アメリア・B・エドワーズ「あれは幻影だったのか、それとも……? ある司祭の報告」No.1

アメリア・B・エドワーズ

 これから話す出来事に遭遇したのは今から十八年ほど前のことで、当時、わたしは視学官として女王陛下に仕えていた。今でも地方の視学官はひっきりなしに移動するものだが、わたしはまだ若く、常に移動する生活を楽しんでいた。
ただ、あまり心地よくない地域も実に多く、そうした地にいると、無給の司祭は喜びとなるものを蔑むようになり、骨の折れる日々を送ろうとするのかもしれない。辺鄙な地では余所者はめずらしく、年に一度の視学官の訪問は大切な出来事である。だから長い一日の仕事を終え、田舎のパブで静かな時を過ごしたくても、たいていの場合、司祭や名士から客として迎えられる予定になっている。こうした機会を利用するかは視学官次第だ。もし心地よく感じたなら厚誼をむすび、英国の家庭生活のもっとも魅力的な面にふれることになる。そして時折、ありふれたことばかりが多い昨今でさえ、運に恵まれて意外な出来事に出会うこともある。
最初の任地は英国の西の地方で、友人や知り合いが大勢住んでいた。そのせいで後に困惑する羽目になったのだが、二年にわたる快適な勤務を終えると、政治家が「新開地」とよく言っていた北の地に赴くことになった。不運にも、わたしの新開地は草が生い茂り、住んでいる者もあまりなく、広さは千八百平方マイルに満たない土地であった。それでも前の赴任地の三倍はあり、広さに比例して御し難くなった。不毛の丘ふたつが直角にまじわり、鉄道の主要路線からもかなり遠かったので、その地方には思いつく限りの、あらゆる不便さが結集していた。村と村のあいだは離れ、しばしばムーアのせいで分断されていた。列車のあたたかなコンパートメントや点在するマナーハウスのかわりに、当時、わたしは貸し馬車や人気のないパブで時をなかばやり過ごした。

Was it an Illusion? A Parson’s Story

The facts which I am about to relate happened to myself some sixteen or eighteen years ago, at which time I served Her Majesty as an Inspector of Schools. Now, the Provincial Inspector is perpetually on the move; and I was still young enough to enjoy a life of constant travelling.

There are, indeed, many less agreeable ways in which an unbeneficed parson may contrive to scorn delights and live laborious days. In remote places where strangers are scarce, his annual visit is an important event; and though at the close of a long day’s work he would sometimes prefer the quiet of a country inn, he generally finds himself the destined guest of the rector or the squire. It rests with himself to turn these opportunities to account. If he makes himself pleasant, he forms agreeable friendships and sees English home-life under one of its most attractive aspects; and sometimes, even in these days of universal common-placeness, he may have the luck to meet with an adventure.

My first appointment was to a West of England district largely peopled with my personal friends and connections. It was, therefore, much to my annoyance that I found myself, after a couple of years of very pleasant work, transferred to what a policeman would call ‘a new beat,’ up in the North. Unfortunately for me, my new beat-a rambling, thinly populated area of something under 1,800 square miles-was three times as large as the old one, and more than pro-portionately unmanageable. Intersected at right angles by two ranges of barren hills and cut off to a large extent from the main lines of railway, itunited about every inconvenience that a district could possess. The villages lay wide apart, often separated by long tracts of moorland; and in place of the well-warmed railway compartment and the frequent manor-house, I now spent half my time in hired vehicles and lonely country inns.


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2019.01 隙間読書 西崎憲「東京の鈴木」

「万象」収録


「東京の鈴木」というタイトルから連想するものは何だろうか? 平凡さ、どこにでもいるような人たち……だろうか。

 でも読んですぐにその思いは覆される。冒頭から硬質な、でもそれでいて詩的な文に驚く。

端正な文を心地よく読んでいくと、「トウキヨウ ノ スズキ」という人物から警視庁に届いたカタカナのメールに出会い、そこでまた驚く。簡潔すぎるくらい簡潔なカタカナのメールは、不思議な詩のようだ。

「トウキヨウ ノ スズキ」が届いたあとに起きる不思議な事件は絵画のように心に残って、私たちの心中の願望やら不満やらを優しく、でもユーモアをこめて語ってくれる。「ああ、そう願っていた」と自分の内なる思いに気がついて驚く。

