2017年隙間読書


「私の中の三島由紀夫」

著者:山本光伸

出版社:柏艪社

ISBN:978-4-434-230981 c0095

作者はのっけから「非才の私に三島由紀夫が論じられるわけがないではないか。三島の作品だって全て読んではいないし、熱心で誠実な読者であったわけでもない。」と謙遜して言うけれど。

でも二十代の頃、楯の会に身をおいた作者だからこそ記憶にとどめた三島の言葉の数々が新鮮だ。

「老後は純粋ミステリーを書いてみたい、そして畳の上で死にたいものだ」(ラジオで)

「そうだよ、おれは太宰治と同じだ。同じなんだよ」(村松剛に)

「青春に於て得たものこそ終生の宝」(楯の会会員宛遺書)

三島も、穏やかな老後をちらりとでも思うことがあったのか。

それに三島は太宰が嫌いだったと思い込んでいたのに。この本のおかげで、あらたな三島のイメージを次々と発見。

また切腹する直前、三島が叫んだ「森田、お前はやめろ!」の森田を、「豊饒の海」の「奔馬」の飯沼勲と重ねる山本氏の読み方もユニーク。

北杜夫「白きたおやかな峰」についての三島の評文「行為に対する、言葉の側からの憑依力が欠けている」という一節を読んで、三島の文学評論も読みたくなった…。

こうして脱線読書道の日々が明日も続く。

読了日:2017年7月1日


「炎に絵を」

著者:陳舜臣

出版社:出版芸術社

ISBN:4-88293-054-4

8月27日2時から中野サンプラザで予定している日比谷日本ミステリ読書会の課題本。読書会だと「おもしろい」「よかった」の一言では続かないから、愚問、意地悪な質問を書き連ねたけれど。当日はこうした愚問が不要な会となりますように。

疑問3からはネタバレになるから隠してあります。読了されている方だけ、続きを読むをクリックしてください。

【疑問1】出版芸術社のカバー、男女カップルを背後から描いたイラストは誰と誰なのでしょうか?諏訪子と呉練海、それとも諏訪湖と葉村康風なのでしょうか?諏訪子が緑のスーツを着ている場面があったから、着物も緑、下駄の鼻緒も緑なのでしょうか?着物の青い朝顔はどこからなのかなあと愚にもつかないことをいろいろ考えてしまいます

 

【疑問2】金に関する欲望、打算を描いた小説ですが、金だけがテーマだと現実にはもっと恐ろしい話もあるわけで、私は「桃源遥かなり」や「青玉獅子香炉」の方がロマンがあって好きです。

 

【疑問3】兄の一郎、姪の順子、緑色の鉛筆でギザギザの線、京都・奈良への修学旅行引率写真、仏壇の父の写真(いつも不機嫌そう)と最初の数ページで手がかりが大サービス。

伸子の性格も「ママはひとりよがりよ。いくら整頓したって、自分にしか分からないやり方なら意味ないわ。想像力がないのね。ほかの人にも分からせることができないんだもの」と暗示。

でも「想像力がない」というのは不要だったのでは?想像力がなければ、こうしたことを思いつかない気がするのですが。

 

【疑問4】伸子の描写がアンフェアな気も。ここまで美化しなくてもよいのでは?多少ほのめしてもいいのでは?

 

「ほつれ毛をかきあげて、ほほえんだ。もう四十になるが、色白の瓜実顔が透きとおるようにうつくしい。彼女はそのかぼそい腕で…そんな苦労をしているのに、どうしてやつれたり皺がふえたりしないのか、省吾にはふしぎでならなかった。が、彼女の目をよくみると、これまでの苦労が、すべてその瞳のなかにとじこめられているのだとわかる。愁いを含んだ瞳は、いつも湿りをおびていた。」

 

【疑問5】溺愛している娘をひきいれるか?

 

【疑問6】兄の一郎が死んだとしても順子は高校一年生、犯行におよぶよりは、弟の省吾の情にうったえて順子が成長するまでの二年間、世話を頼むだろうに…と思ってしまいますが。

 

【疑問7】「当世花隈おんな気質」の作者は伸子と順子なのでしょうか?順子は文章を書くのも、絵を描くのも素質があると語られているにしても、溺愛する娘と一緒になって母親がエロ本を考えるのも変、そうかと言って高校一年生が芸者の色談義を考えるのも変。順子の設定が日本文学科の女子大生なら納得できたような気もしますが。

 

 

【疑問8】諏訪子の帯どめですが、「珊瑚の地に象牙を置き、招き猫を掘った小さな金細工を、そこにとりゆけてある」という描写だけではイメージできません。もう少し描写してほしいけど、ミステリの場合、あまり細かく描写すると本筋から離れるのでしょうか

 

【疑問9】一郎の最後の言葉「よかったな」ですが、「な」をつける必要があるのでしょうか?「よかった」で終わらした方が、家族のためにも、省吾のためにも喜んでいるようにも、両方の意味で解釈できるのでは?

 

【疑問10】諏訪子の屋敷ですが、千坪もある敷地に建つ屋敷を執事兼運転手の植原、家政婦の富沢だけで維持するのは不自然なのでは?ここで使用人をふやしたら、破綻する部分があるのでしょうか?

 

【疑問11】諏訪子の屋敷の描写も少し物足りない気がします。

「おそろしくりっぱな洋館だった。屋根つきのいかめしい鉄門から建物までは、かなりはなれていて、そのあいだの緑の芝生は、眼にもあざやかである。

『明治町やね。こんなにりっぱやとは思わなんだわ』

ふるい建物らしいが、それだけにゆったりしている」

 

あっさりしているけれど的を得た描写と感じるべきか、もっと細かく描写してと欲張ってしまうべきか。

 

【疑問12】「橋詰家には、二つのマンション。おびただしい株券、省吾でさえまだ概算できないでいる巨額の資産があった」とありますが、それだけの資産を省吾がいきなり相続しても相続税を払えないだろうに…と気になります。

 

【疑問13】伸子が雨宿りの老婦人に扮したのは修学旅行の引率のとき…なのでしょうか?引率のときにそんなことをする暇はないような気もしますが。

 

【疑問14】すべてを知っている順子、それもマンションやピアノをねだったりする、したたかな順子が生きていることが、省吾の今後に影をおとしていくことをもっと匂わせる終わり方でもよいのかなあと思いますが。

 

【疑問15】最初は雲のうえのひとのように思っていた伸子なのに、すべてを知ったからといって

「『母の象』は、裏がえって、畳のうえにあった。

省吾の足は、それを踏みつけていた。」

という終わり方は、あまりにも露骨すぎるような気もします。伸子への気持ちにもう少し悲しみを感じるようなものがあってもいいのではないでしょうか?

