チェスタトン「マンアライヴ」二部四章第430回

成人した人物であるという不利な状況は悩ましい。でも、そのせいで有利なこともある。だから礼儀正しく述べるとしよう。短気はもちろん、長い言葉を使ってでも、いばりちらかされることはないと。それから皆さんの仕事が順調に進んでいると考えることにしよう。なぜなら、皆さんは、間違っていたということに、いつも気がつくからですよ。でも、こうした感情にかられることもなくなりましたから、言っておかないといけません。ピム博士のことを、パルテノンやバンカーズ・ヒルのモニュメントよりも、もっと美しい世界の装飾品だと考えているとね。さて、ここでイノセント・スミス氏が多くの結婚関係をむすんでいたということについて、私の意見をまとめたいと思います。

I suffer from all the disadvantages of being a grown-up person, and I’m jolly well going to get some of the advantages too; and with all politeness I propose not to be bullied with long words instead of short reasons, or consider your business a triumphant progress merely because you’re always finding out that you were wrong. Having relieved myself of these feelings, I have merely to add that I regard Dr. Pym as an ornament to the world far more beautiful than the Parthenon, or the monument on Bunker’s Hill, and that I propose to resume and conclude my remarks on the many marriages of Mr. Innocent Smith.

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2018.10 隙間読書 Lovecraft “The beast in the Cave”&ラヴクラフト「洞窟の獣」大瀧啓裕訳

ラブクラフトが15歳になったばかりのときに書かれた作品。現在残されている作品で一番初期のもの。

原文 “The beast in the Cave”はネット上に公開されている。

「洞窟の獣」大瀧啓裕訳はラヴクラフト全集7に収録。(東京創元社)


15歳になったばかりの作品ながら、洞窟をめぐる観光ツアー途中でひとり道をはずれて洞窟のなかで迷子になる恐怖、洞窟のなかにひそむ生き物が近づいてくる音の不気味さ、その生き物の正体の哀しさ…とラヴクラフトらしい怖さの萌芽を感じる作品。


でもそこは15歳だから、まだうまく書くことができないで苦労しているところも。そのひとつが音の描写。洞窟内だから音がずいぶんと出てくるのだが、音の表現に苦労している様子が伝わってくる。

The sound was of a nature difficult to describe. It was not like the normal note of any known species of simian, and I wondered if this unnatural quality were not the result of a long-continued and complete silence, broken by the sensations produced by the advent of the light, a thing which the beast could not have seen since its first entrance into the cave. The sound, which I might feebly attempt to classify as a kind of deep-toned chattering, was faintly continued. 

その声はいいようのない性質のものだった。既知のいかなる類人猿の声ともちがっていて、もしかしてこの異様な性質は、生物が洞窟にはじめて入りこんで以来見ることのできなかった、光の到来が生ぜしめる興奮によって破られた、長く続く沈黙の結果ではないかと思った。

最後のほうで出てくる文である。これまでにも何度か音の描写が出てきているせいか、ラヴクラフト少年はThe sound was of a nature difficult to describe. とギブアップ気味で微笑ましい。直訳すれば「描写することが難しい」と言っていて、訳者の大瀧氏の方がラヴクラフト少年の舌足らずな英文を補おうと、「音」を「声」と訳されたりしている。


一方で前半の部分には、音の描写で怖さをうまく出しているなあと思うところもある。

Now the steady pat, pat, of the steps was close at hand; now very close.

「いまや着実な足音が間近に迫っていた。」大瀧訳

“the steady pat, pat, of the steps”という響きが、「ひたひた」的な感じが伝わってくるかのよう。さらに”close at hand”と言ってから”now very close”と言い添えている語と語の息のバランスは、だんだん迫ってくる感じをよく表していると思う。


