アメリア・B・エドワーズ

「あれは幻影だったのか、それとも……? ある司祭の報告」

これから話す出来事に遭遇したのは今から十八年ほど前のことで、当時、わたしは視学官として女王陛下に仕えていた。今でも地方の視学官はひっきりなしに移動するものだが、わたしはまだ若く、常に移動する生活を楽しんでいた。
ただ、あまり心地よくない地域も実に多く、そうした地にいると、無給の司祭は喜びとなるものを蔑むようになり、骨の折れる日々を送ろうとするのかもしれない。辺鄙な地では余所者はめずらしく、年に一度の視学官の訪問は大切な出来事である。だから長い一日の仕事を終え、田舎のパブで静かな時を過ごしたくても、たいていの場合、司祭や名士から客として迎えられる予定になっている。こうした機会を利用するかは視学官次第だ。もし心地よく感じたなら厚誼をむすび、英国の家庭生活のもっとも魅力的な面にふれることになる。そして時折、ありふれたことばかりが多い昨今でさえ、運に恵まれて意外な出来事に出会うこともある。
最初の任地は英国の西の地方で、友人や知り合いが大勢住んでいた。そのせいで後に困惑する羽目になったのだが、二年にわたる快適な勤務を終えると、政治家が「新開地」とよく言っていた北の地に赴くことになった。不運にも、わたしの新開地は草が生い茂り、住んでいる者もあまりなく、広さは千八百平方マイルに満たない土地であった。それでも前の赴任地の三倍はあり、広さに比例して御し難くなった。不毛の丘ふたつが直角にまじわり、鉄道の主要路線からもかなり遠かったので、その地方には思いつく限りの、あらゆる不便さが結集していた。村と村のあいだは離れ、しばしばムーアのせいで分断されていた。列車のあたたかなコンパートメントや点在するマナーハウスのかわりに、当時、わたしは貸し馬車や人気のないパブで時をなかばやり過ごした。

三ヶ月ほどのあいだ、わたしはこの地域で任務につくことになった。やがて冬も間近にせまる頃、ピット・エンドへと初めて視察に赴いた。ピット・エンドは辺境にある小さな村で、私の任地のなかでも最北の地に位置し、最寄りの駅からはちょうど二十二マイルのところにあった。ドラムリーと呼ばれているところで一晩眠り、午前中にドラムリーの学校を視察すると、わたしはピット・エンドを目指した。鉄道で十四マイルほど進み、小さな丘陵のつづく道を二十二マイル行ったところに、わたしの旅の終着点はあった。とうぜんのことながら、出発するまえに、できるかぎり全てのことを照会しておいた。だがドラムリーの校長にしても、ドラムリーの地主「フェザーズ」にしても、ピット・エンドについては名前以上のことは知っていなかった。前任者は見たところ、他の道からピット・エンドにむかうようにしていたようである。その道は遠回りになるけれど、あまり丘陵地帯を通らない道であった。その地には自慢のパブがあることはたしかであったが、それにしても有名というには程遠く、わたしをもてなしてくれたフェザーズ家の人たちにしても知識は皆無であった。居心地が快適なのか、よくないのかは不明ながら、そのパブに泊まるしかなかった。

わずかな知識をたよりに、わたしは出発した。十四マイルほどの鉄道の旅は、ほどなくしてブラムスフォード・ロードという名の駅で終わりになった。そこから乗客たちは乗り合い馬車にゆられて、ブラムズフォード・マーケットという名の、寂れた、小さな街にたどり着いた。そこで待ち受けていたのは、わたしを目的地へと運んでくれる一頭の馬と小さな馬車であった。その馬ときたら骨格がわかるほど痩せこけて駱駝のような有様、馬車も今にもがたがきそうな、一頭でひくだけの二輪のギグ馬車で、おそらく若いときには商用の旅に使われてきたものなのだろう。ブラムズフォード・マーケットからの道が目指すのは丘陵地帯で、そこは不毛の、高所の台地であった。曇天の、肌寒い十一月なかばの午後、一層どんよりと、ひえびえとしてきて、日の光も力なく、東から突き刺すように風が吹いてきた。「ここから、どのくらい離れているのかい?」御者にそう訊ね、わたしが馬車をおりたのは丘陵地帯の上り口で、かつて通り過ぎてきた場所よりも、山がどこまでもつづき、手ごわそうであった。

御者は麦わらを口にふくみ、「四か五マイル」というような意味の言葉をつぶやいた。

それから、その言葉をたしかめるために、御者が「トウルド・トウラス」といっていた地点でおりた。フットパスをたどって原野を横切れば、かなりの近道になるだろう。そこで残りの道も歩くことにした。かなりの速さで歩いたので、あっという間に御者も、馬車も後方に引き離した。丘の頂までくると馬車の姿はもう見えなかった。やがて道ばたに小さな廃墟がみえーー昔の税金の徴収所跡だとすぐにわかったーー、迷うことなくフットパスを見つけた。

フットパスは岩がむきだしの、石垣がめぐらされた傾斜地へとのびていた。そこには崩れた小屋が散見され、高さのある鉱柱や、黒ずんだ灰の山が、ひとけのない鉱山の風景のなかに残されていた。かすかな霧が東の方からたちこめてきたのも束の間、すぐに闇が深くなった。さて、こんな場所で、こんな時間に道を見失えば、途方にくれるのは間違いない。フットパスは、踏み跡も消えかけているから、もう十分もすれば、識別できなくなるだろう。不安にかられて先のことを考えつつも、どこかに家らしい影が見えるかもしれないという期待をいだき、次々に石を蹴飛ばして急ぎ歩くうちに、屋敷の庭をかこんでいる柵にぶつかった。柵ぞいにすすむうちに、頭上には葉をおとした枝が広がり、足もとでは枯れ葉が乾いた音をたてた。ほどなくして小道が分かれている地点にきた。片方の道は柵ぞいにつづき、もう片方の道は出入り自由な牧草地のほうへとのびていた。

どの道をすすめばいい?