読了日:2017年7月2日


『青い海黒い海』

作者:川端康成

出版社:講談社文芸文庫

ISBN4-06-19671-3

川端康成といえば、熱海の土産物屋にならんでいる「踊子饅頭」の絵柄のイメージがどうも頭にあったのだが、この水晶幻想という短編集の冒頭の短編『青い海黒い海』を読んだら、そんな野暮な(失礼!)イメージが吹っ飛んだ。

川端康成が「文芸時代」に『青い海黒い海』を発表したのは大正十五年、二十八歳のとき。ヨーロッパではダダのツァラとシュールレアリスムのブルトンが対立しはじめた頃である。この不思議な短編も、そんな時代の空気に影響されて書いたものだろう。

「『青い海黒い海』はさっぱり意味がわからん」と思う人も多いようだけれど、この短編は意味なんかどうでもいい。言葉が紡ぐイメージの海に気持ちよく溺れていく…ために書かれた作品ではないだろうか。

 

『青い海黒い海』は、語り手が心中の前に書いた「第一の遺言」、二度目の自殺の前に書いた「第二の遺言」、そして最後に作者の言葉でまとめられている。

死に瀕した語り手が、臨終の前後に去来する思いを描いた不思議な作品。理性で読みとるのではなく、言葉がうつしだす回り灯篭のような世界を楽しみたくなる。

 

この短編の語り手は、今の時代、すぐ隣にいそうな感性の持ち主である。次の一節も「たべおそ」に出てきそうなくらい現代風の感覚。

 

「夏の日をまともに受けながら裸で砂の上に眠ったりするのは、大変毒だと思いますけれど、こんな風に自分を青空に開けっ放して寝ることがたまらなく好きなんです。それに私は、生まれながらの人生の睡眠不足者なのかもしれません。人生で寝椅子を捜している男かもしれません。私は生まれたその日から母の胸に眠ることが出来なかったのですから。」

『青い海黒い海』より

 

この主人公は自然と同化すると言えば響きはいいけれど、以下にご覧のとおり、なよなよとした葦の葉に同化していき、しかも葦の葉に支配されてしまう気持ちになる男である。

 

「私の目は一枚の葦の葉になっていきました。やがて、私は一枚の葦の葉でした。葦の葉はおごそかに揺れていました。その葦の葉が、河口や海原や島々や半島やの大きい景色を、私の眼の中で完全に支配しているではありませんか。私は戦いを挑まれているような気持ちになってきました。そして、じりじりと迫ってくる葦の葉の力に抑えつけられて行くのでした。」『青い海黒い海』より

 

 

でも葦にも負ける男が見る幻想の美しさよ。自分を捨てて他の男と結婚した女、きさ子を語るときまで、その言葉は美しい。

 

「その証拠にはその時もちゃんと十七のきさ子が小さい人形のように私の前へ現われてきたではありませんか。けれども、この人形は清らかに透明でした。そしてそのからだを透き通して、白馬の踊っている牧場や、青い手で化粧している月や、花瓶が人間に生まれようと思って母とすべき小女を追っかけている夜や、そんな風ないろんな景色が見えるんです。その景色がまた非常に美しいんです」『青い海黒い海』より

 

『青い海黒い海』で交わされる会話は用件を伝えるものではない。美しい世界に遊び、異次元に連れて行ってくれるもの。こんな怪しい会話に埋もれてみたい。

 

きさ子「どうぞご自由におはいり遊ばせ。人間の頭には鍵がございません。」

亡くなっている筈の父「しかし、生と死の間の扉には?」

きさ子「藤の花の一房でも開くことが出来ます。」『青い海黒い海』より

 

『青い海黒い海』のあとがき解説に目をとおしてみたら、高橋英夫氏は「これは川端康成という一人の魂に先天的にからみついて重い、冷えきった「死」の気配の言語的転換としての作品である、というふうに読めてくるだろう」と何やら難しいことを書かれている。でも、たしかに死の気配を描いているんだけれど、夏の日を受けて寝っ転がっているうちに感じる死の気配は妙に明るいと思う。

 

『青い海黒い海』の翌年、川端康成は「伊豆の踊子」を発表、今でも伊豆の土産物屋はその恩恵にあずかっている。私も踊子饅頭は大好きだけれど。

でも川端が『青い海黒い海』のまま、尖がった作家でいて、この抒情的な語り口で、世間から「こんなの分からん」とそっぽを向かれる作品を書き続けていてくれていたなら…とも思う。

つんつんした川端作品をもっと読んでみよう…と脱線読書道は続いていく。

読了日:2017年7月3日


『会心の笑い』

著者:アイザック・アシモフ

訳者:池央耿

ISBN:4-488-16701-2


わずか20ページあまりの短編にずいぶんと登場人物がぞろぞろと登場。

ハンリー・バートラム、ジェフリー・アヴェロン、トーマス・トランブル、ヘンリー、イマニュエル・ル-ビン、ジェイムズ・ドレイク、ゴンザロ、アンダースン、ジャクスンと合計9人も。

多すぎるようでいて、最後のヘンリーの一言で、これからのメインの登場人物の性格がはっきり。それは楽しみなような、怖いような…。

池さんの訳は読んでいて心地よいリズムがある。でも私の日本語力が追いつかない。「麻の叺」とか「握りや」とか初めて知った。

タイトルの「黒後家蜘蛛の会」はどなたが訳を考えたのだろうか。抜群のセンス!

 

読了日:2017年7月4日

「仮装人物」

著者:徳田秋聲

青空文庫

 

八月五日に鏡花記念館で開催される「1907年の秋聲と鏡花―“文学”の二筋道」というトークの予習用に読んでみた。

でも秋聲の作品はどれもこれもタイトルからして「絶望」「犠牲」「黴」「骸」「爛」と暗い。正直なところ、タイトルを見ただけで読む気がしなくなる。

そのなかで「仮装人物」はタイトルもよし、文章も初期のものとは違うというコメントあり、岩波文庫版は川端康成が解説を書いている…ということなので、とりあえず青空文庫で読んでみた。

いや、ひたすら長かった。

老いた作家と年下の愛人との話が延々とつづく。老作家の愛人も作家で自由奔放な生活をおくっている。老作家の愛人が愛人を次から次につくっては別れ、また老作家のもとへ戻り、また愛人をつくっては…の繰り返しである。ウンザリした。よく最後まで読んだと思う。

 

鏡花とは反対にありのままを、醜いものもそのまま書くという秋聲のスタンスも嫌い。

美しい愛人「葉子」も痔疾にかかり、老作家のまえで手術をうける。なんでこんな描写を読まなくてはいけないのだろうか。

「メスが腫物をえぐりはじめると、葉子は鋭い悲鳴をあげて飛びあがろうとした…今度は内科の院長が、薔薇色の肉のなかへメスをいれた」

この愛人は痔疾がとりもつ縁で担当医と恋仲になり、老作家のもとを一時去る。という話がユーモアをまじえず、ひらすら真面目に語られていく。

 

なぜ、ここまで醜いものを見つめなければいけないのだろうか…醜いものだらけの世の中なのに。

「見るたびに葉子は生活に汚れていた。風呂へ入るとき化粧室で脱ぎすてるシミイズの汚れも目に立ったが、ストッキングの踵も薄切れていた」

鏡花とは真逆に汚れたものの描写を究めようとした作家、秋聲。「シミイズの汚れ」とか「薄切れていた」とか、汚れ描写には優れている。だが、これ以上読みたいとは思わない。

ただ川端康成の解説は気になるけれど。

読了日 2017年7月5日


『蒼白い月』

著者:徳田秋聲

初出:1920(大正9)年7月

青空文庫

 

ふたたび徳田秋聲である。ただし少しは懲りたと言うべきか、学んだというべきか、今度は短編を読むことに。題名で決める軽率短慮な私、『青白い月』を読んでみた。

理想的な私小説読みの姿を教えていただき、登場人物に憑依したような気持ちになるぞ…と頁をめくる。

淡々とつづく神戸や大阪界隈の別荘地の描写に所々頷く。たまにはシミジミとした気持ちになる描写も散見、さすが鏡花のライバルである。

「私たちは河原ぞいの道路をあるいていた。河原も道路も青白い月影を浴びて、真白に輝いていた。対岸の黒い松原陰に、灯影がちらほら見えた。道路の傍には松の生い茂った崖が際限もなく続いていた。そしてその裾に深い叢があった。月見草がさいていた。」

