1.1.17
不運にみまわれた人々が、悲しみの原因について語り合うことのできる相手をみつけたら、どんなに楽になることだろう。相手の共感のおかげで、絶望は軽くなるようにみえる。悲しみを分かち合おうと不作法に言われるわけではない。相手は同じ類の悲しみを感じているだけでなく、悲しみを自分自身へひきよせたかのようであり、その思いのおかげで悲しみが軽くなるような気がする。しかし不運について語ることで、自分の悲しみを再び話すことになる。記憶のなかで、苦痛をもたらした状況について思い出をよびおこしていく。そのため以前よりも涙にかられ、悲しみという弱さに身をゆだねがちになる。しかし、これはまた喜びでもあり、あきらかに安堵できるものでもある。なぜなら相手の共感は、悲しみの苦さを補ってあまりうるものだからである。この共感をひきだそうとして、不運な人たちは悲しみを生き生きと蘇らせる。反対に不運な人たちを無情に侮辱しても、かえってその災難が大したことでないように見えてくる。仲間が喜んでいても何とも思わない様子は、思いやりに欠けている。しかし苦労話を聞いているときに真面目な顔をしないのは、人間性を欠いていることいちじるしい。
1.1.18 友を許せるとき、許せないとき
愛とは心地よいものであるが、怒りは不快な感情である。だから怒りの矛先をむけつつも、友達が自分との友情を選ぶと、私たちは大変心配になる。また自分がうけてもいい筈の好意なのに、友達が何とも思わないこともある。それでも友達のことを許せる。だが自分が侮辱されたときに友達が無関心であれば、我慢できなくなってしまう。友達が自分の怒りに共感しないときに、かえって感謝をすることがある。その感謝をうけとめてもらえなくても、私たちはさほど怒りはしない。友達になることを避けてとおることはたやすい。でも自分と一致しない人を敵だと思わないことは難しい。私たちはたまに、友達に憎しみをいだく相手に怒って、そうした人と危険な論争を好んでする傾向がある。だが相手が友達と親しくなれば、口論は真剣なものとなる。愛や喜びという心地よい感情は、付加的な喜びを生じなくても、心を充たし支えるものである。悲しみや怒りのような感情が苦々しく、苦痛にみちたものになるほど、共感してもらい、癒されるという慰めを強く求める。
1.1.19 不幸なひとが幸せでも、冗談が予想よりうけても私たちは不機嫌になる
どんな事態であれ、影響をまともにうける人にすれば、共感はありがたいものである。いっぽうで、共感してもらえないときには傷ついてしまう。だから私たちも相手に共感できると嬉しく、共感できないときには心が傷ついてしまう。私たちは成功を祝うためにも駆けつける。そして苦しむ人を慰めるためにも駆けつける。心のなかにある情熱をすべて分かちあえる相手と会話をしていくときに喜びを見いだす。だが相手の状況によっては、その悲しみの痛々しさに影響をうけることもある。でも喜びのほうが大きく、悲しみを補ってあまりうるものである。それとは反対に相手に共感できないという思いには、いつも不快になる。共感のせいで感じる苦痛がなくなっても嬉しいことではない。相手の不安を分かちあえないことに気がついて傷ついてしまう。もし不運を嘆き悲しむ人がいて、その境遇を自分のこととして考えてみても、強烈な何かが私たちにおきるわけではない。ただ相手の悲しみに衝撃をうけるのである。悲しんでいるひとに小心者だとか弱いとか言うのは、悲しみを分かち合うことができないせいなのである。それとは逆の場合もある。幸運には恵まれていない筈のひとが、とても幸せそうにしていたり、元気そうにしているのを見ても、私たちは不機嫌になる。相手が喜ぶ様子に傷ついたりもする。その様子をみて軽薄とか愚かとか言うのは、相手の喜びについていけないからである。親友の笑いが本来より大きくて、いつまでも続いたり、実際に自分が笑える以上に笑われると、私たちはユーモアの心を失ってしまう。
1.1.20 相手の感情と重なるときはいいけれど、重ならないときもある
