ロンドン・タウンへ

ロンドン・タウンへ

 

覚え書き

 

私がこの小説の構想をし、実際、書き始めたのは、「ミーン・ストリートの物語」と「ジェイゴウの子ども」の出版のはざまで、この二冊といっしょに読んで頂くつもりで書いた。この3冊すべてで、ロンドン東部の生活を完璧に描ききろうとしたわけではないし、もちろん一冊だけで描ききろうと考えたわけではない。なぜなら、この3冊が、相互に補い合うものだからである。

アーサー・モリスン

 

1章

 

これまでは午後になれば、陽ざしを受けて眠くなった。だが八月の風は、目覚めつつある生命力のせいで、生き生きとしていた。エッピング・スィックスは、無数の葉をゆりうごかして、そのあいだから囁いた。波打つ緑の森のはるか彼方、空を高く見上げれば、はなれたところに雲が漂っていた。豊潤な黄金色の光が丘にのび、太陽が西の方に沈んでいった。点々と、木々のあいだに、下草の茂に見えているものは不明瞭な小道で、傾斜のゆるい斜面を蛇行しては、ウォーミィトン・ピット近辺の低地へとつづいていた。その小道は曲がり角にさしかかる度に、ヒースと羊歯の茂る土手へとむかう緑の道に分け入ることもできた。こうして、老人と足の不自由な子どもは、そのピットに近づいていった。老人は背がひくく、白髪で、わずかに腰が曲がっていた。だが、彼はしっかりした足どりで進み、鞄を横にかけ、その手には蝶を採取する網をもっていた。その子どもの様子といえば、彼女も十分しっかりと歩いていた。だが右肩で松葉杖に寄りかかっていたので、ゆるやかな速度で、体をゆらしながら移動していた。松葉杖を握りしめている手は、シモツケの小さな束を握りしめていた。もう片方の手は、今にも粉々になりそうな、ぼろぼろの古い本を、子供用エプロンに強く押しあてていた。

 

ヒースの茂った斜面にさしかかった。老人は肩ひもを頭上にもちあげ、森のはずれの草むらに鞄をおろした。

 

「おまえのためにひと休みしよう、ベス」彼は言いながら、ひざまずいて鞄をあけた。「今日は、ピットのすぐ近くまで行くつもりだ」彼がポケットにつめこんでいるのは、薬入れの丸いケース、毒の瓶、使い古された、薄い錫の箱だった。かたや、その子どもはすばやく松葉杖で拒否すると、立ったまま見つめていた。

 

老人は立ち上がり、ポケットをつづけて叩いた。それから、おどけた様子で、網で子どもの顔をなでると、足音をたてながらヒースのあいだに分け入った。「頑張ってね、おじいちゃん」 背後からさけぶと、彼女はひじで支えながら、その本を読むことにした。

その本は注意深く、ページを繰っていく必要があった。背のところも、表紙もとれかかっていたからだ。それは、葉っぱが整然と落ちるようにと心がけるようなものだった。その本は長方形というよりは、楕円の形になっていて、ページ番号はなくなっていた。ところどころ、本文の端が消えていた。書物の本体は親指でめくったり、こすったりするせいで汚れていたが、もう二十回は読んでも大丈夫そうだった。その物語の題名は、「シチリア物語」だった。

穴のまわりをめぐって、ジュナスイス・スレードの大地を遠くまで横切りながら、老人は追いかけつづけた。まず用心しながら、穴をつたって降りていった。それから大きなシダをかきわけ、網をのばしながら移動していった。やがてふたたび、針金のかたちをしたヒースのあいだを全速力でかけだした。つねに太陽と風をもとめて移動し、しばしば用心しながら、じっとと彼は立ちつくした。その目は油断なく様子をうかがい、色彩が氾濫しているなかで、ちらちらとうごめいている点を追いかけた。

そうしているあいだ、その手足の不自由な子どもが仔細に調べているのは、親しみのある物語の、慣れ親しんだ名文だった。みすぼらしいページのうち幾ページかは、たとえ失われたとしても、ただ諳んじるだけで、差し替えることができたかもしれなかった。その幾ページに語られている話とは、巡礼者の歩みについての話であり、スーザン・ホープレイの話であり、スコットランドの長の話でもあった。祖父の小さな本棚に並ぶ十二冊から十五冊の本は、すべて擦り切れた状態であった。そういうわけで今はもう、旧知のあいだであるせいで、その子どもは大いに物語を愉しみ、しばしば休みながら読み続けた。休んだときにおしよせてくるのはコデマリの香りであり、森にただよう幻想であった。牧夫がならすガチャガチャという音は、騎士の甲冑がたてるガチッという音になった。離れたところからドーンと響いてくるウォルサム大修道院の礼砲が物語るのは、魔法にかけられた城の崩壊だった。そして群れからはぐれた牛がふとあげる嘆きに、彼女は森の人食い鬼のうなりを聞いた。

 

西側の丘の中腹は、さらに輝きをまして素晴らしかった。陽の光が、ずしりとした梢の下まで射し込み、草地のうえにのびていった。そして脈のように影をおとしている木々の幹を、金色につつみこんだ。さらに灌木の根もとを照らしだすと、そこには目を覚ましたコマドリがいて、小果実の枝からできた緋色の杖をもちあげていた。老人は自分の網を下において、しばらくのあいだ草木をさがした。蝶をさがすにしては、もう昼であり、少し遅い時間であった。だがヨーロッパカレハガの幼虫が、ヒースのあいだにはたくさんいた。ほかにも同じように、多くの虫がいた。こうしてベッシーは読書にふけりながら夢想した。いっぽうで彼女の祖父が茂みをくまなく探しまわるうちに、陽の光は、木々のしたにひろがる芝生にあつめられていった。キンミズキのなかの、草丈のもっとも高い新芽に陽の光がさす頃、太陽は丘の頂きのむこうにあった。そうこうするうちに、老人はようやく、鞄のところへと戻った。

 

「蝶はあまりいないな」彼がそう言うと、ベッシーは顔をあげた。「でも売るには、どこも損ねないことが肝心だ。だが、売るとなれば、そうはいかないものだ。今日は遅かったから、青いシジミチョウはいなかった。だが、幼虫に関しては運がいい。順調に育てば、この箱いっぱいにローズィ・マーブルがかえるだろう」

「ローズィ・マーブル! もうその幼虫も、かなり大きいわね。飼いはじめてから、ずいぶんたっているのね」

「二年だ。その幼虫にすれば、ここが生まれて、育った唯一の場所だ」老人は鞄の荷物をまとめ、肩にひっかけた。[

「もうお茶の時間だよ」彼がいうと、その子どもは松葉杖を頼りに立ち上がった。

西の斜面をこえて、彼らは歩いていった。紫色の帯がくぼんだ谷間に広がり、ヒースとトネリコの木のあるあたりは黒く、苔のはえているあたりは緑色が広がっていた。砂利採取場のはずれには、キイチゴや低木が生い茂っていた。そのまま茂みは森の奥までつづいていた。

カケスが一羽、彼らの前に飛びだしたが、怒りにかられて罵っていた。ときおり、木々の合間に、ウッドレドンのむこうから、赤い光が射しこんできた。幾度も、老人は自分の歩き方をたしかめた。ときには重い足音を響かせていることもあれば、立ちどまっていることもあった。やぶを踏み固め、枝をゆらしていることもあった。そこで眺めている者がいれば、老人の歩き方をみれば、漠としたものながら、親近感を覚えただろう。我慢強い足音が響き、重い荷であるかどうかは問題ではなく、肩に何かをかけていることが、不思議なことに伝わってきた。そうした歩き方も、老人が四十年間、郵便配達夫として働いてきたことを知れば、納得がいくのであった。

やがて歩いているうちに、ふたりの耳に聞こえてきたのは、笑い興じる甲高い声で、なかには思いっきり笑い転げている者もいた。さらに耳障りな声で歌う者もいて、手風琴の悲しげな音色が、なかばかき消されていた。近寄ると、うるさい声は一段と大きくなった。埃まみれの道が木々のむこうに見える場所までくると、その話し声は最高潮に達した。道をはさんだところに、パブが一軒あった。その横の空き地では、祝いに参加している六十歳代が、思いっきり楽しんでいた。多くの者はキスゲームをするのに忙しく、木から引き裂いた枝を振る者もいれば、空の瓶を積み上げて、さらにその山に瓶を放る者もいた。人々は立ったかと思えば、腰をおろし、そうかと思えば駆け出し、また横になって、ごろごろとしていた。めいめいが何らかの騒音をだし、ほとんどの者が酩酊していた。見たところ明らかに、ロバに乗ることに人々は飽き始めていた。男と少年は六頭のロバをあつめ、追いだしていたからだ。

その人たちがロンドン子であることに、ベッシーは気がついた。他のロンドン子にも、よく会ってきたからだ。彼女自身は、ロンドンのことを忘れてしまっていた。覚えていることといえば、大きくて、くすんだ部屋に、彼女のベッドのような小さなベッドがならんでいたことだった。それぞれのベッドには、おもちゃをのせる板があった。そしてこのことも、彼女は忘れてしまっていたが-そのとき、彼女はとても幼かったのだ-体の大きな、ひどい紳士が、毎日やってきては、彼女の悪い方の足をいたぶった。シャドウェルの慈善施設でのことだった。だが、ここにいるのはロンドン子だった。ベッシーは、彼らのことを少し恐れながら、ロンドンとは陽気で、騒々しい場所であり、ロンドン子の所業のせいで、いたるところが壊れているのだと考えた。ほかの人々も軽四輪馬車に乗ってやってきたが、もう少し静かで、威風堂々と飾り立てているわけでもなかった。彼女は、その日の朝、そうした一行を見ていた。おそらくロンドン子ではなく、隣接地域からきた人々だった。だが、ここにいる人々は、特定礼拝式に参列したロンドン子で、互いの帽子に紙の冠をつけて被っていた。

「待てよ、じいさんじゃないか」老人が網を手にしながら、反対側の森へ向かおうとすると、大声で怒鳴りつける者がいた。「小さな子どもと一緒じゃないか?」それから、笑い転げている仲間たちを振りかえりながら、親指をつきだした。「おい、ビル。おまえのところのじいさんが、小さな子どもを連れている。じいさんが悪いことをしないように気をつけないとだめだ」赤くなっていた人々の顔は、沈んでいく陽をうけて、二倍赤くなった。そして背中をむけて、口をあけて大笑いをした。「ズボンがずぶ濡れになるようなひどい目にあうよ」女が金切り声をあげた。どこからかパンの皮の塊がとんできた。

ベッシーはのろのろとした足どりながら、なんとか急いで森まで歩いた。森にはいると、祖父は心許なげな笑いをうかべていった。「冗談が好きな連中なのさ。そういう連中が、よくいるじゃないか? でも、たいがいの場合、おとなげない言動にすぎないよ」

木々の下の空間は、たそがれはじめていた。そして上空では、月が弱々しい光をはなっていた。ふたりがたどり着いたのは谷間になっている土地だったが、そこは塹壕と言ってもいい場所で、遠いところにある窪みには小川がながれていた。ふたりが対峙している丘には、広々とした緑の乗馬用の道がはしり、目の前に壁のように立ちはだかっていた。その両側には、苔の生えた木々が密生していた。そのとき二人が後ろを振りかえって、谷間がひろがっているあたりの、なだらかな斜面をみたとき、一軒の小屋が目にとびこんできた。小屋の向こうには、狭い車道がのびていた。漆喰塗りの小屋は、あまりに小さく見えたので、屋根の瓦の一枚一枚まで、ほとんど目に見えなかった。そこに散らばっている小さな集落は、いにしえからの居住権のおかげで、森に住まいがある者たちの住まいだった。その庭では、ささやかな騒乱が生じ、小屋の周囲は混乱していた。そこでは、キャベツ、ラベンダー、ニオイアラセイトウ、タチオアイがひしめきあいながらも、不安定な塀のせいで何とか押しこめられていたが、森を彩っているのは、育てようとするあらゆる試みであり、同時に衰退しようとするすべての兆候だった。

「おかあさんも、ジョニーも、とっくにお茶をすませていると思うわ」ベッシーは、小屋をじっと見つめていった。「でも明かりがついている!」

ふたりが進む小道は、次第に草がまばらになり、やがて小屋の近くまできた。草を踏んで歩いていると、男の声が中から聞こえてきた。女の笑い声もした。

「お客のようだ」老人は驚きの声をあげた。「妙なこともあるものだ。いったい誰が…」

 

「帰ってきたのね、とうさん」女性の声が扉から聞こえてきた。「アイザックおじさんと紳士がおひとり、私たちに会いにきているのよ」話をしてきたのはベッシーの母親であったが、愛想がよくて、元気のいい、活動的な女であり、サラサのドレス姿で戸口に立ち、老人が門につくのを出迎えた。

 

ドアをあけると、そこは居間であったが、隅のほうには二人の男が座り、そのあいだには十四歳の男の子がわりこみ、どぎまぎしながらも、かすかに拗ねた様子を見せていた。安い葉巻の匂いがたちこめているせいで、その部屋は、いつもほどの匂いはしなかったが、それでも完全に消えてはいなかった。その匂いは、いくぶんはショウノウのせいでもあったが、芋虫のせいによるところの方が大きかった。四方の壁は、形も、大きさも様々な箱や箪笥のむこうに隠されてしまっていたからだ。窓のまえにも、床のうえの思いもよらない場所にも、また別の箱がおかれ、モスリンの布がかけられていたが、それは飼育箱で、なかには幼虫やサナギ、不運な蝶がいた。こうした箱があまりにもたくさん置かれているため、その部屋そのものは、大きなひとつの箱にすぎなかったのだが、三人がいるには十分とはいえない状態で、それでも、そのなかには、小さな円卓がひとつ置かれていた。そういう有様だったから、ベッシーの母親は、まだ戸口に立ったままだった。アイザックおじさんは、立ち上がると、床から山高帽をひろいあげ、頭にのせたが、それは他に安全な場所がないためだった。小さな円卓は、ティーカップやソーサーの荷に耐えていた。アイザックおじさんは小柄な男だったが、顔はおおきく、灰色のほお髭におおわれていた。その顔を特徴づけているのは、大きく見開かれていながら、生気にかけた目であり、それから上唇の上の、口髭をそった跡のひろがりであった。

「こんばんは、ミスター・メイ、こんばんは」アイザックおじさんはいうと握手してきたが、その様子は、この世を無視して生きる友達への忠誠心をしめそうとしているかのようであった。「こちらは、私の友人のバトソン氏だ」

ブストン氏は長身で、なかなか立派な風貌の持ち主で、歳は四十くらい、その髪と髭はなみうっていた。そしてそれから老人にむかって挨拶をしたが、慇懃無礼ではあったが、どこか不機嫌であった。

「バトソンさんは」アイザックおじさんは話しながら、手をふった。「蒸気船関係の仕事につかれている紳士で、おまけに家柄も、趣味もすばらしい方だ。バトソンさんといっしょに休日を過ごすきっかけになったのは、選ばれた者たちのパーティなんだ。藪のなかの宴という名のパーティだよ」

「ああ、あれか」老メイは答えると、鞄をおろした。「ダン・カウのあたりで、そうした集まりを見かけたよ。とても陽気に騒いでおった。手風琴をひいたり、キスごっこをしたり、とても浮かれておった」

「やめてくれ、とんでもない」名士のバトソン氏はうなり声をあげた。「あんな低俗な連中の集まりとは違う。あれは馬車にのった行商人の集まりじゃないか」彼は、アイザックおじさんを啓蒙すべく言い添えた。「わたしは、あんな卑しい連中とはちがう。ぜったいに違う」彼は憤怒にかられながら、葉巻の端をくわえたが、火は消えていた。どこかに放り投げようとしたのだが、それも空しく、ついにはティーカップのなかに火の消えた葉巻をおとすことになった。

「とんでもない、ミスター・メイ。あんな集まりとはちがう」アイザックおじさんは、たしなめるような、重々しい口調でいった。いくばくかの資産がある身でもあるし、バトソンさんの仲間でもあるくらいだから、私には上流社会が似合っているのだ。ああした雑多な輩とは、距離をおくことにしている。ローソンズからきた船大工や技師といっしょにきた。たぶんミスター・メイは、ちょっとした冗談を言ったんですよ、ミスター・バトソン。ミスター・メイご自身も資産家だし、そのうえ科学者でもある。以前、お話しましたけどね。このあたりの連中ときたら、ビールを何パイントも飲んでいる。もし誰かがやってきてミスター・メイにこう言ったとする『おまえの財産をわたすんだ、ミスター・メイ』警察は、ミスター・メイに、なんと言うと思いますか? どうでもいいことだし、仕方がない。警察は、こう言いますよ。「あきらめるんだな。おまえの要求は、どうでもいいことだし、仕方のないことなんだ。アイザックおじさんは、重々しい音をたてながら食卓を調べ、なんとかティーカップを守ろうとして帽子を食卓から取り去り、ふたたびもう一度頭にかぶった。

 

ミスター・バトソンは「ふん」と唸っているところに、ミセス・メイが網をとりあげ、背後にベッキーをしたがえて押し入ってきた。「この箱を上の部屋に持っていけば、もう少し部屋が広くなるけど」彼女はいった。「やかんが離れで沸騰しているから、紅茶をもう少しいれてくるわ」

 

ベッシーには、知らない人の前にでると、内気になる癖があった。アイザックおじさんも、知らない人の範疇にはいっていた。以前、彼がここに来てから、少なくとも二年は経過していたからだ。ほんとうに、彼のことを思いだすと、彼女はますます内気になった。彼は大きな声で、祖父に恩があるということを長々と説教するのだが、説教していくうちに彼女のことを肢体不自由者とか、ときにはお荷物だと言うからだった。彼女は、自分が肢体不自由だということも、お荷物だということもわかっていた。だが、腕をしっかりつかみ、そう言ってくる相手が、アイザックおじさんのように、声が大きくて、どんぐり眼の紳士だと、なんだか泣きだしたくなるのだった。そういうわけで、できるだけ素早く、彼女は兄と合流した。それから二人は、踊り場と離れの扉のあいだにある暗い影に撤退することにした。

 

老いた蝶採集家もはにかんでいたが、それは彼をさらに初老のひとらしく見せていた。未亡人である義理の娘と、その二人の子どものむこうにいる連中は、知り合いとは言い難かった。少なくとも、彼が標本を売るロンドンにいる植物学者ほどの親しみはわかなかった。そして今、まさしく上流社会の人物であるミスター・バトソンが眼前にして、彼が怖れているのは、すでにミスター・バトソンが、この家の卑しい人物に愛想をつかしているのではないかということであり、そのせいで彼はみたされない食事をとるしかなかった。なかば忘れていたことを思い出したせいで、彼は打ちひしがれていた。それは紅茶の正しい飲み方とは、二つの方法のうち、どちらだろうかということだった。カップで飲むのか、それともソーサーで飲むのか、彼には決めかねていた。ミスター・バトソンは紅茶を飲み終えていたので、彼をお手本にするわけにはいかなかった。だが彼のソーサーに残るお茶のあとが、手がかりをあたえてくれるようにみえた。その手がかりは、じきにアイザックおじさんによって意気揚々と立証されることになった。おじさんは半端なカップを厭うことはなく、カップの中味をソーサーにそのままあけ、すごい勢いで急いで飲み干しながら、カップごしに不安げにねめつけた。そこでこの家の主も、ソーサーから飲み干すと、来たる未来を思い出すことに心を砕くように泰然としていた。それでも彼は居心地が悪かった。ややしてから赤面したのは、ミスター・バトソンがこの訪問に飽きたという徴候に気がつき、自分が不親切なことに、その様子に感謝していたからだった。いっぽうで、彼はあからさまではないが、相手に話しかけることは幾分拒んでいた。

「とんでもない」ミスター・バトソンは、長い休息のあとで、陰鬱に口をひらいたのだが、とくに何かに応じたというわけではなかった。「私は資産家ではない。資産があればとは思うが。眼のまえに運ばれてきたものを、自分のものにできるなら。でも、現実はこのとおり」彼は両手をポケットに深くつっこみ、ひどく憤りながら、その空っぽのポケットを見おろした。

「ミスター・バトソンのおじさんは」アイザックおじさんはいった。「市長をしている。市長だぞ。それから他の親戚の方々も、上流階級に等しい方々だ。でも、そうした方々のことを、一語たりとも口にする必要もあるまい。血を受けついでいるからだし、繁殖からくる誇りなのだ。つまり私が言いたいのは、正しい自尊心が働いているのかもしれないが、私の表現でいえば、正しく、御自分を判断していないということなんだ。あの方々の名前をだせばいいだけなのに。あの方々の名前を言ってくれるだけでいいのに、ミスター・メイ」

「あのひとはそうしないのかね?」老人は、従順に答えた。「それは、まあ」ミスター・バトソンは頭を後ろにそらして、あごをつきだし、天井にむかって嘲笑するかのように鼻をならした。

「ああ、親戚の名前をだすようなことはなさらないんだ。そうしたことは下品なことだし、不名誉なことだ。そうしないとなると、私の勤めをはたすにはどうすればいいものか。ミスター・バトソンを正しく判断するには、本人に会って、話をすることが大切だ。ここに本人がいることだし、私もここにいるときている。ここにいらっしゃるミスター・ヘンリー・バトソンは、上流階級のひとたちとも礼儀正しく交際していらっしゃるし、そういう方々にはおよばないにしても、ミスター・バトソンも技師であられるし、この世にふさわしくない場所でつながれているが、それでも安い蒸気船のエンジン室でつながれているという訳だ」(ここでミスター・バトソンは、ふたたび鼻をならした。「それに知り合いの私にしても、いくぶん資産をもった年配者であり、船大工として経験を積んできている。こうした人間関係を築くほうが、資産家との関係よりも、自然で、正しい関係だ。強調しておきたいが、資産家との関係を築くよりということだ」

「そうだな」老メイはいった。もう片方がまだ休息している様子をみると、彼はつけ加えた。「たしかに」

「だが彼には誇りというものがある。そう、誇りがある」アイザックおじさんはいうと、頭を物悲しげにふってみせた。

「おそらく、誇りは持ち合わせている」ミスター・バトソンは素直にみとめた。「私にも関わりがあったことだろう。でも、一銭たりとも貰っていない。ひざまずいて請われても、貰いはしない。はじめて会うひとなのに、やすやすと見つめるような真似はできないのだ」

「ああ、そうでしょうとも」アイザックおじさんが吐息をついた。「でも、それでは理性を正しく働かせていませんよ。理性は働いていません」

「それでも自尊心は働いている」ミスター・バトソンは不機嫌にいった。「あの連中が情け容赦ない態度をとりたければ、そうさせておけばいい」

 

「たしかに」アイザックおじさんはいった。「つめたい家族もいれば、心あたたまる家族もいる。家族によって違いはいろいろある。こちらのミスター・メイをみてください。べつに血のつながった家族ではないんですよ。私の姪が結婚して、その義理の父親になったというわけです。でも、なんて優しいことか。彼の息子は技師で、あなたと同じ職業についていました、ミスター・バトソン。メイドメントで取りつけ工をしていました。でも私の姪を未亡人にしてしまいましたが。歯車に上着の裾をまきこまれてね。ミスター・メイはどうしたと思います? 心やさしいところをみせてくれたのです。姪とその娘をここに連れてきたのですよ、まあ、古い住まいながらも、彼が自由にできるところですからね。そういうわけで、ここにいるわけです。おわかりになりましたか?」

 

アイザックおじさんが信条としていることだが、あまり重要ではない人物については、誰であろうとも、優れたところについて詳述できなくても、気にかけないことにしていた。たとえ近づきになるかもしれない人物だとしてでもある。信頼するに値する優れたところがあるとしても気にかけない。その人物が実際に目の前にいたとしても、いっこうにかまわない。これほど卑しい振る舞いはないだろうが、それでも十分にむくわれた。せいぜい悪い方に働いたとしても、感じのいい人柄を強調するだけだった。個人的な便宜をはかってもらうには、またとない好機になった。そうしたことをしているうちに、アイザックおじさんの評価は、知人のあいだで確固たるものになった。話しをする番がくるたびに、抜け目ない洞察力を発揮するからだった。しかしながら、老いた郵便配達夫は窮屈に感じるだけだった。彼の考えでは、息子が死んだ今、その未亡人と子どもたちが、自分と同じ屋根の下に来るのは至極当然のことで、彼女たちを連れてきたのも自然な流れにすぎなかった。だが、ベッシーの母親はあっさりいった。「そうね、おじいちゃんは私たちによくしてくれるわ、いつでも」彼女は子どもたちと同じように、彼のことを「おじいちゃん」と呼んでいた。

 

「それから」アイザックおじさんはつづけた。「学のある人物だということを考えてみても、すばらしい。天文学のことにしても、それから、その昆虫学のことにしても、ミスター・メイに知らないことがあるだろうか。いや、知らないことがあるはずがない」

「いいや、天文学なんか知らないよ」老メイは相手をさえぎったが、その話題に少々あっけにとられていた。「天文学はしらないよ、ミスター・マンディ」

「これはご謙遜を」アイザックおじさんはいうと、片膝を力強くたたいた。「謙遜のあまり控えめになるということは結構ですな、ミスター・メイ。結構ですとも。でも知っていますよ。知っていますとも。天文学も、お薬や病気のことも、それから古典のことならなんでもご存知だ。知っていますとも。私の些細な資産のなかから、最上のものをさしあげるつもりだ。あなたの教養に敬意をあらわすために、ミスター・メイ」

これは一家共通の見解なのだが、アイザックおじさんは細々とした資産に執着していた。何があろうとも、資産について詳細に語ろうとはしなかったし、その資産がどういう類のものかに関して、その都度、語る言葉はちがった。それでも、どのような資産であれ、アイザックおじさんにすれば大きな差をつけるものであり、考慮するに値するものであった。さらに資産には不可思議なところがあるせいで、その差について思いをめぐらす者にも、時おり遺言をかえることを仄めかすことで、アイザックおじさんは揺さぶりをかけるのであった。

「そうですが」ミスター・バトソンは椅子から立ち上がりながら、口をひらいた。「私には、あまり教育は役に立たなかったようです」

「そんなことありません。運が悪いのですよ」アイザックおじさんがいった。

「それに私なら資産があるほうがいいですが」ミスター・バトソンは扉にむかっていった。アイザックおじさんも、そのあとを追いかけた。

そのとき、外にひろがる暗闇のほうから、にぎやかな女の声がひびいてきた。「おやまあ、聖なるツグミにぶつかるところだった」その声はいうと、けたたましく笑い声をあげた。「あのひとたちに戻ってきてもらうように言わないといけない」

老メイはその音を耳にしたので、入り口のほうにふみだした。だが威厳は、もうミスター・バトソンの顔から消えていた。その頬は血の気がひき、口も、目も大きくひらいていた。彼はあとずさると、階段のほうにむかっていた。見ている者はいなかった。だが、子ども達は気づいていた。外のほうに注意をむけていたからだ。

「ねえ! ダン・カウにいく道はどっちなの?」

「あの小道だけど、わかるかい?」老郵便配達夫はこたえた。「右の道をすすんでいけば、ダン・カウにつく。森をぬけていくより、少し遠回りになるかもしれないが。でも間違えることはない」

「わかったわ」女がふたり、それから男がひとりいた。わめいていた女は少し落ち着いた調子で、なにやら仲間に話しかけていた。だが「半ペニー」という言葉がたしかに聞こえたかと思うと、笑い声があがった。「おやすみなさい、じいさん」彼女は大声でさけんだ。「ずぶ濡れの剣をつかってジャムの瓶にしまいな」

「たくさん採ってきたよ」老人はそういいながら寛容な微笑みをうかべ、扉のほうへとむかった。「あのひとだよ、服を濡らすために、わたしが採集していると言ったのは。ダン・カウの前をとおったときにね」

宴から聞こえてくる声は衰え、やがて途切れた。そして今度こそ、出発の支度がととのったのだと、バトソンさんは考えた。「さて」彼はいったが、その声には力がなく、ぶっきらぼうだった。「他の連中のところに戻らなくてはいけないので」彼は威厳をたもちながら、急いで立ち去ったが、その様子には、先ほどメイをすこし当惑させたほどのものはなかった。だが、じきにそうしたことは忘れ去られてしまうのだ。

「おやすみ、メイ。ゆっくりおやすみ」アイザックおじさんは堂々と握手をしてきた。「有意義な会話ができて楽しかったよ、メイ」彼はせっかちなバトソンのあとを追いかけたが、門にいく途中で立ち止まると、おだやかに「ナン!」と呼んだ。

「なに、おじさん」未亡人のメイ夫人はこたえ、彼のほうに近づいてきた。「どうかしたの?」

アイザックおじさんは重々しく、彼女の耳に何かささやいた。すると彼女は戻り、老人にささやいた。「もちろんだ、わかったよ」彼はいうと、かなり心配そうな様子で、家のなかにふたたび入っていった。

メイ未亡人は戸棚に手をのばして、ひびの入ったカップをつかみ、コッパー銅貨を二、三枚ころがすと、半クラウン硬貨を一枚とりだした。その硬貨をもって、彼女はアイザックおじさんのところに戻った。

「このことはメモに残しておくよ」アイザックおじさんは言いながら、ポケットにその金をしまいこんだ。「そのうち郵便為替でおくるから」

「まあ、そんなことを気にしないで、アイザックおじさん」それというのも、アイザックおじさんには資産が多少なりともあるのだから、半クラウンの問題で不快な思いをさせる必要はないのだ。

「なんだと? 気にするだと?」彼は思わず声をあげたが、苛立ちが見てとれた。「支払いは、私のー」

「さあ、行くぞ」バトソン氏が不作法にうなる声が、外の暗闇から聞こえてきた。「さあ、行くぞ」それから彼らは連れだって出ていき、先ほど騒がしい女が進んだ道とは、反対の方向の道にふみだした。

「よかったな」老メイはいった。「あまり客をむかえることはないから、おまえのアイザックおじさんに会えてよかったよ、ナン。それからバトソンさんにも会えてよかった」彼は分け隔てなく言い添えた。

「そうね」ベッシーの母親は素直にこたえた。「とても立派な紳士だったわね」

「忘れていた」老人はふといった。「ここを出発するまえに、ビールを少し飲んでもらえばよかったな」

「紅茶を待っているあいだに、あのひとたちはいくらか飲んでいたわ。でも、たくさん残っているなんて思わなかったものだから」窓辺の飼育箱から、彼女がひっぱりだしてみせたのは、空になった大瓶だった。だが、その中身は空っぽだった。

「おや」その瓶を注意深く調べているときに、老人がいったのは、たったそれだけであった。

やがて彼は離れにむかい、安物の鍋と刷毛を手にして現れた。「糖蜜を少しとりにいこう」彼はいった。「くるかい、ジョニー?」

少年はポケットから帽子をひっぱりだすと、ランタンをとってきた。すぐに用意はととのい、そのあいだにベッシーは遅ればせながらの紅茶をとった。

 

日没まえの青白いひかりが、西の空にひろがっていた。やがて宵となり、甘い香りが捧げられた。夜になるまで営まれていた筈の風景は、すべて消え去った。そして巣は静まり返り、時おり、眠たげなさえずりが聞こえてきた。刻々と星があらわれては、また別の星があらわれるのだった。少年と老人は木々のあいだをぬけて、丘をのぼって歩いていき、ときどき休んでは、瓶にいれたラム酒と糖蜜を混ぜあわせたものを樹皮に塗りつけた。

「いつも心にとめておいた方がいいが、休日できた連中がいるときには、糖蜜を置く場所には気をつけた方がいい」ジョニーの祖父はいった。「連中は気づかないからな。丸太や切り株のまわりを歩いたあとで、戻ってきてみると、そのうえにカップルが腰かけていることがしょっちゅうある。それも新しい服装とか、そうした類の恰好で。説明しても無駄だ。ほんとうにふざけてやったと信じるからな。そういうときは歩き続けて、取り合わないことが一番だ。連中はよく言う。『田舎はいい香りがしない?』実は、自分たちが座っているラム酒と糖蜜の香りなのさ。そのことに気がついた連中から、まあ、なんて言葉を聞いてきたことか。ひどい言葉だよ」

少年は、ずっと黙っていた。やがて口をひらいた。「おじいちゃん、ぼくが描いたお母さんの肖像画だけど、ほんとうに好きなの?」

「好きかって、坊や? もちろんだよ。上品な絵だ」

「アイザックおじさんは、ひどい絵だって言っていた」

「ほう!」考えて間をとりながら、ふたりは次の木のほうへ歩いていった。「アイザックおじさんは、からかっているだけだよ、ジョニー。気にする必要はない。ほんとうに上品な絵だ」

「アイザックじさんはなにもわかっていないんだ」少年は怒りをこめていった。「なにもわかっていないんだ」

「これ、ジョニー。ジョニーや」彼の祖父はたしなめた。「そんなことを言ってもはじまらないだろう。なんの役にもたたない。そんなことを言ってはいけないよ」

「でも、そう思うんだよ、おじいちゃん。それに僕たちのことを悪く言っていることも知っている。前にきたときも、僕が描いていた船がひどいと言った。そのせいで、僕は、僕は泣きそうになったんだ」(彼は実際のところ泣いたのだが、それは秘密であって、告白することはできなかった)「でも今では」ジョニーは続けた。「ぼくも十四歳だから、もっと物事をよく知っている。アイザックおじさんは、なにも分かっていないよ」

彼らはふたたび、最初に通りがかった木のそばを通った。そして瓶と刷毛をその根本に置くと、老人はランタンを頼りに、ひきよせられてきた蛾を何匹か採取した。その木から、彼はランタンを移動していき、一巡する経路にある次の木にたどり着くと、また次の木に移動していった。蛾を採取するあいまに彼が語り続けるのは、先達に敬意をあらわすための、おだやかで、漠とした講義であった。

すでに宵闇がせまり、空一面に星がちらばっていた。老人と少年は視覚よりも触覚をたよりにして進んでいき、幽霊のようにそびえる木々のあいだを通っていった。どこまでもひろがっていく木々のざわめきが、冷え冷えとした大気をみたしていた。その木々がうかびあがっている高台から、目にはいってくる景色とは、ラフトンの明かりであり、またウッドフォードの明かりであった。美しく見えてくる田園風景のなかにあると、ほかのものは遠くに思えた。エセックスの至るところから、夜風が勢いよく吹きつけていた。さらにその向こうにあるロビン・フッド・ロードからは、車の音やざわめく音がきこえてきた。やがて懐中電灯が赤や緑に光りだしたのは、宴にでていた人々が家にかえりだした兆候であった。

 

2章

しばらくのあいだ、或る問題がその小家屋に暮らす人々にふりかかった。そして今も、その問題は解決されていなかった。ジョニーの職業選択という問題である。小家屋の位置する場所のせいで、困難が生じていた。最寄りの鉄道駅まで歩いて二マイルかかった。さらに、そこからロンドンまで十二マイルはあった。職業について習得できる場所は、ロンドン市内にあった。だが、そこに行くにはどうすればいいのだろうか。この場所から一家は離れるわけにはいかなかった。その地には小家屋があって、その家は家賃を支払う必要がないのだ。老人がわずかな貯えのなかから購入した家だからだ。それにその地には蝶や蛾もいるので、捕まえれば、干からびたパンで暮らすしかない僅かな年金暮らしに、バターを添えることになった。それに、ここにいれば菜園もあった。ジョニーと別れるということは、母親にすれば耐えがたいことであった。それにどうすれば宿代や食事代を工面できるだろうか?

蝶にしても、蛾にしても、ジョニーにとって生命あるものであることはなかった。なんといっても、彼がいつも手伝わされるのは孵化であることもあれば、殺して台にとめることでもあり、その他もろもろのことを手伝わされるのだけれども、祖父のように生まれついての昆虫収集家ではなかった。それに老人はだいぶ前から気がついていたのだが、森から年々狩場が消えていき、やがていつかはー自分の死後であってほしいと老人は願っていたがー働く価値のない場所になるにちがいなかった。人々が猛禽類に辛くあたった結果、昆虫を食べる鳥が繁殖しすぎてしまい、蝶が少なくなってきていた。その他にも影響をおよぼしているものが、少なくともそうみえるものがあった。かすかな影響ではあるが、南東方向にひろがる煙のかかった地域からのものだ。ロンドンが拡大しつつあり、不毛の煉瓦からなる汚らしい一帯がおしよせてきているからだ。ストラットフォードに到達したのはずいぶん前のことであり、今ではレイトンに到達しそうであった。レイトンは八マイル離れているけれど、その発展中の町からは、前方にある此の地にむけて何かが放たれていた。臭いやら微かな成分といったものが、蝶を追いやっていた。老人はかつてストラットフォードで、皇帝蛾を捕まえたことがあったが、それは汚れた小家屋が連なる通りでのことであった。今では、森林の奥深くに入っても、皇帝蛾はたやすく見つけることはできなかった。事実、たしかに南東のほうから風が吹いてくると、数年前とくらべると、空気が汚れたものになるように、老人の目にも思えた。たしかに、近隣の寄宿学校の少年たちとか、おおぜいのアマチュア採集家が虫取り網を手にやってきたが、そうした少年たちは不平をいったりしなかった。だが老人は商いをしているので、毎年日々が過ぎていくにつれ、卵、幼虫、さなぎ、成虫という森が生み出すものに、変化が生じている様を目にして、その変化を認めるのだった。そういうわけで蝶採集がジョニーの職業となる可能性はなくなった。祖父は仕方のないことながら、なじみのある職業につかせようと考え、郵便局のことを口にするようになった。彼はロングトンの郵便局長とも、森の近隣にある町の郵便局長とも知り合いだった。少し口をきいてもらえば、配達人の口が次にあいたとき、ジョニーが職につくこともできるだろう。だが、少年はその期待にはのってこなかった。彼は抗議した。それが彼の参加する唯一の、毎日の話し合いとなった。何かを創りたいと思ってのことだった。チョークで描かれたつまらない船や人物から判断すれば、本来の外観を損なうことになっていようとも、あきらかに、彼は絵を描きたいのだった。彼は、選んだ道をおしすすめようと、平易な言葉を使って説得することはしなかった。そのようなことをしても希望がもてないからだった。たとえ説得したところで、母親にしても、祖父にしても、あらゆる観点にたって、その希望を非難してきた。

「蝶よりも幼虫のほうがたくさん、手の届く生活圏内にいた」老人は、標本づくりに苦労しながらいった。「絵とかそういう類のものに取り組むこと自体は、とてもよいことだ。だが、いつも職業を選択できるというわけではない。この時代の者としては、私は恵まれているほうだ。昆虫採集はもともと私の趣味で、やがてそれで稼ぐようになった。おまえは可哀想な、おまえのおばあさんに会ったことはないのだが、あいつは『蛾や幼虫がたくさんいますように、あなたに幸いがありますように」と言ってくれていたものだ。『蜂でもいいじゃない、いつも文句をいっているんだから?』とも。そう、ハスキンズさんもだ。いつも私の家のそばをとおっていく人だが、あのひとも蜂を飼っている。でも私は、標本をあちらこちらの紳士に売り始めた。さらに定期的に、ロンドンに売りにでるようになった。今のように。でも今は、昔ほどよくはない。これから先、もっと悪くなるだろう。だが、せめて私が生きているあいだは続いてもらいたいものだ。蝶の採集をするようになったのも、私がこのあたりで手紙を配達していたせいなのだよ。おまえも手紙の配達をするようになれば、そうしたことができるようになる。たぶん蜂を扱うことになるだろう。そうたくさんは採れないけど、いい蜂なら、長靴を修繕する足しになる。だが、ここは街から少し離れている。それでも家はここにある。私がこの世を去ったら、おまえとおまえの母さんのものになる家だ。私も六十九歳なのだから。それにここのほうがロンドンより、健康的で、清潔だ。畑で虫眼鏡をかけて、トマトや胡瓜を育てればいい。野菜と、それから鶏だ。鶏を飼えばいい。いい家の人たちに、高く売ることができる。そうした家のひとたちも、郵便配達夫なら知っているからな。給料は高くはないが、ここなら安く暮らすことができる。家賃もいらない。おそらく年金もはいる。それがお前の職業だ。そうやって生きていくんだ、ジョニー」

「でも何かをつくって商売をしたいんだ」少年は、思い悩んだ様子でいった。「ぼくは本当にそうしたいんだよ、おじいちゃん」

「とんでもない」頭をふって彼は答えた。「何をつくりたいんだ? 絵のことを言いたいのかね。そんな考えはきれいさっぱり忘れることだ、ジョニー。そうした創作活動をする連中のなかには、たしかにうまくいく者もいる。だが大半は悲惨な末路をたどる。そうした連中をたくさんロンドンで見かけてきた。路上で絵を描いている連中だ。たいてい、そうした連中は世渡り上手で、ぽん引きのあいまに、絵筆を少しとって女王の似顔絵を描いたり、太陽が美しく陰る日没を描いたりする。そして施しを請う。いつも施してもらおうと、銅貨いれてもらうための帽子を持っている。そして『才能ある貧しき者を助けてください』とチョークで書いておく。でも、それではやっていけないんだ、わかるだろう、ジョニー」

少年の母親は、息子に漠然とした期待をかけていたが、それは郵便配達をして過ごす人生では実現されないものであった。そうはいっても絵を描くということについては、老人と同じように賛成はしなかった。それにしても、彼らの家がある場所ときたら…それは乗りこえる術が見つからない障害であった。どうしようもないので、この問題はしばらくそのままにしておくことにした。そのかわりに、それほど厳しくはない困難に取りかかることにした。しばらくのあいだ郵便配達について考えることはやめ、障害となる距離の問題について考えることもやめよう。さて、どのような職業を選ぶことができるだろうか。たしかに選択肢は多岐にわたるので、なにひとつとして見落とすわけにはいかなかった。ジョニーの祖父は紙と鉛筆をもってウッドフォードまで歩いていき、そこでロンドン住所録を見せてもらい、Aで始まる脱脂綿製造業からZで終わる亜鉛製版術まで、すべての職業に目をとおした。苦労して一覧表をつくりながらも、しぶしぶではあるが銀行、株式仲買人、専売特許所有店、医師などの項目は省き、飛行船操縦者やコルクろくろ工については少し躊躇した。その作業は三日にもおよび、非常に骨のおれるものになった。ついに老メイは一覧表をつくりおえたが、その心は思案にくれていた。コルクろくろ工とは何だろうか。それから同様に、電流計とは何なのだろうか?