柵ぞいに歩いていけば、門番の小屋がきっとあるだろうから、そこでピット・エンドへの道を尋ねることができるだろう。でも、この屋敷の庭がどのくらい広いのか見当もつかないから、ずいぶん歩いた挙げ句、ようやく一番近い門番の小屋に着くことになるかもしれない。では、草地の小道はどうかと考え直してみたが、この道もピット・エンドへは行かないで、まったく正反対の方向にむかうことになるかもしれない。だが、躊躇している時間はなかった。そこで牧草地の道を選んだが、その道のむこうは、白くぼんやりとした霧のなかに消えていた。

それまで、わたしは生きている人間に合うことなく、道を訊くこともできなかった。だからこそ、霧のむこうから一人の男があらわれ、小道をやってくるのに気がついたときには、心の底から安堵した。たがいの距離が縮まるにつれて―急ぎ足のわたしとはちがい、彼の歩みは遅々したものだった-、相手の左足が不自由で、足をひきずって歩いていることに気がついた。しかしながら周囲は暗く、霧がたちこめていたので、たがいに十二ヤードの距離に近づくまで、彼が黒い服を着ていることにも、英国国教会のフェルトの帽子のようなものを被っていることにも気づかず、それでいて英国国教に異議を唱える牧師のような何かに見えることにも気づかなかった。声が届く距離まで近づくとすぐに、彼に声をかけた。

「道を訊きたいんですが」わたしはいった。「ピット・エンドはこの方向で大丈夫ですか? あとどのくらい歩かないといけませんか?」

まっすぐ前方をみつめたまま、彼は進んだ。だが、わたしの問いかけには何の反応もしめさなかった。わたしの言葉が耳に届いていないことは疑う余地もない。

「すみません」わたしは声をはりあげた。「この道を行けば、ピット・エンドにつきますか? もし、そうなら-」

彼は通り過ぎたが、足をとめることもなく、一顧だにしなかった。気がついていないといってもいいだろう。

言いかけた言葉をのみこんで、わたしは立ちどまった。それから後ろをふりかえって、彼を追いかけようとした。

だが追いかけるかわりに、わたしは呆気にとられて立ちつくした。

彼はどうなったんだ? それから、あの若者は何者だろう。わたしが通ってきたばかりの道をやってくるじゃないか? 若者は長身で、駆けたかと思えば歩いて、釣り竿を一本肩にかついでいる。 誓ってもいいが、あの若者に出くわしたこともなければ、追いこした覚えもなかった。では、若者はどこから来たのか? それに、 話しかけてから三秒もたっていないのに、あの男はどこにいったのか? しかも片足をひきずりながら歩いているのだから、二ヤードも進めないはずではないか? 茫然とするあまり、わたしは立ちつくしたまま、釣り竿をかついだ若者が庭園の塀の影に消えるまで、その姿を見おくった。

わたしは夢をみているのだろうか?

暗闇が、ほどなくして忍びよってきた。夢をみているにせよ、夢をみていないにせよ、前に進まなくてはいけない。そうしなければ行き倒れてしまう。わたしは急いで前方へと歩きだし、日没間際のかすかな日の光に背をむけると、踏み出すことに深くなっていく霧の中へと飛び込んでいった。しかしながら、旅の終わりは近づいていた。フットパスは回転木戸のところで終わっていた。小道の奥ではー小石や轍によろめきながら、私は小道を歩いたー、鍛治場の炉から、歓迎の閃光が見えてきた。

それなら、ここがピット・エンドだ。乗ってきた馬車が、村の宿屋の入口のところにとめられている。灰色のやせ馬は、夜の間、家畜小屋にいれられるのだろう。宿屋の主人がわたしが到着する様子をながめていた。

「グレイハウンド」は、こぢんまりとした宿屋だった。小さなパーラーには小農場主と思われる二人連れと若い男がひとりいて、その男はソーレイの家畜の餌場を旅していると紹介してきた。そのパーラーでわたしは夕食をとって、手紙を何通か書き、あいまに宿の主とおしゃべりをしながら、行く手に伝わる地元のうわさをあつめた。

どうやらピット・エンドには、そこに住んでいる司祭はいないようだった。現在の司祭は三つの小さな村から聖禄を得て、輪番の副牧師に助けてもらい、気楽に任務をはたしていた。ピット・エンドは、いちばん小さな、辺鄙なところにある村なので、毎週日曜日に礼拝をあげるだけで、ほとんど副牧師に任されていた。地主は不在地主で、司祭よりも不在期間が長かった。彼はおもにパリに住み、ピット・エンドの炭田で得た富を海外でつかっていた。

だが、たまたま地主は丁度そのとき帰郷していた。宿屋の主の話によれば、五年間も留守にしていたらしい。だが来週になれば、ふたたび旅立つことになる。そうなれば、もう五年間経過しないと、ブラックウォーター・チェイスに彼の姿を見ることはない。

ブラックウォーター・チェイス! その名は初耳ではなかった。だが、どこで聞いたのか思い出せなかった。宿屋の主は話し続けた。長いあいだ留守にはするけれど、ウォルステンホルム氏は人好きのする紳士であり、申し分のない地主だ。ブラックウォーター・チェイスは淋しい、地の果てにあるような土地だから、若い方にすれば田舎に埋もれるようなものだ。そのとき、わたしはベイオル学寮にいたフィル・ウォルステンホルムを即座に思い出した。昔、彼がブラックウォーター・チェイスでの狩猟に招いてくれたことがあった。十二年前、ウォダムカレッジで研究にはげんでいた頃のことだ。ウォルステンホルムは或る学生集団の中心人物でーわたしはその集団には属していなかったがー、ボートを漕いだり、賭け事にいそしんだり、詩を書いたり、ベイオル学寮でワインパーティをひらいたりしていた。

そうだ、思い出した。彼の端正な顔も、贅沢な部屋も、少年じみた浪費癖も、とことん怠惰なところも、それでいて崇拝者たちから盲目的な信頼をよせられていたことも、すっかり思い出した。崇拝者たちは、彼が態度をあらためれば、大学が授与しないといけない全ての名誉を授かるだろうと思い込んでいた。たしかに彼は詩人を讃えるニューディギット賞を授けられた。だが、それが最初で最後の受賞だった。それから彼は大学を去ったが、金をむしりとられないうちになんとか脱したものだと噂された。なんて鮮明にわたしの記憶によみがえってきたことか、かつての大学生活の日々も、大学での友情も、ふたたび戻ることはない甘美なときも。わずか十二年前のことなのに、半世紀前のことのように思えた。そして十二年の月日をへた今、オックスフォード時代のように、ウォルステンホルムとわたしはすぐ近くにいるのだ。彼はずいぶん変化したのだろうか。もし変わったとするなら、よい方にか、それとも悪い方へとだろうか?

