チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第251回

こうした感情のせいで私の頭が何も考えられなくなっていると、案内人は立ちどまったが、そこは大きな通風管のそばで、通風管は街灯のように規則的に並び、まるで空中にうかんだ道に街灯が並んでいるかのようであった。彼はその重い手を通風管にかけた。しばらくのあいだ、彼はただ通風管によりかかっているだけだったので、テラスハウスの屋根の急傾斜をよじ登るのに疲れたのだと私は考えた。深い淵から推量したところ、両側には霧がたちこめ、霧につつまれた赤茶色の火や、長い歴史のある黄金色の輝きが時々煙突からゆらめいているので、私たちがいるのは、お行儀よく連なる家々の長い列のうえであった。そうした家々が頭をもちあげているのは貧しい地区で、昔の哲学的建築業者が残した著しい楽天主義の跡であった。

 

“As my brain was blinded with such emotions, my guide stopped by one of the big chimney-pots that stood at the regular intervals like lamp-posts along that uplifted and aerial highway. He put his heavy hand upon it, and for the moment I thought he was merely leaning on it, tired with his steep scramble along the terrace. So far as I could guess from the abysses, full of fog on either side, and the veiled lights of red brown and old gold glowing through them now and again, we were on the top of one of those long, consecutive, and genteel rows of houses which are still to be found lifting their heads above poorer districts, the remains of some rage of optimism in earlier speculative builders.

カテゴリー: チェスタトンの部屋, マンアライヴ | コメントする

チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第250回

そこで私が読んだのは、煙についての文であった。煙とはいわば現代都市のようなもので、煙はその都市から出されるのである。いつも疎ましいというわけではないが、常に虚栄にみちている。

現代の英国は、煙のながれのようなものであった。あらゆる色を運ぶことができるけれど、何も残すことはできず、ただ染みが残るだけであった。空に屑をたくさんばらまくのは、私たちの弱さからであって、強さではなかった。空には私たちの虚栄心がつきることなく注がれた。私たちは聖なるつむじ風の輪をつかんでは見おろして、渦巻だと考えるのであった。そしてつむじ風を掃きだめとして使った。つむじ風は、私の心のなかで、まさしく反乱を象徴するものであった。最悪のものだけが、天国に行くことができるのだから。犯罪人だけが、天使のように昇ることができるのだから。

 

“Then I read the writing of the smoke. Smoke was like the modern city that makes it; it is not always dull or ugly, but it is always wicked and vain.

“Modern England was like a cloud of smoke; it could carry all colours, but it could leave nothing but a stain. It was our weakness and not our strength that put a rich refuse in the sky. These were the rivers of our vanity pouring into the void. We had taken the sacred circle of the whirlwind, and looked down on it, and seen it as a whirlpool. And then we had used it as a sink. It was a good symbol of the mutiny in my own mind. Only our worst things were going to heaven. Only our criminals could still ascend like angels.

カテゴリー: チェスタトンの部屋, マンアライヴ | コメントする

2017.11隙間読書 近松門左衛門「槍の権三重帷子」

「槍の権三重帷子」

作者:近松門左衛門

初出:1717年

今から三百年前の1717年七月、大阪の高麗橋付近で実際に起きた事件をもとに、その年のうちに近松門左衛門が浄瑠璃本に書きおろし、大阪竹本座で上演。その後、長く上演されることはなかったが、明治になって歌舞伎で復活。昭和30年(1955年)、文楽でも復活。

出てくる登場人物はどれも、これも情けない人物ばかり…なのに美しく思える不思議さ。情けない人たちを徹底的に情けなく描きながらも、そうは見えないのは近松門左衛門の語りのせいか、それとも近松の視線ゆえか?