だが、その一覧表は混乱を深めるだけであり、一家の話し合いは分断された。ナン・メイが家事の合間に歌うことはなくなり、そのかわりに考えるようになったものとは、脱脂綿製造業から始まって亜鉛製版術で終わる職業のうち、記憶に残っているものについてであった。リトル・ベスは本棚の本を手にとることはしなくなり、そのかわりに分かりにくい一覧表を読みふけるのだが、真摯に取り組んでいながら、その実、何も理解していなかった。おかげでジョニーを打ちのめしているものとは、恐怖にちかい感情であった。なんとも説明しがたい感情であった。パンを手に入れるための闘いがくりひろげられる競技場は、あまりにも広すぎた。自分があまりに小さな闘士に思え、彼は乱闘に加わる手段を選びあぐねていた。さらに、すべての職業が魅力のないものに思えた。種子粉砕業者や絆創膏の製造会社で働く生活には、何の羨望も感じなかった。だが老人は壁に一覧表をピンでとめ、室内で作業をしているときに調べてみるのだった。忍耐強く、あくまでも勇敢にその作業に取り組んだ。

「ベーキングパウダー製造業は」近くにいる者なら誰であろうとも、彼は声をかけてきた。「どうだろうか? なにかをつくる仕事だと思うんだが…」

 

ときどき森の監視員であるボブ・スモールピースが見回りの途中でメイの家に立ち寄り、相談相手になった。ボブは大きな体を皮と別珍の服につつんだ男で、長く保管しすぎた青リンゴのような顔をしていた。最初に彼が森にやってきたのは、数年前のことだった。気だてのいい顔でこの家に出入りするようになったのは、職業的な思考が働いたせいであった。歩きながら、人里はなれたところに散在する家に目をくばることを、彼は習慣にしていた。一度か二度、そうした家屋を突然訪れ、毛皮の山をこっそり調べてみたが、トネリコの杖で突っついてみると、兎の死体がでてきたりしたこともあった。たしかに、老メイの趣味がそういうものだから、その気になれば、蛾を採取するついでに、夜、罠を一組か二組仕掛けることは容易いことだろう。だが、すぐに監視員は、この家の住人たちが密猟をしたりしないということに気がつき、それにつれて彼の挨拶も親しみのこもったものになっていった。ジョニーの職業に関しては、彼の意見は、ロンドンでは肉屋が繁盛しているという域を超えるものではなかった。彼の妹が肉屋と結婚していたからだ。そしてコルク旋盤工にしても、電流計にしても、自分の杖のことと同じくらいにしか知らなかった。だが、密猟者がどういうものかはよく知っていた。もし情報提供者が教えてくれたなら、おそらくは杖がふりかざされていったことだろう。彼の助言では、あの仲間たちからは少年を遠ざけた方がいいということだった。ブランディの仲間、ハニーウェルの仲間、ヘイズの仲間は、少年にいい影響を与えないからだ。老いた蝶採集家も、こうした連中のことはよく知っていた。だが土手や藪を手探りで歩いても、こうした連中とは親しくならなかった。長い間、老人の姿を見かけてはいたが、幼虫だけが老人の活動を説明しているとは、誰も信じようとしなかった。老人は政府から年金をもらう身であり、科学的な趣味の持ち主で、精錬潔癖な人生をおくっていた。さらに森の管理人からミスター・メイとよばれ、森での出来事について証明する機会はいくらでもあるのだから、疑いの対象となってもよかった。だが実際のところ、村のならず者たちは、自分たちが兎穴で何をしているのか、老人が知っているとは少しも思っていなかった。老人は森に精通している様は、人々がクォート・ポットの内側を知っているかのようであった。それに老人の目は老いていたけれど、草や木の葉、藪に隠されているものを探す日々を積み重ねてきたせいで、よく鍛えられていた。老人は、目隠しをされた状態でも、彼らの罠を見つけることができた。それにジョー・ブランディの罠とアモス・ハニーウェルの罠の見分けについては、ジョーやアモス自身よりも目が利いた。だが、こうした状況においても彼は沈黙を守り、あくまでも中立を貫き、知りすぎているように見せないことが肝要と考えていた。それでも、「ロット」と呼ばれる組織は、銃、鋼鉄のわな、柔毛や羽につつまれた死体のせいで捕まった仲間を除外することが時々あった。そして残された仲間は団結して、疑いと嫌悪のまざった目で老人をみるのであった。以前、何日間にもわたって、老人は疑われたことがあった。ボブ・スモールピースに頼まれ、このうえなく野蛮な鹿泥棒の件を教えたのではないかと疑われたのだ。その泥棒事件で目をひいたのは、縛られた子鹿と、心配そうな雌鹿の姿であった。いずれも重い石で、脚をくだかれ、喉を切られていた。だが管理人が気づいたのは、老メイではなく他が原因だということが判明した。老メイへの疑念が消え去ったのは、泥棒が鞭で打たれ、血まみれになりながら、警察の独房に連れていかれたという知らせのおかげだった。泥棒は、血だらけの鹿をのせた手押し車をひいていった。今でも、ボブ・スモールピースは小屋の入り口ににやりと笑みをうかべながら姿を見せるのだが、そのときの乱戦で歯を二本失ったときの様子とは、雰囲気はまったく別であった。

「よくないことだ」森の管理人はいった。「男の子が何もしないで、ぶらぶらしているなんて。このあたりでは、とくにそうだ。このあたりでぶらぶらしている男の子たちは、たいがい話題のロットという組織か、あるいは同じ様な悪い組織にまきこまれることになる。このあたりには紳士もいなければ、仕事をくれる方もいないからな」

「あの子には、商売を身につけてもらいたいのだが」老人は気づかわしそうにいった。「だが、どうすればいいのか見当がつかない。いつも身近にあるものといえば商売だし、あの子も商売につくことを望んでいる。あの子も何かつくりたいと望んでいる。そんなふうに、言っているんだ。ほかにも、郵便配達をすすめてみたんだが、私と同じように」

「あの子の父親は、技師だったのよ」メイの未亡人の声がした。彼女は菜園から摘んできたルバーブの茎を抱え、入り口のところに立っていた。「あの子も、父親と同じ道を歩ませたいわ。でも無理ね、ここにいたのでは」

ボブ・スモールピースは、技師の仕事について何も知らなかったし、窓枠のところに―老人はその近くで種まき用の穴ほりの作業をしていた―ピンでとめられた職業の一覧についても、その幾つかはまったく見当もつかなかった。やがてボブ・スモールピースは巡回へと戻っていった。開けはなった窓辺に立ちながらベッシーは、彼が谷間へと進んでいき、ジョニーを見かけて杖をふる姿を見ていた。ジョニーは、枯れ枝の束をかかえ家にむかっていた。

ジョニーの母親がルバーブの皮をむいて刻みながら思案にくれるのは、実現不可能な術について思うからで、どうすれば自分たちとロンドンのあいだにひろがる空間に橋をかけることができるのか考えるのであった。その空間は、地図上ではとても小さなものに見えた。だが彼女が知っている二つの暮らしのあいだには、深い溝がひろがっていた。ジョニーの祖父は蝶をピンでとめると巧みに固定して、深い思いにふけった。やがて顔をあげると「お手上げだ」と言いながら、彼が怖れているのは何か良い商売を見落としたのではないかということだった。「コルク旋盤工が何か見当をつけるのがむずかしいよ」

 

3章

 

そういうわけで森の家での生活はつづいていった。しばらくのあいだ、森の家のひとたちはアイザックおじさんがまた訪ねてくるだろうと待っていた。その後、おじさんが郵便為替を送ってこないので、半クラウン硬貨の返済が遅れる事情が生じたようだと思った。おじとしては、早く返済するつもりでいたからだ。だが数週間が経過しても、おじから何の音は沙汰もなく、その姿を見かけることもなかった。しばらくのあいだ、ジョニーの職業に関する問題は、何の解決策も見いださなかった。彼が学校を卒業してから、もう三ヶ月になっていた。事態は絶望的であり、郵便配達をするという案に屈しかけていた。ロンドンがとても遠いところにあり、手の届かない場所だと考えると、一覧表に記されているけど、あまり魅力のない職業にも、憧れるようになった。彼自身にも、ロンドンの記憶が残っていた。ベッシーよりも多くのことが、楽しい思い出として記憶にあった。そこから目にうつる風景は-彼の寝室の窓から見える風景だが-たくさんの船のマストが間近にみえていた。強風にあおられて(彼の記憶に残っているロンドンの天気は寒々としたもので、それも思わず身が引き締まる寒さであり、空気は乾き、やはり風が強かった)マストはしなって前後に重々しく揺れ、ロープは風をうけてはらみ、滑車もにぎやかに音をたてていた。夜になると彼は横になりながら、帆桁がうなり、ロープが軋んだり、がたがたいう音をきいた。目に見えないところで、時折、船が揺れて、波止場の上にでているジブブームの部分が清潔かと確かめるような様子は、まるで街がどういうところか確かめているかのようでもあった。しばしばジョニーは通りにたって、男達が帆桁を吊している支柱をよじ登るところを見たが、男たちの様子はまるでハサミムシのようだった。彼も買い物に出かけたが、市場の通りに広がる母親のスカートをきつくにぎりしめた。その通りでは、誰もが大声でさけんでいたからだ。それに行商の手押し車には、牛の目やらペパーミントが大量に積まれていた。通りの片側には店がならび、もう片側には窓や戸のない壁がそびえていた。壁のむこうでは、空高いところに、巨大な船の骨組みがそびえていた。男達が骨組みに群がる有様は蟻のようで、一日中、ハンマーがガチャリガチャリと大きな音で響きわたり、夜になれば無数の明かりがゆらめいていた。男達が船を造っている場所は、巨大で、窓のない壁に四方を囲まれていた。彼の記憶によれば、そうした壁の一面に、小さな戸口が一か所あった。その戸のむこうにあるものを見たいと彼は思っていた。だが、その戸が開かれることはめったになく、ときおり気難しい老人が戸を開けても、すばやく閉めた。そこでジョニーが考えたのは、中には小さくて、動きのはやい動物が閉じこめられていて、その小動物が脱出しないように、老人がこんなふうに出るのだということであった。ジョニーが覚えている父親の姿は、木綿のぼろで油まみれの両手をぬぐう姿がすべてであった。奇妙な代物で、柔らかい裁縫糸がからまり、絶望的な状態になっているものだったが、その後、ジョニーはそうしたものを見たことはなかった。それと葬式のことも覚えていた。彼は馬車に乗り、新しい上着には黒の喪章をつけていた。母親は墓地のわきで、彼の手を固く握りしめていた。彼の記憶の大半は、あの通りに関するものだった。記憶がいくらか、長い忘却のあとで蘇ってくることもあった。焼き栗のにおいがよみがえらせる思い出に、造船所の片隅で白熱する石炭の記憶があった。その炎の陰には、あばた面の男がいたのだが、あの男はどこにいるのだろうかとジョニーは気にかけたものだった。どちらにしても、物悲しい記憶のある場所に戻ることはできないし、船を造ることも、エンジンを造ることも学べないのだ。ただ絵を描くしかなかった。

 

数週間がたち、花が咲いていたところには実がついていた。ジョニーとベッシーは、毎年恒例になっているブラックベリーの収穫にでかけた。収穫したブラックベリーは、家でプディングやジャムにするときもあったが、ブラックベリーを欲しがりそうな家の勝手口に持っていき、売ることもあった。それも十月初旬のある午後、ゼイドンのレディからの命令で、スローの実を探しに出かけるまでのことだった。

暖かい色が森に新しい調和を生み出していた。高い場所からみると、森が広がる様子は花壇のようで、緑、赤、黄色、茶色につつまれていた。スイカズラは二回目の花をつけていた。キノコは木陰で、深紅色の群をなしていた。今年、家の近くでスローの実をあまり見かけなかったので、子ども達はウェイク・ヴァリーをぬけてハニー・レーン地区へと探しにいった。そこでスローの実を見つけたが、僅かしか見つからなかった。

それは時間がかかるうえに、引っ掻き傷のできる仕事だった。ようやく作業を終えたとき、彼らは聖トーマス地区にいた。太陽は沈みかけていた。彼らはダン・カウのあたりまで一番近い道を戻り、そこで別れた。ベッシーが疲れ、空腹だったからだ。ジョニーも負けず劣らず疲れ、腹をすかせていたが、自分が摘んだスローを新鮮な状態でゼイドンまで運び、金をもらおうと心に決めていた。決心すると彼はすこし歩きはじめていた。そこでベッシーは森の家の家につづく道をあるき、ジョニーはふたたびゼイドンへと森をすすみ、ウォームリィ・ピットを右に曲がっていた。

 

夕暮れがたちこめて、周囲は暗くなっていた。だが少年は道を知っていたので、勇敢に歩いた。最後のウタツグミは、その日に捧げる最後の祈りを歌ってから、身じろぎせずにじっとしていた。木々が影をおとし、彼の周囲で躍動していたが、それでいて音をたてることはなかった。ブナの木々の幹はからみ合い、樫とシダは大きな枝を遠くまで伸ばしていた。すべての木々が凝視する様子は、永遠につづく闘いのさなかに休み、見つめ、ささやいてくるかのようで、そうしたなかを少年は通りすぎていった。木々のあいだには、黒々とした闇が広がっていた。余所から来た少年なら、想像力をかきたてられて苦しんだかもしれなかった。だがジョニーは、少しばかり気をつけながら木々のあいだを歩いていき、巨大な船がたくさん係留されているロンドンのことを考えては焦がれるのであった。これから降りかかるかもしれない災難を考えるのではなく、今このときを考えながら、物悲しい道をいくのであった。

ほどなくして彼は前方の明かりに気がついた。その光は、地上から一、二フィート上のところを動いていた。その光が揺れているのに、ジョニーは気がついた。そのとき明かりの揺れはとまり、木の根元で停止した。「おじいちゃんなの?」ジョニーは声をかけた。すると「そうだよ」老人の声が答えた。

老人は低木から葉っぱを切り落としたが、その上には毛虫が一匹のっていた。それから薬をいれる小さな筒に毛虫をいれた。「夜にエサを食べる虫も少しいるものだから、探しにきたんだよ」少年がかたわらに立つと、彼はいった。「おまえは紅茶の時間に戻ってこなかったね」彼はいった。「スローの実をもって家に帰るところかね? 朝までスローの実を置いておいても大丈夫だ、ジョン。のんびりしなさい。もう、摘んだのだから」

「うん、むこうから来たんだよ」ジョニーはあいまいに指さした。「ゼイドンにむかうほうがいいと思ったから。ベスは道ぞいに帰った。ぼくの方がおじいちゃんより早く帰ると思うよ。もし、おじいちゃんがまっすぐに帰るなら話は別だけど」

「わたしもじきに帰るよ。ピットに少し寄るつもりだが。ゆうべ木いちごやヒースの下から捕まえたものがさっぱりわからないんだ。ああいう虫はまったく見かけたことがない。だから、もっといるか確かめてから、捕まえるだけ捕まえてくる」

彼らはいっしょに数ヤード歩いた。やがて木もまがらになってきた。「スレードを横切った方がいい」老人はいった。「そこを歩いていかないと大変な目にあうぞ」

「そうするよ」少年はいった。「はやく紅茶にしたいしね」

 

やがてゼイドンから家へとむかう道を、彼は小走りに歩いていたが、腕の籠は空になっていて、ズボンには両手をつっこみ、さらに六ペンスもつっこんでいた。そのとき物音に気がついたが、森からの悲鳴のようだった。だが、物音はそれ以上聞こえてこなかったので、彼は小走りにすすんだ。おそらく鹿がどこかで闘っているのだろう。十月の鹿というものは、このうえない闘士だからだ。

 

4章

ジョニーは紅茶を飲み終えた。それから古い安楽椅子でくつろいで、口笛をふいたり、かかとで炉床をこつこつ踏みならしたりして、怒った顔のように見える天井の割れ目を観察した。メイ未亡人は、スローの実がもたらした六ペンスをひび割れたティーカップにいれたが、そこにはアイザックおじさんの半クラウンが返却される筈であった。やがて彼女は紅茶のときに汚した食器類を洗うと、おじいちゃんのすり切れた外套の襟を縫い、冬に備えた。ベッシーは本をひろげて眠りにおち、それから目を覚ました。ついには眠そうに階段を登っていくと、早々と寝台にはいった。だが、それでも老人は戻らなかった。

「おじいちゃんはまだかしら」ジョニーの母親が言うのも、これで三度目だった。「すぐ戻るからと言っていたのに。今夜は、あの作業をするだけだからって」上の部分にガラスがはめこまれたマホガニーの箱のことで、スズメガの標本をつくっている途中だった。知り合いから注文された特別な品だった。

「お目当ての毛虫が見つからなかったんじゃないかな」ジョニーは推測した。「きっとそうだよ。どっちが早く家に帰り着くか競争だって言ったのを忘れたんだ」

メイ未亡人は襟を繕い終えた外套を紐にかけて、くるりと回しながら綻びはないか探してみた。綻びはなかったので、彼女は外套をおろすと、戸口にたって耳をすました。「おじいちゃんを捜しに行くには疲れていると思うけど、ジョニー」やがて彼女は切り出した。

ジョニーはそのとおりだと心のなかで考えた。「毛虫のせいだから、大丈夫だよ」彼はいった。「おじいちゃんが見たこともないような毛虫だったから、ゆうべ捕まえればよかったのに。今夜は見つけられないんだよ。だからピットからスレードまで探し続けているんだ。ただ、それだけだよ」

そのあと言葉がとぎれ、やがてメイ未亡人はある事実を思いだした。「ランタンのロウソクは小さいから、一時間もたない筈よ」彼女はいった。「もう戻ってこないといけないはずなのに。ジョニー、いてもたってもいられない気分だわ」

「どうして? なにか心配なことがある?」ジョニーは訊いたが、残されたロウソクがわずかであるという状況に、彼も落ち着きを失っていた。「どこかでロウロクを手に入れたのかもしれないよ、ここまで戻ってこないで」

「でも、どこで?」メイ未亡人はたずねた。「頼むとしたらダン・カウだけよ。そこまで来たら、家に帰ってきたようなものだわ。それにおじいちゃんは頼んだりしようとしないと思うの」

ジョニーは椅子から離れ、戸口に母親とならんで立った。耳をすましていると、規則正しい物音が、ざわざわとした木々のざわめきの中から、はっきり聞こえてきた。「ほら、帰ってきたよ」ジョニーはいった。

だが、その音は近づいてきたが、大股に歩きまわる音で、重々しい足音が響いていきた。やがてボブ・スモールピースの声が暗がりから聞こえてきて、夜のあいさつをしてきた。

メイ未亡人は管理人に呼びかけた。「どこかでおじいちゃんを見かけなかったかしら、スモールピースさん?」

管理人は足もとに気をつけながら、菜園の門へとやってきた。家の明かりがそこまで射し込み、管理人の明かりと交差していた。「いいや」彼はいった。「見かけなかったなあ。ランタンの明かりも見なかったが。どっちの道を行ったのかい?」

「ウォームリィトン・ピットへ行って戻ってくるだけなんです。それだけなんです」

「でも、私はピットを横切って、寄り道しないで、ダン・カウも素通りして、ここにきたんだよ。でも、おじいちゃんの気配はどこにもなかった。おじいちゃんに何か心配なことでも?」

「だんだん、おじいちゃんのことが心配になってきてるんです。なんとなくだけど、スモールピースさん。六時頃でかけて、もう九時をだいぶまわっているし。おじいちゃんが持っているロウソクは一本だけで、それも一時間もたないようなロウソクだから。それに時間をとるつもりはなかったはずよ。だって標本にしないといけない作業があったから。たぶん、どこかで見たんじゃないかと」

「いいや、おじいちゃんを見かけてない。でも、これからピットに行こうと思う。もちろんだとも」

「お手をかけてすみません。でも、もう一人いっしょにいかせます。うちのジョニーにも行かせます。少しは役にたつでしょうから」

「わかった、それは心強い」管理人は朗らかにいった。「ふたりで、いっしょに行こう。たぶん、おじいちゃんは蛾について演説を思いついたんだよ。だからロウソクのことも忘れ、演説を練り直しているんだ。おじいちゃんがこの近辺で、夜外出するのは初めてじゃないんだから。迷子になるわけがないよ、メイ氏ともあろう人が」

 

ジョニーは帽子を手につかんで木戸にたっていた。それからしばらくして、管理人とジョニーは丘をのぼっていた。

「母さんは、今夜の件でなにも心配してないよ」ジョニーは不平をいった。「おじいちゃんが遅くなることはしょっちゅうだけど、母さんは何も言ったりしなかった。だって毛虫を追いかけ始めると、おじいちゃんはすべてを忘れてしまうから」

ふたりは木々のあいだを歩いていった。やがて「お父さんが死んでから、どのくらいになるんだい?」ボブ・スモールピースはいきなり訊いた。

「九年と少したった」

「おかあさんは再婚するのかい?」

「わからない。でも、たぶん再婚するだろうね。母さんが再婚のことをいったことはないけどね」

ボブ・スモールピースは返事もしないで歩き続け、ぶつぶつ何か言っただけだった。じきにダン・カウからの明かりが、境界となっている雑木林のむこうに見えてきた。少し歩くと、森の端にいた。

「道に明かりはみえないなあ」管理人は左右を見わたしながら言い、固い砂利道を進んでいった。

「だれかいる」ジョニーは声をあげると、薄暗い道を指さした。

「酔っぱらいだよ」管理人は聞きながした。たしかに、ぼんやりとした人影はおぼつかない足どりであるき、もがきながら進んでいた。「道をまちがえて、こっちに来たんだ。ダン・カウから来たのだろう。さあ、いこう」

だがジョニーの凝視は、その人影から動かなかった。「おじいちゃんだ」彼は不意にさけぶと、走りだした。

 

ボブ・スモールピースも、そのあとを追いかけた。二十歩も走らないうちに、ふたりは並んでいた。そばまでくると、老人が早口で話しているのが聞こえてきたが、それは単調な、甲高い声だった。帽子はなくなっていた。呼びかけてみたけど、何の反応もなかった。老人はつまずいたが、障害となる物はなにも見えなければ、聞こえもしなかった。ようやく管理人がたどりつき腕をつかんだとき、老人は溝を歩いていたが、前のめりに倒れてしまった。

その衝撃のせいで、彼のつぶやきは途切れた。彼は荒々しく呼吸すると、前方を凝視していた。それでも不安定な足場で立ち上がり、一歩踏み出してよろめいた。その瞬間、ボブ・スモールピースがひじの上をつかみ、大声で相手の名前を呼んだ。

「どうしたんだ、いったい」ボブ・スモールピースは声をかけた。腕で相手をささえたまま、片手で老人の髪をそっとさわった。血がついていた。血はあちらこちらに飛び散り、滴り落ちていた。「たいへんだ。頭をひどく打っている」ボブはいった。そう言いながら老メイを両腕にかかえたが、その様子は乳母が子どもを抱きかかえるようであった。「だれでもいいから近くにいる者を呼んでこい。走れ、ジョニー。流れ星のように走って、大急ぎで医者を連れてくるんだ」

「ダン・カウに連れて行くの?」

「いや、家が一番いい。おじいちゃんをしっかり支えているから。さあ走ってきてくれ」

「紫の皇帝と小さなおまわりさんが」老人は甲高い声で、うわごとを言いはじめた。「小さなおまわりさんとマーシュ・リングレットがあちらこちらにいる。鞄を手紙でいっぱいにして一周歩きはじめたけど、まわり終えたら、みんないなくなっていた。みんないなくなっていた。ロンドンが近づいているせいだ。からっぽの鞄は壊れてしまった――」やがて彼の声は小さくなって訳の分からない早口となった。そしてボブ・スモールピースは、彼を森の家へと運んだ。

ジョニーにすれば、ゼイドンまですごい勢いで駆けるうちに、なんとも言えない恐怖におそわれ、ばかばかしい悪夢を見ているような気持ちになった。あの赤ん坊じみた片言のせいで、白髪の祖父はまるで赤ん坊のようだった。彼はまばたきをしながら走った。帽子の下の頭はずきずきと痛み、まさに夢のなかをかけているのだという気がしてきたのだった。

 

Ⅴ章

 

メイの奥さんは小屋の入り口にまだ立っていた。管理人は明かりで合図をしながら、少し離れたところから呼びかけた。「戻ってきたよ、ミセス・メイ」彼はできるだけ明るくいった。「おじいちゃんは大丈夫だ。ただ、ちょっとした事故にあったみたいだ。でも、それだけだ。そういうわけで、おじいちゃんを運んできた。おどろかないように。水を少しもってきてくれ。おじいちゃんは頭にすこし切り傷ができているみたいだ。だが、うろたえるほどのものではない」そう言いながら、ボブは老人を中に運びいれた。

ミセス・メイが目にしたのは、青ざめきった顔と血だった。「ああ、なんてひどい」彼女は声をふるわせながら言った。その顔からはすっかり血の気がひいていた。「おじいちゃんが・・・おじいちゃんが・・・」

「いけない、落ち着いて。しっかりして手伝うんだ。テーブルを動かしてくれ。そうしたら敷物の上におじいちゃんをおろすから」

彼女は自制して、それ以上はなにも言わなかった。老人のたわごとは不明瞭なつぶやきにかわっていた。床におろされるとすぐに、なぜか立ち上がろうとした。まるで歩き続けようとするかのようだった。だが先ほどよりも、その動きは弱々しくなっていた。ボブ・スモールピースはそっと相手をおさえこみ、繕ったばかりの外套を折りたたんで枕にしたものの上におろした。

ナン・メイは緊張のあまり青ざめていたけれど、動揺をおさえ、老人の世話をしながら、無言で苦痛に耐えていた。数年前にも、ひとりの男がこんなふうに家に運ばれてきたことがあったが、そのときはすべてが終わっていた。はじめの麻痺した感覚が消えていくと、悲しみがおしよせてきた。一度、彼女はボブ・スモールピースにたずねた。ささやき声で、どうしてこのようなことになったのかと訊いた。知っていることは、ほとんど何もないと彼は答えた。それからベッシーにどう伝えようか思案した。ベッシーは並ならない物音に目を覚ましていた。ミセス・メイは無言だった。ベッシーは寝間着を着たまま、階段に腰かけていた。彼女は松葉づえをわきに置いて、すすり泣いていたが、それでもできるだけ静かに泣いていた。

四分の一パイントの瓶にブランディが少しあった。そこで管理人は、老人の歯のあいだから酒を流し込んでみた。いっぽうミセス・メイは頭を湯であらい、点々と付着している血を洗い流した。そうこうしているうちに、医師をのせた軽装二輪馬車が、通りのほうから車輪を響かせてやってきた。まもなく医師は手袋をはずしながら、戸口に姿をあらわした。

ジョニーは青ざめ、茫然として立ちつくしていた。ほとんど息をつけない状態で、人々の後ろからのぞきこんだ。そのあいだに、医師は祖父のかたわらにひざまずいた。医師の診断では、頭のてっぺんに挫創があり、すこし後頭部にかかっているものの、たいした傷ではないということだった。だが、まだ両耳から、血が流れていた。すると医師は頭をふって「頭骨がおれている」とつぶやいた。

ブランディーと頭を洗ってもらったおかげで少し意識が戻り、老人はもう一度立ち上がろうとするかのような動きをした。彼の目は宙をみつめたまま、ぎらぎらと光っていた。そして声は相変わらず甲高いままだった。

「鞄をとってくれ、頼む。ロンドンがどんどん近づいてきている。ロンドンが近づいてきたせいで、蝶は脅えて追いやられた。ロンドンは、私の土地から蝶を追いやった。私の土地から。蝶はロンドンの近くでは生きていけないのだ。ロンドンから離れ、自分の土地を見つけたのに。それなのに今、私の鞄はからっぽだ。鞄をとって、年金を見つけてくれ。それが郵便局のいいところなんだよ、ジョン。年金をもらえる者もいれば、もらえない者もいるのだ。それから私が生きているあいだは、蝶も持ちこたえるだろう。それからハスキンズの蜂も。でも、そろそろ離れたくなってきたんだ、私の土地から・・・」そのうち声は途切れがちになり、つぶやきは以前より弱々しくなった。

ボブ・スモールピースは気まずそうに立っていた。役に立たない第三者として残るのは辛かった。ただ、困っている隣人を見捨てるのも忍びなかった。そこで彼が思いついたのは、老人がどのようにして怪我をしたのか、事故にあったのか、それとも攻撃されたのか調べる仕事がまだあるということだった。おそらく警察にも知らせる必要があるだろう。もう引きあげてもいい頃だ。そこで彼は両手で帽子をつかみながら、何かできることがあるか訊ねた。

「何もないよ、スモールピース、ご苦労様」医師はいうと、はっきりとわかる表情のうごきで戸口のほうを見た。

「助けてくれてありがとうございます、スモールピースさん」ミセス・メイは見送りながらいった。「もし立ち寄ってくださってなかったら、朝になる頃、おじいちゃんはどうなっていたことか」それから扉を閉めた。「ジョニー、もうベッドにはいって休んで」だがジョニーは階段をのぼっていこうとはしないで、そこに妹とならんで座った。

老人のつぶやきは完全にとまっていた。そして今度は荒々しく、ぜいぜい言いながら息をしていた。医師は立ち上がると、ミセス・メイのほうをむいた。

「先生、どうか教えてください」彼女はいった。「おじいちゃんは、おじいちゃんは…」

「とても危ない状態です」医師は重々しくいうと、ひときわゆっくり言い添えた。「実にとても危ない状態です」

彼女は食卓を握りしめたまま、三度すばやく息をのんだ。

「冷静に耐えてください。そして最悪の場合にそなえて準備をしておいてください」

二回ほど彼女は話をしようとしたが、つぶやき声しかでなかった。ようやく「希望がないと?」彼女は誰に問いかけるでもなく、目の前の相手につぶやくようにしていった。

医師は彼女の肩に優しく手をかけた。「むやみに希望をもたせてもいけないから」彼はいった。「出来ることはすべて行なった…辛いが耐えなくてはいけない」彼はきっぱりと言いながら、勧められた椅子に腰をおろした。彼女はうつむいて顔を隠した。「これをのみなさい」彼は鞄から小さな瓶を取りだすと、カップに注ぎ、それから水をたした。「これをのみなさい。全部のんでしまいなさい…私は帰らなくてはいけない…あなたには心配しないといけない子どもたちがいるのですよ、忘れないでください。お母さんのところにおいで、坊や」

医師は帰った。子供たちは両腕を母親にまわして立っていた。老人はまだ荒々しく、大きな息をしていたが、じきに再び穏やかに呼吸しはじめた。そして目は眠たそうに閉じられていた。この様子に彼女は顔をあげ、心に一縷の希望をいだいた。たしかに、呼吸は穏やかになり、自然な息づかいになっていた。緊張した皺は顔から消えていた。彼は眠っているにちがいない。なぜボブ・スモールピースに寝台まで運ぶように頼まなかったのだろう? なぜ医師も、そうするように指示しなかったのだろう? 彼女はそっと、傷口をおおっている濡れた布をひっくりかえした。

息はだんだん軽やかになってきた。顔もおだやかになり、そこに微笑みを見てとれるくらいになった。より静かに、そして平和になった。やがてすべてが平和になった。

 

6章

ボブ・スモールピースと警部補は、その夜、ウォームリートンの穴で、慌ただしく調査した。その穴は深いものではなく、せいぜい六フィートしかなかった。穴の一番深いところで、ふたりが見つけたのは老メイのランタンで、ガラスは割れ、ロウソクは燃えつきていた。砂利には点々と染みができていたが、朝の光にはっきり照らしだされると、その染みは血痕のようだった。足跡を探しだすのは無駄であった。地面は渇いていた。それに穴のそとは、ヒースにおおわれているので、そうした跡を見つけることは不可能だった。だから、調査にあたったどの警察官も、そのくらいしか言うことはできなかった。そこで陪審員は事故死の評決をだした。老人の死因は、検死をへて医学的に証明されたのだが、頭蓋骨の骨折で生じた脳の裂傷だったからだ。骨折は、頭の上部を強く打ったときの衝撃によるものだった。おそらく穴に後ろ向きに倒れたときにうけた衝撃で、穴の底にはめ込まれた巨大な岩に、頭をぶつけたときにできたものであった。すべてのことが、こうした状況を説明していた。穴の急峻な壁面の上から、たまたま転落したにちがいなかったが、そこは土がせりだしていて、木いちごの密集した茂みのむこうはすぐ崖になっていた。このせりだした部分は、ごわごわとしたヒースの茂みが密集して、もつれた針金のようになっていて、足をとられ転倒しがちだった。明らかに、このせりだした部分で仕事をしようと老人は身をかがめ、調査に夢中になるうちに、たぶん周囲の状況を忘れてしまったのだ。ランタンを持ったまま、穴のなかに背中からひっくり返ってしまった。しばらくのあいだ、そこで意識をうしなった状態で倒れていた。それから意識が朦朧としてしまい、狂ったような状態になってしまった。それでも、反対側のなだらかな斜面を這いあがり、混濁した脳に導かれるまま、ふらふら歩いていったのだ。老人に出会った者は、管理人と孫しかいなかった。そこで陪審員は当然考えられる方向に評決をくだしたので、憂鬱な取り調べもじきに終わった。たしかに陪審員たちは、ありふれた事態ではなかったけれど、ボブ・スモールピースへ職業上の関心をいだくことで、知らなければいけないことはすべて知ったのだ。でも警察は、好んで何も言わないでおこうとした。言ったところで、陪審の助けにはならないからだ。それでも、後々、なにかの役にたつことがあるかもしれなかった。事実は単純なもので、真新しい幾本かのペグが穴を囲んでいるのが見受けられるようになった。痕跡を気にもとめないで、兎獲りのわなをしかける乱暴者に事故をほのめかそうとしているのだ。

 

ジョニーにすれば、悪夢を見ているかのような日々が過ぎた。彼は心の中で、おじいちゃんが死んだ、おじいちゃんが死んだと呟いていた。何度でも記憶から抜けてしまうことを、無理やり覚えようとしているかのようだった。彼は祖父の死をじゅうぶん理解していた。だが、その事実を信じることは難しく、ややすれば哀しみにくれてしまう自分に気がついては困惑していた。朝になって目が覚めれば、さまざまな思いにおそわれ、それと同時に世を厭う気持ちにもかられた。これは夢の続きではないだろうかと疑いもした。だが祖父との共用に慣れていた寝台なのに、むこう半分はからのままだった。それから祖父の死をたしかめる作業をまた開始した。彼は家のまわりを行ったり来たりした。祖父が書き残してくれた職業の一覧表が壁に画鋲でとめられていた。未完成のままの蛾の標本も残され、客が出来上がりをまだ待っていた。こうした品々も、棚も、幼虫を孵化させている箱も、すべてが老人の一部分であり、その生き生きとした、白髪の姿から切り離して考えることは不可能であった。どこか常軌を逸脱しているようにも、希望がないようにも見えながら、そうした品々が訴えかけてくるのは、大丈夫、おじいちゃんは庭にいるだけだよ、あるいは二階にいるか、裏の小屋にいるだけだ、じきにいつものように家に入ってきて、手にとって普段のように使いはじめるから、ということであった。だが辛いことながら、祖父がもう箱のあいだで作業をすることもなければ、ロンドンの商いについて自分と一緒に話し合うこともないのだと言い聞かせることに専念した。こうした思いに打ちのめされ、まるで後頭部を殴られたかのようであった。それは永遠の別れへの衝撃であり、母や妹のことを思うあまり、この世に怖じ気づく気持ちでもあった。この世では、彼は苦しむだけだった。そこで彼が逃げ込んだのは、奇妙なくらい感覚のない世界で、望めば、たやすく過去の日々を呼び戻すことができた。そうこうしているうちに日々は過ぎていった。日々が経過するにつれて、そうした悲しみがやわらぐ時間も長くなってきた。やがてはっきりとした悲しみが続いているのは、心をふさぐ思いのなかだけになった。その思いだけは、感覚をなくす呪文をかけられても、滅多に消えることのないものだったからだ。

彼の母親と妹は黙々と家事をこなし、たいてい一緒にいた。肩をよせあうことで、たがいに慰めあっているようであった。だが、ふたりとも孤独のせいで涙をこぼし、悲嘆にくれた。ロンドンで受けた躾のせいで、ナン・メイはロンドンの知り合いが「恥ずかしくない」葬儀と表現していたものを思い出した。だが、この地でそうした葬儀をだせば、遠方から来てもらわないといけないことなので、かかる費用が倍になった。だが、こうした場合、森の小屋で暮らす一家がはりあう必要はなかった。こうして徒歩での葬列となり、ラフトン駅に並んでいた馬車をだすのが精一杯であったが、ほとんどの者は満足していた。それに老人がよく口にしていたのだが、葬儀に金をかけることは認めないと言っていた。ほんとうに老人が予告していたことなのだが、もし自分の葬儀で金を浪費するようなことがあれば、棺から起きあがって、雇われて集まった会葬者たちを蹴るとまで言っていた。そうこうしているうちに葬儀の日となり、ゼイドンの大工が棺をつくり、ラフトンからの馬車が注目の的となった。老人の親戚はいなかった。ナン・メイの親戚もまだ存命中であったが忘れ去られていた。森の小屋で、小さな家族は親戚から切り離されて暮らしてきたからで、それは絶海の孤島のようだった。最初のころ、手紙のやりとりをするには近すぎるように思えたのだが、やがて訪問をするには遠すぎることに気がついた。アイザックおじさんも葬儀にきた。はじめ重々しい熱弁をふるおうとしたかのように見えたが、小屋のなかにただよう抑えた悲しみのせいで、彼も普通ではない静けさを保っていた。

 

それは短い棺で、御者の席のしたに安置するものなので、両端には大きな突出部分はついていなかった。そして棺には、上品に黒布がかけられていた。さらにその馬車には、会葬者たちも収容された。ジョニーとベッシーは日曜日の服を着て、母親も自分の服に身をつつみ(未亡人となってから、彼女の服はいつも黒だった)、アイザックおじさんが着ているのは折り目だらけの、光沢のある黒服で、縫い目のところで妙なプリーツをよせた服を着ていた。彼の年頃の職人たちが、日曜日の服として着る伝統的な服装で、注意深く折りたたまれてから、長いあいだ保管されていたのだ。その服は教会にも着ていけるものであり、こうした葬儀に参列する場合でも着用できるように仕立てられていた。

 

やがて馬車は、丘陵地の門のところで停まった。そこでボブ・スモールピースが思いがけず姿をあらわすと、棺を運ぶのに手を貸してくれた。墓掘り人も、葬儀屋を兼ねた大工も、アイザックおじさんも手伝ったので、御者が手伝う必要はなくなった。御者はしばらく残って、服と前掛けを着がえてから、牧師のあとに着いていく子どもたちに視線を一度か二度はしらせた。やがて急いで御者席にあがって馬車をだして、道を歩いていた若い二人組を追いかけた。二人はよそ者で、駅に戻っていくように見えたからだ。

ジョニーにすれば、教会は日曜日のときのようだった。ただし今日は、彼らが中央近くに座っていた。一家が重要な位置をしめているのだと考えたのは、特別な待遇をうけているせいだった。棺は目立つように飾られていた。近所のひとたちも二、三人参列していたが、その大半が女性だった。棺が墓地に運ばれると、人々はうしろに下がって三々五々待機した。ボブ・スモールピースもさらに下がったところで待機した。

墓地のはずれに立ち、人々は田園風景をながめていた。緑の丘がつづき、楡の木立が草地を区切り、楡の根元には生垣がめぐらされていた。風が勢いよく吹きつけ、枯れ葉を幾度も舞い上げては墓石のあいだに吹き寄せ、赤土がむきだしになっている新しい墓穴まで運んできた。ベッシーはもう静かにしようとはしないで、そのかわりに声をあげて啜り泣いていた。ナン・メイも気にすることなく、目のまわりを涙でぬらしていた。ジョニーも涙をこらえるあまり、息苦しくて仕方なかった。やがて彼が注意をむけた先は、眼下の草地にいる牛で、その牛たちを涙があふれそうになる目で数え、距離が許す範囲ではあるが、正確に名前を思いだそうとした(よく牛たちのことは知っていたからだ)。これで目にするのが最後になるとは信じられない思いで、他の者たちといっしょに棺を見おろし、輝く錫の板をみつめた。だが、じきに納屋の茅葺きを直している男に目をむけると、こんなに風が冷たいのに上着も着ていなければ、胴着も着ていないのだろうかと考えた。このようにして、涙が一滴か二滴こぼれたものの、うるんだ目から流れる涙に気がついた者はいなかったので、彼が臆することなく歩いていくと、小道沿いに立っている隣近所の人々は詮索するような視線をむけてきた。スモールピースは、折り畳んだ棺衣を腕にかけマントのように運ぶ大工と連れだって、反対の方角に消えた。

 

四人の会葬者たちは黙ったまま、小道を歩いた。アイザックおじさんはなんとか慎み深い態度をとりながら、時おり気づかわしげにナン・メイの顔に視線をはしらせた。まるでその様子は、感想を長々と語る機会をうかがっているかのようだった。だが、ジョニーはそうしたことに気がついていなかった。苦痛がおしよせていたからだ。祖父はもう、たしかに亡くなっていた。埋葬され、土の塊がみるみる祖父をおおっていった。もう棺は家から運び出され、二度と目にすることはないだろう。以前は、こうしたことを理解していなかったように思えた。今、人生のほろ苦さに目覚めたのだ。さらに堪えようとする努力もしたのだが、嫌悪におそわれながらも、もう耐えることができない自分に気がついた。歩いているうちに、小道のかたわらの茂みにひそかに気がつき、少し遅れるからと断わった。他に誰もいないのはわかっていたが、前かがみになって靴の紐を結ぶふりをした。そして声をかけた。馬鹿みたいに声は震えたが、それでも平静さをよそおうとした。「先に行って、母さん。すぐに行くから」

 

彼は茂みにかけこみ、草のうえに体をほうりなげ、我を忘れて咽び泣いたが、身もだえする有様は、まるで針の雨が降りそそぐかのようだった。静かに泣くつもりだったが、すべて自制が利かなくなっていたので、通りがかる者には、その嗚咽が聞こえたことだろう。その発作が数秒で終わるものなのか、それとも数分つづくのか、数時間なのか皆目見当がつかなかった。やがて母親がやってきて傍らに腰をおろすと、涙だらけの顔をその胸にひきよせた。ベッシーも母の胸にひきよせられた。母親の両腕がふたりを同じようにつつんだ。

そのおかげで、彼はだんだん平静さを取り戻してきた。「気を落としているわけにはいかないのよ、ジョニー。わたしたちの前には、つらい闘いが待っているのだから」母親は言いながら、彼の髪をなでた。「わたしを手助けしておくれ、ジョニー。もう、おまえは一人前なのだから」

彼は母親にキスをすると、最後の涙をぬぐい去った。母親にキスをすると、最後の涙をぬぐい去った。「そうするよ、おかあさん」彼は立ち上がると、冷静さを取り戻していた。新たな責任に目覚め、大人としての自覚を感じていた。激しい悲しみはおさまり、これからの立場に身震いをした。それからベッシーが立ち上がるのを手伝ったが、そのとき彼が目にしたのは五ヤード離れた茂みにいるアイザックおじさんの姿で、山高帽の下のその目は、ぼんやりと親子をながめ、手は杖にまきつけたロープの飾りをおだやかにひねり、もじゃもじゃの髭が大きな顔をかこんでいる姿だった。

 

7章

 

ナン・メイは、朝になると別の女として復活した。彼女の前には、やらなければいけない仕事があったからだ。子ども達は、彼女がきわめて冷静に、忙しくしている様子を見て呆気にとられた。彼女は目先の用事で頭がいっぱいになり、悲しい思い出には浸ることはなかった。老人がこれまで倹約してきたのは、今のような事態がおきてからの日々に備えてのことだった。簡潔でつつましい遺言が便箋にあった。多岐にわたる膨大な一覧が、反古紙の山に記されていた。その紙片は追加されたり、入れ替えられたり、線がひかれたりした厚い束となっていた。家においてある「昆虫標本」について、その価値を鉛筆書きでメモしたもので、そのメモは市場の変化にともない、何回も変更されていた。郵便局の貯金通帳もあって、記入額は八ポンド十シリングだった。そこに名前が記されていたので、ナン・メイは貯金をひきだした。生命保険はなかった。老人は数年前に保険を解約することで、必要な数ポンドを手にいれ、森の家の支払いを全額すませたからだ。

 

その遺書は、ナン・メイにそこにあるすべてのものを贈るという旨のものであったので、彼女の手に遂行がゆだねられることになった。アイザックおじさんは、その前の日、小屋に戻る途中で長々と話をはじめたが、回りくどい言い方で、抜け目なく意図を隠しながら、これ見よがしに何気ない口調で、遺言のことにふれてきた。だが、そうしたところで何も彼のものにならないということは、姪が教えてくれた遺言のあらましからわかっていた。彼女は抗うかのように、明日になるまで遺書をひらこうともしなければ、見せようともしなかった。もちろん遺産を期待する気持ちは彼にもほとんどなかったが、それでも自分はアイザックおじさんなのだ。経験も積んでいるし、法律にも心得があって、一家の知恵袋なのである。それなのに自分が財産を処理することもなければ、それを売ることもなく、管理を任されることもない。さらに財産を分与されないなんて、ごく控えめに言ってみても、少しひどすぎる。そう考えたせいか、骨惜しみをしたい気持ちにかられてしまい、算術を要することがらから手をひくことにした。

「大切なものなんだよ、遺言というものは」アイザックおじさんは経験者らしい口ぶりで話した。「経験のあるひとにみてもらわないといけない事柄だ。目を通して、どんなふうに書かれているか見るだけでいい。もし鉛筆で書かれたものなら、無効になってしまうのだよ」

「いいえ」メイ未亡人は動じることなく答えた。「すべてインクで書かれています」

そのあと、しばらく沈黙がつづいた。「弁護士に遺言の処理を頼めば、費用が高くなる」アイザックおじさんは指摘した。「それに大抵の場合、弁護士に支払う費用のせいで財産が減ってしまう。信頼できるひとを見つけるのが一番だから、万難を排してサマーセットのところに行くことだ。それが一番安上がりだし、安全な方法だ。彼は遺言状をたしかめる。わたしがしたように。それから役所に行って、知っていることを、おまえたちが隠しておきたいことまで話すだろう。こんなふうにわたしがいるのは、老メイの最後にして唯一の遺言状なのだからだ。万難を排して来たのは、弁護士に頼むのは反対だからだ。だから万難を排して来たのだ」アイザックおじさんは強調して繰り返すと、テーブルのうえを人差し指で叩いた。人が気にもとめないような、博学な言い方を見せびらかそうとするところが、彼の癖だった。

「大切なものなんだよ、遺言というものは」アイザックおじさんは経験者らしい口ぶりで話した。「経験のあるひとにみてもらわないといけない事柄だ。目を通して、どんなふうに書かれているか見るだけでいい。もし鉛筆で書かれたものなら、無効になってしまうのだよ」

「いいえ」メイ未亡人は動じることなく答えた。「すべてインクで書かれています」

そのあと、しばらく沈黙がつづいた。「弁護士に遺言の処理を頼めば、費用が高くなる」アイザックおじさんは指摘した。「それに大抵の場合、弁護士に支払う費用のせいで財産が減ってしまう。信頼できるひとを見つけるのが一番だから、万難を排してサマーセットのところに行くことだ。それが一番安上がりだし、安全な方法だ。彼は遺言状をたしかめる。わたしがしたように。それから役所に行って、知っていることを、おまえたちが隠しておきたいことまで話すだろう。こんなふうにわたしがいるのは、老メイの最後にして唯一の遺言状なのだからだ。万難を排して来たのは、弁護士に頼むのは反対だからだ。だから万難を排して来たのだ」アイザックおじさんは強調して繰り返すと、テーブルのうえを人差し指で叩いた。人が気にもとめないような、博学な言い方を見せびらかそうとするところが、彼の癖だった。

「おじいちゃんは教えてくれていたわ。サマーセットさんの事務所に行ってどうすればいいのかとか、そうしたことはとりあえず教えてくれていたわ」ナン・メイは答えた。「なにか起きたときのことを考えてだけど。でもご親切に一緒に来ていただけるなら、とてもうれしいわ、アイザックおじさん。こうしたことはよく分からないから。でも、今日はやめるわ」そこで指をパイにつっこんで、アイザックおじさんはやむなく満足することにした。やがて彼は立ち去り、その夜、その家に泊まるようにという勧めを受けなかったので、ジョニーは安堵した。彼の安い往復切符では、その日の乗車しか有効でないからだ。

 

そして今、ジョニーはラフトンから罫線用紙の束をもってくると、標本に関する詳細な一覧について、完璧な写しをつくる作業にとりかかった。長い時間をかけて完成した写しで、不安定な、丸みのある文字で書いた。だが全体として、それほどたくさん染みが飛んでいるわけではなかった。いっぽうナン・メイの、サマーセットの事務所通いがはじまったが、彼女を憂鬱な気持ちにさせるものは、電車と乗り合い馬車の運賃にかかる一シリングと九ペンスだった。はじめはもっと費用がかかっていた。ミリーウォールからくるアイザックおじさんの費用も払わないといけなかったからだ。だが、彼はもう来なかった。実のところ、世知にたけた付き添いではないことがすぐに露呈してしまい、恥ずかしくなったからだ。

まず大きな建物が彼の上に影をおとしてくると、彼の自信はどこかに消えてしまい、その舌も動きをとめた。四方を建物にかこまれた中庭にはいると、山高帽はアイザックおじさんの静けさと、おどおどした従順さを際だたせた。それから回廊にそって、彼女はしずしずと進んでいき、37号室という部屋を根気強く探した。とうとう、その部屋にたどり着いた。そこでアイザックおじさんは、なんとか用件をきりだそうとした。ナン・メイはうしろにさがっていたので、金縁の眼鏡をかけた青年は彼を凝視した。そこで両手で帽子をおろすと、アイザックおじさんは卑しい口調でつぶやいた。「その、いや、おはようございます、旦那さま。遺品をもらう手続きのことできました」

「なんですって?」

「遺言状のことで」アイザックおじさんは必死になって説明しようとして、熱い鋲のように専門用語をちりばめた。「遺言状のことで、最近、死亡した者が書き残した遺言について相談なんです」

「わかりました。あなたが遺言執行者なんですか?」

「いや、旦那様、遺言執行者ではないんです。ちがいます。でも叔父にあたりましてね、メイ氏の息子さんの奥さんからみればの話ですが」

 

「あなたが?」紳士がにこりともしないで視線をむけてきたので、彼女は遺言状をわたした。そこでアイザックおじさんは元気を取り戻し、雄弁に話し始めようと希望に目を輝かせたのだが、用はないと無理やり連れ出され、ナン・メイだけが話し合うことができるのだからと告げられた。そういうわけで彼はふたたび建物の影に消えながら、威厳をそこないはしたが、だんだん安心にかわっていった。

そういうわけで以降、ナン・メイは自分だけを頼りにして、世間相手に顔をこわばらせた。標本を売りにだす日になると、ロンドンの植物学者の事務所から抜け目のない青年がきて、値段をつけた。彼は最初から最後まで、急いで、ぞんざいに箱とケースを調べ、ひそかに鋭い目をすべての所持品にむけながら、専門の買い取り業者らしい、軽んじるような様子をみせた。こうした商取引の場では、金を必要としている未亡人と父親をなくした子は立場が弱く、控えめに、おどおど見守り、相手の些細な身ぶりを見つめながら、落胆するのだった。商売人という名がふさわしい男は、相手にペニーをもたらすという点で優位にたっていた。そこで抜け目ない青年は、今までになく相手を蔑んだ表情で、指をポケットにいれたハンカチでぬぐいながら、ナンに五ポンドを分け前として与えようと高飛車に申し出た。

「まあ、それでしたら結構です」女は即断した。「お手数をおかけしましてすみませんでした。では、失礼します」それは青年が求めていた言葉でもなければ、返答に窮する言葉でもなかった。そこで彼はわざと頑なな態度をとりながら、もし彼女が金額を提示すれば、事務所は金額を増やかすもしれないと仄めかした。やがてすべてが四十ポンドの小切手をきるという文書をかわすことで終わった。この取引は、たしかに大きな取引だった。通常の取引では、収集物に八十ポンド以上の金額を払おうとしたことは滅多にないからだ。

こうして老人のささやかな遺品が集められた。内国税庁が財産から税金をさしひくと、もうサマーセット・ハウスを訪れる必要もなくなった。だが森の家を買おうとする者は、誰もいなかった。

 

8章

 

その日は、ジョニーにロンドンを思い出させるような、冷たく、空気が乾燥していて、身がひきしまるような一日であった。ジョニーは荷車にのって、ふたたびロンドンへとむかっていた。彼とともに荷車にゆられているのは、母親と妹、そして一家が森の家から運び出した家財道具であった。バンクスも、運送業者も荷台を連結した前の部分に腰かけていた。ベッシーは心地よく過ごせるように肘掛け椅子に座らされていた。母親は寝具の束に腰かけていた。そこにいれば急な丘にさしかかったときでも、たやすく降りることができるからだ。ジョニーは荷台後方に腰かけ、そのときどきの気分で荷馬車から飛び降りたり、また飛び乗ったりしていた。

ラフトン・ヴィレッジをとおりぬけていく様子には、いわば勝利の行進のような趣があった。村人は一家のことを知っていたので、だれもがふりかえって眺めるからだ。バックハースト・ヒルにさしかかって荷車をおしあげるときは、ベッシーだけが荷車にのこった。そのあいだ、ジョニーは荷車のよこを歩き、幾度となく脇道にそれては藪にはいって、実のついたセイヨウヒイラギの小枝を折って、妹のひざにほうった。もう、その小枝はたくさん集めていて、箱にきっちりしまってあった。だが少ないよりは、たくさんありすぎるくらいのほうがよかった。意気揚々とした生命が店にふきこまれるからだ。もう十二月で、三週間かそこらでクリスマスだった。その前に、ナン・メイはロンドンで店をひらくつもりでいた。雑貨店にする予定で、食料雑貨の店とバターの店をひらくつもりでいた。雑貨や食料品、それからバターが売買の対象だったが、その商売について、ナンは他のひとと比較して詳しいわけではなく、森の村ではいつも幾らくらいの値段で売られているかということしか知らなかった。だが待っているわけにはいかない。それにどのようなことにも始まりがあるものだ。そういうわけでナンは毅然として商売について考え、容赦ない駆け引きで世間とわたろうとしていった。彼女の姿は、荷車のよこで丘を登ろうとしているとき、目に見える勇気の象徴だった。いつも健康的で、肌もきれいなため、彼女は器量のいい女にはいるといってもよかった。いきいきと背筋をのばして、彼女は丘を登り続けたが、その様子は終始活気にみちあふれ、障害物を乗りこえて楽しんでいるときのようだった。その目は前方を見つめていた。ベッシーも、荷車の幌の下から来た道をふりかえっていたのだが、娘の見つめる先に広がる眺めは気にかけなかった。ただ、これから火蓋がきられる闘いのことで頭がいっぱいで、少し怖じ気づきながらも、勇ましい思いにかられた。いっぽうでクリスマスにセイヨウヒイラギで店を飾るという思いつきにしても、なかなか商売上手だった。この地でなら、ジョニーが商売用のセイヨウヒイラギを見つけることができるが、ロンドンで手に入れようとしたらお金がかかるからだ。

 

荷車が丘の頂きに到着した。それでもナン・メイは、背後においてきた景色を見ようとはしなかった。ベッシーがじゅうぶん休んだ世界が、まだ残っていた。そこでにはラフトンの町が緑の丘にひろがっていた。薄暗い木々が点在する様子は、箱いっぱいの玩具がばらまかれているかのようだった。木々のむこうには、悲しい色合いをおびた森が地平線にひろがっていた。その左に、近くの松の枝のあいまから見えているものは、ハイ・ビーチの教会の尖塔で、ビロードを思わせる縁から突き出していた。右手の丘には、四角い形をした教会の塔がそびえ、そのかたわらにはおじいちゃんの墓があった。ステープルズの丘がはっきりと弧をえがき、森のなかに見えなくなるところに、陰鬱な木々が幾本かそびえ、彼らに別れを告げていた。見えはしないけれど、そのむこうには空っぽの小屋が畑のなかに建っていて、湿気をふくんで徐々に朽ち始めていた。やがて両脇の木々に視界がさえぎられた。そして荷車は平らなところでとまって、ナン・メイを乗せた。

 

