マンアライヴ

一部 イノセント・スミスの不可解な事件

 

一章 いかにして強風がビーコン・ハウスに吹いたのか

 

一陣の風が西の空の高いところで吹きはじめたが、それは理性を欠いた幸福感が高まっていくときの有様にも似たもので、風はイングランドを東に横切って猪突猛進していき、そのあとに残されたものは、森の冷え冷えとした香りであり、海の冷ややかな興奮であった。風はあまたの煙突に入り込み、そこかしこの街角にふきつけたものだから、葡萄酒の大瓶のように人を活気づけたかと思えば、拳固を一発みまったかのように驚かせたりもした。複雑に入り組んだ屋敷の、こんもりとした緑にかこまれた家の奥にまで、風は入り込み、そうした屋敷の奥にある大広間を風がかきまわす様子は、家庭のなかで爆発が起きたかのようであった。床には教授たちの論文が散らばってしまい、逃亡者を追いかけるときと同じくらいに、かけがえのないものに論文が思えた。かたや蝋燭も吹き消されてしまい、その灯りの下で、「宝島」を読んでいた少年は、騒々しい暗闇につつまれた。かくして至るところで、風は劇的事件をひきおこしながら、ありふれた人生を変えていき、危機を告げるトランペットを国中に響かせた。数多の母親がみすぼらしい裏庭で眺めていたのは、洗濯用ロープにつるされた、とても小さなシャツ五枚で、その様子は、やや辛いところのある悲劇を眺めるようであり、あたかも、自分の五人の子供たちをつるしてしまったかのようだった。そのとき風がふいてきた。そして風の勢いがあまりに強く、蹴りつけてきたものだから、まるで五人の、丸々とした小僧たちが、シャツに飛びこんだかのようになった。すると抑圧されてきた潜在意識の奥底で、母親がおぼろげに思いだしたのは、こうした事柄について、祖先が記した出来の悪い喜劇であったが、それは妖精がまだ人間の家に住んでいた頃の喜劇だった。数多の少女が気づかれることもなく、周囲に塀がめぐらされ湿り気をおびた庭で、ハンモックに身を放り出していたが、その他の人と交わろうとしたがらない有様ときたら、まるでテムズ河に身を投げた人のようであった。そのとき、例の風がふいてきて、木の塀をゆさぶって引き裂いたものだから、ハンモックが風に持ち上げられた。バレーのバロンのように宙に静止して、風が少女に見せたものとは、はるか向こうにある風変りな形をした雲であり、はるか下のほうで光り輝く村の映像であった。それは妖精の舟に乗りながら、天国をすすんでいくかのような光景であった。数多の官吏や牧師が埃をかぶって、遠くのポプラ並木をとぼとぼと歩きながら、こう考えるのも百回目になるのだが、その木々ときたら、葬儀馬車の羽飾りのようであった。そう思ったとき、この目に見えない力が木々をとらえ、ゆすぶったものだから、道行く人の頭のまわりに葉が落ちてきて、まるで花飾りの輪のようにも、天使の羽があいさつをしているようにも見えた。そのおかげで心がふるい、信頼する気持ちが強まったのだが、その頼もしさは諺にでてくる昔の風の比ではなかった。なにしろ、この風は良い風で、誰も傷つけることがないものなのだから。

飛ぶように早い風はロンドンにも襲いかかると、北の高台をのぼり、段々をふきあげていった。そこはエジンバラのように、急斜面をいだいた地であった。昔、まさにこの界隈で、ある詩人が-たぶん酔っぱらっていたのだろう-上の方を見上げて仰天したのは、すべての通りが空のほうにのびているからで、氷河のことやらザイルで互いを結んだ登山者のことやらを何となく思い浮かべたのか、その地にスイス・コテージという名前をつけたのだが、それからその名前を払拭することのできない状態が続いていた。こうした丘陵の或る場所に、灰色の高い家々からなる台地があるのだが、その家の大半は空き家で、スコットランドのグランピアンを彷彿とさせるほど物寂しく、西のはずれのところで台地も狭くなっていた。そのため、一番はずれにある建物-「ビーコンハウス」と呼ばれる下宿家-は、日没のほうへと、その高いけれど狭くて、塔のような先端を忽然とあらわした。それは見捨てられた船の、船首のようであった。

その船には、しかしながら、まったく人がいないわけではなかった。下宿屋の所有者はミセス・デューク(侯爵夫人)某という女性であったが、運命の女神が戦いをいどむのも虚しくなるような、無気力な連中のひとりであった。彼女は、不幸な出来事がすべて起きるまえでも、起きたあとでも、ぽかんと笑みをうかべた。知恵が足りないところがあるから、彼女は傷つくことがなかった。だが働き者の姪が助けてくれるおかげで-むしろ姪に指示されているおかげで-、まだ少しは残っている常連客が、途切れることなく下宿していた。その大半は若いが、気力に欠ける者たちであった。実際のところ、下宿人は五人で、彼らが庭のあたりに憂鬱そうに立っていると、大風が襲いかかってきて、背後の、端にある塔の土台を引き裂いたが、それは突き出た崖の下の方に、海がぶつかって飛び散る様のようであった。

一日中、ロンドンの上のほうにある、家々の立ち並んだ丘には、冷たい雲の丸天井ができ、丘を雲がおおっていた。それでも三人の男と二人の娘たちはやがて気がついたのだが、陰気で、寒々とした庭のほうが、暗く、陰気な室内よりは我慢できるものであった。風は吹きつけて、曇天を左右におしわけると、夕方の黄金色からなる巨大な炉をあけはなった。炸裂した光が解き放たれたのも、空気の噴出音がとどろいたのも、それとほぼ同時に思えた。そのとき風があらゆるものにつかみかかったが、それは締め殺すような猛烈な動きであった。明るい色の、丈の低い草は一方向になぎ倒されて、ブラシでなでつけた髪のようになった。庭のすべての灌木は、根元を強く引っぱられ、まるで首をおさえつけられた犬のよう、さらに葉のかたちまで変わっているのは、大気が乱れ、壊滅させる力が働いたからであった。時おり、小枝がぽきんと折れては、強力石弓から放たれた太矢のように飛んでいった。三人の男達は体をこわばらせ、風におされて後ろにのけぞるようにして立ち、まるで壁によりかかっているかのようであった。二人の淑女は、家の中へと消えた。むしろ本当のことを言えば、二人とも風にあおられて、家の中に吹き飛ばされたのだ。彼女たちの二枚のドレスは青色と白であったが、二輪の大きな花が折れたかのように押しやられ、大風にゆれていた。けっして、こうした詩的な空想は不適切なものではない。それというのも、一日が長く、重苦しく、盛り上がらないまま終わったあとでは、風やら光やらに襲われることが、妙に空想的なものに思えるからだ。草にしても、庭の木にしても、ぴかぴかと光っているのは、善なる、自然をこえた力が一度に働いたからで、その光る様子は妖精の国の炎のようであった。その光景は、見たこともない夜明けのようで、一日の始まりを誤ったかのようであった。

白いドレスの淑女はすばやく家の中に飛び込んだ。パラシュートくらいの大きさの、白い帽子をかぶっていたからで、そんなものを被ったまま外にいては、色あざやかな夕焼け雲のほうへ、ふわりと運ばれてしまっていただろう。彼女が下宿人にとって輝かしい存在であり、貧乏くさいその家で富をにおわせていたのは-そこには友達と一時的に滞在していた-、ささやかながら彼女が遺産相続人であるためで、ロザムンド・ハントという名前の、茶色の瞳に丸顔の娘であったが、意志を曲げないところがあり、やや荒々しいところもあった。富をもちあわせ、性格は陽気で、どちらかと言えば器量よしの範疇にはいっていた。だが、彼女は結婚していなかった。おそらく、それは絶えず周囲に男性が大勢いるせいであった。身持ちが悪いわけではなかったが、中には、彼女のことを庶民だからという者もいた。だが、彼女が優柔不断な若者たちにあたえる印象とは、庶民でありながら、どこか近寄りがたいというものであった。青年たちは、まるで自分がクレオパトラと恋におちたかのようにも、あるいは楽屋口で大女優を待っているかのようにも感じた。たしかに劇場の舞台衣装のスパンコールが、ハント嬢を飾っているかのように見えた。そして彼女はギターやマンドリンを弾き、たえずジェスチャーゲームをやりたがった。そういうわけで、太陽と嵐に空が引き裂かれたそのとき、少女じみたメロドラマが、自分の心のなかでふくらんでいくのを彼女は感じた。大気の調和が砕かれるにつれて、雲がわきあがり、それはまるで長い間期待して待っていたパントマイムのカーテンがあがっていくときのようであった。

奇妙なことに、青いドレスの淑女は、庭で遭遇したこの世の終焉には、まったく動じていなかった。それというのも彼女は、著しく想像力に欠けた、実務的な女性だったからだ。彼女こそが精力的な姪に他ならず、その強さが下宿を衰退から守る唯一の力であった。だが大風が吹きつけ、青と白のスカートをふくらませ、ヴィクトリア時代のフープスカートのような奇怪なかたちになったそのときに、彼女の心をかき乱した意識の奥底にある記憶は物語に近いもので、幼少期、伯母の家にあった「パンチ」の、埃だらけの雑誌にまつわる記憶だった。その雑誌には、フープスカートやらクロッケーの門(フープ)やらの絵が描かれ、何かしら愉快な記事もあって、おそらく、そうした絵もニュースの一部であった。だが、心のなかで感じかけたこの芳香も、すぐに消えてしまい、ダイアナ・デュークは家に入り、それは連れよりも早いくらいであった。背が高く、痩せていて、鼻はかぎ鼻、黒髪という外見のせいで、娘は素速く動いた。体格から言えば、彼女が受け継いでいる血とは、長い形をしていて、用心深いところのある鳥や動物の血で、その姿はグレイハウンドやサギのようであり、また無垢な蛇のようでもあった。家全体が彼女を中心にして回っていて、まるで鋼の軸のようであった。彼女が支配しているというのは間違いであろう。能力があるせいで、彼女にはせっかちなところがあって、まず自分の理性にしたがって行動し、他の者たちはそのあとから行動したのだ。電気工事士がベルを修繕するよりも早く、歯医者が歯を抜くより早く、執事が固いコルクを抜くより早く、無言のうちに華奢な両手を荒々しく動かして、彼女は万事をなしとげた。彼女は軽やかだった。だが軽やかでも、跳ねたりするようなところはなかった。たしかに彼女は地面を蹴りつけたが、それはそうしようと考えての行為であった。地味な女は、苦難をあじわい、挫折すると人はいう。だが更に辛いことだが、美しい女であれば、女らしいことでなければ、すべてのことに成功するかもしれないのだ。

「すごい風、あなたの頭ごと飛ばしてしまいそう」白いドレスの娘は、姿見のほうにむかいながら言った。

青いドレスの娘は、なにも答えなかった。そして園芸用手袋をしまうと、食器棚のところに行き、テーブルクロスをひろげてアフタヌーン・ティの紅茶の支度をはじめた。

「すごい風、あなたの頭ごと飛ばしてしまいそう、と言ってるのよ」ロザムンド・ハント嬢は言ったが、その取り乱すこともなく上機嫌な様子は、歌を歌い、スピーチをしたときにアンコールを求められても、困ったことのない者のような余裕であった。

「飛ばされるのは、あなたの帽子だけよ」ダイアナ・デュークは言った。「でも打ち明けてしまうなら、帽子のほうがまだ意味ある存在だと思うの、時々だけど」

ロザムンドは、一瞬、我儘な子どものような腹立ちを表情にうかべたが、やがて、それは健全なひとのユーモアへと変わっていった。彼女は笑いだしながら言った。「あなたの頭を吹き飛ばすには、よっぽどの強風じゃないと駄目でしょうね」

ふたたび沈黙がたちこめた。夕陽が雲の合間から射しこみ、その部屋は穏やかな輝きに満ちあふれ、光沢のない壁をルビーと黄金にそめた。

「こんなことを言った人がいるわ」ロザムンド・ハントが言った。「冷静でいたければ、心を失えば容易い」

「そんな馬鹿な話、やめてくださる」ダイアナは憤慨したかのように鋭く言い放った。

屋外では、庭は金色の輝きに覆われていたけれど、風が頑固に吹きつけた。庭を固守する三人の男たちもまた、帽子やら頭やらの問題を考えたのだろう。たしかに彼らの様子を見れば、それぞれが帽子にさわる有様は、幾分、その個性をあらわしていた。三人のなかでも一番背の高い男は山高帽をかぶったまま、勇敢にも突風に耐え、風が襲いかかろうとも、その攻撃はむなしく、彼の後ろにある家の、あの陰気な塔に襲いかかるも同じことに思えた。二人目の男は、あらゆる角度から、堅い麦わら帽子をつかんでいたが、とうとう片方の手のひらのなかに握りしめた。三人目の男は、帽子をかぶっていなかった。さらに、その態度からすると、彼はそれまでの人生で、帽子をかぶったことがないように思えた。おそらくこの風は妖精の杖の類のもので、男と女を試すためにあるのだろう。こうした違いにも、三人の男たちの個性がありありとあらわれているからだ。

堅牢なつくりのシルクハットをかぶった男は、柔軟さと堅牢さの見本のような男であった。大柄で、魅力に欠け、この世に飽き飽きとしている男で、周囲の者によれば、彼自身もまた飽き飽きとさせるところがある男だが、癖のない金髪に、整った容貌ながら生気に欠けた顔立ちをしていた。その男は裕福な、若い医師で、その名もウォーナーという男だった。だが最初のうちこそ、その金髪も、面白みに欠けているところも、間が抜けているように思えるのだが、彼が馬鹿でないということは確かなのである。ロザムンド・ハントが、その下宿屋で金のある唯一の下宿人だとすれば、彼は今までのところ、なんらかの名声を見つけた唯一の下宿人であった。彼の「下等動物の痛みの蓋然的存在」という協議は、科学界にあまねく歓迎され、根拠がしっかりしていると同時に斬新的なものとして受けとめられた。つまり、彼は疑いようもなく頭脳をもちあわせていた。ただし彼を責めるほどのことではないが、おおかたの男たちにすれば、その頭脳は火かき棒で突っついて分析したくなる類のものであった。

帽子をぬいだり、かぶったりしている若い男はアマチュア科学者のはしくれで、ウォーナーを崇拝する様子は気真面目な、若々しさがあった。実際、彼が招待したからこそ、この名高い医師はここにいるのだ。ウォーナーは、この倒れそうな下宿屋に住んでいるのではなく、医師たちが居をかまえるハーレーストリートに住んでいた。この青年は、三人のなかでも一番若く、端正な容貌をしていた。だが彼は、男であれ女であれ、容姿端麗でありながら面白くないという運命にある人々の一人であった。茶色の髪も、濃い肌も、おどおどしたところも、彼は繊細な特徴をなくしたかのようで、茶と赤がにじんだようになって、顔を真っ赤にして立ち、風にあらがって瞬きをしていた。彼は、人目につかないというところが目立つ類の人々の一人だった。皆が知っていることだが、彼はアーサー・イングルウッドという名の独身男で、品行方正かつ、たしかな知性の持ち主で、自身のささやかな金で生活しながら、写真と自転車という二つの趣味の陰に自分を隠していた。だれもが彼のことを知っているのだが、じきに忘れてしまうのだった。彼がそこに立って、黄金色の日没のまばゆい光のなかにいても、ぼんやりとしたものに包みこまれ、彼自身の、赤茶色をしたアマチュア写真の一枚のようであった。

三番目の男は、帽子をかぶっていなかった。痩せた男で、光をうけて、狩猟用の服をきた姿がぼんやりみえた。口にくわえた大きなパイプのせいで、彼は余計痩せてみえた。物憂げな、皮肉が好きそうな顔をしていて、群青色の髪に、アイルランド人の青い目、青ざめた俳優のような顎の持ち主だった。たしかにアイルランド人ではあったが、俳優ではなかった。ただし、昔、ミス・ハントのジェスチャー当ての遊びをしたときのことは例外である。実際のところは、無名の、生意気な新聞記者で、マイケル・ムーンという名であった。彼は、昔、何となく弁護士(バー)になるものと思われていた。だが、面白くないウィットをきかせてウォーナーがよく言ったものだが、仲間たちが彼を見かけたのは、別な種類の居酒屋(バー)であった。しかしながらムーンは酒を飲まなかったし、酔っぱらうことも頻繁にはなかった。彼は、下流の仲間を好む紳士にすぎなかった。これは上流社会より下流の仲間のほうが静かなせいでもあった。もしバーの女給仕と話をして楽しんだとしても-明らかに彼は楽しんでいた-、それは主に女給仕のほうで話をしてくれるからだ。さらにムーンは他の才能を発揮して、バーの女をよく手伝った。その奇妙な性癖とは、彼のように知的で、野心のないタイプの男たちすべてに共通するもので、自分より知的に劣る者たちと出かけるという性癖であった。同じ下宿には、モーゼス・グールドという名の、小柄で、快活なユダヤ人がいたが、黒人の活力と育ちの悪さをあわせもつ男であったので、ムーンは大いに楽しみ、彼を連れて居酒屋を訪ねあるき、その有様は猿をつれてまわる猿回しのようであった。

曇天から吹きつけた風が凄まじい勢いで一掃すると、空はだんだん透きとおってきた。青伽藍のむこうにまたつづく青伽藍は、天国にひらかれているかのようであったその風景を見た者なら、ついに光りよりも軽やかなものを見つけたような思いにかられるだろう。しんとした光がふりそそぐなか、すべてのものが本来の色を取り戻した。灰色の幹は銀色に、泥色の砂利は黄金色になった。一羽の鳥が羽ばたき、地に舞い落ちる葉のように木から木へと飛び移ったが、その茶色の羽は炎に彩られていた。

「イングルウッド」マイケル・ムーンは言ったが、その目は鳥を見つめていた。「君にはだれか友達がいるのか?」

ウォーナー医師は話しかけられた相手を勘ちがいしてしまい、輝きあふれる顔をむけて言った。

「ああ、いるとも。しょっちゅう外出するよ」

マイケル・ムーンが、痛々しく顔をしかめてみせてから、本来、答えるべき相手からの返事を待つと、しばらくするうちに返事はかえってきて、その声は奇妙なまでに冷静で、若く、すがすがしいのに、あの茶色く、埃まみれの者の体内から発せられているのであった。

「実のところ」イングルウッドは答えた。「残念ながら、昔の友達連中と連絡がつかなくなっているんだ。今までの最高の友人は学校にいた頃の友人で、スミスという名前の男だ。君がそんなことを話題にするなんて奇妙な一致だ。今日、ぼくは彼のことを考えていたんだよ。七、八年、彼とは会っていないのに。彼とは学校で一緒に、科学を学んでいた。賢い男だったけど、奇妙なところがあった。やがて彼はオックスフォードに進み、ぼくはドイツへ行った。事の展開は、少し悲しいものだった。ぼくはしょっちゅう遊びに来るように言ったのだが、何も返事がかえってこないので問い合わせをしてみた。仰天したことに、可哀想なスミスは気が狂っていたよ。無理もないが、説明には少しはっきりしないところがあった。彼が回復したという者もいる。だが、いつもそういうことを言う者たちもいるからな。一年前、ぼくは彼から電報を受け取った。だが残念ながら、電報は噂を裏づけるものだった」

「そんなものだよ」ウォーナー医師は、つまらなそうに同意した。「一般的にいえば、狂気とは不治のものだ」

「正気も、おなじようなものだ」アイルランド人は言うと、物悲しい目で医師を観察した。

「症状は?」医師は訊ねた。「その電報は、どんな内容だったのか?」

「こうした話をするときに、冗談みたいなことを言うのは恥ずかしい限りだが」イングルウッドはいい、心底恥ずかしそうな素振りをみせた。「あの電報はスミスの病気のせいで、スミスのせいではない。そこに実際に書かれていた言葉は、『男が二本足で生きているのが発見された』」

「二本足で生きているだって」マイケルは繰り返すと、顔をしかめた。「たぶん、元気いっぱいで蹴っているという意味の表現なのだろう。正気をなくした人のことは、あまり分からないけど。そういう連中は、蹴っているにきまっている」

「それでは正気をたもっている人々は?」ウォーナーは微笑みながら訊ねた。

「ああ、蹴りつけられるにきまっている」マイケルは、ふと心から言った。

「その電文は、あきらかに狂気にかられたものだ」鈍いウォーナーは続けた。「確認するのに一番よい方法とは、未発達でも普通の人間を参考にすることだ。赤ん坊だって、三本足の男を発見するとは思っていない」

「三本足なら」マイケル・ムーンは言った。「こんな風の日には都合がいいだろうなあ」

先ほどの大気中の荒々しい乱れのせいで、彼らは平静さを失い、庭では木々が黒く焼けただれて倒れていた。そのむこうには、ありとあらゆる物が偶然にも集まり、疾走する風に急かされていた。藁、小枝、敷物、紙、さらに遠くには帽子がひとつ消えようとしていた。だが消えたように見えても、そこで消えたわけではなかった。数分の間隔をおいた後に、かれらの視界には帽子がふたたび入ってきたが、どんどん大きく、近くに見えてきた。白のパナマ帽のようで、天国に舞い上がる様子は風船のようであり、束の間、前後にゆれる様子は壊れた凧のようであった。やがて、帽子は散りゆく葉のようにためらいがちに、彼らがいる芝生の中央に着地した。

「いい帽子なのになくした者がいるらしい」ウォーナー医師が簡潔に言った。

彼が話したそのとき、別の物体が庭の塀をこえ、はためくパナマ帽のあとを追いかけ飛んできた。それは緑色の、大きな傘だった。そのあとで、ずいぶん大きな黄色の旅行鞄が唸りをあげながら飛んできた。さらにそのあとには人影がつづき、それは脚でできたプロペラをつけているようでもあり、マン島の盾に描かれている三本脚のようでもあった。

だが雷光のせいで、その脚は五本にも、六本にも見えたけれど、二本脚のうえに留まった姿は、あの奇妙な電報の男さながらであった。それが形をとると、明るい色の髪をした大男が、休日の緑色の服装であらわれた。その明るいブロンドは風のせいで後ろになでつけられドイツ人のようにも、紅潮した真摯な顔はケルビムのようにも、上をむいて目をひく鼻は犬の鼻のようにも小さかった。しかしながら彼の頭は、肉体がないケルビンとは異なっていた。それどころか幅のひろい肩と巨大な体躯のうえにのっかっているので、彼の頭は奇妙にも、不自然なくらいに小さくも見えた。これは、彼が白痴であるという科学的な理論を提起するもので、さらに彼のふるまいが十分にそれを裏づけた。

イングルウッドが持ち合わせている丁寧さは生まれついてのものながら、やや困惑する場面もあった。彼の人生は、助けの手をさしのべようとしているのに、その手がさえぎられることが多いものだった。緑の服に身をつつんだ大男が、明るい、緑色のバッタのように壁を跳び越えてくるという仰天するような出来事に遭遇しても、自分のことよりも他人を優先するという、彼のつまらない習慣は麻痺することなく、とばされた帽子にも同様に立ち向かった。彼が前に踏み出して、緑の紳士の被り物を取り戻そうとしたそのとき、雄牛のような唸り声がしたせいで、彼の顔はこわばった。

「スポーツマンらしくないぞ!」大男は吠えた。「フェアプレーでいけ、フェアプレーで!」それから自分の帽子のあとにつづいて、彼は素早く、でも用心しながら来たが、その目は強烈な光をはなっていた。帽子は最初、しぼんで手持ち無沙汰な様子で、気怠さをただよわせながら、陽光ふりそそぐ芝生の上にあった。だが風があらたに吹きつけると、帽子はパ・ド・カトルの四人舞踏さながらの、無茶な悪戯におどらされ、庭を転がりはじめた。その変な男も帽子のあとを追いかけはじめたが、それはカンガルーの飛び跳ねる姿のようでもあり、張りつめた会話が爆発しているかのようでもあったが、その会話の筋道をたどることは、いつも容易いという訳にはいかなかった。「正々堂々と戦え。正々堂々と戦え…王様のスポーツなんだから…王様の冠を追いかけろ…苦痛をあたえるな…山から北風(トラモンスターナ)が吹いてきた…枢機卿が赤い帽子を追いかける…昔の英国の狩猟は…ブランバー谷から帽子をかぶってはじめた…帽子をかぶって海まで追い詰めた…猟犬をめった切りにした…つかまえた!」

風がうなり声をあげながら吹きつけ、やがて金切り声へとかわると、彼は強く、素晴らしい両脚をけりあげて空に跳びだし、消えようとしている帽子につかみかかった。だが、つかみそこねてしまった。すると手足をほうるようにして、芝生に顔を真っ先になげだした。帽子は、勝利した鳥のように舞い上がった。だが、その勝利は早すぎるものだった。この変わった男は、両手を下にして身を投げ出し、長靴も脱ぎ捨てると、二本の足を宙でふりまわし始めたからで、その様子はマン島の象徴である旗のようであった-そこで、人々はあの電報のことをもう一度考えた-そして実際、彼は帽子を足でつかまえたのだ。風のうめき声が長々と、突き刺すように吹きすさぶと、空を端から端まで引き裂いた。そこにいるすべての男達の目が、目には見えない風のせいで盲となり、これまでに見たこともないような、透きとおった大雨が激しい雨音をたてながら男たちに降りそそぎ、彼らのまわりにある万物にも降りそそいだ。だが、その大男が座った姿勢のまま倒れ、まじめくさった様子で自らに帽子を被せたとき、マイケル・ムーンは気がついた。信じがたい驚きにかられながら、息を殺している自分の姿が、まるで決闘を見つめているようだということに。

こうして烈風が、摩天楼に届くほどの勢いで吹いているあいだに、別の短い叫び声が聞こえ、怒りにみちた言葉をつぶやく声がした。だが、それも一瞬で終わり、いきなり沈黙にのみこまれた。ウォーナー医師の、黒く輝く、円筒の形をした形式ばった帽子は、その頭をはなれ、飛行船のように長く、なめらかな曲線を描きながら、庭の木の頂に達すると、いちばん高い枝にひっかかった。もう一つ、帽子が飛ばされていった。その庭にいた人々は尋常でない旋風にまきこまれ、何かが起こりそうだという思いに襲われた。次に何が襲いかかるのか、誰も分からないようだった。人々に考える暇もあたえず、帽子を追いかけていた男が元気よく大声をあげると、もう木の中ほどにいて、木から木へと飛び移りながら、その力強く、バッタのように折り曲げた足を動かしていた。そして息をきらしながら、謎めいた言葉を発した。

「生命の木よ…ユグドラシルよ…おそらく数世紀かけても、まだ登りきらない木よ…フクロウは帽子に巣をつくり…フクロウから、遠く、遠く離れた時代となっても…まだ侵略者はいる…天国へいってしまったのに…月の男がかぶっている…山賊め…お前のものじゃない…元気のない医者のものだ…庭にいる…あきらめろ…あきらめろ」

その木が揺れ、雷鳴とどろくなか、風にあらがう様子は薊のようで、かがり火のような陽光をさんさんとうけて輝いていた。緑色の、風変りな人影は、赤やら黄金色やらの秋の紅葉に鮮やかに映え、その姿はすでに一番高く、ぐらぐらとしている枝のあいだにあったが、運のよいことに、その大きな体の重みにも枝は折れていなかった。彼がいるのは、最後に散りゆく葉のあいだ、そして最初に輝きはじめる宵の星々のあいだで、彼はまだ陽気に、理性のある口調で、なかば詫びるように呟きながら、少し息をきらしていた。だが息をきらしても不思議はなかった。あれほどの途方もない登場を一瞬でやってのけたのだから。彼はフットボールのように一度、壁に跳ね返ってから、そりのように庭を滑り、それからロケットのように木を登ったのだ。他の三人の男たちは出来事に埋もれ、埋葬されたかのようであり、その上には出来事がまた積み重ねられているかのようだった。そこは荒々しい世界であり、或る出来事がはじまるよりも前に、別の出来事が起きていた。三人の男たちが、皆、最初に考えたのはこういうことだった。三人の男たちがそこに暮らすようになって五年たち、この下宿屋のことはよく知っていた。三人の誰もが活動的で、力強かった。だが、誰も木を登ろうとは思いもしなかった。そのほかに、イングルウッドが最初に感じたのは単なる事実だが、色彩というものであった。明るく生き生きとした葉、寒々とした青空、荒々しい緑の手足、こうしたものを見ているうちに、彼が理性を失って思い浮かべたものとは、幼年期に光り輝いていた何かであり、黄金色の木の上にいる派手な男と似た何かであった。おそらくそれは棒の先の、彩色された猿にすぎないものだろう。なんとも妙なことに、マイケル・ムーンはどちらかといえばユーモアを愛する男であったが、優しい感情を刺激されてしまい、なかば思い出しかけたのは、昔のものもあれば、最近のものもあるが、ロザムンドと演じた芝居で、さらに愉快なことに、思わずシェークスピアを引用しかけている自分に気がついた。

「勇気とは、愛と同じものではないのだ。ヘラクレスのごとき者よ、

それでもヘスペリデスの木を登るのか?」(シェークスピア「恋の骨折り損 四幕三場」)

冷静な科学者である男も、楽しくも、当惑するような感覚におそわれ、それは「タイムマシン」が急発進し、がたがた音をたてながら前に進んでいくときのような感覚であった。

だが彼にしても、これから起きることについての心構えは、まったく出来ていなかった。緑の服を着た男が足にはさんでいるのは、木のてっぺんにある脆弱な枝で、危険な箒の柄にまたがる魔女さながら枝を登っていくと、風通しのよい小枝の巣から、黒の帽子を奪還した。小枝の巣は太い枝の先にあったが、帽子がぶつかったせいで真っ先に壊れてしまい、小枝がからんで出来たその巣は粉々になって、帽子に刻み目をいれ、あらゆる角度から傷をつけた。風やら葉っぱやらが叩きつけていた音も穏やかになり、まるで手風琴のような音にかわっていた。それでも鉤鼻の、丁重な紳士が、帽子のつくりにふさわしい優しさを発揮して、最終的にその場所から帽子を引き離したとは言いがたかった。しかしながら、帽子を見つけても、彼のふるまいは見る人によっては相変わらず変なものだった。彼は帽子をふりながら、大きな声でわーいと勝利の歓声をあげた。そのあと一瞬にして木から後ろ向きに転げ落ちたが、長く、強固な足で木にしがみつき、その有様は猿が尾でぶらさがるかのようであった。こうして頭を下にして、かぶりものをぬいだウォーナーの上にぶら下がりながら、彼が真剣な様子で始めたのは、形のつぶれた、絹の円筒形をしたものを相手の眉の上まで落とすことであった。「すべての男は王である」逆さまになった哲学者は説いた。「すべての帽子は(その理論でいけば)王冠である。しかも、これは天から授かった王冠である」

