2018.06 隙間読書 島田荘司「夜は千の鈴を鳴らす」

初出:1988年11月 光文社カッパノベルズ

まずタイトル「夜は千の鈴を鳴らす」がいい。哀しみが漂うような、不安にみちているような、それでいて美しい…読んでみたくなるタイトルである。

鉄道のトリックも、高木作品ではよく考えてみると不明だった車両への忍び込み方、線路の配置を細かく考えている。高木作品の影響をたぶん受けているのだろうが、高木作品よりもトリックを深めようとしている姿勢もいい。

登場人物、鬼島政子の上昇志向が強い人物像も、新幹線が開通したり、オリンピック放送に人々が夢中になる様子も1964年という時代設定だからこそ。失われつつある昭和の風景を伝えてくれる風俗小説としても読み応えがある。

以下の文は鬼島政子の目から見た新幹線の工事の様子である。この時代を生きた作家だからの文だろう。

毎日歩いている幸田駅までの道を上空で横切って、ある日コンクリートの高架線の工事が始まった。それは東京からやってくる夢の超特急の工事だった。ずいぶんして、それを知った。

子供の頃から見慣れている東海道線のレールとは、それは見事なくらい違った。一人の田舎娘を拒絶するように、レールは遥か上空にあった。都会の匂いに直結しているはずのその夢の鉄道は、まさに政子の憧れの高みに位置した。

ただ鬼島政子に近づいてくる草間宏司の人物像は少しぼんやりしているような気もする。なぜ鬼島が惹かれたのか、彼女ほどのやり手が草間の意図に気づかないのは不自然ではないだろうかと疑問も少々。

光文社文庫の表紙もあまりに生々しいのではないだろうか。タイトルが「夜は千の鈴を鳴らす」と詩情あふれるものなのだから、表紙もそれにふさわしいものなら…もっといいのにと思いつつ頁を閉じる。

読了日:2018年6月10日

 

 

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2018.06 隙間読書 東雅夫編「山怪実話大全 岳人奇談傑作選」

2017年11月刊行

山と渓谷社


タイトルからは「山怪実話大全」と何やら怖そうな印象をうけるけれど、怖い話をやみくもにあつめた本ではないから、怖いものが苦手の向きも大丈夫。

山の不思議の数々が散りばめられたこの本の頁を繰るうちに、まるで山の交響曲に耳を傾けるかのような思いに…。ぞっと総毛だつ思いがしたかと思えば、ときには笑い、でも最後には山でたどりつくものに思いを寄せてしんみりしたり…山にまつわる様々な思いが見えてくる。


まずは冒頭、夢枕漠「不思議な山」を読んでいると、山での不思議な体験を、敬虔な気持ちで受けとめようと自然に思えてくる。

その岩尾根の内部に、天のどこかに通じる、次元を超えた穴があいていて、水はそこからやってくるーそのように考える方がよほどしっくりする光景だった。

夢枕漠「不思議な山」


そのあと読み進めれば、「灯り」「蜘蛛」「亡き友のケルンの幻」「木曽御岳の人魂」「十字架や亡霊、雪の中での火、雪女など様々な幻影」「凍死した男の幽霊」「山で遭難した友達の顔が宿のおばさんに見えていた」「誰もいないはずの山小屋でなぜか燃えていた蝋燭」…と何処か美しい山の怪談を堪能。


怪談のあとに続くのは雑誌「山」と「山と高原」合併第1号に掲載された読者懇親会の様子「山のおばけ座談会」。どこかユーモラスなオチのある話が多く、しばし心和んで怖さを忘れる。


そのあとは、辻まこと「七不思議」で始まる。

山へいけば不思議なことは七つばかりじゃない。七不思議の七は数ではなく幸運の意味の七だ。とにかく私の遭ったいくつかの不思議とは、こんなものだ。

辻まこと「七不思議」

幸運を呼ぶ七不思議はどこか懐かしくて怪しい存在の者たち。その名前をつぶやくだけで確かに幸せな気持ちになってくる。ほら!

