では息をきらして文句をいい、それでも聖書に口づけをして誓いをたてた。その男は、もと胴元だった。彼は自信をもって、その時計と鎖が自分のものであると断定し、さらに同じような自信をもって、ジョシュ・ペローが犯人だと断定し、警察の中庭にいた大勢の男達のうちから選び出した。これはまさに離れ業というほどの素晴らしいものであろう。ジョシュを見たわけでもなく、ただ暗闇で殴られたにすぎないのだから。義務の念にかられたウィーチさんが、こっそり教えてくれなければ、見分けることは無理だったことだろう。ウィーチさんは情報を提供しながら、ジョシュの容貌やら、たった一着の服やらについて仔細に語った。とりわけ強調したのは、千人いても目立つ右頬の傷についてだった。だから、もと胴元は、犯人について自信があった。犯人に出くわしたのは、階段だった。そこは、ランプからの灯りで、明るく照らされていた。犯人は猛々しく襲いかかってくると、階段の下まで突き飛ばした。警察官は、訴えを起こした男の召使いをよぶと、その男が打撲傷をうけ、出血しているところを発見した経緯を証明させた。家の裏手には梯子があって、寝室の窓は開いていた。ブロックのうえには、泥だらけの足跡が幾つかあった。さらに召使いは、寝室に落ちている杖も発見したということで、その杖が示された。

ジョシュはゆったりと目の前の手すりにもたれながら、読み上げられる証拠に耳をかたむけては、証人になにか質問があるかと問われるたびに、「いいえ、閣下」といった。訴訟人のもっともらしい証拠品をくつがえそうとして、自らを罪に陥れるほど無分別ではなかった。それに裁判沙汰になることは確実だったので、ともかく、そのようなことをしても無意味だったことだろう。引き渡される前に、なにか言うことはあるかと訊かれても、彼は同じように答えた。それから、まっすぐに連行されていった。彼はよろめきながらも、落ち着いて証人席から出ていき、法廷にいる友達に帽子をふってみせた。そうして、すべてが終了した。ジェイゴウの人々が待っているうちに、コッコー・ホーンウェルは三か月の停止処分を言い渡され、それから近くのパブへと戻った。

オールド・ベーリー刑事裁判所の法廷はもう開いていたので、ジョシュはホロウェーの刑務所にいるわけにはいかなかった。ジェイゴウの人々のあいだでは、とても名誉ある状況だと思われたのは、ジョシュがオールド・ベーリーの法廷で、慇懃に試練に耐えていることであって、州四季裁判所で扱われているような、ただの徘徊やらダフ屋のように単純なものではないからだ。ジョシュの場合、住居侵入であり、しかも激しい暴力をふるっていたので、オールド・ベーリーがふさわしかった。そこはモブの旦那たちですら裁判を見にくることのできない、権威ある法廷なのだ。「この争いは罰金で終わらないで、別の有罪判決がでるだろう」とビリー・ランはいった。ジェリー・ガレンも、そう思っていた。

ディッキーは母親とエムと一緒に出かけ、ニューゲートの牢獄にいるジョシュと会った。彼らは他の面会人たちとともに、喧噪のなかを、金網がはりめぐらされた二重の鉄格子をはさんで立ち、その鉄格子のむこうには、ジョシュと他の囚人たちが立っていた。そのあいだ、騒々しい金切り声をあげて問いかけたり、答えたりする人々の声に、あたりはつつまれていた。ジョシュには、なにも言うことはなかった。彼は手すりにもたれ、手をポケットに突っ込んだまま、体をゆらしながら過ごし、コッコー・ホーンウェルの刑はどうなったかと訊いて、ビリー・ランへの伝言を頼んだ。彼の妻は鉄格子ごしに、ただ悲しみにくれては、甲高い声で泣くばかりだった。「ねえ、ジョシュ。どうしていけばいいんだろう?」時々、とくに感情はこめないで繰り返した。エムは、汚れた、小さな顔を鉄格子におしつけながら、ひしひしと見つめた。ディッキーは、もし自分がまだ幼ければ、泣いてしまっていただろうと思った。面会時間は終わりとなり、ジョシュは手をふってから、背中をまるめて出ていった。彼の家族は、他の者たちと一緒に帰った。小さなエムが、後々、父の記憶をたぐりよせるとき、鉄格子のなかで暮らしていた男として思い出されるのだった。

こうした場合、ジョシュ・ペローの仲間たちが刑を軽くする企てに知らん顔をしたりするようなことがあれば、あるいは彼を助けるための寄付を断るようなことがあったならば、ジェイゴウの人々は恥ずかしいことだと思ったことだろう。集会は、けっしてジェイゴウでは盛んなわけではなかった。だが、これがジェイゴウの人々にとって逃げ出すことができない企てである理由は、自分の番がまわってきたときに、相手に悪く思われるといけないからだ。そこで手短にいえば、十分な金もあつまって下級法廷弁護士を呼んだが、その弁護士が最善をつくしたところで虚しい努力にすぎなかった。しかも、その証拠は、経験をつんでいない弁護士には確固たるものだった。訴訟者から提出された証拠は、揺るがすことのできない物であり、陪審員たちは、陪審員席から離れることもなく、手すりから離れて頭をよせ合って話し合う形もとらないまま、有罪の評決をくだした。そしてジョシュが過去に起こした出来事が、不快にも、彼の前であばきたてられた。彼は以前にも、窃盗、警官への攻撃、暴力をふるっての強盗で有罪判決をうけていた。六ヶ月の服役が課せられた判決が二回、三ヶ月の服役が一回、一ヶ月の服役が二回という記録が彼には残されていた。その上、罰金もとられていた。記録官は、きわめて悪質な犯罪だと考えた。すでに受けた刑によって躊躇することなく、彼はさらに悪質な犯罪へとすすみ、窃盗、しかも暴力をともなう事件をおこしたのだ。こうした場合、寛大な判決を期待することは無理であり、ただの服役だけでは十分ではないことが明らかだった。範となる判決をくださなければいけない。囚人は、六年の重刑にする必要がある。

懲役の判決は、ビル・ランが予測していたものだった。ジョシュ・ペローも同意見だったということは、彼が最初から画家を自称していたという事実からも見てとれた。なぜなら刑務所にいる画家は、ときどき絵を描く作業に従事するものだが、それは他の職業についている大勢に課せられる刑よりは、はるかに軽くて、望ましいものだったからだ。

法廷わきの部屋で、ジョシュは妻、ディッキー、ビリー・ラン(ジョシュの義兄として、その場にふさわしかった)と面会してから、ホロウェー刑務所へと護送されることになっていて、途中で立ち寄る場所はチェルムスフォード刑務所の一カ所だった。小さなエムは、ジェイゴウの溝のなかに座りこんだままの状態で放置されてきた。今回、ハンナ・ペローは心から泣いていた。そしてディッキーは十三歳になるにもかかわらず、目前の壁を見つめたまま、目を瞬いていた。ジョシュの護送の手筈を整えるのは、時間がかかることでもなければ、骨のおれる労苦でもなかった。「い草のかばんつくりに、ずだ袋編み、それからマッチ箱づくりとか、おまえに出来ることで、しのいでもらうことになると思う」彼が妻にいうと、彼女は同意した。ジョシュは頷いた。「もし施設に行くようなことなっても」彼が言っているのは、感化院のことだった。「あんなところは助けにならない。お前は弱虫じゃない筈だ」

「ああ、かみさんのことなら大丈夫だ」ビル・ランはいって、陽気に彼女のほうへ親指をつきだした。「お前はどうなるんだ? パークハースト刑務所で服役することになるのか?」

ジョシュはふさぎこんで頭をふった。パークハーストは、あまり手のかからない囚人を収容する刑務所なので、そこで楽な環境を楽しむことになるという希望は、少しも残されていなかった。やがて彼はいった。「今回、ぶちこまれるのは本物の刑務所だ」

「なんだって?」ビルは答えた。「警察に情報提供された挙げ句、そんな目にあうのか?」

ジョシュはうなずいた。

「だれがそんなことをした? だれが通報したんだ?」

ジョシュは頭をふった。「今はいい」彼はいった。「出所したら、ジェイゴウから、そいつを追い出してやる。逃したりしない。誰かはわかっている。それで今は十分だ」

やがて面会時間は終わった。ジョシュは接吻してくる妻に耐え、ビル・ランに手をふった。「ジェイゴウの皆によろしく伝えてくれ」彼はいった。ディッキーも手をふって、いった。「元気でね、とうさん」わざとらしい陽気な声を聞いて、ジョシュはふさぎこんだ顔に、つかの間の笑みをうかべ、それから連れられていくと、かの地へと出発した。ジェイゴウの言葉でいえば、犬も食わない地へと。

26章

スタート神父の日常的な仕事には、教区の全家庭を定期的にまわるということがあった。だが教区は小さいのだが、たいしたことのない地域にあって重要な教区ではまったくないのだが、人口が八千人をこえていたので、一巡するのに数ヶ月がかかった。訪問は、数え切れないほどの勤めのひとつにすぎなかったからだ。だがジョシュ・ペローの懲役のおかげで、彼の家族は特別に訪問をうけることになった。そうした状況は目新しいものでもなければ、珍しいものでもなく、神父にしても助けることができるという希望を持っているわけではなかった。彼は、人のかたちをした難破船がただよう、寂しい海をかきわけている男にすぎなかった。ジェイゴウでは、ハンナ・ペローのように、亭主が「地方」にいて留守にしているため、一時的に未亡人になっている女房達が無数にいたが、その大半は、依存している子どもたちがいるという点において、彼女より辛い状況にあった。スタート神父の名簿から明らかになる事実だが、オールド・ジェイゴウ・ストリートだけでも、七十人ちかい男たちがそのとき仮出獄の状態にあった。

ペロー家の場合、今のところ、残された家族の運はついていた。ペローの奥さんが養うのは、自分自身と二人の子どもだけだった。それにディッキーは、善悪は別にして、なにがしかの事をすることができた。神父はディッキーに定職を見つけようとしたが、それも徒労に終わった。ディッキーの過去やら他の状況について知っていることを、雇い主に告げなくてはいけないからだ。神父にできることといえば、思いつくまま、奥さんに最高の助言をあたえるくらいで、隠れている活力の火花をかきおこそうと、出来ることをした。そのように最善をつくし、それがすべてだった。奮闘の日々が、ハンナ・ペローを待ち受けていた。

彼女は、以前にも、あとに残されたことがあった。しかも一度だけではなかった。だが期間はずっと短く、実際のところ、状況はましだったので、食事がなくて寂しい思いをすることはほとんどなかった。だが今回は、時がたつにつれ、食事はパンの皮だけになりがちだった。さらに、もっと困ったことが待ち受けていた。手のかかる子ども一人と一緒に、彼女は孤独な日々をおくりはじめたのだが、まもなく子どもが二人になることがわかっていた。

もちろん、以前は、彼女も働いたことがあった。ジョシュが刑務所にいるときだけではなく、ほかのときも、家計の足しにするために働いた。彼女は、あまり腕のよくないお針子だった。もし腕がよければ、シャツの仕立てで、一日に九ペンス、場合によっては一シリングを稼ごうとするあまり、二十四時間のうち十六時間は縫い続けていたことだろう。針と糸を除けば、賃金の合計から引かれるものはない筈だが、節約家の雇用主なら、難癖をつけたくなる仕立ての場合、賃金から差し引くかもしれなかった。そういうわけで、現状のように、彼女は袋づくりに全力をかたむけなければいけなかった。袋百枚につき一シリング七ペンスが支払われ、全力で作業にとりくみ、長い時間をかければ、彼女も四日で百枚つくることができた。イグサの手さげをつくれば、もう少し稼ぐことができた。一週間で三シリング六ペンスの家賃をかんがえてみると、そちらのほうが望ましいだろう。家賃は、この部屋がだめだから続きの部屋を使うというように、他の部屋の分まで支払うせいで、オールド・ジェイゴウ・ストリートの、今にも崩れそうな寝床の家賃が、オンズロー・スクェアにある家の家賃に相当する金額になっていた。それから、もっと儲かる作業もあったが、ときどきの作業でしかないので、すっかり当てにするわけにはいかなかった。実際のところ、その作業につけたら儲けもので、大勢の者がその作業を求めていた。その作業とは、マッチ箱つくりだった。紙のラベルと紙やすりをつけた外箱を百四十四個つくり、内側にすべりこませる箱を同じ数だけつくって、十二ダースの完璧な箱、つまり総数二百八十八個の外箱と内箱を完成すれば、二ペンスにあたるファージング銅貨を稼いだ。さらに特別な大きさの箱であれば、十二ダースにつきファージング銅貨が一枚増えて、三ペンスになった。そして木も、ラベルも、紙やすりも無料で提供された。こういう訳で、幸運な働き手が二ペンスのファージング銀貨から引かれるものといえば、糊、箱を等量の束にするための紐、それから作業をとってくる時間と戻すのにかかる時間だけで、他には何も負担することはなかった。そして八十四ダースの仕事がはいっても、一日で終わらせることができた。その仕事に長くついている腕のいい者なら、それほど難しいことではなかった。一日の収入は一シリングと三ペンスの一ファージング銅貨三枚になって、シャツをつくるより、かかる費用は少ないので、ましだった。だが、その作業につくのは、難しいことだった。公共心のある工場主がこぼすように、人々はスェーデン製のマッチを買っていたけれど、国内産業をささえる気になって、自国以外のマッチを買わなければ、二ペニーのファージング銅貨を稼ぐことができるマッチ箱づくりを、多くの人々にもっと注文できるだろう。

(注 四ファージングで一ペニー、十二ペニーで一シリング)

マッチづくりは副収入になるかもしれないが、仕事がもらえるかどうか見通しのたたない作業であり、しかも定期的にもらえる作業ではなかった。おそらくディッキーも、時おり、銅貨を数枚もってくることもあるだろう。それからジェイゴウの境界線のむこうにある教会や小礼拝堂、祈祷会に出席する賢い者たちは、石炭の配給券や長靴のようなもので、報酬をもらっていた。いつ、そして何処に行けばいいのかということを知ることが必要であり、それを知らなければ、時間を浪費して終わるだろう。たとえばベズナル・グリーンには教会があるが、連祷のまえに入るのは愚かだろう。連祷のあとのほうが、十四ポンドの石炭を手にいれるにはいい頃合いだからだ。だが他の場所になると、姿をあらわすのが遅いということについて、それはよくないと異議をとなえるのであった。とにかく、やり方を知らなければいけない。ジェイゴウの女たちのなかには、これだけで生活をしている者が数人いた。彼女たちはその道の専門家で、あらゆる基金と礼拝堂を知りつくし、騙されやすい者たちの出入りも把握していた。もらえる筈の品を手に入れるのが、思いがけず難しくなるとき、人々が腹をたてる度合いに至るまで知っていた。「どういうことなんだろう?」女たちは言うのだった。「こんな悲しい話はひどいじゃないか。聖なる話を二回以上も聞いたんだよ」だが、こう言えるのは熟練者であって、かけひきにおける熟練の技は、長い経験の賜物であり、天賦の才にもとづいていた。だが、ハンナ・ペローが、そうした女たちのあいだに入っていくことは望めなかった。