それから彼はふたたび、ウォーナーの戴冠式をこころみた。だが相手は宙をさまよう王冠から、突然逃げ去った。なんとも奇妙なことだが、今のところ、以前まで被っていた飾りを望んでいないようであった。

「まちがっているぞ、まちがっているぞ、そんな考え方は」世話好きの男は、陽気にうかれて叫んだ。「いつもの服装をしないといけない、たとえ擦り切れたものであってもだ!儀式偏重主義者は、いつもだらしない格好かもしれない。ワイシャツの胸に煤をつけて行ってもいい。でも糊のきいたシャツで行くことが大事だ。狩猟家だって古い外套を着ている。でも、狐狩りをする者が着る真紅の外套だ。シルクハットをかぶるんだ。たとえ、てっぺんがなくなっているにしても。それは価値ある象徴なんだぞ、君。君の帽子をかぶりたまえ。結局、君のものなのだから。帽子の毛羽は木の幹にこすられて、全部なくなっている。ねえ、君。だが、その縁は少しも曲がっていない。ねえ、君。それは昔も、今も世界一上等のシルクハットなのだよ」

「風でもっと遊べばいいのに」彼は幾分興奮しながらいった。「凧をあげるのもいい。だけど、どうして凧だけなんだい?ああ、木に登っているあいだに、風が強い日の遊びを他に三つ考えついたよ。そのひとつを紹介しよう。まず大量の胡椒を手にいれ-」

「思うんだが」ムーンは、せせら笑うかのような穏やかさをみせながら遮った。「君はもう十分面白いものを見せてくれた。質問してもいいかな。君は本業の曲芸師で、巡業中じゃないかと。それとも『元気な男の子』で知られているシリアルの会社、サミー・ジルの移動広告じゃないかって。どのように、しかもどういうわけで、君はその活力を発揮して、塀をよじのぼって、木を登り、この憂鬱な庭にいるわけなのか?ここは少なくとも理性のある者たちが住む住宅地なのに」

見知らぬ男は、大声の男としてはできるかぎりこっそりと打ち明けた。

「ああ、自分の芸をみせたまでだ」彼は嬉々として告白した。「二本の足をつかってやるんだ」

アーサー・イングルウッドは、この愚かしい場の背景のなかに埋没していたのだが、その言葉にびくりとすると、近視の目を細め、襟のカラーをわずかに高くして、相手を凝視した。

「なんとまあ、そこにいるのはスミスじゃないか」彼は、若々しい、まるで少年のような声で叫んだ。そしてしばらく見つめると、「でも自信はないけれど」と言った。

「名刺ならある…はずだ」見知らぬ男は、なぜだか分からないが、重々しい口調でいった。「その名刺には、僕の本当の名前も、肩書きも、勤務先も、この地球上における真の目的も書かれている」

彼はゆっくりと、チョッキの上のポケットから緋色の名刺入れを取り出すと、これまたゆっくりと大きな名刺を見せた。見せられているそのときですら、彼らが想像したのは、とても奇妙な形の名刺で、通常の紳士の名刺とは異なるものだろうということだった。だが、名刺がそこにあったのはほんの数秒間だけだった。アーサーへと渡されると、どういうわけか彼の手からすべり落ちてしまったからだ。耳障りで、凄まじい勢いの大風は、見知らぬ男の名刺を運び去り、この世の不要の紙の山に加えてしまったからだ。こうして強い西風は家全体を揺さぶると、過ぎ去っていったのだった。

Ⅱ 楽観主義者の旅行鞄

 

私たちは皆、幼年時代に親しんだことのある科学についての空想物語のことを覚えている。そうした物語で語られる空想とは、大きな動物も跳ぶことができて、小さな動物と同じくらいに跳ぶことができるというものである。もし象が、バッタと同じくらい力強く跳ぶなら、動物園を堂々と飛び越えて、トランペットのような鳴き声をあげながらプリムローズヒルの丘に降り立つだろう。もし鯨が、鱒のように海から跳ねることができるなら、おそらく人々は顔をあげて、ラピュタの疾走する島のように、鯨がヤーマスの上で跳ねるのを見るだろう。こうした自然の活力は、崇高なものながら、一方でたしかに迷惑なものかもしれない。こうした迷惑が生じたのは、緑の服をきた男が浮かれているせいでもあり、善意にみちているせいでもあった。彼はあらゆる面で大きすぎた。なぜなら、大きすぎるだけでなく、彼は活発だったからだ。運のいいことに身構えることができたので、ほとんどの人々は平静であった。中流どころの下宿屋は-ロンドンの少々劣る地域にあった-、雄牛のような大男のために建てられたものでもなければ、子猫のように興奮する男のために建てられたものでもなかった。

イングルウッドが見知らぬ男のあとから下宿屋に入ると、その男が熱心に(しかも彼個人の意見を)話しかけているせいで、デューク夫人が困っている場面に遭遇した。太って、おどおどした夫人が目をみはって、まるで死んだ魚のように、体の大きな紳士に向かいあっていたのは、彼が下宿したいと丁重に申し出たからで、その男は片方の手には白の幅広の帽子を、もう片方の手には黄色の旅行鞄を持って、そうした荷物を大仰な身振りでしめしていた。幸いなことに、デューク夫人よりも手際のいい姪とその友人が家の中にいたおかげで、契約をむすぶことができた。実際、家中のすべての人々が、その部屋に集まってきた。この事実は、たしかに、この話全体の特色をよくあらわしていた。訪問者は、喜劇における山場の雰囲気をつくりだした。彼は家の中に入ってきたときから、そこを去るときまで、どうにか自分のもとに集まって、嘲りながらも追いかけてくれる仲間をみつけたのだが、それは子供たちがパンチとジュディーを集め、追いかけていくときのようであった。一時間前も、四年前もずっとこの下宿屋の人々は互いを避けてきたが、互いに好意をもつようになってもそれは変わることはなかった。陰鬱で、ひとけのない部屋に滑りこんでは、出て行くときに、彼らはそれぞれの新聞を探したり、めいめいの針仕事を探したりするのだった。今も、皆そろって何気ない風で来たのだが、その興味は様々であった。そこには困惑しているイングルウッドの姿もあったが、あいかわらず赤い影のようであった。困惑などしていないかのようなウォーナー医師の姿もあったが、医師は面白味に欠けるが、しっかりとした人物に見えた。マイケル・ムーンの姿もあったが、謎をかけているように、服装は騎手気取りの下品なもので、その顔にうかぶ物憂げな賢明さとは対照的であった。彼のところへときたのは、さらに滑稽なところがある仲間のモーゼス・クールドであった。彼は短い足を踏みしめて歩き、紫色のネクタイをしめ、神をおそれぬ子犬さながらの陽気さであった。だが犬に似ているのはそれだけではなかった。彼は喜びのあまり踊り、体をゆらしたが、突起した鼻の両側にある二つの、黒い目が陰鬱に光って、黒いボタンのように見えるところも犬のようであった。ロザムンド・ハント嬢の姿もあったが、まだ上等の白い帽子をかぶって、角張っているけれど器量のいい顔は帽子に縁どられていた。彼女が漂わせている、生まれついての雰囲気とは、予定どおりに開催されなかったパーティのために着飾っているという感じがするものだった。彼女にもまたムーン氏のように、新しい連れがいた。この物語がはじまってから初めて出てくる新しい連れという意味であり、実際には古くからの友達であり、保護されている存在でもあった。その連れは細身の、若い女で、濃いグレーの服に身をつつみ、人目をひくようなところは一切ないが、豊かな、赤々とした髪だけは別だった。その髪のせいで、彼女の青ざめた顔は三角形の、先がとがった顔立ちであったが、下にさがった頭飾りも、エリザベス朝風の見事な、幅広の高価な襟飾りも、尖った容貌を強調していた。彼女の姓はグレイのようであった。だがハント嬢は、彼女のことをメアリーと呼んだが、その言いあらわすことのできない調子は、実際のところ、友人となった居候にむけられるものがあった。彼女はきちんとした灰色の服の上に、小さな銀の十字架をかけていたが、この集まりのなかで彼女だけが教会にかよっていた。最後に―重要性が低いということではなく、その逆なのだが―ダイアナ・デュークがでてくると、鋼鉄の目で新参者を観察しては、彼が話す馬鹿げた言葉すべてに注意深く耳をかたむけた。デューク夫人はどうかと言うと、彼に微笑みかけていたが、その話を聞こうなどとは夢にも思っていなかった。彼女はその人生において、だれの言葉も聞いたことはなかった。ある者の言葉だが、そのせいで彼女は生きのびてきたのだった。

それにもかかわらず、デューク夫人としては、新しい客が礼儀正しい様子で、自分に注意をむけていることを喜んだ。彼女はだれの話も真面目に聞こうとしないが、彼女に真面目に話しかけてくれる者もまた、だれもいなかったからだ。彼女が嬉しそうにしたのは、見知らぬ男が目や口を大きく見開き、目眩がしそうな身振りで説明しながら―男は大きな帽子をかぶり、大きな荷物を持っていた―正面のドアからではなく、塀をのりこえて入ってきたことを謝罪したときであった。彼がそうしたのは、不幸にも家族の流儀のせいで、手際よく行動しなければいけないと考えたからであり、自分の服を心配してのことのようであった。

「実際のところ、母は、そういうことには少し厳しいところがありました」彼は声をおとすと、デューク夫人にいった。学校で帽子をなくしたりするようなことを、母は好みませんでした。恰好を綺麗にして、手際よく行動するように教わると、そうした状態にこだわるものなのです」

デューク夫人が弱々しく息をきらして言いながら、すばらしいお母様にちがいないといった。だが彼女の姪は、もう少し事情を調べたいようであった。

「手際よくということについて、妙な考えをおもちですのね」彼女はいった。「もし、それが庭の塀をのりこえたり、庭の木を登ったりということなのでしたら。ふつうは手際よく木登りをしたりできないものですわ」

「でも確かに、この人は、上手に塀をのりこえることができる」マイケル・ムーンはいった。「この目でみた」

スミスは心底驚いた様子で、娘を見つめているようだった。「これは、これは、娘さん」彼はいった。「私は木を整理していたのですよ。去年の帽子がここにあったとしても、かぶりたくはないでしょう? 同じように去年の葉っぱがあったら嫌でしょう? 風は葉っぱをおとしてくれるけど、帽子はどうにも出来なかった。今日、あの風が吹いてくれたおかげで、森は片づいたのですよ。変な考え方じゃないですか。片づけるということが内気で、静かな人のすることだなんて。でも片づけは、巨人にしたら骨折りの苦労なんですよ。なぜかって? 何にせよ、混乱することなく、片づけることはできませんからね。私のズボンを見れば分かります。お分かりになりませんか? 春の掃除をしたことがないんじゃありませんか?」

「まあ、ありますわ」デューク夫人は、熱心とも言える口調で答えた。「そういうことをするのは楽しいことだと思いますわ」初めて、彼女は自分が理解できる二つの言葉を聞いたのだ。

ダイアナ・デューク嬢はすばやく計算をしながら、見知らぬ男を観察しているようだった。やがて彼女の黒い目が心をきめたせいで輝いた。それから彼女は、もしよければ最上階にある特別な部屋を使うことができるのだがと切りだした。すると口数が少なく、感じやすいイングルウッドは、それまでのとんちんかんな問答遊びに気が休まらない思いをしていたので、その部屋まで案内しようと熱心に申し出た。スミスは階段を一度に四段ずつ上がっていき、最後の段のところで頭を天井にどしりとぶつけた。イングルウッドは奇妙な感覚におそわれ、高さのある家なのに、以前よりも高さが低くなったような気がした。

アーサー・イングルウッドは旧友のあとにつづいた。あるいは新しい友達なのかもしれなかった。だが彼には、そのどちらなのか、はっきりと分からなかった。その顔は昔の学友のように見える瞬間もあれば、別の瞬間には似ていないように思えた。イングルウッドが生まれついての丁寧さを捨て去り、いきなり「あなたの名前はスミスではありませんか?」と聞いたのだが、意味のない返答しか返ってこなかった。「きわめて正しい。きわめて正しい。よろしい。すばらしい!」 それはイングルウッドにすれば、よく考えてみると、名前を授けられる生まれたばかりの赤ん坊の言葉のように思え、とても名前を授ける成人の男の言葉には思えなかった。

その男が誰なのかはっきりしないにもかかわらず、不運なイングルウッドは、相手が旅行鞄をあける姿を見ると、その男の寝室に立ちつくして、男友達らしい無能な態度を発揮していた。スミス氏は鞄をあけて荷物をとりだしていたが、それは目眩がするような正確さで、木を登り、屑を扱うかのように、鞄から品々を放り投げていたときと同じ正確さであった。そして自分のまわりの床の上に、規則的な模様を描くようにして、鞄の中の品々をまき散らしていた。

そういうことをしながら、彼は話し続け、しかも幾分あえいでいる様子であった。(一度に四段も登ったせいだが、そのようなことをしなくても、彼の話し方は息切れがしているし、てんでばらばらであったけれど、それでも彼の意見は多少なりとも意義のあるものなのだが、しばしば切断されることのある画像のようなものでもあった。

「最後の審判のようだ」そう言うと彼は瓶を放り投げたが、どうやら瓶は床に着地して、右にゆれていた。「人々の話によれば、広大な宇宙とは…無限なものであり、天文学の領域である。たしかなことではないが。物事はあまりにも相互に近づきすぎていると思う…旅行のための荷造りをした…星はあまりにも近すぎる。ほんとうに…どういうわけだか、太陽は星だが、あまりに近づきすぎると、正しく見ることができない。地球も星だが、あまりにも近くにあるものだから、まったく見ることができない…浜辺にはたくさん小石がありすぎる。全部、輪にしてしまえばいいのに。観察するべき草の葉がありすぎる…鳥の羽冠は脳がよろめく。待っていてくれ。大きな鞄から荷物をだすから…そうしたら正しい場所に並べられるかもしれない」

ここで彼は話をやめたが、それはまさしく息つぎのためで、それからシャツを一枚、部屋の反対の端に投げた。そのあとでインク瓶も投げたところ、シャツを跳び越え、むこうにきちんと落ちた。イングルウッドは周囲を見わたして、この奇妙な、なかば対称的にひろがる無秩序の中にいるうちに、疑念が高じてきた。

実際、スミス氏の休暇の手荷物を探れば探るほど、人々はその手荷物のことが分からなくなった。手荷物の奇妙な点とは、すべてのものが正しくない理由で、そこにあるかのように見えるということだった。すべての人にすれば、二番目にくるような事柄が、彼にすれば一番大事なのであった。彼は深鍋やら浅鍋を茶色の紙で包んでいた。だが思慮に欠ける手伝いは、その深鍋が価値のないもので不必要だと考え、さらに本当に価値があるものとは茶色の紙だと考えた。彼は葉巻きの箱を二、三箱とりだすと、はっきりとした、困惑させるほどの率直さで、自分は喫煙者ではないと説明したが、その箱はずば抜けて優れた透かし彫りであった。彼はまた、赤、白のワインが入った六本の小さな瓶を見せた。イングルウッドはヴォルネィに気がつき―彼はそれが極上のワインだと知っていた―、最初、この見知らぬ男がワイン通なのではないかと考えた。だから呆気にとられたのだが、次の瓶は質の悪い、まがい物の、植民地からのクラレットで―公平に言ったところで―植民地の人間ですら飲まないような代物だった。ちょうどそのとき、彼は気がついたのだが、六本の瓶に貼られているのは、様々な色合いの、金属のようなシールであった。そしてその瓶が選ばれたのは、ただそのシールの色が基本の三原色と準基本三原色-赤、青、黄色、そして緑、紫、橙―であるからのように思えた。イングルウッドは、この男のあまりにも子どもじみている様子に、ぞっとする思いにかられた。スミスは、人間の心理がとりうるかぎりの、純真無垢な男であったからだ。彼は無垢がもたらす喜びを感じていた。たとえば粘りつくガムを愛し、白木を切り落とす様子は菓子を切っているかのようであった。この男にすれば、ワインとはあきらかに守るべきものであり、また同時に謗るべきものであった。それは古風な趣のある、色のついたシロップで、子供らが店の窓に見るようなものであった。彼は支配するかのように話しては、社会の有様に襲いかかった。そして彼は自分を貫き、それは現代劇における超人のようであった。彼があっさり自分を忘れる有様は、パーティに参加した少年のようであった。彼はどうやら赤ん坊時代から青年時代へと一気に滑りこんだので、私たちの大半が成の過程で経験する青年時代の危機を逃してしまったのだ。

彼が大きな鞄を別のところへ移したとき、アーサーは、鞄の側面にはI.Sというイニシャルが刻印されていることに気がつき、スミスが学校ではイノセント・スミスと呼ばれていたことを思いだした。正式なクリスチャン・ネームなのか、それとも行いを語るものだったのか思いだすことはできなかった。彼が別の質問を投げかけようとしたとき、扉をたたく音がした。そしてゴウルド氏の身長の低い姿が見え、その背後には、憂鬱そうなムーンが、ゆがんで高くみえる影のような有様で後ろに立っていた。彼らは、もう二人の男たちに続いて階段をのぼり、さまよえる男たちの群れと行動を共にしているのだ。

「邪魔にならいといいのだが」にこやかなモーゼスは声をかけ、輝くばかりの善良さをみせたが、うわべだけでも謝罪することはなかった。

「本当のところは」マイケル・ムーンは比べると、かなり礼儀正しく言った。「君が部屋で気持ちよく過ごしているか確かめようと考えたのです。デューク嬢はやや―」

「分かっています」見知らぬ男は大声をあげると、彼の鞄からにこやかに顔をあげた。「すばらしいじゃないか? 彼女の近くに行けば、軍歌が聞こえてくる。まるでジャンヌ・ダルクのようだ。

イングルウッドはそう話す相手をまじまじと見つめたが、その有様は素晴らしい妖精物語を聞いた者のよう、そう、その物語には、ささやかな事ながら、忘れられた事実がひとつ含まれているのだ。数年前、彼は自分がジャンヌ・ダルクのことを考えていたのを思い出したからなのだが、それはまだ学生になったばかりで、寄宿舎に入ったばかりの頃のことであった。ずっと前から、友人のウォーナー医師の強烈な理性論のせいで、彼の若々しい無知も、不釣り合いな夢も砕かれていた。ウォーナー流の無神論と絶望的な人間についての考察の影響をうけ、イングルウッドが自分のことを内気で、不十分で、「弱い」型の人間だと考えるようになって久しく、自分はそういう人間なのだから、結婚なんかしないだろうと考えていた。ダイアナ・デュークのことも、物質主義の女中だと考え、彼女に憧れた最初の頃の気持ちはつまらないもので、大学教育を受けている者の一員が下宿屋の娘にキスするなんて、実に面白くない笑劇だと考えていた。それでも軍隊の音楽についての言葉には、妙に心が動かされ、遠くでドラムが聞こえたかのようであった。

「彼女は物事をきちんとしておかないといけないんだ、それが普通のことなんだ」ムーンは言うと、どちらかと言えば小人の部屋のような場所を見わたしたが、傾斜した天井はくさび形をしていて、小人が被る円錐の頭巾のようであった。

「あなたには、いささか小さすぎる箱のようだ」グールド氏はふざけた口調で言った。

「それでも、すばらしい部屋だ」スミス氏は頭を旅行鞄につっこみながら、熱心に答えた。「こうした尖った形をした天井の部屋が好きなんだ。ゴシック建築のようじゃないか。おや、あれは」彼は大声をはりあげると、心底仰天した様子で指し示した。「あの扉は、どこへ続いているのかね?」

「避けがたい死へと、そう言うべきかもしれない」マイケル・ムーンは答えながら、屋根裏の傾斜した天井にはめこまれた、埃によごれ、もはや使用されていない落とし戸を見つめた。「あそこに屋根裏部屋があるとは思えないし、どこに続いているのか分からない」彼がそう言い終わるよりもだいぶ前に、強靭な、緑の足の男は天井にはめこまれた落とし戸にむかって跳びあがると、その下にある出っ張りをつかんで何とかぶら下がり、苦労した挙句、その扉をねじって開けて、あいだを通り抜けながらよじ登った。しばらくのあいだ、象徴的な二本の足が見えたが、その様子は頭を切りとった彫像のようであった。やがて足は消えてしまった。こうして屋根にあいた穴からは、うつろに澄みわたった夕方の空があらわれ、大きな雲がひとつ、様々な色に彩られながら空を横切っていき、それは国全体がひっくり返ったかのようだった。

「やあ、君たち!」イノセント・スミスの大声が遠くから響いてきたが、それは明らかにはなれたところにある小尖塔から聞こえてきた。「ここに登っておいで。それから僕に食べ物と飲み物も持ってきて。ピクニックにもってこいの場所だ」

ふと衝動にかられ、マイケルは小さなワイン瓶を二本つかむと、拳のなかに固く握りしめた。アーサー・イングルウッドは、まるで催眠術にかけられたように、ビスケットの錫の缶と生姜のはいった大きな瓶を手探りで探した。イノセント・スミスの巨大な手が隙間から現れる様子は妖精物語の巨人のようであったが、これらの捧げ物を受け取ると、高いところにある家へと立ち去った。そこで二人は窓から身をのりだした。二人とも活発で、体育が得意だったのは、イングルウッドは衛生学をとおした関心から、そしてムーンはスポーツへの関心からであったが、それは平均的なスポーツマンがいだく関心と比べれば、つまらないものでもなければ、不活発なものでもなかった。ふたりがともに目眩がするような完璧な感覚におそわれたのは屋根の扉がひらかれたときのことで、それは空のなかの扉が突如開かれたかのようなものであった。ふたりは登ろうと思えば、宇宙という屋根を登ることもできるだろう。彼らは二人とも、長いあいだ、知らないうちに凡庸なものに閉じ込められてきていたが、ひとりはそれを滑稽なことだと考え、もう一人は由々しい事態だと考えていた。ふたりはともに男だったが、そのなかの感傷的傾向は決して死んではいなかった。だがモーゼス・グールドが抱いたのは感傷に匹敵するだけの軽蔑で、ふたりの自殺的行為の体操を軽蔑し、その意識下にある超越的な思考も軽蔑した。そこで彼は立ったまま、こうした事柄を笑ったが、その笑いは人種を異にするもので、恥知らずな合理性があるものだった。

並外れたスミスは、煙突上部の通風管にまたがったところで、グールドが続いていないことに気がつき、その子供じみたて親切なところやら、善良な性質やらに駆り立てられ、屋根裏へと潜り込んで、グールドを元気づけ、登ってくるように説き伏せようとした。イングルウッドとムーンだけが、スレート屋根の長く、灰緑色の棟に取り残されると、二人は樋に足をかけ、煙突の通風管にもたれ、互いを不可知論者らしい様子で見つめていた。彼らが最初にいだいた感情とは、ふたりは永遠のなかに入ってきたのだというものであり、また、その永遠とは逆さまの世界であった。ふたりに思い浮かんだ永遠の定義とは―彼が入った世界とは、明瞭で、明るい無知の光に照らされたところで、すべての信念がはじまったところだということであった。彼らの上にひろがる空には、神話があふれていた。天空は奥深く、あらゆる神がいるように思えた。天空のまわりが緑から黄色へと変わりゆく様子は、まだ熟れていない、大きな果物のようであった。太陽が沈んだところは檸檬の色をしていた。東付近は光沢のある緑色で、淡緑色の西洋スモモを思い出させた。だが空一面にはまだ寂寞とした日の光が漂い、うす暗がりがひそんでいる気配はなかった。この輝く、淡い緑色の空のあちらこちらに散らばっているのは、インクをながしたような紫色の雲であったが、その雲が流れ落ちていく大地は、途方もなく大きな透視画のなかのようだった。そうした雲のなかには、たっぷりとした司教冠をかぶり、たっぷりとした髭をはやし、ぐずぐず泣きごとをいうアッシリア人の面影を宿したものがあり、巨大な頭を下にむけたまま、天国から飛びだしてきたようなその形は、いわば偽のエホバさながらで、おそらくはサタンであった。ほかの雲はみな、不自然なまでの小塔に飾られた形をしていて、まるで神の宮殿がアッシリア人のあとから放り出されたかのようであった。

しかしながら、虚ろな天国はしんとした破局につつまれているが、ふたりが腰をおろしている建物の上部は、天とはまさに対照的に、小さく、些細な音があちらこちらから聞こえた。眼下に走る六本の通りでは、新聞売りの少年が声をはりあげ、礼拝堂へと誘う鐘の音が聞こえた。下の庭から、話声も聞こえてきた。こらえきれないスミスが、階下のグールドのあとを追いかけたにちがいない。彼の熱心かつ嘆願するような声が聞こえてくるし、そのあとからユーモアをあまり持ち合わせていないデューク嬢が抗議する声も聞こえ、さらにはロザムンド・ハントの若々しい笑い声が聞こえてくるからだ。大気は、嵐のあとに訪れる、あのひんやりとした冷ややかな優しさを漂わせていた。マイケル・ムーンが、真剣な様子で空気を味わったのは、もう安物のクラレットの瓶をあけてしまっているからで、その瓶をほぼ一気にあけてしまったのだ。イングルウッドは生姜をゆっくりと齧り、その様子には頭上の空と同じくらいに測りがたいまでの重々しさがあった。すがすがしい大気が混ざりあっていき、庭園の土壌の香や秋薔薇の最後の花の香をかいだような思いに人々はかられた。突然、暗がりに沈んだ部屋から、はじけるような澄んだ音色がきこえてきたが、その音は、ロザムンド嬢が長い間忘れられていたマンドリンを取りだしたということを告げていた。最初、音程がいくつか聞こえ、遠方から響く鐘のような笑い声に近い音がした。

「イングルウッド」マイケル・ムーンが言った。「ぼくがならず者だという話を聞いたことがあるか?」

「そんな話は聞いたことがない。聞いても信じない」イングルウッドは、妙な間を置いてから答えた。「でも君が、いわゆる野育ちだと聞いたことがある」

「ぼくが野蛮だというような話を聞いたとしても、そんな噂は否定すればいい」ムーンは、並はずれた冷静さで言った。「ぼくは従順だ。とても従順だ。はいつくばっている獣のなかでも一番従順だ。同じ種類のウィスキーをたくさん飲むけれど、それも毎晩、同じ時刻に飲む。同じ量のウィスキーを飲み過ぎるくらいだ。パブにも同じ軒数だけ行く。藤色の顔をした、忌々しい、同じような女たちにも会う。同じ数の、汚らしい話も聞く。だいたい同じように汚らしい話だ。友達のイングルウッドに確かめればいいが、おまえが見ているのは、文明のせいですっかり従順になった男だ」

アーサー・イングルウッドは相手を見つめたが、屋根から落ちそうになるものを感じていた。そのアイルランド人の顔はいつも不気味であったけれど、今では魔力にちかいものが宿っていたからだ。

「あの男は退屈なんかしてない」マイケルは、断固として言った。「僕が言いたいのは、あのスミスとか言う男だ。彼の狂気のなかにも、なんらかの理論があると思う。彼は周囲を不思議の国に変えることができるようだが、そうするのも平凡な道から一歩踏み出すだけだ。あの跳ね上げ戸のことを思いついた者がいるだろうか。このクラレットはなんとも不味い味がする植民地の代物なのに、煙突の通風管のあいだで飲むだけで、こんなに美味しくなると考えた者がいるだろうか。おそらく、こうしたことが妖精の国にはいる真実の鍵なんだ。おそらく、おせっかいなゴールドも、嫌な味の、小さなエンパイアー・シガレットを吸うときは、竹馬とか、そういう場所にするべきだ。おそらく、デューク夫人の、冷たい羊の脚の料理にしても、木のてっぺんで食べるなら美味しいのだろう。おそらく、僕のオールド・ビルのウィスキーはなんとも不味くて汚らしいし、しとしと降りつづける霧雨のような味がするけれど…」

「自分にそう厳しくなるものじゃない」イングルウッドはたしなめたが、その口調には不安を感じさせる苦悩がにじんでいた。「退屈なのは君のせいでもなければ、ウィスキーのせいでもない。ふつう人々は持ち合わせていないものなんだよ。つまり僕のような凡人は、と言いたいのだが。ぴったり同じ感情は持ち合わせていないんだ。そうした感情は、どちらかと言えば平凡なものであったり、うまくいかないものであったりするものだけれど。だが世界は、そう出来ている。まったくのところ生き残り戦だ。ある者たちは、ウォーナーのように、進歩を追いかけるように出来ている。いっぽうで、ある者たちは、僕のように沈黙を飾るように出来ている。自分の気質はどうすることもできない。僕よりも君のほうがずっと賢いよ。それでも君は、可哀想な文学野郎の、自由奔放な生き方を演じないではいられない。かたや僕は、つまらない科学野郎の疑念やら疑いやらを感じないではいられない。それは魚が空中を漂うことができないのと同じだ。シダが弧を描くのと同じだ。人間とは何か。ウォーナーが、あの講義で言っていたようなものだよ。人間とは動物の種族で、しかも異なる種族から成り立っているものだ。その動物とは、人間として見せかけられているものだ。」

眼下に広がる薄暗い庭園で、ぶんぶん響いていた会話が突如やぶられたのは、ハント嬢の楽器のせいで、それは激しく爪弾かれ、いきなり民衆にむけられた大砲さながら、元気のいい調べを奏でた。

ロザムンドの声が、間の抜けた、流行りの馬鹿な歌にのって、朗々と、力強く響いてきた。

『黒ん坊が歌っているよ、昔の農園の歌を。

歌っているよ、私たちが歌ったように、過ぎ去りし日々のことを』

茶色の目に物憂げな色をたたえながら、イングルウッドが服従の言葉を呟いているのは、その天真爛漫かつ情熱をこめた調べに対してであった。だがマイケル・ムーンの青い瞳に宿り、無情に輝いている光は、イングルウッドの理解をこえたものであった。幾世紀ものあいだ、多くの村や渓谷は今より幸せであっただろう。もしイングルウッドやその同郷の人々がその輝きが何であるかを理解し、その輝きがきらめいた刹那に、それがアイルランドの戦いの星であると推察していたならの話だが。