ラヴクラフトらしい音の表現へと、いつ頃からと変化していくのだろうか…以降の作品も読んでみたいと思いつつ頁を閉じる。

2018/10/10読了

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チェスタトン「マンアライヴ」二部四章第429回

「その最後の段階だが」マイケル・ムーンは静かに言った。「一連の出来事をとおして、圧力をかけてきた愚かな感情から、私は解放されるかもしれない。始まりも、途中の過程もすべて吹き飛ぶぞと言えばいいのだから。失われた輪とか、そういう類のものは、子供相手にはいいだろう。だが、私が話をしているのは、ここにいる全員が知っていることについてなんだ。我々が知っている失われた輪とは、彼が行方不明中ということなんだ。しかも彼は行方不明になろうはずがない。私たちが彼について知っていことと言えば、頭は人間だけれど怖ろしい尻の持ち主だということである。まさに「頭なら勝ち、尻なら負け」という古い遊びそのものの姿である。もし、やつの骨を発見すれば、はるか昔に彼が生きていたことが証明される。もし、やつの骨を発見しなければ、どのくらい前に彼が生きていたかが証明される。そういう愉快なことなんだよ。君が首をつっこんでいるスミスの件は。スミスの頭は、肩に比べたら小さいから小頭症とも言える。もし頭が大きかったなら、脳水腫と呼んでいただろう。哀れな老スミスの後宮が多様性に富んでいるかぎり、多様性とは狂気の印なんだ。でも今、後宮が白黒画面であることが判明しつつあるから、単一性が狂気の印なんだ。

“At this late stage,” said Michael Moon very quietly, “I may perhaps relieve myself of a simple emotion that has been pressing me throughout the proceedings, by saying that induction and evolution may go and boil themselves. The Missing Link and all that is well enough for kids, but I’m talking about things we know here. All we know of the Missing Link is that he is missing—and he won’t be missed either. I know all about his human head and his horrid tail; they belong to a very old game called `Heads I win, tails you lose.’ If you do find a fellow’s bones, it proves he lived a long while ago; if you don’t find his bones, it proves how long ago he lived. That is the game you’ve been playing with this Smith affair. Because Smith’s head is small for his shoulders you call him microcephalous; if it had been large, you’d have called it water-on-the-brain. As long as poor old Smith’s seraglio seemed pretty various, variety was the sign of madness: now, because it’s turning out to be a bit monochrome—now monotony is the sign of madness.

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チェスタトン「マンアライヴ」二部四章第428回

「今のところ、ムーン氏の主張は」ピムが割り込んだ。「こう言えると思う。たとえ正直に言ったとしても、イノセント・スミスの犯罪めいた考え方と調和しないものではないと。私たちが言い続けてきたことではないか。学問がよせる期待とは、そうした複雑さなのである。生まれついての魅力というものに、女性のなかでも特定のタイプ、好色な女性はひきよせられるわけだが、それは犯人のもっとも知られている点であって、狭い視野で考えるのではなく、導入と発展の光に照らして考えたときにー」

“Mr. Moon’s contention at present,” interposed Pym, “is not, even if veracious, inconsistent with the lunatico-criminal view of I. Smith, which we have nailed to the mast. Science has long anticipated such a complication. An incurable attraction to a particular type of physical woman is one of the commonest of criminal per-versities, and when not considered narrowly, but in the light of induction and evolution—”

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2018.10 隙間読書 小二田誠二「死霊解脱物語聞書」

江戸時代の怪談「死霊解脱物語聞書」を小二田誠二氏が翻刻、現代語訳と解説をつけて白澤社より発行した本。

「死霊解脱物語聞書」は、残寿という僧によって元禄三年(1690年)に印刷、出版された。


今の茨城県常総市、かつての羽生村で実際に「菊」という娘に起きた憑依事件を、後の増上寺、祐天寺の祐天上人が静めた経緯について、祐天や事件を目撃した人から、残寿という僧が話を聞いて記録したもの。実話をまとめているという点で、怪談噺や怪談物語とは異なるもの。


少しばかりの田畑はあるけれど、容姿が醜い累。夫の与右衛門は畑仕事からの帰り道、累を淵につき落として殺害してしまう。その後、与右衛門は六人の女と再婚するけれど、妻は子供を産まずして次々と死んでいく。ようやく六人目のの女とのあいだに菊という娘をもうけたが、その娘に累の霊が憑依して…という話。


村人たちが祐天上人に頼んで累の霊を静めるけれど、累はいったん成仏して静まっては、何度も戻ってきて菊に憑依。「供養塔をたてろ」とか、「早くたてろ」とかイチャモンをつける。

怖くもあるけれど、そのイチャモンのつけ方が人間らしいというか、どこか滑稽味があって、こわいけどおかしい…という不思議な感覚に。たとえば

其時怨霊気色かわって、ああむつかしのりくつあらそひや。

小難しい理屈なんて知ったことか!

英国の小説を読んでいても、悲しい場面、怖い場面の筈なのに、どこか笑いのおきる場面がよくあって、そのユーモア感覚がなかなか理解するのが難しい。

日本の古典文学も、能にしても、浄瑠璃にしても、悲しい場面、怖い場面なんだけど、笑わせる場面があるように思う。このユーモア感覚は、英国文学と相通じるものがあるのではなかろうか?