こうしたことを考えながら、彼女は本気で困難に立ち向かった。なんとか袋づくりの作業はもらってきたけれど、一、二週間のあいだ、ディッキーが手助けしても、一日に二十四袋をつくることはできなかった。彼女の指は、すりむけてしまった。だが最初の一週間で、なんとか百袋をつくることができた。そんな仕事は無理だったのかもしれなかった。雇い主も、親子に会ったときにそう言った。だが彼女は一シリングと七ペンスをちゃんと手にいれた。四ペンスで自分の長靴を質にいれ、ジョシュの古くて、サイズの合わない長靴をはいた。それからペチコートも質にいれ、二ペンスを手にいれた。ディッキーも少し、手助けをした。二週間が過ぎようとした頃、思いがけない幸運が、マッチ箱の形でやってきた。ペローの奥さんは、最初のうちは、子どもたちと一緒にゆっくりと作っていた。だがディッキーは早く作れるようになり、小さなエムまでが糊ののばし方を学び始めていた。

27章

ディッキーは痩せ細って、目のまわりの隈もいっそう濃くなり、体力も衰えていった。彼は、背丈はのびているのだが、そのせいで横幅が減っていく有様がすぐさま目についた。こそこそとした、脅えた表情が顔にはりついているようにみえ、全身から、浮浪者のような雰囲気が漂っていた。母親の長い顔は、これまでになく細長くなり、目の下の隈はディッキーのものより濃くなっていた。弱々しく開いた口は、端のほうがだらりと下がり、まるで泣きながら気を失いかけている女の口のようだった。小さなエムの膝や肘は、不自然なまでに長い手足のあいだの節にすぎなかった。食事がでてくることは、ほとんどなかった。そして食事がでてきても、食べることで、飢えが本当に解決されるのかと、ディッキーは疑念をいだくのだった。だが、彼が絶望している原因とは、小さなエムが子どもらしく泣きわめかないで、声をあげないで涙をこぼしながら、針に糸をとおそうとする姿や、マッチ箱に糊を塗ろうとしている姿のせいだった。幸運のおかげで、マッチ箱づくりの仕事が舞い込んだとき、糊のために、不合理にも二ペンスを支払った。その代物は悪臭のする混ぜもので、酸味がかった匂いがかすかに漂い、割れたティーカップに保存されていたが、妹が指をしゃぶっても、すぐ気がつくようにディッキーの近くに置かれた。実際、小さなエムは、糊のなかに指をこっそりいれたことがあるからだ。

とぎれとぎれではあるが、様々な手をつかい、ペローの奥さんは金を工面して、家賃を滞りなく支払い続けた。ときにはコッパー銅貨一枚くらいが残ることもあった。彼女も、教会や祈祷会で、うまくやっていた。彼女の有様をみた人々が、時おり、施しものの域をこえた物をくれることもあった。そこで彼女は身につけたのだが、そうした場では、普段よりも自分をみじめに見せることにした。

屋根があたえられているので、ディッキーは、食べ物を見つけることが自分の仕事だと感じていた。ひとりであれば、飢えから解放されたかもしれなかったが、母親と妹がいた。食料の欠乏が彼の神経をかき乱し、おどおどさせていた。さらに、盗みで捕まるのではないかと考えると、彼の恐怖はかつてよりも強まっていた。夜、寝つかれないまま横たわりながら、そうしたことを考えては汗をかいた。そうなれば誰が、母親とエムのために、外の世界から食べ物を持ってきてくれるだろうか。だが、その危険はますます増大していた。彼は警察の鞭でぶたれたことがあり、それは大層辛い経験だった。だが矯正施設に行くくらいなら、毎日でも鞭でぶたれていいし、涙もながさないで鞭でぶたれることだろう。判事は、父親と母親が手元で監督できる場合は、少年たちを感化院へおくろうとはしなかった。そうすれば、両親が本来はたすべき責任を奪うことになるからだ。だがディッキーの場合、なにがしかの懲罰をあたえるくらいが丁度よかった。そういうわけで、ディッキーは盗品をもとめて徘徊しながらも、必要性をみたせぬまま、すべての機会を失うのではないかという恐怖にかられ、心が引き裂かれるのであった。

白カビのはえたパン一切れにすぎなくても、何も持ち帰らないで帰宅したりしないと、彼あ心に決めていた。時には、守ることが不可能な決意でもあり、最近では深夜二時すぎた頃、足取り重く帰宅しては、青ざめた顔に衰弱した様子で、暗い部屋に入ると、そこには母と妹がおそらく、いやきっと目をさましたまま横たわり、何も食べない状態で待っているのだ。こうした帰宅の場面に出くわす位なら、外の世界で盗むよりも、さらに無鉄砲な行動に自分をさらすことにした。彼はジェイゴウで、盗みをした。たとえばサム・キャッシュは、薫製ニシンをなくした。

もうディッキーが、ウィーチさんの店で食べることはなかった。現物で支払いをうけとる場合は、くすねてきた貧相な品々の平均と比べ、価値が低い品である場合だけだった。そういうときは、彼は食べ物を家まで運んだ。だが価値が低い品というものは、よそで売ることもできる品だった。そこで大抵の場合、彼が現金で支払うようにと要求してくるので、ウィーチさんを悲しんでは、長々と、それが憎たらしい、恩知らずな行為であることを説いて聞かせるのだった。だが、彼の説教は、ディッキーの道徳観に、少しも影響することはなかった。

スタート神父も、ハンナ・ペローの奮闘が、少しも捗っていないことに気がついていたので、外の地区にある教会の救済に申し込むように説得し、彼女の要求がとおるように救貧官と力をつくすことを約束した。だが、子孫をつくりだす女としての、立派な立場に後戻りしようとしているのだろうか、彼女は教会から助けてもらうという考えを嫌い、現状のままでいることを好んだ。少なくとも、奥深くまで染み込んでいる愚かさには、自尊心というお化けが味方しているかのように見えた。現在の状態まで、彼女は少しずつ、力を失っていったのだ。そして、その変化に彼女は気がついていなかった。だが、地元の教会が安堵したことに、明らかに、はっきりとした援助手段があったが、概して、踏みだすのが難しい手段ではあった。だが母子協会から手紙を受け取ったとき、彼女は貪るように読んだ。神父が彼女のかわりに、その手紙をとおして状況を説明した。彼女の死期が、まもなく近づいてきていたからだ。

28

ジョシュは、模範囚として行動する利点をよく理解していた。そしてチェルムスフォードの監房で、六か月すごしたあと、彼は友人からの面会を許可されることになった。だが、誰も来なかった。彼も、誰かが来るだろうとは、ほとんど期待していなかったので、規則にもとづいて指示をあおいだが、その規則には、役にたつものかどうかは別にして、彼が受けることのできるすべてが記載されていた。ロンドンから面会人がきた場合、ひとりあたり五シリングの運賃が支払われることになっていたのだが、ハンナ・ペローはおそらく運賃に五ポンド支払わなければならないから、面会にくるのは無理だろう。だが本当のところ、彼女には他に考えるべきことがあった。

キドー・クックの姿を、近頃、ジェイゴウでは見かけることが少なくなっていた。事実は単純で、彼は仕事についたのだった。スピタルフィールズ・マーケットで、一週間、運搬の仕事をすれば、十六シリング、もしくは、おそらくそれ以上の収入を得ることができることに気がついたのだ。そして彼はスタート神父から、もう一週間働いてみるように、さらにその後も、もう一週間働いてみるようにと励まされた。スタート神父も手抜かりなく、キドーの野心を刺激したので、ついには、天候の悪いときでも大丈夫なように防水シートをかけた、果物や野菜の露店の店をだしたいという願望を、彼も抱くようになった。その願望を心に秘めながら、その店が自分の独立への証になることを、彼は確信した。おそらくペロー一家の目にうつっていたキドーの姿はおおよそ、当時、他の者たちの目にうつる姿と同じだった。キドーは、一家の状況を知っていたので(他の者たちの状況も同じようなものだったが)、まじめで、詳細な嘘の話を、苦心してこのように作り上げた。彼には友人がいて、その友人は完璧なまでの紳士だが――スピタル・フィールズ近くのパブを使っていることから知り合いになった――商品の流通網関係の、手広い、複雑な商売に着手していた。その紳士が売っているのは、いろいろな種類の果物や新鮮な野菜、あらゆる肉や人参、キャベツ、乾性ソーセージ、フライド・フィッシュ、豆のプディングだ。彼のモットーは、「すべてを最高の品でそろえる」だった。だが不運なことが起きてしまい、彼には自分の品が最高の品かどうか判断できなくなってしまった。口を損傷してしまったのだが、それはブリキ製のポットで強打されたせいであり、大金持ちの知り合いと激しい口論をしている最中にうけたものらしかった。そこで彼は、立派な紳士であるにもかかわらず、キドー・クックに頼み込んできたので、彼も友情から引き受けることになり、時々立ち寄っては、彼の品物の味を確認することになった。「たっぷり持って行けばいい」彼はいった。「もし迷うようなら、友達の一人か二人に食べてもらって聞けばいい」そこでキドーは相手の言葉にしたがって、しばしばたっぷりと分け前をもらってくることになったが、そうすることで立派な紳士も喜んでくれた。だが、もらった品物の処分方法をすべて分かっているわけではなかったし、その品について正直な意見を聞きたくもあったので(この二つの動機には不明瞭なところがあったのだが)彼は、しばしばペローの奥さんのところに、味見を頼まれた品を持ってきたのだが、そのせいで奥さんが肩身の狭い思いをしなければと思うのであった。決して、そのようなことはなかった。

雨ふる日が終わり、夕暮れもだいぶ過ぎた頃、キドー・クックは重い足どりでジェイゴウ・ストリートを歩いていたが、そのポケットには、エムのためにリンゴがひとつ入っていた。十分なものではなかったが、金が少し不足していたのだ。なにはともあれ、あの子は喜んでくれるだろう。彼が階段をあがっていくと、ペロー家の扉に消されているものの、苦悶している音が聞こえてきた。最初は啜り泣いていたのかもしれないが、今ではうなり声をあげているように思えた。あきらかに、小さなエムが泣いていた。そして何かで、おそらくは靴のかかとで、床板をけりつけていた。キドーは少しためらってから、そっと扉を叩いた。その叩く音は、気づかれることもなかったようなので、ついに彼は扉を押して開けてみた。

その日は、ペローの家の者には酷な一日であった。ディッキーは朝早くからでかけたが、戻ってこなかった。母親は袋づくりの業者のところから、足どり重く戻ってきたが、仕事はもらえなかった。イグサの手さげづくりの業者にもかけあってみたのだが、結果は同じようなものだった。マッチ箱づくりの仕事も、もらえなかった。蕪がひとつ気づかれることのないまま、店から溝へと転がったので、彼女はこっそり手につかんだ。家にもって帰るのは性に合わないのだが、一度、角をまがって、ジェイゴウ地区へ体をひきずって戻ると、彼女は歩きながら、その根菜を見られないようにかじった。そうこうして彼女がエムのいる家に戻ったのは、その日の午後遅くなってからのことだった。

キドーは扉をおしてあけると、中に入った。二歩すすんだところで、彼はその場に立って目をこらした。やがて視線を下におとした。「神様、なんてことだ」キドー・クックはいった。

彼は三段とびで、階段をかけおりた。束の間、家の前の舗道に立ち、片側の道へ素早く視線をはしらせ、泥道をかけだした。

ピジョニー・ポールは住まいを転々としていたが、このときはジェイゴウ・ロウの屋根のある部屋で暮らしていたので、キドーはこの家の階段を駆け上がりながら、彼女の名前を呼んだ。

「ペローのところにきてくれ、はやく」彼が下の踊り場からさけぶと、ポールは扉のところに姿をあらわした。「頼むから、走ってくれ。そうしないと、あの奥さんが死んでしまう。おれは神父さまのところに行くから」それから彼は神父の住まいへと走り去った。

スタート神父は走り、ショアディッチ・ハイ・ストリートの医師のところへむかった。医師がハンナ・ペローのもとへ到着してみると、彼女はみすぼらしい寝台に体を横たえ、ピジョニー・ポールが心配しながら、不器用な手つきで面倒をみていた。小さなエムは涙をこぼして戸惑い、部屋の隅に座って、蕪をかじっていた。

ハンナ・ペローは、母子教会から届いた手紙の内容を受け入れることにした。そしてジェイゴウから別の子どもが、この不名誉な養子縁組に同意しないままやって来た。

スタート神父が医者と会ったのは、その日の夕方遅く来たときで、万事に異常はないかと尋ねた。医者は、肩をすくめた。「ひとはそうだと言うかもしれません」彼はいった。「あの男の子は生きているし、母親も生きてますよ。でも神父さまと僕なら、真実を言っても許されるでしょう。神父さまのほうが、僕よりはるかにジェイゴウのことをご存知です。あの地区には、死なない方がいいと言える子どもがいますか? 生まれてこないほうがよかったと言える子どもがいるのではありませんか? そうした信者に会うことなく終わる一日が、神父さまにはありますか? ここジェイゴウにはネズミの巣があるんです。それが次から次へと子孫をつくっていくのですが、その繁殖ぶりはネズミならのものですよ。そうした状態を、異常がないと言っているんです。道徳心の高い地区なら、千匹まで増えても、ネズミの権利を支持しますが。ときどき、ネズミを捕まえて飼うんですよ。しばらくのあいだ飼って、注意深く栄養のある食べ物をあたえ、それから巣に戻して仲間を増殖させるのです」

スタート神父は、無言でしばらく歩いた。ややして彼はいった。「君のいうとおりだ、むろん。だが、君が屋根の上から叫んでも、誰が聞くだろうか? 無駄にできる時間と気力があれば、私もそう言うかもしれない。だが、私には時間も、気力もないのだ。私は働かなければならないし、君だってそうだ。たしかに君が言うように、重荷は日々重くなってきている。おそらく、絶望的な状況だ。だが、それについて、とやかく言うことが私の勤めではない。私には、やるべきことがある」