不思議な事件がおさまったかと思いきや、最後の一文で「また何かがはじまりそう」という期待感をいだく。

「東京の鈴木」という平凡なタイトルをいだく此の作品には詩があふれている。硬質な文にも、カタカナのメールにも、私の心の願望を実現してくれたような事件にも、新たな歴史を予感させる最後の一文にも……タイトルからは思いもよらない、あふれでる詩想に心穏やかになる。

そして「東京の鈴木」が収録されている「万象」はとても丁寧なつくりの電子書籍である。さらに各短編の扉に記された手書きのタイトルが、電子書籍にあたたかみを添えていて、細かなところまで行き届いた配慮に感謝しつつ頁をとじる。

2019.0103


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2018.01 隙間読書 平井呈一「エイプリル・フール」

このテーマの小説といえば、何故か、どこか不気味なものというイメージがあった。それが見事うれしいことに「エイプリル・フール」で覆った。

(以下、ネタバレの可能性あり)

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ジョージ・エリオット「ミドルマーチ」第一巻第一章(No.9)

訳)

ブルック氏の身体には清教徒的な行動力が代々受けつがれてきたのだが、その力もあきらかに沈滞していた。だが姪のドロシアの心には、清教徒的な思いが真っ赤に燃え、それは罪にたいしても、徳にたいしても同様で、時々、叔父の話しぶりや「放っておけばいい」という態度にじりじりとしては、早く成年に達して、思いやりのある計画にお金をだせるようになりたいと切望した。彼女は、女子相続人として見なされていた。姉妹がそれぞれ両親の遺産から年に七百ポンドを得ていたせいだけではなかった。もしドロシアが結婚して息子をひとり生んだなら、その息子はブルック氏の財産を相続することになるからである。それは地代から推定で一年に三千ポンドほどのもので、地方の人々にとっては富とも言える金額だった。この地方の人々ときたら、いまだにカソリックの質問に関するピール氏のふるまいについて論議している有様で、これから何処が金鉱地になるのかということについても知らず、煌びやかな金権政治についても、そうした政治が褒めたたえてきた上流社会という必要品について無知であった。

原文)

In Mr Brooke the hereditary strain of Puritan energy was clearly in abeyance; but in his niece Dorothea it glowed alike through faults and virtues, turning sometimes into impatience of her uncle’s talk or his way of “letting things be” on his estate, and making her long all the more for the time when she would be of age and have some command of money for generous schemes. She was regarded as an heiress; for not only had the sisters seven hundred a-year each from their parents, but if Dorothea married and had a son, that son would inherit Mr Brooke’s estate, presumably worth about three thousand a-year – a rental which seemed wealth to provincial families, still discussing Mr Peel’s late conduct on the Catholic question, innocent of future gold-fields, and of that gorgeous plutocracy which has so nobly exalted the necessities of genteel life.

サー・ロバート・ピール

コメント)

サー・ロバート・ピールはイギリスの政治家だが、ミドルマーチが書かれる二十年ほど前に亡くなっている。そのくらい時代遅れの政治家だということだろう。登場人物について収入から緻密に書こうとするジョージ・エリオットの作風にはあまり魅力を感じない。だが当時のイギリスの社会を知るという点では魅力がある。


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2019.01 隙間読書 泉鏡花「草迷宮」

現代の私たち読者に、鏡花の文が難しく思えるのはなぜか……と考えながら読む。

語彙の難しさにくわえて、鏡花の文はあまり主語をはっきりとは書かない。主語であらわすかわりに、形容詞を何層にも重ねることで、主語にあたるものがどんなものなのか伝えようとする。その形容の積み重ねが鏡花の文の魅力でもあると同時に、いっぽうで現代の小説を読んでいくように「誰が、何をしているのか」と分析してしまうと、鏡花の文はどこか分かないものになってしまうのではないだろうか?