気前よく金をつかう彼の衝動癖は、立派な長所へと変貌しただろうか? それとも愚かしいところは、悪徳へと転じたのだろうか?

居場所を彼に伝えようか? それも自分で判断するべきなのか? 明日の朝、挨拶状に一筆書いて、お屋敷に送るのはとても容易なことだろう。しかし、意味のない好奇心を満足させるために、交際を再開したところで意味はあるのだろうか? こんな物思いにふけりながら、わたしは夜遅くまで炉辺の火にあたった。寝床にはいる頃には、忽然と姿を消した男のことも、どこから来たのか判然としない少年のことも、わたしの冒険すべてを忘れてしまった。

翌朝、好きなようにできる時間が存分にあったので、挨拶状に一筆しるして、オックスフォードで同窓だったこと、九時から十一時まではナショナル・スクールを調査していることを伝えた。それから宿屋の息子のひとりに頼んで挨拶状をさっさと届けてもらい、わたしは仕事に出かけた。澄み渡った日だった。風向きは北にかわっていたので、日の光が射していても冷え冷えとしていた。煙が小さな村をよごしていた。それでも炭鉱の出入り口に集まっている寒々とした感じの建物は、一年のいかなる時よりも鮮明に見えた。その村は丘の斜面に築かれていた。教会と学校は丘の頂に、「グレイハウンド」は丘のふもとにあった。前の晩に歩いた道をむなしく探しながら、曲がりくねった道を登っていき、墓地沿いの道を歩いていった。やがて学校の建物にたどりついた。教員の住まいも混ざって建物が、中庭の三方をかこんでいた。残る一面には鉄の柵と門があった。中央の扉のうえには銘刻された板がかかり、「この学校は、フィリップ・ウォルステンホルム様により、18――年に再建築された」と記されていた。

「ミスター・ウォルステンホルムとは、この領地の領主でいらっしゃいますよ、サー」へらへらと、こびへつらう声がした。

わたしは振りかえった。すぐ近く声の主がいた。怒り肩の、血の気の失せた男だった。黒づくめの恰好で、片腕に書き方練習帳の束を抱えていた。

「あなたが校長ですか?」わたしは尋ねてみたものの、彼の名前を思い出せなかった。でも彼の顔には微かに見覚えがあったので当惑した。

「ええ、そうです、サー。ミスター・フレイザーとお見受けいたしましたが」

その顔には異様なところがあり、血の気は失せ、不安そうな表情がうかんでいた。目つきにも警戒の色がうかんで、おびえているようにもみえる様子に、わたしは妙な不快感におそわれた。

「ええ」わたしは返事をしながら、いつ、どこで彼に会ったのか思い出そうとした。「わたしの名前はフレーザーです。あなたはたしか、そう、ええっとー」そこでわたしはポケットに手をさしこみ、視察の書類をとりだそうとした。

「スケルトンです。スケルトン・エベネザー。最初、男の子たちから話を聴きますか、サー?」

言葉はありふれたものだけれど、男の物腰には用心深いところがあって、敬意の表明のしかたにも不快なところがあった。名前を告げはしたけれど、言わば不承不承であって、さほど重要ではないから言うまでもないという様子であった。

わたしは少年たちから始めようと答えてから移動した。そのときにようやく気がついたのだがーそれまではじっと立っていたので気づかなかったー校長は足が不自由だった。そして、わたしは思い出した。彼は、わたしが霧のなかで出くわした男だった。

「昨日の午後、お会いしましたね、ミスター・スケルトン」学校の応接室に入ると、わたしは声をかけた。

「昨日の午後ですと、サー?」彼は繰りかえした。

「わたしが目に入らなかったようですが」わたしは相手の反応には頓着しないで言った。「あなたに声をかけたのですよ、実際のところ。でも返事はありませんでした」

「そうだとしたら申し訳ありませんが、サー。それは他の者にちがいありません」校長はいった。「昨日の午後は外出しませんでしたから」

どうしても、この言葉は嘘にしか思えないだろう。顔だけならば、わたしも間違えることもあるだろう。相手が異様な顔をしていたとしても、そしてわたしがその顔をじっくり見ていたとしてもだ。でも、不自由な足を間違えることがあるだろうか? そのうえ、足首を骨折したような、妙な右足の引きずり方には尋常ではない不自由さがあった。

わたしが猜疑心にかられた顔をしたのだろう。彼は急いで言い足した。「たとえ視察のために少年たちに用意をさせていなかったとしてもですよ、サー。昨日の午後は、外出しなかったでしょう。じめじめとした霧の多い日でしたから。わたしは用心しないといけないのですよ、胸が弱い質なので」

この男への嫌悪の念は、彼が言葉を発するたびに増大していった。だが、彼にいかなる動機があって、嘘に嘘を積み重ねていったのかということまで考えはしなかった。いかなる意図があろうと、前例のない厚かましさで嘘をついたということだけで十分である。

「視察をつづけよう、ミスター・スケルトン」わたしは蔑みをにじませて声をかけた。

 血の気が彼の顔から一層ひいたようだが、押し黙ったまま頷き、生徒達を順番に呼んだ。

正直さには欠けるところがあるにせよ、ミスター・エベネザー・スケルトンが素晴らしい校長であることにすぐに気がついた。少年たちへの教育はめずらしく行き届いたものだった。授業を見学したときも、申し分のない有様で、改善したいようなところは残されていなかった。そういうこともあったので、視察が終わる頃、ピット・エンドの少年校に政府の補助金を推薦してもらいたいと言ってきたときには、わたしは即座に同意した。さあ、これでミスター・スケルトンとの一年分の用事をすませたとわたしは思った。しかしながら、ちがっっていた。女子校の建物から出てくると、扉のところには彼の姿があったのである。

過度に謝りながら、五分ほど貴重な時間をさいて頂きたいと彼は申し出た。ささやかな改善点をしめして、彼は訂正しようとした。彼の話によれば、少年たちは中庭での遊びが許されているのだが、そこはとても狭く、いろいろ不都合な点が多いらしい。だが奥の方には空き地が半エーカーほどあって、もし柵で囲めば、見事にその用途を果たすだろう。そう言いながら、彼は建物の裏の方へと進み、わたしも彼についていった。