主人公、槍の権三は一度寝たお雪から結婚をせまられてグズグズしている。お雪の乳母につかまって結婚を約束するも、茶道の師匠、市之進に気に入ってもらおうと、台子の秘伝を知るために師匠の婦人おさゐに接近、師匠の娘との結婚を承知する。ハンサムだけど許せない男である。

権三の友人、伴之丞もさらに嫌なやつである。ハンサムな権三に嫉妬して、すぐ嫌味を言うわ、ひがむわ、茶の湯の師匠の夫人、おさゐを誘惑しようとするわ…権三が師匠夫人から台子の秘密を教えてもらっているのを見て逆上、二人は不倫しているとでっちあげ夫に告げに行く。本当に許せないやつである。

ヒロイン「おさゐ」も糸の切れた凧のようにくるくる回りながら行動、なんとも頼りない存在、それとも意表外の行動にはしる女と見るべきか?

最初は働き者で奇麗好き、子供たち三人を可愛がる理想の妻、母として出てくる。それが娘、お菊の婿候補にハンサム、武術にもすぐれ、茶の道にもくわしい権三を…と考え始めたあたりから、良妻賢母の道から逸脱しはじめる。


「そなたがいやなら母が持つ、ほんに母が独り身ならば、人手に渡す権三様ぢゃないわいの」と子を寵愛の慎みなく、時の座興の戯言(ざれごと)も過去の悪世の縁ならめ

娘、お菊が「あんな年が十二歳も年上の権三おじさんなんて真っ平」と不平をいうと、おさゐは「お母さんが独身なら、権三様を誰にも渡さないワ」とエスカレートし始める。

そんな姿に近松は一言「過去の悪世の縁ならめ」と言う。これは「前世で悪い世に生きた結果なのだろう」と言っているのだろうか?責めたり、非難したりするでなく、さらりと「過去の悪世」と言われると、もうどうしようもないのかなあと許せてしまうような気がする。


「稀男(まれおとこ)なればこそ、わが身が連れ添ふ心にて、大事の娘に添わせるもの。悋気せいでは、妬かいでは。思えば憎や腹立ちや」

おさゐは権三がお雪という娘と婚約をしていたと知って嫉妬にかられる。娘のためか、自分のためか心のコントロールが利かなくなってくる。「めったにいないような良い男だから、自分が結婚するつもりになって、可愛い娘に連れ添わせようとしている。だから嫉妬をしてしまう。ああ憎たらしい、腹立たしい」


「思えば思えばわが身の悋気も、ほんに因果か病気であらうか、姑が婿の悋気とは世間にままある悪名の種、もうもうさらりと思ひ忘れう」

おさゐは自分の嫉妬を鎮めようとする。「思うんだけど、わたしが嫉妬深いのは、なにかの報いか、それとも病気なのかしら?姑が婿に嫉妬するって、世間でよく聞く悪い話だわ。もう、さらっと忘れてしまおう」


台子の秘密を伝授するために、おさゐは深夜、権三を数寄屋までよびだし、絵巻を見せて台子について伝授する。

舞台では、青い障子のむこうに二人の影が黒々と仲良く寄り添うように見え、なんとも美しい場面である。

おさゐは、権三がお雪という娘に紋を刺繍してもらった帯をしているのに気づき、また嫉妬にかられる。

「誰が縫うたサ誰がやつた、ええ噛みちぎつてしまう」


権三の帯をほどき投げ捨て、自分の帯を渡しながら、「蛇となって腰に巻きつく」と言う。娘のためと言いながら、夜、数寄屋に呼び寄せ、ついには「蛇となって」と迫る「おさゐ」。だんだん家庭的な女の歯車が狂っていく過程を、近松は見事に書いているなあと思う。

