この版は、6版をほぼ再販したものである7版の再版であり、変更点は細部の些細な箇所である。序言も7版とほぼ同じである。(12ページ)
この巻の第一版をだしたときに、第二巻の予定があることを示唆したが、適切な時間をかけて論文を完成してから刊行するつもりだった。しかし計画が規模の大きなものになり、範囲も広がりすぎたのは産業革命の鼓動のおかげだが、その鼓動は速さと広がりの両面で、一世紀前の変化をしのいだ。2巻の本を完成するという希望を断念せざるをえなかった。計画は一度以上変更されたが、事のなりゆきでそうなった部分もあり、私が他に約束をしいたせいでもあり、私の力が衰えたせいでもある。(13ページ)
「産業と貿易」は1919年に出版され、この本の延長線になる。第三版(貿易、財政と産業の未来について)は、更に進んだものとなっている。この三冊の本は、筆者の力がおよぶ範囲で、経済の主要な問題について扱っている。(14ページ)
この本は、それゆえ、経済学への一般的な導入であり、いくつかの箇所は「基礎」の巻と似通っているが、すべてが同じというわけではない。ロッシュラー(ドイツの経済学者)や他の経済学者は、その本を経済に関する本のなかでも、最先端のグループにおいた。この本は、通貨や市場組織のような特定の話題については避けている。この本が主として扱うのは、産業構造、雇用、賃金の問題についてである。(15ページ)
経済の発展は緩やかなものである。ときとして経済の進展は、政治的な混乱により引き留められたり、巻き戻されたりする。しかし経済の前進しようとする動きは突然生じるものではない。西側社会においても、日本においても、経済の前進のもととなるのは習慣であり、それを意識していることもあれば、無意識の場合もある。天才的な発明家、創立者というものは、一撃で、人々の経済構造を変えたようにみえるかもしれない。しかし、こうした影響というものは表面的なものでもなければ、一時的なものでもない。広大な建設的な動きを長い時間をかけて準備し、頭にうかんだ探求に基づいている。このように頻繁にあらわれ、とても整然としているので、特質は綿密に観察され、注意深く研究される。こうした特質を明らかにして示すということが、他の科学的な研究と同じように、経済学においても基礎となる。こうした科学的研究は発作的なもので滅多になく、観察がむずかしい。そして後に特別な検査をうけるためにとっておかれることが一般的である。「自然は飛躍せず」というモットーは、経済学の基礎についての本にまさに適切な言葉である。(16ページ)
こうした比較についての例証を引き出せるのは、この本と「産業と貿易」では、大会社についての研究という項目かもしれない。産業が枝分かれして、新しい分野を、新しい会社に提供するときがある。その会社は第一段階に達してはやがて衰退していくのだが、会社における製造コストは「代表会社」に関連して見積もられる。代表会社とは、内部経済と外部経済の双方を、公平に共有して享受するものである。内部経済とは、よく組織された個人事業に所属するものであり、外部経済とは、その地区の集団的な組織から生じるものである。こうした会社についての考察は、妥当なところだが、「基礎」についての巻にある。独占を設立する原則についての研究も、同様に、その巻にある。政府や巨大な鉄道の手にある独占企業は、歳入を参照にして価格を規制するが、多少なりとも消費者の福祉を考えるものである。(17ページ)
しかし、トラスト(企業合同)が巨大市場を征服しようと試みるとき、普通の行動が背景にある。株で成り立つ社会が形成されるときでも、形成されないときでもだ。とりわけ特別な体制の政策で支配されようとするときであり、仕事で成功することに誠実なのではなく、巨大な証券取引所の作戦行動や市場を制御しようとする運動に従属するときである。こうしたことがらについて、「基礎」についての巻では、適切には説明できない。だから上部構造のいくつかを取り扱う巻で述べている。(18ページ)