「この校庭は、だれの土地ですか?」わたしは訊ねた。

「ミスター・ウォルステンホルムのものです、サー」

「それなら、ミスター・ウォルステンホルムに頼んでみてはどうですか? かれが学校の建物を建てたのだから、校庭も同じように喜んでつくってくれますよ」

「いいですか、サー。ミスター・ウォルステンホルムはお戻りになってから、この学校に一度もいらしたことがないのです。訪問の名誉にわたしたちが与る前に、ピット・エンドを去るかもしれません。それに、あの方に手紙をさしあげる自由も、わたしには認められていないのです」

「わたしにしたところで、ミスター・ウォルステンホルムの学校に校庭をつくるために、政府はミスター・ウォルステンホルムから土地を少し購入するべきだとは報告書には書くわけにはいかない」わたしはこたえた。「ただ、べつの状況でなら」

 わたしは立ち止まって周囲を見渡した。

校長は、わたしの最後の言葉を繰りかえした。

「べつの状況でなら、と言われたようですが。サー」

 わたしはふたたび見渡した。

「だれかが、ここにいたような気がする」わたしは言った。「第三の人物が、つい今しがたまで」

「どうしたんです、第三の人物なんて?」

「見えたんだよ、校庭に彼の影が、君の影とわたしの影のあいだに」

学校の建物は真北を向いていた。そしてわたしたちは背中を太陽のほうにむけたまま建物の裏側に立っていた。その建物は壁に飾りもなければ、庇もなく、それでいて高さのある建物だったので、足もとから伸びたわたしたちの影は、くっきりと映しだされていた。

「もうひとつの……もうひとつの影?」彼は口ごもった。「そんなはずはない」

 半マイル以内のところには藪もなければ、木もない。空には雲一つない。なにもない。影をおとしそうなものは、なにひとつなかった。たしかにありえないとわたしも認めた。夢をみたにちがいない。そこで校庭の問題に戻った。「ミスター・ウォルテンホルムに会うべきでしょう」わたしは言った。「わたしのことも伝えてくださってかまいませんよ。望ましい改善だとわたしが言っていたことも」

「それは有難うございます、サー。感謝にたえません」彼はいったが、すべての言葉にへつらいがにじみ出ていた。「ですが、でも、あなた様のお力にすがることができればと思うのですが」

「あそこを見て」わたしは遮った。「あれは幻なのか?」

わたしたちは少年たちの教室の真下、飾りのない壁の下にいた。この壁のうえに、まばゆい陽光をうけて伸びているのはわたしたちの影で、わたしの影と校長の影が映しだされていた。さらにそこには、それほど長くはない影が、 彼の影とわたしの影のあいだに、 でもすこし離れたところに見えていた。あたかも侵入者が奥にいるかのように、くっきりと映しだされ、舞台背景にスポットライトがあてられたかのようだった。一瞬だけれど、もう一度はっきりと第三の影を見た。わたしは声をあげ、ふりかえった。だが、それは消えていた。

「見なかったのか?」わたしは訊いた。

彼はうなずいた。

「わたしは、わたしは、何も見ていません」彼はおずおずと答えた。「なにか見たのですか?」

彼の唇は血の気がひいて白くなっていた。ようやく立っているように見えた。

「そんな、君も見たはずだ!」わたしは声をはりあげた。「そこに映っていたじゃないか? ツタがはえているあの壁に。だれか男の子が隠れているにちがいない。あれは少年の影だった。まちがいない」

「少年の影!」彼はその言葉をくりかえすと、落ち着きを失い、怯えた様子であたりを見まわした。「そんな場所はないはず。少年が、身を隠すような場所は」

「場所があろうと、なかろうと関係ない」わたしは怒りをこめて言った。「もしその少年を見つけたら、その子の肩に感じさせてやろう、わたしの杖の重みを」

 後のほうを、それから前の方を、わたしはあらゆる方向を探してみた。校長は顔には恐怖をうかべ、足をひきずりながら、わたしについてきた。地面は凸凹していて平らでなかったけれど、うさぎ一匹といえども隠れることのできるほどの大きさの穴はなかった。

「では、あれは何だったのだ?」わたしは苛々しながらいった。

「おそらく……おそらく幻影でしょうよ。お言葉をかえすようですが、サー。幻影をご覧になったのですよ」

 彼は打ちのめされた猟犬のように、心底怯え、媚びへつらって見えたる有様なので、先ほど仄めかした杖で、彼の肩を叩くことができれば、わたしはきっと満足を感じたことだろう。

「だが、君は見たんだろう?」わたしはふたたび訊いた。

「いいえ、サー。名誉にかけて申し上げますが、わたしは見ていません、サー。なにも見ていません。何であろうと、なにも見ていません」

彼の表情から、その言葉が嘘であることが見てとれた。彼は影を見ただけにとどまらず、話したことよりも多くを知っているにちがいない。わたしの怒りは、そのときには頂点に達していた。少年の悪戯相手にされるのも、校長にごまかされるのにもうんざりだ。そういう態度は、わたしを侮辱することでもあり、わたしの協会を侮辱することでもある。

自分が何を言ったのか殆ど覚えていないが、簡潔な、ともかく厳めしい言葉だった。そんな言葉をいうと、ミスター・スケルトンと学校に背をむけて、村へと急ぎ足で戻った。

丘のふもとに近づいたとき、栗毛の気取った馬にひかれた二輪馬車が「グレイハウンド亭」の扉に駆けつけた。そしてその次の瞬間には、ベイリオル学寮のウォルステンホルムと握手をかわしていた。ベイリオル学寮のウォルステンホルムの端麗な顔立ちは相変わらず、何気なくお洒落なところも同じで、オックスフォードで会ったときより一日たりとも老いたようには見えなかった。彼は両手を握りしめてくると、これから三日間、わたしは客分であると宣言し、ただちにブラックウォーター・チェイスまで送ると言い張った。徒労に終わったが、明日、ドラムリーのなかでも10マイルはなれた二校を調べる予定だと説明した。ドラムリーでは、馬と馬車が待っている。それに「フェザーズ」では部屋が用意されている。だがウォルステンホルムは、辞退する言葉を一笑に付した。