 

だが所々頷き、たまにシミジミしているうちに、この短編はあっけなく終わってしまった。ちっとも憑依したような気持ちにならないまま、神戸界隈の別荘地を親戚とぶらぶらしながらの別荘地観察記かと毒づいているあいだに最後の頁に到達。

なに、これ?…と、もう一度読み返してしまった。二度繰り返して読んでも、あっけなく終わる事実に変わりはない。

 

このあっけなさ、印象の薄さを克服すべく、秋聲は汚描写に走ったのだろうか。分からない。

ただ秋聲の作品で印象に残る場面がある。それは果物がでてくる場面である。

 

「紅い血のしたたるような苺が、終わりに運ばれた。私はそんな苺を味わったことがなかった。」(青白い月 大正九年)

 

日本で苺の栽培が始められたのは明治五年…と言っても、それは皇室用のものだった。昭和三十年代にはビニール栽培が確立、ようやく庶民が食べられるようになった…らしい。

 

「仮装人物」にも果物がでてくる場面がある。老作家、庸三が、幾年前かに結婚生活を清算して、仏蘭西で洋裁の技術を仕込んで来たというマダムの洋館に招かれる場面だ。

 

「がっちりした、燻しのかかった家具の据えつけられた客室で、メロンや紅茶のご馳走になりながら、しばらく遊んでから、夕方になって三人で銀座に出てみたが、生活内容を探り合うこともできないほど、何か互いに折合いのつかない気分であった」(仮装人物 昭和十年)

 

日本でメロンの温室栽培が始まったのは大正時代、でも高価なもので一部の上流階級の人しか買うことはできず、今のように普及したのは戦後になってから…らしい。

 

大正九年当時、「紅い血のしたたるような苺」の文を読んだ人の気持ちは如何に?

昭和十年当時、「メロンや紅茶のご馳走」の文を読んだ読者の気持ちは如何に?

事実をありのままに書いた秋聲だから、書こうとする物(ブツ)そのもので、小説の世界を構築しようとしたのだろう。

 

だが時代は移ろい、物の価値も変わってしまった。

苺も、メロンも庶民の食べ物となってしまった今、秋聲の意図は読者には伝わらない。

同じように淡々としているように見える神戸港外の別荘地の描写にも、秋聲の意図があれこれあるんだろうな、私が気づかないだけで。

 

今を生きる私たち、秋聲のブツにこめた言葉の意図を読み取るのは難しい。

これが事実をありのままに書こうとした秋聲の限界、幻の言葉で夢を語ろうとした鏡花の勝ちだね…と勝手に鏡花の勝利宣言をしてしまう。

読了日:2017年7月6日


『人形塚』

著者:澁澤

出版社:河出書房

初出:1962年12月双葉社「推理ストーリー」

澁澤のたった一つのミステリー短編ということで読むことにした。

だが澁澤唯一のミステリーという看板文句は、澁澤本人が作品中で「彼女を殺した者は誰か、というような疑問は、おれの心に一向に浮かばなかった」という調子で語り、話を進めていくから、この作品はミステリーとは言えない…気はするが、それでもこんなミステリ?なら、もっと読んでみたいと思う。

 

冒頭の文が時期にあっている。まるで今の私の気持ちを代弁してくれているよう、私がいえば「暑い、蒸す」だけなのに…と澁澤が語ればと惹きつけられる。

 

「六月某日―

毎日毎晩、ひっきりなしに雨が降りつづいている。いやな季節だ。蒸し蒸しする空気のなかで、家々の壁や塀はじっとり黒い汗をかき、カタツムリやナメクジの這いずりまわった粘液の跡が、鈍い銀色に光って見える。きたないもの、不潔なものの種子が、いっせいに、ぱあっと芽を吹き出したような感じだ。

人間の頭のなかにも、じめじめしたカビや菌類の花が咲き、まだ形をなさない胎児のような、ぐにゃぐにゃした、気違いじみた下卑た欲望の塊りが、うごめき出すのだ。

こんな季節になると、おれは無性にいらいらしてくる。」

 

澁澤の場合、汚描写も華があると言うべきか、どこかユーモラスと言うべきか、読ませてくる。なぜだろう。

この短編は、私が筋だけ語れば顰蹙物のホラーである。でも澁澤が語るとそうは

ならない。なぜか?

澁澤の世界と離れてしまうのを承知で筋をまとめる。ネタバレになる筋ではないが、ここからは一応ネタバレ。

主人公の小学校教師「島谷」はクラスにいる不自由なところのある生徒達にイライラして意地悪をしてしまうような教員である。その姿が世間体を取り繕わない、子供の無邪気さに思えてくるから不思議だ。

島谷は小学生の雨傘を眺めてれば

「小さな雨傘の氾濫を眺めて、(あれはみんな、毒キノコのお化けではなかろうか)などと、たわいもないことを考えてみたりする」

 

「(これだ。近頃の子供たちには、子供らしいところが少しもない)とおれは思った、(おれが子供の頃なんぞは、片輪の少年や知能のおくれた少年に対しては、あからさまな嘲弄と軽侮とを浴びせかけてやったものだったが…)

 

島谷は体が不自由なクラスの生徒には

「おれは舌打ちをして

『いつもみんなに助けてもらっているからと言って、それが当たり前だというような顔をするのはよしなさい』と、強く言った」

なぜかこの言葉が非情に聞こえないから不思議である。

 

さらに島谷は

「子供が可愛いなんて、どこのどいつが考え出した迷言だろう…」とも語る。

 

今までこんな小学校教師を描いた作家はいただろうか。澁澤のこの世間の常識に屈しないストレートなところも好きである。

 

粗筋に戻るが、島谷は人形塚にその気に入らない生徒が死体で転がっているのを発見、自分のアパートに持ち帰る。さらにもう一人の気に入らない生徒も、人形塚で死体となって転がっているのを発見、同じように持ち帰り、人形として扱う。

アパートの部屋で読書会をする羽目になり、困った島谷は二人の遺体を切断、ビニール袋にいれて蒲団の下に隠すが、読書会の仲間に見つかってしまう。

 

ホラーそのものの筋だが、怖がり屋の私が読んでも、ぜんぜん気持ち悪くもならないし、怖くもならない。なぜ?

澁澤の場合、語る対象と語る澁澤のあいだに不思議な距離感が生み出されている。その言葉が紡ぎあげる距離感が、澁澤ワールドを生み出しているからではないだろうか。

 

人形塚で女の子の死体を発見する場面も、なんとも不思議なテンポである。

「(おや、今日の人形は莫迦に大きいぞ)とおれはぼんやり見ていたが、どう考えたって、こんな大きな人形があるわけはなく、明らかにそれは人間の女の子なのだ。

(今日はよほど頭が疲れているな)と思って、しばらく息をつめるようにしていると、その人形はみるみる小さくなった。

(やっぱり人形だ)と思うと、今度は逆にぐっと大きくなって、また元の子供の背丈ぐらいになった。」

 

死体のある部屋で読書会をする場面も黒いユーモアが利いている。

「部屋に入ると同時に、隅の方にうず高く盛りあがった奇妙な夜具の存在に、気がついたようだった。」

「会話の途切れるたびに、種村は思い出したように、部屋の隅のこんもりした夜具の方に、ちらりちらりと視線をやった。」

「どうしてもあの夜具の存在が邪魔になってくる。といって片づけるにも、あの大きなものを客の目の前ではどうすることもできない」

ドキドキしながら、時にクスリと笑ってしまう…こんなミステリをもっと書いてもらいたかった。

 