ある状況で中心となって行動している人の感情と、その行動に共感しながら観察している人の感情が完全に一致することがある。その場合、行動する人の感情と観察する人の感情が正しく、適切に、ふさわしい形で、その場の状況にむけられているようにきっと思えるはずである。反対にそうした状況を間近に感じているのに、自分の感情が相手と一致しないこともある。その場合、そうした感情を生じている原因が間違っていて、不適切で、ふさわしくないもののように思えるはずである。ほかの人がいだいた感情をもっともだと認めることは、相手にすっかり共感しているということでもある。私の怪我に憤る人が、同じくらいに自分の怪我に憤る私の様子をみても、怒って当然だと思うことだろう。私の悲しみに共感する人は、悲しむのももっともだと認めるしかないだろう。同じ詩をいいと思い、同じ絵をいいと思い、私と同じようにいいと感じる人なら、憧れる私の思いを認めてくれることだろう。同じ冗談に笑い、私と一緒に笑う人なら、私の笑いが妥当でないと拒むわけにはいかないだろう。反対に、それぞれの場面で、同じ思いを感じなかったり、私の思いと釣り合いがとれないような感情しか抱いていなければ、思いが一致しないという理由で私の感情を非難しないではいられない。もし私が悪意にみちるあまり、友の憤りとの釣り合いをこえるとしよう。もし私の悲しみが過ぎるあまり、優しい同情も寄り添えないとすれば。もし私の憧れる気持ちが高すぎるあまり、あるいは低すぎるあまり、相手の気持ちと釣り合いがとれないとしたら。もし相手が微笑んでいるだけなのに、私が大声で笑い転げたとしたら。あるいは逆に相手が大声で笑い転げているのに、私が微笑んでいるだけだとしたら。いずれにせよ状況を考え、自分がどう状況から影響されているのか観察してみるとすぐに、相手と私の感情には多少の不釣り合いがあるので、賛成してくれない相手を背負い込むことになる。すべての場合において、相手の感情が私の感情を判断する基準であり手段なのである。
1.1.21 相手の意見を認める、認めないってことは、相手が自分に賛成かどうかってこと
他の人の意見に同意するということは、相手の意見が正しいと認めることである。そして他の人の意見が正しいと認めることは、相手の意見に同意するということである。もし、あなた方を納得させる議論が同じように私を納得させるのなら、あなた方がよせる信頼をきっと認めるだろう。もし納得できなければ、きっとあなた方の信頼を認めることはないだろう。片方がかけた状態では、信頼している自分も、納得している自分も、おそらく思い描くことはできない。だから他の人の意見を認めるという行為も、認めないという行為も、相手が自分の意見に賛成なのか、それとも不賛成なのかということを観察するだけのことなのだ。そして他の人の考えや感情に賛成なのか、不賛成なのかということについても、同じなのである。
1.1.22 笑わないときもあるけど、ほんとうは笑うべきだって理解している
でも中には、共感しているわけでもない。感情が一致しているわけでもない。それなのに相手が正しいと思える場合も、たしかにある。そういう時、相手を賞賛する気持ちと、こうした一致を認める気持ちはちがうもようにみえるかもしれない。しかし少し注意をむけてみれば、共感していないようにみえても、感情が一致していないよいうにみえても、相手を正しいと思う気持ちには、やはり共感や感情の一致が根底にあることを確信することだろう。くだらない本性から生じる事柄を、一例にあげてみよう。なぜなら、そうした事柄は制度が正しくないからといって、堕落してしまうようなものではないからである。冗談を言われてそのとおりだと思うことも、しょっちゅうかもしれない。仲間の笑いが正しいものだと思い、状況にあっていると思うことも、よくあるのかもしれない。でも、自分では笑わない。おそらくユーモアの墓場にいるのかもしれないし、あるいは注意がほかの対象にむかっているのかもしれない。しかし経験から、どんな種類の冗談に笑うことができるのか、ほとんどの状況において学んでいる。そこで、これは笑っていい冗談だなと判断するわけである。だから仲間の笑いが正しいものだと考え、その状況では笑うのが自然でふさわしいと感じる。そのときの気分では笑う気にならなくても、ほとんどの場合、心から一緒に笑うべきだと理解しているからである。