その医者は若い男だったが、ショアディッチの人々は、その熱意の大半に応えていた。「そうですね」彼はいった。「おっしゃるとおりです。ふつうみんな上品ぶって話すことが多いですよね」彼は笑ってみせたが、その笑いには、剽軽者の印象が漂っていた。「でも、悔しいことながら、私たちのような者たちは、世界がアーモンドタフィから出来ているかのように話す必要はないのです。ほんとうに安心できますよ、物事をよく分かっている方と話すことは。そう、感情のせいで腐っていない方と話せるなんて。考えてもください、誰もいないではないですか。牢獄で一年過ごすように、あの男に命じる力があると思える人物は。それなのに、我々はそうした人物を注意深く選んでいるんですよ。天罰という考えだって、神学者のあいだでは、流行おくれです。ですが、どれほど憎むべき嫌な人物であれ、ジェイゴウの人々に対して、次から次へと、来る年も来る年も、人間の魂を非難することが許されているのです。それなのに我々は、ジェイゴウの人々の権利を尊重していると言うのです。そして、その権利は神聖なものだと」

ポスティーズのところで、二人の男はわかれた。雨は、しばらく勢いが衰えていたが、風が激しくなり、ディッキー・ペローを家へと、新しい弟と対面させるべく家へと駆り立てるのであった。

29章

ハンナ・ペローにとって、状況は少々しのぎやすいものとなった。スタート神父は、ハンナが力を回復するまでのあいだ、食べ物があるかということを把握した。それから、シーツをたっぷりと送った。さらに教区の救援物資に関して、無理やり自分の主張をとおした。それは週あたり二シリングの援助金と三クォーターンのパンの塊であった。不幸なことに、パンには教区の刻印がおしてあった。もし、その刻印がなければ、食料雑貨商のところで売られてしまい、救済の手だてが、家賃として、家主のもとに届くことになるだろう。(家主というのは立派な人物で、自分で食料雑貨の店をもっているのだ)実際には、無理やり押しつけられたパンを一家は食べ、家主はその二シリングの救援金を受け取ったが、ほかにも支払ってもらわなければいけない家賃が十八ペンスあった。もちろん、その気になれば、ハンナ・ペローは、他の者たちがしているように、部屋に同居人をおくこともできた。だが彼女が疑いをいだいているのは、無理やり家賃をとりたて、もし同居人が家賃を支払わなければ追い出してしまう能力が、自分に備わっているのかということだった。もちろん、借金のかたに入れられそうなものは消えていたが、小さなニッケルめっきの置き時計だけは残っていた。その時計を売れば、十六ペンスになったかもしれなかった。だが彼女は気まぐれから、その品を持ち続けていた。ジョシュの思い出があるのだと考えていた。その時計があるおかげで、ジョシュが家族との約束を守ろうとしてきたからだ。

ディッキーは、神父のもとにあった擦り切れた上着を着て、リバプール・ストリート駅周辺にたむろしては、運ぶのに手助けが必要な荷物はないかと探した。時には荷物を見つけて運んでは、銅貨を数枚稼いだが、駅の運搬作業員に蹴られることもあった。こうして運搬の仕事をもとめ、一時間か二時間、絶望のときを過ごした挙句、彼は徘徊しながら、ウィーチさんのために新しい品物を見つけることにした。彼はさらにジェイゴウから遠く離れ、マイル・エンドの市場やステップニーの市場へ、さらには川岸へとでかけた。そこでは品物を手に入れる機会は多かったが、近隣の盗賊団の少年たちが油断なく見張っていて、河岸で、もぐりで盗もうとすることは断じて許そうとしなかった。朝はやいうちに、ジェイゴウで、砂袋をロープにつけて投げることもあった。ジェイゴウには、ムネカドリとか、そういう類の鳥を――雛を育てて二羽の場合もあった――飼う者たちがいて、バッグ・オブ・ネイルズの店で売買して、鳴き声を競わせる準備をしていた。鳥の愛好家たちは、木製の籠を窓から釘につるし、そこに一晩中つるす習慣があった。昔から知られていることだが、ムネアカドリには驚くべき習性があって、ジェイゴウの部屋で、八人か十人か十二人ほどの人々と一緒に眠り、十二夜ほど過ごすと、風をさえぎってあげようとする思いやりにもかかわらず、うなだれてしまって囀ることをやめてしまうからだ。そういう訳で、早起きをした者で、一掴みの砂をつめこんだ小さな袋をもっている者なら誰でも、三十分もしないうちに、豪華な鳥の持ち主になるのだ。砂の袋をうまく投げて、籠の底にあててなければいけないが、そうすれば籠は釘からはずれ、下で待ち受けている者の手に落下して、鳥は早起きをした者の手のひらで羽ばたいていることだろう。砂の袋は籠をはずすと、静かに舗道へ落ちてくれた。そういうこともあって石より、砂の袋のほうが好まれた。砂の袋をつかう盗人は、ムネアカドリを愛好していたから行動したのではなかった。略奪品は、クラブ・ロウにある鳥の店があくとすぐに持ち込まれた。だが彼の技は、危険と隣り合わせであった。

このようにして、ディッキーと共に月日が経過していき、幾年かたった。ジェイゴウには、変化があった。スタート神父の新しい教会がひらかれ、クラブの集会室が新しい建物に入ったとき、ジエイゴウは三か月の赤ん坊にすぎなかった。そして時を同じくして、ジョシュ・ペローがポートランドに連れ去られた。オールド・ジェイゴウの姿そのものが、少しずつ連れ去られ始めた。州議会が、ハニー・レーン近くにあるオールド・ジェイゴウ・ストリートに並んだ家を買い、その場所に大きな仮設小屋の住宅を建てることにしたからだった。ジェイゴウ・コートの立ち退き問題は何度も繰り返されたが、そこには余り統制のとれていない狂態が繰り返された。州議会が、ジェイゴウの人々の行動を知らなかったからだ。ジェイゴウの代表者たちは泣きながら姿をあらわし、新しい住まいを見つけることは不可能だと抗議して、猶予を求めて泣きついた。その結果、六週間の猶予があたえられ、したい放題の地区に嬉々として戻った。六週間がすぎる頃、ジェイゴウの代表者たちはもう少し人数を増やし、声も若干大きめに、激しく泣いて、もう一か月の猶予期間に入るのだった。人々を通りに放りだすようなことは、嫌われる仕打ちに思えるからだ。だが、ついに嫌われる仕打ちをとることになったとき、七倍の騒動になり、公道には州議会への怒号があふれ、争いがたくさん起きた。だがジェイゴウのこの場所が承認され、州議会はジェイゴウ・ロウ沿いにハーフ・ジェイゴウ・ストリートにかけて工事を着手した。ずいぶんと予定より遅れたが、しばしば盗まれることのある板囲いのなかで、火で焼いていない状態の、黄色い煉瓦でできた仮設住宅が、一層ずつ階を重ねて積まれていった。ディッキーも十四、十五、十六と歳を重ねていった。もし行いさえよければ、ジョシュ・ペローもすぐに出所していたことだろう。

30

ジョシュ・ペローは模範囚として点数を稼ぎ、有罪判決を受けてから四年もしないうちに、ポートランドを離れることになった。もう数時間もすれば、彼がロンドンに到着するという頃、ディッキーはポケットに両手をいれて、オールド・ジェイゴウからポスティーズを通ってハイ・ストリートへ向かっていた。

ディッキーは、まもなく十七歳の誕生日をむかえようとしていた。身長も伸びるだけ伸びて、五フィート二インチあった。布のつばがついて、耳あてを紐で上に結ぶ帽子をかぶり、とびきりのズボンをはいていた。そのズボンは気の利いた形に裁断されていた。丈の短い外套は、それとわかる銘柄のものだった。だが、こうして賞賛したところで、ほつれがあって、みすぼらしいのだが、古着を買ってきたものだからだった。彼は、もう少年院に入れられる危険はなかった。大きくなったので、少年院に入る歳ではなくなっていた。彼は運に恵まれ、父親が懲役の判決を受けてから、警察に捕まったことはなかった。ただし逃亡したりしたことはあったが、あまりに狭い地区なので、簡単なものだとは思えない逃亡だった。驚くべきことであり、彼は誇りをこめて語った。もう、彼は長い経験を積み、十七歳になろうとしている男なのに、一度も刑務所に入ったことがないのだ。その歳で、そう語ることができるのは、ごく一握りの者だけだった。

ときどき、かつての敵である猫背を見かけた。猫背は、靴屋で働いていた。だが、ディッキーは何の関心も示さなかった。もう、噂を言いふらされても、彼は何も気にしたりしなかった。かつての無礼の思い出は薄らいでいたし、つまるところ、相手はただの猫背なのだ。そうした者を相手にするときには、鷹揚かつ、関心のない態度でなければ、自分の体面を汚すことになる。ボブ・ルーパーは、こうした出会いを避けていたが、もし出会うことがあれば猫のように歯をむき出しにして、悪意をこめて振り返った。だが、たいしたことではなかった。

ディッキーは結婚をしていなかった。簡素なジェイゴウのやり方でも、教会で式をあげるやり方でも、どちらの形でも結婚をしていなかった。実際のところ、簡単であるという点に関していえば、少しも違いはなかった。ベスナル・グリーンには教会があって、そこでは十四歳以上で、七ペンス払えば結婚することができた。なに一つ訊かれることはなかった。もし訊かれたとしても、答えをひねりだすのが容易な問いだった。ただ教会のなかに入るだけでよく、それも出来ることなら酩酊した状態で入り、帽子をかぶったまま教会に喧嘩をうるのだ。そうすると牧師補は、人々を相手に一気呵成の勢いで働き、次から次に名前を読み上げていった。人々は歌い、大声をはりあげ、瓶からそのまま酒を飲み、気のむくまま祈祷書を仲間に放り投げた。それでも全体としては、金を払っているだけに、悪ふざけにはならなかった。つまるところ七ペンスは、半ギャロンなのだから、無駄にするわけにはいかなかった。だがディッキーは、母親とエムと小さなジョシュ――ハンナ・ペローは、赤ん坊をそう呼んでいた――の面倒を見るので手一杯だった。ディッキーは、たしかにもう家族がいた。それにジェイゴウの娘たちからは、反感という思いがけない感情がむけられていた。おそらく娘たちは、自分自身には反感をいだいていなかった。だが娘たちも教会に払う七ペンスが用意できるまでは、むさ苦しい売春婦だったのだ。だが清潔で、別世界にいる女店員と比べての話であり、その女店員たちの姿を見かけるのは、ジェイゴウの外の地区であり、通りに面した広い窓のむこうだった。

ディッキーは、その日を休日にするつもりだった。その言葉どおりに、外の地区に行こうとはしなかった。悪運というものは、こういう大事な日にふりかかる傾向があるからだ。もしかしたら、父親が家に戻るまえに、捕まることもあるかもしれない。もう今では、リバプール・ストリート駅で荷物を運ぶ仕事するには、彼は大きくなりすぎていた。小さな少年たちのほうが、背の高い若者より安い賃金ですみそうにみえるからだ。ディッキーは特に背が高いわけでもなかったが、五フィート二インチはこえていた。だが今のところ、コッパー銅貨を稼ぐことしか考えられなかった。彼はハイ・ストリートの歩道に、どうしようか決めかねたまま立っていた。そうして立っていると、キドー・クックが息を切らしながら姿をあらわしたが、人参とキャベツを積んだ手押し車をひいていた。キドーは、雨よけのひさしのある露店を、まだ手にいれていなかった。だが、もう少しで手が届きそうだった。なんと言っても、手押し車には、売り物すべてを積むわけにはいかなかった。さらに、彼がスタート神父の教会で結婚することになっているという冗談も、いろいろなところで語られていた。マザー・ギャップが、商売でうまいこと儲けたと冗談で言う者もいた。その一方で、老ポール・ランのほうが、もっと商売には向いていると言う者もいた。

「やあ、ディッキー!」キドーは声をかけると、帽子を上にあげると、赤い木綿のハンカチで帽子の裏地をぬぐった。「おやじさんは、今日、戻ってくるのか?」

「ああ」ディッキーは答えた。「今夜には、戻ると思う」

 キドーは頷くと、顔をぬぐった。「モブの旦那が、慰労会をひらいてくれるだろう」彼はいった。「それに刑務所から、少しは金を貰ってくるだろう。だから心配することはない」それからキドーは、ハンカチをズボンのポケットにしまうと、帽子をしっかり被り、手押し車の引き手の方に身をかがめた。

 

 ディッキーはなんとなく左に曲がると、ミーキン・ストリートの曲がり角にむかって、前かがみに歩いた。そこでしばらくの間、無為に過ごしてから、行くあてもないのに角を曲がった。ミーキン・ストリートは、あまり変わっていなかった。今でも食料雑貨店があって、紅茶や砂糖がファージング貨で売られていた。それから床屋では、三ペンスと五シリングを払えば、流行りの髪型にしてくれた。だがジェイゴウの人々は、他の場所で髪を切るのが一般的で、その髪型はあまり注目をひくものではなかった。まだウォーカーの惣菜屋もあって、蒸気で曇った店の窓は、すっかり雫で覆われていた。新しく出来た衣料品店は上質の品物を扱い、その店の物はズボンも、ベンジャミンの木にしても、気の利いた形に仕立てられ、人々を欺くからくりはどちらも巧みなものだった。診療所には、若い学生がいたが、その学生に診察をしてもらって、薬を処方してもらうと、六ペンスとられてしまうのは、だいぶ前の前任者に幼いルーイを診てもらったときと同じだったが、その話も長いこと忘れ去られていた。さらに遠くを見てみると、通りの向こう側には、アーロン・ウィーチさんが軽い食事をだす店があり、日曜学校のポスターが貼ってあるその店は、漠然とではあるが少年禁酒団の雰囲気があり、陳列されている品は、皺のよった燻製ニシンや怪しげな菓子、高潔な人柄が漂ってきそうな色のくすんだスコーン、新鮮さに欠けるピクルスだった。ディッキーはドアのところまでくると中をのぞきこんだ。するとウィーチさんの心配そうな目と、視線があった。ウィーチさんには、二週間ほど会っていなかった。もうディッキーも小さな男の子ではなく、コーエンの店とか、他にも売ることができそうな場所を十分知っていたので、ウィーチさんのことを少しも気にかけたりしなかった。