「何であろうと、人間性を変えることはできない。人間性は、宇宙に定められたものなのだから」イングルウッドは低い声で続けた。「ある男は弱く、ある男は強い。そこで私たちができることは只ひとつ、自が弱いと知ることだ。これまで幾度も恋におちてきたけれど、何もすることはできなかった。自分が飽きっぽい男だということを思い出したからだ。自分の意見はあるけれど、それを押すだけの厚かましさを持ち合わせていない。なぜなら、しょっちゅう意見をかえてきたからだ。ここが肝心なことなのだよ、君。私たちは自分を信じることはできない。しかも、その気持ちをどうすることもできない」

マイケルは身をおこすと、平衡を保ちながら立ったが、そこは屋根の端にあたる危ない場所で、その姿は切り妻に飾られた黒の彫像のようであった。彼の背後にひろがる雲は雲頂高くそびえ、この世のものとは思えない紫の色をしていたが、雲がむくむくと真逆の形に崩れていく有様は、しんと静まりかえったなかで、天が混乱しているようであった。雲の回転のせいで、その黒い人影もゆれているように見えた。

「さあ、僕たちは…」彼は言うと、いきなり黙り込んだ。

「さあ、何だって?」アーサー・イングルウッドは尋ねながら立ち上がったが、その動きは素速いものでありながら、用心深くもあった。友人が話している途中で、何らかの困難に気づいたように思えたからだ。

「これから出かけて、出来ないようなことをやろうじゃないか」マイケルは言った。

それと同時に屋根裏のはね上げ戸が足もとでひらき、そこにはモモイロインコのように色鮮やかな髪に、顔を紅潮させたイノセント・スミスがいて、彼はふたりにむかって呼びかけ、降りてこいよ、コンサートが盛り上がっているし、これからモーゼス・グールドが『若きラッキンバー』を朗唱するからと言った。

イノセントの屋根裏部屋におりると、なんとも楽しい手荷物に危うく転びかけた。イングルウッドは、散らかった床を見つめるうちに、子ども部屋のように散らかった床がなんとなく心にうかんできた。そのためアメリカの、大きなレボルバーに気がついたときには、彼はたじろぎ、むしろ動揺したと言ってもよかった。

「なんと」彼は声をあげると、きらめいている鋼の銃身から退いたが、それは蛇に出くわして後ずさりをしている男のようであった。「君は泥棒が怖いのかい?それにしても、こんなマシンガンをもって、いつ、どうやって死を扱うつもりかい?」

「とんでもない」スミスは言うと、銃を一瞥した。「銃をとおして扱うつもりでいるのは命だよ」それから彼は階段をかけおりていった。

三章

 

目印となる旗

 

明くる日ずっと、ビーコン・ハウスは狂ったような感覚にとりつかれ、まるで皆が誕生日をむかえたかのようであった。制度について語るとき、血の通わない、痙攣をおこしているものとして話すことが流行っている。だが本当のところ、人々がめったにないくらいに高揚しているときは―自由を満喫したり、創造にあけくれて活気づいているときには―つねに制度をつくりだす必要にかられるものだし、実際、つねに制度をつくりだしている。人々は疲れているときは無政府状態に陥るが、陽気で、元気がみなぎっているときは、いつも制度をつくりだす。こうした事実は、教会の歴史にも、共和党の歴史にもあてはまる真実であると同時にまた、ありふれた客間での遊びや、著しく知性に欠けた草っぱらでの遊びにもあてはまる真実だ。人が自由になるのは、何らかの組織が自由にしてくれるときようやくだ。自由というものが存在できるのは、政府が自由であると宣言してようやくだ。道化者のスミスのような荒々しい支配者でも、それでも支配者であることにはかわりない。なぜなら至る所に、狂気のような規制と条件の山をつくりだしているからだ。彼の狂気じみた生き方が、みんなを圧倒した。だが、破壊するような形で表現されたのではなく、むしろ目眩がするような、ぐらぐらとするような形で表現された。趣味がある者であれば、誰でも、その趣味がなかば組織へと転じていくことに気がつく。ロザムンドの歌は、ある種のオペラと合体するように見えた。マイケルの冗談や記事は雑誌になるように見えた。彼のパイプと彼女のマンドリンが、ふたりの間で奏でているのは、喫煙が許されたコンサートのように見えた。恥ずかしがりやで、当惑気味のアーサー・イングルウッドは、自分の重要性が増していく気持ちに抗っていた。彼は、実際には大したことがないにもかかわらず、自分の写真が画廊にかざられ、自転車が競技大会にでているような心地がしていた。だが誰も、こうした即興でつくられた状況や務めのあら探しをする時間はなかった。荒々しくも、つながるように互いを追いかけているからで、それは散漫な話し手が語る話題を追いかけるようなものであった。

こうした男との生活は、楽しい障害物からなる障害物競争であった。素朴で、ありふれた品々から、彼が大げさに巻き糸を引く様子は、魔術師のようであった。可哀想なアーサーの写真ほど、おどおどしていて、個性に欠けるものはなかった。しかしながら突拍子もないスミスが、晴れた日の朝、熱心に彼を手伝うと、擁護しがたい写真がひとつづきになって「道徳的な写真」と描写されるものとなり、下宿屋のまわりに広がりはじめた。それは昔の写真家が冗談でつくったもので、一枚の感光版に同じ人物が二人写り、自分自身とチェスをしたり、夕食をとったりしている写真だった。だが、この感光版のほうが荒唐無稽で、野心的なものであった。「ハント嬢、我を忘れる」という写真では、うっとりと会釈している彼女に、もう一人の彼女が無知で、ぞっとする視線をあびせていた。あるいは「ムーン氏が自分自身に問う」という写真では、反対尋問にかけられ、狂気にかられた者としてムーン氏の姿があるのだが、もう一人のムーン氏は長い人差し指をのばして、おどけた雰囲気を漂わせながら尋問中の自分を指さしていた。ある写真は、かなり成功をおさめている三部劇で、イングルウッドが、イングルウッドを認識しているというものだった。イングルウッドは、イングルウッドのまえにひれ伏していた。さらにもう一人のイングルウッドは、傘でイングルウッドを激しく叩いていた。イノセント・スミスは写真を引きのばしては、玄関ホールに貼ろうとしているのだが、いわばフレスコ画のようなもので、そこにはこう銘文が記されていた。

「みずからを敬い、みずからを知り、みずからを律する。

こうした三つのことだけで、ひとは気取り屋になる」テニスン

ダイアナ・デューク嬢が家事にかける活力ほど、平凡なものもなければ頑迷なものもないだろう。だがイノセント・スミスは、ひょんなことから発見したのだが、彼女のつましい婦人服仕立ては、服への女性らしい関心をともなうものであり、女性らしいものでありながら、けっして自尊心をそこなうことのないものであった。その結果、スミスは、彼女を悩ますことになる理論を考えたのだが-彼は真剣であった-、その理論とは、婦人方が節約と気品を結びつけることになるのは、明るいチョークで無地のドレスに模様を描き、そのあとで再び模様を拭うときだというものであった。彼が設立したのは「スミスのすぐ仕立てる洋服縫製会社」で、それは二枚の衝立を使い、厚紙のプラカードに、色鮮やかで柔らかいクレヨンで描いたものだった。ダイアナ嬢が実際のところ彼に放ったのは、不要となった黒のオーバーオールと作業用の婦人服で、服飾仕立て人の才能を鍛えようとしてのことであった。彼はすばやく彼女のために、赤と金色のひまわりに輝く衣類を仕立てた。彼女が肩のところにその服をあてると、女王のように見えた。そしてアーサー・イングルウッドは数時間かけて自転車をきれいにしてから(いつもながらの没頭している様子で)、ちらりと見上げた。彼の火照った顔がますます赤くなった。ダイアナが戸口のところに立ち、一瞬、笑ってみせたからだ。彼女の黒っぽい部屋着が豪勢なのは、孔雀の装飾が大きくほどこされ、緑や紫に彩られているせいで、「アラビアンナイト」の秘密の庭のようであった。痛みとか喜びとか名づけるには動きが早すぎる疼きが、彼の心をかけめぐり、それは旧世界の細身の剣レピアのようであった。彼は、数年前、彼女のことを可愛らしいと考えていたことを思いだしていた。だれとでも恋におちそうな頃のことだった。だが、それは前世でバビロニアの王女を崇拝していたことを思い出すようなものだ。彼が彼女のことをちらりと見ると(しかも、そうすることを待っている自分に気がついた)、紫と緑のチョークは払い落されてしまい、彼女は瞬時に仕事用の服装に戻っていた。

デューク夫人について言えば、この未亡人を知る者なら誰もが考もしないだろうが、自分の家をひっくり返すことになる侵入でも、彼女が意気揚々と阻止する筈がなかった。だが正確に観察している者は真剣に信じたのだが、彼女はそうした混乱を好んでいた。それというのも、彼女は心のなかで、すべて男というものは同じように狂気にかられた、荒々しい獣で、まったく別の種であると考えているような女性のひとりだからだ。さらにスミスの煙突の通風管へのピクニックや深紅色のひまわりには、イングルウッドの化学薬品やムーンの嘲笑よりも異常で、説明のつかないものがあると彼女が思っているかどうかは疑わしかった。一方で、礼儀正しさは、だれもが理解できるものであった。スミスのふるまいは因習にとらわれないものながら、礼儀正しくもあった。彼女に言わせると、彼は「本当の紳士」であった。ただ彼女が言いたいのは、「親切な男」だということなので、まったく意味が違っていた。彼女は食卓で上座につくと、何時間も太った手と手をかさね、微笑みをうかべていたが、そのあいだ皆はいっせいに話しをしていた。少なくとも、唯一の例外はロザムンドの付き添いのメアリー・グレーで、彼女の沈黙は何よりも熱意をあらわしているようなものであった。話しはしないのだけれど、彼女は今すぐにでも話すかのように思えた。おそらく、これこそが付き添いの役割を説明している。イノセント・スミスは、他の冒険に身を投じたときのように、彼女に話をさせようとする冒険に身を投じたように見えた。成功はしなかったけれど、無視をされたわけでもなかった。彼が何かをなしとげたのなら、この静かな人物に注目を集めたということであり、また彼女を幾らかでも遠慮がちな存在から不思議な存在へと変えたということであった。だが彼女が不思議な存在だとしても、その不思議はまだ生じたばかりで、踏み荒らされていることなく、まるで空の不思議のようであり、春の森の不思議のようであった。たしかに彼女は他の二人の少女より年上であったけれど、彼女には早朝の情熱があり、若者の初々しい真剣さというものがあった。それはロザムンドが金をつかううちに失ったように思えるものであり、ダイアナが金を守ろうとして失ったように思えるものであった。スミスはしげしげと彼女をながめた。彼女の目にしても、口にしても、間違った感じで顔に配置されていた。だが、その間違った配置こそが正しい配置なのであった。彼女は顔ですべてを言い表すこつを心得ていた。彼女の沈黙とは、いわば信頼できる拍手であった。

だが休日は一日というよりは、一週間のように思え、浮かれ騒ぎながら試行錯誤していくうちに、ある試みがひときわ目をひいた。べつにその試みは、他の試みと比べて愚かな訳でもなければ、成功をおさめている訳でもなかった。だが、その試みから生まれた愚かさのせいで、風変わりな出来事があふれだし、追跡する必要がでてきた。だが、どの悪ふざけも自然にはじけてしまい、あとには空虚が残された。どの小説もすべて本来のかたちに戻り、歌のように終わった。それでも一連の出来事は真実であり、また驚くべきものであった。その中には、ハンサム型馬車もあれば、探偵、ピストル、結婚証明まであり、ビーコンハウスの高等法院という冗談をかわすうちに、そうした話が全て、もともとありそうな話になったのだ。

それを発案したのはイノセント・スミスではなく、マイケル・ムーンであった。彼は妙な喜びを感じながら、気ぜわしげに、絶え間なく話をした。彼がこれほど皮肉屋だったこともなければ、人間らしさに欠けていたこともなかった。彼が発揮したのは昔の、役にたたない、弁護士としての知識で、裁判所について面白おかしく話をしたが、それは英国憲法における例外への、横柄な場への風刺であった。ビーコンハウスの高等法院は、と彼は話しはじめ、それが自由かつ賢明な憲法のすばらしい例であると語った。マグナ・カルタを擁護するために、ジョン王によって設立され、今でも絶対的な権力をふるい、その権力は風車、ワインやスピリットの販売証、トルコに旅行する婦人たち、犬盗人や親殺しの判決の改行にいたるまでおよび、ボスワースの市場での出来事なら何であろうと権力がおよんだ。ビーコン高等法院の全部で百九人からなる家令たちは、四世紀に一度会っていたが、その合間-ムーン氏の説明によれば-、この組織の力はすべて、デューク夫人に預けられた。しかしながら仲間内で、ぽいと預けられてしまった結果、高等法院は歴史的、法律的真面目さを保ちそこねてしまい、しかも家庭内のいざこざにかかわるうちに非良心的な使われ方をされた。もしウスターソースをテーブルクロスにこぼした者がいるなら、その者は身につまされるだろうが、それは慣例ではありながら、もし欠けるようなことがあれば、法廷の開会も、採決も効力のないものになるだろう。あるいは窓を閉めたままにしたいと思う者がいても、パンジェ館主の三番目の息子しか、その窓を開ける権利がないことに気がつくだろう。人々は手段を選ばず、逮捕して、犯罪の取り調べまで行った。愛国心についてのモーゼス・グールドの裁判は、ビーコンハウスの人々の理解をこえていた。とりわけ被告人の理解をこえていた。だがイングルウッドの裁判は、名誉毀損で訴えられたものであるということも、愚行が擁護されて免訴が成功したことも、どちらもビーコン高等法院における最上のしきたりであると考えられた。

だが熱狂するにつれてスミスはいっそう真面目になっていき、マイケル・ムーンのように不真面目になっていくことはなかった。このビーコンハウスにおける私設法廷の案がだされると、ムーンは放りだし、政治に諧謔を弄する者の冷淡さを見せつけたが、いっぽうスミスは、抽象的なことについて思索する哲学者の熱意で取り組んだ。出来るとすれば最高じゃないか、と彼は主張した。それぞれの家庭が主権を要求できるとしたら最高じゃないか。

「君はアイルランドの地方自自治を信じているんだね。でも、ぼくは家庭の地方自治を信じている」マイケルにむかって、彼は熱意をこめて叫んだ。「父親が皆、自分の息子を殺すことができるのなら、その方がいい。まるでローマ人みたいじゃないか。だれも殺されることがなくなるから、その方がいいじゃないか。ビーコンハウスからの独立宣言をだそう。あの菜園でたっぷり野菜を育てれば、生活もしていける。それから収税吏が来たら、僕たちは独立しているんだと言って、ホースでからかおう。でも、たぶん君がいうように、ホースなんかとても買えないね。だって大陸からくる品物だもの。でも、この白亜層を掘って、井戸を掘ることができる。そうすれば、水差しをつかって、いろいろとやることができる。ここビーコンハウスで、のろしをあげようじゃないか。独立を祝して、大きなかがり火を屋根のうえでたこう。テームズの谷間にある家が、つぎつぎにその火にこたえていくのを確かめよう。自由家族同盟を始めよう。地方自治から袂をわかとう。愛国心なんか大事じゃない。こうして、あらゆる家を自治のもとにおこう。その家の法律で、子ども達を審理しようじゃないか。ビーコンハウスの法廷でやるように。もやい網は絶ちきり、共に幸せになろう。まるで無人島にいるかのように」

「そうした無人島なら知っているよ」マイケル・ムーンが言った。『スイスのロビンソン』の物語のなかにだけ存在する。ある男が、ココナッツ・ミルクを妙に欲しくなる。すると隠れていた猿が数匹、ココナッツの実に衝撃をあたえて落下させる。それから文学青年がソネットを書きたくなると、じきにお節介なヤマアラシが藪から飛びだしてきて、針を一本突き射すんだ」

「『スイスのロビンソン』のことを悪く言うんじゃない」イノセントは激昂し、大声で叫んだ。「あの物語は、自然科学としては正確なものだとは言えないかもしれない。だが哲学としては的確だし、正確なものだ。実際に難破してみて初めて、自分に本当に必要なものがわかるんだ。ほんとうに孤島にいるときは、そこが孤島だとは決して思わない。もしこの庭でほんとうに攻撃されるようなことがあるのなら、ここにあるとは知らなかった百種もの、イングランドの鳥やベリー類に気づく。雪のせいで、この部屋に閉じこめられたのなら、書架にまだ読んだことない本がたくさんあることに気がつき、それを読むことになるだろう。それから互いに話もするだろう。いい話もすれば、ひどい話もする。そんな話があることも知らないで、墓に入っていたのかもしれないような話だ。僕たちは、どんなことでも話をこしらえることができる。洗礼式も、結婚式も、葬儀も、戴冠式までも、話をこしらえることができる。もし共和国になろうと決心しなければの話だが。

「『スイスのロビンソン』の戴冠式の整列場面とか」マイケルは笑いながら言った。「ああした雰囲気のなかにいれば、君があらゆるものを見つけるのはわかるよ。もし、そうした気取らないものが欲しければ、たとえば戴冠式の天蓋みたいなものだけれど、ゼラニウムの花壇をこえて歩いていって、満開の花の冠をいだいた木を見つければいい。黄金の冠にする金が少しほしければ、蒲公英を掘ればいい。そうすれば芝生のしたに、金の鉱脈をみつけるだろう。儀式に聖油がほしければ、大嵐が岸辺のあらゆるものを洗い流したあとがいい。敷地内に鯨がいることに気がつくだろうとも」

「そういうわけで、皆さんもご存知のように、敷地内には鯨がいるというわけだ」とスミスは断言すると、情熱をこめて食卓を叩いた。「君たちはきっと、敷地を調査しなかったんだね。君たちはきっと、僕が今朝したように、裏手をぶらぶらしたりしなかったにちがいない。だって、ぼくは見つけたんだよ。君たちが話しているその物が、ある木にだけ実ることを。古い型の、四角いテントが、ごみ入れにたてかけてあった。帆布には穴が三つあいていているし、支柱も一本折れていた。だからテントとしては用をなさない。でも天幕としてなら-」しかし彼の声は、自分の言葉に抜きんでた妥当性があることをうまく説明しそこねていた。それでも彼は論争するような熱心さで、話を続けた。「君も知っているだろう。君が異議を申し立てるなら、僕はあらゆる異議をうけるよ。僕は信じているんだ。君がここにある筈がないと言った聖なる物すべてが、ずっとあったということを。鯨が打ちあげられるのを、君が望んでいるのは油のためだ。でも、君のひじのところにある薬味台には、油の瓶があるじゃないか。それなのに、何年ものあいだ、その油にふれたり、その油のことを考えたりした者がいないんだ。金の冠のことも話そう。ここにいる私たちは富とは縁がない。でも、自分のポケットから十シリング銀貨をあつめ、三十分もあれば頭のまわりにつるすことができる。そうでなければハント嬢の金の腕輪は、じゅうぶんな大きさだから-」

陽気なロザムンドは、笑いでむせそうになった。

「光る物すべてが金ならず」彼女はいった。「それに」

「まちがいもいいところだ!」イノセント・スミスはさけぶと、かなり興奮した様子で跳び上がった。「光る物はすべて金だよ。とりわけ今、僕たちがいるのは独立国なんだから。もし独立の意味がわからないなら、独立国がもったいない。なんでも貴重な金属にすることができるんだよ。この世が始まるとき、人々がしたように。金が珍しいから、昔の人は金を選んだんじゃないんだ。君たち科学者なら、もっと珍しい瀝青を二十種類あげることができるだろう。人々が金を選ぶのは、金が輝いていたからなんだ。金を見つけるのは難しいよ。でも見つけたとしてごらん、それは綺麗なものじゃないか。金の剣で闘うことはできないし、金のビスケットを食べることもできない。ただ眺めることしかできない。そして、ここからも見ることができる」

ここでスミスは思いがけない行動にでた。後ろに飛びのくと、庭園への扉を開け放ったのだ。同時に身振りで何かをしめしたが、その身ぶりは慣習にとらわれていないようには見えず、彼らには似つかわしくないもので、彼が手をメアリー・グレーの方にさしのべて芝生の方へと誘う様子は、まるでダンスに誘っているかのようだった。

フランス窓はこうして開かれ、夜を中にいれたが、それは前日の夜よりもさらに美しい夜であった。西のほうは血の色であふれ、眠気をさそう炎が芝生にのびていた。庭園の木が一、二本、捻れた影をおとしていたが、陽光のせいでできる普通の影のような灰色でもなければ黒でもなく、どちらかと言えばアラベスクの文様のようで、東洋の金について記したページに、色鮮やかな菫色のインクで書かれた文様のようであった。日没は祝祭のような気配をおび、さらに神秘的な火に照らされて、ありふれた日常の品々も、その色のせいで、高価で、珍しい品を思い出させた。傾斜した屋根の粘土岩スレートは、孔雀がひろげた羽のように燃え、青と緑が神秘的に混ざり合っていた。赤茶色をした煉瓦でできた壁は十月の色合いで光っていたが、それはルビーの色であったり、熟成したポートワインの黄褐色であったりと、強いワインの色であった。太陽のせいで、すべての物も、人も、それぞれの色をまとい、炎をあげながら燃えているように思え、花火に火をつける人のようであった。イノセント・スミスは、その髪を-あわい金髪であった-異教の金の炎をかぶっているように見せながら、芝生を横切ると岩石庭園の岩の頂きへとむかった。

「金に何の価値があるだろうか」彼は言葉をつづけた。「もし光らないのなら。僕たちは気にとめないだろう。ソブリン金貨が黒かったり、昼の太陽が黒かったりしたら。黒いボタンと同じようなものだよ。この庭にあるすべてのものが、宝石のように見えないか。宝石には、いったいどんな価値があるんだ?宝石のように見えるということを除いたら。買うのも、売るのもやめて、見ることから始めるんだ。目をあけてみろ。そうすれば新しいエルサレムで目が覚めるだろう。

「光るものすべてが金。

真鍮でできた木も、塔も。

黄金色をした宵の風がふきぬけていく。

黄金色の牧草のあいだを。

遠くに叫び声は追いやるんだ。

黄色い泥を売る叫びは。

光るものすべてが金。

輝きが金だから」

「だれが書いたの?」ロザムンドは面白がって訊いた。

「だれも、今後も、だれも書いたりしないだろうよ」スミスは答え、すばらしい跳躍で岩石庭園を飛び越えた。

「ねえ」ロザムンドはマイケル・ムーンに言った。「このひと、精神病院に入院させた方がいいわよ。そう思わない?」

「なんだって」マイケルは問い返したが、やや憂鬱そうな口調であった。彼の長く、日に焼けた頭部は、日没を背にして黒々としていた。偶然なのか、そのときの気分なのか、彼の表情がどこか孤独で、よそよそしいのは、やや行き過ぎた庭園での懇親会にいるせいであった。

「スミスさんを精神病院に入院させた方がいいと言っただけよ」そのレディは繰り返した。

痩せた顔は長く、いっそう長くなっていくように見えた。ムーンは確かにあざ笑っていた。「いや」彼はいった。「まったく必要ないと思う」

「なんですって」ロザムンドは鋭く問い返した。

「もう、入院しているじゃないか」マイケル・ムーンは答えたが、その声には静かだが不快なものがあった。

「おや、気づいていなかったのか?」

「なにを?」その娘はさけんだのだが、その声はとぎれた。アイルランド人の顔も、声も、実に薄気味悪いものだった。黒っぽいその姿も、謎めいた言い方も、陽の光のなかで見てみると、天国にいる悪魔のようであった。

「説明が足りなかったようだ、すまない」彼は言葉をつづけたが、不快にさせる卑下がひそんだ口調だった。「そんなことは少しも話題にしていないけど。でも全員、わかっていると思っていたんだ」

「わかっていたって、何を?」

「いいかい」ムーンは答えた。「ビーコンハウスは、どちらかといえば風変わりな家で、瓦もゆるんでいる。そうじゃないか。イノセント・スミスが、僕たちを診療しにくる只一人の医者なんだ。さっき彼が大声で話していたとき、君は来なかったんじゃないか? 僕たちの病はほとんどが鬱病なんだから、彼も陽気すぎるくらいに陽気にならないといけないんだ。正気だということは、無理もない話だけど、僕たちの目には威張っているようにみえる。常軌を逸しているようにもみえる。壁を乗りこえたり、木に登ったり。こんな風にして、彼は患者を扱うんだ」

「そんな話はしないで!」ロザムンドは怒りにもえて言った。

「あなたは言おうとしないけど、私は-」

「僕も同じようなものだよ」マイケルは慰めるように言った。「他のみんなも同じようなものだ。デューク嬢が、じっと座っていれないことに気がついていないのか。これは悪名高い、あの徴候じゃないか? イングルウッドがいつも手を洗っているところを見ていないのか。これも精神的な病の徴候で、よく知られているものじゃないか。僕かい? 言うまでもないけどアルコール中毒だよ」

「信じないわ」相手は声をあげたが、その声は動揺を隠しきれていなかった。

「あなたには悪い習慣があるとは聞いていたけれど」

「習慣とはすべて、悪いものだ」マイケルはひどく冷静に言った。「狂気が生じるのは、狂気が生れるからじゃない。屈して、落ち着くことによって狂気は生じるんだ。汚くて、小さな、あることを考えて堂々巡りをしている輪のなかで狂気は生じるんだ。飼いならされることによって狂気は生じる。君の場合、お金に関して狂っている。君が遺産相続人というせいで」

「嘘よ」ロザムンドは怒って叫んだ。「私がお金に汚かったことなんて一度もないわ」

「君の方がもっとおかしかった」マイケルは声をおとして、でも荒々しく言った。「他の連中の方がおかしいと君は考えたじゃないか。接近する男は、すべて財産めあてだと考えた。君は羽目をはずそうともしなかったしけれど、正気であろうともしなかった。そして今、君はおかしいし、僕もおかしいというわけだ。いい気味だ」

「なんて嫌なひと」ロザムンドは言ったが、その顔は蒼白だった。「それは真実かしら?」

ケルト民族が、盾をもち、反乱をおこしているときの知的残虐さをただよわせ、マイケルはしばらく沈黙した。それから後ろに退くと、皮肉めいたお辞儀をした。「実際のところは、真実ではない。もちろん」彼は言った。「ただ、いかにも真実でしかありえない。寓話、とでも言うべきだろうか。それとも社会的当てこすりとでも言ったほうがいいのかもしれない」

「あなたの当てこすりなんて嫌いだし、軽蔑してるわ」ロザマンド・ハントは叫び声をあげると、サイクロンのような猛女の性格もあらわに、相手を傷つけるための、あらゆる言葉を発した。「あなたの当てこすりは軽蔑ものよ。くさい煙草も。むかつくような感じで、ぶらぶらしている様子も。口汚く罵る様子も。急進主義のところも。古い服も。つまらない、ちっぽけな新聞も。すべての酷い失敗も。全部、軽蔑している。あなたから俗物だと言われようが気にしないわ。私が好きなのは人生よ。成功よ。見ても気持ちがいいし、行動しても気持ちのいいことよ。ディオゲネスみたいな話をしても怖がったりするもんですか。わたしはアレクサンダーの方が好きなんですもの」

「ヴィークトリクス・ガウザ・ディエ」マイケルは陰気に言った。これは彼女の怒りに火を注ぐことになった。彼女はその言葉が意味するところを知らず、滑稽なことを言っていると考えたのだった。

「ギリシャ語を知っているんでしょうけど」彼女はラテン語をギリシャ語と取り違え、面白い間違いをした。「そうだからと言って、たいしたことないわよ」そして彼女は庭を横切り、姿がみえなくなったイノセントとマリーを追いかけた。

追いかけているうちに、彼女はイングルウッドを追い越した。彼はゆっくりと家に戻るところで、思案にくれた跡が雲のように、その顔をおおっていた。彼はきわめて賢い男ではあるが、すばやいという言葉の逆をいくような男だった。彼が夕日のおちる庭から、薄暗い居間へと戻ると、ダイアナ・デュークがすばやく近づいてきて、お茶の道具を片づけ始めた。だが程なくしてイングルウッドは、その瞬間の映像があまりにすばらしいものだから、永遠のカメラで写真をとった方がいいと考えた。ダイアナが、まだ片づけてない仕事をまえにしながら、頬杖をついて腰かけ、無心に窓の外をながめていたからだ。

「君は忙しいんだね」アーサーが言ったのは、奇妙なことに目にした光景に困惑したからで、その気持ちを封じ込めようとしたのだ。

「夢みている暇は、この世界にないわ」その若いレディは、彼に背中をむけたまま答えた。

「最近、僕は考えるんだよ」イングルウッドは声をおとして言った。「目を覚ましている暇はないのだと」

彼女は答えなかった。彼は窓まで歩いていくと、庭のほうを眺めた。

「僕は煙草もすわなければ、酒も飲んだりしない。君も知っていると思うが」彼は唐突に言った。「そうしたものは麻薬だと考えているからだ。だけれども、趣味というものはすべて、カメラにしても、自転車にしても麻薬なんだ。光線をさえぎるためにカメラの黒い布の下にもぐることも、暗い部屋に入ることも、とにかく苦境におちることになる。僕は夢中になってしまう。速さにも、太陽の光にも、疲れにも、新鮮な空気にも。自転車のペダルを勢いよくこぐあまり、僕も自転車と化してしまう。みんなそうなんだ。あまりに忙しいから、目覚めていることができないんだ」

「そうね」娘はしっかりとした口調で言った。「目を覚ましている必要がどこにあるのかしら」

「そうしないといけない必要がどこかにあるにちがいない。僕たちがすることはすべて、何かの準備をしているんだよ。君がきれい好きなのも、僕が健康体なのも、ウォーナーが使っている科学装置も。僕たちはいつも何かを準備しているんだ。けっして現れることのない何かを。僕は家に空気をとおすし、君は家を掃いてくれる。でも、そうしたからと言って、この家に何が起きるっていうんだろうか?」