「ああ帯に名残がそれほど惜しいか、不承ながらこの帯なされ、一念の蛇となって腰に巻き付き離れぬ」


権三の友人、伴之丞がふたりの帯をひろって、「告げ口するぞう」と言いながら走り去る。

すると権三への嫉妬にかられていた「おさゐ」は、今度は夫、市之進が後ろ指をさされるようなことになったら可哀そうだと言い始める。「私たち二人、何にもしていないけど不義密通をしたということにでっちあげて、夫に妻敵(めがたき・・・不倫した妻とその相手を成敗すること)させてあげたら、まだ夫の面目がたもてるようにしてあげたいノ」と権三にお願いする。なんともフラフラする女である。

「東にござる市之進殿、女房を盗まれたと後ろ指さされては、人に面は合わされまい、とても死ぬべき命なり。ただいま二人が間男という不義者になり極めて市之進に討たれて、男の一分立てさせて下さつたらなう忝い」


もちろん権三は、浮気していないのに、浮気したふりするのは嫌だと消極的。

「不義もせぬに間男となることは、いかにしても口惜しい」


おさゐは「女房だと言って」と食い下がる。「こんな災難にあうお前さまも愛しいといえば愛しいけど、子もあって、二十年間つれそった夫のほうが大事ですもの」

こんな女に出会ったらたまらないと思うが、そこは人形と太夫さんの世界。この嫌な女が、少しも嫌に思えないから不思議。

「不承ながら今ここで女房ぢや夫ぢやと、一言言うて下さりませ。思わぬ難に名を流し、命を果たすお前も愛しいは愛しいが、三人の子をなした、二十年前の馴染みにわしゃ換えきれぬ」


「これも因果か、是非もなし。誠そなたは権三が女房」

「エエかたじけなや、お前は夫」

ついに二人は、夫婦宣言をする。おそらく「帯を噛みちぎる」と言っていたときから三十分も経過していないのに、おさゐの心の変化はくるくる目まぐるしい。この心の揺れをとらえた近松はすごい作家だなあと思う。


無明の酒の酔ひこれぞ冥途に通ひ樽抜けて浮世の修羅の道、逃れ行方も墨染の果てに、哀れを

帯を盗まれた二人は、垣根に伴之丞がはめて通路にした樽をぬけて逃げ出す。「真っ暗な闇のなかでの迷いは酒の酔いさながら、それは冥途を目指して樽をぬけていくけど、そこは浮世の修羅の道。逃げていく先には喪が待っている。我らを憐れんでくれ。」


「オオ」と言ふ声も紛れる音の鐘囃子、またも踊りの乱調に、消されてあはれ悪名の、声のみ残す妻敵討(めがたきうち)、語り伝えて筆の跡

伏見京橋まできた二人は、橋のうえの盆踊りの舞をみながら、市之進に討たれてしまう。この最後の言葉に、近松の思いがあふれているように思える。

「踊りの乱調」のように私たちの生活も時にふとした調子に乱れ、おさゐのように抑えがきかなくなることもあるのかもしれない。そうした二人を「あはれ」と思い、「語り伝えた」作品なのだと思う。

読了日:2017年11月7日

カテゴリー: 2017年, 読書日記 | コメントする

2017.11 隙間読書 坂口安吾「復員殺人事件」

日比谷ミステリ読書会 坂口安吾「不連続殺人事件」&「復員殺人事件」にむけて再読。何度目だろうか…と思い、このブログの右上検索窓に「復員殺人事件」と入力、検索したら、これで三度目だった…と、衰えゆく記憶を補うためにブログを利用しているような情けない次第。

以下はネタバレあり。

続きを読む

カテゴリー: 2017年, 読書日記 | コメントする

2017.11 隙間読書 坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』

『青鬼の褌を洗う女』

作者:坂口安吾

初出:昭和22年10月「愛と美」朝日新聞

なんとも不思議なタイトルである。思わず微笑んでしまうような、何だろうと首をかしげるような、それでいて忘れられない…そんな強い印象を与えるタイトルである。タイトルがよければ、あとはよし…短編の出来はタイトルにかかっているのだなあとまず思う。

