2019.01.21 隙間読書 平井呈一「真夜中の檻」よりエッセイ&東雅夫氏の解説

* 平井呈一の怪談にまつわるエッセイについて

「真夜中の檻」に収録されている平井呈一の怪談にまつわるエッセイを読む。平井は「読むそばから筋も人物も忘れてしまうほうときているから、解説者にはいちばん不向きな人間」とみずからを語るが、平井のエッセイは古今東西それぞれの作家の魅力、位置づけをわかりやすく語ってくれる。そのなかでも印象に残った箇所を以下にメモ。


このゴシック・ロマンスの正統派であるという点にレ・ファニュのいいところも悪いところもあるのであって、じつはゴシック・ロマンスの伝統をどう踏み切るか、そこが恐怖小説として近代を踏み切るか踏み切らぬかの分かれ目になるところだと思う。ポオはそれを宇宙的概念と幾何学的推理によって、みごとに踏み切った。(途中略)残念ながらレ・ファニュはそうした新しさは持っていないかわりに、正統派としては断然他を圧している、無二の存在であることは否むことができない。


ダーレスはまた、ラヴクラフトの叙述の妙をたたえているが、ポオに匹敵するこうせいえの緊密、語彙の豊富もさることながら、その最も著しい特色は叙述が極めてリアリスティックな点であろうと思う。異次元の世界の恐怖を、かれは克明にリアリスティックに描写する。おなじ異次元の恐怖でも、マッケンなどは恐怖の本体をなるべく暗示するだけにとどめて、読者の無意識の恐怖を誘うやり方で行くが、ラヴクラフトはその異次元の恐怖を明細すぎるほど鮮明に描写して、目のあたり読者の意識的恐怖を強いるのである。


これは「幽霊屋敷」というより「化物屋敷」に属するのかもしれないが、江戸時代の国学者、神道家の平田篤胤に、「雷太郎物語」という戯作があります。これは誰もまだ何も言っていませんが、じつにおもしろいものです。(途中略)あの「玉欅」や「古字解」の著者のきちがい爺さんに、こんなラヴクラフト何するものぞと言いたくなるくらいの奇想天外なー草双紙の陰湿な血なまぐさいファンタジーとはまったく違う、神道家らしいカラッとしたファンタジーがあるのがおもしろくて、わたしは珍重しているが、篤胤にはほかに「天狗かくし」の子供の刻銘な聞き書きなどもあって聞き手がそういう怪異を信じきっているので、じつにおもしろい記録となっています。


*「真夜中の檻」東雅夫氏による解説について

東氏は、平井呈一が早大英文科に入学してから経済的理由で退学する二年間を中心に、大正八年から十三年までの幻想文学の動きを分かりやすく年表にまとめてくれている。さらに大正時代の幻想文学の動向について生き生きと語る東氏の文を読んでいくうちに、こうした本を楽しみにして書店通いをした平井呈一の姿がしぜんと浮かんできた。


芥川龍之介・佐藤春夫・谷崎潤一郎という文壇の麒麟児が競い合うかのように怪奇幻想小説の筆を執る一方、後に怪奇幻想小説の牙城となる「新青年」が呱々の声をあげ、泉鏡花・岡本綺堂・国枝史郎・鈴木泉三郎が江戸伝奇文芸復興の狼煙をあげれば、稲垣足穂や小川未明や宮沢賢治が国産ファンタジーの原点にして頂点ともいうべき著作を世に問う。

またこの時期、西条八十、堀口大學、上田敏、片山廣子(松村みね子)、矢野目源一、日夏耿之介といった学識と文藻を兼ね備えた個性的翻訳家たちが排出し、西欧幻想文学の精華を流麗な訳文で移入しているのも見逃せないところだ。

若き日の呈一は、そんな百花、いや百鬼繚乱の幻想庭園に、無我夢中で飛び込んでいったのだろう。あたかも、ウェールズの古さびた山河に惑溺するルシアン・テイラーさながらに……。(「真夜中の檻」東雅夫氏の解説より)


東氏の解説によれば、平井呈一が佐藤春夫に伴われ、永井荷風宅を初めて訪れたのは昭和10年2月2日のこと。年齢を計算したら、平井呈一32歳、佐藤春夫42歳、永井荷風55歳のときである。この場面には関係ないが、当時、泉鏡花は61歳である。


東氏の解説を乱暴にまとめれば、それから2年もしない昭和12年11月に、平井呈一は「文学」誌上に永井荷風論を発表、「そこに並々ならぬ教養と文学的センスを認めた荷風が、自らの良き理解者として好感を抱き」、両者の蜜月関係は始まり、平井は荷風の代筆などを任されるようになる。

昭和14年に贋作事件が発覚。平井呈一が偽筆した荷風の書や原稿を、猪場毅が売りさばいていたことがわかる。

ただ事件後、荷風は黙認にちかい態度を示していたそうだが、昭和16年の暮れに事態は一変。昭和17年3月7日、両者の関係は完全に途絶えたそうだ。東氏は、このすれ違いに至った原因を平井の金銭賃貸問題や急な転居に不信をつのらせた荷風が引導をわたした……と説明されていたが、はたしてそうだろうかとも思う。


荷風が平井呈一の贋作事件を題材にした「来訪者」についても、東氏は解説でふれている。「来訪者」のなかの言葉「白井は鏡花に私淑してゐるのかね」の箇所に、白井(平井呈一がモデル)の鏡花への傾倒ぶりに焦り、怒って、狼狽える荷風の思いを感じる。

荷風と平井呈一の関係がこじれた昭和16年には、2年前に亡くなってはいるが鏡花の全集刊行が始まっていたということも関係しているるのではないだろうか? 鏡花も、荷風も全集はすでに出ていたが、鏡花の方がそれまでの全集刊行の回数は多い。最初は鏡花を評価し、三田文学に紹介した荷風だけれど、没後も全集が刊行される鏡花に嫉妬をおぼえ、鏡花に私淑する平井呈一との関係が悪化した……ということはないだろうか?

昭和9年9月16日の断腸亭日常に、人から聞いた話として「泉鏡花氏は先師紅葉山人の遺品は落語家のものとは同列に陳列しがたしとして、出品を拒絶せしと云ふ。鏡花氏の褊狭寧笑ふべし」と書いているくらいだから、荷風は鏡花にあまりいい感情をもっていなかったのでは……?と思う。

優秀な愛弟子・平井呈一が、自分とはあまり歳がかわらないけど、自分よりも世間に評価されている鏡花に私淑している……という事実に荷風はショックをうけたのでは? 当時、刊行されていた鏡花全集の話題がでたときに平井の鏡花への傾倒に気がつき、荷風としては非常に頭にきたのでは? でもそんな心の狭い時分を世間にみせるのはさすがに恥ずかしいから、もっともな贋作事件で平井呈一を攻撃した……という気がするのだが、事実はどうなのやら?


「断腸亭日常」昭和10年4月17日には、こう記されている。

此日午後電話にて神田の一誠堂に注文し、和訳ハアン全集を購ふ 金八十円 余が少年時代の日本の風景と人情とはハアンとロチ二家の著書中に細写せられたり。老後この二大家の文をよみて余は既往の時代を追懐せむことを欲するなり

荷風が平井呈一と初めて出会った昭和10年2月2日から二カ月もたっていない此の日、当時の大卒初任給に匹敵するほどのハーン全集を買ったのは偶然だったのだろうか? 荷風がハーン全集を買ったのも、平井呈一がハーン全集を訳したのも、ふたりの楽しいひとときがあったからでは……と答えのでない想像をめぐらして頁をとじる。

2019.1.21読了

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