その商人はディッキーを見るなり、満面の笑みを顔にうかべながら近づいてきた。「おはようございます、ええっと」すばやく一瞥した。「ペローさんだ。おはようございます。最近、まったく姿をみせないじゃないですか」

ペローさんだなんて、ウィーチさんはとても礼儀正しかった。ディッキーは立ちどまると、用心深く、低い声で挨拶した。

「さあ、中に入ってくださいよ、ペローさん。いいじゃないですか。いい知らせを聞きましたよ。お父さんが、その、地方から戻ってくるそうじゃないですか?」

ディッキーは、その知らせを認めた。

「そうですか、わたしも嬉しいですよ」グリーチさんは過剰に笑みをうかべたが、その喜びには何かが欠けていた。「それならここから、何か持っていきなさい、ペローさん。店のなかにある物すべてから選んでいただいていいですよ。こんな目出度い機会ですからね、ペローさん。一ペニーだって、お代は請求しません。ベーコンを食べていきなさい。ちょうど今、ベーコンを焼いていたところですから。おや、まだ焼けていないようだ」

ディッキーには、この気前のよさが理解できなかったが、長い間、もらえるものはもらうという方針できていた。そこで彼は食卓につき、ウィーチさんは向かいに座った。

「昔のようじゃないか?」ウィーチさんはいった。きみに一シリング支払わなくてはいけないのを思い出した。二週間前に、裏の塀から、君が投げ込んでくれた長靴は、新しいものだったからね。その品を見てみたら、思っていたよりも上物だったから、私はこう考えた。『不正なことをしてしまった』さらに考えた。『こういう長靴に、九ペンスしか払わないなんて、不正な話だ』そこで、こう考えた。『不正なことをするくらいなら、損をしたほうがましだ。正しいことは善なりと、使徒デイヴィッドも寓話で言っている。あの長靴には、一シリング九ペニーの価値がある。だから、ペローさんに、もう一シリングあげるこにしよう』と考えた。『今度見かけたときに』ようやく、その日がきたというわけだ」

ウィーチさんが食卓にシリング貨幣を置いたので、ディッキーはポケットにその金をしまいこんだが、とくに嫌悪感はなかった。状況は呑み込めないものの、彼は気にかけなかった。そのシリング貨幣は、そこにだされたのだ。さらにベーコンもあって、一緒に流し込むコーヒーもあった。ディッキーは一心不乱に食べ、何も心配することなく、そうした品がだされる理由についても、ジョシュがまもなく帰宅すれば、その品をだしている人物が不安になるということも、考えていなかった。

「ほんとうに」ウィーチさんはつづけた。「おとうさんにまた会えてうれしいですよ、ほんとうに。自由になってほんとうによかった。『警察からの解放とは、ほんとうに幸せなことだ』そう話す者もいるくらいだ。お父さんが元気で戻ってくるのが楽しみですね。それに歓迎の気持ちをお見せすることができるなら、金でも、何でも必要なときには、私のことを思い出してほしいですよ、ペローさん。いい品を提供する機会をあたえてほしいんだ。余裕があるからではない、わかっているだろう? ペローさん。商売は儲かっていない、ご近所はこういうところだからね。でも、お父さんのためにそうしたいんですよ。私が胴貨をだせる最後の人間なら。私のことを忘れたらいけませんよ。もしお父さんが家に帰ってきたときに、ユダヤ教徒でも、ハムでも、何か美味しいものを食べたいようであれば、私がそうした品を包んで届けますよ」

なんとも寛大な申し出だった。だがディッキーの心をかすめたのは、これまでの四年間のあいだに食事のない日々があったが、そういうときに、ウィーチさんがこうしたことを考えてくれていたらということだった。そして立ち去りながら、しばらくのあいだ、ウィーチさんを注意して見ることにした方がいいと考えた。この気前よさには、何か理由があるからだ。

31

マザー・ギャップの店で、ジョシュ・ペローと、その家族は再会した。もともとのハンナの予定では、ウォータールー駅で彼を出迎えるつもりだった。だが他の女たちと出会うたびに祝福をうけ、自分が名誉ある立場にいることに気がついたので、途中で残ることにした。少量ながら勧められた酒を幾度となく飲んでは、自分が過度に誇り高くはないことを証明してみせたので、当初予定していた出迎えにいくことはできなかった。そのあいだジョシュのほうも、禁酒をしていたわけではなかった。彼は囚人援助教会などからの非難をたくみにかわし、ショアディッチで待っている仕事があるからと言い訳をしてから、ロンドンに踏みだすと、パブで思うままに足をとめた。刑務所でもらった金は少額ながら心地よく楽しむのに、役に立つ金額だったからだ。そして今、ようやく再会したわけだが、とりわけ寛大でもなかった。彼が知ろうとしたのは、家にだれもいない理由にとどまらず、ハンナがポートランドまで面会に来なかった理由まで追求した。後者の理由は十分にはっきりしていて、往復の運賃が二十五シリングほどかかってしまうからだった。その金額は、ジョシュがいなくなってから、見たこともない金額だった。最初の理由については、彼女は酔いまじりの激しさで、到着番線を間違えて会えなかったのだと抗議した。そうこうするうちに、フェザーズにいた客にうながされ、ジョシュは不機嫌そうに彼女にキスをしてから、彼女の分の酒を注文した。エムは最初、疑わしそうにしていたが、自分のジンを美味しそうに飲み、何度も、何度もグラスを傾けては最後の一滴まで飲み干そうとした。リトル・ジョシュは、初めてジョシュに紹介されたが、しらふではないのに睨みをきかしている父親が大嫌いになり、その膝のうえで歯をむきだしにしては大声をあげて挑みかかり、うなり声をあげながら、ジェイゴウではおなじみの罵倒をすべてくりかえし、そのまわりでは仲間たちが陽気に浮かれ騒いだ。ディッキーは静かに入ってくると、父親の肘のところに立ち、こうした場における折り目正しい息子にふさわしい誇りをみせた。おひらきの時間がくると、全員がたがいに肩をかしながら家に戻っていった。

あくる朝、ジョシュは遅く目を覚ました。遅くまで寝ていたため、いっそう調子よく見え、顔は以前よりも日に焼け、元気にあふれ、肉づきもよくなっていた。隅のほうに、彼が見たのは、マッチ箱でできた山で、そのかたわらには、マッチ箱をもっとつくるための材料があった。昨日の朝、エムがつくった物だった。「家内産業を支えているのか」ジョシュは呟くと、思いにふけった。「でも。十二ダースにつき二ペンスなんて」そしてマッチの山をけると、ばらばらにくずした。

彼は通りへぶらぶら歩いていき、ジェイゴウの様子を観察した。おおよそのところ、ジエイゴウはほとんど変わっていなかったが、州議会は、北東の端のあたりを変え、今でも遅々とではあるが、変化していた。追い立てられたジェイゴウの人々は立ち去ったが、境のむこうの近隣に悪い影響をおよぼしていた。ジェイゴウの人々に、近隣の人々は少し近づいていった。ジェイゴウの人々が、新しい仮設の建物に住むために戻ることはなかった。それは奇妙な事態だった。州議会が要求してきた家賃は、オールド・ジェイゴウの地主に支払ってきた家賃の二倍以上の金額だったからだ。こうして別のジェイゴウが――そこでは、立ち退いてき場所のように、人々がひしめき、極悪非道のおこないにみちていた――徐々に形成されていき、大きな、黄色い家のまわりを取り囲むようしてできていった。だが、新しい教会と付属の建物の方に、ジョシュの心はうばわれた。日中、最後にオールド・ジェイゴウ・ストリートを歩いたとき、その工事は始まったばかりだった。そして今、教会は大きく、すこやかに建ち、むさ苦しい住居のあいだに見える建物は驚くほどのもので、誇らしいものだった。彼が見つめていると、ジェリー・ガレンとビル・ランがやってきた。

「よう、兄弟!」ビル・ランは大声で叫ぶと、四年前のオールドベイリーの出来事を思い出して、それが素晴らしい冗談であると考えた。

「すばらしいじゃないか?」ジェリー・ガレンは怒りまじりの皮肉をこめて言うと、新しい教会にむけて親指をつきだした。「通りは、すっかり消えてしまった。今、ここで生活するなんていいじゃないか? 泥棒なんかする必要があるものか、これは口がすべった!」

「ほう、お前さんはどうなんだい?」ジョシュはにやりとしながら訊いた。するとジェリー・ガレンは、にやりとした笑いを満面にうかべ、目配せをすると、口笛をふきながら行ってしまった。

「また戻ってきたのか、ジョシュ・ペロー!」老ベヴェリッジが声をかけてきたが、昔よりもいっそうみすぼらしい格好で、「困窮しています」とチョークで書いたばかりの帽子をあいかわらず被っていた。「また戻ってきたな! でも可哀想に、ここに住めないんだから。おれたちも可哀想そうなものだ、ここに住めないんだから」

ジョシュは、ひどく痩せた老人の姿を見送りながら、相手の真意を疑い、漠とした憤りの感情をいだいた。そうした考えは、彼とは無縁のものだったからだ。そうして彼が眺めていると、スタート神父が教会からでてきて、ジョシュの肩に手をおいた。

「これは!」神父は大声をだした。「家に帰ってきたのに、私のところに寄らないなんて! でもここにいるからには、寄ろうとしていたにちがいないね。あまり、こきおろさないでくれよ。とにかく、中に入りなさい。ずいぶん調子よさそうに見えるじゃないか。休日をとるということは、大事なことだね。それも長い休日なら、いっそう大事じゃないかね?」神父は腕をとると、ジョシュをひっぱった。彼はにやりとしたが、まごついて、顔を赤くしながら、集会室の扉へむかった。丁度そのとき、サム・キャッシュがラック・ローの角を曲がって来たが、指には細い紐をかけて、その紐には雷鳥が束になってぶらさがっていた。

「見てごらん」スタート神父はいうと振りむいた。だが、ジョシュの腕を離さなかった。「こちらにいるのは私たちの友人サム・キャッシュだが、昼ごはんのために、何か家に持ち帰るところらしい。サム、ここにきて、その鳥をみせてごらん。ずいぶんと、たくさんの鳥を持っているじゃないか。どこで手に入れたのか自慢話をするのだろう、どうだい?」

しばらくのあいだ、サム・キャッシュは当惑していた。いや、むしろ腹をたてていた。それから彼の顔は、完璧なまでの無表情におおわれたが、それがどういうことなのか神父は学んでいた。サム・キャッシュは、ぼんやりと答えた。「友達とすこし狩りをしてきたんですよ」

「それは、それは、なんて素敵な友達なんだ。それで、その友達の狩り場はどこなんだね? ベスナル・グリーン・ロードあたりの、貨物車庫のあたりではないだろうね。さあ、きてごらん。きっとジョシュ・ペローも、その話を知りたいだろう。休日をとっていたあいだ、狩りはしてないんだろう、ジョシュ?」 ジョシュはにんまりとして喜んだ。だがサムは不安そうにぎこちなく体を動かすと、絶望にかられた目をそらし、まるで隠れる穴を探そうとするかのようだった。「ああ、そういうことか」スタート神父はいった。「友人の好意を裏切りたくないんだね。どれ、数えてみよう。二、四、六、九組か、あるいは十組の雷鳥をもっている筈だ。しかも、これを一発でしとめたとは。サムは、獲物が何であろうと、いつも一発でしとめるからな。ジョシュ、おまえも知っているだろう。ああ、すばらしい狩りの腕前だ。おや、同時に荷札も撃ってきているぞ、サム? 見せてごらん、荷札を見てみよう」

だが哀れにもサムは逃げ出したが、その逃げ足は追いかけるときの警察よりも早く、その様子に、ジョシュは楽しそうに、大きな笑い声をあげた。盗みはジェイゴウの人々にすれば自然なことだった。だが、すくなくともスタート神父は、人々が理解できる冗談で、その優越感をくだくのだった。

「運動をする男にしては、恥かしがり屋だと思わないか、ジョシュ?」神父は言葉を続けた。「でも、このあと、おまえは集会室を見ていかなければいけないよ。おまえも会員になるのだから」

ジョシュは、新しい建物で一時間近く過ごした。スタート神父は彼に集会室を見せたが、そこは夜の避難所にもなれば、教会でもあり、神父の小さな部屋でもあった。彼は、ジョシュの今後についても、いろいろ尋ねてきた。もちろんジョシュは、「仕事を探すつもり」でいた。スタート神父には、彼がそう言うということがわかっていた。ジェイゴウの人々の仕事を探すつもりでいる状態は、神父が初めてこの地に来たときから続いているのだから。だが、彼はジョシュの言葉を真剣に受けとめている風をよそおって、新しい州議会の建物で、漆喰工として働いてみないかと声をかけてみた。神父はジョシュを誉めちぎって、専門的な技術をもっているのだから定期的な商いができるということを思い出させた。ジョシュは、働く手だてのある男なのだ。周囲の無職の連中が稼ぐのにつかう哀れな手段よりは、上等なものを持ち合わせていた。本当は、家族を連れてジェイゴウから出ていくべきで、新しい場所で、尊敬すべき職人として、新たに生活を始めた方がいいのだ。

こうした話に、ジョシュ・ペローは、そわそわしながらも従順に耳を傾け、必要に思えるときだけ「はい、神父様」と答えた。ついには「じっくり考えます」と約束したが、別に何かをするわけではなかった。最初の気持ちでは、スタート神父の便宜をはかるためなら、また懲役をうける危険すら喜んで犯すつもりでいた。だがスタート神父の助言を受けるというより、むしろ耐えしのぶことになってしまった。

その日、彼は休むことにした。少し興奮気味だと言われたのは、ダヴ・レーンと喧嘩をするのにふさわしい時がきていたからだ。だが動きはなかった。スノッブ・スパイサーが、ダヴ・レーンの頭の窓を割った。たしかに、それは真実だった。だが、何も起きなかった。そして儀式の上では、ダヴ・レーンの住人の手で、次のカードが配られることになっていた。今のところ、ジェイゴウの人々は、ジョシュの親しみのある指導力を考えて満足していた。こうしたことは、懲役を終えて戻ってきた者すべての権利であった。そして戦いのときは、来週の夜に決まっていた。

