さりはま書房徒然日誌2024年3月22日(金)

PASSAGEでお世話になっている小声書房さん主催、田畑書店会場のポケットアンソロジー読書会に行ってきました!
文アル好きにはたまらない会だと思います。
文アル組ではない私も楽しかったです!

21日北風がピューピュー吹きつけるなか、PASSAGEでとてもお世話になっている小声書房さん開催の読書会に行ってきました。
小声書房さんはまだお若いながら、埼玉北本で個性あふれる書店を経営されている方。PASSAGEにも週に何日か勤務され、搬入のときによくお世話になっています。


ポケットアンソロジー読書会ですが、通常は月に一度北本にある小声書房さんの書店で10時から開催……なので夜型人間の私には時間的にハードルがすごく高くて、気になりつつも参加できずにいました。
ところが今回は田畑書店を会場に18時15分から開催とのこと。これならいくら何でも寝過ごさない、時間的に大丈夫!(なんて情けない……)


さらに田畑書店さんの本はPASSAGEの私の棚にも数冊置いていますが、どれも持った時の感触の良さ、レイアウトの美しさ、校正ミスのなさがすごく心に残ります。この丁寧な本が作られている現場を拝見したいと参加を申し込むことに……。

参加しての感想ですが、非常に楽しく過ごすことができました。
そして私も2015年4月からミステリ読書会を開催してきていますが、小声書房さんの楽しさあふれる読書会と比べて反省するところ多々、お若い小声さんの読書会への姿勢に学び……というか、良い意味で衝撃を受けました。

私が開催している日比谷ミステリ読書会は、ゲストに翻訳家、ミステリ評論家、作家の方々に来ていただき、時によりけりですがお話していただいた後に語りあう……形。
元々先生方のお話を聞く、知識を得るということを楽しみにされる方が多く、できれば自分から語りたくない……というシャイな方が多いようにも感じています……。
なので昨日の読書会は「なぜこんなに楽しそうに語るのだろう?」と私も楽しみながら、小声書房さん、田畑書店さんの、皆さんから会話を引き出す魔法の杖の振り方にも見とれていました。

https://x.com/infotabata1968/status/1770752348169658470?s=61&t=0IAvG-WbAxkiVd1OmwzreQ

まず八人がけのテーブルに五人で座る、田畑書店社主の大槻さんは一歩離れたところに控えめに座る……という距離感が、読書会としては丁度いいのかもしれません。
日比谷ミステリ読書会の場合、24人、16人くらいの会場にロの字のことが多く……。皆さん声は大きいから余り気にしていませんでしたが、ロの字より、小声書房さんのようにテーブルを囲む方が話しやすい雰囲気が生まれる気がしました。

https://x.com/kogoeshobo/status/1770782709897384138?s=46&t=Ki4ptikIXq-WAEIIqi7hGQ


さて読書会が始まって自己紹介やら挨拶をしたあと、ザザッとテーブルの上に田畑書店ポケットアンソロジーの見本が広げられます。
みるみるうちにテーブルの中央がポケットアンソロジーの海と化します。
参加者はこの海に溺れながら、これから自分が紹介するポケットアンソロジーを一冊探します。
「◯◯のポケットアンソロジーがあれば教えて下さい!」という声が飛び交い、はじまって直ぐにみんなで何やら宝物探しをしている気分になります。
取り上げるポケットアンソロジーが決まったところで30分ほどかけて読み、その30分で紹介内容やら感想やら考えます。
その場で読んで参加できる……というハードルの低さも、ポケットアンソロジーならでは。
日比谷ミステリ読書会の場合、原則読んでの参加をお願いしていますが、皆さん忙しく、開始直前に読了される方もいらっしゃったりして、忙しい現代人が本を読んで読書会に参加する難しさも思います。

ポケットアンソロジーの海から参加者が選んだのは以下。見事にバラバラです。参加者はめいめい秘密の数字が渡され、感想を言い終えた方が好きな数字を選び、その数字の方が感想を語るという形です。まずは小声書房さんからスタートしました。