そして今、老いたロバは少し歩みを早め、ウッドフォールドの泉沿いに歩き、やがて共有地を通りぬけた。その共有地を縁どるものは驚くほど大きな家々で、家々のあいだには何マイルも先まで、広々とした田園がひろがっていた。そして更に先にすすめば、ライジング・サン・ロードが穏やかな坂道となり、道の両側には深い森がひろがっていた。冬のあいだ窮乏生活を強いられている木々も、薄暗い枝から射しこむ陽光のせいで穏やかに見えた。そうこうしているうちに、森は低木の茂るレイトン・フラットにかわり、やがてそれもレイトンストンのほうへと見えなくなった。

 

そして今、彼らは着実にロンドンに近づいていた。緑のおじさんの印に変わった信号機を通りすぎると、彼らは電車路線上にいた。そこには店や家が隙間なく建っていた。煉瓦工が足場のうえに立っている建物は、店の正面だった。新しい店舗はどれも整わない状態で、醜い外観をさらしていた。こうした建物のなかでも少しでも古いものがあれば、それは十分に汚く見えるほどで、不快さを感じないこともなければ、整然としていることもなかった。

 

或る店は羽振りがよく、金めっきをほどこし、窓には磨き板ガラスをはめこんでいた。かたや或る店は、そうした店と同時期に開店したにもかかわらず、事業の失敗を告白する有様で店をかまえ、その様子は貧相で、品がなく、哀れをもよおす雰囲気がただよい、どの窓にも絶望がたちこめていた。さらに古い建物がー本当に古かった―ハロー・グリーンのあたりに建っていた。だが、解体の作業車が建物を引き倒しにかかっていて、なにかを建てるために場所をあけていた。そうこうして、新しい店がふたたび始まり、好き勝手に道の両側に立ち並んでいた。やがて店舗は新しいとは言い難いものになり、はっきりとはしないながら年月を積み重ね、煉瓦と漆喰からなる平凡なロンドンの景色となっていた。メリーランド・ポイント鉄道駅を過ぎた。そこはとても大きな街で、ガタガタという騒音が絶え間なく響き、煙と泥があふれていた。

 

ストラットフォード・ブロードウェーは広々とした街で、活気にあふれ、その教会も、市の公会堂も堂々とした、巨大な建物だった。だが、すぐに道は狭くなり、だんだん汚くなっていった。不衛生な通りへの入り口は泥でぬかるみ、汚らしい子ども達が舗道にたむろしていた。やがて工場がならびはじめた。そして道は狭い運河にさしかかったが、その運河は虹のように不思議な光をはなつ泥がたまり、厚い層となり、関心をもたない者たちの目もひきつけた。どの船もそこを通るからだ。関心をはらわない者であろうとも、その鼻だけは反応した。すさまじい量の、ありとあらゆる下卑た品々があつめられ、不可思議な山をなしていた。そこには草が生えようとしなかった。ジョニーが読んできたどの本よりも、あるいはベッシーが夢にみてきたどんな風景よりも、希望がなく、荒涼として気力を失わせる荒野であった。隅のほうで堆肥をつくる作業をしているせいで、すさまじい匂いがどこまでも漂っていた。

 

彼らはボウ・ブリッジのうえにさしかかると、ふと左のほうをむいた。そこはロンドンだ。議会の決議によるロンドンだ。狭い道がはしり、波止場への入り口がならんでいた。空き地には、幾世紀もの年月をへた家が残っていたが、凶作の年月のあいだに朽ち果ててしまっていた。だが汚れていても、絵のような美しさを保っていた。ここから老いたロバは駆け足になり、長々と曲がりくねった道をすすんでいくと、汚らしい入り口がならび、店が軒をつらね、大きな蒸留酒精製工場やら、工場の監督が住んでいる清潔だけれど貧相な家のあいまに、古くさい看板がゆれる木でできた酒場もみえていた。こうして運河の橋をわたっていくと、碁盤の目のように通りが伸びている場所にでた。どの家も小さく、こぎれいで、どの家もよく似かよっていた。

 

そのとき見えたのは、ドックと船だった。ついに威風堂々としたドックの門がならぶ場所にきた。巨大なやぐらがそそりたち、頭上には時計がかかっていた。高い壁がそびえ、あちらこちらにマストがみえた。ときおり、家々の姿もみえた。高い壁、そのむこうのマストも、一家の前途に幾度も姿をあらわした。ブラックウェル・クロスをとおりすぎ、やがて荷車がとまったのは小さな店のまえだった。小さなその店は塗装をひどく必要としている有様だった。店がある通りは、地下におりたところに玄関の扉をつけている家もあれば、階段をあがっていったところに扉がついている家もあり、あるいは二フィート以上の広さがある舗道と同じ高さのところに扉をつけている家もあった。扉にしても、階段をまもる木製の手すりにしても、不器用にばらばらに塗られ、風変わりな色に塗られていて、船の店につきものの何ともいえない趣以外に共通するところはなかった。前方には、造船所の壁があった。どこから眺めても、家々の背面がひろがり、マストと同じように出航の用意をした小さな旗竿やら、巻きおえた荷揚げ用のギャフがあった。

 

錆びついた錠と格闘したが、小さな店の扉があいた。そしてナン・メイと子ども達はロンドンの家にはいった。

9章

ハーバー・レーンの店は、かつては青物商人の店だったこともあれば、床屋、揚げ魚の店、臓物の店だったこともあった。だが、その店舗は閉じられていることのほうが多く、現在も閉じられていた。その店舗に入居する者で、金をたくさん持って入ってくる者は誰もいなかった。これは真実だ。そしてすべての者が持ってきた金を減らして、ただ着ている服だけを残して立ち去っていった。だが、通りのはずれより向こうに行くことはなかった。通りのはずれにある旋回橋から身投げをしてしまうので、それ以上進む必要もなければ、それほど歩く必要もなかったのだ。ダンキン氏が地主で、安い値段でその場所を買い取った。それが物事を買うときの彼のやり方だからだ。だが彼が投資から得るものは、少しもなかった。ダンキン氏を驚かせ、苛立たせたのは、その目新しい体験だった。彼は資力のある商人で、長いあいだ調理台を使う仕事をしていなかった。彼の主な店の売場には、店員は十二人いて、食料雑貨とバター売場には八人、油と鍋、ペンキ、鼠とりの売場には四人いた。それに支店が六カ所あって、それぞれの店が商売をおこない、近隣の教区に点在していた。彼は体こそ大きいものの、包容力があって思いやりのある男だった。声の調子や、大きくて、果肉のように柔らかな手の感触が告げているのは、この世の悲しみや罪に対する尽きることのない優しさだった。まだ若くて小さな店を一軒持っているだけで店員もいなかった頃でも、彼は糖蜜をはかるときも親切心をたっぷり溶かしこんだので、糖蜜はギレアデの香油のようにみえ、その値段のわりにはたっぷりとしていて、贈り物のように思えたのだった。取引をするときには慈善について切々と説くので、相手の男も自分の利己的なところが恥ずかしくなって、まるで貧しい者が取引をしているような気持ちにかられた。その声は大抵のどを鳴らしているような声で、しわがれていたが、相手をなだめるように話し、思いやりにあふれた声が相手を動かそうとしていた。そこで幸せになる者は誰もいないのだが、ダンキン氏と話していると、運命があまりに厳しいので、たっぷり同情してもいいのではないかと思えるのであった。ダンキン氏は遠慮なく富をまきちらかした。だが、こうしたところで、富が別にもたらされてくることはなかった。

おおよそのところ、ナン・メイはダンキン氏と出会って、自分は運がよいのだと感じていた。父親のようにお節介をやきながら、彼女の手元に少し金があることに気がついたので、彼は在庫品を供給してあげようと請け合い、雑貨商のからくりについて少し教えてあげようと約束した。彼のほうにも不平をこぼしたくなる理由はなかった。家賃だけを望んでいたところに、家賃と在庫を購入してくれる客がいっぺんに見つかったからだ。さらに彼女は未亡人で、商売のことは何も知らなかった、他のひとなら買おうとしないものを売りつけることもできた。しかも少しばかり儲けがでるようにして。家賃についても、彼はうまいことをやっていた。前金を支払ったその日のことだが、空き店舗を数軒みても他に選択肢はなかった。それというのも、この店舗はジョニーにも、その商売にも打ってつけの物件だったからだ。彼女が疲れきって神経質になってしまい、不安をつのらせていたので、同情心あふれるダンキン氏は一週間にもう一シリング余計に手にいれる好機だと考え、実際に手にいれることに成功した。つまりナン・メイは掃除やら塗装やら、その店が必要としているものを支払うことになった。かなりの金額を必要としていた。二日ほど前に、ダンキン氏が悲しそうな面持ちで予測したとおりの金額で、入居人があらわれたら、塗装職人に払う予定の金だった。

そういうわけでナン・メイは、みずからその仕事に取り組んでいた。まず、家をきれいにしなければならなった。塗装はあとから考えてもよかった。街に到着したその日のうちに、彼女は部屋をひとつ掃いて住める状態にした。そしてその部屋に、彼女のつつましい家具が積み重ねられた。それから腕まくりをしてスカートの裾をたくしあげ、頭上をはたきではらい、壁と天井は箒で掃き、それから床にとりかかった。ジョニーも手伝っていたのだが、床をごしごし洗い始める段階で、彼の存在が邪魔になってしまった。そこで一日ほど、未亡人を手伝う時間がくるまで、近隣の様子を知って暇をつぶすことにした。

 

近所には、周囲の地域とはまったく異なる雰囲気がただよっていた。六つの部屋でできた家屋からなるフラットがならんでいたが、どのフラットも特徴がないまま、四方にのびていき、延々とフラットがつづいて、途切れることなくまとまっていたが、店舗がある忙しい通りのところでようやく、そのフラットの列は途切れた。ここでは、それぞれの小さな家が個性を主張しているのは、さまざまな塗装の仕方によってであり、また、さまざまな形状によってであった。ここはたしかに船大工やマスト職人たちの最後の砦であった。そうした職人たちは、鉄製の船や北の競争相手が侵入してきたことで、その高い地位を追われてしまった者たちなのだ。実際、シップライト・ロウというのは、小さな家屋が短い列をなしている場所のそばにある通りのことで、正面には庭があり、マストと旗も飾られている家があつまっていた。別の場所では、裏庭がとても狭いので、旗竿と支柱が大半を占めていた。マストがまさに中心にそびえ、旗竿は隅のほうからのびていたので、一周しようとする者は皆、幾度となく、突然立ち止まってお辞儀をしなければならなかった。小さな通りには独特の清潔感があったが、それは塗る口実があるものなら、何にでも塗料をぬったばかりで、美しい装飾がほどこされているせいだった。大半の戸口は、石造りの二段の階段へとつづいていたが、その石はいつも白くなっていた。そして階段の有無には関係なく、入り口まえの敷石を目立たせているのは、直径五フィートの、白い半円であった。この奇妙な事実に気がついたのは、こうした通りを足取り重く歩いているときのことで、ジョニーはひじのあたりから聞こえてきた怒声にはっとした。その声が不意をつき、苛立っていたので、ジョニーはその声の主をたしかめる前に飛び上がってしまった。赤い顔の女が戸口の内側に座り込んでいた。

 

「そこでふらふら遊んでいる兄ちゃん!」彼女はいった。「泥だらけの長靴で、あたしのきれいな階段をあちらこちら踏みつけてしまっているよ」そして勢いよく箒をつかんだので、ジョニーはあわてて五フィート下がった。

 

しかしながらどう見ても、いかなる種類のものであろうとも、家につづく階段はなかった。そこでジョニーは致し方なく半円を横切った。それというのも彼の考えでは、フットパスは公の土地だからだ。それにその通りは狭かった。だが、後になってから彼は学んだのだが、半円はその土地の習わしで崇拝されているもので、とりわけ女たちは病的執着者と同じように崇拝していた。男たちは旗竿を崇拝した。おとななら誰もがそうした。生活習慣がみだれている者や酔っぱらいだけが、半円に不法侵入した。そして半円は、いつも「階段」と呼ばれていた。彼は塗装の意味も学んでいった。ハーバー・レーンにしても。シップライト・ロウにしても、その他の近隣の通りにしても、そこに住んでいる男たちは暇のあるとき、刻みたばこや塗料の缶、刷毛を手にとった。それから気持ちよさそうにパイプの煙をくゆらせてから、裏庭や表の庭を足音をたてながら歩き、片手には塗料の缶をもち、もう片方には刷毛をもって、塗料がくっつきそうなところなら何であろうと塗ってみた。手すり、郵便ポスト、雨水をためる桶、塵入れ、物干し網竿をかける支柱、すべてが塗装の対象だった。塗装が必要だから塗るのではなくー前回塗装してから乾く暇もないほどだったーそこに塗料や刷毛があって、暇な時間もあるからだった。そういうわけで、塗料を塗ることが、この三つをすべて使う唯一の手段になった。庭中のほとんどの道具が、興味を思わずひいてしまう様々な色に塗られ、年間をとおしてそうした有様だったので、同じ色が続け様に二回使われることはなかった。木材の表面は塗料にすべておおわれ、窓の下枠や雨樋、小さな花壇を仕切っている石や貝殻を砕いたものを交換することが習慣であった。なにも残されることなく、塗料の缶や刷毛、パイプがおもてからも、おもての扉からも持ち去られているのだが、その扉は緑であったはずのものが、ロイヤルブルーになっていたり、燃えるような朱色になっていたりした。もし手すりがあれば、それもまた同じように塗られていた。窓枠もそうだった。ふたつのものだけが、そうした色の変化とは無縁だった。旗竿と煉瓦の敷石だ。旗竿が染みのない白であり、煉瓦が陽気な朱色であるということは不変の法則だった。ただし後者の煉瓦の色は、長靴の錨のせいでしょっちゅう新しく塗り直された。ただし雨の多い天候のため、良質の油性塗料で塗られた。ありとあらゆるものが虹色になっていた。あるいは虹色より多い色になっていた。そうした景色からいえることは、二世帯が暮らしているこうした家屋で、上の階の家族が親しくしているのか、それとも階下の家族と礼儀正しく接しているだけなのかということが一目で見てとれるということだった。窓枠や植木鉢をのせた柵の色が統一されているか、それとも様々な色に塗られているのかということで判断がついた。ハーバー・レーンで友情をかわす際におこなわれるのは、塗料を貸したり、交換したりという行為だった。新参者との距離を縮める好機であった。普通、こうした形ではじまった。まず挨拶だ。「少しばかり青いペンキを塗ってみないかい?」裏の塀をはさんでの缶のやりとりは、ハーバー・レーンのひとからすれば、招待したりトランプをしたりするようなものであった。すると新参者も大急ぎで、黄色や緑色の塗料の缶をお返しに使わないかと声をかけるのであった。このようにして塗料がとどいたおかげで、ナン・メイの小さな店は通行人の目をひくものになり、ジョニーにも塗料ぬりの仕事ができたわけだが、彼はもうその仕事に飽き飽きしていた。だが、この界隈では新参者は珍しかった。他とは断絶された集団居住地であるため、行動の仕方にも、考え方にも独特のものがあった。たしかに独特の境界があり、他の地区との違いを生み出していた。教会での質疑も同じようなもので、新聞の日曜版を手にしながら、塗装缶と刷毛をもつ集まりが罪深いかどうかと問いかけていた。だが、こうした見解の不一致も内輪でのことで、境界をこえた人々が耳にすることはなかった。だが、塗料は暇をつぶすためのものではなく、その社会で生活する手段のひとつであった。そのおかげで高度な経済社会に匹敵する便宜さが彼らの社会にあたえられた。そこでは、「金」と「信用」につうじる機能がすべて「塗料」であらわされていた。ハーバーレーンやその周囲では、こうして生活が永久的につづいていき、だれもがあらゆる人から塗料をいくらか借りて、やがて他のひとから塗料で支払いをうけた。このようにして複雑な交換の制度が広まり、その制度では口頭で請求書をきったり、小切手で支払ったりするのだった。次にあげるのは、その単純な例である。

「やあ、ビル。塗料を一缶、都合つかないかね?」

「ちょうどよかった。今夜、入ってくる予定だ」

「わかった。でも、おれのところではなくて、ジョージのところに持って行ってくれ。知っているだろう?ジムに塗料を少し借りているんだが、ジムはジョーに少し借りている。ジョーはジョージに少し借りている。そういうわけで、こうすれば万事うまくいく。忘れないでくれ」

 

この貸し借りの大半は同時に利用したり、平行して利用したりと、相互に混ざり合っていた。このように入りくんでいたのは、ビル、ジョージ、ジム、ジョーのあいだでは、借りたほうも、貸したほうも、量が異なり、貸し借りの仕方も異なっていたからだ。この信じがたい話は、並外れて面白い数学の罠となった。いわば小さいながら金融市場の体をなしているのだが、参加する者が倍になったせいで混乱をきわめていた。そこで儲ける者は少なく、ほとんどの者が収支を合わせることはできなかった。さらに合計した数字が塗料の富の山の方に傾いているのか、本当は破産をしめしているのかわかっている者はほとんどいなかった。胸おどる結果が元手のおかげで達成されたが、そこでひどい傷をおわない者は皆無だった。

 

だが、それから週間かけてジョニーはこうしたことに気がついていった。母親が家で床をごしごし磨いているあいだ、歩きまわるうちにジョニーが知ったことが二、三あった。服装についていえば、彼がみたところ、男たちは骨製の大きなボタンがついている青い作業服を着ていた。そしてその上には、季節が冬なので、短い丈のピーコートを着ていたが、それは紺色の外套で、厚い生地はまるで板のように、しっかりとしていた。ズボンはモールスキンの作業ズボンで、以前はおそらく白かったものに、黒のすり切れたひざあてをしたものだった。その裁断ときたら、だぶだぶの尻が折り曲げた膝のすぐ上に、数インチもはなれていないところにきている裁ち方であった。ひさしのついた帽子も見かけた。その帽子は、ズボンの膝を目立たせているのと同じように、黒のすりきれた生地でできていた。これも見かけたのだが、昨日、裏庭はシーツがはためいて繁盛していたのに、今日はほとんど何もなかった。それというのも、昨日は月曜日だったからで、この近辺の働き者の主婦にすれば、週のはじめに洗濯物を終えるということに誇りをいだいていたからだ。週の後半に洗濯をするなんて、隣近所からの信頼を失った女のすることだからだ。

こうしてジョニーは目をみひらき、胸を高鳴らせて通りを探検した。ここはロンドンなのだ。船にしてもエンジンにしても素晴らしいものが、この地でつくられてきた。ここは憧れの地であり、そびえたつ壁のむこうにはマストがあるのだ。だが今では、マストの数はかつてよりも少なくなり、長さも短くなっているように思えた。たしかにそれは事実だった。船の大半は蒸気船となり、より広い面積を占めるようになったが、かつての半分ほどのマストしか見えなかった。ある日、別の場所に足をはこんでみると、造船所にあるのは帆船だけであった。そしてここでは、マストは以前のように高く、素晴らしいものであり、ロープ類策具がたくさん垂れていた。作業場が、立派な船尾に設置されている有様は、サー・ウォルター・ローリーの腰にかけられた剣のようであった。それからブラックウォール・ステアズが川の向こうに見えていたが、とても古い、実に古い建物なので、ジョニーはしばらくその建物を凝視した。一ヶ月から二ヶ月後、サー・ウォルター自身がそこに住んでいたという言い伝えを、ジョニーは聞いた。手前に建っている川辺の古い建物だったが、向こうに見えている建物のなかでは比較手的新しいものであぅた。それでも川に倒れかけているような様子は、ジョージ国王の船が碇をあげて離れ、シャルル国王の船も同じようにして碇をあげたときに始まるものだった。そこにはアーティチョーク・ターヴァンも建っていたが、砂地に建つ白い、木製の建物で、破風やら窓がある末期ゴシック様式の垂直式建築の建物だった。最上階のほうがもっとも広くて大きい建物で、一階部分が一番小さくなっていた。一押しすれば川に倒れそうな建物で、壁も、外廊下も水面上に大きくはりだしていた。そうした壁や廊下を支える杭はあまりに細かった。ここ波止場にある正方形の空き地では、青いメリヤスシャツを着た男達が薫製ニシンをたくさん売っていて、水路にわたしたタールの糸にニシンをとおしていた。日焼けした男達のうち半分が、イヤリングをしていた。下のほうには水辺に小舟がたくさん置いてあって、子ども達がそのあいだを駆けたり、石のあいだのイソ貝を拾ったりしていた。

或る商店街を訪れたが、そこはかつてロンドンにいた頃、母とならんで歩いた記憶のある通りであった。今では、どこか薄汚れているようにも、下品なようにも思え、そこを歩く人々も元気がないように思えた。だが、ここはハーバー・レーンから離れた場所で、その近隣には沈滞したみすぼらしい通りがはしり、小さな家屋からなる通りが列をなしていた。さらに先のほうには、別の商店街があった。商店街というよりは、商店が片側にある通りだ。その通りの片側には、のっぺりとした壁がひろがっていた。だが巨大な船の骨組みはなく、煉瓦の上には肋材がもちあげられていることもなければ、その壁のうしろでハンマーがガチャンガチャンと音をたてていることもなかった。そこは放棄された造船所だったのだ。ペンキがぬられた板には汚れが厚く積もっていたが、売ったり、借りたりするための場所を提供していた。むかいにある数軒の店も打ち捨てられていた。他の店も貧相で、活気がなかった。ジョニーは数歩うしろにさがりながら、店をながめたが、やがて角のところでまがるとき、歩みをゆるめていなかったので、栗を煎っているコークスの炎に焼かれるところだった。そのまま角に彼は立つと、ポケットに両手をつっこんで、舗道の縁石を長靴の木底で蹴った。彼は昔のように立ち、大きな船がつくられ、そのまわりで光が輝き、店もあいていて活気があったときのように立っていた。おそらく、あばたの顔はかすかに青ざめていたが、どうするわけでもなかった。

だがハーバー・レーンとその周辺が、ジョニーにすれば、もっとも興味深く面白い地域であった。ステアズや古い家々、アーティチョーク・ターヴァンのむこうはドックの入り口となっていて、そこには驚くような橋がかかっていたが、それは真ん中のところで半分に折れるつくりで、双方の岸壁へと橋をひきあげて船を通すのだ。男たちは巻き上げ機をつかって、やすやすとその作業をした。そうした有様を一時間ほど、ジョニーは観察することもできた。だが、そこに彼は知っている顔を見つけた。橋のたもとにある岸壁の下のほうで、ロープを係留する双係柱のうえに腰かけているのは、バトソンさんであった。少しみすぼらしくなり、経済的にも衰えたような様子だとジョニーは考えたが、それでも相変わらず酷使されて不機嫌であった。ジョニーが見ていると、バトソンさんはポケットからパイプと一包みの紙をとりだした。その紙には何もなかった。バトソンさんは上着のポケットを両方ともあさったが、からの手のひらをにらんで終わった。やがて陰気くさくパイプを調べると、彼はパイプをおしやり、みすぼらしい様子で瞑想にもどった。そしてジョニーは家に戻った。

 

10章

メイドメント・ハースト社で、技師として勤務していたときに、ジョニーの父親は亡くなったのだが、そのメイドメント・ハーストにナンは少年を連れていき、見習いにしてもらう決心をした。たしかに、その会社は当時できるかぎりのことをしてくれた。事故は犠牲となった父親の不注意によるものであったが、犠牲者は熟練工ではなく、数カ月前に職についたばかりだったからだ。未亡人が緊急に必要とするもので不足しているものもなければ、世間並の葬式に足りないものもないようにしたばかりか、さらに会社は子供たちに孤児院を紹介しようと申し出てくれた。だが、ナン・メイは子供たちを手放すことができなかった。とりわけベッシーは、その頃、病院からでたばかりだった。そうしているうちに、孤独な、蝶の採集家である老人がその申し入れを断り、三人をまとめて連れ帰ったのだ。

そして今、もしジョニーが仕事を覚えるのなら、メイドメント・ハルスト社が最良の場であった。あの会社なら、父親のこともあるから、礼金を支払うことなく内弟子にしてもらうことができるだろう。この件について、ナン・メイは時間を無駄にしなかった。家がいったんきれいになり、店の商品を仕入れると、ジョニーは支度をさせられて、相手にみられてもいいように一番いい服を着た。泥だらけの朝であったが、メイ未亡人はジョニーの長靴を磨くのに余念がなかった。こういう場合でなければ、数年前ロンドンにいたときのように、うれしそうに彼女は息子をつれて泥だらけの道をすすんでいったことだろう。だが、息子の威厳をそこなう泥を教える分別は持ち合わせていた。そういう訳で彼らは用心しながら歩き、たがいに注意しあって水たまりから素早く身をかわし、通り過ぎる荷車がはねあげる泥から逃げた。たしかにロンドンは変化していた。その変わりようはナン・メイの目にはあきらかで、さらにジョニーの目にもわかるほどだった。以前住んでいた頃とくらべ、人々は顔色が悪くなったようにも、心配事をかかえているようにも、食事をろくにとっていないようにも見えた。当時、彼女はうら若い妻で、微笑みあふれる世界の住人であり、毎週三十二シリングをつかう最高の暮らしをしていた。店舗は品がとぼしくなり、彼女の記憶にある店の大半は閉まっていた。たしかに、数軒の看板は羽振りがよく繁盛していたが、彼女にすれば、その繁盛は以前とは異なり軽蔑したくなるようなもので、下品で、安っぽいものであった。ひとたびハーバー・レーンの外にでれば、小さな家は小ぎれいさに欠け、ゼラニウムの鉢植えや金網のフェンス、横畝織りのカーテンという心地よいものとして、彼女がよく記憶しているものではなく、さらには家の中で赤い炎が燃えている気配もなく、ぴかぴかの銅のやかんも、炉格子も、五徳のうえに置かれたマフィンもなさそうだった。なかでも造船所の沈黙は、彼女の幻想をうち砕いた。たしかにここは、新しい職業をはじめるには不似合いな場所のように思えた。空き店舗となった店をめぐる途中で、彼女は誰一人として昔の知り合いに会わなかった。そのまま馴染みのある通りを歩いたけれど、店の扉のむこうには、見知らぬ顔が幾つかあることに気がついて呆気にとられるだけだった。

やがて親子が角をまがると、嬉々とした少年たちの一団に出くわした。少年達は走り、叫び声をあげながら、身をおどらせていた。そこにはみすぼらしいぼろを着た女がひとりいて、呪いの声をあげてはもがき、酒に酔ったふうで、激昂しては強く殴りかかり、狂乱の有様をていしていた。女の服はありふれた黒服であったが、埃にまみれ、手入れがされていなかった。スカートの片側は、はねあがった泥で汚れていた。その髪も肩にまとわりついて汚れていた。ボンネットは肩までずり落ちて、しわくちゃの縮緬の服にかぶさっていた。彼女はあちらこちらに、ふらふらと踏みだしては、周囲のすばしっこい腕白小僧めがけ攻撃をするのだが、それもむなしかった。それでも紙につつんだベーコンで、弱々しく相手を打とうとしたが、もうベーコンは消えていて、彼女の頭上に放り出されたかと思うと溝に落ち、いち早く拾いあげた手がふたたびほうりだしていた。

「やい、老いぼれの飲んべえのばばあ」野蛮な小僧達はさけんだ。二人の小僧が縄をのばして急襲をもう一度かけたが、その縄に犠牲となった女は二回ほどつまずいていた。なんとか彼女は両手で柱につかまると、大声でのろいをあげたが、その声はしわがれて意味をなしてなかった。

ナン・メイは呆然と立ちつくしたが、やがて駆けよった。その顔をやっと思いだしたからで、たしかに顔は汚れ、まるくふくれていたが、それでも面影はあった。「なんてこと」彼女はいった。「エマ・ペーシィだ。信じられない、昔の彼女を思いだすと」

たしかに衝撃は大きく、その変わりようには目をみはるものがあった。あまりにも変わってしまったので、一目見ただけではわからない有様だが、それでも十七年前なら正確にではなくても、彼女の特徴を言えたほどなのだ。当時、エマはすらりとした少女で、ナン・メイはいつも言っていたのだが、遊び好きで、早熟な少女で、本物の愛をもとめて騒ぎをおこしたが、結果的にはそのおかげでナンは結婚することになった。こうした状況で、かつての競争相手の顔をながめ、まるで自分の服をながめるように、探り深い眼差しをそそぎ、記憶に刻みつけた。「こんなことになるとは」ナン・メイは物思いにふけると、こうした場面を前にして、思いもよらないような感情の細波に困惑した。素朴な彼女の心は、女としての勝利をまったく感じていなかった。

だが、すべてが悪い方へと変わったようでもなかった。忙しそうに稼働している工場もあれば、かつては小さかった工場が、今では大きなものに変わっているところもあった。コーヒーの屋台も、二、三か所あったが、かつてはそうした店はなかった。そうした商売が増える兆しだ。だが、歩いてみたところで、ナンの心を喜ばせるようなものはなかった。

ジョニーは脇目もふらずに歩いた。この外出は、自分が蒸気機関を学ぶかどうか決めるためのもんであり、予期しないような体験に遭遇するかもしれないと漠然と思っていた。紳士たちの前にでる予定だった。たぶん相手は紳士で、それも自分の運命を即座に決めてしまう紳士で、外見やら態度やらを見ただけで自分の運命をすぐに決めてしまう相手なのだ。最高の態度をとるようにしなければならないので、その紳士がどんなことをするのか、何を言うのかと想像し、自分が考えてもいない振る舞いの問題にはどういうものがあるのかと、今日まで考えてきた。幾度も、幾度も考えてみたので、周囲の状況に全然気がつかなかった。かつて一度だけ、こうした恐怖をあじわったことがあるが、それは三年前のことで、歯を抜いてもらうためにウッドフォードへと足どり重く歩いていたときのことだった。

だが面接は上出来だった。最初のうちこそ重々しい感じがして、少し大げさではないかとジョニーは思い、歯科医の待合室よりも重々しいくらいだとも考えた。ぴかぴかの真鍮の手すりがついたカウンターのむこうには、磨りガラスで仕切られた席があり、そこには事務見習いの少年がひとりいた。メイ未亡人のような訪問は珍しく、仕事とは関係のないものであったし、彼女がおずおずとメイドメント氏かハースト氏に会いたいと言い出したところ、ひとりは亡くなっていたし、もうひとりも遠方に行っていたせいで、事務見習いはすっかりまごついてしまい、職場の奥からでてきて応対しようとはしなかった。そこで、しばらくすると下級事務員がひとり姿をあらわし、質問をいくつかすると、担当の社員がいるかみてきてあげようと応じてくれた。そういうわけで事務見習いの少年は慎重に、疑り深く、隅々までよく調べ、彼の環境ではデザインの能力が怪しいだろうと疑い始めた。だが、とにかくジョニーと母親が奥の部屋までとおされたところ、簡素ながら金をかけたその部屋にいたのは三十歳か三十五歳くらいの紳士で、高価な身なりに重々しい物腰で、書き物机にむかっていた。紳士はメイ未亡人にむかって、ややぶっきらぼうに亡くなった彼女の夫について、生年月日やその他のことを二、三たずね、彼女が答えるたびに机上のノートを確認した。そこでメイ未亡人は、玄関をくぐったときから手ににぎりしめていた三枚の紙のうち一枚をさしだした。彼女の結婚証明書だった。

「これは、いや、いや、ありがたいです」紳士はいくぶん態度をかえると、そう言った。「はっきりします。こうしていただくのが一番です。確かめるには最高の手段です。すべての社員を思い出せるわけではありませんから。では、君は技師になりたんだね?」

「はい、もし可能であれば」技師になるのが大変だとは、彼は思ってもいなかった。

「よし。きつい仕事がたくさんあるぞ。そうしたことを嫌がらないか?」

「はい、大丈夫です」

「歳はいくつだね?」

「来月で十五歳になります」

「学校のほうは大丈夫か?学年は何年になるのか?」

「七年になりました」

メイ未亡人は残りの二枚の紙を手渡した。校長先生と教会の牧師からの推薦状だった。

紳士はその推薦状を読み終えると、「よし、よし、とても立派なものだ。本当に立派なものだ」と言った。「だが、まだ学校の勉強は終えていないな、もし技師になるのなら。絵は好きか」

「はい」

するとナン・メイはしゃべりだした。「はい、とても好いています」

「それはよい。夜になってからでも製図を頑張って、さらに理論を学んだら、そのうち監督になる。もしかしたら部長になるかもしれない。すべては君次第だ。君の力をみせてもらう機会をつくるつもりだ。これが私たちにできる精一杯のことで、あとは君次第だ。これは日頃から私が言っていることだが」

「わかりました、ありがとうございます。頑張ってみます」メイ未亡人もかろうじて聞き取れるほどの声で礼をのべると、ジョニーのことを請けあった

「これでよし、話はきまった」紳士はベルをならすと、下級事務官に指示した。「コッタムをよんでくるように」

「監督をよびにやった」彼は説明した。「コッタムの作業場に入ることになるだろうから。おまえが行儀よくふるまい、仕事を頑張っていれば、彼は面倒をよくみてくれる筈だ。私のことはあまり見かけないかもしれないが、君のことはいつも気にかけているよ。覚えておいてほしい」それから彼はテーブルのほうにむかい、何か書いた。

 

ほどなくして扉のところで物音がした。扉がゆっくり開いて、まず腹から部屋に入ってきたが、それは監督のコッタムのものだった。背は中くらいの男であったが、肥満体のせいで短躯にみえた。すべての動きは緩慢であったが、それでも筋骨たくましく、筋肉質で、活気にあふれていた。彼は扉のところでくるりと向きをかえ、あたかも彼自身が軸であるようにまわって、片方の手で閉めた。もう片方の手で、ひさしのついた海員帽をぶら下げて視線をむけてきたが、それは穏やかで、落ち着いた様子で、もじゃもじゃの灰色の顎髭のうえの目はまずナン・メイをとらえ、それからジョニーを見た。それから自分の雇用主を見つめた。

 

「やあ、コッタム」紳士はいうと、もう一語筆をはしらせてから、ペンを置いた。「この少年の名前はジョン・メイだ。この子の父親のことを覚えているだろう。不運な事故で、きつい旋盤作業の最中に亡くなってしまった、という事故だ」こう言いながら、ナン・メイをちらりと見やった。

 

監督は体のむきをかえ、くるりとこちらを向いた。それというのも、彼の頭はいかつい肩のうえにのっかっていて、首が見えない有様であったからだが、すこし身をかがめた。それからジョニーを調べたが、その様子は新しい小説を読もうとしているようでもあり、革新的な機械を調べようとしているかのようでもあった。「ええ、そうでしたね」彼はゆっくりと声をあげ、控え目に思い出したそぶりをしたが、はっきりとしたことは言わないでいた。

「よし。この子は見習いとしてきたのだが、お前の作業場にいれたい。とくに問題はなかろう?」

「ありませんとも」声の抑揚は考えぬかれたもので、あいかわらず明確なことは言わなかった。

「それなら、この子を連れていって、作業時間係に教えておいてくれ。月曜日から働いてもらうことになるだろうから」

「よおし」彼はもう一度むきをかえ、だんだん声を大きくしながら答えた。それを合図に、事務社員はメイ未亡人に「お疲れさま」と声をかけると、また何か書きはじめた。これで用件はすんだのだ。

監督のコッタムは頭に帽子をかぶって事務所の外にでると、廊下を歩いていき、階段をおりると中庭を横切ったが、それほど急いでいるわけではなかった。歩いていくのに丁度いい距離だった。歩きながらジョニーがぼんやりと思い出したのは、ロートンを横切るサーカスの行進のことで、その行列の象のあとを三マイル近く追いかけていった。

中庭を途中まですすんだところで、監督がたちどまって体を半分ひねったので、後ろを歩いていたナン・メイと視線があった。彼は大きくて、頑丈なこぶしをかざすと、そのこぶしに似つかわしい親指を、肩より高くつきだした。「若いが頼もしい」彼はしゃがれた声でいいながら、ふたりのあいだで分かるように片方の頬を痙攣させたが、それはウィンクに近いものであった。「若いが頼もしい、実に。賢い子どもだ。期待していますよ」胴着の一番下のボタンの高さまでこぶしをおろすと、頬をもう一度痙攣させてから、うなずいて歩きだした。

勤務時間担当は、水門のなかの小さな木の小屋に住み、整理棚のむこうから、来る人をすべて見ていた。コッタムさんが頭を整理棚につっこみ―もう隙間は残されていなかったーそれから頭をひっこめたとき、勤務時間担当の白髪頭の男が横のドアから出てきて、ジョニーをひたと見つめた。それから彼はうめくように「わかった」というと、また中へとはいった。

「月曜日の朝、六時だ」コッタムさんは最後に言いわたしたが、それもメイ未亡人にむかってだった。「月曜日の朝、六時に。ここで」親指で下をさして、他ではないということをはっきりさせた。それからジョニーを少しも見ることなく、実は事務所をでてから、彼はずっと知らんふりをしていたのだが、向きをかえると歩いていった。ジョニーと母親が、巨大な水門にある小さな扉をあけたとき、コッタムはたちどまって振りかえった。「がんばれよ」彼はうなると立ち去った。

 

母親と息子は嬉々として家路についた。ナン・メイの悩みの種は解決され雲散霧消した。そしてジヨニーにとっても、驚きにみちた世界が目の前にひらかれた。これから、蒸気がエンジンをどう動かしていくのかについて理解してくことになる。しかも一日中、エンジンがうごくところを見ることになる。実際、自分でエンジンをつくることもあるだろう。しかも、こうして楽しみながら追求して、おまけに賃金も支払われるのだ。一週間に六シリング、これが最初の年、見習いに支払われる金額だった。つまり日々、一シリング支払われるということである。次の年には、八シリングが支払われる。さらに次の年には十シリングになり、さらには…。やがて二十一歳で一人前の男になり、以前、父親が働いていたように技師になるだろう。それに絵を描くこともできる。あの紳士は、暇な時間には絵を描くようにといっていた。ハンマーが叩く音は、さながら仕事が奏でる陽気な鐘の音で、自分たちの人生の設計図を描いているようだ。川をすすむ蒸気船の警笛も、動きながら奏でられる音楽のようだった。

 

ナン・メイが不思議に思うくらいに、家に帰る途中、人々は口ぐちに祝ってくれた。たしかに、この場所はちがってみえた。おそらく、結局のところ、それほど悪い場所ではないようにも、今になって思えてきた。酔っぱらいの女をみかけた通りは静かだったが、少年がふたり、溝のそばで汚らしいベーコンをまだ蹴っていた。だが三本むこうの通りに、彼女がしばらく見えた。ならず者の少年たちは、よっぱらったマザー・ボーンを手押し車に転がした。そいて、そのまま押していき、その速度があまりにも速いので、被害者のマザー・ボーンは泥まみれになって転がっているしかなく、取っ手にしがみついて喘ぐだけの、汚らしい山となっていた。たしかに、エンマ・パーシィーはひどく苦しんでいた。

 

ベッシーは、ジョニーがうまくいったという知らせに有頂天になった。彼女は思いやり深く、同じクラスの、歳よりも賢い少女たちと比べても、さらにませていた。それに彼女は何も言わないまま心配していたからだ。そういうわけで今、彼女は昔の俊敏さで飛びまわっていた。それから彼女は、左側の隣人が壁からのぞいていたと告げた。母子が帰ってきたころ、隣人はのぞき、さらにわざとらしい咳をして、関心をひきつけようとしていた。そこでメイ未亡人は裏庭に行った。

 

「こんにちは、奥さん」声をかけてきた隣人は赤ら顔の男で、デニムの作業服を着ていた。「天気がすこしいいね。半日ばかり、手入れをしていたんだ」彼は塀の裏を軽く叩くと身をかがめた。体をおこしたときに、さしだした手にはペンキが一缶にぎられていた。「少しばかり赤いペンキを使わないかね?」

 

11章

 

赤のペンキも、青のペンキも同じ建物の住人からの差し入れで、同様に黄色のペンキは別の建物の住人から、白のペンキは裏の建物に住んでいる、はしけの船頭からで、この三人はペンキにふさわしい刷毛も贈ってくれたので、こうした品々がジョニーのいつもの相棒となったせいで、彼は疲れきったまま週末をむかえることになった。店のシャッターは赤く塗られ、緑の横線も描かれた。窓枠は黄色に、壁の下部は白く、上のほうにあるコーニスも白く塗られた。ドアと側柱は赤く塗られた。赤の塗料はいちばん使われている色であり、赤の塗料の缶には最初からたっぷり塗料があったからだ。この仕事にかかる時間の長さに、ジョニーの熱意はついていかなかったばかりか、注目をあびることにも当惑した。段梯子に腰かけていると人目をひくことになり、通る人々の注目の的となった。なにを目指して帆の向きをかえようとも、人々は機知をめぐらして笑いの種にするのだ。四人のうち三人は、塗料が逆に塗られていると注意してきた。なかには、つっけんどんに、ふとした拍子にはねた塗料をほのめかしてくる人もいて、窓枠は半分しか塗っていないことを思いだした。少年たちはふざけて、哀れをさそう仕草をしながら、ジョニーの目の覚めるような仕事のせいで、一時的に盲目になってしまったようなふりをした。だが、彼もただ立って見ているだけの、背後にいるせいで姿が見えない人々に不快感を覚えはじめていた。もし相手を見ることができたなら、これほど不快にはならなかっただろう。背後にも、足元にも自分を侮辱する大人がいることを意識するうちに憂鬱になってきた。たぶん画家を職業にしている人達だ。刷毛がひと塗りするたびに、注意深く観察をしていた。そのせいで彼の神経は過敏になってしまい、出来栄えをそこねていた。こうした熱心な見物人たちは急ぎの用がないようで、確認する時間も作業にあわせ引き伸ばしていった。ある批評家が、家路につきながら残した言葉は、「まあ、たいへんなごみをこさえているもんだな」 そして他の人々も、驚きのあまり言葉をうしなったかのように逃げ出した。「ああ、たいへんだ」と言いながら。こうした人達が、自分より上手だということにジョニーは愕然とした。仕事が終わりにちかづく頃、ジョニーの気持ちはくじけ、ひどい劣等感のかたまりとなって、疲れきっていた。見物人からただ一人、手伝いを申し出てくれた男がいた。滑稽な男であった。とても背が高く、とても痩せていて、仕事のせいで煤にまみれ、片方の足は外側に突っ張り、肩はなで肩、きわめて特徴のある長い顔であり、腕も長いせいで、長い上着の裾でぶらぶらしているようにも、何かに反応するわけでもないが、ばたばたと動いていているようにも見えた。その男が、階段の一番上の段でつま先立ちになりながら、ジョニーがコーニスと悪戦苦闘する有様を見ていた。彼は立ちどまると、周囲に目をくばり、それから一、二歩ふみだしたが、ふたたび立ちどまった。また戻ってきたが、店の窓にびくびくとした視線をむけていた。ジョニーがふりかえって視線をむけると、彼は話しかけてきたが、それは声というには不十分で、ささやきよりはましという程度の声だった。「うまくいかないかい?」

「うん、あまりうまくいかないね」

「こっちにおいで」ジョニーがおりると、ひょろ長い男は通りに再度視線を走らせてから、一度に三段梯子をあがると、すばやくペンキを塗っていき、一塗りで何フィートも塗った。彼は梯子をおりてきたが、片方の手で巧みに梯子につかまっていた。そのくらい梯子の勾配は急だった。それから再び梯子をのぼると、三分もたたないうちにペンキをコーニスの隅々まで塗った。そのあと男は梯子を降りてくると、ジョニーの感謝の言葉に恥ずかしそうな微笑みをむけた。そして隣の扉のほうへふらふらと歩いていき、玄関の鍵をつかって中に入った。そのまま金曜日になって夕食のころ、その男は上の階にある自室からジョニーの進歩の度合いをみていた。どうやら下宿人のようだが、こっそり降りてくると、コーニスに別の色を塗った。

 

土曜日の朝、店は正式に開店したけれど、ジョニーのペンキ塗りは夕方まで終わらなかった。取り立てて言うほどのことはなかった。二、三人の子どもたちが立ちどまって、扉のところから中をのぞきこんだ。最初の客は、こうした子どもたちの中の少年で、細紐をもとめると、ハーバー・レーンをたむろして、紐の端に死んだ鼠をゆわえて振り回した。数時間がたつと、ナン・メイの心はたしかに落ち込んでいった。数ポンド、わずか数ポンドだけが彼女の全財産であり、これからの三週間、その金が増えていく見込みはほとんどなかった。それに僅かばかりの在庫品の大半は、腐りやすいものだった。もし在庫品が駄目になっても、代わりの品を補うことはできない。もし人々が買わなければ、腐るにちがいない。彼女にこれ以上何ができようか。勤勉さも、決意のかたさも、他のすべても申し分なかった。だが言葉をつくしても、行動をつくしても、何をしたところで客を呼びこんで買わせるには至らなかった。

昼近くになって二番目の客がやってきた。今度は、少女だった。彼女は半ペニーのインク瓶をもとめた。陳列棚には、半ダースの小さなインク瓶があった。だが値段は、一ペニーだったので、少女は立ち去った。その日の夕食は陰鬱なものだった。ベッシーは巧みに推理をはたらかせ、客がこない理由を説明したあとで、明くる日の午後か夕方、おそくとも一週間後には変化がおこるだろうと予言した。母親には理解できなかった。客は他の店にいった。どうして、この店にはこないのだろう。

ハーバー・レーンにきてから、アイザックおじさんに会っていなかったが、おじさんはどこにいけば一家に会えるか知っていた。おじさんがペンキ塗りやら商品の陳列を手伝ってくれたらいいのにと母親は思った。だが、おじさんが忙しくしているのはあきらかだった。確かに、ジョニーは梯子から一度、通りを歩いていくおじさんの姿をみかけたのだが、それは間違いにちがいなかった。アイザックおじさんなら、連絡もよこさないで来ることはなかっただろうし、ジョニーの姿や彼が働いている様子をみて、すぐに近くの角へ駆けこむこともなかっただろう。

午後も、午前中と同じように惨憺たるものだった。子どもがひとり来ただけで、その子どもは六ペンス銅貨の品物を四ペンスに値切ろうとした。それから急いでいる様子の女が、一皿一ペニーのピクルスの盛り合わせを注文したが、量に文句をつけた。彼女は、どんな値段にしても、もう店に二度と店に来ないだろう。この考えに脅かされ、彼女の心は乱れた(はじめて支払ってくれた最初の客は、その女ではなかったか?)、何時間も自分のけち加減が許せなかった。その取り引きで得たものは、ファージン貨幣の端数でしかなかった。

さら三十分がすぎた頃、そこにきたのは実に高貴な客だった。彼は煉瓦職人のようにみえたが、酒を飲んでいて、したたかに酔っぱらっていた。そこでジョニーは脚立のうえから、彼がよたよたと近づいてくる様子を見張っていたのだが、下の段に降りてきて、飛びかかる用意をして、何かが起きた場合にそなえた。だが煉瓦職人は、たくさん梯子がある気配を察知して、車道のほうにすすんだ。そして立ちどまると、自分の目の前にある眩いものにうっとりとした。しばらく思案した挙句、これは店なのだと彼は考えた。へり石に何度も足をとられ、溝に何度も落ちながら、彼は無数の梯子のあいだの道をたどって、あやうく道を見失いそうになりながら、まだペンキが乾いていない扉の柱に肩をおしつけると、カウンターの方へとよろめいた。そこで彼が厳しい目つきで、思慮深く見つめたものはラードの袋で、やがてナン・メイはびくびくしながら何が入り用かと訊いた。

「なにか料理につかえそうなものをくれ」彼は厳めしい口調で、ラードにむかっていった。「なにか料理につかえそうなものをくれ」しばらく彼は眉間に皺をよせ、やがて片手をあげて指さした。「あれは何だい?」彼はきいた。

「ラードよ」

「それを買おう」彼は片手をズボンにつっこんだ。「それを買おう。いくらかい?」

「一ポンドにつき七ペンスと一ペニーだけど」

「わかった。全部くれ」彼が手を震わしてのばしたので、インク瓶がおしやられた。だがナン・メイのほうがすばやく、棒からラードの袋をとった。

「いくらで?」彼女は訊いた。

「いくらでだと。こっちが訊きたいことだ。さあ、ここにその袋をおいて」彼の声は論争をするかのように声高になり、その両手で袋をおさえた。「いくら?」

ナンは、そのラードは三ポンド以上の目方があり、ダンキンさんに十八ペンス支払ったと計算した。「二シリングで」彼女はいった。

「二シリングかい。わかった」そしてすぐに、その新しい客の週払いの賃金から残されていた金が、カウンターにばらまかれた。メイ未亡人は二シリングをとると、残りを戻したが、それは困難をともなう作業で、なんとか相手のポケットにおしこんだ。新しい客は購入した品を探して、身のまわりをつぶさに観察したが、やがて腕にかかえているのに気がつくと、店をでて、また扉のところで反対側にペンキをなすりつけ、ふらりふらりと歩いていった。重々しい動作の、もったいぶった煉瓦職人は、赤いペンキを両肩にも、髭の両端にもつけ、抱きかかえたラードの袋を前に落としたり、後ろに落としたりしては、難儀な様子で拾いあげた。