彼女は、彼を静かに見つめた。だが、その瞳は輝き、なにか言葉を探そうとしているかのようだけど、でも、その言葉が見つからないかのように見えた。

彼女が口をひらく前に、扉が勢いよく開いた。浮かれ騒ぐロザムンド・ハントが、華やかな白の帽子をかぶり、ボアを襟元につけ、日傘をさして、戸口に立っていた。そのくったくのない顔には、子供じみた驚きがうかんでいた。

「ねえ、面白い話しがあるの」彼女は息をきらしながら言った。「どうすればいいのかしら。とりあえずウォーナー先生を電報で呼んだところ。そうすることしか思いつかなかったから」

「なにがあったの?」ダイアナは幾分つっけんどんに訊ねた。だが、助けを求められたもののように前にすすみでた。

「それがメアリーのことなのよ」相続人であるロザムンドはいった。「私の話し相手のメアリー・グレーのことなのよ。あなたの狂ったお友達のスミスとかいう人が、彼女に結婚を申し込んだの。庭でのことよ。それも会ってから十時間しかたってないのに。今、彼女をつれて、結婚の許可をもらいに行こうとしているわ」

アーサー・イングルウッドは、開いているフランス窓のほうへと近づき、庭を眺めた。黄昏のひかりのなか、まだ黄金色がのこっていた。そこでは何も動くものはなく、ただ鳥が一羽か二羽、ぴょんぴょん跳び歩いては囀っていた。生け垣をこえ、柵のむこうには、庭の門からつづく道路があり、そこには二輪馬車が控えていたが、その屋根にはグラッドストーンの鞄があった。

第四章 神の庭

 

ダイアナ・デュークは不可解なことながら、突然、相手があらわれたことにも、他の娘の話題をだされたことにも、どうやら苛立っているように思えた。

「そう」彼女はそっけなく言った。「彼と結婚したくなければ、グレイさんは断ることもできるでしょうよ」

「そうなんだけど、彼女ときたら彼と結婚したがっているの」ロザムンドは憤りながら言った。

「彼女はどうかしているわ。軽率なお馬鹿さんよ。でも彼女から離れたくないの」

「どうやらそのようね」ダイアナは冷ややかに言った。「でも、私たちにできることがあるかしら」

「だって、あんな変なひとなのよ、ダイアナ」彼女の友達は立腹して言った。

「彼女はいい家庭教師なのよ。変な男と結婚させたくないわ。あなたでも、他のひとでもいいから、結婚を阻止してもらいたいの。イングルウッドさん、お願いよ。ふたりのところへいって、結婚は出来ないと教えてあげて」

「残念なことながら、結婚はできるように思えます」イングルウッドは絶望をただよわせながら言った。「私にはふたりの邪魔をする権利はありませんし、それはミス・デュークも同様です。また私には道徳上の力もありませんし、ミス・デュークにもありません」

「あなた方ふたりときたら、たいして役にたたないのね!」ロザムンドはわめいたが、手に負えない癇癪をおさえることができなくなり、ついには怒りが爆発してしまったのだった。「これから出かけるわ。もう少し道理がわかって、勇敢なひとがいるはずだもの。とにかく、あなた方よりは私を助けてくれそうな人を知っているから。彼は論争が好きな、嫌な男だけど。でも、一応は人だもの。心もあるし、それに分かってくれているの…」そして勢いよく庭にでると、彼女は頬を輝かせ、日傘を輪転花火のようにまわした。

彼女は、マイケル・ムーンが庭の木の下に立ち、生け垣のむこうを見ているのに気がついた。彼は猛禽鳥のように身をかがめ、その長く、青々とした顎から、大きなパイプが突き出ていた。彼の無慈悲な表情をみて、彼女は喜んだ。馬鹿げた婚約がかわされたという話を聞いた直後のせいでもあるし、ほかの友人たちが尻込みをしたあとでもあったからだ

「さっきは機嫌が悪くてごめんなさい、ムーンさん」。彼女は率直に言った。「あなたが嫌いだったのは皮肉屋だから。でも、その罰をたっぷり受けてしまったわ。だから今、皮肉がほしいの。感情はもうごめんだわ。もう、うんざりしているの。この世は狂っているわ、ムーンさん。まともなのは皮肉だけよ。あのおかしなスミスが結婚したがっている相手が、わたしの昔からのお友達、メアリーなの。それなのに彼女ときたら、彼女ときたら、すこしも心配していないようなの」

相手が親切な顔をしながらも、動じることなく煙草をくゆらせているので、彼女は抜け目なく言い添えた。

「冗談じゃないのよ。スミスさんの馬車は外にきているの。これから自分の伯母さんのところに彼女を連れていって、婚姻届をだす手続きをしてくるって宣言しているのよ。だから、なにか役にたつ助言をしてほしいの、ムーンさん」

ムーン氏は口からパイプをはなすと、しばらく手に握りしめ、黙想にふけっていた。やがて庭のむこう側へと投げた。「君への役にたつ助言はこれだよ」彼は言った。「彼に婚姻届をもらいにいかせればいい。ついでに、君と僕のために、もう一枚婚姻届をもらってくるように頼めばいい」

「あなたまで冗談をいうの?」若いレディは訊ねた。

「なにを言いたいのか説明して」

「イノセント・スミスは、てきぱきした男だと言いたいんだ」ムーンは言ってから、退屈なくらい几帳面につけ足した。「わかりやすい現実思考の男だ。実務にむいている。事実と陽の光からできているような男だ。彼はいきなり僕の頭めがけて、二十トンもある建築レンガを落としてきたんだ。そのせいで僕は目が覚めたんだよ、嬉しいことに。僕たちはさっきまで、この芝生で、太陽の光をあびながら寝ていたんだ。五年間くらい、僕たちは昼寝をしていた。でも今、僕たちは結婚をするんだ。ロザムンド。僕にはわからないが、なぜ、あの馬車が…」

「まったくのところ」ロザムンドは頑固に言い張った。「何が言いたいのかわからないわ」

「そんなのは嘘だ」マイケルはさけぶと、目をぎらつかせながら彼女の方へと進み出た。「ぼくは普通なら嘘に賛成するよ。でも今夜はちがうのがわからないのか? 僕たちが散歩してきたのは、事実からなる世界なんだよ、君。草がのび、太陽が沈み、馬車が扉のところにとまっている。こうしたことはすべて事実なんだ。君は僕のことを邪険にしては、僕がお金を目当てに追いかけているとか、本当は君のことを愛していないと言って言い訳ばかりだ。でも、今ここに立って、君を愛していないと言っても信じようとはしないだろう。真実は、今夜、この庭で目にするとおりだからだ」

「たしかに、ムーンさん」ロザムンドは言ったが、その声はかすれていた。

彼がむけた眼の大きいこと、青いこと。彼はひき込むような眼差しで、彼女の顔を見つめた。「僕の名前はムーンなんだろうか?」彼は訊ねた。「君の名前はハントなんだろうか? 誓ってもいいけど、そうした名前は風変りで、馴染みのないものに思えるよ。アメリカ・インディアンの名前のようなものだ。まるで君の名前が「泳ぐ」で、僕の名前が「日が昇る」みたいなもんだ。でも、いいかい。僕たちの本当の名前は「夫」と「妻」なんだよ。これまでも眠っているときは、そうだったんだよ」

「無駄なお話はやめて」ロザムンドは、両目に涙をうかべて言った。「あともどりしても仕方ないわ」

「とんでもない、僕はどこにでも行くことができるんだ」マイケルは言った。「しかも、君を肩にかついで行くこともできる」

「まあ、やめて。マイケル。ほんとうに。おしゃべりはやめて、考えてみるのよ」娘は真剣な調子でさけんだ。「あなたは私の足をすくって、身も、心も夢中にさせてしまうかもしれない。それでも、あえて言うけれど、結局は苦く、ひどい顛末になるのかもしれないのよ。恋の軽はずみにながされるということは、スミスさんを見ればわかるけど、とても、とても女心をゆさぶるわ。その事実は否定しないけど。あなたが言う通り、今夜は真実を話すつもりですから。メアリーも女心をゆさぶられた。私もゆさぶられた、マイケル。でも冷ややかな事実が残るのよ。軽率に結婚すれば、ふしあわせで絶望にみちた時が長く続くと。あなたには、お酒やら他にもよくない癖があるわ。それに私だって、いつまでも可愛いわけじゃない」

「軽率な結婚だと!」マイケルは笑った。「いったいこの世のどこに、用心深い結婚なんてものがあるのか? 用心深い自殺を探すようなものだよ。君と僕はもう長い間、なんとなくだけど一緒に過ごしてきたのだから、昨夜会ったばかりのスミスとメアリー・グレーと比べたら安心できるというものじゃないか? それとも君は結婚するまで、旦那とは会わないつもりなのかい?不幸になるだと! もちろん、君は不幸になるよ。不幸にならないとしたら、どうかしている。君を生んだお母さんも不幸になったのだから。失望するだと? もちろん、僕たちは失望するだろうよ。僕は死ぬまで、今のような善人でいるつもりはないから。トランペットが鳴り響く塔のような状態を保てるわけがない」

「あなたはよく分かっているのね」ロザムンドは、したたかな顔に純な表情をうかべて言った。「でも、ほんとうに私と結婚したいのかしら?」

「君も疑り深いね。ほかに何を望んでいると思うんだい?」アイルランド人は答えた。「この世の中で、多忙な男が他に何を望むというんだ、君との結婚を別にすれば。結婚するかわりに何をすればいい? 眠っていろとでもいうのか? それは自由というものではないんだよ、ロザムンド。アイルランドの尼さんのように神様と結婚するのでなければ、君は誰かと結婚しないといけない。その相手とは僕だ。あるいは唯一残された第三の選択肢とは、自分と結婚することだ。君が君自身と結婚するんだ。そう君自身、君自身とだよ。君自身というのはたった一人の仲間だけれど、その相手は満足することはないし、けっして満足のいく相手でもない」

「マイケル」ロザムンドはとても穏やかな声で言った。「もし、あなたがおしゃべりをやめたら、あなたとの結婚を考えるけど」

「たしかに話しをするときではないね」マイケル・ムーンは大声をだした。「今は歌うのが一番いい。君のマンドリンはどこにいった?」

「私のために取りに行ってきて」ロザムンドはてきぱきと、でも辛辣な、威張った口調で言った。

くつろいでいたムーン氏は、そう言われた瞬間、驚いて飛び上がった。それから彼は芝生を横切って飛び出していったが、その様子はギリシャの妖精物語にある羽根飾りのついた靴をはいているかのようだった。その身の軽さといえば、一跳びで三ヤード跳び、十五本のヒナギクをなぎ倒したくらいだ。だが居間の開けはなった窓まで一、二ヤードのところまで来ると、飛ぶ勢いで駆けていた彼の足も本来の動作へと戻り、鉛のように重くなった。彼は体をねじると、ゆっくりと戻っていきながら口笛をふいた。魔法がかかったこの夜の出来事は、まだ終わっていなかったのだ。

暗がりにしずむ居間のなかをムーン氏は覗き込んだのだが、ロザムンドが節度に欠ける退出をしたすぐ後から、そこでは奇妙な出来事が進行していた。暗い居間で起きているその出来事は、アーサー・イングルウッドの目には天と地がひっくり返っているように見えるもので、天井には海がひろがり、床には星がちらばっているようなものであった。どんな言葉も、彼の驚きをあらわすことはできない。単純な男なら、驚かないではいられないような状況が起きているからだ。さらに女性らしくも、形式的に耐え忍ぼうとする気持ちは、わずか紙一枚、あるいは鋼一枚で取り除かれるものらしい。女は屈服しているわけでもなければ、相手を思いやっているわけでもなかった。その女は厳しいことこの上なく、情もないはずなのに、声をあげて泣こうとしていた。洗練されているはずの男が、顎髭をはやすようなものだった。それは性的能力のひとつで、個性について、何も教えてくれるものではなかった。だがアーサー・イングルウッドは、女性を知らない若い男だ。ダイアナ・デュークが泣いている姿を目にすれば、石油をこぼす車を見ているような気持ちにかられるのであった。

彼は男らしい、遠慮がちな性格が許したとしても、その異様な女を目にしたとき、自分がどう行動すればいいのか、曖昧模糊とした見通しすら、たてることができなかっただろう。彼が行動にでる有様ときたら、劇場が出火したときに人々がとる行動を思わせるものだったからだ。それは演劇人なら、こうすべきだと人々が考えていた行動から完全にかけ離れ、善悪の見境がないものだった。彼の脳裏には、なかば押し殺したような、言い訳めいた記憶が微かに残っていた。相続人である彼女は、この下宿で支払いをしている唯一人の下宿人だから、もし彼女が出ていけば、そのかわりに役人たちがやってくるだろう。ひとしきり考えたが、彼は言いはるしかなかった。

「ひとりしてほしいの、イングルウッドさん。わたしをひとりにして。そんなことをしても助けにはならないわ」

「でも、僕は君を助けることができるよ」アーサーは、木っ端微塵になった確信をこめて言った。

「できるとも、そうだ、できるとも」

「だって、あなたは言ったわ」娘は泣いた。「私よりずっと弱いって」

「ああ、僕は君より弱い」アーサーが言うと、その声はすべてを震わせるように響いた。「でも、今はちがう」

「手をはなしてよ!」ダイアナがさけんだ。「いじめられたりなんかしないから」

ある一点において、彼には彼女よりも強みがあった。ユーモアがあるという点だった。ユーモアの心が、突如、彼のなかで躍り出た。彼は笑いながら言った。「たしかに君は意地悪だから。よくわかっているじゃないか。僕が生きているかぎり、僕のことをいじめるということを。相手がいじめてもいいよと言ったときだけ、君はその男を許すのだろうから」

彼にすれば笑うということは尋常なことではなく、彼女が泣いているということに匹敵するほどのことだった。そこで子ども時代からはじめて、ダイアナはすっかり相手に心をゆるした。

「私と結婚したいの?」彼女は言った。

「もちろんだとも、ドアのところには馬車も待っているよ」イングルウッドは大声をあげ、無意識のうちに動きだして、庭へとつづくガラスの扉を勢いよく開けた。

彼が彼女の手をとって外に出たところで、どういうわけか二人は初めて気がついたのだが、その家と庭園があるのは急な丘で、ロンドンを見おろす場所であった。その地が隆起した場所であるようにも、また秘密の場所であるかのようにも感じた。そこは壁で囲まれ、円形をした庭のようで、天国にある小塔の頂きにいるかのようだった。

イングルウッドは夢心地で周囲をみわたすと、茶色の両目で隅々までむさぼるように眺めては、他愛のない喜びをうかべた。庭の草藪のむこうにある門の柵には、小さな槍の先端のような形をしたものがついていて、それが青色に塗られていることに、彼は初めて気がついた。青い槍型がひとつゆるみ、横をむいてしまっていることにも気がついた。その様子に彼は笑いそうになった。柵が曲がっている様子は優美なもので、害があるわけでもなく、面白いものであった。どのようにして柵が曲がったのか、誰のせいなのか、その男はどんなふうに柵をよじ登ったのかと考えた。

彼らは炎のごとく赤く染まっている草地に数歩ふみだしたが、人影に気がついた。ロザムンド・ハントと風変わりなムーン氏だ。最後にふたりを見かけたときは、どちらもお互いに関心はなく、暗澹たる気分であったはずなのに、今ではいっしょに草地にたっていた。彼らはいつもの様子でたっていたが、本の中の人物のようにも見えた。

「まあ」ダイアナは声をあげた。「空気がなんてかぐわしいのかしら」

「わかるわ」ロザムンドはここぞとばかりに声をはりあげたが、その声があまりに自信に満ちているものだから、不平を言っているかのように響いた。「まるで私がすすめられたものと同じよ。ぞっとするほど嫌な感じがしたわ。おまけにしゅわしゅわ泡がはじけているの。そのせいで、私、幸せな気分になってしまって」

「まあ、あれ以外の何ものでもないわね」ダイアナは息を深く吸い込みながら答えた。

「どうかしら。とても冷たいのに、炎のように感じるの」

「はじけているというのは、フリート・ストリートで使う新聞記事の用語だよ」ムーンは言った。「はじけているというのは-とくに頭の状態について言うときに使うんだ」そして彼は麦わら帽子で、不必要なくらいにあおいだ。彼らはしきりに軽く跳ねたり、脈拍を速めたりしていたが、それは力を持て余し、その力が軽快なものであるせいだった。ダイアナは長い両腕をのばしたが、その動きはぎこちなく、まるで抑制されているかのようで、いわばひどく苦しみながらも平穏さを保っていた。マイケルは長いあいだ、金縛りにあったかのようにじっと立ちどまっていた。それから独楽のようにまわったが、ふたたび立ちどまった。ロザムンドは軽やかには跳びはねてはいなかった。女性は跳びはねたりしないからだ。前のめりにつまずいたときは別だが。だが彼女が両足で大地をふみつけながら歩く有様は、耳には聞こえないダンスの調べに合わせているかのようだった。イングルウッドは木によりかかると、無意識のうちに枝をつかんでゆすり、荒々しく何かを生み出そうとしていた。マン島の巨人のような、こうした仕草は高さのある像をつくりだし、闘いの雰囲気をもたらすもので、そのせいで彼らは放り出され、手も足もすべてを痛めつけた。静かに散歩をして立ちどまっているうちに、彼らは動物の磁気を帯びた装置さながら、突然、はじけて行動にでた。

「さあ、これから」ムーンは唐突に声をあげると、片方の手をさしのべた。「あの木立のまわりで踊ろう」

「あら、どの木立のことかしら?」ロザムンドは訊ねながら、言わば失礼さを輝かせながら見渡した。

「あっちの木立ではないよ」マイケルは言った。「桑の木の木陰だ」

彼らはたがいに手をとると、なかば笑いながらも、真剣に儀式めいた態度をとった。ふたたび手を離すまえに、マイケルは仲間たちと共にをぐるりと輪になって踊ったが、まるで悪魔が天にむかって地球をまわしているかのようであった。ダイアナが感じたのは、地平線が輪を描きながら流れはじめたときにダイアナが感じたのは丘の連なりにも似た軽やかな感覚で、ロンドンをこえ、子どものころ登った秘密の場所をこえたところにあるものであった。ハイゲートの墓地にはえている松の老木のまわりで鳴き声をあげる烏の声を聞いているようでもあり、またボックス・ヒルの森に集まり、火をともしている土蛍を見ているようでもあった。

踊りの輪がやぶれ-軽率な者たちの、そうしたひどい輪は終わりにしないといけない-、その輪を提案したマイケルは、遠心力の力で、遠くまで飛んでいき、門の青い柵に衝突した。そこでふらついていたのだが、新たに、芝居がかった登場人物が叫び声をあげながら現れたので、彼も不意に叫び声をあげた。

「なんと、ウォーナーじゃないか」彼は両腕をふりながら大声をあげた。「これは実にうれしいじゃないか。なつかしいウォーナーに会えるなんて。新しいシルクハットに、あいかわらずの絹のような顎鬚だ」

「ウォーナー先生なの?」ロザムンドも声をあげ、あふれてくる思い出やら、喜びやら、絶望やらで跳びあがった。「まあ、たいへん。先生にうまくいっているからと報告しないといけないわ」

「さあ、手を。彼に言いにいこう」マイケル・ムーンは言った。彼らが話しているあいだに、もう一台、馬車がやってきて、停車中の馬車のうしろに停まった。ハーバート・ウォーナー医師が、馬車のなかに連れを残したまま、舗道上に用心しながら降り立った。

さて、あなたが高名な医師であり、女相続人から、危険な躁患者がいるから来るようにと電報をもらったとするならば、しかも庭から、その家に入ろうとしたときに、女相続人とその下宿屋の女主、紳士の下宿人ふたりが手をつなぎ、自分のまわりを輪になって囲んで踊りながら、「だいじょうぶ! だいじょうぶ!」と叫んだとしたら、あなたは混乱もするし、不快にもなることだろう。ウォーナー医師は落ち着いた人物ではあったけれど、温和な人物ではなかった。この二つの性格はけっして同じものではない。だからムーンが、シルクハットをかぶり、背が高く、頑健な体をしたウォーナーこそは、古典的な姿の持ち主なのだから、金色の古代ギリシャの海岸にいるかのような、笑いさざめく乙女たちの踊りの輪にはいって踊るにふさわしい人物だと説き伏せたときでも、皆が喜んでいる理由が彼には合点がいかないようであった。

「イングルウッド!」ウォーナー医師は呼びかけ、かつての弟子をじっと見つめた。「気でも狂ったのか?」

アーサーは髪の根もとまで赤くなった。だが彼は臆することもなく、静かに答えた。「今は狂っていない。真実を言おう、ウォーナー。僕は、医学について、すこし重要な発見をした。まさに君の専門分野だ」

「それはどういうことなのか?」偉大なる医師は食い下がった。「どんな発見をしたのかい?」

「僕は発見したんだ。健康はうつりやすいものだと。まるで病気のように」アーサーは答えた。

「そのとおり。正気が発生して、今、ひろがっている最中だ」マイケルは言いながら『パ・スール』を踊り、考えにふけるような表情をうかべた。「二万人以上の患者が病院に連れていかれ、看護婦が昼も、夜もつきっきりになるだろう」

ウォーナー医師はマイケルの真剣な顔と軽やかに動く足を観察すると、理解にくるしんで呆気にとられた。「するとこれが、と訊いてもいいのだろうか」彼は言った。「正気が広がっているということなのか?」

「許してください、ウォーナー先生」ロザムンドは心から嘆願した。「ひどいことを先生にしたと思っているわ。でも、ただの勘ちがいだった。すごく機嫌が悪いときに、先生を呼んだの。でも今、すべてが夢のなかの出来事のように思えるくらい。だってスミスさんは感じのいい人なんだもの。今まで会ってきた人のなかでも、一番感じがいいわ。感受性がすごくゆたかだし、とても楽しい人だわ。だから彼は誰とでも結婚していいのよ―相手が私でなければ」

「デューク夫人とかいいかしれない」マイケルは言った。

ウォーナー医師の顔は、ますます真剣になった。彼はチョッキからピンク色の紙をとりだすと、淡い青色の目でロザムンドをじっと見つめた。彼は冷ややかに話したが、それも理由のないことではあった。

「まったく君ときたら、ミス・ハント」彼は言った。「まだ、心から安心するわけにはいかない。君がこの電報を送ったのは、わずか三十分前のことだ。『すぐ来てください、できれば、もう一人お医者さんを連れてきた方がいいと思います。イノセント・スミスという男が、この家で、気が変になって、ひどいことをしています。彼について何かご存知ですか?』そこで私は有名な同僚のところに行った。彼は私立探偵で、犯罪をおこす精神障害の権威なんだ。彼も一緒に来てくれて、馬車のなかで待っている。それなのに今、君は冷静に語った。あの犯罪をおこしそうな狂人は感じがとてもいいし、正気だと。おかげで君が正気についてどう定義しているのか考察しているところだ」

「まあ、そんな! 太陽や月、私たちの心の移り変わりについて、どう説明しろと言うのかしら?」ロザムンドは絶望にかられて言った。「では告白しましょうか。私たちがあまりに神経過敏になったものだから、彼のことを気が狂っていると考えてしまったの。彼が結婚したいと言ったくらいで。私たちも結婚したいからだと気がつかなかったのよ。お恥ずかしいかぎりだけど、先生。私たちはとても幸せなの」

「スミス氏はどこにいる?」ウォーナーは、イングルウッドにつっけんどんに訊ねた。

アーサーは、はっとした。自分たちのファルスの中心にいる人物のことを忘れていたからだ。一時間以上ものあいだ、その姿を見ていなかった。

「そうだな、たぶん、裏手のごみ箱のあたりにいるんじゃないかな」彼は言った。

「彼は、ロシアへつうじる道の路上にいるのかもしれない」ウォーナーは言った。「だが、彼を見つけないといけない」それから彼は大またに歩み去り、ひまわりの咲いているあたりで家のかどを曲がると、その姿は消えた。

「なんとか」ロザムンドは言った。「先生がスミスさんに干渉しなければいいけれど」

「ヒナギクでも観察していればいいのに」マイケルは、鼻をならして言った。

「恋におちたからと言って、鍵をかけた部屋に閉じ込めておくわけにはいかない。少なくとも、僕は嫌だね」

「そうね。お医者様でも、彼の病をどうすることもできないわ。それどころか彼はお医者様をやっつけてしまうでしょうよ、病のように。これは聖なる泉の類の話だと思うの。イノセント・スミスは、ただ純粋(イノセント)なんだと思うわ。だから、彼はすばらしいのよ」

ロザムンドは話をしながら、その白い靴先で、そわそわとした様子で、芝生に輪を描いた。

「思うんだけど」イングルウッドは言った。「スミスには、どこにも変わったところなんかない。面白く思えるのは、彼が驚くほど月並みだからなんだよ。君は身内の集まりがどうなるか知らないのかい? おじさん、おばさんがいるところに、学生が休日を利用して家に帰ってきたときの身内の集まりというものを。馬車の上にある鞄は、男の子がやる邪魔だよ。庭にあるこの木は、男の子なら登ったような類の木だというだけだ。ああ、彼を厄介に思っていたのは、そういうことのせいなんだ。語るにふさわしい言葉も見つからないようなことだ。彼が私の同窓生であるにしても、そうでないにしても、どこか私の同窓生のようなところがある。際限なくパンを食べるところも、ボールを投げるところも、僕たちが昔やってきたことだ」

「そんなことをするのは馬鹿な男の子だけよ」ダイアナは言った。「女の子なら、そんな馬鹿なことをしたりしないわ。それに女の子は誰もそんなに幸せでなかったわ、もしー」そこで彼女の言葉は途切れた。

「イノセント・スミスについて、真実を君たちに話そう」マイケル・ムーンは、声をおとして言った。「ウォーナー先生は探しに行ったけど、無駄に終わるだろう。彼はあそこにはいないのだから。もうずいぶんと彼を見てない。気がついていないのかい? 彼は星の赤ん坊で、僕たち四人の上におちてきたんだ。僕たちが少年時代に戻った姿なんだ。かわいそうなウォーナーのやつが、馬車から降りてくるより大分前のことだよ。僕たちがスミスと呼んでいた存在が溶けて露になり、芝生の上できらめいていたのは。もう一度か二度、神の慈悲があれば、その存在を感じるかもしれない。だが、あの男を見ることはない。朝食前に春の庭に出れば、スミスと呼ばれる香りを感じるかもしれない。炉の小さな火に、まだみずみずしい小枝をくべてごらん。木がはぜる音にまじって、スミスという名前がついた音を聞くかもしれない。芝生のなかで、無邪気なものが飽くことを知らず、大地をむさぼり喰う。その様子は、菓子の宴にいる赤子のようだ。白い朝の光が空をさく様子は、少年が白い薪を割るようで、ほんの束の間だけれど、すごく純粋な存在を感じるかもしれない。だが彼の純粋さとは、命ないものの純粋さに近い。だから、ただ一度触れたなら、しなやかな木々と天のあいだに溶け込んでいくだろう。彼はー」

爆音のような銃声が家の裏手から聞こえ、彼の話はさえぎられた。それとほぼ同時に、馬車にいた見知らぬ男がとびだして、あとには馬車が路上でゆれていた。彼は庭の青い柵を握りしめると、銃声の方向を凝視した。彼は背が低く、だぶだぶの服を着ていたが、敏捷に動く男で、その体は痩せ、魚の骨からつくられたような顔をしていた。ウォーナー医師のように堅固で、つやつやとしたシルクハットをかぶっていたが、それは無造作に後頭部へずり落ちていた。

「殺人だ!」彼は金切り声をあげたが、その声は高く、女性的で、あたりをつんざくような声だった。

「人殺しはそこで食い止めろ」

彼が叫んでいるとき、二発目の銃声が家の下の窓を震わせた。その音と共にウォーナー医師が飛ぶようにしてやってきたが、角を曲がるその姿は兎がはねているかのようだった。だがウォーナー医師がこちらへと到着する前に、第三発目の銃弾が響いたので、みんな耳がおかしくなった。彼らがその目で見たものは、二つの穴のむこうに広がる白い空で、不幸なウォーナーのシルクハットにあいた穴であった。それから逃亡中の医師は植木鉢につまずきながら、四人のところへとくると、牛がするように相手を見つめた。銃弾のあとが二か所あいた帽子は、彼の前方へと舗道をころがっていった。イノセント・スミスも角を曲がってきたが、まるで鉄道の列車のようだった。彼は、本来の姿の倍はあるように見えた。緑の服を着た巨人だ。大きなレボルバーが、その手のなかでまだ煙をあげていた。彼の顔は愉快そうであった。暗がりで、彼の目は星のように輝いた。黄色い髪の毛はあらゆる方向に逆立ち、まるでもじゃもじゃペーターのようだった。

この驚くべき場面が、静けさのなか、一瞬目に飛び込んできたけれど、イングルウッドには、他の恋人たちが芝生に立っている様子を見たときの感覚を、もう一度思い出すだけの時間があった。その感覚は切断面を見るような、透きとおる色を見るようなもので、体験からくるものというよりは、芸術作品から受ける感覚であった。灼熱色のゼラニウムが植わった割れた植木鉢、緑の服をきたスミスの巨体に黒い服を着たバルクの巨体、青い釘を打ちつけた背後の柵、ハゲワシの黄色いかぎ爪で柵をつかみ、ハゲワシの長い首をのばして目をこらしている見知らぬ男。舗道に転がるシルクハット。煙草を一服したときのように邪気がない、小さな雲となって庭をただよう煙。こうしたことすべてが、不自然なくらいに、ありありと鮮明に見えた。そうしたものがある様子は、なにかを象徴しているようでもあり、ほかから切り離され、愉悦の頂点にあるかのようであった。たしかに、目にはいるすべてのものが、不自然なくらいに鮮明に、ありありと見えていたが、それは全体の風景がくずれたからであった。