・マリオ・コーヒー年代記 吉田篤弘
・おじいさんのランプ 新美南吉
・秋 芥川龍之介
・生涯の垣根 室生犀星
・みちのく 岡本かの子
・沈黙と失語 石原吉郎

https://x.com/infotabata1968/status/1770752800537915861?s=61&t=0IAvG-WbAxkiVd1OmwzreQ



これだけバラけた選書で話になるのか……と思われるかもしれません。
でも、そこは小声書房さんがそれぞれの本の魅力、感想のツボを抑えてリードされ、話はぐんぐん盛り上がっていきます。

さらに今回はポケットアンソロジーの生誕地、田畑書店での開催ということもあって、田畑書店社主・大槻さんがそれぞれの作品の感想に応える形で作品の魅力を語ってくださいました。あれだけたくさんあるポケットアンソロジーの中の一文を記憶され、ささっと引用されるあたり、版元さんの熱意を感じました。

本を販売される小声書房さん、本を作られる版元の田畑書店さんならではの本への愛情、感想を語る読者への感謝が伝わってきます。小声書房さん、田畑書店さん、どちらも感想にピピっと反応して、さらに作品への想いが深まるような見方や知識を提供してくださり有難かったです。

かたや翻訳家や評論家をゲストにお願いしてきたわが日比谷ミステリ読書会ですが……読み手の感想へのリアクションが悪かったなあと反省をすることしきり。
そして同じ本に関わる仕事でも、版元、書店、翻訳家、評論家では、読者の反応への関心の度合いがまったく違ってくる……当たり前かもしれませんがそんなことを思いました。

次回の日比谷ミステリ読書会のゲストは著者を招く予定ですが、著者の場合、どんな風に反応するのだろうか……今から楽しみです。

こうして楽しく読書会が終わると、若い参加者たちは見知らぬ者同士でもこれまで収集してきた文アルグッズを手にまた熱く盛り上がり……。
私のような年寄りは、実物の作家よりもはるかに美化された顔の作家たちに驚くやら羨むやら。
でも文アルという年寄りには思いも寄らない入り口から入って、田畑書店のポケットアンソロジーを指針に、作品を読み、一人で読書会に参加されようとする若さがひたすら眩しかったです。

文アル好きの方は小声書房さんのポケットアンソロジー読書会、おすすめです。
さらにポケットアンソロジー発祥の地、田畑書店でまた開催されることがあれば、ポケットアンソロジー見本の海をわさわさかき回す幸せを体験できるのでお勧めです
そして読書会でワイワイ話しているときも、部屋の奥で黙々と作業されている田畑書店のスタッフの姿が見えました。両手に手袋をはめ、ポケットアンソロジーを一冊ずつ透明のビニール袋に大事そうに入れていく様子に、田畑書店の丁寧な本の秘密を、ほんのちょびっと見たように思います。

感想で発表したポケットアンソロジーを一冊、お土産に頂き帰途へ。

今回のお若い方の姿に反省しながら次回、日比谷ミステリ読書会の準備を少しずつ進めていきます。

次回日比谷ミステリ読書会の案内

課題本 篠田真由美「ミステリな建築 建築なミステリ」

ゲスト 篠田真由美

https://www.xknowledge.co.jp/book/9784767832616

日時 2024年6月16日(日)13:30〜16:30

場所 早稲田奉仕園222号室 教会の隣2階

会費 場所代+資料代を人数で割る予定、千円くらい

定員 15人
(要申込 biblio⭐︎ssugiyama.xsrv.jp までメールでお申し込み下さい。
 ⭐︎は@に変換ください。返信が届いて申し込みが確定になります)

ゲストより 必ず本を読んでご参加ください。
      できれば事前に質問くださると有難いです。 

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さりはま書房徒然日誌2024年3月21日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーありふれた食べ物が多いのは?ー