「まあ、君」彼はいった。「馬をやって、その馬に『フェザーズ』への伝言をつけておけばいいじゃないか。それから電報も二通、ドラムリーの駅から二つの学校へ急いで打つんだ。

『不測の事態が発生し、調査は来週に延期になりました』こう言うと、彼は主人顔をしながら、わたしの旅行かばんをマナーハウスに届けるように地主に言いつけた。それから二輪馬車にわたしをおしこみ、栗毛馬に鞭をあてた。するとブラックウォーター・チェイスにむかって、馬車はがたごと走りはじめた。

陰気で古色蒼然とした、大きいけれど人気のない建物が高々と、周囲が六、七マイルほどの鹿狩猟苑の中央に姿をあらわした。葉を落とした樫の木の通りがその建物につづいていた。苑地のなかでも、最もわびしい地にいる悲しみにしずむ鷺や憑りつかれたアジサシが、その領地のブラックウォーター・チェイスという名の由来になっていた。実際のところ、その場所は英国北部のマナーハウスというよりは、国境の要塞という方がふさわしかった。

ウォルステンホルムは、昼食後、絵画陳列室と居間に案内してくれ、さらにそのあと苑内を馬で乗りまわした。夜、わたしたちは上階の端にある樫の木でできた大きなホールで夕食をとった。そこには鹿の角がかけられ、戦で使用した時代遅れの鎧や武器、娯楽の品の類が飾られていた。

「さて明日」主が提案したのは、クラレットを口にしながら腰をおろし、燃えさかる炉の炎のまえにしたときであった。「明日、まあまあの天気なら、ムーアで一日猟をしよう。そして金曜日には、これはもう一日長く滞在することに同意してくれたならの話だが、君をブルームヘッドまで車で案内して、公爵の猟犬をつれて馬を走らそう。猟はしないって? そんな君、野暮なことを言うんじゃないよ。このあたりでは、だれもが猟をしているのだから。ところで炭鉱に行ったことはあるか? ないだと? それなら新しい体験が君を待っている。君をカーショルトンの立抗に連れて行って、子鬼とトロールの家を見せよう」

「カーショルトンも、君の炭鉱のひとつなのか?」わたしは訊いた。

「この炭鉱は全部ぼくのものだ」彼は答えた。「ぼくは死者の国ハデスの王で、地上と同様に地下も支配しているというわけだ。ムーアの下の至る所に鉱山がある。このたり一面が、立坑と坑道で蜂の巣のような有様だ。我が鉱層のなかでも、豊かな鉱層のひとつがこの家の下を走っている。 40人以上の男たちが作業に従事しているんだよ、わたしたちのこの足元、四分の一マイルのところで、 それも毎日だ。もうひとつ鉱層が、苑内の地下を走っているけど、それがどのくらいのものかは、神のみぞ知るだろう。父は二十五年前にこの事業をはじめた。それからずっと続けてきている。それでも炭鉱は衰える気配はない」

「君は、親切な妖精がついている王子様と同じくらいに金持ちにちがいない。」

 彼は肩をすくめてみせた。

「そうだね」彼は軽くいなした。「ぼくは十分金持ちだよ。どんな馬鹿げたことでも意のままにやれる。そういう身だから、話のたねはつきない。たしかに、いつも金をつかっている。いつも世界中をほっつき歩いている。いつもやりたいことは即座に満足させている。でも、それが幸せなものかなあ? それはさておき、ぼくはこの十年間、ある実験を手がけてきた。その結果とは? 見たくないかい?」

彼はランプをさっと手にとり、家具のない、細長い部屋を次々に案内してくれたが、床にはあらゆる大きさと形の荷箱が積み上げられていた。その箱には、いろんな異国の港の荷札や、外国の代理店の住所がたくさん貼られていた。なかの荷は何なのだろうか? イタリアやギリシャ産、小アジア産の貴重な大理石。古代の、現代の画家が描いた絵画。ナイル河やチグリス河、ユーフラテス河産の置物。ペルシアのほうろう製品。中国の陶器。日本の青銅器。ペルー産の奇妙な彫刻。武具甲冑。モザイク画。象牙。木彫り品。皮革細工。古期イタリアの飾り棚。彩色された婚礼箱。エトルリアのテラコッタ。ありとあらゆる国の、様々な年代の宝物が、この戸口をくぐりぬけてから、荷ほどきもされないまま放置されていた。主の足もまたこの戸口をまたいだことはあるのだが、それは買うのに要した十年間のうち、わずか二度ばかりのことだった。

荷箱をあけて整頓して、中身を楽しむべきなのだろうか? たぶんそうだろうが、そうするのは放浪の身に嫌気がさしたときか、結婚をしたときか、陳列する美術館を建設したときだろう。もしうまくいかなくても、美術館を見つけ、寄付してしまうか、買いつけた品を国に任せてしまえばいい。なんの問題があろうか? 収集の楽しみは狐狩りの楽しみのようなもので、喜びは追い求めることにあり、追い求めてしまうと喜びも終わってしまう。

わたしたちは夜遅くまで腰かけて最初の夜を過ごしたが、会話とよべるものを交わしたとはあまり言い難い。ウォルステンホルムが話しをしていた。一方でわたしは、相手の話を楽しもうとするあまり、彼が大陸をわたり、海を横切る放浪の旅物語らしい話に耳を傾けるだけだったからだ。

そうして冒険物語を聞くうちに時が過ぎていった。その冒険物語で、彼は危険にみちた頂きを登頂したり、砂漠を横断したりしながら、知られざる廃墟を冒険して、ついに氷山や地震や嵐から危機一髪で脱出をとげた。とうとう彼が葉巻の端を暖炉の火に放り込んだとき、もう寝床にいく時間だと気がついた。マントルピースの置き時計は明け方を指していた。

翌日、わたしをもてなすためにつくられた予定にしたがって、原野で七時間ほど雉撃ちをした。その翌日は、朝食前にカーショルトン鉱山に降りていき、朝食後はピクト・キャンプと呼ばれている十五マイル離れた場所まで乗馬することになっていた。そこにはストーンサークルや先史時代の遺跡の跡など見るべきものがあった。

