風の詩人は叫ぶ マンアライヴ
一部 謎の人物、イノセント・スミス
一章 どのように強烈な風がビーコン・ハウスに到達したか
チェスタトン 作
登場人物
Mrs. Duke デューク夫人 下宿屋の女主人
(デュークは公爵夫人の意味)
Diana Duke ダイアナ・デューク 下宿屋の女主人の姪
(ダイアナは月の女神で、女性と狩の守護神。デュークは侯爵)
Rosamund Hunt ロザモンド・ハント 下宿屋の女主人の姪の友達
(ハントは狩猟にかけたか?)
Warner ウォーナー 裕福な若い医師 (警告者という意味)
Arthur Inglewood アーサー・イングルウッド 下宿人 ウォーナーを崇拝 スミスの 友人
(ingleには炉の火、woodには材木、炉の火にくべられた木、つまり目立たない人の意味か)
Michael Moon マイケル・ムーン 下宿人 新聞記者 痩身 アイルランド人
Moses Gould モーゼス・グールド 下宿人
(たぶんユダヤと分かる名前)
Beacon house ビーコン・ハウス 下宿の名前
ビーコンは監視塔、望楼、指針、かがり火、灯台の意味
一陣の風が西の空の高いところで生まれたかと思うと、突発的な幸福の高まりさながらに、イングランドを横切って東へと突進してゆき、そのあとには霜におおわれた森の香りと冷え冷えとした海の痕跡が残された。
百万ものみすぼらしい家で、そして街角で、その風は大瓶に入った葡萄酒のごとく人を元気づけたかと思えば、拳固で一発くらわせたかのごとく仰天させたりもした。
樹木にこんもりと覆われ、複雑に入り組んだ邸宅の一番奥の部屋でも、爆風よろしく活気がみなぎったものだから、床に教授の論文が散らばってしまい、ついには諸行無常のはかなさを放つ始末だった。
そうかと思えば蝋燭の灯りが吹き消され、その下で「宝島」を読んでいた少年が、どこか獣じみた暗闇に包み込まれた。
かくして至るところで、劇的という言葉とは一切無縁な人生に、風は芝居がかった状況をもたらして、危機を告げるトランペットの音を世界中に響かせた。
無数の疲れきった母親たちが侘しい裏庭で、洗濯用ロープにつるされた、小人が着てもいいくらいのやけに小さな五枚のシャツをずっと眺めている様子ときたら、ちょっとした気の滅入る悲劇という感じがして、まるで母親が自分の五人の子供たちを吊るしてしまったのかと思える有様だった。
そのとき風が吹いてきた。
するとシャツは風をはらんで、蹴りつけると、五人の、丸々とした小鬼たちがシャツの中に飛びこんできた。
抑圧された潜在意識の奥底から、母親がおぼろげに思いだしたのは遥か昔の下品な喜劇で、妖精たちがまだ家庭の中に暮らしていた時代のものであった。
その劇では、数多の少女が気づかれることもなく、周囲に塀がめぐらされ、湿り気をおびた庭でハンモックに身を投げ出していた。他を受け入れない仕草ときたら、テムズ河に身を投げだしかねない頑なさであった。
そのとき風がうねる木立の壁を引き裂き、バレエのバローンさながらハンモックを持ち上げ、まずは彼方にある風変りな雲の形を少女に見せ、次にずっと下の方で光り輝く村の風景を差し出してみせた。
それは妖精の舟で進みゆく天国さながら。
大勢の官吏や牧師が埃をかぶって、足取り重く歩いているのは、望遠鏡でないと見えないくらいに彼方にあるポプラ並木。連中は百回目の問いを投げかける、自分達ときたら、葬儀馬車の羽飾りみたいなものではないかと。
そのとき、目に見えない力がつかみかかり、ゆさぶりをかけてくると、彼らの頭のあたりがざわざわしだした。
その感触ときたら、さながら月桂冠。もしくは天使の翼でのご挨拶。
大気の霊感にあふれ、権威ありげな様子ときたら、諺に出てくる昔の風の比ではなかった。なにしろ、これは善なる風で、誰も傷つけることなく吹くのだから。
疾走する突風がロンドンに衝突する。
疾風が吹き上げてゆく北の高台は段丘が段々に連なり、エジンバラを思わせる急勾配の地であった。
この界隈で、酔っぱらった詩人が見上げて仰天したわけは、段丘の通りが全て天空の方へと向かっていたからだ。そこで氷河のことやら、ザイルで互いを結んだ登山者のことやらがぼんやりと浮かんできて、スイス・コテージという名前をつけた。
以来、その名を吹き飛ばせないままだ。
頂上に行く途中、ずいぶん陰鬱な、高さのある家々からなる丘があるが、ほとんど人の気配がなく、荒涼とした有様ときたらスコットランドのグランピアン山脈を思わせるほどだった。
陰鬱な丘は西の端あたりで湾曲していた。
一番端にある建物、「ビーコン・ハウス」と呼ばれる下宿が、沈む太陽にぶっきらぼうに差し出してみせるのは塔のようにそびえる姿。
それは見捨てられた船の船首さながら。
その船には、しかしながら、まったく人がいないというわけでもなかった。
下宿屋の所有者はミセス・デュークという名の、死ですら戦いを挑まない、無気力な人物のひとりであった。彼女は、すべての不幸な出来事が起きる前でも、起きた後でも、とりあえず曖昧に笑んでみせた。ぼんやりしているから傷つくこともなかった。
それでも精力的に動き回る姪が手伝ってくれるおかげか、それとも姪の尻にひかれているせいか、常連客はいつもいた。
ただ若いが、気力のない連中だった。
五人の下宿人たちが庭で憂鬱そうに立っていると、大風が吹いてきて、境界にたつ背後の塔の土台を蹴散らかしてきた。
それはそそり立つ崖の下で、飛沫をあげて飛び散る海そのもの。
終日、ロンドンの向こうの家々が並んだ丘では、冷たい雲が屋根となってすっぽり覆い、しっかり封をしていた。
それでも三人の男と二人の女たちは、鬱々とした寒々しい庭のほうが、暗く、陰気な室内よりは我慢できると悟るのであった。
風がやってきては空を引き裂いて、雲上にある夢幻の国を肩で右に左に押しわけて進んでいった。
そして開け放ったのは、くっきりと見えている黄昏の黄金からなる炉の扉。
解き放たれた光の炸裂も、吹き出した空気の爆発も、ほとんど同時に起きたように見えた。
爆風は暴力をふるって締め殺しにかかり、万物につかみかかった。
きらきら輝く丈の低い草は、ブラシでなでつけた髪のように一方向になぎ倒された。
庭の灌木はまるで首根っこをおさえつけられた犬のように、根もとをぐいと引っ張られた。
狩猟だ、皆殺しだと喚く悪風が過ぎてゆけば、ぴょんぴょん飛びはねる葉も無惨な有様。
時おり、小枝がぽきんと折れて飛んでゆく様ときたら、強力石弓から放たれた太矢さながら。
三人の男達は体をこわばらせ、風に抗って斜めに立ち、壁に寄りかからんばかりになっていた。
二人の淑女達は、家の中へと消えた。
いや、実際のところを言えば、二人とも家の中に吹き飛ばされたのだ。
二つのドレスは片方が青。もう片方が白。二輪の大きな花が手折られたかのごとく、強風に飛ばされ漂っていた。
詩的な空想も、まんざら的外れではなかった。
それというのも、強風や閃光が流れ込んでくると、どこか妙に夢物語的な世界に思えてくるからで、しかも長く、鉛色の、盛り上がらない一日のあとでは尚更だった。
草も、庭の木も、良き存在となり、この世のものとは思えない位にきらめく輝きは、妖精の国の炎さながら。
散々な日の終わりに、奇妙な日の出を見るかのごとき景色であった。
白の娘はすばやく家の中に飛び込んだ。
娘はパラシュートくらいの大きさの、白い帽子をかぶっていたから、家に入らなければ、帽子は色あざやかな夕焼け雲のほうへ、ふわりと娘を運び去ったことだろう。
彼女は、下宿人たちにすれば見せびらかしたくなる輝きの一つとも言える存在で、貧乏なその場所で(友達と一時的にそこに滞在していた)富を放っていたのは、ささやかながら女子遺産相続人であるためであった。
名前はロザモンド・ハント。茶色の瞳に、丸い顔。大胆不敵で羽目をはずすこともあった。財産もあるうえ、性格は陽気、ずいぶんと器量よしときていた。
そして彼女は結婚していなかった。おそらく、絶えず周囲にたくさん男性がいるせいであろう。身持ちが悪いわけではなかった(育ちが悪いと言う者はいただろう)。
優柔不断な若者たちにあたえる彼女の印象は、人気者でありながら、同時にどこか近寄りがたいというものであった。青年たちは、まるで自分がクレオパトラと恋におちたかのような思いで、あるいは楽屋口で大女優を待っているかのような思いで、心を焦がした。
たしかに劇場の舞台衣装のスパンコールが、ハント嬢のまわりでチャリンチャリンと音をたてているかのようであった。彼女はギターやマンドリンを弾き、たえずシャレードのゲームをやりたがった。
太陽と嵐によって空がずたずたに引き裂かれたそのとき、心の中に再び膨らんでいく少女じみたメロドラマを彼女は感じた。
大気の調和が砕かれて雲がわきあがってゆく様は、長いあいだ期待して待っていたパントマイムのカーテンがあがっていくときのようであった。
奇妙にも、青の娘にしたところで、庭で遭遇したこの世の終末に、まったく感じ入っていないというわけではなかった。
たしかに彼女は散文的で、かつ実務的な人間の一人だった。まさに行動力そのものと言える姪で、彼女の力だけが下宿を衰退から守っていた。
だが大風が吹きつけ、青のスカートも、白のスカートもぱっとふくらんで、ついにはヴィクトリア時代のペティコートのような奇怪な形になったそのときに、沈殿していた記憶が彼女のなかで蠢いた。それはいわば物語と言ってもいいもの。
たとえば幼少の頃、伯母の家で手にとった「パンチ」の、埃だらけの一冊。
ペティコートやクロッケーの門の絵。
ちょっとした愉快な短編小説。
そうしたものはおそらくほんの一部分だ。
だが記憶の中で感じかけたこの香気も、すぐに消えてしまった。
そこでダイアナ・デュークは連れの娘よりも素早く家の中に入った。
背が高く、痩せていて、鼻はかぎ鼻、黒髪で、彼女は見るからに敏捷であった。
体つきは鳥や動物ではないかと思うほど、長く、用心深く、さながらグレイハウンドかサギという風情。それとも無垢な蛇と言うべきか。
下宿が隅々まで彼女を中心にしてぐるぐる回ってゆく様ときたら、鋼の軸のまわりを回転しているかのよう。
彼女が支配権を握っていると言うのは正しくはないだろう。
有能なあまり、彼女にはせっかちすぎる嫌いがあって、彼女はまず自分自身に従い、そのあとから他の者達も従うのだった。
電気工事士がベルを修繕するよりも早く、歯医者が歯を抜くより早く、執事が固いコルクを抜くより早く、彼女は万事をなしとげ、上品な両手を音もたてずに激しく動かした。
彼女は華奢だった。だがほっそりしているからと言って、飛び跳ねるようなことはなかった。
たしかに地面を蹴りつけたが、それは蹴ろうと考えてのことであった。
地味な女は、苦難をあじわい、挫折すると人はいう。だが更に酷いことに、美しい女というだけで万事がうまくいく。ただし、女らしい性格だけは手にできない。
「あなたの頭ごと吹き飛ばしてしまいそうな風ね」白服の若い女は言うと、姿見のほうに行った。
青服の若い女は、なにも答えなかった。そのかわり園芸用手袋をしまうと、食器棚のところに行き、アフタヌーン・ティのためにテーブルクロスを広げはじめた。
「あなたの頭ごと吹き飛ばしてしまいそうね、と言ってるのよ」ロザムンド・ハント嬢は言った。
その騒ぎ立てない陽気さときたら、歌や演説にアンコールを求められても、慌てふためくことのない者の余裕であった。
「吹き飛ばされるのはあなたの帽子だけじゃないかと思うけど」ダイアナ・デュークは言った。「はっきり言わせてもらえば、時々そっちのほうが大切に思えてくる」
ロザモンドの顔には、一瞬、我儘な子どものような苛立ちがよぎった。
やがて、それは健全なひとのユーモアへと変わっていった。
彼女は吹き出すと言った。「お生憎様。よっぽどの強風じゃないと、あなたの頭だって吹き飛ばせそうにないわ」
それまでとは異なる沈黙がたちこめた。
ちぎれゆく雲の合間から夕陽が徐々に射しこんできて、部屋を穏やかな炎でみたし、輝きのない壁を紅玉色と黄金色に彩色した。
「だれかがこんなことを私に言ったことがある」ロザモンド・ハントは言った。
「頭の冷静さを保ちたければ、自分の心を吹き飛ばせばいい。そうすれば簡単だと」
「ちょっと、そんな馬鹿な話はやめて」ダイアナは不作法なまでの、つっけんどんさで応酬した。
外を見てみれば、庭は黄金色の輝きに覆われていた。
だが風は頑なに吹きつけていた。
しっかりと足を踏ん張る三人の男たちもまた、帽子と頭の問題をよくよく考えたのかもしれなかった。
たしかに彼らの様子に目をやると、帽子にさわる三人の仕草は、それぞれの個性というものをよくあらわしていた。
三人のなかでも一番上背のある男は、高い山高帽をかぶったまま、果敢にも突風に耐えていた。風は山高帽に襲いかかろうとした。だが、その攻撃のむなしさときたら、背後の陰気な塔に襲いかかるも同じことに思えた。
二人目の男は、あらゆる角度から、堅い麦わら帽子をつかもうとした挙句、ようやく片方の手のなかに握りしめた。
三人目の男は、帽子をかぶっていなかった。
さらに、その態度からすると、それまでの人生で、彼は一度も帽子をかぶったことがないように思われた。
おそらくこの風は妖精の杖がおこした類のもので、男と女を試すために吹いているのだろう。こうした違いからも、三人の男たちの人となりがありありと見てとれるからだ。
堅牢な造りのシルクハットをかぶった男は、シルクのごとき滑らかさと堅牢さの化身であった。
彼は大柄で、魅力に欠け、この世に飽き飽きとしていた。ある者の言葉によれば、彼自身にもまた退屈させるところがあった。
ウェーヴのない金髪。整った容貌だけど肉づきのいい顔立ち。
裕福な、若い医師で、ウォーナーという名前であった。
最初のうちこそ、ぺったりとした金髪も、面白みに欠けているところも、少し間が抜けているように思えるのだが、彼が馬鹿でないということは確かなのである。
ロザモンド・ハントが下宿屋で金のある唯一の下宿人だとすれば、彼は今までのところ、何がしかの名声を見つけた唯一の人間であった。
彼の「下等動物における痛みの蓋然的存在」という文書は、科学界にあまねく歓迎され、根拠がしっかりしていると同時に、斬新的なものとして好意的に受けとめられた。
つまり、彼は疑いようもなく頭脳をもちあわせていた。
ただ、その頭脳が、大半の人にすれば火かき棒で突っついて分析したくなる程度のものだとしても、それは彼のせいではなかった。
帽子をぬいだり、かぶったりしている若い男はアマチュア科学者のはしくれで、若々しい生真面目さで、偉大なウォーナーを崇拝していた。
実際、名高い医師がこの場にいたのは、彼が招いたからだった。
ウォーナーが住んでいるのは、今にも倒れそうなこの下宿ではなく、医師たちが居をかまえるハーレー・ストリートだった。
この青年は、三人のなかでも一番若く、端正な容貌をしていた。
だが彼は、男であろうと女であろうとよく見かける類の、容姿端麗でありながら面白みに欠けるという運命にあるように思える人間の一人であった。
茶色の髪。血色のよい顔。そして内気な性格。
茶色と赤が滲んでいるような顔には優美さが欠けていた。彼は頬を赤くして立ち、強風に目をぱちぱちさせていた。あきらかに目立たないという類の人間の一人だ。
誰もが知っていること。
それは彼の名、アーサー・イングルウッド。
独身者で、品行方正かつ、たしかな知性の持ち主。
自身のささやかな金で生活し、写真と自転車という二つの趣味に自分を隠しているということ。
誰もが彼を知っていた。
それなのに誰もが彼のことを忘れてしまった。
黄金色のまばゆい日没の光のなかに立ったとしても、彼の周囲は何やら焦点がぼけてしまうのだった。あたかも彼が撮影した赤茶色の、アマチュア写真の一枚のように。
三番目の男は、帽子を被っていなかった。
痩身の体に夕暮れの日差しをあびて、狩猟用の服がぼんやりみえた。口に大きなパイプをくわえているせいで、余計に痩せてみえた。
面長の皮肉好きな顔。ブルーブラックの髪。アイルランド人の青い目。俳優のように陰鬱な顎。
どこから見ても、彼はアイルランド人であった。
だが、俳優ではなかった。ただし、かつて、ミス・ハントとシャレードのゲームで遊んだときのことは別として。
ありのままに言えば、無名のくせに生意気なところのある新聞記者で、マイケル・ムーンという名であった。
昔、彼は弁護士(バー)になるために勉強していると思われている節があった。
だが、ウォーナーはくだんのぎこちないウィットを利かせ、よく言った。友人連中が彼を見かけるのは、別な種類の居酒屋(バー)だと。
そもそもムーンは酒を飲まないものだから、酔っぱらうことも滅多になかった。
彼は、下流の仲間を好む紳士にすぎなかった。
これは上流社会より下流の仲間のほうが静かなせいでもあった。
女給仕と話をして楽しんだとしてもーご機嫌なのは明らかだったー、それは女のほうで殆どお喋りをしてくれるからだ。
さらにムーンには、女給仕の面倒を見てやるというもう一つの特技があった。
そうした訳のわからない愚行は、彼のようなタイプの男たち、いわゆる知的で野心を持たない男たちに共通するもので、頭脳面で自分より劣る者たちと出かけるという類の悪ふざけであった。
小柄で、快活なユダヤ人で、モーゼス・グールドという男が同じ下宿にいた。
その男が持ち合わせている黒人のような活力と育ちの悪さはマイケル・ムーンを大いに楽しませた。一緒に居酒屋から居酒屋へとはしごする有様ときたら、猿回しが芸をする猿を連れてまわるかのようであった。
曇天から吹きつけてきた風が途轍もない大きさで一掃きすると、空はどんどん澄んできた。
部屋の中にまた立ち現れた部屋が、天空に見えているかのようであった。
ついに光よりも軽やかなものを見つけのかもしれないと人は感じた。
静寂にみちた光が燦々とふりそそぎ、万象が本来の色をまとう。
灰色の幹は銀色に、泥色の砂利は黄金色になった。
鳥が一羽、木から木へと羽ばたくさまは地に舞い落ちる葉さながら。
茶色の羽も炎に彩られた。
「イングルウッド」マイケル・ムーンは青い目でその鳥を見つめて言った。「君にはだれか友達がいるのか?」
ウォーナー医師は自分が話しかけられたものと勘ちがいしてしまい、幅広の輝きあふれる顔をむけて答えた。
「ああ、いるとも。しょっちゅう外出するよ」
マイケル・ムーンは悲劇がかった仕草でニヤニヤ笑いを浮かべ、本来なら返事をしてしかるべき者の言葉を待った。
ややして、その者は答えた。ひどく冷静でありながら、清々しく若々しい声は、くすんだ茶色の男の体内から発せられたのであった。
「実は」イングルウッドは答えた。
「残念ながら、昔の友達連中とは連絡がつかないんだ。
なかでも最高の親友は学生時代の友人で、名前はスミスと言う。
それにしても奇妙だな、君がそんなことを話題にするなんて。
今日、ぼくは彼のことを考えていたんだよ。七、八年、会っていないのに。
彼とは一緒に学校で科学を学んでいた。賢い男だったけど、奇妙なところがあった。
やがて彼はオックスフォードに進み、ぼくはドイツへ行った。
それからの展開は、少し悲しい運びになった。ぼくは遊びに来るようにしょっちゅう手紙を書いた。でも何も返事がかえってこないから、問い合わせをしてみた。
すると驚いたことに、可哀想なスミスはすっかり頭をやられていたんだ。そう、気が狂っていたんだ。
報告には、少しはっきりしないところもあった。無理もないが。
回復したと言う者もいるが、そういう手合いはいつもいるものだ。
一年前、彼から電報を受け取った。だがその電報は、残念ながら、噂を間違いなく裏づけるものだった」
「そんなものだ」ウォーナー医師は動じることもなく同意した。「狂気とは、一般的に不治の病だから」
「正気というものも不治だ」アイルランド人は言うと、物悲しい目で医師を観察した。
「症状は?」医師は訊ねた。「その電報は、どんなものだったのか?」
「こうした話をするときに、冗談みたいなことを言うのは恥ずかしいんですが」イングルウッドは困惑した素振りで、ありのままを言った。
「電報はスミスの病が送ってきたもので、スミスが送ってきたわけではないんです。そこに実際に書かれていた言葉は、『二本足の人間が発見された』」
「二本足の人間だって」マイケル・ムーンは繰り返しながら、眉をひそめた。
「たぶん、元気いっぱいで蹴っているという別の表現なのだろう。正気をなくした人のことは、あまり詳しくないけど、そういう連中は足で蹴るにきまっている」
「それでは、正気をたもっている人々は?」ウォーナー医師は微笑みながら訊ねた。
「ああ、蹴っ飛ばした方がいい」マイケル・ムーンはふと心から言った。
「その電文は、あきらかに正気を失った者のものだ」鈍いウォーナー医師は続けた。
「一番よい検査方法とは、心身がまだ発達していない者の中から、普通のタイプを選んで調べてみることだ。赤ん坊だって、三本足の男を発見するとは思うまい」
「三本足なら」マイケル・ムーンは言った。「こんな風の日には、便利だろうなあ」
最前の大気爆発のせいで、人は平静さを失い、庭では黒焦げの木々が折れていた。
そのむこうでは、ありとあらゆる種類の思いがけない物が、風が疾走する空を急いでいた。藁。小枝。敷物。紙。さらに遠くには、視界から消えようとする縁のある帽子がひとつ。
消えたように見えても、しかしながら、それで最後というわけではなかった。
数分の間隔をおいた後、帽子がふたたび視界に現れた。今度はもっと大きく、もっと近くに見えた。
真白きパナマ帽のようにも、天国に舞い上がってゆく風船のようにも見えた。
一瞬、前に後ろによろめいて、その有り様は傷だらけの凧さながらであった。
やがて散りゆく葉のごとくよろめきながら、芝生の中央に着地した。
「だれかが上等の帽子をなくしたようだ」ウォーナー医師はそっけなく言った。
彼がそう言うと同時に、別の物体が庭の塀をこえ、はためくパナマ帽のあとを追いかけ飛んできた。
大きな、緑の傘だった。
そのあと唸りをあげて飛んできたのは、とても大きな、黄色の旅行鞄(グラッドストーン)だった。
さらに追いかけてきたものは、空飛ぶ車輪の形をしているかと思いきや、足がぐるぐる回転していた。マン島の盾に描かれた足の紋章のようであった。
だが閃光がピカッと走ると、足は五本足にも、六本にも見えた。
そいつは二本の足の上に降臨した。奇妙な電報の中の男のように。
明るい色の髪の大男が現れた。色鮮やかな緑の、休日の服を着ていた。
輝くブロンドの持ち主で、風のせいで後ろになでつけられた髪はドイツ人のよう、興奮と熱意に満ちた顔は天使さながら、飛び出た獅子鼻は犬の鼻のように小さかった。
けれどもその頭は、天使を身体のないものと考えるなら、決して天使などではなかった。
それどころか肩は広く、巨大な姿をしていた。
だが頭は妙なことに、不自然なくらいに小さく見えた。
こうしたことから、彼が白痴であるということに科学的な理論が裏付けられた(彼のふるまいからも確かであった)。
イングルウッドは意識しなくても滲み出る上品さを持ち合わせていながら、不器用なところがあった。
彼の人生は、助けようとする仕草の途中で遮られることばかりだった。
だから緑の服に身をつつんだ大男が、鮮やかな緑色のバッタのように壁を跳び越えてくるという仰天する出来事に遭遇しても、習慣と化していた小っぽけな利他主義は麻痺することなく、飛ばされた帽子のような事柄に立ち向かっていった。
前に踏み出して、緑の紳士のヘッド・ギアを取り戻そうとしたとき、雄牛のような唸り声が轟いたものだから、彼の体はこわばった。
「スポーツマンらしくないぞ!」大男は吠えた。
「フェアプレーでいけ、フェアプレーでいけ!」
それから彼は素早く、でも用心は怠らずに自分の帽子のあとを追いかけてきた。その目には炎が燃え盛っていた。
帽子は最初のうちはうなだれ、そしていつまでもぐずぐずとしながら、陽光がふりそそぐ芝生の上で一際気怠そうな塩梅だった。
だが大気が一新され、風が再び吹きつけてきた。
帽子は庭を転がりはじめ、パ・ド・カトルの四人舞踏の無茶な悪戯を踊った。
奇妙な男も、帽子のあとを追いかけはじめ、カンガルーのように飛び跳ねて、息を切らしながらのスピーチが炸裂した。
その筋道をたどることは、必ずしも容易くはなかった。
「フェアプレーでいけ。フェアプレーで……国王連中のスポーツなんだから……奴らの冠を追いかけろ……なんて思いやりのある連中なんだ……山からアルプスおろしが吹けば……枢機卿連中は赤い帽子を追いかける(ローマ・カトリックでは、枢機卿は赤い帽子を被る)……昔の英国の狩猟では……ブランバー谷の赤い帽子から始めた……帽子を追い詰めたぞ……猟犬がめちゃくちゃにした……彼をつかまえた!」
うなり声をあげていた風がやがて金切り声へとかわった。
力強い、素晴らしい両脚で彼は空に跳びだすと、姿を消そうとしている帽子に掴みかかった。
だが、手が滑り、締まりのない顔から芝生にぶつかっていった。
帽子は、得意げな鳥のように男の頭上に舞い上がった。だが、その勝利したという思い込みは早すぎた。
それというのも、この月の光を浴びたような変人は、両手をついて逆立ちをするや、長靴も脱ぎ捨て、二本の足を宙に向けてふりまわし始めたのだ。そう、マン島の象徴の旗のように(そこで、人々はあの電報のことをもう一度思い出した)。
彼はなんと帽子を足で捕まえてみせた。
長々と、突き刺すように風は呻くと、空を端から端まで引き裂いた。
男達は見えない突風のせいで目が眩んだ。
不思議な、透きとおった大雨が、激しい雨音をたて、男たちのあいだを、まわりの万物のあいだを流れていった。
大男はひっくり返ると座った姿勢をとって、まじめくさった様子で帽子で自分に冠を被せた。
マイケル・ムーンは決闘を見つめている男さながら、息を殺している自分に気がついて、信じがたい驚きにかられた。
烈風が、摩天楼のように高いエネルギーの頂点に到達した。
すると別の短い叫び声が聞こえてきた。そして不平をたらたら言い始めたが、それも呆気なく終わり、いきなり沈黙にのみこまれた。
つやつやと輝く、黒い円筒の形をした、ウォーナー医師のお役所風の帽子は、その頭をはなれると、長く、飛行船のごとくなめらかな放物線を描いていった。やがて庭木の頂上に達すると、いちばん高いところにある枝にひっかかった。
もう一つの帽子は飛ばされて見えなくなってしまった。
庭にいた人々は、何かが起きるぞと告げてくるような、尋常ではない旋風にまきこまれてゆく気がした。
次に何が飛ばされるのか、誰にも分からないように思えた。
人々が推測をめぐらす前に、元気のいい、大声を張りあげる帽子収集者は、もう木の中位の位置にいた。
彼は木から木へと飛び移りながら、バッタのように頑強な足を折りたたんだり動かしたりしていた。
彼は喘ぎ、謎めいた言葉を発していた。
「生命の木よ……ティドラシルよ……おそらく数世紀かけて登る木よ……死の鳥フクロウよ、学者の鳥フクロウよ。フクロウは帽子の中に巣をつくる、枢機卿の帽子の中に……フクロウの一族から、遠く、遠く離れても……まだ暴力で不当に地位や権力を手に入れる者はいる……天国へ行けば……月の男がかぶっている……山賊め……お前のものじゃない……医学に従事している元気のない男のものだ……庭にいる……あきらめろ……あきらめろ」
木がざわざわと揺れた。
雷鳴が轟く風に抗って、四方八方へと枝を抗わせている有り様ときたら、薊さながらであった。
そして陽光を燦々とうけて輝く様子は、まさに篝火そのものであった。
緑色の、風変りな人影は、秋の赤や黄金に鮮やかに映えていた。
その姿はすでに一番高い、ぐらぐらする枝のあいだにあった。
運のよいことに、彼の大きな体の重みにも枝は折れなかった。
彼がいるのは、散りゆく最後の葉の葉間、夜になれば最初に輝きはじめる星々のあいだであった。
彼はまだ陽気に、理性的に独り言を言っていた。それはなかば詫びているようにも聞こえた。
彼は少し息を切らしていた。
だが喘いでいるのも無理はなかった。非常識な侵入を突然、一瞬のうちにやってのけたのだから。
彼はフットボールのように一度、壁に跳ね返ってから、橇のように庭を滑り、それからロケットのように木を登ったのだ。
他の三人は呆然として、事件に事件が積み重ねられた地層の下に埋葬されているような様子であった。
実に荒々しい世界であった。そこでは、ことが終わりにならないうちから、別のことが始まるのだ。
三人は最初にこう考えた。
その木は五年間そこにあったし、その間、彼らは下宿屋に出入りしていた。三人ともみんな活動的で、健康だった。だが、その木に登ろうと思った者は、誰一人としていなかった。
そうしたこと以上に、イングルウッドの心に迫るのは色という単なる事実であった。
つやつやと深緑が光っている葉。
冷え冷えとした蒼穹。
荒々しい緑の腕、緑の足。
訳もなく幼い頃に輝いていた物が思い出されてきた。黄金の木の上にいる派手な男と同じ類のもので、おそらくは棒の先端で揺れている彩色をほどこされた猿のおもちゃ程度のものだろう。
妙なことにも、マイケル・ムーンには戯けたところがあった。さらにロザモンドと一緒にいるうちに感じやすいところが刺激され、年老いた役者から若い役者までが浮かんできた。
シェークスピアを引用しかけている自分に気がついて愉快になった。
「勇気とは、愛ではないのだ。ヘラクレスのごとき者よ、
それでもヘスペリデスの木を登るのか?」(シェークスピア「恋の骨折り損 四幕三場」)
科学を信じる冷静なこの男ですら、目も眩みそうな当惑を感じた。タイムマシンがぐらりと傾いて、がたがた音をたてながら急発進するときの感覚に似ていた。
しかし彼にしても、次の事態への心構えがまったく出来ていなかった。
緑の男はてっぺん付近の脆い枝に馬乗りになっていた。それはさながら箒の柄にまたがるむこうみずな魔女といった有様であった。
そして小枝でできた風通しのよい巣から、黒い帽子をもぎとった。
最初に吹き上げられて宙を横断していったときに太い枝にぶつかり、帽子は目茶苦茶になっていた。
もつれた小枝に引き裂かれて、引っ掻き傷ができ、至るところに擦った跡ができていた。
秋風や葉っぱのごうごう唸る音がしたかと思うと、帽子は手風琴のようにぺったんこになってしまった。
鉤鼻の、丁重な物腰の紳士ではあったが、その構造物にふさわしい気遣いを見せながら、木のてっぺんから帽子を引き離したとは言いがたいものがあった。
ようやく彼が帽子を見つけたとき、彼のふるまいを奇妙に思う者もいた。
彼は帽子をふってみせると、大きな声でわーいと勝利の歓声をあげた。
そのあと一瞬にして木から後ろ向きに転げ落ちたように見えた。
だが、長く、強固な足で木にしがみついた。尾でぶら下がる猿さながらであった。
こうして頭を下にして、兜をとったウォーナー医師の上にぶら下がって、彼が重々しく落としたのは、ぺちゃんこになった絹ばりの円筒であった。
「男はすべて王である」逆さまになった哲学者は説いた。
「その理論でいけば、帽子はすべて王冠である。しかも、これは天から授かった王冠である」
それから彼はふたたび、ウォーナー医師の戴冠式を試みた。だが肝心の相手が、宙にある王冠から、突然逃げ去った。
なんとも奇妙なことに、以前は頭にかぶっていた名誉の装飾物なのに、ぺちゃんこになった現状では欲しくないようであった。
「だめだ、だめだ」礼儀正しい男は、大はしゃぎで叫んだ。
「制服はいつも着ないといけない、たとえ擦り切れた服であってもだ!
オックスフォード運動の支持者たちは、いつもだらしないかもしれない。ワイシャツのカラーに煤をつけてダンスに行っている。でもカラーのあるシャツで行っている。
狩猟家は、古い外套を着ている。でも、狐狩りをする者が着る真紅の外套だ。
シルクハットをかぶるんだ。たとえ、てっぺんがなくなっているにしても。価値のある象徴なんだから、ねえ、君。
帽子を受け取りたまえ。とにかく、君の帽子なんだ。帽子の毛羽はぜんぶ樹皮にこすり取られている。ねえ、君。その縁は少しもカールしていない。
でも昔から被ってきたよしみもあるし、今だって世界一上等なシルクハットなのだから」
彼はこう話しているうちに、荒々しい気持ちよさにかられてしまい、形のないシルクハットを動揺している医師の頭の上に置いた。いや、叩きつけた。
それから自分の足の上にすっくと立ち、まわりの男たちの顔を眺め、話を続けながら、微笑みつつ息を切らした。
「どうして風でもっと遊ぼうとしないのか」彼は幾分興奮しながらいった。
「凧をあげるのもいい。だけど、どうして凧だけなんだい?
ああ、木に登っているあいだに、風が強い日の遊びを他に三つ考えついたよ。
そのひとつを紹介しよう。まず大量の胡椒を手にいれー」
「思うに」マイケル・ムーンは遮った。その口調には、嘲笑するかのような慇懃さがあった。
「君の遊びをもう十分に堪能させてもらった。
質問してもいいかな。君は本業の曲芸師で、巡業中じゃないかと。
それとも『元気な男の子』で知られているシリアルの会社、サミー・ジルの移動広告じゃないかって。
どうやって、しかもどういう理由で、君はありったけの気力を振り絞って、塀を乗り越え、僕たちが陰鬱な気分でいるなか、庭の木をよじ登ったのか?