そして読書会の仲間が夜具の下にあるバラバラの死体に気がつく場面も何ともとぼけた味がある。

「ややあって、五人の男の圧し殺したような、

『ほう!』

という嘆声がもれた。

たしかに、ビニール包みの中味は、五人の男の好奇心を十分満足させる態のものであったらしい。しばらくは言葉もない。

やがて、峰岸が堪りかねたように、

『これはすごいや! 完全なばらばら事件だ…』と叫ぶ」

 

「ちがう!殺したのは、ぼくじゃないんだ。ぼくは犯罪には関係ない。ぼくはただ…落ちていた屍体を…」

「落ちていた屍体? ははは。島谷さんが、こんなに芝居がうまいとは知らなかったよ。落ちていた屍体…まるで探偵小説の題みたいじゃないか」

 

澁澤がミステリを書きつづけていたなら、笑いにみちた不思議な世界が展開されていただろうに…と残念に思う。


読了日:2017年7月7日

「月が昇るとき」

著者:グラディス・ミッチェル

初出:1945年

訳者:好野理恵

出版社:晶文社

ISBN 4-7949-2743-6

 

日比谷海外ミステリ読書会の次回(9月24日午後日比谷図書館)課題本である。

この課題本に決定した直後、「相当しぶい課題本ですが参加者は集まりますかねえ」とか、「ますます会がディープになっていく」といろいろ心配して頂いた。

でもミステリビギナーの私にすれば、読後、「こんなに面白いミステリがあったんだ!」とミステリのイメージを大きく変えた一冊である。なぜグラディス・ミッチェルの本があまり翻訳されていないのかが不思議に思えるくらいに気に入った。

 

本書の内容は、帯によれば「月下の切り裂き魔。運河の町で発生した切り裂き魔による連続殺人事件を、13歳の少年の目を通して描き、不思議な詩情をたたえたグラディス・ミッチェルの傑作」とのこと。

でも帯にも、解説にも、この作品のおもしろさは書かれていない。解説のYさんとは、訳者だろうか?イニシャルだけの解説というのも初めてだなあ…イニシャルだけなら、こんな真面目に書かなくてもいいのに…と思ってもしまう。

もしかしたら、どこが大傑作なのかなあ…と迷いつつ訳されたり、編集されたりしたのだろうか。

訳書解説のどこにも書かれていない「月が昇るとき」のおもしろさとは? なぜ本作品が彼女の代表作なのかを知りたい方は、ぜひ9月24日午後日比谷図書館にて、宮脇孝雄先生の説明を聞いて考えてみませんか。

 

これから先はネタバレあり、不要の駄文。

すこし不気味、でもクスリと笑いたい、最後にはひたすら美しいものを読んだ…という気がする読後感は、澁澤龍彦の『人形塚』に通じる感じ。澁澤がグラディス・ミッチェルを読んだら、気に入ったんじゃないかなあと思う。

 

注文した原書が届いていないので何とも言えないところはあるけれど。

骨董屋の女主ミセス・コッカートン、最初は少年の心の友のような存在だったけれど、その彼女の化けの皮が一枚ずつはがれていく面白さ、それがミステリの謎ときのヒントにつながる楽しさが第一にあると思う。

礼儀正しく、古風だったミセス・コッカートンが最後に大鍋にむかっている場面の怖さ、面白さ。ここでミセス・カートンが鍋にむかいながら、手毬歌ではないけれど、何か歌をうたえば更に不気味でよいのになあ。

 

これも澁澤と通じるところだが、子供の視点で描いているからと言って、いかにも子供らしい子供を描かない。殺人事件を知って「この殺人事のおかげで、休みの間じゅう、ずっと面白いことになるかも」(47頁)と語る率直さも楽しい。

 

解説には「グラディス・ミッチェルの面白さが、物語のツボをあえて外していくオフビートな語り口にある」と書かれているが、どうでしょうかねえ。英国流に笑いのツボをせめていく正統な書き方をしているようにも思えるが。

 

九月の読書会で、宮脇先生、少ないと予想される参加者の皆様からのご意見を楽しみにしています。

読了日2017年7月9日

天守物語

著者:泉鏡花

初出:1917年(大正6年)

青空文庫

(画像は山本タカト氏装丁の本)

 

大正6年につくられた戯曲「天守物語」が、今秋、金沢二十一世紀美術館で公演される。一世紀前、坪内逍遥全盛期の頃の戯曲である。そんな昔の戯曲の公演を今から楽しみにしている性急者は、おそらく私だけではあるまい。

一方で、こう疑問に思う方々もいることだろう。

坪内逍遥の時代の戯曲なのに?

大正の戯曲なのに?

そう思って首をかしげる方々も、冒頭の一節をお読みいただいたら納得していただけるのではないだろうか。

鏡花「天守物語」は確かに大正6年の戯曲である。だが、その世界は今の宮崎アニメの世界にも、童話の世界にも、現代文学の世界にも通じるものがあると。

御殿女中の薄が、天守から絹糸をたらして釣りをしている侍女をたしなめる場面である。


撫子 いえ、魚を釣るのではございません。

桔梗 旦那様の御前に、ちょうど活けるのがございませんから、皆で取って差上げようと存じまして、花を…あの、秋草を釣りますのでございますよ。

薄  花を、秋草をえ。はて、これは珍しいことを承ります。そして何かい、釣れますかえ。

桔梗 ええ、釣れますとも、もっとも、新発明でございます。

薄  高慢なことをお言いでない。-が、つきましては、念のために伺いますが、お用いになります。…餌の儀でござんすがね。

撫子 はい、それは白露でございますわ。

葛  千草八千草秋草が、それはそれは、今頃は、露を沢山(たんと)欲しがるのでございますよ。刻限も七つ時、まだ夕露も夜露もないのでございますもの。(隣を視る)ご覧なさいまし、女郎花さんは、もう、あんなにお釣りなさいました。

薄 ああ、ほんにねえ。まったく草花が釣れるとなれば、さて、これは静かにして拝見をいたしましょう。釣をするのに饒舌っては悪いと云うから。…一番だまっておとなしい女郎花さんがよく釣った、争われないものじゃないかね。

女郎花 いいえ、お魚とは違いますから、声を出しても、唄いましても構いません。-

ただ、風が騒ぐといけませんわ。…餌の露が、ぱらぱらこぼれてしまいますから。ああ、釣れました。

薄  お見事。


この場面に、鏡花のいつまでも古くならない魅力を想わないではいられない。

このあとに出てくる朱の盤坊、舌長老…名前からしてユーモラスな妖怪たちは、今読んでも面白い。

大名の理不尽さに憤る富姫の怒りも、私達がいつも感じる怒りである。

 

今秋、「天守物語」の世界を、この目で見ることができる、この耳で聞くことができる…ことが楽しみである。心は夏の秋聲トークをスキップして、もう秋の金沢にある。

読了日:2017年7月10日


「海神別荘」

著者:泉鏡花

初出:大正2年(1913年)

青空文庫

(写真は岩波文庫)

 