その日は一日中、ウィーチさんは心配そうに外をみたが、ジョシュ・ペローは通りがからなかった。

32

ビル・ランは、次の日の朝はやくジョシュを呼びだした。そして二人は肩をならべながら、オールド・ジェイゴウ・ストリートをぶらついた。

「仕事をさがしているのか?」ビルがたずねた。「いつもの仕事ならあるんだが。いい仕事だ。まったく安全な仕事だ」

「それは、どんな仕事なんだ?」

「奪い取ることができなければ、押し込みに入るのはどうだ?」

それは侵入強盗のことで、鍵をつかって、静かに入って侵入するのだった。ジョシュのあげた最後の手柄のことが、不愉快にも思いだされた。でも、彼は答えた。「わかった。もちろん、話次第だが」

「ああ、いい話だとも」ビル・ランはとくに理由もなく笑みをうかべ、自分の太股をたたいては、この上ない喜びだということを表現した。「いい話だ、誓ってもいい。二週間ずっと練ってきた計画だ。だが、この計画には二人必要になる。いまいましいことに、誰もいない!」ビル・ランは、もう一度笑みをうかべ、ステップダンスで二回足を鳴らした。「どう思う?」彼はふと真剣になって、意見を求めてきた。「塀に穴をあけるのは、どうか?」

新しい趣向だったが、ジョシュは心のなかで、最初は胸を高鳴らせたものの、それは勝負師のすることではないように思えた。「どこの塀か?」ジョシュは訊ねた。

ビル・ランは、ふたたび顔中に笑みをうかべた。彼は腰を曲げ、顎を前につきだし、腕をふりあげながら答えた。「老いぼれウィーチの塀さ」

ジョシュはにやりとして歯をみせたが、笑みをうかべることなく、自分を見上げている相手の顔を鋭く見つめた。ビル・ランは前かがみになって、両手をポケットにつっこんだまま、両腕を翼のように上下に動かすと、声をあげて笑い、足を前後にばたばたさせ、絞首台の蝶番が動きはじめたときの動作を念入りに演じた。「どうだ? どうだ?」彼はいった。「どうかい、相棒?」

ジョシュは答えなかった。歯をむきだしにしたまま口をさらに大きく横にひきのばし、考えているあいだに舌先をすばやく動かした。

「ウィーチも、そろそろ、やつける頃だ」ビルはしつこく言い続けた。「あいつは度々、おれたちに嫌なことをしてきた。おれたちは五十ポンドくらい搾取されてきているんだ。どんなものでも、おれたちから搾り取ってきた。今度は、おれたちの品物を持ち帰るだけだ」

「ううっ」ジョシュはうなり声をあげ、猛々しく睨みつけた。「あいつのせいで懲役をくらったんだ。血を流している豚野郎だよ」

ビル・ランの動きがとまった。驚いたのだ。「なんだと、彼がやったのか?」彼は声をあげた。「老いぼれウィーチがおまえを密告したのか? どうしてわかったんだ?」

そこでジョシュは、モゲルの腕時計を取引したときの話をしはじめ、ウィーチが怖れをなして、店の扉へと駆け込んだ有様を細かに語ってきかせた。「よし、その話にのろう」ジョシュは結論をだした。「あいつに復讐してやることもできるし、少しは金になるだろう。おれのそばに、あいつは近づかない方が身のためだ。顎にパンチをくらいたくはないだろう、イグベリーの男みたいに」ジョシュ・ペローは虎のような唸り声をあげて言い終えたが、怒りに顔が赤らむあまり、その鼻孔のまわりには白い斑点がうきあがっていた。

だれが密告したのか考えていたんだ。そうとくれば、あいつから奪うのが一番だ。自分の宝物がごっそりなくなっているのに気がつけば、あいつも血まみれの歌を歌うことになる」ビルは頭をそらして、もう一度笑い声をあげた。「さてと、計画を練ろうじゃないか」そして二人の男たちは夢中になって、手段について話し合った。

ウィーチの裏塀の戸は、彼があけることになった。とてもわかりやすい計画だった。たしかに表通りの鎧戸も、ミーキン・ストリートのような場所にある店としては、実用に適したものではなかった。だが裏通りに面した路地の方が、侵入するには完璧な場所だった。ビル・ランは注意深くその場所を調べ、考えに考え抜いた挙げ句、洗濯室の窓から侵入することに決めた。古い箱や束ねられた材木が庭に散らかっていたので、箱を選んで登れば、小さな窓につかまることも、すばやく、音もたてないで忍び込むことも簡単なことだろう。たしかに、洗濯室と他の部屋のあいだの扉には、しっかり錠がおろされていたが、屋根のあるところでの仕事だからどうにかなるだろう。それにビル・ランの読みでは、洗濯室のなかには、たくさんの品物が隠されていることになっていた。家のなかにいるのはウィーチだけだろう。床を掃き、薫製ニシンをつくる哀れな老女は、夜になれば帰ってしまうからだ。だから、どの部屋も空で、ただひとりの筈だった。

道具は、ジョシュはなにも持っていなかったが、ビル・ランが提供してくれることになった。忍び込む日時は、やはりその日の夜が、とても都合よく思われた。その日の夜の方が、他の日よりは好都合というものだろう。それというのも、その日が水曜日だからだ。ビル・ランがこれまで観察してきたところでは、ウィーチさんが、ショアディッチのハイ・ストリートにある銀行に出かけるのは、いつも木曜日の午前中だからだ。

この日も、ウィーチさんは注意深くジョシュの姿を探して目をひからせていたのだが、彼をついに見かけなかった。

33

ハンナ・ペローは、その夜、ジョシュが外出しないように精一杯努力した。それでも、反対しているそぶりを見せたりしなかった。どのようなことを企てているのか、細かいところまでは知らなかったからだ。それでもジョシュの様子から、ある程度、察しがついた。しつこくふたりに問いただすこともできないため、納得できる答えを彼女は聞けないでいた。それは、ジョシュが残忍で、自己中心的な雰囲気でいたからでもあった。

「おい、どうしたんだ?」ビル・ランは、顔をあわせると訊ね、仲間の顔を疑わしそうに見つめた。「大酒を飲んだんじゃないだろうな?」

ジョシュはうなり声をあげ、その質問を追いやった。「いや、飲んでいない」彼はいった。「道具は手にいれたか?」声はだみ声で、目は荒々しかった。その様子は、仲間の疑いを裏づけるものだった。

「もちろんだ。明るいところに来てみろ。合い鍵は手に入らなかったが、必要ないだろう。ねじ回しがひとつ、木工錐がふたつ、ウィンチを切るためのナイフ、それからリトル・ジェイムズがひとつ、それにネディとーーー」

「ネディだって!」ジョシュは口をはさむと、馬鹿にして、その道具を親指で指さした。それは、護身用仕込み杖と呼ぶ者もいるものだった。「ウィーチに護身用の杖なんているものか!ネディを使うのは、相手が男の場合だ」

「そのとおりだ」ビルは答えた。「だが、そのせいで、あいつは震えあがるんじゃないか?よく考えてみるんだ。もし金を見つけられなかった場合のことを考えてみろ。ウィーチの旦那をそっと、恭しく起こして、俺たちを手伝うように頼むのか? やつはひとりだから、このネディを見れば、喜んで従うだろう。叩く必要もない。そうだ、やつは大声で助けを呼んだりはしない筈だ。警察官がやってきて、やつが不正に買い上げた品物が発覚するのを恐れるだろう。中にはいれば、万事がうまくいくさ」

まもなく深夜になろうとしていた。ビル・ランは、ウィーチが十一時に鎧戸を閉める姿を確認していた。そこで二人のジェイゴウの男は、ミーキン・ストリート沿いに、ウィーチの店の向かい側をゆっくりあるき、するどく窓を一瞥した。

すべてが静かだった。目に見える明かりはなかった。店の扉の上あたりにある明かりとりの窓にも、二階の窓にも、屋根裏部屋の窓にも、明かりはついていなかった。ふたりは歩き続け、道をわたると、また引き返してきて、扉のところで耳をすました。中からは、なんの物音もしなかった。遠くにある教会の時計が、十二時をうった。四つめをうったとき、すぐ近くにある聖レオナルド教会の大きな鐘の音と重なった。最後に、穏やかな鐘の音が、はるか彼方の時計から響きわたってきて、その鐘の合唱に人々が目を覚ましてしまう前に、ジョシュ・ペローとビル・ランは次の角を曲がって、ウィーチの店の裏にある通りを進んでいった。

嫌な臭いが漂い、鼠が走るこの裏道を、余所者が行き来することはなかった。ジョシュとビルは一人ずつ、アーチの下の狭い道を急いで進んだ。その道は、かつては邸宅の私道として使われていたものかもしれなかった。こっそりと、見られることなく、ようやくたどり着いたのは、泥でぬかるんだ裏庭だった。

ウィーチの裏庭の塀が、彼らの前にあった。くすんだ家の裏側部分に、ふたりは囲まれていた。窓に見えている明かりは、ひとつか、ふたつしかなく、その窓は閉ざされ、カーテンがかけられていた。ウィーチの家の背側部分はくすみ、正面と同じくらい静まりかえっていた。ふたりは塀のむこうを凝視した。裏庭はタールのように暗かったが、そこかしこに散らばった、わずかに角のあるものは、山積みにされた箱と材木だった。「今回は、やつに口笛をふかないで行くぞ」ビル・ランはささやき、くすりと笑ってむせた。「いくぞ」

ビルは膝をまげた。ジョシュはその上をまたぎ、用心しながら、がたがたの塀を乗りこえ、塀のむこう側に身をひそめた。「こっちは大丈夫だ」彼はささやいた。「来い」ビルが道具を見せてから、ジョシュはほとんど一言も口をきかなかった。ビルは、相手の無口な様子を怪訝に思いはしたが、こうした状況なので、仕事をするにふさわしい態度だと敬意をはらうことにした。

洗濯室の窓まで、四ヤードか五ヤードしか離れていなかったが、ふたりは身をかがめ、手探りで進んでいった。ジョシュは進みながら、レモネードの箱を手につかみ、窓の下の地面に置いた。そうすると同時に、ナイフをもとめて片手を動かした。今や、彼は先頭をきって動き、箱に足をかけていた。

それは古いナイフで、靴製造用のものであり、長い柄がついていた。窓枠には、金具が斜めに留められていたが、そのナイフなら曲がることはないだろう。下の方にいたビル・ランにも、ほどなく見えてきたのだが、ジョシュは枠を固定している漆喰をそぎ落としていた。やがて五分もしないうちに、窓枠の一部が彼の手のなかにおちてきた。彼は手をとめ、やわらかな地面に枠を置いたが、音はしなかった。

ジョシュは掛け金をはずすと、窓枠をもちあげた。両端に親指をかけて、窓枠をもちあげたときに、音はいくらかしたが、それほど大きい音ではなかった。ジョシュは窓枠に腰かけると、足を一本ずつ巧みに動かして、狭い開口部をくぐり抜けた。それから体を横にすべらせて、室内におりたった。そしてビル・ランについてくるように手招きをした。

ビル・ランが持っていたのは、小さな錫の箱ひとつで、その箱の片隅には一インチほどの蝋燭が入っていた。蝋燭の芯に明かりが灯されると、この発明品は簡単なものながら、効果的なランタンとなった。明かりは正面だけを照らし、一吹きで消すことができた。そこでマッチを一本擦ると、すぐさま目に入ってきたのは洗濯室だった。

あまり大した物はなかった。欠けて脂で汚れた皿、壺、浅い鍋、深鍋、平鍋、そして隅の方には寄せ集めの山ができていたが、はっきりと安物だとわかる盗品で、古いカーペットの断片で覆われていた。室内にたちこめた不快なものは、ウィーチの黴臭いピクルス特有の匂いだった。

「ここには時間をかけてみる物はない」ジョシュは、大きな声でいった。「こい」

「静かにしろ、馬鹿野郎」ビル・ランはたしなめたが、それでも囁いた。「あいつを起こすつもりか」

「いいじゃないか。それがどうした?」という答えがかえってきたが、まだ、その声は大きかった。ビルも薄々感づき始めたのだが、彼の相棒はかなり酔っぱらっていた。だが、ふたたび無口になると、ジョシュは奥の部屋の扉へと近づいた。その扉は不安定で、古く、使い古されたもので、両端がすり減っていた。ジョシュは、扉にはめられた小窓の木枠を粉々にすると、かなてこの先を無理やり小窓に突っ込んだ。それから一押しすると、鍵穴から錠前が外れた。上のほうには閂がまだ残っていたが、下のほうの閂には、留め金はなかったので、錠前ほど難儀な思いはしなかった。ビル・ランが下から扉をひっぱると、かなてこは楽々と中に入った。そして間もなく、上の閂も、下の閂と同じように外れた。

ふたりは店の奥にある部屋に入ったが、そこには何もなく、失望しただけだった。トランプをする机がひとつ、馬のたて髪でおおわれた椅子が四脚、鏡が一枚、壁に飾られている彩色された聖書の文言が三枚、陶磁器の象が二つ、クルミの食器棚がひとつ、これですべてだった。警察官がひとり、ゆったりとした足どりでやってきて、立ち止まりはしなかったが、店の扉を一押しして、きちんと施錠されているか確認した。そして立ち去った。黴臭いピクルスの匂いが、今までよりも強くなった。

店を探してみても、時間を無駄に費やすことに終わるだろう。ウィーチのポケットが現金の引き出し機を兼ねていたからで、他にめぼしい物はない筈だ。部屋の扉は、閂がおろされているだけで、階段に面していた。「靴をぬぐんだ」ビルはささやくと、自分の靴の紐をゆるめた。そして、その紐を結んで肩からつるした。

だが、ジョシュはそうしようとはしなかった。しかも、そんなことをするものかと悪態をついた。ビルには、彼が理解できなかった。酔っぱらっているのではないだろうか。ビルは距離をおいて、声をかけた。「わかった」彼はささやいた。「上の方にいって様子をみてくるから、そのあいだ、おまえはここに座っていろ。きっと屋根裏部屋には、品物があるにちがいない。行ってみるのが一番だ、静かにしていろ」

ジョシュは腰をおろした。そしてビルはランタンを手に、階段をそろりそろりと足音をたてないで進み、軋ませないように用心して歩いた。階段の上につくと、しばらく耳をすましてから、踊り場をつま先で歩いた。狭く、急な屋根裏部屋への階段の途中で、彼は物音を聞いて、立ちどまった。階段の下にいる者がいた。

重い足音がひびき、階段や幅木を長靴で蹴りつける音がした。それから、にぎやかな足音が踊り場から聞こえてきた。ジョシュが長靴をはいたまま、階段をあがってきたのだ。ビル・ランは当惑した。そして屋根裏部屋の階段をおりてきた。その階段の昇り口のところで、ジョシュと出会った。「頭がどうかしたんじゃないか」荒々しく相手を罵ると、ジョシュの襟首をつかみ、階段のかげに引きずり込んだ。「もう五年、刑務所で暮らしたいのか?」