ここは少なくとも理性のある住宅地なのに。」
見知らぬ男はできるだけ声をひそめて、こっそりと打ち明けた。
「ああ、それは僕の手品なんだ」彼は嬉々として告白した。
「二本の足を持っているからできるんだ」
アーサー・イングルウッドは、それまではこの愚かしい場面の背景と化して埋没していた。
だが、そこでびくりとして新参者を凝視した。近視の目は糸のように細くなり、襟のカラーがせりあがった。
「なんてことだ。君はスミスじゃないか」彼は、若々しい、まるで少年のような声で叫んだ。
そしてしばらく見つめると、「でも自信はないなあ」と呟いた。
「名刺ならある、おそらく」見知らぬ男は、不可解な重々しさで言った。
「名刺には、僕の本当の名前も、肩書きも、勤務先も、この地球上における真の目的も書かれている」
彼はゆっくりとチョッキの上ポケットから緋色の名刺入れを取り出すと、これまた時間をかけて大きな長方形の紙を取り出した。
目にした瞬間、とても奇妙な形をしていて、普通、紳士が使う名刺とは違うと彼らは感じた。
だが、紙がそこにあったのはほんの数秒間だけだった。
彼の指からアーサーの指へと渡されようとしたとき、どちらの手からかは定かでないが、紙は滑り落ちてしまった。
耳をつんざくばかりの、凄まじい勢いで大風が庭に吹きすさび、見知らぬ男の名刺を運び去ると、全宇宙の要らなくなった紙の山に加えてしまった。
こうして強い西風は家をまるごと揺さぶってから、過ぎ去っていった。
Ⅱ 楽観主義者の旅行鞄
私たちは皆、幼年時代に親しんだことのある科学についての空想物語のことを覚えている。そうした物語で語られる空想とは、大きな動物も跳ぶことができて、小さな動物と同じくらいに跳ぶことができるというものである。もし象が、バッタと同じくらい力強く跳ぶなら、動物園を堂々と飛び越えて、トランペットのような鳴き声をあげながらプリムローズヒルの丘に降り立つだろう。もし鯨が、鱒のように海から跳ねることができるなら、おそらく人々は顔をあげて、ラピュタの疾走する島のように、鯨がヤーマスの上で跳ねるのを見るだろう。こうした自然の活力は、崇高なものながら、一方でたしかに迷惑なものかもしれない。こうした迷惑が生じたのは、緑の服をきた男が浮かれているせいでもあり、善意にみちているせいでもあった。彼はあらゆる面で大きすぎた。なぜなら、大きすぎるだけでなく、彼は活発だったからだ。運のいいことに身構えることができたので、ほとんどの人々は平静であった。中流どころの下宿屋は-ロンドンの少々劣る地域にあった-、雄牛のような大男のために建てられたものでもなければ、子猫のように興奮する男のために建てられたものでもなかった。
イングルウッドが見知らぬ男のあとから下宿屋に入ると、その男が熱心に(しかも彼個人の意見を)話しかけているせいで、デューク夫人が困っている場面に遭遇した。太って、おどおどした夫人が目をみはって、まるで死んだ魚のように、体の大きな紳士に向かいあっていたのは、彼が下宿したいと丁重に申し出たからで、その男は片方の手には白の幅広の帽子を、もう片方の手には黄色の旅行鞄を持って、そうした荷物を大仰な身振りでしめしていた。幸いなことに、デューク夫人よりも手際のいい姪とその友人が家の中にいたおかげで、契約をむすぶことができた。実際、家中のすべての人々が、その部屋に集まってきた。この事実は、たしかに、この話全体の特色をよくあらわしていた。訪問者は、喜劇における山場の雰囲気をつくりだした。彼は家の中に入ってきたときから、そこを去るときまで、どうにか自分のもとに集まって、嘲りながらも追いかけてくれる仲間をみつけたのだが、それは子供たちがパンチとジュディーを集め、追いかけていくときのようであった。一時間前も、四年前もずっとこの下宿屋の人々は互いを避けてきたが、互いに好意をもつようになってもそれは変わることはなかった。陰鬱で、ひとけのない部屋に滑りこんでは、出て行くときに、彼らはそれぞれの新聞を探したり、めいめいの針仕事を探したりするのだった。今も、皆そろって何気ない風で来たのだが、その興味は様々であった。そこには困惑しているイングルウッドの姿もあったが、あいかわらず赤い影のようであった。困惑などしていないかのようなウォーナー医師の姿もあったが、医師は面白味に欠けるが、しっかりとした人物に見えた。マイケル・ムーンの姿もあったが、謎をかけているように、服装は騎手気取りの下品なもので、その顔にうかぶ物憂げな賢明さとは対照的であった。彼のところへときたのは、さらに滑稽なところがある仲間のモーゼス・クールドであった。彼は短い足を踏みしめて歩き、紫色のネクタイをしめ、神をおそれぬ子犬さながらの陽気さであった。だが犬に似ているのはそれだけではなかった。彼は喜びのあまり踊り、体をゆらしたが、突起した鼻の両側にある二つの、黒い目が陰鬱に光って、黒いボタンのように見えるところも犬のようであった。ロザムンド・ハント嬢の姿もあったが、まだ上等の白い帽子をかぶって、角張っているけれど器量のいい顔は帽子に縁どられていた。彼女が漂わせている、生まれついての雰囲気とは、予定どおりに開催されなかったパーティのために着飾っているという感じがするものだった。彼女にもまたムーン氏のように、新しい連れがいた。この物語がはじまってから初めて出てくる新しい連れという意味であり、実際には古くからの友達であり、保護されている存在でもあった。その連れは細身の、若い女で、濃いグレーの服に身をつつみ、人目をひくようなところは一切ないが、豊かな、赤々とした髪だけは別だった。その髪のせいで、彼女の青ざめた顔は三角形の、先がとがった顔立ちであったが、下にさがった頭飾りも、エリザベス朝風の見事な、幅広の高価な襟飾りも、尖った容貌を強調していた。彼女の姓はグレイのようであった。だがハント嬢は、彼女のことをメアリーと呼んだが、その言いあらわすことのできない調子は、実際のところ、友人となった居候にむけられるものがあった。彼女はきちんとした灰色の服の上に、小さな銀の十字架をかけていたが、この集まりのなかで彼女だけが教会にかよっていた。最後に―重要性が低いということではなく、その逆なのだが―ダイアナ・デュークがでてくると、鋼鉄の目で新参者を観察しては、彼が話す馬鹿げた言葉すべてに注意深く耳をかたむけた。デューク夫人はどうかと言うと、彼に微笑みかけていたが、その話を聞こうなどとは夢にも思っていなかった。彼女はその人生において、だれの言葉も聞いたことはなかった。ある者の言葉だが、そのせいで彼女は生きのびてきたのだった。
それにもかかわらず、デューク夫人としては、新しい客が礼儀正しい様子で、自分に注意をむけていることを喜んだ。彼女はだれの話も真面目に聞こうとしないが、彼女に真面目に話しかけてくれる者もまた、だれもいなかったからだ。彼女が嬉しそうにしたのは、見知らぬ男が目や口を大きく見開き、目眩がしそうな身振りで説明しながら―男は大きな帽子をかぶり、大きな荷物を持っていた―正面のドアからではなく、塀をのりこえて入ってきたことを謝罪したときであった。彼がそうしたのは、不幸にも家族の流儀のせいで、手際よく行動しなければいけないと考えたからであり、自分の服を心配してのことのようであった。
「実際のところ、母は、そういうことには少し厳しいところがありました」彼は声をおとすと、デューク夫人にいった。学校で帽子をなくしたりするようなことを、母は好みませんでした。恰好を綺麗にして、手際よく行動するように教わると、そうした状態にこだわるものなのです」
デューク夫人が弱々しく息をきらして言いながら、すばらしいお母様にちがいないといった。だが彼女の姪は、もう少し事情を調べたいようであった。
「手際よくということについて、妙な考えをおもちですのね」彼女はいった。「もし、それが庭の塀をのりこえたり、庭の木を登ったりということなのでしたら。ふつうは手際よく木登りをしたりできないものですわ」
「でも確かに、この人は、上手に塀をのりこえることができる」マイケル・ムーンはいった。「この目でみた」
スミスは心底驚いた様子で、娘を見つめているようだった。「これは、これは、娘さん」彼はいった。「私は木を整理していたのですよ。去年の帽子がここにあったとしても、かぶりたくはないでしょう? 同じように去年の葉っぱがあったら嫌でしょう? 風は葉っぱをおとしてくれるけど、帽子はどうにも出来なかった。今日、あの風が吹いてくれたおかげで、森は片づいたのですよ。変な考え方じゃないですか。片づけるということが内気で、静かな人のすることだなんて。でも片づけは、巨人にしたら骨折りの苦労なんですよ。なぜかって? 何にせよ、混乱することなく、片づけることはできませんからね。私のズボンを見れば分かります。お分かりになりませんか? 春の掃除をしたことがないんじゃありませんか?」
「まあ、ありますわ」デューク夫人は、熱心とも言える口調で答えた。「そういうことをするのは楽しいことだと思いますわ」初めて、彼女は自分が理解できる二つの言葉を聞いたのだ。
ダイアナ・デューク嬢はすばやく計算をしながら、見知らぬ男を観察しているようだった。やがて彼女の黒い目が心をきめたせいで輝いた。それから彼女は、もしよければ最上階にある特別な部屋を使うことができるのだがと切りだした。すると口数が少なく、感じやすいイングルウッドは、それまでのとんちんかんな問答遊びに気が休まらない思いをしていたので、その部屋まで案内しようと熱心に申し出た。スミスは階段を一度に四段ずつ上がっていき、最後の段のところで頭を天井にどしりとぶつけた。イングルウッドは奇妙な感覚におそわれ、高さのある家なのに、以前よりも高さが低くなったような気がした。
アーサー・イングルウッドは旧友のあとにつづいた。あるいは新しい友達なのかもしれなかった。だが彼には、そのどちらなのか、はっきりと分からなかった。その顔は昔の学友のように見える瞬間もあれば、別の瞬間には似ていないように思えた。イングルウッドが生まれついての丁寧さを捨て去り、いきなり「あなたの名前はスミスではありませんか?」と聞いたのだが、意味のない返答しか返ってこなかった。「きわめて正しい。きわめて正しい。よろしい。すばらしい!」 それはイングルウッドにすれば、よく考えてみると、名前を授けられる生まれたばかりの赤ん坊の言葉のように思え、とても名前を授ける成人の男の言葉には思えなかった。
その男が誰なのかはっきりしないにもかかわらず、不運なイングルウッドは、相手が旅行鞄をあける姿を見ると、その男の寝室に立ちつくして、男友達らしい無能な態度を発揮していた。スミス氏は鞄をあけて荷物をとりだしていたが、それは目眩がするような正確さで、木を登り、屑を扱うかのように、鞄から品々を放り投げていたときと同じ正確さであった。そして自分のまわりの床の上に、規則的な模様を描くようにして、鞄の中の品々をまき散らしていた。
そういうことをしながら、彼は話し続け、しかも幾分あえいでいる様子であった。(一度に四段も登ったせいだが、そのようなことをしなくても、彼の話し方は息切れがしているし、てんでばらばらであったけれど、それでも彼の意見は多少なりとも意義のあるものなのだが、しばしば切断されることのある画像のようなものでもあった。
「最後の審判のようだ」そう言うと彼は瓶を放り投げたが、どうやら瓶は床に着地して、右にゆれていた。「人々の話によれば、広大な宇宙とは…無限なものであり、天文学の領域である。たしかなことではないが。物事はあまりにも相互に近づきすぎていると思う…旅行のための荷造りをした…星はあまりにも近すぎる。ほんとうに…どういうわけだか、太陽は星だが、あまりに近づきすぎると、正しく見ることができない。地球も星だが、あまりにも近くにあるものだから、まったく見ることができない…浜辺にはたくさん小石がありすぎる。全部、輪にしてしまえばいいのに。観察するべき草の葉がありすぎる…鳥の羽冠は脳がよろめく。待っていてくれ。大きな鞄から荷物をだすから…そうしたら正しい場所に並べられるかもしれない」
ここで彼は話をやめたが、それはまさしく息つぎのためで、それからシャツを一枚、部屋の反対の端に投げた。そのあとでインク瓶も投げたところ、シャツを跳び越え、むこうにきちんと落ちた。イングルウッドは周囲を見わたして、この奇妙な、なかば対称的にひろがる無秩序の中にいるうちに、疑念が高じてきた。
実際、スミス氏の休暇の手荷物を探れば探るほど、人々はその手荷物のことが分からなくなった。手荷物の奇妙な点とは、すべてのものが正しくない理由で、そこにあるかのように見えるということだった。すべての人にすれば、二番目にくるような事柄が、彼にすれば一番大事なのであった。彼は深鍋やら浅鍋を茶色の紙で包んでいた。だが思慮に欠ける手伝いは、その深鍋が価値のないもので不必要だと考え、さらに本当に価値があるものとは茶色の紙だと考えた。彼は葉巻きの箱を二、三箱とりだすと、はっきりとした、困惑させるほどの率直さで、自分は喫煙者ではないと説明したが、その箱はずば抜けて優れた透かし彫りであった。彼はまた、赤、白のワインが入った六本の小さな瓶を見せた。イングルウッドはヴォルネィに気がつき―彼はそれが極上のワインだと知っていた―、最初、この見知らぬ男がワイン通なのではないかと考えた。だから呆気にとられたのだが、次の瓶は質の悪い、まがい物の、植民地からのクラレットで―公平に言ったところで―植民地の人間ですら飲まないような代物だった。ちょうどそのとき、彼は気がついたのだが、六本の瓶に貼られているのは、様々な色合いの、金属のようなシールであった。そしてその瓶が選ばれたのは、ただそのシールの色が基本の三原色と準基本三原色-赤、青、黄色、そして緑、紫、橙―であるからのように思えた。イングルウッドは、この男のあまりにも子どもじみている様子に、ぞっとする思いにかられた。スミスは、人間の心理がとりうるかぎりの、純真無垢な男であったからだ。彼は無垢がもたらす喜びを感じていた。たとえば粘りつくガムを愛し、白木を切り落とす様子は菓子を切っているかのようであった。この男にすれば、ワインとはあきらかに守るべきものであり、また同時に謗るべきものであった。それは古風な趣のある、色のついたシロップで、子供らが店の窓に見るようなものであった。彼は支配するかのように話しては、社会の有様に襲いかかった。そして彼は自分を貫き、それは現代劇における超人のようであった。彼があっさり自分を忘れる有様は、パーティに参加した少年のようであった。彼はどうやら赤ん坊時代から青年時代へと一気に滑りこんだので、私たちの大半が成の過程で経験する青年時代の危機を逃してしまったのだ。
彼が大きな鞄を別のところへ移したとき、アーサーは、鞄の側面にはI.Sというイニシャルが刻印されていることに気がつき、スミスが学校ではイノセント・スミスと呼ばれていたことを思いだした。正式なクリスチャン・ネームなのか、それとも行いを語るものだったのか思いだすことはできなかった。彼が別の質問を投げかけようとしたとき、扉をたたく音がした。そしてゴウルド氏の身長の低い姿が見え、その背後には、憂鬱そうなムーンが、ゆがんで高くみえる影のような有様で後ろに立っていた。彼らは、もう二人の男たちに続いて階段をのぼり、さまよえる男たちの群れと行動を共にしているのだ。
「邪魔にならいといいのだが」にこやかなモーゼスは声をかけ、輝くばかりの善良さをみせたが、うわべだけでも謝罪することはなかった。
「本当のところは」マイケル・ムーンは比べると、かなり礼儀正しく言った。「君が部屋で気持ちよく過ごしているか確かめようと考えたのです。デューク嬢はやや―」
「分かっています」見知らぬ男は大声をあげると、彼の鞄からにこやかに顔をあげた。「すばらしいじゃないか? 彼女の近くに行けば、軍歌が聞こえてくる。まるでジャンヌ・ダルクのようだ。
イングルウッドはそう話す相手をまじまじと見つめたが、その有様は素晴らしい妖精物語を聞いた者のよう、そう、その物語には、ささやかな事ながら、忘れられた事実がひとつ含まれているのだ。数年前、彼は自分がジャンヌ・ダルクのことを考えていたのを思い出したからなのだが、それはまだ学生になったばかりで、寄宿舎に入ったばかりの頃のことであった。ずっと前から、友人のウォーナー医師の強烈な理性論のせいで、彼の若々しい無知も、不釣り合いな夢も砕かれていた。ウォーナー流の無神論と絶望的な人間についての考察の影響をうけ、イングルウッドが自分のことを内気で、不十分で、「弱い」型の人間だと考えるようになって久しく、自分はそういう人間なのだから、結婚なんかしないだろうと考えていた。ダイアナ・デュークのことも、物質主義の女中だと考え、彼女に憧れた最初の頃の気持ちはつまらないもので、大学教育を受けている者の一員が下宿屋の娘にキスするなんて、実に面白くない笑劇だと考えていた。それでも軍隊の音楽についての言葉には、妙に心が動かされ、遠くでドラムが聞こえたかのようであった。
「彼女は物事をきちんとしておかないといけないんだ、それが普通のことなんだ」ムーンは言うと、どちらかと言えば小人の部屋のような場所を見わたしたが、傾斜した天井はくさび形をしていて、小人が被る円錐の頭巾のようであった。
「あなたには、いささか小さすぎる箱のようだ」グールド氏はふざけた口調で言った。
「それでも、すばらしい部屋だ」スミス氏は頭を旅行鞄につっこみながら、熱心に答えた。「こうした尖った形をした天井の部屋が好きなんだ。ゴシック建築のようじゃないか。おや、あれは」彼は大声をはりあげると、心底仰天した様子で指し示した。「あの扉は、どこへ続いているのかね?」
「避けがたい死へと、そう言うべきかもしれない」マイケル・ムーンは答えながら、屋根裏の傾斜した天井にはめこまれた、埃によごれ、もはや使用されていない落とし戸を見つめた。「あそこに屋根裏部屋があるとは思えないし、どこに続いているのか分からない」彼がそう言い終わるよりもだいぶ前に、強靭な、緑の足の男は天井にはめこまれた落とし戸にむかって跳びあがると、その下にある出っ張りをつかんで何とかぶら下がり、苦労した挙句、その扉をねじって開けて、あいだを通り抜けながらよじ登った。しばらくのあいだ、象徴的な二本の足が見えたが、その様子は頭を切りとった彫像のようであった。やがて足は消えてしまった。こうして屋根にあいた穴からは、うつろに澄みわたった夕方の空があらわれ、大きな雲がひとつ、様々な色に彩られながら空を横切っていき、それは国全体がひっくり返ったかのようだった。
「やあ、君たち!」イノセント・スミスの大声が遠くから響いてきたが、それは明らかにはなれたところにある小尖塔から聞こえてきた。「ここに登っておいで。それから僕に食べ物と飲み物も持ってきて。ピクニックにもってこいの場所だ」
ふと衝動にかられ、マイケルは小さなワイン瓶を二本つかむと、拳のなかに固く握りしめた。アーサー・イングルウッドは、まるで催眠術にかけられたように、ビスケットの錫の缶と生姜のはいった大きな瓶を手探りで探した。イノセント・スミスの巨大な手が隙間から現れる様子は妖精物語の巨人のようであったが、これらの捧げ物を受け取ると、高いところにある家へと立ち去った。そこで二人は窓から身をのりだした。二人とも活発で、体育が得意だったのは、イングルウッドは衛生学をとおした関心から、そしてムーンはスポーツへの関心からであったが、それは平均的なスポーツマンがいだく関心と比べれば、つまらないものでもなければ、不活発なものでもなかった。ふたりがともに目眩がするような完璧な感覚におそわれたのは屋根の扉がひらかれたときのことで、それは空のなかの扉が突如開かれたかのようなものであった。ふたりは登ろうと思えば、宇宙という屋根を登ることもできるだろう。彼らは二人とも、長いあいだ、知らないうちに凡庸なものに閉じ込められてきていたが、ひとりはそれを滑稽なことだと考え、もう一人は由々しい事態だと考えていた。ふたりはともに男だったが、そのなかの感傷的傾向は決して死んではいなかった。だがモーゼス・グールドが抱いたのは感傷に匹敵するだけの軽蔑で、ふたりの自殺的行為の体操を軽蔑し、その意識下にある超越的な思考も軽蔑した。そこで彼は立ったまま、こうした事柄を笑ったが、その笑いは人種を異にするもので、恥知らずな合理性があるものだった。
並外れたスミスは、煙突上部の通風管にまたがったところで、グールドが続いていないことに気がつき、その子供じみたて親切なところやら、善良な性質やらに駆り立てられ、屋根裏へと潜り込んで、グールドを元気づけ、登ってくるように説き伏せようとした。イングルウッドとムーンだけが、スレート屋根の長く、灰緑色の棟に取り残されると、二人は樋に足をかけ、煙突の通風管にもたれ、互いを不可知論者らしい様子で見つめていた。彼らが最初にいだいた感情とは、ふたりは永遠のなかに入ってきたのだというものであり、また、その永遠とは逆さまの世界であった。ふたりに思い浮かんだ永遠の定義とは―彼が入った世界とは、明瞭で、明るい無知の光に照らされたところで、すべての信念がはじまったところだということであった。彼らの上にひろがる空には、神話があふれていた。天空は奥深く、あらゆる神がいるように思えた。天空のまわりが緑から黄色へと変わりゆく様子は、まだ熟れていない、大きな果物のようであった。太陽が沈んだところは檸檬の色をしていた。東付近は光沢のある緑色で、淡緑色の西洋スモモを思い出させた。だが空一面にはまだ寂寞とした日の光が漂い、うす暗がりがひそんでいる気配はなかった。この輝く、淡い緑色の空のあちらこちらに散らばっているのは、インクをながしたような紫色の雲であったが、その雲が流れ落ちていく大地は、途方もなく大きな透視画のなかのようだった。そうした雲のなかには、たっぷりとした司教冠をかぶり、たっぷりとした髭をはやし、ぐずぐず泣きごとをいうアッシリア人の面影を宿したものがあり、巨大な頭を下にむけたまま、天国から飛びだしてきたようなその形は、いわば偽のエホバさながらで、おそらくはサタンであった。ほかの雲はみな、不自然なまでの小塔に飾られた形をしていて、まるで神の宮殿がアッシリア人のあとから放り出されたかのようであった。
しかしながら、虚ろな天国はしんとした破局につつまれているが、ふたりが腰をおろしている建物の上部は、天とはまさに対照的に、小さく、些細な音があちらこちらから聞こえた。眼下に走る六本の通りでは、新聞売りの少年が声をはりあげ、礼拝堂へと誘う鐘の音が聞こえた。下の庭から、話声も聞こえてきた。こらえきれないスミスが、階下のグールドのあとを追いかけたにちがいない。彼の熱心かつ嘆願するような声が聞こえてくるし、そのあとからユーモアをあまり持ち合わせていないデューク嬢が抗議する声も聞こえ、さらにはロザムンド・ハントの若々しい笑い声が聞こえてくるからだ。大気は、嵐のあとに訪れる、あのひんやりとした優しさを漂わせていた。マイケル・ムーンが、真剣な様子で空気を味わったのは、もう安物のクラレットの瓶をあけてしまっているからで、その瓶をほぼ一気にあけてしまったのだ。イングルウッドは生姜をゆっくりと齧り、その様子には頭上の空と同じくらいに測りがたいまでの重々しさがあった。すがすがしい大気が混ざりあっていき、庭園の土壌の香や秋薔薇の最後の花の香をかいだような思いに人々はかられた。突然、暗がりに沈んだ部屋から、はじけるような澄んだ音色がきこえてきたが、その音は、ロザムンド嬢が長い間忘れられていたマンドリンを取りだしたということを告げていた。最初、音程がいくつか聞こえ、遠方から響く鐘のような笑い声に近い音がした。
「イングルウッド」マイケル・ムーンが言った。「ぼくがならず者だという話を聞いたことがあるか?」
「そんな話は聞いたことがない。聞いても信じない」イングルウッドは、妙な間を置いてから答えた。「でも君が、いわゆる野育ちだと聞いたことがある」
「ぼくが野蛮だというような話を聞いたとしても、そんな噂は否定すればいい」ムーンは、並はずれた冷静さで言った。「ぼくは従順だ。とても従順だ。はいつくばっている獣のなかでも一番従順だ。同じ種類のウィスキーをたくさん飲むけれど、それも毎晩、同じ時刻に飲む。同じ量のウィスキーを飲み過ぎるくらいだ。パブにも同じ軒数だけ行く。藤色の顔をした、忌々しい、同じような女たちにも会う。同じ数の、汚らしい話も聞く。だいたい同じように汚らしい話だ。友達のイングルウッドに確かめればいいが、おまえが見ているのは、文明のせいですっかり従順になった男だ」
アーサー・イングルウッドは相手を見つめたが、屋根から落ちそうになるものを感じていた。そのアイルランド人の顔はいつも不気味であったけれど、今では魔力にちかいものが宿っていたからだ。
「なんて忌々しい!」ムーンは大声をあげると、突然、空になったクラレットの瓶をつかんだ。このワインは、僕がコルク栓をあけたワインの中でも、ひどく薄いものだし、汚らしいワインだ。それでも九年間、こんなに楽しんだワインはない。僕が荒々しくなったのは、たった十分前のことだ」それから彼が、びゅーと音を鳴らしながら瓶を投げると、ガラスの車輪と化しながら、その瓶は庭をこえ、道路のほうへと飛んでいった。夜の深い闇に沈んでいた道から、瓶が石のうえで砕けて割れる音がした。
「ムーン」アーサー・イングルウッドが、やや嗄れた声でいった。「そんなことで、それほど辛辣にならなくてもいいじゃないか。時勢には順応しないといけない。むろん、少し退屈に感じる連中もいるけど」
「あの男は退屈なんかしてない」マイケルは、断固として言った。「僕が言いたいのは、あのスミスとか言う男だ。彼の狂気のなかにも、なんらかの理論があると思う。彼は周囲を不思議の国に変えることができるようだが、そうするのも平凡な道から一歩踏み出すだけだ。あの跳ね上げ戸のことを思いついた者がいるだろうか。このクラレットはなんとも不味い味がする植民地の代物なのに、煙突の通風管のあいだで飲むだけで、こんなに美味しくなると考えた者がいるだろうか。おそらく、こうしたことが妖精の国にはいる真実の鍵なんだ。おそらく、おせっかいなゴールドも、嫌な味の、小さなエンパイアー・シガレットを吸うときは、竹馬とか、そういう場所にするべきだ。おそらく、デューク夫人の、冷たい羊の脚の料理にしても、木のてっぺんで食べるなら美味しいのだろう。おそらく、僕のオールド・ビルのウィスキーはなんとも不味くて汚らしいし、しとしと降りつづける霧雨のような味がするけれど…」
「自分にそう厳しくなるものじゃない」イングルウッドはたしなめたが、その口調には不安を感じさせる苦悩がにじんでいた。「退屈なのは君のせいでもなければ、ウィスキーのせいでもない。ふつう人々は持ち合わせていないものなんだよ。つまり僕のような凡人は、と言いたいのだが。ぴったり同じ感情は持ち合わせていないんだ。そうした感情は、どちらかと言えば平凡なものであったり、うまくいかないものであったりするものだけれど。だが世界は、そう出来ている。まったくのところ生き残り戦だ。ある者たちは、ウォーナーのように、進歩を追いかけるように出来ている。いっぽうで、ある者たちは、僕のように沈黙を飾るように出来ている。自分の気質はどうすることもできない。僕よりも君のほうがずっと賢いよ。それでも君は、可哀想な文学野郎の、自由奔放な生き方を演じないではいられない。かたや僕は、つまらない科学野郎の疑念やら疑いやらを感じないではいられない。それは魚が空中を漂うことができないのと同じだ。シダが弧を描くのと同じだ。人間とは何か。ウォーナーが、あの講義で言っていたようなものだよ。人間とは動物の種族で、しかも異なる種族から成り立っているものだ。その動物とは、人間として見せかけられているものだ。」
眼下に広がる薄暗い庭園で、ぶんぶん響いていた会話が突如やぶられたのは、ハント嬢の楽器のせいで、それは激しく爪弾かれ、いきなり民衆にむけられた大砲さながら、元気のいい調べを奏でた。
ロザムンドの声が、間の抜けた、流行りの馬鹿な歌にのって、朗々と、力強く響いてきた。
『黒ん坊が歌っているよ、昔の農園の歌を。
歌っているよ、私たちが歌ったように、過ぎ去りし日々のことを』
茶色の目に物憂げな色をたたえながら、イングルウッドが服従の言葉を呟いているのは、その天真爛漫かつ情熱をこめた調べに対してであった。だがマイケル・ムーンの青い瞳に宿り、無情に輝いている光は、イングルウッドの理解をこえたものであった。幾世紀ものあいだ、多くの村や渓谷は今より幸せであっただろう。もしイングルウッドやその同郷の人々がその輝きが何であるかを理解し、その輝きがきらめいた刹那に、それがアイルランドの戦いの星であると推察していたならの話だが。
「何であろうと、人間性を変えることはできない。人間性は、宇宙に定められたものなのだから」イングルウッドは低い声で続けた。「ある男は弱く、ある男は強い。そこで私たちができることは只ひとつ、自が弱いと知ることだ。これまで幾度も恋におちてきたけれど、何もすることはできなかった。自分が飽きっぽい男だということを思い出したからだ。自分の意見はあるけれど、それを押すだけの厚かましさを持ち合わせていない。なぜなら、しょっちゅう意見をかえてきたからだ。ここが肝心なことなのだよ、君。私たちは自分を信じることはできない。しかも、その気持ちをどうすることもできない」
マイケルは身をおこすと、平衡を保ちながら立ったが、そこは屋根の端にあたる危ない場所で、その姿は切り妻に飾られた黒の彫像のようであった。彼の背後にひろがる雲は雲頂高くそびえ、この世のものとは思えない紫の色をしていたが、雲がむくむくと真逆の形に崩れていく有様は、しんと静まりかえったなかで、天が混乱しているようであった。雲の回転のせいで、その黒い人影もゆれているように見えた。
「さあ、僕たちは…」彼は言うと、いきなり黙り込んだ。
「さあ、何だって?」アーサー・イングルウッドは尋ねながら立ち上がったが、その動きは素速いものでありながら、用心深くもあった。友人が話している途中で、何らかの困難に気づいたように思えたからだ。
「これから出かけて、出来ないようなことをやろうじゃないか」マイケルは言った。
それと同時に屋根裏のはね上げ戸が足もとでひらき、そこにはモモイロインコのように色鮮やかな髪に、顔を紅潮させたイノセント・スミスがいて、彼はふたりにむかって呼びかけ、降りてこいよ、コンサートが盛り上がっているし、これからモーゼス・グールドが『若きラッキンバー』を朗唱するからと言った。
イノセントの屋根裏部屋におりると、なんとも楽しい手荷物に危うく転びかけた。イングルウッドは、散らかった床を見つめるうちに、子ども部屋のように散らかった床がなんとなく心にうかんできた。そのためアメリカの、大きなレボルバーに気がついたときには、彼はたじろぎ、むしろ動揺したと言ってもよかった。
「なんと」彼は声をあげると、きらめいている鋼の銃身から退いたが、それは蛇に出くわして後ずさりをしている男のようであった。「君は泥棒が怖いのかい?それにしても、こんなマシンガンをもって、いつ、どうやって死を扱うつもりかい?」
「とんでもない」スミスは言うと、銃を一瞥した。「銃をとおして扱うつもりでいるのは命だよ」それから彼は階段をかけおりていった。
三章
目印となる旗
明くる日ずっと、ビーコン・ハウスは狂ったような感覚にとりつかれ、まるで皆が誕生日をむかえたかのようであった。制度について語るとき、血の通わない、痙攣をおこしているものとして話すことが流行っている。だが本当のところ、人々がめったにないくらいに高揚しているときは―自由を満喫したり、創造にあけくれて活気づいているときには―つねに制度をつくりだす必要にかられるものだし、実際、つねに制度をつくりだしている。人々は疲れているときは無政府状態に陥るが、陽気で、元気がみなぎっているときは、いつも制度をつくりだす。こうした事実は、教会の歴史にも、共和党の歴史にもあてはまる真実であると同時にまた、ありふれた客間での遊びや、著しく知性に欠けた草っぱらでの遊びにもあてはまる真実だ。人が自由になるのは、何らかの組織が自由にしてくれるときようやくだ。自由というものが存在できるのは、政府が自由であると宣言してようやくだ。道化者のスミスのような荒々しい支配者でも、それでも支配者であることにはかわりない。なぜなら至る所に、狂気のような規制と条件の山をつくりだしているからだ。彼の狂気じみた生き方が、みんなを圧倒した。だが、破壊するような形で表現されたのではなく、むしろ目眩がするような、ぐらぐらとするような形で表現された。趣味がある者であれば、誰でも、その趣味がなかば組織へと転じていくことに気がつく。ロザムンドの歌は、ある種のオペラと合体するように見えた。マイケルの冗談や記事は雑誌になるように見えた。彼のパイプと彼女のマンドリンが、ふたりの間で奏でているのは、喫煙が許されたコンサートのように見えた。恥ずかしがりやで、当惑気味のアーサー・イングルウッドは、自分の重要性が増していく気持ちに抗っていた。彼は、実際には大したことがないにもかかわらず、自分の写真が画廊にかざられ、自転車が競技大会にでているような心地がしていた。だが誰も、こうした即興でつくられた状況や務めのあら探しをする時間はなかった。荒々しくも、つながるように互いを追いかけているからで、それは散漫な話し手が語る話題を追いかけるようなものであった。
こうした男との生活は、楽しい障害物からなる障害物競争であった。素朴で、ありふれた品々から、彼が大げさに巻き糸を引く様子は、魔術師のようであった。可哀想なアーサーの写真ほど、おどおどしていて、個性に欠けるものはなかった。しかしながら突拍子もないスミスが、晴れた日の朝、熱心に彼を手伝うと、擁護しがたい写真がひとつづきになって「道徳的な写真」と描写されるものとなり、下宿屋のまわりに広がりはじめた。それは昔の写真家が冗談でつくったもので、一枚の感光版に同じ人物が二人写り、自分自身とチェスをしたり、夕食をとったりしている写真だった。だが、この感光版のほうが荒唐無稽で、野心的なものであった。「ハント嬢、我を忘れる」という写真では、うっとりと会釈している彼女に、もう一人の彼女が無知で、ぞっとする視線をあびせていた。あるいは「ムーン氏が自分自身に問う」という写真では、反対尋問にかけられ、狂気にかられた者としてムーン氏の姿があるのだが、もう一人のムーン氏は長い人差し指をのばして、おどけた雰囲気を漂わせながら尋問中の自分を指さしていた。ある写真は、かなり成功をおさめている三部劇で、イングルウッドが、イングルウッドを認識しているというものだった。イングルウッドは、イングルウッドのまえにひれ伏していた。さらにもう一人のイングルウッドは、傘でイングルウッドを激しく叩いていた。イノセント・スミスは写真を引きのばしては、玄関ホールに貼ろうとしているのだが、いわばフレスコ画のようなもので、そこにはこう銘文が記されていた。
「みずからを敬い、みずからを知り、みずからを律する。
こうした三つのことだけで、ひとは気取り屋になる」テニスン
ダイアナ・デューク嬢が家事にかける活力ほど、平凡なものもなければ頑迷なものもないだろう。だがイノセント・スミスは、ひょんなことから発見したのだが、彼女のつましい婦人服仕立ては、服への女性らしい関心をともなうものであり、女性らしいものでありながら、けっして自尊心をそこなうことのないものであった。その結果、スミスは、彼女を悩ますことになる理論を考えたのだが-彼は真剣であった-、その理論とは、婦人方が節約と気品を結びつけることになるのは、明るいチョークで無地のドレスに模様を描き、そのあとで再び模様を拭うときだというものであった。彼が設立したのは「スミスのすぐ仕立てる洋服縫製会社」で、それは二枚の衝立を使い、厚紙のプラカードに、色鮮やかで柔らかいクレヨンで描いたものだった。ダイアナ嬢が実際のところ彼に放ったのは、不要となった黒のオーバーオールと作業用の婦人服で、服飾仕立て人の才能を鍛えようとしてのことであった。彼はすばやく彼女のために、赤と金色のひまわりに輝く衣類を仕立てた。彼女が肩のところにその服をあてると、女王のように見えた。そしてアーサー・イングルウッドは数時間かけて自転車をきれいにしてから(いつもながらの没頭している様子で)、ちらりと見上げた。彼の火照った顔がますます赤くなった。ダイアナが戸口のところに立ち、一瞬、笑ってみせたからだ。彼女の黒っぽい部屋着が豪勢なのは、孔雀の装飾が大きくほどこされ、緑や紫に彩られているせいで、「アラビアンナイト」の秘密の庭のようであった。痛みとか喜びとか名づけるには動きが早すぎる疼きが、彼の心をかけめぐり、それは旧世界の細身の剣レピアのようであった。彼は、数年前、彼女のことを可愛らしいと考えていたことを思いだしていた。だれとでも恋におちそうな頃のことだった。だが、それは前世でバビロニアの王女を崇拝していたことを思い出すようなものだ。彼が彼女のことをちらりと見ると(しかも、そうすることを待っている自分に気がついた)、紫と緑のチョークは払い落されてしまい、彼女は瞬時に仕事用の服装に戻っていた。
デューク夫人について言えば、この未亡人を知る者なら誰もが考もしないだろうが、自分の家をひっくり返すことになる侵入でも、彼女が意気揚々と阻止する筈がなかった。だが正確に観察している者は真剣に信じたのだが、彼女はそうした混乱を好んでいた。それというのも、彼女は心のなかで、すべて男というものは同じように狂気にかられた、荒々しい獣で、まったく別の種であると考えているような女性のひとりだからだ。さらにスミスの煙突の通風管へのピクニックや深紅色のひまわりには、イングルウッドの化学薬品やムーンの嘲笑よりも異常で、説明のつかないものがあると彼女が思っているかどうかは疑わしかった。一方で、礼儀正しさは、だれもが理解できるものであった。スミスのふるまいは因習にとらわれないものながら、礼儀正しくもあった。彼女に言わせると、彼は「本当の紳士」であった。ただ彼女が言いたいのは、「親切な男」だということなので、まったく意味が違っていた。彼女は食卓で上座につくと、何時間も太った手と手をかさね、微笑みをうかべていたが、そのあいだ皆はいっせいに話しをしていた。少なくとも、唯一の例外はロザムンドの付き添いのメアリー・グレーで、彼女の沈黙は何よりも熱意をあらわしているようなものであった。話しはしないのだけれど、彼女は今すぐにでも話すかのように思えた。おそらく、これこそが付き添いの役割を説明している。イノセント・スミスは、他の冒険に身を投じたときのように、彼女に話をさせようとする冒険に身を投じたように見えた。成功はしなかったけれど、無視をされたわけでもなかった。彼が何かをなしとげたのなら、この静かな人物に注目を集めたということであり、また彼女を幾らかでも遠慮がちな存在から不思議な存在へと変えたということであった。だが彼女が不思議な存在だとしても、その不思議はまだ生じたばかりで、踏み荒らされていることなく、まるで空の不思議のようであり、春の森の不思議のようであった。たしかに彼女は他の二人の少女より年上であったけれど、彼女には早朝の情熱があり、若者の初々しい真剣さというものがあった。それはロザムンドが金をつかううちに失ったように思えるものであり、ダイアナが金を守ろうとして失ったように思えるものであった。スミスはしげしげと彼女をながめた。彼女の目にしても、口にしても、間違った感じで顔に配置されていた。だが、その間違った配置こそが正しい配置なのであった。彼女は顔ですべてを言い表すこつを心得ていた。彼女の沈黙とは、いわば信頼できる拍手であった。
だが休日は一日というよりは、一週間のように思え、浮かれ騒ぎながら試行錯誤していくうちに、ある試みがひときわ目をひいた。べつにその試みは、他の試みと比べて愚かな訳でもなければ、成功をおさめている訳でもなかった。だが、その試みから生まれた愚かさのせいで、風変わりな出来事があふれだし、追跡する必要がでてきた。だが、どの悪ふざけも自然にはじけてしまい、あとには空虚が残された。どの小説もすべて本来のかたちに戻り、歌のように終わった。それでも一連の出来事は真実であり、また驚くべきものであった。その中には、ハンサム型馬車もあれば、探偵、ピストル、結婚証明まであり、ビーコンハウスの高等法院という冗談をかわすうちに、そうした話が全て、もともとありそうな話になったのだ。
それを発案したのはイノセント・スミスではなく、マイケル・ムーンであった。彼は妙な喜びを感じながら、気ぜわしげに、絶え間なく話をした。彼がこれほど皮肉屋だったこともなければ、人間らしさに欠けていたこともなかった。彼が発揮したのは昔の、役にたたない、弁護士としての知識で、裁判所について面白おかしく話をしたが、それは英国憲法における例外への、横柄な場への風刺であった。ビーコンハウスの高等法院は、と彼は話しはじめ、それが自由かつ賢明な憲法のすばらしい例であると語った。マグナ・カルタを擁護するために、ジョン王によって設立され、今でも絶対的な権力をふるい、その権力は風車、ワインやスピリットの販売証、トルコに旅行する婦人たち、犬盗人や親殺しの判決の改行にいたるまでおよび、ボスワースの市場での出来事なら何であろうと権力がおよんだ。ビーコン高等法院の全部で百九人からなる家令たちは、四世紀に一度会っていたが、その合間-ムーン氏の説明によれば-、この組織の力はすべて、デューク夫人に預けられた。しかしながら仲間内で、ぽいと預けられてしまった結果、高等法院は歴史的、法律的真面目さを保ちそこねてしまい、しかも家庭内のいざこざにかかわるうちに非良心的な使われ方をされた。もしウスターソースをテーブルクロスにこぼした者がいるなら、その者は身につまされるだろうが、それは慣例ではありながら、もし欠けるようなことがあれば、法廷の開会も、採決も効力のないものになるだろう。あるいは窓を閉めたままにしたいと思う者がいても、パンジェ館主の三番目の息子しか、その窓を開ける権利がないことに気がつくだろう。人々は手段を選ばず、逮捕して、犯罪の取り調べまで行った。愛国心についてのモーゼス・グールドの裁判は、ビーコンハウスの人々の理解をこえていた。とりわけ被告人の理解をこえていた。だがイングルウッドの裁判は、名誉毀損で訴えられたものであるということも、愚行が擁護されて免訴が成功したことも、どちらもビーコン高等法院における最上のしきたりであると考えられた。
だが熱狂するにつれてスミスはいっそう真面目になっていき、マイケル・ムーンのように不真面目になっていくことはなかった。このビーコンハウスにおける私設法廷の案がだされると、ムーンは放りだし、政治に諧謔を弄する者の冷淡さを見せつけたが、いっぽうスミスは、抽象的なことについて思索する哲学者の熱意で取り組んだ。出来るとすれば最高じゃないか、と彼は主張した。それぞれの家庭が主権を要求できるとしたら最高じゃないか。
「君はアイルランドの地方自自治を信じているんだね。でも、ぼくは家庭の地方自治を信じている」マイケルにむかって、彼は熱意をこめて叫んだ。「父親が皆、自分の息子を殺すことができるのなら、その方がいい。まるでローマ人みたいじゃないか。だれも殺されることがなくなるから、その方がいいじゃないか。ビーコンハウスからの独立宣言をだそう。あの菜園でたっぷり野菜を育てれば、生活もしていける。それから収税吏が来たら、僕たちは独立しているんだと言って、ホースでからかおう。でも、たぶん君がいうように、ホースなんかとても買えないね。だって大陸からくる品物だもの。でも、この白亜層を掘って、井戸を掘ることができる。そうすれば、水差しをつかって、いろいろとやることができる。ここビーコンハウスで、のろしをあげようじゃないか。独立を祝して、大きなかがり火を屋根のうえでたこう。テームズの谷間にある家が、つぎつぎにその火にこたえていくのを確かめよう。自由家族同盟を始めよう。地方自治から袂をわかとう。愛国心なんか大事じゃない。こうして、あらゆる家を自治のもとにおこう。その家の法律で、子ども達を審理しようじゃないか。ビーコンハウスの法廷でやるように。もやい網は絶ちきり、共に幸せになろう。まるで無人島にいるかのように」
「そうした無人島なら知っているよ」マイケル・ムーンが言った。『スイスのロビンソン』の物語のなかにだけ存在する。ある男が、ココナッツ・ミルクを妙に欲しくなる。すると隠れていた猿が数匹、ココナッツの実に衝撃をあたえて落下させる。それから文学青年がソネットを書きたくなると、じきにお節介なヤマアラシが藪から飛びだしてきて、針を一本突き射すんだ」
「『スイスのロビンソン』のことを悪く言うんじゃない」イノセントは激昂し、大声で叫んだ。「あの物語は、自然科学としては正確なものだとは言えないかもしれない。だが哲学としては的確だし、正確なものだ。実際に難破してみて初めて、自分に本当に必要なものがわかるんだ。ほんとうに孤島にいるときは、そこが孤島だとは決して思わない。もしこの庭でほんとうに攻撃されるようなことがあるのなら、ここにあるとは知らなかった百種もの、イングランドの鳥やベリー類に気づく。雪のせいで、この部屋に閉じこめられたのなら、書架にまだ読んだことない本がたくさんあることに気がつき、それを読むことになるだろう。それから互いに話もするだろう。いい話もすれば、ひどい話もする。そんな話があることも知らないで、墓に入っていたのかもしれないような話だ。僕たちは、どんなことでも話をこしらえることができる。洗礼式も、結婚式も、葬儀も、戴冠式までも、話をこしらえることができる。もし共和国になろうと決心しなければの話だが。
「『スイスのロビンソン』の戴冠式の整列場面とか」マイケルは笑いながら言った。「ああした雰囲気のなかにいれば、君があらゆるものを見つけるのはわかるよ。もし、そうした気取らないものが欲しければ、たとえば戴冠式の天蓋みたいなものだけれど、ゼラニウムの花壇をこえて歩いていって、満開の花の冠をいだいた木を見つければいい。黄金の冠にする金が少しほしければ、蒲公英を掘ればいい。そうすれば芝生のしたに、金の鉱脈をみつけるだろう。儀式に聖油がほしければ、大嵐が岸辺のあらゆるものを洗い流したあとがいい。敷地内に鯨がいることに気がつくだろうとも」
「そういうわけで、皆さんもご存知のように、敷地内には鯨がいるというわけだ」とスミスは断言すると、情熱をこめて食卓を叩いた。「君たちはきっと、敷地を調査しなかったんだね。君たちはきっと、僕が今朝したように、裏手をぶらぶらしたりしなかったにちがいない。だって、ぼくは見つけたんだよ。君たちが話しているその物が、ある木にだけ実ることを。古い型の、四角いテントが、ごみ入れにたてかけてあった。帆布には穴が三つあいていているし、支柱も一本折れていた。だからテントとしては用をなさない。でも天幕としてなら-」しかし彼の声は、自分の言葉に抜きんでた妥当性があることをうまく説明しそこねていた。それでも彼は論争するような熱心さで、話を続けた。「君も知っているだろう。君が異議を申し立てるなら、僕はあらゆる異議をうけるよ。僕は信じているんだ。君がここにある筈がないと言った聖なる物すべてが、ずっとあったということを。鯨が打ちあげられるのを、君が望んでいるのは油のためだ。でも、君のひじのところにある薬味台には、油の瓶があるじゃないか。それなのに、何年ものあいだ、その油にふれたり、その油のことを考えたりした者がいないんだ。金の冠のことも話そう。ここにいる私たちは富とは縁がない。でも、自分のポケットから十シリング銀貨をあつめ、三十分もあれば頭のまわりにつるすことができる。そうでなければハント嬢の金の腕輪は、じゅうぶんな大きさだから-」
陽気なロザムンドは、笑いでむせそうになった。
「光る物すべてが金ならず」彼女はいった。「それに」
「まちがいもいいところだ!」イノセント・スミスはさけぶと、かなり興奮した様子で跳び上がった。「光る物はすべて金だよ。とりわけ今、僕たちがいるのは独立国なんだから。もし独立の意味がわからないなら、独立国がもったいない。なんでも貴重な金属にすることができるんだよ。この世が始まるとき、人々がしたように。金が珍しいから、昔の人は金を選んだんじゃないんだ。君たち科学者なら、もっと珍しい瀝青を二十種類あげることができるだろう。人々が金を選ぶのは、金が輝いていたからなんだ。金を見つけるのは難しいよ。でも見つけたとしてごらん、それは綺麗なものじゃないか。金の剣で闘うことはできないし、金のビスケットを食べることもできない。ただ眺めることしかできない。そして、ここからも見ることができる」
ここでスミスは思いがけない行動にでた。後ろに飛びのくと、庭園への扉を開け放ったのだ。同時に身振りで何かをしめしたが、その身ぶりは慣習にとらわれていないようには見えず、彼らには似つかわしくないもので、彼が手をメアリー・グレーの方にさしのべて芝生の方へと誘う様子は、まるでダンスに誘っているかのようだった。
フランス窓はこうして開かれ、夜を中にいれたが、それは前日の夜よりもさらに美しい夜であった。西のほうは血の色であふれ、眠気をさそう炎が芝生にのびていた。庭園の木が一、二本、捻れた影をおとしていたが、陽光のせいでできる普通の影のような灰色でもなければ黒でもなく、どちらかと言えばアラベスクの文様のようで、東洋の金について記したページに、色鮮やかな菫色のインクで書かれた文様のようであった。日没は祝祭のような気配をおび、さらに神秘的な火に照らされて、ありふれた日常の品々も、その色のせいで、高価で、珍しい品を思い出させた。傾斜した屋根の粘土岩スレートは、孔雀がひろげた羽のように燃え、青と緑が神秘的に混ざり合っていた。赤茶色をした煉瓦でできた壁は十月の色合いで光っていたが、それはルビーの色であったり、熟成したポートワインの黄褐色であったりと、強いワインの色であった。太陽のせいで、すべての物も、人も、それぞれの色をまとい、炎をあげながら燃えているように思え、花火に火をつける人のようであった。イノセント・スミスは、その髪を-あわい金髪であった-異教の金の炎をかぶっているように見せながら、芝生を横切ると岩石庭園の岩の頂きへとむかった。
「金に何の価値があるだろうか」彼は言葉をつづけた。「もし光らないのなら。僕たちは気にとめないだろう。ソブリン金貨が黒かったり、昼の太陽が黒かったりしたら。黒いボタンと同じようなものだよ。この庭にあるすべてのものが、宝石のように見えないか。宝石には、いったいどんな価値があるんだ?宝石のように見えるということを除いたら。買うのも、売るのもやめて、見ることから始めるんだ。目をあけてみろ。そうすれば新しいエルサレムで目が覚めるだろう。
「光るものすべてが金。
真鍮でできた木も、塔も。
黄金色をした宵の風がふきぬけていく。
黄金色の牧草のあいだを。
遠くに叫び声は追いやるんだ。
黄色い泥を売る叫びは。
光るものすべてが金。
輝きが金だから」
「だれが書いたの?」ロザムンドは面白がって訊いた。
「だれも、今後も、だれも書いたりしないだろうよ」スミスは答え、すばらしい跳躍で岩石庭園を飛び越えた。
「ねえ」ロザムンドはマイケル・ムーンに言った。「このひと、精神病院に入院させた方がいいわよ。そう思わない?」
「なんだって」マイケルは問い返したが、やや憂鬱そうな口調であった。彼の長く、日に焼けた頭部は、日没を背にして黒々としていた。偶然なのか、そのときの気分なのか、彼の表情がどこか孤独で、よそよそしいのは、やや行き過ぎた庭園での懇親会にいるせいであった。