1.1.23
他の感情すべてにも、同じようなことがよくおきる。見知らぬ人が深い苦悶の表情をうかべて通り過ぎたあとすぐに、父親の死の知らせを受け取ったばかりなのだと教えられたとする。この場合、父親を亡くした男の悲しみを認めないわけにはいかない。しかし人間らしい心が不足しているわけではないのに、激しい悲しみを分かち合うこともないし、相手の話をきいて問題の第一楽章を心にいだくことが、ほとんどできないのである。男にしても、その父親にしても私たちからすれば、まったく面識がなく、私たちは二人とは関係のないことに身を捧げて生きているのである。だから自分とは異なる境遇におかれた男があじわう絶望を、時間をかけて想像して思い描いたりしない。しかし経験から、こうした不運は悲しみをある程度かきたてるものだと知っている。男の境遇をよく考え、あらゆる角度から思い描くことで、きっと男に心から共感するだろう。相手の悲しみを認める土台となるものは、こうした条件つきながら共感しているという意識である。だが、こうした場合でも実際には、共感しているわけではない。まず経験があって、それからその経験に対応する感情がある。このことから、よく知られているルールがひきだされ、感情への認識をあらためていく。すなわち他の多くの事例のように、私たちが今感じている感情が、適切なものではないということである。
1.1.24 モラルも徳も心にある
モラルにしても、感情にしても心にあるもので、そこから何らかの動きが生じる。徳にしても、悪徳にしても結局のところ、すべて心にもとづいている。モラルと感情は異なる二つの面であり、また異なる二つの語りであると考えられる。まず一つは、そうした感情を呼び起こす理由、あるいは動機に関連している。そして次に関連しているのは、かかげられた目的であり、心が生み出そうとしている効果についてである。
1.1.24 モラルも感情も面の裏表
モラルにしても、感情にしても心にあるもので、そこから何らかの動きが生じる。徳にしても、悪徳にしても結局のところ、すべて心にもとづいたものである。モラルと感情は面の裏表であり、また語り方をかえた同じ話なのである。そうした感情を呼び起こす理由や動機に関連したものでもあり、あるいはかかげた目的に関連していたり、心が生み出そうとしている効果について関連したものである。
1.1.25 心にすべて共存している
感情が生まれる原因や対象がふさわしいものであっても、ふさわしくないものであってもいい。釣り合いがとれていても、不釣り合いでもいい。感情の結果として起こす行動が適切なものでも、不適切なものでも、礼儀正しいものでも、乱暴なものでも、共存していくものである。
1.1.27 そうした感情になる理由が大切
1.1.28 ポイントは自分の感情とぴったり一致するかってこと。
どんな感情にしても、その理由が適切なのか不適切なのかについて、このように判断することもある。そのときに、自分と一致する感情ではなくて、他に判断のもととなる法令や教会の法令を使いなさい、ということはまず不可能である。もし、切実にその感情を感じて、そうした状況がひきおこす感情が自分たちの感情とぴったり合致するなら、きっと対象にぴったり合った、ふさわしい感情だと認めるだろう。もし合致しないときには、エスカレートした不適切なものだとして、そうした感情をぜったい認めないものだ。
1.1.29 すべての基準は自分にある
ある人の能力はすべて、他の人の同じような能力を判断する物差しになる。私たちは自分の視野から相手の視野を判断し、自分の耳から相手の耳を、自分の理由から相手の理由を、自分の怒りで相手の怒りを、自分の愛で相手の愛を判断する。そうしたことがらについて判断する術は他にはないし、見つけることもできない。
4章 引き続き同じテーマについて
1.1.30 感情が関係ないときもあれば関係あるときもある