野外スポーツに慣れていないものだから、銃をかまえて七時間過ごしたあと、わたしはぐっすり熟睡した。翌朝、ウォルステンホルムの召使いが寝台のかたわらにやってきても、なかなか起きることができなかったが、その召使いは、わたしがハデスの国へと下りていくときに身につける防水服を手にしていた。

「ウォルステンホルム様からのことづてでございます、サー。戻ってきてから入浴をされた方がよいと伝えてくれとのことでございました」召使いはそう言いながら、椅子の背にかけてある上品さに欠けた衣服を片づけたが、最上の夜会服を並べているかのような手つきであった。「それから防水服の下は暖かいものを着込んだほうがよかろうとのことでした。炭鉱のなかは凍える寒さでございますからね」

 わたしは不承不承、防水服をたしかめた。その朝は霜が降りていた。地球の内部に沈んでいる採鉱地は寒く、審査会も、不潔さも、魅力的とは言いがたいものだった。どちらかと言えば、行きたくないのだと打ち明けるべきだろうか? わたしは躊躇した。だが躊躇っているあいだに、礼儀正しい召使いの姿は消えてしまい、わたしが言い出す機会は失われた。ぶつぶつ文句を言いつつ、身を震わせながら、わたしは起き上がると、冷たく輝いている服を身につけて階下へ行った。

不平の声が耳に入ってきたのは、朝食をとる部屋に近づいたときだった。中に入ってみると、目に飛びこんできたのは十人くらいの、逞しい炭鉱労働者たちが扉のところにたむろしている姿であった。そしてウォルステンホルムはどこか深刻な表情をうかべ、炉辺の火に背中をむけていた。

「この有様だよ、フレイザー」彼はそう言うと、短く笑った。「何ともうれしい知らせが入ってきた。ブラックウォーター湖の水底がひらいたんだ。湖は、夜のうちに消えてしまった。鉱山は大洪水だ。今日、カーショールトン鉱山見学の予定はご破算だ。」

「ジュークの鉱山には、水が七フィートも。北と南の古い坑道には八フィートも。」うなり声をあげた赤毛の大男は、どうやら親方のように思えた。

「それにしても夜に起きたのは神様のお慈悲ってもんだ。もし昼間なら、みんな今頃、死人になっているだろうよ」別の男が言った。

 「そのとおりだとも」ウォルステンホルムは言うと、その男に相槌をうった。「おまえたちは、罠にかかった鼠のように溺れていただろうよ。だから運命に感謝しないとな。これはそれほど酷いわけではない。さあ、だから今からポンプで汲み上げるんだ。さいわい、どうすればいいかということも、どのようにすればいいのかということも承知している。」

そう言いおえると、彼は愛想よく頷きながら男たちを追い立て、何度も何度も際限なくエールを注文した。わたしは耳をかたむけながらも驚愕していた。湖が消えただと! 信じられない。しかしウォルステンホルムの説明によれば、けっして他にない現象というものでもないらしい。鉱山のある地域では、河も消滅したことがあった。そして時々、地面は裂けるだけではなく、しばしば崩れ落ち、家ばかりか村をまるごと埋めつくして廃墟として名高いものになった。だが、こうした家屋の基礎は、よく知られていることだが、破壊力がおしよせる直前まで持ちこたえることはなかった。だから、こうした災害がおきても、人々の命が失われる事態にはあまり至らなかった。

「さあ、もういい」彼は何気ない口調で言った。「君の変わった服を脱ぎたまえ。今朝は、僕もずっと仕事をするしかない。まあ、湖が消えるのは毎日というわけではない。とにかく水汲みを再開しないといけない」

朝食が終わると、わたしたちは鉱山の口まで行って、男達がポンプを固定する様子をながめた。

そのあと、作業が順調に進んだので、わたしたちは庭園を横切って大災害の様子をながめに出かけた。道は、家から木々の生い茂る高台へとのびていた。その高台をこえると、湖へとつづいている広々とした湿地があらわれた。この湿地に踏みいれたとき-ウォルステンホルムはしゃべり続け、この出来事を笑い飛ばそうとしていた-、長身の、やせた少年が、肩に釣り竿をかついで、脇の小道から右手の方へとあらわれた。そして長い坂の途中にある広々とした場所を横切ったかと思うと、むかいの木々の幹のあいだに消えた。すぐに彼のことを思いだした。先日、草地で校長に出くわした直後に見かけた少年だ。

「もし、あの少年が君の湖で釣りをするつもりなら」わたしは言った。「自分の失敗に気がつくだろうね」

「どの少年のことか?」ウォルステンホルムは訊ねながら、うしろを振りかえった。

「そこを横切った少年だよ、一分くらい前に」

「そこだって? ぼくたちの前ということか?」

「そうだとも。君も彼を見たはずじゃないか?」

「いや、ぼくは見ていない」

「彼が目に入らなかったのか? 背の高い、やせた少年だよ。灰色の服を着て、肩に釣り竿をかついでいたじゃないか。アカマツのむこうに消えてしまったけど」

 ウォルステンホルムは呆気にとられ、わたしを見つめた。

「君は夢をみているんだ!」彼は言った。「生きているものは何も、兎一匹と言えども、ぼくたちが庭の門をくぐってからは横切っていないよ」

「目をあけたまま夢をみる習慣なんかない」わたしは即座に言い返した。

 彼は笑い声をあげると、わたしの肩に手をまわした。

「目をあけていたのか、それともつぶっていたのか知らないが」彼は言った。「今回、君は幻想を見ていたんだよ」

幻想。あの校長もつかっていた言葉ではないか! これはどういうことなのだろうか? 実際のところ、わたしの感覚にもとづく証言はもう頼りにできないのだろうか? つきぬ不安がわきあがり、わたしの胸中にひろがった。本屋のニコリーニの幻想を思い出したり、よく似た他の視覚的幻想の例を思い出しりした。突如として同じような苦しみを味わう羽目になったのかと自問した。

「おや! これは奇妙な光景だ」ウォルステンホルムは叫んだ。その声で、わたし達が湿地をぬけ、昨日まではブラックウォーターの湖だったところの湖底が眼下に姿をあらわしていることに気がついた。