「スミスさんを精神病院に入院させた方がいいと言っただけよ」そのレディは繰り返した。
痩せた顔は長く、いっそう長くなっていくように見えた。ムーンは確かにあざ笑っていた。「いや」彼はいった。「まったく必要ないと思う」
「なんですって」ロザムンドは鋭く問い返した。
「もう、入院しているじゃないか」マイケル・ムーンは答えたが、その声には静かだが不快なものがあった。
「おや、気づいていなかったのか?」
「なにを?」その娘はさけんだのだが、その声はとぎれた。アイルランド人の顔も、声も、実に薄気味悪いものだった。黒っぽいその姿も、謎めいた言い方も、陽の光のなかで見てみると、天国にいる悪魔のようであった。
「説明が足りなかったようだ、すまない」彼は言葉をつづけたが、不快にさせる卑下がひそんだ口調だった。「そんなことは少しも話題にしていないけど。でも全員、わかっていると思っていたんだ」
「わかっていたって、何を?」
「いいかい」ムーンは答えた。「ビーコンハウスは、どちらかといえば風変わりな家で、瓦もゆるんでいる。そうじゃないか。イノセント・スミスが、僕たちを診療しにくる只一人の医者なんだ。さっき彼が大声で話していたとき、君は来なかったんじゃないか? 僕たちの病はほとんどが鬱病なんだから、彼も陽気すぎるくらいに陽気にならないといけないんだ。正気だということは、無理もない話だけど、僕たちの目には威張っているようにみえる。常軌を逸しているようにもみえる。壁を乗りこえたり、木に登ったり。こんな風にして、彼は患者を扱うんだ」
「そんな話はしないで!」ロザムンドは怒りにもえて言った。
「あなたは言おうとしないけど、私は-」
「僕も同じようなものだよ」マイケルは慰めるように言った。「他のみんなも同じようなものだ。デューク嬢が、じっと座っていれないことに気がついていないのか。これは悪名高い、あの徴候じゃないか? イングルウッドがいつも手を洗っているところを見ていないのか。これも精神的な病の徴候で、よく知られているものじゃないか。僕かい? 言うまでもないけどアルコール中毒だよ」
「信じないわ」相手は声をあげたが、その声は動揺を隠しきれていなかった。
「あなたには悪い習慣があるとは聞いていたけれど」
「習慣とはすべて、悪いものだ」マイケルはひどく冷静に言った。「狂気が生じるのは、狂気が生れるからじゃない。屈して、落ち着くことによって狂気は生じるんだ。汚くて、小さな、あることを考えて堂々巡りをしている輪のなかで狂気は生じるんだ。飼いならされることによって狂気は生じる。君の場合、お金に関して狂っている。君が遺産相続人というせいで」
「嘘よ」ロザムンドは怒って叫んだ。「私がお金に汚かったことなんて一度もないわ」
「君の方がもっとおかしかった」マイケルは声をおとして、でも荒々しく言った。「他の連中の方がおかしいと君は考えたじゃないか。接近する男は、すべて財産めあてだと考えた。君は羽目をはずそうともしなかったしけれど、正気であろうともしなかった。そして今、君はおかしいし、僕もおかしいというわけだ。いい気味だ」
「なんて嫌なひと」ロザムンドは言ったが、その顔は蒼白だった。「それは真実かしら?」
ケルト民族が、盾をもち、反乱をおこしているときの知的残虐さをただよわせ、マイケルはしばらく沈黙した。それから後ろに退くと、皮肉めいたお辞儀をした。「実際のところは、真実ではない。もちろん」彼は言った。「ただ、いかにも真実でしかありえない。寓話、とでも言うべきだろうか。それとも社会的当てこすりとでも言ったほうがいいのかもしれない」
「あなたの当てこすりなんて嫌いだし、軽蔑してるわ」ロザマンド・ハントは叫び声をあげると、サイクロンのような猛女の性格もあらわに、相手を傷つけるための、あらゆる言葉を発した。「あなたの当てこすりは軽蔑ものよ。くさい煙草も。むかつくような感じで、ぶらぶらしている様子も。口汚く罵る様子も。急進主義のところも。古い服も。つまらない、ちっぽけな新聞も。すべての酷い失敗も。全部、軽蔑している。あなたから俗物だと言われようが気にしないわ。私が好きなのは人生よ。成功よ。見ても気持ちがいいし、行動しても気持ちのいいことよ。ディオゲネスみたいな話をしても怖がったりするもんですか。わたしはアレクサンダーの方が好きなんですもの」
「ヴィークトリクス・ガウザ・ディエ」マイケルは陰気に言った。これは彼女の怒りに火を注ぐことになった。彼女はその言葉が意味するところを知らず、滑稽なことを言っていると考えたのだった。
「ギリシャ語を知っているんでしょうけど」彼女はラテン語をギリシャ語と取り違え、面白い間違いをした。「そうだからと言って、たいしたことないわよ」そして彼女は庭を横切り、姿がみえなくなったイノセントとマリーを追いかけた。
追いかけているうちに、彼女はイングルウッドを追い越した。彼はゆっくりと家に戻るところで、思案にくれた跡が雲のように、その顔をおおっていた。彼はきわめて賢い男ではあるが、すばやいという言葉の逆をいくような男だった。彼が夕日のおちる庭から、薄暗い居間へと戻ると、ダイアナ・デュークがすばやく近づいてきて、お茶の道具を片づけ始めた。だが程なくしてイングルウッドは、その瞬間の映像があまりにすばらしいものだから、永遠のカメラで写真をとった方がいいと考えた。ダイアナが、まだ片づけてない仕事をまえにしながら、頬杖をついて腰かけ、無心に窓の外をながめていたからだ。
「君は忙しいんだね」アーサーが言ったのは、奇妙なことに目にした光景に困惑したからで、その気持ちを封じ込めようとしたのだ。
「夢みている暇は、この世界にないわ」その若いレディは、彼に背中をむけたまま答えた。
「最近、僕は考えるんだよ」イングルウッドは声をおとして言った。「目を覚ましている暇はないのだと」
彼女は答えなかった。彼は窓まで歩いていくと、庭のほうを眺めた。
「僕は煙草もすわなければ、酒も飲んだりしない。君も知っていると思うが」彼は唐突に言った。「そうしたものは麻薬だと考えているからだ。だけれども、趣味というものはすべて、カメラにしても、自転車にしても麻薬なんだ。光線をさえぎるためにカメラの黒い布の下にもぐることも、暗い部屋に入ることも、とにかく苦境におちることになる。僕は夢中になってしまう。速さにも、太陽の光にも、疲れにも、新鮮な空気にも。自転車のペダルを勢いよくこぐあまり、僕も自転車と化してしまう。みんなそうなんだ。あまりに忙しいから、目覚めていることができないんだ」
「そうね」娘はしっかりとした口調で言った。「目を覚ましている必要がどこにあるのかしら」
「そうしないといけない必要がどこかにあるにちがいない。僕たちがすることはすべて、何かの準備をしているんだよ。君がきれい好きなのも、僕が健康体なのも、ウォーナーが使っている科学装置も。僕たちはいつも何かを準備しているんだ。けっして現れることのない何かを。僕は家に空気をとおすし、君は家を掃いてくれる。でも、そうしたからと言って、この家に何が起きるっていうんだろうか?」
彼女は、彼を静かに見つめた。だが、その瞳は輝き、なにか言葉を探そうとしているかのようだけど、でも、その言葉が見つからないかのように見えた。
彼女が口をひらく前に、扉が勢いよく開いた。浮かれ騒ぐロザムンド・ハントが、華やかな白の帽子をかぶり、ボアを襟元につけ、日傘をさして、戸口に立っていた。そのくったくのない顔には、子供じみた驚きがうかんでいた。
「ねえ、面白い話しがあるの」彼女は息をきらしながら言った。「どうすればいいのかしら。とりあえずウォーナー先生を電報で呼んだところ。そうすることしか思いつかなかったから」
「なにがあったの?」ダイアナは幾分つっけんどんに訊ねた。だが、助けを求められたもののように前にすすみでた。
「それがメアリーのことなのよ」相続人であるロザムンドはいった。「私の話し相手のメアリー・グレーのことなのよ。あなたの狂ったお友達のスミスとかいう人が、彼女に結婚を申し込んだの。庭でのことよ。それも会ってから十時間しかたってないのに。今、彼女をつれて、結婚の許可をもらいに行こうとしているわ」
アーサー・イングルウッドは、開いているフランス窓のほうへと近づき、庭を眺めた。黄昏のひかりのなか、まだ黄金色がのこっていた。そこでは何も動くものはなく、ただ鳥が一羽か二羽、ぴょんぴょん跳び歩いては囀っていた。生け垣をこえ、柵のむこうには、庭の門からつづく道路があり、そこには二輪馬車が控えていたが、その屋根にはグラッドストーンの鞄があった。
第四章 神の庭
ダイアナ・デュークは不可解なことながら、突然、相手があらわれたことにも、他の娘の話題をだされたことにも、どうやら苛立っているように思えた。
「そう」彼女はそっけなく言った。「彼と結婚したくなければ、グレイさんは断ることもできるでしょうよ」
「そうなんだけど、彼女ときたら彼と結婚したがっているの」ロザムンドは憤りながら言った。
「彼女はどうかしているわ。軽率なお馬鹿さんよ。でも彼女から離れたくないの」
「どうやらそのようね」ダイアナは冷ややかに言った。「でも、私たちにできることがあるかしら」
「だって、あんな変なひとなのよ、ダイアナ」彼女の友達は立腹して言った。
「彼女はいい家庭教師なのよ。変な男と結婚させたくないわ。あなたでも、他のひとでもいいから、結婚を阻止してもらいたいの。イングルウッドさん、お願いよ。ふたりのところへいって、結婚は出来ないと教えてあげて」
「残念なことながら、結婚はできるように思えます」イングルウッドは絶望をただよわせながら言った。「私にはふたりの邪魔をする権利はありませんし、それはミス・デュークも同様です。また私には道徳上の力もありませんし、ミス・デュークにもありません」
「あなた方ふたりときたら、たいして役にたたないのね!」ロザムンドはわめいたが、手に負えない癇癪をおさえることができなくなり、ついには怒りが爆発してしまったのだった。「これから出かけるわ。もう少し道理がわかって、勇敢なひとがいるはずだもの。とにかく、あなた方よりは私を助けてくれそうな人を知っているから。彼は論争が好きな、嫌な男だけど。でも、一応は人だもの。心もあるし、それに分かってくれているの…」そして勢いよく庭にでると、彼女は頬を輝かせ、日傘を輪転花火のようにまわした。
彼女は、マイケル・ムーンが庭の木の下に立ち、生け垣のむこうを見ているのに気がついた。彼は猛禽鳥のように身をかがめ、その長く、青々とした顎から、大きなパイプが突き出ていた。彼の無慈悲な表情をみて、彼女は喜んだ。馬鹿げた婚約がかわされたという話を聞いた直後のせいでもあるし、ほかの友人たちが尻込みをしたあとでもあったからだ
「さっきは機嫌が悪くてごめんなさい、ムーンさん」。彼女は率直に言った。「あなたが嫌いだったのは皮肉屋だから。でも、その罰をたっぷり受けてしまったわ。だから今、皮肉がほしいの。感情はもうごめんだわ。もう、うんざりしているの。この世は狂っているわ、ムーンさん。まともなのは皮肉だけよ。あのおかしなスミスが結婚したがっている相手が、わたしの昔からのお友達、メアリーなの。それなのに彼女ときたら、彼女ときたら、すこしも心配していないようなの」
相手が親切な顔をしながらも、動じることなく煙草をくゆらせているので、彼女は抜け目なく言い添えた。
「冗談じゃないのよ。スミスさんの馬車は外にきているの。これから自分の伯母さんのところに彼女を連れていって、婚姻届をだす手続きをしてくるって宣言しているのよ。だから、なにか役にたつ助言をしてほしいの、ムーンさん」
ムーン氏は口からパイプをはなすと、しばらく手に握りしめ、黙想にふけっていた。やがて庭のむこう側へと投げた。「君への役にたつ助言はこれだよ」彼は言った。「彼に婚姻届をもらいにいかせればいい。ついでに、君と僕のために、もう一枚婚姻届をもらってくるように頼めばいい」
「あなたまで冗談をいうの?」若いレディは訊ねた。
「なにを言いたいのか説明して」
「イノセント・スミスは、てきぱきした男だと言いたいんだ」ムーンは言ってから、退屈なくらい几帳面につけ足した。「わかりやすい現実思考の男だ。実務にむいている。事実と陽の光からできているような男だ。彼はいきなり僕の頭めがけて、二十トンもある建築レンガを落としてきたんだ。そのせいで僕は目が覚めたんだよ、嬉しいことに。僕たちはさっきまで、この芝生で、太陽の光をあびながら寝ていたんだ。五年間くらい、僕たちは昼寝をしていた。でも今、僕たちは結婚をするんだ。ロザムンド。僕にはわからないが、なぜ、あの馬車が…」
「まったくのところ」ロザムンドは頑固に言い張った。「何が言いたいのかわからないわ」
「そんなのは嘘だ」マイケルはさけぶと、目をぎらつかせながら彼女の方へと進み出た。「ぼくは普通なら嘘に賛成するよ。でも今夜はちがうのがわからないのか? 僕たちが散歩してきたのは、事実からなる世界なんだよ、君。草がのび、太陽が沈み、馬車が扉のところにとまっている。こうしたことはすべて事実なんだ。君は僕のことを邪険にしては、僕がお金を目当てに追いかけているとか、本当は君のことを愛していないと言って言い訳ばかりだ。でも、今ここに立って、君を愛していないと言っても信じようとはしないだろう。真実は、今夜、この庭で目にするとおりだからだ」
「たしかに、ムーンさん」ロザムンドは言ったが、その声はかすれていた。
彼がむけた眼の大きいこと、青いこと。彼はひき込むような眼差しで、彼女の顔を見つめた。「僕の名前はムーンなんだろうか?」彼は訊ねた。「君の名前はハントなんだろうか? 誓ってもいいけど、そうした名前は風変りで、馴染みのないものに思えるよ。アメリカ・インディアンの名前のようなものだ。まるで君の名前が「泳ぐ」で、僕の名前が「日が昇る」みたいなもんだ。でも、いいかい。僕たちの本当の名前は「夫」と「妻」なんだよ。これまでも眠っているときは、そうだったんだよ」
「無駄なお話はやめて」ロザムンドは、両目に涙をうかべて言った。「あともどりしても仕方ないわ」
「とんでもない、僕はどこにでも行くことができるんだ」マイケルは言った。「しかも、君を肩にかついで行くこともできる」
「まあ、やめて。マイケル。ほんとうに。おしゃべりはやめて、考えてみるのよ」娘は真剣な調子でさけんだ。「あなたは私の足をすくって、身も、心も夢中にさせてしまうかもしれない。それでも、あえて言うけれど、結局は苦く、ひどい顛末になるのかもしれないのよ。恋の軽はずみにながされるということは、スミスさんを見ればわかるけど、とても、とても女心をゆさぶるわ。その事実は否定しないけど。あなたが言う通り、今夜は真実を話すつもりですから。メアリーも女心をゆさぶられた。私もゆさぶられた、マイケル。でも冷ややかな事実が残るのよ。軽率に結婚すれば、ふしあわせで絶望にみちた時が長く続くと。あなたには、お酒やら他にもよくない癖があるわ。それに私だって、いつまでも可愛いわけじゃない」
「軽率な結婚だと!」マイケルは笑った。「いったいこの世のどこに、用心深い結婚なんてものがあるのか? 用心深い自殺を探すようなものだよ。君と僕はもう長い間、なんとなくだけど一緒に過ごしてきたのだから、昨夜会ったばかりのスミスとメアリー・グレーと比べたら安心できるというものじゃないか? それとも君は結婚するまで、旦那とは会わないつもりなのかい?不幸になるだと! もちろん、君は不幸になるよ。不幸にならないとしたら、どうかしている。君を生んだお母さんも不幸になったのだから。失望するだと? もちろん、僕たちは失望するだろうよ。僕は死ぬまで、今のような善人でいるつもりはないから。トランペットが鳴り響く塔のような状態を保てるわけがない」
「あなたはよく分かっているのね」ロザムンドは、したたかな顔に純な表情をうかべて言った。「でも、ほんとうに私と結婚したいのかしら?」
「君も疑り深いね。ほかに何を望んでいると思うんだい?」アイルランド人は答えた。「この世の中で、多忙な男が他に何を望むというんだ、君との結婚を別にすれば。結婚するかわりに何をすればいい? 眠っていろとでもいうのか? それは自由というものではないんだよ、ロザムンド。アイルランドの尼さんのように神様と結婚するのでなければ、君は誰かと結婚しないといけない。その相手とは僕だ。あるいは唯一残された第三の選択肢とは、自分と結婚することだ。君が君自身と結婚するんだ。そう君自身、君自身とだよ。君自身というのはたった一人の仲間だけれど、その相手は満足することはないし、けっして満足のいく相手でもない」
「マイケル」ロザムンドはとても穏やかな声で言った。「もし、あなたがおしゃべりをやめたら、あなたとの結婚を考えるけど」
「たしかに話しをするときではないね」マイケル・ムーンは大声をだした。「今は歌うのが一番いい。君のマンドリンはどこにいった?」
「取りに行ってきて」ロザムンドはてきぱきと、でも辛辣な、威張った口調で言った。
暗がりにしずむ居間のなかをムーン氏は覗き込んだのだが、ロザムンドが節度に欠ける退出をしたすぐ後から、そこでは奇妙な出来事が進行していた。暗い居間で起きているその出来事は、アーサー・イングルウッドの目には天と地がひっくり返っているように見えるもので、天井には海がひろがり、床には星がちらばっているようなものであった。どんな言葉も、彼の驚きをあらわすことはできない。単純な男なら、驚かないではいられないような状況が起きているからだ。さらに女性らしくも、形式的に耐え忍ぼうとする気持ちは、わずか紙一枚、あるいは鋼一枚で取り除かれるものらしい。女は屈服しているわけでもなければ、相手を思いやっているわけでもなかった。その女は厳しいことこの上なく、情もないはずなのに、声をあげて泣こうとしていた。洗練されているはずの男が、顎髭をはやすようなものだった。それは性的能力のひとつで、個性について、何も教えてくれるものではなかった。だがアーサー・イングルウッドは、女性を知らない若い男だ。ダイアナ・デュークが泣いている姿を目にすれば、石油をこぼす車を見ているような気持ちにかられるのであった。
彼は男らしい、遠慮がちな性格が許したとしても、その異様な女を目にしたとき、自分がどう行動すればいいのか、曖昧模糊とした見通しすら、たてることができなかっただろう。彼が行動にでる有様ときたら、劇場が出火したときに人々がとる行動を思わせるものだったからだ。それは演劇人なら、こうすべきだと人々が考えていた行動から完全にかけ離れ、善悪の見境がないものだった。彼の脳裏には、なかば押し殺したような、言い訳めいた記憶が微かに残っていた。相続人である彼女は、この下宿で支払いをしている唯一人の下宿人だから、もし彼女が出ていけば、そのかわりに役人たちがやってくるだろう。ひとしきり考えたが、彼は言いはるしかなかった。
「ひとりしてほしいの、イングルウッドさん。わたしをひとりにして。そんなことをしても助けにはならないわ」
「でも、僕は君を助けることができるよ」アーサーは、木っ端微塵になった確信をこめて言った。
「できるとも、そうだ、できるとも」
「だって、あなたは言ったわ」娘は泣いた。「私よりずっと弱いって」
「ああ、僕は君より弱い」アーサーが言うと、その声はすべてを震わせるように響いた。「でも、今はちがう」
「手をはなしてよ!」ダイアナがさけんだ。「いじめられたりなんかしないから」
ある一点において、彼には彼女よりも強みがあった。ユーモアがあるという点だった。ユーモアの心が、突如、彼のなかで躍り出た。彼は笑いながら言った。「たしかに君は意地悪だから。よくわかっているじゃないか。僕が生きているかぎり、僕のことをいじめるということを。相手がいじめてもいいよと言ったときだけ、君はその男を許すのだろうから」
彼にすれば笑うということは尋常なことではなく、彼女が泣いているということに匹敵するほどのことだった。そこで子ども時代からはじめて、ダイアナはすっかり相手に心をゆるした。
「私と結婚したいの?」彼女は言った。
「もちろんだとも、ドアのところには馬車も待っているよ」イングルウッドは大声をあげ、無意識のうちに動きだして、庭へとつづくガラスの扉を勢いよく開けた。
彼が彼女の手をとって外に出たところで、どういうわけか二人は初めて気がついたのだが、その家と庭園があるのは急な丘で、ロンドンを見おろす場所であった。その地が隆起した場所であるようにも、また秘密の場所であるかのようにも感じた。そこは壁で囲まれ、円形をした庭のようで、天国にある小塔の頂きにいるかのようだった。
イングルウッドは夢心地で周囲をみわたすと、茶色の両目で隅々までむさぼるように眺めては、他愛のない喜びをうかべた。庭の草藪のむこうにある門の柵には、小さな槍の先端のような形をしたものがついていて、それが青色に塗られていることに、彼は初めて気がついた。青い槍型がひとつゆるみ、横をむいてしまっていることにも気がついた。その様子に彼は笑いそうになった。柵が曲がっている様子は優美なもので、害があるわけでもなく、面白いものであった。どのようにして柵が曲がったのか、誰のせいなのか、その男はどんなふうに柵をよじ登ったのかと考えた。
彼らは炎のごとく赤く染まっている草地に数歩ふみだしたが、人影に気がついた。ロザムンド・ハントと風変わりなムーン氏だ。最後にふたりを見かけたときは、どちらもお互いに関心はなく、暗澹たる気分であったはずなのに、今ではいっしょに草地にたっていた。彼らはいつもの様子でたっていたが、本の中の人物のようにも見えた。
「まあ」ダイアナは声をあげた。「空気がなんてかぐわしいのかしら」
「わかるわ」ロザムンドはここぞとばかりに声をはりあげたが、その声があまりに自信に満ちているものだから、不平を言っているかのように響いた。「まるで私がすすめられたものと同じよ。ぞっとするほど嫌な感じがしたわ。おまけにしゅわしゅわ泡がはじけているの。そのせいで、私、幸せな気分になってしまって」
「まあ、あれ以外の何ものでもないわね」ダイアナは息を深く吸い込みながら答えた。
「どうかしら。とても冷たいのに、炎のように感じるの」
「はじけているというのは、フリート・ストリートで使う新聞記事の用語だよ」ムーンは言った。「はじけているというのは-とくに頭の状態について言うときに使うんだ」そして彼は麦わら帽子で、不必要なくらいにあおいだ。彼らはしきりに軽く跳ねたり、脈拍を速めたりしていたが、それは力を持て余し、その力が軽快なものであるせいだった。ダイアナは長い両腕をのばしたが、その動きはぎこちなく、まるで抑制されているかのようで、いわばひどく苦しみながらも平穏さを保っていた。マイケルは長いあいだ、金縛りにあったかのようにじっと立ちどまっていた。それから独楽のようにまわったが、ふたたび立ちどまった。ロザムンドは軽やかには跳びはねてはいなかった。女性は跳びはねたりしないからだ。前のめりにつまずいたときは別だが。だが彼女が両足で大地をふみつけながら歩く有様は、耳には聞こえないダンスの調べに合わせているかのようだった。イングルウッドは木によりかかると、無意識のうちに枝をつかんでゆすり、荒々しく何かを生み出そうとしていた。マン島の巨人のような、こうした仕草は高さのある像をつくりだし、闘いの雰囲気をもたらすもので、そのせいで彼らは放り出され、手も足もすべてを痛めつけた。静かに散歩をして立ちどまっているうちに、彼らは動物の磁気を帯びた装置さながら、突然、はじけて行動にでた。
「さあ、これから」ムーンは唐突に声をあげると、片方の手をさしのべた。「あの木立のまわりで踊ろう」
「あら、どの木立のことかしら?」ロザムンドは訊ねながら、言わば失礼さを輝かせながら見渡した。
「あっちの木立ではないよ」マイケルは言った。「桑の木の木陰だ」
彼らはたがいに手をとると、なかば笑いながらも、真剣に儀式めいた態度をとった。ふたたび手を離すまえに、マイケルは仲間たちと共にぐるりと輪になって踊ったが、その様子はまるで悪魔が天にむかって地球をまわしているかのようであった。ダイアナが感じたのは、地平線が輪を描きながら流れはじめたときにダイアナが感じたのは丘の連なりにも似た軽やかな感覚で、ロンドンをこえ、子どものころ登った秘密の場所をこえたところにあるものであった。ハイゲートの墓地にはえている松の老木のまわりで鳴き声をあげる烏の声を聞いているようでもあり、またボックス・ヒルの森に集まり、火をともしている土蛍を見ているようでもあった。
踊りの輪がやぶれ-軽率な者たちの、そうしたひどい輪は終わりにしないといけない-、その輪を提案したマイケルは、遠心力の力で、遠くまで飛んでいき、門の青い柵に衝突した。そこでふらついていたのだが、新たに、芝居がかった登場人物が叫び声をあげながら現れたので、彼も不意に叫び声をあげた。
「なんと、ウォーナーじゃないか」彼は両腕をふりながら大声をあげた。「これは実にうれしいじゃないか。なつかしいウォーナーに会えるなんて。新しいシルクハットに、あいかわらずの絹のような顎鬚だ」
「ウォーナー先生なの?」ロザムンドも声をあげ、あふれてくる思い出やら、喜びやら、絶望やらで跳びあがった。「まあ、たいへん。先生にうまくいっているからと報告しないといけないわ」
「さあ、手を。彼に言いにいこう」マイケル・ムーンは言った。彼らが話しているあいだに、もう一台、馬車がやってきて、停車中の馬車のうしろに停まった。ハーバート・ウォーナー医師が、馬車のなかに連れを残したまま、舗道上に用心しながら降り立った。
さて、あなたが高名な医師であり、女相続人から、危険な躁患者がいるから来るようにと電報をもらったとするならば、しかも庭から、その家に入ろうとしたときに、女相続人とその下宿屋の女主、紳士の下宿人ふたりが手をつなぎ、自分のまわりを輪になって囲んで踊りながら、「だいじょうぶ! だいじょうぶ!」と叫んだとしたら、あなたは混乱もするし、不快にもなることだろう。ウォーナー医師は落ち着いた人物ではあったけれど、温和な人物ではなかった。この二つの性格はけっして同じものではない。だからムーンが、シルクハットをかぶり、背が高く、頑健な体をしたウォーナーこそは、古典的な姿の持ち主なのだから、金色の古代ギリシャの海岸にいるかのような、笑いさざめく乙女たちの踊りの輪にはいって踊るにふさわしい人物だと説き伏せたときでも、皆が喜んでいる理由が彼には合点がいかないようであった。
「イングルウッド!」ウォーナー医師は呼びかけ、かつての弟子をじっと見つめた。「気でも狂ったのか?」
アーサーは髪の根もとまで赤くなった。だが彼は臆することもなく、静かに答えた。「今は狂っていない。真実を言おう、ウォーナー。僕は、医学について、すこし重要な発見をした。まさに君の専門分野だ」
「それはどういうことなのか?」偉大なる医師は食い下がった。「どんな発見をしたのかい?」
「僕は発見したんだ。健康はうつりやすいものだと。まるで病気のように」アーサーは答えた。
「そのとおり。正気が発生して、今、ひろがっている最中だ」マイケルは言いながら『パ・スール』を踊り、考えにふけるような表情をうかべた。「二万人以上の患者が病院に連れていかれ、看護婦が昼も、夜もつきっきりになるだろう」
ウォーナー医師はマイケルの真剣な顔と軽やかに動く足を観察すると、理解にくるしんで呆気にとられた。「するとこれが、と訊いてもいいのだろうか」彼は言った。「正気が広がっているということなのか?」
「許してください、ウォーナー先生」ロザムンドは心から嘆願した。「ひどいことを先生にしたと思っているわ。でも、ただの勘ちがいだった。すごく機嫌が悪いときに、先生を呼んだの。でも今、すべてが夢のなかの出来事のように思えるくらい。だってスミスさんは感じのいい人なんだもの。今まで会ってきた人のなかでも、一番感じがいいわ。感受性がすごくゆたかだし、とても楽しい人だわ。だから彼は誰とでも結婚していいのよ―相手が私でなければ」
「デューク夫人とかいいかしれない」マイケルは言った。
ウォーナー医師の顔は、ますます真剣になった。彼はチョッキからピンク色の紙をとりだすと、淡い青色の目でロザムンドをじっと見つめた。彼は冷ややかに話したが、それも理由のないことではあった。
「まったく君ときたら、ミス・ハント」彼は言った。「まだ、心から安心するわけにはいかない。君がこの電報を送ったのは、わずか三十分前のことだ。『すぐ来てください、できれば、もう一人お医者さんを連れてきた方がいいと思います。イノセント・スミスという男が、この家で、気が変になって、ひどいことをしています。彼について何かご存知ですか?』そこで私は有名な同僚のところに行った。彼は私立探偵で、犯罪をおこす精神障害の権威なんだ。彼も一緒に来てくれて、馬車のなかで待っている。それなのに今、君は冷静に語った。あの犯罪をおこしそうな狂人は感じがとてもいいし、正気だと。おかげで君が正気についてどう定義しているのか考察しているところだ」
「まあ、そんな! 太陽や月、私たちの心の移り変わりについて、どう説明しろと言うのかしら?」ロザムンドは絶望にかられて言った。「では告白しましょうか。私たちがあまりに神経過敏になったものだから、彼のことを気が狂っていると考えてしまったの。彼が結婚したいと言ったくらいで。私たちも結婚したいからだと気がつかなかったのよ。お恥ずかしいかぎりだけど、先生。私たちはとても幸せなの」
「スミス氏はどこにいる?」ウォーナーは、イングルウッドにつっけんどんに訊ねた。
アーサーは、はっとした。自分たちのファルスの中心にいる人物のことを忘れていたからだ。一時間以上ものあいだ、その姿を見ていなかった。
「そうだな、たぶん、裏手のごみ箱のあたりにいるんじゃないかな」彼は言った。
「彼は、ロシアへつうじる道の路上にいるのかもしれない」ウォーナーは言った。「だが、彼を見つけないといけない」それから彼は大またに歩み去り、ひまわりの咲いているあたりで家のかどを曲がると、その姿は消えた。
「なんとか」ロザムンドは言った。「先生がスミスさんに干渉しなければいいけれど」
「ヒナギクでも観察していればいいのに」マイケルは、鼻をならして言った。
「恋におちたからと言って、鍵をかけた部屋に閉じ込めておくわけにはいかない。少なくとも、僕は嫌だね」
「そうね。お医者様でも、彼の病をどうすることもできないわ。それどころか彼はお医者様をやっつけてしまうでしょうよ、病のように。これは聖なる泉の類の話だと思うの。イノセント・スミスは、ただ純粋(イノセント)なんだと思うわ。だから、彼はすばらしいのよ」
ロザムンドは話をしながら、その白い靴先で、そわそわとした様子で、芝生に輪を描いた。
「思うんだけど」イングルウッドは言った。「スミスには、どこにも変わったところなんかない。面白く思えるのは、彼が驚くほど月並みだからなんだよ。君は身内の集まりがどうなるか知らないのかい? おじさん、おばさんがいるところに、学生が休日を利用して家に帰ってきたときの身内の集まりというものを。馬車の上にある鞄は、男の子がやる邪魔だよ。庭にあるこの木は、男の子なら登ったような類の木だというだけだ。ああ、彼を厄介に思っていたのは、そういうことのせいなんだ。語るにふさわしい言葉も見つからないようなことだ。彼が私の同窓生であるにしても、そうでないにしても、どこか私の同窓生のようなところがある。際限なくパンを食べるところも、ボールを投げるところも、僕たちが昔やってきたことだ」
「そんなことをするのは馬鹿な男の子だけよ」ダイアナは言った。「女の子なら、そんな馬鹿なことをしたりしないわ。それに女の子は誰もそんなに幸せでなかったわ、もしー」そこで彼女の言葉は途切れた。
「イノセント・スミスについて、真実を君たちに話そう」マイケル・ムーンは、声をおとして言った。「ウォーナー先生は探しに行ったけど、無駄に終わるだろう。彼はあそこにはいないのだから。もうずいぶんと彼を見てない。気がついていないのかい? 彼は星の赤ん坊で、僕たち四人の上におちてきたんだ。僕たちが少年時代に戻った姿なんだ。かわいそうなウォーナーのやつが、馬車から降りてくるより大分前のことだよ。僕たちがスミスと呼んでいた存在が溶けて露になり、芝生の上できらめいていたのは。もう一度か二度、神の慈悲があれば、その存在を感じるかもしれない。だが、あの男を見ることはない。朝食前に春の庭に出れば、スミスと呼ばれる香りを感じるかもしれない。炉の小さな火に、まだみずみずしい小枝をくべてごらん。木がはぜる音にまじって、スミスという名前がついた音を聞くかもしれない。芝生のなかで、無邪気なものが飽くことを知らず、大地をむさぼり喰う。その様子は、菓子の宴にいる赤子のようだ。白い朝の光が空をさく様子は、少年が白い薪を割るようで、ほんの束の間だけれど、すごく純粋な存在を感じるかもしれない。だが彼の純粋さとは、命ないものの純粋さに近い。だから、ただ一度触れたなら、しなやかな木々と天のあいだに溶け込んでいくだろう。彼はー」
爆音のような銃声が家の裏手から聞こえ、彼の話はさえぎられた。それとほぼ同時に、馬車にいた見知らぬ男がとびだして、あとには馬車が路上でゆれていた。彼は庭の青い柵を握りしめると、銃声の方向を凝視した。彼は背が低く、だぶだぶの服を着ていたが、敏捷に動く男で、その体は痩せ、魚の骨からつくられたような顔をしていた。ウォーナー医師のように堅固で、つやつやとしたシルクハットをかぶっていたが、それは無造作に後頭部へずり落ちていた。
「殺人だ!」彼は金切り声をあげたが、その声は高く、女性的で、あたりをつんざくような声だった。
「人殺しはそこで食い止めろ」
彼が叫んでいるとき、二発目の銃声が家の下の窓を震わせた。その音と共にウォーナー医師が飛ぶようにしてやってきたが、角を曲がるその姿は兎がはねているかのようだった。だがウォーナー医師がこちらへと到着する前に、第三発目の銃弾が響いたので、みんな耳がおかしくなった。彼らがその目で見たものは、二つの穴のむこうに広がる白い空で、不幸なウォーナーのシルクハットにあいた穴であった。それから逃亡中の医師は植木鉢につまずきながら、四人のところへとくると、牛がするように相手を見つめた。銃弾のあとが二か所あいた帽子は、彼の前方へと舗道をころがっていった。イノセント・スミスも角を曲がってきたが、まるで鉄道の列車のようだった。彼は、本来の姿の倍はあるように見えた。緑の服を着た巨人だ。大きなレボルバーが、その手のなかでまだ煙をあげていた。彼の顔は愉快そうであった。暗がりで、彼の目は星のように輝いた。黄色い髪の毛はあらゆる方向に逆立ち、まるでもじゃもじゃペーターのようだった。
この驚くべき場面が、静けさのなか、一瞬目に飛び込んできたけれど、イングルウッドには、他の恋人たちが芝生に立っている様子を見たときの感覚を、もう一度思い出すだけの時間があった。その感覚は切断面を見るような、透きとおる色を見るようなもので、体験からくるものというよりは、芸術作品から受ける感覚であった。灼熱色のゼラニウムが植わった割れた植木鉢、緑の服をきたスミスの巨体に黒い服を着たバルクの巨体、青い釘を打ちつけた背後の柵、ハゲワシの黄色いかぎ爪で柵をつかみ、ハゲワシの長い首をのばして目をこらしている見知らぬ男。舗道に転がるシルクハット。煙草を一服したときのように邪気がない、小さな雲となって庭をただよう煙。こうしたことすべてが、不自然なくらいに、ありありと鮮明に見えた。そうしたものがある様子は、なにかを象徴しているようでもあり、ほかから切り離され、愉悦の頂点にあるかのようであった。たしかに、目にはいるすべてのものが、不自然なくらいに鮮明に、ありありと見えていたが、それは全体の風景がくずれたからであった。
幻想がはじまるよりも前に―幻想が終わったということは言うまでもない―、アーサーは前にすすんで、スミスの片腕をとった。それと同時に、背の低い、見知らぬ男も階段をかけあがり、もう片方の腕をとった。スミスは笑い声をひびかせ、あくまでも自らの意志で、ピストルをわたした。ムーンは医師に手を貸して立たせてから、その場を離れ、不機嫌な様子で庭の門によりかかった。娘たちは静かに、用心をおこたらず、まるで良家の子女が、混乱のさなかにいるかのようであった。だが、その顔から読みとれるのは、どういうわけだろうか、光が天から降り注いだばかりだということであった。医師は体をおこしながら、帽子やら良識やらをかき集め、かなりの嫌悪感をただよわせながら体の埃をはらい、束の間詫びるかのように彼らの方をむいた。彼は先ほど混乱におそわれたせいで青ざめていたが、その口調はとても抑制が利いていた。
「私のことを許してくださるでしょうね、お嬢さん方」彼は言った。「私の友人も、イングルウッドも、二人ともそれぞれの分野での科学者です。スミス氏は中にいれ、後から、あなた方とお話をさせた方がよいでしょう」
三人の自然哲学者たちが守るなか、銃をとりあげられたスミスは家の中へと手際よく連れていかれたが、それでも轟くような笑い声をあげていた。
それからの二十分間は、ときどき、なかば開いた窓のなかから、スミスの上機嫌な声が遠く、轟くように聞こえてきた。だが、医師たちの静かな声は響いてはこなかった。娘たちは庭を歩きまわり、なんとか互いの気持ちを励まそうとした。マイケル・ムーンは重苦しい様子で、門のところでうなだれていた。そうした時間が終わる頃、ウォーナー医師は家から出てきたが、その顔はますます青ざめ、厳めしい顔はさらに厳めしく、魚の骨のような顔をした小男がその背後にいた。太陽の光のなかのウォーナー医師の顔が、絞首刑にさらされた判事のものであるなら、背後の小男の顔はさらに死者の顔に近かった。
「ミス・ハント」ウォーナー医師は言った。「あなたに心から感謝と賞賛の言葉を申し上げたい。あなたが勇気と機転のある行動をおこし、今日の午後、私たちに電報を送ってくれたおかげだ。おかげで人類の敵であり、もっとも残酷で嫌なもののひとつである惨めさをとらえ、捨て去ることが可能になった。あんなに口先だけ上手で、慈悲の心のない罪人が、肉体に宿ったことはなかったのだから」
ロザムンドの顔から血の気がひき、表情はうつろに、目は瞬きをくりかえした。
「どういうことですか?」彼女は訊ねた。「まさかスミスさんのことではないですよね?」
「彼はいくつも、たくさんの名前を使ってきた」医師は重々しく言った。「彼とかかわった者で、呪いをうけなかった者は誰もいない。あの男は、いいか、ミス・ハント、この世に血と涙の跡を残してきたんだ。彼が邪悪であり、また狂人なのかどうか、科学の観点から、見つけようとしている。どちらにしても、先ずは治安判事のところに彼を連れて行こう。たとえ狂人の収容施設へ送ることになろうとも。だが彼を閉じ込める収容施設は、壁のなかに壁をめぐらして封印したうえで、要塞のように銃声が響くものでなくてはいけない。そうしなければ彼はまた姿をあらわして、この世にふたたび殺戮や暗闇を産み落とすことだろう」
ロザムンドは二人の医師を見つめたが、その顔から徐々に血の気がひいていった。それから彼女の視線はマイケルへとそれたのだが、彼は門によりかかっていた。だが彼は身じろぎすることなく寄りかかり、その顔は暗くなっていく道の方をむいていた。
五章
寓話的でもあり実用的でもある男の話
ウォーナー医師と一緒にきた犯罪の専門家は、柵をつかんで庭へと身をのりだした時に比べれば、やや都会風であり、こざっぱりとしていた。帽子をとったときには、彼はいくぶん若く見え、真ん中で分けた金髪がみえ、その両端は丹念に巻かれていた。動作は生き生きとしていて、とりわけ手をさかんに動かしていた。幅広の、黒い布で、首から片眼鏡をぶらさげてめかし込み、蝶ネクタイをした様子は、まるで宿り木のサルオガセモドキが絡まっているかのようだった。彼の身なりも、仕草も、少年のもののように明るく、溌剌としていた。魚の骨のような顔を見たときだけ、なにか惨めで、年老いたものが目にはいるのだった。彼の物腰は素晴らしかったが、まったく英国風ではなかった。彼には無意識ながら癖が二つあり、そのせいで一度でも会った者は、彼のことを記憶していた。ひとつは目を細める癖で、彼がことさら礼儀正しくしいようとするときに見せるものであった。もう一つは親指と人差し指で宙に輪をつくる癖で、まるで嗅ぎ煙草をつまんでいるように見えるのだが、それは彼が戸惑い、言葉を選んでいるときの癖であった。だが彼とのつきあいが長い者たちが、こうした奇行を忘れる傾向にあるのは、彼のまくしたてる会話が風変りで重々しいものであるせいであり、また不思議な視点にたって話しているせいであった。
「ミス・ハント」ウォーナー医師は言った。「こちらはサイラス・ピムです」
紹介のあいだ、サイラス・ピム医師は目をつむり―その様子は子供の遊びで、正々堂々と戦っているかのようであったーすばやく小さなお辞儀をした。するとどうしたことだろう、ふと、この男がアメリカ合衆国の市民のように見えてくるのだった。
「サイラス・ピム先生は」ウォーナーは続けた。(ピム博士はふたたび目をとじた)「おそらくアメリカにおける犯罪学の最初の専門家です。私たちは幸運なことに、この尋常ではない事態について、彼に相談することができるのです」
「まったく理解できませんわ」ロザムンドは言った。「あなたの説明では、スミスさんはお気の毒にもひどい状態のようね」
「あるいは、あなたの電報では、と言った方がいいかもしれませんよ」ハーバート・ウォーナーは微笑みながら言った。
「なんですって。あなたは分かってないのね」娘は苛立って声をはりあげた。
「だって、彼のおかげで、私たちは教会に行くよりも素晴らしい経験ができたのよ」
「私から、この若いご婦人に説明しよう」サイラス・ピム医師は言った。「このスミスは犯罪人と言いうべきなのか、躁病と言うべきなのか迷うところがあるが、悪に関してはまさに天才だ。彼が行く先々で人気者になるのは、騒々しい子どものように、すべての家に侵入するからだ。人々は猜疑心をいだくのは、品のある悪党へ変装だ。そこで彼がいつも変装するのは、言うなれば、ボヘミアンへの姿である。なんの罪もないボヘミアンを装う。だから、いつも彼に足をすくわれてしまうことになる。善人面をした仮面には慣れがあるからだ。スミスは極端なまでに善良な性格をよそおうことを好んでいるのです。あなた方はドン・ジュアンに、威厳があり、信頼できる商人の姿を期待します。ですからドン・ジュアンがドン・キホーテの姿であらわれると、心の準備ができないのです。詐欺師は、サー・チャールズ・グランディスンのように振る舞うものと考えますよね。サミュエル・リチャードソンが、涙がでてくるような、深い優しさで小説に書いたのに、ミス・ハント。なぜならサー・チャールズ・グランディスンは、しょっちゅう、詐欺師のように振る舞ったからです。ですが溌剌とした市民の誰ひとりとして、サー・チャールズ・グランディスンをモデルにした詐欺師ならともかく、サー・ロジャー・デ・カヴァリィをモデルにした詐欺師にたいしては、心の準備ができていないことでしょう。少し頭がいかれているけれど善良な男になるという手は、犯罪的変装の新たな手口なのです、ミス・ハント。素晴らしい考えではありますが、あまり成功することはありません。ですが成功すれば、その成功はひどく残虐なものとなります。追いはぎディック・タービンが、犯罪小説作家のバズビー先生をよそおったなら、私も許すことができます。でも彼が文学者ジョンソン博士をよそおうことは許せないのです。気がふれた聖者というものは立派すぎるものだから、茶化すことはできないのです」
「でも、どうしてわかるのかしら?」ロザムンドはむきになって言った。「スミスさんが、そんなに有名な罪人だということが」
「資料を調べたのです」アメリカ人は言った。「友人のウォーナーが、電報を受け取るとすぐに僕のところに来たときに。こうした事実を確認することが僕の仕事です、ミス・ハント。これは駅でブラッドショー鉄道旅行書を見るくらいに確実な手なんです。あの男は、今まで法律を逃れてきたんですよ。子どものふりとか精神異常者のふりを見事にやりとげて。だが、こちらも専門家です。ひそかに確かめましたよ。二十近い犯罪の記録を。そんなふうに企てられ、実行された犯罪の記録です。彼はあんなふうに家を訪れては、すばらしい人気を博すのです。彼はそうして物事をおかしくしていくのです。物事はおかしくなっていくのです。彼が立ち去ると、物事はひっくり返されてしまうのです。ひっくり返されるのですよ、ミス・ハント。ある男の人生も、ある男の運も。いや女性の場合の方がしょっちゅうひっくり返されるかもしれません。すべて記録が残されています」
「私もその記録を見ました」ウォーナーはしかつめらしく言った。「この話がすべて正しいことは請け合います」
「私の感じるところ、もっとも男らしくないと思えるのは」アメリカの医師はつづけた。「ひっきりなしに、無邪気を一心不乱によそおって、無垢な女をだましていることです。この想像力ゆたかな悪魔が訪れたことのある家はすべて、哀れな娘が一緒に連れ去られています。あの男の目は、相手に催眠術をかけてしまうそうです。他にも妙な特徴があるそうです。そういうわけで娘たちは、自動人形のようになって行ってしまうとか。こうした可哀想な娘さんたちがどうなったものやら、誰も知る者はいません。私の考えをあえて申し上げれば、殺害されているでしょう。こうした件以外にも、たくさんの例があるからです。彼は殺人に手をかしているのです。それなのに法で裁かれたことがないとは。とにかく、我々の現代的な調査方法をもってしても、可哀想な娘の痕跡は見つかっていません。そうした娘さんたちのことを考えると、いつも私の胸はいたむのですよ、ミス・ハント。私が申し上げたいのは、ウォーナー先生が話された事だけです」
「そういうわけで」ウォーナー医師は言うと、大理石に刻んだような笑みをうかべた。「あなたの電報にたいして心から感謝を申し上げます」
ちびのヤンキー科学者が真摯に話し続けるものだから、耳をかたむけている人々は、彼の声や物腰がたぶらかしだということは忘れていた。目をつむる様子も、だんだん上ずっていく声の調子も、宙で動かしている指やら親指やら―こうした仕草は、他のときであれば、滑稽なものであっただろう。彼がウォーナーより賢いということは、たいしたことでなかった。彼にしても、そう賢いわけではなかったが、ただ賞賛される機会が多かった。だが彼には、ウォーナーにないものがあった。それは清々しく、永遠不変の真面目さであった。いわゆる単純さという、アメリカの素晴らしい徳である。ロザムンドは眉をひそめると、暗がりに沈んでいく家を憂鬱そうに見たが、その家のなかには凶悪な天才がいるはずであった。
陽の光はまだ一面に降り注いでいた。だがその光は黄金色から銀色へと移ろい、そして今、銀色から灰色へと変わりつつあった。長く、羽毛に似た影は庭の木が影をおとしているもので、陰鬱な背後の闇に溶け込み、徐々に消えつつあった。ひときわ黒々とした影は、家の入り口である大きなフランス窓であったが、その影のなかにロザムンドが見たものは、イングルウッド―謎めいた捕われ人を監視していた―と、ロザムンド―彼を手伝うために家の中に入っていた―が慌ただしく相談する姿であった。数分がたち、何やら身ぶりでやりとりしているのが見えたあと、二人は家の中へと入り、庭に面したガラスの扉をしめた。すると庭はより陰鬱なものにみえた。
ピムという名前のアメリカ人紳士も体のむきをかえながら、同じ方向へと動き出したかのように見えた。だが歩きだすまえに、彼はロザムンドに話しかけてきたたが、それは誠実さがにじみでる口調でありながら―その口調には、子供らしい自惚れがずいぶんと戻っていた―、知らず知らずのうちに詩的な口調になるせいで、衒学的な男ではありながら、衒学者と呼ぶには難しいものにしていた。
「大変残念なことながら、ミス・ハント」彼は言った。「でもウォーナー先生にしても、僕にしても、二人とも、その分野における専門医なので言わせてもらいます。スミスさんは、馬車におしこめて追いやった方がいいのです。そのことについてはもう口にしない方がいいと思いますよ。そう興奮するものではありません、ミス・ハント。たぶん、こう考えていらっしゃるのでしょうけど。連れて行かれようとしているものは怪物だと。ここにいたらいけないものだと。お国の大英博物館で見るような神々のひとつであり、それには翼がはえていて、顎髭もあって、足も、目もあるのに、形がない。それがスミスなのです。彼とはすぐに縁がきれますよ」
彼が家のほうへと一歩ふみだし、ウォーナーもそのあとにつづこうとしたときに、ガラスの扉がふたたび開くと、ダイアナ・デュークが、ふだんよりいっそうせかせかとした様子で、芝生を横切ってきた。彼女の顔は不安と興奮のあまり、震えおののき、黒く、真面目な目で、相手の娘を見つめた。
「ロザムンド」彼女は絶望にかられて声をふるわせた。「彼女のことをどうすればいいのかしら?」
「彼女のこと?」ミス・ハントは訊きかえすと、荒々しく背筋をのばした。「まあ、彼は女じゃないわ。そうでしょ?」
「はい、たしかに。そのとおりです」ピム医師は公正な態度で、相手をなだめるかのように言った。
「彼女? とんでもないわ、彼はそこまでひどくないから」
「あなたの友達のメアリー・グレーのことを言っているのよ」ダイアナは同じくらいに辛辣な調子で言い返した。
「彼女をどうすればいいのかしら?」
「彼女に、どうスミスのことを伝えればいいのかと言いたいのね」ロザムンドはこたえると、顔をみるみる曇らせたが、その表情はやわらいでいた。「そうね、とても辛いものになるでしょうけど」
「でも、もう話したわ」彼女は感情を爆発させ、ふだんより更に苛々した様子で答えた。「彼女にもう話したわ。でも彼女ときたら、おかまいなしよ。それに言うの。スミスと一緒に馬車で行くつもりだって」
「まあ、そんなはずないわ」ロザムンドは絶叫した。「そんな、メアリーはとても信心深いのよ。彼女は―」
彼女はそのとき、メアリー・グレーが芝生を横切って近づいてくる姿に気がついた。物静かな話し相手は、ひっそりと庭を横切ってきたのだが、これから旅立つという決意をあらわにした身なりであった。彼女はこぎれいながら、古くさい、青色のふちなし帽をかぶり、両方の手に擦り切れた灰色の手袋をはめようとしていた。それでも、そのふたつの色は赤銅色の、ゆたかな髪に大変よく似合っていた。着古した感じがするところも、かえって素晴らしいものであった。婦人物を着ても彼女にはあまり似合わないのだけれど、そのときはたまたま似合っているように見えたのだ。
それにしてもこの場合、その女の美点は類まれな、魅力あるものであった。こうして黄昏れる頃、太陽はしずみ、空は物悲しくなるのだが、何かの拍子に或る角度で光が反射すると、最後の光となり、なかなか消えることなく残る。窓ガラスにも、水の一滴にも、姿見にも、この世では忘れ去られた炎がみちあふれる。風変りで面白いのは、メアリー・グレイの三角形の顔で、まるで鏡の三角形の部分のように、それまでの輝きをまだ反射していた。メアリーは、いつも優美ではあるけれど、以前は「美しい」と彼女にふさわしく評されたことは一度もなかった。それでも、そうした不幸な状況にあっても、幸せにみちた彼女はとても美しく、思わず固唾をのむほどであった。
「まあ、ダイアナ」ロザムンドは低い声でうめくと、声音を変えた。「どうやって彼女に教えたの?」
