チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第297回

「もし其の場所を知らないというのなら、見かけたとしても、どうやって知るつもりなのかと彼に訊いてみました。すると彼は突然ぼんやりした状態を脱し、おどろくほど細心の注意を払って語りはじめたのです。彼はその家について語りましたが、その綿密さときたら競売人も満足するほどのものでした。大半は忘れてしまいましたが、最後に語った二つの言葉だけは覚えています。街灯が緑に塗られていたということ、それから角には赤い郵便ポストがあったということです。」

「赤い郵便ポストだって!」私は驚いて叫びました。「なんと、そこはイングランドにちがいない」

「忘れてしまったが」彼は言うと、重々しく頷きました。「そうした名前の島だったかもしれない」

「でも、誰もが知っている名前ですよ」私は憤慨して言いました。「イングランドからいらしたのですね」

 

“I asked him how, if he did not know the place, he would know it when he saw it. Here he suddenly ceased to be hazy, and became alarmingly minute. He gave a description of the house detailed enough for an auctioneer. I have forgotten nearly all the details except the last two, which were that the lamp-post was painted green, and that there was a red pillar-box at the corner.

“`A red pillar-box!’ I cried in astonishment. `Why, the place must be in England!’

“`I had forgotten,’ he said, nodding heavily. `That is the island’s name.’

“`But, ~nom du nom~,’ I cried testily, `you’ve just come from England, my boy.’

 

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2018.04 隙間読書 澁澤龍彥「高丘親王航海記」

初出:「文學界」昭和61年(1986年)8月号~昭和62年6月号

ITOプロジェクトの糸あやつり人形劇「高丘親王航海記」を観る前に読む。そして人形劇ならではの澁澤世界を楽しんだあとで、文字をとおして澁澤作品を読む楽しさはどういうところにあるのか考えてみる。

まず漢字二文字がならぶ各章の題が醸し出すイメージとその題にまつわる蘊蓄に耳を傾ける楽しさ。「儒艮」「蘭房」「獏園」「蜜人」「鏡湖」「真珠」「頻伽」…と読む前に章の題を眺め、あれこれ想像するだけで楽しい。


親王は澁澤自身のように思えることもしばしば。そのひとつがエクゾティシズムとの関わり方。親王にとってのエクゾティシズムは仏教であったが、澁澤にとってのエクゾティシズムはフランス文学であり、歴史であったのだろう。

親王の仏教についての観念には、ことばの本来の意味でのエクゾティシズムが凝縮していたにちがいないからだ。エクゾティシズム、つまり直訳すれば外部からのものに反応するという傾向である。なるほど、古く飛鳥時代よりこのかた、新しい舶載文化の別称といってもよかったほどの仏教が、そのまわりにエクゾティシズムの後光をはなっていたのはいうまでもあるまいが、親王にとっての仏教は、単に後光というにとどまらず、その内部にまで金無垢のようにぎっしりつまったエクゾティシズムのかたまりだった。たまねぎのように、むいてもむいても切りがないないエクゾティシズム。その中心に天竺の核があるという構造。(『高丘親王航海記』「儒艮」より)


この澁澤の文を写していて、ふと思ったのだが、この文はそのままフランス語の文に直しても、文法も、文の構造も問題なく翻訳できるのではないだろうか。澁澤はフランス語で考え、それを日本語におきかえ、絢爛たる漢字を散りばめた…のでは?ということも考えながら、澁澤作品を読んでみたい。

読了日:2018年4月9日

 

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2018.04 隙間読書 安部公房「詩人の生涯」

「詩人の生涯」に散りばめられた言葉をよく考えてみると矛盾はあるのだけれど、読み進めていくうちに、その矛盾した言葉が綺麗な像を結んでいく。

「三十九歳の老婆」は疲れきって糸車にむかううちに、指先から糸にひきこまれて糸になり、ジャケツに編まれる。やがて鼠に心臓を噛まれてしまい、血でジャケツを真赤に染めていく…というイメージは不思議なくらい鮮やかである。

真赤なジャケツは、給料をめぐってビラを配って工場を首になり、工場の入り口で凍りついている息子を探しあて、息子の体をすっぽりくるむという優しさ、哀しさ。


ジャケツを買うことのできない貧しさが、彼らをジャケツで包む必要のある中味を持たぬほど貧しくさせてしまったのだ。

人は貧しさのために貧しくなる。

安部公房はこう書いているけれど、はたして「貧しさのために貧しくなる」のだろうか? この作品を書いた当時、安部公房はまだ26歳。貧への思い込みもあったかもしれないし、「豊かさのために貧しくなる」人の哀しさは思い描けなかったのかもしれない。


でも「人は貧しさのために貧しくなる」という言葉とは矛盾することながら、安部公房は貧しいものについて語る言葉は夢のように美しい。この矛盾する思いはどこからくるのだろうか。

貧しいものなら誰でも知っていることだった。この雪が、どこから降ってきたのか?