ほかのひとの感情が適切なものか、不適切なものか判断する基準は、自分の感情と一致するか、それとも不一致なのかということにあり、二つの異なる状況にもとづくものかもしれない。まず一番目にあげられる状況としては、私たち自自身も、感情について判断しようとしている相手も、感情の原因とは、特別な関係がいっさいないと考えられる場合である。そして二番目にあげられる状況としては、感情が私たちの誰かにに影響していると考えられる場合である。
1.1.31 同じ視点から共感はうまれない
対象が私たちとは特に関係がなく、また感情について判断する相手とも特に関係がないのなら、相手の感情が私たちの感情とすっかり一致した場合はいつでも、趣味の高尚さも、すぐれた判断力も、相手に理由があるのだと考えるものである。美しい平原も、偉大な山も、装飾をほどこされた建物も、絵画の表現も、会話の構成も、関わりのない人の行いも、異なる数量の配分も、そして宇宙のすばらしい機械が神聖な車輪とバネをうごかして感情を生じながら絶え間なく示す様々な外見も、知識と判断力からなる全般にかかわるものであり、私たちと私たちの仲間のどちらにも、個人的な関係はない。私たちがともに同じ視点からながめると、共感する機会をのがし、共感がうまれるような状況を想像する機会をのがし、つまり感じたり感動しいたりという心のハーモーニーをうむ機会をのがしてしまう。それにもかかわらず、異なるかたちで影響をうけるなら、異なるレベルで意識が生じることになり、生活の行動パターンが異なっていても、複雑な対象のある部分には心地よく身をゆだねることができる。あるいは、心に本来ある鋭敏さから、異なる意識が生じ、その心から感情が語られもする。
1.1.33 役に立つから判断やセンスを受け入れるわけではない
こうした特質の有益さについては、最初に私たちに推薦するものとして考えられているのかもしれない。たしかに疑いようもないことだが、有益さについて考えてみるということは関心をむけてみることであり、新たな価値を特質に生じるものである。けれど本来は、他のひとの判断を受け入れるのは、有益さからではない。正しくて、間違いがないからであり、真実と現実に一致するからなのである。そしてこうした特質が有益さにあると考えるのも、自分と一致しているからなのである。美的センスについても同じであある。もともと認められていたセンスは、有益だからではない。対象にふさわしい繊細さと正確さが、センスにはあるからである。こうしたすべての特質に有益さをもとめる考えは、明らかにあとになって思いついたものであり、私たちの賞賛をもとめて推薦しているわけではない。
1.1.34 互いに耐えられなくなるとき
これらの対象は、なんらかの形で影響をあたえ、感情を判断する相手も影響をうける。こうした調和と一致をたもつことは更に難しいことであり、同時に更にもっと重要なことでもある。私の友人は、もちろん、私にふりかかった不運を見つめることもしなければ、私にあたえられる侮辱を見ることもないわけだから、私と同じ視点にたって不運や侮辱を見るわけではない。不運や侮辱は、私たちに密接に影響をおよぼすものである。だが同じ視点から不運や侮辱をみないまま、絵を描き、詩を書き、哲学のシステムを構築するので、異なる形で影響をうけやすい。だが感情が一致していないのが容易にみてとれるのは、取るに足らないことがらである。そして私に影響を及ぼすこともなければ、私の友達にも影響をおよぼさないようなことである。さらに私にふりかかる不幸や侮辱のほうに興味を感じるだろう。こうした絵や詩、あるいは私が感嘆している哲学のシステムまで軽蔑したところで、この文がもととなって口論になる危険はない。意見が逆だとしても、私たちの感情はまだ同じだからである。しかし影響をとりわけうけるような対象の場合、まったく異なってくる。思索に関する判断も、センスに関する感情も、私とは異なる。だが自分とは反対の判断も、感情も、易々とみわたすことができる。何らかの感情がかきたてられるなら、会話に楽しみを見いだしたり、こうした事柄に楽しみを見いだしているのかもしれない。しかし遭遇した不運について仲間を思いやる気持ちがなければ、心みだしている悲しみと釣り合う感情がなければ、私の怒りと釣り合うような感情がなければ、そのときは、もはやこうした事柄について打ち解けて話すことはない。そして互いに耐え難くなってくる。私があなたの友人を支えることはできないし、あなたが私の友人を支えることもできない。あなたは私の暴力や激情に困惑し、私はあなたの冷淡な無感覚と感情の欠落に怒る。