「彼女に教えることは簡単なことでしょうよ」ダイアナは陰鬱な調子で答えた。「まったく効き目がないでしょうから」
「いろいろお待たせして申し訳ありません」メアリー・グレーは詫びるかのように言った。「もうお別れをしなくてはいけませんわ。イノセントが、ハムステッドにいる伯母のところまで連れて行くと言っていますの。たぶん伯母様は寝るのが早いでしょうから」
彼女の言葉には気負ったものはなく、世慣れた感じがするものであった。だが、その目は眠たげでもあり、暗闇よりも不可解なものであった。彼女は上の空で話しているかのように、遠くのものを見つめていた。
「メアリー、メアリー」ロザムンドは叫び、泣きだしそうになっていた。「かわいそうだけど。そうはいかないいのよ。スミスさんについて、すべてがわかってしまったの」
「すべてですって?」メアリーは声をおとすと、奇妙な抑揚でくりかえした。「どういうことかしら、ずいぶんと面白い話にちがいないわ」
しばらくの間、身じろぎする音もなければ、言葉も、動きもなく、ただ沈黙しているマイケル・ムーンだけが門に寄りかかり、頭をあげ、何かを聞き取ろうとしているだけであった。ロザムンドは言葉を失したままであったけれど、ピム博士は毅然とした様子で彼女を救いにきた。
「まず」彼は言った。「このスミスという男は、つねに殺人を試みています。ブレークスピア・カレッジの学長は―」
「知っていますわ」メアリーは上の空ではあるけれど、でも晴やかな笑みをうかべて言った。
「イノセントが話してくれましたから」
「彼が何をいったのかわかりませんが」ピムはすばやく言った。「でも、真実を言っていないのではないでしょうか。明らかに真実なのは、あの男は犯罪に汚れているということです。その犯罪は人間くさいものであり、みんながよく知っているものなのです。記録なら、すべて残っていますよ。彼が強盗をしたという証拠も、教区牧師のなかでも一番優れた者が署名した記録も残っています。私の手元にも-」
「まあ、そういえば教区牧師は二人でした」メアリーは優しいながら、熱心な口調で言った。「おかげでお話が一層面白くなりますわ」
家の暗がりに沈んだ扉が、もう一度ひらいた。そしてイングルウッドが一瞬すがたをあらわし、何かの合図をした。アメリカ人の医師はお辞儀をしたが、英国人の医師はしなかった。だが二人とも、のっそりと家の方へ向かった。誰も動こうとはしなかった。門に寄りかかったマイケルでさえも動こうとはしなかった。だが、その頭も、肩も、彼が一言もらさず聞き耳をたてている様子が、背後からでも、なんとなく伝わってきた。
「そんな、わかっていないのよ、メアリー」ロザムンドは絶望にかられ、金切り声をあげた。「あなたはわかってないわ。私たちの目の前で、怖ろしいことが起きているということが。あなたにも聞こえたでしょう? 二階から、レボルバーの銃声が」
「ええ、銃声なら聞こえました」メアリーは、明るい様子で言った。「でも、丁度そのとき、荷造りをしていたものですから。それにイノセントからは聞いていました。ウォーナー先生のことを撃つつもりだと。ですから、わざわざ階下に降りてみる必要はありませんでした」
「まあ、どういうことかしら。あなたの考えがさっぱり分からないわ」ロザムンドはわめき、足を踏み鳴らした。「でも、私の言おうとするところを理解してもらわないと。そうする必要があるのよ。あなたのイノセント・スミスとは、この世で、もっとも邪まな男なのです。彼は他の男たちに、たくさん弾丸をうちこんできたし、他の女たちとずいぶん馬車で出かけてきたのよ。おまけにその女たちを殺していたらしいわ。だって誰も見つかっていないんですよ」
「たしかに彼はいたずら好きなところがあって、手に負えないこともありますけど」メアリー・グレーは穏やかに笑いながら、古ぼけた、灰色の手袋のボタンをとめた。
「まあ、このひとは催眠術か何かにかかっているわ」ロザムンドは言うと、涙をこぼした。
それと同時に黒い服をきた男が二人、家から出てきたが、そのあいだには緑の服をきた大男がとらわれていた。彼は抵抗していなかったが、あいかわらず焦点の定まらない笑いをうかべていた。アーサー・イングルウッドがあとにつづいたが、彼が出て来た書斎は、屈辱と懊悩からなる最後の影につつまれ、真紅色に染まっていた。この陰鬱な一行は葬儀の参列者のようで、ずいぶんと痛々しいくらいに写実主義の形式をとりながら、ビーコン・ハウスから退出していくのだが、その中心となる男は、一日前、壁を幸せそうにけったり、陽気に木によじ登ったりしていた男だった。メアリー・グレーをのぞけば、庭にいた人々は誰も動こうとはしなかった。メアリー・グレーはごく自然な様子で前にすすむと声をかけた。「準備はできたかしら、イノセント? 馬車は長い間ずっと待ってくれていたのよ」
「紳士淑女の皆さん」ウォーナー医師は毅然として言った。「このご婦人に脇にどいていただくように、なんとしてもお願いしなくてはなりません。ご覧のとおり、私たちは難しい状況にたたされるのです。一台の馬車に、この三人で乗るのですから」
「まあ、私とスミスがお願いした馬車なんですよ」メアリーは言い張った。「馬車の上には、イノセントの黄色い鞄が積んでありますわ」
「脇にどきなさい」ウォーナーはぞんざいな口調で繰り返した。「それに君もだよ、ムーンさん。少しだけ、体を動かしてください。さあ、はやく。この嫌な仕事がはやく終わるほど、いいのだから。君がよりかかったままなら、どうやって門を開ければいい?」
マイケル・ムーンは相手のほっそりとした人さし指を見つめ、この論争を幾度も反芻しているようだった。「わかった」彼はついに言った。「でも門をあけたままだと、どうやって寄りかかっていればいい?」
「どけばいいじゃないか」ウォーナーは機嫌良く、大声でかえした。
「いつでも門にはよりかかれるとも」
「そんなことはない」ムーンは反射的に言った。「よりかかれる時も、場所も、青い門も滅多にない。それもすべて、旧家の出かどうかにかかっている。僕のご先祖様は門に寄りかかっていたんだ。誰かが門の開け方を発見する前から」
「マイケル」アーサー・イングルウッドは、ある種の憂鬱さをこめて叫んだ。「脇にどいてくれるかい?」
「なぜ? いやだ。どくつもりはない」マイケルはしばらく考えたのちに言うと、ゆっくりとふりかえった。すると目にとびこんできたのは話題の主であったが、彼は相変わらずのらりくらりとした様子で、道をふさいでいた。
「やあ」彼はだしぬけに言った。「スミスさんをどうするつもりか?」
「彼を連れて行く」ウォーナーはぶっきらぼうに言った。「調べるために」
「入学試験でも受けさせるつもりか?」ムーンはぞんざいに訊ねた。
「治安判事が調べてくれる」相手は素っ気なく言った。
「よその治安判事が」マイケルは甲高い声をだしながら叫んだ。「この自由の地にふりかかる出来事を審理したところで、昔から勝手にやっているビーコン公爵を助けるだけじゃないか? よその高等裁判所が我々の仲間を審理したところで、ビーコン高等裁判所を助けるだけじゃないか? もう忘れたのか? 今日の午後、僕たちは自治の旗をかかげて、地球上のすべての国から独立したじゃないか?」
「マイケル」ロザムンドは両手を固く握りしめながら言った。「そんなところに立って、意味のわからない言葉を話しているのはどういうことなの? なぜなの? おそろしい場面を見たじゃない? 彼が狂ったときに、その場にいたじゃない? 先生が植木鉢につまずいて転んだとき、抱え起こしたのはあなたなのに」
「ビーコンの高等法院なら」ムーンは尊大な口調で答えた。「すべての事件に特別な権限をもっている。気狂いのことにしても、植木鉢にしても、庭で転んだ医者のことにしても。エドワード一世から頂いた、最初の勅許状で許されている。もし医者であれば、誰であろうとも、庭で倒れし場合―」
「そこをどくんだ」ウォーナーは、怒りにかられて言った。「さもないとお前を無理やりに―」
「なんだって!」マイケル・ムーンは浮かれきって叫んだ。「神聖なる青の門を守ってみせようか。青い柵を、血で染めるつもりか」それから彼は背後の、青色をした尖ったものをつかんだ。イングルウッドが、夜、気がついたように、柵はゆるみ、その場所は曲がっていた。塗装された鉄の棒と槍の先端を手に握ると、彼は振りかざした。
「見ろ!」折れた投げ槍を空中に振りかざしながら、彼は言った。
「ビーコン・タワーを囲む槍が、その塔を守ろうとしている。もともとの場所から飛んでくるそ。ああ、こうした場所で、こんな時間にひとりで死ぬなんて、素晴らしいことじゃないか」
彼は太鼓のような声で、ロンサールの高貴な詩句を朗々と諳んじた。
「神の名誉のために、我が王子の権利のために、この地で勇気をふるいおこせよ」
「生きているもののために」アメリカの紳士は、畏怖の念にうたれながら言った。
それから彼はつけ加えた。「ここには狂人が二人いるのか?」
「いや、五人いる」ムーンは大声で話した。「スミスと私だけが正気なんだ」
「マイケル!」ロザムンドは叫んだ。「マイケル、どういうことなの?」
「愚かしいことだということだよ」マイケルはうなると、庭のむこうへ彩色された槍を飛ばした。「医師も愚かしいし、犯罪学も愚かしい。アメリカ人も愚かしい。ビーコンの高等法院よりも、ずっと愚かしいということだよ。君たちは愚かだよ。イノセント・スミスは、木の鳥ほどに狂ってもいないし、悪くもない」
「でもムーンさん」イングルウッドは、遠慮がちに切り出した。「こちらの紳士方は―」
「二人の医師の言葉によれば、と言うのか?」ムーンは言葉をたたきつけ、もはや誰の言葉も聞いていなかった。「二人の医者の言葉にしたがって、精神病院の独房へ閉じこめておけとでも? そんな医者も閉じこめてしまえ! 僕の帽子でも閉じこめておけばいい。そういう医者をよく見るがいい。そんな医者二十人に勧められても、本を読んだり、犬を買ったり、ホテルへ行ったりするものか。僕の家はアイルランドからきたカソリックだ。もし二人の司教の言葉にしたがって、相手のことを邪まだとか言えば、君はどう思うのか?」
「でも言葉だけではないのよ、マイケル」ロザムンドが説き伏せた。「証拠もあるわ」
「君は、その証拠を見たのか?」ムーンは言った。
「いいえ」ロザムンドは答えたが、そこには微かな驚きがあった。「こちらの紳士が管理しているわ」
「それだけではない。あらゆることも、のように思えるけど」マイケルは言った。「どうしてデューク夫人に相談するだけの礼儀正しさがないんだい?」
「まあ、そんなことをしても無駄ですもの」ダイアナは、低い声でロザムンドに言った。「おばちゃんは言えないもの。『こら』と、鵞鳥にだって」
「それは嬉しい話だ」マイケルは答えた。「鵞鳥の群れにそんな風に声をかけているなら、彼女は、いつも、おそろしい呪いの言葉を口元にうかべているだろうから。僕としては、あっさり水にながすことは拒否するつもりだ。デューク夫人には訴える―ここは彼女の家だと」
「デューク夫人に?」イングルウッドは疑わしげに繰り返した。
「ああ、デューク夫人に」マイケルは断固として言った。「下品にも、鉄のデュークと呼ばれている夫人に」
「おばさまに訴えたところで」ダイアナは静かに言った。「結局、何もしないでしょう。おばさまが考えることは、口をつぐむか、脇におしやることですもの。おばさまには、よくお似合いだけど」
「そうだとも」マイケルは答えた。「そうするのが我々みんなにふさわしい。君は年長者に手厳しい、ミス・デューク。でも君があのくらいの歳になれば、ナポレオンが言っていた言葉の意味を知ることになるだろう。すなわち、手紙の半数は功を奏する。手紙に答えるという世間一般の欲求を思いとどまることができるなら」
彼はまだそこにもたれかかり、あいかわらず無意味な態度をとりつづけ、肘を格子戸についていた。だが彼はその声を急にかえた。これが三度目だ。疑似英雄詩を朗じる声から、人間らしく腹をたてている声へと変わり、そして今、法律家が法律上の有益な助言をあたえるときのような、うわべだけ鋭い声へと変わった。
「おばさんだけじゃないんだ、できれば、この家を静かにしておきたいのは」彼は言った。「僕たちも、できることなら、この家を静かにたもちたい。大げさな申し立てには気をつけた方がいい。それが今回の事件の骨格だから。こちらの科学に詳しい紳士方が、高度に科学的な誤りをおかしたせいだと思っている。スミスにはやましいところはない。キンポウゲの花と同じくらいに。もちろん、キンポウゲの花は、個人の家に装填した銃を持ちこんだりしないだろう。そこには説明を必要とする事情があるにちがいない。でも僕のみたところ、隠された事情とは馬鹿げた誤りか、冗談なのか、なにかの寓意か、事故なのだと思う。かりに僕がまちがっているとしても、僕たちは彼を抑えているし、しかも五人の男がかりで拘束している。これから彼を留置場に連れて行くべきなのかもしれない。でも僕の言っていることが正しいとしたら、どうしますか。人前で内輪の恥をさらすことになってもいいのですか?」
「これから、順番に説明していこう。いったんスミスを門の外に連れ出せば、彼は夕刊の一面を飾ることになる。分かるんだ。僕自身、一面を書いたことがあるから。ミス・デューク、君も、おばさんも、下宿が注目をあびてもいいのか? 『ここで医師が撃たれる』と。ああ、医者なんてつまらない連中だ。前から僕は言っているけど。でも、君たちにしたところで、つまらない当てこすりは望むまい。アーサー、考えてみるんだ。僕が正しかったときのことを。あるいは間違っていたときのことを。スミスは、君の学生時代からの友達として、ここにあらわれた。僕の言葉を記録しておけよ。もし彼が有罪ということになれば、新聞は、君が彼を紹介したと書きたてる。もし彼が無実だとわかれば、新聞は、君が捕まえるのに手を貸したと書くだろう。ロザムンド、いいかい。僕が正しい場合、間違っている場合のことを考えてごらん。もし彼が有罪だということになれば、君のコンパニオンと婚約していたことが記事になる。無罪だということになれば、あの電報が新聞にのるだろう。僕はマスコミのことをよく知っているから、忌々しい連中だよ」
彼はしばし話すのをやめた。急に合理主義をとなえたせいで息がきれ、それは芝居がかった物言いよりも、真に弾劾する口調で言うよりも、もっと息がきれるものであったからだ。だが彼はあきらかに本気であり、また自信をもっていながら、同時に分かりやすくもあった。彼が息をととのえると、すぐに、それは証明された。
「同じことですよ」彼は声をはりあげた。「僕たちの医者の友達にしても。ウォーナー先生はご立腹だから、と君は言うことだろう。僕もそれは認める。でも彼が、記者から、わざわざ写真を撮ってもらいたがるか? 茂みのなかにひれ伏すのか? 彼に非はない。そうした事態は、彼に威厳をつけるものではないかなら。彼にも正義心はあるにちがいない。でも正義心を発揮するだろうか。跪くだけではなく、四つん這いになってまで。裁判所に四つん這いになって入りたがるだろうか。医師は、宣伝することは許されていない。それに、そんなふうに見られたい医者もいないと思う。アメリカ人の客にしたところで、同じようなものだ。もし彼が決定的書類を持っているとしよう。それから読むに値する意外な事実もつかんでいるとしよう。それでも、裁判所での尋問にこたえ、医学的な調査結果について報告するときに、そうした書類を読み上げることは許されない。彼は二、三分ごとに、古い規則がもつれた山に足をとられてしまうだろう。今日、公の場で、真実を語ることができない。だが個人では、まだ語ることができる。あの家のなかでなら、真実を語ることができる」
「たしかに言うとおりだ」サイラス・ピム医師は言った。話のあいだ、彼はずっと耳を傾けていたが、その真摯な態度は、アメリカ人だけが維持できるものであった。「身内で取り調べをおこなえば、あまり妨げられることはない。たしかに、そのとおりです」
「ピム博士!」ウォーナーは、突然、怒りにかられて言った。
「ピム博士! そんなことを認めてはいけない―」
「スミスは気が狂っているかもしれない」ムーンは物憂げにつづけ、その独白は重々しく響いてくるように思えた。「でもスミスの言葉には、なんらかの真実がある。すべての家には、家庭内自治があるという言葉には。ああ、たしかに真実が見つかる。すべての審議をつくし、尋問を行ったときには。このビーコン下宿の高等裁判所で。たしかに家庭内が裁判所みたいになっている人もよくいる。法律上の権利が、すぐに侵害されるだけの場所に。ああ、僕も弁護士だから、よく分かる。職権のなかには間接的に働くものもたくさんある。よくあることだよ。国の力では解決できないけど、家族の力でなら解決できることもしょっちゅうある。若い犯罪者が大勢見つかっては刑務所におくられるけど、本当はむちで打って寝床においやればいいだけだ。多くの男達がハンウェルで過ごすけど、それはただブライトンで一週間過ごしたかったからなんだ。家庭内自治に関するスミスの考えには、もっともなところがある。その考えを実践にうつすことを提案しよう。被告人もいるし、記録も残っている。いいか、僕たちは自由であり無垢な、キリスト教徒の仲間なんだ。街のなかに閉じこめられ、人気のない島に打ち上げられているような気もするけど。僕たちでやってみよう。あの家の中に入って、腰をおろして、目と耳で確かめようではないか。これが真実かどうか。スミスが人間なのか化け物なのか。そうした些細なことができないのなら、投票用紙に×をつける権利があるのだろうか」
イングルウッドとピムは視線をかわした。ウォーナーは愚か者ではないので、その視線を目にすると、ムーンが優勢になりつつあるのを知った。アーサーも説得に屈しかけていたが、その動機は、サイラス・ピム博士に影響しているものとは異なっていた。アーサーが本能的に守るとするのは、プライバシーを守ろうとする心であり、礼儀正しく解決しようとする心であった。彼は典型的な英国人なので、事件をおこしたり、まじめな美文を書いたりすることで悪事をただすよりも、悪事に耐える方をえらんだ。博物学者と遍歴の騎士の両方を演じて、アイルランドの友人のようにふるまったなら、彼は責め苦を味わったことだろう。だが、その日の午後は中途半端に演じただけなのだが、それでも彼には苦痛だった。彼の義務とは、寝ている犬を起こすことだと誰かが説いたところで、彼はやる気にはなれなかったことだろう。
一方、サイラス・ピムは、英国人にすれば狂っているように思えることが可能な国からきていた。そこはイノセントの冗談やマイケルの皮肉のような規則やら権威やらが、本当に存在する国であり、そうした規則は冷静沈着な警察官に守られ、忙しい経営者にも規則が押しつけられていた。ピムはすべての州を知っていたが、どこも広々としていて、人目にふれることなく、風変りであった。それぞれの州は、一国に匹敵するくらいに大きく、失われた村と同じくらいに人目にふれることはなく、アップルパイの生地と同じように見当のつかないものであった。ある州では煙草が許されることなく、ある州では十人の妻をもつことができた。厳しい禁制が課せられている州もあれば、離婚にたいして緩い州もあった。このように大きな母国を思い出すうちに、サイラス・ピムの心は、小さな国の、小さな家での思い出に向かい合う準備ができていた。ロシア人やイタリア人よりも、彼は英国には疎いので、英国のしきたりが何であるのか思い描くことができず、ビーコンハウスの家庭内裁判所というものが社会に受け入れてもらえないことが分からなかった。この試みの場に居合わせた人々は、結局のところ、ピムが幻の法廷を信じて、それが英国の組織であると考えたと確信している。
いくぶん手詰まりの会議をしていると、だんだん靄がたちこめ、あたりが霞みはじめたところに、背のひくい、黒々とした人影が近づいてきたが、その姿は衰弱した黒人さながら、抑圧がまだ十分でないという感じであった。その姿をみると、すぐに親しみと同時に場違いなものを感じたせいで、マイクは心動かされてしまい、いかにも人間らしい軽口がほとばしり出た。
「どうしたんだ、そこにいるのはちびで、騒々しいグールドじゃないか」彼は声をはりあげた。「彼の姿を見ただけで、君の病気もじゅうぶん追いはらえるじゃないか」
「まったく」ウォーナー医師は答えた。「まったく見当がつかない。グールド氏が、どれほど、この問題に悪い影響をあたえることになることやら」
「やあ! 葬式みたいな顔をしているじゃないか、諸君」そこにやってきたグールドは、滑稽なところのある仲裁者という雰囲気で訊ねた。「医者の先生が何か言っているのか? この下宿屋では、いつものことじゃないか。いつものことだけど、たくさん要求してくる癖に、なにも与えはしないんだ」
できるだけ偏ることのないように、マイケルは自分の立場について、再び語り始めた。おおよそのところ、スミスが危険かつ疑わしい行為をおかした罪があり、正気ではないという申し立てもあったという話であった。
「ああ、たしかに彼にはそういうところがある」モーゼス・グールドは動じることなく言った。「確かめるのに、老ホームズに頼む必要はない。ホームズの、鷲のような顔は」彼は抽象的な言葉をくわえた。「絶望をあらわしているんだ。グールドのような探偵は、そうしたことはないだろうが」
「もしスミスが狂っているとしたら」イングルウッドは言いはじめた。
「そうであれば」モーゼスは言った。「屋根の上にでた最初の夜に、あちらこちらの瓦がゆるむだろう」
「前なら反対しなかったのに」ダイアナは頑固に言いはった。「それに、すぐ不平を言うくせに」
「スミスのことで不平をこぼしたりはしないとも」モーゼスは度量のひろいところをみせた。「可哀想な男だよ、まったく害がない。この庭にくくりつけでもすれば、強盗がはいるたびに騒音をたてるだろうけど」
「モーゼス」ムーンは勿体をつけながら、真剣にいった。「君は、良識というものが人間の姿をとっているかのようだ。イノセント氏が狂っていると考えているんだね。では科学が人間の姿をとっている人を紹介するとしよう。彼もイノセント氏が狂っていると考えている。ドクター、こちらは友達のグールド氏です。モーゼス、こちらは高名なピム博士だ」賞賛をうけたサイラス・ピム博士は目をとじ、お辞儀をした。彼は低い声で、祖国の鬨の声をあげたが、その声音は「お会いできてうれしいです」と伝わってきた。
「君たち二人ときたら」マイケルは楽しそうに言った。「どちらも、僕の可哀想な友達が狂っていると考えている。向こうの家に入って、彼が狂っていると証明しようじゃないか。科学理論が良識と結びついたら、これほど強いものはない。手と手を携えれば、君たちは強くなる。もし手をはなせば、力は弱まる。僕は礼儀知らずではないから、ピム博士には良識がないなんて言わないけど。僕が専念しているのは、時系列で出来事を記録することなんだ。ピム博士ときたら、詳しく教えてくれなかったからね。モーゼスが科学知識を持ち合わせていないことに賭けるよ。それでも、この強力な組み合わせに対抗しよう。身を守るのは「直観」だけだ。それは「推測」にあたるアメリカの言葉だね。」
「グールドさんに助けて頂いたおかげではっきりしました」ピムは突如、目をみひらいて言った。「最初の診断から、我々の見解は一致していました。それでも我々のあいだには、意見の不一致と言うほどではない点もあります。おそらく、その不一致を言いあらわすとしたらー」彼は親指と人さし指で輪をつくり、他の指は優雅にのばした。その様子は、こうせよと指示する者を待っているかのようであった。
「蝿をつかまえているのか?」モーゼスは気さくに訊ねた。
「相違と言うべきでしょう」ピム博士は洗練された様子で、安堵の吐息をついた。「相違ですよ。問題の男が狂っていることを認めはします。でも医学が殺人狂に求める全条件を充たしているかと言えば-」
「こういうことが頭に浮かんでこなかったのか」ムーンは言うと、ふたたび門に寄りかかった。でも、こちらをふりむきはしなかった。「もし彼が殺人狂だとしてもだ。こうして話しているあいだに、僕たちを殺しただろうか」
その場にいた者たち全員の心のなかで、何かが音もなく爆ぜ、どこかの忘れられた倉庫にしまわれたダイナマイトが爆発したかのようであった。そのときになってようやく思い出したのだが、話題にあがっている其の怪物は、二時間、三時間と、彼らのあいだに、ひっそりと立っていた。彫像のように、庭に残された彼は、その両脚には海豚がまとわりつき、口からは噴水が吹きあげそうであった。彼が忘れ去られたのは、イノセント・スミスそのものの話題に人々の心が集中していたからだ。黄金の兜をつけて立つかのように思える髪はやや前のほうに流れ、血色のよい、近視気味の顔は堪えて下をむいているが、格段、何かがあるわけではなかった。大きな背中をまるめ、両手をズボンのポケットにつっこんでいた。彼らがみたところ、彼はまったく移動していなかった。その緑の上着は、足もとの緑の芝から切り抜いたものなのかもしれない。彼の影におおわれながら、ピムはくどくど語り、ロザムンドは説得しようと奔走し、マイケルはわめきたて、モーゼスは愚弄した。彼は彫刻のようにとどまり、さながら庭の神であった。雀がそのがっしりとした肩にとまって、羽をととのえると飛び去った。
「どうしたんだ」マイケルは笑い声をあげながら叫んだ。「ビーコン高等裁判所は開廷されたのに、ふたたび閉廷しているじゃないか。みんな知っているくせに。僕が正しいことを。君の心のなかの良識は、僕の心のなかの良識と同じだよ。スミスは銃を一回撃つかわりに、祝砲を百回うちあげたかもしれないじゃないか。君にもわかるだろう。君も、彼のことを害のない男だと考えている。僕も同じように考えているよ。家に戻って、議論できるように片づけようじゃないか。ビーコン高等裁判所の開廷は決定されたし、これから審議を開始しようとしているのだから」
「さあ、始めようよ」小男のモーゼスが叫んだが、その声は驚くほど客観的で、まるで動物が音楽や雷雨のなかにいるかのようだった。「ベーコン・エッグの高等裁判所についておいで。農場から薫製ニシンをもってくるんだ。裁判長閣下、おめでとう。専門家と言っていいくらいに繊細なグールドがあらわれたのだから。さあ、昔ながらの、最上等のパブの特別室で祝うにふさわしいことじゃないか。ひりひりするスコッチを三人分たのむ。お嬢さん。僕のほうにおいでよ、お嬢さん」
自分を追いかけてごらんという誘いに娘達がのらなかったので、彼は立ち去ったが、興奮にかられているせいで、ふらりふらりと踊っているかのようだった。庭を一周してから、彼がふたたび姿をあらわしたとき、息はきれていたが、それでも晴れやかな顔をしていた。相手がいかなる人物かということにムーンが気づいたのは、その人物、モーゼス・グールドと話していた人々が怒っていたにせよ、それほど本気になっていない様子をみたときだった。ガラス扉は、モーゼス・グールドのすぐそばで開け放たれていた。この陽気な愚か者の足がそちらへむかうと、その場にいた人々も同じ方向にむかい、異議を申し立てることなく騒々しい一行と化した。ダイアナ・デュークだけが厳しさを失わず、この数時間のあいだ、その猛々しくも女らしい唇であたためつづけた言葉を何やら呟いた。だが悲劇の気配に、さすがにその言葉は思いやりがないだろうと彼女は隠した。「今日のところ」彼女はつっけんどんに言った。「馬車は追い返せばいいわね」
「そうね、イノセントは鞄をおろして持っていったと思うから」メアリーは微笑みをうかべて言った。
「馬車の御者が私たちのために鞄をおろしてくれたのかもしれないけど」
「僕が鞄をとってくるよ」スミスは言ったが、それは数時間ぶりに聞く声であった。その声はかすかに聞こえてきたが、無礼なところもあって、たしかに彫像が話しているかのようだった。
不動の姿勢をとっていた彼のまわりで、長いあいだ踊ったり、論じたりしていた人々は、あわてふためく彼の様子に呆気にとられていた。彼は跳びはねながら駆け出していき、庭から通りへと出て行った。地をけりあげ足をふるわせると、彼はもう馬車の屋根の上にいた。御者は馬の頭の傍らに立っていたが、馬の首にかけてあった飼葉袋がからになったので、そのとき外そうとしていているところだった。スミスはしばらくグラッドストーンの鞄を抱えたまま馬車の屋根の上で転がっていたらしい。だが次の瞬間、運のいいことに、彼は後部座席に転がり込んだ。すると馬が耳をつんざくような、甲高い声をあげ、飛ぶように通りのほうへと疾走していった。
スミスがあっという間に姿を消してしまったので、今度はその場にいた全員が庭の彫刻と化してしまった。けれどもモーゼス・グールド氏は、永遠の彫刻となるには肉体的にも、精神的にもふさわしくない人物なので、他の者たちよりもいち早く正気に返ると、ムーン氏のほうへとむかって話しかけたが、それは乗合馬車でおしゃべりを始めた男さながらであった。「頭がおかしいのかねえ、きっと何かをちょろまかしたんだろう」すると石のような沈黙がたちこめた。ややしてウォーナー医師が、石棒のような冷笑をうかべて言った。
「ビーコンの法廷の結果がこれだよ、ムーン君。頭がおかしい男を首都に放ってしまったのだ」
以前、説明したように、ビーコン・ハウスがあるのは、三日月のように弧を描きながら建物が続いているクレッセントの端であった。ビーコン・ハウスを囲んでいる小さな庭は、鋭く尖った形となり、さながら二本のストリートのあいまに突き出した緑の岬といったところである。スミスが乗った馬車は三日月の弧にそって走り去ったので、三日月の内側に立っていた人々は、もう二度と彼の姿を見ることはあるまいと考えた。しかしながら三日月の頂点にくると、彼は馬の向きをくるりとかえ、三日月のもう片方の弧にそって来たときと同じように荒々しく馬を走らせた。同じ衝動につき動かされ、そこにいた人々は芝生を横切って彼をとめようとしたのだが、すぐにもっともな理由から、身をかわしてさがっていた方がいいと判断した。彼がふたたび通りのほうへと消えるとき、大きな、黄色い鞄を手から放した。その鞄は庭の真ん中に落下しながら、人々を竹のようになぎ倒し、あやうくウォーナー医師のシルクハットに三度めの損傷をあたえるところであった。人々が落ち着きを取り戻したころには、馬車は消え去り、甲高い声も囁きとなっていた。
「さあ」マイケル・ムーンが言ったが、その声には妙な響きがあった。「とにかく、君たちはもう家の中にはいっていい。ここにはスミスの持ち物が少なくとも二つある。彼の婚約者もいれば、トランクもあるのだから」
「どういうわけで家のなかに入ってもらいたいというのか」アーサー・イングルウッドは訊いてきたが、赤い眉にしても、こわばった茶色の髪も、苛立ちが限度にまで達したかのように思えた。
「他の方々には、中に入って休んでもらいたいのです」マイケルは明瞭な声で言った。「この庭すべてを貸し切りにしたいのは、そこであなたと話すためです」
分別を欠いた疑念があたりに渦巻いた。しんしんと冷え込み、夜風が薄暗闇の木をゆらしはじめた。しかしながら、ウォーナー医師は躊躇いのない口調で言った。
「そうしたご提案はお断りします」彼は言った。「君があの狼藉者を見失った以上、我々は見つけ出さないといけない」
「君になにか提案を聞くように頼んでいるわけではない」ムーンは静かに答えた。
「ただ聞いてほしいと言っているだけだ」
彼が相手を黙らせようと手で制止するとすぐに、家の裏手の暗い通りに消えた筈の口笛がふたたび聞こえたが、今度は家の表の通りから聞こえてきた。夜闇にかすむ通りのほうから、その口笛は信じがたいほどの勢いで近づき、音が大きくなってきたかと思うと、次の瞬間には蹄が地をけりあげ、車輪に光が反射しながら、彼らが先ほど立っていたばかりの、青い柵の門へ飛びこんできた。スミス氏が御者台から降りてきたが、心ここにあらずという様子であった。そして庭の方へやってくると、相変わらず不遜な態度で立っていた。
「中に入ろう! さあ、中に」ムーンは大はしゃぎで叫び、まるで猫の一団を追いはらうかのようであった。「さあ、中に。急いで。言ったじゃないか? イングルウッドと話をしたいと?」
どんなふうにして家に入ったのか、その有様を語ろうとしても、時間がたってからでは難しいことであっただろう。意見が一致しないものだから、みんな疲弊しきっていたが、それは笑劇を演じる人々が笑うのに疲れたかのようであった。嵐がだんだん強まって、木々は断末魔の身震いに震えているかのように見えた。イングルウッドは後ろの方でぐずぐずして、親しいなかにも苛立ちをこめて言った。「おい、僕と本当に話をしたいというのか?」
「ああ」マイケルは言った。「おおいに話をしたいね」
ふだんと同じように夜になったが、その暗くなりゆく速さは、夕空のころ考えていたよりも早かった。目には、空がまだ薄灰色を宿しているように感じられるけれど、大きな月が煌々とした光をはなちながら、屋根の上に、木々の上に姿をあらわし、濃灰色にかわっている空にうかんだ。しおれた葉が芝生に吹き寄せられるのも、ちぎれた雲が空に吹き寄せられるのも同じように、難儀な強風に運ばれての結果に思えた。
「アーサー」マイケルは言った。「きっかけは直観なんだけど、今では確信しているよ。君も、僕も、聖なるビーコン裁判所で友達を守ることになると。彼の汚名をはらすんだ。犯罪人であり、狂人であるという汚名を。少しばかり君に説教するけど、耳をかしてくれ」暗くなりつつある庭を行ったり来たりしながら、ムーンは続けた。
イングルウッドが本能を働かせて第一に考えたのは、友人が当惑のあまり、ついに本当に狂ってしまったということであった。あまりにも思慮分別に欠けた、見当ちがいの言葉が聞こえてくるのは、熱帯の風景が描かれているように想像するようにと求められた壁からのようだが、その熱帯の景色は想像の産物で、もともとの庭は生気に欠け、風が吹きさらしていくような、幾分冷え冷えとした郊外の庭であって、実際、彼はそこで蹴りつけていた。そうしたところにいながら、別の庭を想像することで、どうすれば、もっと幸せになるのだろうかと、彼には見当もつかなかった。どちらの庭も、庭自体は心地よいものではなかった。
「なぜ、みんなは難題を口にするのだと思う?」ムーンはぶっきらぼうに続けた。「たとえ答えを忘れていたとしても。難題は覚えやすいんだよ。推測するのが難しいからね。だから、昔の象徴文字もぎくしゃくとした形で、黒や赤、緑色をしているけれど、覚えるのが簡単なんだよ。推測するのが難しいからね。色もはっきりしている。形もはっきりしている。すべてがはっきりしているけど、意味だけがはっきりしないんだ」
イングルウッドは口をひらくと、感じよく、抗議の気持ちをあらわしたが、ムーンは話し続け、庭園を歩く足も、煙草をふかす速度も、だんだん速くなっていった。「ダンスもだよ」彼は言った。「ダンスは浅薄なものではないんだ。篆刻された文字や文章よりも、ダンスのほうが理解するのが難しい。昔のダンスはぎくしゃくして、儀式めいたものだけれど、色彩ゆたかで、しかも静かなんだ。スミスのことだけれど、奇妙なところがあるのに気がついたことがあるか?」
「おや、なんだって」イングルウッドは声をあげたが、その声からユーモアは消え失せていた。「なにかに気がついたかだって?」
「彼のことだけど、こんなことに気がついたことがあるか?」ムーンは、あいかわらず頑固に訊ねた。「彼はいろんなことをやっているのに、ほんの少ししか話していない。はじめて来たときに、彼は話をしたけれど、息をきらしながら、取り乱した感じで話をした。まるで話をするのに慣れていない感じをうけたよ。彼が実際にしたことは行動なんだ。黒のガウンに赤い花の絵を描いたり、黄色の鞄を芝生に投げたり。君に教えよう。あの大きな姿そのものが比喩なのだと。緑の数字が、どこか東方の白い壁で跳ねまわるようなものだよ」
「おい、マイケル」イングルウッドは声をはりあげ、強くなってくる風にあおられたかのように苛立ちをつのらせた。「君はずいぶん空想的になっている」
「つい今しがたの出来事について考えているんだ」マイケルはしっかり続けた。「あの男は何時間も話していない。それでも、ずっと話しているんだ。六連発銃から三発撃っておきながら、僕たちに負けたんだ。僕たちをその場で撃ち殺すこともできた筈なのに。僕たちへの信頼をしめすには、そうするしかなかったからではないか。彼は裁判をうけたいと思っているんだよ。信頼をしめすには、じっと立ったまま、論議する以外にないんじゃないか。彼が言いたかったのは、喜んでそこに立っているということ、それから望めば脱出も可能だということなんだ。自分が思いのまま行動できることをしめすには、馬車に乗って逃げ出しておきながら、また戻ってくるしかないじゃないか。イノセント・スミスは狂人ではない。儀式主義者だよ。彼は自分を表現するのに、舌ではなくて、両手、両足を使うんだ。『全身であなたを敬います』と結婚式のときに言うみたいに。僕には分かり始めたよ、古代の芝居や野外劇のことが。今なら分かる、なぜ葬式の供人が無言でいるのかが。それからパントマイムの役者がなぜ無言なのかということも。ほかの冗談はすべてうるさいものだけど。たとえば、うるさいグールドのように。沈黙につつまれている冗談はただひとつ、行動をともなった冗談にある。可哀想なスミスだけど、適切に解釈するなら、行動をともないながら冗談を言う人間の寓話だと考えればいいんだよ。彼がこの家で実際に引き起こしたことは、インディアンの踊りのように気違いじみているけれど、でも絵画のように静かでもあるんだ」
「君はつまり」もう片方が疑い深そうに言った。「こうした犯罪の意図を発見したということ言いたいのか。まるで色のついたジグゾーパズルを完成したようじゃないか。でも、そうしたものに何か意味があるとすればだが-これは言い過ぎた」
さりげなく庭のほうをふりかえりながら、彼は月を見上げたが、その頃には月は大きく、光り輝いていたので、人間のように見える姿が庭の塀のうえに腰かけているのが見えた。月の光をあびて、その姿は黒々と浮かび上がりはしているものの、一目見ただけでは、人の姿かどうか確かめるのは難しかった。丸い肩も、逆立った髪の毛も、巨大な猫さながらの雰囲気があった。その姿が猫に似ているのはまた、びっくりした瞬間、やすやすと壁をよじのぼりながら駆けだした動作にもあった。だが駆けているあいだは、鈍重な肩も、下向きの小さな頭も、ヒヒを思わせるものだった。木のそばに近づくとすぐ、それは類人猿のように飛びはね、枝のあいだに消えていった。大風が、その頃には庭の灌木をゆらしはじめ、その姿を見つけるのはいっそう難しくなったのは、大風が一面の枝をゆさぶるせいで、逃げる者が揺らしていく枝も、風で揺れる枝の動きに溶け込んでしまったからだ。
「そこにいるのは誰だ?」アーサーは叫んだ。「何者だ? イノセントなのか?」
「イノセントではないというわけではないが」葉っぱのあいだから、不明瞭な声が答えた。
「かつて君をペンナイフで脅かした者だよ」
庭の風が吹き寄せられ、勢いを増しながら、木を前後にゆさぶり、その中にいる男も一緒にゆさぶり、まるで彼が初めてやってきたときの、陽気で、黄金色に輝いていた午後のようであった。
「では、スミスなのか?」イングルウッドは激情にかられ訊ねた。
「それに近い者だ」ゆれる木から声がした。
「でも、なにか本当の名前があるにちがいない」イングルウッドは自暴自棄にかられながら金切り声をあげた。
「なにか名前はあるんだろう?」
「なんとでも名前をつければいい」くぐもった声がとどろき、木をゆらしたので、何万枚もの葉が一度に話しているかのようだった。
「わたしの名前はローラランド・オリバー・イザヤ・シャルルマーニュ・アーサー・ヒルデブランド・ホーマー・ダントン・ミケランジェロ・シェークスピア・ブレークスピアー」
「なんだと、冗談(マン)じゃ(アラ)ない(イヴ)」イングルウッドは憤りにかられながら言いはじめた。
「それだ、それだよ」左右にゆれる木から唸り声がしてきた。「それが僕の本当の名前なんだ」そして彼が枝を一本折ると、秋の葉が一枚、二枚ひらりひらりと、月を横切っていった。
第二部 イノセント・スミスの弁明
一章
死神の目なのか、それとも殺人罪か
デューク家のダイニングルームがビーコン裁判所のために用意されたが、それは大急ぎで整えられたものながら華やかさがある場所で、どういうわけ居心地のよさが増しているように思えた。大きな部屋は、言わば、腰の高さほどの壁で小さな部屋に分けられていた。その壁は、子ども達がお店やさんごっこをするときのようなものだった。優れた調査員のなかでも最も活動的なモーゼス・グールドやマイケル・ムーンの手によるもので、いつもの家具を使っての仕切りだった。マホガニーのテーブルの長辺には巨大なガーデンチェアがひとつ、古くなって裂けた天幕か傘の下にあったが、それはスミスが戴冠式の王座だと言った代物だった。この天幕のなかには、ずんぐりとしたデューク夫人の姿があって、クッションにもたれながら、その顔はすでにまどろんでいた。もう片方には起訴されたスミスがいて―いわば被告人席であろうか―寝室の軽い椅子で、その四辺を注意深く囲まれていた。椅子はどれも、彼がその気になれば、窓の外に足先で投げ飛ばすことのできるものだった。彼にはペンと紙が与えられた。その紙から、彼は紙のボートや紙の投げ槍、紙の人形をつくり、裁判のあいだずっと満足していた。彼は話すこともなければ、顔をあげることすらなく、無意識の状態にある様子は、まるで子供が空っぽの子供部屋の床に座りこんでいるかのようであった。
ソファのうえには椅子がならべられ、そこには三人の若いレディたちが窓を背にして座っていた。メアリー・グレイが真ん中に座っていた。その席は陪審員席と馬上戦術試合の中間にあたる類のものだ。長テーブルの真ん中あたりで、低い砦を築いているのは「善言集」八巻からなる装丁本で、それは道徳の壁となって、相争う両陣営を分けていた。右側に座っているのは起訴側の弁護士たち、ピム博士とグールド氏だった。本や文書をつみあげたバリケードに隠れていたが、ピム博士の場合、その本はもっぱら犯罪学に関するものだった。もう片方でも、ムーンとイングルウッドが防御すべく、本やら文書やらで砦を築いていた。だが、これらのなかにはウィーダやウィルキー・コリンズが数冊含まれているように、ムーン氏の仕事は不注意なものであり、包容力のあるものであった。犠牲者であり告発者であるウォーナー医師について、ムーンは当初、隅の、高さのある衝立のかげにいてもらおうと、法廷で、下品にもせわしなく動いてみせた。だが、ひそかに相手に許したのは、ときどき衝立の上から覗いてもいいという許可であった。しかしながらウォーナー医師は、こうした場合の騎士道にそむいてしまい、多少の言い争いをしたあとで自らにあてがった席は、彼の法律顧問たちが並んでいるテーブルの右側であった。
こうして堅固に築かれた裁判所をまえにして、サイラス・ピム博士は、両耳にかかる蜂蜜色の髪をかきあげると、事件の弁論を開始した。彼の陳述は明瞭であり、抑制されてもいた。その陳述では比喩表現がほとばしるように語られ、人々の注意をひいたが、それは言いあらわし難いほどの不愛想さのせいであって、アメリカ人の演説に非凡さがあるせいではなかった。
彼は華奢な指すべての指先をマホガニーのうえにたてると、目をつむり、口をひらいた。「そういう時代ではなくなったのだ」彼は言った。「殺人が道徳にからむものであり、個人的なものだと見なされる時代ではなくなった。おそらく殺人者にとっても大事なことだし、殺される側にとっても大事なことだろう。科学は深いところまで…」ここで彼は一息つくと、拳をにぎりしめて目の前につきだしたが、その様子はとらえどころのない考えが横切る瞬間をしっかり捕まえようとしているようであった。彼は目を細め、「修正した」と言ってから言葉を続けた。「死についての見方を、根本から修正した。迷信の時代においては、死とは人生の終末であり、混乱だった。悲劇であるとさえ見なされるものであり、しばしば厳粛さにつつまれているものだった。しかしながら明るい時代となり、今、私たちが考える死とは、宇宙的なものであり、避けがたいものでもある。そうした魂をかきまわすものの一部を、そして心をささえるものの平均を、都合よくも自然の摂理と呼んでいる。同じようにして、殺人のことも「社会的」に考えるようになった。人生から力ずくで奪い取られるものではあるが、単なる個人的な感情を脱したときに、私たちには特権が与えられる。それは黄金の収穫をもたらすようなものであり、殺す者と殺される者の繰り返しを永遠に続けることなのだ」
彼は視線をおとすと、己の雄弁さにやや感銘をうけた様子で、軽く咳払いをして、ボストン流のすばらしい仕草で、四本の細い指先を広げてから話を続けた。「ここにあるのは幸せで、人間らしい考えの結論にすぎないながら、目の前の哀れな男についての考察である。それなんだよ、ミルウォーキーの博士がすっかり明らかにしたのは。偉大な男だ。『破壊的なタイプ』という研究書で、秘密を明らかにしていくソネンシャインのことだよ。スミスのことを殺人者として告発はしない。殺人をしかねない男として告発するのだ。いかにもというタイプだから、その命は、むしろ健康状態はと言うべきなのかもしれないが、殺人の渦中にある。なかには常軌を逸しているのではなくて、より新しく、より高度な存在なのだと考えるものもいる。私の昔からの友人、バルガー博士はフェレットを飼っているが-」(ここでムーンは突然、大きく「万歳」と叫んだが、即座に悲劇的な表情を取り戻したので、デューク夫人はその音の正体をたしかめようと四方をながめた。
ピム博士は、厳めしく続けた。「知識をえるためにフェレットを飼う者なら感じるところだが、その生き物の残忍さとは功利を目的にするところにあるのではなく、残忍さそのものというところにある。これはフェレットの場合なのかもしれないが、被告人の場合もたしかにそうである。彼がやってきた非道の数々に、狂人のような狡さを見出すかもしれない。彼がひきおこす流血沙汰には、たいてい正気の人のような純真さがある。だが、それは太陽や元素のように、まったく確かなものなのである。我らが処女地、西の地には虹が滝にかかるとすぐに、彼を殺戮にかりたてる自然の力が働く。いかに科学的なものであろうと、彼をなだめる環境はない。薄暗い回廊の、銀のごとき沈黙に、あの男をおいてみなさい。司教杖や白衣で暴力行為が行われることだろう。彼を幸せな子供部屋で育てあげ、我々勇敢な眉をしたアングロサクソンの幼年時代にその身をおいても、彼は縄跳びで絞め殺す術を見つけ、煉瓦で殴りつける術を見つけるだろう。環境は好ましいものかもしれない。教育も立派なものかもしれない。望みも高いものかもしれない。だが血をもとめるイノセント・スミスの飢えはすさまじく、隠しようがないもので、定められた時期がくれば、よく時をあわせた爆弾のように爆発するだろう」
アーサー・イングルウッドは、一瞬、不思議そうに、テーブルの足もとにいる大きな男に視線をはしらせたが、その男は紙のように薄い体で、三角帽がよく似合っていた。それからピム博士のほうをふりかえってみると、博士は静かな調子で結論をのべていた。
「私たちに残されていることといえば」彼は言った。「彼が以前にやろうとした犯罪について、実際に証拠を提出することだ。法廷と被告側の指導者たちのあいだには、すでに同意がなりたっている。ああした場面の証人たちから、信頼できる文書をもらい、証拠とすることが許されている。また被告は、それを自由に検討することができる。そうした侮辱の数々から、私たちは一つの事例を選んだ。もっとも明白であり、もっとも醜聞にみちた事例だ。よって遅滞なく我が後輩、グルード氏を呼び、二通の手紙を読んでもらう。一通はケンブリッジ大学のブレークスピア・カレッジの副学長からのもので、もう一通は門番からのものである。」
グールドはびっくり箱の人形のように、びょんと飛び上がると、その手に大学のものらしい文書をにぎりしめ、顔に著しい自惚れをうかべた。甲高い、ロンドン訛りの大声で読み上げ始めたが、それは鶏が時をつくる声のように突然であった。
「サー、私はケンブリッジ、ブリークスピア・カレッジの副学長です」
「おやおや、これは」ムーンはつぶやくと後ずさったが、それは銃が爆発したときに人々がするような動きだった。
「私はケンブリッジのブリークスピア・カレッジで副学長をしている者です」断固としたモーゼスは読み上げた。「あなた方が哀れなスミスについて言われていることを証明します。私の不幸なる義務とは、彼が学部生だった頃、もう少し程度の軽いものではありましたが、数々の悪行をしていたことを非難するにとどまらないのです。実際、最後の悪行についても証言せねばなりません。それは学部生時代の終わりころのことでした。彼はブリークスピアの学長である私の友人の家の下を通りがかりました。それはカレッジと続いている建物で、ニ、三の古いアーチと支柱によって、橋のように、カレッジとつながっている建物です。そのあいだを水が流れ、その水は川へとつながっていくのです。びっくりしたことに、きわめて高い地位にある我が友が空中にぶらさがり、れんが積みにしがみついていました。その様子からも、態度からも、彼がひどい不安に苦しんでいることがわかりました。しばらくして大きな銃声が二発とどろいたとき、はっきりと気づいたのですが、学部生のスミスが学長の窓から身をのりだし、何度も、レボルバーを学長にむけたのです。私を見ると、スミスは大声をあげて笑いだしましたが、その横柄さには、狂気も混じっていました。ですが思いとどまったようでした。門番に梯子を取ってきてもらい、学長を痛ましい姿勢から引き離すことができました。スミスは退学処分となりました。同封した写真は、大学のライフルクラブの受賞者たちのものですが、大学にいた頃のスミスも写っています。あなたの忠実なる僕、アモス・ボールター」
「もう一通の手紙は」勝利に酔いしれてグールドは言った。「門番からのもので、読むのに時間はかからない」
「ブリックスピア・カレッジで門番をしている者です。学長が、お若い方に銃で狙われたところを下におろしてさしあげる手伝いをしたことがございます。ボールター氏が手紙で書かれているとおりのことでございます。学長を撃とうとした若者とはスミスさんでした。ボールター氏が送りました写真の中の人物と同一人物です。敬具 サミュエル・バーカー」
グールドが二通の手紙を渡したので、ムーンは調べてみた。hとaの発音が違う点をのぞけば、副学長の手紙はグールドが読んでみせたとおりであり、門番の手紙とともに、明らかに本物であった。ムーンはイングルウッドに手紙をわたし、イングルウッドは無言でモーゼス・グールドに手紙を返した。
「最初の容疑は、殺人を継続して試みたという件だが」ピム博士は言うと、とうとう立ちあがった。「それは私の事件と関係している」
マイケル・ムーンは弁護のためにたちあがったが、ふさぎこんだ雰囲気をただよわせていたので、最初、被告人側の人々は希望を少しも抱かなかった。彼は抽象的な質問につきあうつもりはないと言った。「不可知論者であるほど十分に知っているわけではないから」彼は、やや疲れたように言った。「それに私が精通しているのは、よく知られていて、認められている原理だけです。科学と宗教について言えば、よく知られて、認められた事実とは十分に分かりやすいものなのです。教区司祭が言っていることはすべて、どれも証明されていません。博士たちが言うことはすべて、反証されています。これこそが科学と宗教のあいだにある違いであり、今までもそうでしたが、これからも変わることはないでしょう。しかしながら、こうした新しい発見に、どういう訳か、私は感動してしまう」彼は悲しそうに足元を見つめた。「新しい発見は、年老いた伯母のことを思い出させるのです。彼女も、若い頃は、新しい発見を楽しんでいました。今でも、庭の塀のそばにある古いバケツのかたわらに、ゆらめくポプラ並木の下に見えるようです…」