答えられなくても、感じることはできるだろう。見たまえ、この見事なまでに大きく、複雑で、また美しい結晶は、貧しいものの忘れていた言葉ではないのか。夢の…、魂の…、願望の…。六角の…、八角の…、十二角の、花よりも美しい花、物質の構造、貧しい魂の配列。

 貧しいものの言葉は、大きく、複雑で、美しく、しかも無機的に簡潔であり、幾何学のように合理的だ。貧しいものの魂だけが、結晶しうるのは当然なことだ。

「人は貧しさのために貧しくなる」ということが現実であるなら、貧しいものの言葉を雪に例える安部公房は、「こうあってほしい」と現実にフィルターをかけて幻影をつくりだしているのではないだろうか?


老婆が亡くなりジャケツとなって凍てついた息子にかぶさると、息子は自分が詩人であることを発見する。この幻影のような場面で、あたりに響きわたる男も夢の世界の言葉のよう。

一つかみの雪をつかんで宙にまくと、チキンヂキンと鳴って舞上がったが、落ちるとき、それはジャケツ、ジャケツと鳴って降った。青年は笑った。

安部公房は現実を語るときも、幻影を語るときも、いつも詩人なのだなあ。「詩人の生涯」とは「安部公房の生涯」と読んでもいいのかもしれない。

2018年4月6日読了


 

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2018.03 隙間読書 遠藤周作『怪談小説集』

作者 遠藤周作

『怪談小説集』(講談社文庫)


「三つの幽霊」「蜘蛛」「黒痣」「私は見た」「月光の男」「あなたの妻も」「時計は十二時にとまる」「針」「初年兵」「ジプシーの呪」「鉛色の朝」「霧の中の声」「生きていた死者」「甦ったドラキュラ」「ニセ学生」…以上、十五短編が収められている。

遠藤周作の書く幽霊はどれも怖く、なんとも嫌な後味をのこす幽霊である。そして力も強く、相手を見つめる視線もずいぶん強い。

遠藤周作がルーアンで体験した怪奇談にでてくる幽霊も、幽霊というよりは悪魔のような印象さえ受ける。

カトリックの遠藤周作は、やはり幽霊は神と対立する力強い者、醜い者、恨みをいだく者として捉えていたのではないだろうか?

何時間たったのかしらぬ。夢うつつの中でぼくは先ほどよりももっと強い息苦しさを感じた。息苦しさというよりは何か太い手で胸をしめつけられていく感じである。(三つの有理恵より)


線路で轢死した国鉄の霜山総裁とよく似た男が現場をさまよう短編「月光の男」も好きである。

霜山総裁と似せて現場捜査をしている警察官だと判明したものの、実際に確かめてみると…という話で、意外性と思いを残して幽霊がさ迷う感じも何ともいい。だが読後は、そこまで思いが残っているんだなとあまり爽やかな気持ちになれないのも事実である。


この怪談集のなかでは「生きていた死者」が一番印象に残る。

文学賞をとった美貌の女子大生。その写真の隅にかならず写っている男。その男は戦中に転向して干された作家で、もう亡くなっているはずの作家だった。

やがて女子大生は事故にあい、死んでしまう。その書きかけの原稿には、女子大生のもとに見知らぬ男から自分の作品を女子大生の名前で出すようにという手紙が届く話が綴られていた。

作品をなんとしてでも世に出したいという亡くなった作家の思い。その思いは切ないけれど、最後、女子大生も悲劇をむかえる…なので読後感がよろしくない。

やはり幽霊は、能に出てくる幽霊のように、この世にでてきても旅のお坊さんに話を聞いてもらって、最後は成仏して帰っていく…というかたちがいいなあと思う。

2018年3月30日読

 

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2018.03 隙間読書 ゴーチエ「クラリモンド」芥川龍之介訳

ゴーチエ作 1836年

芥川龍之介訳 1882年

世界幻想文学大全怪奇小説精華


怖ろしい吸血鬼の物語が国から国へ、時を経て翻訳されていくうちに、彼岸と此岸のかけそき橋で結ばれる者たちの可憐な恋の物語に…。ある物語が伝えられていくうちに、翻訳者の思いによって物語のかたちが変わっていく…これも翻訳の大事な過程、少なくともハーンや芥川なら許されることではないだろうか?