閑な私ではあるけれど、なかなか読書に長い時間をさくのは難しい。

分厚い文庫上下巻(翻訳物に多いような)を読んで睡眠時間を削られて、読後感が「で、なにが言いたい?」だったときの空虚さ…は避けたい。

そこでと言うべきか、最近、日本の明治から大正にかけての日本文学を読むことが多い。

「何のためのフランス文学専攻だったのか?」

「何のための文芸翻訳の勉強だったのか?」

「何のために、今でも翻訳の勉強会をひらいているか、この裏切り者!」と言われてしまいそうではあるが。

でも、ようやく此の歳にして、明治、大正の作家さんのすごさー戯作、草双紙の文学からロマン派やらダダ・シュールを咀嚼して書こうとした―が分かるようになってきた、いや分かりたいと思うようになってきた。

それに明治、大正の作品は短いのに、上下巻の翻訳物よりも読後感もよし、文章もよし…隙間読書にはうってつけなのである。(翻訳物もいろいろ嗜好にあえば大好きなのだが)

この海神別荘も短い。内容をかいつまんでまとめれば

「父親が宝物と娘を交換するという約束を、海神(公子)とかわす。海神から宝物をごっそりもらった父親は家も立派な家にして、若い妾をもらうけど、最後に泣く泣く娘を海に沈める。娘は龍神の御殿につれられていき、龍神の夫人となり、自由の身になる。だが『父親の目には蛇にしか見えないから』という龍神の反対をおしきって父親のもとへ帰る。やはり父親の目に、娘は蛇としてしか映らない。龍神のもとへ戻った娘は龍神をなじって二人は喧嘩する。龍神は娘を殺そうとするが、その龍神の顔に娘は惚れ直し、あとは二人で互いの血の杯をのんでメデタシメデタシ」

短い。だが何と言っても公子(龍神)が格好いい。

父親のもとにリッチになった姿を見せに行こうとする娘に、公子(龍神)は諭す。


公子 それは不可(いか)ん。貴女は栄耀が見せびらかしたいんだな。そりゃ不可ん。人は自己、自分で満足をせねばならん。人に価値(ねうち)をつけさせて、それに従うべきものじゃない。人は自分で活きれば可(い)い、生命(いのち)を保てば可い。しかも愛するものとともに活きれば、少しも不足はなかろうと思う。宝玉とてもその通り、手箱にこれを蔵すれば、宝玉そのものだけの価値を保つ。人に与うる時、十倍の光を放つ。ただ、人に見せびらかす時、その艶は黒くなり、その質は醜くなる。


短い。でも言葉遣いが格好いい。猿真似でも使ってみたくなる。「紅宝玉」で「ルビイ」、「緑宝玉」で「エメラルド」、「闥」で「ドア」とルビをふる言葉遣い、いいなあ。

英国怪奇幻想小説翻訳会のブラックウッドの課題にエメラルドがでてきたら使うのに…と、勉強会の課題のことも気になってきたので鏡花を閉じる。

読了日2017年7月⒒日

「夜叉ヶ池」

著者:泉鏡花

初出:大正二(1913)年

青空文庫

(カバー写真は講談社文庫)

 

今日も飽きずに鏡花である。毎日、鏡花でも飽きないだろう。

でも潔癖症の鏡花のエピソードの数々―階段をふく雑巾は、幾種類か決められていて、この雑巾は何段目用とか決めていた―を聞くたびに、鏡花がはるか昔の作家でよかったと思う。毎日、埃に埋もれて暮らしている私だもの、もしサイン会とかで鏡花に出会っていたなら、一瞬で嫌いになっただろう。

「夜叉ヶ池」は鏡花が初めて書いた戯曲。ドイツ語ができる仲間とドイツ浪漫派ゲアハルト・ハウプトマンの「沈鐘」を共訳したあと、その翻訳作業をとおしてドイツ浪漫派を自分の血肉にしてから書いた戯曲らしい。

粗筋は龍神伝説に恋をからめたもの。「友人を探して全国行脚の学僧・学円は、或る村で百合という美しい女性に出会う。姿をあらわした百合の夫こそ、学円が探している友人・萩原だった。萩原は夜叉ヶ池に封じ込められている龍神が、また姿をあらわさないように日に三度鐘をついている。学円と萩原が夜叉ヶ池を見に出かけている間に、百合は雨ごいの生贄にされそうに。危機一髪のところで学円・萩原は戻ってくるが、百合は死を選ぶ。萩原も鐘をつくのはやめ、死をえらぶ。すると激しい雨が村をながして村人は魚に、百合たちは龍神のよって復活する」

初めての戯曲だから、いわゆる鏡花らしいオーラは「海神別荘」や「天守物語」と比べるとやや低め。

「天守物語」のように、最初から、秋の七草の侍女たちが草花の釣りを楽しむ…という幻想的な場面で始まるわけでもない。また歌も、「天守物語」の「ここはどこの細道じゃ、細道じゃ、天神様の細道じゃ、細道じゃ」に比べると、「夜叉ヶ池」の「山を川にしょう」は哀切感にやや欠けるかなという気が。

でも人間界の価値観を超越しようとする鏡花の言葉は、後の作品と同じくらいにハイテンションである。

剣ヶ峰の恋人からふみをもらった龍神・白雪は、人間との約束を破り、恋人のもとへ行こうとする。白雪が動けば、嵐となって村に災害をもたらすと止める姥にむかって、白雪は人間のことを「尾のない猿ども」とののしり、こう言い放つ。

「義理や掟は、人間の勝手ずく、我と我が身をいましめの縄よ。…鬼、畜生、夜叉、悪鬼、毒蛇と言わるる我が身に、袖とて、褄(つま)とて、恋路を塞いで、遮る雲の一重もない!…先祖は先祖よ、親は親、お約束なり、盟誓(ちかい)なり、それは都合で遊ばした。人間とても年が経てば、ないがしろにする約束を、一呼吸(ひといき)早く私が破るに、何に憚る事がある! ああ、恋しい人のふみを抱いて、私は心も悩乱した、姥、許して!

潔癖症の鏡花は、義理人情という手垢のついた価値観は許せないものだったのだろう。悩む瞬間もなく否定する。その価値観は私には古いものでもないし、妥協しようとしない姿勢も好きだなあと思いながら読んだ。でも日常生活の潔癖症は我慢できないけど。

読了日:2017年7月13日

「観画談」

作者:幸田露伴

初出:大正⒕年7月

青空文庫

(カバー写真は岩波文庫)

幸田露伴は文学史のなかの作家、私には遠い存在だった。

ふと読んでみようと思いたったのは、先月の英国怪奇幻想小説翻訳会で宮脇先生に勧められたから。鏡花の話をしてくださったついでに「幸田露伴も漢文で書いていますが、お化けの話をたくさん書いていて面白いですよ」と教えてくださった…いったい何の会なのだろうか、宮脇先生の雑学を楽しむ会なのかもしれない。

そういうわけで、何となく、初めての幸田露伴である。どれを読もうか…と青空文庫をぺらぺら。文体が多種多様なのにびっくり。紫式部みたいな文もあれば、漢文の教科書みたいなものもあるし、村上春樹みたいにくだいて書いた作品もある。どの文体にしようか悩んだんだろうな、きっと。これだけ文体をかえて書けるなんて凄い!