一瞬にして六ペンスの利益がでた。こうした好機はふたたび訪れそうにないけれど、ナンの心は無分別なまでに高揚した。さらに煉瓦職人はある種の幸運を招いた。つづけて三人の客がきて、そのうちの二人は半ペニーの儲けをもたらし、一人は一ペニーの儲けをもたらした。夕方には五、六人がきて、そのうちの一人は四ペンスも使った。おそらくましにはなってきているが、まだ儲けは乏しかった。その夜十時に、ナン・メイはその日の儲けが九ペンスファージングだと計算したが、それには煉瓦職人の六ペンスも含まれていた。それから彼女は待つことに苛立ち、怖れにぐったりとした。十時半すぎに、アイザックおじさんが姿をあらわした。

「やあ」彼はいった。「ペンキを塗ったんだね。むらなく塗れている。ペンキ塗りにも正しい塗り方、間違った塗り方というものがあるし、ひとたび塗れば同じようには塗れないものだ」彼はジョニーにむかって、諭すように指をあげた。「それどころか、大きな違いがある」アイザックおじさんは一息ついた。そして、もうそれ以上は意見を展開していこうとはせず、メイ未亡人のほうをむいた。「商売はどうだい?」

ナン・メイは悲しそうに頭をふった。「さっぱりなの、おじさん」彼女はいった。「まったく、さっぱりだわ」そして葬式のとき以来だが、彼女は泣きそうになった。

「そうか」おじさんは木箱に腰かけた。その箱は空っぽだったが、中身がつまっているように見せかけようとしていた。「それなら、株式会社設立はどうだい。株式会社だよ。それこそお前にふさわしいじゃないか。商売を刺激して繁盛するようにする、これが最新のやり方だ。商売の取引が、少なくともすんなり進むようになるんだよ。その結果、商売の取引が全世界を相手にすんなり進む。株式会社を設立すればこうなる」アイザックおじさんは、カウンターを人差し指で叩き、ナン・メイの困惑した顔を厳かに見つめた。それから室内の扉にすばやく視線をはしらせ、言い添えた。「夕食はとったのかい?」

「いいえ、おじさん」ナンは答えた。「夕食のことを忘れていたわ。でも、おじさんも来てくれたことだし、私たちと一緒に何か食べていってくれますよね」

「ああ、でも気をつかわないでくれ」アイザックおじさんは嬉しそうに答えた。「これは旨そうなベーコンじゃないか。じゃあ、ベーコンと卵をもらおう。卵はあるかね。よし」彼は、洗面器のなかに卵が一ダースあるのを確かめた。「ベーコンを一切れ、卵を一つか二つ。食べ物はそれくらいでいいから、ビールが少しあるといいんだが」

ジョニーはビールをとってきた。アイザックおじさんはベーコン二切れと卵四個を食べた。それから分厚いパンを一切れ食べ、カウンターからオランダ産チーズの美味しそうな部分を一切れ、大きな塊でとって食事を終わりにした。

やがてジョッキが空になり、腹いっぱい食べると、アイザックおじさんは椅子に深々と腰かけ、しばらく唇を奇妙な形に動かしたり、ねじったりしていたが、その動きと同時に舌打ちをしたり、吸い込む音をたてたり、しゅうという音をたてたりしながら、やさしく天井の傾きを見つめていた。ついに気がゆるんだ様子になると、彼の視線は徐々に下がっていって、少なくなったベーコンの塊の上にとまった。「そう悪くないよ、このベーコンは」彼は言いながらも、頭を傾けて、あらさがしをするような目をむけた。「だが夕食というより、朝食のときに食べる類のベーコンだ」彼は反対側にも頭を傾け、まるで公平に判断しようとしているかのようだった。「ああ」彼は思慮深く続けた。「朝食で食べるベーコンだ、そう思うだろう?」しばらく押し黙ると、楽しい考えを告げるように言い添えた。「いいことを思いついた。そうだ、朝食に食べたらどうか試してあげよう、明日の朝にでも」

「もし、それでよければ、おじさん」ナンはおずおずと答えた。「でも、その」おそるおそる切り出した。「そうしたら、たぶん、このカウンターに置いておくには、少し小さくなると思うけど」

「たしかにそうだ。たしかに」アイザックおじさんは率直にみとめた。実際、残された塊は、四切れにも満たない量だった。「切り分けるのも可哀想だ。ナン、お前の言う通りだよ。ありがとう。そのまま包んで持っていくよ。月曜日になれば、新しい品は入ってくるだろうから。大きな筋状の塊のほうが、カウンターにのせておくには品がいい」

アイザックおじさんの訪問は、その日の儲けも、はした金も吹き飛ばしてしまった。きっとおじさんは、前の方に憂鬱に見えているものがあっても、不安にかられたりしないにちがいない。

ベッシーは横になると、夜遅くまで機知をめぐらし続け、楽しい話をして聞かせたり、将来を請け合ったりして、母親と一緒に自分の話を希望に変えた。だが朝になると、それぞれの枕には濡れた痕が残っていた。

 

12章

 

だが、月曜日は同じようには始まらなかった。ジョニーは五時過ぎにはもう起きて、六時には職場についていないといけない。だがこの日は、初めて出勤する朝だったので、四時半過ぎには起きて、意欲をたぎらせていた。彼も早く起きたけれど、母親のほうが先に起きていた。彼が普段着のうえに、白い、新しいズック製の作業着をきていると、下のほうから母親が動きまわる物音が聞こえてきた。ナン・メイが考えていたのは、彼が家から出ていって、これから開拓しようとする世界は、少なくとも食べさせてくれて、暖かい世界であり、おそらく気持ちのいい世界であるということであった。その朝、五時少し前の、物の形がはっきりとわからない暗がりのなかでも、家のなかには眠くて仕方ないという不機嫌な感情はいっさいなかった。朝食が二食分、彼のために用意されていたが、一食はこれからの食事の分であり(結局、彼はほとんど口をつけなかった。興奮していたからだ)、もう一食は弁当容器にいれられたもので、赤いハンカチで包まれていた。職場で食事をとるためのもので、新しい、たっぷりとコーヒーがいれてある錫の缶もおかれていた。朝食をとるために許されている三十分では、急いでも家に帰って、また急いで職場に戻るには不十分であった。また昼一時間職場にいれば、夕方、母親といっしょに過ごす時間ができるだろう。ベッシーも、興奮のあまり起きて、足をひきずりながら歩いて、ジョニーの出発を見送った。彼が店の扉をでたのは予定よりも三十分早く、長靴の音を響かせながら出ていった。通りには暗闇がたちこめ、深夜よりも、この時間のほうが暗いくらいだった。暗闇がほのかなガス灯の灯を包んで消してしまっていた。ときおり、みぞれが風にのって飛んできた。少し汚れ、なかば溶けかかった昨日の雪のせいで、道は泥だらけになっていた。周囲に誰もいなかったので、ジョニーの白い上着についた、勇ましい名誉の印を見る者はいなかった。そして残念なことに、冷たい風から身を守るための上着が、その名誉の大半を隠していた。だが彼が満ち足りた心で思いだしているのは、炉にコーヒーを置けば、その日、家に帰る頃には、恥ずかしいくらいに新しい缶も煤けるという言葉だった。

途中、警察官をひとりふたり見かけたが、警察官も興味深そうに彼の方をみていた。まだ工員が動きだす時間ではないからだ。だがコーヒーの屋台は、旋回橋のあたりで開いていた。そこは河から風が吹いてきて、いちだんと寒かった。コーヒーの屋台には、誰も客がいなかった。そして橋のうえにも、橋のむこうの通りにも、人影はひとつもなかった。そのとき、ちいさな影がぼんやりと、前方にあらわれ、彼を避けるかのように道を横切った。その影はすばやく動いたものの、おずおずと壁にそって移動していた。ジョニーは、その影が自分と同じくらいの、少女のものであることに気がついた。彼は強く踏みだした。その少女は、いったんすれ違ったが、どうやら勇気をふるいおこしたようで、ふりかえると、数歩近寄ってきた。その様子に彼が足をとめると、数ヤード離れたところから、彼女は話しかけてきた。彼女がこざっぱりとした恰好をしていて、やや小柄な少女であることは、すぐ近くの、うす暗い明かりでもわかったが、その顔は恐怖にゆがみ、瞳はぬれていた。

「ご婦人をひとり、どこかで見かけませんでしたか?」彼女はおどおどと言いそえた。「具合がよくない方を?」

ジョニーは、具合がよくない婦人だろうと、健康な婦人だろうと見かけていなかった。そう答えると、少女は弱々しく「ありがとう」と礼をのべ、急いで行ってしまった。奇妙な出来事だとジョニーは考えながら、彼女が姿を消した闇を見つめた。物の影も見えないこの時刻にブラックォール・ストリートで、どうして婦人がいなくなるのだろうか。考えているうちに、彼の心に思いだされてきたのは、おじいちゃんの姿で、道を迷い、血だらけになって、死にかけた状態の姿であった。あの夜のことは、はるか昔のことに思えたが、あれから、一、二カ月しかたっていなかった。おそらく、そのご婦人も、ああした状態でベッドから徘徊してしまったのだろう。ジョニーは、その少女の災厄に同情し、できれば引き返して、いっしょに探したいと考えた。だが、これからすばらしい彼の仕事がはじまる時間だ。そうして彼は仕事へとむかっていった。

今度は警官たちが扉をたたき、職人たちを起こしていた。すると職人は中から大声をあげてこたえた。老いた夜番も精一杯いそいだが(警官よりも先をまわっていた)、いらだたしげに強く叩くノッカーは古く、ひと昔前のものだった。ジョニーがメイドメント&ファースト社に近づくにつれて、通りは一番早い職人たちで活気づいていた。彼らには、辛い労働という意識はなかった。

メイドメント&ファースト社の扉はかたく閉ざされていた。あまりにも早く来すぎてしまったのだ。巨大な水門につくられた小さな扉をあけようとしてみたが、それは施錠されていた。ノックをしたほうがいいのだろうか。こぶしでそっと叩いて試しにやってみた。だが煉瓦の壁を叩いているかのようなものだった。さらに通りがかりの見習いが、この有様をみていて、大きな声で笑った。「空気を叩いてみるんだな」見習いは助言した。

仕方なくジョニーは立ったまま待ったが、新しい錫の缶が、水門の上のガス燈に燻されていない輝きをみせて密告することのないようにした。そして出来るだけ熟練工のように見せかけた。だが通りすぎていく男たちは互いの顔を見て、にやりと笑い、彼のほうを頭で指し示すのだった。どうやら自分は、新米として知られているようだとジョニーは感じた。彼よりおそらく数週間はやく経験を積んだ見習いたちは、皮肉まじりの助言やら祝福やらをあびせた。「頑張れ、あと十五分だ!」二、三人が声をかけてきた。そのうちのひとりは熱心に助言してきて「親方の帽子にチョークで書いておくんだな。そうすれば親方も忘れまい」それから他の者は、極端に憤った口調で叫んだ。「なんと。ようやく来たのか。パブがしまってから、みんなずっとお前のことを待っていたんだぞ」

ついに作業時間係がやってきたが、機嫌が悪く、陰気な様子であった。彼は頭上にある、鉄でできた鐘のハンドルを強くひいた。ジョニーは、そんなものがあることに初めて気がついた。鐘をきいて、夜警の男がランタンをもって、鍵をガチャガチャいわせながらやってきた。作業時間係は小さな扉から出てくると、うなりながら、気がついたことを伝えた。作業時間係は扉を少し開けっぱなしにしていた。そこでジョニーは少しためらってから、そのあとを追いかけて中にはいった。

「コッタムさんに、今朝、ここに来るようにいわれてきました」彼は、作業時間係が仕事場に戻らないうちにいった。「名前はメイです」

作業時間係はふりかえると、もう一度うなり声をあげた。そのようにして会話するのが、彼のいつもの癖だった。「わかった」彼はつづけた。「そういうことなら、彼がくるまで、ここで待っていなさい」彼が一度にまとめて、これだけ話すのを聞くのは、それから数ヶ月なかった。

作業時間係は、大きな板に金属の札をかけはじめたが、その板には止め金がつけられていて、それぞれの止め金には、番号順にならべられた札がかかっていた。やがて男がひとり扉のところにきて、板から札を選び、大きな貯金箱のようにみえる箱の、細い隙間に札を落としていった。今度は、三人の男たちがいっしょにやってきたが、それぞれが同じことをした。それから男たちも、少年も列をなしてやってきて、板にかかる札はどんどん少なくなっていった。その最中に、コットマンさんがとても小さなくぐり戸に姿をあらわしたが、それはあたかも魔術のようであった。

彼は前方にむかってドシドシと歩き、あきらかにジョニーには気がついていなかった。だが通り過ぎたとき、彼は少年の肩に片手をおいた。そのまま、しっかり前方を見つめた。「よし、いくぞ」彼は大声で話しかけてきたが、それは中庭から工場の窓にいる人にむかって話しているかのようだった。

「おはようございます」ジョニーは挨拶をすると、監督の傍らをむりやり歩かされることになった。手が肩におかれていたからだが、その手は今まで感じたことがないくらい重く、しっかりとしたものだった。

コットマンさんは黙ったまま数ヤード歩いたが、手はジョニーの肩を握ったままだった。やがて彼はふたたび口をひらいた。「お母さんは元気か?」彼は大声で訊ね、あいかわらず窓の方にむかって話しかけた。

「はい、元気にしています。お気遣いありがとうございます」

彼らは歩き続け、そして工場の門をくぐった。「ここだ」コットマンさんはいうと、ようやくジョニーのほうをふりかえり、鋭い目つきでにらみつけた。「ここは大きな作業所だ。あらゆる仕事をやっている。大きなシリンダーは、新しいレッド・スターの船のものだ」彼がとりおさえた若者をつれて作業場をまわっているうちに、旋盤やかんな盤のあいだにでたが、そこは樽からのガスで照らされていた。階段の上のほうには、別の作業所があった。「さあ、ついた」コットマンさんはいうと、ようやくジョニーの肩から手をはなした。「おまえは馬鹿じゃないな?どれが旋盤だかわかるか。ベルトやシャフトもわかるか?よし。朝食まで何もしなくていい。みてまわるんだ。でも、いたずらはするなよ。見ているからな」

監督は彼を残して立ち去り、機械のあいだを歩きはじめた。すると一番近くにいた見習いが、ジョニーにむかってにやりとすると、片目をつぶってきた。ジョニーは、親方の勧めにしたがって、あたりを見てまわった。この場所で、これから彼はエンジンのつくり方を学び、二十一歳に、つまり一人前の男になるまで毎日働くことになるのだが、そこはずいぶんと広い場所で、屋根には天窓がいくつもあった。後述した環境に気がついたのは、朝食後のことで、ガス燈の明かりが消され、陽の光が上から射して気がついたのだった。屋根の下でくりひろげられる激しい労働は、喧噪をうみながらも、いたるところにベルトをつけたシャフトを運んでいった。男たちは皆前かがみになって、自分の機械や作業台に向かい合っていた。コットマンが厳しい親方だからだ。ジョニーは、もう小さな穴があいて線ができている金属板に、熟練技術者が曲線を刻んでいく様子を見ていた。「線をなぞる」熟練技術者は、少年の関心をみていった。それから話しかけるために身をかがめた。作業場はとても騒々しいからだ。「真ん中は軽くたたく」彼は、小さな穴を指し示しながらいった。このことだけは忘れないようにしようと、ジョニーは心にきめた。線をなぞって、真ん中を軽くたたくということだけは。

どういう理由からだろうか。おそらくはよくある話のせいかもしれないし、あるいはまったく別の理由からかもしれないが、三、四人の男たちが、その月曜の朝、持ち場から「消えていた」。 そのうちの幾人かは、若い見習いと一緒に働いている男たちだった。そのせいで、コットマンはいつもの監督業務だけでなく、指導者をなくした見習いたちを特別見張っていた。そしてジョニーも、親方の注意から少し学ぶことがあった。

「おい、おまえはやすりで何をしてるんだ?」彼はひとりの見習いに訊ねた。「猫と作業台で遊んでいるんじゃないんだ、いいか。ここだぞ、ここをたいらにするんだ。こんなふうに。これはやすりなんだ。馬じゃない」

また、ときに彼が背後からのぞくのは、金属加工をしている見習いで、その見習いはハンマーを熱心に使っているのだが、技術をともなっていなかった。彼はしばらく様子を見ていたが、やがて怒鳴った。「おまえはもっと練習をしたほうがいい。そうすれば、いい仕事ができるだろう、練習にたえるほど、お前が強ければ。わたしは強くない。私の体は、ハンマーをそんな風に握るようにはできていないからな」見習いのぎこちない握り方やら、腕全部をつかっての動きやらを真似しながら、こういった。「私はやっつけられてしまいそうだ。繊細にできているから」(彼の腕は、見習いの胴回りほどもあった)「ハンマーはこう握るんだ、いいか」それからハンマーの取っ手の先端を、指のあいだにゆるく握り、手首をつかって着実に、しっかりと打ちつけた。ジョニーはその様子を眺めながら、記憶に残した。

そしてまた三十分後、別の見習いの肘のところで立ちどまった。さっきの見習いより、少し年上の見習いだった。「これはまあ」親方はいった。「新しいやり方じゃないか。やすりを使って、鋳鉄の肌をなめすなんて。三十分もしないうちにやってきて、別のやすりをくれといっても知らないぞ。やすりが駄目になったと言っても知らないぞ」これを聞いていたジョニーは、鋳鉄にも肌があるということを知って驚き、新しいやすりでその作業をしてはいけないということも記憶して、誰かにその理由を訊いてみようと思った。

やがて型押しの、長い作業台のところにくると、ジョニーは長身で、とても痩せた仕上げ工に気がついた。仕上げ工もにやりとして、ひそかに気がついたという合図をしてきた。それは隣の下宿人で、コーニスのペンキを塗ってくれた男だった。彼は体がとても大きいのに、内気すぎるとジョニーは思った。彼はにやりとしながら、真っ赤になっていた。「この作業場にきたのか?」彼は、自分の作業の仕上がりを確認するために手をやすめたとき、奇妙なささやき声で訊ねた。「おさえ輪を仕上げているところなんだ。たぶん朝食がおわったら、親方は君を手伝わせるだろう」

おさえ輪を設置する作業は前進的にも、技術が必要とされるもののようにも聞こえた。そこでジョニーはこの話を聞いて、誇らしげな気持ちになった。おそらく設置するときに、おさえ輪がどういうものか知るだろう。しばらくジョニーが見守るなかで、長身の男は、ぴったり表面に金属をのせた。

「終わりにして朝食にしようか?」男はまた前かがみになりながら訊いてきた。

「はい」

「何人かの少年が、君とゲームをしようとするだろう。そうしたゲームは嫌じゃないか?」

「大丈夫です」

「見習いの頃、ゲームが嫌でたまらなかった。自分がみじめになってきた。スミスの仕事場にいって朝食を食べることになるが、まわりをよく見るんだ。もし親切にしてくれるなら、席をみつけて食べるんだ。かきわけてでも、例えばだが」

ジョニーは、長身の男のところから立ち去った。それからすぐ、監督が作業場にいないことに気がついた。若く、落ち着きのない男たちのあいだには、注意散漫な雰囲気がすぐに漂いはじめたのがわかった。熟練工には、コッタムほどの権限がないからだ。旋盤にむかっていた男は、ギアの調子がくるったので自分の仕事を調べ、ジョニーの方をむくと言った。「こっちにきてくれ。これを調整したい。サム・ウィルキンスのところへいって訊いてくれないか。あっちの端にいる、サージの上着を着た男だ。あの男のところにいってラウンド・スクェアを借りてきてくれないか」

ジョニーはスクェアと呼ばれる道具のことは知っていた。完成品の正確さを試す道具だ。だがラウンド・スクェアは見たことがなかった。それでも彼はすばやく捜しに出かけた。サム・ウィルスンはラウンド・スクェアを持っていないようだった。持っているのは、むこうの端にいるジョー・マイルズだ。そこでジョー・マイルズのところへ行ってみた。だがボブ・ホワイトに貸したということだった。向こう側の、一番大きな研削機械のところにいる男だ。ボブ・ホワイトはすべてを理解したが、ラウンド・スクェアを最後に見たのは、ジョージ・ウォーカーのところだった。だがジョージ・ウォーカーが自信をもって言ったところでは、階下の、大きな作業場にいるビル・クックのところにあるということだった。サムも、ジョーも、ボブも、ジョージもとても真面目な顔をしていたので、露ほども疑わず、ジョニーは石の階段をおりていったが、そこで鋳型製作者の作業場から戻ってきた親方が、階段をのぼってくるところに出くわした。

「おい、坊主」彼はいった。「どこに行くつもりかい?」

「下の方です。ラウンド・スクェアを捜しに行ってきます」

コッタムさんの目は、ひときわ大きくみひらかれた。それから閉じこめられたウシガエルのような音が、喉の奥から聞こえてきた。だが表情は穏やかで、陰りはなかった。しばらくして彼はいった。「ラウンドが何だか知っているか?」

「はい」

「スクェアが何だか知っているか?」

「はい」

「ラウンド・スクェアが欲しいと言った者がいるようだが、それは絵で描くしかない道具だな。どうするつもりだ?」

それから、くぐもった、しわがれ声をだした。でも、なんとかジョニーは元気をだした。「たぶん」彼はかすかにためらいながらいった。「自分でやってくださいと言うつもりです」

コッタムさんはまた、しわがれ声をだしたが、その声はいちだんと大きく、今度は胸が上下していた。「よし」彼はいった。「それでいい。お前をよこした連中に言ってやればいい。昔からのからかいだ。気にするな」

 

彼はふたたび力強く階段を登りはじめ、肩ごしにジョニーをふりかえると、自分より先に行かせた。作業場の連中はこっそり、にやにや笑いをうかべていた。やがて、或る見習いが訊いてきた。「見つかったのか?」それは用心深く、おさえた声だった。だが、ちょうど其のとき、朝食を告げる鐘が鳴った。

大半の男と幾人かの少年は急いで門にむかった。この近くに住んでいるか、コーヒー店で朝食をとる者たちだった。彼らの半時間の休憩が始まったところだが、すぐに終わってしまうのだ。ほかの者たちはそれほど急ぐことなく、その場に残って、自分たちの缶やらハンカチの包みやらを手にした。幾人かは、自分たちの両手を木綿の端切れでぬぐった。その奇妙に絡みついた端切れを見ていると、ジョニーは自分の父を思い出した。彼がどうしたかと言えば、しばらく待ち、残された者たちがするように行動した。友達の、長身の男が、コーヒー店にいく連中と一緒に外に出るのを見ていたからだ。少年たちは、自分たちの缶をとって、スミスの店へとがたがた歩いていき、ジョニーはその後ろをついていった。安全な距離から眺め、判断したいと考えたからだ。長身の男の警告に、どのような「ゲーム」が展開されるのかと思案し、すぐにそのゲームが始まってもいいように備えた。だが運命の気まぐれのおかげで、その朝、彼は罠から守られることになった。

最初の幸運は、ジョニーが縁なし帽できていたということだった。作業場の見習いのしきたりで、新しい見習いが頭にかぶってきた縁のある帽子は、たくさんのやすりの刃で、壁にとめることになっているからだ。奉公して四年にもならない見習いが縁なし帽子をかぶれば、それは見せびらかしているということで、怒りの対象となった。次なる幸運は、遅れて行動したせいで、彼の新しいズボンは難をまぬがれたということだった。一番年上の見習い弟子たちは、習わしとなっている罠を用意していた。その罠がしかけられた名誉ある席は、暖炉のそばの、最高の場所に用意された。油の海でかざられた席は、樽の真下に位置していたが、その樽には、旋盤のところから持ってきた水入りの缶がのっていた。一本の糸が缶から下がり、その先端は椅子の座面に結びつけられていた。その仕掛けのせいで、被害者が席につけば、大きな油の飾りが、新しいズックのズボンにつくことになり、その背中が糸に衝撃をあたえ、水でいっぱいの洗礼式を引きおこすことになるだろう。だが、たまたま大きな作業場から年配の職人、老ベン・ガッツがその場に現れ、進みながら、上着の裏地で眼鏡をぬぐった。彼は新しい見習いのことは何も聞いてなかったので、よさそうな場所に、暖かそうな席が空いているということしか気にとめず、急いでその椅子をつかんだ。

見習いたちは驚いた。「いけません、いけません、そこは」数ヤード離れたところから、誰かが叫んだ。

「はやくこっちにこい、手をかしてくれ」老ベン・ガッツは上機嫌でいうと、運命の場所に腰をおろした。

「はやくこっちに、はやくー」

その缶が落下してきた。ドアのところにいたジョニーは息をのんで、白髪頭の職人をみつめ、その手に握られた眼鏡やら、白い作業ズボンに油の模様ができていく様を観察した。職人は水滴をたらし、跳びはねながら罵り声をあげ、まわりの見習いたちの頭を思いっきり叩いて叱りつけたが、それでも殴りつけることはしなかった。

その日の朝食時に、もうそれ以上のいたずらは起きなかった。老ベンは長々と腰をおろして食事をしていたが、かたわらにくさびの山をおき、行儀を認めがたい見習いがいれば、投げつけられるようにしていた。彼の眼鏡はもう鼻の上にあったし、さいわいにも、その腕前は侮りがたいものとして知られていた。更にくさびもあり、どちらも痛く、相当重さがあるものだったので、スミスの店で朝食は礼儀正しく食されることになった。

ジョニーの新しい缶は、満足なくらいに黒くなったし、彼の朝食もじゅうぶん腹におさまった。言葉のからかいをしてくる見習いたちに、彼はできるだけ上手くかえした。とは言え、彼には、ロンドン下町っ子らしく、素早い応対はできなかった。やがて鐘がなり、朝食の席にいた者たちは仕事に戻った。

コッタムさんは作業場のあちらこちらに視線をむけては、ジョニーが取りかかるべき、簡単な仕事を探した。しっかりした男といっしょの作業で、手元において監督してもらえる作業がいい。やがて彼の凝視がロング・ヒックスの姿をとらえると、そこで視線はとまった。それからジョニーは彼のところに行き、ボルト作業を手伝うことになった。そしてジョニーは、長身の男の予想が現実になったことに気がついた。長身の男もにやりとして彼を受けいれたが、その笑いはもう内気なものではなかった。彼はジョニーをボルトとナットのところに連れてくると、ボルトを万力に固定する方法を教え、スパナで万力の上にとめねじをはめるやり方を教えた。ジョニーはその作業に熱心にはげみ、そうこうしているうちに午前が過ぎていった。

 

13章

 

ナン・メイが店をあけたときに、目にとびこんできたのは、男たちが造船所の壁にする煉瓦をたくさんおろしている姿で、むかいの二本の白墨線のあいだに煉瓦をおろしていた。彼女は、そのときは格段気にも留めず、自分にどれほど深く関わってくるものになるのか思いもしなかった。これは、造船所にはいる職人たちの、新しい門となるもので、そこを通ることになる職人たちが店の経営状況をかえることになるからだ。しかしながら、その日は煉瓦積み職人たちがチーズを少し買いにきただけだった。

 

商いについて言えば、その日は土曜日と同じくらいにさえない日であった。ラードを買いにくる酔っぱらい客もいなかった。時が過ぎるにつれて、ナン・メイの気持ちは暗くなっていった。ベッシーは店と居間を区切るドアのところに立ち、青ざめた顔色で、心配そうにしながら、雄々しい表情をみせようとしていた。一時前に食事が用意された。ベッシーや母親が食べる食事ではなく、ジョニーのためのものだった。一時十五分頃、ふたりはドアのところで、できるだけ明るく彼を出迎えた。職場の話を聞きたくて、聞きたくて仕方なかったのだ。彼が隣に住んでいる長身の男と帰ってくる様子に、ふたりは首をかしげた。そして長身の男のほうは、ふたりをみると、まごついた様子で困惑気味だった。はじめのうち彼はわざと後ろを歩き、ジョニーだけを行かせようとした。だが彼は思いなおすと、急いで大股に歩いてきて、右も左も見ることなく、自分の家のドアに飛びこんだ。

 

ジョニーは空腹ではあったが、気分は高揚していた。彼とロング・ヒックスは、おさえ輪をピストンに置く作業をずっとしていたようで、ジョニーがボルトとナットをゆるめ、ロング・ヒックスは他の作業をしてきたのだった。ラウンド・スクエアの話はしなかったが、かわりにスライド弁やL字型ハンドルの話をしたので、ベッシーは彼がもう立派な技術者だと考えた。口一杯に食べ物をほおばりながら、彼が説明するのはハンマーとやすりの適切な使い方で、しかも鋳造したばかりの新しい鉄の表面に、卸したてのやすりをあてるような行為を責め、それはやすりを駄目にするだけの、罪深い行為なのだともいった。ナン・メイが喜んだのは、息子が仕事に熱心に取り組んでいるからで、心にひそかに秘めていた秘密、息子に仕事をつづけさせる術が自分にはないのではないかという不安はすべて消えた。ジョニーは時折、心配そうに置き時計を見ていた。やがてロング・ヒックスのドアを叩かなくては、と告げた。彼が時間を忘れているのは明らかだからだ。そこで彼は長身の男のところに駆けつけ、相手の休息を予定より十分早く乱した。そのままメイドメント・エンド・ハーツへと急ぎ、大きな板から自分の金属札をとると、ちょうどいい時間にその札を箱へ落とした。

その日の午後は、工場であわただしく過ぎていった。それからも忙しい日々がつづいた。ジョニーは、最初の道具であるフートの物差しの使い方を学んだ。そして誰の目にも物差しがわかるように携帯するために、フートの物差しを定められたポケットにさし、ポケットから物差しが十分に見えるようにした。若い見習いたちは、全員、そうしていた物差しは、見習いたちが言うには、こうして持ち運んだほうが使うには便利だということであった。だが慣れた者の目には、正確な術となって、そこに見えている目盛りから、逆に、見習いの経験を判断することになった。その目盛りは、一年に半インチずつ縮んでいった。二年が経過した見習いは、二インチしか物差しをのぞかせていなかった。四年が終わりをむかえる頃、二インチのうち更に半分のインチが消えた。二十一歳の誕生日が近づく頃、最後のインチは縮んでしまい、金属の輝きが見える程度になった。そして誰も、経験豊富な職人のフートの物差しを見ることはなく、ただ、職人が使うときに見るだけだった。

ジョニーの洗礼式は、老ベン・カットの事件のせいで、いったんは延期された。だが彼がはじめて小さな旋盤にむかい、ボルトをしめようと試しているときに、その儀式はおこなわれた。朝食から戻って、自分の旋盤のベルトをしめたとき、彼は気がつかなかったが、ベルトには水の入った缶が結ばれていた。その缶に気がついたときには、しかしながら、すぐさまシャフトに水がかかり、彼の頭にも水がかかっていた。でも、それから彼は作業場を自由に出入りするようになった。作業場の見習いたちのあいだで、習慣となっている悪戯に苦しむこともなくなり、見習いたちのあいだにとけ込んでいった。自分より新入りの見習いをからかって、ラウンド・スクェアを持ってくるように求めたり、怒りっぽい監督のところに、急ぎの伝言を頼んで苦しめた。それは、ごきぶりが間のぬけたバルブに入ったとか、ロバ飼いの男が新しい飼い葉袋を欲しがっている、という類の伝言だった。

できるようになったことが、他にもあった。それは作業場の方針のおかげなのだが、店主に顔が利くようになったということだった。店主は、時々、ハンマーを担保に金を貸してくれた。ハンマーがなくなれば、三シリング六ペンスの罰金を払うことになるからだ。もしハンマーが盗まれたらーみんな、他のひとのハンマーを盗んでいたー借りたハンマーで乗り切って、やがて誰かのハンマーを盗むのだ。道具職人と友達になるのも手で、わずかな金で飲み物をごちそうすればよかった。もし必要があるなら、道具職人に罰をあたえればよく、相手の火のなかに、こっそりと鉄のもみ屑をいれた。あきらかに目に見える裂け目を鉄の表面にいれる術を学んで、鈍ったやすりのせいにした。裂け目は、壊れた棒の両端で圧搾された油脂にふれてできたものだ。要するに、年季奉公の技術者らしくなったというわけだ。さらに仕事そのものについて言えば、彼は遅いほうではなかった。コッタムさんが、ジョニーの知らないところで、一度彼について言及して、「あの子は悪くない。きっとお父さんのように仕事ができるようになる」と言った。当初の熱意が擦り切れないあいだは、彼は暇な時間があれば、ロング・ヒックスをつかまえ、蒸気エンジンに関する事柄について質問をした。そういうわけで引っ込み思案なヒックスも、自分の孤独を慰めてくれていたアコーディオンにさわる暇がないほどだった。長身の男は、これほど質問好きな見習いに会ったことがなかった。技術者の血がながれているからだと、彼は考えた。少年の母親が技術者の妻であると彼が推測したのは、ジョニーがはじめて自分のベンチにきたときだった。上着の袖口には、予備のボタンが注意深く縫いつけられていたからだ。袖口を締めつけるときに使うボタンで、旋盤のドライバーにひっかけないようにするためのものだった。

きてまもなくの頃、ジョニーはある出来事に遭遇した。エンジンの作業場にきてから、二週間もたっていなかった。昼食前に、外仕事から戻ってきた男が、監督のコッタムに知らせたのだが、なんでも旧友が門のところで待っていて、仕事を探しているということであった。

「その旧友とやらは誰なんだ?」コッタムは厳しい口調で、信用できないというように訊ねた。

「ヘンリー・バトスン様です」その男はにやりとしながら答えた。

「なんだと? バトスンだと?」親方は絶叫しながら、目を見開いた。「バトスンが? また? いまいましいやつだ。ぞっとする」それからコッタムさんは怒りながら、作業場を重い足どりで歩いた。

「たまにあるんだ」そう説明した労働者は、ジョニーのベンチの近くで、小さなヨットのエンジンのやぐら建てる手伝いをしていた。「よくあることなんだ。バトスンが仕事を探しに来ると、ラムリーのところで親方がこう言っているのが聞えるんだ。『なんだと』親方は言いはじめる。『その男の名前をいってみろ。バトスンだと。じいさんの暖炉の前にいるような、当てにならない犬を飼うようなものじゃないか』親方はこんなことまで言うんだ。『鋳造を台なしにしてしまうだろうよ』」

これを聞いていた男たちはにやりとした。バトスンさんを知らない者はないように思えた。だが昼食のときに、ジョニーが母親にこの話をすると、母親は男たちが粗野で、何も知らないのだといった。そして何よりも、コッタムさんに驚いていた。

しばらくの間、ジョニーが思いにふけっていたのは、月曜の朝、まだ暗いなか、通りで病の女主人を探していた少女のことだった。彼は仕事にいくときも、仕事から帰るときも、彼女のことを探しては、もし会うことができたなら、無事に探せたのかと、女主人の具合はどうか尋ねようと心に決めていた。だが彼女の姿はなかった。やがて、その出来事も、彼の心から消えはじめた。だが、それも土曜日の午後、新しい水撃機の進水式を見に出かけたときにかわった。造船所に行く途中で、彼は可愛い少女を見かけたからだ。たしかに、あの時と同じ少女だった。今は涙も浮かべていなければ、困惑もしていなかった。だが、まごついてしまうくらいに落ち着きはらって、取り澄ましていた。それでも、たしかに同じ少女だった。ジョニーはためらうと立ちどまった。それから慌てて、ふたたび歩きはじめた。たしかにこの若いひとは、よそよそしい上に、彼には気がついていなかった。彼女の無関心な視線が彼の方にむかったが、そのまま視線は彼の頭上を通りすぎていった。たぶん、同じ少女ではないのだ。同じ少女でないとしたら、何も言わなくてよかった。そう思いながらも、彼は心のうちで、たしかにあの少女だと、さらには彼女が自分を覚えていると感じていた。だが彼女は誇り高いので、その事実を認めようとしないのだ。たいしたことではないと、彼は自分に言い聞かせた。だが、午後は少し拍子抜けした。進水式が期待していたほど、面白いものではなかったからだ。巨大な鉄の船体があって、旗で飾られていた。男たちが大きなハンマーでドッグショアを叩くと、船は架台を滑って、水へと進んでいった。あまり驚きはなかった。もちろんドッグショアをたたけば、船は滑りだしていく筈だ。あたりまえのことである。たいして面白くなかった。ジョニーは、この進め方に漠とした怒りを感じていた。だが、それでも、彼の心にふたたび浮かんできたのは、あの朝はやく、家の外に出たまま、どこかで具合が悪くなってしまっている行方不明の女主人のことだった。

 

14章

 

だがこの進水式で、ジョニーの見習い生活も幕を切ることになった。ボルトやピンの故障は、彼にすれば取るに足らないことだった。それに小さな研削機械での仕事を安心して、彼に任すことができた。彼も内心ひそかに自分の能力に満足を感じながら、止め弁の軸を一回以上回した。

 

そうしているあいだに、店では、時がすぎていった。最初はとてもゆるやかに、だが、たしかに時は経過した。セイヨウヒイラギをふんだんに飾りつけていたのだが、人々をひきつける効果はまったくないようだった。一ペニーか半ペニーの値引きが、安売りの大半であったが、それも滅多にしなかった。ナン・メイは憔悴し、絶望に打ちひしがれるようになっていった。アイザックおじさんは、土曜の開店から、すぐに一度訪ねてきた。だが、それから、彼の姿を見かけなくなった。彼は下宿を変えるつもりだと言っていた(彼は男やもめだった)。だがナンは新しい住所を知らなかった。たしかに、アイザックおじさんの優しさとはそういう類のもので、絶望的な状況を見たり、そこから生じる嘆きを聞いたりすることを嫌っていた。同じような優しさをもつ多くの人々がするように、彼も絶望的な場からできるだけ自分を遠ざけると、その場にとどまった。

あと二、三日でクリスマスをむかえるのだが、状況は絶望的に思えた。ジョニーは、今でも、希望をいだくことをやめなかった。彼は、自分の賃金ですべて賄えるようになるまで戦う必要性があると語ってきていた。たしかに一週間あたり六シリング程度の稼ぎでも、今は、相当なものに思えた。だが彼にもわかっていたが、家賃だけでも十シリングした。だがジョニーの陽気さも、激しい感情にゆれている顔に隠され、元気のないものとなり、母や妹は、時がたつにつれて、涙を隠さないで見せるようになっていった。ロング・ヒックスも気がついたが、彼は口数が少なくなってしまい、あまり質問もしなくなり、最初の頃ほど、手伝いの呑み込みが早くなくなってきていた。家で昼食をとるというのも、悲しい偽りであった。それぞれが気づいていることだったが、他のふたりは、これからむかえるクリスマスと、昨年のクリスマスを比較していた。あの頃は、おじいちゃんがいっしょにいてくれた。しかも元気で、朗らかだった。窓の外を見れば、霜のおりた小枝の世界から、森の広がりが見えて、そこでは鹿が待っていて、内気で、影のような姿を見せていた。離れたところにある畑から、鹿にむかって、パンの皮を放ってやるからだ。だが今では…その景色はなかった。

 

こうして破れかぶれになったときに、魔法のように、転機はおとずれた。男達は通りの向こう側にある壁をひきたおして空き地をつくり、それから別の男達がその空き地の両側に、煉瓦でできた素晴らしい埠頭を建設した。その埠頭の片方は、新しい門に通じるように設計されていた。だが、その仕事が完成するよりも前に、仕事場から戻ってくる男たちも、少年たちも、朝食にしても、昼食にしても、そこが少し外出するのに都合がいい場所であることに気がついた。

 

そのとき偶然ではあるが、こうした男達のひとりが、家庭内で困難な状況に遭遇していた。造船所で働く八百人から九百人の男達の大半が、同じように定期的な間隔で、入れかわり立ちかわり遭遇している類の困難であった。彼の妻は寝室に横たわり、赤ん坊の面倒をみる乳母につきそわれていた。男は、客間の、つるつるした馬の毛のソファに座って、眠れないまま夜を過ごした挙げ句、予備の毛布を寄せ集め、古い外套にくるまって床の上で寝た。日曜日の日中、荒れ果てた台所で家庭でのときを過ごしたのだが、困惑したまま、何もすることができず、乳母の専制君主ぶりにさらされるのだった。暗い朝のうちから、彼はすばやく朝食をつくって持っていこうとするのだが、夜のうちから食器棚に何かしまっておくという考えがないものだから、食器棚から朝食をかき集めるのが容易ではないことに気がつくことになった。そういうわけで、苦痛にさらされながら2日目になると、彼の飢えた状態は、食べても大丈夫だろうと判断した黴臭いパンの塊のせいで、さらに悪化してしまい、新しい門をでて、朝食を求めることになった。時間はあまりなく、ほとんどの店は離れたところにあった。だが丁度むかいに、燃えるような赤色の、小さな雑貨店があった。開店したばかりの店だ。品物は貧弱だったが、もし何も食べるものがなければ、相当運がないというものだろう。こうして、その日、ナン・メイのところに、最初の客として、餓えた夫がきた。

「なにか食べるものがあるかい?」彼は訊ね、ひもじそうな視線を、店のがらんとした棚にむけた。

「はい、ありますよ」ナン・メイはこたえ、店にあるすべてである、わずかばかりの肉の塊に手をのばした。

「いや、調理したものなんだ、ほしいのは。コールド・ボイルド・ポークはないのかい?」

「すみませんが、こちらにはないんです」

ナン・メイは状況をのみこみ、即座に思いついた。たしかに彼女には生まれながらの商才がそなわっていたが、今まで、それを発揮する機会がなかっただけなのだ。「五分だけ待ってくれませんか」彼女は訊ねた。

わかった、五分だけ待つことにしよう。でも、それ以上はだめだと言って、彼は空き箱に腰をおろした。アイザックおじさんも腰をおろして、企業の宣伝をした箱だ。ナン・メイはベーコンを二切れきると、店の奥へとひっこんだ。三分たつと、腹をすかせた客はカウンターをこつこつ叩きはじめ、もうこれ以上は待てないという意志をあらわした。ちょうどそのとき、メイ夫人が大きなサンドイッチをもって戻ってきた。サンドイッチのなかには、かりかりに焼いたばかりのベーコンが二切れ、パンとパンのあいだにはさみこまれていた。そのまま味を保障するかのように上のパンをもちあげてから、ナン・メイはサインドイッチと三ペンスを交換した。

「もしベーコンが食べたいなら」彼女はいった。「一時に用意しておきますよ」

彼は聞くと同時に、サンドイッチをもって走り去った。五分後、ナン・メイはボンネットをかぶって外出していた。それから五分間、ベッシーはひとりで心配しながら店番をしていた。そのあいだ、彼女の母親はダンキンさんのところに急いで出かけ、腿ハムを買い求めた。商売が繁盛しそうな兆しがみえているのに、ナン・メイは機会を見逃すような女ではなかった。

茹でてから冷まして、しかも十分に覚まして腹をすかせたリベット工の好みにあうようにした腿肉が、一時には、カウンターの皿にならんでいた。カードは、ベッシーが描いたのだが、出来としては最上の10枚にはいるもので、そこには価格が記された。腿肉が四分の一ポンドほどたっぷり切り分けられ、見捨てられた夫に提供された。しばらくしてから、彼は戻ってくると、もう二オンス買い求めた。二、三日、ひどい食事をしてきたからでもあるし、赤ん坊の誕生を祝う行事のせいで、余計な出費が生じるのが目にみえていたからだ。少年たちがやってきて、四分の一ポンドの肉を二切れ買い求めた。きっと、最初の客が他の者たちに話したのだ。そこで肉が切り落とされると、ベーコンらしくなった。

メイ未亡人は、ジョニーが昼をとりに帰ってきたとき、新しい商売について仔細に語ってみせた。儲けはまだわずかではあるが、新しい商売の機会となりそうであった。母親の期待にあふれた様子に、彼は心が軽くなって旋盤へと戻っていった。

その夜、リベット工は遅くまで仕事をしていたので、ベーコンはもっと売れた。さらに夜になれば、二、三人の男達が少し紙にいれ、夕食として家に持ち帰った。その日から少しずつ、事態は好転しはじめた。明くる日の昼には、塊はなくなっていた。特筆すべきは、ピクルスがなくなったということだった。冷製肉を買い求めた男も、少年も、次にピクルスを求めにきたからだ。日がたつにつれて、商売はうまくいくようになり、クリスマスの頃、彼らはあいかわらず貧乏ではあったが、それほど悲しい行事ではなくなっていた。一ヶ月もすると、水門がついに完成した。男達が数百人、そこに流れ込んできた。三つあった大きな塊も、二日もたなかった。一つの塊につき、平均で三シリングの儲けがあった。パンは毎日仕入れたが、それも業者間価格で仕入れることができた。チーズも、ピクルスも、飛ぶように売れた。なかでも一番売れ、売り上げを伸ばしているのはベーコンだった。客のなかには、そのベーコンのことをハムと呼ぶ者もいて、それがナン・メイを喜ばせた。彼女の料理は評判をよび、そのことに彼女は誇りを感じはじめていた。夕食となり家に帰る男たちは、ベーコンを買い、紅茶といっしょに家で食べた。ハーバー・レーンやその界隈に住んでいる者のように、男たちは妻から頼まれて、石鹸や蝋燭、糖蜜、ストーヴに塗る黒い塗料を、じきに注文するようになった。彼女は、自分の目指す味と客の好みに最もあう、特別なベーコンを見つけた。そして週をとおして、いつも煮ていた。買ってきたものが何であれ、その品質を見極める技をすばやく身につけた。こうして自分の金を最大限に利用した。

だが、ここでひとつ言い添えておきたいのは、ナン・メイが繁盛する一方で、ほぼ恩知らずとも言えるほど、恩人のことを忘れてしまい、義務をはたさなかったことである。ダンキンさんのところから、彼女はほとんど何も買わなかった。彼は、当然のことながら、深く悲しんだ。たしかに最初、彼のところで品物を購入して、彼女は店を始めた。だが、そのときでさえも、自分が支払った品物について、彼女は批判の目で見たり、検討してみたりで、いわれのない猜疑心を心に秘めていた。ときに彼女は多くの品物を返品しては、もっと良い品を送るように要求することもあった。そしてダンキンさんが一週間前の通告で、自分を店から追い出せるという事実には、わざと気がつかないふりをした。ダンキンさんも、そう意地の悪いひとではなかったせいでもあり、また新しい借り手を見つけることが難しいせいでもあった。彼は実際に損をしてしまい、屈辱をうけるという扱いに憤りながらも、それに甘んじて耐えるのだった。メイ未亡人が最初に仕入れたのはマスタードの大きな缶だった。それは小売店用に保管されていたもので、ダンキンさんの店のカウンターで売られているものではなかった。だが、このマスタードの味と食感にはどこか、ナン・メイの好みにあわないものがあった(だが、味見をするように言われたわけではなかった)ので、その缶は戻されることになった。そしてその週、ダンキンさんはたまたま新しい店員を雇うことになって、この不器用な、でくの坊の店員は、返品された缶から、マスタードを売り始めた。三人の客に売ってから、彼はこの失敗に気がついた。やがてこのことが知れわたったのは、三人目の客が食料品や薬品の検査者だったからだった。この職員は、缶の山をつかんでから、おごそかに自分の名前をつげた。それから、まだ開封していない状態の、マスタードの缶を、気前よく三分の一ほど戻してきた。その結果、分析家のはっきりとした証明にもとづいて、五ポンドの罰金が科せられ、ダンキンさんは支払う羽目になったが、その証明によれば、誰もが知っているような、素晴らしい材料の、澱粉やウコン、ショウガが含まれていた。たしかにダンキンさんにすれば、苛立たしい災難であり、不公平なことに思われた。しかも彼には、非難されるべきところはまったくなかった。そうした商品を、小売りで売ることは、彼の方針に反することだった。だが彼は愚痴をこぼすことなく、黙々と耐えた。実際に自分の災難を誰にも話すことはなかったが、新しい店員を雇い入れたときは別だった。彼は記者に金をわたし、新聞沙汰にならないようにしたとも言われた。だが結局は新聞にでてしまったけれど(しかも、かなりのあいだにわたって)、それは心地よい結果をもたらした。メイ未亡人も、自分がダンキンさんの不運の原因だと知ったなら、苦痛を感じることになるからだ。ただし、彼女が多少なりとも感情のある女としたらの話だが。

時がたつにつれ、はたして彼女に情というものがあるのだろうかと彼は疑いはじめた。彼女が品物を購入してくれる回数は少なくなっていき、ついにはまったく買わない状態になってしまったからだ。ベーコンは、ボーローストリートにある店から運ばれてきたが、そこで取り引きされている値段は見るも嘆かわしいものだった。彼が家賃をとりにきたときでも、目の前で取り引きしていた。彼は集金の男をやとっていた。だが、じきに彼が自分で家賃をとりにくるようになった。自分がそこにいて、その様子をみたならば、この恩知らずの入居者も恥ずかしくなって、礼儀正しさを取り戻し、ベーコンやマスタードを注文するかもしれないからだ。彼はそっと咳をして、入ってくる品々に鋭い目をむけた。だがナン・メイは動じることなく、恥知らずなまでの落ち着きをみせながら、御者に指示をだした。同情するような声音をだしながら、ダンキンさんは、商売の調子について訊ねた。彼女は店主らしい調子で、「不平はこぼせないかもねえ」と答えた。彼は、最初に卸した品物について、何気ない会話をかわしながら、彼女がその品々をどのように処理して、売れ具合はどうだったかと訊ねた。だが彼女の答えは無邪気なくらいに正直で、真実を語る様子はあまりに思いやりに欠けているものだったので、善良なるダンキンさんはすっかり当惑してしまった。挙句の果てに、何か欲しいものがあれば、注文してくださいということを向こう見ずにもほのめかされて、すっかり小さくなってしまった。だが彼は何も注文しないで、ぶつぶつ言いながらハーバーレーンへの方へとふみだし、そのまま行ってしまった。それからしばらくたつと、代わりに集金の男がきた。