1.1.35 見ている者と演じる者
見ている人と主として演じている人のあいだで、感情がどこか一致する場合がある。そうした場合、見ている人がまず心がけなければいけないことは、できるだけ演じている人の状況に自分をおくことである。また受難者にふりかかるだろう苦しい環境を、すべて切実に感じとることである。仲間の状況をすべて受け入れ、仲間がかかえる出来事は些細なことでも、受け入れなくてはいけない。できるだけ完璧になるように試み、共感を見いだせるような状況へと、想像の力をつかって変えていかなければならない。
1.1.36 二つの立場
だが、こうしてみても、観察者の感情が受難者の感じている暴力にまでおよばないことも多いだろう。人間とは、生まれつき同情的ではある。でも、ほかの人の身になにかがふりかかるとき、その出来事に主としてかかわる当事者の心を自然にうごかしていく情熱と同じものを、心にいだくことは決してない。立場を想像して交換してみることで、共感がうまれる状況に身をおいてみても、それは一時的なものにすぎない。観察者におしつけられるのは、自分は安全なところにいるという考えであり、実は自分は受難者ではないという考えである。似たような感情をいだくことはできなる。でも、暴力に対処している受難者と、同程度の感情をいだくことはできなくなる。そのことに気がついた当事者は、さらに完璧な共感をつよく望んでくる。そうした安心感にあこがれはしても、観察者の感情と一致しなければ、安心感をあたえることはできない。乱暴な感情だろうと、不快な感情だろうと、あらゆる感情の面で、観察者が相手の心にあわせて心の拍子をとると、唯一の慰めとなるものが組み立てられる。だが慰めを期待することができるのは、相手にあわせて情熱をダウンした場合だけだ。もしこんな表現が許されるなら言ってしまおう。まわりの感情とあわせたり、一致させたりすることで、もともとの鋭い響きは減り、つまらないものになる。観察者と当事者とでは、ある意味、常に感情が異なるものである。深い同情であっても、本来の悲しみと完璧に同じわけではない。立場を交換することで、心の奥にある意識から、共感的な感情が生じるのである。心の奥の意識は想像上のものであり、意識の度合いを弱めるだけでなく、意識の質に変化をもたらし、まったく異なるかたちに修正するものである。こうした二つの立場における感情は、あきらかに他方の感情と一致するものであり、社会が調和していくには十分なものかもしれない。程度はことなれ、この二つ立場の感情は重なるものであり、求められ必要とされることである。
1.1.37 観察者の目になれ、当事者の目になれ
こうした一致をうみだすために、自然の女神が観察者に教えることとは、主としてかかわる当事者がおかれた状況を確かめよ、ということである。同様に自然の女神が当事者に教えることは、観察者がおかれた状況をいくらかでも確かめよ、ということである。観察者は相手の状況に頻繁に自分をおくことで、似たような感情を心にいだく。当事者もまた自分を相手の状況におくことで、かなり冷静になって自分の未来を思いえがく。観察者がみるだろうから、当事者は自分の未来にはかなり敏感である。実際に受難者だとしたら感じるだろうことを、観察者は常に考える。それと同じように、自分が観察者なら思うように、当事者も想像するようになる。観察者も共感するせいで、当事者の目で状況を見るようになる。同じように当事者も共感するせいで、観察者の目で状況を見るようになる。とりわけ観察者の観察のもとで、その存在と行動をとおして状況をみるのである。このようにすると当事者がいだく感情とは、もともとの感情より弱く感じられるものである。暴力についても本来の暴力より弱いものにしてから、当事者は観察者となって、観察者が感じるように思い描き、遠慮のない公平な光にあてて見るようになる。