たぶん初めての幸田露伴、私の意志がくじけないように漢文調はうすめ、紫式部調でもなく、村上春樹みたいでもない…という文の感じで「観画談」を読むことにした。

淡々とした筋である。でも最後に「で、何なの?」とは言いたくならない。筋は

「苦学生の通称『大器晩成先生』は神経衰弱のため、都会を離れることに。古寺に泊まった晩、大雨で川が決壊しそうになり高台へ避難。高台の草庵には不動の僧がいて不思議度が高まる。さらに草庵の絵を眺めていると絵の中の船頭が大きな口をあけたので、大器晩成先生もニコッとした。そして神経衰弱は治る」

どこが面白い?という筋だが、それでも読んでしまうのは幸田露伴の筆力だろう。

大器晩成先生が雨に降られる場面の描写である。何ということのない風景描写のようだが、江戸時代、戯作には風景描写はほとんどなかった。明治になってから風景描写をするようになった…これも英国怪奇幻想小説翻訳会での宮脇先生の話だが、半世紀のあいだに風景描写も完成されたのだなあと思いながら読んだ。



「路が漸く緩くなると、対岸は馬鹿馬鹿しく高い巌壁になっているその下を川が流れて、こちらは山が自然に開けて、少しばかり山畠が段々を成して見え、粟や黍が穂を垂れているかとおもえば、兎に荒されたらしいいたって不景気な豆畠に、もう葉を失って枯れ黒んだ豆がショボショボと泣きそうな姿をして立っていたりして、その彼方に古ぼけた勾配の急な茅屋が二軒三軒と飛び飛びに物悲しく見えた。天は先刻(さっき)から薄暗くなっていたが、サーッというやや寒い風が下して来たかと見る間に、楢や槲(かしわ)の黄色な葉が空からばらついて降って来ると同時に、木の葉の雨ばかりではなく、ほん物の雨もはらはらと遣って来た。渓(たに)の上手の方を見あげると、薄白い雲がずんずんと押して来て、瞬く間に峯鑾(ほうらん)を蝕み、巌を蝕み、松を蝕み、忽ちもう対岸の高い巌壁をも絵心に蝕んで、好い景色を見せてくれるのは好かったが、その雲が今開いてさしかざした蝙蝠傘の上にまで蔽いかぶさったかと思うほど低く這下がって来ると、堪らない、ザアッという本降りになって、林木(りんぼく)も声を合せて、何の事はないこの山中に入ってきた他国者をいじめでもするように襲った」



不気味な要素がそっと散りばめられた「観画談」、もう一度再読してみたい。

読了日2017年7月13日


「死が二人を別つまで」

A New Lease of Death

ルース・レンデル

初出:1967年

訳者:高田恵子

出版社:東京創元社

向ケ丘遊園読書会の次回課題本ということで久々に翻訳ミステリを読んだ。読み終わるころには本が付箋だらけの状態に。読んではすぐ忘れる私、翻訳書の場合、付箋は些細だけれど首をかしげた箇所にはることにしている。と言うわけで読解力不足がたたって疑問に思うことが多々あった。

まずはタイトルに付箋。A new Lease of Death は a new lease of life のもじりだと思うが、このa new lease of life は「命拾い」「寿命をのばす」「意欲を取り戻す」という意味がある。このタイトルは曖昧な表現ながら、「死者復活」という感じの、黒い笑いをこめた表現ではないだろうか? 「死が二人を別つまで」という題は恰好いいけど、黒い笑い感がでてない感じがする。

以下はネタバレ駄文。訳は東京創元第七版 高田恵子訳より。

 


作品のポイントのひとつに、ヘンリー・アーチェリー牧師の牧師らしからぬ人物像がある。瀕死の重傷者の最後に立ち合えば、血がほとばしる場面にアーチェリーはあとずさりをする。息子が犯罪者の娘と結婚しようとするとオロオロして、その犯罪者は無罪だったと証明しようとする。美貌の実業家婦人にくらくらしたり、夜、寂しくなると妻に電話したくなったりする。「それで牧師なの?」という笑いも、この作品の大きな魅力。やはりタイトルは、黒い笑いにみちていると思う。

レンデルの作品構成にも付箋をぺたっ。アーチェリー牧師の息子と結婚しようとしている娘、テリーサの父は人殺しの犯罪人ではなく、夭折した詩人との私生児だった…わけだが、母親が娘を殺人者の娘にしてまで私生児であることを、自分の不義を隠そうとするか? 半世紀前の作品だが、現代では通じない価値観かなあという気が。

以下、読んでいて分からないと思ったところをメモ。私の読解力のなさも多々あると思うので駄メモにお許しを。

 

16頁「修道僧のような顔の男とむかいあって座り、ウェクスフォードが『柔和』と呼ぶ同情のほだされると、女たちは、五十五歳の堂々とした体格の男に対してより、はるかに心をひらくものなのだ」

―柔和と呼ぶ同情―とは何なのか、私には謎である。

 

35頁「灰色のスレートぶきの屋根には、いくつもの傾斜の急な切妻が作られており、そのうちのふたつは家の正面にそびえるようにつき出ていたが、そのほかに右手にも三つめの切妻があり、その奥にもうひとつ、裏に面している少し小さめのものがあった。どの切妻にも、くすんだ緑色のペンキを塗った格子模様がはめこまれていて、その木材のなかに稚拙な山形模様が刻まれているものもあった。木造部のあいだのしっくいがあちこちはげおちていて、ピンクがかった粗いレンガの面がむき出しになっている。一階の窓のしたからいちばん高い切妻のところまで、ペンキの色と同じくすんだ緑色のツタが、その扁平な葉とロープのような灰色のつるを好き勝手にひろげている。いちばん高い切妻の格子戸がだらしなくひらいていたが、それは粉をふいた壁のあいだにツタがはいりこんで、レンガの壁から窓枠をうきあがらせているためらしかった。」

―頭に情景を描くのが難しい、どなたかデッサンしてくださいませー

 

47頁「ほぼきっかり一割」

―「ほぼ」と「きっかり」は両立する表現なのかと?

 

60頁「そのレインコートは、馬車小屋にかけてあることもあれば、ヴィクターズ・ピースの裏口のドアの内側にかけてあることもありました。

―「裏口のドアの内側」、ここまで正確に訳さなくてもと思いますが。

 

ブルーというカタカナを何回も使っているのが、私は嫌です。

19頁「畑には木々が濃いブルーの影をのばしており」

108頁「紺色の制服を着た警官を『ブルーボトル』

この作品のどこかにも「ブルーの瞳」という訳があった。

―日本語にもなっているブルーだけど、堂々と使われるのは嫌だなあ。

 

118頁「その若者はいっときもだまってなんかいなくて、わめきどおしでした。若い女のことと、子供がどうとか言ってましたな」

―テリーサの本当の父であるジョン・グレースが不慮の事故で亡くなる場面ですが、『わめきどおし』でいいのでしょうか。口の悪いウェクスフォードの視点で語られているから構わないのかもしれませんが。

 

122頁アーチェリー牧師が妻に電話で話す言葉

「二匹によろしく伝えておくれ」

―こんなふうに52歳の男が「二匹に」と話すものでしょうか?

 

127頁「その部屋はベッドルームで硬質繊維板でふたつにしきられていた」

―硬質繊維板とは?

178頁「車の助手席にはプードルのドッグがすわっていて」

―ドッグ?