ホフマンに影響をうけたゴーチエは”La Morte Amoureuse”(死者の恋)を1836年に書き、それを読んだラフカディオ・ハーンは1882年に ”Clarimonde” という題で英訳、芥川龍之介はハーンの英訳から「クラリモンド」を翻訳。

この「死者の恋」という題から「クラリモンド」という題への変化だけでも、ゴーチエが描いた吸血鬼から少し離れ、ハーンや芥川が恋する哀しい一人の女として吸血鬼を表現しようとしているように思える。


血を吸う場面でも女吸血鬼クラリモンドのいじらしさを芥川は巧みに訳している。

「一滴(ひとしずく)、たった一滴、私の針の先へ紅玉玉(ルビイ)をたった一滴…貴方はまだ私を愛しているのですから、私はまだ死なれません…ああ可哀そうに、私は美しい血を、まっ赤な血を飲まなければならないのね、お休みなさい、私のたった一(ひとつ)の宝物、お眠(やす)みなさい、私の神、私の子供、私は貴方に害をしようとは思ってはいなくてよ。私は唯、貴方の命から、私の命が永久に亡びてしまわない丈の物を頂くのだわ。私は貴方を愛しているのでしょう、だから私は外(ほか)に恋人を拵えて、其人の血管を吸い干す事にした方がいいのだわ。けれど貴方を知ってから、私、外の男は皆嫌になってしまったのですもの…まあ美しい腕ね、何と云う円いのだろう、何と云う白いのだろう、どうして私は此様な青い血管を傷つけることが出来るのだろう。」


ただ残念な気がするのは、クラリモンドの思い出を語り、クラリモンドと神に仕える道のどちらへ進むべきか苦悩する思い出を語る主人公が「わし」と訳されていること。たしかに66歳は当時の芥川にすれば「わし」だったのかもしれないが。今の感覚で読むと、こんな素敵な思い出に生きている主人公に「わし」はないのではなかろうか…と思ってしまう。

2018年3月28日読了

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チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第296回

それから、その怪物はとても礼儀正しく手招きをして、夕食前にベルモットをいっしょに飲もうと声をかけてきたので、私たちは話しこむことになりました。その男が小舟を安く手に入れ、ケントから渡ってきたのは明らかでした。それも東の方に急いで進まなくてはという妙な妄想をいだいたからで、定期船がくるのを待とうとしなかったからなのです。いくぶん曖昧な説明ではありましたが、或る家を探しているとのことでした。さり気なく其の家はどこにあるのか訊ねたところ、彼は知らないと言うのです。たぶん島にあって、どこか東の方にあるのだということでした。あるいは、漠然とじれったいような身ぶりで「むこうのほう」にあるのだと言いました。

 

Then the monster, with great politeness, invited me to partake of a vermouth before my dinner, and we fell into conversation. He had apparently crossed from Kent by a small boat got at a private bargain because of some odd fancy he had for passing promptly in an easterly direction, and not waiting for any of the official boats. He was, he somewhat vaguely explained, looking for a house. When I naturally asked him where the house was, he answered that he did not know; it was on an island; it was somewhere to the east; or, as he expressed it with a hazy and yet impatient gesture, `over there.’

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2018.03 隙間読書 ゴーゴリ / 小平武訳「ヴィイ」

作者 ゴーゴリ

訳者 小平武

「世界幻想文学大全 怪奇小説精華」収録  筑摩書房


迫力のある怖さがありながら、それでいてユーモラスなロシアの作品である。ゴーゴリがこういう怖い、でも面白い…という作品を書く作家だったとは知らなかった。

哲学級生(?…と言うらしい)ホマーは、ある晩、魔女を乗せて疾走する夢を見る。夢の中で魔女を叩きのめすが、気がつくと魔女は美女に変わっていた。

やがてホマーは百人長(?…コザックの中尉らしい)から、娘が死ぬ間際にホマーに祈祷をあげてもらいたいと言っていたからと呼ばれる。

娘の屍が安置された教会に一人残されたホマーは怖ろしい体験をする。棺は宙を舞い、娘が棺から立ち上がり近づいてくる。ホマーは負けじと悪魔払いの呪文を唱える。こうやって悪魔から身を守るのかと感心、なんとも迫力のある場面である。