黒髪かけて、襟かけて、月の雫(しずく)がかかったような、裾(すそ)は捌(さば)けず、しっとりと爪尖(つまさ)き軽く、ものの居て腰を捧げて進むるごとく、底の知れない座敷をうしろに、果(はて)なき夜の暗さを引いたが、歩行(ある)くともなく立寄って、客僧に近寄る時、いつの間にか襖が開くと、左右に雪洞(ぼんぼり)が二つ並んで、敷居際に差向って、女の膝ばかりが控えて見える。

たとえば上の文では、主語は最初「女」だと思うが、「いつの間にか」の箇所から「室内」が主語に、「敷居際」からでは「女の膝」が主語にというように変化していくというように、ひとつの文の中に主語は明確には現れないまま、でも主語らしいものは変化しているのではないだろうか。主語にあたるものが変化していくにつれて形容する言葉も移ろい、その移り変わりに読んでいる者は夢幻郷にいる心地になる。それが鏡花の魅力ではないだろうか?


そんなふうに開き直って、鏡花の文をすっきり分かろうとすることは諦め、そのかわり場面場面の美しさ、面白さを楽しむ。たとえば最後の方に出てくる場面の面白さ。

縁の端近(はしぢか)に置いた手桶(ておけ)が、ひょい、と倒斛斗(さかとんぼ)に引(ひっ)くりかえると、ざぶりと水を溢(こぼ)しながら、アノ手でつかつかと歩行(ある)き出した。


そして鏡花の文は声に出して読んでも面白い。たとえば次の文では、妖しいもの達が大騒ぎしている様子を様々な音で描き、最後、静かになっていく移り変わりも巧みに表している。この文を声に出して読むとき、読み手の数だけ、それぞれが思い描く場面の面白さがあるのではないだろうか?

追掛けるのか、逃廻るのか、どたばた跳飛ぶ内、ドンドンドンドンと天井を下から上へ打抜くと、がらがらと棟木(むなぎ)が外れる、戸障子が鳴響く、地震だ、と突伏(つっぷ)したが、それなり寂(しん)として、静(しずか)になって、風の音もしなくなりました。


鏡花の文はいつまでもすっきり分かりそうにないが、それも鏡花の魅力だろうと開き直って、気に入った場面をゆっくり声にだして楽しんでいこう。そうすれば、いつか作品全体が楽しめるようになるかもと思いつつ頁をとじる

2019.1.1読了


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2018.12 隙間読書G・K・チェスタトン「四人の申し分なき重罪人」 西崎憲訳

国書刊行会


チェスタトンと言えば、ブラウン神父シリーズを書いた推理小説作家……というイメージが強い感もあるが、本書「四人の申し分なき重罪人」を読めば、チェスタトンには詩人作家という部分の方が大きいのでは……という気がしてくる。

チェスタトンの詩想の源は奥深く、そこからあふれ出る言葉によってつむがれる絵を楽しむには読み手にも知識が求められるのだろう。そうした知識をもたない私には、よく分からないところも多いけれど、チェスタトンの詩想の源の豊穣さに心うたれながら読む。


たとえば「頼もしい藪医者」(94頁)に出てくる「樹」のエピソードにしても、チェスタトンの根底には何かいにしえの神話が根づいているような気がする。どんどん近代化が進んでいくロンドンが「樹」を囲みはじめる様子も、チェスタトンの胸中を思うと興味深い。また連綿と文体をつづけて訳されている訳文に、おそらく原文どおりに、枝木が茂る樹のイメージをだそうとしながら、チェスタトンに近づいて訳そうとされている西崎氏の姿勢を強く感じた。

実際のところ、この特別な庭樹を植えた者は存在しなかった。樹は草のように生長した。悽愴の気配を漂わせる荒れ地に咲く野生の草のように。おそらくこのあたりの地方でもっとも古いものだろう。もしかしたらストーンヘンジより古いかもしれなかった。少なくとも、ストーンヘンジよりも後に地上に現れたものであるという証拠はない。樹は誰のものであれ、人の庭に植えられたことはなかった。ほかのすべての小説はこの樹を囲んで植えられた。庭と庭を囲む塀と屋敷はこの樹の周囲に造られた。道は樹の周囲に造られた。この地区は樹の周囲に造られた。ある意味では、ロンドンはこの樹の周囲に造られた。というのも、屋敷のある地区は、大都市ロンドンの懐深くにあり、誰もがロンドンの一部と見ているところであったが、じつはこの区域が拡大するロンドンに一瞬にして呑みこまれたのは、比較的最近のことなのである。風の強い、道のない荒れ野に、奇体な樹がぽつねんと立っていたのは、確かにそれほど前のことではなかった。」(西崎憲訳)