大きく軋む音がきこえ、なにか動く物音が、踊り場のむこうの扉のうしろからしてきた。そしてマッチを擦る音もした。「階段をおりよう」ビルはささやいた。「あいつがお前の足音を聞きつけたんだ」ジョシュは階段に腰かけたまま、身じろぎひとつしなかったが、両足をつかまれて、物陰に引きずりこまれたので、扉からその姿は見えなかった。ビルは、自分の明かりを吹き消した。ウィーチの露骨な脅かしを、今、なかば酔ったジョシュと一緒になって、わざわざ相手にするつもりはなかった。狂気にかられた言動に、警察が介入してくる事態は避けなければならなかった。

裸足で歩きまわる低い音につづいて、扉の取っ手をまわす甲高い軋りが聞こえ、踊り場の明かりがついたかと思うと、マッチをする音がした。アーロン・ウィーチが寝間着姿で、あけはなった扉のところに立っていた。片方の手には蝋燭をもち、もじゃもじゃの髪のまま、頭をかしげ、口を少しぽかんと開けたまま、無意識に上のほうを凝視していた。彼は、わずかに前の方に進んだ。そのときビル・ランの心臓が、ひっくり返りそうになった。

ジョシュ・ペローが、階段から飛びかかっていったからだ。彼は、身を前にかがめながら、顔を前につきだすと、わざと踊り場を突っ切っていった。ウィーチはさっと頭をひっこめ、砕けたかのように、顎を胸にしずめた。白目と白目のあいだが点になっていた。彼がそろそろと頭を後方へむけると、蝋燭がかたむいてしまい、樹脂が床にたれた。扉が大きく開いたので、彼は肩をぶつけてしまい、金切り声をあげた。その有様は、イタチをみたウサギのようだった。それからスパナを手にして、彼はくるりと向きをかえたが、そのとき蝋燭を落としてしまった。だが窓にかけよって金切り声をあげながら、窓をあけ、裏通りにむかって悲鳴をあげた。「たすけてくれ!助けてくれ!警察をよんでくれ!人殺しだ! 人殺しだ!人殺しだ!」

「駆けろ、ジョシュ。駆けるんだ。お前には腹が立つ」ビル・ランは怒鳴ると、踊り場を走ってやってくると、彼の腕をつかんだ。

「先に戻ってくれ。俺は行ってくる」ジョシュは答えたが、ビルの方を振りかえらなかった。そこでビルは一気に下の段まで降りた。蝋燭は床に置かれて、炎がゆらめき、獣脂のたまりがそのまわりに広がった。

「殺される!殺される!殺される!」

ジョシュは、その男の肩のあたりをつかむと、窓からひきずりおろし、喉元をつかんだ。カーペットの上をひきずっていく彼の様子は、まるで猫をひきずっていくかのようだった。そのあいだ、ウィーチは両腕をむなしく動かし、弱々しく両足で踏ん張ろうとした。

「さあ」ジョシュ・ペローはさけぶと、相手の歪んだ顔を上から睨みつけた。それから自分の鞘入りナイフをふりあげたが、それは大包丁をつかうときのようだった。「賛美歌をうたえ。お前が最高の気分になれるようなやつをうたえ。機会があれば、俺をだますんだろう。だますのが無理なら、もう五年、おれを刑務所におくるつもりなんだろう。賛美歌をうたえ。泣き虫の警察の犬野郎」

通りから、急いでやってくる足音がしてきて、あちらこちらから叫び声が聞こえてきた。ジョシュ・ペローは、スレートのような顔にむかって、むち打ちを申し出ると、相手の腕をおさえたまま話し続けた。

「おれがいない間、何かをもみ消すつもりなんだろう?なあ?おれの女房と子どもが、骨と皮になるまでひもじい思いをさせるつもりなんだろう?賛美歌をうたえ、このろくでなしめ」

彼は平手打ちをするふりをした。店の扉のところでは、男たちが激しく戸を叩き、甲高い口笛も聞こえてきた。

「賛美歌をうたわないのか?時間はあまりないぞ。うちの坊主もすぐに来るぞ、賃金を稼ぎに来るぞ。誰かさんが坊主を酔っぱらわせた。その頃、状況のよくわかる親父は刑務所のなかだったからな。うたえ、弱虫野郎。歌え! 歌え!」

二回、ナイフの刃が青白い顔をめった切りにした。そして三回目は、あごの下に刃がおちた。

泡立つ液体が滴り落ちて山となり、ゆらめく蝋燭の炎を消し去った。炎が消え、叫び声は次第にうめき声にかわっていった。そのとき扉は激しく叩かれ、震えていた。「あけろ、扉をあけろ!」太い声で、叫ぶ者がいた。

彼は、開け放たれた窓から外をのぞいた。壁をよじ登ってくる者もいれば、駆け寄ってくる者も大勢いた。窓が大きく開いて、騒々しい連中が頭をつきだした。照準の光りに目がくらんでしまい、彼はふらついた。「ペロー!ペロー!」叫ぶ声がした。ちらりと視線をむけただけだったのだが、彼の正体は割れていた。

彼は、ナイフを手から落とした。そして踊り場へむかったが、湿った床に滑ってしまい、堆積しているものによろめいた。そのとき、家の裏手から叫び声があがった。その声の主たちは少人数だったが、すぐ近くに迫っていた。彼は狭い階段をかけあがると、屋根裏部屋へと苦労して進み、箱や様々な商品の山を乗りこえた。ついに窓枠に手をかけた。男たちがつまずきながら歩いていたが、裏庭が暗闇につつまれているせいで、その姿は目には見えなかった。彼は窓枠に飛びのり、天窓の近辺でふりむいた。そして四つん這いになって屋根をすすんだ。わめき声や大きな口笛が、騒々しい音をたてていた。彼の名前が、あちらこちらで叫ばれていた。やがて扉を強く叩く音が聞こえなくなり、砕け散る音にかわった。そして床板を踏みならす足音がした。

屋根は、高さも、形も不揃いだったので、ジョシュの進みは遅くなった。彼が目指しているのは、スタート神父が昔つかっていた公会堂で、今は空き家となっている建物だった。屋根裏部屋の窓から這いだしたときから、この場所のことが彼の頭にはあった。排水設備の設置をした際、鋼鉄の換気官が、家畜小屋のある中庭から屋根まで設置されたからだ。かなり頑丈なパイプで、壁伝いに設置されているもので、壁とのあいだは、鉄のとめ金で固定されていた。そのパイプを最後に見たのは、四年前のことだったが、彼は運にかけることにして、そのパイプがまだあると信じることにした。そのパイプにしか、機会が残されていないように思えたからだ。下のほうでは、人々が慌てふためいて走っては叫んでいた。夜の暗がりから、人々がとび出してくる様子は、まるで魔法のようであった。そして警察の姿もみえた。大勢の警察官が、先ほどから待ち伏せていたにちがいない。彼が裏塀をのぼってから、数秒しかたっていないように思えたが、今や、後にしてきた家に人々が駆けこんで、窓から顔をだして、下にいる連中に叫んでいた。鋼鉄のパイプがなくなっていなければいいのだがと、彼は念じた。

助かった、パイプはそこにあった。彼は屋根の柵から、家畜小屋のある中庭をじっと見つめたが、そこには誰もいないようだった。両手と両膝でパイプにしっかりつかまると、彼は降りはじめた。

路地には裏道がなかったので、ミーキン・ストリートに賭けることにした。彼は、様子をうかがった。通りの端のほうには、暗がりのなかに待ち伏せをしている姿があり、そこから光が反射していた。警官が並んでいるのだ。この道は、閉鎖されていた。ジェイゴウの方に逃げなくてはいけなくなったが、ラック・ロウとはほぼ向かいになる。だがジェイゴウの者なら、彼を裏切ることはないだろう。追っ手は、もう屋根に上がってきていた。男たちは、通りから屋根の上にむかって叫び、そのあとを追いかけ、彼の方に近づいてきていた。彼は一息つくと、走り寄って、角の男を殴り倒した。

ラック・ロウから、オールド・ジェイゴウ・ストリートへと彼は走り、自分の家の前を通りすぎ、暗い戸口へとむかった。ちょうどそのとき、スタート神父は騒々しい物音のせいで目がさめ、窓をあけた。通りには、人影はなかった。しばらくのあいだ、彼はじっとしたまま、耳をすました。やがて外のほうから、わめき声がきこえ、大勢のひとが追いかける足音がしてきた。角で殴り倒された男が、警笛を鳴らしたのだ。追っ手が動き始めた。

裏庭にしのびこみ、塀をこえて逃亡した。別の通りをぬけて、ニュー・ジェイゴウ・ストリートにはいった。ハニー・レーン沿いの裏庭に忍び込もうと考えて、そう動いたのだ。だが彼の脳裏にあったジェイゴウは、昔のものだった。ジェイゴウが取り壊されたことを忘れていた。ジェイゴウ・ロウに近づくと、その空間がこつ然と彼の目の前にあらわれた。八十ヤード四方の、ひらけた空き地は、何本も走るまっすぐな通りと、黄色い仮設の建物にかこまれていて、あいだには公立の小学校がたっていた。そして、まっすぐな通りを駆けてくる男達の数も、警官達の数も、さらに増えていた。新参者め。冒険をするしかない。彼は、自分の頬にさわった。ゴムの膜のようなものが、頬にはりついていたのだ。そのとき記憶がよみがえり、彼は両手を凝視した。血だ。その血も乾いて、はがれかけていた。両手にも、顔にも血がつき、服にも血がついていた。これは疑いようもなかった。こうした格好で外にでれば、みずから逮捕される事態を招くことになるだろう。彼の身元が割れていようと、割れていまいと関係ない。血をぬぐわないといけないが、どうすればいいのだろう。家に戻ることは、自首しに行くようなものだ。警察は、隊を組んでジェイゴウに踏みだしたときから、ずっとそこにいるのだから。なかば取り壊された数軒の家が、目の前にあった。その家に、彼は近づいていった。

この建物には地下貯蔵庫があって、裏庭から入ることができた。ジェイゴウの者の大半が生まれ、日々を過ごして、死んでいったのは、こうした場所だった。地下貯蔵庫なら、一時間ほど隠れることができるだろう。そのあいだに、できるだけきれいに血をぬぐえばいい。砕けたレンガの土台が、かつて裏庭だった場所に散らばっていた。暗がりで階段をさぐったが、階段は小さな穴のなかにあった。石につまずいてしまい、彼は頭から突っ込んでしまった。

貯蔵庫は、ごみで散らかっていた。ジョシュは、しばらく、そのあいだに横たわっていたが、息はきれ、傷も少しできていた。立ち上がろうとしたとき、くるぶしが思うように動かないことに気がついた。昔の捻挫がうずいたのだ。懲役をうける前、マザー・ギャップの店でくじいたもので、いつも、その症状がでてくるのだった。煉瓦の破片のあいまに腰をおろして、長靴をぬぐと―その長靴は汚れ、血が粘りついていた―それから、くるぶしを揉んだ。彼は愚かにも、この貯蔵庫を選んでしまったのだ。頭上の、壁と壁のあいだなる曲がり角を選ぶべきだった。彼は恐れおののき、穴を掘って、その穴のなかに身を隠そうとする衝動にかられた。脱出する術が他にはない方法を選んでしまったのだ、転がりおちてきた階段をのぞいては。大胆にも、コロンビア・マーケット沿いの通りを横切って、運河へと進んだ方がましだった。暗闇のなかで、汚点をみいだす者はいない。そうすれば、運河にはいって、橋のしたで、誰にも見られることなく、例のものを洗い流せたことだろう。今でも、痛みに耐えることができるなら可能だ。だが、無理だった。動かそうとしても、足が言うことをきかなかった。罠にかかった彼の有様は、まるで兎のようだった。彼は精魂込めて、くるぶしをさすり、揉み解すと、長靴をひっぱりあげた。だが、どちらの足にしても、体重を支えきれなかった。両手、両膝をつかえば、階段を這いあがることもできた。だが、そんなことをして何の役にたつだろう? そこで彼は座り込み、待つことにした。

男たちの一群が急いで通り過ぎていった。ジョシュには、彼らの話がはっきり聞きとれた。殺しがあった。男が寝台で殺された。いや、殺されたのは女だ。男が、自分の妻を殺したらしい。殺しが二件あったらしい。いや三件だ。こうして話は、どんどん広がっていった。いずれにせよ、ひっきりなしに、殺しだ、殺しだ、殺しだと繰り返していた。みんなが、殺しだと言っていた。足音をたてて通り過ぎていく者たちも、遠いところで叫んでいる者たちも、目下のところ、まわりの闇に溶け込んでいる者たちも、こう言っているのが聞えてきた。殺しだ、殺しだ、殺しだと。耳元にきこえてくる空想の叫びと、現実に寝室であがった悲鳴をくらべてみた。ビルは、このことをどう考え、ドライバーや錐はどうなったのだろうかと考えた。オールド・ジェイゴウ・ストリートの人々を思い出し、自分の部屋に入ってくる有様を、そして自分のことを話しながら、この知らせを語る様子を思い描いた。連中がやってきたとき、ハンナ・ペローは眠りについていたのだろうかと思い、また、この知らせを聞かされたとき、妻は何と言ったのだろうかと考えた。そうこうするうちに、崩れかけた家を急いで通りすぎる人々の数は更に増えていき、皆、口ぐちに、殺しだ、殺しだ、殺しだと叫んでいた。

足がひどく痛んだ。腫れているのだろうか? きっと、腫れているのだろうと彼は考えた。彼は、ふたたび足をさすった。ディッキーは、何をしているのだろう。ディッキーなら、自分がどこにいるかわかる筈だ。きっと助けてくれるだろう。離れたところで、あらたに叫び声があがった。どうしたのだろうか? おそらくビル・ランを捕まえたのだ。だが、そうしたことはありえなかった。連中は、ビルのことは何も知らない。目にしたのは、たった一人の男なのだから。おそらく店の奥に横たわった肉塊を運んでいるのだろう。愉快な仕事ではないだろう。とりわけ、あの急な階段をおろさなくてはいけないのだから。洗濯小屋には何もなかったし、隣の部屋にも何もなかった。屋根裏部屋には、奇妙な品物があふれていた。きっと金は寝室にあったにちがいない。すえたピクルスの匂いが、とてもきつかった。