経済学者のメッカは、経済の歴史よりも、経済の生活現象にある。しかし生活現象についての概念は、機械についてよりも複雑なものである。だから「基礎」についての巻は、機械の類似性について比較的大きく取り上げている。しばしば使用されるのは「平衡」という単語だが、この単語は変化のない類似性からなるものを示している。優れた注意と一体となる事実は、現代における人生のありふれた状況にむけられ、その中心となる考えは「動的」というよりも変化しない考えを示している。しかし実際に動きを生じるのは力に関したことであり、その基調となるのは安定より、動的なのである。(19ページ)
しかしながら扱う力がたくさんありすぎるため、一度に扱うのは二、三にして、主な研究への補助として、部分的な解決策をたくさん試みるのがよい。特別な商品に関しては、需要と供給と値段の主要な関係をこのように切り離すことによって始まる。「他のものと等しいから」という言葉によって、すべての力を不活発な状態まで弱める。こうした力が不活発だとは思わないが、しばらくのあいだ、その活動を無視する。こうした科学的な考え方は、科学より古いものである。意識的にせよ、無意識的にせよ、遠い昔から、鋭敏な人間が、ふだんの生活の難しい問題を扱ってきた方法なのである。(20ページ)
第二段階では、強制されていた仮の睡眠状態から、さらなる力が解き放たれる。特定の商品グループにおける商品の需要と供給の状況変化がはじまる。そして複雑な相互交流が観察されるようになる。徐々に動的な問題の分野が広がる。暫定的な、変化のない仮定の分野は小さくなり、ついに大勢の異なる製造業者のあいだで、国の配当金を配分するという中心的な問題へ到達する。同時に「代理人」の動的な原則が作用し、製造業者の需要と供給を引き起こす。製造業者は、他の業者との関連のなかで、需要と供給の動きに間接的な影響をうける。たとえ産業から遠く離れた場所においてでもある。(21ページ)
経済の主要な関心とは、このように善と悪のために、変化と進歩にかりたてられた人間と共にある。断片的な、変化しない仮定が用いられるのは、動的な、あるいはやや生物学的な概念への、一時的な補助としてである。しかし経済の中心になる考えは、その基礎の部分だけが話し合われているときでさえも、生き生きとした力と動きがある考えにちがいない。( 22ページ )
社会に関する歴史には段階があって、その段階において収入の特徴が生じたが、それは人間関係を支配してきた土地の所有権によるものである。おそらく土地の所有権のほうが人間より上位にたつと、もう一度主張する者もいるかもしれない。しかし今の時代においては、新興国から踏み出した第一歩は陸上や海上における低価格の移動運賃に助けられることになり、収穫逓減への傾きがほぼ停止したのである。その意味では、収穫逓減という言葉がマルサスやリカードによって用いられたとき、英国の労働者の一週あたりの賃金は、良質の小麦1ブッシェルの半分の価格より低いものだった。もし人口の伸びが現在の率の1/4倍となり、その状態が長く続いたとしても、土地のあらゆる使用に対する地代の合計(公共機関による規制をうけないと仮定する)は、他の形式の物的財産を剥奪したことによる収入を合計したものを上回るかもしれない。たとえ20倍の労働を示すことになるかもしれないとしてもだ。(23ページ)
こうした事柄については、現在までの版で、ますます重要視されてきたことである。製造と貿易の枝分かれしたあらゆる部分に、限界収益点(生産量をわずかに増加させたときの総収益の増加分)があるという関係事項についても同様である。限界収益点については、仕事をする人がどんどん利用するようになると、定められた状況のもとで利益をだすようになるだろう。しかし、そうした状況をこえても、限界収益点をもっと適用していくことで、収穫逓減(しゅうかくていげん・・・他の生産要素(例えば土地)を一定とし一生産要素(例えば労働)のみを増加させると、収穫の絶対量は増加するが、その増加率は漸減すること)が生じるだろう。需要がふえていかなければ、収穫逓減を生じるのに必要な製造者が適切な数に増えていくことにもならない。