それにしても主人公の私(サチ子)も、その母も、取り繕うことなく、自分の欲望を素直に語るが、なんとも強烈な女たちである。安吾作品では、女がでてきたら、まずは怪しいものとして疑わないといけないのかも…とくに復員殺人事件。


なんとも正直な母と娘である。ここまで正直になると、厚かましいを通り越して清々しく思えてくるから不思議である。

私は遊ぶことが好きで、貧乏がきらいであった。これだけは母と私は同じ思想であった。母自身がオメカケであるが、旦那の外にも男が二、三人おり、役者だの、何かのお師匠さんなどと遊ぶこともあるようだった。私にすすめてお金持の、気分の鷹揚な、そしてなるべく年寄のオメカケがよかろうという。お前のようなゼイタクな遊び好きは窮屈な女房などになれないよというのだが、たって女房になりたけりゃ、華族の長男か、千万円以上の財産家の長男の奥方になれという。特に長男でなければならぬというのである。名誉かお金か、どっちか自由にならなけりゃ窮屈な女房づとめの意味がないというのだ。


夫が戦争にかりだされて嘆き恨む女たちにもあっさり、ばっさり、こう語る。ここまで正直だと、なんとも潔い気がしてくる。

私は亭主なんてムダで高慢なウルサガタが戦争にかりだされて行ってしまえば、さぞ清々するだろうに、と思われるのに。


なんだ、なんだ、このグウタラぶりは。まるで私自身の行動を見ているようではないか? 昭和22年にも、私のようなグウタラ女がいたとは…。ちなみにサチ子は、安吾夫人をモデルにしたと言われている。

たとえば母も女中も用たしにでて私一人で留守番をしてお料理はお前が好きなようにこしらえておあがりといわれていても、私は冷蔵庫のお肉やお魚には手をつけずカンヅメをさがす、カンヅメがなければ御飯にカツブシだけ、その出来あがった御飯がなければ、あり合せのリンゴやカステラの切はしだけでも我慢していられる。ペコペコの空腹でも私はねころんで本を読んでいるのだ


でも最後までわからない。なぜタイトルが「青鬼の褌を洗う女」なのか? 最後、なぜ、こういう段落で終わるのか?

私は谷川で青鬼の虎の皮のフンドシを洗っている。私はフンドシを干すのを忘れて、谷川のふちで眠ってしまう。青鬼が私をゆさぶる。私は目をさましてニッコリする。カッコウだのホトトギスだの山鳩がないている。私はそんなものよりも青鬼の調子外れの胴間声が好きだ。私はニッコリして彼に腕をさしだすだろう。すべてが、なんて退屈だろう。しかし、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう。

なぜ…こういう風に終わるのか分からないけれど、「青鬼の虎の皮の褌」「フンドシを干すのを忘れる」というユーモラスさ。

「眠ってしまう」「ゆさぶる」「にっこり」「カッコウだのホトトギスだの山鳩」「調子はずれの胴間声」というのどけさ。

「なんて退屈」「こんなに、なつかしい」という矛盾からくる不思議さ。

グウタラなサチ子が洗濯をしているというあり得ない景色。

いろいろ悲惨な人間模様も描きながら、最後の段落にはユーモラスさ、のどけさ、不思議さ、ありえない感がつまっていて、一気に晴れやかな気分で終わる。

タイトルという始まりもよし、最後もよし…の世界を堪能。

読了日:2017年11月1日

カテゴリー: 2017年, 読書日記 | コメントする

チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第249回

私の試訳

モーゼス・グールド氏は、もう一度、作品集の読み上げを阻止しようと試みた。彼の様子からすると、読み上げる者はすべての形容詞を省くことで、会議録を短くしなくてはいけないと考えているらしい。デューク夫人はもう目覚め、とても素敵な話にちがいないと言った。そして、この判断は正式に記され、モーゼスによって青の鉛筆で、マイケルによって赤の鉛筆で書き留められた。イングルウッドはそれから、その文書を読み上げ始めた。


Mr. Moses Gould once more attempted the arrest of the ‘bus. He was understood to suggest that the reader should shorten the proceedings by leaving out all the adjectives. Mrs. Duke, who had woken up, observed that she was sure it was all very nice, and the decision was duly noted down by Moses with a blue, and by Michael with a red pencil. Inglewood then resumed the reading of the document.