この樹のエピソードの元になるものにしても、その他、マン島の紋章や色への言及など、チェスタトンの詩想の源に少しでも近づけたら、もっとチェスタトンを楽しく読めるのではないだろうか。


1月6日、訳者の西崎憲さんやミステリ読みの皆様にいらして頂いての読書会が楽しみである。(2018.12.30読了)

 


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2018.12 隙間読書 平井呈一「真夜中の檻」

平井呈一(明治35年生~昭和51年没)が、中菱一夫という名前で58歳のときに発表した創作で、昭和35年に浪速書房から刊行された。

魔界の異形と人間との妖しい恋物語に魅了されながら、まず不思議に思うのは、なぜ翻訳者であり英米文学研究者の平井呈一が、この作品を書いたのだろうかということ。何が平井呈一を執筆にかりたてたのだろうかとその心中を思ってしまう。

当時、かつての師、永井荷風はあまり作品らしい作品を書くことはなく、浅草ロック座で劇を上演したりする程度だった。師、永井荷風のそうした現状への思いが「真夜中の檻」執筆へとつながったのかもしれないが……。でもドラキュラやカーミラの翻訳をしていくうちに、欧米の怪奇幻想小説のエッセンスが平井に筆をとらせたのかもしれない。


「真夜中の檻」を読んで印象に残るのは、新潟の地元の人々のゆったりとした、雅な趣きのある言葉でのやりとりである。越後の言葉を聞いているうちに、だんだん知らない世界へと誘われていく感じがある。

ただ不思議に思うのは、平塚で生まれ、都内で育った平井呈一にとって、二年間の新潟暮らしを経験していても、ここまで新潟の言葉で記すのは不可能であろう。たぶん新潟暮らしで知り合った知人の協力が、「真夜中の檻」成立の裏にあるのではないだろうか。

「真夜中の檻」刊行から四年後の昭和39年、平井の新潟県立小千谷中学時代の教え子のひとり池田恒雄氏が会長をつとめる恒文社から小泉八雲全集全十二巻が刊行された事実からも、平井を励ます人々の存在が新潟にあったのではないだろうかと推察できるように思う。


「真夜中の檻」は細かいところにまで怪奇小説を愛した平井らしい遊び心がみられて楽しい。妖しい主人公の名前は「珠江」、珠江がはじめてもてなしたときの料理はマタタビの花の塩漬け……というように楽しい。

また「おしゃか屋敷」に到着すると、「わたし」の腕時計がいきなりとまってしまい動かなくなる。屋敷を離れると何でもなかったかのように動きはじめる……という怪奇小説らしいエピソードも印象的である。


「真夜中の檻」は師匠、永井荷風への思い、新潟の人々への思い、愛読した欧米怪奇小説の世界への思いから生まれた創作小説なのではないだろうか。

2018.12.20読了


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ジョージ・エリオット「ミドルマーチ」第一巻第一章(No.8)

まだ一年もたたないことながら、彼女たちはここティプトン・グレンジで叔父と暮らしていた。叔父はまもなく六十という歳になろうとするのに、自分の意見というものを持つことはなく、様々な意見を寄せ集めたような人物で、投票にしても考えが定まっていなかった。若い頃旅をしていたのに、こんな田舎にとらわれたものだから、彼の心は漫然としたものになってしまった。ブルック氏の心がどう動いていくのか推量するのは、天気を言い当てるのと同じくらいに難しかった。確実に言えることは、彼は慈悲深い気持ちから行動するのだが、そうした行動をおこすときに出来るだけお金はつかわないようにするということだった。曖昧模糊とした心にも、習慣という堅い粒が幾粒かふくまれるものである。そういうわけで趣味には手ぬるいと思われていたが、かぎ煙草いれを所有することになると話は別で、彼は用心しいしい、ためすがめつしながら、貪欲にそれをつかむのであった。

It was hardly a year since they had come to live at Tipton Grange with their uncle, a man nearly sixty, of acquiescent temper, miscellaneous opinions, and uncertain vote. He had travelled in his younger years, and was held in this part of the county to have contracted a too rambling habit of mind. Mr Brooke’s conclusions were as difficult to predict as the weather: it was only safe to say that he would act with benevolent intentions, and that he would spend as little money as possible in carrying them out. For the most glutinously indefinite minds enclose some hard grains of habit; and a man has been seen lax about all his own interests except the retention of his snuff-box, concerning which he was watchful, suspicious, and greedy of clutch.