「山男」「大蛇」「黒沢小僧」「小豆ばばさ」「地ころがし」「檜枝岐の山の神とバンデー餅、隠し婆さん、狐憑き」「雪女」「ヒマラヤの怪巨人と雪人」「野槌」「ツチノコ」「ブロッケン妖怪」「怪しの高山病」「アイヌの宝の山ユーラップ岳の怪獣」「鬼の首」「仙人と天狗」「山伏」「山男、山女、山姥」「草でも木でも命があると怒る山の神」


終わりに近づくと、「見知らぬ旅人が立ち寄ると、犬も、子供も怯えた。その旅人とは…」という怪談が少しずつ形を変えた話が収録されている。岡本綺堂「木曽の怪物」、岡本綺堂「炭焼の話」、白銀冴太郎「深夜の客」、杉村顕道「蓮華温泉の怪話」、岡部一彦「一ノ倉の姿無き登山者」。

同じような山の怪談が語られているのはなぜだろう…と思う時、冒頭の夢枕漠の「不思議な山」の一文に戻っていく。

単独行ー

これほど自分の魂を見つめる作業としてふさわしいものはないように思う。

自分の肉体を使って宇宙との交信をしようという作業にも似ている。

はがされてゆくうちに人間ですらなく、獣ですらなく、ただの自分になってゆく。そこをくぐりぬけたあげくに、もう一度、哀しい人間の肉体にたどりつく。

自分は、自分であると同時に、人間の肉体と、人間の精神を持ったものであることがわかる。

結局、哀しい人間にたどりつく。

たぶん、山の頂で、人がたどりつくのは、この人間の哀しみなのだ。

だからこそ、人はその頂から降りることができる。降りてゆくことができるのだ。

街へー

夢枕漠「不思議な山」


どこの山に登ろうとも、たどりつくのは人間の哀しみだから、降りたときに語られる山の怪談には、どこか同じような調べが聞こえるのではなかろうか…と思いつつ頁をとじる。

読了日:2018年6月7日

 

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チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第321回

「次に読みあげる手紙は」アーサー・イングルウッドは続けた。「訴訟依頼人の奇妙な性格をはっきり示すことだろう。カリフォルニアの山からで、内容は以下のとおりである。」

「サー、この素晴らしい記述に該当する人物は、しばらく前にシエラの山道を通り過ぎていきました。そこに私は住んでいるのですが、おそらく定住しているのは私だけです。私はごく簡単な宿屋を営んでいます。山小屋よりも簡素な宿屋で、ひときわ険しい山道にあります。私の名前はルイ・ハラ、この名前のせいで私の国籍について戸惑われるかもしれません。ええ、私もそのせいでずいぶん困惑しています。十五年間社会から外れて過ごしたら、愛国心をいだくのは難しい。小さな村すらないところにいたら、国家について考えることは難しい。私の父は獰猛なアイルランド人で、昔カリフォルニアにいた連中のように銃の名人でした。母はスペインのひとで、自分がサン・フランシスコにつらなるスペインの古い家系であることを誇りにしていましたが、レッド・インディアンとの混血だと陰口をたたかれていました。

“The next letter I have to read,” proceeded Arthur Inglewood, “will probably make clear the nature of our client’s curious but innocent experiment. It is dated from a mountain village in California, and runs as follows:—

“Sir,—A person answering to the rather extraordinary description required certainly went, some time ago, over the high pass of the Sierras on which I live and of which I am probably the sole stationary inhabitant. I keep a rudimentary tavern, rather ruder than a hut, on the very top of this specially steep and threatening pass. My name is Louis Hara, and the very name may puzzle you about my nationality. Well, it puzzles me a great deal. When one has been for fifteen years without society it is hard to have patriotism; and where there is not even a hamlet it is difficult to invent a nation. My father was an Irishman of the fiercest and most free-shooting of the old Californian kind. My mother was a Spaniard, proud of descent from the old Spanish families round San Francisco, yet accused for all that of some admixture of Red Indian blood.