ダンキンさんは、待つことにした。店のこの繁盛が、いつまで続くのだろうかという疑いを抱いていたのだ。この場所で生計をたてるようになった者は誰もいなかったので、安定した取引が続くまで、繁盛を信じるわけにはいかなかった。ナン・メイの店が繁盛していても、慎重に家賃をあげていけば、この旗がはためいているような風景は、いつでも消すことができるだろう。もし彼女の努力のおかげで、この繁盛がたしかなものとなり、商売が儲かるのが確実になれば、そのときは今あるダンキンさんの店の、新たな支店にすればいい。

 

そうするには一週間前に通告するだけでよく、しかも不意をついて通告すればいい。近隣に貸店舗がない、しかるべき時を選ぶのだ。そうすれば商売も、幸せな結末をむかえることになる。メイ未亡人は消え去り、男をひとり、一週間に一ポンドか二十五シリングで、彼の店舗に雇い入れることになるが、そのときには商売の妨げはなくなっているだろう(退去する店舗は、当然のことながら、最後まで働きつづけ、少しでも儲けようとすることだろうが)。こうしてダンキンさんは、新しい店舗を手に入れることになり、しかも、その店は素晴らしく儲かる店なのに、労することなく手にいれることができるのだ。ダンキンさんは同じようにして、他にも店舗を数軒増やしてきたが、このやり方が簡単で、金がかからないということに気がついていた。自分の元手を危険にさらすことも、商売にあくせくすることも、営業権に金をかける必要もなかった。だが家賃は定期的に入ってきて、その店舗をささえているのは、熱意あふれる男で、その男は自分の利益と子供たちのために働いているのだと考えていた。重要なことは、一週間単位での賃貸契約しか結ばないことだ。さもないと借り手に、近くで賃貸物件を見つけるだけの時間をあたえてしまうだろう。そうなれば、ダンキンさんが賢く、慎重に、忍耐強くふるまってきたのに、その代償が奪われることになる。だが、この件については、少々難しいところがあった。商売を始めたばかりの者たちは臆病で、週払いでの家賃のほうを歓迎し、責任が長くなることを怖れた。だが、しばらくして商売が軌道にのってくると、ダンキンさんは親切な、思いやりのあるひとなので、更新で煩わしい思いをさせることはなかった。こうしたやり方で、ダンキンさんは、自分の不動産物件の中から、店舗としてふさわしいものを慎重に選び、自分の六ケ所ほどの物件の中から、二、三か所を慎重に選んだので、とても繁盛した。この様子をみて、親切な人々はみな喜ぶのだった。

当初、彼はハーバー・レーンの店舗についてはこうした企てはなく、借家人をおくことを中心に考えていて、それはどのような商売の者でもかまわなかった。彼の目には、この場所は雑貨商を営むにも、他のいかなる商売を営むのにも向いていない場所に思えたからだ。今も、彼は様子をうかがっているにちがいない。新たな繁盛ぶりがいつまでも続く類のものか疑っているからだ。手元に借家人のいない店舗が残されるくらいなら、だんだん衰退しつつある商売を急いで奪うより、二、三年のあいだ辛抱をしたほうがましだと考えたからだった。もし商売が、メイ未亡人の人柄や人間関係のおかげで上手くいっているなら、男を雇うかわりに、彼女をそのまま置いておいた方がいいだけのことだ。そうすれば、この不遇な未亡人に慈悲をかける行いでもあるし、かかる費用も安くなる。だが、それはまだ先のことだ。

 そうしているあいだにナン・メイは活動的で、自信にあふれた様子で、どのような問屋からでも、最上の品を、もっとも安く仕入れ、そうした品々で店をいっぱいにした。注文取り達は、彼女からの注文を待っていた。あの腹をすかせた夫―最初にやってきて、ベーコンを調理してあげた男―に対しては、彼女はいつも特別な配慮をしながら接して、良い部分を見つけて切り分けてあげた。三週間ほどで、彼が毎日店にくることはなくなった。そこでナン・メイは、ロンドンでの昔の暮らしから、彼が来ていた理由を推測した。春になる頃には、三か月、あるいはもっと時がたっていたが、大勢の人々が造船所におしよせてきて、戦艦の進水式を見ようとした。その戦艦は、長いこと時間外労働をして完成したものだった。やがて進水式がおわると、その男と妻は連れだって、男は赤ん坊を腕にだいたまま、店を訪れると、お茶のときに使えそうなものを探しにきた。両親たちは双方とも、ナン・メイが赤ん坊に夢中になる理由がわからなかった。彼女は父親の腕から赤ん坊をとりあげると、客が何人も待っているのに、店のなかをあやしてまわった。そこで両親たちは、赤ん坊の美しさに夢中になっているのだろうと考えたが、よだれをたらした、ありきたりの赤ん坊にすぎなかった。だが通りのほうに姿が見えなくなったときには十分ご満悦の様子で、片方の手にキャンディーを握りしめ、意気揚々と自分の口もとに近づけたり、もう片方の手でキャンディーをふりまわしては、父親の髭のほうにむけたりした。

 

15章

 

同じ時期の或る土曜日、アイザックおじさんは、黒の一番いい揃いの上着とズボンを着て、山高帽をかぶり、手には輪飾りのついた杖をもって、監督に会いに出かけた。仕事は、今はあまり活気を呈していなかった(船大工の仕事は、どこも活気がなかった)。一週間に休みが三日あるということは、自由で、独立した船大工の証であり、誇りであったが、今では悲しいことに、強制的な休みとなりかけていた。アイザックおじさんは、(怠け者だったせいで)、最近ではますます貧乏になっていたが、好きこのんでそうしている状態をこえるものだった。こうした場合、勤務時間ではないところで、監督と話をする機会をさがすのが彼のやり方で、雄弁術を駆使しては巧みにご機嫌をとり、抜け目なく推察をめぐらした。そうして雄弁家にとって好ましい状況になるように、短い時間をどう配分していくのか決めるのだった。

彼にしても、ナン・メイとその子どもたちの運命を気にかけていたが、前にも述べたように、彼は優しい心の持ち主だったので、失敗や生活困難に直面するにちがいないと思われる場面からは、できるだけ自分を遠ざけようとしていた。もし店がうちすてられていなければの話だが。それに貧しい親戚を、自分の下宿にむかえようという気持ちは微塵もなかった。そういうわけで、今、彼は慎重に道をえらび、心の地図に通りを注意深く思い浮かべた。それにもかかわらず、あからさまに道を選んでいるうちに、ハーバ・レーンの近くまできていた。

彼は百五十ヤードの長さがある車道へとつづく旋開橋をわたったが、その車道の先には別の旋開橋があった。だが車道は弧をえがいていたので、そのカーブのところまできたときに、彼は次の旋開橋が開いていることに気がついた。ブラックウォールでは、橋が開いていると、通行人は橋をわたることができない。つまり「閉ざされた」橋となるのだ。旋開橋とは、船をとおすために橋桁がもちあがる橋のことで、それは荷物をとおすために片側がひらく水門のようなものである。そこでアイザックおじさんはあきらめて待つことに決め、だんだんそわそわしはじめてきた人々と一緒に過ごしながら、橋がおりて通行できるのを待つことにした。路上で橋をつるす鎖のうしろに立ち、船の行き来をみながら、杖の飾りで鼻をこすり瞑想にふけった。やがて彼は、自分の左側にいる、色あせた服をきた人影に気がついたが、少しずつ、おぼつかない足どりで近づいてきた。

「おや、マンディの旦那じゃないか?」しわがれた声が話しかけてきた。酔っぱらったマザー・ボーンはーいつもほど酔っぱらってはいなかったがーそれでも用心して柱につかまると、不快な流し目をしては、あいている手を彼の顔のまえでひらひらさせた。アイザックおじさんはむせかえった声をだすと-見ていた者にすれば、たまたま咳をしたようにしか思えない声だった-一、二歩かすかにあとずさった。彼もまた、エンマ・パーシィがもう少しきちんとしていた頃を知っていたし、その頃を知る他の知り合いと同様に、ときどき、彼女を避けようとするのだった。

酔っぱらったマザー・ボーンは柱から離れ、自分の犠牲者のあとを追いかけた。「逃げないでよ」彼女は不明瞭な口調でさけんだ。「マンディの旦那とは昔からの知り合いじゃないか」彼女は垢じみた片手をさしのべて、なだめるように声を低くした。「二ペンス、ちょうだい」アイザックおじさんは不安そうに違う方向をながめると、右のほうへとさらに踏み出した。橋を待っていた通行人は、ささやかな楽しみができたことを喜んで、互いの顔を見て、にんまりした。

 

「マンディの旦那、ちょっと聞いてくれ」大きな声をはりあげると、横柄な様子で声をかけてきた。「聞いてよ。レディが声をかけているのに、答えてくれないのかい?」

「侯爵夫人、続けろ」少年がひとり、激励の野次をとばすと、柱のうえに腰かけた。「礼儀を忘れたのか。このレディから目をそむけるつもりかい?」今度は、くすりと笑った。アイザックおじさんはさらに遠ざかり、迫害者とのあいだに男達の集団をいれようとした。だが、そう易々と彼女を追い払うわけにはいかなかった。彼女は背筋をぴんと伸ばし、軽蔑もあらわに威厳をみせようとしたが、その威厳も、時折しくじるせいで台無しになった。ボンネットをぐしゃぐしゃにして、片側の耳のうえで上下に揺らしながら、彼女はアイザックおじさんのあとを追いかけ、男たちのせいでできた人垣をかき分けた。

「ひどいねえ。あんまりじゃないか」彼女はまくしたてると、片方の腕を勢いよくふりまわした。「レディが頼み事をしたら、侮辱したりはしないくせに。この破廉恥な、やくざ野郎め」こうゆっくりと言うと、悲劇的な息づかいで深呼吸をしてから、しばらく息をとめた。それから、耳をつんざくような調子で訴えた。「マンディの旦那。答えてくれ。二ペンス貸してくれるのかい?」

人々は、この頃には小さな集団となっていたが、いらだたしい橋のことを忘れ、新たな展開に気をとられていた。「そのレディに二ペンスをあげろよ」柱に腰かけた少年が、太く、低い声で、うなり声をあげた。「半パイントのビールがあれば、その女は楽になるのに」

アイザックおじさんは必死になって、周囲をみわたした。だが、憐憫の情をかけてくれそうな者は見当らなかった。ドック工に職工、少年たち、すべての者が沸きたって、その光景を思いのままに眺めようとしていた。つきまとう阿婆擦れ女は一歩近づくと、ふたたび大声でわめいた。「二ペンスでいいんだ、貸しておくれ」

「だめだ」アイザックおじさんは大声をあげ、ついには怒鳴りはじめていた。「だめだ、やるものか。あっちへ行け。あっちへ行くんだ。なんてけがらわしい女だ」

「だめなのかい?」

「ああ、だめだ、ぜったいに。自分のことを恥じるがいい。おまえは、おまえは、懊悩のもとだ、あばずれ女め」

「自分のことは紳士だとでも言っておきながら」彼女は言うと、人々のほうに視線をむけた。「自分のことは紳士だと言っておきながら、レディにむかって、よく、そんな口がきけるわね」

「ひどい話だ」浮かれ騒ぐ人々のなかのひとりがいった。「なんて嫌な、老いぼれ野郎だ」

アイザックおじさんは、不安そうな目で周囲を見てから、もう一ヤード動いた。女はふたたび、視線を地面におとした。それでも「二ペンスちょうだい」と聞こえよがしにいった。「わたしは軍人の未亡人なんだからね。心配しなくても大丈夫。一ペニーでいいから頂戴。一ペニーだけでいいから頂戴。マンディの旦那。お願いだよ。昔の女の頼みをきいておくれ」酔っぱらったマザー・ボーンは、アイザックおじさんの方へ覚束ない足どりで歩いていき、情をこめて両腕をのばした。

人々は大喜びで嬌声をあげた。だがアイザックおじさんは背をそむけ、走り出した。手がのびてきて、彼の山高帽のてっぺんを叩いた。彼はもう、どの橋であろうと待つ気持ちは失せてしまい、できるだけ急いで逃げようとした。少年たちは野次をいれたり、口笛をふいたりしながらも、彼が大慌てで短い足を動かしていく先に、楽々と追いつくのだった。その後ろからやってくるのは酔っぱらったマザー・ボーンで、よろめき、のたうちまわりながらも、急いで跡を追いかけているうちに、敵である少年たちが、いつものように囃し立てる様子に激昂にかられてしまい、いつしかアイザックおじさんをつかまえることは忘れ、足をふみだしては、少年たちのひとりでもいいから、爪で引っかきたいという衝動にかられるのであった。

彼はどうしたかというと、一度帽子を落としてしまい、後ろをふりかえった拍子に、あやうく、その帽子を踏みつけてしまいそうになった。そこで帽子を片腕におしこむと、カーヴをえがいている道を一目散に走った。だが、そこで彼は絶望におそわれた。丁度、もう片方の橋も上がりかけていたからだ。最初に渡れそうなのは、どちらの橋だろうか。彼が背をむけて走り出した道のむこうには、大きな定期船が牽引されながら、遅々とした速度で進み、煙突にしても、マストにしても、なかなか通りを横切っていかないように見えた。だが進行方向の先に、小さな沿海航海船が活気をみなぎらせ、姿をあらわした。その帆は、もう半分以上があがっていた。女は二十ヤードも離れていないところにいて、よろめきながら近づいてきたのだが、追いかけている相手は少年達だった。アイザックおじさんは動揺をおさえ、威厳を取り戻した。彼は腕にかかえた帽子を手にとると、袖ではたきはじめた。

酔っぱらったマザー・ボーンは、敵の手中にあったが、それでも敵の数はふだんよりも少なかった。彼女は罵倒すると、殴りかかろうとしたが、少年たちはしがみついたり、わめいたり、小躍りしたりした。だが、アイザックおじさんの近くまで引き下がってきた。新たに思いついた楽しみで、日曜日の服装をした老旦那をまきこもうとしたのだ。そのとき、女は息をきらしながら叫んだ。「警察をよぶよ。警察を。マンディの旦那。わたしに嫌がらせをしたって言いつけるからね。ちょっとだけ聞いて」彼女はそばまで近寄るとつかみかかってきた。だが彼は威厳を台無しにしながらも、すばやく身をかわした。「マンディの旦那、一杯やろうよ。一杯だけでいいから、昔の話をしようよ。もし一杯つきあってくれなければ、言いつけてやるから」

沿岸航海船が通り過ぎ、じきに橋がおりてきた。アイザックおじさんが橋をおろす鎖のほうへ踏みだすと、叫び声やら帆をきりかえる喧噪につつまれた。「自分を恥じるがいい」女はほえた。「あんたみたいな老いぼれが、レディに恥をかかせるなんて」

だが男たちがウィンチのところにいた。そして橋がおりてきた。すると、せっかちな通行人たちが動きだした。アイザックおじさんも素早く、降下中の鋼板に足をふみだすと、まだ橋は完全に元どおりになっていないけれど、命を賭して進んでいった。背後から、笑い声やら叫び声やらが、ひときわ大きく聞こえてきた。ふりかえると、酔っぱらったマザーボーンが、鎖のことを忘れて進もうとしてしまい、道の真ん中で、低いところにさがっている鎖につまずいてしまっていた。

かたやジョニー・メイは、初めての屋外での仕事にその週から配置され、巨大な蒸気船上で、船のすばらしさに目をみはっていた。彼は船の管理番(職場では、シッピーと呼ばれていた)に頼んで、土曜日の午後、ベッシーを船に乗せた。船にのると二人とも心から喜び、甲板を歩いたり、甲板へとつづく階段を登ったり、油だらけの機関室の階段をのぼるという危険をベッシーがおかしても意に介さなかった。船の管理番は、機関室の階段の下の方までベッシーをおろしてくれた。ジョニーは、この桁外れのエンジンについて、新米らしく、すばらしい専門用語をならべたてて説明した。それから誇らしげに、自分が仕事をしてきた(三、四人の職人に手伝われながらの仕事ではあったが)場所をしめした。ベッシーは見つめると驚嘆した。兄を慕う気持ちに、尊敬の念も上乗せされた。彼は技術者であるだけではなく、この重量感のある、光をはなっている無数の機械の主でもあるのだ。自分が夢にみてきた如何なるエンジンよりも、すばらしく大きい。その機械は漠とした静けさにつつまれていた。ベッシーは、巨大なシャフトからなる船尾管のある場所にも入ってみた。そして一分後には、頭上に高くそびえる、複雑な機械のなかに入っていた。彼女は恐怖にちかい感情をあじわっていた。ここにひとりでいたなら、恐怖におちいっていただろう。

彼らは嬉しそうに、話をしながら帰宅した。ベッシーの顔は輝き、上気していたが、そうした表情は久しく見たことはなく、おじいちゃんと一緒に目にして以来だ。なんといっても迫力あるエンジンを見てきたせいでもあり、これまでに読んできた如何なる小説の宮殿よりも素晴らしい社交室を歩いてきたせいでもあった。ジョニーを驚かせたのは、生まれて初めて、ベッシーが少しきれいに見えたということだった。彼女は脚が不自由なので、そのことを欠点のように言う者もいたけれど(たしかに不運なことではあった)、足の運びはきちんとしたもので、彼女らしい歩き方だと彼は思った。

そういうふうにして彼らは歩いていき、やがて角のところにくると、大慌てで、小柄で、顔の丸い男がかけこんできた。まず目にとびこんだのは帽子だった。再度、彼は帽子をはたいていたからだ。

そのとき、ジョニーも、ベスも一番いい服を着て、ふたりとも幸せそうに、健康そうに見えたので、一瞥するなり、アイザックおじさんは、ハーバー・レーンでは、結局のところ、すべてがうまくいっているらしいと推察した。絶望という感情は、彼にすればうっとうしいものでしかありえないし、不快なものであるけれど、運が上昇してきたこの状況に、彼の愛すべき天分は、歓喜しながら、注目をむけるのであった。顔はまだ少し赤く、不安そうなところは残っていたけれど、彼はこの出会いを歓迎した。どうも気分がすぐれなかったし、それに急いでもいた。だが、店の商売はどうなっているのか気になった。

ジョニーとベッシーは、新しくできた造船所の門について教え、冷製ベーコンのことも、ピクルスのことも、最近の繁盛ぶりについても語って聞かせた。アイザックおじさんは、とても喜んだ。すまなかった、本当にすまなかったと、最近訪問できなかったことを詫びた。だが、もうこれからは待たしたりはしない、今夜はくるからといった。そして本当に、彼はやってくると、ベーコンの味をおおいにほめたたえた。さらに彼は再びやってくると、チーズやピクルス、ほかにも夕食にだされた料理について褒めちぎった。そのあとで、いつものように、朝になって落ち着いた気分のときに試しに食べてあげようと言って、いくばくかの品を持ち帰った。こうして家族の絆はひとつに結ばれ、おじらしい愛情が続いた。

「ちょっと考えてごらん」アイザックおじさんは、フォークをふりあげながらいった。「わたしの助言がどれほど役にたったのかということを考えてごらん、ナン。おまえが開店にあたって準備していたとき、私がいった助言を思い出してごらん。会社だと言ったじゃないか。会社こそが、おまえが必要としているものなんだ。会社には、いつだって金があると言ったじゃないか。結果はどうだい?会社にすれば、冷製豚のベーコンなんて、すばらしい魔法もつかうことができる。それにしても会社では、どうしてハムと言わないのかい?」

 

16章

春となり、ハーバー・レーンの住人たちは恒例の誘いあいをしては、ペンキを使わないかということをしきりに勧め、それは狂乱にちかい相を呈していた。家にしても、旗ざおにしても、フェンスにしても、多彩な色で、新しく塗装がほどこされ、季節の移り変わりを告げているのだが、行きかうペンキのせいで著しい混乱を生じていた。少年たちは独楽まわしに興じるなか、ペンキの匂いが日毎に漂ってきた。ビー玉遊びの季節になると、なにも匂わなくなってきた。七月になり、フェアロップ・フライデーの日がきた。ベッシーが目を見はって見つめる巨大な帆船は、車にのせられ、馬にひかれながら運ばれていき、船上に歓声をとどろかせる船大工たちがひしめきあいながら、毎年の習慣にしたがって、エッピングの森へとむかうのだった。彼女は成長するにつれて、森のことは遠く離れた場所だと考えるようになっていたので(距離にすれば、わずか数マイルしか離れていないことはわかっていたが)、のんびりと車に乗って数時間かけて森にむかい、その日の夜のうちに戻ってくる人々を見て、呆気にとられた。

ボブ・スモールピースは、一度か二度、便りを書いてきた(彼は空き家となった森の家を管理し、借り手を探してくれていた)だが、ナン・メイが招いても、彼は来ようとしなかった。最近の知らせでは、寝たきりになっている彼の老いた母の状態が悪化してしまい、もう長くはなさそうだということだった。

商売はうまくいき、最近では、さらに繁盛していた。一ヶ月もたたないうちに、ナン・メイはソブリン貨を一枚か二枚、郵便局の貯蓄口座にいれた。アイザックおじさんはひそかにハーバー・レーンの店のことを当てにするようになり、老いた自分が気ままに休める場所だと考えはじめていた。もうそこで、彼は幾度となく食事をとっていた。彼の説明によれば、新しい下宿では、ろくな食事がでてこないからということであった。昔からの友人であるバトスン氏とも、何ヶ月ものあいだ顔をあわせていなかった。バトスンさんは蒸気船での職を失った挙げ句、すっかり落ちぶれてしまったとおじさんは話した。だが、こう語るときも、おじさんは自分の悲しみを吐露するような真似はしなかった。

だが、その年の暮れもせまり、ジョニーの見習いの行事が近づく頃、ジョニーはぐんぐんと成長していき、頭一つ分だけ背ものびた。その頃、ドックを横切っているときに、アイザックおじさんは遠くから、バトスンさんを見かけた。一方、バトスンさんも気がついた。避けようがなかった。だがアイザックおじさんは、にやりと笑いをうかべ、手をふると、急いで通り過ぎようとしながら、緊急の用事にせまられて時間がないようなふりをした。だがバトスンさんは係船柱から立ち上がった。係船柱は、ここ数ヶ月のあいだ、彼にすれば一番馴染みのある家具となり、彼をつなぎとめてくれていた。

「一年中忙しいんだな」彼は、幾分あざけりをこめながら言った。「もしそうやって行ってしまうつもりなら、俺はついていく。タバコを持っているのか?」

アイザックおじさんが気前のよい素振りをみせながらも、でも渋々だという内心を隠しきれずに、ねじった紙の包みをとりだしたので、バトスンさんは自分のパイプにつめた。しばらく彼は無言でタバコをくゆらしていた。近頃の彼にすれば、タバコはめったにありつけない贅沢品だった。彼は途切れることなく、紫煙をくゆらしては楽しんでいた。それから彼はいった。「今、タートンのところで働いているのか?」

「いや」アイザックおじさんは答えると、軽く咳払いをした。「いや、私はそこで働いていない」

「そうだと思った。おまえのことをずっと探していたんだ。やっぱり、おまえも移ったんだな」バトスンさんは、しばらくのあいだ、ふたたびタバコをすってから、話しはじめた。「実にすごい年だったよ」彼はいった。「しょっちゅう素晴らしい場面に出くわしそうになるから不思議なもんだ」(彼は、実際には出くわした訳ではなかった。職工長が、いつも彼を陸に追いやったからだ)「素晴らしい場面だったなあ、あれは。俺のように育ってきた者にすれば」

彼らは歩き続けた。たしかに辛い日々が、バトスンさんに影をおとしていた。長靴の靴底は四分の三がすり減り、くるぶしから上にかけての部分には亀裂が走っていた。普段着と作業着を兼ねたような服を着ていたが、それは擦り切れ、油で汚れ、ぼろぼろになりかけていた。破れそうな、青デニムの労働服の下で体をふるわせながら、首もとまでボタンをかけている様子は、その下にシャツを着ていないことを仄めかしていた。彼の山高帽は風雨にさらされ、裂け目が入り、後ろのひさしは、カビのせいで王冠のようになり始めていた。

やがてアイザックおじさんは、何かを言わなくてはと思い、訊ねた。「ずっと外で暮らしていたのか?」

「つい最近からだ。以前は、水圧応用機械の仕事についていた。だが、つまらないことで小言を言う男がいた。その小言に耐えられそうにもなかったから、仕事をやめただけだ」

「他に仕事はしなかったのか」

「あまりやらなかった。ひとつふたつはした。でも、どれも長続きはしなかった。カットのむこうにある洗濯屋を知っているかい?そこでエンジンを扱う仕事に雇われて、一週間のああいだ袋のあいだで働いた。でも連中に、居眠りしていると言われた。本当に胸くそ悪い連中だ。他の職場も同じ様なものだ。あの連中の態度ときたら、まるで俺様のことを、俺様のことを、ありふれた凡才のように扱おうとする。だから、そうじゃないというところを連中にみせたんだ」

「そうか」アイザックおじさんは、ぼんやりと相づちをうった。彼はどちらの道を行こうか、どう相手と別れたものか思案していた。だが、言い訳をしてもすぐにしどろもどろになり、そこで相手は話し続けた。

「さて」彼はいった。「昔のようには、たくさん話をしないんだな。俺にできる仕事を知らないか」

「いや、知らない」アイザックおじさんは、とたんにふさぎこんで答えた。「商売はさっぱりだ。まったく駄目だ。私自身も少ししか働いていないんだ。来る日も、来る日も、ずっと我慢しているんだ。今日も、ずっと我慢していたんだ」

「仕方ない、それなら一シリングかしてくれ」

アイザックおじさんは、ふたりのあいだの距離をとると、さらにその距離を広げようとした。「本当なんだ、バトスンさん、私は」

「わかった。それなら二シリングにしてくれないか。いつか私から、それ以上の金をとったじゃないか」

「だが、だが、今いったじゃないか。私も運がついてないんだ。来る日も、来る日も、我慢しているんだ」

「おまえも今では、我慢の日々らしいなあ。でも、こっちを見ろ」バトスンさんは立ち上がると、アイザックおじさんと対峙した。「おれは文無しの、すっからかんなんだ。おまけに、腹も減っているときている」

「そうだな、それはよくない」アイザックおじさんはいった。「だが、どうして金持ちの親戚連中を頼らないのかね?」

バトスンは顔をしかめた。「連中のことなんか考えたこともない」彼はいった。「ささやかな稼ぎでも、お前さんの肩をたたいた方がましだよ。おれはどうすればいい? もう限界にきているよ。やれるだけのことはすべてやってみた」

「そうだな、会社をやりたがっていたじゃないか」アイザックおじさんは答えたが、なにを相手にすすめたものか途方に暮れていた。「会社があるじゃないか。前にも会社をすすめたじゃないか、すばらしい結果をもたらすものだと。そう、実にすばらしい結果を。それから結婚はどうだ? マリナーズ・アームズの女主人がいるじゃないか。いつも親切にしてくれたし、それこそ君にふさわしい人生というものだ」

「うおぅ」バトスンさんはうなり声をあげ、のけぞってみせると、ふたたびアイザックおじさんの横を歩きはじめた。「あの女はおれを給仕にしようとするぞ。そもそもだ、あの女はたいした相手じゃない。もし一シリングをくれるつもりがないなら、何か食べ物をご馳走してくれ。お茶はこれからなのか?」

バトスンのために、なにかを犠牲にしなければならない状況は明らかだった。アイザックおじさんの頭にひらめいたのは、一番安上がりにすませるには、ナン・メイのベーコンを少しばかり食べさせればいいということだった。そこで彼はいった。「そうだな、姪のところでお茶をしようとむかっていたんだが。お前のことも歓迎してくれるはずだ」

「わかった。昔、森で紅茶をだしてくれた、あの姪か?」

「そうだ。今はハーバー・レーンにいる」

点灯夫が慌ただしく通り過ぎ、濃くなりゆく闇のほうへと消え、その灯した光の跡が、水門の壁にそって点々と連なった。二人の男達が歩いく通りには、暖炉の炎に照らされた小さな居間の窓が浮かび上がり、その通りを歩きながら、バトスンさんはこれからの食事を約束されたので、意気揚々としていた。そうこうしているうちにナン・メイの店のなかに立っていたのだが、もう、そこには空の箱はなく、所狭しと並べられているものはベーコン、チーズ、蝋燭、ソーセージ、調理した豚肉、スパイスのきいた牛肉、山盛りの卵で、そのあいだに様々な人々がひしめいていたが、そこに影をおとしているのは、老いぼれた気取り屋が歩く姿で、むっつりと威張っている、妙な影の主とは、最近、みすぼらしくなってしまったバトスンさんであった。

アイザックおじさんは、自信ありそうな態度でふるまっていた。それというのも、自信とは費用のかからない装飾だという考えに、彼の心は支配されていたからだ。「こんばんは、ナン。お前には断りもなくだが、(おまえなら嬉しいと言ってくれるから)紅茶に友達を呼んできた。この人に会えば、幸せだった頃のことを思い出すはずだ。バトスンさんが、会いにきてくれた」

観察眼がナン・メイほど鋭くない者でも、一目で、バトスンの凋落ぶりは見てとれた。彼女を苛めたのは、自分だけが特別に幸運に与っているということであり、また、それがひどく彼の心を傷つけているように思えるということであった。彼女はふたりを奥に招き入れ、バトスンに真心あふれる言葉をかけたが、幾分、その言葉は大げさなものながら、相手の貧しい服装に気がつかないふりをしようとする心遣いからきたもので、相手が運に見放されたことからくる悲惨に、微塵たりとも応対がゆらぐことのないようにした。一方でバトスンさんのほうは、炎と清潔な炉辺を目のあたりにしていたが、さらにその傍らには安楽椅子があり、彼が久しく見てきた部屋よりも、そこは上等な部屋であった。メイ老人の写真がマントルピースの上に飾られ、その下に置かれているのは、ただ一つ残されている蝶の戦利品で、老人がまだ若い頃、ガラスケースのなかにおさめたものだった。ベッシーの慰めとなっている擦り切れた本が、食器棚の上に並んでいた。ベッシーは、読書しているところを遮られたので、元の場所に注意深く本を置いた。薬缶が暖炉で音をたてていた。ジョニーは仕事から戻ると、お茶会が活況を呈していたので驚いた。

ジョニーは、大柄な少年となっていた(とはいえ、まだ十六歳にもなっていなかった)。バトスンさんがへりくだって握手をしてから、ジョニーに嘆いてみせたのは、自分すら養えない、惨めな職業を選んだということで、また、その週の機械仕事について一言、二言、意見をかわした。

だが主賓であるバトスンさんは、食事の席についた。これまでナン・メイが見たことがないくらい、二人の男はどちらも、自分の食事のように食べていた。あきらかに、彼はひもじい思いをしていた。人のいい彼女は、この不運な男に憐憫の情を覚え、育ちがよいのに、裕福な親戚から見捨てられるなんて残酷だと考えた。彼女がベーコンをたっぷりと切り分け、さらに追加してベーコンをよそい、パンも、バターもたっぷりと盛りつけて、彼の手の届くところに置いたので、ついに彼もみたされた。

バトスンさんは元気を取り戻すと、アイザックおじさんの紙包みの中味をわけてもらってパイプにつめ、会話にいくぶん注意をむけた。だが会話の流れは、バトスンさんにも、その困り事ともまったく関係のない財産のほうへと進んでいった。彼は、たしかに遠慮していた。おおかたの服を手放してしまったので、シャツを着ていないも同然だった。彼の道具は、質草となってしまっていた。道具が預かりになっているような状況では、仕事を探すのも躊躇せざるをえなかったが、買い戻そうにも金がなかった。だが、残酷な親戚に頼るくらいなら、飢えた方がまだましだし、見知らぬ人から助けてもらう方を選ぶだろう。

やがてバトスンさんが暇乞いを告げ、震えながら風の吹きすさぶ夜へと出ていったが、アイザックおじさんは用心深いことに相手をひとりで帰らせることにして、自分は店の奥の居間に残り、友人の姿が完全に見えなくなるのを待った。だがナン・メイは通りを駆けて、立ち去った客のあとを追った。女の声が懇願するように、あわただしく二語、三語呼びかけた。「うちにくるのよ、バトスンさん。ぜったいに。来ないとだめよ」そし彼女は急いで戻ってくると、息をきらせながらも、少し恥じ入るような風であった。彼女はカウンターのところにくると、現金箱のふたを閉めてから、店の奥の居間へはいった。

アイザックおじさんは、彼女が戻ってきたとき、するどく一瞥したが、そのままパイプをくゆらし続けた。

 

17章

 

この訪問を契機に、バトスンさんはそれから頻繁に訪問するようになった。やがて数ヶ月後には、アイザックおじさんと同様に、定期的に足をはこぶようになっていた。彼は昔の面影を少し取り戻し、衣服も次から次に新しくなっていった。だが彼の運もそこまでで、仕事を探すときには運に見放されたようであった。彼が見つけた些細な仕事も、監督者から無礼なまでのあら探しをされたり、わけもなく仕事のやり方で無理強いをされたりして、だめになってしまった。人のいいナン・メイには、彼はひどい虐待をうけている者の典型に思えた。

ジョニーとベッシーは愛想をつかしていた。ベッシーは無言で、できるだけバトスンさんを避け、彼が居間にいるときは店に座っていた。ジョニーは夜になれば散歩にでかけたが、不平をこぼし、母がなぜ他人を励ますのだろうかと訝り、「ただ飯食い」と礼儀知らずにも言った。ナン・メイは、その言葉に傷つき、作業場がジョニーの行儀を駄目にしたのかと案じた。

ボブ・スモールピースから便りが届き、ついに彼の哀れな老母が亡くなり、ジョニーの祖父が眠っている、聖なる教会の墓地に葬られたことを告げてきた。今度こそはロンドンを、初めて訪問するつもりだと書いてあった。本当のところは、ボブ・スモールピースは、この一、二年、結婚をしたがっていたのだ。メイ未亡人に会えなくなってから、それは考えられないことになってしまった。だが、彼は現実的に考える人であり、彼の常識をささえているのは、鋭敏さに欠けている心であった。たしかに障害があると、彼は考えた。それは取り払うか、あるいはまったく手をつけないままにしておくべき障害であった。まず、彼には老母がいた。寝たきりの老女の世話をさせるために、妻をめとるのは誠意ある態度には思えなかった。とにかく、魅力のある状態とはいえなかった。さらに老女のほうでも、世話をされるのを嫌がった。新参者から重荷扱いされる日々を怖れ、自分が逝くまで結婚しないでくれとボブに頼み込み、ときには自分はもう長くないのだからと請けあってみせた。その当時は、メイ老人はもちろん、子どもたちもいて、彼にはよくなついていたのだが、この事柄になると、妙によそよそしくなった。やがてメイ老人が亡くなると、メイ一家はロンドンに行き、ジョニーが職業につくことを求められた。いっぽう、ボブ・スモールピースは、森にとどまらなければならなかった。だが彼は我慢強く、内省的な人物であった。

困難がひとつ過ぎ去ったかと思えば、またもや新しい困難にぶつかった。ナン・メイは、彼の気長な計画には気がつかず、仕事のためのロンドンに転居したのだ。だが、おそらく商売は繁盛せずに重荷となり、寝ていた方がましなくらいだろう。それにジョニーにしたところで、今は幾分稼いでいるけれど、二十一歳になれば彼の年季奉公も終わるのだ。

ボブ・スモールピースは、自分で伝えようと、ある知らせをもってきていた。その知らせとは、ようやく森の家の借り手が見つかり、一週間に3.6ペンスほどで、信頼できそうな木こりとその妻に貸すことになったというものであった。そういうわけで、首のまわりに飾り布をまきつけ、ポケットに三週間分の賃貸料をいれたボブ・スモールピースが、ハーバー・レーンに姿をあらわしたのは、春の或る朝のことであったが、皮と別珍の、呆気にとられそうなその出で立ちを見ても、ブラックウォールの主婦は埃をはらったり、床を掃いたりするのに忙しく、注意をむけることはなかった。店の上には名前がペンキで書かれているわけではなかったが、通り過ぎていく者たちは皆、立ち止まらなくても、赤、青、緑に塗られた店が目に飛びこんでくるのだった。それにもかかわらずビルは、店を探していた。ナン・メイが彼に気がつき、ドアのほうへと駆けてきた。ベッシーも、松葉杖と本を手にしたまま、奥の居間から出てきると、嬉しそうに笑い声をあげた。

ボブは、商品がどっさり並べられながらも、整理が行き届いた店内を見つめたが、その胸中にはいろいろな感情がいりまじっていた。繁盛していること自体は素晴らしいのだが、それは新たな障害となり、さらに状況を難しいものにしていた。さらに、メイ未亡人は森の家に借り手がついたと聞いて喜び、貸すにあたっての彼の骨折りに感謝はしたけれど、苦しい時代なら週3.6ペンスが手にはいるなら喜んだであろうが、今はさほど喜びはしなかった。さらに彼女がソブリン金貨を扱う様は、六ペンスを扱うときのように無造作であり、金をしまった財布のなかには、まだ金貨があった。哀れにもボブは、障害がさらに広がり、二倍になったことを悟った。ナン・メイがロンドンに縛られているのは商売のせいであり、ジョニーが見習い奉公をしているせいでもあったが、今や商いをして裕福な女となっていた。彼女と一緒にいても、哀れな森の番人は、尊敬すべき知り合いという存在でしかなかった。彼がなかば怖れたのは、森の家にまつわる労にたいして金が支払われるかもしれないといことで、その不安のせいで、彼の顔は紅潮し、体が熱くなった。だが苦痛を感じる間もなく、ナンが家の面倒をみるときに、彼が持ち出している分はないかと聞いいてきた。ボブは凄まじい勢いで、その申し出を退けた。

ベッシーにも、彼女の母にも、自分たちの訪問客が窮屈そうで、ぎこちなくしている理由も想像がつかず、彼が座ってから二十分もしないうちに「もう帰らないといけない」と言いだした理由も、見当がつかなかった。だが当然のことながら、彼はひきとめられた。ジョニーも、三十分もすれば家に戻り、食事をとるのだから。ボブはどこかに立ち去って、ひとりで思いをめぐらしたかったのだが、そこに残って、できるだけ会話にくわわることになった。

ジョニーは汚れ、腹をすかせて帰宅したが、そこで驚いたのは、旧友が昔と同じように大男で、しかも最後に見たのは十八カ月ほど前にすぎないのに、今ではそれほど大きく思えないということだった。ジョニーのほうは著しく成長していたからで、十七歳の誕生日を迎える頃には、ボブの肩のあたりまで背がのびていそうな勢いであった。ジョニーが帰ってきたので、ボブの会話もはずみ、ジョニーよりも彼の方が食べているくらいだった。何事も彼の食欲を損なうことはなかったのだ。いつになれば、一日、森に来ることができるのかい?ナン・メイはかぶりをふった。彼女の身があくのは日曜だけだった。いつか行くわ、たぶんね。はっきりしない先のことだけれど、いつか日曜日に。だがジョニーであれば、仕事が暇になれば、休みをとることができるかもしれない。そうすれば彼とベッシーは、森に遊びに行けるだろう。ベッシーは、この期待に胸をふくらませた。そこを離れてから、日々、森はさらに素晴らしく、はるかな幻のように思え、忘れられた場所のことも、喜びに満ちあふれた日々のことも、野花の枯れた花束のことも思いだされるのであった。平々凡々とした毎日が甦り、彼女の記憶がつくりだした妖精の絵に輝きをそえると、つつましやかな日々が過去に沈んでいった。ジョニーは、想像がつむぎだす絵画に心乱されることはなかった。(今や、彼は自分から想像力を遠ざけていたが、想像力とは技術者にふさわしくない子供じみたものだと考えていた)そうではあるが、メイドメント・エンド・ハーストでの大きな仕事が完成すれば、親方は一日くらい休みをくれるだろうと考えた。そこで、この問題は解決した。やがてジョニーが仕事へ急いで戻ると、ボブもその機会に立ち去った。これから、伯母に会いに行かなくてはいけないからと彼はいった。

彼は立ち去り、姉のところに行って、一緒にお茶の時間を過ごした。そのとき、姉が目にした彼の表情には元気がなく、ナン・メイの前にいたときよりも更に意気消沈していた。実際、ボブ・スモールピースは猜疑心のかたまりとなり、何をするのも躊躇してしまっていたからだ。その心中は、単純な日常にはなじみのない感情なので、ただ苛立つばかり、そこで彼は運に任せることにして、衝動的な行動に身をゆだねることにした。明白な意図もなく、彼はお茶をすませるとハーバー・レーンに戻り、そこで初めてアイザックおじさんとバトスンさんに会った。だが、この連中とは気が合わないことがわかった。高邁なる人物、バトスンさんとしては、別珍の制服を着たエセックスの田舎者と心温まる交流などしたくはなかった。そこで、ナン・メイは親切にしてくれたけれど、ボブ・スモールピースはそそくさと列車にむかった。だが、その車上では、彼の粗野で、不機嫌な表情は消えていた。今となっては、すべてが、過ぎ去った日々に抱いていた希望なのだ。そうではあるが難しいことに思えるのは、今日の昼からの出来事について正確に語ることであり、いくら思い出してみたところで、その出来事は、事態を悪化させたにすぎないのであった。

 

18章

少なくとも六週間は無理だ、とジョニーは判断し、ベッシーと一緒に森に戻るための休暇はもらえないだろうと考えた。もしかしたら、もっとかかるかもしれない。七月になるかもしれないし、あるいは八月になることもあるかもしれない。そうなれば、天気はもっと確かだろう。ベッシーはどうかといえば、彼女は暦で日をかぞえ、表面が黄色い、古びた、祖父の形見の品である晴雨計を、一日に幾度となく叩いた。ジョニーは、彼女が待ちこがれている様子をみて笑い、「アメリカからの」の天気予報をいくつも、いくつも考えては、七月の天候について、吹雪から洪水、雷雨まで、ありとあらゆる好ましくない事態を想定した。

日々は静かにすぎていき、単調なくらいであった。バトスンさんは、自分を好ましくみせるために手をつくした。数回、ジョニーがつくったノギスを誉めた。そのノギスについて、ジョニーは自分自身でもよくできたと考えていた。そうこうしているうちに、彼もそれほど、ひどい人物にはみえなくなってきた。居候であることにはかわりはなかったが。

格段の理由はないのに、ナン・メイは思いにふけるようになり、その心がここにないことはたしかであった。彼女は、針仕事の最中に手をとめ、まるで考えにふけるかのようであった。そうしたときに、度々、ベッシーが針仕事から顔をあげると、母の気遣わしげな視線が自分に注がれていることがあった。ナン・メイは、できるだけ心配そうな表情を消そうとして、ふたたび針仕事へと戻った。だがベッシーは合点がいかなかった。

ジョニーもまた、母親にいつもの陽気さがないことに気がついていたが、ベッシーほど気にとめなかった。だが日曜日の午後、寝室のドアのところで母親に出くわすと、両方の手のひらで彼女の両頬をつつみこんだ。「かあさん」彼はいった。「泣いていたようだけね。どうしたんだい?」

彼の手首に手をあて、彼女はなんとか笑みをうかべた。「そんなことないわよ」彼女はいいながら、相手の手をふりほどこうとした。「おまえも強くなったものね。もう老いぼれの母親には、おまえに礼儀を守らせることもできないくらいに」

だが、夕方になってバトスンさんがくると、彼女はいつも朗らかになった。バトスンさんの話ときたら、元気がでるような類のものではないので、彼女の変貌ぶりは説明がつかなかった。それでも、彼女はおもしろがった。話の内容はほとんど、この世の仕打ちについての、彼の不平不満であった。

森への遠足の日もようやく決まり、その前夜、ベッシーはマッチを擦る音で、目をさました。母親は蝋燭を灯し、寝台に背をむけていた。彼女は蝋燭を手にすると、隣りあわせたジョニーの部屋へむかった。ベッシーは聞き耳をたてたが、話声は聞こえず、何の物音もしなかった。ただジョニーの寝息が聞こえてくるだけであった。もう夜もおそかった。すぐに母親はもどると、蝋燭を手にしたまま、彼女を見おろした。母が自分の顔を凝視している気配が感じられたが、それは目をつむった状態でもひりひりと感じられるもので、まるで針仕事のあいまに手を休め、自分を見つめているときのようであったが、今、母の頬は涙でぬれていた。その様子にベッシーは眼をひらいて、「かあさん!」といった。「どうしたの? 具合でも悪いの?」

ナン・メイは背をむけると蝋燭を吹き消した。「大丈夫よ、ベス。どこも悪くないわ」彼女はいうと、寝台にもぐりこんできた。「たいしたことじゃないのよ、全然。目がさめただけ、悪い夢をみて」彼女は娘にキスをすると、片方の腕を娘の肩にまわした。「おまえはいつもいい子だったわね、ベッシー」彼女はつづけた。「わたしに反対したりしないわよね」

「どういうことなの、おかあさん。ねえ」

「なにが起きても大丈夫?」

「ええ、もちろんだけど」彼女は母親にもう一度、キスをした。「でも、どうして?」

「なんでもないわ。ただ夢をみただけなの、ベス。もう、おやすみ」

 

19章

 

待ち望んだ休みの日がおとずれ、よく晴れわたった月曜日の朝がきた。ベッシーの綿モスリンのドレスは、母の手を借りてこの日のためにつくったもので、そのドレスに身をつつんだベッシーがじりじりしているうちに、あっという間に一時間が過ぎた。それというのもジョニーが寝床でぐずぐずしているからなのだが、ジョニーにすれば、罰金を払うこともなく「十五分をむだにする」という贅沢を満喫していた。

だがジョニーも、八時前には朝食の支度をした。そのとき、店の扉があいているのに気がついたので、シャッターをおろすために駆け寄ったが、それはいつもなら、彼が仕事にでかけて留守にするときには、母親がしていることであった。「いつもぼくがシャッターをあげているけど、今日はおろすとしよう」彼はいうと、意気揚々と歩きはじめた。「気をつけて、かあさん。油断していると、母さんがはさまってしまうよ」

「ああ、いいから、ジョニー」彼女はいった。「そのままにしておいて。どうせあとで…」そこで彼女は口をつぐんだ。

「どうせあとで、なにをするんだい?」ジョニーは訊ねながら、シャッターの内側へと戻ってきた。「どうせ客に給仕をすることになるじゃないか。店があいていたら。もちろん、そうするのだろうけど。母さんは、休日じゃないから。ぼくたちが休日なだけだ。さあ、気をつけて。いいかい」

ベッシーが、ずっと古い晴雨計をゆすっているのは、それが三十分のあいだ、針が動くことなく、針の影も静止したままだったからだ。これで彼女がジョニーに訊ねるのは十五回になるが、予定の列車が早まることはないかと訊ねてきた。やがて、ついにジョニーがそろそろ出かけたほうがいいと言うと、ナン・メイはふたりにキスをして、いってらっしゃいと送りだしたが、その様子が、あまりにもの言いたげで、真剣だったものだから、ジョニーも心動かされるのだった。「だいじょうぶだよ、かあさん」彼はいった。「すぐに戻ってくるから」

駅にたどり着かないうちから、ベッシーはいった。「ジョニー、最近、かあさんの様子がおかしいわ。すぐに別の列車がくることだし。戻らない?かあさんが大丈夫かどうか見てきましょうよ」

ジョニーは笑い声をあげた。「心配のしすぎだよ」彼はいった。「そんなことをしても、また次の列車に乗れなくなるだけだよ。また戻って、かあさんの様子を確かめに行くのだから。そのあとも、同じことの繰り返しだ。かあさんは大丈夫だよ。ただ、少し、おじいちゃんのことやら、他にもいろいろ考えることがあったせいさ。それにぼく達が森に行くせいで、余計、思い出しているんだ。いいかい。せっかくの日だから、ふさぎ込んじゃ駄目だよ」

鉄道の旅には、ふたりとも興味がひきつけられるものがあった。ステップニーで列車を乗り換え、一駅か二駅ほどすぎたあたりから、遠くに見えてきたのは、彼らがロンドンに出てくるときに、バンクの馬車に乗って通ってきた道だが、あれから冬が二度めぐっていた。広々とした、低地がひらけ、そこは荒涼とした原野で、木々もなく、緑に欠いた地であったが、近いところで原野の中央をながめると、遠方からくねくねと道が続いていた。そこには化学肥料の工場がすぐ近くにあるせいで、近辺には異臭がただよい、人々は列車の窓をがたぴしと引き上げて閉めたが、長い三等車両の乗客は咳こんだり、しかめ面をしたり、唾をはいたり、毒づいたりと、男も、女も、それぞれが行動にでた。

やがてレイトン、レイトンストーンと過ぎ、ストラットフォードを過ぎたあたりで、町が二十カ月のあいだに広がり、今もまだ拡大している途中であることに気がついた。小さな家が規則正しく並んだ通りが密集していたが、その家屋はどれも同じようなつくりで、生煉瓦や薔薇色の煉瓦が目立ち、ぼろぼろに砕ける多孔性の煉瓦のせいで侘しさがただよう家のまわりを、足場材がところどころ囲んでいた。ベッシーは、蝶は森でどう暮らしているのかと案じ、自分が立ち去ってから、遠くに追いやられたのだろうかと考えた。やがて広々とした土地は過ぎ去り、心地よい家々があらわれ、森もところどころ見えてきた。チッグウェルの丘が、ロッジング・ヴァリィのむこうに明るく、緑色にそまってあらわれ、谷間には低地がひろがり、地平線のむこうには森林がひろがっていた。やがて、列車はラフトン駅に到着した。

村にさしかかると、ベッシーは頬を紅潮させて懸命に歩き、重い足どりで体をゆらしながら歩き、全力で歩いているジョニーに追いつこうとした。ステープ・ヒルズがそびえる森のはずれが一番近かったので、ステープ・ヒルズにむかうことにした。通りの端まで来ると、ふたりの前にステープ・ヒルズがあらわれ、明るく、晴れやかな丘が見えてきたが、そこは深い、緑の森でおおわれていた。その麓にある池では、少年たちが釣りをしていた。そして埃っぽい通りには、池から小川が陽気に流れていた。

「いきましょうよ、ジョニー」ベッシーが大声をだした。「丘をのぼりましょうよ」彼女が自分の歩みの速さに気がついたのは、大きな枝が陰をおとす場所にたどり着いてからのことだった。彼女の松葉杖は、木の葉が長い間つもって苔むした地面を、軽やかに動いていた。やがて彼女は立ちどまると声をあげて笑ったが、それは叫び声と言ってもよかった。「いい香りよ、ジョニー」彼女はさけんだ。「香りをかいでみて。天国のようじゃない?」

斜面をのぼり、小さな湿地を横切ると、こんもりとした草むらでは、ヨーロッパノイズラが華やかさをかもしだしていた。ベッシーはあらゆるものに視線をそそぎ、木々、鳥、花を見つめた。それから、ふたりの侵入を叱りつけるカケスの騒々しい声に気がつくと、立ちどまっては、今度は離れたところにいるキツツキのさえずりに耳をかたむけた。ジョニーも散策を楽しんでいたが、その喜びには冷めたところがあった。まるで技術者が、忘れかけていた子ども時代の遊び場にかえり、幼い頃に慰みにしていた事柄について話しているかのようだった。

ここは他のどこよりも、ベッシーが愛した場所だった。ぼろぼろになった城壁や堀を砕いてできた広場には、かつては風変りなシダがこんもりと茂っていたが、今ではすっかり刈り込まれていた。その内部は、背の高いワラビが密集する不思議な世界で、ヒースはほとんど見当たらなかった。広場の外の角にたてば、眼下に、沈黙の森がひらけ、かなたに連なる丘陵が見おろせた。この場所で、本棚から持ち出した、最上の、古い本をひらいて、晴れた日の午後は過ごしたものだった。キャンプそのものが、冒険物語であった。紙に印刷された物語よりも身近な存在であった。ここに、二千年もまえのことだが、長髪の野蛮人が立っていたのは現実の出来事であり、その野蛮人は槍と斧を手にして、丘をのぼってくる敵に抵抗したのだ。この地に野蛮人たちは逃れ、ローマの軍団から身を隠した。その頭は獰猛な王子カシウエラヌスだが、彼女にすれば古い歴史にでてくる名前以上の存在であった。その野蛮人の王子を見かけるのは白日夢のなかで、百回はその夢をみたが、夢の中で、王子は樫の木々の下をゆっくりと歩き、お供には経帷子をまとったドルイド僧をしたがえていた。森が幽霊たちでいっぱいになるまで、彼女は本に顔を隠したままだった。

そして今、彼女はふたたび此処に腰をおろし、緑の影のなかで、頂きが陽光に輝く無数の木々の頂きをながめていた。ここを立ち去ってから、どのくらいになるのだろうか。ロンドンへの馬車旅も、造船所も、食料雑貨店も、幻ではなかろうか。だが、そのときジョニーがコマドリにむかって口笛をふいたので、彼女はふりかえって彼をみたが、そこにいたのは技術者であり、食料雑貨店の画家である若者だった。それにしても、どちらが夢なのだろうか。この世界なのか、それともあの世界なのか?