さらに菊には新たな霊がとりつく。祐天上人が問いただせば、その霊は累の異父兄にあたる男の子の霊なのだと答える。兄は醜い容貌のため、母によって川に沈められた。その後、生まれてきた累の容貌は、兄とうり二つの醜さ。

「死霊解脱物語聞書」は、恨み、呪いのマトリョーシカみたいな記録談なのである。


作者「残寿」については記録がないようだが、どういう思いでこの話を記したのだろうか?

祐天上人の素晴らしさをたたえるため?地獄、極楽をつたえるため?

むしろ恨み、呪いのマトリョーシカみたいな人間の生きざまを伝えたかったのでは? だから筆者の名前も「残寿」、「残された命(恨み)」なのでは?

もしかしたら累の怨念が、この記録を残したのでは?という気すらしてくる。

この累の恨み、呪いのつらさ、切なさが人々の心に残って、三遊亭圓朝「真景累ヶ淵」、歌舞伎「法懸浜松成田利剣」「解脱衣楓累」、馬琴「新累解脱物語」が生まれたのだろう。

恨み、呪いという感情の強さを思いつつ、静かに頁をとじる。

2018年10月8日読了

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2018.10 隙間読書 M.R.James “CANON ALBERIC’S SCRAP BOOK” & M・R・ジェイムズ「アルベリックの貼雑帳」紀田順一郎訳

原文はグーテンベルクより

M・R・ジェイムズ怪談全集1(創元推理文庫)紀田順一郎訳


英国の怪談の時期は冬なのだと言う。炉辺にあつまり、みんなで怪談を楽しむものらしい。そんな風景を思い浮かべながら「アルベリックの貼雑帳」を読む。

舞台となるのはスペイン国境近い南仏ピレネー山脈中のさびれた村、サン・ベルトラン・ド・コマンジュ。英国の寒い、寒い冬の炉辺で語られる南仏のロマネスク教会や松の風景に、聞く者はわくわくしたことだろう。


作者M・R・ジェイムズは大学の先生で、後年、ケンブリッジ大学の副総長になった。ケンブリッジには教師や学生たちの茶話会が頻繁に催されていて、この作品もそうした席で朗読されたものとのこと。紀田順一郎氏の解説には、そうした説明が詳しく記されていて有り難い。

初めて本作品が朗読されたのは1893年10月28日、ジェイムズが43歳のとき。

大学の同僚たちを相手に、南仏ロマネスク教会が舞台の、古書にまつわる怪談を披露したとのこと。古書愛も、南仏の古い教会への憧れも共有できる親しい仲間を時にぞっとさせながらも、和やかなひと時を過ごしたのでは…と思うと、ジェイムズ先生やその仲間の先生たちの笑い声、息をのむ声が聞こえてくるよう。


紀田氏の解釈の仕方も、キリスト教の用語も勉強になることが多く有難い。

ただ翻訳とは、とりわけ文学の翻訳は、複数の訳者が訳すうちにだんだん作者の世界に近づいてくるもの。とりわけ幻想文学の翻訳は解釈の余地がいろいろあるだけに五通りくらいの訳のパターンがあればいいのだが、そんなに読者がいるわけもなく…。

紀田氏の訳が…ということではなく、M・R・ジェイムズが言いたかったこととは…と考えたときにひっかかったことを以下にメモ。


疑問1 この”he”とは何か? ここで”he”と言っている狂気も怖いのでは?

何か所か寺男が主人公デニスタウンに語りかけているときに、”he”と言っている箇所がある。紀田氏は主語を省略して訳されている。

この”he”とは何なのか? フランスの田舎の寺男が英語を知らずに使ったのかとも思ったのだが…。そうではなく寺男が怯えている存在なのでは? そうであれば、もう少し仄めかして訳した方が怖い気がする。

Then, monsieur will summon me if—if he finds occasion; he will keep the middle of the road, the sides are so rough.

「それなら旦那、いつでも呼んでくださいましーもし必要ならば、の。道は真中を歩くとよい。両端は凸凹しとるでな」29頁


疑問2 分かりやすく「死体」と統一して訳しているが、原文ではあえて「死体」という単語を使わず、”the being” とか “the fiigure” と仄めかしているから怖いのでは? 分かりやすさと怖さは両立しないのかも…と思った。

*All this terror was plainly excited by the being that crouched in their midst.

「かくも恐怖心をいだかせたものが何かといえば、いうまでもなく地面に横たわる死体であった」27頁

*However,  the main traits of the figure I can at least indicate,

「もっとも、その死体の特徴を列記することは雑作ない」28頁


その他の疑問3 たぶん分かりやすさ、語の響きでこう訳されたのかと思うが、少しジェイムズ先生の意図とは違うのかも…と気になったところをメモ。

*”some words to the effect that ‘Pierre and Bertrand would be sleeping in the house’ had closed the conversation.