既訳によれば、以下のように訳されている。(論創社176頁)

論創社版の訳「モーゼス・グールド氏は、もう一度注意をうながして書類の読み上げを短くすべく、すべての形容詞を省くことが求められているのだと言った(途中略)デューク夫人はモーゼスの発言を青鉛筆で、マイケルのを赤鉛筆で正しく書き留めているのだった(略)」

 

【疑問1】the arrest of the ‘bus とは何だろうか?omnibus「著作集」の省略形と私は考えたが、まだ迷うところである。既訳では、のちの話の流れからだろう、「もう一度注意をうながして」と訳されているが…。

 

【疑問2】the reader should shorten the proceedings 既訳では主語のreaderと目的語のproceedingsをまとめて訳しているが、別々に丁寧に訳してもいいのでは?と思う。

 

【疑問3】the decision was duly noted down by Moses with a blue, and by Michael with a red pencil. 既訳では書き留めているのはデューク夫人だが…主語をとり違えているのではないだろうか。

 

カテゴリー: チェスタトンの部屋, マンアライヴ | コメントする

2017.10 隙間読書 坂口安吾『桜の森の満開の下』

『桜の森の満開の下』

作者:坂口安吾

初出:雑誌「肉体」1947年創刊号

歳をとると間違いがさらに多くなり出来なくなることも多々あるが、読書に関していえば、以前はさらりさらりと読み飛ばしていた言葉の意味に気がつき、心にじわじわ沁みてくるようになる。私のように凡庸な読者でも、歳を重ねた分だけ、若い頃よりも少しは深く感じるものがあるものだ…と思いつつ「桜の森の満開の下」を読む。


まず冒頭部分にでてくる能の箇所も、以前なら気にもとめないで読み飛ばしていた箇所でだろう。今なら「ああ、この能は『隅田川』ではないだろうか。ここで救いのない悲しい『墨田川』をもってくることで、次の部分から夢うつつの能の世界へ、哀しい墨田川の安吾バージョンが始まりますよ…」という安吾流の東西声なのだろうと思う。

能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまうという話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。


旅人から情け容赦なく着物をはぎ人の命も断つ山賊でも、桜の森の花の下にくると怖ろしくなって気が変になる場面でも風が吹く。

花の下では風がないのにゴウゴウ風が鳴っているような気がしました。


旅人を殺してその妻を自分の妻にする。美しいその女は残酷でわがままな女の本性をみせはじめる。山賊は女の望むまま都へ行くことに。出発のまえに、ひとり桜の木のしたにくると、やはり風がゴウゴウと吹く。

花の下の冷たさは涯のない四方からドッと押し寄せてきました。彼の身体は忽ちその風に吹きさらされて透明になり、四方の風はゴウゴウと吹き通り、すでに風だけがはりつめているのでした。彼の声のみが叫びました。彼は走りました。何という虚空でしょう。彼は泣き、祈り、もがき、ただ逃げ去ろうとしていました。そして、花の下をぬけだしたことが分かったとき、夢の中から我にかえった同じ気持ちを見出しました。


都では女の指図をうけ、泥棒にはいり、さらには女が首を欲しがるから次から次に首をおとして女のもとに持ち帰る。女は首で遊ぶ。そんな都の生活をやめて、女をおぶって山に戻るときも風が吹いてくる。

とっさに彼は分かりました。女が鬼であることを。突然どッという冷たい風が花の下の四方の涯から吹きよせていました。


山賊が悪事を働いてから、あるいはこれから事を起こそうとするときに、桜の木の下をゴウゴウと吹いている風とは何なのだろうか? この作品の最後にある言葉が、ゴウゴウと吹く風の正体を説明してくれているのではないだろうか?

桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分かりません。あるいは「孤独」というものであったのかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。

私も年を重ねるうちに、桜の木の下をゴウゴウと吹く風の音が、たしかに耳に幾度も聞こえたことがあるような…だからこそ、今、この言葉にたちどまる。


あわせて坂口安吾「人の親となりて」を読む。生まれたての我が子は、愛犬よりも可愛くない。でも笑顔を見せると犬よりも可愛い…という正直な思いに微笑む。

読了日:2017年10月31日

カテゴリー: 2017年, 読書日記 | コメントする

チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第248回

煙の色は変化に富んでいるが、どれも尋常ではないものに見え、魔女の鍋から立ちあがる湯気のようであった。それはいかがわしく、醜いかたちのものが、魔女の鍋のなかでかたちをくずしていき、やがて別々の蒸気となって、煮込んでいる肉や魚どおりの色にそまっていくようであった。此方では、下で輝いているのは暗赤色の煙で、まるで生贄の血で黒ずんだ壺のように空を漂っていく。其方では煙は薄墨色をしていて、地獄のスープに浸された魔女の長い髪のようだ。何処かでは、煙は光沢のない象牙色で、あたかもハンセン病患者を模した、魂が遊離した古い蝋人形のようだ。しかも煙を横切る筋が一筋はしり、その線は煌々と輝く、禍々しい色の、地獄の鬼火のような緑色が、アラビア文字のようにくっきりと鮮明に歪んでいた。

 

And yet, though the tints were all varied, they all seemed unnatural, like fumes from a witch’s pot. It was as if the shameful and ugly shapes growing shapeless in the cauldron sent up each its separate spurt of steam, coloured according to the fish or flesh consumed. Here, aglow from underneath, were dark red clouds, such as might drift from dark jars of sacrificial blood; there the vapour was dark indigo gray, like the long hair of witches steeped in the hell-broth. In another place the smoke was of an awful opaque ivory yellow, such as might be the disembodiment of one of their old, leprous waxen images. But right across it ran a line of bright, sinister, sulphurous green, as clear and crooked as Arabic—”

カテゴリー: チェスタトンの部屋, マンアライヴ | コメントする

2017.10 隙間読書 坂口安吾「不連続殺人事件」

「不連続殺人事件」

作者:坂口安吾

初出:昭和23年12月

ちくま文庫 坂口安吾全集11

来月末の読書会のために「不連続殺人事件」三読目になる、たぶん。

最初のうちは登場人物41人という余りの多さに辟易、登場人物を覚えるだけでも大変であった。

三読目にふと思ったのだが、安吾は主だった登場人物については具体的な人物を思いうかべながら書いていたのではないだろうか?簡潔だけれど人物をずばり表現する文を読んでいくうちに思い浮かぶ作家がちらほら…どうなんだろうか?

王仁は親しくしていた尾崎士郎。最初に殺してしまったのも、友人への親しみからなのでは?だが犯人のモデルへの感情はどうなんだろうか?

ちなみに坂口安吾の生没年は1906~1955、「不連続殺人事件」が書かれたのは1947年である。

 

(1)女流作家「宇津木秋子」は宇野千代では?

「秋子は非常に多情な女だ…秋子は本能の人形みたいな女で、抑制などのできなくなる痴呆的なところがある…肉惑派」10頁

 

(2)仏文学者「三宅木兵衛」は北原武夫(1907~1973)では?

「木兵衛という奴、理知聡明、学者然、乙にすまして、くだらぬ女に惚れてひきずり廻されて、唯々諾々というのだが、そのくせ嫉妬で胸が破れそうなことも云っている」10頁

 

(3)望月王仁は親しくしていた尾崎士郎(1898~1964)では?