幻想がはじまるよりも前に―幻想が終わったということは言うまでもない―、アーサーは前にすすんで、スミスの片腕をとった。それと同時に、背の低い、見知らぬ男も階段をかけあがり、もう片方の腕をとった。スミスは笑い声をひびかせ、あくまでも自らの意志で、ピストルをわたした。ムーンは医師に手を貸して立たせてから、その場を離れ、不機嫌な様子で庭の門によりかかった。娘たちは静かに、用心をおこたらず、まるで良家の子女が、混乱のさなかにいるかのようであった。だが、その顔から読みとれるのは、どういうわけだろうか、光が天から降り注いだばかりだということであった。医師は体をおこしながら、帽子やら良識やらをかき集め、かなりの嫌悪感をただよわせながら体の埃をはらい、束の間詫びるかのように彼らの方をむいた。彼は先ほど混乱におそわれたせいで青ざめていたが、その口調はとても抑制が利いていた。

「私のことを許してくださるでしょうね、お嬢さん方」彼は言った。「私の友人も、イングルウッドも、二人ともそれぞれの分野での科学者です。スミス氏は中にいれ、後から、あなた方とお話をさせた方がよいでしょう」

三人の自然哲学者たちが守るなか、銃をとりあげられたスミスは家の中へと手際よく連れていかれたが、それでも轟くような笑い声をあげていた。

それからの二十分間は、ときどき、なかば開いた窓のなかから、スミスの上機嫌な声が遠く、轟くように聞こえてきた。だが、医師たちの静かな声は響いてはこなかった。娘たちは庭を歩きまわり、なんとか互いの気持ちを励まそうとした。マイケル・ムーンは重苦しい様子で、門のところでうなだれていた。そうした時間が終わる頃、ウォーナー医師は家から出てきたが、その顔はますます青ざめ、厳めしい顔はさらに厳めしく、魚の骨のような顔をした小男がその背後にいた。太陽の光のなかのウォーナー医師の顔が、絞首刑にさらされた判事のものであるなら、背後の小男の顔はさらに死者の顔に近かった。

「ミス・ハント」ウォーナー医師は言った。「あなたに心から感謝と賞賛の言葉を申し上げたい。あなたが勇気と機転のある行動をおこし、今日の午後、私たちに電報を送ってくれたおかげだ。おかげで人類の敵であり、もっとも残酷で嫌なもののひとつである惨めさをとらえ、捨て去ることが可能になった。あんなに口先だけ上手で、慈悲の心のない罪人が、肉体に宿ったことはなかったのだから」

ロザムンドの顔から血の気がひき、表情はうつろに、目は瞬きをくりかえした。

「どういうことですか?」彼女は訊ねた。「まさかスミスさんのことではないですよね?」

「彼はいくつも、たくさんの名前を使ってきた」医師は重々しく言った。「彼とかかわった者で、呪いをうけなかった者は誰もいない。あの男は、いいか、ミス・ハント、この世に血と涙の跡を残してきたんだ。彼が邪悪であり、また狂人なのかどうか、科学の観点から、見つけようとしている。どちらにしても、先ずは治安判事のところに彼を連れて行こう。たとえ狂人の収容施設へ送ることになろうとも。だが彼を閉じ込める収容施設は、壁のなかに壁をめぐらして封印したうえで、要塞のように銃声が響くものでなくてはいけない。そうしなければ彼はまた姿をあらわして、この世にふたたび殺戮や暗闇を産み落とすことだろう」

ロザムンドは二人の医師を見つめたが、その顔から徐々に血の気がひいていった。それから彼女の視線はマイケルへとそれたのだが、彼は門によりかかっていた。だが彼は身じろぎすることなく寄りかかり、その顔は暗くなっていく道の方をむいていた。

五章

寓話的でもあり実用的でもある男の話

 

ウォーナー医師と一緒にきた犯罪の専門家は、柵をつかんで庭へと身をのりだした時に比べれば、やや都会風であり、こざっぱりとしていた。帽子をとったときには、彼はいくぶん若く見え、真ん中で分けた金髪がみえ、その両端は丹念に巻かれていた。動作は生き生きとしていて、とりわけ手をさかんに動かしていた。幅広の、黒い布で、首から片眼鏡をぶらさげてめかし込み、蝶ネクタイをした様子は、まるで宿り木のサルオガセモドキが絡まっているかのようだった。彼の身なりも、仕草も、少年のもののように明るく、溌剌としていた。魚の骨のような顔を見たときだけ、なにか惨めで、年老いたものが目にはいるのだった。彼の物腰は素晴らしかったが、まったく英国風ではなかった。彼には無意識ながら癖が二つあり、そのせいで一度でも会った者は、彼のことを記憶していた。ひとつは目を細める癖で、彼がことさら礼儀正しくしいようとするときに見せるものであった。もう一つは親指と人差し指で宙に輪をつくる癖で、まるで嗅ぎ煙草をつまんでいるように見えるのだが、それは彼が戸惑い、言葉を選んでいるときの癖であった。だが彼とのつきあいが長い者たちが、こうした奇行を忘れる傾向にあるのは、彼のまくしたてる会話が風変りで重々しいものであるせいであり、また不思議な視点にたって話しているせいであった。

「ミス・ハント」ウォーナー医師は言った。「こちらはサイラス・ピムです」

紹介のあいだ、サイラス・ピム医師は目をつむり―その様子は子供の遊びで、正々堂々と戦っているかのようであったーすばやく小さなお辞儀をした。するとどうしたことだろう、ふと、この男がアメリカ合衆国の市民のように見えてくるのだった。

「サイラス・ピム先生は」ウォーナーは続けた。(ピム博士はふたたび目をとじた)「おそらくアメリカにおける犯罪学の最初の専門家です。私たちは幸運なことに、この尋常ではない事態について、彼に相談することができるのです」

「まったく理解できませんわ」ロザムンドは言った。「あなたの説明では、スミスさんはお気の毒にもひどい状態のようね」

「あるいは、あなたの電報では、と言った方がいいかもしれませんよ」ハーバート・ウォーナーは微笑みながら言った。

「なんですって。あなたは分かってないのね」娘は苛立って声をはりあげた。

「だって、彼のおかげで、私たちは教会に行くよりも素晴らしい経験ができたのよ」

「私から、この若いご婦人に説明しよう」サイラス・ピム医師は言った。「このスミスは犯罪人と言いうべきなのか、躁病と言うべきなのか迷うところがあるが、悪に関してはまさに天才だ。彼が行く先々で人気者になるのは、騒々しい子どものように、すべての家に侵入するからだ。人々は猜疑心をいだくのは、品のある悪党へ変装だ。そこで彼がいつも変装するのは、言うなれば、ボヘミアンへの姿である。なんの罪もないボヘミアンを装う。だから、いつも彼に足をすくわれてしまうことになる。善人面をした仮面には慣れがあるからだ。スミスは極端なまでに善良な性格をよそおうことを好んでいるのです。あなた方はドン・ジュアンに、威厳があり、信頼できる商人の姿を期待します。ですからドン・ジュアンがドン・キホーテの姿であらわれると、心の準備ができないのです。詐欺師は、サー・チャールズ・グランディスンのように振る舞うものと考えますよね。サミュエル・リチャードソンが、涙がでてくるような、深い優しさで小説に書いたのに、ミス・ハント。なぜならサー・チャールズ・グランディスンは、しょっちゅう、詐欺師のように振る舞ったからです。ですが溌剌とした市民の誰ひとりとして、サー・チャールズ・グランディスンをモデルにした詐欺師ならともかく、サー・ロジャー・デ・カヴァリィをモデルにした詐欺師にたいしては、心の準備ができていないことでしょう。少し頭がいかれているけれど善良な男になるという手は、犯罪的変装の新たな手口なのです、ミス・ハント。素晴らしい考えではありますが、あまり成功することはありません。ですが成功すれば、その成功はひどく残虐なものとなります。追いはぎディック・タービンが、犯罪小説作家のバズビー先生をよそおったなら、私も許すことができます。でも彼が文学者ジョンソン博士をよそおうことは許せないのです。気がふれた聖者というものは立派すぎるものだから、茶化すことはできないのです」

「でも、どうしてわかるのかしら?」ロザムンドはむきになって言った。「スミスさんが、そんなに有名な罪人だということが」

「資料を調べたのです」アメリカ人は言った。「友人のウォーナーが、電報を受け取るとすぐに僕のところに来たときに。こうした事実を確認することが僕の仕事です、ミス・ハント。これは駅でブラッドショー鉄道旅行書を見るくらいに確実な手なんです。あの男は、今まで法律を逃れてきたんですよ。子どものふりとか精神異常者のふりを見事にやりとげて。だが、こちらも専門家です。ひそかに確かめましたよ。二十近い犯罪の記録を。そんなふうに企てられ、実行された犯罪の記録です。彼はあんなふうに家を訪れては、すばらしい人気を博すのです。彼はそうして物事をおかしくしていくのです。物事はおかしくなっていくのです。彼が立ち去ると、物事はひっくり返されてしまうのです。ひっくり返されるのですよ、ミス・ハント。ある男の人生も、ある男の運も。いや女性の場合の方がしょっちゅうひっくり返されるかもしれません。すべて記録が残されています」

「私もその記録を見ました」ウォーナーはしかつめらしく言った。「この話がすべて正しいことは請け合います」

「私の感じるところ、もっとも男らしくないと思えるのは」アメリカの医師はつづけた。「ひっきりなしに、無邪気を一心不乱によそおって、無垢な女をだましていることです。この想像力ゆたかな悪魔が訪れたことのある家はすべて、哀れな娘が一緒に連れ去られています。あの男の目は、相手に催眠術をかけてしまうそうです。他にも妙な特徴があるそうです。そういうわけで娘たちは、自動人形のようになって行ってしまうとか。こうした可哀想な娘さんたちがどうなったものやら、誰も知る者はいません。私の考えをあえて申し上げれば、殺害されているでしょう。こうした件以外にも、たくさんの例があるからです。彼は殺人に手をかしているのです。それなのに法で裁かれたことがないとは。とにかく、我々の現代的な調査方法をもってしても、可哀想な娘の痕跡は見つかっていません。そうした娘さんたちのことを考えると、いつも私の胸はいたむのですよ、ミス・ハント。私が申し上げたいのは、ウォーナー先生が話された事だけです」

「そういうわけで」ウォーナー医師は言うと、大理石に刻んだような笑みをうかべた。「あなたの電報にたいして心から感謝を申し上げます」

ちびのヤンキー科学者が真摯に話し続けるものだから、耳をかたむけている人々は、彼の声や物腰がたぶらかしだということは忘れていた。目をつむる様子も、だんだん上ずっていく声の調子も、宙で動かしている指やら親指やら―こうした仕草は、他のときであれば、滑稽なものであっただろう。彼がウォーナーより賢いということは、たいしたことでなかった。彼にしても、そう賢いわけではなかったが、ただ賞賛される機会が多かった。だが彼には、ウォーナーにないものがあった。それは清々しく、永遠不変の真面目さであった。いわゆる単純さという、アメリカの素晴らしい徳である。ロザムンドは眉をひそめると、暗がりに沈んでいく家を憂鬱そうに見たが、その家のなかには凶悪な天才がいるはずであった。

陽の光はまだ一面に降り注いでいた。だがその光は黄金色から銀色へと移ろい、そして今、銀色から灰色へと変わりつつあった。長く、羽毛に似た影は庭の木が影をおとしているもので、陰鬱な背後の闇に溶け込み、徐々に消えつつあった。ひときわ黒々とした影は、家の入り口である大きなフランス窓であったが、その影のなかにロザムンドが見たものは、イングルウッド―謎めいた捕われ人を監視していた―と、ロザムンド―彼を手伝うために家の中に入っていた―が慌ただしく相談する姿であった。数分がたち、何やら身ぶりでやりとりしているのが見えたあと、二人は家の中へと入り、庭に面したガラスの扉をしめた。すると庭はより陰鬱なものにみえた。

ピムという名前のアメリカ人紳士も体のむきをかえながら、同じ方向へと動き出したかのように見えた。だが歩きだすまえに、彼はロザムンドに話しかけてきたたが、それは誠実さがにじみでる口調でありながら―その口調には、子供らしい自惚れがずいぶんと戻っていた―、知らず知らずのうちに詩的な口調になるせいで、衒学的な男ではありながら、衒学者と呼ぶには難しいものにしていた。

「大変残念なことながら、ミス・ハント」彼は言った。「でもウォーナー先生にしても、僕にしても、二人とも、その分野における専門医なので言わせてもらいます。スミスさんは、馬車におしこめて追いやった方がいいのです。そのことについてはもう口にしない方がいいと思いますよ。そう興奮するものではありません、ミス・ハント。たぶん、こう考えていらっしゃるのでしょうけど。連れて行かれようとしているものは怪物だと。ここにいたらいけないものだと。お国の大英博物館で見るような神々のひとつであり、それには翼がはえていて、顎髭もあって、足も、目もあるのに、形がない。それがスミスなのです。彼とはすぐに縁がきれますよ」

彼が家のほうへと一歩ふみだし、ウォーナーもそのあとにつづこうとしたときに、ガラスの扉がふたたび開くと、ダイアナ・デュークが、ふだんよりいっそうせかせかとした様子で、芝生を横切ってきた。彼女の顔は不安と興奮のあまり、震えおののき、黒く、真面目な目で、相手の娘を見つめた。

「ロザムンド」彼女は絶望にかられて声をふるわせた。「彼女のことをどうすればいいのかしら?」

「彼女のこと?」ミス・ハントは訊きかえすと、荒々しく背筋をのばした。「まあ、彼は女じゃないわ。そうでしょ?」

「はい、たしかに。そのとおりです」ピム医師は公正な態度で、相手をなだめるかのように言った。

「彼女? とんでもないわ、彼はそこまでひどくないから」

「あなたの友達のメアリー・グレーのことを言っているのよ」ダイアナは同じくらいに辛辣な調子で言い返した。

「彼女をどうすればいいのかしら?」

「彼女に、どうスミスのことを伝えればいいのかと言いたいのね」ロザムンドはこたえると、顔をみるみる曇らせたが、その表情はやわらいでいた。「そうね、とても辛いものになるでしょうけど」

「でも、もう話したわ」彼女は感情を爆発させ、ふだんより更に苛々した様子で答えた。「彼女にもう話したわ。でも彼女ときたら、おかまいなしよ。それに言うの。スミスと一緒に馬車で行くつもりだって」

「まあ、そんなはずないわ」ロザムンドは絶叫した。「そんな、メアリーはとても信心深いのよ。彼女は―」

彼女はそのとき、メアリー・グレーが芝生を横切って近づいてくる姿に気がついた。物静かな話し相手は、ひっそりと庭を横切ってきたのだが、これから旅立つという決意をあらわにした身なりであった。彼女はこぎれいながら、古くさい、青色のふちなし帽をかぶり、両方の手に擦り切れた灰色の手袋をはめようとしていた。それでも、そのふたつの色は赤銅色の、ゆたかな髪に大変よく似合っていた。着古した感じがするところも、かえって素晴らしいものであった。婦人物を着ても彼女にはあまり似合わないのだけれど、そのときはたまたま似合っているように見えたのだ。

それにしてもこの場合、その女の美点は類まれな、魅力あるものであった。こうして黄昏れる頃、太陽はしずみ、空は物悲しくなるのだが、何かの拍子に或る角度で光が反射すると、最後の光となり、なかなか消えることなく残る。窓ガラスにも、水の一滴にも、姿見にも、この世では忘れ去られた炎がみちあふれる。風変りで面白いのは、メアリー・グレイの三角形の顔で、まるで鏡の三角形の部分のように、それまでの輝きをまだ反射していた。メアリーは、いつも優美ではあるけれど、以前は「美しい」と彼女にふさわしく評されたことは一度もなかった。それでも、そうした不幸な状況にあっても、幸せにみちた彼女はとても美しく、思わず固唾をのむほどであった。

「まあ、ダイアナ」ロザムンドは低い声でうめくと、声音を変えた。「どうやって彼女に教えたの?」

「彼女に教えることは簡単なことでしょうよ」ダイアナは陰鬱な調子で答えた。「まったく効き目がないでしょうから」

「いろいろお待たせして申し訳ありません」メアリー・グレーは詫びるかのように言った。「もうお別れをしなくてはいけませんわ。イノセントが、ハムステッドにいる伯母のところまで連れて行くと言っていますの。たぶん伯母様は寝るのが早いでしょうから」

彼女の言葉には気負ったものはなく、世慣れた感じがするものであった。だが、その目は眠たげでもあり、暗闇よりも不可解なものであった。彼女は上の空で話しているかのように、遠くのものを見つめていた。

「メアリー、メアリー」ロザムンドは叫び、泣きだしそうになっていた。「かわいそうだけど。そうはいかないいのよ。スミスさんについて、すべてがわかってしまったの」

「すべてですって?」メアリーは声をおとすと、奇妙な抑揚でくりかえした。「どういうことかしら、ずいぶんと面白い話にちがいないわ」

しばらくの間、身じろぎする音もなければ、言葉も、動きもなく、ただ沈黙しているマイケル・ムーンだけが門に寄りかかり、頭をあげ、何かを聞き取ろうとしているだけであった。ロザムンドは言葉を失したままであったけれど、ピム博士は毅然とした様子で彼女を救いにきた。

「まず」彼は言った。「このスミスという男は、つねに殺人を試みています。ブレークスピア・カレッジの学長は―」

「知っていますわ」メアリーは上の空ではあるけれど、でも晴やかな笑みをうかべて言った。

「イノセントが話してくれましたから」

「彼が何をいったのかわかりませんが」ピムはすばやく言った。「でも、真実を言っていないのではないでしょうか。明らかに真実なのは、あの男は犯罪に汚れているということです。その犯罪は人間くさいものであり、みんながよく知っているものなのです。記録なら、すべて残っていますよ。彼が強盗をしたという証拠も、教区牧師のなかでも一番優れた者が署名した記録も残っています。私の手元にも-」

「まあ、そういえば教区牧師は二人でした」メアリーは優しいながら、熱心な口調で言った。「おかげでお話が一層面白くなりますわ」

家の暗がりに沈んだ扉が、もう一度ひらいた。そしてイングルウッドが一瞬すがたをあらわし、何かの合図をした。アメリカ人の医師はお辞儀をしたが、英国人の医師はしなかった。だが二人とも、のっそりと家の方へ向かった。誰も動こうとはしなかった。門に寄りかかったマイケルでさえも動こうとはしなかった。だが、その頭も、肩も、彼が一言もらさず聞き耳をたてている様子が、背後からでも、なんとなく伝わってきた。

「そんな、わかっていないのよ、メアリー」ロザムンドは絶望にかられ、金切り声をあげた。「あなたはわかってないわ。私たちの目の前で、怖ろしいことが起きているということが。あなたにも聞こえたでしょう? 二階から、レボルバーの銃声が」

「ええ、銃声なら聞こえました」メアリーは、明るい様子で言った。「でも、丁度そのとき、荷造りをしていたものですから。それにイノセントからは聞いていました。ウォーナー先生のことを撃つつもりだと。ですから、わざわざ階下に降りてみる必要はありませんでした」

「まあ、どういうことかしら。あなたの考えがさっぱり分からないわ」ロザムンドはわめき、足を踏み鳴らした。「でも、私の言おうとするところを理解してもらわないと。そうする必要があるのよ。あなたのイノセント・スミスとは、この世で、もっとも邪まな男なのです。彼は他の男たちに、たくさん弾丸をうちこんできたし、他の女たちとずいぶん馬車で出かけてきたのよ。おまけにその女たちを殺していたらしいわ。だって誰も見つかっていないんですよ」

「たしかに彼はいたずら好きなところがあって、手に負えないこともありますけど」メアリー・グレーは穏やかに笑いながら、古ぼけた、灰色の手袋のボタンをとめた。

 

「まあ、このひとは催眠術か何かにかかっているわ」ロザムンドは言うと、涙をこぼした。

それと同時に黒い服をきた男が二人、家から出てきたが、そのあいだには緑の服をきた大男がとらわれていた。彼は抵抗していなかったが、あいかわらず焦点の定まらない笑いをうかべていた。アーサー・イングルウッドがあとにつづいたが、彼が出て来た書斎は、屈辱と懊悩からなる最後の影につつまれ、真紅色に染まっていた。この陰鬱な一行は葬儀の参列者のようで、ずいぶんと痛々しいくらいに写実主義の形式をとりながら、ビーコン・ハウスから退出していくのだが、その中心となる男は、一日前、壁を幸せそうにけったり、陽気に木によじ登ったりしていた男だった。メアリー・グレーをのぞけば、庭にいた人々は誰も動こうとはしなかった。メアリー・グレーはごく自然な様子で前にすすむと声をかけた。「準備はできたかしら、イノセント? 馬車は長い間ずっと待ってくれていたのよ」

「紳士淑女の皆さん」ウォーナー医師は毅然として言った。「このご婦人に脇にどいていただくように、なんとしてもお願いしなくてはなりません。ご覧のとおり、私たちは難しい状況にたたされるのです。一台の馬車に、この三人で乗るのですから」

「まあ、私とスミスがお願いした馬車なんですよ」メアリーは言い張った。「馬車の上には、イノセントの黄色い鞄が積んでありますわ」

「脇にどきなさい」ウォーナーはぞんざいな口調で繰り返した。「それに君もだよ、ムーンさん。少しだけ、体を動かしてください。さあ、はやく。この嫌な仕事がはやく終わるほど、いいのだから。君がよりかかったままなら、どうやって門を開ければいい?」

マイケル・ムーンは相手のほっそりとした人さし指を見つめ、この論争を幾度も反芻しているようだった。「わかった」彼はついに言った。「でも門をあけたままだと、どうやって寄りかかっていればいい?」

「どけばいいじゃないか」ウォーナーは機嫌良く、大声でかえした。

「いつでも門にはよりかかれるとも」

「そんなことはない」ムーンは反射的に言った。「よりかかれる時も、場所も、青い門も滅多にない。それもすべて、旧家の出かどうかにかかっている。僕のご先祖様は門に寄りかかっていたんだ。誰かが門の開け方を発見する前から」

「マイケル」アーサー・イングルウッドは、ある種の憂鬱さをこめて叫んだ。「脇にどいてくれるかい?」

「なぜ? いやだ。どくつもりはない」マイケルはしばらく考えたのちに言うと、ゆっくりとふりかえった。すると目にとびこんできたのは話題の主であったが、彼は相変わらずのらりくらりとした様子で、道をふさいでいた。

「やあ」彼はだしぬけに言った。「スミスさんをどうするつもりか?」

「彼を連れて行く」ウォーナーはぶっきらぼうに言った。「調べるために」

「入学試験でも受けさせるつもりか?」ムーンはぞんざいに訊ねた。

「治安判事が調べてくれる」相手は素っ気なく言った。

「よその治安判事が」マイケルは甲高い声をだしながら叫んだ。「この自由の地にふりかかる出来事を審理したところで、昔から勝手にやっているビーコン公爵を助けるだけじゃないか? よその高等裁判所が我々の仲間を審理したところで、ビーコン高等裁判所を助けるだけじゃないか? もう忘れたのか? 今日の午後、僕たちは自治の旗をかかげて、地球上のすべての国から独立したじゃないか?」

「マイケル」ロザムンドは両手を固く握りしめながら言った。「そんなところに立って、意味のわからない言葉を話しているのはどういうことなの? なぜなの? おそろしい場面を見たじゃない? 彼が狂ったときに、その場にいたじゃない? 先生が植木鉢につまずいて転んだとき、抱え起こしたのはあなたなのに」

「ビーコンの高等法院なら」ムーンは尊大な口調で答えた。「すべての事件に特別な権限をもっている。気狂いのことにしても、植木鉢にしても、庭で転んだ医者のことにしても。エドワード一世から頂いた、最初の勅許状で許されている。もし医者であれば、誰であろうとも、庭で倒れし場合―」

「そこをどくんだ」ウォーナーは、怒りにかられて言った。「さもないとお前を無理やりに―」

「なんだって!」マイケル・ムーンは浮かれきって叫んだ。「神聖なる青の門を守ってみせようか。青い柵を、血で染めるつもりか」それから彼は背後の、青色をした尖ったものをつかんだ。イングルウッドが、夜、気がついたように、柵はゆるみ、その場所は曲がっていた。塗装された鉄の棒と槍の先端を手に握ると、彼は振りかざした。

「見ろ!」折れた投げ槍を空中に振りかざしながら、彼は言った。

「ビーコン・タワーを囲む槍が、その塔を守ろうとしている。もともとの場所から飛んでくるそ。ああ、こうした場所で、こんな時間にひとりで死ぬなんて、素晴らしいことじゃないか」

彼は太鼓のような声で、ロンサールの高貴な詩句を朗々と諳んじた。

「神の名誉のために、我が王子の権利のために、この地で勇気をふるいおこせよ」

「生きているもののために」アメリカの紳士は、畏怖の念にうたれながら言った。

それから彼はつけ加えた。「ここには狂人が二人いるのか?」

「いや、五人いる」ムーンは大声で話した。「スミスと私だけが正気なんだ」

「マイケル!」ロザムンドは叫んだ。「マイケル、どういうことなの?」

「愚かしいことだということだよ」マイケルはうなると、庭のむこうへ彩色された槍を飛ばした。「医師も愚かしいし、犯罪学も愚かしい。アメリカ人も愚かしい。ビーコンの高等法院よりも、ずっと愚かしいということだよ。君たちは愚かだよ。イノセント・スミスは、木の鳥ほどに狂ってもいないし、悪くもない」

「でもムーンさん」イングルウッドは、遠慮がちに切り出した。「こちらの紳士方は―」

「二人の医師の言葉によれば、と言うのか?」ムーンは言葉をたたきつけ、もはや誰の言葉も聞いていなかった。「二人の医者の言葉にしたがって、精神病院の独房へ閉じこめておけとでも? そんな医者も閉じこめてしまえ! 僕の帽子でも閉じこめておけばいい。そういう医者をよく見るがいい。そんな医者二十人に勧められても、本を読んだり、犬を買ったり、ホテルへ行ったりするものか。僕の家はアイルランドからきたカソリックだ。もし二人の司教の言葉にしたがって、相手のことを邪まだとか言えば、君はどう思うのか?」

「でも言葉だけではないのよ、マイケル」ロザムンドが説き伏せた。「証拠もあるわ」

「君は、その証拠を見たのか?」ムーンは言った。

「いいえ」ロザムンドは答えたが、そこには微かな驚きがあった。「こちらの紳士が管理しているわ」

「それだけではない。あらゆることも、のように思えるけど」マイケルは言った。「どうしてデューク夫人に相談するだけの礼儀正しさがないんだい?」

「まあ、そんなことをしても無駄ですもの」ダイアナは、低い声でロザムンドに言った。「おばちゃんは言えないもの。『こら』と、鵞鳥にだって」

「それは嬉しい話だ」マイケルは答えた。「鵞鳥の群れにそんな風に声をかけているなら、彼女は、いつも、おそろしい呪いの言葉を口元にうかべているだろうから。僕としては、あっさり水にながすことは拒否するつもりだ。デューク夫人には訴える―ここは彼女の家だと」

「デューク夫人に?」イングルウッドは疑わしげに繰り返した。

「ああ、デューク夫人に」マイケルは断固として言った。「下品にも、鉄のデュークと呼ばれている夫人に」

「おばさまに訴えたところで」ダイアナは静かに言った。「結局、何もしないでしょう。おばさまが考えることは、口をつぐむか、脇におしやることですもの。おばさまには、よくお似合いだけど」

「そうだとも」マイケルは答えた。「そうするのが我々みんなにふさわしい。君は年長者に手厳しい、ミス・デューク。でも君があのくらいの歳になれば、ナポレオンが言っていた言葉の意味を知ることになるだろう。すなわち、手紙の半数は功を奏する。手紙に答えるという世間一般の欲求を思いとどまることができるなら」

彼はまだそこにもたれかかり、あいかわらず無意味な態度をとりつづけ、肘を格子戸についていた。だが彼はその声を急にかえた。これが三度目だ。疑似英雄詩を朗じる声から、人間らしく腹をたてている声へと変わり、そして今、法律家が法律上の有益な助言をあたえるときのような、うわべだけ鋭い声へと変わった。

「おばさんだけじゃないんだ、できれば、この家を静かにしておきたいのは」彼は言った。「僕たちも、できることなら、この家を静かにたもちたい。大げさな申し立てには気をつけた方がいい。それが今回の事件の骨格だから。こちらの科学に詳しい紳士方が、高度に科学的な誤りをおかしたせいだと思っている。スミスにはやましいところはない。キンポウゲの花と同じくらいに。もちろん、キンポウゲの花は、個人の家に装填した銃を持ちこんだりしないだろう。そこには説明を必要とする事情があるにちがいない。でも僕のみたところ、隠された事情とは馬鹿げた誤りか、冗談なのか、なにかの寓意か、事故なのだと思う。かりに僕がまちがっているとしても、僕たちは彼を抑えているし、しかも五人の男がかりで拘束している。これから彼を留置場に連れて行くべきなのかもしれない。でも僕の言っていることが正しいとしたら、どうしますか。人前で内輪の恥をさらすことになってもいいのですか?」

「これから、順番に説明していこう。いったんスミスを門の外に連れ出せば、彼は夕刊の一面を飾ることになる。分かるんだ。僕自身、一面を書いたことがあるから。ミス・デューク、君も、おばさんも、下宿が注目をあびてもいいのか? 『ここで医師が撃たれる』と。ああ、医者なんてつまらない連中だ。前から僕は言っているけど。でも、君たちにしたところで、つまらない当てこすりは望むまい。アーサー、考えてみるんだ。僕が正しかったときのことを。あるいは間違っていたときのことを。スミスは、君の学生時代からの友達として、ここにあらわれた。僕の言葉を記録しておけよ。もし彼が有罪ということになれば、新聞は、君が彼を紹介したと書きたてる。もし彼が無実だとわかれば、新聞は、君が捕まえるのに手を貸したと書くだろう。ロザムンド、いいかい。僕が正しい場合、間違っている場合のことを考えてごらん。もし彼が有罪だということになれば、君のコンパニオンと婚約していたことが記事になる。無罪だということになれば、あの電報が新聞にのるだろう。僕はマスコミのことをよく知っているから、忌々しい連中だよ」

彼はしばし話すのをやめた。急に合理主義をとなえたせいで息がきれ、それは芝居がかった物言いよりも、真に弾劾する口調で言うよりも、もっと息がきれるものであったからだ。だが彼はあきらかに本気であり、また自信をもっていながら、同時に分かりやすくもあった。彼が息をととのえると、すぐに、それは証明された。