「おい、そこで話は一休みだ」モーゼス・グールドはさけぶと、汗をうかべながら立ち上がった。「被告にも、公平に話をしてもらいたい。いいか、紳士のように。でも、いかなる紳士といえども、輝くポプラの話なんかしないだろう」
「なんだと、くそったれ」ムーンは傷ついた様子で言った。「ピム博士にフェレットを飼っている昔からの友人がいるなら、私だってポプラ並木のところにいる伯母がいてもいいではないか」
「そのとおりだと思いますわ」デューク夫人は言うと、頭をつんとあげたが、その様子は弱々しい権力者といったところであった。「ムーンさんは、どんな伯母様であろうとご自由にお好きになる権利がおありですよ」
「いいじゃないか。伯母が好きだということに関しても」ムーンは始めた。「ぼくは思うんだが―いや、おそらく君が言うように、伯母は問題ではほとんどない。繰り返すけど、抽象的な思索にしたがうつもりはない。だから、たしかにピム博士に対する僕の答えは厳しいし、容赦ないものなんだけど。ピム博士が語っているのは、殺人の心理学の片面だけだ。殺人をおかしてしまう傾向を生まれつき備えた男の存在が真実なら」ここで彼は重々しく声をおとした。「殺される傾向を生まれつき備えている男の存在も、真実ではないだろうか。ウォーナー博士がそういう男であるということは、少なくとも、その分野を支える仮説ではないだろうか。僕は本を持たずに話をしないし、学識のある僕の友人も同様だから言うけれど。こうしたこと全般については、ムーネンシャイン博士の記念碑的研究『壊れやすい博士たち』に、図表いりで論述されている。その研究は、ウォーナー博士みたいな男を分解する方法について、いろいろ教えてくれるものだ。そうした方面に光をあてると」
「待ってくれ。ちょっと待ってくれ」モーゼスは叫びながら跳びあがると、興奮のあまり、さかんに身ぶりでしめした。「こちらの先生には言うことがある。こちらの先生が、その件について少し話したいそうだ」
ピム博士は実際に立ちあがったが、その顔は青ざめ、やや残酷そうに見えた。「私が自らに厳しく課していることは」彼は鼻にかかった声で言った。「すぐに参照することが可能な本から説明するということです。ゾンネンシャインの「破壊的なタイプ」は、テーブルの上にありますから、もし弁護側が見たければ見ることもできます。でもムーンさんが話されている『破壊可能性』に関する素晴らしい論文とはどこにあるのですか? 存在するのですか? 彼はその論文を見せることができるのでしょうか」
「見せることはできる」アイルランド人は嘲りをこめて叫んだ。
「インク代と紙代を払ってくれたら、見せてやるとも」
「そんな論文に権威なんかがあるのだろうか?」ピム博士は腰をおろしながら問いかけた。
「ああ、権威ですか!」ムーンはあっさり言った。「そんなものは信仰に基づいているものですよ」
ピム博士は、ふたたび飛び上がった。「私たちの権威が基づいているのは、かなり正確で、詳細に記してあるものなんだ」彼は言った。
「そこで扱われている分野は、論じたり、検証したりすることができるものだ。弁護人も認めるでしょうが、死とは経験からなる事実なのです」
「私の経験からなるものではない」ムーンは陰鬱に答えると、頭をふった。
「そうしたことは、人生で一度も経験したことがない」
「ああ、たしかに」ピム博士は言うと、かさかさ音をたてる書類のあいだに座った。
「そこで思うのだが」ムーンは同じように憂鬱な声で、ふたたび始めた。「ウォーナー博士のような男は、進化の神秘的な過程において、そうした攻撃をうけるように運命づけられているんだ。私の依頼人スミスは猛攻撃をしたと言われているが、そうしたことがあったとしても、めずらしいことではない。ウォーナー博士の複数の知り合いから手紙をもらっているんだ。それによれば、この非凡なる博士は、知り合いにも同じような影響をおよぼしたらしい。学識高い我が友の例にならい、手紙のうち二通だけを読もう。最初は、ハロー・ロードに住んでいる正直で、勤勉な寮母からのものだ」
「サー・ムーン様
ええ、わたしは彼にソースパンを投げました。なぜかって? それしか投げられるものがなかったものですから。柔らかいものは全部どこかに消えていたので。もしウォーナー博士がソースパンを投げつけられたくないと思うのなら、ご婦人の居間では帽子をとるように伝えてください。それからにやにやしたり、冗談をいったりすることも止めるように伝えてください。ハンナ・マイルズ」
「もう一通はダブリンに住む医者からのものだ。その医者といっしょに、ウォーナー博士は医師の協議会で働いていた。彼はこう書いてきた」
「拝啓
その件について知り、私も誠に遺憾に思わざるをません。ただ説明申し上げることも不可能なのです。私が専門としている医学分野は精神面ではありませんから、精神の専門家の見解をいただけたら嬉しく思います。それは瞬時の出来事で、無意識の行動でもありました。しかしながら、私がウォーナー博士の鼻をひっぱったと言うのは、不正確な表現であり、重要な出来事に思えるのです。彼の鼻にパンチをくらわせたことは、よろこんで認めますし、いささかの悔いも感じてはおりません。ですが「ひっぱる」と言うと、それは正確な目標があり、その目標とは近づけないもののように思えます。これと比較すると、「パンチをくらわせる」という行為は外にむかった行為であり、瞬間的なものであり、自然なふるまいなのです。どうぞ信じていただけたらと思います。バートン・レストランジ」
「他にも手紙はたくさんある」ムーンはつづけた。「すべての手紙は、優秀なる我が友の証拠とするに耐えうるものだ。だからピム博士は、調査のこうした面を認めるべきだと思う。ピム博士は実に正確に言われたけれど、我々の目の前にあるのは自然の力なんだ。ロンドンの水道が大きな滝となって流れるほうがましじゃないか。誰かに殺されてしまうというウォーナー博士のすごい状況と比べたら。クェーカー教徒の集まりに博士を連れていってごらん。クェーカー教徒はクリスチャンのなかでも、いちばん平和な連中だけれど、すぐにチョコレートの棒で博士を殴り殺してしまうだろう。ニュー・エルサレムの街角に博士を連れていってごらん。宝石を投げつけられて死んでしまうことだろう。環境は美しいし、素晴らしいものかもしれない。ふつうのひとは心躍るのかもしれない。収穫者は黄金色のあごひげをはやしているかもしれない。医者は秘密をあてるかもしれない。滝には虹がかかっているかもしれない。アングロサクソン人の子どもは勇敢な眉をしているかもしれない。だが、こうした素晴らしいものがあっても、ウォーナー博士は殺されるほうへと己の道をあゆみ、ついには幸せに、誇らしく思いながら成功するのだろう」
ムーンは激しい感情にかられながら、この大げさな演説をした。だが、さらに激しい感情が、テーブルの向こう側では吐露されていた。ウォーナー博士はモーゼス・グールドの小さな体のむかいでその巨体をかたむけ、ピム博士に興奮した囁き声で話していた。その専門家は何度も頷き、ついには厳めしい様子で立ちあがった。
「紳士淑女のみなさん」彼は腹をたててわめいた。「仲間が話したように、我々は喜んで被告側にも自由をあたえます。もし被告側がいればの話ですが。と言うのも、ムーン氏がそこにいるのは、冗談をいうためのように思えるからです。とても面白い冗談だと、あえて言っておきましょう。ですが、弁護依頼人を手伝おうとはまったくしません。彼はあらさがしをするのです。沈黙していることにも。私に依頼してくる人物の社会的人気にも。私が文をかくときのスタイルにも。彼の格調高いヨ-ロッパの趣味とは異なるものですから。でも、こうしてあらさがしをしたところで、この問題にどう影響するのでしょうか。スミスは、私の依頼人の帽子に二か所、穴をあけました。もし、もう一インチずれていたら、弾があたって彼の頭に穴が二か所あいていたことでしょう。世界中のどんな冗談も、こうした穴をこじあけることはないでしょうし、弁護側の役にたつことはないでしょう」
イングルウッドは、その言葉が公平なものであることに、幾分当惑しながらも俯いたが、ムーンはまだ夢みるような様子で自分の敵を見つめた。「弁護だと?」彼はぼんやりと言った。「まだ始めてないよ」
「たしかに君は始めていないね」ピムが優しく言うと、彼と同じ弁護側のグールドが賞賛の呟きをもらした。そのせいで、対する尋問側は返事をかえすことができなかった。「おそらく、君がなんらかの弁護をうけているにしても、それは最初から疑わしいものだ」
「君が立っているあいだに」ムーンは、同じく眠そうな様子で言った。「たぶん君にひとつ質問するよ」
「質問だって? たしかに」ピムは頑なに言った。「はっきりと取り決められているけど。証人を厳しく追及しないように、たがいに相手の身になって細かに調べないといけないと。そうした取り調べをしないといけない立場にいるわけだ」
「たしか君の言葉では」ムーンはうわの空で話した。「被告人の弾はどれも博士にあたらなかったそうじゃないか」
「科学の力のおかげで」満足げなピム博士は堂々と応じた。「幸いにも当たらなかった」
「そうだけれど数フィート離れたところから発砲したんじゃないか」
「たしかに。数フィートのところからだ」
「それなのに一発も学長に命中しなかった。すぐ近くで発砲したのに?」ムーンは訊ねた。
「そういうことになる」証人は重々しく言った。
「僕の記憶では」ムーンはあくびをかみ殺しながら言った。「副学長の手紙には、スミスの銃撃の腕は大学では記録を保持しているほどだとあったようだけど」
「それがどうしたんだ? 」ピムは一瞬沈黙したのち、反論しかけた。
「二番目の質問にいく」ムーンは続けたが、その声は幾分素っ気なかった。
「君の話によると、被告人が人を殺そうとした他の事例があるということだが。なぜ、その証拠を提出しなかったのか?」
アメリカ人はふたたびテーブルを指先でたたいた。「あの場合は」彼は堅苦しく言った。「外部の人間からの証拠がなかった。ケンブリッジの場合とはちがう。証拠となるのは実際の被害者たちだけだ」
「なぜ彼らから証拠を集めなかったのか?」
「実際に被害にあった者たちの場合は」ピムは言った。「難しいこともあれば、ためらうこともあるだろうし」
「君が言おうとしているのは」ムーンは訊ねた。「被害者たちは誰一人として出廷しようとはしなかったということなのか?」
「そういう言い方は大げさというものだろう」ピムは言い返した。
「第三の質問だ」ムーンは言ったが、その鋭い語調に、誰もが飛びあがった。
「君が手に入れた証拠とは、何発かの銃声を聞いたという副学長からのものだ。銃で撃たれたという学長自身の証拠はどこにあるのか。ブレークスピアの学長は生きている。立派な紳士だ」
「学長からも供述をとろうとはした」ピムはやや神経質に答えた。「だが、それは常軌を逸したものだったから、老紳士を守るためにも、その証言は使わないことにした。あの方は科学に貢献してきた偉大な方なのだから」
ムーンは身をのりだした。「つまり君たちの判断によれば」彼は言った。「彼の供述は、被告に好意的なものだということか?」
「そう考えることができるだろう」アメリカの医師は答えた。「でも本当に、理解するのは困難だった。だから、その供述書は送り返した」
「ブレークスピアの学長が署名した供述は、もう手元にないと言うのだね」
「ない」
「私が訊ねたのは」マイケルは静かに言った。「私たちが学長からの供述を手に入れているからだ。結論をだすためにも、後輩のイングルウッド氏に頼んで、真相についての供述書を読みあげてもらおう。これは学長自身が署名して、真実であると認めた供述書だ」
アーサー・イングルウッドは、書類を何枚か手にして立ち上がった。彼はいつものことながら幾分上品に、控えめな様子に見えながら、その存在が彼の主任弁護士よりも有能に思える様子に、見ている者たちは驚きを感じた。実際のところ、彼は遠慮がちな男のひとりで、話すように言われるまでは口をひらくこともないのだが、そうしていいと言われると立派に話すことのできる男であった。ムーンは、その逆であった。彼は人知れず自分の図々しさを楽しんでいたが、世間の目のあるところでは微かに当惑もした。自分が話していると、彼は愚かさを感じた。一方、イングルウッドが愚かさを感じるのは、自分が話せないからであった。でも何か言うことがあれば、彼は話すことができた。そこで話せるときには、話すということは極めて自然なことに思えた。ところがマイケル・ムーンにとって、この宇宙の何物も自然には思えなかった。
「私の仲間が先ほど説明したように」イングルウッドは言った。「二つの謎というか、矛盾があるのですが、私達はそれに基づいて弁護をしているのです。まず一番目の謎は明らかな事実です。皆さんの告白によれば、それから起訴側が引用されたすべての証拠によれば、被告人は銃の素晴らしい腕をもっていたことは明らかであります。しかしながら皆さんも、起訴側も、当時の状況について主張されているのは四、五フィート離れたところから彼が撃ち、しかも四、五回撃ったのに、一度も学長にはあたらなかったということなのです。これが事件の驚くべき状況の第一であり、私たちの議論のもとになるものであります。第二番目は、私の仲間が先ほど主張していたように、奇妙なことだが、暴行についていろいろ申し立てがあったのに、その事件を語る犠牲者が誰も見つからないという点である。副学長は学長の立場で発言している。門番も学長のために梯子をのぼっている。だが学長自身は沈黙している。紳士淑女の皆さん、私が説明しようとするのはこの点についてであり、銃声がしたという謎であり、それについて沈黙している者がいるという謎なのです。まず最初に読みあげる説明の手紙に書かれていますが、そこにはケンブリッジの出来事についての、それからその手紙についての真相が説明されています。その両方についての説明を聞けば、皆さんの判断にも迷いはないことでしょう。説明の手紙とは以下にあります。
「拝啓 これから申し上げますのはブレークスピア・カレッジで本当に起きた出来事についてであり、その出来事についての正確、かつ生彩あふれる説明になります。私達は署名をしましたが、別々の手紙で言及するほどの理由をとくに感じておりません。真実を申し上げるなら、これは各種の要素から成り立つ作品なのです。ですから形容詞の使い方にしても、意見の相違はいささかあります。ですが、すべての言葉は真実なのです。
ケンブリッジ ブレークスピア・カレッジ学長
ウィルフレッド・エマーソン・イームズ
イノセント・スミス
「同封の陳述書によれば」イングルウッドはつづけた。「以下のようになります」
「有名な、英国のある大学は、その裏手が川のうえにそそり立ち、その建物をささえ、変化をあたえているものは、言わば、あらゆる種類の橋であり、二軒一棟の建物なのです。川は幾つかの小さな流れや運河に分岐していき、その曲がり角のなかにはヴェニスのように見える場所もあります。とりわけ私たちに関わる事件のありました場所は、そのように見える所なのです。そこでは蝶が舞い、繊細な石作りの橋梁が水路にかけられて、ブレークスピア・カレッジとブレークスピアの学長を結びつけるのです」
「このカレッジのある土地は平坦な筈なのに、こうしてカレッジのあいだにいると平坦には見えない。この平らな沼沢地には、蛇行する湖もあれば、川の流れもある。こうした蛇行する流れは、水平な線のように見えていたものを、垂直な線に変えてしまうのだ。水があるところならどこであろうとも、建物の高さは倍のものになる。そして英国の煉瓦造りの家がバビロンの塔になる。さざめきをたてずにきらめく水面に、家々はその高い煙突も、低い煙突もまざまざとその姿を逆に映し出す。その深い淵に見える珊瑚色の雲は、もともとの世界でも遥か彼方にみえていたように、足元の世界でも奥深いところにある。水面を切り抜く影は窓であり、空の光である。大地は足もとで裂け、そこに急勾配の、空中にそびえる建物の透視図があらわれ、そのなかを鳥がやすやすと飛び交い…」
サイラス・ピム博士は抗議して立ち上がった。彼がこれまで証拠として受け取ってきた文書は、事実を冷静に確認したものに限られていた。一般的に被告には、自分たちのやり方で言い分をのべる明らかな権利があるが、こうした田園風景の描写は、彼にすれば(ピム博士にすれば)、まったく関係のないことのように思えた。「主任弁護士に教えてもらいたいのだが」彼は訊ねた。「この事例にどう影響があるのだろうか、雲が珊瑚色をしていたということにしても、鳥がどこにでも飛んで行くということにしても」
「ああ、よくわからないけど」マイケルは物憂げに立ち上がった。「いいかい、君たちはまだ知らないんだよ、僕たちの抗弁がどんなものだか。それが分からないんだから、どんなことでも関連がある。そうだ、考えてごらん」彼は考えがうかんだかのように、急いで言った。「私たちが証明したいのは、学長が色盲だということだと考えてごらん。撃ってきたのは白い髪をした黒人なのに、学長が考えている犯人とは黄色い髪をした白人だと考えてごらん? あの雲がまぎれもなく珊瑚色をしているかどうか確かめることは、とても大切なことかもしれない」
彼は口をつぐみ、真摯な様子をみせてから―他の人の共感をよぶ態度ではなかったがー、あいかわらずの流暢さでつづけた。「あるいはこう考えてごらん、学長は自殺をはかったのだと我々は主張したいのだと。彼がスミスに銃をもたせたのは、ブルータスの奴隷が剣を持たされたのと同じようなものだと考えてごらん。いいかい、大事なことは、学長が流れのなない水面に自分の姿をはっきりと見ているかどうかなんだ。流れのない水のせいで、何百人と自殺している。なぜなら自分というものが、あまりにもよく見えてしまうから。はっきりと見えてしまうんだ」
「君はたぶん」ピムは辛辣な皮肉をこめて言った。「君の依頼人がなにかの鳥だと主張しているのだろう―たとえばフラミンゴであるとか」
「彼がフラミンゴであるという件については」ムーンはいきなり辛辣な口調で言った。「私の依頼人は、自ら抗弁することだろう」
この発言をどう受け取ればいいのか誰も分からなかったので、ムーン氏は席に戻った。そしてイングルウッドがふたたび文書を読みあげ始めた。
「こうした反射からなる国というものには、神秘主義者にすれば、なんらかの喜ばしいことがある。神秘主義者とは、世界が一つしかないより、二つあるほうがよいと考えている者なのだから。より高度な概念にしたがえば、たしかに、すべての考えとは何かを反射している。
「再考が最上の策と言うなら、たしかに真実である。動物には、二度めの考えというものがない。人間だけが自分の考えを二重にして見ることができる。酔っぱらいの目に街灯が見えるように。人間だけが自分の考えをひっくり返して見ることができる。水面にうつる家を見るときのように。物の考え方における二重構造とは、鏡にうつすときのようなもの。くりかえすけど、人間の哲学の一番深い部分なのだ。神秘主義につつまれた、奇怪な真実ではないだろうか。双頭のほうが、ただひとつの頭よりいいという考えは。だが、その頭はともに同じ胴体からでているべきなのだ」
「分かっているよ。そういう考え方にも、はじめは少し優れたところがあるのは」イングルウッドは口をはさみ、弁明するかのような表情を露骨にうかべた。「だが、君も分かるだろうが、この文書を書くのに協力しているのは教員と…」
「ほう、飲んだくれと言いたいのか?」モーゼスはあてこすっては楽しんだ。
「ぼくもそう考えているよ」イングルウッドは平静に話し続けたが、その口調は容赦なかった。「この部分を書いたのは教員だろうと。ただ法廷に警告しておきたいのは、この文書について言えば、疑う余地のないほど、二人の人間が書いた跡があちらこちらに残っている」
「この場合は」ピム博士は後ろにもたれかかって馬鹿にした。
「双頭のほうが、ひとりの人間よりもいいということには賛成しかねる」
「署名したひとたちは、大学改革でしばしば論議される類似の問題について触れる必要はないと考えている。すなわち教員の目に二重に見えるのは、彼らが酔っぱらっているからだ。あるいは酔っぱらっているのは二重に見えているからだ。署名したひとたちにすれば、奇妙で、有益なテーマを追いかけることができれば十分だというものだろう。そのテーマとは水たまりのことである。水たまりとは何か、と署名したひとたち自身が問いかけている。水たまりは無限を繰り返し、明かりに充ちている。それでも客観的に分析すれば、水たまりとは、泥の上にうすくひろがった汚い水のことである。英国における歴史ある二つの素晴らしい大学には、こうした広々とした、平らな、輝きを反射するすべてがある。それにもかかわらず、いやむしろ、一方ではそうした大学とは水たまりなのである。水たまり、水たまり、水たまり、水たまりなのである。署名したひとたちが皆さんに乞うてきたものとは強調することで、それは確信する気持ちからは切り離すことができないものなのです」
イングルウッドは幾分荒々しい表情をうかべている参加者たちを無視すると、底抜けに明るい調子で言葉をつづけた。
「そうした考えはうかばなかったのだよ、大学生のスミスの頭には。そのとき彼が歩いていたのは運河と溝のあいだの道で、溝は雨に濡れて光っていたし、水はブレークスピア・カレッジから流れてきていたのに。もしこうした考えが頭にうかんだなら、スミスも今より幸せだったろうに。不幸にも彼は知らなかったけれど、彼の心のさざ波とは水たまりだったんだ。彼は知らなかったけれど、学究的な心が無限をあらわしているし、明かりにみちているのは浅いものだし、流れることなく其処にあるという簡潔さのせいなんだ。そのせいなんだよ。彼の場合、どこか厳粛なところがあるのは。それに仄めかされている無限性ときたら禍々しいくらいだ。あれは夜中も過ぎた頃のことだった。星の多い夜だったよ。戸惑うくらいに星は輝いていた。頭上にも、足元にも、星があった。若いスミスのひねくれた幻想のなかでは、足元の空は頭上の空よりも虚ろなものに思えたんだ。彼は嫌なことを思いついた。もし星を数えるのであれば、水たまりをのぞけば、たくさん発見するだろうと。
「小道をたどって橋をわたるうちに、彼の心もちはさながら、巨大なエッフェル塔の、黒く、ほっそりとした鉄骨を踏むように思われてきた。彼にすれば、それからその時代の、教育をうけた殆どの若者にすれば、星々とは残酷なものだからだ。毎晩、巨大な丸天井に輝きはするけれど、きわめて邪悪な密事であった。星々がさらけだすのは、むき出しにされた自然である。また舞台裏の、鉄の車輪と滑車の片鱗である。あの悲しい時代の若者は考えでは、神がくるのは常に機械からであるからだ。でも若者は知らないのだが、実際には、機械がくるのは神からだけである。簡潔にいえば、若者は悲観主義者なのだ。それなのに星の光は、彼らにとって禍々しいものだ。そう、禍々しい。なぜなら星の光とは真実だからだ。彼らの宇宙とはすべて、白い点々がついた黒いものなのだ。
「スミスは安堵すると、輝く水たまりから輝く空へと視線を転じ、広々とした建物が黒く見えているカレッジを見つめた。星以外に見えている唯一の明かりと言えば、建物の上階の方から、緑色のカーテンごしにもれてくる光であったが、その部屋の主はエマーソン・イームズ博士で、博士はそこで明け方まで研究したり、友人やお気に入りの生徒たちであれば、夜のいかなる時であろうと訪問を受けていた。実際、ふさぎこんだスミスが向かおうとしていたのは、まさに博士の部屋であった。スミスは、午前中の前半、イームス博士の講義をうけ、後半ではサロンでピストルの練習やフェンシングをした。午後の前半、死にもの狂いで舟をこぎ、後半になれば、ぼんやりと、いやむしろ、死にもの狂いに思索にふけった。夕食をとりに行くと、そこでの彼は騒々しかった。討論クラブにも参加したが、スミスは憂鬱そうにじっとしていた。それから彼は下宿にもどり、友人たちの、それから師であるブレークスピア・カレッジの学長の奇行の数々を思い出し、ついには向こう見ずにも、その紳士の個宅にはいる決心をした。
「エマーソン・イームズは様々な点で常軌を逸している。だが哲学と形而上学における彼の王座は、国際的にみても高いところにある。大学としては、彼のような人物を失うわけにはいかない。さらに教員が彼の悪い習慣をずいぶん長く続けてしまったものだから、その習慣はイギリス憲法の一部分となってしまった。エマーソン・イームズの悪い習慣とは一晩中起きていて、ショーペンハウアーを学ぶ学生だということである。私のみたところ、彼はやせて、のらりくらりとした類の人物で、そのブロンドの頭は空っぽ、歳だけで言えば生徒のスミスと比べてもそれほど歳上ではない。でもヨーロッパで名声高いという点、はげ頭であるという点、この二つの面においては幾世紀も歳上である。
「来たよ。規則には反しているし、途方もない時間だけれど」スミスは言った。目にうつるその姿は、自分を小さく見せようとしている大男でしかなかった。「それというのも、存在が腐りかけているという結論に達しそうだからなんだ。別のやり方で考える思想家、司教や不可知論者、そうした類の人達が論じる論争はすべて知っている。それに君が厭世主義の思想家については、偉大な、生きた権威だということも知っているけれど」
「思想家はすべて」イームズは言った。「厭世的に思索するものだ」
「しばらく話は途切れたが、それは初めてのことではなかった。この気の滅入るような会話は何時間も続き、皮肉をあびせたり、沈黙したりということが繰り返されていたからだ。イームズは話し続けたけれど、その明敏な才気も疲弊しているようにみえた。『正しくない推測について疑念をはさみたいということを望むだけである。蛾は蝋燭に飛び込んでしまう。なぜなら、蛾は蝋燭にそうして戯れることが、生死をかけるほどのものでないと知らないからだ。スズメバチがジャムに飛び込んでしまうのは、ジャムを取り込もうと望んだ挙句の、嬉々としたふるまいだからだ。同じようにして教養のない人々は人生を楽しむが、それはジンを楽しみたいからだ。あまりにも愚かしい人々だから、ジンに高い代価を払っていることがわからない。人々は幸せを見つけられないし、幸せの探し方もわからないでいる。人々のとる行動すべてが、目もくらむほど醜悪であることから、それは証明される。人々の調和のとれていない姿は、苦痛の叫びである。大学をこえ、川沿いにあるレンガの家々を見てごらん。シミのついたブラインドがかかっている家がある。見てごらん。さあ、見てごきてらん』
「もちろん」彼は夢見るように続けた。「中にはひとり、ふたり、離れたところから、ありのままの事実をみる者がいるが、そうすると気が狂ってしまう。君は気がついているだろうか? 狂人とは大体のところ、物を壊そうとするか、あるいは考え深い者たちなら、自分を壊そうとする者たちだということに。狂人とは黒幕なんだよ。劇場の舞台袖をさすらう者のように。間違った扉をあけてしまったけれど、正しい場所に出ただけなのだ。物事を正しい角度から見ている。世間一般は―」
「世間一般なんか知るものか」不機嫌なスミスは言うと、片方の拳をテーブルにおとして、漠とした絶望にかられた様子をみせた。「最初にそれにひどい名前をつけるとしよう」教授は冷静に言った。「無視するのはそれからだ。狂犬病にかかった子犬は、殺されるあいだも、生きるために闘っているのだろう。だが心優しい人間であれば、殺すべきなのだ。同じように全知全能の神も、苦痛から、私達を引きぬいてくれるだろう。私達は死と直面させられるのだ」
「なぜ神は、僕たちを殴り殺してしまわないのだろうか」その大学生はぼんやりと、両手をポケットにつっこんだまま訊ねた。
「神ご自身は死んでいる」その哲学者は言った。「そういうところが、本当に羨ましがられる点である」
「考える者にすれば」イームズは続けた。「人生の喜びとは些細なものであり、すぐに無味乾燥なものになる。それはまた拷問部屋への賄賂でもある。皆が知っていることであるが、考える者にすれば、死滅とは単に…何をしているんだ? 気でも狂ったのか?…それを下におろすんだ」
「イームズ博士が、疲れているけれど、まだ話をしたそうな顔で背後をふりかえると、そこに見いだしたのは小さくて、丸い、黒い穴がひとつ、その穴は鋼鉄でできた六角の小円で縁どられ、その上部には太釘のようなものが突き出ていた。それは鋼の目のように彼を見据えた。こうして永遠に思われる時がながれ、そのあいだに彼の理性は吹っ飛んでしまったが、それでも彼にはそれが何であるのか分かっていなかった。それから、そのむこうに彼が見たものとは装填された銃であり、今にも火をふこうとしているレボルバーであった。さらにそのむこうには、紅潮させながらも、幾分真面目なスミスの顔があり、その表情はあきらかに変わることなく、かつてよりも穏やかでさえあった。
「苦境から助けてあげますよ、教授」スミスは優しいけど、荒々しい口調で言った。「子犬から苦しみを取り除いてあげよう」
エマーソン・イームズは窓の方へと退いた。「つまり、君が言いたいのは、私を殺すつもりだということか?」彼は叫んだ。
「そんなふうにしてあげるのも、すべてのひとにというわけではないのですよ」スミスは感情をこめて言った。「でも、どういうわけだか、今夜、教授と僕はとても親しくなったようだから。今、僕にはわかるんですよ。教授の困りごとすべてが。それから唯一の解決方法も」
「それをおろしなさい」学長はさけんだ。
「すぐに終わりますから」スミスは、同情をしている歯科医という雰囲気で言った。学長がバルコニーのある窓へと駆けていったとき、彼に恩恵を施そうとする者も、しっかりとした足どりであとに続き、思いやりのある表情をうかべた。
おそらく、どちらの男も気がついた瞬間、はっとしたことだろうが、夜明けがせまり、空は灰色の明るい空となり、白々とした色になっていた。それでも片方の男は、驚きの念を隠そうと目論んだ。ブレークスピア・カレッジはゴシックの装飾様式の跡をたしかに受けついでいる数少ない建物なので、イームズ博士のバルコニーの真下からも、おそらくは飛梁だったらしいものが飛び出していたけれど、それは灰色をした獣と悪魔の、醜悪なものとして、まだ形をとどめてはいたが、苔に覆われ、雨のせいで摩耗していた。無様だけれど勇ましい飛躍をして、イームズはこの古代様式の橋のうえに飛びおりたが、それが狂人から逃れる唯一の脱出手段なのであった。彼は橋にまたがって腰をおろしたが、まだ学衣を着たまま、その長くも、痩せた足を宙に放りだして、また飛びだす機会を窺った。白々と明るんだ日の光がさしこみ、その頭上にも、足元にも同様に、姿をあらわしはじめた形とは、垂直に、無限に屹立する影であり、ブレークスピアのまわりにある小さな池についてのところでも語った影である。下をむいて、水面に影をおとす尖頭や煙突を眺めているうちに、ふたりはこの空間に自分たちしかいないのだと感じた。その時の心持ちとは、北極から地の果てをながめ、眼下に南極をながめているような気持ちであった。
「世界を掛けてしまえ、と我々は言った」スミスは口をひらいた。「そして今、我々は世界を掛けている。『主は、地を無のうえに掛けておられる』と聖書の言葉にはある。教授は無のうえに掛けられることがお好みですか?私は、何かに自分を掛けるつもりです。教授のために体をぶらぶらさせるつもりです。懐かしくもあり、甘美でもある昔からのこの言葉は」彼はつぶやいた。「この瞬間まで、真実の言葉ではなかった。教授のために体をぶらぶらさせよう。親愛なる教授のためにだよ。教授のためなんだ。教授がはっきり望んでいるからなんだよ」
「助けてくれ」ブレークスピア・カレッジの学長は叫んだ。「助けてくれ」
「若造がじたばたしている」その学部生は、目に哀れみの色をうかべて言った。「あわれな若造がじたばたしている。彼よりも自分の方が賢く、親切であるのは、なんと幸運なことか」彼は自分の武器の照準を正確に定め、イームズの禿げ頭の上のほうに突きつけた。
「スミス」哲学者が呼びかけるその声は、怖ろしいほど平静だった。「私の気が狂ってしまうではないか」
「そうして、物事を正しい角度から眺めなさい」スミスは言うと、穏やかにため息をついた。「ああ、でも狂気は緩和剤にすぎない。唯一の治療とは手術なのだ。いつも成功する手術があるが、それは死である」
「彼が話していると太陽が昇ってきた。万物に色彩を与えていく様子は、さながら稲妻の芸術家のようで、瞬時の芸術であった。空を横切っていく浮雲は、鳩のような灰色から桜色へと移り変わっていった。小さな大学街のいたるところで、それぞれの建物の頂きが、それぞれの色に染められていった。此方では、太陽に照らされて、頂きは緑のエメラルド色になろう。彼方では、田舎のお屋敷の瓦が鮮やかな緋の色になろう。此方では、趣のある店の飾りが赤褐色にそめられることだろう。彼方では、海の青さのスレートが、古く、傾斜が急な、教会の屋根に輝くことだろう。こうして朝の色に染められた頂きのすべてが、不思議と別々のものであるかのように思え、そのまわりには何か暗示するような雰囲気が漂い、それはあたかも高名な騎士のクレストが野外劇や戦場で示されるかのようであった。それぞれの頂きに目を奪われたが、なかでもエマーソン・イームズのぐるぐる回る目には顕著なものがあり、彼は眼下の風景をみわたしては、今生の最後の眺めとして心に刻みつけた。狭い隙間が黒々としたティンバーと灰色の、大きなカレッジのあいだにはできていて、そのむこうに時計がみえたが、金メッキをほどこした針は太陽の陽に燃えていた。彼が眺める有様は、催眠状態にかかっているかのようであった。だが突然、時計が時を告げ始め、まるで彼に答えているかのようであった。それを合図にしたかのように、時計が次から次へと鳴り始めた。すべての教会が、明け方の鶏のように目覚めた。鳥たちもすでに、大学の裏手の木立で賑やかに囀りはじめていた。太陽が昇るにつれて、輝かしい光を一面に放ちはじめたものだから、どこまでも深い空ではあったけれど、その光はあふれだした。浅き水路が彼らの下を流れ、その水面は黄金色に輝き、満々と水をたたえて、神の飢えを癒すに満ちたりる深さであった。ちょうどカレッジのはずれの、彼の狂気の止り木からも見えるあたり、明るい風景のなかに、ひときわ明るい小さな点がみえていたが、それは汚れたブラインドがかけられている屋敷で、彼が何時かの晩に文書に記した場所であった。その屋敷のなかには、どんな人が住んでいるのだろうかと彼は初めて考えた。
いきなり彼が声をあげる様子ときたら、いばりくさった権威者でしかなく、まるで学生にむかってドアを閉めるようにと言っているような感じであった。
「この場所から離れたいんだ」彼は怒鳴った。「ここには我慢できない」
「その場所の方が、先生に我慢できるかどうか」スミスはじろじろ見つめながら言った。「でも先生が首の骨を折る前に、あるいは僕が先生の脳みそを吹き飛ばす前に、それとも先生を部屋に戻す前に、(複雑な問題ですから、どうするかまだ決めていませんが)、形而上学的な点をはっきりさせておきたいと思います。先生は、この世界に戻りたいということでいいんですか?」
「戻れるなら、何でもくれてやるぞ」不幸な教授は答えた。
「何でもくれる…のですか」スミスは言った。「それなら、その生意気なところは捨ててもらおう。歌をうたうんだ」
「何の歌をうたえというつもりか?」苛立ったイームズは訊ねた。「何の歌だ?」
「讃美歌が一番いいと思うが」相手は重々しく答えた。
「あとに続いて次の言葉を繰り返したなら、そこから解放することにしよう。
我が感謝する善良さも、優美さも、
生まれし時より微笑みしものなり。
我を奇妙な場所に腰かけさせ者は
幸せなる英国の子供なり」
エマーソン・イームズ博士がぶっきらぼうに応じると、迫害者はいきなり両手をあげるように命令した。ぼんやりとではあるが、こうしたやり方を、山賊のふだんの振る舞いと結びつけたので、イームズ博士は両手をあげ、堅苦しい様子であったけれど、ひどく驚いたようではなかった。彼がかけている石の席に一羽の鳥がとまったが、彼には何の関心もはらわず、こっけいな像のような扱いであった。
「先生は、今、礼拝式にいるのです」スミスは厳かにのべた。「ぼくから見放される前に、池のアヒルについて神に感謝したほうがいいですよ」
この有名な悲観論者は、いくぶんはっきりとした口調で、池のアヒルについて神に感謝したいという気持ちをあらわした。
「カモのことも忘れないように」スミスはきびしく言った。(イームズは弱々しくカモについて認めた。
「何も忘れることのないように。天に感謝するように、教会のことも、大聖堂のことも、邸宅のことも、教養のない人々のことも、水たまりのことも、鍋のことも、フライパンのことも、杖のことも、絨毯のことも、骨のことも、しみのついたブラインドのことも」
「わかった、わかったよ」その犠牲者は絶望にかられながら繰り返した。「杖のことも、絨毯のことも、ブラインドのことも」
「しみのついたブラインドと言ったと思うが」スミスは詐欺師のごとき無慈悲さで言うと、銃身をふりかざし、まるで長い、鉄の指をのばすように動かした。
「しみのついたブラインド」エマーソン・イームズは弱々しく言った。
「それ以上、はっきりと言えないのか」若者は言った。「それなら、こう言って終わりにしよう。先生が公言していたとおりの人なら、カタツムリも、天使セラピムも心配はしないと思う。たとえ先生が信仰に欠けた、その固い首の骨を折ったとしても。それから戯言を口にする悪魔崇拝の頭を打ち砕いたとしても。だけど先生の厳めしい伝記に書かれた事実によれば、先生は素敵なひとだ。腐ったような冗談を話すのに夢中になっているんだから。兄さんみたいに好きだよ。だから狙うのは先生の頭のまわりにして、先生を撃たないようにする。僕の射撃の腕前が優れていると聞いたら、先生も安心だろう。さあ、中に入って朝食にしよう」
それから彼は宙にむかって弾を二発撃ったが、教授はしっかりと耐えてみせた。そして言った。「全部、撃たない方がいいぞ」
「どうして?」相手は陽気に訊ねた。
「弾はとっておくんだ」彼の相手は言った。「こんなふうにして話すことになる次の相手のために」
そのとき、下をむいたスミスが見たものとは、副学長の顔にはりついた激しい恐怖であり、彼が耳にした優雅な叫び声とは、門番に梯子をとってくるように命じる副学長の声であった。
イームズ博士が梯子から解放されるまでには少し時間がかかり、副学長から解放されるのにも、さらにもう少し時間がかかった。だが解放された途端、先ほどの並々ならぬ場面にいた相棒と再会した。驚いたことに、巨人のようなスミスが激しく身を震わせ、もじゃもじゃの頭を両手で抱えて腰をおろしていた。話しかけられると、彼は青ざめた顔をあげた。
「どうしたんだ?」イームズは訊ねたが、興奮もその時にはおさまって静かに囀るさまは、まるで朝の鳥のようであった。
「先生に温情を求めねばなりません」スミスは途切れ途切れに言った。
「死から脱出したばかりだということを理解していただかなければなりません」
「死から脱出したばかりだと」教授は言ったが、その苛立ちは分からないでもなかった。「なんて厚かましいんだ」
「ああ、わからないのですか。わかっていただけないのですか?」青ざめた顔の青年は苛々として叫んだ。「そうしなければならなかったのだ、イームズ。先生が間違っていると証明しなくては。そうしなければ私は死んでいたでしょう。若い頃には、心のさざ波をかきたてる人がいるものです。すべてを知っている人がいるものです。もし知っている者がいいたとすればですが。
ええ、先生は僕にとってそういう存在でした。先生は権威をもって話しますが、書記屋なんかではありません。もし先生が『慰め』がないと言われたら、誰も僕の心を慰めることはできません。もし先生がどこにも何もないと考えるなら、先生はそこに行かれて見たことがあるからでしょう。先生は本当のところ、そうするつもりはなかった。そう僕が証明しなくてはいけない。それがわかりませんか?そうしないなら、運河に落ちてしまうことでしょう」
「そうだね」イームズはためらいながら言った。「君は混乱しているようだが―」
「ああ、そんなことを言わないでください!」スミスは洞察力をはたらかせて言ったが、それは心の痛みをともなうものであった。「そんなことを言わないでください。僕が混同していて、生の喜びと生きる意志を取り違えているなんて。それではドイツ語じゃないですか。しかもドイツ語のなかでも、それでは高地オランダ語ですよ。高地オランダ語ではさっぱり分からないじゃないですか。先生が橋にぶらさがっていたとき、先生の目には輝く光がありましたが、それは生命の喜びであり、「生きようとする意志」ではありませんでした。先生があの忌まわしいガーゴイルにまたがって知ったのは、あらゆることが言われたり、なされたりしたときには、世界は素晴らしくも、美しい場所だということなのです。僕にはわかります。あの瞬間にわかったのです。灰色の雲が桜色にそまるときに。家々のあいだの隙間にある金メッキをほどこされた時計を見たときに。こうしたことからなんですよ。先生が離れるのを嫌がったのは。人生から離れるのを嫌がったのではないのです。それが何であれ、イームズ、僕たちは死の淵まで共に行ったのです。正しいことを認めますか?」
「ああ」イームズはしぶしぶ認めた。「君は正しいよ。最優等学位ものだ」
「そのとおり」スミスは言うと、元気づけられたかのように立ち上がった。「私は名誉ある時を過ごしてきた。だが、もう此処を離れたい。なんとか伝えたいから」
「君は伝える必要なんかない」イームズは静かな自信をこめて言ったが、それは陰謀をめぐらした十二年間からくるものだった。「我々に関する諸々のことは、頂点にいる男から、その男のまわりの人々へと伝えられるものである。私が頂点にいる男だ。だから、まわりの人達に真実を告げる」
がっしりとしたスミスは立ちあがり、しっかりとした足どりで窓辺にむかった。そして其の口調も劣らずしっかりとしていた。「僕が伝えなくてはいけない」彼は言った。「それに人々に真実を教える必要はない」
「なぜ」と相手は訊いた。
「先生の助言にしたがいましょう」がっしりとした体格の青年は言った。「残りの弾はとっておくとしよう。恥ずべき状態にある連中のために。ちょうど昨夜の先生と僕のように。酔っぱらっていたからと言いいたいくらいですよ。この弾は、悲観論者のためにとっておきましょう。蒼白い顔をした連中の薬として。こんなふうにして世界を歩いていきたいんだ、すばらしい驚きのような存在として。ふわりふわりと漂っていたい。まるで薊の冠毛のように。そっと近づいてみたい。まるで朝日が昇るように。雷ぐらいに嫌がられる存在でもいい。そよ風がないでいくように、記憶に残らない存在でもいい。みんなから楽しみにされたくないんだよ。よく知られている冗談男としては。それから現実にある冗談をいう男として。僕の才能を汚れのないものにしたいし、同時に暴力的なものにもしたい。死でもありたいし、死後の生でもありたい。ピストルをつきつけるつもりだよ、現代人の頭にむけて。でも殺すのに使いはしない。ただ現代人に生命を蘇らせたいんだ。新たな意味を見つけたんだよ、宴の場に骨と皮の人間がいることに」
「君は、骨と皮だけという状態だとはあまり思えないのだが」イームズ博士は微笑みをうかべながら言った。
「このありさまは、たぶんに祝宴のせいだ」がっしりとした若者は答えた。「骸骨だってスタイルを保てないじゃないか、いつも食べていたなら。でも僕が言いたいのは、そういうことじゃないんだ。僕が言いたいのは、一瞬、死の意味を見たということなんだ。そう、頭蓋骨と大腿骨からなる骸骨を見たんだ。その骸骨のおかげで、これからの人生を考えただけじゃない。今の生活のことも考えてみたよ。僕たちの精神は弱いものだから、来世では歳をとってしまうだろよ、だから死があって、死のおかげで僕たちは若いままでいるんだ。神は、不死を僕たちそれぞれに切り分けてくださるというわけだ。乳母が指の長さではかって、バターを塗ったパンを切り分けてくれるように」
それから彼は言いたしたが、その声は不自然なほど現実的であった。「今、僕には知っていることがあるんだ、イームズ。それを知ったのは、雲が桜色にそまっていくのを見たときだけど」
「何を言いたいのか?」イームズは訊ねた。「何を知ったというのだ?」
「殺人は悪いことだと初めて知ったんだ」
彼はイームズ博士の手を握ると、おぼつかない足どりで扉の方に手さぐりで進んでいった。扉のむこうに姿を消すまえに、彼は言いそえた。「とても危険なことだね。ほんの一瞬たりとも、死を理解しているように考えるなんて」
イームズ博士は、この攻撃者が立ち去ったあとも、数時間にわたって休みながら思索にふけった。そして立ち上がると、自分の帽子と傘をとり、散歩にしてはきびきびとした足どりで出かけた。しかしながら幾度も汚れのついたブラインドがかかる屋敷のまえで立ちどまると、首をかすかにかしげながら熱心に観察した。その様子は狂気にかられたひとのようでもあり、これから屋敷を買おうとしているひとのようでもあった。彼にはどうも確信がもてないでいたが、このふたつの立場はまったく異なるものなのだろう。
上記の話を構成しているものは、下記に署名した人物の意見であり、手紙の書き方としては新しいものである。二人についてはそれぞれ語られているが、それは相手の目にうつる己の姿なのである。下記に署名する者は、この物語が正確であることを保証するものである。もし疑問がある場合、下記に署名する者は、自分たちが知らない事柄について知りたいと思う次第である。
下記に署名する者は、「スポッティッド・ドッグ」へと席をうつしてビールをのむことにする。敬具
ケンブリッジ・ブレークスピア・カレッジの学長 ジェームズ・エマーソン・イームズ
イノセント・スミス
二章
二人の副牧師たち、あるいは侵入盗犯
アーサー・イングルウッドは、読んだばかりの文書を起訴側の主任弁護人たちに渡した。渡された起訴側の弁護人たちは頭をつき合わせるようにして文書を調べた。ユダヤ人も、アメリカ人も感じやすく、激高しやすい血筋なので、跳びはねたり、黒髪の頭や黄色の頭をぶつけるうちに、その文書を否定しているようでは何も生まれないということを露呈した。学長からの手紙は、副学長からの手紙と同様に正式なものであったが、残念なことに威厳においても、上流の人物らしさにおいても異なっていた。
「それほど多くの言葉は求められてないんだ」イングルウッドは言った。「この事件の結論をだすにあたって。たしかに依頼人はピストルを持ち歩いた。それは普通ではないけれど、自分を冒涜する相手に対して、健全なる脅かしをかけたいからであって、そういう無邪気な目的からでた行為だ。どの事件も、脅かしが健全なものだったから、犠牲者は更生したと記したんだよ。スミスは狂気の人にはほど遠く、むしろ狂気の博士といったところだ。世界を歩きまわって精神を錯乱した者たちを治療するけど、そういう人たちの邪魔はしない。これが答えだよ。検察側に投げかけた二つの質問に対する答えだ。答えにくい質問だったけど。こういうわけでピストルをつきつけられても、誰も何も言おうとしなかったんだ。ピストルをつきつけられた者は皆、実際のところ、ピストルのせいで利益を得たと告白しているんだ。こういうわけでスミスは優秀な狙撃手であったけれど、その玉は誰にもあたりはしなかった。彼が誰にも玉をあてなかったのは、優秀な狙撃手だったからだ。彼の心には殺人の考えはなかった。彼の手に血がついていなかったように。これこそが、こうした事実を、そして他のすべての事実すべてを説明することだ。誰も学長のふるまいを説明できないし、学長の話を信じるしかない。独創的な理論の製造場所であるピム博士にしても、この場合にあてはまる他の理論を思いつかなかったのだ。」
「催眠状態にかかった二重人格だというなら、可能性のある考え方だ」サイラス・ピム博士は夢みるように言った。「犯罪学はまだ揺籃期にあって、そしてー」
「揺籃期だと!」ムーンは大声をあげると、赤い鉛筆を宙にかざしては、わかったという仕草をした。「おや、それで説明がつく」
「くりかえすけど」イングルウッドはつづけた。「ピム博士であろうと、だれであろうと、他のどんな理論をもとにして説明はできない。ただ学長の署名があることについて僕たちが説明していることだけが説明になる。銃弾ははずれたし、証人もいないからだ」
小男のアメリカ人はよろめきながらも、闘鶏の冷静さをとりもどした。
「弁護側は」彼は言った。「とても大きなことを言い洩らしている。僕達のせいで、実際には犠牲者はだれひとりとして生み出されていないというけれど。ウォルという犠牲者がここにひとりいる。有名な、打ちひしがれたウォルだ。彼は上手に話していると思う。すべての怒りのあとには和解があると言うようなものじゃないか。ウォル、イングランドのウォーナーには非の打ち所がない。だが実は、彼はあまり仲直りしていないんだ」
「学識のある我が友よ」ムーンは言いながら、苦労して立ち上がった。「思い出さなくてはいけない。ウォーナー博士を撃つ術は揺籃期にあるんだ。ウォーナー博士は、鈍い者の目には、神の栄光を認めることが難しく見えることだろう。我々の認めるところだが、この事例では、依頼人は失敗してしまっている。こう働きかけてもうまくいかなかった。だが私には権利があたえられているから、顧客の代表として、ウォーナー博士に働きかけよう。できるだけ早い時期に。ふたたびウォーナー博士に働きかけることも可能だ。でも料金をさらにもらうつもりはない」
「マイケルのくそ野郎!」グールドは大声をはりあげ、人生ではじめて真剣になった。「いまいましい思いをさせて気分転換させる気かい?」
「ウォーナー博士が、最初の銃撃をうける前に話していたことは何なのですか? 」ムーンがするどく訊ねた。
「あいつときたら」ウォーナー博士は横柄に言った。「訊ねてきたんだよ。あいつらしい合理的な訊き方で、私の誕生日かどうかと。」
「それで君は答えたわけだ、君らしい見えをはって」ムーンも大声をあげ、長く、すらりとした指をつきだしたが、その指はスミスのピストルと同じくらいに緻密で、印象に残るものだった。「誕生日なんか祝わないと」
「そういうところですよ」博士は同意した。
「それなら」ムーンは続けた。「なぜそうしないのかと彼に訊かれたとき、誕生日とは喜ぶものではないからと答えたと思いますが。同意されますよね? 今、私たちの話の真実味に疑いをはさむ者がいるだろうか?」
室内には、沈黙がつめたく砕けちった。そしてムーンは言った。「パックス・ポプレ・ウォークス・ダエ。人々の沈黙は神の声なり。あるいはピム博士のもっと礼儀正しい言葉では、次の告訴にすすむかどうかは彼次第である。この点について、私たちは無罪を請求する。」