補足的な事実だが重要視されつつある事実がある。それは限界収益点は統一されたものでもないし、絶対的なものでもないということである。限界収益点が変化するのは、問題の状況にもよるし、とりわけ言及されることになる期間の長さにもよる。ルールは世界共通である。(1)限界費用(生産量を一単位増やすことによって生じる総生産費の増加分)は価格を支配しない。(2)限界収益点においてのみ、価格を支配する力で活動をおこない、はっきりとした光でその力見ることができる。(3)限界収益点とは長い期間にわたって永続的な結果に関連して研究されなければいけないものであり、短い期間に一時的な変動に関連して研究されなければいけないものとは異なる。(24ページ)
限界費用(生産量を一単位増すことによって生じる総生産量の増加分)の変動は、以下の、よく知られた事実による。経済的原因のこうした影響は、簡単には追求できるものではない。だが、重要なものである。重要なことは観察者がいだく第一印象ではなく、観察者の目をひきつけるものでもなく、経済的原因のこうした影響のほうが重要なことが多い。過去において、この影響が経済分析の発端となり、苦しみとなった。この重要性は、おそらく一般には理解されない。そのため完全に理解するには、更に研究をしていくことが必要となる。(25ページ)
様々な要素が許す範囲で、少しずつ、試験的に、新しい分析により経済にもたらそうと試みられているものがある。その試みとは、わずかな増加(一般的に異なる計算方法を呼び起こす)に関する科学的方法である。近年、物理的要素に関しては、コントロールできるようになった。その大半は、直接的、間接的に、科学的方法によるもので、まだ初期の段階である。定論もなく、学説もない。専門用語を完全に定着させる時間もない。その他のどうでもよい事柄は、健全に生活しているという徴でしかない。しかしながら実際に、本質的要素に関して、素晴らしい調和と同意が見いだされる人々がいる。それは新しい方法をつかいながら発展的に働いている人々であり、もっと単純ではっきりした仕事で見習いとして働いている人々でもある。あるいは、発展的な物理の問題のために働いている人々である。一世代が過ぎた30年後には、経済に関する調査分野への、限られたものながら重要な統治権は当然のものとなり、論争となることはないだろう。(26ページ)
妻はこの本の、どの版においても、あらゆる箇所を手伝ってくれ、私に助言してくれた。この本のかなりの部分は、彼女の示唆や心配りや判断によるところが大きい。ケインズ博士とL.L.プライス氏には、初版の証明を読んでいただき、多大な助言をいただいた。A.W.フルックス氏からも、また、多大なる尽力を頂いた。ご尽力くださった多くの方のなかでも、一版だけでなく複数の版でご尽力をいただいた方々として、アシュレー教授、キャナン教授、エッジワース教授、ハーバーフィールド教授、ピグー教授、タウシック教授、ベリー博士、C.R.フェイ氏、シジウィック元教授に感謝を捧げたい。
ベーリアール・クローフツ 6、マディングレー・ロード、ケンブリッジにて 1920年(27ページ)
この章の脚注
1.1879年に妻と私が出版した「産業の経済」において、この基本的なまとまりの特質をしめそうという努力がなされた。需要と供給の関係を説明しようとする短い試みが、配分の理論の前になされた。一般的な推論についての、このひとつの案は労働者からみた賃金、資本の利子、経営者からみた賃金と継承して用いられた。この取り決めは漂流してしまい、十分にはっきりしたものにならなかった。ニコルソン教授の提案に関して、この本ではさらに重要なものとして考えている。
2.”marginal”(限界)利益という言葉はドイツのチューネンの孤立国(1826年から1863年)から借りたものであるが、今ではドイツの経済学者によって一般的に用いられている。ジェボンの理論があらわれたとき、”final”(最終的な)というその言葉を採択したが、だんだんと”marginal”(かろうじて収支を償う、限界の)のほうがいいと思うようになってきている。