実に奇妙な光景がひろがっていた。細長く、かたちも不ぞろいな、黒々とした粘土質の土がたまった池がひとつあった。池の岸辺には、高さも不揃いなガマが繁茂していた。少し離れた鉱山の入り口のあたりにはーわたし達が立っている場所から四分の一マイルも離れていなかったー、茫然として見つめる群衆が集まってきていた。ピット・エンドのすべての人々がーただしポンプ作業の男達は別だがー、その場所に姿をみせ、消えた湖の湖底を見つめているように思えた。

ウォルステンホルムが近づくと、人々は帽子をさっと取り、お辞儀をした。彼は微笑みをうかべ、みんなに陽気な言葉をかけた。

「やあ」彼は言った。「あの湖を探しているのかい? 探すなら、カールシャルトン鉱山に行かないといけないよ。じつにむごい眺めだ、君たちが訴えにきたのは」

「たしかにむごいものさあ、旦那様」革製の前かけをした、がっしりとした体躯の鍛冶屋が答えた。「でも、あっちのほうがむごたらしいや、泥土よりもね。 むこうにあるものの方がずっと」

「泥土よりもむごい眺めだと?」ウォルステンホルムは繰りかえした。

「まあ、ここに来て見るといいよ、旦那さま。お前様の小さなポンプがばしゃばしゃ跳ねあげているが、そのむこうを見るといい。何か見えるだろう?」

「丸太が一本見えているなあ。くさった丸太が半分、泥に突き刺さっている。残り半分は、泥から突き出ているじゃないか」ウォルステンホルムは言った。「なにかが見える。見たところ、長い葦のようだが……おや、あれは釣り竿にちがいない!」

「たしかに釣り竿だ、旦那さま」鍛冶屋は語気も強く言った。「もしお前様が、あの腐った木に見えるものが遺体であるはずがないとでも言ってみろ、おれは二度とハンマーを手にせんぞ!」

見物人からも、同意のざわめきがおきた。「あれは遺体だよ。たしかに。」疑念をはさむ者は誰もいなかった。ウォルステンホルムは、両の手で漏斗をつくって、その手のあいまから長いあいだ凝視していた。

「なんであれ、出現したものにちがいない」彼はやがて言った。「泥は五フィートあるんだな? ここにある一ソブリン金貨をあげようではないか! 泥をかきわけて、あそこにあるものを最初に岸まで引き上げてくれた者ふたりに」鍛冶屋ともうひとりの男が靴と靴下をぬぎ、ズボンの裾をおりまげて、ただちにその中に入っていった。

足を一歩踏み入れると、足首より上まで泥に埋もれた。杖で深さをはかりながら進んでいるのだが、一歩進むにつれて、泥はどんどん深くなってきた。やがて目に見えるのは胴から上のみになった。男たちは胸を波打たせ、筋肉をはりつめながら、一歩一歩進んでいった。泥が腋の下まできたとき、まだ目標地点まで二十ヤードはあった……もう数フィート進めば、泥のうえに出ているのは頭だけになることだろう。不安そうなざわめきが群衆のあいだにおきた。

「あのひとたちを無事に戻してくださいますように、神様」むせぶ女の声がした。

だが、水底が少し盛り上がっている地点に到着すると、彼らは 泥の上に姿をあらわした。それは泥のなかに沈んでいったのと同じくらいにあっという間の事であった。今、粘り気のある土がこびりついた真っ黒な姿が、胴のあたりまで見えている。もう目標地点まで三ヤードか四ヤードだ……今……ようやくたどり着いた!

まずは釣り竿を引き離している。身をかがめているその下の、かたちの失われたものに、人々の目は釘付けになっている。泥の湖底から、そいつをなかば持ちあげたところで、躊躇してしまい、ふたたびおろしてしまう。そこに置いてくることにしたらしい。それから顔を岸のほうにむける。二、三歩踏み出したところで、鍛冶屋は釣り竿のことを思い出す。難儀そうに、釣り竿のからんだ糸をほどいて肩にかつぐ。

彼らは言葉をほどんど失い、頭から踵まで泥だらけの有様ながら、ふたたび乾燥した大地に立った。だが、あの小さなものの正体は、言うまでもなかった。あれはたしかに、未葬送の遺体だった。胴の部分だけが、泥の上にあった。男たちは、持ちあげようとはした。だが、長い間、それは水につかり過ぎていた。腐敗が進んでいたものだから、鎧戸が一枚なければ、岸辺に運ぶこともできなかった。質問攻めにあいながら、そのほっそりとした格好から、少年にちがいないと男たちは思った。「これは、可哀想な男の子の竿にちがいない」鍛冶屋は言うと、芝生のうえにそっと置いた。さて、その男たちの姿をみたので、こうして出来事を記したわけだ。ここでいったん私の責任も終えた。これから間接的に聞いた話ではあるが、残りの話を簡潔に伝えよう。数週間後にフィリップ・ウォルステンホルムから、以下の手紙を受け取った。

「ブラックウォーターの猟場にて、18○○年12月

親愛なるフレーザー、手紙を書くと約束したのに、だいぶ遅くなってしまった。でも、はっきりと君に語るだけの確証をつかむるまで、手紙を書いていいものかどうか分からなかったものだから。でも今、湖の悲劇に関して知り得ることはすべて判明したと思う。それは思うにーいや、最初から話していくことにしよう。つまり君が猟場を出発した日に遡ることになる。そう、遺体を発見した翌日だ。

君の出発と前後して、ドラムレーから警部がひとり到着した。(僕がただちに治安判事を呼びに人をやったことを覚えているだろう)。だが、その警部にしても、他の者にしても、遺体が岸辺に運ばれてくるまで何もすることはできなかった。そういうわけで、この困難な作業を終えるのに一週間ちかくをついやしてしまった。僕たちは大きな石をたくさん沈め、でこぼこした即席の土手道を泥の上にわたした。この道がつくられると、遺体は鎧戸にのせられ、あまり見苦しくないようにして運ばれてきた。それは年の頃十四歳から十五歳の少年だということが判明した。