一時間ほどすると、サイラス・ピム博士は例のないほど長い時間、目をつぶって、親指も、指も宙につきだしていた。彼は、乳母がよく使う言い方によれば、とても「深く感じいっている」ように思えた。死んだような沈黙のなか、マイケル・ムーンはなにか指摘することで緊張をほぐそうとした。
三十分ほどしてから、この傑出した犯罪学者が説明した話によれば、財産にからんだ犯罪に対する考え方も、命にからんだ犯罪に対する考え方も、科学的見地にたてば同じ見方ができるということであった。「たいがいの殺人者は」彼は言った。「殺人狂からの変異なんだよ。同じように泥棒というものも、窃盗狂からの変異なんだ。いかなる疑いであろうと、私は楽しむ気持ちにはなれない。向かいに座っている学識ある我が友人たちが、こう考えているのですから。つまり、こうした変異のせいで、罰するという企ては、古代の残酷な法典より、さらに寛大で、人間らしいものになるにちがいないと。また友人たちは見せてくれることでしょう、意識の大きな裂け目を。それはたいそう大きく裂けていて、注意をひきつけるものですからー」そこで彼は一息つくと、繊細な身ぶりで仄めかしをしてみせた。もうマイケルは我慢ができなかった。
「そんなふうに持ち直している」サイラス・ピムは続けた。「そんなふうに、未来への高らかな希望でいっぱいだ。つまり科学的に考えればということだが。泥棒とは、理論的にいえば、殺人と同じようなものだ。科学が考える泥棒とは、期間も思いのままに、罰する罪人ではないんだ。そのかわり監禁して療養させないといけない患者だと考えているんだ。(彼は先ほどかかげた二本の指をつけてから、彼はためらった)。すなわち必要な期間だけ面倒をみればいいと。だが、ここで調べている事件には何か特別な事情がある。窃盗脅迫症がふつう結びつくものはー。
「すまないが」マイケルは言った。「私が先ほど頼まなかった理由は、本当のところを言えば、ピム博士はまっすぐ立っているように思えるけれど、実は自分の力で獲得した眠りを楽しまれているからだ。博士の指も匂いのしない、かすかな埃でおおわれはじめているほどだ。だが今、事態は少しずつ前進しつつある。私が知りたいと思うこともある。もちろん、ピム博士の言葉は聞き漏らしてはいない。でも、あまり関心はないから、うっとりすることはなく、今の状況では、被告が何をしてきたのか推測することもできない」
「もしムーン氏が忍耐を持ち合わせているなら」ピムは威厳をこめて言った。「気がつかれるでしょう。これこそ、まさに私が説明をしていることなんですよ。いいですか、窃盗狂というものはですね、それ自体が示しているんですよ。身体があるものに惹きつけられているということを。ずっと信じられていたんです。ほかならぬハリスによってですけどね。窃盗狂とは、究極の説明の言葉ですよ。ほとんどの犯罪者には特定の専門分野がある。それから狭い、専門的な視点もある。真珠のカフスボタンに身体的衝動を覚えないではいられない者もいるけど、そうした人間はとても優雅であり、有名なダイヤモンドのカフスボタンを素通りしてしまうんだ。どんなによく見える場所に置いてあってもね。また或る者は、四十二個のボタンがついたブーツで自ら逃亡の道を妨げるけど、しなやかなブーツをはいても足は冷えるし、嫌味な気分になるからだ。繰り返しになるけど、犯罪の専門家には、商習慣に明るい人間というよりは、狂気じみたところがあるんだ。でも、この原則は始め当てはめることが難しい強奪者がここにいる。私達と国を同じくする市民について家宅侵入罪を言及しなければならない。」
「勇敢にも真実を求める若い方々が主張されてきたことですが、執事の寝台下の、鍵をかけた箱のなかに隠したフォークなら、裏庭のむこうから覗いている泥棒の目にとまることもあまりないでしょうし、影響をあたえることもないでしょう。このお若い方々は、この点についてアメリカの科学に挑戦してきました。また、こうも宣言しています。下層階級の人々が住んでいる地域では、人目につく場所にダイヤモンドのカフスを置き去りにはできないと。カリュプソ大学でおける素晴らしい実験でもわかるように。この実験が、若い挑戦者たちへの答えとなるようにと願いますよ。それから泥棒を、お仲間の犯罪者たちと結びつけますようにとも」
ムーンは、五分間、顔当惑した陰鬱な表情をうかべていたが、突然ひらめくと、片方の手をあげて食卓をたたいた。
「ああ、わかったぞ」彼はさけび声をあげた。「スミスが泥棒だと言いたいんだね」
「そのことについては十分わかりやすく説明したと思うが」ピム氏は言うと、目をつむった。この滅茶苦茶な裁判は典型的な私設裁判で、エキストラはすべて雄弁、どちらの側も美辞麗句をならべ、脱線をするばかりで苛立ちをつのらせ、たがいに理解できないでいた。ムーンには、なぜ新しい文明が重々しいのかが理解できなかった。ピムには、古い文明がなぜ陽気なのかが理解できなかった。
「スミスが略奪者として現れる事件はすべて」アメリカ人の博士は続けた。「押込み強盗の事件です。前の事件と同じような事件の過程を追いかけながら、その他の事件から、私たちは明らかな例を選びます。そうすれば一番ただしくて、疑う余地のない証拠を手に入れることでしょう。これから私の同僚のグールド氏に頼むつもりですが、真面目で、潔白な、ダーラムの聖堂参事会員、ホーキンス聖堂参事会員から受けとった一通の手紙を読んでもらいましょう」
モーゼス・グールド氏はいつもの俊敏さで跳びはね、真面目で、汚点のないホーキンスからの手紙を読もうとした。モーゼス・グールドは田舎の庭にいる雰囲気を上手に真似た。サー・ヘンリー・アーヴィングには遠くおよばないが、マリー・ロイドにはかなり近づいている。新しい自動車の警笛を真似る様子は、芸術家たちの殿堂いりをするほどだ。
だがダーラムの聖堂参事会員の物真似は、それほど説得力はなかった。たしかにその手紙の意味は、彼の発音がひどく飛んだり、あえいだりするせいで不明瞭なものだから、テーブル越しに手渡された手紙をムーンが読むさまを、ここに記しておいたほうがいいだろう。
「親愛なる閣下。閣下が言及された出来事にあまり驚きはありません。その出来事は個人的なことですが、なんでも書き立てる新聞に書かれたもので、そこから大衆へと浸透したものにございます。これまでにたどり着いた立場から、私は公の人物となりました。大した事件の起きない人生でもございません。取るに足らない人生であるわけでもありません。でも、これはたしかに並々ならない出来事でありました。市民が大騒ぎをしている場面で経験がないわけでは決してありません。ヘルネ湾では、桜草連盟の政治危機をたくさん見てきました。荒々しい仲間と別れる前のことですが、キリスト教社会主義連盟で多くの夜を過ごしてきました。ですが、この経験は思いもよらないものでした。場所については曖昧な表現になりますが、それは自分のためではなく、牧師としての立場のせいであります。
短いあいだでしたが、私がホクストンで牧師補をしていた頃に、その出来事はおきました。もうひとり牧師補が、そのときの同僚にいました。彼に誘われ、私はある集まりに参加することになりました。神を冒涜するような言い方だと私は思いますが、彼の言葉によれば、その集まりは神の王国を宣伝するために考えられたものでした。ところが反対に、そこに私が見いだしたのはコーデュロイに、つるつるした服の男たちで、その物腰ときたら粗野で、極端な意見の男たちでした。
その同僚について、私は最高の敬意と親しみをもって話したいと思いますから、少しもお話するつもりはありません。教会の説教壇で政治力学をはたらかせることが悪であるということについて、私ほど確信している者はありません。ですから集まった信者の方々に投票のことについて助言することはありません。ただし、彼らが間違った選択をしそうだと強く感じた場合は別です。しかし、政治的な問題や社会的な問題にふれるつもりは一切りませんが、ひとこと言わなければいけないことがあります。聖職者ともあろう者が、たとえ冗談にせよ、社会主義や過激主義のような、ふしだらなデマゴーグからなる信用を失墜させる偽の万能薬を許しているのです。これは聖なる信頼を裏切ることなのです。問題の同僚、レイモンド・パーシィー師にたいして失礼な言葉をまったく言うつもりはありません。彼のことを聡明だと思っています。なかには彼に惚れ惚れしている者もいますから。ですが聖職者でありながら社会主義者のように話し、髪の毛はピアニストのよう、さらに興奮しているかのように振る舞うのです。ですから出世はしないでしょうし、善い人からも、賢い人からも賞賛をうけることはないでしょう。ホールに集まる人々の外見について、私は個人的な感想をのべるつもりはありません。それでも部屋をひとまわり見てみれば、明らかなんですよ。腐敗した人々がいて、妬ましそうにしているのがー」
「そんなことを認めるなら」ムーンがどなりつけたのは、いらいらしていたからだ。「その牧師が気に入っている論理を認めるというなら、言わせてもらおうではないか。この苦痛のせいで、彼の知性について囁くだけの意欲が奪われなければだけれど。彼はひどく馬鹿な年寄りで、間抜けであると」
「なんと!」ピム博士は言った。「抗議しますぞ」
「静かにするんだ、マイケル」イングルウッドは言った。「自分たちの話なんだから、彼らには読む権利がある」
「議長!議長!議長!」グールドはさけぶと、熱狂的に転げまわった。ピムは、しばらく王座をみつめたが、そこではビーコン裁判所のすべての権威が守られていた。
「頼むから、年老いたレディを起こさないでくれるか」ムーンはそう言うと、気まぐれな愛想のよさをみせながらも声をひそめた。「謝罪するよ。もう二度と邪魔をしないから」
妨げとなる言葉が小さな渦となって消え去らないうちに、人々は聖職者の手紙をふたたび読みはじめていた。
「その集まりは、私の同僚のスピーチではじまりましたが、そのスピーチについて何も言うつもりはありません。それは酷いものでした。聴衆の多くはアイルランド人でしたが、衝動的な人々の弱さを露呈しました。集団となって陰謀をたくらむ人々のなかに集められると、その愛すべき善良な性格も失い、他の者たちから区別すると言われているものを認める覚悟もなくしてしまうのです」
少しだけ驚いて、マイケルは立ち上がると、もったいぶってお辞儀をしてから、再び腰をおろした。
「こうした人々は、パーシィ師の説教のあいだ、沈黙していないにしても、承認の拍手くらいはしました。師は話の程度を相手にあわせて引き下げ、機知に富んだ警告を用いながら、土地の賃貸料のことやら労働をしないですますことについて話しをされました。私有財産の没収や土地の収用、調停など私の唇を汚さないではいられないような会話が延々くりひろげられたのです。数時間後に嵐がおきました。私は、その集まりでしばらく説教をして、労働者階級には倹約精神が欠け、晩の礼拝への参加する者があまりいないこと、感謝祭も無視する者がいること、その他にもたくさん人々を物質面で助け、改善の手をさしのべるようなことについて話をしました。私が思いますに、このとき、尋常ではない妨げがはいったのです。力強くて、見上げるような大男が、その体に漆喰を少しつけながら、ホール中央に立ち、大きな、牡牛のように轟く声で報告をしました。それは外国の言葉のように思えるものでした。私の同僚であるレイモンド・パーシィ師は、話の程度を頓智比べにまで下げましたので、勝利をおさめたように思えました。その集まりは、最初のうちは、丁寧な物腰で進んでおりました。しかしながら私が十二の文を言い終わらぬうちに、演台の方にむかって突進してくる者たちがいました。とりわけ大男の漆喰屋は、我々の方につっこみ、大地を象のように揺らしました。その男と同じくらいに大きいけれど、それほど風体がみすぼらしくない男が飛び上がって、その男を追いやらなければ、どうなっていったか分かりません。この大男は、群衆にむかって演説のようなことを叫びながら、こちらに戻ってきました。その男が話した内容は知りません。でも叫びながら、行ったり来たりして、ばか騒ぎをするうちに、私たちを扉の外へと連れ出しました。いっぽう、惨めな人々は別の廊下を駆けていきました。
これからお話するのは、物語のなかの並々ならぬ部分です。彼によって外に連れ出された先は、しみったれた裏庭でした。そこには枯れて点々がついている草がはえ、さびしい様子の街灯が一本たっている小道へとつづいていました。その大男は、次のように私に言ったのです。『もう関係はありませんよ。さあ、いっしょに来てください。話していたような、社会主義の実行を手伝ってもらいたいんですよ。いっしょに来てください!』大きな背中をくるりとむけると、彼が私たちを連れ出したのは、古びた街灯が一本たっている狭く、古い小道で、私はどうすればいいのかわからず、ただ彼についていくだけでした。彼はたしかにいちばん難しい状況で私たちを助けてくれました。だからジェントルマンである私としては、恩人にたいして謂れのない疑いをいだくわけにはいきません。社会主義の同僚もそう考えていました。その同僚も、調停ではひどい話をしましたが、ジェントルマンなのです。彼は旧家スタッフォード・パーシーズの出身で、その一族特有の黒髪、青ざめた顔、輪郭のはっきりとした顔の持ち主でした。彼が考えられるかぎりの見せびらかしである、黒のヴェルヴェットや赤の十字架をつけることで、その風貌の長所を強調することは虚栄だと言わざるをえません。これは、私としたことが脱線してしまいました。
霧が通りにたちこめ、最後に消え去った街灯が、背後でぼんやりとしていく有様は、いかにも心を意気消沈させるものでした。私たちの前にいる大男は、霧につつまれて、より大きく見えました。彼はふりかえらず、大きな背中をむけたまま言いました。
『話していたことは全部、役にたたないじゃないか。僕たちがほしいのは、もう少し実用的な社会主義なんだが』
『私も同じ意見だ』パーシーは言いました。『でも実行にうつすまえに、理論にあてはめて物事を理解したいんだ』
『それなら僕にまかせればいい』実際的な社会主義者が言いました。とにかく彼が何者にせよ、おそろしいほど曖昧な言葉でした。『僕には、自分なりのやり方がある。思想をひろめるパーミエイターなんだから』
私には、彼が何を言おうとしているのか見当がつきませんでした。でも相手が笑っていましたので、さしあたり不可解な旅を続けることにしました。そうするうちに私たちはとても奇妙な道へと出ました。そこはこむら返りをおこした場所で、舗装された道でした。その端の開きっぱなしになっている木の門を通り抜け、気がつくと、闇も、霧も濃くなっています。家庭菜園を横切っている、踏みならされた小道のようなところをとおりました。前を歩いている大男へ呼びかけましたところ、「これは近道だから」という返事がぼんやりとかえってきました。
聖職者の仲間にたいして、無理もないことですが、疑いつづけていると、高さがあまりない梯子を見つけました。それは道より一段高いところへとかかっていました。思慮に欠けた仲間が梯子にわっと駈けよったものですから、私も後をついていくしかありませんでした。梯子をのぼり、私が足をおろした小道は、見たこともないくらい狭い場所でした。こんなに狭い通路を歩かなければいけなくなったことはありません。その通路の片側は、暗い闇につつまれ、最初、しっかりと密に茂った藪らしいものが繁茂していました。ややして、それが藪ではないことに気がつきました。高さのある木々の頂きだったのです。この私が、英国の紳士であり、英国国教会の聖職者である私が、まるで雄猫のように庭の塀の上を歩いていたのです。
幸いにも、私は最初の五歩で立ちどまって、無理もない咎めだてを仲間にあびせつつ、できるだけ上手に平衡をとりました。
「通行権というものだ」擁護のしようがない案内人は言いました。
「百年間、ここは通行を禁じられていた」
「パーシィ師、パーシィ師」私は呼びたてました。「この悪漢と一緒に行かないでしょうね?」
「いいではないか、そうするつもりだ」私の不幸な仲間は軽々しく答えた。「あなたと私の方が、ずっと体の大きな悪漢ではないか。彼の正体が何であろうとも」
「私は泥棒だとも」この大男は動じることなく説明した。「フェビアン協会の一員なのだから。資本家に搾取された財産を返してもらうだけなんだ。内乱や革命をおこして一掃することなしに。特別な機会にふさわしい改革によって返してもらうんだ。ここで少し、あっちで少しというふうに。ひな壇ぞいの五番目の家が見えるかい? 平らな屋根の家だ。今夜、あの家におしいるつもりだ」
「それが犯罪だろうと、冗談であろうと」私は大声をあげた。「ごめんこうむりたい」
「梯子なら、あなたのすぐうしろにありますよ」その男は怖ろしいほどの礼儀正しさで言った。「でも立ち去る前に、わたしの名刺をさしあげましょう」
もし、なんらかの分別をみせる冷静さがあったなら、そんなものは捨て去ったのですが。そうした類の妥当な身ぶりが、塀のうえでの私の平衡状態に影響をおよぼしたとしてもです。そのまま、そのときの荒々しい雰囲気のなかで、私はその名刺をベストにしまい、壁と梯子のほうへと戻り、ふたたび見苦しくはない通りへと戻りました。しかしながら、歩き出すまえに、私のこの目が見ました二つの光景はひどいもので、悲しむべきものでした。その泥棒は煙突の方へと傾斜した屋根をのぼって、レイモンド・パーシィー師(神の司祭であり、さらに悪いことにジェントルマンである方なのです)が、彼のあとにつづいて這い登っていました。その日から、ふたりとも見かけたことはありません。
こうして厳しく自分を見つめる体験をした結果、私は荒々しい仲間とのつながりを絶つことにしました。キリスト教社会連盟の人々がかならず強盗にちがいないと言うつもりは一切ありません。そうした告発をする権利は、私にはありません。でも、その体験は、そうした行動が行き着く先を示唆してくれました。それ以上、彼らに会うことはありませんでした。
もうひとつ言い添えることは、イングルウッド氏が撮影されたという同封の写真は、話題にしました泥棒にちがいありません。あの夜、帰宅すると、彼の名刺を確かめました。彼はイノセント・スミスという名のもとに記されていました。
敬具 ジョン・クレメント・ホーキンス
ムーンは、その手紙をちらりと見ただけだった。告発者が、そんなに重々しい文書を思いつくはずがないことは分かっていたし、モーゼス・グールドは教会法典を読めないのだから、書けるはずもないことは分かっていた。その紙を戻すと、彼は立ち上がり、窃盗行為についての弁護をはじめた。
「私たちの願いは」マイケルは言った。「その起訴にたいして、可能なかぎり、もっともな便宜を提供することです。とりわけ全法廷の時間を節約するような類のことです。この件について、私はもう一度追及するつもりですが、そのときに問題になる理論の要旨は、ピム博士にはなじみのあるものです。その理論が、どのように形成されるのかを私は知っています。偽証とは失語症の変形であり、あることのかわりに別のことを言うのです。捏造とは、作家が言わば痙攣してしまうことであり、自分の名前のかわりに叔父の名前を無理やり書いてしまうのです。公海における海賊行為、すなわち盗作行為とは、おそらく船酔いのある形なのです。でも否認している事実を調査するなんて、それは不必要なことです。つまりイノセント・スミスは、住居侵入強盗を絶対にしていないのです。
先ほどの取り決めで認められた権限を要求し、起訴側に二、三の質問をしたいと思います」
サイラス・ピム博士は目をつむり、慇懃に同意をしめした。
「第一に」ムーンはつづけた。「キャノン・ホーキンスが最後にスミスを見かけ、パーシーが壁や屋根を登っていたという日は、いつのことですか?」
「ほう、そうですね」グールドは如才なく答えた。「1891年11月13日でした」
「それから」ムーンはつづけた。「彼らが登ったホクストンの家はわかりますか?」
「ハイロードをでたところにあるレディスミスのテラスハウスにちがいない」グールドは、ぜんまい仕掛けの迅速さで答えた。
「それでは」マイケルは言うと、彼のほうにむかって片方の眉をぴくりと動かした。「あの夜、テラスには押込み強盗はあったのですか? あなたは気づくことができたはずだ」
「あったのかもしれませんが」医師はまず答えてから、間をおいた。「不首尾に終わったもので、法の追求ができないものです」
「もうひとつ質問があります」マイケルは続けた。「司教座聖堂参事会会員ホーキンスは、まだそうしたことに慣れていない少年じみた態度で、そのわくわくする瞬間に立ち去りました。ですから他の司祭の証言をとればいいじゃないですか。実際に泥棒のあとを追いかけて、おそらく犯行の場面にいたと思われる人物がいるのだから」
ピム博士は立ち上がり、テーブルに指をついた。彼がそうするのは、自分の返答の明らかさにとりわけ自信があるときだった。
「私たちはすっかりしくじりました」彼は言った。「司祭のあとを追いかけ損ねてしまいましたから。その人物は、司教座聖堂参事会会員ホーキンスが見ているなか、天に溶けこんだかのようで、樋に手をかけ、銅板ふきの屋根をのぼっていきました。多くの方々にこの話が不思議な印象をあたえることは十分承知しています。でも、よく考える者であれば、自然なことに思えるでしょう。このレイモンド・パーシー氏は、教会法にもとづけば、奇矯な人物だと思われます。彼が英国のなかでも誇り高く、公正な人物たちとつながりがあるにしても、見たところ、実に卑しい社会を好む気持ちを防いではいません。一方、被告人スミスは、皆さんも認めるところかと思いますが、抗いがたい魅力の持ち主です。私の考えでは、あきらかに敬われているパーシーを犯罪にみちびき、真の犯罪者たちの階級のなかに彼の頭ごとうずめてしまったのです。こう考えれば、彼が出頭しないわけも、彼のあとを追いかけることができないことも説明がつくことでしょう。
「では、彼を追いかけることは不可能だというのですか?」ムーンは訊ねた。
「不可能だ」専門家は答え、目をとじた。
「たしかに不可能だというのですね?」
「だまれ、マイケル」グールドが怒ってさけんだ。「もし出来るのなら、私たちも彼を見つけていただろうよ。君があの押込み強盗を見たというのだから。君が探し始めればいいじゃないか。ごみ箱のなかで自分の頭を探してみろ。すぐに見つけるだろう」やがて彼の声は途切れ、ぶつぶつ言うのが聞えるだけだった。
「アーサー」マイケル・ムーンは腰をおろしながら指図した。「手を煩わせるが、レイモンド・パーシーが法廷にあてた手紙を読んでくれ」
「お望みとあれば、ムーンが言ったように、できるだけ簡潔に読むとしょう」イングルウッドは答えた。「私たちに送られてきた手紙だけど、最初の部分を読むことはやめておく。起訴人にすれば、もっともなことにすぎない。事実に関した部分についていえば、第二の聖職者が残した記述は完全に認められているからだ。そこで、大聖堂会員の話はある程度正しいものと考える。この事実は、起訴人にすれば大切なことにちがいないし、法廷にすれば有用なことにちがいない。まずはパーシーの手紙から読むとしよう。三人の男たち全員が庭の塀にいたところからだ」
「塀のうえで狼狽えているホーキンスに気がついたが、私は動じないと心にきめた。憤怒の念が雲となって私の頭上にかかる様子は、まるで家々や庭に銅色の雲がかかるかのようであった。私の決意は荒々しくはあったが、単純なものだった。ただ、そう決意するまでの思考はとても複雑で、矛盾にみちていたので、もう、その思考をたどることは私にはできなかった。ホーキンスが親切な男であることも、世間知らずの紳士であることも承知しているが、それでも彼を道でけり倒す喜びを味わうためなら10ポンド支払ったことだろう。神から許されて、妖精たちは獣のように愚かになるのだから、それと同じようにしようという冒涜の思いに私は強くかられた。
「オックスフォードでは、言うのも恥ずかしいが、ひどく芸術家気質になっていた。だが芸術家というものは、制限されることを好む。私が教会を好んだのは、きれいな模様として考えたからだ。規律正しさも、単なる装飾にすぎなかった。ただ時間を区切るだけのことでも、私は大喜びをした。私は好んで、金曜日に魚を食べた。でも私は魚が好きなんだ。断食なんてものは、肉が好きな者のためにつくられたものだ。それからホクストンへ来たが、五百年間にわたって断食を続けている者たちを知った。その連中は魚をかじっているけど、それは肉を手に入れることができないからで、魚も手に入れることができないときには、魚の骨をしゃぶっているような連中だった。大多数の英国の将校は、軽喜劇のように軍隊をあつかう。だから私も、野外劇の教会のように地上の教会をあつかってきた。だがホクストンでは、その癖をあらためた。そのときに理解したのだが、千八百年のあいだ、地上の教会は野外劇なのではなく、暴動の場だったのだ。しかも抑圧された暴動の場であった。そこに、ホクストンにそのとき悠長に生きていたのは、実にすばらしい約束をしてもらった人々であった。こうした事態に直面し、信仰をもちつづけるなら、私は革命家にならなければなかった。ホクストンでは保守的になるには、無神論者である必要があったし、悲観主義者である必要もあった。悪魔でなければ、ホクストンを保護したいとは思わないだろう。
こうした一連の出来事の最中に、ホーキンスはやってきた。もし彼がホクストンのすべての男を呪うなり、破門するなり、地獄へ行けとでも言うなりすれば、彼のことを少しは賛美したことだろう。さらに市場で焼かれてしまえばいいと彼らに言ったなら、私は忍耐強く、すべての善良なるキリスト教徒が他人にあたえる悪事というものにも我慢したことだろう。だがホーキンスは、聖職者としての手腕に欠けている。いや、どんな類の手腕も持ち合わせていない。彼には聖職者になることが出来ない。大工になることも、辻馬車の御者になることも、園丁や漆喰工になることも出来ないように。彼は完璧な紳士である。それが彼の不満なのである。彼は自分の信条を押し付けはしない。ただ、自分の階級を押し付ける。彼はその呪わしい演説のなかで、信仰に関する言葉を一言も言いはしない。彼が言うことときたらすべて、兄である少佐なら言っただろうことだ。天国からの声が私に教えてくれる。彼には兄が一人いて、その兄は少佐なのだと。
この役にたたない貴族趣味の男が賛美にはしり、体のきよらかさや、魂における慣習について、体も、魂もほとんど律することのできない連中を相手にして賞賛すると、私たちの演台にむかって人々が押し寄せてきた。救うだけの値打ちもない男だが、私は彼を救う仲間にくわわった。よく姿は見えないながら、彼を助けた者のあとにつづいていくと、やがて以前お話したように、私たちは塀の上に立っていて、霧のたちこめる薄暗い庭を見下ろしていた。そのとき牧師補と泥棒が見えたわけだが、そこで判断をくだしたのは、霊感がひらめいたからで、この二人のなかでは泥棒のほうがましな人間だと考えたからだ。
その泥棒は、副牧師と同じくらいに親切で、人情味にあふれているように思えた。それに勇敢でもあり、自信にもあふれていたが、副牧師には、そうしたところはなかった。上流階級には、美徳というものがないことは分かっていた。私も、そうした階級に属していたからだ。その下の階級にしたところで、大した相違はなかった。私は、そういう階級の者たちと一緒に長い間暮らしてきた。聖書の古い文句のなかで、嫌悪される者や迫害される者についての言葉がたくさん心にうかんできた。そして聖人は、犯罪者たちの階級に隠れた方がいいかもしれないとも考えた。ホーキンスが梯子をおりた頃、私は低く、傾斜のある青いスレート屋根を這い上り、大男のあとにつづいていた。その男は私のまえで跳ね、まるでゴリラのようだった。
この上にむかう登攀はほどなく終わり、じきに私たちは重々しい足音をたてながら、広く、平らな屋根の上を歩きだしたが、そこは数多の大通りよりも広く、あちらこちらに煙突の通風管がそびえ、その光景は靄がかかっているせいで、小さな砦がならんでいるかのような重量感があった。靄のなかにいると絞めつけられるような気持ちになり、やや病的なまでに激しい怒りにかられ、その怒りのせいで、私の頭脳と体は難儀な思いをした。空にしても、それから普段なら澄んでいる全てのものが、不気味な霊魂に屈しているかのように思えた。背の高い幽霊が蒸気でできたターバンをまきつけ、月よりも、太陽よりも高くそびえ、両方の天体を覆い隠しているかのように見えた。わたしがぼんやりと思いをめぐらせたのは、「アラビアンナイト」の茶色い紙に描かれた挿絵のことで、そこには豊かだけれども陰鬱な色彩がほどこされ、ソロモンの紋章のまわりに集まった悪魔の姿をあらわしていた。ところで、ソロモンの紋章(シール)とは何だったのだろうか? 封蝋(シーリングワックス)とはまったく関係ないと思う。だが幻想のせいで私は混乱してしまい、厚くたちこめた雲が、大量の粘着性の物質からできていて、不透明な色を帯びているような錯覚におそわれ、またその雲が沸騰した鍋からこぼれて、恐ろしい紋章になっていくようにも思えてきた。
すばらしいターバンをまいた煙霧の第一印象は、ロンドン子たちがよく話題にするエンドウ豆やコーヒーの色をした濃霧が褪せたものだということであった。だが、その景色はだんだん薄らいでいき、慣れ親しんだものへとかわっていった。私たちはひときわ高い屋根に踏みとどまり、煙とよばれるものを眺めた。ああした煙のせいで、大都市には、霧と呼ばれる奇妙なものが生じる。眼下には、煙突の通風管の森がひろがっていた。そしてどの通風管のなかにも、まるで植木鉢であるかのように、色のついた煙霧でできた低木や高木が茂っていた。煙の色は様々であった。家庭の暖炉からでている煙もあれば、工場の煙からでているものもあり、またゴミの山からでてくる煙もあったからだ。煙の色は変化に富んでいるが、どれも尋常ではないものに見え、魔女の鍋から立ちあがる湯気のようであった。それはいかがわしく、醜いかたちのものが、魔女の鍋のなかでかたちをくずしていき、やがて別々の蒸気となって、煮込んでいる肉や魚どおりの色にそまっていくようであった。此方では、下で輝いているのは暗赤色の煙で、まるで生贄の血で黒ずんだ壺のように空を漂っていく。其方では煙は薄墨色をしていて、地獄のスープに浸された魔女の長い髪のようだ。何処かでは、煙は光沢のない象牙色で、あたかもハンセン病患者を模した、魂が遊離した古い蝋人形のようだ。しかも煙を横切る筋が一筋はしり、その線は煌々と輝く、禍々しい色の、地獄の鬼火のような緑色が、アラビア文字のようにくっきりと鮮明に歪んでいた。
モーゼス・グールド氏は、もう一度、作品集の読み上げを阻止しようと試みた。彼の様子からすると、読み上げる者はすべての形容詞を省くことで、会議録を短くしなくてはいけないと考えているらしい。デューク夫人はもう目覚め、とても素敵な話にちがいないと言った。そして、この判断は正式に記され、モーゼスによって青の鉛筆で、マイケルによって赤の鉛筆で書き留められた。イングルウッドはそれから、その文書を読み上げ始めた。
そこで私が読んだのは、煙についての文であった。煙とはいわば現代都市のようなもので、煙はその都市から出されるのである。いつも疎ましいというわけではないが、常に虚栄にみちている。
現代の英国は、煙のながれのようなものであった。あらゆる色を運ぶことができるけれど、何も残すことはできず、ただ染みが残るだけであった。空に屑をたくさんばらまくのは、私たちの弱さからであって、強さではなかった。空には私たちの虚栄心がつきることなく注がれた。私たちは聖なるつむじ風の輪をつかんでは見おろして、渦巻だと考えるのであった。そしてつむじ風を掃きだめとして使った。つむじ風は、私の心のなかで、まさしく反乱を象徴するものであった。最悪のものだけが、天国に行くことができるのだから。犯罪人だけが、天使のように昇ることができるのだから。
こうした感情のせいで私の頭が何も考えられなくなっていると、案内人は立ちどまったが、そこは大きな通風管のそばで、通風管は街灯のように規則的に並び、まるで空中にうかんだ道に街灯が並んでいるかのようであった。彼はその重い手を通風管にかけた。しばらくのあいだ、彼はただ通風管によりかかっているだけだったので、テラスハウスの屋根の急傾斜をよじ登るのに疲れたのだと私は考えた。深い淵から推量したところ、両側には霧がたちこめ、霧につつまれた赤茶色の火や、長い歴史のある黄金色の輝きが時々煙突からゆらめいているので、私たちがいるのは、お行儀よく連なる家々の長い列のうえであった。そうした家々が頭をもちあげているのは貧しい地区で、昔の哲学的建築業者が残した著しい楽天主義の跡であった。
おそらく、そうした家は住む者のいない家だろう。あるいは住んでいる者がいたにしても、貧しい一家が住んでいるくらいのもので、そうした人々は、イタリアの、やはり人が住んでいないような古い家にいる一家と同じくらいに貧しい。たしかに、しばらくして霧が上空にあがったときに気がついたのだが、私たちが歩いているのは半円の形をしたクレッセントで、足元には四角い広場がひらけ、もう片側の下の方には広いストリートがのびている様子は巨大な階段の踊り場のようで、ロンドンのさほど知られていない奇妙な建物といった趣があり、この土地における最後の岩棚のように見えた。だが雲が巨大な階段の踊り場に封をした。
物悲しい空の景色についての私の思索を妨げることになったものは、空から落ちてくる月と同じくらいに思いがけないものであった。強盗は、よりかかっていた煙突から手をあげるどころか、さらにどっしりと煙突にもたれかかった。すると煙突が倒れてしまい、蓋のあいたインク瓶のようになった。そのとき私は低い壁にかかっていた小さな梯子のことを思い出し、彼がかなり前に犯罪者のように侵入してきたのだと確信した。
大きな煙突の筒がくずれたのだから、私の混沌とした感情は頂点に達してもよかった。だが、本当のことを言えば、その結果ふと生じたものとは喜劇めいた感覚であり、慰みのような感覚ですらあった。思い出すことはできないのだが、この突然の押込み強盗を、心地よい空想へと結びつけるものがあった。そして私が思い出していたのは楽しくも騒々しい場面で、屋根や煙突がならんでいるその場面は、子供時代に道化芝居で見たものだった。どういうわけだか私を慰めてくれたのは、その場の非現実的な感覚で、まるで家が絵具で塗られた薄い板やボール紙でできていて、警官や老いぼれ道化役によって倒されることになっているかのようであった。わたしの相棒の違法行為は許されて当然のものにも思え、また滑稽なくらいに許されるべきものにも思えた。ああした大げさで、非常識な人々がなんであろう。彼らには召使いもいれば、泥おとしも持ち合わせている。さらには煙突の通風管(チムニー・ポット)もあればシルクハット(チムニー・ポット・ハット)もあるのに、貧しい道化師がソーセージを欲しくなって手に入れようとするのを邪魔するなんて。財産が大切だと考えるのだろう。でも、わたしがいたのは、このように山がたくさんあって霞がかかっている光景で、なんとも心軽やかになる天国であった。
私の案内人が飛び降りたのは暗い穴のなかで、それは煙突が倒れたせいで出来たものだった。だいぶ下に着地したようで、彼は背が高いのだが、見えているものといえば、もじゃもじゃの頭だけであった。はるか昔の、でも懐かしい記憶がよみがえり、ひとの家を侵入していくこのやり方に喜びをおぼえた。私が考えたのは小さな煙突掃除夫についてであり、「水の子供たち」のことであった。だが、そうした状況ではないと思い直した。それから、こうした破天荒な不法侵入なのに、何が犯罪とは真逆のものに結びつけているのか思い出した。それはもちろんクリスマスイヴであり、煙突をおりてくるサンタクロースである。
その次の瞬間、もじゃもじゃの頭が黒い穴のなかに消えた。だが下の方から私に呼びかける声が聞こえた。一、二秒後、もじゃもじゃの頭がふたたび現れた。赤々と輝く靄を背に、その頭は黒々としていた。いかなる言葉も、その様子を語ることはできなかった。いらいらとした様子でついてくるように呼びかけるその声は、昔からの友達の間柄のようであった。私は穴に飛び降りると、クルティウスのように手で探った。私が考えていたのはサンタ・クロースのことで、昔から伝えられた善行どおり、真上にある入り口から入ってくるということだったからだ。
設備がととのっている紳士の家ならどの家でも、と私は考えた。紳士のためには正面玄関が、商人のためには横手の通用門がある。そしてまた、神のためには屋根の上に入り口がある。煙突はいわば、天と地の境にある地下通路のようなものだ。この星がちりばめられたトンネルをくぐって、サンタクロースはまるで雲雀のように、天国と家庭がとけあう場所に到着する。いや、習慣のせいかもしれないし、登るだけの勇気に欠けている者が多いせいかもしれないが、この扉はおそらく殆ど用いられていない。だがサンタクロースの扉は、たしかに正面玄関なのである。それは宇宙にひらかれた扉なのだ。
私がそう考えたのは、屋根の下の真っ暗な屋根裏部屋を手さぐりしながら進み、小さな梯子をつたって降り、屋根裏部屋のしたにある広い部屋にでたときであった。しかし、梯子をなかばまで進まないうちに、ふと立ちどまると、私も後戻りをしようかとしばらく思案した。私の友人が出発点の庭の塀から後戻りをしたように引き返すのだ。そのとき浮かんだサンタクロースの名前のおかげで我にかえった。なぜサンタクロースがやって来るのか、なぜ歓迎されるのかを思い出したのだ。
私が育てられたのは資産階級であり、資産を減らすことだけを怖れていた。私は強盗についての告発文を聞いてきたが、それはもっともなものもあり、誤解しているものもあった。教会の十戒も千回は読んだ。そのとき私は三十四歳になっていたが、梯子をなかばまで降りてきて、泥棒のようにふるまっている途中で、泥棒はよくないということに、ふと気がついた。
でも、引き返すには遅すぎた。そこでからだの大きな相棒の、妙にひっそりとした足音を頼りに、相棒が下の屋根裏部屋を横切るあとをついていった。やがて彼が敷物のひかれていない床に膝をついたのは、手探りしながら進み、はね上げ戸のようなものを持ち上げたあとのことだった。すると下からの明かりがもれてきた。私たちは明かりが灯された居間をのぞきこんでいた。大きな屋敷によく見られる部屋で、寝室からつながり、寝室に付随した部屋であった。私たちの足もとから漏れる光は音もなく爆発しているかのようで、持ち上げられた引き戸を照らし、その戸が埃と錆のせいで錆びつき、長い間使われなかったところに、私の冒険好きの仲間が現れたことを物語っていた。しかし長いこと開き戸を見はしなかった。下の方から輝く部屋の様子が見え、それは異常な魅力をはなっていたからだ。こんなに奇妙な角度から、忘れられた戸をぬけて、現代風のインテリアのなかに入っていくなんて、ひとの心理において記念すべき事件であった。四次元を見つけたようなものであった。
相棒は隙間から室内にいきなり音もなく入り込んだので、私はそのあとについていくより他になかった。だが犯罪行為において実践を積んでいないため、まったく音をたてないという訳にはいかなかった。私の深靴の響きが消える前に、大柄な強盗は扉にすばやく駆け寄ると半ば押し開けた。そして階段の方に目をこらして立ち、耳をすました。それから扉をまだ半分開けたままにして、部屋の中央まで戻ると、家具や装飾に青い目をきょろきょろとはしらせた。その部屋には本がならび、ゆたかで温かみのある雰囲気を醸し出し、おかげで壁面は活気があふれているように思えた。本棚は奥行きがあって、本がぎっしりと並んでいたが、だらしのない本棚で、寝床で読む目的でいつも本を探しているというような類のものであった。赤いゴブリンのような印象深いドイツのストーヴが隅におかれていた。胡桃材でできた食器棚がひとつ見え、その下の扉は閉じられていた。窓は三つあり、高さはあるが幅のせまい窓だった。もう一度目をはしらせてから、侵入者は胡桃の扉をぐいと開けると、中を隅々まで漁った。そこに何もなかったのは明らかであった。見つかったものと言えば、このうえなく見事なカットグラスのデキャンターで、ポート酒のようなものが入っていた。どういうわけか分からないが、この素晴らしく贅沢な小品を片手にして戻ってくる泥棒の姿を見ると、もう一度予想外の驚きにうたれ、以前から感じていた反感が頭をもたげてきた。
「そんなことをするな!」矛盾することながら、私はさけんでいた。「サンタクロースならー」
「おや」その泥棒は言うと、食卓のうえにデキャンターを置き、私をながめた。「君もそう考えたんだね」
「考えたことの百万分の一も説明できない」私は声をはりあげた。「でも、こういうことなんだ…ああ、分からないかなあ? なぜ子供たちはサンタクロースを怖がらないのだと思う?夜、泥棒のようにやってくるのに。サンタクロースには人目を避けることも許されているし、不法侵入をすることも、背信行為をしても大丈夫だ。それはサンタクロースが行ったところは玩具がふえているからだ。もし玩具がなくなれば、どう思われるだろう? 地獄からの煙突をおりて、ゴブリンがやってきて、子供たちが寝ているあいだに子供たちのボールや人形を持ち去ってしまえば、どう思われる? ギリシャ悲劇は、夜明けよりも残酷なものになるだろうか? 犬盗人や馬盗人、奴隷商人は、おもちゃ泥棒と同じくらいに卑しいものだと思わないのか?」
その泥棒は、ついうっかりしたかのようにポケットから大きなレボルバーを取り出して、食卓のうえに置くとデキャンタ―の横にならべたが、考え深い目を私にむけたままだった。
「君!」私は呼びかけた。「すべての盗みは、おもちゃを盗むことと同じだ。だから、いけないことなんだ。不幸な子供たちの品物に敬意がはらわれるのは、そうした品物に価値がないからだ。ナボトの葡萄園がノアの箱舟のように描かれていることも知っている。予言者ナタンが一番大切にしているものは、木製の毛を刈り取る台のうえにいる羊毛だらけのメーメー子羊だということも知っている。そういうわけだから、子供たちのものを持ち去ることはできなかった。私だってそれほど気にしていなかったんだ。ひとの物を大事な物として考えているあいだは。でも、あえて虚栄の対象に手をおいたりはしない。
しばらくしてから私は唐突につけくわえた。「聖人と賢人だけが盗まれてもいい。丸裸になるまで略奪されてもいい。だが、哀れな俗人から、哀れにもささやかな誇りである物を盗んではいけない」
彼は食器棚からワイングラスをふたつ取り出すと、両方の杯をみたし、そのうちのひとつをもちあげ、乾杯のあいさつをしながら唇のほうに運んだ。
「そんなことをするな」私はさけんだ。「貴腐ワインとか、そうした類のワインの最後の瓶かもしれない。この家の主は、そのワインをとても誇りに思っているのかもしれないんだ。そうした愚かさのなかには、怖ろしいものがあることが分からないのか?」
「これが最後の瓶だと言うわけではない」犯罪者は冷静に答えた。「貯蔵庫には、もっとたくさんある」
「おや、君はこの家のことを知っているのだね?」私は言った。
「知りすぎているくらいによく知っている」彼は答えたが、それは悲しそうな、奇妙なもので、どこか不気味なところがあるくらいだった。「知っていることはいつも忘れようとーそして知らないことを見つけようとしているんだ」彼は杯を一気にあけた。「それに」彼は言い添えた。「彼のためにもいい」
「何が彼のためにいいのか?」
「こうして飲んでいるワインだよ」その奇妙な男は答えた。
「では、彼もたくさん飲むのかい?」私は訊ねた。
「いや」彼は答えた。「私が飲まなければ、彼も飲まない」
「君が言いたいのは」私は言った。「この家の持ち主は、君がすることをすべて承知しているということなんだね?」
「そんなことがあってたまるか」彼は答えた。「それでも彼は、同じことをしないといけない」
霧でできた死者の顔が三つのすべての窓から覗き込み、謎めいた感覚が不可解なことに増していき、恐怖も、この高くて狭い、私たちが空から入った家のなかで増していく。私はもう一度、大きな体をした天才について考えた。心にうかんできたのは巨大なエジプトの顔で、死者の赤や黄色がほどこされた顔が、それぞれの窓から覗き込んで、マリオネットの明かりが灯された舞台と同じくらいに明るい部屋を見ていた。私の相棒は、目の前の銃をいじり続け、相変わらず不快なほどの打ち解けた様子で話していた。
「いつも彼を見つけようとしているんだ。不意をついてだけど。彼を見つけようと天窓をくぐりぬけ、跳ね上げ戸をもちあげて来た。だが見るたびに、彼は僕と同じことをしているんだ」
そのとき私は恐怖のあまり飛び上がった。「だれかが来たぞ」私は叫んだ。しかもその叫びは、金切り声にちかいものだった。足音は階下の階段からではない。寝室にはじまり廊下にそって進んできている。どういうわけか、廊下から聞こえる足音のほうが、警告を発しているように思えた。足音は近づいてきた。如何なる神秘か、あるいは怪物か、それともその両方なのか、扉が押し開けられたとき、何を見ると思っていたのかは思い出すことができない。そのときに目にしたものが、まったく思いもよらないものであったことだけは確かである。
あけ放った戸口を背に立っているのは、物静かな雰囲気の、やや上背のある若い婦人で、はっきりとした、でも説明しがたい芸術的な雰囲気を漂わせていた。そのドレスは春の色、髪は秋の木の葉で、顔はいくぶん若いけれど、知性と同様に経験もある様子が伝わってきた。彼女はただ一言「入ってくる音に気がつかなかったわ」と言っただけであった。
「別の方法で入ったんだ」この侵入者はいくぶん曖昧に答えた。
「鍵を家に忘れたものだから」
私は礼儀正しく、でも興奮もまじった状態で立ち上がった。
「申し訳ありません」私は叫んだ。「私の立場が変則的なものであることは分かっていますが。こちらの家は、どなたの家なのか教えてもらえますか?」
「私の家だ」押入り強盗は答えた。「私の妻を紹介しよう」
私は疑わしい気持ちにかられ、いくぶん時間をかけながら再び席についた。そして朝になるまで、その席から逃れることはなかった。スミス夫人―平凡さとはほど遠い家庭の夫人としては平凡な名前であるが―、少しぐずぐずと留まって、いささか楽しそうな様子で話をした。彼女があたえる印象とは、内気さと鋭さが入り混じった奇妙なもので、まるで彼女が世界をよく知っているかのようでもあり、一方で無邪気に世界を怖れているようでもあった。飛び跳ねまわり、当てにできない夫をもったせいで、彼女はたぶん少し神経質になったのだろう。とにかく彼女がもう一度寝室にひきあげる頃、この並外れた男のワインも少なくなっていたが、それでも男はワインに弁明をそそぎ、自伝を語り注いだ。
彼のなかに、旧世界の人々がお祭り騒ぎのような荘厳さと呼ぶものを見出したのは、仮面舞踏会や結婚式の宴の挙行について話題にしているときだった。とは言っても彼は異教徒でもなければ、悪ふざけを口にしているのでもなかった。奇矯な行動の源となっているのは信頼しているという不動の事実であって、その事実自体は霊的なものであり、子供っぽくもあり、キリスト教徒らしいものでもあった。
「否定はしないけど」彼は言った。「司祭は思い出させるためにあるんだ。いつか人は死ぬものだということを。僕はただこう言いたい。今はたしかに妙な時代だよ。こんな時代に必要とされるのは別の類の司祭だ。それは言うなら詩人だ。まだ死んでいないと人々に思い出させるための。知識ある人たちのなかで僕は活動しているけど、彼らは死を恐れるほど生き生きとはしていない。臆病者になるだけの血も十分に持ち合わせていない。ピストルの銃身が鼻の下に突きつけられるまで、彼らは自分たちが生を授かっていたってことを知らないんだ。永遠のながめを見ているあいだ、生ある者は死ぬということを学んでいるのは真実だよ。でもあの小さな白ネズミにすれば、死とは生きることを学ぶ唯一の機会だということも真実なんだ」
彼が奇跡について抱く信条は、この絶対的な試練をうけたキリスト教のものであった。しばしばであるが、その信条が自分からも、他の人からも失われかけているように彼は感じた。彼が自分につきつけたピストルは、ブルータスが述べた短刀と同じものであった。彼はたえず無分別な危険をおかし、高い崖をよじ登ったり、無鉄砲なスピードをだしたりすることで、自分が生きているという確信を保った。彼がひそかに大切にしていたのは些細な、しかも狂気じみたことがらで、ぼんやりと意識している現実を思い出させてくれるものである。学長が石の樋にしがみつき、その長い脚をぶらぶらさせ、翼のように宙にばたばたさせている様子を見ていると、どういうわけか露骨な皮肉を思い出したが、それは人間についての古い定義で、人間とは羽のない二本足の動物だと言っていた。惨めな教授は頭から叫び声をあげたが、その頭に彼は念入りに知識をたくわえてきたはずなのに、今助けてくれているのは彼が冷遇し、無視してきた二本の脚の方であった。スミスにはこのことを告げたり、記録したりする方法が他に思いつかなかったものだから、その頃にはすっかり他人となっていた旧友に電報を送って、「二本足の男を見た、いやはや(ザ・マン・ワズ・アライヴ)」とだけ伝えた。
楽観主義が放たれてロケットのように噴出して星に突っ込んだそのときに、彼は恋におちた。たまたまであったが、彼は高く、険しい堤防にむかってカヌーから銃をうち、自分が生きているということを証明しようとした。でもすぐに疑念がわいてきて、その生きているという事実が継続しているのかと疑っている自分に彼は気がついた。さらに悪いことに、彼はボートに乗っている無邪気なレディも同じように危険にさらしたことにも気がついた。つまり彼女は哲学的な否定の告白もしていないのに、死に至りそうになった。彼は息をきらしながら謝罪して、荒々しく、ずぶぬれになって苦労しながら彼女を岸に戻した。とにかく、彼女をあやうく殺しかけたときと同じ性急さで、彼は彼女と結婚した。彼女こそが、緑の服に身をつつんだレディで、私が先ほど「おやすみなさい」と声をかけたレディであった。
彼らはハイベリー近くの、細長い家に落ち着いた。細長い家としか言いようのない建物である。スミスは結婚したと厳密な定義でも言うことが可能であり、しかもその結婚は幸せなものであり、妻より他の女を気にすることもなければ、家より他の場所を気にすることはないようには思えたけれど、それでも身を落ち着けたとは言い難いものがあった。「僕はとても家庭的な人間なんだ」彼は重々しく説明した。「ティーの時間に遅れるくらいなら、割れた窓から入ってくるくらいに」
彼は自分の魂を笑いで鞭うち、眠り込んでしまうのを防ごうとした。彼のせいで妻は素晴らしい召使たちを失ってしまったのだが、それは彼がまるでまったく他所者として扉をノックして、スミス氏はここに住んでいるのか、どんな類のひとかと訊いたからだ。ロンドンの一般的な使用人は、このように極めつけの皮肉を言う主人に慣れていない。そうした振る舞いは、自分自身にも、他の人について感じるのと同じ興味を覚えるせいだと妻に説明しても理解しえもらえなかった。
「たしか、スミスという男がここにいると思うんだが」彼はすこし妙な話し方をした。「このテラスハウスのひとつに住んでいるらしい。本当に幸せな男だと思うが、まだ会ったことはない」