彼女はまっすぐこちらに歩いてくる。恐ろしさに震えながら彼は自分のまわりに環を描いた。必死になって祈祷書を読み、悪魔ばらいの呪文を唱え始めた。それは生涯わたって魔女や悪霊を見続けたという、ある修道僧から教わった呪文だった。

彼女はほとんど環の上に立った。けれども、そこを踏み越える力はないらしく、全身、死後なん日かたっている屍体そっくりの青さになった。


二夜、教会で悪魔と戦ったホマーはもう無理と逃げ出そうとするが、捕まってしまう。最後三日目の悪魔払いをさせられる羽目に。悪魔は最後の切り札としてヴィイを連れてくる。見てはいけないと思いつつ、ホマーはヴィイを見てしまう。その瞬間、すべての魔物が襲いかかってきて、ホマーはあまりの恐ろしさに息絶えてしまう。

この恐ろしい場面のあと、一番鷄を聞き逃した魔物たちが逃げ遅れて、扉や窓にはりついてしまう。想像すると怖いけれども、どこかユーモラスな感じもあって、ゴーゴリの作品にはまりそうな気がする。


鶏の鳴き声が響き渡った。それはもう二番鷄であった。一番鷄を魔物どもは聞きのがしたのだ。びっくりした悪霊どもはわれ先に窓や扉口へと殺到し、できるだけ早く逃げ出そうとしたが、時すでに遅かった。彼らはそのまま扉や窓にはりついたままになってしまった。


「哲学級生」、「百人長」、「火酒」…どういうものかは分からないけれど、想像力をかきたてられる訳も読んでいて楽しかった。はっきり分からない訳というものも良いものだと思った。

2018年3月26日読

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2018.03 隙間読書 夢野久作「死後の戀」

作者 夢野久作

初出『新青年』1928(昭和3)年10月号

「ユメノユモレスク」所収 書肆侃侃房

本書の解説を書かれている沢田氏が「旧字体には徹底的にこだわった」と話されていたことが記憶に強く残っている。

本書をあけるとこの行間の広さは旧字体をいかすためのものなのだろうか?文庫本サイズだと私の目にはつぶれて見える旧字体だが、この空白だと美しく浮かび上がってくるように見える。

そして「死後の戀」を読んで、作品中でも繰り返されるこのタイトルにこめられたメッセージを伝えるには、やはり「恋」ではなく、旧字体の「戀」でなければいけないのだと納得した。

男性兵士に扮したリヤトニコフの一途な思いが糸となって、兵士コルニコフを自分の方にたぐりよせていく。リヤトニコフは高貴な両親から託された宝石類を見せることで、コルニコフの心に宝石への欲望を芽生えさせる。

移動中、彼らの軍隊は襲撃される。コルニコフは偶然助かり、なぜかリヤトニコフも含め他の者たちが襲われ倒れているだろう不気味な森にたぐりよせられていく。これが「死後の戀」の力なのだと思う。

森でコルニコフが目にしたのは、かつての仲間たちが惨殺され、木に打ちつけられた屍となっている姿である。

リヤトニコフの死体に気がつく場面は、最初から何とも哀しい一文で始まる。


すると、そのうちに、かうして藻掻(もが)いてゐる私のすぐ背後で、誰だかわかりませんが微かに、溜め息をしたような氣はひが感ぜられました。


そして振りかえると、そこにはリヤトニコフの死体が…。この死体に気がつく場面は惨殺死体の描写がでてくるのに、不思議と気持ち悪さはない。

リヤトニコフは大切にしていた宝石を銃弾がわりに撃たれているが、考えてみれば高価な宝石が盗まれていないのは不思議である。それはコルニコフを慕う気持ちが働き、彼の惹かれている宝石を残そうと念じたせいにも思える。その可憐な慕情が読み手に伝わり、この凄惨な場面がなぜか美しく思えるのではないだろうか?