このようにして、彼の妄想は浮かんでは消えていった。真摯に考えてみたのだが、くだらない考えに、彼の頭はいっぱいになった。ついには、ひどい憎悪に、彼の頭は痛くなった。未来を思い描き、脱出を計画し、その手だてを考える…そうしたことは不可能なことだったので、彼はそこに座り、暗いところでじっとしていた。彼が考えていたのは、這いおりたパイプのことで、それがいくらぐらいの値段のものだったろうか、なぜそこに設置したのだろうか、ラック・ロウで出くわした男は誰だったのか、自分はその男を傷つけてしまったのだろうか、それとも傷つけていないのか、店の燻製ニシンや菓子、ベーコンを警察はどうするのだろうか、と考えているうちに、ふたたびピクルスのすえた匂いがしてきた。

スタート神父は起きると服を着がえて、ペロー家の扉の外に立ち、一家を守ろうとした。階段には、ジェイゴウの人々が大勢おしかけていたが、その大半は女で、新参者たちもひっきりなしに集まってきた。すべての者が扉を強く叩き、身をひそめた家族をひきずりだそうと、うるさい同情の言葉を叫び、念入りな質問を投げかけようとするのだった。皆、こうした態度だった。ただひとりジェイゴウで最長老のウォルシュ夫人だけは例外で、ジョシュの妻がそそのかしたにちがいないという確固たる自信をいだいていたので、下着にショールをかけた姿でやってきては、一家を怒鳴りつけた。だが、人々がすべて撃退され、ぶつぶつ言いながらも帰途についたのは、スタート神父のおかげだった。

ジェイゴウから外にむかう道は、警察官によって、すべて封じられていた。家から家へと探索がはじめられた。ジェイゴウの人々は、あきらかに良心をはたらかせて、ジョシュ・ペローの居場所について情報を提供しようとはしなかった。しかも、あきらかに意識していたのだが、こうした情報提供に少しも重きをおいていなかった。そこで口ぐちに言いはったのだが、窓辺で見かけた男はペローではなく、遠くに住んでいる余所者だということにした。これは、もちろん、警官をあざむくというよりも、逃亡者の方をひいきにするという気持ちからだった。ジェイゴウの人々が大切にしている義理だった。それでも警察は、時間をかけてでも、こうした聞き取りをする価値があることを知っていた。そこで捜索はつづけられた。

そうこうするうちに、どんよりとした灰色の朝をむかえ、ニュー・ジェイゴウ・ストリートの一団が、あの廃屋を丹念に調べなくてはいけないと言って、ゴミのあいだをかきわけていくうちに、地下から声がしたので仰天した。

「ここだ」ジョシュ・ペローは、地下貯蔵庫から叫んだ。「おれがやった。とうとう逮捕される時がきた。ここにきて、穴から出るのを手助けしてくれ」

34章

獅子と一角獣の紋章は、以前、彼がそこにいたときとくらべ、金箔が鮮やかにほどこされていたが、被告人席にいる白髪の老看守はまったく同じだった。それから大きな剣もあった。なんのために大きな剣があるのだろうか。上のほうに、真紅の背もたれの上のほうにかかっていた。六フィートの長さがある剣の用途は、何なのだろうか。だが、本当のところ、おそらく六フィートはあるまい。実際よりも、その剣は長くみえた。あきらかに、その剣は飾りのためだけにあるもので、たぶん刃のない模倣の剣だった。いい身なりをした黒人がひとり、弁護士たちのあいだに入って、下の方の席に座っていた。何の用なのだろうか? なぜ、この男を中にいれたのだろうか? なんとも素敵なことだ。見世物になるなんて。よりによって黒ん坊のまえで。ジョシュ・ペローは、首まきを緩めたが、その人差し指は怒りに震えていた。次の瞬間には、他のことを考えはじめていた。ひどい頭痛のせいで、こめかみが震えていた。あまりに多くのことについて、一生懸命に考えたせいだった。些細なことばかりで、彼とは関係のないことだった。だが、いろいろありすぎたので、こうした速さで通り過ぎていき、ある考えから別の考えへと導かれていくのだった。

連行されてから、襲いかかってきたものとは、めまぐるしく回っていく思考による災いで、休む間が少しもなかった。その休む間があれば、さしせまった問題を考えることもできるだろう。だが、こうした状況でも、彼は何の問題もおこさなかった。もう捕まってしまったのだ。男らしく厳罰をうけるとしよう。彼の言葉によれば、考えられないような悪事を、たくさん働いてきたのだから。

証言は、不快なものであった。いったい何の役に立つというのだろう? 何度も、何度も繰り返された。審理のときも、警察裁判所でも、そして今ここでも繰り返された。何度も同じことが繰り返され、相手はそれを苦労して書きとめ、そしまた何度も繰り返された。だが今回の状況は、以前よりも悪かった。裁判官が、すべてを書きとめるように申し渡したので、時間をかけて一語ずつ、一度に一語を書きとめていくことになったからだ。証人は、バレルオルガン弾きのように、同じ調べを機械的に、調べを変えることなく演奏していくのだった。証言した警察官のなかには、その月の四日、深夜十二時半に、ミーキン・ストリートにいた者もいた。殺しだという悲鳴を聞いて、軽食堂のほうへやってきたのだ。別の警察官も証言したが、その警察官は店にやってきたとき、一階の窓から、見覚えのある犯人の姿をみていた。地下貯蔵庫にいた彼を発見した巡査部長も証言台にたち、検死をおこなった医師も証言台にたった。それからナイフも、長靴も、すべてのものが証拠として出てきた。これは殺人だ、殺人だ、どう見ても殺人だ。こんなことをする必要があるのか。これで十分はっきりしているじゃないか。彼は、きたるべき運命に関心を幾らかいだいた。判決文にも、黒い帽子にも、その他のことにも。殺人の裁判なんて見たことがなかったからだ。だが、こうした繰り返しが、漠然と心にのしかかり、考えなくてはいけない無数のことがふつふつとわいてきて、ひとつのことを考えれば、別のことが浮かんでくるのであった。

ハンナとディッキーもそこにいて、被告人席の横にあるガラス仕切りのむこうに、腰かけていた。ハンナの顔は、両手におおわれていた。ディッキーの顔はこけて、青ざめていた。彼は背筋をのばして座り、唇をむすぶと、耳をむけて、些細な言葉も聞き漏らさないようにした。緊張のあまり目を見開き、瞬きもしないで、凝視しているせいで、彼の目は赤くなっていた。ジョシュは漠然と、ふたりとも、自分のように厚かましい面構えをしているのかもしれないと感じた。くじいた足は、まだ全快していなかった。だが体重を片方の足にかけて、立ち上がることができた。願い出れば、座ることも許可されただろうが、そんなことをすれば、弱く見えることだろう。

今度は別の判事がでてきたが、今までよりも年配の男で、眼鏡をかけていた。彼が厳かに入ってきたのは、昼食後のことで、片手には花束をもっていた。ジョシュが思ったのは、長い真紅の正服をきて、変な格好をした男だということだった。なぜ、この男はベンチの端っこに座るのだろうか? 長い剣の下あたり、ベンチの中央に座ればいいのに。たぶん、あの老紳士が-ほんの少しのあいだ、ベンチの中央に座っただけで、そこから立ち去ってしまった-市長だったのだろう。そう考えれば、判事が端に座る理由も説明がつくというものだ。ウィーチの寝室の奥には、部屋がもうひとつあったらしい。彼は、そうした部屋のことを思ってもいなかった。おそらく、金はそこにあったのだろう。この連中は、軽食堂にある隠し場所を見逃していないだろうか。いいや、そんな場所がある筈はない。丸テーブルと、そのまわりには椅子が四脚、それから小さな食器棚、横の壁には聖書の文句を記した紙がかかり、マントルピースには陶器の置物がふたつ、ただそれだけだった。洗濯室には、ペニー銅貨が一枚おちているだけで、他には何もなかった。屋根裏部屋は、物を隠しておくにはいい場所だった。だが、ピクルスのすえた匂いが強く漂っていた。今でも、その匂いを思い出すことができた。あのときから、ピクルスはずっと匂っていた。

判事は証言するのをやめ、窓から入ってくる隙間風について言いはじめた。ジョシュ・ペローは、窓が閉められるところを見た。紐をつかって、窓は閉められた。彼は、すきま風に気がついていなかった。だが鳩が窓ガラスの外側を飛び、煙突の通風管で休んでいるのには気がついていた。そういえばパッド・パルマーが、ジェイゴウ・ロウで、鳩を飼おうとしたが、罠がからのまま、朝を迎えたこともあった。鶏肉屋は、鳩一羽につき四ペンスくれるのだ。その鳩は、店で、二羽で十八ペンスの値段がつけられ、肉屋にすれば、一羽につき五ペンスの儲けとなった。二羽一組あたり十ペンスの儲けとなる鳩を十一組売れば、ほぼ十シリングの儲けになった。十シリングの儲けがでるということは、十ペンス近く儲かることになるのだ。クラブ・ロウの鳥市場では、それ以上の値はつかなかった。クラブ・ロウの鳥市場には、四本脚のムネアカヒワを飼っている男がいた。だがベズナル・グリーン・ロードでは、頭が二つある羊の見世物があった。その外では、ジンジャー・スタッグが、ミミズがのたくったような落書きに困っていた…などなど。やがて彼の頭は、ふたたび、ぶんぶん唸りだした。

彼の弁護士が、なにか発言していた。どのくらい話していたのだろうか。そんなことをして何の役にたつのだろうか。彼は、弁護する余地がないと告げた。だが、死んだ男の不正について詳しく述べると、激情にかられた挙句、感情的になっての犯罪であることを説明した。弁護士は空しくも、減刑の勧告を得ようとしていた。それは愚行にすぎなかった。

だが、まもなく判事は、証拠の陳述をはじめた。やがて証言は、肝心な局面にさしかかった。だが、今まで大いに論じてきた証拠を、もう一度蒸し返しただけだった。判事は瞬きをしながら、自分のメモをみつめ、それから陳述に戻った。警笛をもった警察官も、ランタンをもった他の者たちも、医師も、外科医も、そして他の者たちも陳述にくわわった。それでも、今回の陳述は、前回よりも短く終わった。ジョシュはふりむくと、背後にある置き時計をみた。その時計の上の方には、人々が顔をならべ、傍聴席から凝視していた。ふたたび判事の方をむいたとき、時間のことは忘れてしまった。些細な思いがふつふつと湧いてきて、その頭脳の、狭い出入り口から、もう一度ほとばしりでた。

静粛にするように叫ぶ声がした。それから新たな声がした。「陪審員の方々、評決はでましたか?」

「でました」陪審長をつとめる男は震え、顔からは血の気がひいていた。そして低い声で話した。

「被告人は有罪ですか、有罪でないと考えますか?」

「有罪です」

ああ、それが正しい。それでこそ、本当に仕事をしているというものだ。彼の頭ははっきりして、今や、心構えができていた。

「全員の評決が、有罪ですか」

「はい」

ハンナは、すすり泣いているのだろうか?

青ざめた顔をした、黒衣の男が椅子のわきを歩いてきて、背の高い幽霊のように、裁判官の横に立ち、視線をあげ、こぶしを握りしめた。裁判官は、横の席から黒いものをとりあげ、それを自分の頭にのせた。柔らかな角帽のようなもので、ジョシュは興味ぶかそうに見つめた。角帽の片側には、大きな絹の房飾りがついていて、鬘や眼鏡、赤の長衣と共に、裁判官をおそろしいほど上品にみせていた。今ほど、ジョシュの頭脳が冴えていたことはなかった。

「被告は、法にてらしてみた結果、死の判決から免れることができませんが、何か言いたいことがありますか?」

「いえ、ないです。やりました。ひどいやつだからやりました」

書記官は深く腰かけた。裁判官は話した。

「ジョシュア・ペロー、被告人が有罪だと証明した証拠は、疑う余地のないものである。合理的な精神をもつ者であれば、被告人の罪が何であろうとも、故意に殺人を犯し、有罪であると判断することは明らかである。被告人のおそろしい罪状については、あらためて述べる必要もない。その罪は、このうえなく残酷なものであり、衝撃的なものである。被告人がその家に侵入したのは、故意であり、周到な用意をしていた。被告人は、ここではなく、さらなる上級裁判所で、そこの主の死について申し開きをしなくてはならない。侵入した理由が強盗しようと考えたせいではなく、復讐しようと考えたせいだということは問題ではない。そうした事情を考慮することが、私の務めなのではない。しかも被告人は、冷酷かつ残忍な証拠すべてが示しているように、あの不幸な男を最後の場所へと追いやった。やがて被告人も、その場所へと行き、自らを償わなくてはいけない。被害者である哀れな男の、過ちにみちた人生について、私は何も言うことはできない。また被告人が考えるべきものでもない。被告人に真摯に求めたいことは、この地上に残された短い時間を悔悛についやし、全能の神との和解についやすことである。私に定められた義務により、これから判決の文を読み上げるが、この判決をくだしたのは私ではない。この国の法が、被告人のおかした罪にたいして判決を課すのである。判決文を読み上げる。被告人は、また先ほどまでの場所へと戻り、そこから死刑執行の場所へと連行される。そして、そこで首からつるされて死ぬものとする。神の慈悲が被告人の魂にありますように」

「アーメン」それは背の高い、黒衣の男が発した言葉だった。

こうして、すべてが終了した。看守が、彼の腕をとった。かまわなかった。だが彼はすばやく、硝子の仕切りのむこうにいる家族に視線をはしらせた。ハンナは倒れかけていたが、そこに見える彼女は生気を失い、ふらつく塊と化していた。そしてディッキーは、両腕で彼女をささえていた。ディッキーの顔は沈み、青ざめ、両頬が痙攣していた。ジョシュは仕切りのほうに踏み出したが、急いで連れて行かれた。

35

こうした辛い思いもすべて、三十分後には消えているだろう。これから起きることは、たいしたことではない。せいぜい目を殴られるほどのことにすぎない。最悪の事態は、土曜日に終わった。そして、なんとかその事態をのりきった。ハンナはひどい状態で、ディッキーもまたそうだった。エムは、途方にくれた泣き方をしていた。他の者たちも、そういう泣き方をしていたからだ。リトル・ジョシュは、どうやら父親が涙の原因らしいと気がつき、蹴りつけたり、毒づいたりしてきた。この様子をハンナに見せて、微笑んでもらおうとしたが、無駄であった。ついに彼女は連れ出されることになった。ディッキーもひどい状態だったが、なんとか気持ちを奮い立たせた。彼が震え、息を詰まらせているのを感じながらキスをした。やがて彼は真っ直ぐに歩み去っていったが、その足どりはしっかりとしていた。他の二人の子ども達もいっしょに歩み去った。そう、すべてが終わったのだ。