たったひとり残されて、ベッシーはここで、一日中、腰をおろしていたものだった。だが他にも、忘れてはいけない場所があるということを、ジョニーのおかげで思いだした。ヒースをこえて二人はすすみ、モンク・ウッドへとむかったが、そこでは木々はさらに深く茂り、花は森のどこよりも咲き乱れていた。ふたりはしばらくそこにとどまり、ジョニーがもう食事の時間だと言うまで離れようとしなかった。そして、この食事は心躍るものであった。なぜなら食事をどうするか決める際、鞄のなかにサンドイッチがあるからと言っても、ジョニーは頑として退けたからだ。そして街道沿いのインに怯むことなく入ると、そこにある料理を適当にみつくろい、二杯のビールと一緒に注文したからだ。ベッシーは、この大胆なふるまいに驚きながらも、食欲を失うことなく、ビールを少しばかり飲んだ。この冒険のせいで、ジョニーは四シリングほど出費した。

「おかあさんが、ひとりで食事をしているのに」ベッシーの声には動揺がまざり、内気さや喜びが入りまじっていた。「わたしたちがレッド・ベアで食事をしているなんて、おかあさんは思ってもいないわ」

そこから遠くないところだが、街道沿いにいけば、教会の墓地があるので、モンク・ウッドの森であつめた花々を祖父の墓にささげた。墓石の状況について確認するのも、その日の務めのひとつであった。墓石には何の問題もなく、さらに二人が驚いたことに草は刈られ、盛り土のうえでは、パンジーの小さな草むらが育っていた。

こうして完璧な一日が過ぎていった。ふたりはお茶をボブ・スモールピースの家でのんだ。森の管理人も、老メイの墓に草刈りハサミを手にして出かけたことを認めたが、それでも一度か二度くらいだということではあった。ジョニーとベッシーが、またハーバー・レーンにくるように招いても、はっきりとした返答をすることは避けた。たぶん行くだろう、いつかそのうちに、と彼はいった。しばらくすると、もう森の家は見てきたのかと訊ねた。まだ見ていなかったので、三人そろって出かけ、森の家をみた。新しい借り手は、どこも変えていなかった。谷間をくだっていくと、木々のあいまに、白い壁がそっと姿をあらわした。木こりは、古い塀を修繕していた。いつも、何がしらどこかを修繕していた。荒れた、小さな庭はまだ塀が倒れかけたままで、その塀のほうへ草木がおしよせ、今にも塀は倒れてしまいそうであった。きわめて当然のことながら、木こりも、その妻も、ジョニーとベッシーがふたりに、また家にみせるような個人的な関心をしめすことはなかった。そこでじきに、古い塀に最後の視線をなげかけると、ボブ・スモールピースは別の方向にむかって見回りにいった。

影が長くのびてきて、あたり一面の漆黒の闇。思い出の地をすべて訪れることは叶わぬことであった。だが、昔、ベッシーがとりわけ歓喜にひたっていた地は、すべて散策した。ただ、ウォームリィトン・ピットは別だった。ジョニーは一度、思慮に欠けたことに、そちらへ行きかけたが、「行ってはだめよ」ベッシーは、ほとんど囁くような声で言うと、彼の腕に手をかけた。「そっちには行かないで、ジョニー」

やがて二人は、疾くように暗くなりゆく森に背をむけ、麓の村へと急な小道をもどった。甘い香りが、宵の一番星が瞬くとともに漂いはじめ、そよ風にのって、二人のところへ運ばれてきた。ふたりが森を最後に一瞥しようと振りかえると、丘のいただきの木々は、そのむこうの主につかえる長身の見張り人という様子で、西側を赤く染めながら、ふたりにうなずいた。それから太陽と別れた。

石だらけの小道をすぎると、ラフトンには灯りがともされていた。埃だらけの道端に、ささやかに点在しているのはガス灯と鉄道の信号だった。もう、あきらかに二人とも疲れていた。ベッシーの疲れ方は、いささかの、という程度ではなかった。だが列車には休息という饗応が待っていた。ベッシーが眠っても、じろじろ見るような乗客はいなかった。コンパートメントには、彼らしかいなかった。二駅を過ぎた頃、むかいの窓辺にたって外を眺めていたジョニーが視線をむけると、妹はまどろみ、うつむき加減で、松葉杖の持ち手に顔は隠れていた。その姿は、老人の葬儀のときに馬車に座っていたときのままであったので、ジョニーははっとして、立ち姿勢から、そこに座り直した。いかにも今まで、あの日からのことを、彼は一度も思い出したことがなかった。それから松葉杖を静かにどけると、彼女の顔をみた。だが、その顔は平穏で、安らかであった。彼女の顔の向こう側に手をのばして、自分の肩にひきよせた。見るからに彼女は疲れているのだが、車両にクッションはなかった。

まもなく十時になろうとする頃、ようやく二人はハーバー・レーンに戻ってきた。裏道のほうから、年老いた夜回り男が、「まもなく十のとき」という声をひびかせながら、早起きをしなければいけない者たちからの、起こしてくれという頼みを探してまわっていた。だが寝室の窓からもれる明かりは、もう早起きする者たちは眠りにつきかけているということを物語っていた。誰も店にはいないのに、二人が中に入ってくると、母親の顔がひっこみ、居間の扉の硝子を覆い隠しているモスリンのカーテンの脇に消えたように、ジョニーには思えた。

ふたりは店から、奥の居間へと入っていった。バトスンさんと母親が並んで座り、ふたりと対峙した。バトスンさんは、新調したばかりの揃いの服を着て、母親も一番上等な服を着ていたが、その顔には微笑みと涙がうかんでいた。何かが起きたのだ。どうしたのだろう? ベッシーとジョニーは、扉の入り口付近で立ち止まり、凝視した。

「ジョニー…ベッシー…」ナンはよろめきながら、ふたりをかわるがわる見つめた。「おまえたち、お休みを楽しんできたかい?…ただいまのキスがないじゃないか、ジョニー?」

彼女は立ち上がると、二人のほうに一歩踏み出した。だが二人には、どこか腑に落ちないところがあったので、いぶかしく思いながら、ナンからバトスンへと視線をむけ、ふたたび母親に視線をもどした…何があったのだろう? ジョニーが真っ先に動き、母親にキスをしてから、つい、バトスンさんをしばらく凝視した。バトスンさんはタバコをふかしていたが、何も言わないで、椅子にもどるとタバコの灰を見つめた。

ナンが心配している様子はあきらかだった。彼女はジョニーの肩に手をおくと、ベッシーの首に腕をまわした。「わたし、いえ、わたしたち、おまえたちも、気にしたりしないわよね。お前たちに話していなかったけれど」彼女は、顔から血の気がひいた様子で言いながも、微笑みをうかべようとしていた。「わたし、いえ、わたしたち、そうバトスンさんとだけど…ジョニーも、ベッシーも、そんなに見ないでおくれ」涙が彼女の両頬をつたい、彼女はジョニーの肩に顔をうずめた。「わたしたち、結婚をしたのよ、今日のことだけど」

 

20章

 

その動揺のせいで、ジョニーも、ベッシーも、心が麻痺してしまったままだった。ベッシーのほうが早く立ち直ったけれど、ジョニーは、その変化にむかいあうのにも二、三日かかる有様で、理解しようとするなら尚更、日数が必要であった。最初にありありと感じたのは侮辱されたということであり、恨めしさであった。彼は欺かれ、たぶらかされていたのだ。母親からも。母親にしたところで、彼とベッシーを裏切ったではないか。なぜ、そのようなことをしたのか? 自分たちには、最初に相談してくれてもよかったのに。

母さんは相談したかったはずだと、彼は確信した。母親は、あらゆることを相談してくれていたのだから。バトスンが母親を説き伏せ、事がうまく運ぶまで、自分たちに知らせないように仕向け、反対されないように目論んだのだ。それにおそらく、そういう方向へ母親の気持ちをかえたのだろう。たしかに、ジョニーの推測は正しいものだった…。すぐに彼の恨みは激しさをましていき、憎しみへと変化した。それは紛れもない憎しみで、自分と母親のあいだに出現した男にたいしてのものだった。夕食のときの居候男が、仲のよい一家に割り込んできたのだ。

さらに、これは失礼な相手や、嘘をつかれたことにたいする怒りでもあった。また、自分と同じくらいに、あかの他人が母親と親しくしていることへの嫉妬もあった。バトスンは、それほどの悪人ではないのかもしれない。たとえば、ノギスの腕はまあまあだ…。でもノギスなんて、どうでもいい。

ジョニーの怒りは、静まることはなかった。日曜日までは、母親は自分のものだった。それが今では、バトスンの妻となっていた。

さらに、その男は彼の父親でもあった。義理の父親になるわけだ。それでも、この家の最高権威者として、しかるべき敬意があたえられ、従順にしたがわなければいけない存在となった。これは耐えがたいことのように思えた。つかの間、ジョニーの頭をよぎったのは、この家を出て行き、自分でやりくりするという考えだった。船で外国に行けばいい。外国でも、どこでもいい。だが、そうすればベスをひとり残していくことになるだろう。それに母親のこともある。母親も、まだ彼を必要としていた。

彼がロング・ヒックスに打ち明けたのは、仕事にむかって歩いているときのことで、運河をこえ、橋をわたっていく途中、明るい朝のことであり、まだ早い時間で、周囲は静かであった。彼が驚いたことに、ヒックスは無言ながらも、その知らせに関心をみせた。長身の男は怒りのせいで顔を紅潮させ、どもりながら何か言いかけ、堰を切ったように言葉があふれるかとみえた。だが、そこまでであった。彼は何の意見も、感想ものべはしなかった。彼はまもなく怒りをしずめ、ジョニーもそのうち怒りを忘れ去った。

ベッシーのほうは、絶望の様子は静かではあったが、話すこともできないでいた。母親との関係はとても親しいものだったので、この変化はきわめて不幸なことであった。バトスンのことも、その品のない様子も、彼女は心から嫌悪していた。

少年にしても、少女にしても、猫をかぶるという習慣がなかったので、二人とも口にはださなかったものの、その心にある思いを推し量るのに、洞察力は少しも必要ではなかった。哀れなナンがうろたえたのは、あらたな親戚関係が生じたという知らせを聞いても、ふたりがバトスンさんをすぐには受け入れようとしない様子に気づいたせいであった。ほんとうに、ふたりの様子に彼女は困惑した。彼女の単純な心にうつる彼の姿は、素晴らしい人格の、華々しい人物なのだが、残酷な世間から、悲しいことに投打され、それは恭しく同情されるにふさわしい人物であって、心冷たい余所者であっても、同情しないではいられない人物だった。さらに、他の如何なる人物であろうとも、彼と比べれば、ジョニーやベッシーから関心をいだいてもらうことであろう。彼は憎悪にちかい感情をこめて、何度も、何度も、ナンにそう言ってみせた。だが結局のところ、事を急いて進めすぎたのだ。ふたりとも、彼の真価をやがて理解するにちがいない。だが、それまでのあいだ、彼女は激しい失意を味わなければならなかった。

バトスンは十分気がついていた。だが、さしあたり、まったく気にしなかった。彼は勝利したのだし、しばらくのあいだ、不慣れな豊かさと快適さのおかげで、彼は満たされていた。そうではあるが、ここで絶対的な支配者としてふるまうために、もっと強く出なければいけないという意識が、彼にはあった。

アイザックおじさんがこの知らせを聞いたのは、火曜日の夜のことで、夕食を食べにきたときのことだった。一週間から十日間ちかく、ハーバー・レーンに、彼は姿をみせなかった。残業もある急ぎの仕事がはいったせいで、それは食料不足時においても断るわけにはいかない仕事であった。彼は何も疑ったことはなかった。さらにバトスンがよく訪ねてくるのは、ただ食事にありつけるというせいで、ナンに引き寄せられているのだと考えていた。

そこで打ち明けられると、彼もジョニーたちと同じように腰をぬかしそうになった。彼はあたりかまわず腰をおろすと―幸いにも、そこは椅子の上だった―目をみひらき、口をぽかんとあけた。だが口をとじるよりも先に、彼は心をきめ、自分の道をすすむことにした。もう済んだことだし、知らないあいだに終わっていたのだから仕方ない。

彼は飛びあがるようにして立ち、バトスンの片手を、近いほうの手を、自分の両手でつかんだ。「バトスンさん!」彼はいった。「バトスン! 私の古くからの親友であるヘンリーよ。私の希望の星であり、憧れであるあなたが報われたのです。ナン、おまえは最大のなすべきことをしたのだと、私は確信している。なぜ私は確信するのか? これから、確信する理由を話そう。私の姪はご覧のように、若い女性で、あらゆる幸運を願ってもいい女性だ。さらに言うなら、財産も幾ばくかあり、子どもは二人、商売もしていて、願ったり叶ったりの女性だ。二人の子どもたちと商売には、私の考え方が反映されている。さらにつけ加えるなら、こちらにいらっしゃる尊敬すべき友であるバトスンは、生活においても、血縁においても、文句のない御仁で、子どももいなければ、仕事もない。ふたりは熟慮して、いかなる配偶者がふさわしいか考えたのではないだろうか? 聖なる結婚生活へ導き、その礎となったものは何であろうか? 私には、語り難いものである。何はともあれ、彼のためにお茶をのもう。そして必要なことなら、すべてやろう。ああ、義務のように私は行うつもりだ。それが運命だというなら、私はつくすつもりだ。素晴らしいことであろうとなかろうと、私はつくすつもりだ。今までもそうしてきたが」

アイザックおじさんは右のこぶしで左の掌をなぐりつけてから、夫から妻へと視線をむけたが、その目は無理のないことながら、平然と咎めだてをしていた。ナンは頬を赤らめると微笑んだ。実際、彼女は安堵していた。慣れないことに秘密をつくったせいで、アイザックおじさんの助言から遠ざかるとは思ってもいなかった。その状況は損失というしかなかったし、彼にすれば侮辱であった。

「これは」アイザックおじさんは言いながら、もう一度椅子をつかんで食卓の方へ引き寄せた。「これはおめでたい話だ。いつまでも、この幸せがつづくように。ナン、この家にはスピリッツのようなものが一滴くらいないのかい」

ウイスキーのはいった小さな壺があった。バトスンさんが、立場がかわったおかげで、最初に手に入れたものだ。大きなコップも、いっしょに運ばれてきた。アイザックおじさんは、敬意をこめて二人の門出を祝福したが、その熱弁も途切れがちであった。彼は新郎と新婦の健康に乾杯した。最初は一人ずつ乾杯し、次に二人一緒に乾杯した。彼は家族の健康に乾杯し、それが終わると、バトスンのことも言い添えて乾杯を飾った。店の繁栄に乾杯し、身内の長寿に、それぞれの幸せに乾杯した。そのあとに忘れっぽいところが現れてしまい、彼は乾杯をもう一度繰り返していったが、それは気真面目さからくるもので、何かを省いたりしないようにという心遣いであった。

「いいかい、ベス。よく聞くんだよ、いいかい」彼は、不明瞭な喋り方で話しかけると、ベッシーのほうをむいた。(彼女の望みはただ、気づかれないでいることだった)それから半円を描くようにして、バトスンの方を腕でしめした。「おまえのお父さんだ。新しい義理のお父さんだ。地域の王でいる方だ。おまえは足が不自由で重荷になるのだから、教会のこ、広義問答にしたがうように。長きにわたる男やもめの生活を、け、経験して、この特典のある状況には、わたしも感謝しているし、おまえも感謝する義務がある。わかるか。敬い、従うことが、おまえの義務だ。それから礼儀正しくするように。もし子供たちが敬いもしなければ、服従することもなければ、広義問答はどうなる? どうだ?」アイザックおじさんの声は大きく、猛々しいものになっていった。そこで一息ついて、バトスンさんとバトスンの奥さんをみたところで、彼は自分が話していたことを忘れてしまい、フクロウのように賢いのか愚かなのか判断しかねる表情で壁を見つめた。「本日は、神聖なる結婚生活の、なんというか、土台となる日である。その、心ひそかに、緊張にさらされていることだろうから、わたしと一緒になって飲もうじゃないか、の、飲もうじゃないか。もう、もう一杯を」

アイザックおじさんは食卓に突っ伏すと、目をとじた。そこでバトスンさんがゆさぶって、体を垂直におこしてやる必要があった。そこで彼は帽子を滞りなくかぶると、ハーバー・レーンの狭い舗道にむかって、なんとか歩きだした。

 

21章

 

二、三度、アイザックおじさんは夕食にやってきたが、おぼろげに悟ったのは、彼が訪問したところで、かつてのように、うまくはいかないということだった。朝食用に何も持ってくることもできなければ、バトスンのまえでは、自分の欲しいものをほのめかすことすらできなかった。バトスンはまったく歓迎してくれず、会うたびに態度が素っ気なくなっていったが、これには意図するところがあった。バトスンは、自分がこの家の主になる第一歩は、アイザックおじさんを追いはらうことからだと気がついていた。

そっけない態度をとっても、つっけんどんにしても、アイザックおじさんを餌から追いはらうことはできなかった。かえって彼は饒舌になり、苦労しながら耳あたりのよい言葉がでてくるのだった。ついに或る夜、夕食のあとで、彼は自分の椅子にかけ、音をたてて唇や歯を吸いながら、無効となってしまった朝食の認可の件について、思い切って切り出すことにした。ジョニーとベッシーは家の外にでていて(今では頻繁に家をあけるようになっていた)、ナンは店にたっていた。バトスンさんは背中をむけるようにして、不作法に黙りこんだまま煙草をふかしていた。

「さて」アイザックおじさんは言うと、横目で、不愉快な主をみた。「さっき切り分けてもらった香辛料のきいた牛肉は、めったに食べられない上物だった」

バトスンさんは、返答をしなかった。

 

「商売の信用があついのは、わたしがみたところ、あの香辛料のきいた牛肉のおかげだろう。もう一切れ、いただきたいところだ」実際には、アイザックおじさんに、おかわりの牛肉は供されなかった。彼がすでに三切れ平らげていたからだろう。「もう少し食べたいなあ。いや、気にしないでくれ。あとでいいから。いいですよ。ナンにいって、私の朝食に包ませようと思ってたところだから」

この仄めかしは、新たに思うところがあるせいだということが、ありありとしていた。だがバトスンさんには、心をうごかされた気配はなかった。彼は片足を軸にして椅子をゆっくりと回転させ、アイザックおじさんとむかいあった。それから葉巻きをマントルピースにおくと言った。「いいか」

突然ひびいてきた声の厳格さに、アイザックおじさんの目は天井に視線をそらし、それと同時に食卓の下で足をひっこめた。

「いいか、マンディさん! 御親切にも我が家にきては結婚の祝いをしてくれた。だから上等の、たっぷりした晩飯を四回、それから一パイントのウィスキーをご馳走した。あんたの好意に感謝しているが、もうこれ以上甘えるわけにはいかない。いいかい。もうお祝いは終わりだ。これから晩飯は女房とふたりで食べるつもりだ。あんたのお節介は要らない。朝飯も同じだ。わかったか?」

アイザックおじさんは足を食卓の下にひっこめた。突然の驚きに目をみひらいた。

その話は、アイザックおじさんを拒んでいた。彼は目をぱちくりさせ、喉をつまらせた。どうしたのだろうか。これは夢なのだろうか。自分ことアイザック叔父は敬われ、皆が服従してきた人物で、判断力と影響力の持ち主なのに、かくも侮辱的に、自分で夕食を買うように言われるのか?

「そのとおりだ」バトスンは、まるで彼の考えに答えるかのようにいった。「そういうことだ」

そこでアイザックおじさんは息をのみこみ、目を見開きながらも、喋れるようになった。「バトスンさん!」彼は呼びかけたが、威厳のある声ながら、悲嘆にくれた驚きがこめられていた。「バトスンさん! わたしが聞き間違えたにちがいない。さもなければ、あなたがそんなことを言うなんて残念としか言いようがない」

「そうかもしれない」バトスンは皮肉をこめ、簡潔にいった。

「どちらにしても」如才ないアイザックおじさんはいった。「あたえられたものを気持ちよくもらっていこう。われわれのような友達の間柄では、こうして心をこめて謝罪して、仲直りをしたなら、何も言う必要はないだろう」

バトスンは相手をねめつけた。「なんだと」彼はうなった。「謝罪だと。こういうつもりで言ったんだ。お前は安い食事でもやってきていたのに、ここでは何を食べていた? それも、今夜が最後だ。今では、この家の主は自分だ。とっと早く出ていくんだ」

「なんだと?」

「出て行け。恥をしれ」公平無私のバトスンは怒りにもえていった。「にぎやかなところに晩飯を食べにいくんだ」

「出ていけだと? 自分が? 晩飯を食べに行けだと。どうしてだ。ヘンリー・バトスン、溝からお前を連れてきて、食べさしたのは自分なのに」

「出ていけと。このおれに。夕食を食べにいけだと。どういうつもりだ、ヘンリー・バトスン。おまえをごみためから、ここに連れてきたのはおれなんだぞ。ごみためから連れてきて、飯を食わせてやったんだぞ!」

「ああ、いっぱい食わしてもらったとも。うんざりされながら。そうじゃないか。ここから出ていけ!」

「ああ、出ていくとも!でも寝床にはいる頃には、撤回の手紙を読んでいるだろうよ。それにささやかながら、私にも財産が…」

「おまえの、ささやかな財産だと」バトスンはわりこんで、長々とあざけった「これっぽっちでも、おまえに財産があるというのか。どこにあるというんだ? どんな財産なんだ? おれがお前のことをどう考えているか教えてやろうか? 老いぼれの乞食野郎だ。それがおまえの本当の姿だ。老いぼれの乞食野郎め」

アイザックおじさんは怒りにふるえ、顔が紫になった。「乞食野郎だと?」彼はいった。「乞食野郎? それが私にむかっていう言葉か? おまえを飢えから救ってやったのに。乞食野郎とは、お前のことだ。お前も、お前の親戚も、市長も、それがどうしたっていうんだ? 自分の仕事をやればいいじゃないか。お前にはコーヒーミルも研げないと思うが」

そのとき、店の扉があいて、ナン・メイがふたりのあいだに立っていた。彼女は甲高い声で喚いてゐるのをききつけ、いつもの最初の休息時に様子をみにきたのだ。「おじさん! ヘンリー! どうしたの?」彼女はたずねたが、その顔には警戒するような表情があった。

「ごらんのとおりのありさまだ」バトスンは言ったが、その顔はアイザックおじさんと同じくらい赤紫になっていた。「こちらにいるお前のおじさんのことで話がある、ミセス・バトスン。こいつが何者であろうとも、ここに物乞いに来ることはもうない。もうご馳走になりにくることはない。この俺がそう言ったのだから、もう来ることはない。わかったな? もし言いたいのなら、さようならを言っておいた方がいいぞ。すぐに彼は出ていくからな、さあ」

「ああ、わかった」アイザックおじさんはそう答えると、姪のほうに話しかけながら、目はバトスンをねめつけた。「出ていこう、ミセス・バトスン。そのほうがお前にはいいんだろう? おまえのために、すべてをやってきたのに。感謝されてもいいところなのに」

「なんてことを言うの、おじさん」気も狂わんばかりの様子で、ナンはいった。「なぜなの? 何があったというの? おじさんがいつもよくしてくれたことは分かっているわ。ヘンリー! これはいったいどういうことなの?」

「この吸血野郎にとどめをさしたまでだ。ただそれだけの話さ」

「吸血野郎だと!」アイザックおじさんがさけんだ。「たしかに、その方面をお前は得意としているからな。自分の仕事のこともろくに知らないなんて、哀れな野郎だ。知っていれば、自分で生活費を稼げるのに。ひとにたかって、馬鹿な女に養ってもらって、ぐうたらしているなんて」

「さあ、出て行け、出て行け」バトスンは怒りにもえながら、命令した。

「いけないわ、おじさん。ちょっと待って」哀れにもナンは懇願した。「ヘンリー、だめよ。喧嘩はしないで」

「出ていけ!」

「ああ、出ていくとも。どうやら警察によばれたいようだ」

バトスンはその言葉に息をのんだ。彼の顔をなにかが横切り、それはまるで白いスクリーンから偶然に反射する光のようだった。だが彼は繰り返した。「出ていけ!」ドアのほうを指し示した。

「ああ、出ていくとも!」アイザックおじさんは言うと、帽子を頭にかぶった。「出ていくとも。悲しくなんかないねえ。ふん。まさにお前さんは、うってつけの親代わりの、ほ、保証人だからな!」アイザックおじさんは苦労しながら、親代わりの保証人という言葉を言おうとした。「めったに見ないような善行の見本だよ!」それから彼は暗い通りへと消えていったが、むかっ腹をたてている威厳の見本のようであった。

「なんてことを、ヘンリー」ナンは涙にくれていった。「なんてことをしてくれたの」

「ああ、やったとも」バトスンは答えると、葉巻へと手をのばした。「やりたいことをやったまでだ。ただ、それだけだ。おれにはそうする権利があるからだ。いいか」

ナンは、彼のねめつけに、荒々しく、威圧してくるものを感じて、視線をそらした。この出来事のせいで、疑念が彼女の心に生じた。ひどい仕打ちは、彼女の前に影となってたちこめてきた。

22章

 

ヘンリー・バトスンさんは幸運をつかんだ。もう、冷淡な親方に仕事を乞う屈辱に耐える必要もない。この先、彼の人生は楽なものとなり、卑しい、骨の折れる仕事から解放され、青デニムの労働ズボンのせいで恥ずかしい思いをすることもないだろう。しばらくの間、妻は彼のことを甘やかしながらも、彼が何らかの仕事を探しはじめるだろうと愚かな期待をいだいていた。いちど、彼女は仄めかしたこともあった。だが、彼はすぐにその幻想を打ち砕いた。それは幻想をいだかせないような言葉であった。彼は、そうした愚かさにはまったく我慢ができなかった。それは単純なことであった。そもそもなぜ、働いてきたのか。ただ住まい、食べ物、服、慰み、ヘアーオイルを手に入れるためで、彼が好きなように酒を飲み、煙草をすっても、必要な小遣いに困らないようにするためだった。働かなくても、こうした物が手に入る男なら、わざわざ働くのは愚かというものだろう。さらに、彼は同業の仲間にたいして思いやりのない振る舞いではあるが、みずからを仕事から追い出してしまった。彼についていえば、必要とするものを易々と手にいれ、店のシャッターをおろす仕事すらしないくらいだった。下品さは、彼の本分にそぐわないのだ。

そういうわけで、彼は十時に起床したが、十一時、十二時になることもあった。それから衣服を身に着けた。それは流行の先端をいく服で、オールドゲートのなかでも一番流行っている店で手に入れることができるものだった。オールドゲートの店が起点だったが、やがてえり好みをするようになり、やがて通うようになったリーデンホールの仕立て屋は、日ごろ、セント・メリー・アクスの船舶仲買人のところで働く事務員たちの趣味を満足させる仕事をする店であった。服装を完璧にととのえ、カールした髪には整髪油をたっぷりつけて、バトスンさんは階下におりてくると、ひとりきりで朝食をとった。ナンは、数時間前に慌ただしく食事をすましていた。残りの時間は、心のおもむくままに行動するときとしてあたえられた。天気がよい日であれば、彼にとって何よりもうれしく、上流社会にいる自分の性分にふさわしく思えるものは、ウェストのそぞろ歩きであった。ハーバー・レーンが静かで、人気のないとき(彼はそうした時をねらって外出しているように思えた)、彼は駅のほうにそっと出かけては、列車や乗合自動車をつかって幸せな地域へと出かけた。彼は用心深いことに金を十分もっていき、それは二十五ペンスにふさわしい上品な満足感が保障されるものだったので、やがてストランドやピカデリーサーカス界隈のパブの習慣や作法に精通するようになった。はじめてアメリカの飲み物に十八ペンスを請求されたときには、少なからず驚いたけれど、彼は注意深く驚きを顔にださないようにした。そして後から心ひそかに祝福したものとは、言わば、あとさき考えずに飲み物とくれば気前よく注文する上品な本能であった。 彼はハイドパークの散策もしたが、仰々しく髭をととのえ、手すりにもたれるときの様子も、緑の椅子に座るときの様子もだいぶ改善されていた。夜になれば、ミュージックホールあたりにでかけては、いつも酒場をまわり、夜遅くなってから家に戻ってきた。ときには、やや足どりがおぼつかないこともあり、たいてい不機嫌であった。不機嫌なのは、家ではいつものことであった。華々しい場に何時間も耽溺したあとで、優雅を好む気質を損ねられ、不快になりながら、河岸の通りへと、粗野で、小さな雑貨店へと戻っていくのであった。そこでは更紗の胴着に身をつつみ、白いエプロンをつけた妻が、彼の帰りを待っていた。ときには理由もなく涙にくれていた。その環境に夫が幻滅していないというかのように。

こうした小遠足には、むろん金がかかった。だが金をひきださないとしたら、卑しい、小さな店をつづけることにどれほどの意味があるのだろうか。その店は実に繁盛していた。ミセス・バトスンとびっこの娘は、むかつくような臭気のなか、一日中ベーコンをゆでて、ベーコンが冷めるとすぐに売りにだした。他の品もよく売れた。朝、店をあけたときから、ジョニー少年がシャッターを閉めるときまで、ミセス・バトスンは絶え間なく給仕の仕事をつづけ、手を休めるのは煮ているときだけで、食事に五分も時間をかけなかった。娘がベーコンのそばから離れ、店の手伝いにたつこともしばしばであった。とても結構なことである。すべてが利益につながるのだ。ミセス・バトスンには、そう簡単にいくものではないということを彼に信じさせることができなかった。商売に関する惨めな話に、彼が関心を持とうとはしなかったせいであった。これが、こうした階級にいる連中の人生なのだ。そうした人々には、一抹の貧乏臭さがつきまとっていた。どれほど金が入ってきても、その金をつかうことに関して、人々は狭い見方から脱することはなかった。ジョニー少年は、見た目には成人であり、母親が結婚した頃には一週あたり八シリングもってきていて、やがて十シリングになり、それから十二シリングになった。さらに一年につき二シリングずつ増えていくことだろう。だが実際のところ、母親は彼に服を買い与えては金を浪費していた。それでも、いくらかは残った。それにミセス・バトスンが娘を外に働きにだしたら、金はもっと残ることだろう。読書なんかさせて時間を無駄にさせなければいいのだ。森の家からの賃貸料もあった。毎週、ボブ・スモールピースが郵便為替でおくってきたが、独身男性からの手紙は夫が開封することになっていたので都合がよかった。バトスンさんは、この件で彼女をわずらわせることなく、為替を現金にかえた。

浪費することのないように、彼は自分の収入と踏み入ろうとする社交界を天秤にかけていた。時間をかけることなく、感じがよく、上品な酒場の連中と知り合いになった。実際、スプリング・ハンディキャップの、伝染していく有害さにとりつかれなければ、彼はもっとお金をかけないで知り合いになっていたことだろう。最終的に勝ちそうな運命のもとにある馬を見つけ、半ソバリン貨をかけることは、彼にはとても不可能なことに思えた。酒場の社交界の連中が驚き、悩んだことに、彼は不運がつづいたが、今後のレースについて、素晴らしい情報をあたえた。だが、その情報のせいで、さらに運が悪くなった。

妻は、彼の不運について、何の同情もみせなかった。腹をたてることもあれば、スプリング・ハンディキャップスの人々のように失望もしたが、失望とは上流階級の暮らしから切り離すことができないものであった。だが妻は、スプリング・ハンディキャップスの連中に腹をたてては、そっと泣きじゃくり、奇妙なことに、下品で、恥かしい生活をおくるように説き伏せようとした。彼のウエスト・エンドにいる友達の育ちが悪いということまで仄めかして、彼がつきあうべき相手は、長身の、ヒックスと呼ばれている阿保の隣人で、どこにでもいる職人なのだと主張した。長いあいだ、実際、数カ月にわたって、彼はできるかぎりの忍耐で耐えながら、相手の口を封じるのに必要だと思える言葉で仕返しをした。そこで彼女も、相手が軽蔑しているのは、彼女の身分のひくさからくる考え方であるのだと確信するようになった。それに彼女そのものも、軽蔑されていた。やがて彼女を殴る必要があると確信したときも、彼には思いやりというものがあるから、相手の顔を殴ることはしなかった。顔を殴れば、家庭がごたごたしている様子を宣伝することになるからだ。用心深く、二人きりになったときに、じつに静かに手をあげ、礼儀正しい振る舞いと同じように振舞った。それに彼には分かっていたのだが、彼女が他人に言うことはなかった。少なくとも、彼女にはそうするだけの自尊心があった。

こうした事情について、ジョニーは何も知らなかった。ベッシーは、わずかながら気がついていた。ふたりとも、義父がしょっちゅう家をあけていることを歓迎していた。義父にたいするジョニーの意見はそっけないもので、軽蔑の念しか抱いていなかったが、その事実をあらわにはしなかった。むしろ関係を平穏におさめようと心がけたが、それは母親のことを考えてのことだった。

 

 

23章

 

ジョニーは、日々を無事に過ごしていった。メイドメント・エンド・ハーストで、彼は仕事に打ち込んだ。今や、家が憂鬱な場所となっていたせいもあり、それに彼は気の利いた若者で、作業所の同じ年頃の若者と比べても、あるいは数ヶ月年上の若者たちと比べても優れていた。エンジンのアイリッドを戻すこともできるようになり、鉄のやすり粉や金剛砂の砂塵を放り投げる手際もよく、ねらいをはずすことなく、外科医を驚かせるほどの腕前だった。その作業は、どの見習いたちも慣れていくものではあったが、ジョニーが抜きんでて器用なのはプライドがあるせいでもあり、また懸命に努力した結果の優秀さのせいでもあり、機会があれば練習をして完成したおかげでもあった。ジョニーにすれば、名誉をあたえられたように感じた記念日のことだが、親方のコッタムが作業場の端から怒鳴りつけてきて、こっちにきて、いっしょに目をひからせて、真鍮の粉をうちまかすようにといった。「いや、おまえじゃない」コッタムさんは、即座に助けを申し出た近くの者たちにいった。「これは納屋の扉の釘のように打ちつけないといけない。メイの若造はどこにいる? ジャック・メイの若造はどこにいる?」

実用に即した知識の大半を、ジャックはロング・ヒックスから仕入れていた。この世捨て人は、これまで唯一親しんできたのはアコーディオンだけだったが、今は第二の趣味を宣言していた。それは見習い奉公がおわるまえに、ジョニーをメイドメント・ハースト一の職工にするということであった。「勝ち目はある」ロング・ヒックスはいった。「おまえが見習いをしているのは小さな仕事だが、一流の職工になるには一番いい訓練だ。おれは腕のいい取り付け工に数えられているが、大きい仕事にたいがいの時間をついやしている。そんなことをしなければ、もっと腕がよくなるんだがなあ」

ロング・ヒックスはジョニーに助言したが、それによれば見習い期間が終わって、もし陸で暮らすにしても、彼には機関士がむいているということだった。「就業証明をとったら、もう大丈夫」彼はよく口にした。「就業証明の内容がよいほど、うまくいく。海で働くにしても、陸で働くにしても。見習い期間がおわったら、すぐに四、五年、立派な船で働くんだ。もし仕事が見つかればだけど。他の職場は、お前みたいに目端のきく若者には、瞬きするくらいに簡単だろう。おまえは上手に、丁寧に製図を描くことができる。おれも正確に部品をとりつけることができる。でも丁寧に製図を描くことはできないんだ。いろいろ言ったけど、お前がこれから第二段階も見事にやりとおせると信じている。おれもそうするべきだったんだな、たぶん。でも俺の頭は、試験とかになると駄目なんだ。それに学校にも十分に行ってなかった。複雑な計算になると、すごく時間がかかってしまってたから。おまえも、いろいろな掛け算となると何とも思わない訳じゃないだろうが」

ジョニーも、算術について学んでから、月日がずいぶん経過していることを認めた。

「そうだなあ」ヒックスは答えた。「おれも算術は勉強しているけど、手におえないからなあ。どうすれば出来るようになるかは知っている。でも、実行するとなると難しい。すごい努力が必要だからなあ。トン、重量不足、クォーター、ポンド、オンス、グレンに500をかけたり、27683をかけたりする。こうした作業には際限がなくて、ずっと頭をつかうことになるが、カチャカチャ計算したところで、結局、100万くらい間違ってしまう。その試験やら何やらで、俺はしょっちゅう気が狂いそうになって、まるで足し算をまっている餓鬼のようだ。 たまらんよ。」それからロング・ヒックスは、そうしたことを考えたせいで、眉間にしわをよせた。

「でも、そこでも」彼はつづけた。「おまえなら大丈夫だ。第二段階の試験も、ビー玉をはじくようにやっつけるだろう。そうしたらお前も親方に、それも一番上の親方になるだろう。商工取引所の会員になって、えらい親方にでも、好きな何にでもなることができる。本当だとも。それから、ひょろ長い男は敬意と賞賛をこめて、ジョニーの顔を見つめ(ジョニーは、ヒックスのベッドに腰かけていた)、その熱心さのせいで、彼が予言した勝利をこの若者がおさめたかのように思いこんでいた。

だが、やるべき課題があったので、ジョニーはその課題に取り組んだ。機械製図だ。その目新しさが消えかける頃には、あまり嬉しいものではなくなっていたが、それでも学校にかよう男の子のように、無邪気に製図の練習をしていた。それは十進法と帯分数のつまらないものになりがちだった。それでも、しばらくすれば魅力もでてきて、課題の原則をつかって徐々に展開してみることに魅力を感じることもあれば、扱いやすさにもつながる蒸気エンジンの見事な複雑さについて、少しずつ明らかにしていくことに魅力を覚えた。やがて、その完璧なまでの部品の美しさが姿をあらわすようになると、そこには驚きにも似た何かがあった。しかしながら、こうした感情も、精通するようになるにつれて、価値がなくなってきて陳腐なものとなった。そのときには、彼の作品はただの仕事にすぎなくなった。見習い期間の半分が終わる頃、彼はそういう様子であった。もう彼は十八になり、がっしりした若者になっていた。

ジョニーは家で製図を描くこともあれば、ヒックスの部屋で描くこともあった。ヒックスは本を数冊もっていた。そのうちの数冊は古い版のものであったが、どれも役に立つ本であった。そうした本をジョニーは好きなように読んだ。シートンのマニュアル、リードのハンドブック、ドナルドの製図と略画というような本だった。ヒックスの部屋は製図には不向きだったが、ヒックスの隣人たちが邪魔しにくるようなことはなかった。一度か二度、バトスンさんが家に戻ってきたときに、ジョニーの製図版と製図道具が居間のテーブルに散らかっていたことがあったが、そのときバトスンさんは製図をやることに異議をとなえた。

「信じられない」ヒックスはさけんだ。或る夜、クランク軸の立面図と断面図を目にしたときのことで、ジョニーはその図面を板に固定していた。「このまま額にいれてもいい出来じゃないか。いいことを話してやる。もう少し練習をつんで、もう少し専門的な描き方がいつもできれば、製図工の仕事だって立派にこなせる。すごいじゃないか。おまえはいつか親方になって、おれもお前から仕事をもらうようになる。わかるか。もう独学でやっていたら駄目だ。学校にかよって機械製図を習え。そうすれば、お前の勝ちだ。設計事務所で働けるようになる」

 

このように説得されて、ジョニーは専門学校にかようことになった。これは夜間学校で、二十年前に造船技師によって設立されたものだった。そこには二、三人の少年がいた。ジョニーと同じくらいに熱心で、仕事のために、学ぶために、通学していた。他にも多くの者たちが別々の講座にかよい、少し手をだす程度ながら学びにきていた。体育館もあり、クリケットのクラブもあり、ボクシングの試合もさかんにおこなわれていた。少女たちも通学して、料理や裁縫を習っていた。また時々、他の地域から偉い訪問客がやってきて、それほど高額ではないながら寄付をほのめかしていくが、そうした人達はジョニーやその仲間が程度の低いクラスにいると言って、下のクラスから上のクラスへと引き上げるべきだと言った。

こうして学校でジョニーは製図を描いていくようになり、設計事務所にふさわしい投影図の描き方を学んでいった。リングの上で、筋肉からなる研磨機と長い腕のバランスをとる術も学んだ。なかでも、左ストレートであらわれることが得意で、身をかわしたり、相手の前に出たりした。ひどく腹をたてた様子で殴りつけたり、殴られたりの試合が三分間ぶっ続けにつづいたが、息を切らすこともなければ、快活さを失うこともなかった。そういうわけで彼の心は家からそれてしまい、母親がひそかに苦しんでいた悲惨さも、ベッシーが我慢する姿も、何も見ることはなかった。さらに言うなら、ベッシーも、母親も、ジョニーに気づかれないように、明るい顔をみせるようにしていた。

だが、ジョニーの目が真実に開眼する夜がきた。少なくとも、ある程度だが。おそらく、なにか意地の悪いことが、スプリング・ハンディキャップのうちに生じていた。(スプリング・ハンディキャップとは、ただの始まりということだ)たぶん、それは紳士らしい経歴を責めたてる腹立ちであった。だが、ヘンリー・バトスン氏があまり好ましくない雰囲気で、ハーバー・レーンを歩いていたのは確かであった。角のほうでは、パブが通りに光をはなっていた。彼は、肉づきがよく、腕をむきだしにした娘が色褪せたウルトラマリンの帽子をかぶっているのを見て駆け寄ったが、すぐにぞんざいに彼女をおしのけた。だが、娘も一歩もひかなかった。冷たい肘をさしこんできて、彼の時計の鎖が輝いているあたりをついた。「馬鹿野郎!」彼女はわめいた。「この通りを買ったつもりかい?」そのわきを彼は通りすぎようとした。「おまえさん!カラーをして、鎖をじゃらじゃらさせているけどね。その幸運はどこでもらったのかい?」

この無礼に心穏やかでなく、バトスンさんは顔をしかめながら、店のドアのなかへと入ってきた。カウンターにたっているナンの横を何も言わずに素通りして、奥の居間へと入り、扉をぴしゃりと閉めた。まだ九時前のことで、これほど早い帰宅は珍しいことであった。

ベッシーは炉辺に座って、縫物をしていた。バトスンさんは、この世にひどくムシャクシャしていたものだから、いじめる相手が必要だった。そこでベッシーは神の意志による手頃な相手としか言いようがなかった。彼は葉巻きを口にくわえ、部屋の端にある棚のほうに大股で歩いていき、少女のことも、彼女が腰かけていた椅子も、松葉づえも突き飛ばした。その棚には、ベッシーの宝物である、ぼろぼろになった本が数冊あった。彼はその本のなかから、適当に数ページをちぎり、床に紙片を落としながら、ねじって束にすると、ガスの炎に投げ込んだ。

ベッシーは、彼の腕をつかんだ。「お願いだから、やめて」彼女は懇願した。「どうか、やめて。本のページは燃やさないで。マントルピースの上には、私が焚きつけ用につくったものがあるから。やめて、本を燃やさないで」

たしかにガラスの花瓶には、点火用のこよりがたくさん入っていた。だが彼は、肘で彼女の顔をついて、後ろのほうに突き飛ばすと、さらに粗暴なふるまいにでた。彼は、かけがえのない本のページで自分のパイプに火をつけた。それからベッシーが泣いているかたわらで、棚から本をつかみだし、火にむかって放り投げた。この蛮行に、彼女はさらに必死になって嘆願しながら、足をひきずって前の方にすすみ、本をつかみとろうとした。バトスンさんは足をすばやくだして、彼女の健康なほうの足をすくうと、炉格子のところにひきずりこんだ。

「いいか」彼は唸ると、抗おうとするこの者にたいして猛り狂った。「本を離せ。おれがそこに置いたんだから。いいか。これからお前にすることをよく見ておけよ。お前は本当にいまいましい怠け者だ、このびっこめ!」彼女が立ち上がろうとすると、彼はその肩をつかんで前におした。「いいか、自分の食い扶持は稼ぐんだ。怠け者の雌犬め」

ナンは店にいたが、最初から二人のやりとりを聞いていて震えあがった。あいだに割って入りたいという衝動にかられたが、なんとか抑えた。そんなことをすれば、ベッシーの立場がさらに悪くなることがわかっていたからだ。だが、そうするのも息がつまる思いであった。

その最中に、ジョニーが通りから、突然、家のなかに口笛をふきながら入ってきた。「どうしたんだい、かあさん」彼はいった。「何かあったの? 具合でも悪いの? 様子が変だよ、どうしたの?」

「べつにーなんでもないよ、ジョニー。中にはいらないで。わたしが行くから。そこにいて」

だがそのとき、叫び声と倒れる音がした。ジョニーは荒々しく居間の扉をあけると、仰天して立ちつくした。

バトスンが、少女を炉格子に押しつけていた。「外に行って食い扶持を稼ぐんだ。怠け者の雌犬め。ここから出て行け」

数秒、ジョニーはその光景をみつめた。それからバトスンに飛びかかり、右のこぶしをふりかざして、相手を殴りつけると、押し倒した。足元に松葉杖があったので、その男はつまづいてしまい、床に尻もちをつくと、呆気にとられて茫然とした。ジョニーは火かき棒をつかみ、バトスンの頭上でふりかざした。

「うごくな」彼は叫んだが、怒りで顔は蒼白になっていた。「立ち上がるな。もし立ち上がれば頭を殴るぞ」

バトスンさんは頭を守ろうと腕でおおったが、関節に一撃をうけ、そのせいで片腕の感覚が麻痺してしまった。

「ジョニー、やめて」ナンはさけぶと、彼の腕をつかんだ。「お願いだから、ヘンリーも。やめて」

「あっちへ行ってくれ、かあさん」ジョニーはいった。「こいつの頭を殴ることになるかから。情けない意気地なしめ。おまえは下品な犬野郎だ。思っていた以上だ。おまえは妹に手をだしていたじゃないか。足が思うように動かない子に。そうじゃないのか。」そう考え、彼は一撃をくわえた。だがもう一度、ナンが彼をおさえたので、バトスンさんの肩をかすっただけだった。