メモ


◇『かぎ煙草入れには様々なものがあったらしい。美しいものが多いようだが、ジョージ・エリオットとしては、叔父さんのことを些細なことに強欲になる人物として描いているのではないだろうか?

◇イギリスの選挙

イギリスにおける選挙は、第一回選挙法改正(1832年)で10ポンド以上の年収や財産があることなど制限がもうけられ、有権者は総人口の4.5%にすぎなかった。

第二回選挙法改正(1867年)では、都市労働者に選挙権がひろがった。

第三回選挙法改正(1884年)では、農村労働者に選挙権がひろがった。

第四回選挙法改正(1918年)で、男子普通選挙となった。このとき女性にも参政権が認められたが、男性は21歳以上、女性は30歳以上で戸主または戸主の妻であることが条件だった。

第五回選挙法改正(1928年)で、21歳以上の男女に平等な選挙権が認められた。

ミドルマーチが書かれたのは1871年から1872年、ちょうど都市労働者の選挙権が認められた頃だから、選挙は人々の関心を集めていたのだろう。ジョージ・エリオットは、この叔父について選挙には考えが定まらず、かぎ煙草入れに執着する人物として描いているのである。


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2018.12 隙間読書 山田風太郎「誰にも出来る殺人」

アパートには普通ない四号室があるという間取り、あやしい職業の女をみても外見で気がつかないという不自然さ、手すりの不自然さ……など、ミステリとしては少し甘い箇所はあるような気がしなくもない。

でも、読んでいるうちにそういうことが些細な疑問に思えてきてしまう。怪しい人たち、不思議な人たちが暮らす「人間荘」は、人生の意外さにみちた奥深い空間。だから単なるトリックを楽しむだけで終わらない余韻が尾を引くのではないだろうか。

聖女と思われている女を描く最後の「淫らな死神」はあっけなく、また驚きもない。むしろ「まぼろしの人妻」に出てくるありふれた人々が、聖なる姿に見えてくることの方に驚き、そこに山田風太郎の圧倒的な筆力の魅力を感じて引き寄せられてしまう。

山田風太郎が描きたかったのは、「聖女と思われていた女性が……」という意外性ではなく、聖なるものから縁遠く生きている人々が聖なる光につつまれる一瞬なのではないだろうか……と納得してしまう筆力である。また、平凡な人々のそうした意外さが、中程に何気なくはさまれているという作品の配置に思わず驚きを感じてしまう。


小さなエロ雑誌社につとめる「あたし」だが、そんな女性の心にもあこがれはひそむ。山田風太郎の文は切なく、あこがれないではいられない心をえがく。

「あたしは、あたしなりに、この世の恐ろしさを経験したつもりでした。それにもかかわらず、あたしが何かを「待つ」くせはなくなりませんでした」(山田風太郎「誰にも出来る殺人」)


エロ雑誌社につとめる「あたし」だが、その眼にうつる風景は詩人の心にうつる風景そのもの、口ずさむヴェルレーヌの詩の風景のなかの人のよう……という意外さにまず驚く。

くるときは、美しく晴れたおだやかな空だったのに、かえるときは、すさまじい風が、青い麦や樹々を海のように波うたせていました。黄塵が薄暮の空にこんこんと渦巻いて遠くの森も林も、黄色い煙のなかに、死の国の風景みたいにかすんでみえました。

「寒くさびしき古庭に、ふたりの恋人通りけり。まなこおとろえ口ゆるみ、ささやく話もとぎれとぎれ。……」

あたしは大好きなヴェルレエンの詩を口ずさんであるいていきました。

「お前はたのしい昔のことをおぼえておいでか。

なぜおぼえていろとおっしゃるのです。

ああ、ふたり唇と唇をあわせた昔、

あやうい幸福の美しいその日。

そうでしたねえ」

風が耳に鳴りました。

「昔の空は青かった。昔の望みは大きかった。

けれど、その望みは破れて、暗い空にときえました」

涙がこぼれるようで、そして恐ろしい詩でした。

(山田風太郎「誰にも出来る殺人」)