十二月四日は「私は電気毛布だ」で始まる。瀕死の状態のオオルリが世一と一緒に電気毛布で温まる場面が微笑ましく書かれている。

丸山先生の作品には、食べ物を食べる場面が時々出てくる。その食べ物の中で多いのが「卵かけご飯」だったように思う。


以下引用文。
この場面では、世一が「夜食のジャムパン」を頬張る様が書かれている。食べ物を食べる様子にも、世一なら子供らしさが出ているようで、ありふれた食べ物にもその人らしさがでる気がする。
普通の、どちらかと言えば大変な境遇にあることの多い人物を書く丸山先生だから、食べ物もすごくありふれた物になるのだろうか……と思った。

世一とオオルリが交わす会話にも、両者の気取りのない、率直な間柄が伝わってくる。

四六時中付き纏う孤影をどうにか追い払った世一は
   夜食のジャムパンを半分以上口の外へこぼしながら
      むしゃむしゃと頬張り、

      そうやって
         寝食を共にする両者は
            目と目を見交わしながら
               打ち割った話をし、

               おまえはおれに看取られて死ぬのだと

                  そんなことを少年が言うと、
                  オオルリは
                     寸分違わぬ言葉をそっくりそのまま返す。

そんなかれらは
   丘にぶつかって砕け散る風の音と併せて
      私の温もりに浸りながら

         現世の過酷さから解き放たれるための眠りに就き、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」261ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月20日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーエスカレートする喧嘩が目に浮かんでくるようー

十二月三日は「私は喧嘩だ」で始まる。
以下引用文。「せいぜい意見の相違」から勃発した二人の男たちの喧嘩が、あっという間にエスカレートしてゆく様が、「罵り合った」「すさまじい殴り合い」「どこか滑稽な取っ組み合い」と目に浮かぶように、丁寧に書かれている。

「ドブネズミの縄張り争いを彷彿とさせる」という言葉にも、「一興に値する光景」という言葉にも、どこか距離を置いて眺めているような心が感じられる。

よほど虫の居所が悪かったのだろう
   いい歳をしたかれらは
      束の間罵り合ったかと思うと
         すぐさま殴り合いへと移行して
            凄まじくもどこか滑稽な取っ組み合いへと転じ、

            互いに鼻血を流して路上をごろごろ転がる様は
               ドブネズミの縄張り争いを彷彿とさせる
                  一興に値する光景だった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」255ページ)

以下引用文。喧嘩している風景に世一や犬を点在させ、「折れたばかりの血の付いた前歯を奪い合った」とその姿を書くことで、ケンカの風景がますます賑やかなものに感じられてくる。

徘徊が生きる縁のすべてとなっている病気の少年などは
小躍りして喜び
      犬と競って
         折れたばかりの血の付いた前歯を奪い合った。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」257ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月19日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー初雪に重なる生の儚いイメージー

十二月二日は「私は初雪だ」で始まる。
「例年より二週間も早く」とあるが、丸山先生の住まわれている信濃大町の初雪の時期もそのくらいなのだろうか?早い初雪に修行中の禅寺の禅僧たちも心をかき乱され、自分たちの修行に疑念が生じる様子がどこかユーモラスに書かれている。
以下引用文。初雪にはしゃぐ世一の姿、「単純不動な鉛色の天空」、「誕生と死滅に挟まれた命の世界に響き渡り」という言葉で表現される一瞬の場面に、丸山先生のテーマでもある「誕生と死滅に挟まれた命」が初雪のイメージと重なって、その切なさ、素晴らしさ、儚さが伝わってくる。

片や世一はというと
   ただもう無邪気に私を求めて止まず、

   喜び勇んで飛び跳ねながら
      単純不動な鉛色の天空に向かって

         震えの止まらぬ腕をいっぱいに突き出し
            恐ろしく素っ頓狂な声を張り上げ、

その朗々たる奇声は
               誕生と死滅に挟まれた命の世界に響き渡り、


            そんな彼の並外れた神気の強さに圧倒され
               恐れを成した私は
                  直ちに融けて消えた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」253頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年3月18日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーなぜか色彩を感じる文ー