「その中から、『ピエールとベルトランはもう眠っているだろうに』という意味の、しめくくりのことばだけが印象にのこった」30頁

*What did he do? What could he do?

彼はどうすべきであったろうか? 何ができたろうか?

*Deux fois je l’ai vu: mille fois j`ai senti.

「わしは二回見とる。千回見たというほうがあたっているかも知れんがね。」34頁

*I had no motion they came so dear.

たいした物いりでもないしと思うしね」36頁


南仏ロマネスク教会怪談、古書怪談…ジェイムズ先生の語りも、紀田先生の語りもそれぞれの視点での語りがあるようで面白かった。

2018/10/25読了

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チェスタトン「マンアライヴ」二部四章第427回

だが思うのだが、現代におけるひどい詩人について広く研究すれば「赤い栄光の輪をいだき」とか「情熱的な赤の輪をいだき」が「頂き」と韻をふんでいる行だと推測可能だろう。この事例をもう一度考察してみると、スミスが恋におちたのは赤褐色や濃いとび色の少女だと思えるだけの理由が十分にある。いくぶん」彼は言いながら、食卓に目をおとしました。「いくぶんミス・グレイの髪のような色だ」

サイラス・ピムは前かがみになって目をつぶると、衒学趣味の質問を用意した。だがモーゼス・グールドは鼻に人差し指をあてると、ひどく驚いた表情をみせたが、きらきらした目には知性がひかった。

But I think that a wide study of the worst modern poets will enable us to guess that `ringed with a glory of red,’ or `ringed with its passionate red,’ was the line that rhymed to `head.’ In this case once more, therefore, there is good reason to suppose that Smith fell in love with a girl with some sort of auburn or darkish-red hair—rather,” he said, looking down at the table, “rather like Miss Gray’s hair.”

Cyrus Pym was leaning forward with lowered eyelids, ready with one of his more pedantic interpellations; but Moses Gould suddenly struck his forefinger on his nose, with an expression of extreme astonishment and intelligence in his brilliant eyes.

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チェスタトン「マンアライヴ」二部四章第426回

さて最初の妻の話をしよう。そこで気がつくのは常軌を逸した恋人の存在だ。彼は「ロバみたいな馬鹿者」と言われると、ロバはいつでも人参を追いかけるからと答えた。そうした考え方は、レディ・ベリントンによれば意味もないものだし、村の愚か者たちが食卓でで話題にするような類のものだ。でも、そうした話が意味をもってくるのは、ポリーの髪が赤いと考えるときである。その次の妻の話に進もう。彼が女子校から連れ出した女性だ。ミス・グリッドレーの言葉によれば、問題の娘は赤茶のドレスを着ていて、その服装は更にあたたかみのある髪の色によく似合っていた。言い換えれば、娘の髪は赤茶よりも赤い色ということになる。最後にロマンチックなオルガン弾きが事務所で吟じた詩の件だが、それはわずか数語しかわからない。

「ああ生き生きとした、神聖な頭よ。

輪をいだきー」

Now when we come to the next wife, we find the eccentric lover, when told he is a donkey, answering that donkeys always go after carrots; a remark which Lady Bullingdon evidently regarded as pointless and part of the natural table-talk of a village idiot, but which has an obvious meaning if we suppose that Polly’s hair was red. Passing to the next wife, the one he took from the girls’ school, we find Miss Gridley noticing that the schoolgirl in question wore `a reddish-brown dress, that went quietly enough with the warmer colour of her hair.’ In other words, the colour of the girl’s hair was something redder than red-brown. Lastly, the romantic organ-grinder declaimed in the office some poetry that only got as far as the words,—

`O vivid, inviolate head,
Ringed —’

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2018.09隙間読書 Lovecraft “The Alchemist”&ラヴクラフト「錬金術師」大瀧啓裕訳

ラブクラフトが18歳のときの作品を原文と訳の両方で読んでみた。

原文はネット上に公開されているもの。

訳はラヴクラフト全集7に収録されている(東京創元社)


古城にひとり暮らす90歳の伯爵アントワーヌ。先祖が六百年前に錬金術師を殺したため、伯爵家は錬金術師の息子に呪われてしまう。代々32歳になると伯爵家の跡継ぎは死んでしまう。だがアントワーヌは闘いをいどみ…という英国怪談の要素も感じられる作品。