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チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第320回

それでも私は彼の邪気のなさに耐えながら、なぜあなたは正しいのかと、あなたの国の方々が正しいと考えるのかと訊いてみました。

すると彼はこたえました。「ぼくたちが正しいのは、支配されるべき地で支配され、自由であるべき地で自由であるからだ。ぼくたちが正しいのは法を、習慣を疑い、破壊するからだ。でも、そうしたものを破壊する権利があるのかということについては疑いはしない。それというのも、あなた方は慣習にしたがって生きているが、ぼくたちは教義にしたがって生きているからだ。ぼくを見てごらん。国では、ぼくは『スミップ』と呼ばれている。国を去って、名前も完全さを損なわれたままなのは、ぼくが世界中をまわって、自分が持っていたものを探しているからなんだ。君が木々のように不動の存在でいるのは、君が信じていないからだよ。ぼくが嵐のように激しく動き回るのは、ぼくが信じているからなんだよ。ぼくは自分の家を信じている。だから、その家をもう一度見つけてみせる。やがて緑の街灯も、赤の郵便箱もとうとう見つけるだろう」

私は彼に言いました。「やがてすばらしい知恵も…」

でも私がその言葉を言いましたときに、かれは恐ろしい叫びをあげながら飛び出していき、木々のあいだに消えてしまいました。この男をふたたび見たことはありませんし、他の男を見たこともありません。賢明さという美徳は、上質の真鍮、すなわち凄まじい騒音と紙一重だと学んだように思います。

ウォン・ハイ

“And I, still enduring his harmlessness, asked him why he thought that he and his people were right.

“And he answered: `We are right because we are bound where men should be bound, and free where men should be free. We are right because we doubt and destroy laws and customs— but we do not doubt our own right to destroy them. For you live by customs, but we live by creeds. Behold me! In my country I am called Smip. My country is abandoned, my name is defiled, because I pursue around the world what really belongs to me. You are steadfast as the trees because you do not believe. I am as fickle as the tempest because I do believe. I do believe in my own house, which I shall find again. And at the last remaineth the green lantern and the red post.’

“I said to him: `At the last remaineth only wisdom.’

“But even as I said the word he uttered a horrible shout,
and rushing forward disappeared among the trees.
I have not seen this man again nor any other man.
The virtues of the wise are of fine brass.
“Wong-Hi.”

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チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第319回

近づいてくると、彼は無法者らしく見えましたが、それでもその表情はとても穏やかでした。

「寺をこわせ」でも彼は言いました。「そうすれば君の神々も自由の身となるだろう」

そこで彼の単純さに微笑みながら、私は答えました。「けれど、もし神々はいないというならば、私に残されるのは壊された寺だけではありませんか。」

この言葉を聞いた大男は、理性の光があまり射し込んでいない者のようではありましたが、骨太の両手をさしだして、自分を許すようにと請うてきました。そして何を許されたいのかと訊きましたら、彼はこう答えました。

「正しいということを」

「君たちの偶像も、皇帝もとても古くからあるもので、賢いし、満足のいくものだからなんだよ」彼はわめきました。「だから、そうしたものが間違っていたりしたら、恥ずかしくなるんだ。ぼくたちは不作法なところもあるし、暴力的なところもあるから、君の国のひとにしょっちゅう酷いことをしてきた。ぼくたちが正しかったりすれば、それは恥ずかしいことなんだ」

“He came yet closer to me, so that he seemed enormous; yet his look was very gentle.

“`Break your temple,’ he said, `and your gods will be freed.’

“And I, smiling at his simplicity, answered: `And so, if there be no gods,
I shall have nothing but a broken temple.’

“And at this, that giant from whom the light of reason was
withheld threw out his mighty arms and asked me to forgive him.
And when I asked him for what he should be forgiven he answered:
`For being right.’

“`Your idols and emperors are so old and wise and satisfying,’ he cried, `it is a shame that they should be wrong. We are so vulgar and violent, we have done you so many iniquities— it is a shame we should be right after all.’