「ご承知の通り望月王仁という奴は、粗暴、傲慢無礼、鼻持ちならぬ奴…天下の流行作家…野性的」9、10頁

 

(4)一馬は阿部知二(1903~1973)では?

「主知派の異才歌川一馬といえば文学少女には相当魅力のある中堅詩人…」13頁

「思想と生活のトンチンカンなこんな奴が外国文学の紹介なんかしている」61頁

 

(5)土居光一は藤田嗣治(1886~1968)では?

「彼の絵は最もユニックだと云われ、鬼才などともてはやされている…シュルレアリズム式の構図にもっぱら官能的なものを扇情一方のものをぬたくり燃えあがらせる、ちょっと見ると官能的と同時に何か陰鬱な詩情をたたえている趣きのあるのがミソで、然し実際は孤独とか虚無の厳しさは何一つない、彼はただ実に巧みな商人で、時代の嗜好に合わせて色をぬたくり、それらしい物をでっちあげる名人だ。だから絵自体の創作態度も商品的だが、又、売込みの名人で、終戦後は画家の苦境時代だが、彼は雑誌社や文士に渡りをつけて、挿絵の方で荒稼ぎ、相変わらず鬼才だのユニックな作風などと巧みにもてはやされている」12頁

 

「オレの肉体は君、ヨーロッパの娼婦でも卒倒するぐらい喜ぶんだからな」13頁

 

(6)あやかさんは藤田嗣治の25歳年下の妻、君代(1911~2009)では?

 

(7)劇作家「人見小六」にも、明石胡蝶にもモデルがいそうな気がしますが?

 

(8)加代子は安吾の恋人・矢田津世子(1907~1944)なのでは?名前も一字ちがい、様子もよく似ている。

 

安吾の「三十歳」によると「安吾は本郷菊坂の菊富士ホテルの三畳の部屋に津世子をさそって接吻するが、冷たい接吻であった。そして二人はこの日をかぎりに逢うことはなかった」

「加代子は僕の手を握りしめた。僕たちは接吻した。冷たい悲しい接吻だったが」23頁

 

「僕は危ういところで思いとどまった。からだにふれてはならぬ。たとえ死んでも」23頁は安吾の津世子への思いなのでは?

津世子の兄は、ふたりのあいだには何もなかったと否定。(世田谷文学館坂口安吾展図録58頁)

読了日:2017年10月30日

 

カテゴリー: 2017年, 読書日記 | コメントする

チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第247回

すばらしいターバンをまいた煙霧の第一印象は、ロンドン子たちがよく話題にするエンドウ豆やコーヒーの色をした濃霧が褪せたものだということであった。だが、その景色はだんだん薄らいでいき、慣れ親しんだものへとかわっていった。私たちはひときわ高い屋根に踏みとどまり、煙とよばれるものを眺めた。ああした煙のせいで、大都市には、霧と呼ばれる奇妙なものが生じる。眼下には、煙突の通風管の森がひろがっていた。そしてどの通風管のなかにも、まるで植木鉢であるかのように、色のついた煙霧でできた低木や高木が茂っていた。煙の色は様々であった。家庭の暖炉からでている煙もあれば、工場の煙からでているものもあり、またゴミの山がでてくる煙もあったからだ。

 

“The first effect of the tall turbaned vapours was that discoloured look of pea-soup or coffee brown of which Londoners commonly speak. But the scene grew subtler with familiarity. We stood above the average of the housetops and saw something of that thing called smoke, which in great cities creates the strange thing called fog. Beneath us rose a forest of chimney-pots. And there stood in every chimney-pot, as if it were a flower-pot, a brief shrub or a tall tree of coloured vapour. The colours of the smoke were various; for some chimneys were from firesides and some from factories, and some again from mere rubbish heaps.

カテゴリー: チェスタトンの部屋, マンアライヴ | コメントする