1.1.38 他人のほうが心静まるもの
しかしながら一人の友でも,仲間は心に静けさと平穏をいくらかでも戻してくれるので、精神がここまで妨げられることは余りない。心中がいくぶん静まり、相手の立場に身をおく時がくる。状況をてらす明かりのなかで思いだすとき、私たちも同じ光のなかで自分の状況をみるようになる。共感の効果がただちにきいてくるためである。友の共感にくらべ、知り合いにはあまり期待しない。知り合いには、こうした状況を打ち明けることができないが、友人には打ち明けることができる。だからこそ知り合いの前では平静さをよそおい、相手が厭わないで考えてくれそうな一般的な状況にまで、自分の考えをあわせようとする。他人の集まりには、共感をもとめない。だから他人の前では、一段と静かになり、相手のレベルにまで情熱をダウンしようとする。そのなかに私たちがいる仲間は、こうしても異存がないように思われているのかもしれない。あるいは偽りの姿でしかないのかもしれない。もし私たちが自分自身の主であるなら、知り合いにすぎなくても、その存在は心を静めてくれるからだ。むしろ友達よりも心を静めてくれる。他人の集まりのほうが、知り合いの集まりよりも心を静めてくれるものになるだろう。
1.1.39 平静を取り戻すには人づき合いをして会話をすること
だから心に平静さを取り戻すのに一番効き目のある治療とは、人とつきあったり、会話をしたりすることである。もし不幸にも心が平静さを失っているときは、いつでも効き目がある。最高の保存料のように、平静さを同じように、幸せな状態に保つ。仕事を退いて思索にふける人は、悲しみについて、あるいは怒りについて、家で熟慮しながら座っていることが多い。しかしながら往々にして慈悲にあふれ、器がおおきく、ユーモアを解する優れた心の持ち主である。だが、この世の人々と等しい性分は持ち合わせていない。 5章 好ましい長所やら尊敬すべき長所やら
1.1.40 長所がまた長所をうむ
人とつきあったり話したりという二つの異なる試みにも、当事者の感情にはいりこもうとする観察者の試みにも見いだされるものがある。また傍観者にあわせて感情をダウンしようとする当事者の試みにも、見いだされるものがある。それは長所についての、二つの、異なる組み合わせである。優しくて、おだやかで、感じがいいという長所と、腰が自然とひくく、人間性が優しいという長所が、当事者の試みにも、観察者の試みにも見いだされる。偉大であり、威厳にみち、尊敬に値する長所とは、無私の心であり、自制する心であり、情熱を抑制しようとする心である。その長所が私たちの行動を気高く、名誉があって、礼儀正しいものにして、本質から生じる動きすべてに影響をあたえていく。こうした長所を生み出してくのは、他の長所なのである。
1.1.41 共感的心情の持ち主もいれば、自分のことだけしか考えない人もいる
どれほど好ましく思えることか。共感的心情の持ち主と、打ち解けて話している相手の感情が、すっかり響きあっているようにみえるときに。相手の災難を悲しみ、相手がうけた侮辱に憤り、そして相手の幸運を喜ぶときに、共感的心情の持ち主がどれほど好ましく思えることか。相手の状況を切実に感じては感謝され、どんな慰めであれ、優しい友達の、思いやりのある共感から生まれる慰めを感じる。だが、それとは反対の場合、どれほど不快に思えることか。とげとげしく冷淡な心で、自分のことだけを考えるときに。しかも、他人の幸せや不幸をまったく感じないときに。こうしたときにも、私たちは相手の痛みに分け入っていく。他人の不幸や痛みに無感覚な者の存在は、親しく話しをする限られた生の持ち主すべてに、苦痛をあたえるにちがいない。なかでも共感的心情をいだくことの多い不運なひとや、傷ついたひとには、とりわけ苦痛をあたえることだろう。
1.1.42 うっとうしい悲しみもあれば敬意をはらいたくなる悲しみもある