頭蓋骨のうしろは、長さ三インチにわたって骨折していた。致死の骨折ということは明白だ。これは偶然のけがなのかもしれなかった。だが、横たわっていた場所から持ち上げられたときに発見されたのだが、身体には干し草用のフォークが突き刺さっていた。しかも、その取っ手には後から削り取られた痕跡があり、水面上には現れないように手をいれられていた。それは殺人の証拠に等しいものだった。被害者の顔は腐敗が進み、誰なのか認識はできなかった。だが髪は短く、砂色だったということをしめすのに十分なだけの髪は残っていた。衣類は腐った布のかたまりと化していたが、化学検査をへた後に、かつてはやや明るめの灰色の服であったことが証明された。

証人となる人々が、このあたりまで調査が進んだところであらわれた。彼らが検死官の査問で答えた主な申し立てを君に伝えよう。それは一年前か十三ヶ月前のことだ。校長のスケルトンは、甥だという説明の少年と暮らしていた。その少年に格段の愛情をいだいているわけではなかった。この少年は背が高く、ほっそりとした体躯で、髪は泥土のような砂色をしていた。彼がいつも着ていた服は、湖のなかの遺体がまとっていた服の色や布と一致した。なんでも彼は川のよどみや流れの速いところなど、魚の餌がありそうな場所ならどこでも出かけて、釣りに夢中になっていたという話だ。

そうなると今度は、次から次に新たな事実が判明した。ピット・エンドの靴屋は、少年の長靴は自分がつくって売ったものだと証言した。他の証人も、叔父と甥のあいだには険悪な場面があったと証言した。とうとうスケルトンは自首して、その罪業を告白したので、意図的な殺人という尤もな罪をとわれドラムリーの刑務所に送られた。

さて動機は何だったと思うかい? そうなんだ、動機は、聞いたこともないようなものなんだ。あわれな少年は、結局のところ、スケルトンの甥ではなく、スケルトン自身の私生児だったのさ。母親が死んでしまい、少年はカンバ-ランドのなかでも、遠く離れた場所にいる母方の祖母と暮らしていた。老女は貧しかった。だから校長は息子の養育費やら洋服代やら、年間の手当を渡していた。息子とは会わないまま何年間か過ぎていたんだが、ようやくピット・エンドへ来るようにと呼び寄せた。おおかた自分の金に課せられる税金にうんざりしたのだろう。彼の告白によれば、実際には愚鈍ではないにせよ、その少年には愚かで、強情なところがあって、育ちも悪いので失望したらしい。とにかく哀れなやつに嫌悪をいだいたんだ。その嫌悪の念が、はっきりとした憎しみへと変わっていった。

怒らせてしまう原因も多少はあったらしい。少年は発達が遅れ、五歳の子供と同じくらいであった。スケルトンはその子を男子校にいれはしたものの、それは何の役にもたたなかった。少年は躾をこばみ、釣りにだけ夢中だった。毎日のように釣り竿をもって田園をほっつき歩いていた。これが複数の目撃者の証言によって明らかになった事実だ。

ついに凶行の日となって、スケルトンは少年を追いかけ、釣り竿が隠してある場所を見つけようと、牧草地から猟場へとすすみ、さらに湖へとやってきた。そこで何が起きたのかを説明するスケルトンの言葉は乱れ、錯乱している。彼の自白によれば、人事不省となった少年の頭と両腕のあたりを重い棒で殴りつけたが、棒はその用途で持ってきたということだ。だが殺すつもりはなかったと否定している。息子が感覚をうしない、息をとめたところで、彼はようやく自分が打ちつけた力に気がついた。でも、直後に感じたのは自らの行いを咎める罪悪感ではなく、我が身の保身を心配する気持ちだったと言っている。遺体を引きずりながら水際のガマのあいだに分け入ると、そこに上手く隠した。夜になって隣人たちが床に入って寝つく頃、彼は星明りを頼りに、干し草用のフォークをひとつ、ロープを一巻き、鉄棒を二本、ナイフを一本携えて、こっそりと家を出た。それだけの荷物を背負いながら原野を歩き、柵をこえて猟場へ入り、ストーンリー方面のフットパスをたどって、三、四マイルほど遠回りした。朽ちかけた古い舟が一艘、湖に係留されていた。彼はこの古い舟をつなぐ縄をほどき、ぐるりと廻すと、遺体をひきずりこんだ。それから舟をこいで、おぞましい彼の荷を湖のなかほどまで運びこんだが、そこは対岸から遠く、目的を果たすのに選んだ葦の茂みと同じくらいに離れていた。彼は死体に重りをつけて沈め、干し草用フォークで首を押さえつけた。それから干し草用フォークの持ち手を切り落とした。釣り竿は葦のあいだに隠した。殺人犯がいつも信じ込むように、発見されることはあるまいと考えた。ピット・エンドの人々には、甥はカンバ-ランドに戻ったと説明しただけだった。そして疑う者は誰もいなかった。

今のところ、たまたま事故になっただけで、自分から罪を自白しようとしていたと彼は言っている。おそろしい秘密に、だんだんと耐えられなくなったそうだ。彼は、見えない者の存在につきまとわれていた。その者は、食卓につくときも一緒、散歩のときも一緒、教室では彼の背後に立ち、寝台のよこで彼を見つめていた。その姿は彼には見えなかったが、いつもそこにいるのを感じていた。ときどき独房の壁に影がみえると譫言をいっているよ。刑務所の責任者によれば、精神状態が不健康だということらしいが。

さあ、もう君に話せることは話した。裁判は、春の巡回裁判までないだろう。とりあえず、僕はパリにむかう。そして10日たてばニースだ。手紙はホテル・デ・エンペリューズにだしてくれ。

P.W

追伸

ここまで手紙を書いたところで、ドラムレーからスケルトンが自殺をはかったと告げる電報を受け取った。詳しい状況は書いていない。これでこの波瀾万丈の奇妙な話もおしまいだ。

ところで、猟苑をとおったときの、君のいつかの幻影はじつに奇妙ではないか。僕は何度も考えた。あれは幻影だったのかと。 じつに不可解だ」

ああ、たしかに! 不可解だ。今でも不可解だ。説明することなんかできない。でも、それはたしかに存在したものだ。疑いようもなく見た。たぶん、心の目で見たのだろう。そしてわたしは見たままに語ってきた。何も抑制していなければ、何もつけ加えることもなく、何も説明はしていない。この不可解な一件は、考えてみたい者たちに任せるとしよう。わたしとしては、ただウォルステンホルムの言葉をくりかえすだけである。あれは幻影だったのかと。(完)