「同じことですよ」彼は声をはりあげた。「僕たちの医者の友達にしても。ウォーナー先生はご立腹だから、と君は言うことだろう。僕もそれは認める。でも彼が、記者から、わざわざ写真を撮ってもらいたがるか? 茂みのなかにひれ伏すのか? 彼に非はない。そうした事態は、彼に威厳をつけるものではないかなら。彼にも正義心はあるにちがいない。でも正義心を発揮するだろうか。跪くだけではなく、四つん這いになってまで。裁判所に四つん這いになって入りたがるだろうか。医師は、宣伝することは許されていない。それに、そんなふうに見られたい医者もいないと思う。アメリカ人の客にしたところで、同じようなものだ。もし彼が決定的書類を持っているとしよう。それから読むに値する意外な事実もつかんでいるとしよう。それでも、裁判所での尋問にこたえ、医学的な調査結果について報告するときに、そうした書類を読み上げることは許されない。彼は二、三分ごとに、古い規則がもつれた山に足をとられてしまうだろう。今日、公の場で、真実を語ることができない。だが個人では、まだ語ることができる。あの家のなかでなら、真実を語ることができる」

「たしかに言うとおりだ」サイラス・ピム医師は言った。話のあいだ、彼はずっと耳を傾けていたが、その真摯な態度は、アメリカ人だけが維持できるものであった。「身内で取り調べをおこなえば、あまり妨げられることはない。たしかに、そのとおりです」

「ピム博士!」ウォーナーは、突然、怒りにかられて言った。

「ピム博士! そんなことを認めてはいけない―」

「スミスは気が狂っているかもしれない」ムーンは物憂げにつづけ、その独白は重々しく響いてくるように思えた。「でもスミスの言葉には、なんらかの真実がある。すべての家には、家庭内自治があるという言葉には。ああ、たしかに真実が見つかる。すべての審議をつくし、尋問を行ったときには。このビーコン下宿の高等裁判所で。たしかに家庭内が裁判所みたいになっている人もよくいる。法律上の権利が、すぐに侵害されるだけの場所に。ああ、僕も弁護士だから、よく分かる。職権のなかには間接的に働くものもたくさんある。よくあることだよ。国の力では解決できないけど、家族の力でなら解決できることもしょっちゅうある。若い犯罪者が大勢見つかっては刑務所におくられるけど、本当はむちで打って寝床においやればいいだけだ。多くの男達がハンウェルで過ごすけど、それはただブライトンで一週間過ごしたかったからなんだ。家庭内自治に関するスミスの考えには、もっともなところがある。その考えを実践にうつすことを提案しよう。被告人もいるし、記録も残っている。いいか、僕たちは自由であり無垢な、キリスト教徒の仲間なんだ。街のなかに閉じこめられ、人気のない島に打ち上げられているような気もするけど。僕たちでやってみよう。あの家の中に入って、腰をおろして、目と耳で確かめようではないか。これが真実かどうか。スミスが人間なのか化け物なのか。そうした些細なことができないのなら、投票用紙に×をつける権利があるのだろうか」

イングルウッドとピムは視線をかわした。ウォーナーは愚か者ではないので、その視線を目にすると、ムーンが優勢になりつつあるのを知った。アーサーも説得に屈しかけていたが、その動機は、サイラス・ピム博士に影響しているものとは異なっていた。アーサーが本能的に守るとするのは、プライバシーを守ろうとする心であり、礼儀正しく解決しようとする心であった。彼は典型的な英国人なので、事件をおこしたり、まじめな美文を書いたりすることで悪事をただすよりも、悪事に耐える方をえらんだ。博物学者と遍歴の騎士の両方を演じて、アイルランドの友人のようにふるまったなら、彼は責め苦を味わったことだろう。だが、その日の午後は中途半端に演じただけなのだが、それでも彼には苦痛だった。彼の義務とは、寝ている犬を起こすことだと誰かが説いたところで、彼はやる気にはなれなかったことだろう。

一方、サイラス・ピムは、英国人にすれば狂っているように思えることが可能な国からきていた。そこはイノセントの冗談やマイケルの皮肉のような規則やら権威やらが、本当に存在する国であり、そうした規則は冷静沈着な警察官に守られ、忙しい経営者にも規則が押しつけられていた。ピムはすべての州を知っていたが、どこも広々としていて、人目にふれることなく、風変りであった。それぞれの州は、一国に匹敵するくらいに大きく、失われた村と同じくらいに人目にふれることはなく、アップルパイの生地と同じように見当のつかないものであった。ある州では煙草が許されることなく、ある州では十人の妻をもつことができた。厳しい禁制が課せられている州もあれば、離婚にたいして緩い州もあった。このように大きな母国を思い出すうちに、サイラス・ピムの心は、小さな国の、小さな家での思い出に向かい合う準備ができていた。ロシア人やイタリア人よりも、彼は英国には疎いので、英国のしきたりが何であるのか思い描くことができず、ビーコンハウスの家庭内裁判所というものが社会に受け入れてもらえないことが分からなかった。この試みの場に居合わせた人々は、結局のところ、ピムが幻の法廷を信じて、それが英国の組織であると考えたと確信している。

いくぶん手詰まりの会議をしていると、だんだん靄がたちこめ、あたりが霞みはじめたところに、背のひくい、黒々とした人影が近づいてきたが、その姿は衰弱した黒人さながら、抑圧がまだ十分でないという感じであった。その姿をみると、すぐに親しみと同時に場違いなものを感じたせいで、マイクは心動かされてしまい、いかにも人間らしい軽口がほとばしり出た。

「どうしたんだ、そこにいるのはちびで、騒々しいグールドじゃないか」彼は声をはりあげた。「彼の姿を見ただけで、君の病気もじゅうぶん追いはらえるじゃないか」

「まったく」ウォーナー医師は答えた。「まったく見当がつかない。グールド氏が、どれほど、この問題に悪い影響をあたえることになることやら」

「やあ! 葬式みたいな顔をしているじゃないか、諸君」そこにやってきたグールドは、滑稽なところのある仲裁者という雰囲気で訊ねた。「医者の先生が何か言っているのか? この下宿屋では、いつものことじゃないか。いつものことだけど、たくさん要求してくる癖に、なにも与えはしないんだ」

できるだけ偏ることのないように、マイケルは自分の立場について、再び語り始めた。おおよそのところ、スミスが危険かつ疑わしい行為をおかした罪があり、正気ではないという申し立てもあったという話であった。

「ああ、たしかに彼にはそういうところがある」モーゼス・グールドは動じることなく言った。「確かめるのに、老ホームズに頼む必要はない。ホームズの、鷲のような顔は」彼は抽象的な言葉をくわえた。「絶望をあらわしているんだ。グールドのような探偵は、そうしたことはないだろうが」

「もしスミスが狂っているとしたら」イングルウッドは言いはじめた。

「そうであれば」モーゼスは言った。「屋根の上にでた最初の夜に、あちらこちらの瓦がゆるむだろう」

「前なら反対しなかったのに」ダイアナは頑固に言いはった。「それに、すぐ不平を言うくせに」

「スミスのことで不平をこぼしたりはしないとも」モーゼスは度量のひろいところをみせた。「可哀想な男だよ、まったく害がない。この庭にくくりつけでもすれば、強盗がはいるたびに騒音をたてるだろうけど」

「モーゼス」ムーンは勿体をつけながら、真剣にいった。「君は、良識というものが人間の姿をとっているかのようだ。イノセント氏が狂っていると考えているんだね。では科学が人間の姿をとっている人を紹介するとしよう。彼もイノセント氏が狂っていると考えている。ドクター、こちらは友達のグールド氏です。モーゼス、こちらは高名なピム博士だ」賞賛をうけたサイラス・ピム博士は目をとじ、お辞儀をした。彼は低い声で、祖国の鬨の声をあげたが、その声音は「お会いできてうれしいです」と伝わってきた。

「君たち二人ときたら」マイケルは楽しそうに言った。「どちらも、僕の可哀想な友達が狂っていると考えている。向こうの家に入って、彼が狂っていると証明しようじゃないか。科学理論が良識と結びついたら、これほど強いものはない。手と手を携えれば、君たちは強くなる。もし手をはなせば、力は弱まる。僕は礼儀知らずではないから、ピム博士には良識がないなんて言わないけど。僕が専念しているのは、時系列で出来事を記録することなんだ。ピム博士ときたら、詳しく教えてくれなかったからね。モーゼスが科学知識を持ち合わせていないことに賭けるよ。それでも、この強力な組み合わせに対抗しよう。身を守るのは「直観」だけだ。それは「推測」にあたるアメリカの言葉だね。」

「グールドさんに助けて頂いたおかげではっきりしました」ピムは突如、目をみひらいて言った。「最初の診断から、我々の見解は一致していました。それでも我々のあいだには、意見の不一致と言うほどではない点もあります。おそらく、その不一致を言いあらわすとしたらー」彼は親指と人さし指で輪をつくり、他の指は優雅にのばした。その様子は、こうせよと指示する者を待っているかのようであった。

「蝿をつかまえているのか?」モーゼスは気さくに訊ねた。

「相違と言うべきでしょう」ピム博士は洗練された様子で、安堵の吐息をついた。「相違ですよ。問題の男が狂っていることを認めはします。でも医学が殺人狂に求める全条件を充たしているかと言えば-」

「こういうことが頭に浮かんでこなかったのか」ムーンは言うと、ふたたび門に寄りかかった。でも、こちらをふりむきはしなかった。「もし彼が殺人狂だとしてもだ。こうして話しているあいだに、僕たちを殺しただろうか」

その場にいた者たち全員の心のなかで、何かが音もなく爆ぜ、どこかの忘れられた倉庫にしまわれたダイナマイトが爆発したかのようであった。そのときになってようやく思い出したのだが、話題にあがっている其の怪物は、二時間、三時間と、彼らのあいだに、ひっそりと立っていた。彫像のように、庭に残された彼は、その両脚には海豚がまとわりつき、口からは噴水が吹きあげそうであった。彼が忘れ去られたのは、イノセント・スミスそのものの話題に人々の心が集中していたからだ。黄金の兜をつけて立つかのように思える髪はやや前のほうに流れ、血色のよい、近視気味の顔は堪えて下をむいているが、格段、何かがあるわけではなかった。大きな背中をまるめ、両手をズボンのポケットにつっこんでいた。彼らがみたところ、彼はまったく移動していなかった。その緑の上着は、足もとの緑の芝から切り抜いたものなのかもしれない。彼の影におおわれながら、ピムはくどくど語り、ロザムンドは説得しようと奔走し、マイケルはわめきたて、モーゼスは愚弄した。彼は彫刻のようにとどまり、さながら庭の神であった。雀がそのがっしりとした肩にとまって、羽をととのえると飛び去った。

「どうしたんだ」マイケルは笑い声をあげながら叫んだ。「ビーコン高等裁判所は開廷されたのに、ふたたび閉廷しているじゃないか。みんな知っているくせに。僕が正しいことを。君の心のなかの良識は、僕の心のなかの良識と同じだよ。スミスは銃を一回撃つかわりに、祝砲を百回うちあげたかもしれないじゃないか。君にもわかるだろう。君も、彼のことを害のない男だと考えている。僕も同じように考えているよ。家に戻って、議論できるように片づけようじゃないか。ビーコン高等裁判所の開廷は決定されたし、これから審議を開始しようとしているのだから」

「さあ、始めようよ」小男のモーゼスが叫んだが、その声は驚くほど客観的で、まるで動物が音楽や雷雨のなかにいるかのようだった。「ベーコン・エッグの高等裁判所についておいで。農場から薫製ニシンをもってくるんだ。裁判長閣下、おめでとう。専門家と言っていいくらいに繊細なグールドがあらわれたのだから。さあ、昔ながらの、最上等のパブの特別室で祝うにふさわしいことじゃないか。ひりひりするスコッチを三人分たのむ。お嬢さん。僕のほうにおいでよ、お嬢さん」

自分を追いかけてごらんという誘いに娘達がのらなかったので、彼は立ち去ったが、興奮にかられているせいで、ふらりふらりと踊っているかのようだった。庭を一周してから、彼がふたたび姿をあらわしたとき、息はきれていたが、それでも晴れやかな顔をしていた。相手がいかなる人物かということにムーンが気づいたのは、その人物、モーゼス・グールドと話していた人々が怒っていたにせよ、それほど本気になっていない様子をみたときだった。ガラス扉は、モーゼス・グールドのすぐそばで開け放たれていた。この陽気な愚か者の足がそちらへむかうと、その場にいた人々も同じ方向にむかい、異議を申し立てることなく騒々しい一行と化した。ダイアナ・デュークだけが厳しさを失わず、この数時間のあいだ、その猛々しくも女らしい唇であたためつづけた言葉を何やら呟いた。だが悲劇の気配に、さすがにその言葉は思いやりがないだろうと彼女は隠した。「今日のところ」彼女はつっけんどんに言った。「馬車は追い返せばいいわね」

「そうね、イノセントは鞄をおろして持っていったと思うから」メアリーは微笑みをうかべて言った。

「馬車の御者が私たちのために鞄をおろしてくれたのかもしれないけど」

「僕が鞄をとってくるよ」スミスは言ったが、それは数時間ぶりに聞く声であった。その声はかすかに聞こえてきたが、無礼なところもあって、たしかに彫像が話しているかのようだった。

不動の姿勢をとっていた彼のまわりで、長いあいだ踊ったり、論じたりしていた人々は、あわてふためく彼の様子に呆気にとられていた。彼は跳びはねながら駆け出していき、庭から通りへと出て行った。地をけりあげ足をふるわせると、彼はもう馬車の屋根の上にいた。御者は馬の頭の傍らに立っていたが、馬の首にかけてあった飼葉袋がからになったので、そのとき外そうとしていているところだった。スミスはしばらくグラッドストーンの鞄を抱えたまま馬車の屋根の上で転がっていたらしい。だが次の瞬間、運のいいことに、彼は後部座席に転がり込んだ。すると馬が耳をつんざくような、甲高い声をあげ、飛ぶように通りのほうへと疾走していった。

スミスがあっという間に姿を消してしまったので、今度はその場にいた全員が庭の彫刻と化してしまった。けれどもモーゼス・グールド氏は、永遠の彫刻となるには肉体的にも、精神的にもふさわしくない人物なので、他の者たちよりもいち早く正気に返ると、ムーン氏のほうへとむかって話しかけたが、それは乗合馬車でおしゃべりを始めた男さながらであった。「頭がおかしいのかねえ、きっと何かをちょろまかしたんだろう」すると石のような沈黙がたちこめた。ややしてウォーナー医師が、石棒のような冷笑をうかべて言った。

「ビーコンの法廷の結果がこれだよ、ムーン君。頭がおかしい男を首都に放ってしまったのだ」

以前、説明したように、ビーコン・ハウスがあるのは、三日月のように弧を描きながら建物が続いているクレッセントの端であった。ビーコン・ハウスを囲んでいる小さな庭は、鋭く尖った形となり、さながら二本のストリートのあいまに突き出した緑の岬といったところである。スミスが乗った馬車は三日月の弧にそって走り去ったので、三日月の内側に立っていた人々は、もう二度と彼の姿を見ることはあるまいと考えた。しかしながら三日月の頂点にくると、彼は馬の向きをくるりとかえ、三日月のもう片方の弧にそって来たときと同じように荒々しく馬を走らせた。同じ衝動につき動かされ、そこにいた人々は芝生を横切って彼をとめようとしたのだが、すぐにもっともな理由から、身をかわしてさがっていた方がいいと判断した。彼がふたたび通りのほうへと消えるとき、大きな、黄色い鞄を手から放した。その鞄は庭の真ん中に落下しながら、人々を竹のようになぎ倒し、あやうくウォーナー医師のシルクハットに三度めの損傷をあたえるところであった。人々が落ち着きを取り戻したころには、馬車は消え去り、甲高い声も囁きとなっていた。

「さあ」マイケル・ムーンが言ったが、その声には妙な響きがあった。「とにかく、君たちはもう家の中にはいっていい。ここにはスミスの持ち物が少なくとも二つある。彼の婚約者もいれば、トランクもあるのだから」

「どういうわけで家のなかに入ってもらいたいというのか」アーサー・イングルウッドは訊いてきたが、赤い眉にしても、こわばった茶色の髪も、苛立ちが限度にまで達したかのように思えた。

「他の方々には、中に入って休んでもらいたいのです」マイケルは明瞭な声で言った。「この庭すべてを貸し切りにしたいのは、そこであなたと話すためです」

分別を欠いた疑念があたりに渦巻いた。しんしんと冷え込み、夜風が薄暗闇の木をゆらしはじめた。しかしながら、ウォーナー医師は躊躇いのない口調で言った。

「そうしたご提案はお断りします」彼は言った。「君があの狼藉者を見失った以上、我々は見つけ出さないといけない」

「君になにか提案を聞くように頼んでいるわけではない」ムーンは静かに答えた。

「ただ聞いてほしいと言っているだけだ」

彼が相手を黙らせようと手で制止するとすぐに、家の裏手の暗い通りに消えた筈の口笛がふたたび聞こえたが、今度は家の表の通りから聞こえてきた。夜闇にかすむ通りのほうから、その口笛は信じがたいほどの勢いで近づき、音が大きくなってきたかと思うと、次の瞬間には蹄が地をけりあげ、車輪に光が反射しながら、彼らが先ほど立っていたばかりの、青い柵の門へ飛びこんできた。スミス氏が御者台から降りてきたが、心ここにあらずという様子であった。そして庭の方へやってくると、相変わらず不遜な態度で立っていた。

「中に入ろう! さあ、中に」ムーンは大はしゃぎで叫び、まるで猫の一団を追いはらうかのようであった。「さあ、中に。急いで。言ったじゃないか? イングルウッドと話をしたいと?」

どんなふうにして家に入ったのか、その有様を語ろうとしても、時間がたってからでは難しいことであっただろう。意見が一致しないものだから、みんな疲弊しきっていたが、それは笑劇を演じる人々が笑うのに疲れたかのようであった。嵐がだんだん強まって、木々は断末魔の身震いに震えているかのように見えた。イングルウッドは後ろの方でぐずぐずして、親しいなかにも苛立ちをこめて言った。「おい、僕と本当に話をしたいというのか?」

「ああ」マイケルは言った。「おおいに話をしたいね」

ふだんと同じように夜になったが、その暗くなりゆく速さは、夕空のころ考えていたよりも早かった。目には、空がまだ薄灰色を宿しているように感じられるけれど、大きな月が煌々とした光をはなちながら、屋根の上に、木々の上に姿をあらわし、濃灰色にかわっている空にうかんだ。しおれた葉が芝生に吹き寄せられるのも、ちぎれた雲が空に吹き寄せられるのも同じように、難儀な強風に運ばれての結果に思えた。

「アーサー」マイケルは言った。「きっかけは直観なんだけど、今では確信しているよ。君も、僕も、聖なるビーコン裁判所で友達を守ることになると。彼の汚名をはらすんだ。犯罪人であり、狂人であるという汚名を。少しばかり君に説教するけど、耳をかしてくれ」暗くなりつつある庭を行ったり来たりしながら、ムーンは続けた。

イングルウッドが本能を働かせて第一に考えたのは、友人が当惑のあまり、ついに本当に狂ってしまったということであった。あまりにも思慮分別に欠けた、見当ちがいの言葉が聞こえてくるのは、熱帯の風景が描かれているように想像するようにと求められた壁からのようだが、その熱帯の景色は想像の産物で、もともとの庭は生気に欠け、風が吹きさらしていくような、幾分冷え冷えとした郊外の庭であって、実際、彼はそこで蹴りつけていた。そうしたところにいながら、別の庭を想像することで、どうすれば、もっと幸せになるのだろうかと、彼には見当もつかなかった。どちらの庭も、庭自体は心地よいものではなかった。

「なぜ、みんなは難題を口にするのだと思う?」ムーンはぶっきらぼうに続けた。「たとえ答えを忘れていたとしても。難題は覚えやすいんだよ。推測するのが難しいからね。だから、昔の象徴文字もぎくしゃくとした形で、黒や赤、緑色をしているけれど、覚えるのが簡単なんだよ。推測するのが難しいからね。色もはっきりしている。形もはっきりしている。すべてがはっきりしているけど、意味だけがはっきりしないんだ」

イングルウッドは口をひらくと、感じよく、抗議の気持ちをあらわしたが、ムーンは話し続け、庭園を歩く足も、煙草をふかす速度も、だんだん速くなっていった。「ダンスもだよ」彼は言った。「ダンスは浅薄なものではないんだ。篆刻された文字や文章よりも、ダンスのほうが理解するのが難しい。昔のダンスはぎくしゃくして、儀式めいたものだけれど、色彩ゆたかで、しかも静かなんだ。スミスのことだけれど、奇妙なところがあるのに気がついたことがあるか?」

「おや、なんだって」イングルウッドは声をあげたが、その声からユーモアは消え失せていた。「なにかに気がついたかだって?」

「彼のことだけど、こんなことに気がついたことがあるか?」ムーンは、あいかわらず頑固に訊ねた。「彼はいろんなことをやっているのに、ほんの少ししか話していない。はじめて来たときに、彼は話をしたけれど、息をきらしながら、取り乱した感じで話をした。まるで話をするのに慣れていない感じをうけたよ。彼が実際にしたことは行動なんだ。黒のガウンに赤い花の絵を描いたり、黄色の鞄を芝生に投げたり。君に教えよう。あの大きな姿そのものが比喩なのだと。緑の数字が、どこか東方の白い壁で跳ねまわるようなものだよ」

「おい、マイケル」イングルウッドは声をはりあげ、強くなってくる風にあおられたかのように苛立ちをつのらせた。「君はずいぶん空想的になっている」

「つい今しがたの出来事について考えているんだ」マイケルはしっかり続けた。「あの男は何時間も話していない。それでも、ずっと話しているんだ。六連発銃から三発撃っておきながら、僕たちに負けたんだ。僕たちをその場で撃ち殺すこともできた筈なのに。僕たちへの信頼をしめすには、そうするしかなかったからではないか。彼は裁判をうけたいと思っているんだよ。信頼をしめすには、じっと立ったまま、論議する以外にないんじゃないか。彼が言いたかったのは、喜んでそこに立っているということ、それから望めば脱出も可能だということなんだ。自分が思いのまま行動できることをしめすには、馬車に乗って逃げ出しておきながら、また戻ってくるしかないじゃないか。イノセント・スミスは狂人ではない。儀式主義者だよ。彼は自分を表現するのに、舌ではなくて、両手、両足を使うんだ。『全身であなたを敬います』と結婚式のときに言うみたいに。僕には分かり始めたよ、古代の芝居や野外劇のことが。今なら分かる、なぜ葬式の供人が無言でいるのかが。それからパントマイムの役者がなぜ無言なのかということも。ほかの冗談はすべてうるさいものだけど。たとえば、うるさいグールドのように。沈黙につつまれている冗談はただひとつ、行動をともなった冗談にある。可哀想なスミスだけど、適切に解釈するなら、行動をともないながら冗談を言う人間の寓話だと考えればいいんだよ。彼がこの家で実際に引き起こしたことは、インディアンの踊りのように気違いじみているけれど、でも絵画のように静かでもあるんだ」

「君はつまり」もう片方が疑い深そうに言った。「こうした犯罪の意図を発見したということ言いたいのか。まるで色のついたジグゾーパズルを完成したようじゃないか。でも、そうしたものに何か意味があるとすればだが-これは言い過ぎた」

さりげなく庭のほうをふりかえりながら、彼は月を見上げたが、その頃には月は大きく、光り輝いていたので、人間のように見える姿が庭の塀のうえに腰かけているのが見えた。月の光をあびて、その姿は黒々と浮かび上がりはしているものの、一目見ただけでは、人の姿かどうか確かめるのは難しかった。丸い肩も、逆立った髪の毛も、巨大な猫さながらの雰囲気があった。その姿が猫に似ているのはまた、びっくりした瞬間、やすやすと壁をよじのぼりながら駆けだした動作にもあった。だが駆けているあいだは、鈍重な肩も、下向きの小さな頭も、ヒヒを思わせるものだった。木のそばに近づくとすぐ、それは類人猿のように飛びはね、枝のあいだに消えていった。大風が、その頃には庭の灌木をゆらしはじめ、その姿を見つけるのはいっそう難しくなったのは、大風が一面の枝をゆさぶるせいで、逃げる者が揺らしていく枝も、風で揺れる枝の動きに溶け込んでしまったからだ。

「そこにいるのは誰だ?」アーサーは叫んだ。「何者だ? イノセントなのか?」

「イノセントではないというわけではないが」葉っぱのあいだから、不明瞭な声が答えた。

「かつて君をペンナイフで脅かした者だよ」

庭の風が吹き寄せられ、勢いを増しながら、木を前後にゆさぶり、その中にいる男も一緒にゆさぶり、まるで彼が初めてやってきたときの、陽気で、黄金色に輝いていた午後のようであった。

「では、スミスなのか?」イングルウッドは激情にかられ訊ねた。

「それに近い者だ」ゆれる木から声がした。

「でも、なにか本当の名前があるにちがいない」イングルウッドは自暴自棄にかられながら金切り声をあげた。

「なにか名前はあるんだろう?」

「なんとでも名前をつければいい」くぐもった声がとどろき、木をゆらしたので、何万枚もの葉が一度に話しているかのようだった。

「わたしの名前はローラランド・オリバー・イザヤ・シャルルマーニュ・アーサー・ヒルデブランド・ホーマー・ダントン・ミケランジェロ・シェークスピア・ブレークスピアー」

「なんだと、冗談じゃない(マンアライヴ)」イングルウッドは憤りにかられながら言いはじめた。

「それだ、それだよ」左右にゆれる木から唸り声がしてきた。「それが僕の本当の名前なんだ」そして彼が枝を一本折ると、秋の葉が一枚、二枚ひらりひらりと、月を横切っていった。

第二部 イノセント・スミスの弁明

 

一章

死神の目なのか、それとも殺人罪か

 

デューク家のダイニングルームがビーコン裁判所のために用意されたが、それは大急ぎで整えられたものながら華やかさがある場所で、どういうわけ居心地のよさが増しているように思えた。大きな部屋は、言わば、腰の高さほどの壁で小さな部屋に分けられていた。その壁は、子ども達がお店やさんごっこをするときのようなものだった。優れた調査員のなかでも最も活動的なモーゼス・グールドやマイケル・ムーンの手によるもので、いつもの家具を使っての仕切りだった。マホガニーのテーブルの長辺には巨大なガーデンチェアがひとつ、古くなって裂けた天幕か傘の下にあったが、それはスミスが戴冠式の王座だと言った代物だった。この天幕のなかには、ずんぐりとしたデューク夫人の姿があって、クッションにもたれながら、その顔はすでにまどろんでいた。もう片方には起訴されたスミスがいて―いわば被告人席であろうか―寝室の軽い椅子で、その四辺を注意深く囲まれていた。椅子はどれも、彼がその気になれば、窓の外に足先で投げ飛ばすことのできるものだった。彼にはペンと紙が与えられた。その紙から、彼は紙のボートや紙の投げ槍、紙の人形をつくり、裁判のあいだずっと満足していた。彼は話すこともなければ、顔をあげることすらなく、無意識の状態にある様子は、まるで子供が空っぽの子供部屋の床に座りこんでいるかのようであった。

ソファのうえには椅子がならべられ、そこには三人の若いレディたちが窓を背にして座っていた。メアリー・グレイが真ん中に座っていた。その席は陪審員席と馬上戦術試合の中間にあたる類のものだ。長テーブルの真ん中あたりで、低い砦を築いているのは「善言集」八巻からなる装丁本で、それは道徳の壁となって、相争う両陣営を分けていた。右側に座っているのは起訴側の弁護士たち、ピム博士とグールド氏だった。本や文書をつみあげたバリケードに隠れていたが、ピム博士の場合、その本はもっぱら犯罪学に関するものだった。もう片方でも、ムーンとイングルウッドが防御すべく、本やら文書やらで砦を築いていた。だが、これらのなかにはウィーダやウィルキー・コリンズが数冊含まれているように、ムーン氏の仕事は不注意なものであり、包容力のあるものであった。犠牲者であり告発者であるウォーナー医師について、ムーンは当初、隅の、高さのある衝立のかげにいてもらおうと、法廷で、下品にもせわしなく動いてみせた。だが、ひそかに相手に許したのは、ときどき衝立の上から覗いてもいいという許可であった。しかしながらウォーナー医師は、こうした場合の騎士道にそむいてしまい、多少の言い争いをしたあとで自らにあてがった席は、彼の法律顧問たちが並んでいるテーブルの右側であった。

こうして堅固に築かれた裁判所をまえにして、サイラス・ピム博士は、両耳にかかる蜂蜜色の髪をかきあげると、事件の弁論を開始した。彼の陳述は明瞭であり、抑制されてもいた。その陳述では比喩表現がほとばしるように語られ、人々の注意をひいたが、それは言いあらわし難いほどの不愛想さのせいであって、アメリカ人の演説に非凡さがあるせいではなかった。

彼は華奢な指すべての指先をマホガニーのうえにたてると、目をつむり、口をひらいた。「そういう時代ではなくなったのだ」彼は言った。「殺人が道徳にからむものであり、個人的なものだと見なされる時代ではなくなった。おそらく殺人者にとっても大事なことだし、殺される側にとっても大事なことだろう。科学は深いところまで…」ここで彼は一息つくと、拳をにぎりしめて目の前につきだしたが、その様子はとらえどころのない考えが横切る瞬間をしっかり捕まえようとしているようであった。彼は目を細め、「修正した」と言ってから言葉を続けた。「死についての見方を、根本から修正した。迷信の時代においては、死とは人生の終末であり、混乱だった。悲劇であるとさえ見なされるものであり、しばしば厳粛さにつつまれているものだった。しかしながら明るい時代となり、今、私たちが考える死とは、宇宙的なものであり、避けがたいものでもある。そうした魂をかきまわすものの一部を、そして心をささえるものの平均を、都合よくも自然の摂理と呼んでいる。同じようにして、殺人のことも「社会的」に考えるようになった。人生から力ずくで奪い取られるものではあるが、単なる個人的な感情を脱したときに、私たちには特権が与えられる。それは黄金の収穫をもたらすようなものであり、殺す者と殺される者の繰り返しを永遠に続けることなのだ」