一方で、なんとも気高いまでの礼儀正しさと上品さを感じる行動がある。自身に関係したことであるにもかかわらず、行動に平静さと自制心を保っているおかげで、あらゆる情熱が威厳にみち、私たちがついていける程度にまで情熱をトーンダウンさせる人の行動である。でも、やかましいまでの悲しみにはうんざりだ。デリカシーというものに欠けているし、私たちに悲しむように迫ってきて、ため息やら涙やら、わずらわしい嘆きを要求してくる。畏敬の念をいだくのは、控えめで、静かで、威厳のある悲しみなのである。そうした悲しみを発見するのは、腫れぼったい目であったり、唇や頬のわななきであったり、冷ややかだけれど、冷静で、感動させる行動なのである。そうした悲しみは、私たちにも同じような悲しみを求めてくる。私たちは悲しみにうやうやしい注意をむけ、心配のあまり行動全般に関心をよせる。不適切な言動により静けさが妨げられないようにするが、その静けさとは労苦の賜でああり、多大な努力を要して支えるものなのである。
1.1. 43 怒りにもいろいろある
怒りが傲慢かつ残虐であり、抑制されることも、抑えられることもないまま、憤怒に身をゆだねるとき、その怒りは嫌なもののなかでももっとも嫌なものになる。だが私たちが賞賛する怒りとは、崇高で、寛大なものであり、巨大な悪を追求するものである。けっして受難者の胸をかき乱しがちな怒りなのではなく、公平な観察者の胸に自然にわきあがる怒りなのである。受難者の姿をみて公平な観察者に呼び起こされる憤りは、言葉も許さず、身ぶりも許さない。つまり公平な感情で語ることのできない憤りというものを解き放そうとしない。公平な感情の持ち主は、頭のなかで復讐を企てることもなければ、罰をあたえることもなく、無関心なひとが復讐や罰の実施をみて反応する喜び以上のものを感じることもない。どんな言葉であれ、身振りであれ、その怒りは認めず、公明正大な感情に照らした指示を逸脱して状態から抜け出すことも認めない。また頭のなかでも、さらなる復讐を試みたりはしないし、もっと厳しく罰したりはしない。その復讐や罰の程度は、平凡なひとが許容できる範囲をこえることはない。
1.1.44 自分自身を愛するように隣人を、隣人を愛するように自分自身を
したがって他のひとのことを思いやって自分のことは考えないということも、利己的な心を抑えながら優しい情愛にみちた自分の心を満足させるということも、人間の本質を完璧にするものであり、ひとの心に感情と情熱の調和を生み出し、完全な優雅さと礼儀正しさをつくりだす。自分自身を愛するように隣人を愛するということがキリスト教の教えであるように、隣人を愛するように自分自身を愛するということが自然の素晴らしい教えなのである。あるいは隣人が私たちのことを愛するようになるときにも、同じようになると言うべきかもしれない。
1.1.45 徳にしても知性にしても並じゃ驚嘆できない
洗練された振る舞いと優れた判断力が、賞賛と賛美に値する特質として見なされるとき、感情が繊細であり、理解が正確であるということになる。通常の状態で、そうした感情や判断に出会うわけではない。つまり徳という感覚も、自制心も、普通の状態にあるのではなく、こうした特質が並はずれた状態にあるときにあるのだと理解するべきなのである。慈悲の心からなる好ましい徳が必要とするものは、たしかに繊細な心であり、不作法で教養のない者には及びもつかない心なのである。寛大な心からなる優れた徳にしても、高貴な徳にしてもたしかに要求してくるものとは、普通の自制心をこえたものであり、死ぬべき運命にある最も弱い者が発揮するような普通の自制心ではない。知的なものに関して言えば、ありきたりの程度なら、それは能力とは言えない。同じように徳に関しても、ありきたりの徳であれば、それは真の徳とは言えない。徳とは素晴らしいものであり、並はずれて偉大で美しいものであり、無教養で並のものからは生じない。好ましい徳とは、かなり鋭敏な感覚からなるものであり、その感覚の美しく、思いもよらない繊細さに驚嘆するのである。崇高であり、尊敬すべき徳とは、かなり高い自制心である。その驚くべき力が、人間の特質である、制御できない情熱をこえることに驚嘆するのである。
1.1.46 徳のある人と礼儀正しい人は違うもの