「やめて、ジョニー」母親は懇願した。「ご近所のことも考えなさい。お隣にきこえるわよ」

たしかにそうだった。それに商売をしていくためには、礼儀正しさというものが、ハーバーレーンでは大切にされていた。家のなかでの口喧嘩は恥ずべきことで、許しがたいことであった。怒りの頂点にたっしたとき、ジョニーはそのことを思い出して、本能的に声をおとした。「よし、わかった」彼はいった。「それなら警察をよぼう。彼をぶちこむことにする」

ジョニーは怒っているせいで、理性がなかば働かない状態にあった。そうでなければ、家の者が警察に連れて行かれるほうが、喧嘩よりも、さらに不名誉だということを思い出しただろう。

「ジョニー、お願いだからジョニー」ナンは懇願した。「恥を知りなさい。これ以上さわがないで。わたしのために。ジョニー」

ベッシーは隅でしゃくりあげ、ナンも息もたえだえになりながら、むせび泣いていた。ジョニーはためらい、火かき棒が宙でとまった。バトスンは優雅な雰囲気をとりもどし、立ち上がろうと動いたが、目は火かき棒に釘づけになったままだった。「こいつを向こうに連れて行け」彼はナンにうなるようにして言った「こいつが殴られるところを見たくないだろう?」

ふたたび、火かき棒がさっと動いた。バトスンさんは心をかえ、立ち上がろうとするのをやめた。「殴るだと?」ジョニーはいった。「殴るだと? もう一度言ってみろ。丁寧に口をきたほうがいいぞ。さもないと火かき棒を見まってやるからな。いいか」それから火かき棒の先端をバトスンさんの鼻先におしつけたので、黒い汚れが残った。「おまえのことを怖がっていると思うなよ。もし、これが他の場所なら、お前の頭を何回でも殴っていたんだが。そこに座ったまま話をきくんだ、バトスンさん。お前の正体は、もうわかっている。ここに来たとき、おまえは飢え死にしかけていて、服は半分ちぎれ、膿にまみれた格好をしていた。そんなお前に、かあさんは食べさせた。慈善の心半分、悪運半分で。かあさんはお前を食べさせ、怠け者のその大きな体に服をあたえた。お前は物乞いをして施しをうけたわけだ。雑種の犬だろうと、そんな真似はしないだろうよ。もう、ここから出て行け。さもないと、こいつがとんでくるぞ」そう言うと、火かき棒をまたふりまわしたので、汚れがまたついた。バトスンは座りなおしたが、それは不名誉な姿であった。

「母さんに言い寄って、お前は結婚したんだ。そのときから母さんに頼って暮らしているくせして、まるで紳士のようにふるまっている。いや、お前が紳士らしいと思いこんでいる行動をとっているだけだ。おまえなんか、泥だらけのおんぼろ船で働く小僧の賃金ほどの価値もない。さあ、こっちをよく見るんだ。もう、こっちはもう男の子じゃない。とにかく小さくないんだ。おまえとは、身長もほとんど変わらない。それほど大きいほうじゃないことはわかっている。でも、そのうち、もっと強くなってみせるとも。おまえときたら腐りかけた、怠け者の酔っぱらいだからな。おまえにここよりも、もっと広い隠れ家をみつけてやるつもりだ。たった今、ああいうことを目撃したからには。たのしみにしておけよ。そのときまで、もし妹に手をだすようなことがあれば、この火かき棒でお前をぶん殴るぞ。それとも何かで突き刺してやる。どんなものを使ってでも、おまえをやっつけてやる。いいか、覚えておけよ」

ジョニーの声がふたたび大きくなったので、もう一度、ナンは懇願した。

「わかったよ、かあさん」彼は静かに答えた。「だが、彼にわからせる必要がある。これから夜はもう少し家にいるつもりだ、お前に言っておく。このテーブルで製図を描くからな、お前がいやであっても、かあさんと妹が使わなければ。お前より、おれのほうがここでは権利がある。外にいくときでも、帰ってきたら、お前のふるまいについて聞くからな。おれは静かにして、お前にしたがうが、それは平和のためだ。かあさんを心配させたくない。もう、ずいぶん心配してきた。もし喧嘩したければ、喧嘩をすればいい。おれは、警察と同じくらいに、お前のことを怖がらせることができるからな。いいか、俺の言いたいことがわかるか!」ジョニーは、自分でも何をいっているのかわからなくなってきた。だが、警察へのほのめかしに効果があったと察するだけの鋭さがあったので、さらにつけ足した。「言っていることがわかるか? ここにいるより刑務所のほうがあっているぞ。白い服をきて、他人の食べ物をあさっているほうがお似合いだ」

バトスンさんは、今のところ、この脅かしを実行しないだろうと判断した。ジョニーは何か気がついたのだろうか、それもどの程度まで知っているのだろうか。だが、はっきりとしたところは分からなかったので、彼は父親らしくふるまうことにした。「ああ、もうよしてくれ。こんな言い争いをしても、何にもならないじゃないか。これ以上、話は聞きたくない」

そのときベッシーはまだ泣いていたが、兄の腕をつかんでいった。「これ以上言わないで、ジョニー、お願いだから。わたし、わたし、たぶん、さっきみたいに過ごしていたらいけなかったのね」

「さっきみたいに過ごしていたからだって」ジョニーはこたえたが、声をしずめるのに苦労した。「好きなことをしていいんだよ、ベス。彼に邪魔はさせないから。何も聞きたくないと彼は言ったのだから、話しかけなければいい。もし、お前に指一本たりとも触れば、彼は大変な目にあうだろうさ。さて、おれの腕をかしてやろう。さあ、立ち上がるんだ」これは、黒い鼻をしたバトスンにむけていったものだった。「むこうにいって顔を洗ったほうがいい。おっと、その手はつかうな。うしろから羽交い締めをしたりとか、ほかにも何かしようとしたら、火かき棒でも、ほかの何でも、手当たり次第にとんでくるぞ。いいか、覚えておけよ」

そこでヘンリー・バトスンさんは、意味のはっきりしない唸り声をあげながら、顔を洗いに外にでていった。すぐ横では、火かき棒をもったジョニーが見張っていた。

隣の家の住人が、裏口の扉から頭つきだして、雑貨商のいつにない口論に耳をかたむけていた。もう片方の隣家の住人は、正面の扉から頭をつきだしていた。ハーバー・レーンの建物には、凹凸になるように建てるという法律があって、ある家の裏庭が、別の家の前庭につづくように定められているからだ。

 

24章

ハーバー・レーンの我が家に、バトスンさんはだんだん我慢できなくなってきた。彼がさげすむ気持ちはあいかわらずで、卑しい環境のことも、下卑た商いのことも、地味な妻のことも、実際、この場所に関した諸々のことをさげすんでいた。ただ、もっともな例外もあって、それはそこから金をひきだすことができるということであり、そこで食べ物にありつくことができるということだった。さらに今では、義理の息子が従順ではないという問題もかかえていた。義父が権威をふりかざして利己的な主張をしていないかと、目をひからし、聞き耳をたてていたので、そうした権威をみつけようものなら、義理の息子は反抗することだろう。義理の息子はすべてが不快な人物で、嫌なことに、火かき棒をふりかざすことも仄めかした。それも居間には不釣り合いな、大きな火かき棒だった。彼のことを疑ってもいるようで、不快なことに、警察の話をもちだしたりした。不快になったり冷や汗がでたりする話題だった。そこでバトスンさんは、ウェストへとしょっちゅう出かけるようになり、バーの社交界に長く留まって慰めを見いだすようになった。

ジョニーはどうかといえば、気がつくかぎりでは、バトスンさんは積極的に手をだすのをやめたように思えたので、彼は他のことを考えるようになった。それでも監視を怠らなかった。製図も関心を要求する事柄ではあったが、もっぱら関心をしめていたのは別のことであった。

学校で再会したのは、技師への道を踏み出した朝、まだ暗いうちに初めて出会った少女だった。そのあとも一度、進水式にいく途中で彼女をみかけた。今度はやや時が経過していて、少なくとも十八カ月はたち、彼も忘れかけていた。だが再び彼女に出会い、彼女が大人の女になっていることに気がついた。彼女も大人の女になっていたが、それと同じように、彼も大人の男になっていた。彼は、自分が片時たりとも彼女のことを忘れたことがあるのだろうかと考えた。さらに二、三度、彼女を見かけ、頭を傾ける仕草や近づいてくる足音を感じると、この世の何物も、時がたとうと、潮が満ちてこようと、彼女を忘れることはできないのだと悟り、絶望的な気持ちにかられた。そこで彼はダンスを習うことにした。

だが学校のダンス教室はちいさな集まりなので、彼女を見かけることはなかったが、あの輝きは忘れることのできないものだった。彼女は週に二度、洋裁の教室にきていた。その教室で、彼女は監督生のようにふるまい、教師の補助をしていた。ジョニーはやがて気がついたのだが、彼女も仕立ての仕事をしていて、日々の仕事でも、猛烈な勢いで働いていたのだ。こうした理由から、クラスの生徒たちから、「取り澄ましている」と思われ、意地悪をされる標的となってしまい、針山のうえを歩かされているような状態だった。ジョニーは心ひそかに、彼女が自分のことを覚えてくれていると思っていた。それというのも、彼女が自分のそばを通り過ぎるとき、あからさまに意識していない素振りをみせるからだ。両目にはうつろな表情をうかべ、面識がないことを強調していた。きちんとした灰色のドレスに身をつつんだ彼女は落ち着きのある、真面目な雰囲気をただよわせ、学校の他の少女たちが絶えずくすりと笑ったり、にやにやしたりしているのとは対照的であった。そして彼女の名前は―もうひとつの幸せな発見で、何気ない外交手腕を発揮して知った―ノラ・サンソムであった。

そして今、正射影図法を練習しているのだが、ジョニーの心は練習になく、上の空の状態に苦しんでいた。その理由を知る筈もないロング・ヒックスもたいそう心配をして、当惑したように驚きを顔にうかべ、あれやこれやと説いて聞かせながら、髪に指をつっこんでは腕をくみ、それからまた腕をほどいた。ジョニーの心は密かに張りつめ、日々、その緊張は強まっていき、ついにはひとりになると顔をあからめ、自分がとても弱い人間だということを実感するのだった。ノラ・サンスンはダンスには来なかった。彼の知り合いの誰も、彼女を知らなかった。その近寄りがたい様子は、まるで中国の皇帝だった。どうすればノラ・サンスンに近寄れるのだろうか。この思いに彼は息がつまり、心が焼けつくようで、少なからず恐怖を感じた。彼は行き詰ることもなければ、深く考えることもなく、社会的慣習の順守という迷宮に対峙した。見てもわかるとおり、彼は厳しい道をすすむことができたからだ。だが心のなかで思い描いてというよりも、あきらかに本能にしたがって進んだ厳しい道であった。目に見えない壁にジョニーは苛立ち、激しい怒りをこめて学校のサンドバッグを叩いた。そうかと思えば再び、世界は広大な天国に思えてきたので、彼は腰かけ、はるか彼方を夢みるのであった。クランク軸やピストンの設計図と断面図を描いていた筈なのに、いつのまにかN.SとJ.Mという文字のモノグラムをデザインしている自分に、彼は気がついた。悲しくも愚かな青年となってしまい、他の誰もが味わったことのないような状況にいた。

だが天使があらわれた。正確にいえば、ふたりの天使があらわれた。ふたりともでっぷりとしていたが、ある夜、その天使たちはやってくると、ジョニーに救いの手をさしのべてくれた。辻馬車に乗ってやってきたふたりとは、男とその妻であった。その意図は、「絶望をいやす場」を自分たちの目で確かめてみようということだけだった。ふたりはあまり信じていなかったが、この学校がイースト地区の奥にあり、ホワイトチャペルよりも先にある学校で、そのせいで疑いようもなく、地下室の土よりも深いところにある場所で、その悪行も底知れないはずなのに、若い男女が、健全な舞踏場の集まりで踊っていて、わめくように歌う者もいなければ、クォート瓶をかかえてドシドシ歩く者もいないと聞かされていた。また踊る前には、礼儀にかなった作法で相手を紹介することまでしているので、あまりに不似合な様子に、笑いをこらえることができないという話も聞かされていた。そこで疑りふかい二人がウエスト・エンド(ベイズウォーターにすぎなかった)から、辻馬車でやってきて、自分たちの目で事情を確かめにきたのだ。

だが、学校の日程について問い合わせる労をとらなかったものだから、ふたりが到着した夜はダンスがなかった。ふたりは腹をたてて、辛辣な言葉で責め立てた。自分たちの気まぐれと学校の予定が一致しないことに憤慨すると、婦人は金めっきの片眼鏡をふりかざして、実に、あきらかに重要なことなのだと威圧的な威厳をふりかざしたものだから、ふたりをなだめる方向に話し合いがすすんでいった。そしてついには、急に審議した挙げ句、夜の授業がなくなった。ダンスの時間に急遽変更することになり、音楽は学校のピアノと若いアマチュア演奏家によるバイオリンで間に合わせることになった。

娘たちが嬉々として、洋裁のクラスからやって来た。若者たちは大急ぎで木綿の体操服から、登校時の服装に着替えた。娘たちも、若者たちも皆、自分たちが見せ物になるということは気がついていなかった。学校にダンスシューズを置いていた者は、自分の先見性に勝利を感じた。彼はどうかといえば、ノラ・サンソンが他の娘たちと一緒にやってくるのに気がついた。あいかわらず一人離れて、内気そうにしていた。彼は、この好機を両手でつかむことにした。

そこで彼は雄々しくやりとげたが、不安にふるえることもなく、落ち着くことができると判断したときにやりとげた。最初に告げられたのがカリドールだったので、ジョニーは元気をだした。まだ全般的に自分のダンスに自信がなかったからだ。それでもカリドールの形を知っていたのは、ほとんどの少年がユークリッドを学ぶように覚えているものだからだ。彼が両手をさしだした穏やかな若い男性店員は、思いがけないことに踊りの中心になるように言われた。そして二分もしないうちに、ジョニーの横で、ノラ・サンスンとサイド・カップルになっていた。その二人組にジョニーの記憶は乱されたが、彼らが横にいたのは幸運であった。もしそうでなければ、暴動がおきていただろう。ジョニーの相手はダンスについて殆ど何も知らなかったが、のみこみの早い娘だった。ジョニーは初心者ではあったが、不安定ながら音楽について知識があるせいで、誇らしいことにも優位にたっていた。こうして時は楽しく過ぎていき、娘の目は輝いていき、やがてその顔は絶えず笑みをうかべるようになった。娘の生活から、笑い楽しむということが奪われていたが、ここには娘たちが好む楽しい雰囲気にみちあふれていた。

ダンスを四曲か五曲踊ったところで終わりになった。学校が、十時になると閉まるからだ。ダンスを踊るとき、すべての曲をノラ・サンソンとだけ踊るのは不可能なことで、学校で醜聞になることであった。だがジョニーはふたりで、腰かけて休むとことに成功し、またいつか此処にきて一緒に踊るという約束を、彼女からとりつけた。さらに彼女といっしょに二街区歩いて家にもどり、栄光の雲でおおわれた道を歩いた。さらにその先にある彼の知らない世界まで行きたかった。だが、そこで彼は立ち去ることにしたが、それでも十分心は満ちたりていた。

うつくしい。実にうつくしいと思いながら、月光に照らされた貧相な小道を歩いて、ジョニーは家まで戻った。空気もかぐわしかった。この世はすばらしく、親切で、そうした世をみていると、瓶を上等のシャンペンでみたす人のような気持ちになった。途中で誰かに出会えば、ジョニーはその両手を握っていただろう。もしバトスンさんに会っても、その手をとったことだろう。だが、そうした機会を提供してくれる者は誰もなく、焼き栗売りに高い塀の横で会っただけだった。焼き栗売りは、ジョニーがこんばんはと声をかけても唸り声をあげただけだった。ノラ・サンソンは、聖歌集にでてくるような美人ではなかった。彼女の髪は金髪でもなければ、黒いわけでもなかった。ほかの人々と同じように、ありふれた茶色の髪で、その目も灰色にすぎなかった。それでもジョニーは夢をみていた。

ベイズウォーターからの二人の天使は、こうした事態を引き起こしたわけだが、二階の回廊からダンスを眺めると、これは仰天すべきことだと考え、こうした階層の人々であることをふまえると信じがたいと言った。さらに不道徳なことにつながらなければいいのがと言った。極貧の人達への義務を果たしたことを意識して、高潔をよそおいながら帰途についた。だが夫人は、金メッキの持ち手のついた鼻眼鏡を乗合馬車に置き忘れてしまったのだが、あいにく紳士は馬車の番号を控えていなかった。そこで夫人は、男のしそうなことだと、寝床に入る前も、寝床に入ってからも、何度も繰り返した。

 

25章

 

数週間がたち、学校でのダンスが終わりとなる季節が近づいた。砲声がとどろき、まばゆい光をはなつ「ながい夜」となって終わるのだ。その夜、ダンスは不道徳にも、十二時を過ぎて一時近くまで続いた。ジョニーは最初、あと幾週かと数え、それが幾日と数えるようになり、ついに幾時間と数えるときがきた。ダンスが楽しいからというよりも、二人分の入場券をもってノラ・サンソンを連れて行くことになっていたからだ。彼女も、その日を数え、時を数えていたのかもしれないし、あるいはそうではないのかもしれなかっただが、彼女が幾夜も夜遅くまで、修道女のベールやリボンを縫うあいまに、その日のためのドレスを縫っていたことは事実だった。彼女のものとなる初めてのドレスだった。毎晩、彼女は用心深く、そのドレスを隠した。

洋裁の授業が遅くまである夜はいつも、ジョニーに許された特権で、家まで戻る彼女を守って送っていくのだが、それも二番目の通りまでで、そこから先へは送っていけなかった。二回ほど彼女は踊りにきた。少しばかり練習したおかげで、この競技についてはジョニーのほうが優っていた。このなで肩の、十一・二ポンドしかない初心者は、この世の十八歳の少女たちよりも、習得が遅い生徒だった。それでも二人は、他の者たちから歓迎をうけ、日に日に親密になっていった。一度、ジョニーは、もう三年以上前になる、あの朝の出来事について訊いてみたのだが、ミス・サンソンの答えからは何も得るところがなかった。病気の婦人は彼女の親戚で、結局見つかったと彼女は言った。それから彼女は他のことについて話題を転じた。「ダンスの夜」まではそういう調子だった。「ダンスの夜」は、イブニングドレスにあわせて、手袋と白いネクタイをするということが、学校の名誉をかけた規則であった。そこでジョニーは慎重に手袋を買い求め、用心深くネクタイを選んだ。それからジョニーは鉄棒で一度か二度、回転をすると、ロープをのぼり、他のメンバーに手袋のことについて教えた。こうして気分転換をしてから、彼は服をきがえ、ネクタイと手袋がポケットのなかにあることを確かめてから、家路についた。その夜は洋裁のクラスがないため、彼は待つ必要がなかった。だが外には、明らかに彼のことを待っていたらしい、ノラ・サンソンがいた。どうやら泣いていたらしいとジョニーは気がついた。たしかに、そうだったのだ。

「ミスター・メイ」彼女はいった。「本当にごめんなさい。でも、ここにいらっしゃると思ったから。あの、あの、申し訳ないのだけど、明日いけなくなってしまったの」

「行かないだって! だけど、だけど何故?」

「ごめんなさい。本当にごめんなさい。メイさん。でも理由は言えないの。どうしても」

唇がふるえ、声を少し震わせている彼女には、さらに涙をもう少しこぼしそうな危うさがあった。

だがジョニーは失望しただけでなく、怒ってもいた。その気持ちを隠そうとしても、それは難しかった。そこで彼は何も言わなかった。ただ前をむくと、彼女の横を数歩あるいた。

「お願いだから、気にしないでほしいの」彼女は、相手の沈黙に不安を覚えながらも続けた。「わたしも本当にがっかりしているわ。本当よ」それは、彼女の様子から明らかであった。「でも、これからもたくさん機会はあるわ。それにあなたなら、パートナーはたくさんいるでしょうよ」彼女は辛いものを感じながら、この最後の言葉を口にした。

「たくさん機会があっても、そんなことに関心はない」ジョニーはこたえた。「行かないよ」

そっけない口調は、怒っているといってもいい位だった。だがノラ・サンソンは喜びを感じ、妙に心を震わせながら、その言葉を聞いた。だが彼女はこう言っただけだった。「でも、どうして行かないの? あなたまでがっかりする理由はないわ」

「とにかく、行かないよ」彼は言うと、しばらくしてから言い添えた。「もし相手が僕でなければ、君は行ったんだろう」

「なんてことを、そんなことないわ!」彼女は目にも、声にも涙をあふれさせながらいった。「わたしがそんなことをしないのはわかっているのに。それに何処にも出かけたりしないわ」

ジョニーは、たちまち自己嫌悪におちいった。「分かっている」彼はいった。「君がそんなことをしないのは分かっている。冷たくするつもりはなかったんだ。でも、僕は行かないよ」

「本気でそう言っているの?」

「もちろんだとも。君といっしょでなければ、行くつもりはないよ」彼は何か言いかけたのだが、小集団がばらばらと通りがかった。そこで娘はこの集団を見つめたまま、思わず出てきた言葉をいった。

「ダンスの夜、どこに出かけるの?」

「どこでもいいよ。まだ決めていない。たぶん散歩するつもりだ」

彼女は恥ずかしそうな様子で、彼の顔をちらりと見てはうつむいた。「私も散歩に行くと思うわ」彼女はいった。

ジョニーの胸は高鳴った。「ひとりで?」彼は訊ねた。

「わからないけど。たぶんそうよ」

だが彼女を問いただしてみたところで、はっきりとした答えはかえってこないだろう。もし彼女と散歩にでかけたとしても、近辺を歩き、そこかしこで過ごしているうちに七時になり、やがて七時半になるのだろう。それでおしまいである。そして今も彼女は長居をしすぎたので、急いで帰らなくてはいけない。

もうジョニーにとって、ダンスはどれほどの意味があるものだというのだろうか。ダンスの服装は用意した。服に好きなように踊らして、喜ばせておけばいい。だが、それにしてもノラ・サンスンが明日の夜、散歩にはいけるのに、学校にくることができないのは何故なのか。理解に苦しんだ。とにかくダンスは中止だ。

ノラのほうも、説明しようにも難しかった。とにかく待ちこがれていた、楽しい夜も、初めての素敵なドレスも砕け散り、苦い思いしか残らなかった。

だが実は、その日、ドレスを隠していた場所が見つかってしまい、彼女がいろいろ思いをこめてデザインして、希望をこめながら針仕事をしたドレスは、ぐるぐる丸められ、値札をつけられた状態で、質屋の棚に置かれていたのである。

26章

ふたりがブラックウォール桟橋に行くということは明らかだった。そこには道がなく、人ごみもなく、ごろごろ音をたてる大型馬車もなかったからだ。広々とした空がひらけ、川が休むことなく流れ、そよ風がふき、船がみえ、茶色い帆の平底船が終わりのない列をなしていた。船乗りに似つかわしくないベンチが桟橋から名誉を奪うことはなく、そぞろ歩く恋人たちは桟橋の杭や鎖に腰をおろすこともあれば、まったく腰をおろさないままのこともあった。

ここにジョニーとノラがやってきたのは、太陽の円環が縮んで、西の空の彼方に退き、黄色く見えている頃だった。左側にみえているケントの丘は黄昏にしずみ、神秘的だった。潮は満ちていて、引き船が慌ただしく行き来していた。そうした船の群れは蒸気をあげ、波止場の平底船の右側にある波止場の岸壁の下に係留したまま、仕事を待っていた。明かりがすでにともっている舟もあれば、そうでない舟も男たちがランプの用意をしたり、ランプをともして掲げ、そのあいまに小さな船室や機関室から、陽気な明かりがもれていた。腕白坊主たちが桟橋や狭い舗道を軽々と通りぬけていった。どの少年も溺れたりすることなく、かえって溺れるのを防ごうとして苦しむ男たちの横をすり抜けていった。

一番星は同じところにとどまりながら輝き、じきに他の星々のあいだに消えていった。下のほうでは、河が静かに星座をうつし、ひとつまたひとつと増えていく星は水面に揺れて瞬いていた。流れ星が天空を横切って、白や緑、赤い色につつまれながら落ちていった。岸辺では、昔からあるアーティチョーク・ターヴァンの切妻屋根と建物が、暗がりに沈んで溶けていった。そして河岸にまき散らかされた星座のなかでも輝く集団の、小オリオン座に襲いかかった。新しい帆が幾つか、幽霊のように暗がりから近づいてきては、そのあたりをまわって、やがて消えていった。時々、遠くから声が聞こえ、一本調子な声が水面に響いた。

ふたりはほとんど話さなかった。何を話す必要があるだろうか。水門のあたりをぶらつき、こちらを照らすトリニティの明かりが長々と、荘重な瞬きをしている様をみているうちに、はるか下流のウリッジで、大きな、蒸気の警笛が聞こえてきた。もう空の黄色は彼方で鈍く光り、無数の星があふれてきそうな河のうえで瞬いていた。タグボートは煙を吐き、むせび泣きながら、波止場の下に係留してある一群のなかで船体をゆらしたり、きらめく水煙のしぶきをあげたりしながら、先頭の舟は蒸気をあげていた。ウルウィッチ・リーチの暗がりから、帆桁をむきだしにした帆船が、他の舟にひかれるようにして姿をあらわした。河のなかほどで、舟がアンカーをおとしたので、タグボートは後ろにさがって後続の舟を待ちながら、穏やかな蒸気をはきだして、その場にとどまった。

かれらは波止場をあるき、鉄のクレーンの横を過ぎ、やがて端まで行くと、見捨てられたブラウンシュヴァイク・ホテルの窓の下にでた。そこで、ほんとうにふたりきりになると、係船柱の平たく、広い柱の上にならんで腰をおろした。

やがてジョニーがいった。「今でもダンスのことを悔やんでいるの、ノラ?」それから、口にした名前に息をのんだ。

ノラ、彼女にむかってノラと呼びかけたのだ。彼女は怖がっているだろうか、それとも喜んでいるのだろうか。相手のまえで、これはどういうつもりなのだろうか。だが彼女は灯りやら星やらで、煌めいている河を見つめていた。

ようやく彼女は答えた。「とても、申し訳ないと思ったわ」彼女は時間をかけながら言った。「もちろんよ」

「でも今は? ノラ?」

じっとしたまま、彼女はひたすら河を、灯りを見つめていた。とにかく彼女はよろこんでいたが、いっぽうで、おずおずとしていた。でも、うれしかった。ジョニーは手をそっと彼女のほうにまわして、相手の手をとると、そのまま離さなかった。「だいじょうぶよ」彼女はいった。「もう、だいじょうぶ」

「ジョニーでいいよ」

彼女の前には、なにひとつ困難はなかった。彼はかたわらに腰をおろすと、彼女の手をとった。「今は、なにも悔やんでなんかいないわ、ジョニー」

涙がみるみる彼女の目にうかんできたのは何故だろうか。正直なところ、まわり道をしながら、ふたりはここまで辿り着いた。でも、この感情はたしかに喜びなのだ。彼は身をかがめると、彼女に口づけをした。思慮深い、古きトリニニティの明かりがゆっくりと瞬き、また瞬いた。

こうしてふたりは腰かけて話をして、ときには囁いたりもした。誓いをたてたり、約束をかわしたり、意味もなくうかれたりした。こんな素晴らしい調べよりも大切なものがあるだろうか。百万光年離れたところにある永遠の星がだんだん近づいてきて、すべての星が近いものとなり、ふたりのまわりにある日常的な風景よりも近く思えた。この風景は自分のためにある。今、彼女はそのことに気がつき、その風景を目にしていた。そこには、新しい天国がみえ、新しい世界がひらけていた。

 

「おれは香港から戻ったばかりの、飛び魚のように海をかける船乗りさ。

それいけ。あの男を倒してしまえ。

やれやれ、あの男を倒す時間を少しくれ」

 

「おまえはニューヨークから戻ったばかりの、きたならしい恐喝屋さ。

それいけ。あの男を倒してしまえ。

やれやれ、あの男を倒す時間を少しくれ」

 

時は過ぎていったが、ふたりの時はとまったままだった。タグボートの機関士が新鮮な空気をもとめて顔をつきだすと、年季奉公の小僧とその恋人が双係柱に腰かけている風景を見るだけであった。だが、ふたりの心は、もう一人前の青年と女で、ふたりは世間もはばからずに王位に腰かけ、歓喜の表情をうかべていた。

舟は潮にのりながら旋回した。明かりは最初の場所にもどり、船首は開いた水門のほうをむいた。水夫のはやし歌が、その行く先にむかって悲しげに響いた。

 

「その男をたおせ。暴れん坊。その男をたおせ。

それいけ。それいけ。その男をたおせ。

シンガポールの港がロンドンの街に金をはらってくれる。

やれやれ、その男をたおす時間をくれ」

 

タグボートが桟橋にむかうと、舟はそのあとをゆっくりと進み、闇のむこうの雄々しい影を追いかけた。

すぐに潮は淀み、やがて潮はひきはじめた。さらに深い沈黙がたちこめ、しばらくのあいだ、暗い渦が霧のなかにただよった。それから水と空がひとつになった。空気がふるえ、冷えてきた。星は輝きをましていき、海のほうへと、テムズは行き交う舟をおしながしていった。

27章

 

ノラ・サンソンの幸せも長くはなかった。実につつましい生活を彼女はすごしてきて、それは有体にいえば貧しい生活であった。だが、この新たな喜びはとても強烈なものだったので、どうしても現実の生活をなおざりにしてしまうのであった。実際、彼女にはその理由がわかった。ジョニーと別れたときから、彼女は恐怖の念にかられた。恐怖の念はやがて絶望へとかわり、みじめな思いにまで感じていた。彼女は、いかなる結末も見いだせず、ただ悲しみしか見いだせないでいた。多少、理性が目覚めると、こうした喜びすべてが、結局のところ、悲しみと不幸に終わるということが見えてきた。さっさとけりをつけて、心の苦しみを終わらせるほうがよいのだろう。このようにして、彼女は自分の強さについて、誤った判断をくだした。

恐怖と不安にかられているのは、ジョニーも同様であったが、しばらくのあいだ、それほど強いものではなかった。彼はまっすぐと家に帰り、誇りと喜びを感じ、少し照れながらも、母親にその夜の話をしたことだろう。だがノラは、まだ何も言わないように懇願した。彼女は、もう少し考える時間がほしいのだと言った。彼女は、学校から二ブロックほど先の、いつもの曲がり角に彼を残したまま、しばらくのあいだ、もうこれ以上は来ないようにと言った。次の夜は、裁縫の授業があった。彼は数分ではあったが、彼女につきそって、この慣れた二ブロックの道を歩いたが、相手の思わしくない様子に気がついた。

数日後の夜、ふたたび彼女に会った。彼女が泣いていたのは一目瞭然だった。ひとけのない通りを歩き、閉ざされた波止場につくと、彼は彼女に涙のわけをたずねた。

「ただ、ただ考え事をしていただけよ」彼女はいった。

「何について?」

「あなたのことよ、ジョニー。あなたとわたしのことを考えていたの。わたしたち、まだ若いわ。そうよね」

彼にすれば、それは困難な問題ではなかった。「そうだね」彼はいった。「そこに問題があるだろうか。たしかに若いけど。他のみんなもそうだよ。でも、ぼくは二年半もすれば、見習い期間は終わる。いや、もっと早いかもしれない。そしたら、そのときは―」

「そうね、そのときは」彼女はその言葉をとらえて言った。「おそらく、そのときは違ってくるでしょうよ。つまり、もう少し大人になって、もう少し分別というものを知るようになるわ、ジョニー。今はしょっちゅう会って、友達のように話をしている。けれど―」彼の目を読みとろうと、彼女は顔をあげて震えた。

冷たい塊のようなものが、喉にこみあげてきたので、ジョニーは自分の声をたしかめた。「それで、君はどうしたいというつもりなのか? まさか」

「そういうことなの」彼女はいったが、それはかなりの困難をともなった。「そうするのが一番いいのよ、きっと、ジョニー」

ジョニーは息をのんでから、しぼりだすように声をだした。「なんてことだ」彼は言った。「もし、ぼくを放りだしたいなら、はっきりとした英語で、そう言えばいい」

「お願いだから、そんな言い方はやめて、ジョニー」彼女は懇願すると、手を彼の腕においた。「意地悪よ。意地悪だってわかるでしょ?」

「そんなことない。わかりやすく正直に言っただけだ。この中途半端な関係のどこに問題があるのかわからない。友達として会って、それでおしまいじゃないか」

いまいちど努力をして、彼女は強気を保とうとした。だが、その強さも消えかけていた。「そのほうがいいのよ、ジョニー。それはたしかよ。やがて―やがて、もっと好きなひとがあらわれるわ。そうしたら―」

「よけいなお世話というものだ。そういうときがくれば、そんなふうに言えばいい。でも、あの夜、君はキスを許してくれたし、僕にキスもしてくれた。それから僕のことを愛しているとも言ってくれた。それなのに今、もう僕のことを愛してくれてないんだ。たぶん、もっと好きなひとができたんだ」

彼女はこらえきれなくなった。肩をおとすと、彼女はうつむいた。すると苦悶の涙があふれはじめた。「やめてジョニー。それは意地悪よ。どれだけ意地悪なことをしているのかわからないのね。ほかの誰だろうと、あなたほど好きになれないわ。今の半分も好きになれない。意地悪を言わないで。あなたの他に、この世に友達なんていないのだから。なによりも、あなたが大切なのよ」

その言葉をきいたジョニーは、彼女が怖れている悪漢と戦う姿勢にはいった。彼は周囲を見わたしたが、暗がりの通りには誰の姿もなかった。ノラにキスをすると、彼女が名前をささやいてくるのが聞こえた。彼が落ち着かせようとしたにもかかわらず、彼女はまだすすり泣いていた。ふたりの会話は、ただの友人同士のものではなかった。彼女は自制しようとしたけれど、その気持ちはくじかれた。ほどなくしてジョニーは、彼女の両親のどこに困難があるのか、思い切って訊いてみた。

「父は亡くなっているのよ」彼女は簡潔に言った。「数年前に死んだの」ジョニーとのやりとりのなかで、彼女が家族について語るのは初めてのことであった。彼女の母親に会いにいくべきだろうか。この問いに、彼女は強く殴られたかのように打ちのめされた。

「だめよ、だめなの、ジョニー」彼女は言った。「今はまだ駄目。来たら駄目。理由は言えないの。どうしても。とにかく今はだめ」そして躊躇してから言った。「お願いよ、ジョニー。私もどうしていいのか途方にくれているの。とても困っているのよ、ジョニー」そして再び嗚咽した。

しかし、どうしてもその理由を話そうとはしなかった。そして当惑しているジョニーを残して立ち去ったが、明らかにされない悩み事のせいで、ジョニーがひどい無力感におそわれている様子に、彼女のほうも惨めに感じているようであった。

隠しごとには慣れていないせいで、彼にはまったく見当がつかなかった。自分に話せない悩みとは、何なのだろうか。彼は、ノラがどこに住んでいるのかということも知らなかった。なぜ、彼女は話してくれないのか。なぜ、彼女は家の近くに近づけようとしないのか。知っていることはこれだけだ。母親はいるけど、父親は亡くなっている。涙ながらに語る彼女の言葉から、こうしたことを知った。まだ母親には会ったことがない。とにかく今はまだ会っていない。ノラは辛い悩み事を抱えているが、その悩みが何なのか話すことは拒んでいる。その夜、彼はふさぎ込んで、じっと考え込んだ。メイドメント・ハースト社は、次の日の朝、「土曜日だ」と親方のコッタムさんが宣言すると、夕食まで急いで楽しんでくるようにと言った。それから一時に、ジョニーは切符売り場にきたのだが、金をもってくるのを忘れたことに気がついた。金をとりに引き返そうとすると、造船所の仲間たちは笑って、立て替えようかと声をかけてくれる者も多く、また僅かばかりの金をかきあつめようと言う者もいた。

改札から遠くないところで、彼が目にしたのは、パブのところにできた小さな人だかりだった。その方に近づくと、彼はマザー・ボーンが人ごみのなかにいることに気がついた。パブの主が、彼女に酒をだすのを断り、外に追い出したのだ。そして今、彼女はパブのドアのところで体をふらつかせながら、パブの主にむかって、くだをまいていた。

「レディをしめだすのかい!」 彼女は、しゃがれた声をはりあげた。「なかに入れないよ。この店に閉めだされた。居酒屋の主にしめだされた。飲めないじゃないか」

「我慢できないのか、愛しの君は」一人の少年が歌った。「求めるものを彼にあたえよ」

しばらく、彼女は日ごろの敵である少年に、復讐を企てているかのように見えた。だが彼女の目にとまったものは、溝に転がっていた、首のところが壊れた、黒い瓶だった。「求めるものを彼にあたえよだって?」彼女はしゃっくりをしながら、瓶のほうにかがんだ。「ああ、あいつに求めるものをくれてやる」そう言うと、視界にはいる窓のなかでも、一番大きな窓めがけて、瓶を放り投げた。

砕ける音がした。次の瞬間には、板ガラスの真ん中に、黒い穴があいていた。蜘蛛の巣状の、大きなひびが、端のほうにまで広がっていた。酔っぱらったマザー・ボーンは立ちつくすと、その窓を見つめていた。おそらく酔いも少しさめていた。居酒屋の主がエプロンをたくしこみながら駆け寄ってきて、彼女の腕をとった。阿鼻叫喚の叫びをあげながらの乱闘となった。見物の少年たちは歓声をあげた。やがてマザー・ボーンは、金切り声をあげ、足をとられてよろめきながら、パブの主と警察官にはさまれて引っぱられていった。

ジョニーは帰宅すると、母親に話をして、母親の昔の知り合いであるエンマ・パーシーが刑期に服すことになりそうだと教えた。だが彼の心をしめていたのはノラの悩み事なので、酔っぱらいのマザー・ボーンのことは三、四日忘れていた。

次の日、学校では洋裁の授業があった。彼も学校にいき、学校から戻る途中のノラ・サンソンに会えることを微塵たりとも疑っていなかった。ドアのところで、受付も兼ねている管理人が手招きをすると、その日の早い時刻に預けられた手紙をわたした。その手紙には、弱々しく、まとまりのない女文字で、彼の名前がしるされていた。しばらくのあいだ、彼は驚きにうたれたまま、その字を凝視していた。封筒をやぶるようにして開けると、しみのように、涙のあとが残る手紙があった。そこには、こう書いてあった。

 

「愛するジョニーへ。もう、これですべてを終わりにするわ。あなたに何も告げなかったことを許してください。これでお別れよ。あなたに神様の祝福がありますように。そして私のことは永遠に忘れてしまうように。こんなに親しくなってしまってからでごめんなさい。でもジョニー、あなたのことを本当に愛していました。その気持ちをおさえることがどうしてもできなかったわ。どうすればいいのかわからなかったのです。もう洋裁の授業にはいきません。今回の不名誉な事件のせいでもあるし、新聞に書かれていることすべてが原因です。誰も私のことを知らないどこかで、仕事をしなくてはいけません。死んだほうがましだけれど、自分のことのように、あのひとの面倒をみなくてはいけないわ。あのひとは、私の母だから。この手紙はすぐに燃やして、私のことはすべて忘れてください。そのうち、素敵な娘さんと出会うわ。その娘さんには素晴らしい家族がいて、恥かしく思うところがない娘さんでしょうね。私を探そうとしないでください。そうしたことをすれば、私たちは二人とも惨めになるでしょう。さようなら。どうか私を許してください。

 

愛情をこめて

 

ノラ・サンソン」

 

これはどうしたことだろうか。なぜ、こうしたことになったのか。彼は体育館の更衣室に立ちつくしたまま、その手紙を読んだ。顔をあげると、ガス灯がゆらめきはじめ、ロッカーがまわりで揺らいでいた。ひとつはっきりしているのは、ノラが別れを告げ、立ち去ってしまったということだった。

すぐに彼の能力は、事情を分析しはじめた。もう一度、手紙を読んでみた。さらにもう一度、読んでみた。そこには「すべてが終わった」とあり、彼にその話をしなかったことを許してほしいとあった。何の話をしたかったのだろう? 彼女は、今も、何も話してくれていなかった。学校には、もう来ないだろう。だが、彼女の住所を知らなかった。それなのに彼女を探しだそうとしてはいけないのだ。でも、「新聞に書かれたすべてのせいで」とあった。こうなれば、新聞を見なくてはいけない。なぜ、状況を把握するのに、こんなに時間がかかるのだろうか。彼は図書室へ行くと、テーブルの上に散らかった新聞と雑誌の山にあたった。次から次へと彼は新聞を探し、また探してという作業を繰り返した。だがノラにつながりそうな記事を見つけることはできなかった。とうとう、一昨日の、不要になった新聞を見つけたが、その新聞にはコーヒーの染みが輪になってついていた。「警察の知性」という記事が上段にあり、真ん中の記事に、イタリック体で書かれたエンマ・サンソンという名前に彼の目は釘づけになった。彼女は四十一歳で、泥酔と故意の器物損傷で訴えられていた。その記事はさらに続き、稲妻がおちたかのように、すべてのものが一瞬で破壊されたと書いてあった。彼も、土曜日に、その犯罪行為を証言していた。エンマ・サンソンは、エンマ・パーシーの結婚後の名前で、少年たちが酔っぱらいのマザー・ボーンと呼んでいる女だった。そして、その女がノラの母親だった。

恥ずかしい記事は、さらに続いた。居酒屋の主人の話は単純かつ明瞭だった。彼は、被告人に酒をだすことを断ったが、それは彼女が酔っぱらっていたからだ。店から離れようとしなかったので、主は相手を追いだした。だが、彼の言葉によれば、彼女は特に抵抗をしめさなかった。砕ける音が聞こえた直後、居酒屋の中で彼が目にしたのは、割れた瓶と粉々になった大量のガラス片であった。主が店の外に出てみたところ、店で働く男が囚人をつかまえていた。店の板ガラスは粉々になってしまったが、十ポンドの価値があるものだった。証言はそこで終わっていた。警察が裁判官に語ったところによれば、囚人は以前にも泥酔のせいで、少額の罰金が科せられたことがあった。だが彼女はたいてい害をおよぼすことはなく、せいぜい少年たちで人だかりの山ができることくらいだった。

彼女は海で亡くなった船舶機関士の未亡人で、わずかながら年金をもらっていた。だが最近、彼女を主に支えているのは娘だった。洋裁師で、敬意に値する若い娘だった。娘も裁判に出席していた―記者は、娘のことを「好感をいだくことができる若い女性だが、絶望に打ちひしがれていた」と書いていた―娘は、損害をについて分割払いを認めてほしいと望んでいた。だが結局、母親は支払いの不履行と損傷をあたえたせいで、一カ月ほど刑務所に送られることになった。娘は未成年であったので、彼女が引き受けようとしても無駄であった。

ジョニーが熱心に探し求めていたものがあったのだが、見つけることはできなかった。被告の住所だ。娘のことを思慮して記者が隠そうとしたのか、たまたまそうなったのか、ジョニーには見当がつかなかった。同じ新聞でも、住所が記載されている記事もあれば、住所の記載がない記事もあった。だが、ただちにジョニーは管理人に頼み、それ以前の古新聞の山を探すことにした。今、途方にくれているノラを見捨てるということは、信じがたい行為であった。手紙を燃やすようなことは決してしないで、ポケットの奥深く一番安全な場所に封筒やらすべてのものをしまいこみ、かつてないほど、そこに触れてみては、無事にあることを確かめた。

だが住所はどの新聞にもなかった。実際のところ、記事は三つしかなく、ある記事は五行しか書かれていなかった。何をすればいいのだろうか。慰めの手紙を一行も書けないのだ。しかも月曜日、自己満足にひたりながら自分が仕事に取り組んでいるあいだ、ノラは法廷に立ち、泣きながらひどい母親のために懇願していた。もし知っていたとしても、彼女を救い出すようなことは殆ど何も出来なかっただろう。だが頼る者がいなければ慰めはない。あまりにひどい。

問題はそういうことであった。叫んでみたところで仕方なかった。テーブルを叩いてみたところで、あるいは拳で頭を叩いてみたところで仕方なかった。なんとしてでもノラに近づく手段を考えなくてはいけない。

28章

 

まず彼が試みたのは、学校にあたってみることだった。ノラの名前と住所は、クラスの記録簿にあるにちがいない。だが、女子クラスの記録簿に何の用があると言えばいいのだろうか。交渉人としての、彼の失敗は嘆かわしいものだった。もっともらしい理由を思いつくことはできなかった。その結果は、学校の女子クラスを管理している厳格な婦人のせいで、恥ずかしい失敗に終わった。そこで、夜にノラと散歩をしたときにいつも別れていた二番目の角のむこうのすべての道を歩き、彼女を見つけようとした。それからまた、必死に探し求めたのは、彼女が住んでいそうな家の、ありそうもない気配だった。こうしてまだ陽の光が残る夕方を二日ほど、綿モスリンがかかる小さな窓を見て過ごした。そのモスリンを束ねているものが、彼の記憶によれば、彼女がつけていたものと同じ類のリボンだったからであった。彼女と結びつくかもしれないものが、小奇麗なものであると想像しようとした。だが二日目の夜、黄昏の闇がたちこめた頃、窓が開いた。毛むくじゃらの、顎鬚をはやした男が青いシャツ姿で、頭をつきだした。窓枠に寄りかかり、パイプをくゆらしながら、朱にそまった空を見ていた。ジョニーは一目散に駆け出して、苦労したかいもないことに自らを罵った。たしかに時間を無駄にしている余裕はなかった。メイドメント・エンド・ハースト社で、毎日五時まで働くことになっていたので、夕方の二、三時間が残されているだけだった。さらにノラが住まいを変えてしまう可能性もあった。おそらく、もう引っ越したかもしれなかった。

このあと、彼は勇気を奮い起こして、ノラの母親が罰金を請求されたはずの警察署へと向かい、彼女の住所を訊ねた。だが頑固そうな顔の刑事が担当で、かわりに、まず彼の名前と住所を訊いてきた。そのあとは何も教えてくれなかった。とうとう激情にかられたまま、向こうみずにも、彼は居酒屋に行くと、自分の知りたい情報を求めた。このとき、ジョニーがもう少し世知にたけていたなら、もう少し狡ければ、それにもっと冷静であれば、まず、ここに来たところで、飲み物を注文するところから始め、何気ない会話のやりとりをしながら、窓の話題にもっていき、やがて静かに、易々と目標に到達したことだろう。だが、このような有様で、彼はそうしたことは何もしなかった。彼は飲み物も注文しないで、ぶっきらぼうに声をかけたが、そこでのふるまい方や居酒屋の主の気持ちについても、居酒屋の主がこれまで耐え忍んできた我慢についても、まったく考慮しなかった。居酒屋の主は、樽をぎこちなく叩く音がしたり、給仕が生意気だったりしたせいで、もうすでに機嫌が悪かった。そこで主は、ジョニーに訊ねられると、窓の支払いに来たのかと訊ねた。否定的な答えを聞いたので、すぐに侵入者は「外に」出て行くようにと促した。その言葉には、従うよりほかに仕方ない響きがあった。

そういうわけで、ジョニーは困りきってしまい、ついに緊急手段を考えてみることにした。一日、二日、ぼんやりと心のなかで考えていたが、真剣に検討してみる勇気はほとんどなかった。それは母親にすべてを打ち明けてしまい、学校で住所を訊ねてもらうように説得するというものだった。もっともらしく洋裁の仕事を頼んでもらうのだ。でも期待はできなかった。ノラのような一家との関係をほのめかせば、母親が躊躇するだろうということを知っていたからだ。だが他に何も思いつかなかったし、そこにじっと座っていることは耐え難かった。それでも上の空で、製図も描かないでいたならば、母親が何かを推測するにちがいないと彼は考えた。だが、哀れなナンは自分の悩みを隠すことに骨をおっていた。