 

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チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第318回

「旦那様の家をみたこともなければ、ほかの家もみたことはありません」私は答えました。

「私はこの寺に住み、神に仕えている者です」

「神を信じているのか?」彼は訊いてきましたが、その目は飢えでぎらつき、犬が飢えているかのようでした。そしてこの問いかけは奇妙な質問のように思えました。神を信じる以外に何をせよと言うつもりなのでしょうか?

「旦那様」私は言った。「空が空っぽだとしても、両手をあげることは正しいことなんですよ。神様たちがいれば、喜ばれるでしょうから。もし神様たちがいらっしゃらないとしても、手をあげることで不快になる方は誰もいないでしょう。空は時には黄金色に、時には斑岩の赤紫に、時には黒檀のいろになりますが、その下にはいつも木が、寺があるのです。偉大なる孔子の教えにこういうものがあります。私たちが手や足でいつも同じことをしていたら、賢い獣や鳥もそうするでしょう。私たちも頭をつかえば、多くのことを考えるかもしれません。そうです、旦那様、たくさんのことを疑ってみなさい。正しい季節に米をあたえるなら、正しいときにランタンに火をともすなら、神がいても、いなくても問題ではないのです。こうしたものは神を慰めるためにあるのではなく、人間を慰めるためにあるのですから」

“`I have not seen your house nor any houses,’ I answered.
`I dwell in this temple and serve the gods.’

“`Do you believe in the gods?’ he asked with hunger in his eyes, like the hunger of dogs. And this seemed to me a strange question to ask, for what should a man do except what men have done?

“`My Lord,’ I said, `it must be good for men to hold up their hands even if the skies are empty. For if there are gods, they will be pleased, and if there are none, then there are none to be displeased. Sometimes the skies are gold and sometimes porphyry and sometimes ebony, but the trees and the temple stand still under it all. So the great Confucius taught us that if we do always the same things with our hands and our feet as do the wise beasts and birds, with our heads we may think many things: yes, my Lord, and doubt many things. So long as men offer rice at the right season, and kindle lanterns at the right hour, it matters little whether there be gods or no. For these things are not to appease gods, but to appease men.’

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2018.05 隙間読書 高木彬光「人形はなぜ殺される」

初出1955(昭和30)年

光文社文庫

高木彬光は、言葉のセンスにも、物語の雰囲気づくりのセンスにも優れたミステリ作家だなあと一人盛り上がりつつ読んだ。

まずタイトルがいい。そして各章の章題もいい。舞台が興津という設定も風光明媚、要人の別荘地でありながら派手でないところもいい。作品で大きな役割をはたす急行の名前も「月光」に「銀河」というところもいい。

「人形はなぜ殺される」というタイトルの不思議さに心奪われ、本をひらいて目次を見れば、こんな素敵な章題があるなんて…と驚いてしまう。

各幕各場には、章題の域をこえた美しさ、妖しさ、リズム感がある題がならんでいて、これはもうミステリ詩のようではないか。目次をながめているだけでワクワク、満足である。

以下にタイトルと各章の章題をすべて書いてみた。右側緑の字で書かれているものは、1955年初刊本のものだそうである。(山前謙氏の解説参照)


「人形はなぜ殺される」

序詞 ← 序奏

第一幕 断頭台への行進 ← 断頭台の女王

第一場 魔術への招待

第二場 処刑の前の首盗み

第三場 起こらなかった惨劇 ←魔術の公理第一条

第四場 処刑の後の首盗み

第五場 女王の処刑

第六場 友の屍をふみ超えて ← あわれなる犠牲者よ汝の名は

第七場 捜査の常道 ← 誤れる捜索

第八場 ガラスの塔にて

第九場 黄金の魔術師

第十場 首を斬ったり斬られたり ← 精神病院の首斬り娘

第二幕 月光協奏曲

第一場 無名の手紙

第二場 興津への招待

第三場 殺人の場

第四場 人形はまた盗まれた

第五場 月光の客

第六場 犯人はこの中にいる ← 犯人はこの中にいる!