228頁「きょうはドッグはいっしょではないのですね」

―52歳の牧師の言葉?ドッグも日本人の誰もが知っている日本語ですが、私は嫌だな。

 

185頁「チャールズがなぜこれほど熱烈にこの娘を自分のものにしたがっているのか、その理由がわかってきたような気がした。それは、自分がいままで経験したことのないような奇妙な感覚で、テスにもテスの外見にも、チャールズにも関係のないところから生じたものだった。ある意味でそれは、普遍的な共感といえるものだったが、その一方で自分本位なものであり、理性からというよりも感情から出てきたものだった」

―と語るアーチェリー牧師の「普遍的な共感」が何なのか不明です。

 

この作品は、値段がいろいろ記されている。裁判所の記録二百ポンドは高いかなあ。

26頁 ペインターの報酬が週3ポンド

40頁 ヴィクターズ・ピースの屋敷の売値は6000ポンド、1951年にロジャーが手放したときには二千ポンド。

40頁 ミセス・プリメーロウの遺産は一万ポンド

121頁 裁判記録の写し 二百ポンド

207頁 ロジャーのことを「執事がいて、年収が五万ポンドもある人間なら」

 

疑問も多々あれど、実の父は…という設定は楽しかった。

牧師アーチェリーのダメっぷりも、文楽にでてくるハンサムなんだけどダメ…という主人公たちをどつきながら見るときの楽しさに相通じるようなものがあって楽しかった。

読了日:2017年7月15日


『幻談』

作者:幸田露伴

初出:昭和13年9月

青空文庫

 

頭が朦朧としてくるような今日の暑さも、『幻談』の書き出しに心がすーっと怪談モードになって涼やかになっていく。漢語文、文語体と試行錯誤して日本語で書こうとしてきた幸田露伴も、この作品を書き上げた昭和十二年はおよそ70歳。日本語でどう書こうか…と考えてきた露伴の終着点も近い…つぎのように始まる冒頭の文を読みながら、露伴の日本語の冒険旅行をしばし思う。

 

「こう暑くなっては皆さん方があるいは高い山に行かれたり、あるいは涼しい海辺に行かれたりしまして、そうしてこの悩ましい日を充実した生活の一部分として送ろうとなさるのも御尤(ごもっとも)です。が、もう老い朽ちえてしまえば山へも行かれず、海へも出られないでいますが、その代り小庭の朝露、縁側の夕風ぐらいに満足して、無難に平和な日を過して行けるというもので、まあ年寄はそこいらで落着いて行かなければならないのが自然なのです。山へ登るのも極くいいことであります。深山に入り、高山、嶮山なんぞへ登るということになると、一種の神秘的な興味も多いことです。その代わりまた危険も生じます訳で、怖しい話が伝えられております。海もまた同じことです。今お話し致そうというのは海の話ですが、先に山の話を一度申しておきます。」(『幻談』より)

 

「危険も生じますので、怖しい話が伝えられている」というわけで、『幻談』には海の怪談、山の怪談がそれぞれ一つずつ収められている。

山の怪談は、1865年、ウィンパーがマッターホルン初登頂したときの遭難事故。海の怪談は、江戸時代末期、深川の釣り船がひろいあげた釣り竿をめぐるもの。

この『幻談』についてのコメントを読むと、「なぜ山の怪談があるのか」と疑問を書かれている方が多い。ウィンパーの悲劇がよく知られた遭難事故についてノンフィクション風に書かれているのに対して、釣りの怪談は落語の語りを聴いているかのように、露伴の語りが工夫されているので違和感があるのだろう。でもウィンパーの悲劇も、深川の釣り船も、時代的にはほぼ同じ時代、山と海の怪談を楽しんでもらおうという露伴の意図があってのことだろう…だが、やはり露伴の語りは西洋の世界を語るときは真価を発揮しないかな。

…と言うわけで、山の怪談はとばして深川の釣りの怪談。

釣りの怪談の主人公は、こんなふうに紹介されている。露伴が語ると、窓際族もよいものだなあと我が身と重ねて考えたりもして、正しい窓際族の在り方を思ったりしないではいられない人物である。

「これもやはりそういう身分の人で、物事がよく出来るので以て、一時は役づいておりました。役づいておりますれば、つまり出世の道も開けて、宜しい訳でしたが、どうも世の中というものはむずかしいもので、その人が良いから出征するという風には決っていないもので、かえって外の者の嫉みや憎みをも受けまして、そういう役を取り上げられまする、そうすると大概小普請(こぶしん)というのに入る。出る杭が打たれて済んで御小普請、などと申しまして、小普請入りというのは、つまり非役になったというほどの意味になります。この人も良い人であったけれども小普請入になって、小普請になってみれば閑なものですから、御用は殆どないので、釣りを楽みにしておりました。別に活計(くらし)に困る訳じゃなし、奢りも致さず、偏屈でもなく、ものはよく分る、男も好し、誰が目にも良い人。そういう人でしたから、他の人に面倒な関係なんかを及ぼさない釣を楽しんでいたのは極く結構な御話でした。」

のんびりと暮らしている小普請族の語りは、釣りの蘊蓄話から始まって、だんだんこの俗世を離れたものになっていく。

釣りはしないけれど、こんな釣り船での過ごし方の描写を読むと、釣り船にのって海風に吹かれたくなってくる。

「船頭は客よりも後ろの次の間にいまして、丁度お供のような形に、先ずは少し右舷によってひかえております。日がさす、雨がふる、いずれにも無論のこと苫というものを葺きます。それはおもての舟梁とその次の舟梁とにあいている孔に、『たてじ』を立て、二のたてじに棟を渡し、肘木を左右にはね出させて、肘木と肘木とを木竿で連ねて苫を受けさせます。苫一枚というのは凡そ畳一枚より少し大きいもの、贅沢にしますと尺長の苫は畳一枚よりよほど長いのです。それを四枚、舟の表の屋根のように葺くのでありますから、まことに具合好く、長四畳の部屋の天井のように引いてしまえば、苫は十分に日も雨も防ぎますから、ちゃんと座敷のようになるので、それでその苫の下即ち表の間―釣舟は多く網舟と違って表の間が深いのでありますから、まことに調子が宜しい。そこへ茣蓙なんぞ敷きまして、その上に敷物を置き、胡坐なんぞ掻かないで正しく座っているのが式です」

小普請の旦那が船頭「吉」が漕ぐ釣舟ででかけた帰り、素晴らしい釣竿を握りしめたまま溺れ死んでいる男の水死体を海面に発見する。江戸時代は水死体もさほど珍しいものではなかったのだろうか? さほど驚きもせず、ただその水死体が手にしている素晴らしい釣竿に目を奪われる。釣竿を持って帰ろうとする吉をおしとどめるも、釣竿をみるうちに小普請の旦那もつい水死体から釣竿をもぎとってしまう。このあたりの旦那の心のゆらぎがユーモラスだけど、釣竿をもぎとる瞬間、その後の描写は何とも不気味、簡潔なんだけど小普請の旦那の胸中をよく語っている。

「指が離れる、途端に先主人は潮下に流れて行ってしまい、竿はこちらに残りました。かりそめながら戦ったわが掌(て)を十分に洗って、ふところ紙三、四枚でそれを拭い、そのまま海へ捨てますと、白い紙玉は魂でもあるようにふわふわと夕闇を流れ去りまして、やがて見えなくなりました」

さて翌日、釣りにでた帰り、海のうえで見かけたのは、何度も海面に突き出ては沈む竹竿であった。その光景に小普請は、水死体から取った竹竿を海に返してしまうのであった。

釣りの蘊蓄話に耳を傾けて浮世を忘れているあいだに、いつのまにか怖い話にかわって背筋が寒くなる一篇。露伴もこのあたりになると読みやすい。すべて「ブルー」と連発して訳す翻訳書よりも頭に入る。もっと露伴を読んでみよう。

読了日:2017年7月16日

『竜潭譚』

作者:泉鏡花

初出:「文芸倶楽部」1896年(明治29年)

青空文庫

(写真は「鏡花怪異小品集おばけずき」)

 