いつも打ちひしがれて妻と子をさがして歩く椎名さんの姿も、「あたし」の眼には、何かと戦っているような、何かにとりつかれているような妖しいものに見えるという意外さ。

椎名さんの姿は、アパートにいるときより、広い野中のせいか、いっそう見すぼらしくみえました。ヨレヨレの背広に、あの、やや凄味のある美しい顔も、埃にまみれて、病んでいるようにみえます。が、ふしぎなのはそれではありません。この眼もあけられないような黄塵の中—――ゆく人はみな帽子か腕でひたいを覆い、前かがみにあるいているのに、椎名さんだけは、あたまをあげ、必死に何かをさがしもとめているようなのです。砂の霧のなかに、その眼は大きくひらかれて、妖しい光をはなっているのでした。

(山田風太郎「誰にも出来る殺人」)


妻と子をさがして歩く椎名だが、彼の語る母子像の美しさにも驚きがある。

「あのふたりは、まるで蒼い天から下りてきたような母子でした。じぶんの妻、じぶんの娘でありながら、ぼくは純化されるようでした。ぼくは、自分の人生に、これほど幸福な時期がこようとは、それまで夢にも考えたことはなかったのです。ぼくはしばしば、娘を乳母車にのせて、町へ買物に出かけてゆくふたりの背なかに、透明な翼が生えているようにながめたものでした……」

(山田風太郎「誰にも出来る殺人」)


なかば気がくるいかけている管理人の娘の娘のあこがれにみちた言葉の美しさ、雨音のむこうに待っていたものの声を聞くという場面の美しさ。

「くるわ……くるわ……きっと」

 ブツブツと、娘さんはつぶやいていました。

「あたし、こうして待っているのだもの……きっと、くるわ」

「ねえ、何がくるんですの?」

と、そっと傍によりそって、志賀さんがささやきました。

「何だかわかんない。……」

依然として暗い雨の往来をみながら、娘さんはケロリとしてこたえました。

「けれど、きっとあたしのところへやってくるの……」

 それから小首をかたむけて、

「あ……きこえた……きこえたわ……」

「何が?」

「あたしをよぶ声が-ーー」

 何もきこえません。きこえるのは蕭条たる雨の音ばかりです。が、娘さんはなお夢みるような表情で、眼をかがやかせて、依然として耳をすませているのでした。」

(山田風太郎「誰にも出来る殺人」)


 トリックという点で見れば、どうなのだろうか……とも思うけど、聖なる者の俗、そして俗な者の聖なる部分を書いて驚かせた……という点で素晴らしい作品だと思う。

2018.12.17読了


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ジョージ・エリオット「ミドルマーチ」第一巻第一章(No.7)

たしかに性格にみられるこうした傾向は、年頃の娘をかなり左右するところがあって、習慣どおりに外見や虚栄で判断したりすることや、犬のごとき愛情で判断する振る舞いから娘を遠ざけた。これにくわえ、年上の姉もまだ二十歳になっていなかった。さらには二人とも、十二歳ごろ父親を亡くしてから教育を受けてきたけれど、その教育は度量が狭い反面、混沌とした計画にもとづいたもので、最初は英国の家族のなかで教育をうけ、のちにローザンヌのスイス人の家族のなかで教育をうけた。独り者の叔父が保護者となって、このようにして彼女たちが孤児となってしまった状況をなんとかしようとした。

Certainly such elements in the character of a marriageable girl tended to interfere with her lot, and hinder it from being decided according to custom, by good looks, vanity, and merely canine affection. With all this, she, the elder of the sisters, was not yet twenty, and they had both been educated, since they were about twelve years old and had lost their parents, on plans at once narrow and promiscuous, first in an English family and afterwards in a Swiss family at Lausanne, their bachelor uncle and guardian trying in this way to remedy the disadvantages of their orphaned condition.

The Complete Works of George Eliot: Middlemarch, A Study of Provincial Life (Vol I), Illustrated (189?)
Harper & Brothers, New York and London

ミドルマーチ1巻の挿絵より(1890年代)


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