第七場 人形と人間の轢死体

第八場 西走東奔 ← スィッチ・バック

第九場 悪魔の側のエチケット ← 悪魔の公理第二条

第十場 人形の足跡

第三幕 悪魔の会議の夜の夢 ← 黒いミサの犠牲

第一場 世にも不思議な大魔術

第二場 刺されたトーテム

第三場 偽悪者詩人

第四場 魔法使いの弟子

第五場 日本巌窟王

第六場 オールド・ブラック・マジック

第七場 黒いミサ

第八場 獅子の座にこそ直りけれ

第九場 黒い手帳の秘密

第十場 ダンケルクの敗退

読者諸君への挑戦

第四幕 人形死すべし

第一場 舞台裏の対話

第二場 そなたの首をちょいと斬るぞ ← 首のない人形

第三場 黄金の城の崩壊

第四場 入らなければ出られない

第五場 その杯をほすなかれ

第六場 魔術破れたり

私の近況


「起こらなかった惨劇」より、「魔術の公理第一条」の方が、想像がつかないから楽しいかなあ…?

「首を斬ったり斬られたり」も印象が強いけど、「精神病院の首斬り娘」もいいかなあ…?

「首盗み」って辞書にはないけれど、高木彬光の造語なんだろうか? 怖いけれど素敵なセンス!

そんなことを思い、初版の章題、現行の章題を見比べるだけで楽しく時が過ぎていく。ミステリとしての楽しさは読書会で教えて頂き、皆様と盛り上がろうと思いつつ頁をとじる。

読了日:2018年5月31日

 

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チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第317回

「その男があらわれたのは夜のことでしたし、しかも突然でしたから、緑の木々の頂にざわざわとした気配を認めないまま、その木々のむこうをまるで海を見るように眺めながら、朝になると私は寺の塔へと出かけたのでした。それでも彼がきますと、あたかもインド皇帝軍から象がはぐれたような勢いでありました。椰子の木がへひしゃげ、竹が割れたところに、朝日をあびながら寺院のまえに現れたのは、ふつうの人よりも背が高い男でした。

紅と白の紐がその男にまとわりつき、お祭りのリボンのようでした。そして彼は棒を持ち歩いていましたが、その棒の握りの上には歯が一列にならび、まるで竜の歯のようでありました。その顔からは血の気が失せ、取り乱している有様は外国人のようで、悪魔がいっぱいとりついた死者のように見えるほどでした。ですが、その男は、私たちの言葉を随分くだけた調子で話しました。

彼は私に言いました。「ここはただの寺じゃないか。見つけようとしているのは家なんだ」それから不作法なくらいに性急に話したところによれば、家の外にあるランプは緑色で、角には紅い郵便ポストがあるということでした。

“The sky-breaker came at evening very suddenly, for I had hardly seen any stirring in the tops of the green trees over which I look as over a sea, when I go to the top of the temple at morning. And yet when he came, it was as if an elephant had strayed from the armies of the great kings of India. For palms snapped, and bamboos broke, and there came forth in the sunshine before the temple one taller than the sons of men.

“Strips of red and white hung about him like ribbons of a carnival, and he carried a pole with a row of teeth on it like the teeth of a dragon. His face was white and discomposed, after the fashion of the foreigners, so that they look like dead men filled with devils; and he spoke our speech brokenly.

“He said to me, `This is only a temple; I am trying to find a house.’ And then he told me with indelicate haste that the lamp outside his house was green, and that there was a red post at the corner of it.

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2018.05 隙間読書 泉鏡花「縷紅新草」

初出:1939年(昭和14年)7月「中央公論」に発表

泉鏡花が亡くなる直前に発表した65歳のときの作品。


この作品を発表してから、鏡花は癌性肺腫瘍のため亡くなる。おそらく死を予感し、痛みに耐えながら書いたのでは…と思われるこの作品は、まず死者を迎える盂蘭盆の風景が美しく語られている。