この点に関しては、重要な違いがある。徳があるということと、単に礼儀正しいということのあいだにも、重要な違いがある。賛美に値する特質および行動と、ただ認めるだけにすぎない特質のあいだにも、重要な違いがある。多くの場合、どれほど礼儀正しく行動するとしても、ごくありふれた普通の感受性と自制心しか要求しない。その感受性と自制心は、どんなに価値のない者でも持ち合わせている。しばしば、それがどの程度のものかということは問われない。例えば低俗な例をあげよう。空腹なときに食べるとする。これは、普通の場合、たしかに正しいことであり、適切なことである。どんな人からも、認めてもらえることである。しかしながら道徳にかなっていると言うには、これほど道理にあわないことはない。(1.1.46)
1.Ⅰ.47 礼儀正しさに欠ける徳の方が完璧にちかいこともある
それとは反対に、尊敬に値する徳でありながら、その行動がもっとも完璧な礼儀正しさには至らない徳というものも、しばしば存在する。なぜなら、徳を実践することが極めて難しい状況で、完璧な礼儀正しさを期待することはできない。礼儀正しさに欠ける行動のほうが、まだ礼儀正しいかもしれない。よくあることだが、こうした場合、自制するよう最大の努力を求めることになる。ある状況においては、人間の特質にしっかりと根ざしたものがある。すなわち自制心を最大限に発揮してみたところで、不完全な生き物である人間がすることだから、人情味あふれる弱い声をおさえることは出来ない。また激しい情熱を中庸の極みまで減じることもできない。でも中庸をとれば、公平な観察者も情熱を体験することができる。こうした状況では、受難者の行動は完璧に礼儀正しいとは言えないまでも、何らかの賞賛に値するし、ある意味において徳と呼んでいいものなのである。
その行動から、心広く寛大であろうとする努力が、伝わってくるかもしれない。だが、たいていの人はうまくいかないものである。すべて完璧という状態には到達しないかもしれない。でも、試行錯誤の過程で発見され、要求されるものに比べれば、大体において、完璧にちかい状態であるかもしれない。(1.1.47)
今の段階からステップアップできるかが問題
こうした場合、ある行動がうけるべき非難や賞賛の程度を決めるとき、しばしば二つの異なる基準をもちいる。最初の基準とは、完全なまでの礼儀正しさと完璧さについての考えである。だが、こうした難しい状況では、人間がどんな行動をとろうとも、礼儀正しさにも、完璧さにも到達したことはなかったし、今でも到達できないでいる。礼儀正しさや完璧さと比較してみると、すべてのひとの行動は、いつまでたっても非難されるべきものに思え、不完全なものに見えるにちがいない。第二に、こうした完璧に近いところにいるのか、それとも離れたところにいるのかという、どの段階にいるのかという考えである。人の行動のかなりの部分は、一般的には、こうしたどこかの段階に到達するものである。こうした今の段階を越えるものは何であれ、賞賛に値するように見えるに違いない。たとえ絶対に完璧な段階から、取り出された状況だとしてでもある。それとは反対に、今の段階を越えようとしないものは、非難されるだろう。(1.1.48)
1.1.49 完璧さに基準を求めないで、同じ集団のなで共通の尺度を用いてごらん
想像力に語りかけてくる全ての芸術の産物についても、同様に判断する。批評家が詩にしても、絵画にしても、偉大な匠の作品を仔細に検討するときには、心のなかで完璧かどうかという見地にたって作品をみる。人の心にしても、その手による作品にしても、完璧さには到達しない。こうした完璧さを求める基準と作品を比較するかぎり、欠点と不完全さしか見いだせないかもしれない。しかし、同じ類に属する異なる作品群という集団で考えてみると、完璧さを求める基準とはまったく異なる基準で、どうしても比較することになる。異なる基準とは、特定の芸術において達成される卓越した点についての、共通する尺度である。この新しい尺度で判断するとしよう。競合する大半の作品より完璧に近ければ、最高の賞賛に値するように見えるかもしれない。(1.1.49)