「私は本だ」で始まる十二月一日は、世一の姉が勤める図書館の本が、最近、ロマンス小説も読もうとしなくなった姉の心に起きつつある変化を語る。
そうした姉の心境を語る以下引用文。どの文も難解な言葉を使っている訳でもないのに、なぜか姉の心境がグラデーションの色彩となって見えてくる。なぜだろう。「退色した日常」「気持ちよく晴れ渡った日にあっさり首を吊った」「きららのごときまばゆい変化」という言葉から喚起される何らかの心象風景があって、文に色を感じさせてくれるのかもしれない。

たとえば
   嫌でも生きてゆかねばならぬ退色した日常に
      真っ向からぶつかってゆく覚悟を固めたのでもなければ、

      たとえば
        気持ちよく晴れ渡った日に
           あっさりと首を吊った親友の流儀に倣おうとしたのでもない。


要するに
   私のなかでしか起き得なかったロマンというやつが
      もしくは
         いつだって赤の他人の身の上にしか生じない
            きららのごときまばゆい変化が
               とうとう彼女の人生にも発生しつつあったのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」248ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月17日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」を少し読む

ー世一の目に映る世界とは?ー

十一月三十日は「私は消火栓だ」で始まる。
「古過ぎる消火栓」の側を通り過ぎてゆく様々な生ー酔っ払いたち、「放し飼いにされている犬ども」、「野育ちの典型である少年世一」、腰が曲がった認知症の老婆ーがユーモラスに描かれている。
こうした消火栓が見つめる生の模様も、文字による表現だから面白みがあるのだろう。
映像の場合、消火栓にここまで観察させて語らせることは出来ないのではないだろうか?

以下引用文。認知症の老婆と不自由なところのある少年・世一のやりとりが不思議と心に残る。
中でも「これは自分なのだ」と、「相変わらずちっとも目立ってくれず 甚だもって情けない立場に置かれた 古過ぎる消火栓」のことを語る世一の目は、どう世界を捉えているのだろう……と考え、心に残った。

さかんに私を撫で回す世一に向かって
   「おまえはこの子の友だちかい?」と尋ね、

   すると彼は
      全身に震えをもたらしている
         負のエネルギーを唇に集中し、

         途切れ途切れではあっても
            友だちなどではない旨を
               きっぱりと告げ、


その直後に
                            これは自分なのだと
                                そう付け加えた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結」244頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年3月16日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーそれぞれの鯉が意味しているものー

十一月二十九日は「私は池だ」で始まる。
以下引用文。池は自分のことをこう語る。「滲みや斑のない錦鯉」はまるで世間並みの人生を歩んできた人々のようであり、「緋鯉の彫り物を背負った男」(世一の叔父)とは対照的に思えてくる。

どこにも滲みや斑のない色彩と
   見応えのある模様に覆われた錦鯉を抱えこみ、

   緋鯉の彫り物を背負った男を
      くっきりと水面に映している
         山中の池だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」238ページ)

以下引用文。池のほとりで急に服を脱いだ男。その背中に彫られた巨大な緋鯉が、「ほとんど血の色に染まるや」という箇所に、男のこれまでの人生が重なって浮かんでくる文である。
餌に期待して浮上していた錦鯉の群れが「いっせいに怯えてさっと散り その日は二度と姿を見せず」という箇所は、まるで大衆の行動を見るようである。「底へと降りていった」という錦鯉の動きにも、希望から縁遠い大衆の姿を見るような気がする。

その背中を私の方へ向け、

滝を登る巨大な緋鯉が夕日に映えて
   ほとんど血の色に染まるや
      餌に期待して浮上していた錦鯉の群れが
         いっせいに怯えてさっと散り
            その日は二度と姿を見せず、

            夜が更けるにつれて
               底へと降りて行った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」241ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月15日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー強風が迫ってくる書き方ー