さうして自分の死ぬる間際に殘した一念をもつて、私をあの森まで招き寄せたのです。此寶石を靈媒として、私の魂と結び付きた度いために…。


この残された一念を描いた物語だから、やはり「糸」が並ぶ旧字体の「戀」は大事なのだなあと思う。

旧字体と共に「…」の多様も嬉しい書き方である。私自身、あまりはっきり言いたくなかったり、はっきり言うのがしんどかったりするときに「…」を多用するので、なんとなく夢野久作と同じような気分になってしまった。久作先生は意味に様々な含みをもたせるために積極的に「…」を使っているのかもしれないが…。

読了日 2018年3月25日

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2018.03 隙間読書 『アッシャア家の崩没』ポー作 /龍譚寺旻訳

作者 エドガー・アラン・ポー

訳者 龍譚寺旻

初出 「宝石」1949(昭和24)年11月号 岩谷書店

世界幻想文学大全 怪奇小説精華収録 筑摩書房

龍譚寺旻訳の『アッシャア家の崩没』は何度も、字の美しさ、響きの美しさに何度も溜息をついて立ちどまってしまった。

ただ語彙の貧弱な私のこと、龍譚寺旻訳の字のなかには読みの分からない字もあったり、意味の分からない言葉もたくさんあったりで、足踏みをしながらの読書となった。でも、こうして足踏みしているとアッシャア家の様子が浮かんでくるよう。すらすら通過させてくれない訳文にも魅力があるものだなあと思う。

俳人でもあり日夏耿之介門下でもあった龍譚寺訳の魅力は、アッシャアのうたう詩「罔閬宮(もうりょうきゅう)」の訳に最大限に発揮されているのではないだろうか。以下はその一節。


In the greenest of our valleys,
    By good angels tenanted,
Once a fair and stately palace—
    Radiant palace—reared its head.
In the monarch Thought’s dominion—
    It stood there!
Never seraph spread a pinion
    Over fabric half so fair.

十善の天使栖(す)み給える

深谷なる緑いと濃き処

疇昔(そのむかし)瑰麗(うるわし)く、はた荘厳(おごそか)なる宮居ー

煜爚(かがやき)の宮居ぞー皇帝(みかど)「思想」の国原に

頂高く天聳(あまそそ)りー

宮柱太敷建てりき

かく美しき九宸(おおみや)を

六翼天使(セラフ)もいまだ舞い知らね

21018年3月24日読了

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チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第295回

ほんとうに海ときたらアブサンのように、苦々しい感じの緑色をしていて、害のあるように見える有様でした。こんなにも見慣れない海は、そのときが初めてです。空には夜明け前の、嵐の前兆のような闇がたちこめ、そのせいで重苦しい気持ちになりました。つんざくような風が吹きつけ、ぽつんと立っている小さな売店のまわりを駆け抜けていきます。ペンキの塗られた売店では、新聞を売っています。風が海岸沿いの砂丘を吹き抜けていきます。海岸に漁船が一艘見えましたが、その船は日にやけた帆をかかげ、海から戻ってきたあと静かに停泊していました。もう、とても近いところにいます。船から出てきたのは怪物像のような男で、その男は岸辺へとなんとか歩いていきました。水はその男の膝までもきていませんが、でも、たいがいの男なら尻まで浸かるだろう深さだったのです。男は長い草かきのようにも、あるいは棒のようにも思えるものに寄りかかっていました。それは三叉の武器のようで、男をトリトンのように見せていました。男は水に体を濡らし、海藻を幾筋も体にはりつけて、わたしのカフェのほうへ歩いてくると、外のテーブル席に腰かけ、チェリー・ブランデーを注文しました。そのブランデーは店には置いてありましたが、めったに注文する客のいないブランデーです。

 

“Positively the sea itself looked like absinthe, green and bitter and poisonous. I had never known it look so unfamiliar before. In the sky was that early and stormy darkness that is so depressing to the mind, and the wind blew shrilly round the little lonely coloured kiosk where they sell the newspapers, and along the sand-hills by the shore. There I saw a fishing-boat with a brown sail standing in silently from the sea. It was already quite close, and out of it clambered a man of monstrous stature, who came wading to shore with the water not up to his knees, though it would have reached the hips of many men. He leaned on a long rake or pole, which looked like a trident, and made him look like a Triton. Wet as he was, and with strips of seaweed clinging to him, he walked across to my cafe, and, sitting down at a table outside, asked for cherry brandy, a liqueur which I keep, but is seldom demanded.

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