ときどき、彼は妻に突如として、しゃちほこばった礼儀正しさをとることがよくあって、まるで一目で恋におちた若者のようであった。ときどき、彼はこの詩的不安の対象を家具にまで広げることがあって、腰かけている椅子に謝罪したり、岩登りの名人のように注意深く階段をのぼったりしたが、それは自分自身のなかに現実という骨組みを取り戻すためのものであった。あらゆる階段とは梯子であり、あらゆる椅子には脚がついているのだからと彼は言った。また或る時には、彼はまったくの他人を演じてみせ、別の方法で家に入ってみては、泥棒のような気分にひたるのであった。自分の家を壊して侵入するのだが、それは今夜私と一緒にやった行動のようなものであった。明け方近くになる頃、私は「ぜったいに死なない男」という奇妙な自信を捨て去った。それから戸口のところにいる彼と握手をかわすと、最後の霧のかたまりが漂うなか、夜明けの切れ目から射す光が階段を照らし、この世の果てのように見える凹凸のある通りが浮かび上がった。
一晩、気違いと過ごしたと言えば、大方のひとには十分だろう。他の言葉を使ったとしたら、そうした人間をあらわす術がない。 結婚していないふりをすることで、自分が結婚していることを思い出すような男なんて! 隣人の財産よりも自分の財産のほうを欲しがるような男なんて! このことについて言えるのはただ一言だけだ。でも名誉にかけて言おう。誰も理解してくれないだろうが。狂人というのは、進歩しない連中の一人にすぎない。でも狂人は送られてくる。船のうえを吹く大風のように、天使の風をもたらす神によってね。そして神の使いは、燃え立つ炎も連れてくる。少なくともこのことなら、僕ははっきり知っている。そうした人間が笑ったにしても、泣いたにしても、僕たちはその笑いを嘲り、同じように涙も嘲る。世界を呪おうとも、祝福しようとも、彼らは世界に適合することはできない。偉大な風刺家に一刺しされた男たちが縮みあがるさまは、ヨーロッパクサリヘビに刺されたかのようだ。偉大な楽天家に抱擁されたひとが逃げ出すさまは、熊に抱きつかれたかのようだ。真の祝福ほど呪いをもたらすものはない。善意からくる親切は、悪意からくる意地悪のようなものという昔からの言葉のとおりである。親切というものは語るものではなく、心に思い浮かべるものである。天国の深みよりも深いところに行き、もっとも年老いた天使よりもさらに老いてから感じる。そのかすかな振動のなかにさえも、情熱が倍になり、永遠につづく暴力となることを。そして神がその情熱をもって世界を憎しみ、愛していることを感じる。かしこ、レイモンド・パーシー」
「ああ、なんて神聖な!」モーゼス・グールド氏は言った。
彼が言ったそのとき、他の者たちは自分たちが服従と同意からなる信仰心のようなものにかられていることに気がついた。なにかが、ひとまとめに縛りつけていた。手紙の最後の二つのことば、「あなたの忠実なる」という聖なる伝統のような、なにかに。心揺さぶる、少年らしい当惑をいだきながら、イングルウッドはその手紙を読んだ。彼は、不可知論者のような、感じやすい畏敬の念をいだいていたからだ
モーゼス・グールドは、他にないくらいにいい人間だよ。洗練された連中よりも、自分の家族にずっと親切だ。簡素で、しっかりしたところがある。とことん健康的なやつで、とことん偽りのない人柄だ。でも争いのあるところはどこでも、危機が生じて、どんな魂にも入り込む。どんな人だろうと、どんな人種だろうと関係ない。意識しないうちに、数百の顔のうちもっとも憎らしい顔を世界にむける。英国の崇敬者、アイルランドの神秘主義者、アメリカの理想主義者が見あげると、モーゼスは顔にある微笑みをうかべていた。それは皮肉な成功者の微笑みで、ロシアの村や中世の都市で頻発した残酷な暴動へ警鐘を鳴らすものであった。
「ああ、なんて聖なることか」モーゼス・グールドは言った。
この言葉があまり受けとめられていないことに気がつくと、彼は黒く、豊かな表情をさらに豊かなものにした。
「いつだって楽しいよ。やつがハエをつかまえたのに、スズメバチをのみこむのを見るのは」彼は楽しそうに言った。「とにかく君はスミスを閉じ込めたんだ。もし、このひとの話がそのとおりならだけど。なぜかって? スミスは気性が激しいんだ。とても激しいやつなんだ。彼が馬車にのってミス・グレイと駆け落ちするところを見たじゃないか。それにしても、このスミス夫人のことを副牧師は何て言うのだろう?とても内気な性格がきつい性格に変わった女性なのだから。 ミス・グレイはあまりきつくなかったから、とても内気なひとになるって思っているのに」
3章
堂々巡りをしたことになるのか、それとも別居の告訴になるのか
ピムは心底当惑して立ち上がった。アメリカ人なので、彼はレディをたしかに敬っていたけれど、科学的に説明をつけられるものではなかったからだ。
「却下します」彼は言った。「細心の注意をはらいながらの、とても騎士らしい抗議なんですが。それも同僚グールドの演説のセンスのせいでなされた抗議ではありますが。そして皆さんに謝罪します。私たちは真実を荒々しく求めましたが、皆さんにはこんな封建国家の廃墟には相応しくないように思えるでしょうから。それでも思うのですが、私の同僚グールドの問いかけは、けっして適切さを欠いたものではないと。被告人スミスに対する最初の告訴は、押し込み強盗の件についてのものでした。書類上、次の告訴は重婚についてのものです。弁護側は、この最初の告訴について弁護しようとしますが、弁護することで次の告訴を認めてしまったことは疑いようもなく明らかなのです。イノセント・スミスは押し込み強盗の告訴をされています。もしかしたら、それは感情が一時的に爆発したものなのかもしれません。でも未遂ではありますが、彼は重婚をしようとしたのです。パーシー牧師補からの手紙をどう受けとめるか次第ですが。弁護側は、どのようにしてパーシー牧師補からの手紙を手に入れたのでしょうか? 囚人から直接入手されたのでしょうか?」
「被告人からなにも受け取っていない」ムーンは落ち着いて答えた。「弁護側がしめしたわずかな文書の出どころは別方面からだ」
「どちらからなのか?」ピム博士は訊ねた。
「どうしても教えてほしいということなら」ムーンは答えた。「あの文書はミス・グレイから入手した」
サイラス・ピム博士は目をつぶるのも忘れてしまい、そのかわりに目を大きく見開いた。
「それはつまり」彼は言った。「ミス・グレイが、前スミス夫人について証言する文書をもっていたということなのか?」
「まさにそのとおり」イングルウッドは言うと、腰をおろした。
ピム博士は、声をおとして痛ましそうに思い込みについて一言二言語り、そして明らかに困難な様子を見せながら開会の挨拶を続けた。
「不幸にも、悲劇的な真実がパーシー牧師補の話から明らかになった。その真実を確信させたものとは、他の、衝撃的な文書だった。しかも私たちが持っている文書だった。これらの文書のなかでも、重要で、もっとも確かなのはイノセント・スミスの庭師によるものだ。その庭師はスミスをよく見かけたが、彼のふるまいの大半は、夫婦の不誠実といった類の、芝居にでてきそうな、目をみはってしまうものだったらしい。グールドさん、庭師を紹介してください」
グールド氏は相変わらず上機嫌のまま立ちあがって庭師を紹介した。その庭師の言葉によれば、彼がイノセント・スミス夫妻に仕えたのは、夫妻がクロイドン通りのはずれの小さな家を手に入れた頃のことである。庭師の話はいろいろなことに触れたので、イングルウッドは自分がその場所をみたような気がしてきた。その家があったのは町だろうか田舎だろうか、とにかく道のはずれで、忘れようとしても忘れることができない場所であった。それと言うのも砦に見えるからだ。庭は道よりも高いところにあった。庭のはずれは急斜面になっていて要塞のようだ。向こうにはまごうことなき田園風景が広がり、その風景を一本の白い道が横切っている。灰色の木々の根も、幹も、枝も、空を背景にくねくねと曲がり、ねじれている。小道そのものは町からのびていると主張しているかのようで、灰色に隆起している高台を背にして、くっきりと浮かび上がっているのは奇妙な黄緑色に塗られた街灯で、はずれには赤の郵便ポストがあった。イングルウッドは、その場所をよく知っていた。健康のために自転車を走らせ、二十回ほど通り過ぎたことがあったからだ。通りがかるたびに、そこは何かが起きそうな場所だとかすかに感じた。だが彼が心底震えているのは、怖ろしい友達なのか、あるいは敵なのか分からないスミスが、いつ何時、頭上の庭の茂みにあらわれたかもしれないと感じているからであった。庭師の説明は、牧師補とはちがって、派手な形容詞はなかった。しかしながら文に書けば、ひそかにたくさんつぶやいたのかもしれなかった。庭師がただ語ったことは、ある朝スミス氏は姿をみせると熊手で遊び始めたが、それはしょっちゅうしていることだった。ときどき彼は上の子供の鼻をくすぐったりすることもよくあったー彼には二人の子供がいたー。ときどき彼は木の枝に熊手をかけて、運動をするような勢いで熊手をつかんで木を登ったが、それは巨大な蛙が最後の苦しみにのたうちまわっているかのようだった。あきらかに、彼は熊手を適切な使い方にもとづいて使おうとは考えなかった。そしてその結果、庭師は冷ややかに、そっけなく、彼の行動について語った。それでも庭師には自信があったが、十月のある朝、家の角を曲がりながらホースを手にしているとき、スミス氏が芝生に立っている姿を見た。スミス氏は赤と白の縞の上着を着ていたが、それはゆったりとしたスモーキング・ジャケットだったのかもしれないけれど、パジャマのようでもあった。庭師は、彼がすぐさま妻に呼びかける声を耳にした。彼女は寝室から庭園をながめていた。その声はきっぱりとしていて、騒々しかった。
「もうこれ以上ここにいるつもりはない。ここから遠いところで別の妻をもらい、もっといい子供たちを授かっている。もう一人の妻の髪のほうがずっと赤いし、もう一人の庭師の方が庭をもっと素敵にしている。だから、そっちの方へ行くんだ」
こう言いながら、彼は熊手を空めがけて放り投げーその熊手はかつて大勢の人々が放った矢よりも高いところまで飛んでいったー、そしてふたたび熊手をとらえた。それから駆け足で生垣をはらい浄めると、下の小道に降り、帽子もかぶらないで道を進んでいった。その叙述の大半は、イングルウッドがたまたまその場所を覚えていたことからきていた。彼が心の目で見たのは、背が高く、帽子をかぶっていない人物が、ぎざぎざの熊手を手に、くねくねとした森の小道を意気揚々と歩き、街灯も、郵便ポストも通り過ぎていく姿であった。しかし庭師の説明によれば、彼が誓いをたてて告白しようとしたのは重婚のことやら、空に放り投げられた熊手が一瞬消えたことやら、道を歩いていた男が最後に消えたということであった。さらに地元の男ではあるけれど、スミスが南東の海岸に乗り出していったという噂以外には、彼について知っていることはないと誓いをたてた。
そうした印象を決定づけたのはマイケル・ムーンで、言葉は少ないながら、明確な表現で、三回目の告訴のときに立証した。スミスがクロイドンから逃げ出して大陸に消えたことを否定するには程遠いものではあったけれど、彼はこうしたことをすべて自分の言葉で証明しようとしているように思えた。「あまり皆さんが島国根性でなければよいのですが」彼は言った。「イギリスの庭師の言葉ほど、フランスの宿屋の主の言葉に敬意をはらわないようなことがなければいいのですが。イングルウッド氏の好意のおかげですが、フランスの宿屋の話をこれから聞いてみましょう」
その一団が微妙な問題を決定するよりも前に、イングルウッドはすでに問題の記述を読みはじめていた。それはフランス語で記されていた。こんなふうに書かれているように思えた。
「ダンケルクのやや北よりの町、グラースの海岸通りでデュロバンカフェの主をしているデュロバンという者です。海からきたよそ者について知っていることすべてを書きたいと思います。
変人にも、詩人にも私は共感をおぼえません。物事に美をもとめる分別ある人は、わざわざ美しくあろうとするのです。たとえば小綺麗な花壇や象牙の彫像を見てごらんなさい。美を人生すべてに行きわたらせことは許されないことなのです。それはすべての道を象牙で敷きつめられないようなものであり、また原っぱ中をゼラニウムでおおうことができないようなものです。自信をもって断言しますが、私たちは玉ねぎも必要とするべきなのです。
もしかしたら記憶をさかのぼって物事を考えているせいなのかもしれません。あるいは心理学めいた雰囲気のせいで、科学の目で刺し貫くことがまだできないでいるのかもしれません。でも不面目な事実であることには変わりはないのです。あの晩、狂乱のモンマルトルで酒をあおる詩人さながら、ろくでなしの詩人のように感じたのですから。
ほんとうに海ときたらアブサンのように、苦々しい感じの緑色をしていて、害のあるように見える有様でした。こんなにも見慣れない海は、そのときが初めてです。空には夜明け前の、嵐の前兆のような闇がたちこめ、そのせいで重苦しい気持ちになりました。つんざくような風が吹きつけ、ぽつんと立っている小さな売店のまわりを駆け抜けていきます。ペンキの塗られた売店では、新聞を売っています。風が海岸沿いの砂丘を吹き抜けていきます。海岸に漁船が一艘見えましたが、その船は日にやけた帆をかかげ、海から戻ってきたあと静かに停泊していました。もう、とても近いところにいます。船から出てきたのは怪物像のような男で、その男は岸辺へとなんとか歩いていきました。水はその男の膝までもきていませんが、でも、たいがいの男なら尻まで浸かるだろう深さだったのです。男は長い草かきのようにも、あるいは棒のようにも思えるものに寄りかかっていました。それは三叉の武器のようで、男をトリトンのように見せていました。男は水に体を濡らし、海藻を幾筋も体にはりつけて、わたしのカフェのほうへ歩いてくると、外のテーブル席に腰かけ、チェリー・ブランデーを注文しました。そのブランデーは店には置いてありましたが、めったに注文する客のいないブランデーです。それから、その怪物はとても礼儀正しく手招きをして、夕食前にベルモットをいっしょに飲もうと声をかけてきたので、私たちは話しこむことになりました。その男が小舟を安く手に入れ、ケントから渡ってきたのは明らかでした。それも東の方に急いで進まなくてはという妙な妄想をいだいたからで、定期船がくるのを待とうとしなかったからなのです。いくぶん曖昧な説明ではありましたが、或る家を探しているとのことでした。さり気なく其の家はどこにあるのか訊ねたところ、彼は知らないと言うのです。たぶん島にあって、どこか東の方にあるのだということでした。あるいは、漠然とじれったいような身ぶりで「むこうのほう」にあるのだと言いました。
「もし其の場所を知らないというのなら、見かけたとしても、どうやって知るつもりなのかと彼に訊いてみました。すると彼は突然ぼんやりした状態を脱し、おどろくほど細心の注意を払って語りはじめたのです。彼はその家について語りましたが、その綿密さときたら競売人も満足するほどのものでした。大半は忘れてしまいましたが、最後に語った二つの言葉だけは覚えています。街灯が緑に塗られていたということ、それから角には赤い郵便ポストがあったということです。」
「赤い郵便ポストだって!」私は驚いて叫びました。「なんと、そこはイングランドにちがいない」
「忘れてしまったが」彼は言うと、重々しく頷きました。「そうした名前の島だったかもしれない」
「でも、誰もが知っている名前ですよ」私は憤慨して言いました。「イングランドからいらしたのですね」
「まわりの連中の話では、そこはイングランドだということだ」この愚か者はいわくありげに答えた。「連中は、そこがケントだと言っていた。でもケントの人間というのは大嘘つきだから、話すことはすべて信じられないことばかりだ」
「ムッシュー」私は言いました。「一言いわせてください。私は年上だから、若い方の無鉄砲は理解できないのです。私は常識にしたがって生きています。いや、むしろ常識をさらに応用して拡大した、科学と呼ばれているものにしたがって生きているのです」
「科学だと!」余所者は叫びました。「科学がかつて発見したもので、ひとつだけいいものがある。感極まるほど素晴らしい。それは世界が丸いということだ」
礼儀正しい言葉ではありましたが、彼の言葉を聞いても、私の知性には何の感動もないことを伝えました。「ぼくが言いたいのは」彼は言いました。「世界をぐるりと一周することが、君が今いる場所への最短の道だということだ」
「もっと近道もあると思いますよ?」私は言いました。「今いる場所から動かなければいいのでは?」
「いや、それはちがう」彼は語気を強めて言った。「そんなことをすれば遠回りになるし、くたくたになってしまう。世界の果てを目指してごらん。夜明けを目指してごらん。そこに見つけだすのは妻であり、彼女とはたしかに結婚している。それから家も見つけるだろうけど、その家はたしかに自分の家だ。そしてその家の街灯はひときわ鮮やかな緑に塗られている。街灯もはっきりとした赤に塗られている。ねえ、君?」かれはふと力をこめて訊いてきた。「自分の家から駆けだして、そうしたものを見つけたいと思ったことはないのか?」
「とんでもない。そんなことを考えたことはありません」私は答えました。「理性というものがまず働いて教えてくれますから。憧れがあっても、人生のなかから置き換え可能なものに合わせて生きていきなさいと。ここにいる私にしたところで、ありきたりの人生をいきていくことに満足しているのですよ。興味関心はこの地にあるのです。友人の大半もそうです。それからー」
「それでも」彼は声をはりあげ、背をのばした。「フランス革命をおこしたではないか!」
「言葉をかえすようですが」私は抗議しました。「それほど年老いているわけではありません。少しはつながりのある人たちでしょうけど」
「ぼくが言いたいのは、君の同類が革命をおこしたということだよ」その男は説明をしました。「そうだとも。君のように何とも気障な、落ち着き払って分別のある輩がフランス革命をおこしたんだ。もちろん知っているとも。フランス革命には意味がなくて、以前の状態に戻っているだけだって言っている人もいることを。なんてことだ、ちくしょう。僕たちがみんな戻りたいと思っているのが、以前の状態だなんて! 回転していくもの、それが革命なんだ。あらゆる革命は懺悔のように、逆戻りしていくものなんだ」
彼はとても気が立っていたようでしたから、席につくまで待つことにしました。それから冷ややかに、でも宥めるような言葉をかけました。でも彼は大きな拳で卓をたたき、言葉をつづけました。
「革命を起こすつもりなんだ。フランス人の革命ではなくて、英国人の革命を起こすんだ。神はそれぞれの部族に、反乱の様式を授けてくださっている。フランス人は、市の砦にむかって行進をする。英国人は、郊外にむかって行進をする。それも、ひとりで行進をする。でも、ぼくも世界をひっくり返すつもりだ。ぼくが逆立ちをして歩いていくのはアベコベの土地で、そこでは木も、人も、頭を下にして空からぶら下がっている。でも、ぼくの革命は、君たちの革命のように、地上の人々の革命のように、聖なる場所で、幸せな場所で終わることだろう。そこは天空の、信じがたい場所で、僕たちが以前いた場所なのだ」
男はこうしたことを話したわけですが、それは理屈にほとんど合わないものでした。彼は席をさっと立つと、黄昏にむかって大股で歩いていきながら、手にした棒をゆらしました。そして多すぎるくらいの支払いを置いていきましたが、それは精神的な均衡をくずした彼の精神状態をしめすものでした。これが私の知るすべてであり、釣り船から上陸した男にまつわる話です。この話が裁判のお役にたちますように。私はここに誓います。この話をするにあたってよく考えましたことを。さらに皆様の忠実な僕であることを。ジュール・デュロバン
「人物調査の次なる文書は」イングルウッドはつづけた。「ロシア平原の中央にあるクラゾークという町から届いたものです。そこには以下のように書かれています」
「サー、私はパウル・ニコライヴィッチと申します。クラゾーク近くの駅で、駅長をしている者です。車両をつらねた列車は平原を横断して、中国へと人々を運んでいきますが、私が見守るプラットフォームに降りる客はほとんどありません。そのせいで私の暮らしはやや孤独なもので、手持ちの本に逃避することを余儀なくされるのです。ですが隣人たちと本の話をすることはほとんどまったくありません。啓蒙思想はロシアのこうした地域には、他の地域のように普及してはいないのです。このあたりの農夫ときたら、バーナード・ショーの名前も聞いたことがない有様です。
私は自由主義論者ですので、自由主義思想をひろめようと最善をつくしてきました。ですが革命が失敗してから、自由主義はますます困難なものになりました。革命家たちの行動の多くは、人道主義の純粋な原則に反するものでしたから。そうした行動は、本がないことからきているもので、革命家たちには知識が欠けているからなのです。一連の残酷な行動を容認するわけにはいきません。その行動が、政府の専制政治によるものだとしても容認できません。しかし今では、専制政治を記憶している知識人に非難のほこさきをむける傾向があります。知識人にとっては不幸なことです。
鉄道のストライキがほぼおさまって、間隔をだいぶあけながらですが列車が少しやってくるようになった頃のこと、私は入ってくる列車を眺めていました。男がたった一人でその列車から降りました。とても離れたところにある、車両のもう片方の出口からでした。それはとても長い車両でしたから。もう夕方で、空は冷たく、緑をおびた色をしていました。粉雪が舞ってきましたが、平野を白くするほどではありませんでした。平野は悲しい紫色となって四方八方に広がっていきましたが、遠く離れた大地の平らな頂きには、湖のような夕方の光が射していました。連れのいない男が、列車のかたわらの薄く積もった雪を踏みつけながら近づいてくると、だんだんその姿が大きくなってきました。こんな大きな男に会ったことはないと思ったほどです。でも実際よりも背が高く見えていたのです。肩ががっしりとしているわりには、頭が小さいせいで、彼は背が高く見えたのではないでしょうか。がっしりとした肩には、ぼろぼろに裂けた上着をかけていました。光沢のない赤と汚れた白の縞模様の上着でしたが、冬に着るには薄いものだったと思います。片方の手を大きな棒にかけていましたが、その棒は雑草を燃やそうとするときに使う農夫の熊手のようでした。
その列車の端まで行きつかないうちに、彼は乱暴者たちの一団に囲まれました。その乱暴者たちは、下火となった革命運動の残党たちでした。けれども連中は政府側についたものですから、面目丸つぶれという有様だったのです。助けようと向かいましたところ、彼は熊手をふりまわしては、右をたたき、左をたたきの大活躍。すごい勢いでしたから傷も負わないまま、私の方にのっしのっしと歩いてきました。乱暴者たちはよろよろとしながら後に残されましたが、心底胆をつぶしておりました。
私のところにやってきたとき、彼は荒々しい腕前をみせ終えたところで、あいまいなフランス語で、家を手に入れたいと言いました。
『このあたりに、手に入れられそうな家はそうたくさんはないですよ』と私は相手と同じ言葉で答えました。『この地域は、ひどく落ち着かない状態が続いていますから。ご存知のように最近になって革命は鎮圧されたばかりです。そのうえ建物ときたら―』
「いや、そんなことを言っているんじゃない」彼は大声で言いました。「ぼくが言いたいのは現実にある家なんだ、生きている家なんだ。
それは本当に生きている家なんだ。ぼくから走って逃げたくらいなんだから。」
恥ずかしいことながら正直に申し上げると、彼の言葉のどこかに、彼の身振りのどこかかに、心の底から感動してしまいました。私たちロシア人は民間伝承に親しんで育っているものですから、その悪しき影響が、子供たちの人形にも、イコンにも、鮮やかな色となっているのが見てとれるでしょう。しばし、男から走り去る家という考えに私は喜んでしまいました。啓蒙活動なんて、こんなふうにゆっくり浸透していくものなんです。
「ご自分の家は他にないのですか?」私は訊ねました。
「家から離れてきたのです」彼はとても悲しそうに言いました。「退屈してしまうような家ではないのに、その中にいると退屈してしまうんだ。妻は他のどんな女性より優れているのに、ぼくにはそれが伝わってこないんだ」
「それで」私は共感をこめて言いました。「正面玄関から出ると、そのまま歩いてきたのですね。勇ましいノラのように」
「ノラ?」彼は礼儀正しく訊ねましたが、ロシアの言葉だと思っていることは明らかでした。
「『人形の家』のノラのことですよ」私は答えました。
この言葉にとても驚いた様子でしたので、彼は英国人なのだと思いました。英国人ときたら、ロシア人は勅令のことしか学んでいないと常々思っているものですから。
「人形の家だって?」彼は語気を強めました。「とんでもない。その作品こそが、イプセンの誤謬ではないか! 家の目的とは、人形の家になることにあるのではないか? 覚えていないのか? 子供のころ、人形の家の小さな窓が、どれほど窓らしかったことか。一方、家の大きな窓ときたら窓らしくなかった。子供は人形の家を持っていて、正面の扉が家の中へと開かれると、きゃっと歓声をあげる。銀行家は、ほんとうの家を持っているよ。でも、嫌になるくらい多いんだ。ほんとうの正面玄関が家の内側にむかって開かれても、かすかな吐息ももらさない銀行家が。」
子供時代に聞いた民間伝承のせいで、私はまだ阿呆のように黙ったままでした。そして私がまだ話せないでいるのに、英国人は身をのりだしてきて無遠慮に耳打ちをしました。
「僕は大きなものを小さくする方法を見つけた。つまり家を、人形の家に変えてしまう方法を見つけたんだ。対象からずっと離れてみればいい。神はすべての事物をおもちゃに変えてしまうけど、それは距離という素晴らしい神からの贈り物のおかげだ。いちどレンガの、古い我が家を見てみよう。地平線上に小さく見えている家だよ。するとそこに戻りたくなる。そして僕はみる。おもちゃのように小さく、おもしろい形をした緑の街灯を、門の横にたっている街灯を。愛しい者たちが人形のように小さな姿となって、窓から見ている姿を。僕の人形の家では、窓はほんとうに開くのだから」
「それにしても、なぜ?」私は訊ねました。「その人形の家に戻りたいと思うのです? ノラのように、しきたりに対して大胆に挑んでいるのですよ。月並みな意味で、不面目な思いをされてまで、思いきって自由になろうとしているのではありませんか。それなのに自分の自由を謳歌しようとしないのですか? 現代の偉大な作家たちが指摘しているように、結婚と呼んでいるものは気分的なものにすぎません。そうしたものを置いてくる権利があなたにはあります。髪の毛を切るときのように。爪をとぐときのように。ひとたび抜け出したなら、世界が目の前に広がるのですよ。こうした言葉は奇妙なものに思えるかもしれませんが、ここロシアにおいて、あなたは自由なのです」
彼は夢見るような瞳で、平原の黒い石の上に腰かけました。そこで動いているものと言えば、列車の機関室からはき出される煙の、長く、ゆらめく影くらいでした。煙の色は紫、かたちは火山のようで、淡い緑のような、冷え冷えとした明るい夜に、熱く、重苦しい雲となってたちこめていました。
「たしかに」彼は大きなため息をつきました。「僕は、ロシアでは自由なのです。言われるとおりです。ほんとうに向こうまで歩いていって、もう一度愛しあうこともできる。おそらくだけど綺麗な女のひとと結婚して、やり直すこともできる。そうすれば誰も僕を発見できない。君のおかげで確信したよ」
彼の口調はどこか妙なところがあって謎めいていましたから、何を言おうとしているのか訊ねて、私のせいで何を確信したのかと知りたくなりました。
「君のおかげでわかったよ」彼はやはり夢見るような目で言った。「男が自分の妻から逃げ去ることが、なぜよこしまなことなのか。そしてなぜ危険なことなのか」
「では、なぜ危険だと言うのですか?」私は訊ねました。
「なぜかって。だれからも見つけられることがないからだよ」この奇妙な男は答えました。「でも、僕たちは見つけられたいと思っているんだ」
「思想家のなかでも独創的な人たちは」私は指摘しました。「イプセン、ゴーリキ、ニーチェ、ショーが皆言っていることですが、私たちが最も望んでいるのは見失われることなのです。踏み跡のない道を進み、前例のないことをすることなのです。そうするうちに過去を打破し、未来へとつながっていくことでしょう」
彼は背をのばして立ち上がりましたが、どこか眠そうでした。それから振り返って、後ろの方にあるものを眺めました。正直に申しあげるなら、それはどこか荒涼とした風景でした。濃い紫色の平原、忘れられた線路、ぼろぼろの衣服をまとった反抗者たちの姿がわずかに見えていました。「この地で家を見つけ出すことはないだろう」彼は言いいました。「もっと東のほうにある。もっと東のほうに」
それから私の方に視線をむけましたが、その目には怒りのようなものが浮かんでいました。そして手にした棒で凍てついた大地をトンと突きました。
「もし僕の国に戻ったとしても」彼は大声をあげました。「家にたどりつく前に、精神病院に閉じ込められてしまうかもしれない。僕はこの時代を生きるには、少しばかり自由でありすぎた。なぜニーチェは、愚かしい旧プロイセン軍の列のなかで立っていたのか? なぜショーは、住宅街で禁酒時代の飲み物を飲んだのか? 僕がやっていることは、前例のないことなんだ。足を踏み入れている迂回路は人跡未踏の道だ。そこを打破してみせるとも。僕は革命家だから。けれど分からないのか。こんなふうに跳びはね、破壊してから逃げたところで、それはエデンに戻ろうとする試みに他ならない。かつて僕たちがいた地へ、聞いたことがある地へと。分からないのか? 塀をこわしたり、月を撃っているのは、家に戻るためにすぎないことが。」
「いいえ」私は熟考してから答えました。「そうした考えには納得できません」
「そうかなあ」彼は吐息をついた。「でも君はもうひとつの事実も教えてくれた」
「なにが言いたいのです?」私は訊ねました。「なんのことです?」
「なぜ、君たちの革命が失敗したのかということだよ」それから、ふと列車にむかって歩き出していきましたが、そのなかに乗り込んだのは、蒸気をあげて進もうとする直前のことでした。そして蛇のように長いその尾は、暗くなっていく平原のなかに消えていきました。
それ以降、彼の姿を見たことはありません。彼の視点は、最高の、先進的な考え方とは逆のものでしたが、興味深い人物のように思います。彼が何か文学作品を書いていないか探してみたいと思う次第です。敬具 パウル・ニコラビッチ
どこか奇妙ながら、外国の生活を鋭く洞察した言葉に、不条理な裁判所の面々も水を打ったように静まりかえってしまい、それまでとは一転した。おかげで今度は妨げられることもなく、イングルウッドは手紙の山から別の手紙をひらいた。「これで法廷も大目に見てくれることでしょう」彼は言った。「もし次に読み上げる手紙が、私たちの手紙の書き方と比べてみて作法を欠いたものだとしても。書き手の国では、じゅうぶん作法にのっとったものなのですから」
「天空の原理は永遠なりとご挨拶。私はウォン・ハイという者で、フーの森にある、一族が葬られている寺の番人をしています。空から降ってきた男は、そんな仕事は退屈にちがいないと言いましたが、そうした考えは間違っているということを彼に教えてやりました。たしかに、私はひとつのところにずっといます。叔父がここに連れてきてくれたとき、私はまだ少年でしたが、死ぬのもこの寺のなかでしょう。でも、ひとつの場所に留まり続ければ、その場所がかわりゆく様を目にすることになります。私の寺にある仏塔は、木々のあいだからひっそりとそびえています。その様子は、まるで緑色の仏塔があまた並び、その上に黄色の仏塔があるかのようです。だが、空はときには磁気のように青く、ときには翡翠のように翠に、ときには紅榴石のように紅く。だが、夜になれば、かならずや黒檀のいろに、かならずや戻らん…ホー皇帝はこう書かれました。
「その男があらわれたのは夜のことでしたし、しかも突然でしたから、緑の木々の頂にざわざわとした気配を認めないまま、その木々のむこうをまるで海を見るように眺めながら、朝になると私は寺の塔へと出かけたのでした。それでも彼がきますと、あたかもインド皇帝軍から象がはぐれたような勢いでありました。椰子の木がへひしゃげ、竹が割れたところに、朝日をあびながら寺院のまえに現れたのは、ふつうの人よりも背が高い男でした。
紅と白の紐がその男にまとわりつき、お祭りのリボンのようでした。そして彼は棒を持ち歩いていましたが、その棒の握りの上には歯が一列にならび、まるで竜の歯のようでありました。その顔からは血の気が失せ、取り乱している有様は外国人のようで、悪魔がいっぱいとりついた死者のように見えるほどでした。ですが、その男は、私たちの言葉を随分くだけた調子で話しました。
彼は私に言いました。「ここはただの寺じゃないか。見つけようとしているのは家なんだ」それから不作法なくらいに性急に話したところによれば、家の外にあるランプは緑色で、角には紅い郵便ポストがあるということでした。
「旦那様の家をみたこともなければ、ほかの家もみたことはありません」私は答えました。
「私はこの寺に住み、神に仕えている者です」
「神を信じているのか?」彼は訊いてきましたが、その目は飢えでぎらつき、犬が飢えているかのようでした。そしてこの問いかけは奇妙な質問のように思えました。神を信じる以外に何をせよと言うつもりなのでしょうか?
「旦那様」私は言った。「空が空っぽだとしても、両手をあげることは正しいことなんですよ。神様たちがいれば、喜ばれるでしょうから。もし神様たちがいらっしゃらないとしても、手をあげることで不快になる方は誰もいないでしょう。空は時には黄金色に、時には斑岩の赤紫に、時には黒檀のいろになりますが、その下にはいつも木が、寺があるのです。偉大なる孔子の教えにこういうものがあります。私たちが手や足でいつも同じことをしていたら、賢い獣や鳥もそうするでしょう。私たちも頭をつかえば、多くのことを考えるかもしれません。そうです、旦那様、たくさんのことを疑ってみなさい。正しい季節に米をあたえるなら、正しいときにランタンに火をともすなら、神がいても、いなくても問題ではないのです。こうしたものは神を慰めるためにあるのではなく、人間を慰めるためにあるのですから」
近づいてくると、彼は無法者らしく見えましたが、それでもその表情はとても穏やかでした。
「寺をこわせ」でも彼は言いました。「そうすれば君の神々も自由の身となるだろう」
そこで彼の単純さに微笑みながら、私は答えました。「けれど、もし神々はいないというならば、私に残されるのは壊された寺だけではありませんか。」
この言葉を聞いた大男は、理性の光があまり射し込んでいない者のようではありましたが、骨太の両手をさしだして、自分を許すようにと請うてきました。そして何を許されたいのかと訊きましたら、彼はこう答えました。
「正しいということを」
「君たちの偶像も、皇帝もとても古くからあるもので、賢いし、満足のいくものだからなんだよ」彼はわめきました。「だから、そうしたものが間違っていたりしたら、恥ずかしくなるんだ。ぼくたちは不作法なところもあるし、暴力的なところもあるから、君の国のひとにしょっちゅう酷いことをしてきた。ぼくたちが正しかったりすれば、それは恥ずかしいことなんだ」
それでも私は彼の邪気のなさに耐えながら、なぜあなたは正しいのかと、あなたの国の方々が正しいと考えるのかと訊いてみました。
すると彼はこたえました。「ぼくたちが正しいのは、支配されるべき地で支配され、自由であるべき地で自由であるからだ。ぼくたちが正しいのは法を、習慣を疑い、破壊するからだ。でも、そうしたものを破壊する権利があるのかということについては疑いはしない。それというのも、あなた方は慣習にしたがって生きているが、ぼくたちは教義にしたがって生きているからだ。ぼくを見てごらん。国では、ぼくは『スミップ』と呼ばれている。国を去って、名前も完全さを損なわれたままなのは、ぼくが世界中をまわって、自分が持っていたものを探しているからなんだ。君が木々のように不動の存在でいるのは、君が信じていないからだよ。ぼくが嵐のように激しく動き回るのは、ぼくが信じているからなんだよ。ぼくは自分の家を信じている。だから、その家をもう一度見つけてみせる。やがて緑の街灯も、赤の郵便箱もとうとう見つけるだろう」
私は彼に言いました。「やがてすばらしい知恵も…」
でも私がその言葉を言いましたときに、かれは恐ろしい叫びをあげながら飛び出していき、木々のあいだに消えてしまいました。この男をふたたび見たことはありませんし、他の男を見たこともありません。賢明さという美徳は、上質の真鍮、すなわち凄まじい騒音と紙一重だと学んだように思います。
ウォン・ハイ
「次に読みあげる手紙は」アーサー・イングルウッドは続けた。「訴訟依頼人の奇妙な性格をはっきり示すことだろう。カリフォルニアの山からで、内容は以下のとおりである。」
「サー、この素晴らしい記述に該当する人物は、しばらく前にシエラの山道を通り過ぎていきました。そこに私は住んでいるのですが、おそらく定住しているのは私だけです。私はごく簡単な酒場を営んでいます。山小屋よりも簡素な酒場で、ひときわ険しい山道にあります。私の名前はルイ・ハラ、この名前のせいで私の国籍について戸惑われるかもしれません。ええ、私もそのせいでずいぶん困惑しています。十五年間社会から外れて過ごしたら、愛国心をいだくのは難しい。小さな村すらないところにいたら、国家について考えることは難しい。私の父は獰猛なアイルランド人で、昔カリフォルニアにいた連中のように銃の名人でした。母はスペインのひとで、自分がサン・フランシスコにつらなるスペインの古い家系であることを誇りにしていましたが、レッド・インディアンとの混血だと陰口をたたかれていました。私は教育を十分にうけていたので、音楽も愛していたし、書物も愛していました。ですが、他の混血児たちの大半がそうであるように、人々から見れば、ときには優秀でありすぎたり、ときには受け入れがたいと思われることもあったのです。いろいろなことに手をだしてみた後、孤独な生活ながら十分に暮らしてきたのは、山のなかで此の小さな酒場を営んでいたからです。でも侘び住まいをおくるうちに、野蛮人のような暮らしに近づいてきました。冬になればエスキモーのように、体の輪郭がわからなくなるほど着ぶくれます。暑い夏になればレッド・インディアンのように、皮のズボンだけをはき、太陽から身を守るため、大きな麦わら帽子をかぶります。ベルトには鞘つきナイフをつるし、わきには長い銃をかかえるのです。あえて申し上げるなら、私のいる場所へと登ってくる旅行者たちには荒々しい印象をあたえました。でも、あの男ほどには狂気にかられているとは思われなかったにちがいありません。あの男と比べたら、私は五番街の住民のような洒落者ですから。
あえて申し上げるなら、シエラ山脈の頂上のすぐ下で暮らしたせいで、私の心は少なからず影響をうけました。こうした寂しい岩山のことを考えるときに、先の尖った頂としてではなく、天国をささえる柱として思い浮かべてしまうのです。そそりたつ絶壁はどこまでも続き、鷲の絶望も遠くへおいやります。絶壁はとても高くそびえているものですから、星をひきよせては集めているように見えます。それは海の岩がリンの輝きを集めるかのようでもありました。岩の大地も、岩の塔も、小さな峰からなる山とは異なって、この世の果てには思えませんでした。果てと言うよりはむしろ、恐ろしい世の始まりのようにも思えたのです。そう、恐ろしい世の根幹のように…。頭上に山が枝をのばしてくるようにも思え、まるで岩でできた木のようでありました。宇宙の光がさしてくるようにも思え、枝わかれしている燭台のようでもありました。山の頂は私たちを見捨て、不可能なくらいに空高く舞い上がっているのです。星々が私たちのまわりに群がり(そのように思えました)、信じられないくらいに近づいてきました。球体がまわりで爆発する様子は、稲妻が地に叩きつけられるようであり、穏やかに回転する球体には思えませんでした。
こうした諸々のことのせいで、私は狂気においやられたのかもしれません。はっきりとはわかりませんが。道を行くと曲がり角にでます。そこには岩が少しせりだしていました。風の強い夜には、頭上で、その岩が別の岩にぶつかる音が聞こえるような気がしたものです。そう、その音は街と街がぶつかり合う音でもありました。砦と砦がぶつかり合う音でもありました。そうした音が、夜のはるか向こうから響いてくるのです。奇妙な男が道を登ってきたのは、そうした或る夜のことでした。これは一般的な話ではありますが、奇妙な男だけが、あの道をなんとか登ることができるのです。でもそれにしても、ああした男を見るのは初めてのことでした。
私には何故なのか見当はつきませんが、彼が手にしていたのは草かきで、それはずいぶん長いものでしたが、壊れていました。麦の穂がからみ、草のせいで泥まみれになっているものですから、古代の野蛮な種族の旗のように見えました。彼の髪は牧草のように長く、伸び放題で、がっしりとした肩の下あたりまで垂れさがり、ぴたりと身に貼りついたその服はぼろきれ同然、赤と黄色の炎といった有様でしたから、羽毛飾りか秋の葉で飾り立てたインディアンのような出で立ちという風がありました。草かきとでもいいましょうか、それとも干し草用フォークなのでしょうか? それが何だとしても、時々、彼はそれをアルペンストックのように用い、時には武器として用いた…と聞きました。なぜ武器として使ったのか理由はわかりません。そのときには、もう武器を持っていたのですから。あとから見せてくれました、ポケットにある六連発の銃を。「だが、これは使うのは」彼は言いました。「平和な目的のためだけだ」でも、彼が何をしようとしているのか、私の理解をこえていました。
私の酒場の外にある粗末なベンチに腰をおろすと、彼は眼下のぶどう園のぶどうでつくられたワインをのみながら、杯のうえに感嘆の吐息をもらしました。その有様は異国のひとをかき分け、残酷な獣たちをやり過ごしながら、長いあいだ旅をしてきた人々が、ついに懐かしい風景を見つけたときのようでありました。それから腰かけたまま、惚けた様子で見つめたのは粗末なつくりのランタンで、鉛と色硝子でできたそのランタンは酒場の扉にかかっていました。古いものでしたが、何の値打ちもないものです。それははるか昔、祖母がくれたものでした。その硝子に描かれているのは、稚拙なものながらベツレヘムと賢者と星の絵でした。彼は恍惚としながら、聖母マリアの青い聖衣の透きとおる輝きと、その背後にある大きな、金色の星をながめました。そして私を連れていって、そのランタンを見せました。十四年のあいだ、私はランタンをよく見たことはありませんでした。
それから彼はランタンからゆっくりと目を離すと、眼下の道が見えなくなる東の方を眺めました。日没の空は、豪華なベルベットでできたアーチ形天井のようで、その空は藤色となり、銀色となって黒々とした山の際に吸いこまれていき、山々が古の円形劇場のように取り囲んでいました。足下には峡谷が深く入りこみ、「緑の指」と呼ばれている寂しい絶壁が高くそびえていました。それは奇妙な、火山のような色をしていて、判読できない文字のように見えるものが至る処に亀裂をつくっていました。そんなふうにそびえている様子は、あたかも古都バビロンの柱か天秤梁のようでした。
その男は無言で、その方向を熊手で指し示しました。彼が話すよりもまえに、言いいたおことはわかりました。緑色の、巨大な岩のむこうには紫色の空がひろがり、星がひとつ出ていました。
「星がひとつ、東の空に」彼は奇妙な、しゃがれた声で言いましたが、その声は古の鷲のようでした。「賢者たちはあの星にしたがって進み、家を見つけました。けれども私が星にしたがったところで、家を見つけることができるだろうか?」
「おそらく、それは」私は微笑みながら言いました。「あなたが賢い人かどうかによるでしょう」
賢くは見えないと言いたいところでしたが、それはこらえました。
「君のひとり合点なのかもしれないよ」彼は答えました。「僕が自分の家を離れたのは、そこを留守にしていることに耐えられなくなったからだなんて」
「矛盾しているように聞こえる言葉ですが」私は言いました。
「妻と子供たちの話し声が聞こえたし、部屋を動き回る姿も見えた」彼は続けました。「けれど僕には分かっていた。妻と子供たちが歩き回り、話しているのは、数千マイル離れたところにある別の家で、異なる空の光のもとだということが。そして七つの海のむこうだということを。彼らのことを愛しているよ、熱烈に。遠いところにいるように思えるだけではなく、到達しがたいところにいるように思えるからなんだ。人間がこんなに親しいものに、好ましいものに思えたことがあるだろうか。でも僕ときたら、冷たい幽霊のようなんだ。だから、そうしたつまらない人間と縁を切って宣言したんだ。いや、それだけではない。世界を踏みつけて鼻で笑ったんだよ。すると世界は踏み車のように一回転したではないか」
「あなたが言わんとするところは、つまり」思わず大きな声で言ってしまいました。「世界を一周してきたということなのですか? あなたは英語を話しているし、それに西の方から来たというのですから」
「でも僕の巡礼の旅は、まだ終わっていないんだよ」彼は悲しそうに答えました。
「僕が巡礼者になったのは、流浪の身である自分を癒やすためなのだから」
「巡礼者」という言葉にある何かのせいで喚起された記憶とは、ひどい経験と共にあるものですが、先祖たちが世界に感じていたものについてであり、私がやってきた場所にまつわるものについてでありました。絵が描かれた小さなランタンをもう一度見てみました。それは、十四年のあいだ目に入らなかったものでした。
「私の祖母なら言ったことでしょう」私は低い声音で言いました。「私たちは皆、流浪の民であると。そして、この世の家にいるかぎり、休むことも禁じられた、ひどいホームシックを癒やすことはできないと」
彼は長いあいだ黙り込み、一羽の鷲がただよって「緑の指」をこえ、暗がりの闇に吸いこまれていく様子を眺めていました。
それから彼は言いました。「君のおばあさんは正しかったと思うよ」立ち上がると、草のからんだ棒によりかかりました。「それには道理があるにちがいない」彼は言いました。「人間の生はなんと神秘にみちたものか、恍惚に我を忘れるときもあれば、思いが充たされないときもある。けれども、もっと言うべきことがある。神は特別な場所への愛をさずけてくださったのだと。家族の者たちがいる炉辺への愛、そして故郷への愛を。もっともな理由があったからだが」
「それは」私は訊ねました。「どうしてなのでしょうか」
「なぜなら、そうしなければ」彼は言いながら、手にした棒で空を、暗黒の空間をしめしました。「あそこに見えるものを崇拝してしまうだろう」
「なにが言いたいのですか?」私は訊ねました。
「永遠だよ」彼は乾いた声で言いました。「幻影のなかでも一番大きいものさ。神のライバルたちのなかでも最強の存在だ」
「おっしゃりたいのは自然崇拝とか無限とか、そういうことなんですね」私は返答しました。
「僕が言いたいのは」彼は熱意をこめて言いました。「天国に私のための家があるとすれば、その家には緑色の街灯も、緑の生け垣もあるということだ。いや、緑の街灯や生け垣と同じくらい、はっきりと僕の家だとわかる何かがあるだろう。つまり僕が言いたいのは、神様が命令されたってことなんだ。ある場所を愛すように、その場所に仕えるようにと。その場所をたたえるために、少し荒々しくても、ありとあらゆることをしなさいと命令されたんだ。だから、この或る場所とは、すべての無限性と詭弁について証言する場所なんだ。すなわち天国はどこかにあるはずなんだけれど、どこにもありはしない。天国とは何かのかたちをしているんだけれど、実は何のかたちもない。もし天国の家に緑の街灯がほんとうにあったとしても、僕はあまり驚かないだろう」
そう言いますと彼は熊手を肩にかついで、のっしのっしと危険な道をくだっていき、私は鷹といっしょに取り残されました。でも彼が立ち去ってからというもの、家を失った者の熱情にゆさぶられるのです。見たことのない雨にぬれた牧草地やら泥だらけの小道に思い悩むのです。こんなふうに私もアメリカのことを思うのだろうかと。 敬具
ルイ・ハラ
一瞬黙り込んでからイングルウッドは言った。「では最後に、次の手紙を証拠として出そう」
「私はルース・デイヴィスと申します。クロイドンにあるローレル荘で、六ヶ月にわたってI・スミス夫人の女中をしておりました。私がまいりましたときに、そのレディは二人の子供たちとだけで暮らしていらっしゃいました。未亡人ではございませんでしたが、ご主人はそこにはいらっしゃいませんでした。奥様はたっぷりお金をいただいた状態で残されたようで、ご主人様のことで思い悩むような気配はございませんでしたが、それでも直に戻ってくるだろうと思っていらしたようです。奥様の言葉によれば、旦那様には突拍子もないところがおありで、ちょっとした変化でもすぐにご機嫌がよくなったそうです。先週のある夕方、芝生のところで紅茶の用意をしていたのですけど、あやうくカップを落としてしまうところでした。長い熊手の先が生け垣から飛び込んでいて、跳躍競技の棒のように地面にささっているのですから。そして生け垣をこええて、棒に乗った猿のように現れたのは、体の大きな、身の毛のよだつような男で、髭も髪も伸び放題で、ロビンソン・クルーソーのようにその服はぼろぼろでした。思わず金切り声をあげてしまいましたが、奥様は椅子から立ち上がることもなさらないのです。ただ微笑んで、髭をそりたいわねえと仰いました。するとその男は落ち着き払って庭のテーブルにつき、紅茶をのみました。そのとき私は事情を呑み込んだのです。この男こそスミス氏に他ならないと。それ以来、この屋敷にいらっしゃいますが、あまり大した問題もおこされていません。それでも時々、頭に弱いところがある方ではなかろうかと思うことも度々あります。
ルース・ディヴィス
追伸 申し上げるのを忘れておりましたが、ご主人さまは庭をみわたしてから、仰いました。それはうるさいくらいに力強い声でした。「素敵な場所に住んでいるなあ」と。まるでその場所を初めて目にするようでしたよ。」
その部屋には闇が漂いはじめ、静寂がたちこめていた。夕方の太陽から、金の粉のような一筋の光が部屋にのびて、メアリー・グレイの空席に漠とした荘厳さを添えた。デューク夫人はまだ眠っていた。イノセント・スミスはー夕陽をあびてせむしの大男のように見えたー自分の紙のおもちゃの方にどんどん身をかがめていき、じりじりと距離を狭めていった。だが五人の男たちは議論に熱中していたけれども、気にかけていることといえば裁判所を有罪にしないで、互いを有罪にすることであったので、国家特高警察委員会のような感じで食卓を囲んでいた。