「去ぬる…いやいや、いつの年も」ではじまる以下の文は、「過去においては、いやいや、いつの時代にも」この美しい世界に戻ってきますように…という鏡花の思いを感じる。

去(さん)ぬる…いやいや、いつの年も、盂蘭盆(うらぼん)に墓地へ燈篭を供えて、心ばかり小さな燈(あかり)を灯すのは、このあたりすべてかわりなく、親類一門、それぞれ知己(ちかづき)の新仏へ志のやりとりをするから、十三日、迎火を焚く夜からは、寺々の卵塔は申すまでもない、野に山に、標石(しめいし)奥津城(おくつき)のある処、昔を今に思い出したような無縁仏、古塚までも、かすかなしめっぽい苔の花が、ちらちらと切燈籠(きりこ)に咲いて、地(つち)の下の、」仄白(ほのじろ)い寂しい亡霊(もうれい)の道が、草がくれ木の葉がくれに、暗夜には著(しる)く、月には幽(かす)けく、冥々として顕れる。

金沢のほうには、切灯籠(きりこ)という盆の提灯をつるす習慣があるそうだ。その明かりがてらす亡霊の道の美しさ、寂しさよ。


以下の文は、死を前にした鏡花の正直な思いではないだろうか。

薄情とは言われまいが、世帯の苦労に、朝夕は、細く刻んでも、日は遠い。年月が余り隔ると、目前(めのまえ)の菊日和も、遠い花の霞になって、夢の朧(おぼろ)が消えて行く。

「朝夕は、細かく刻んでも、日は遠い」の意味は何だろうかと立ちどまってしまう。想像だけれど、「日々その瞬間のことは一生懸命だけれど、一日一月と考えてみると何をしていたのやら?」ではないかと考えてみた。


さてタイトルの「縷紅新草」だが、出てくるのはタイトルの一回だけである。そして縷紅草という植物はあっても、縷紅新草はない。

縷紅草は朱色の花がさく蔓性の植物のようである。

縷紅草からイメージされる糸のような感じ、朱色のイメージは作品中に何度も繰り返される。繰返される糸や朱色のイメージを読んでいるうちに、鏡花は自分が愛した世界が美しさを失わずに、新しいかたちとなって再生されるように…との思いをこめて、「縷紅新草」とつけたのではないだろうか…という気がしてきた。


まず、初路を身投げをして生きのびた男の名前は「辻町糸七」である。生きのびて初路の思い出をかたり、彼女の墓をやさしく扱う男の名前に「糸」を使ったことに、鏡花の思いがあるのでは…。死を前にして、自分と後世をつなぐ糸の存在を意識したのでは…という気がした。


糸七が東京へ発つ前、身投げをした初路の墓参りに切り子灯籠をたむけにくると、お米の母、お京と遭遇。後ずさりをする糸七を追いかけながら、お京はこう言いながら、糸で頬をなでる。

「ほら、紅い糸を持ってきましたよ。

 縁結びにー

 それとも白いのがよかったかしら、…

 相手は幻だから…」

現世の人間が縫う糸は赤い糸、幻の相手との縁を結ぶ糸は白い糸…ここでも糸のイメージが美しく反芻されている。


県の観光協会が、身投げした女工、初路の記念碑をたてようとする話も挿入されている。ここでも糸がイメージされている。

「糸塚、糸巻塚、どっちにしようとかっていってるところ」

「どっちにしろ、友禅の(染)に対する(糸)なんだろう。」


「あの方、ハンケチの工場へ通って、縫取をしていらしってさ、それが原因(もと)で、あんな事になったんですもの。糸も紅糸からですわ」

身投げした娘、初路は千五百石のお邸のひとり娘であったが、廃藩置県で家は没落、両親も死んでしまい、工場にかよってハンカチの刺繍をしていた。「細い、かやつり草を、青く縁へとって、その片端、はんけつの雪のような地へ赤蜻蛉を二つ

初路が刺繍したハンケチは評判がよかったが、そのせいで妬みをかい、「肌のしろさも浅ましや  /  白い絹地の赤蜻蛉 / 雪にもみじとあざむけど、/ 世間稲妻、目が光る。」と唄になって囃し立てられる。お嬢様育ちの初路は追いつめられた。