十一月二十八日は「私は夜風だ」と「山国特有のめまぐるしい気圧の変化」から「生まれた気紛れな夜風」が語る。
以下引用文。山国の風が激しく吹く様子を描写している。
私なんかだったら「強い風がゴウゴウ吹きました」で終わりにしてしまうかもしれない箇所だ。
丸山先生は自然の中での暴風を描いてから、徐々に人間の暮らしへと風を近づける。そのため強風がだんだん近づいてくるような感覚を覚える。
また湖から木々へ、と広い場所から小さな物へと視点を移していくのも、風が近づいてくる感じをよく醸していると思う。
「死んだ枝」の次に「産院からほとばしる呱々の声」がくるコントラストも鮮やか。
「薬屋の看板を倒す」の箇所も「薬屋」で生のイメージを訴え、「倒す」で死につながる気がする。

最新の天気予報でも予測し得なかった私は
   手始めにうたかた湖を隅々まで波立たせ
      ついで
         湖畔の木々をのたうち回らせてから
            一挙に町を襲い、

            街路樹にしぶとくしがみついていた枯れ葉を

               一枚残らず吹き飛ばして
                  死んだ枝を振り落とし、
                     産院からほとばしる呱々の声を
                        地べたに叩きつけ、
                        近日開店の運びとなった
                           薬屋の看板を倒す。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」234ページ) 

だが、そんな夜風に世一は怯むことなく「はったと睨み」対峙する。それは青い鳥オオルリのおかげだ。

以下引用文。「千日の瑠璃」の青い鳥は、なんとも気迫を感じる鳥ではないか。

後ろ盾となっているのは
   超感覚的な力を具えているかもし
れぬ
      一羽の青い鳥だ。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」234ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月14日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を読む

ー作者と近い存在が語ると言葉が固く、厳しく、理屈っぽくなる気がするー

十一月二十七日は「私は印象だ」で始まる。以下引用文のように丸山先生を思わせる作家が、少年世一に対して感じる印象である。

収入の都合でやむなくまほろ町に移り住み
   かつかつの暮らしを維持するために
      せっせと小説を書き続ける男の
         少年世一に対する当初の印象だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」230ページ)

丸山先生らしき作家が抱いている印象が語っているせいだろうか。「印象」が語る箇所はすべて言葉が難しく、固い言葉が多く、語調も厳しく、漢字が多いなあと感じた。これは意識してのことなのだろうか?それとも自分の視点に近い位置から語っていたら、無意識のうちに文体がこうなったのだろうか?真相は分からないながら、そんなことを感じた。

のべつ何かしらの助力を誰彼の見境もなく仰ぐ者にして
   同世代の仲間から完全に放逐された者であり、

   なお且つ
      ただそこにそうして存在しているだけで
         ただ他人の心の領土を容赦なく蚕食する
            始末の悪い厄介者なのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」230ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月13日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーベンチだからこそ感じられるものー

十一月二十六日は「私はベンチだ」で始まる。語り手のベンチは「悲哀に満ちあふれた 粗末な造りのベンチだ」で、その上に座っている四人の男たちの人生が仄めかされる気がする。

以下引用文。試合が終わっても「居残って 帰宅しようともせず」という老人たちの心の描写に「ああ、やっぱり粗末なベンチのイメージと重なる」と思ってしまう。

そうすることで
   きょうという日を少しでも長引かせ、
      そうすることで
         家族の心の負担を減らそうとしている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」226ページ)

以下引用文。ベンチに腰かけていた男たちが世一を哀れんで呼び寄せ、ベンチに座らせる。

そのとき
   みしっという音を立てたのは
      予想外の重さのせいで、

      だからといって
         体重のことを言っているわけではなく、

         魂の重さときたら
            それはもう尋常ではなかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」229ページ)

ベンチが世一の魂の重さに驚く展開に、今後どうなるのだろうかと楽しみになる。でも「魂の重さ」なんてものを感じられるのはベンチだからこそ。万物を語り手にする「千日の瑠璃」の面白さはここにある気がする。

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