90歳の老伯爵アントワーヌの一人称で語られる短編なので、城の描写や錬金術師の描写はさほど細くは語られていない。これが三人称視点での語りならもっと描写が細かくなり、さらに雰囲気のある短編になったように思う。

でもアントワーヌの一人称での語りだから、錬金術師との戦いも臨場感あるものになっている。そして最後、錬金術師の呪いに勝った筈のアントワーヌの老後がなぜか寂しそうな様子も印象に残る。

本作品はたしかラヴクラフトの第二作めになる作品。当時、ラヴクラフトは18歳の若さ。最初の三段落は古城の雰囲気をだそう、伯爵らしさをだして遠回しな表現…にするなど青年ラヴクラフトの意気込みを感じた。


たとえば冒頭の文。

High up, crowning the grassy summit of a swelling mound whose sides are wooded near the base the gnarled trees of  the primeval forest, stands the old chateau of my ancestors.

「麓近くの山腹が原生林の節くれだった木々に覆われている。なだらかに隆起した小山の草深い頂きを高だかと飾るように、我が祖先たちの古い城が建っている」大瀧啓裕訳

雰囲気をだそうとして書いているラヴクラフトの気合いを感じる書き方だから、その気合いの流れにしたがい、ラヴクラフトが思いついた順に訳を考えてもよいように思う。そうすれば頭にラヴクラフト青年が見ていた景色がうかんできそうな気がする。

そこで意味のまとまりで切って、その部分だけの意味を記してみた。これに語を足してうまくつないだら、青年ラヴクラフトの脳内風景が浮かんではこないだろうか?

High up,(高く)/ crowning the grassy summit of a swelling mound (そびえる山は草深き頂きを飾り)/ whose sides are wooded (山腹には森がしげり)/ near the base (麓近くには)/ the gnarled trees of  the primeval forest, (節くれだった木々がひねこびる原生林)stands the old chateau of my ancestors.(わたしの祖先たちの古城が建っている)


貧しいのに、貴族らしく勿体ぶって貧しさを語る場所も、ラヴクラフト青年の伯爵らしく語ろうとする気合いを感じる文。

A poverty but little above the level of dire want, together with a pride of name that forbids its alleviation by the pursuits of commercial life, have prevented the scions of our line from….

「赤貧洗うがごとしの困窮が、商業に携わって貧困を和らげるのを禁ずる家名の矜持とあいまって」大瀧啓裕訳

この箇所も、英文の意味のまとまりで考えてみた。伯爵らしく遠回しな表現で語ろうとする思いが感じられる気がする。

A poverty but little above the level of dire want(食べていけないほどの貧困に), together with a pride of name (家名の誇りもあって)that forbids its alleviation (貧を軽くしていくことも禁じられているから)by the pursuits of commercial life(商いに手を出すこともできず), have prevented the scions of our line from….(われわれの一族は…することもできないでいた)


ラヴクラフトの青年時代のこの気合いが、いつ頃から作品に結晶しはじめるのか、いつからラヴクラフトの世界に変わるのか…他の作品も年代順に読んでみたい、大瀧氏のおかげでほぼ全作品が読めるし…と感謝しつつ頁をとじる。

2018/10/2読

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チェスタトン「マンアライヴ」二部四章第425回

だが博識なドクターが言われているように、スミスの好みにはそうした多様性を求めるところがあったのだろうか? わずかな材料から判断するかぎり、まさに真相は反対のように思える。その被告人の妻達については、いずれも次のように描写されているだけだ。短いけれど、ずいぶん詩的なその説明は、審美眼のある副牧師によってなされたものである。「彼女のドレスは春の色、その髪は秋の木の葉」と。秋の葉とは、もちろん様々な色彩からなるものだが、或る色は髪に見いだす色としては驚くような色であった。(たとえば緑色)だが思うのだが、そうした表現がもっとも自然に用いられるのは、赤茶から赤にかけての色合いで、とりわけ銅色の髪のレディに芸術的な、緑色の光がさすときによく見かける。

“But was there in Smith’s taste any such variety as the learned doctor describes? So far as our slight materials go, the very opposite seems to be the case. We have only one actual description of any of the prisoner’s wives— the short but highly poetic account by the aesthetic curate. `Her dress was the colour of spring, and her hair of autumn leaves.’ Autumn leaves, of course, are of various colours, some of which would be rather startling in hair (green, for instance); but I think such an expression would be most naturally used of the shades from red-brown to red, especially as ladies with their coppery-coloured hair do frequently wear light artistic greens.

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