ジェイゴウの人々が、ハンナと子どもたちを休ませてくれるようにと、彼は願った。彼が休ませてもらったことはなかった。彼に恩がある人々がいたにもかかわらずだ。彼が休んだ最後の場所は、マザー・ギャップの店だった。ダヴ・レーンの人々が、床をつきぬけて落下した事件の前のことだ。マザー・ギャップは床をはりかえるのに、金をたくさんつかったにちがいない。でも若い頃、彼女はいろいろなことをして、ずいぶん稼いだはずだ。盗品売買をしたのだ。ハニーレーンに数軒の家を購入し、ホクストンの四ペニーの安宿二軒も、彼女の家だという話だった。ほかにどのくらいあるのか、誰も見当がつかなかった。ある者の話によれば、彼女はジプシーの出身で、数年前はマウントで暮らしていたらしい。マウントも、今では、いっぱい人がいる場所だが、ジェイゴウほど人がいるわけではなかった。ジェイゴウは、にかわのように粘着質で、ブロード・ストリートのように広かった。ブロード・ストリートにあるボブ・ザ・ベンダーでは、玩具が買える。刑期を一年半つとめれば…

わかっている。もちろん、わかっている。死の鐘は、いつも鳴り響いてきたから。それでも混乱してしまうのは、考えることがありすぎるせいだ。

ああ、とうとう連中がやってきた。かまわない。もう、今さら、何も考えることはない。楽しむしかない。しっかり見ていてくれ、ジェイゴウよ、しっかりと見てくれ。「いいや、結構です。とくに言うことは、何もありません。ただ、皆さん方の御親切に感謝するだけですよ。食べ物のことやら、親切にしてもらったことやらをいろいろとね。みなさんに感謝しますよ、ここに来て下さったことを。とりわけ、旦那には感謝してます」そう話しかけた相手とは、ふたたび姿をあらわした、背の高い、黒い姿の男だった。

なんだ、この男は? みすぼらしい身なりの男だ。外見からすると葬儀屋の男の類だ。皮紐は中々いい品だ。結わえたりする紐ではない。胴にも、手首にも、肘にも、たくさんの皮紐が、ぶらさがっている。今のところは、ぶらさがっている。こんなふうにぶらさがっている。さて、こんな感じなのか?

「われはよみがえりなり、命なり。われを信ずる者は、死ぬとも生きん。およそ生きて、われを信ずる者は、とこしえに死なざるべし」

とても大きな門だ。これはすべて鉄でできていて、白く塗られている。右のほうが丸くなっている。それほど離れていないところから、連中がなにか言ってきた。通路は暗かったが、扉から中庭へはいると、そこは明るく、開けていて、燕がさえずっていた。また扉だ。小屋のなかにはいった。

ここが執行場所だ。ぜんぶ真っ白だ。どこもかしこも、枠までも。結局、黒ではなかった。階段をあがって…しっかりつかまって、もうじきだ。ここに立つのか? よし、それでいい。

「人は女から生まれ、人生は短く、その生は苦しみにみちている。花のように咲き出ては、かりとられ、影のようにうつろい、ひとつ同じところにとどまることはない。

生のただ中にありて(われら死せり)」

36章

ごく少数の人々がオールド・ベリーのかどに立ち、死を告げる鐘が鳴り響くなか、黒い旗を見ようとした。これは、大衆受けする類の殺人ではなかった。ジョシュ・ペローは、ましなことをするように育てられた男ではなかった。だが被告人席で、すすり泣くこともなければ、わめいたりすることもなかった。妻や子どもを惨殺したわけでもなければ、恩義や愛情を感じる人を惨殺したわけでもなかった。そういうわけで同情する者もいなければ、許すように請願する者もなく、涙でいっぱいの手紙を新聞に書く者もいなかった。だから黒い旗を見ていた人々は少数で、その半分がジェイゴウから来た者たちだった。

旗に視線があつまり、鐘が鳴り響くなか、一群の人々が、オールド・ジェイゴウ・ストリートにあるペロー家の玄関前に集まった。スタート神父も、夜、寝泊りしていた者たちが避難所から出ていくと、すぐにやってきて、キドー・クックに話しかけた。キドーは、階段の上がり場に立って、侵入しようとする者たちを追いはらっていた。

「奥さんは、一晩中起きていたって話ですよ、神父様」キドーは、声をひそめて報告した。「ウォルシュのらせん階段から、メアリーが覗き込んでみたんです。その話だと、みんなが椅子のまわりに跪いて、その椅子のうえには小さな置時計を置いているらしいですよ。もう三十分以上、そうしてるんです」

「わたしはすぐに戻ってくるから。そうしたらお前は帰ってもいい。ちょっと待てるか? でも商売をさぼってはいけないよ」

「一日中でも待ちますとも、神父様がよければ。あの家族をかき乱したりすることは、誰にも許されないですよ」

神父は用事をすませて戻ると、「なにか聞こえたか」とたずねた。

「いや、神父様」キドー・クックは答えた。「じっとしたままですよ」

遠く離れた尖頭から、二つのかすかな響きがした。それから聖レオナルド寺院の鐘が、無情にも時を告げた。

37章

キドー・クックの店は、うまくいっていた。露店であることは、今のところ事実であった。日よけは、それほど大きく張り出してはいなかった。でも、実に用心深く、中古の品をさがしだしたので、それほど日よけは傷んでいなかった。だが、金がたっぷりあるにもかかわらず、彼が酒を飲んで酔っぱらうことはあまりなかった。露店の店をだしている場所ほど、魅力のあるものはなかった。店があるハイストリートは、もっとも活気のある場所であり、ロンドン市議会の支店銀行からの資金が潤沢にながれてくるところだった。人々は、その場所のことをジェイゴウのキドー銀行だと言って、彼の預金を推測してからかった。キドーから、一ペニーの野菜を買えば、とジェイゴウの人々はおどけていった。彼はもったいぶりながら、金をとるようなことはしなかった。そのかわりに紙を一枚わたし、わたされた人は銀行で支払った。キドーが従事している輝かしい仕事は、ジェイゴウの者が思ってみたこともないものだった。彼は、州議会が建てた新しい住居に、部屋を二つ持っていた。まだ秘密ではあったが、キドー・クックとピジョニー・ポールは結婚することになり、スタート神父の許しをもらっていた。露店での商いも、手押し車をおしての行商も、どちらにもしなければいけないことが山のようにあった。

結婚式の日は、ハンナ・ペローが未亡人になって一週間をむかえる日だった。二、三日、神父は彼女を一人きりにして、その生活が人目にさらされないように守った。やがて、彼女が何の感情もみせない様子をみると、できるだけ静かに慰めようと近づいて、彼女の気をひきつける方向に話しかけようとした。彼がつくりだした魅力ある作業は、自分の部屋の中でできるもので、彼女のためにと考えたものだった。だが、彼女はいい加減に仕事をした。長い間ひとりにされると、彼女は床に横になって、椅子に顔をおしつけ、弱々しく泣いていた。だが作業をすることで、手先や頭を使う対象が見つかった。作業につき、スタート神父が作業の大切さを大げさに言ったせいで、彼女の虚ろな心も幾分みたされ、静まっていったのだった。

その朝、ディッキーは歩いていたが、なかば麻痺した状態であり、はげしい憤怒にかられていた。今、なにをしたらいいのだろう? 彼は悪魔と化していた。誰も容赦しないし、どんなことでもやりかねない。数年前の朝、老ベベリッジが言ったことは正しかった。ジェイゴウの民となり、もう、その手中におちた。今や、追放者の烙印は、二重に押されていた。ジェイゴウの者で、しかも父親は絞首刑になった。スタート神父は、仕事のことについて話をしたが、だれが自分に仕事をくれるだろうか。どんな場合でも、そういう目にあうのだろうか? これまでも、なにかいいことがあっただろうか? いや、ない。彼はジェイゴウの人間であって、世界を敵にまわしているのだ。そのなかにあって、スタート神父はただひとり、親切にしてくれるひとだった。その他の連中に関していえば、できるものなら叩きのめしてやりたかった。明日の夜には、やることがあった。そのときまでに、自分の頭が冷めていればだが。キングズランドの建設労働者の作業場だ。屋根裏部屋に事務所があって、共同で使っている机に金があった。トミー・ランが見つけてきたのだが、共同で作業をしなくてはいけなかった。そのためには、この妙な、麻痺した感覚をぬぐい去り、頭をはっきりさせなくてはならない。ずいぶんと涙をながした。いっぽうで、ずいぶんとこらえた。やがて彼の頭は爆発しそうになった。目をはらし、血の気がひいた顔色で、足をひきずるようにエッジ・レーンにはいり、そのままニュー・ジェイゴウ・ストリートへ進んだ。

ジェリー・ガレンのカナリヤは、引き具をつけられ、手押し車につながれていた。ジェリーは、手押し車に布きれや瓶をつみあげていた。ディッキーは立ったまま、ながめていた。カナリーの頭をなでようと考えていたのだが、気持ちをかえ、動かないでじっとしていた。ジェリー・ガレンは、一、二度こっそり様子をうかがいってから、声をかけてきた。「かわいい老いぼれロバだなあ?」

「うん」ディッキーはふさぎこんで答えたが、なかば思いつきで話した。「まもなく釘をうたれてしまうんだ」

「こいつが? そんなことはない。きっとお前より長生きするよ。死んだりなんかしない」

「死ぬのさ」ディッキーはいうと、前かがみになった。

そうだ、カナリヤは死んだほうがいい。他の者も、そうだ。今、ここで静かに死ぬことができれば楽だというものだ。だが、母親と子供たちが望みもなく取り残されるということになれば、話は別だ。母親と子供たちにとって望ましいのは、気楽に姿をくらまして、心地よい場所―たとえばスタート神父の居間であるーで目を覚ますことなのだ。だが、おそらくそこで見つけるものは、とても滑稽なものだろう。

網のように貼りついた、この耐えがたい無感覚は、いったい何なのだろうか。彼には、すべてがはっきりとわかっていたが、投げやりで、ぞんざいな雰囲気があった。安堵感をえられるのは、暴力的な何らかの行動にでた場合であり、たとえば、それはハンマーで粉々に打ち砕いたりするような行為であった。

彼は、廃墟となった家のまえに来た。大騒ぎをして喚く声が聞こえ、三十人から四十人の群衆が杖を振りかざしながら、空き地から流れてきた。

「かかってこい。かかってこい、ジェイゴウ。そこにいるのはわかっている」

戦いだ。それなら、なおのこと歓迎だ。それからダヴ・レーンの連中も歓迎だ。ダヴ・レーンは、嘲りの言葉をわめいていた。「ジェイゴウが喉をきってやる」それから…。

ディッキーは、襲撃の真っ只中にいた。「がんばれ、ジェイゴウ。ジェイゴウ。さあ」公立小学校を通りぬけ、ハニー・レーンをとおって、ダヴ・レーンの領域に入った。ダヴ・レーンの住人たちの小さな集まりは、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。そのすぐあとを、ジェイゴウの連中は走った。曲がり角で待ち構えていたダヴ・レーンの男たちが、いきなり横から襲いかかってきた。ジェイゴウの男たちは、突進をくらって乱れたが、それでも勇敢に闘った。やがて通りは、闘う男たちでいっぱいになった。

「ジェイゴウだ! ジェイゴウが勝つぞ!」

やせ衰え、疲労困憊し、身体を震わせながら、それでもディッキーは虎のように戦った。こん棒を持っていなかったので、ダヴ・レーンの男たちを殴り倒すと、相手のものを奪った。そうして連打しているうちに、自分が強く殴りつけているという感覚が失われてきた。やがて闘っているうちに群衆の中心をぬけ、騒乱の輪の外にとびだした。彼は帽子をひっぱると、後ろに倒れた。ひっくりかえったと言った方がよかった。だが、皮のエプロンをつけた、こそこそとした猫背に気がつかなかった。猫背は、背をむけると逃げ去った。

「ジェイゴウだ! ジェイゴウが勝つぞ!」ディッキーはうめいた。「がんばれ、スタート神父さまの少年たち!」

彼は倒れた。背後から脇に一発くらっただけなのに。路上をのたうちまわり、顔を下にしたそのときに、猫背の姿が目に飛びこんできた。猫背は駆けていた、だが、これは何なんだ、いったい?

叫び声があがった。「刺されたぞ! ナイフでやられた! ディッキー・ペローがナイフでやられた!」

争いは消えた。ディッキーは仰向けにされたが、うめき声をあげ、あえぎながら横たわっていた。血がはねて濡れた両手を持ち上げ、見つめながら、彼は不思議に思った。人々が彼を持ち上げようとすると、血が勢いよくふきだしたので、下におろされた。外科医を呼びに行く者がいた。

「家に連れて帰って」ディッキーは言ったが、その声はかすかで、喉がなっていた。「病院はいい」

医師が、警察官をしたがえてやって来た。彼は傷のまわりの衣服を切り取ったが、頭をふった。肺がやられていた。水が運ばれ、布と古い扉も運ばれてきた。ディッキーを扉にのせ、外科医のところへと運んだ。傍らに付き添っていた二人の少年は、ディッキーの友達を呼んでくるように言いつかった。

花婿と花嫁は、家に戻る途中で知らせを聞いて駆け出した。スタート神父も、あとを追いかけた。

「どうしたの、ディッキー」ポールは、医院の扉のところで立ち止まると、悲鳴をあげ、鎧戸の方へと人をかき分け進んだ。「なにがあったの?」

ディッキーの目は、結婚式の装いをこらして花で飾りつけた帽子を見つめた。唇は、微笑みの影をうかべて動いた。「しあわせに、ピッジ」

彼は手術室に横たえられた。扉のところには、人々が立ち、スタート神父が中に入ってきた。神父は、問いかけるように眉毛をうごかしたが、外科医は頭をふった。時間の問題だった。

スタート神父は身をかがめ、ディッキーの手をとった。「かわいそうなディッキー」彼はいった。「誰がこんなことをした?」

「知らないよ、神父様」

嘘だった。誠実なジェイゴウの男は、嘘をいうものだ。密告したりしない。

「母さんと子どもたちを頼んだよ。神父様」

「もちろんだ、それからなにか?」

「ベベリッジさんに伝えてほしい、他に出ていく方法はなかったって。こうなるほうがましなのだと」

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