「縷紅新草」で繰り返されるもう一つのイメージがある。それは蜻蛉である。墓を乱暴にあつかう人夫たちには脅かすかのように、蜻蛉の大群はあらわれる。

「蜻蛉だあ。」

「幽霊蜻蛉ですだアい」

初路の墓に縄をかけ手荒く動かそうとしたら、赤蜻蛉の大群におそわれ怯える人夫たち。


いっぽう糸七とお米が語る蜻蛉の話は何とも美しい。

おはぐろとんぼ、黒とんぼ。また、何とかいったっけ。漆のような真黒な羽のひらひらする、繊(ほそ)く青い、たしか河原蜻蛉とも云ったと思うが、あの事じゃないかね。」

黒いのは精霊蜻蛉ともいいますわ。幽霊だなんのって、あの爺い。


最後の文も美しいと思いつつ、ハタと意味を考える。見えているのは誰の目に…なのかと? 糸七とお米か? 不特定の読者か?それとも書き手の鏡花自身の目にか?

あの墓石を寄せかけた、塚の糸枠の柄にかけて下山した、提灯が、山門へ出て、少しずつ高くなり、裏山へ出て、すこしずつ高くなり、裏山の風一通り、赤蜻蛉が静(そっ)と動いて、女の影が…二人見えた。

柄にかけてあった提灯が山門からだと高く見える…の意味かと思ったけど、もしかしたら提灯そのものが動いている怪奇現象のように見えているのだろうか?

そして「女の影が…二人見えた」とは?

最初は「二人(糸七とお米)に見えた」なのだろうかと思ったけど、そのまま「(女が)二人見えた」なのではないかと。二人の女とは、お米の母、お京と初路なのか? それとも鏡花にとっての二人の女性、母とすず夫人なのだろうか…?

答えは分からないけれど、死を前にした鏡花の目にみえた景色が美しいものであったことに安堵して頁をとじる。

読了日:2018年5月27日

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サド「州民一同によって証言された不可解な事件」澁澤龍彦訳

フランス幻想小説傑作集収録 (白水社)

澁澤の解説を要約すれば、この短篇はサドが1814年に没してから100年以上経過した1926年に初めて刊行された短編小説集「小咄、昔噺、おどけ話」の一篇。書かれた時期はバスティーユの獄中にいた1789年から1788年だろうとのこと。

この短篇の主人公、ヴォージュール男爵はサド侯爵を思い出させると同時に、澁澤龍彦その人も重なるような人物である。ヴォージュ男爵に共感しているのはサド侯爵なのか、澁澤龍彦なのか…作家と訳者が混然としてくる一文である。

ヴォージュール男爵には度はずれな道楽への好みのほかに、あらゆる学問、とくにひとびとをしばしば誤りに陥らせ、もっとはるかに有効な使い道のある貴重な時間を、夢幻や幻想のうちに浪費せしめる学問への好みがあった。彼は錬金術師であり、占星術師であり、妖術師であり、降神術師であって、天文学者としても有能であったが、物理学者としては凡庸であった。

男爵は悪魔と取り引きをして、魂を約束するかわりに、六十歳にいたるまで幸福に生きる、金には困らない、絶倫の生殖力に恵まれることを保証してもらう。

そして60歳になった日…。

先日読んだ鏡花「薬草取」とはまったく異なる読後感「なぜ…なぜ、そんな」という思いに茫然としてしまう。そんな思いに答えるかのように、サドはこの短篇をこう締めくくる。

しかしながら、或る事実があまねく証明され、しかもそれが、このような異常な種類のものである時には、私たちは謙虚に頭をさげ、目を閉じて、次のように言うべきであろう。「いかにして諸天体が空間に浮遊しているのか、私は理解することができない。したがって、この地上にも私の理解し得ない事柄が多く存在するであろう。」

それまでの幸せを一瞬にして覆す力の存在に、その理解できない理不尽さに、ただただ言葉を失いつつ本を閉じる。

2018年5月25日読了

 

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