彼は視線をおとすと、己の雄弁さにやや感銘をうけた様子で、軽く咳払いをして、ボストン流のすばらしい仕草で、四本の細い指先を広げてから話を続けた。「ここにあるのは幸せで、人間らしい考えの結論にすぎないながら、目の前の哀れな男についての考察である。それなんだよ、ミルウォーキーの博士がすっかり明らかにしたのは。偉大な男だ。『破壊的なタイプ』という研究書で、秘密を明らかにしていくソネンシャインのことだよ。スミスのことを殺人者として告発はしない。殺人をしかねない男として告発するのだ。いかにもというタイプだから、その命は、むしろ健康状態はと言うべきなのかもしれないが、殺人の渦中にある。なかには常軌を逸しているのではなくて、より新しく、より高度な存在なのだと考えるものもいる。私の昔からの友人、バルガー博士はフェレットを飼っているが-」(ここでムーンは突然、大きく「万歳」と叫んだが、即座に悲劇的な表情を取り戻したので、デューク夫人はその音の正体をたしかめようと四方をながめた。

ピム博士は、厳めしく続けた。「知識をえるためにフェレットを飼う者なら感じるところだが、その生き物の残忍さとは功利を目的にするところにあるのではなく、残忍さそのものというところにある。これはフェレットの場合なのかもしれないが、被告人の場合もたしかにそうである。彼がやってきた非道の数々に、狂人のような狡さを見出すかもしれない。彼がひきおこす流血沙汰には、たいてい正気の人のような純真さがある。だが、それは太陽や元素のように、まったく確かなものなのである。我らが処女地、西の地には虹が滝にかかるとすぐに、彼を殺戮にかりたてる自然の力が働く。いかに科学的なものであろうと、彼をなだめる環境はない。薄暗い回廊の、銀のごとき沈黙に、あの男をおいてみなさい。司教杖や白衣で暴力行為が行われることだろう。彼を幸せな子供部屋で育てあげ、我々勇敢な眉をしたアングロサクソンの幼年時代にその身をおいても、彼は縄跳びで絞め殺す術を見つけ、煉瓦で殴りつける術を見つけるだろう。環境は好ましいものかもしれない。教育も立派なものかもしれない。望みも高いものかもしれない。だが血をもとめるイノセント・スミスの飢えはすさまじく、隠しようがないもので、定められた時期がくれば、よく時をあわせた爆弾のように爆発するだろう」

アーサー・イングルウッドは、一瞬、不思議そうに、テーブルの足もとにいる大きな男に視線をはしらせたが、その男は紙のように薄い体で、三角帽がよく似合っていた。それからピム博士のほうをふりかえってみると、博士は静かな調子で結論をのべていた。

「私たちに残されていることといえば」彼は言った。「彼が以前にやろうとした犯罪について、実際に証拠を提出することだ。法廷と被告側の指導者たちのあいだには、すでに同意がなりたっている。ああした場面の証人たちから、信頼できる文書をもらい、証拠とすることが許されている。また被告は、それを自由に検討することができる。そうした侮辱の数々から、私たちは一つの事例を選んだ。もっとも明白であり、もっとも醜聞にみちた事例だ。よって遅滞なく我が後輩、グルード氏を呼び、二通の手紙を読んでもらう。一通はケンブリッジ大学のブレークスピア・カレッジの副学長からのもので、もう一通は門番からのものである。」

グールドはびっくり箱の人形のように、びょんと飛び上がると、その手に大学のものらしい文書をにぎりしめ、顔に著しい自惚れをうかべた。甲高い、ロンドン訛りの大声で読み上げ始めたが、それは鶏が時をつくる声のように突然であった。

「サー、私はケンブリッジ、ブリークスピア・カレッジの副学長です」

「おやおや、これは」ムーンはつぶやくと後ずさったが、それは銃が爆発したときに人々がするような動きだった。

「私はケンブリッジのブリークスピア・カレッジで副学長をしている者です」断固としたモーゼスは読み上げた。「あなた方が哀れなスミスについて言われていることを証明します。私の不幸なる義務とは、彼が学部生だった頃、もう少し程度の軽いものではありましたが、数々の悪行をしていたことを非難するにとどまらないのです。実際、最後の悪行についても証言せねばなりません。それは学部生時代の終わりころのことでした。彼はブリークスピアの学長である私の友人の家の下を通りがかりました。それはカレッジと続いている建物で、ニ、三の古いアーチと支柱によって、橋のように、カレッジとつながっている建物です。そのあいだを水が流れ、その水は川へとつながっていくのです。びっくりしたことに、きわめて高い地位にある我が友が空中にぶらさがり、れんが積みにしがみついていました。その様子からも、態度からも、彼がひどい不安に苦しんでいることがわかりました。しばらくして大きな銃声が二発とどろいたとき、はっきりと気づいたのですが、学部生のスミスが学長の窓から身をのりだし、何度も、レボルバーを学長にむけたのです。私を見ると、スミスは大声をあげて笑いだしましたが、その横柄さには、狂気も混じっていました。ですが思いとどまったようでした。門番に梯子を取ってきてもらい、学長を痛ましい姿勢から引き離すことができました。スミスは退学処分となりました。同封した写真は、大学のライフルクラブの受賞者たちのものですが、大学にいた頃のスミスも写っています。あなたの忠実なる僕、アモス・ボールター」

「もう一通の手紙は」勝利に酔いしれてグールドは言った。「門番からのもので、読むのに時間はかからない」

「ブリックスピア・カレッジで門番をしている者です。学長が、お若い方に銃で狙われたところを下におろしてさしあげる手伝いをしたことがございます。ボールター氏が手紙で書かれているとおりのことでございます。学長を撃とうとした若者とはスミスさんでした。ボールター氏が送りました写真の中の人物と同一人物です。敬具 サミュエル・バーカー」

グールドが二通の手紙を渡したので、ムーンは調べてみた。hとaの発音が違う点をのぞけば、副学長の手紙はグールドが読んでみせたとおりであり、門番の手紙とともに、明らかに本物であった。ムーンはイングルウッドに手紙をわたし、イングルウッドは無言でモーゼス・グールドに手紙を返した。

「最初の容疑は、殺人を継続して試みたという件だが」ピム博士は言うと、とうとう立ちあがった。「それは私の事件と関係している」

マイケル・ムーンは弁護のためにたちあがったが、ふさぎこんだ雰囲気をただよわせていたので、最初、被告人側の人々は希望を少しも抱かなかった。彼は抽象的な質問につきあうつもりはないと言った。「不可知論者であるほど十分に知っているわけではないから」彼は、やや疲れたように言った。「それに私が精通しているのは、よく知られていて、認められている原理だけです。科学と宗教について言えば、よく知られて、認められた事実とは十分に分かりやすいものなのです。教区司祭が言っていることはすべて、どれも証明されていません。博士たちが言うことはすべて、反証されています。これこそが科学と宗教のあいだにある違いであり、今までもそうでしたが、これからも変わることはないでしょう。しかしながら、こうした新しい発見に、どういう訳か、私は感動してしまう」彼は悲しそうに足元を見つめた。「新しい発見は、年老いた伯母のことを思い出させるのです。彼女も、若い頃は、新しい発見を楽しんでいました。今でも、庭の塀のそばにある古いバケツのかたわらに、ゆらめくポプラ並木の下に見えるようです…」

「おい、そこで話は一休みだ」モーゼス・グールドはさけぶと、汗をうかべながら立ち上がった。「被告にも、公平に話をしてもらいたい。いいか、紳士のように。でも、いかなる紳士といえども、輝くポプラの話なんかしないだろう」

「なんだと、くそったれ」ムーンは傷ついた様子で言った。「ピム博士にフェレットを飼っている昔からの友人がいるなら、私だってポプラ並木のところにいる伯母がいてもいいではないか」

「そのとおりだと思いますわ」デューク夫人は言うと、頭をつんとあげたが、その様子は弱々しい権力者といったところであった。「ムーンさんは、どんな伯母様であろうとご自由にお好きになる権利がおありですよ」

「いいじゃないか。伯母が好きだということに関しても」ムーンは始めた。「ぼくは思うんだが―いや、おそらく君が言うように、伯母は問題ではほとんどない。繰り返すけど、抽象的な思索にしたがうつもりはない。だから、たしかにピム博士に対する僕の答えは厳しいし、容赦ないものなんだけど。ピム博士が語っているのは、殺人の心理学の片面だけだ。殺人をおかしてしまう傾向を生まれつき備えた男の存在が真実なら」ここで彼は重々しく声をおとした。「殺される傾向を生まれつき備えている男の存在も、真実ではないだろうか。ウォーナー博士がそういう男であるということは、少なくとも、その分野を支える仮説ではないだろうか。僕は本を持たずに話をしないし、学識のある僕の友人も同様だから言うけれど。こうしたこと全般については、ムーネンシャイン博士の記念碑的研究『壊れやすい博士たち』に、図表いりで論述されている。その研究は、ウォーナー博士みたいな男を分解する方法について、いろいろ教えてくれるものだ。そうした方面に光をあてると」

「待ってくれ。ちょっと待ってくれ」モーゼスは叫びながら跳びあがると、興奮のあまり、さかんに身ぶりでしめした。「こちらの先生には言うことがある。こちらの先生が、その件について少し話したいそうだ」

ピム博士は実際に立ちあがったが、その顔は青ざめ、やや残酷そうに見えた。「私が自らに厳しく課していることは」彼は鼻にかかった声で言った。「すぐに参照することが可能な本から説明するということです。ゾンネンシャインの「破壊的なタイプ」は、テーブルの上にありますから、もし弁護側が見たければ見ることもできます。でもムーンさんが話されている『破壊可能性』に関する素晴らしい論文とはどこにあるのですか? 存在するのですか? 彼はその論文を見せることができるのでしょうか」

「見せることはできる」アイルランド人は嘲りをこめて叫んだ。

「インク代と紙代を払ってくれたら、見せてやるとも」

「そんな論文に権威なんかがあるのだろうか?」ピム博士は腰をおろしながら問いかけた。

「ああ、権威ですか!」ムーンはあっさり言った。「そんなものは信仰に基づいているものですよ」

ピム博士は、ふたたび飛び上がった。「私たちの権威が基づいているのは、かなり正確で、詳細に記してあるものなんだ」彼は言った。

「そこで扱われている分野は、論じたり、検証したりすることができるものだ。弁護人も認めるでしょうが、死とは経験からなる事実なのです」

「私の経験からなるものではない」ムーンは陰鬱に答えると、頭をふった。

「そうしたことは、人生で一度も経験したことがない」

「ああ、たしかに」ピム博士は言うと、かさかさ音をたてる書類のあいだに座った。

「そこで思うのだが」ムーンは同じように憂鬱な声で、ふたたび始めた。「ウォーナー博士のような男は、進化の神秘的な過程において、そうした攻撃をうけるように運命づけられているんだ。私の依頼人スミスは猛攻撃をしたと言われているが、そうしたことがあったとしても、めずらしいことではない。ウォーナー博士の複数の知り合いから手紙をもらっているんだ。それによれば、この非凡なる博士は、知り合いにも同じような影響をおよぼしたらしい。学識高い我が友の例にならい、手紙のうち二通だけを読もう。最初は、ハロー・ロードに住んでいる正直で、勤勉な寮母からのものだ」

「サー・ムーン様

ええ、わたしは彼にソースパンを投げました。なぜかって? それしか投げられるものがなかったものですから。柔らかいものは全部どこかに消えていたので。もしウォーナー博士がソースパンを投げつけられたくないと思うのなら、ご婦人の居間では帽子をとるように伝えてください。それからにやにやしたり、冗談をいったりすることも止めるように伝えてください。ハンナ・マイルズ」

「もう一通はダブリンに住む医者からのものだ。その医者といっしょに、ウォーナー博士は医師の協議会で働いていた。彼はこう書いてきた」

「拝啓

その件について知り、私も誠に遺憾に思わざるをません。ただ説明申し上げることも不可能なのです。私が専門としている医学分野は精神面ではありませんから、精神の専門家の見解をいただけたら嬉しく思います。それは瞬時の出来事で、無意識の行動でもありました。しかしながら、私がウォーナー博士の鼻をひっぱったと言うのは、不正確な表現であり、重要な出来事に思えるのです。彼の鼻にパンチをくらわせたことは、よろこんで認めますし、いささかの悔いも感じてはおりません。ですが「ひっぱる」と言うと、それは正確な目標があり、その目標とは近づけないもののように思えます。これと比較すると、「パンチをくらわせる」という行為は外にむかった行為であり、瞬間的なものであり、自然なふるまいなのです。どうぞ信じていただけたらと思います。バートン・レストランジ」

「他にも手紙はたくさんある」ムーンはつづけた。「すべての手紙は、優秀なる我が友の証拠とするに耐えうるものだ。だからピム博士は、調査のこうした面を認めるべきだと思う。ピム博士は実に正確に言われたけれど、我々の目の前にあるのは自然の力なんだ。ロンドンの水道が大きな滝となって流れるほうがましじゃないか。誰かに殺されてしまうというウォーナー博士のすごい状況と比べたら。クェーカー教徒の集まりに博士を連れていってごらん。クェーカー教徒はクリスチャンのなかでも、いちばん平和な連中だけれど、すぐにチョコレートの棒で博士を殴り殺してしまうだろう。ニュー・エルサレムの街角に博士を連れていってごらん。宝石を投げつけられて死んでしまうことだろう。環境は美しいし、素晴らしいものかもしれない。ふつうのひとは心躍るのかもしれない。収穫者は黄金色のあごひげをはやしているかもしれない。医者は秘密をあてるかもしれない。滝には虹がかかっているかもしれない。アングロサクソン人の子どもは勇敢な眉をしているかもしれない。だが、こうした素晴らしいものがあっても、ウォーナー博士は殺されるほうへと己の道をあゆみ、ついには幸せに、誇らしく思いながら成功するのだろう」

ムーンは激しい感情にかられながら、この大げさな演説をした。だが、さらに激しい感情が、テーブルの向こう側では吐露されていた。ウォーナー博士はモーゼス・グールドの小さな体のむかいでその巨体をかたむけ、ピム博士に興奮した囁き声で話していた。その専門家は何度も頷き、ついには厳めしい様子で立ちあがった。

「紳士淑女のみなさん」彼は腹をたててわめいた。「仲間が話したように、我々は喜んで被告側にも自由をあたえます。もし被告側がいればの話ですが。と言うのも、ムーン氏がそこにいるのは、冗談をいうためのように思えるからです。とても面白い冗談だと、あえて言っておきましょう。ですが、弁護依頼人を手伝おうとはまったくしません。彼はあらさがしをするのです。沈黙していることにも。私に依頼してくる人物の社会的人気にも。私が文をかくときのスタイルにも。彼の格調高いヨ-ロッパの趣味とは異なるものですから。でも、こうしてあらさがしをしたところで、この問題にどう影響するのでしょうか。スミスは、私の依頼人の帽子に二か所、穴をあけました。もし、もう一インチずれていたら、弾があたって彼の頭に穴が二か所あいていたことでしょう。世界中のどんな冗談も、こうした穴をこじあけることはないでしょうし、弁護側の役にたつことはないでしょう」

イングルウッドは、その言葉が公平なものであることに、幾分当惑しながらも俯いたが、ムーンはまだ夢みるような様子で自分の敵を見つめた。「弁護だと?」彼はぼんやりと言った。「まだ始めてないよ」

「たしかに君は始めていないね」ピムが優しく言うと、彼と同じ弁護側のグールドが賞賛の呟きをもらした。そのせいで、対する尋問側は返事をかえすことができなかった。「おそらく、君がなんらかの弁護をうけているにしても、それは最初から疑わしいものだ」

「君が立っているあいだに」ムーンは、同じく眠そうな様子で言った。「たぶん君にひとつ質問するよ」

「質問だって? たしかに」ピムは頑なに言った。「はっきりと取り決められているけど。証人を厳しく追及しないように、たがいに相手の身になって細かに調べないといけないと。そうした取り調べをしないといけない立場にいるわけだ」

「たしか君の言葉では」ムーンはうわの空で話した。「被告人の弾はどれも博士にあたらなかったそうじゃないか」

「科学の力のおかげで」満足げなピム博士は堂々と応じた。「幸いにも当たらなかった」

「そうだけれど数フィート離れたところから発砲したんじゃないか」

「たしかに。数フィートのところからだ」

「それなのに一発も学長に命中しなかった。すぐ近くで発砲したのに?」ムーンは訊ねた。

「そういうことになる」証人は重々しく言った。

「僕の記憶では」ムーンはあくびをかみ殺しながら言った。「副学長の手紙には、スミスの銃撃の腕は大学では記録を保持しているほどだとあったようだけど」

「それがどうしたんだ? 」ピムは一瞬沈黙したのち、反論しかけた。

「二番目の質問にいく」ムーンは続けたが、その声は幾分素っ気なかった。

「君の話によると、被告人が人を殺そうとした他の事例があるということだが。なぜ、その証拠を提出しなかったのか?」

アメリカ人はふたたびテーブルを指先でたたいた。「あの場合は」彼は堅苦しく言った。「外部の人間からの証拠がなかった。ケンブリッジの場合とはちがう。証拠となるのは実際の被害者たちだけだ」

「なぜ彼らから証拠を集めなかったのか?」

「実際に被害にあった者たちの場合は」ピムは言った。「難しいこともあれば、ためらうこともあるだろうし」

「君が言おうとしているのは」ムーンは訊ねた。「被害者たちは誰一人として出廷しようとはしなかったということなのか?」

「そういう言い方は大げさというものだろう」ピムは言い返した。

「第三の質問だ」ムーンは言ったが、その鋭い語調に、誰もが飛びあがった。

「君が手に入れた証拠とは、何発かの銃声を聞いたという副学長からのものだ。銃で撃たれたという学長自身の証拠はどこにあるのか。ブレークスピアの学長は生きている。立派な紳士だ」

「学長からも供述をとろうとはした」ピムはやや神経質に答えた。「だが、それは常軌を逸したものだったから、老紳士を守るためにも、その証言は使わないことにした。あの方は科学に貢献してきた偉大な方なのだから」

ムーンは身をのりだした。「つまり君たちの判断によれば」彼は言った。「彼の供述は、被告に好意的なものだということか?」

「そう考えることができるだろう」アメリカの医師は答えた。「でも本当に、理解するのは困難だった。だから、その供述書は送り返した」

「ブレークスピアの学長が署名した供述は、もう手元にないと言うのだね」

「ない」

「私が訊ねたのは」マイケルは静かに言った。「私たちが学長からの供述を手に入れているからだ。結論をだすためにも、後輩のイングルウッド氏に頼んで、真相についての供述書を読みあげてもらおう。これは学長自身が署名して、真実であると認めた供述書だ」

アーサー・イングルウッドは、書類を何枚か手にして立ち上がった。彼はいつものことながら幾分上品に、控えめな様子に見えながら、その存在が彼の主任弁護士よりも有能に思える様子に、見ている者たちは驚きを感じた。実際のところ、彼は遠慮がちな男のひとりで、話すように言われるまでは口をひらくこともないのだが、そうしていいと言われると立派に話すことのできる男であった。ムーンは、その逆であった。彼は人知れず自分の図々しさを楽しんでいたが、世間の目のあるところでは微かに当惑もした。自分が話していると、彼は愚かさを感じた。一方、イングルウッドが愚かさを感じるのは、自分が話せないからであった。でも何か言うことがあれば、彼は話すことができた。そこで話せるときには、話すということは極めて自然なことに思えた。ところがマイケル・ムーンにとって、この宇宙の何物も自然には思えなかった。

「私の仲間が先ほど説明したように」イングルウッドは言った。「二つの謎というか、矛盾があるのですが、私達はそれに基づいて弁護をしているのです。まず一番目の謎は明らかな事実です。皆さんの告白によれば、それから起訴側が引用されたすべての証拠によれば、被告人は銃の素晴らしい腕をもっていたことは明らかであります。しかしながら皆さんも、起訴側も、当時の状況について主張されているのは四、五フィート離れたところから彼が撃ち、しかも四、五回撃ったのに、一度も学長にはあたらなかったということなのです。これが事件の驚くべき状況の第一であり、私たちの議論のもとになるものであります。第二番目は、私の仲間が先ほど主張していたように、奇妙なことだが、暴行についていろいろ申し立てがあったのに、その事件を語る犠牲者が誰も見つからないという点である。副学長は学長の立場で発言している。門番も学長のために梯子をのぼっている。だが学長自身は沈黙している。紳士淑女の皆さん、私が説明しようとするのはこの点についてであり、銃声がしたという謎であり、それについて沈黙している者がいるという謎なのです。まず最初に読みあげる説明の手紙に書かれていますが、そこにはケンブリッジの出来事についての、それからその手紙についての真相が説明されています。その両方についての説明を聞けば、皆さんの判断にも迷いはないことでしょう。説明の手紙とは以下にあります。

「拝啓 これから申し上げますのはブレークスピア・カレッジで本当に起きた出来事についてであり、その出来事についての正確、かつ生彩あふれる説明になります。私達は署名をしましたが、別々の手紙で言及するほどの理由をとくに感じておりません。真実を申し上げるなら、これは各種の要素から成り立つ作品なのです。ですから形容詞の使い方にしても、意見の相違はいささかあります。ですが、すべての言葉は真実なのです。

ケンブリッジ ブレークスピア・カレッジ学長

ウィルフレッド・エマーソン・イームズ

イノセント・スミス

「同封の陳述書によれば」イングルウッドはつづけた。「以下のようになります」

「有名な、英国のある大学は、その裏手が川のうえにそそり立ち、その建物をささえ、変化をあたえているものは、言わば、あらゆる種類の橋であり、二軒一棟の建物なのです。川は幾つかの小さな流れや運河に分岐していき、その曲がり角のなかにはヴェニスのように見える場所もあります。とりわけ私たちに関わる事件のありました場所は、そのように見える所なのです。そこでは蝶が舞い、繊細な石作りの橋梁が水路にかけられて、ブレークスピア・カレッジとブレークスピアの学長を結びつけるのです」

「このカレッジのある土地は平坦な筈なのに、こうしてカレッジのあいだにいると平坦には見えない。この平らな沼沢地には、蛇行する湖もあれば、川の流れもある。こうした蛇行する流れは、水平な線のように見えていたものを、垂直な線に変えてしまうのだ。水があるところならどこであろうとも、建物の高さは倍のものになる。そして英国の煉瓦造りの家がバビロンの塔になる。さざめきをたてずにきらめく水面に、家々はその高い煙突も、低い煙突もまざまざとその姿を逆に映し出す。その深い淵に見える珊瑚色の雲は、もともとの世界でも遥か彼方にみえていたように、足元の世界でも奥深いところにある。水面を切り抜く影は窓であり、空の光である。大地は足もとで裂け、そこに急勾配の、空中にそびえる建物の透視図があらわれ、そのなかを鳥がやすやすと飛び交い…」

サイラス・ピム博士は抗議して立ち上がった。彼がこれまで証拠として受け取ってきた文書は、事実を冷静に確認したものに限られていた。一般的に被告には、自分たちのやり方で言い分をのべる明らかな権利があるが、こうした田園風景の描写は、彼にすれば(ピム博士にすれば)、まったく関係のないことのように思えた。「主任弁護士に教えてもらいたいのだが」彼は訊ねた。「この事例にどう影響があるのだろうか、雲が珊瑚色をしていたということにしても、鳥がどこにでも飛んで行くということにしても」

「ああ、よくわからないけど」マイケルは物憂げに立ち上がった。「いいかい、君たちはまだ知らないんだよ、僕たちの抗弁がどんなものだか。それが分からないんだから、どんなことでも関連がある。そうだ、考えてごらん」彼は考えがうかんだかのように、急いで言った。「私たちが証明したいのは、学長が色盲だということだと考えてごらん。撃ってきたのは白い髪をした黒人なのに、学長が考えている犯人とは黄色い髪をした白人だと考えてごらん? あの雲がまぎれもなく珊瑚色をしているかどうか確かめることは、とても大切なことかもしれない」

彼は口をつぐみ、真摯な様子をみせてから―他の人の共感をよぶ態度ではなかったがー、あいかわらずの流暢さでつづけた。「あるいはこう考えてごらん、学長は自殺をはかったのだと我々は主張したいのだと。彼がスミスに銃をもたせたのは、ブルータスの奴隷が剣を持たされたのと同じようなものだと考えてごらん。いいかい、大事なことは、学長が流れのなない水面に自分の姿をはっきりと見ているかどうかなんだ。流れのない水のせいで、何百人と自殺している。なぜなら自分というものが、あまりにもよく見えてしまうから。はっきりと見えてしまうんだ」

「君はたぶん」ピムは辛辣な皮肉をこめて言った。「君の依頼人がなにかの鳥だと主張しているのだろう―たとえばフラミンゴであるとか」

「彼がフラミンゴであるという件については」ムーンはいきなり辛辣な口調で言った。「私の依頼人は、自ら抗弁することだろう」

この発言をどう受け取ればいいのか誰も分からなかったので、ムーン氏は席に戻った。そしてイングルウッドがふたたび文書を読みあげ始めた。

「こうした反射からなる国というものには、神秘主義者にすれば、なんらかの喜ばしいことがある。神秘主義者とは、世界が一つしかないより、二つあるほうがよいと考えている者なのだから。より高度な概念にしたがえば、たしかに、すべての考えとは何かを反射している。

「再考が最上の策と言うなら、たしかに真実である。動物には、二度めの考えというものがない。人間だけが自分の考えを二重にして見ることができる。酔っぱらいの目に街灯が見えるように。人間だけが自分の考えをひっくり返して見ることができる。水面にうつる家を見るときのように。物の考え方における二重構造とは、鏡にうつすときのようなもの。くりかえすけど、人間の哲学の一番深い部分なのだ。神秘主義につつまれた、奇怪な真実ではないだろうか。双頭のほうが、ただひとつの頭よりいいという考えは。だが、その頭はともに同じ胴体からでているべきなのだ」

「分かっているよ。そういう考え方にも、はじめは少し優れたところがあるのは」イングルウッドは口をはさみ、弁明するかのような表情を露骨にうかべた。「だが、君も分かるだろうが、この文書を書くのに協力しているのは教員と…」

「ほう、飲んだくれと言いたいのか?」モーゼスはあてこすっては楽しんだ。

「ぼくもそう考えているよ」イングルウッドは平静に話し続けたが、その口調は容赦なかった。「この部分を書いたのは教員だろうと。ただ法廷に警告しておきたいのは、この文書について言えば、疑う余地のないほど、二人の人間が書いた跡があちらこちらに残っている」

「この場合は」ピム博士は後ろにもたれかかって馬鹿にした。

「双頭のほうが、ひとりの人間よりもいいということには賛成しかねる」

「署名したひとたちは、大学改革でしばしば論議される類似の問題について触れる必要はないと考えている。すなわち教員の目に二重に見えるのは、彼らが酔っぱらっているからだ。あるいは酔っぱらっているのは二重に見えているからだ。署名したひとたちにすれば、奇妙で、有益なテーマを追いかけることができれば十分だというものだろう。そのテーマとは水たまりのことである。水たまりとは何か、と署名したひとたち自身が問いかけている。水たまりは無限を繰り返し、明かりに充ちている。それでも客観的に分析すれば、水たまりとは、泥の上にうすくひろがった汚い水のことである。英国における歴史ある二つの素晴らしい大学には、こうした広々とした、平らな、輝きを反射するすべてがある。それにもかかわらず、いやむしろ、一方ではそうした大学とは水たまりなのである。水たまり、水たまり、水たまり、水たまりなのである。署名したひとたちが皆さんに乞うてきたものとは強調することで、それは確信する気持ちからは切り離すことができないものなのです」

イングルウッドは幾分荒々しい表情をうかべている参加者たちを無視すると、底抜けに明るい調子で言葉をつづけた。

「そうした考えはうかばなかったのだよ、大学生のスミスの頭には。そのとき彼が歩いていたのは運河と溝のあいだの道で、溝は雨に濡れて光っていたし、水はブレークスピア・カレッジから流れてきていたのに。もしこうした考えが頭にうかんだなら、スミスも今より幸せだったろうに。不幸にも彼は知らなかったけれど、彼の心のさざ波とは水たまりだったんだ。彼は知らなかったけれど、学究的な心が無限をあらわしているし、明かりにみちているのは浅いものだし、流れることなく其処にあるという簡潔さのせいなんだ。そのせいなんだよ。彼の場合、どこか厳粛なところがあるのは。それに仄めかされている無限性ときたら禍々しいくらいだ。あれは夜中も過ぎた頃のことだった。星の多い夜だったよ。戸惑うくらいに星は輝いていた。頭上にも、足元にも、星があった。若いスミスのひねくれた幻想のなかでは、足元の空は頭上の空よりも虚ろなものに思えたんだ。彼は嫌なことを思いついた。もし星を数えるのであれば、水たまりをのぞけば、たくさん発見するだろうと。

「小道をたどって橋をわたるうちに、彼の心もちはさながら、巨大なエッフェル塔の、黒く、ほっそりとした鉄骨を踏むように思われてきた。彼にすれば、それからその時代の、教育をうけた殆どの若者にすれば、星々とは残酷なものだからだ。毎晩、巨大な丸天井に輝きはするけれど、きわめて邪悪な密事であった。星々がさらけだすのは、むき出しにされた自然である。また舞台裏の、鉄の車輪と滑車の片鱗である。あの悲しい時代の若者は考えでは、神がくるのは常に機械からであるからだ。でも若者は知らないのだが、実際には、機械がくるのは神からだけである。簡潔にいえば、若者は悲観主義者なのだ。それなのに星の光は、彼らにとって禍々しいものだ。そう、禍々しい。なぜなら星の光とは真実だからだ。彼らの宇宙とはすべて、白い点々がついた黒いものなのだ。