簡単にいえば、神隠しにあった少年の物語である。

何回読んでも、ここにはどういう意味があるのだろうか…と考えてしまう箇所が次から次に出てくる作品である。だが、そうして立ちどまることが楽しい。すっきり明確に進んでいく隙のない話よりも、読むたびに考え込んでしまう『竜潭譚』の方が楽しい…そんな分からない楽しさを再確認させてくれる作品である。

姉に内緒で躑躅の丘を訪れた少年、その躑躅の丘の描写は何度繰り返しても心地よく、夜中にぶつぶつ呟いてでも読みたくなる。

「行(ゆ)く方(かた)も躑躅なり、来し方も躑躅なり。山土の色あかく見える。あまりうつくしさに恐しくなりて、家路に帰らむと思ふとき」

躑躅の丘で迷子になった少年を語るくだりでは、少年の背中がみえてきそうである。

「再びかけのぼり、またかけおりたる時、われしらず泣きてゐつ。泣きながらひたばしりに走りたれど、なほ家ある処に至らず、坂も躑躅も少しもさきに異らずして、日の傾くぞ心細き。肩、背のあたり寒うなりぬ。ゆふ日あざやかにぱつと茜さして、眼もあやに躑躅の花、ただ紅の雪降積めるかと疑はる」

先日、読んだ翻訳書ではすべて「ブルー」と表記していて寂しい気がしたけれど、鏡花にかかれば

「空のいろの真蒼(まさお)き下」

「空の色も水の色も青く澄みて」

「白き鳥の翼広きがゆたかに藍碧(らんぺき)なる水面を」

「薄暮暗碧を湛える淵」

とブルーをあらわす日本語はこんなにもあるものかと思う。

「ブルー」一語で読者に想像させる書き方もあるのだろうが、どの漢字で表現するのか、そんなセンスまで含めて楽しみたい。…というわけで脱線読書道はきわめて偏ったものとなっていく。

2017年7月⒚日読了

「トレント最後の事件」

著者:E・C・ベントリー

訳者:大久保康雄

初出:1913年

東京創元社

 

富豪の殺人をめぐるミステリ。

この富豪の印象的な描写が随分でてくるけれど、その部分を組み立てて考えると、人物がうかんでこない…こんな人物がいるだろうか、いるはずがない、という白々しい気持ちに少しなってしまうけど面白い。

1913年、英国育ちのベントリーが、ヨーロッパよりも好調なアメリカ経済を牽引するほどの人物の殺人事件を描く…というのは少し無理だったのかなあとも思う。

でも当時の教養ある英国人が、アメリカの富の頂点にいる人達のことをどう思っていたのか、本音が聞こえてくるという点で興味深い作品である。

富豪の妻が語る言葉は、ベントレーの考えそのものではないだろうか。

「あれほど老獪な彼のことですから、口に出さなくとも、きっと心の中ではわかっていただろうと思いますーわたくしよりも二十歳も年上で、大きな事業上の責任を負い、人生の全部を事業にそそぎこんで他のものをかえりみなかった人ですから、わたくしみたいに音楽や読書や非現実的な思想で育てられ、一人で楽しむことを好きな女を妻にすれば、大きな不幸をまねく危険のあることくらい、わからなかったはずはないと思うのですが、でも彼は実際にわたくしを、その社会的地位にふさわしく、十分に彼の名声を引き立ててくれる妻だと、本気で思いこんでいいたのです」

上顎が総義歯の富豪が二十歳下の美女を妻にしたときに、そんなことまで求めはしないだろうに…と思ってしまうが。

 

「その世界では、生きるためには、ものすごく金持でなければならなかった―金のことしか問題にされず、金以外のことは何も考えない世界です。巨万の富をつくった人たちが、仕事に疲れたときや、余暇ができたときに夢中になるのは、せいぜいスポーツだけです。働く必要のない人たちは、働かなければならない人たちより、はるかに退屈で、しかも非情にたちが悪いものです」

「せいぜいスポーツだけ」なんて、ここまで書かなくても…と思ってしまう。でもアメリカのお金持ちは、そんなふうに英国人に言われるくらいに勢いをつけはじめていた時代なんだろう。

でも富豪像への疑問はつきない。妻の部屋よりも小さく、質素な部屋で暮らしているのに、靴道楽? 性格は悪いが、嘘はつかない? 嫉妬にかられて狂気のひとになる? 殺される人物だから、人間性に統一がなくてもよいものなんだろうか? ミステリの世界はわからない。

 

訳について少し引っかかった箇所をメモ。

that it was a lie put out by some unscrupulous “short” interest seeking to cover itself. 「いや、から売りしていた不届きな連中が、それをごまかそうとして流したデマだろう」(大久保康夫訳)

 

「それは嘘だよ。節操のない空売り筋が、利益をとろうとして嘘をながしているんだ」…という意味なのでは?

 



I felt that the only possible basis of our living in each other’s company was going under  my feet. And at last it was gone.

 

「わたくしは、同棲をつづける唯一の理由が、だんだん薄らいでいくような気がしていたのですが、それがとうとう消えてしまったのです。」(大久保康夫訳)

 

living in each other’s company は「一緒にくらす」という意味だが、「同棲する」と訳すとまだ少しは愛情がある気もするが、ここで言いたいのは「一緒に暮らしているだけ」という冷えた感じなのではなかろうか?

going under my feet は「薄らいでいく」というよりも、もっと鬱陶しい気持ちが込められていて「気に障る」というような意味ではなかろうか?

読了日2017年7月22日


『おばけずきのいわれ少々と処女作』

著者:泉鏡花

初出:明治40年5月「新潮」

平凡社「鏡花怪異小品集 おばけずき」

ISBN:978-4-582-76764-3

隙間読書もいいところであるが、でも短くはあるけれど鏡花の価値観やら当時の文壇の状況やらが凝縮された文である。

「僕には観音経の文句―なお一層適切に云えば文句の調子―其ものが有難いのであって、その現している文句が何事を意味しようとも、そんな事には少しも関係を有たぬのである」

なるほど、鏡花の作品を読むと夢幻の心地になるけれど、意味があんまり頭には残っていない…というのは、鏡花のこのスタンスのせいかと少し安心。

明治二十七年、日清戦争のときの文学者たちの窮乏ぶりとそれを救った春陽堂についてこう鏡花は記している。

「二十七八年戦争当時は実に文学者の飢饉歳であった。未だ文芸倶楽部は出来ない時分で、原稿を持って行って買って貰おうというに所はなく、新聞は戦争に逐(お)われて文学なぞを載せる余裕はない。所謂文壇は餓ひょうありで、惨憺極まる有様であったが、この時に当って春陽堂は鉄道小説、一名探偵小説を出して、一面飢えたる文士を救い、一面渇ける読者を医(いや)した。探偵小説は百頁から百五十頁一冊の単行本で、原稿料は十円に十五円、僕達はまだ容易に其恩典には浴し得なかったのであるが、当時の小説家で大家と呼ばれた連中まで争ってこれを書いた。先生これを評して曰く、(お救い米)」

でも春陽堂のホームページをみても、尾崎紅葉が「お救い米」と述べたような状況に言及していない。なぜだろう? どこまでも奥ゆかしい出版社なのだろうか?

鏡花の二番目の作品は、探偵小説「活人形」だということも初めて知った。「活人形」…題だけで心そそられる作品だが、筋も気になるところ。目次をみたが、探偵小説というより怪奇小説なのでは?…と思いながらも脱線読書道を進んでいく。

読了日:2017年7月22日