突然、モーゼス・グールドは大きな科学の本を手にとると、他の本の上にどさりと投げ、短い足を食卓にほうりだした。椅子をうしろのほうに倒していき、ひっくりかえるそうになるくらいまで傾していきながら、口笛をふいた。居合わせた者の心臓が縮みあがるくらいに長々と続く、まるで蒸気エンジンのような口笛で、それは「ばかばかしい」と言わんばかりであった。
ムーンに何がばかばかしいのか訊ねられると、彼はもう一度、本をどさりと背後に放ると、かなり激高しながら答え、書類をはらいのけた。
「みんな妖精物語だよ、君たちが読み上げたものは」彼は言った。「そんな話をしないでくれ。そんな話を聞くような屑野郎ではないのだから。でも妖精物語をされているということはわかっているよ。哲学的な問題で少し困惑しているものだから、BとかSとかを探しにいきたい気がする。でも住んでいるのはウェスト・ハンプテッドであって、地獄ではないからなあ。要するに、何かが起きているともいえるし、何かが起きていないともいえる。今聞かされた話は実際には起きていないことなんだ」
「たしか」ムーンは重々しく言った。「はっきりと説明したことだと思うが」
「ああ、たしかに。はっきりと説明してくれたよ」グールド氏はすこぶる饒舌に認めた。「戸口から離れたところでなら、君は象の説明をするだろう、たぶん。僕は君みたいに賢いわけではない。でも生まれついての才能の持ち主じゃないんだから、マイケル・ムーン。戸口に象がいるなら、説明を聞かないでもないよ。こんなふうに。
『トランク(トランクは象の長い鼻も意味している)をさげているじゃないか?』と僕がいう。
すると君は『僕のトランクだ』と答える。『旅をすることが好きなんだ。変化は僕に良い影響をあたえてくれるから』
『でも、いまいましい生き物だ。牙がついている』と僕はいう。
『もらい物のあらを探すんじゃない』と君はいう。『感謝しろよ、生まれたときに善良さ、優美さが微笑んでくれたことを』
『でも家と同じくらいに大きいじゃないか』と僕はいう。
『それはすごい透視図だ』と君はいう。『聖なる魔法を距離にかけたな』
『そうか?たしかに象の鳴き声ときたら、最後の審判の日のようだけど」と僕はいう。
『君の意識が語りかけているんだよ、モーゼス・グールド』君は重々しく、優しい声でいう。
僕にも君と同じ意識はある。日曜日に教会で、君が聞かされるような話の大半を僕は信じていない。それにここが法廷だとはもう信じていない。君が教会のなかにいるようにしゃべるからだよ。象は大きいし、醜いし、危険な獣だ。でも、それとスミスは別なんだ。」
「モーゼス・グールド、君が言いたいのは」イングルウッドは訊ねました。「僕たちが提出した無罪弁明の証拠について、まだ疑っているということなのか?」
「ああ、まだ疑っている」グールドは傲然と言い放った。「証拠はどれもこじつけだし、はっきりしないものばかりだ。どうやってそんな話を確かめるのか?コースキー・ウォスキーとか、そんな名前の駅にどうすれば立ち寄って、ピンク色の紙に印刷されたフィナンシャル・タイムズとかスポーティング・タイムズといった類の新聞を買うことができるのか? シエラ山脈のうえにあるパブにどうやって出かけて、酒を飲めばいいというのか? でもワージングにある詩人バンティングの下宿屋になら誰もが行くことができる」
ムーンはグールドを見つめたが、その顔にうかんだ驚きは心からのものなのか、偽りのものなのか判断しかねた。
「誰であろうとも」グールドはつづけた。「ミスター・トリップを求めることができる」
「ずいぶん元気のでる考えじゃないか」マイケルは抑制しようとしながら答えた。「だが、なぜ誰であろうとも、ミスター・トリップを求めるのか?」
「まったく同じ理由だよ」興奮したモーゼスが両手でテーブルを叩いた。「まったく同じ理由だよ。ミスター・トリップが旦那たちとやりとりをしたのと同じ理由だよ。ハンベリーとブートルで主の祈りをささげる喧しい旦那たちとね。それからヘンドンにある一流の学校で教えているミス・グリッドレ―とやりとりをしたのも、下宿屋の嘘つき老嬢とやりとりをしたのも同じ理由だよ」
「さて、人生の道徳に関する根本にすみやかに戻ることにする」マイケルは言った。「なぜ、数ある職務のなかでも、下宿屋の老いたる嘘つきレディと手紙のやりとりをするのだろうか?」
「それは人としての職務ではない」グールドは言った。「喜びでもない。たしかだとも。彼女は魅力のある男を連れているだけなのだから。下宿屋の嘘つき老嬢がしているのは、そういうことだ。でも訴追人の職務のひとつにあたるから仕方ない。無邪気にも飛びまわる友人スミスの経歴を追いかけなくてはいけないから。僕が名前をあげた人達全員にしても、嘘つきレディの場合と同じ理由からだよ。」
「それならば、なぜ、そうした人たちを起訴しようとしているのか?」イングルウッドは訊ねた。
「なぜだって! 蒸気船を沈められるくらいの証拠を手にしたからだ」モーゼスはわめいた。「書類を手にいれたからだよ。君たちの素晴らしいイノセントは口は悪いし、物を破壊するからだよ。さあ、これが彼が破壊した家庭だ。僕も自分が聖人だと言うつもりはない。でも名誉にかけて言うが、可哀想な女たちを不利な立場に追いやったりしない。女達を見捨てたり、たぶん殺すこともできるような男なのだから、小屋を壊したり、教師を銃で撃つこともできるだろう。でも、いずれにせよ他の話まで気にしたりはしない。」
「私が考えるところでは」サイラス・ピム博士は上品ぶった咳払いをした。「やや不規則なかたちで、私たちはこの問題に近づいているのです。これが訴状にある四番目の告訴です。たぶん皆さんの前に厳正な、規則正しいやり方で示したほうがいいのでしょう。
マイケルのかすかなうめき声が、暗がりにしずんでいく部屋の沈黙をやぶった。
四章
行き当たりばったりの結婚をしたのか、それとも一夫多妻の容疑で訴えるべきなのか
「現代人は」サイラス・ピム博士はいった。「もし思慮深く振る舞うことが可能であれば、注意をはらいつつ、結婚の問題へと到達しないといけません。結婚とは一段階なのですから。人類が目標にむけて前進していく長い過程における一段階なのですから。その目標がどんなものかということはまだ想像できませんし、おそらくは欲望に即したものでもないでしょう。紳士の皆様、結婚の倫理的な位置とは何なのでしょうか? 私たちは、それを乗り越えたのでしょうか?」
「それを乗り越えたかだって? 」ムーンは声をあげました。「それを乗り越えた者は誰もいない! アダムとイヴの頃から結婚してきた人を見てみろ。みんな完全に死んでいるじゃないか」
「それはあきらかに何とも滑稽な質問だ」ピム博士は冷ややかにいった。「ムーン氏の結婚についての見解ですが、どれほど熟慮されたものなのかは分かりません。どれほど倫理的なものなのかも分かりません」
「分かるとも!」マイケルは怒りにかられ、暗闇からいった。「結婚とは、死に対する決闘だ。名誉を重んじる男なら辞退できないものだ」
「マイケル」アーサー・イングルウッドは低い声でいった。「静かにしろ」
「ムーンさんは」ピムは上機嫌でいった。「この制度について、ずいぶん時代遅れの考え方をしている。おそらく、この制度について厳しくとらえ、画一的な考え方をしている。離婚について考えるとき、ムーンさんは鉄のような心でとらえるのだろう。ジュリアス・シーザーの離婚について考えるときも、ソルト・リング・ロビンソンの離婚について考えるときも、同じようにみているんだ。ろくでなしの浮浪者や労働者が妻から逃げ出すときと同じように。でも科学の視点はもっと広いものだし、人間らしいものなんだ。科学者にとっての殺人は、絶対的な破滅への渇きからなんだ。それと同じように科学者にとっての盗みとは、つまらないものを手にいれることへの飢えなんだ。だから科学者にとって一夫多妻制とは、多様性を求める本能がいちじるしい発展をとげたものなんだよ。こんなふうに苦しむ人間には不変性を求めることはできない。あきらかに肉体的な理由があって花から花へと飛びまわる。それはあきらかに、断続的なうなり声がきこえるから、そのせいで今、ムーンさんが苦しんでいるように見えるのと同じことだ。我らがウィンターボトムも世間をあざけりながら、こう言い切っている。「稀な存在ではあるが、素晴らしい肉体をもつ或る人々にとって、一夫多妻制とは女性の多様性を認識するものにすぎない。友愛というものが、男性の多様性を認識するものであのと同じことである」どちらにしても、多様性をもとめる傾向は、信頼できる調査からも認められている。こうした傾向は、たとえば黒人女に先立たれた男やもめが第二の妻として、アルビノのと結婚をするようなことなどに多く認められる。こうした傾向のひとは、パタゴニアの女性の大きな抱擁から解放されると、想像力豊かな本能がはたらいて、エスキモーの心慰められる姿へと行き着く。この傾向に、被告が属していることは明らかである。もし行き当たりばったりの運命や耐えがたい誘惑が、そうした人々の弁明となるのなら、被告にはあきらかに理由がある。
調査を始めるとすぐに、弁護側は騎士道的な想像力をみせたので、さらなる論争に発展することもなく、僕たちの話の半分は認めてもらえた。僕たちも慈悲深いやり方を認め、真似することにしたい。副牧師がカヌーや堤防について語りきかせた話を認めよう。若い妻のことが本当らしく思える話も認めよう。たしかに彼は、ボートのなかで突き倒しかけた若い女性と結婚した。まだ考えるべきことは残されている。彼女と結婚するかわりに、彼が彼女を殺したとしたら、不親切だったのではないかということである。この事実を確認したので、こうした結婚の疑いようもない記録を弁護側に認めることができる。」
そう言いながら、彼は「メーデンヘッド・ガゼット」紙からの切り抜きを手渡した。その切り抜きにはっきりと記されているのは「馬車」の娘の結婚で、その地で家庭教師として知られていた娘はが、ケンブリッジのブレークスピア・カレッジに最近までいたイノセント・スミス氏と結婚したという内容であった。
ドクター・ピムがふたたび語り始めたとき、その顔には悲劇的な、でも勝ち誇ったような表情をうかべていた。
「予備の事実について少し考えてみたいと思います」彼は重々しくいった。「この事実だけが我々に勝利をもたらすものでしょうから。もし切望するものが勝利であって、真実ではないとすればの話です。個人的な、家庭に関する問題が我々の興味をひきつけるものである限り、その問題は解決しているのです。ウォーナー博士と私がこの家に入ったのは、ずいぶんと感情的に難しいときのことでした。英国人のウォーナーは多くの家に入って、病気から人間を救ってきました。今回、彼が入ってきたのは、歩く災いから無邪気なレディを救うためでした。スミスは、この家から若い娘を連れ去ろうとしていました。彼の馬車と鞄はまさにその扉のところにあったのです。彼は娘にこう語りました。彼の叔母の家で、彼女は結婚許可証を待つのだと。あのおばさんは」サイラス・ピムは言いながら、気取って陰鬱な表情をうかべた。「あの空想にふけるおばさんは踊り回る鬼火で、おおぜいの高潔な乙女を破滅へと追いやってきた。何人の乙女が、彼にその聖なる言葉を耳にささやかれたことか。彼が『おばさん』と言うと、彼女のまわりで輝きはじめるんだ、アングロサクソンの家庭らしい陽気さが、高潔な道徳が。やかんはシュンシュン、ねこちゃんはゴロゴロと、騒々しい馬車の中で音をたてて破滅へとむかうんだ」
イングルウッドは顔をあげると、或ることに気がつき呆気にとられた(東半球の住人なら、多くの者が気づくことではあった)。アメリカ人とは真剣なだけではなく、実に雄弁で、感動をいだかせる人種なのであるー東半球と西半球の相違が是正されるときには。
「ずいぶんと悪趣味な話ながら明らかなことに、スミスという男はこの家の無邪気な女性にふさわしい相手として自分を紹介したのです。実際は結婚していたのに。仲間のグールド氏に賛成したいところですが、他のどの犯罪もこれに匹敵はしないでしょう。私たちの祖先が純粋さと呼んでいたものに決定的な倫理的価値があるのかどうかについて考えるとき、科学者はずいぶんと誇り高い躊躇をみせるのです。でも、いかなる躊躇もみせてはなりません。相手は女性にたいして残虐非道をおこなう下劣な市民です。科学の審判がこうした男にくだるのを楽しみにしようではありませんか?」
「パーシー牧師補が言及した女性はスミスとハイベリーで暮らしているそうだが、その女性とは彼がメイドンで結婚した相手と同一人物なのかもしれないし、それとも違う女かもしれない。もし短くも甘美な言葉が、いつでも心を安らかにしてくれ、不品行な人生に彼がおぼれていくことをさまたげるものなら、話せば長い過去の推測話を彼に聞き出すようなこともないだろう。推測される日付以降、ああ、なんとしたことだろうか。彼がどんどん深みにはまっていったのは、不貞と恥にふるえる沼地である。」
ピム博士は目をとじた。だが不幸なことに、この馴染みのある身ぶりに残された光はなく、無理もないが道徳上の効果もなかった。牧師補とともに一息ついてから、彼はつづけた。
「被告人が何度も、乱れた結婚をくりかえしたという最初の訴訟は」彼は説明した。「レディ・バリンドンから出されたものだ。彼女の言葉によれば、彼女はとても高貴な家の人間で、ノルマンや先祖代々の小塔から全人類を見ることが許されているらしい。彼女が送ってきた手紙によれば、以下のように続いている」
「レディ・ベリントンはこの痛ましい出来事について記されますが、仔細を語ることはしません。ポリー・グリーンという娘は腕のよい仕立屋で、二年ほど、この村に住んでいました。結婚していないという娘の状況は彼女にとっても、村の道徳全般についてもよろしくないものでした。そこでレディ・ベリントンは、この若い娘が結婚することを好ましく思っていることを伝えました。村人たちは当然のことながらレディ・ベリントンに従い、幾人か結婚相手を探しました。グリーンという娘に悲しむべき異常さ、邪さがなかったならば、万事うまくいっていた筈なのです。レディ・ベリントンも村があるところには、一人くらい愚か者がいるだろうと考えていますが、彼女の村にもやはり下劣な連中のひとりがいたようです。レディ・ベリントンも一度だけ、その者を見たことがありますが、根っからの愚か者なのか、田舎の下層階しかし彼女の目をひいたのは、この男の頭が相当小さくて、身体の他の部分と釣り合いがとれていないということでした。確かに男が、選挙の日に相対立する二つの党の薔薇の胸飾りをつけてあらわれたという事実は、レディ・べリントンにすれば状況を疑いようのないものにしたのです。しかも驚いたことに、この悩ましい存在の男は、問題の娘のまえに求婚者のひとりとして現れたのです。レディ・べリントンの甥は、この件について卑劣漢に問いただし、そんなことを夢見るなんてロバのような愚か者だと言いました。そうしましたら、低能じみたにやにや笑いとともに返事が返ってきましたが、それは「ロバとはだいたいニンジンのあとを追いかけるんだ」というものでした。級によくいるようなひどい田舎者なのか、見分けるには難しいものがありました。さらにレディ・ベリントンを驚かせたのは、不幸な娘がこの怖ろしい求婚をうけようとしたからで、そのとき彼女はガースという葬儀屋をしている男からも結婚を申し込まれていましたし、ガースの方が彼女より地位が高かったのです。レディ・ベリントンは当然のことですが、そうした取り決めには一瞬たりとも賛成しませんでしたので、この不幸な二人は逃げだしてしまい、秘密裏のうちに結婚をしました。レディ・ベリントンはその男の名前を正確には覚えていませんが、たしかスミスだったように記憶しています。村ではいつも「イノセント(悪意のない者)」と呼ばれていました。のちに彼は精神的な衝動にかられてグリーンを殺害したとレディ・べリントンは確信しています。」
「次の手紙は」ピムはつづけました。「より簡潔に記されているので、要点を簡単につかむことができると思います。その手紙はハンベリー&ブートルという出版社から送られたもので、以下のように記されています」
「拝啓。ミス・ブレイクというタイピストについての噂を報告します。彼女は九年前に職場を去って、手回しオルガン弾きと結婚をしました。疑いようもなく奇妙なことでしたので、警察官の注意をあつめました。娘の勤務は素晴らしかったのですが、1907年十月から明らかにおかしくなりました。当時の記録の一部分を同封致します。敬白。W.トリップ」
「記録の文は以下のとおりです」
「十月十二日のことですが、この事務所から一通の手紙が、製本業者のバーナード氏とジューク氏のもとに送られてきました。ジューク氏によって開封されたのですが、その手紙の内容は以下のようなものでした。「サー。トリップ氏は三時に訪問する予定ですので、本当に00000073bb!!!!xy と決断されたのか知りたいと思います』これにたいして、ジューク氏は茶目っ気のある人物でしたので、こう返信しました。「サー。熟慮しました結果、00000073bb!!!!xy とは決断しなかったことをご連絡致します。敬白。J・ジューク」
この尋常ではない返信を受け取ると、トリップ氏は自分のところから発送された元の手紙をもとめ、このタイプライターの娘が狂気の象形文字と自分で口述筆記した文を入れ替えていたことに気がついたのです。トリップ氏は娘を問いただしながら、その精神の均衡がくずれているのではないかと恐れたのですが、あまり安心できないことに、娘は手回しオルガンの音を聞くとそうなってしまうと答えるだけでした。感情を高ぶらせながら、彼女は奇妙な言葉を繰り返すのである-手回しオルガン弾きの男と婚約したと言ってみたり、楽器のうえに乗ってセレナーデを奏でる男の背後でタイプライターを演奏するけれど、それはリチャード王の様式になったりブロンデルの様式になったりするというような内容でした。さらに男の耳は申し分がないうえに、女のことを激しく崇拝しているものだから、タイプライターの異なる文字の特徴を書き取っては、メロディのように文字に熱狂するのだと言いいました。こうした言葉を聞いているうちに、トリップ氏や私たちが当然のことながらたどり着いた同意とは、できるだけ早く親類の監視下におかなければいけない人に対するものと同じものでした。ですが階下に案内されるときに、そのレディは自分が語り聞かせた話について、驚くほどの、むしろ苛立たしいほどの承認をうけました。オルガン弾きの男は大男でありながら頭はちいさく、狂気にとりつかれていることは明らかで、まるで大槌をふうるように手回しオルガンを事務所の扉に投げ込み、自分の婚約者とおぼしき相手を騒々しく要求したのです。私がその場に出くわしたとき、彼はゴリラのような両腕をふりうごかしながら、彼女に詩を朗読しました。でも私たちは気のふれた者たちが事務所に来て、詩を朗読することに慣れていましたが、次につづく言葉に備えていませんでした。実際にはこうした詩句を呟いたかと思います。
「ああ、生き生きとした神聖なる頭よ。
指輪をはめー」
しかし彼の言葉はそこで途切れました。トリップ氏が激しく突進してきたのです。次の瞬間、その大男は哀れなタイピストのレディを人形のようにさらい、オルガンの上に座らせると、すさまじい音をたてながら事務所の扉から駆けだしましたが、その様子は手押し車が天翔るようでした。事態を警察に通報しましたが、この呆れかえるような二人の影はどこにも見つけることはできませんでした。かえすがえすも残念でなりません。そのレディは感じがよいばかりだけではなく、自分の仕事に長けていたからです。ハンベリー&ブートルを退職する予定ですが、以上のことは記録に残して会社に預けていくつもりです。オーベリー・クラーク 出版社の校正者
「さあ、これが最後の手紙です」ピム博士は満足そうに言った。「英国の少女たちにホッケーや高等数学、理想のあらゆる形を教えようとする高潔なご婦人方の一人から送られてきたものです」
「謹んで申し上げます」と彼女は書いています。「お問い合わせくださいました馬鹿馬鹿しい出来事について申し上げることに異論ございません。ただし注意深くお話をしていきたいと思います。理論的に楽しみますことは、女子学校にとりまして必ずしもいつも役にたつとはかぎりませんから。さて真相は、このようなことなのでございます。私は哲学的、あるいは歴史的な事柄に関する講義をしてくれる方を探していました。しっかりとした教育的な内容のある講義でありながら、通常の講義より面白く、楽しめる講義をできる方ということで探しておりました。その講義は学期の最後の講義になるものでしたから。そのときに私はケンブリッジのスミス氏のことを思い出したのです。スミス氏は何かに興味深い文を書いていらっしゃいました。たしか、ご自分の偏在的な名前についてだと記憶しています。系統や地誌についての素晴らしい知識がうかがえる文でした。私は彼に手紙を書き、この学校で英国の姓について学べる親しみやすい講義をしてほしいとお願い致しました。彼は講義をしてくれました。とても親しみやすい講義でしたが、いささか親しみやすいところがありすぎる講義でした。その状況を別の表現で申し上げます。講義のなかば頃には、他の女教師たちにも、私にも、その男の頭はすっかりいかれていることが明らかになりました。彼は理性的に語り始めました。場所にゆかりのある名前、職業にゆかりのある名前の二つについて取り上げてから、こう言いました(とても親しみやすい講義であったことは申し添えておきます)。名前におけるすべての意味は失われてしまい、その喪失は文明の弱体化だと言うのです。それでも彼は落ち着いて語り続け、場所にゆかりのある名前をもつ男はその場所に行って住むべきであり、職業にゆかりのある名前をもつ男は即座のその職業につくべきだと言ったのです。さらには色にちなんだ名前の人々はその色の服をいつも着るべきだし、ビーチ(ブナ)やローズな木や植物にちなんだ名前の人々は、そうした植物を飾って暮らすべきだとも言いました。そのあとで、年上の少女たちのあいだでくだらない論議となり、スミス氏の提案が困難をきわめるものだということが指摘されました。たとえばミス・ヤングハズバンド(「若い夫」という意味)という少女は、自分にあてられた役割をはたすことが難しいと申し立てました。ミス・マンも同じようなジレンマをかかえていました。性に関する昨今のいかなる考えも、そのジレンマから彼女を脱出させることはできません。それから他のレディたちのなかでも、姓がロー(低い)やカワード(意気地なし)やクレイヴァン(臆病者)である少女たちも、スミス氏のこの考えには猛烈に異議をとなえました。でも、こうしたことはすべて講演後のことでした。これは決定的瞬間ともいえる出来事ですが、講師は鞄から馬蹄をいくつか、大きなハンマーをひとつ取り出して見せると、近隣に鍛治場(スミス)をただちにこしらえるつもりであるという意向を宣言し、同じようにたちあがり、勇ましい改革のために蜂起するように皆に呼びかけました。ほかの女の先生方の私はこの下劣な男をとめようとしました。でも正直に申し上げると、偶然にもこうして仲裁をしたことで、この男の狂気が爆発してしまったのです。彼はハンマーをふりまわしながら、荒々しく皆の名前を聞き出していきました。そしてミス・ブラウンの番になったときに事は起きたのです。彼女はお若い先生のお一人でしたが、茶色のドレスを着ていました。赤茶色に近いドレスで、彼女の髪の暖かみのある色と実によく合っていて、彼女もそのことはよく分かっておりました。とても素敵な娘でした。素敵な娘たちというものは、そのあたりの色の効果をよく心得ているものなのです。そういうわけで狂気にかられた男は、茶色を身にまとっているミス・ブラウンがいることに気がつくと、男の常識は火薬庫のように吹き飛んでしまい、その場で、すべての女の先生方と少女たちの目の前で、赤茶色のドレスを着たレディに結婚を申し込みました。女子校でそうした場面がいかなる効果をもたらすかはご想像のとおりです。少なくとも、その場面を想像頂けないようでしたら、いくら言葉をつくしても描写することはできません。もちろん、無政府状態も一週間か二週間で鎮まりました。そして今では、そのときのことを悪ふざけとして考えるようになりました。ただし一つだけ些細なことながら、興味深いことがございます。皆様にお伝えするのは、探求していくことを大事にしていると仰っているからでございます。そうではありますが皆様方にお願い申し上げたいのは、他のこととは違い、これは内々の話にして頂きたいということでございます。ミス・ブラウンはあらゆる点で素晴らしい娘でしたのに、それから一日か二日ほどのちに、突然、こっそりと私たちのところからいなくなったのです。私は考えたこともございませんでしたが、あの娘の頭は馬鹿馬鹿しい興奮にひっくりかえってしまったのでしょう。信じて頂けますことを願いペンをおきます。かしこ アーダ・グリッドレー
ムーン氏が最後に立ち上がった頃には暗くなっていて、そのせいで生来の生真面目な表情に混ざっているものが皮肉なのかどうかは判然としなかった。
「この取り調べをとおしてですが」彼は言った。「なかでも、この最後の段階において、起訴側は常にひとつの弁論を根拠にしています。つまり申し上げたい事実とは、スミスがかどわかした不幸な女性たちが、その後どうなったのか誰も知らないということなのです。彼女たちが殺されたという証拠はどこにもありません。ですが、どのようにして彼女たちが死んだのかということについて質問がされるときには、つねにそうした意味が含まれているのです。今となっては興味はありません。いつ、どのようにして彼女達が死んだのかということも、生きているのか、それとも死んだのかということにも。それでも、似たような別の疑問には関心があります。すなわち、いつ、どのようにして、彼女達が生まれたのか、そもそも生まれたのかどうかということに関心があります。どうぞ誤解のないように。こうした娘たちの存在について話すつもりはありません。また彼女達のために証言してくれる者がどれほど正確かということも言うつもりはありません。ただ注目すべき事実のみを話します。それは犠牲者のひとりがメードンヘッドに住んでいて、家もあり、両親もいる者だったということです。ほかの娘たちは下宿していたり、渡り鳥のように渡り歩いていたりしている者たちです。すなわち泊まり客や一人暮らしの洋裁師、タイピストをしている独身女性でした。レディ・ベリントンは、小塔から見おろしているのです。その塔は、昔ながらの石鹸製造の金をつかってホートンから購入したものです。ウルスターの成功していない男との結婚に飛びついたときのことですよ。レディ・ベリントンは、この小塔から外を眺めているのです。でも、ほんとうに見つめているものは、グリーンと描写できるものだけでした。ハンベリー・エンド・ブートルのトリップ氏のところにいたのは、スミスと結婚したタイピストでした。ミス・グリッドレーは理想主義者でもあり、根っからの正直者でもあるのです。彼女が住まいを提供し、食べ物をあたえ、教えた若い女性こそが、スミスにおびきだされた女性なのです。こうした女性たちがほんとうに生きていたことは認めます。それでもまだ疑問に思ってしまうのですが、彼女たちはこの世にほんとうに生まれていたのだろうかと。
「これはなんと!」モーゼス・グールドは言うと、面白さをこらえました。
「見当たらないですねえ」ピムは穏やかに微笑みながら異をとなえた。「科学の過程をこれほど無視している例は。科学者たちは、正気で考えた事実だと納得してから、これまの過程にもとづいて推論するのでしょうから」
「もし、この娘たちが」グールドはいらいらとして言った。「もし、この娘たちがみんな生きているとしたら(ああ、みんな生きているとすれば)、5ポンドかけてもいい」
「5ポンドを失うことになるだろう」マイケルは、暗闇から重々しく話しかけてきた。「素晴らしいレディたちは生きているのだから。彼女たちは生きているとも。スミスと接触したのだから。みんな生きているけれど、生まれたのはその中の一人なんだ」
「それを信じるようにと言うのですか」ピム博士は言いかけた。
「皆さんに第二の質問をします」ムーンはいかめしく言った。「開廷中の法廷は、類まれなる状況に何らかの光明を投げかけましたか? ピム博士は、我々が男女の関係と呼んでいるものについて興味深い講義をしました。博士がそのなかで語ったのは、スミスは多様な性欲の奴隷だということで、そうした嗜好の持ち主はまずは黒人の女に行き、それからアルビノに行くということです。あるいはまずパタゴニアの大女に行き、それからエスキモーの小女のところに行くこともあるそうです。しかし、そうした多様性の証拠となるものがここにありますか? 物語のなかにパタゴニアの大女の痕跡がありますか? タイピストはエスキモーでしたか? とても人目をひくものですから、気がつかれずにはすみますまい。レディ・ベリントンの洋裁師は黒人の女でしたか? 私の心のなかで答える声がします。「いや」と。レディ・ベリントンは、黒人女はとても人目につくから社会主義者にちかいと考えることでしょう。アルビノについても、いささか道楽めいた思いを抱いていることでしょう。
だが博識なドクターが言われているように、スミスの好みにはそうした多様性を求めるところがあったのだろうか? わずかな材料から判断するかぎり、まさに真相は反対のように思える。その被告人の妻達については、いずれも次のように描写されているだけだ。短いけれど、ずいぶん詩的なその説明は、審美眼のある副牧師によってなされたものである。「彼女のドレスは春の色、その髪は秋の木の葉」と。秋の葉とは、もちろん様々な色彩からなるものだが、或る色は髪に見いだす色としては驚くような色であった。(たとえば緑色)だが思うのだが、そうした表現がもっとも自然に用いられるのは、赤茶から赤にかけての色合いで、とりわけ銅色の髪のレディに芸術的な、緑色の光がさすときによく見かける。さて最初の妻の話をしよう。そこで気がつくのは常軌を逸した恋人の存在だ。彼は「ロバみたいな馬鹿者」と言われると、ロバはいつでも人参を追いかけるからと答えた。そうした考え方は、レディ・ベリントンによれば意味もないものだし、村の愚か者たちが食卓でで話題にするような類のものだ。でも、そうした話が意味をもってくるのは、ポリーの髪が赤いと考えるときである。その次の妻の話に進もう。彼が女子校から連れ出した女性だ。ミス・グリッドレーの言葉によれば、問題の娘は赤茶のドレスを着ていて、その服装は更にあたたかみのある髪の色によく似合っていた。言い換えれば、娘の髪は赤茶よりも赤い色ということになる。最後にロマンチックなオルガン弾きが事務所で吟じた詩の件だが、それはわずか数語しかわからない。
「ああ生き生きとした、神聖な頭よ。
輪をいだきー」
だが思うのだが、現代におけるひどい詩人について広く研究すれば「赤い栄光の輪をいだき」とか「情熱的な赤の輪をいだき」が「頂き」と韻をふんでいる行だと推測可能だろう。この事例をもう一度考察してみると、スミスが恋におちたのは赤褐色や濃いとび色の少女だと思えるだけの理由が十分にある。いくぶん」彼は言いながら、食卓に目をおとしました。「いくぶんミス・グレイの髪のような色だ」
サイラス・ピムは前かがみになって目をつぶると、衒学趣味の質問を用意した。だがモーゼス・グールドは鼻に人差し指をあてると、ひどく驚いた表情をみせたが、きらきらした目には知性がひかった。
「今のところ、ムーン氏の主張は」ピムが割り込んだ。「こう言えると思う。たとえ正直に言ったとしても、イノセント・スミスの犯罪めいた考え方と調和しないものではないと。私たちが言い続けてきたことではないか。学問がよせる期待とは、そうした複雑さなのである。生まれついての魅力というものに、女性のなかでも特定のタイプ、好色な女性はひきよせられるわけだが、それは犯人のもっとも知られている点であって、狭い視野で考えるのではなく、導入と発展の光に照らして考えたときにー」
「その最後の段階だが」マイケル・ムーンは静かに言った。「一連の出来事をとおして、圧力をかけてきた愚かな感情から、私は解放されるかもしれない。始まりも、途中の過程もすべて吹き飛ぶぞと言えばいいのだから。失われた輪とか、そういう類のものは、子供相手にはいいだろう。だが、私が話をしているのは、ここにいる全員が知っていることについてなんだ。我々が知っている失われた輪とは、彼が行方不明中ということなんだ。しかも彼は行方不明になろうはずがない。私たちが彼について知っていことと言えば、頭は人間だけれど怖ろしい尻の持ち主だということである。まさに「頭なら勝ち、尻なら負け」という古い遊びそのものの姿である。もし、やつの骨を発見すれば、はるか昔に彼が生きていたことが証明される。もし、やつの骨を発見しなければ、どのくらい前に彼が生きていたかが証明される。そういう愉快なことなんだよ。君が首をつっこんでいるスミスの件は。スミスの頭は、肩に比べたら小さいから小頭症とも言える。もし頭が大きかったなら、脳水腫と呼んでいただろう。哀れな老スミスの後宮が多様性に富んでいるかぎり、多様性とは狂気の印なんだ。でも今、後宮が白黒画面であることが判明しつつあるから、単一性が狂気の印なんだ。成人した人物であるという不利な状況は悩ましい。でも、そのせいで有利なこともある。だから礼儀正しく述べるとしよう。短気はもちろん、長い言葉を使ってでも、いばりちらかされることはないと。それから皆さんの仕事が順調に進んでいると考えることにしよう。なぜなら、皆さんは、間違っていたということに、いつも気がつくからですよ。でも、こうした感情にかられることもなくなりましたから、言っておかないといけません。ピム博士のことを、パルテノンやバンカーズ・ヒルのモニュメントよりも、もっと美しい世界の装飾品だと考えているとね。さて、ここでイノセント・スミス氏が多くの結婚関係をむすんでいたということについて、私の意見をまとめたいと思います。赤い髪だけではない。もう一本別の糸があって、あちらこちらに分散した出来事につながっていく。こうした女性たちの名前には、どこか不可解な、ほのめかしている何かがある。覚えていませんか?トリップ氏が、 タイピストの名前はブレークだと思うと話していたことを。でも彼の記憶は正確さに欠けていた。言わせていただくなら、その名はブラックだったかもしれないのですよ。そうだとすれば、この件は奇妙につながっていきますね。レディ・ベリントンの村にはミス・グリーン。ヘンドンの学校にはミス・ブラウン、出版社にはミス・ブラック。色の糸はそのまま、西ハンプテッドのビーコン・ハウスに住んでいるミス・グレイで終わる。」
死んだような沈黙のなか、ムーンは説明を続けた。「色に関する、この奇妙な、偶然の一致は何を意味しているのだろうか?自分としては、 一瞬でも、疑うことはできない。こうした名前がただの気まぐれでついた名前ではないか、全体的な計画や冗談の一部分ではないかなんて。おそらく、一連の服装からつけられた名前だと思う。ポリー・グリーンは、緑の服装のポリー(あるいはメアリー)という意味で、メアリー・グレイは灰色の服装のメアリー(あるいはポリー)という意味なんだ。こうしたことから説明されるのは…」
サイラス・ピムはぎこちなく立ち上がったが、その顔からは血の気がひいていた。
「君はつまり言いたいのはー」彼はさけんだ。
「そうなんだ」マイケルはいった。「ぼくが言いたいのは、そういうことなんだ。イノセント・スミスはたくさんプロポーズをしたし、知っているかぎりでもたくさん結婚をした。でも、彼の妻はたった一人なんだ。その女性は、一時間ほど前までその椅子に座っていた。今、庭でミス・デュークと話をしている。
そうなんだ、イノセント・スミスは、余所で数百回と繰り返してきたように、ここでも振る舞ってきたけれど、その行動のもとになっているのは明らかに、非難されるいわれのない信念なんだ。それは現代世界においては奇妙な、大げさなものだ。だが現代世界にはあてはめたところで、せいぜいそのくらいの印象のものだろう。彼の信念は簡単に説明できる。すなわち、まだ生きているあいだは死ぬことを拒む。あらゆる電気ショックを知性にあたえてみて、自分がまだ生きているといことを、二本足で世界を歩き回っているということを彼は思い出すんだ。だからこそ、彼は親友にむけて銃弾を発射した。だからこそ、はしごと折りたためる煙突を用意して、自分の資産を盗んだ。だからこそ、世界中をとぼとぼ歩いた挙げ句に自分の家にもどった。だからこそ、永遠の忠誠をちかった女性を連れてきては、学校や下宿や会社に(言わば)置き去りにするわけだ。つまり、とつぜんロマンチックな駆け落ちをすることで、何度も彼女を再発見するというわけなのだろう。彼が永遠に花嫁を奪い返そうとしているのは、彼女には永遠の価値があると感じていたいし、逃げてしまう危険があるかもしれないと感じていたいからなんだ。
彼の動機は、十分なくらい明確だ。だが、おそらく、その信念は明確なものではない。僕がみたところ、イノセント・スミスは、こうしたことについて根底から理解している。そう思っているけれど、けっして確実ではない。でも、論議したり、弁護したりすることに価値があるのは確かなんだ。
スミスが非難している考えは、こういうものだ。もつれた文明のなかで暮らすうちに、ぜんぜん間違っていないのに間違っていると考えるようになってしまった。突然怒ったり、幸せになったり、動きまわったり、突進したり、冗談を言ったり、挫折したりすることは間違っていると考えるようになってしまった。そうしたことは、ただ許すわけにもいかず、そうかと言って咎めることもできないものなんだ。友人にむけて鉄砲を発射したところで悪くはないんだ。相手を倒すつもりがないのなら、自分がそうしないと分かっているのなら。それは小石を海に投げ込む程度の悪さなんだ。少なくとも、時々は海に投げこむからね。煙突の通風管を叩き壊したり、屋根を突き抜けたところで悪くはないんだ。他人の財産や命を脅かさないかぎりは。家に入るのに屋根を選んで入るとしても悪くはないんだ。基礎から床を開けて入ろうとする人と比べても。世界を歩き回ってから自分の家に戻ってきても悪くはないんだ。庭を歩き回ってから家に戻るようなものだ。自分の妻をあちらこちら、いたるところで見つけるのも悪くはないんだ。生きているあいだ、他を捨てて、彼女とだけと付き合っていきたいのなら。それは庭で隠れん坊をするのと同じくらい無邪気なことなんだ。そうした行動から悪党めいたものを連想するけれど、それは気障な付き合いをしているせいだ。質屋やパブに行ったり、そうした場所に通う姿を見られたりしたら、どこか漠としたものながら都合の悪く考えるようなものだ。そうした取引とは卑劣なものであり、つまらないものだと考えられているからね。だが、それは誤りである。
その男の精神的な力とは、こういうものなんだ。つまり、習慣と信念を区別してきたという力なんだよ。習慣は破っただろうが、掟は守ったというわけだ。これは賭博場で荒々しく賭博をしていると思っていた男が、実はズボンのボタンで遊んでいるだけだと気がついたときのようなものだ。コベント・ガーデンの舞踏会で、レディと密かな約束をしている男を見かけたけれど、そのレディとは男の祖母だったと気がついたときのようなものだ。あらゆるものが醜く、信じがたい。ただし、彼にまつわるすべては間違っているということや、彼が悪いことは何もしたことがないということなら、話は別になってくる。
それから質問をうけることだろう。『なぜ彼は中年になるまで滑稽な存在であり続けるのだろうか? なぜ多くの間違った告訴に身をさらしているのだろうか?』これに対して私はこう答えるのみである。彼は心から幸せだから、根っから陽気だから、生き生きとした男だから、そうしているのだと。彼はとても若いものだから、庭の木々に登ったり、馬鹿げているけれど実際に役立つ冗談を言ったりする。私たちもかつて同じようなことをしては抱いた思いに、彼は今でもかられているというわけだ。それでもまだ、人々のなかでも彼だけが、なぜ飽くことを知らぬ愚かさにとりつかれているのかと訊かれるかもしれない。そのときは、とても単純な答えを述べるだけだ。認めがたいものかもしれないが。
答えは一つあるのだが、残念ながら、その答えを気に入っていただけないかもしれない。もしイノセントが幸せだとするなら、それは彼に悪意がない(イノセント)からだ。もし彼がしきたりに挑んだとしても、それは彼が掟を守るからだ。彼のやりたいこととは殺しではなくて、人生にわくわくすることだから、学校にかよう男の子のようにピストルにわくわくするんだ。彼が盗みをしたがらないのも、隣人の品物を欲しがらないのも、たくらみを企てたからなんだ。(ああ、その企みに私たちはどれほど憧れていることか)自分の品物を自分のものにしたがるというたくらみなんだ。彼がロマンスをもとめるのは、不義を働きたいからではないんだ。彼が百回もハネムーンをくりかえすのは、ただ一人の妻を愛しているからなんだ。もし彼が本当に男を殺したのなら、本当に女を見捨てたのなら、ピストルのことも、ラブレターのことも歌のように感じることはありえないだろう。少なくとも喜劇の歌のようには感じないだろう。
でも、そうした態度がぼくにとって理解しやすいものだとも、とりわけ共感にうったえているものだとも思わないでほしいんだ。ぼくはアイルランド人だから、疑う余地もなく難儀が骨にまで染みついている。そこから自分の信条への迫害がうまれてきたし、あるいは信条そのものも生まれてきた。正直に言えば、悲劇につながれた男のようにも、古い時代の落とし穴や疑念といったものから抜ける手立てがないようにも感じている。だが手立てがあるならば、キリストや聖パトリックによる教え、それが手立てだ。もし人が、子供や犬のように幸せを保つことができるとするなら、それは子供のように無邪気な存在か、犬のように罪のない存在によってであろう。かろうじて善良であること、それが道であるのかもしれない。そして彼はそれに気づいたのだ。ああ、無理もない。旧友のモーゼスの顔に疑念がうかんでいる。グールド氏ときたら、あらゆる面で善良であるということが、人を陽気にすることが信じられないのだから。」
「たしかに」グールドはいつになく説得力のある様子で、重々しく言った。「あらゆる面で完全に善いからといって、ひとが陽気になるとは思わない。」
「そうだろうか」マイケルは静かに答えた。「それなら一つ例をあげてくれないか? だれがそんなことを試みたことがあるだろうか?」
沈黙がつづいた。地質学上の長い時代のような沈黙のように、なにか思いがけないものの出現を待っている。静けさのなか、どっしりとした影がたちあがった。他の者達が忘れかけていた人物だ。
「さて、みなさん」ウォーナー博士は陽気に言った。「ここ数日間、的が外れていて、役に立たないときている馬鹿げた言動の数々を楽しませてもらいました。でも、その楽しみも薄れかけているようです。それでは、町で食事の約束があるので失礼することに。両陣営にさいた百本もの無駄花のあいだにいたわけですが、なぜ狂気の男が裏庭で私に銃をむけることが許されたのでしょうか。その理由をさぐりあてることはできませんでした」
彼は頭にシルクハットをのせ、穏やかな様子で庭の門へと向かったが、ピムの泣き叫ぶ声がそのあとを追いかけた。
「でも本当のところ、君から数フィートのところを弾はかすめたじゃないか」
すると他の声もそれにつづいた。「弾が彼をかすめたのは数年前のことじゃないか」
長く、無意味な沈黙がたちこめた。それからムーンは唐突に言った。「じゃあ、ぼくたちは幽霊とずっと一緒に座っていたというわけだ。ハーバート・ウォーナー医師は、数年前に死んだということになるんだから」
Ⅴ章 どのようにして、つむじ風がビーコン・ハウスから出ていったか?
メアリーは、ダイアナとロザムンドにはさまれながら、ゆっくりと庭を歩いた。三人ともおし黙ったままだった。やがて太陽が落ちた。西の端を照らす残照は温かみのある白色で、クリーム・チーズとしか例えようのない色だった。稜線をよぎっていく羽毛に似た雲は漠としていながら、でも鮮やかな菫色の輝きをはなって、その様子は菫色にたなびく煙のようだった。のこりの景色はすべておしながされ、鳩のような灰色へとかわっていった。そして溶けこんでメアリーの薄墨色の影になって、ついには庭や空の衣服をまとっているように見えた。こうした最後の静かな色が、彼女の背景となり、至高さをそえていた。やがて薄明かりがダイアナの威厳ある姿も、ロザムンドの華やかな衣装も隠して、彼女をうかびあがらせ、彼女を庭のレディにも、そしてひとりにも見せていた。
ついに彼女たちが口をひらいたときに、長いあいだ沈黙にとざされていた会話がふたたび開始されたことは明らかだった。
「でも、どこにご主人はあなたを連れて行くつもりなのかしら?」ダイアナはしっかりとした声で訊いた。
「おばさんのところへ」メアリーは言った。「と言うのは冗談にすぎないわ。おばさんがいるのはたしかよ。道のむこうの下宿屋から追い出されることになったとき、おばのところに子供達をおいてきたの。こうした息抜きはせいぜい一週間しかとらないけど、ときどき二人して二週間も息抜きすることもあるわ」
「おばさんはずいぶんと嫌がっているのよね?」ロザムンドは何食わぬ顔で訊いた。「おばさんときたら、ほんとうに心がせまいのだから。それから何て言えばいいのかしら?そう、ゴリアテって言えばわかってもらえるかしら。でも、そう考えようとする心のせまいおば達ならたくさん見かけてきたわ、愚かしく見えるけど」
「愚かしいですって?」メアリーは威勢よく叫んだ。「たしかに私の日曜日の帽子なら、そうね。あれなら愚かしいと思うわ。でも、ほかに何を期待しているの? 彼はほんとうにいい人よ。蛇か何かのような騒ぎだったのかもしれないわ」
「蛇ってどういうこと?」ロザムンドは訊ね、かすかに当惑しながらも関心をみせた。
「ハリーおじさんは蛇を数匹飼っていたことがあって、蛇に好かれていると言っていたわ」メアリーは単純明快に答えた。「おばさんは、おじが蛇をポケットにいれることまでは認めたけど、寝室にもちこむのは許さなかったの」
「それなら、あなたー」ダイアナは言いかけると、眉を少しひそめた。
「ええ、おばさんがふるまったようにするわ」メアリーは言った。「子供たちから二週間以上も二人そろって離れることでもないかぎり、私はルールにしたがって行動するの。つまりね、彼が『人でなし』(マンアライヴ)と呼びかけてくるの。マンアライヴと一語で書かないとだめよ。そうしないと彼が狼狽するから」
「だけど、もし男のひとたちがそうしたものを欲しがれば」とダイアナは言いかけた。
「あら、男のひとたちについて話したところで何になるのかしら?」メアリーはいらいらとして叫んだ。「そんなことをするくらいなら、女性の小説家か、なにか怖ろしいものになったほうがましだわ。男のひとたちなんていないの。そんなものを欲しがる人たちなんていないのよ。ただひとりの男がいるだけなの。その男が誰であれ、変わっていることにちがいないわ」
「そういうことなら、為す術はないわね」ダイアナは声をひそめて言った。
「あら、そうかしら」メアリーは軽く受け流した。「二つだけ、みんなにあてはまることがあるの。妙なときに、私たちの世話をやいてくれるのだけど、自分たちの世話はやかないのよ」
「強い風が吹いてきたわ」ロザムンドがふと言った。「むこうの木を見て。ずっとむこうの木よ。雲も飛んでいくように流れている」
「何を考えているのか察しがつくけど」マリーは言った。「愚かな馬鹿者にはならないでほしいの。女作家に耳をかたむけてはだめよ。王の道を進んでいきなさい。絶対的真理をもとめて。そう、絶対的真理をもとめるのよ。たしかに私の愛するマイケルはしょっちゅうだらしない。アーサー・イングルウッドもさらにひどいし、だらしないでしょうよ。それにしても、あの木も、雲も何のためにあるのかしら?ねえ、ばかなお転婆娘さん」
「雲も、木もゆれているわ」ロザムンドは言った。「嵐がくるわよ。なんだか、わくわくする。マイケルときたら、ほんとうに嵐そのものよ。彼のせいで怖くもなるし、幸せにもなるから」
「怖がらないで」メアリーは言った。「たしかに、あの人たちにはひとつ長所があるわ。外に出て行く人たちだということなの」
突風が木々を吹き抜け、小道に枯れ葉を吹きよせた。そしてはるか彼方の木立から、ざわざわという音がかすかに聞こえてきた。
「つまり、こういうことなの」メアリーは言った。「外を眺めては、世界に興味をもつ人たちなのよ。だから、議論していようと、自転車をこいでいようと、哀れなるイノセントがしたように世界の果てを壊しても、まったく問題ないわ。しがみつくのよ、窓の外を眺めて、世界を理解しようとする男に。でも避けて、窓から中をのぞきこんで、あなたを知ろうとする男は。哀れなるアダムが畑仕事に出かけたら、(アーサーも、やがて畑仕事に出かけるでしょうけど)他の者がやってきて、のろのろ近づいてきたというわけ。なんてずるいのかしら」
「あなたは、ご自分のおばさまと同じ意見なのね」ロザムンドは微笑んで言った。「寝室に蛇を持ち込んではいけないと」
「おばさまと意見が同じなんて…ちっとも、そんなことないわ」メアリーは率直にいった。「でも、おばさまは正しかった。ハリーおじさまが蛇を集めることも認めたし、グリフィンを集めることも認めたのだから。そのあいだ、おじさまが家から出ていたせいでもあるけど」
その言葉と同時に、暗がりに沈んでいた家のなかの明かりがぱっと点き、庭へとつづくガラス扉二枚は金箔の門へと転じた。金の門扉は開け放たれた。すると見上げるようなスミスがあらわれた。何時間ものあいだ、不格好な銅像のように座っていたのだ。彼は飛んできて、荷馬車の車輪を芝生の上で転がして叫んだ。「証拠不備につき無罪!無罪!」大声を響かせながら、マイケルが慌てふためいてロザムンドのところへと芝生を駆け寄ってきた。そして荒々しく彼女と二歩、三歩ステップを踏んだが、それはワルツとおぼしきものであった。だが、その頃にはイノセントのことも、マイケルのことも分かっていたので、その乱行ぶりも人々はごく自然に陽気にむかえいれた。それよりも驚いたのは、アーサー・イングルウッドがダイアナのところへ進みよって、まるで妹の誕生日にするようにキスをしたことだった。ピム博士ですら、ダンスをすることは思いとどまったけれど、心からの慈悲をうかべて見つめていた。一連の馬鹿馬鹿しいすっぱ抜きを見ても、彼は他の者達ほど動揺はしなかった。こうした無責任な裁判も、馬鹿げた審議も、旧大陸に残る中世風の無言劇の一部ではなかろうかと彼は考えていた。
大嵐がトランペットのように空をひきさいているあいだに、窓から窓へと家の内から明かりが灯された。そして一行が笑いにつつまれ、乱気流の風にたたかれながら、家へとふたたび手探りで進みだそうとしたときに、目にとびこんできたのは、巨大で、猿のようなイノセント・スミスが屋根裏の窓からよじ登っていく姿であった。彼は何度も、何度も叫んでいた。「ビーコン・ハウス!」彼は頭をひねって下の暖炉の大きな丸太や薪を見た。それは鮮紅色の川のようでもあり、耳をつんざくような大気にただよう紫煙のようでもあった。
三つの州で彼の姿が目撃されたということは明らかだった。だが風がやみ、一行が陽気なお祭り騒ぎの最中に、メアリーの姿を、彼の姿を探したけれど、その姿を見つけることはなかった。
完