「スミスは安堵すると、輝く水たまりから輝く空へと視線を転じ、広々とした建物が黒く見えているカレッジを見つめた。星以外に見えている唯一の明かりと言えば、建物の上階の方から、緑色のカーテンごしにもれてくる光であったが、その部屋の主はエマーソン・イームズ博士で、博士はそこで明け方まで研究したり、友人やお気に入りの生徒たちであれば、夜のいかなる時であろうと訪問を受けていた。実際、ふさぎこんだスミスが向かおうとしていたのは、まさに博士の部屋であった。スミスは、午前中の前半、イームス博士の講義をうけ、後半ではサロンでピストルの練習やフェンシングをした。午後の前半、死にもの狂いで舟をこぎ、後半になれば、ぼんやりと、いやむしろ、死にもの狂いに思索にふけった。夕食をとりに行くと、そこでの彼は騒々しかった。討論クラブにも参加したが、スミスは憂鬱そうにじっとしていた。それから彼は下宿にもどり、友人たちの、それから師であるブレークスピア・カレッジの学長の奇行の数々を思い出し、ついには向こう見ずにも、その紳士の個宅にはいる決心をした。

「エマーソン・イームズは様々な点で常軌を逸している。だが哲学と形而上学における彼の王座は、国際的にみても高いところにある。大学としては、彼のような人物を失うわけにはいかない。さらに教員が彼の悪い習慣をずいぶん長く続けてしまったものだから、その習慣はイギリス憲法の一部分となってしまった。エマーソン・イームズの悪い習慣とは一晩中起きていて、ショーペンハウアーを学ぶ学生だということである。私のみたところ、彼はやせて、のらりくらりとした類の人物で、そのブロンドの頭は空っぽ、歳だけで言えば生徒のスミスと比べてもそれほど歳上ではない。でもヨーロッパで名声高いという点、はげ頭であるという点、この二つの面においては幾世紀も歳上である。

「来たよ。規則には反しているし、途方もない時間だけれど」スミスは言った。目にうつるその姿は、自分を小さく見せようとしている大男でしかなかった。「それというのも、存在が腐りかけているという結論に達しそうだからなんだ。別のやり方で考える思想家、司教や不可知論者、そうした類の人達が論じる論争はすべて知っている。それに君が厭世主義の思想家については、偉大な、生きた権威だということも知っているけれど」

「思想家はすべて」イームズは言った。「厭世的に思索するものだ」

「しばらく話は途切れたが、それは初めてのことではなかった。この気の滅入るような会話は何時間も続き、皮肉をあびせたり、沈黙したりということが繰り返されていたからだ。イームズは話し続けたけれど、その明敏な才気も疲弊しているようにみえた。『正しくない推測について疑念をはさみたいということを望むだけである。蛾は蝋燭に飛び込んでしまう。なぜなら、蛾は蝋燭にそうして戯れることが、生死をかけるほどのものでないと知らないからだ。スズメバチがジャムに飛び込んでしまうのは、ジャムを取り込もうと望んだ挙句の、嬉々としたふるまいだからだ。同じようにして教養のない人々は人生を楽しむが、それはジンを楽しみたいからだ。あまりにも愚かしい人々だから、ジンに高い代価を払っていることがわからない。人々は幸せを見つけられないし、幸せの探し方もわからないでいる。人々のとる行動すべてが、目もくらむほど醜悪であることから、それは証明される。人々の調和のとれていない姿は、苦痛の叫びである。大学をこえ、川沿いにあるレンガの家々を見てごらん。シミのついたブラインドがかかっている家がある。見てごらん。さあ、見てごきてらん』

「もちろん」彼は夢見るように続けた。「中にはひとり、ふたり、離れたところから、ありのままの事実をみる者がいるが、そうすると気が狂ってしまう。君は気がついているだろうか? 狂人とは大体のところ、物を壊そうとするか、あるいは考え深い者たちなら、自分を壊そうとする者たちだということに。狂人とは黒幕なんだよ。劇場の舞台袖をさすらう者のように。間違った扉をあけてしまったけれど、正しい場所に出ただけなのだ。物事を正しい角度から見ている。世間一般は―」

「世間一般なんか知るものか」不機嫌なスミスは言うと、片方の拳をテーブルにおとして、漠とした絶望にかられた様子をみせた。「最初にそれにひどい名前をつけるとしよう」教授は冷静に言った。「無視するのはそれからだ。狂犬病にかかった子犬は、殺されるあいだも、生きるために闘っているのだろう。だが心優しい人間であれば、殺すべきなのだ。同じように全知全能の神も、苦痛から、私達を引きぬいてくれるだろう。私達は死と直面させられるのだ」

「なぜ神は、僕たちを殴り殺してしまわないのだろうか」その大学生はぼんやりと、両手をポケットにつっこんだまま訊ねた。

「神ご自身は死んでいる」その哲学者は言った。「そういうところが、本当に羨ましがられる点である」

「考える者にすれば」イームズは続けた。「人生の喜びとは些細なものであり、すぐに無味乾燥なものになる。それはまた拷問部屋への賄賂でもある。皆が知っていることであるが、考える者にすれば、死滅とは単に…何をしているんだ? 気でも狂ったのか?…それを下におろすんだ」

「イームズ博士が、疲れているけれど、まだ話をしたそうな顔で背後をふりかえると、そこに見いだしたのは小さくて、丸い、黒い穴がひとつ、その穴は鋼鉄でできた六角の小円で縁どられ、その上部には太釘のようなものが突き出ていた。それは鋼の目のように彼を見据えた。こうして永遠に思われる時がながれ、そのあいだに彼の理性は吹っ飛んでしまったが、それでも彼にはそれが何であるのか分かっていなかった。それから、そのむこうに彼が見たものとは装填された銃であり、今にも火をふこうとしているレボルバーであった。さらにそのむこうには、紅潮させながらも、幾分真面目なスミスの顔があり、その表情はあきらかに変わることなく、かつてよりも穏やかでさえあった。

「苦境から助けてあげますよ、教授」スミスは優しいけど、荒々しい口調で言った。「子犬から苦しみを取り除いてあげよう」

エマーソン・イームズは窓の方へと退いた。「つまり、君が言いたいのは、私を殺すつもりだということか?」彼は叫んだ。

「そんなふうにしてあげるのも、すべてのひとにというわけではないのですよ」スミスは感情をこめて言った。「でも、どういうわけだか、今夜、教授と僕はとても親しくなったようだから。今、僕にはわかるんですよ。教授の困りごとすべてが。それから唯一の解決方法も」

「それをおろしなさい」学長はさけんだ。

「すぐに終わりますから」スミスは、同情をしている歯科医という雰囲気で言った。学長がバルコニーのある窓へと駆けていったとき、彼に恩恵を施そうとする者も、しっかりとした足どりであとに続き、思いやりのある表情をうかべた。

おそらく、どちらの男も気がついた瞬間、はっとしたことだろうが、夜明けがせまり、空は灰色の明るい空となり、白々とした色になっていた。それでも片方の男は、驚きの念を隠そうと目論んだ。ブレークスピア・カレッジはゴシックの装飾様式の跡をたしかに受けついでいる数少ない建物なので、イームズ博士のバルコニーの真下からも、おそらくは飛梁だったらしいものが飛び出していたけれど、それは灰色をした獣と悪魔の、醜悪なものとして、まだ形をとどめてはいたが、苔に覆われ、雨のせいで摩耗していた。無様だけれど勇ましい飛躍をして、イームズはこの古代様式の橋のうえに飛びおりたが、それが狂人から逃れる唯一の脱出手段なのであった。彼は橋にまたがって腰をおろしたが、まだ学衣を着たまま、その長くも、痩せた足を宙に放りだして、また飛びだす機会を窺った。白々と明るんだ日の光がさしこみ、その頭上にも、足元にも同様に、姿をあらわしはじめた形とは、垂直に、無限に屹立する影であり、ブレークスピアのまわりにある小さな池についてのところでも語った影である。下をむいて、水面に影をおとす尖頭や煙突を眺めているうちに、ふたりはこの空間に自分たちしかいないのだと感じた。その時の心持ちとは、北極から地の果てをながめ、眼下に南極をながめているような気持ちであった。

「世界を掛けてしまえ、と我々は言った」スミスは口をひらいた。「そして今、我々は世界を掛けている。『主は、地を無のうえに掛けておられる』と聖書の言葉にはある。教授は無のうえに掛けられることがお好みですか?私は、何かに自分を掛けるつもりです。教授のために体をぶらぶらさせるつもりです。懐かしくもあり、甘美でもある昔からのこの言葉は」彼はつぶやいた。「この瞬間まで、真実の言葉ではなかった。教授のために体をぶらぶらさせよう。親愛なる教授のためにだよ。教授のためなんだ。教授がはっきり望んでいるからなんだよ」

「助けてくれ」ブレークスピア・カレッジの学長は叫んだ。「助けてくれ」

「若造がじたばたしている」その学部生は、目に哀れみの色をうかべて言った。「あわれな若造がじたばたしている。彼よりも自分の方が賢く、親切であるのは、なんと幸運なことか」彼は自分の武器の照準を正確に定め、イームズの禿げ頭の上のほうに突きつけた。

「スミス」哲学者が呼びかけるその声は、怖ろしいほど平静だった。「私の気が狂ってしまうではないか」

「そうして、物事を正しい角度から眺めなさい」スミスは言うと、穏やかにため息をついた。「ああ、でも狂気は緩和剤にすぎない。唯一の治療とは手術なのだ。いつも成功する手術があるが、それは死である」

「彼が話していると太陽が昇ってきた。万物に色彩を与えていく様子は、さながら稲妻の芸術家のようで、瞬時の芸術であった。空を横切っていく浮雲は、鳩のような灰色から桜色へと移り変わっていった。小さな大学街のいたるところで、それぞれの建物の頂きが、それぞれの色に染められていった。此方では、太陽に照らされて、頂きは緑のエメラルド色になろう。彼方では、田舎のお屋敷の瓦が鮮やかな緋の色になろう。此方では、趣のある店の飾りが赤褐色にそめられることだろう。彼方では、海の青さのスレートが、古く、傾斜が急な、教会の屋根に輝くことだろう。こうして朝の色に染められた頂きのすべてが、不思議と別々のものであるかのように思え、そのまわりには何か暗示するような雰囲気が漂い、それはあたかも高名な騎士のクレストが野外劇や戦場で示されるかのようであった。それぞれの頂きに目を奪われたが、なかでもエマーソン・イームズのぐるぐる回る目には顕著なものがあり、彼は眼下の風景をみわたしては、今生の最後の眺めとして心に刻みつけた。狭い隙間が黒々としたティンバーと灰色の、大きなカレッジのあいだにはできていて、そのむこうに時計がみえたが、金メッキをほどこした針は太陽の陽に燃えていた。彼が眺める有様は、催眠状態にかかっているかのようであった。だが突然、時計が時を告げ始め、まるで彼に答えているかのようであった。それを合図にしたかのように、時計が次から次へと鳴り始めた。すべての教会が、明け方の鶏のように目覚めた。鳥たちもすでに、大学の裏手の木立で賑やかに囀りはじめていた。太陽が昇るにつれて、輝かしい光を一面に放ちはじめたものだから、どこまでも深い空ではあったけれど、その光はあふれだした。浅き水路が彼らの下を流れ、その水面は黄金色に輝き、満々と水をたたえて、神の飢えを癒すに満ちたりる深さであった。ちょうどカレッジのはずれの、彼の狂気の止り木からも見えるあたり、明るい風景のなかに、ひときわ明るい小さな点がみえていたが、それは汚れたブラインドがかけられている屋敷で、彼が何時かの晩に文書に記した場所であった。その屋敷のなかには、どんな人が住んでいるのだろうかと彼は初めて考えた。

いきなり彼が声をあげる様子ときたら、いばりくさった権威者でしかなく、まるで学生にむかってドアを閉めるようにと言っているような感じであった。

「この場所から離れたいんだ」彼は怒鳴った。「ここには我慢できない」

「その場所の方が、先生に我慢できるかどうか」スミスはじろじろ見つめながら言った。「でも先生が首の骨を折る前に、あるいは僕が先生の脳みそを吹き飛ばす前に、それとも先生を部屋に戻す前に、(複雑な問題ですから、どうするかまだ決めていませんが)、形而上学的な点をはっきりさせておきたいと思います。先生は、この世界に戻りたいということでいいんですか?」

「戻れるなら、何でもくれてやるぞ」不幸な教授は答えた。

「何でもくれる…のですか」スミスは言った。「それなら、その生意気なところは捨ててもらおう。歌をうたうんだ」

「何の歌をうたえというつもりか?」苛立ったイームズは訊ねた。「何の歌だ?」

「讃美歌が一番いいと思うが」相手は重々しく答えた。

「あとに続いて次の言葉を繰り返したなら、そこから解放することにしよう。

我が感謝する善良さも、優美さも、

生まれし時より微笑みしものなり。

我を奇妙な場所に腰かけさせ者は

幸せなる英国の子供なり」

エマーソン・イームズ博士がぶっきらぼうに応じると、迫害者はいきなり両手をあげるように命令した。ぼんやりとではあるが、こうしたやり方を、山賊のふだんの振る舞いと結びつけたので、イームズ博士は両手をあげ、堅苦しい様子であったけれど、ひどく驚いたようではなかった。彼がかけている石の席に一羽の鳥がとまったが、彼には何の関心もはらわず、こっけいな像のような扱いであった。

「先生は、今、礼拝式にいるのです」スミスは厳かにのべた。「ぼくから見放される前に、池のアヒルについて神に感謝したほうがいいですよ」

この有名な悲観論者は、いくぶんはっきりとした口調で、池のアヒルについて神に感謝したいという気持ちをあらわした。

「カモのことも忘れないように」スミスはきびしく言った。(イームズは弱々しくカモについて認めた。

「何も忘れることのないように。天に感謝するように、教会のことも、大聖堂のことも、邸宅のことも、教養のない人々のことも、水たまりのことも、鍋のことも、フライパンのことも、杖のことも、絨毯のことも、骨のことも、しみのついたブラインドのことも」

「わかった、わかったよ」その犠牲者は絶望にかられながら繰り返した。「杖のことも、絨毯のことも、ブラインドのことも」

「しみのついたブラインドと言ったと思うが」スミスは詐欺師のごとき無慈悲さで言うと、銃身をふりかざし、まるで長い、鉄の指をのばすように動かした。

「しみのついたブラインド」エマーソン・イームズは弱々しく言った。

「それ以上、はっきりと言えないのか」若者は言った。「それなら、こう言って終わりにしよう。先生が公言していたとおりの人なら、カタツムリも、天使セラピムも心配はしないと思う。たとえ先生が信仰に欠けた、その固い首の骨を折ったとしても。それから戯言を口にする悪魔崇拝の頭を打ち砕いたとしても。だけど先生の厳めしい伝記に書かれた事実によれば、先生は素敵なひとだ。腐ったような冗談を話すのに夢中になっているんだから。兄さんみたいに好きだよ。だから狙うのは先生の頭のまわりにして、先生を撃たないようにする。僕の射撃の腕前が優れていると聞いたら、先生も安心だろう。さあ、中に入って朝食にしよう」

それから彼は宙にむかって弾を二発撃ったが、教授はしっかりと耐えてみせた。そして言った。「全部、撃たない方がいいぞ」

「どうして?」相手は陽気に訊ねた。

「弾はとっておくんだ」彼の相手は言った。「こんなふうにして話すことになる次の相手のために」

そのとき、下をむいたスミスが見たものとは、副学長の顔にはりついた激しい恐怖であり、彼が耳にした優雅な叫び声とは、門番に梯子をとってくるように命じる副学長の声であった。

イームズ博士が梯子から解放されるまでには少し時間がかかり、副学長から解放されるのにも、さらにもう少し時間がかかった。だが解放された途端、先ほどの並々ならぬ場面にいた相棒と再会した。驚いたことに、巨人のようなスミスが激しく身を震わせ、もじゃもじゃの頭を両手で抱えて腰をおろしていた。話しかけられると、彼は青ざめた顔をあげた。

「どうしたんだ?」イームズは訊ねたが、興奮もその時にはおさまって静かに囀るさまは、まるで朝の鳥のようであった。

「先生に温情を求めねばなりません」スミスは途切れ途切れに言った。

「死から脱出したばかりだということを理解していただかなければなりません」

「死から脱出したばかりだと」教授は言ったが、その苛立ちは分からないでもなかった。「なんて厚かましいんだ」

「ああ、わからないのですか。わかっていただけないのですか?」青ざめた顔の青年は苛々として叫んだ。「そうしなければならなかったのだ、イームズ。先生が間違っていると証明しなくては。そうしなければ私は死んでいたでしょう。若い頃には、心のさざ波をかきたてる人がいるものです。すべてを知っている人がいるものです。もし知っている者がいいたとすればですが。

ええ、先生は僕にとってそういう存在でした。先生は権威をもって話しますが、書記屋なんかではありません。もし先生が『慰め』がないと言われたら、誰も僕の心を慰めることはできません。もし先生がどこにも何もないと考えるなら、先生はそこに行かれて見たことがあるからでしょう。先生は本当のところ、そうするつもりはなかった。そう僕が証明しなくてはいけない。それがわかりませんか?そうしないなら、運河に落ちてしまうことでしょう」

「そうだね」イームズはためらいながら言った。「君は混乱しているようだが―」

「ああ、そんなことを言わないでください!」スミスは洞察力をはたらかせて言ったが、それは心の痛みをともなうものであった。「そんなことを言わないでください。僕が混同していて、生の喜びと生きる意志を取り違えているなんて。それではドイツ語じゃないですか。しかもドイツ語のなかでも、それでは高地オランダ語ですよ。高地オランダ語ではさっぱり分からないじゃないですか。先生が橋にぶらさがっていたとき、先生の目には輝く光がありましたが、それは生命の喜びであり、「生きようとする意志」ではありませんでした。先生があの忌まわしいガーゴイルにまたがって知ったのは、あらゆることが言われたり、なされたりしたときには、世界は素晴らしくも、美しい場所だということなのです。僕にはわかります。あの瞬間にわかったのです。灰色の雲が桜色にそまるときに。家々のあいだの隙間にある金メッキをほどこされた時計を見たときに。こうしたことからなんですよ。先生が離れるのを嫌がったのは。人生から離れるのを嫌がったのではないのです。それが何であれ、イームズ、僕たちは死の淵まで共に行ったのです。正しいことを認めますか?」

「ああ」イームズはしぶしぶ認めた。「君は正しいよ。最優等学位ものだ」

「そのとおり」スミスは言うと、元気づけられたかのように立ち上がった。「私は名誉ある時を過ごしてきた。だが、もう此処を離れたい。なんとか伝えたいから」

「君は伝える必要なんかない」イームズは静かな自信をこめて言ったが、それは陰謀をめぐらした十二年間からくるものだった。「我々に関する諸々のことは、頂点にいる男から、その男のまわりの人々へと伝えられるものである。私が頂点にいる男だ。だから、まわりの人達に真実を告げる」

がっしりとしたスミスは立ちあがり、しっかりとした足どりで窓辺にむかった。そして其の口調も劣らずしっかりとしていた。「僕が伝えなくてはいけない」彼は言った。「それに人々に真実を教える必要はない」

「なぜ」と相手は訊いた。

「先生の助言にしたがいましょう」がっしりとした体格の青年は言った。「残りの弾はとっておくとしよう。恥ずべき状態にある連中のために。ちょうど昨夜の先生と僕のように。酔っぱらっていたからと言いいたいくらいですよ。この弾は、悲観論者のためにとっておきましょう。蒼白い顔をした連中の薬として。こんなふうにして世界を歩いていきたいんだ、すばらしい驚きのような存在として。ふわりふわりと漂っていたい。まるで薊の冠毛のように。そっと近づいてみたい。まるで朝日が昇るように。雷ぐらいに嫌がられる存在でもいい。そよ風がないでいくように、記憶に残らない存在でもいい。みんなから楽しみにされたくないんだよ。よく知られている冗談男としては。それから現実にある冗談をいう男として。僕の才能を汚れのないものにしたいし、同時に暴力的なものにもしたい。死でもありたいし、死後の生でもありたい。ピストルをつきつけるつもりだよ、現代人の頭にむけて。でも殺すのに使いはしない。ただ現代人に生命を蘇らせたいんだ。新たな意味を見つけたんだよ、宴の場に骨と皮の人間がいることに」

「君は、骨と皮だけという状態だとはあまり思えないのだが」イームズ博士は微笑みをうかべながら言った。

「このありさまは、たぶんに祝宴のせいだ」がっしりとした若者は答えた。「骸骨だってスタイルを保てないじゃないか、いつも食べていたなら。でも僕が言いたいのは、そういうことじゃないんだ。僕が言いたいのは、一瞬、死の意味を見たということなんだ。そう、頭蓋骨と大腿骨からなる骸骨を見たんだ。その骸骨のおかげで、これからの人生を考えただけじゃない。今の生活のことも考えてみたよ。僕たちの精神は弱いものだから、来世では歳をとってしまうだろよ、だから死があって、死のおかげで僕たちは若いままでいるんだ。神は、不死を僕たちそれぞれに切り分けてくださるというわけだ。乳母が指の長さではかって、バターを塗ったパンを切り分けてくれるように」

それから彼は言いたしたが、その声は不自然なほど現実的であった。「今、僕には知っていることがあるんだ、イームズ。それを知ったのは、雲が桜色にそまっていくのを見たときだけど」

「何を言いたいのか?」イームズは訊ねた。「何を知ったというのだ?」

「殺人は悪いことだと初めて知ったんだ」

彼はイームズ博士の手を握ると、おぼつかない足どりで扉の方に手さぐりで進んでいった。扉のむこうに姿を消すまえに、彼は言いそえた。「とても危険なことだね。ほんの一瞬たりとも、死を理解しているように考えるなんて」

イームズ博士は、この攻撃者が立ち去ったあとも、数時間にわたって休みながら思索にふけった。そして立ち上がると、自分の帽子と傘をとり、散歩にしてはきびきびとした足どりで出かけた。しかしながら幾度も汚れのついたブラインドがかかる屋敷のまえで立ちどまると、首をかすかにかしげながら熱心に観察した。その様子は狂気にかられたひとのようでもあり、これから屋敷を買おうとしているひとのようでもあった。彼にはどうも確信がもてないでいたが、このふたつの立場はまったく異なるものなのだろう。

上記の話を構成しているものは、下記に署名した人物の意見であり、手紙の書き方としては新しいものである。二人についてはそれぞれ語られているが、それは相手の目にうつる己の姿なのである。下記に署名する者は、この物語が正確であることを保証するものである。もし疑問がある場合、下記に署名する者は、自分たちが知らない事柄について知りたいと思う次第である。

下記に署名する者は、「スポッティッド・ドッグ」へと席をうつしてビールをのむことにする。敬具

ケンブリッジ・ブレークスピア・カレッジの学長 ジェームズ・エマーソン・イームズ

イノセント・スミス

二章

二人の副牧師たち、あるいは侵入盗犯

 

アーサー・イングルウッドは、読んだばかりの文書を起訴側の主任弁護人たちに渡した。渡された起訴側の弁護人たちは頭をつき合わせるようにして文書を調べた。ユダヤ人も、アメリカ人も感じやすく、激高しやすい血筋なので、跳びはねたり、黒髪の頭や黄色の頭をぶつけるうちに、その文書を否定しているようでは何も生まれないということを露呈した。学長からの手紙は、副学長からの手紙と同様に正式なものであったが、残念なことに威厳においても、上流の人物らしさにおいても異なっていた。

「それほど多くの言葉は求められてないんだ」イングルウッドは言った。「この事件の結論をだすにあたって。たしかに依頼人はピストルを持ち歩いた。それは普通ではないけれど、自分を冒涜する相手に対して、健全なる脅かしをかけたいからであって、そういう無邪気な目的からでた行為だ。どの事件も、脅かしが健全なものだったから、犠牲者は更生したと記したんだよ。スミスは狂気の人にはほど遠く、むしろ狂気の博士といったところだ。世界を歩きまわって精神を錯乱した者たちを治療するけど、そういう人たちの邪魔はしない。これが答えだよ。検察側に投げかけた二つの質問に対する答えだ。答えにくい質問だったけど。こういうわけでピストルをつきつけられても、誰も何も言おうとしなかったんだ。ピストルをつきつけられた者は皆、実際のところ、ピストルのせいで利益を得たと告白しているんだ。

こういうわけでスミスは優秀な狙撃手であったけれど、その玉は誰にもあたりはしなかった。彼が誰にも玉をあてなかったのは、優秀な狙撃手だったからだ。彼の心には殺人の考えはなかった。彼の手に血がついていなかったように。これこそが、こうした事実を、そして他のすべての事実すべてを説明することだ。誰も学長のふるまいを説明できないし、学長の話を信じるしかない。独創的な理論の製造場所であるピム博士にしても、この場合にあてはまる他の理論を思いつかなかったのだ。」

「催眠状態にかかった二重人格だというなら、可能性のある考え方だ」サイラス・ピム博士は夢みるように言った。「犯罪学はまだ揺籃期にあって、そしてー

「揺籃期だと!」ムーンは大声をあげると、赤い鉛筆を宙にかざしては、わかったという仕草をした。「おや、それで説明がつく」

「くりかえすけど」イングルウッドはつづけた。「ピム博士であろうと、だれであろうと、他のどんな理論をもとにして説明はできない。ただ学長の署名があることについて僕たちが説明していることだけが説明になる。銃弾ははずれたし、証人もいないからだ」

小男のアメリカ人はよろめきながらも、闘鶏の冷静さをとりもどした。

「弁護側は」彼は言った。「とても大きなことを言い洩らしている。僕達のせいで、実際には犠牲者はだれひとりとして生み出されていないというけれど。ウォルという犠牲者がここにひとりいる。有名な、打ちひしがれたウォルだ。彼は上手に話していると思う。すべての怒りのあとには和解があると言うようなものじゃないか。ウォル、イングランドのウォーナーには非の打ち所がない。だが実は、彼はあまり仲直りしていないんだ」

「学識のある我が友よ」ムーンは言いながら、苦労して立ち上がった。「思い出さなくてはいけない。ウォーナー博士を撃つ術は揺籃期にあるんだ。ウォーナー博士は、鈍い者の目には、神の栄光を認めることが難しく見えることだろう。我々の認めるところだが、この事例では、依頼人は失敗してしまっている。こう働きかけてもうまくいかなかった。だが私には権利があたえられているから、顧客の代表として、ウォーナー博士に働きかけよう。できるだけ早い時期に。ふたたびウォーナー博士に働きかけることも可能だ。でも料金をさらにもらうつもりはない」

「マイケルのくそ野郎!」グールドは大声をはりあげ、人生ではじめて真剣になった。「いまいましい思いをさせて気分転換させる気かい?」

「ウォーナー博士が、最初の銃撃をうける前に話していたことは何なのですか? 」ムーンがするどく訊ねた。

「あいつときたら」ウォーナー博士は横柄に言った。「訊ねてきたんだよ。あいつらしい合理的な訊き方で、私の誕生日かどうかと。」

「それで君は答えたわけだ、君らしい見えをはって」ムーンも大声をあげ、長く、すらりとした指をつきだしたが、その指はスミスのピストルと同じくらいに緻密で、印象に残るものだった。「誕生日なんか祝わないと」

「そういうところですよ」博士は同意した。

「それなら」ムーンは続けた。「なぜそうしないのかと彼に訊かれたとき、誕生日とは喜ぶものではないからと答えたと思いますが。同意されますよね? 今、私たちの話の真実味に疑いをはさむ者がいるだろうか?」

室内には、沈黙がつめたく砕けちった。そしてムーンは言った。「パックス・ポプレ・ウォークス・ダエ。人々の沈黙は神の声なり。あるいはピム博士のもっと礼儀正しい言葉では、次の告訴にすすむかどうかは彼次第である。この点について、私たちは無罪を請求する。」

一時間ほどすると、サイラス・ピム博士は例のないほど長い時間、目をつぶって、親指も、指も宙につきだしていた。彼は、乳母がよく使う言い方によれば、とても「深く感じいっている」ように思えた。死んだような沈黙のなか、マイケル・ムーンはなにか指摘することで緊張をほぐそうとした。

三十分ほどしてから、この傑出した犯罪学者が説明した話によれば、財産にからんだ犯罪に対する考え方も、命にからんだ犯罪に対する考え方も、科学的見地にたてば同じ見方ができるということであった。「たいがいの殺人者は」彼は言った。「殺人狂からの変異なんだよ。同じように泥棒というものも、窃盗狂からの変異なんだ。いかなる疑いであろうと、私は楽しむ気持ちにはなれない。向かいに座っている学識ある我が友人たちが、こう考えているのですから。つまり、こうした変異のせいで、罰するという企ては、古代の残酷な法典より、さらに寛大で、人間らしいものになるにちがいないと。また友人たちは見せてくれることでしょう、意識の大きな裂け目を。それはたいそう大きく裂けていて、注意をひきつけるものですからー」そこで彼は一息つくと、繊細な身ぶりで仄めかしをしてみせた。もうマイケルは我慢ができなかった。

「わかった、わかった」彼はいらいらして言った。「意見の相違があることは認めよう。昔の不人情な法典は泥棒を告発しては十年間刑務所にぶちこんだ。寛大で人間らしい覚書は泥棒をとがめないけれど、永遠に刑務所にいれてしまう。これで意見の相違はのりこえた」

これは優れたピムの特徴なのだが、入念に言葉をつかうことに酔いしれながら話を続け、敵が妨げていることにも無意識になるだけではなく、自分が言葉をとぎらせたことにも無意識になるのであった。

「そんなふうに持ち直している」サイラス・ピムは続けた。「そんなふうに、未来への高らかな希望でいっぱいだ。つまり科学的に考えればということだが。泥棒とは、理論的にいえば、殺人と同じようなものだ。科学が考える泥棒とは、期間も思いのままに、罰する罪人ではないんだ。そのかわり監禁して療養させないといけない患者だと考えているんだ。(先ほどかかげた二本の指をつけてから、彼はためらった)。すなわち必要な期間だけ面倒をみればいいと。だが、ここで調べている事件には何か特別な事情がある。窃盗脅迫症がふつう結びつくものはー。

「すまないが」マイケルは言った。「私が先ほど頼まなかった理由は、本当のところを言えば、ピム博士はまっすぐ立っているように思えるけれど、実は自分の力で獲得した眠りを楽しまれているからだ。博士の指も匂いのしない、かすかな埃でおおわれはじめているほどだ。だが今、事態は少しずつ前進しつつある。私が知りたいと思うこともある。もちろん、ピム博士の言葉は聞き漏らしてはいない。でも、あまり関心はないから、うっとりすることはなく、今の状況では、被告が何をしてきたのか推測することもできない」