実際、バトスンさんは困窮した状況に我慢をしているせいで、苛立ちをつのらせていた。かつての生活より貧しいことはなく、むしろ、彼はずっと裕福になっていた。だが社交界での繁栄ぶりと成功していくにしたがって、必要な金額が増えていった。それなのに今、彼の妻は節約をはじめていた。彼女を勇気づけたものは、息子の並大抵ではない抵抗ぶりで、その抵抗には、家長としての立場にある彼も、ある程度の用心をせざるをえなかった。彼女が口にするようになったのは、向かいの造船所が閉鎖されるかもしれないという噂だった。たしかにテムズ河畔の造船所の多くは、最近、閉鎖されていた。そうなれば、店もおしまいだと彼女は言い、それまでのあいだに少しでも節約をしようとした。バトスンさんの目からすれば、当然のことながら、ばかばかしい振る舞いだった。造船所について女たちが囁く噂に、バトスンさんは何の関心もしめさなかった。彼は、卑しい商売のとるに足らない話にいらいらした。もし妻が儲けの源が干上がったとしても、他の収入源を探して解決すれば、それですむ話である。彼は欲しいものを手に入れているかぎり、いかにして儲けているかについて心を煩わせることはなかった。だが今、彼は欲しいだけの金額をもらえず、妻が融通してくれる金額も減り始めていた。ジョニーが稼いでくる僅かな金には手をつけないということまで、彼女はほのめかしていた。ジョニーがその金を自分で管理すべきだと彼女は考え、その金で服を買ったり、見習い期間が終了したときのために貯えておいたほうがいいと考えていた。こうしたこと以外にも、バトスンさんがかなり疑っていたのは、ジョニーがこれまでにも稼いだ金を自分のものにしてきたのではないかということであり、ミセス・バトスンが卑しいごまかしをして、現金を保管する箱からジョニーの稼ぎを別にした金額を、毎週の収入として告げてきたのではないかということだった。これは純然たる着服行為だ。それにイッピング・フォレストの小屋があった。彼女は離れた当初は売ろうとしたけれど、今では売ろうとはしなかった。あの小屋があったからといって、何か役にたつのだろうか。たしかに毎週3.6ペンスの賃貸収入が入ってきたが、大した金額ではなかった。有名なバーで飲めば、一杯、あるいは半杯にしかならないだろう。小屋を売れば、それなりの金額が入ってくる。おそらく百ポンドか、少なくとも八十ポンドにはなるだろう。その金額に彼の血はわきたった。八十ポンドも手にすることができるとは、なんて素晴らしい考えだろうか。その金をうまく運用すれば、みすぼらしい小屋の3.6ペンスにこだわらなければ、財産をこしらえることもできる。競馬の平地レースの確実な馬にうまく投資できれば、一週間で二倍に増やすことができるだろう。そこで森の小屋を売って金を手に入れる計画を打ち明け、その儲けを運用していくつもりだと主張した。だが愚かな女は同意しなかった。彼女が家庭における自分の重要性を過大評価していることは明らかだが、それは最近、あまり罵られることもなければ、突き飛ばされたりすることもなく、殴られることも、腕をねじりあげられたり、つねられたりすることもなかったからだ。確かに女性にたいする親切のなかでも、そうしたことは最悪の行為だが、それにしても、この状況に彼女はいい気になっているにちがいない。

そこで彼はふたたびドシンドシンと歩きまわることになった。そうしたところで、ジョニーが気づくこともなければ、いささかでも不安にかられることもなかった。実際、もうジョニーは家のことに注意をはらうこともなければ、取り調べをすることもなく、不躾にねめつけて火かき棒をふりあげることもなかった。彼はほとんど家にいなかった。そういうわけでバトスンさんは殴って乱暴をはたらいたが、目のまわりの青あざのように見苦しい痕が、目につく場所にのこらないように注意を怠らなかった。時々、彼は蹴ることもあった。そして金をもっと渡すように、更にもっと渡すように要求した。なかでも要求しつづけたのは、森の小屋を売り払うことだった。譲渡証書に関する不埒な法律があるせいで、彼が行動にでて、その場所を自分で売ることは不可能であった。そうでなければ、もちろん彼は売ってしまっただろう。ベッシーが避けるのもやむを得ない有様になっていた。ベッシーのほうが、ナンに手をあげるよりも効果があったからだ。ついにナンは困惑するあまり、危険な反逆にでた。こうした事態は、バトスンさんの予想をこえていた。彼女は、近所には恥ずかしいことではあったが、裁判官の命令で別居をしようと考えはじめていた。それでも彼女は心底から怖れていた。

ある夜、九時少し前に、ジョニーはむやみに探し回るのにうんざりしてしまい、母親にノラ・サンソンの話の一部始終をしようと心に決め、家に戻ってきた。ハーバー・レーンの曲がり角のところで、バトスンさんが歩いて立ち去っていくのをみかけた。夕方のまだ早い時間なのに、ブラックウォールで彼を見かけたことを訝った。

誰も店にはいなかったので、ジョニーは静かに奥にすすんだが、驚いたことに、母親とベッシーが店につづいている居間で、ひどく泣きじゃくっていた。ナンは椅子に腰かけ、ベッシーが母親におおいかぶさっていた。もう隠しようがなかった。ジョニーは、激しい驚愕にうたれた。「おかあさん! どうしたの?」彼はいった。「あいつは、何をしていったんだ?」

ナンはかがみこんだが、何も答えなかった。ジョニーは威厳らしいものをただよわせながら、ベッシーのほうを見つめた。

「あのひと、あのひとがまた、お母さんのことを叩いたの」ベッシーは啜り泣きのあいまに、口をすべらした。

「お母さんのことを叩いたって。まただと」ジョニーの顔は白くなり、鼻孔のまわりがふくらんだ。

「お母さんのことを叩いたって。まただと」

「最近、いつもそうしているのよ」ベッシーはすすり泣いた。「お金をもっと欲しがるの。お兄さんに言おうと思っていたけれど、でも…」

「お母さんのことを叩いただと!」その部屋は、ジョニーの視野のなかで宙にうかんだ。「なぜ、そんなことを」立ち上がると、扉を閉めた。

「落ち着いて、ジョニー」彼女は冷静さを取り戻して言った。「みんなが取り乱しているけど、お兄さんは取り乱さないで。お願いだから」

「足はどうしたの? 引きずっているじゃないか、母さん」

「母さんのことを蹴ったのよ。母さんのくるぶしを蹴っているところを見たわ」ベッシーは言うと、ありのままに話した。「とめようとしたけど、でも…」

「そうしたら、お前のことも叩いたのか?」ジョニーは訊ねた。もう頬は白くなかったが、口のまわりが一段と白くなっていた。

「ええ。でも、いちばん叩かれたのはお母さんよ」ベッシーは、また泣きはじめた。

おそらく失意の夜を過ごしてきたせいで、ジョニーは焦ることがなかった。今、あの男が手をだせないところにいることはわかっていた。そこで怒りを無理やり静めた。十分もしないうちに、ベッシーは思いのたけを吐露し、ナンも涙まじりの告白をしたので、彼はすべての事情を把握した。

「あいつが戻ってくるのはいつなんだい?」

ふたりは知らなかった。おそらく、いつものように遅く帰るだろう。「でも早まったことはしないで、ジョニー」ナンは懇願した。「むこうみずなことはしないでおくれ。たいしたことはないから。すこし動転しただけだから」

「このことはよく考えてみることにする」ジョニーは答えたが、その口調はとても冷静だったので、ナンはどこか安堵したのだが、ベッシーは心のなかで怖れた。「一時間ほど外出してくる」

彼は学校まで大股で歩き、本能にしたがって、何も見ないまま進んでいくうちに文字の描かれたランプの下にでた。彼は更衣室へいくと、自分のフランネルの運動着に着替えた。体育館には指導者がいて-精鋭部隊からきた筋骨たくましい軍曹だった-鉄棒の練習をしている少年たちを見ていた。ジョニーは彼に近づくと、ためらいながら練習試合の申し出をした。「練習試合をやりたいのかい?」「どうしたんだ? ずうずうしいな。俺にむち打ちをしたいのか」

「いいえ、曹長」ジョニーは答えた。「それほど馬鹿じゃありません。でも自分よりも体重の重い男とは練習試合をしたことはないので。だから挑戦してみたいだけです」

軍曹の目は、心得たというように輝いた。「わかった」彼は言った。「お前のほうが二ストーンほど軽いだろう。お前が十一ポンド以上あるとしての話だが。グローブをとってくれ」

これがほかのときなら、ジョニーも、陸軍隊での勝者である軍曹に、練習試合を申し込むなんて、厚かましい願いを考えもしなかったことだろう。軽い練習試合でも、軍曹相手のものであれば、申し込まれてから引き受ける類のものであった。その試合では、両手ともふさがってしまいがちで、むしろ、それ以上に厳しい試合になることもあった。だが、ジョニーにはそうしなければいけない理由があった。

彼は、先生役の軍曹を相手にストレートを打った。すると、すぐに強打が窓枠にうちつける雹のようにとんできた。軍曹は岩のように立っていた。ジョニーが突っ込んでいくたびに、頭にハンマーの一撃をくらったように押し返されただが彼はふたたび熱心に突っ込んでいき、軍曹の頭のまわりを陽気に動きまわり、相当な数のドライブをかけた。普通の男ならノックダウンされてしまうようなものだったが、軍曹が終わりにするように目配せをすることはなかった。未熟練工はノックアウトしてしまうという考えでやり直し、たくさんのパンチをくりだして、キーキー音をあげる人形のようにノックした。

「しっかりやれ」軍曹が声をかけたのは、二試合ほど練習試合をしてからのことだった。その調子でやっていると、うまく動けないぞ。そんなことは望んでいまい。そうじゃないか」この最後の言葉は、にやりとしながらいった。「定期的に練習をしていたわけじゃないからなあ。最近はじめたばかりだろう」

「でも大丈夫だ」彼は横の方に歩いていきながら、つけ加えた。「お前はなかなかいい腕だ。もちろん毎晩練習に来ていたら、もっとすばやく動けていたとは思うが。でも、お前はいい闘いをするぞ。楽しみにしている」ふたたび、狡猾そうな目の色がきらめいた。

もう学校が閉まる時間だった。着がえていると、軍曹も帰ろうとした。彼は軍曹に礼をいうと、おやすみなさいと挨拶をした。

「おやすみ、メイ」軍曹はこたえると、通りにむかった。だがジョニーのあとから歩道を歩いてくると訊ねた。「明日やるのか」

「どういう意味ですか、軍曹殿」

「わたしは軍曹じゃない、ただの他人だ。そうした道徳にやかましい軍曹もいるのだろうが、わたしは喧嘩が見たくて通りに出てきたんだ。それだけだよ。いつやるんだい?」

「自分でもよくわかっていません」ジョニーは答えた。

「ああ、そうなのか。ふむ」軍曹はしばらく考え込んだ。おそらく簡単には信じなかった。それから彼はいった。「まあ、手伝うわけにはいかないが。とにかく左に力をいれるんだ。でも注意は怠るな。頭はあげて、守ってたら駄目だ。お前は強い。それにあいつよりも大きいんだから、いっぱい殴るんだ」

29章

バトスンさんもおそらく少しは安堵しただろうが、その夜、家に戻ると、すべてが静まりかえり、ジョニーも寝床にはいっていた。彼は、自分が遅く戻ってきたせいで一悶着おきるのではないだろうかと思っていたからだ。だが数日後の夜、いつもより早く鉄道の駅から戻ってくると、ジョニーが通りでよびとめた。

「話がある」彼はいった。「ドックの壁まできてくれ」

彼の様子は静かで、事務的であったが、バトスンさんはいぶかしく思った。「どういう用だ?」彼は訊ねた。「ここでは話せないのか」

「いや、だめだ。ひとが大勢いすぎる。もし来れば、お前のポケットに金がはいる」

バトスンさんは歩きはじめた。何が待ち受けているのか想像できなかったが、ジョニーは、いつも本当のことを話した。その彼が、ポケットに金がはいると言ったのだから、これは望ましい手配というべきだろう。ドックの壁は、角を曲がったところにあった。高く、傾斜した壁が、まばらに灯りがともされた道の片側にあったが、夜になると人影がない道をたどっていくと階段があり、通りから更にあがっていくようになっていて、その上にある低い壁には出入り口が一カ所あった。

「おい、どうした?」バトスンさんは、ジョニーがガス灯の下で立ち止まり、ひとけのない道を見渡していると、疑わしそうに訊ねてきた。

「たったこれだけのことだ」ジョニーは、断固とした口調でいった。「母さんから、毎週、ぼくの金をとろうとしていただろう。母さんがぼくに任せた金なのに。さあ、ここに先週分のぼくの金がある」彼は、手のなかにあるものをふってみせた。「これをやろう。ただし、おまえがそこに立って、ぼくと闘うならだ」

「なんだって? お前と闘うだと? お前とだと?」バトスンさんは笑い声をあげたが、ひそかに不安を感じていた。

「そう、ぼくとだ。お前は闘うなら、女や足の不自由な女の子のほうがいいのだろうが。でも、神様がお前にチャンスをあたえてくださって、ぼくと闘うことになった。さあ」ジョニーは上着をほうりなげ、帽子をその上に放った。

「そんな馬鹿な真似はやめろ」バトスンさんは、傲慢に言い放った。「上着を着て家に戻るんだ」

「ああ、すぐに」ジョニーは不気味にも同意した。「すぐに家に戻るとも。おまえも一緒に連れ帰るとも。いいか。わかっているからな。お前は、家に戻って母さんのことを殴ろうと考えていただろう。頼まれもしないのに。それとも妹を殴ろうとしていたのか。それなら、僕のことを殴れ。そのかわり、その礼はしてやるからな」

バトスンさんは少し不快になった。「おそらく、お前は」彼はせせら笑った「ナイフか火かき棒を持っているんだろう。この前、脅かしたときのように」

「ただの棒も持ってない。お前は臆病者だ。僕より体は大きいし、体重も重いのに。いくぞ―」彼は、男の口のまわりを殴りつけた。

「さあ、闘うぞ」

バトスンは歯をむきだしにして唸り声をあげると、ジョニーの頭をめがけて、杖をふりおろした。だがジョニーの腕が稲妻のようにのびると、バトスンは転がっていた。「お前がしょっちゅうしていたことだ」ジョニーは言いながら、相手の腕をつかみ、杖をねじ曲げた。「さあ、たて。いいか」

バトスンさんはしゃがみこんだまま息をきらしていた。そっと鼻に触れたが、その部分は頼りなく、出血していることに気がついた。まるで暗闇で稲妻にうたれたかのようだった。しゃがみこんだまま横をむくと、彼は立ち上がった。

「僕を殴ればいい。さあ、殴れ」ジョニーは言うと、相手と向かいあった。「ぼくのたったひとりの母さんなのに、このろくでなしめ。さあ、お前のことを殴ってやる。いいか」彼は、相手の耳をつかむと捻りあげ、そのまま顔を叩いた。この扱いが、羊のような男を目覚めさせた。バトスンはジョニーに挑み、つかみかかると、相手をひきすった。ジョニーにすれば、願ってもないことだった。彼は地面を耕しながら、なかば武装した状態でイグサを調べた。だが、相手の動きをとめると、すばやいダブルを左にくりだした。顔が紅潮していた。

バトスンの、完全なる敗北であった。ジョニーは必死であり、正確に攻めながら、冷静さを保ち続けた。哀れなバトスンのほうが身体は大きく、体重も重いのだけが、甘い生活のせいで筋肉がたるみ、攻撃の技をもっていなかった。だが隅に追い詰められた鼠のように戦った―優勢にたつことのないまま、相手を蹴ったり、噛んだり、殴ったりしながら、無我夢中で取っ組み合いをした。だが少しも方向性はなかった。敵はあまりに冷静で、またあまりに素早く、動きだす前にすべての動きの見当をつけ、残酷なまでの正確さで連打してきた。

「嫌になればいつでも」ジョニーがこういったとき、バトスンはよろめき、壁にもたれかかった。「やめることもできる。わかっているだろう。警察をよべばいい。むこうの通りには、いつも警察官がひとりはいる。ただ叫ぶだけでいい。ただし、お前がさけぶ前に殴ってやる」

そして彼は強打した。耳を強く殴ると、バトスンの頭はふたたび壁のほうにのけぞった。もう片方の拳をくりだすと、また頭はのけぞった。彼は地面に倒れた。

「たつんだ」ジョニーは叫んだ。「たて。どうした、たてないか? わかっている。自分で倒れたんだな。ほうっておいてもらうために。だが、おれもしゃがんでやる」こう言うと、彼はバトスンの横にしゃがみ、もう一度殴りつけた。そして再び拳で殴りつけた。

「よせ」バトスンはうなり声をあげた。「俺の負けだ。ほうっておいてくれ」

「お前をほうっておくだと?」ジョニーは言うと、立ち上がりながら、上着に手をのばした。「だめだ。かあさんが頼んでも、お前はほうっておかなかった。そうじゃないか? お前がおれの前を通るたびに、お前のことを殴ってやる。それでもよければ家に戻れ」

ジョニーは、傷だらけになった卑劣漢のカラーをつかむと、その頭に帽子を無理やりかぶせ、ふくらはぎをステッキでぴしゃりと叩いた。「すすめ。行進だ」

「ほうっておいてくれないのか」バトスンは泣きごとをいった。「もう、じゅうぶんやったじゃないか」

「いや、まだじゅうぶんじゃない。もし言われたとおりにやらなければ、もっと痛い目にあうぞ。お前を家に連れて帰ると言ったんだ。さあ、かえるぞ。あるけ」

ハーバーレーンまで、暗い通りを二つ、三つ歩かなければならなかった。だが、その通りは短い通りだった。閉店時間を過ぎていたので、店に着いたときには、明かりが消え、扉は閉まっていた。ナンがジョニーのノックを聞いて、扉を開けた。すると彼は、自分の前にバトスンをおしだした。「こいつも一緒だ」ジョニーは言った。「まだ半分も鞭打ちが足りてないけど」

埃と血にまみれ、ほとんど見分けのつかなくなった顔に切り傷と痣をつくって、バトスンは箱に腰をおろしたが、それは屈辱的な姿であった。ナンは金切り声をあげると駆け寄った。

「ぼくがやったけど、近所のひとには聞こえないところでやった」ジョニーは弁明した。「男なら、ここに来るくらいなら、河に身投げしただろう。あれだけ脅かされたあとだから。こいつは本当に臆病者だ。こいつのために鞭を買うことにしよう。ここに約束した金をやる」彼は話をつづけながら、箱に金を置いた。「この数年間ではじめて、お前が自分で稼いだ金だ。だが、ここで金をもらうのも最後だ。お前に目をひからせているからな」

だがナンは、不名誉なその頭にむかって泣き崩れ、ハンカチで相手をぬぐうのであった。

30章

 

「なにがあったんだ?」ロング・ヒックスは、朝、仕事にむかう途中で訊いた。「手が傷だらけじゃないか」

「ああ」ジョニーはぶっきらぼうに答えた。「けんかさ」

「けんかだと!」ロング・ヒックスは、強く非難しているようにみえた。「どんな連中とつきあうのかは気をつけろ」彼は厳しく言った。「最近、製図も、他のことすべても軽んじているじゃないか。その上、けんかだと」

「恥じていないよ」ジョニーは、陰気に答えた。「今はいろいろ考えることがあるんだ。製図以外にも」

ヒッックスは相手を見つめ、どもりながら少し答えると、頭にのせた帽子をこすった。質問を続けたものだろうか。

彼らは黙りこんだまま、少し歩いた。ややしてジョニーは言った。「あいつと闘ったんだ。バトスンとだ」

「なんだって」ヒックスは叫ぶと、大またで歩きながらその言葉について考え、ふたたびジョニーを見つめた。「なんだって。バトスンと闘ったのか?」

ジョニーは、すべての話をぶちまけた。話していくにつれて、ヒックスは目をかっと見開き、その顔は紅潮したかと思えば、血の気がひいていき、両手は痙攣したかのように開いたり、握りしめたりしていた。何度も、何度も彼はむせ、意味のわからない言葉をどもりながら言った。

「仕事があるから、あの人でなしを見張ることもできない」ジョニーは疲れたように言った。「食べさせてもらっているうちは、やらないだろうけど。お母さんは、別居は世間体が悪いと考えているんだ。裁判官のところに行くだけなのに。こうして打ち明けたのは、君が近所にしゃべらないからだけど」

その日、ヒックスは週の残りを休暇にすることにしたが、その申し出はコッタム氏を心底驚かせた。ヒックスは、休暇をとらないことで知られていたからだ。

「わかった」親方はうなった。「たしかに今は暇だ。それにまだ使っていない休暇も一日、二日あっただろう。でも休暇がほしいなんてどうした? 陽気な性格になったのか? 女の子を追いかけているのか?」

たしかにロング・ヒックスの休日の過ごし方は、なにかを、だれかを追いかけている男のようであった。彼は複雑な散策旅行にでかけ、小さな路地を幾度も曲がりながら、通りを隅々まで歩いた。だが北の方へとむかい、ブロムリー、ボー、オールド・フォードをぬけ、ホマートンや沼地へとむかった。

そのあいだ、ジョニーもひとりで歩いて、職場へとむかい、やがて職場から戻ると、じっと考え込んだ。彼は、母親のバトスンへの態度がまったく理解できなかった。彼女が心配しながらも望んでいるのは、彼を追いはらうことで、ご近所様のあいだで不名誉なことにならないように、店の商いを危険にさらさないような手段をふんで追いはらおうとしていた。彼のせいで、彼女の人生は惨めであった。今でも、彼女は卑劣漢のせいでできた傷や殴られた痕を養生していたが、そうした傷をあたえる権利は彼にはないのだ。彼女が涙する機会は多くなった。ジョニーはどうかと言えば、彼はバトスンのことを容赦しなかった。むしろ相手を苦しめる拷問をあたえることで、おそろしい慰めをひきだしていた。

「いつ出ていくつもりだ?」彼はしばしば言った。「仕事をするくらいなら、養われていたいのだろう。だが、鞭でうたれるのは好きじゃあるまい。小僧に殴られるのも嫌だろう? 仕事をした方がいいぞ。これから僕とここで暮らすよりは。僕は喜んで、お前を仕事好きにしてやる。お前は臆病者だ。僕をやっつけようとしても駄目だ。お前が用心しても無駄だ。早ければ早いほどいい。じきにお前のことをまたぶちのめすぞ」

ベッシーは、自分の兄が陰気で、乱暴な言葉をはくようになったので呆気にとられていた。彼女といるときは、彼は少しも話しはしないけど、以前よりも親切なくらいであった。だが彼は気晴らしに、家のなかにひっそりと隠れ、人目につかないようにしているバトスンをいじめた。

ノラ・サンソン探しについては、ジョニーは熱が冷めかけている自分に気がつき、漠然と驚きを感じていた。今、そのことで母親に心配をかけるのも意味のないことであった。彼は一時間か二時間、意味もなく歩いて過ごしたが、真っ先に心にうかんだのは、自分は家にいて、バトスンをいじめなくてはいけないということであった。彼はなぜなのか理由はわからなかったが、自己反省に悩まされていた。彼は、ノラはけっしていなくなる筈がないという、内なる確信にまだ気がついていなかった。バトスンに罰をあたえることが早急の関心であったけれど、今のところ、その畜生は、まだ完全には罰されていないように思えた。

 

31章

 

ロング・ヒックスの休日は三日間つづいた。そのあいだにバトスン氏の打撲傷のうち小さな傷は緑色にかわっていった。ちょうど午後五時になったときのことであった。ベッシーは店にたっていた。向かいの造船所からきた二十人くらいの男たちは、汚れた青デニムの作業着を着ていた(今日は金曜日だった)。重い足どりで歩きまわる幾百人もの男たちの前衛で、その男たちは毎日あらわれ、出勤記録の箱の前にある置時計のように時間が正確だった。ベッシーは松葉杖をついて立ち上がると、チーズとろうそくの束のあいまに、窓辺から姿をあらわした。金曜日は、家に戻る男たちがあまり多く立ち寄る日ではなかった。その週の稼ぎも残りが少なくなり、贅沢が禁じられるからだ。ベッシーはあまり客を期待していなかった。誰も来る気配はなかった。

外を眺めていると、体格のいい女が、顔を紅潮させながら、急ぎ足で近づいてくるのに気がついた。女はドアの近くまでくると、足元のロング・ヒックスをみた。彼の顔は狼狽えるあまり、ますます長く見えた。

女は耳障りな叫び声をあげながら、店の中に入りこんできた。「私の夫に会いにきたのよ

!」彼女はさけんだ。「私の夫はどこにいるんだ?」

「こっちにきて」ヒックスは呼びかけたが、ひどく青ざめ、いらいらとしながら彼女の肩をつかんだ。「こっちにきて。約束を思いだすんだ」

「あっちに行ってよ。あたしにかまわないで。のっぽの馬鹿野郎。あたしの夫はどこにいる? あんたなの、あのひとを奪ったのは?」彼女はベッシーのほうをむくと、その顔にむかって喚きたてた。

「ちがう、ちがう」ヒックスはさけびながら、怒りを爆発させそうになっていた。「むこうへ行って、外で話そう」

「話しますよ。もちろんですとも。あの人と話すつもりだから」その女の言葉は、どの音節も耳障りで、頭に響いてきた。もうドアのところには、人だかりができていた。「あの人とも、その女とも話すわよ。信じられない話じゃないか」彼女は話し続けながら、ドアの方にむきなおると、人だかりにむかって熱くまくしたてた。彼女が言葉を発する度に、その人だかりは増えてきた。「自分のことを立派だと言って、レディのように店をかまえている女のくせして。ふざけないでよ。立派な女の旦那を連れていってしまうなんて。どうしようもない怠け者だったけど。あたしのところから逃げて、ほったらかしにして。もう十三年前のことだよ、ワトスンを最後に見たのは」

少年たちが四方から集まり、走ってきたので、群衆はふくれあがった。女がはりあげる声に人々は集まってきた。店をよく知っている男たちがたくさん立ちどまり、何の騒ぎなのか知ろうとした。みるまにハーバーレーンのすべての窓から、顔がひとつ、ふたつのぞいた。

「あたしの夫なんだよ! あたしの夫はどこなんだ? あたしの夫を奪った女はでてこい」

ナンもでてきたが、奥の居間のドアのところで立ちどまった。状況は理解できていないながら、恐怖におそわれていた。女がふりかえった。「あんたなの? あんたなんだね」彼女は金切り声をあげると、缶や箱の山をくずして、頭上の宙をかきむしった。「夫をかえして。この恥知らずの女。どこにあの人を隠しているんだい。あたしの夫はどこにいる?」

ヒックスは、その女の胴をおさえつけて、こちらの方をむかせた。彼は怒っていた。「出て行くんだ」彼は言った。「お前を連れて来たのは、こんな行列をつくるためじゃない。そうしないと約束したじゃないか」腕の力があまりに強く抗えないので、女はヒックスのほうをむきはしたが、相手の顔を爪でひっかき、夫をさがそうとする金切り声は途切れることはなかった。そのときジョニーが戸口にとびこんできた。人だかりをみて、むこうの曲がり角から走ってきたのだ

ヒックスはすばやく身をかわして女を避けると、その腕をつかんで、ジョニーにむかって荒々しい表情で合図をした。ジョニーは、なにも事態を把握していなかった。だが女が夫を探して泣き叫ぶ声を聞きつけ、彼も女の腕をつかんだ。「ご主人はだれなんだ?」彼は言った。「ご主人の名前は?」

「名前だって。もちろんバトスンだよ。ヘンリー・バトスンという名前だよ。さあ、あたしの夫を返してくれ。あたしの夫なんだ。じゃましないでおくれ、坊や」

ジョニーは、頭に思いがけない強打をくらった。だが、しばらくすると驚きは消えていったが、それでも怒りはやや残っていた。「連れてくるよ」彼は叫び、家のなかに駆けこんでいった。

これですべてに説明がついた。あの男には、別の妻がいたのだ。あの卑劣漢を彼女の前にひきずりださないといけない。それから警察にわたそう。警察を怖れていたのも無理がない。とうとう、これで重荷が運ばれていく。バトスンに罰がおりるのだ。有頂天になり、他のことは考えないで、ジョニーは次々と部屋にとびこんでいった。

だがバトスンの姿はなかった。彼のパイプが折れた状態で、正面寝室の炉格子にあった。彼のコートが、ドアの裏側にかけてあった。だが、他には何の痕跡もなかった。

ジョニーは裏庭にかけこんだ。そこも、もぬけの殻だった。だが裏庭には、はしけの老船頭が、片手にはペンキの缶をもち、もう片方の手でペンキを塗っていたが、マストに手をかけたのに登るのをやめたように立ちつくし、目をぱちくりさせながら凝視したまま、口はぽかんとあけていた。彼の家の扉は正面の扉も、裏の扉も開けっ放しだった。ペンキを塗ったばかりのせいであったが、前の通りまで見渡せた。こうした扉をとおって、バトスンさんは一分前に消え、壁をよじ登って、帽子もかぶらずにシャツ姿のまま逃げたのだった。だが老船頭は、そうするのも素晴らしい自由だと考え、ジョニーにも威厳をこめ、そう話した。

ジョニーは店に急いで戻った。「いなくなった」彼はさけんだ。「裏の扉をしめろ」

彼は追いかけてもよかったのだが、母親が気絶して倒れてしまい、ベッシーも取り乱して母親にすがっていた。「その女をおいだせ」彼は言った。ヒックスとのあいだに喚きたてる女をはさみ、通りにおしだすと扉をしめた。

外に追い出されても、彼女はまだ怒っていたが、その声もしわがれていき、やがて警察官がなだめにやってきた。ついに警察官と一緒に立ち去っていったが、それでもずっと大きな金切り声をあげていた。ハーバーレーンは、ナンの恥ずかしい重婚の話題で盛り上がった。

32章

 

ロング・ヒックスは憑かれたように話しながら、髪をかきむしり、店内を大またで歩きまわると、思いつく限りの言葉で自分に悪態をついた。ジョニーはまだ興奮がさめなかったが、だんだん思慮を取り戻しはじめた。彼がみたところ、ここでの商いには差し障りがでるにちがいなく、バトスンを放逐したという幸せも束の間だった。この先、どうなるのだろうか。母親はうちひしがれ、寝台に横たわりながら呻いていた。誰も彼女の世話をする者は、ベッシーをのぞいていなかった。今後も助けてくれる者はいそうになかった。しかも、彼らは近所と親しくしていたわけでもなかった。ハーバーレーンの女たちの厳しい道徳観を考えれば、そうした近所づきあいがあったにしても、つきあいはなくなるだろう。もうナンは試練にあい、責められた(こうした事柄について、ハーバーレーンでの反応ははやかった)。どの女も、彼女と一緒にスカートにブラシをかけようとはしないだろう。

「おれのせいだ。すべてはおれのせいだ」惨めなヒックスは言った。「こんな馬鹿な真似はするべきではなかった。でも、あの女があんな風になるなんて予想できなかった。約束をしたのに。いまいましい。余計な世話を焼くべきじゃなかった」

ジョニーはできるだけ冷静になろうとつとめ、店の居間の椅子に彼を座らせ、その自分を責める言葉の意味を知ろうとした。「余計な世話ってどういうことだい?」ジヨニーは訊ねた。

「あの女が騒ぎを起こしているのに気がついたけど-」

「ああ、でも止めることができなかった。駄目だった」ヒックスは言うと、絶望にかられた様子で首をふり、自分の太股を殴りつけた「おれがあの女を連れてきた。おれの責任だ。おれは役にたつことをしていると思っていたが、本当に愚か者だった。自分を撃ってしまいたい」

「彼女をここまで連れてきたって? その話をもっと教えてくれ。自分を殴りつけるのはやめるんだ。あいつが結婚しているのに気がついたのは、いつなんだ?」

「数年前のことだ。でも、あの女が生きているとは思っていなかった。おまえの母さんの結婚をきいたときには、死んだにちがいないと思った」

ジョニーの表情が明るくなった。「最近、休みをとっていたのは、あの女を探していたの? そうだろ?」

「そのとおりだ。でも、おれは馬鹿だった。事態をよくするどころか、かえって悪くしてしまった」

「そのことなら気にしないで。あの獣がここにいるより、ずっとましだから。あの女が死んでいるという考えが変わったのは、なぜなんだい?」

「よくわからない。ありのままに話すとしよう。ずいぶん前のことだが、ビショップのところで働いているときに、ライムの下宿にいた。下宿のおかみは、バトスンのことも、その奥さんのことも知っていた。二人は、犬と猫のようにいがみあっていると彼女は言っていた。ある日、バトスンは家を出ていった。奥さんは、彼が出ていっても悲しんだりしなかった。彼女は洗濯やとアイロン屋をはじめて、自分と子供たちの暮らしを守ろうとした。でもバトスンは働いても長く続かなかったから、すぐに職を失った。そして涙をうかべて、あの女にすがって、家に戻って養ってもらっていた。ああ、あの女もよくしてやっていた。想像はつくだろう。だが、あの女の我慢も一週間か二週間で、いつも口やかましく言っていたものだから、ついにバトスンはまた逃げ出して、二度と帰ってこなかった。あの女も、彼のことで思い悩んだりしなかった。かえってせいせいしたと言っていたくらいだ。おれがライムに住むようになる前のことだが、あの女は下宿屋のおかみさんと仲良しだった。あの頃、友達がきたときのためにウィスキーを一瓶用意しておいたんだが、そのふたりがこっそり飲んでいた」

「そのとき、あの女と知り合いになったんだね。あいつの奥さんと」

「顔をあわす程度だったけど。言うまでもないけど、話しかけたりはしていない。おれは無口だからね。そのときからバトスンを知っていた。あちこちの店で見かけたよ。あいつは独身男性でとおっていた。ライムの下宿には、長くはいなかった。この地区にきたあとは、彼女も見かけることはなかった。もちろん、あの男はしょっちゅう見かけたけど。彼がお母さんと結婚したと聞いたときには、最初のうちは少し驚いたよ。でも、そのときはこう思ったんだ。最初の奥さんが死んだ、死んだにちがいないと。だが、それからしばらくして、彼がどれほどひどいかお前から聞かされたときに、彼のいくじのない性格について考えはじめた。彼が怠けて暮らしているのは知っていたけれど、お母さんにそんなに辛くあたっているとは思わなかった。だから、お前が彼を追い出したいと話していたときに考えたんだ。それだけのことをする悪い男なら、他にも悪いことをしているだろうと。おそらく、最初の奥さんは生きているにちがいない。もしそうだとしたら、これはいい機会じゃないか。とにかく賭けにでることにして、一日か二日、最初の奥さんを捜してみた。ついに見つけた結果が、この大騒ぎだ。俺のせいだよ。自分を斧で殺してしまいたい」

「ああ、たしかにずいぶんな騒ぎだ」ジョニーは、憂鬱そうに言った。「たぶん店の商売は駄目になってしまうだろうし、母さんも半分死んでいるような状態だ。でも、こうした騒ぎは避けることはできなかったと思うよ」

「三日かけて彼女をさがした。下宿屋のおかみは亡くなっているから、その妹を探すことにした。だれも妹がどこにいるのか知らなかった。いろいろ難儀したあげく、あるおばあさんが、感化院にいる従妹のことを教えてくれた。感化院の従妹の考えでは、妹は死んでいるだろうということだった。だけどブルームリーの新聞販売所に聞きに行けばいいと教えてくれた。でも新聞販売所は閉鎖されていて、だれもいなくなっていた。その店の引っ越しにかかわった男を見つけたら、その男はバウに行くようにと言った。別の新聞販売店があるんだ。その販売店のひとはポプラーに行くように言った。そこにはブッシュエルという名前のひとたちがいた。ブッシュエルという名前のひとたちは親切で、オールド・フォードに行くようにと教えてくれた。そこでふたたびバウに戻ってきた。あちらこちらを探し回って、ミセス・バトスンに出会ったのはオマートン・マーシュズで、洗濯屋のところで働いていた。それが今日のことだ」

「でも、最初のうち、彼女は冷静にうけとめていた。旦那がどこにいるのか知っていると言ったときも、そんな知識はあなたの頭にしまっておけばいいと言って、知りたがらなかった。とても冷静だったよ。彼がふたたび結婚していると言うまでは。その話をきいたら、彼女は歯ぎしりをしながら口をむすび、おれを睨みつけた。そこで知っていることを話し、彼をひそかにこわがらして、追いはらってくれたらありがたいということを話した。そうしたら『まかせて』と彼女は言ったんだ。『どこに住んでいるのか教えてくれたらいいわ』とも彼女は言った。『こわがらせてやるわ。』『たのむ』おれは言った。ただし条件はつけた。彼女は曲がり角のところで待っていて、おれが彼のところに出てくるようにという伝言を届けるというものだ。彼には十分だけ時間をあたえ、もし望むなら服をまとめ、言い訳をさせて、身辺整理をする時間をあげるつもりだった。静かに、平和に、賢く、事をすすめるつもりでいた。『だいじょうぶ』彼女は言った。『場所を教えてくれたら、あとはまかせて』だから彼女を連れて来たんだ。でも曲がり角に到着して、どの家から教えたら、彼女は扉をあけて、あんな大騒ぎをおこした。おれがとめるより早かった。言葉とは逆の行動をするなんて思いもしなかったよ」

ジョニーにすれば、地味でおとなしく、歳は倍ほど違うにしても、自分より少年らしいヒックスがそうしてしまったことは、さほど難しい謎ではなかった。そこでヒックスを慰め、それは結局、親切な行為なのであり、バトスンを厄介払いできたのだから、どんな代償も高くはないと言ってみせた。「お母さんも、もう少し落ち着いて、その件を知れば、きっと感謝するよ」彼は言った。そしてすぐに考え込みながら言った。「ぼくは、そうした可能性に早く気がつくべきだった。あいつがこそこそ歩いて、そっと出入りしたり、警察を怖がっていたりする様子をみせていたのだから。今なら納得いくことがたくさんあるけど、もっと前から見抜くべきだった。扉の上に新しい名前をかかげたりしないで」

その夜、シャッターをしめ、扉にしっかり鍵をかけるまで、ナン・メイは、おそろしい女を近寄らせないようにしつこくせがんだ。ようやく彼女は眠りにおちたが、憔悴しきっており、ときおり身震いしたり、むせび泣いたりしながら目を覚ましては、あの女を追いはらうように懇願した。

ベッシーは、ジョニーと同じく安堵していたが、よく眠れず、漠とした不安におそわれた。そうしたなかで彼女の意識にあるのは、ぼんやりとしたものながら、赤い顔をした、叫ぶというよりも甲高い声をあげる女の記憶で、たしか森の祭りのときに、アイザックおじさんがバトスンを小屋に連れてきたときの思い出だった。

33章

 

ダンキンさんの立ち退き通告が、翌朝早くに届いた。そうした通告を送るということは、社会にたいして果たさなければいけない彼の義務であり、道徳、良心、美徳、礼儀正しさ、宗教、その他もろもろのことでもあり、彼はそうした事柄をためらうことなく列挙した。明くる日、彼が聖堂の信者席についたときに居心地の悪さを覚えたのは、そうした義務がまだ遂行されないで残っていることを知っていたからだ。彼は、おのれの言行不一致を昔から感じていた。

立ち退き通告は、商売がうまくいっていて確実だった頃、もう少し早く送るべきだった。だがダンキンさんも、造船所が閉鎖されるかもしれないという噂を聞いていたので、ずっと躊躇してきた。しかしながら今や、彼には選択肢がなかった。もしメイ夫人がその悪名をさらしたままにすれば、商いは醜聞にまみれ、落ち目になることだろう。そして再び、この場所は価値がなくなってしまった。さらに今回、彼女を追放したところで、新しく店をだすことを阻止するようには思えないから、人々から支持される正しい行いへの擁護にはならないだろう。

立ち退き通告が届いたとき、ジョニーは家にいた。彼はオッタムさんに伝言を送り、家族のことで緊急の用事がはいったことを告げた。

「こうなるだろうと予想していた」ジョニーは、相談相手として来てくれたヒックスに、この紙をみせた。「とにかく母さんは言っているよ。もう二度と店で顔をみせることも出来ないといっている。ベッドから出てくるのも怖がっている。ヒステリーをおこして言っている。子ども達に不名誉な思いをかけた、死んでしまいたいって。母さんは、まったくひどい状態だ。それに店も、もうおしまいだ。今、何をするべきかが大切だ」

するとヒックスは立ち上がったので、ジョニーと顔をむかいあわせる形になった。「ふたりでこの問題を何とかしよう」彼はいった。「他の連中なんか気にするな。おれは商売をしていたわけでもないし、とくに詳しいわけでもない。でも、お前たちを混乱させてしまった原因はおれにある。この状況からお前たちを救い出さなければ、おれは爆発してしまう。まずダンキンさんの狙いははっきりしている。この店の商売は、まあまあ順調だった。店の経営を奪おうとしての口実なんだ。まだ、お前は店を閉めていないけど、閉めてなるもんか。とりあえずビラをはろう。「店は閉店しました」とかそんな言葉でいい。客はどこでも好きな店に行かせて、戻ってこないように願うんだ。そのうち一日か二日すれば、彼はやってきて商品を買おうと言うだろう。ただ同然で買おうという魂胆だ。お前は折り合いをつけないでおくんだ。商品は売らない。色褪せたロウソク一本たりとも。でも、売らないとは言わない。そうだとも、おれたちは頭をつかって闘うんだ。もう一日か二日、考えたいと彼に頼む。一ポンドか二ポンドわたせば、相手が交渉にのるか確かめるんだ。おれたちが上手く交渉すれば、一週間は放置しておくはずだ。最後におれたちが困って、何かを取り上げるのを期待して。だが、おれたちは夜中そっと品物を手押し車にのせ、歩いて運び出す。そして彼は空の店に戻ってきて、当てがはずれるというわけだ。客が何を買っていたのかもわからない。一週間、あるいはもっと彼は歯ぎしりするだろう」

「でも、どこに商品を運ぶのかい?」

「どこにだと?ああ、どこでも大丈夫だ」ヒックスは、手をふり動かしながら答えた。「あちらこちらに空いている店がある。この二、三日で、おれがどれほどの店を見てきたか。びっくりするだろうよ。なかには、あまりよくない店もあったけどな。でも一週間もあれば、引っ越すことができる。また最初からやり直すんだよ。お前が三、四年前にしたように。さあ、やるぞ。約束だ。さあ、やろう」ロング・ヒックスは、両腕をがむしゃらに動かした。「少しくらいの金なら」彼は話し続けた。「たぶんお母さんもいくらか持っているだろう。もし持っていなくても、どっちにしても大丈夫。おれは独り者で、ずっと働いてきたし、銀行に蓄えもある。大丈夫。助けるつもりだから。だから助けを求めなくても大丈夫だよ。郵便局から借りられるのは一ポンドにつき六ペンスまでだ。それだけじゃあ十分じゃない。もう少しなんとかして、三パーセントまで借りられるようにするよ。お前がよければ、金を借りるつもりだ。だいじょうぶだよ。なんでもない。フォレストの路地はたくさん貸店舗があるし、在庫品もあるし、他にも品物はある。お前のやりたいようにやればいい。商いをやるんだ。一生懸命働いて商いをやるんだ。そうするしかない。さあ、戦闘準備だ。まずはお母さんと妹をここから連れ出そう。ハーバーレーンじゃないところに。知り合いのいないところがいい。そうすれば悩んだりもしなくなるだろう」

「どこに」ヒックスの激しさにおされ、ジョニーの思考は停滞したままだった。

「一時しのぎの宿だ。遠い場所でなくてもいい。ロンドンでは隣の教会区に引っ越すだけでも、五十マイル離れるようなものだ。じゅうぶんだ。まったく。今思い出したけど、歩いているときにうってつけの場所があった。ポプラーのブッシェルという連中のものだ。連中には大きすぎるんだ。家具つきの貸し部屋がひとつあって、誰か知り合いで借りてくれそうな人がいたら、紹介してほしいって言ってた。それから連中はオールドフォードまで送ってくれた。それにもう二部屋、家具のない部屋があく。来週だけど。店をたたむんだ。娘さんが洋裁をしていたそうだ。だから部屋も、店も使うことができる。そこに移って、品物をあつかえばいい。そうすれば運がひらける。いいじゃないか。物事が時計仕掛けのように進んでいく」

ヒックスは、下宿をたしかめに駆けていった。そして三十分後、四輪の辻馬車と共に戻った。

「ふたりに用心させながら、早く出てくるように伝えろ」ヒックスは言った。「御者には行き先を告げてある。お前は一緒に行って、二人を安心させるんだ。お前が戻ってくるまで、おれはここで待っている。いいか。むこうの家のひとたちが知っているのは、お母さんが旦那さんに逃げられて困っているということだけだ。家賃は、おれが前払いしてきた。さあ、行け。二人が出発するまで、おれは裏のほうに離れている。おれと会いたくないだろうから」

ナンとベッシーが、ベールをかぶって辻馬車に急いで乗り込むあいだ、ジョニーはこちらをふりかえる顔にむかって荒々しく睨みつけた。ジョニーには、その通りは理不尽にも慣れ親しんだものに思えたが、そこを通りぬけて、辻馬車はがたがたと進んでいった。理不尽にも、一日前と同じ風景であった。不幸がおそいかかって、世界を跡形もなく砕いてしまうより前の風景であった。彼らはブラックウォール・クロスからハイ・ストリートを通って、学校の前を過ぎた。そこには懐かしい家政婦が―ノラの別れの手紙をわたしてくれた家政婦だ―箒をもって立っていた。通りを二つ過ぎ、ノラといつも別れた曲がり角にきた。何年も前のことに思えた。ノラと会うのはいつになるのだろうか。しかも、どうやって。今、考えても仕方のないことであった。彼の頭には、もう考える余裕がなかった。

34章

 

「なんてことだ、その男を倒す時間を少しくれ」ブッシュエルさんは唸ると、洗濯場で、黄色い石鹸を冷たい水に泡立てながら、息をぷっと吹いた。彼は引き船から戻り、そこで洗濯をしていた。その声は、雷のように家の中に轟いた。だが、そこは二階で、他人に会話を乱されることはなかった。

 

「その男をたおせ、ごろつきを。その男をたおせ

そうだ、そうだ! その男をたおせ!

シンガポールの港から、陽気なロンドン・タウンへ戻ってきた

なんてことだ、その男を倒す時間を少しくれ!」

 

二階の踊り場では、「ひどいねえ! 気の毒なひとたちだね」ブッシュエルの奥さんは言った。太った奥さんは同情している様子で、ジョニーをみあげ、頭をふりながら、両手の指をかたく組み合わせた。「なんて可哀想なんだろう。もう誰のことも心配しなくていいよ。ああ、連中のことはわかるよ。それにメイの奥さんの気持ちも。でも、まだよかった。お前たちは大きいから、お母さんをささえてあげることができる。お父さんのことは何も言わないよ。恥知らずにも逃げ出すような男だもの。お父さんとお母さんがどうなるか想像もつかないけど。なかには、そういう親もいるからねえ。月曜日に、他の二部屋からでていく女の子も可哀想なんだよ。今では、もの静かで、立派なレディだけど。家から出て行かせてはいけないし、一週間はひきとめないといけないんだけど。その娘のために。あんな母親がいたら、落ち着ける住まいを見つけるのは難しいだろう。でも、ここにいると、母親が可哀想な娘の命を縮めるようなことをしてね。いつも酒を飲んでるんだ。とうとうパブの窓を割って、刑務所行きさ。ああ、ひきとめたいんだけどー」

「パブの窓だって」ジョニーはあえぎ、むせこんでいた。「彼女の名前は?」

「たぶん他人に教えたりしたらいけないんだろうけど。あの娘の知り合いでもないだろうからね。でも教えよう、サンソンだよ。ところで―」

「彼女はどこにいる? 会わせて。この家のなかにいるの?」ジョニーはドアにかけよると、片手でドアの取っ手をつかんだ。かたやブッシュエルの奥さんは仰天すると憤慨して、彼のもう片方の手をつかんで、必死に引きとめようとした。もどかしい思いをしながら、この下宿の奥さんに説明して、荒々しい攻撃をするつもりもなければ、いきなり若い女性の部屋に駆けこむような不作法はしないと言った。その結果、ブッシュエルの奥さんはドアのところに行くとノックをした。ジョニーは、そのすぐ後ろにいた。そして間もなくして、ドアが開いた。

「ノラ!」

「まあ、ジョニー。ジョニー、なんでここに来てしまったの…もう、私たち」だが、そう言ったところで、その言葉はジョニーの上着の胸のあたりで消えてしまった。ブッシュエルの奥さんは目をまるくすると、口もぽかんとあけた。それからブッシュエルの奥さんはそっと階下へ降りていき、洗濯室へと消えた。「その男をふきとばせ」の歌も、途中で止まった。

「うれしいけど、話したことは覚えているでしょう、ジョニー。だめなの。私たちは、だめなの」

「馬鹿な考えだよ。君をどこにも行かせないから。ぼくの母親も、もう評判がおちた。そう噂されている。君のお母さんはどうなの、あれから」

「母は診療所にいるけど、ひどい状態よ。この数年間、肝臓になにかが出来ているんですって。お医者さまが言ってたわ。飲む酒がなくなると、すぐに堪えられなくなるの。でも、あなたのお母さんはどうしてしまったの?」

ジョニーは、彼女に母の話をした。「今」彼は最後に言った。「彼女はここにきているよ。心がすりきれて、ぐったりしている。妹のほかには、この世に優しくしてくれる女のひとが一人もいないんだ。一緒に来て助けてほしい」そこで二人は一緒に母のところに行った。

35章

 

週がおわる頃、ヒックスは、自分の活躍ぶりに驚いていた。年があける頃になっても、彼はまだ驚き、いささか過度なくらいに誇りに思っていた。やがて人生の終わりをむかえる頃になっても、その週の英雄的行為について、些細な部分といえども忘れることはないだろう。バトスンの令状をもった警察官が来たり、ダンキンさんのところから若い男が商品のことで商品来たけれど、彼はそうした連中を追いはらった。他に半ダースくらいの連中が来たが、威勢よく、てきぱきと追いはらった。彼は新しい店を見つけた。実際、二十店舗ほどあった。そこでナン・メイも起きてきて店を選んだが、商売をするには絶望的な墓場を、知らないあいだに借りてしまうのではないかと心配した。だが、それは彼女をふるいたたせた。やらなければいけない仕事が見つかり、考えることができたからだ。いったん始めてしまうと、彼女は昔のように精力をかたむけて仕事にあたった。それはよく知り尽くした、なじみのある世界だった。店は、ハーバー・レーンのようなところにはなかったので、一番いいものでも、以前のような店ではなかった。さらにその場所は陰気な通りで、河も見えなければ、船も見えなかったけれど、そこで品物を売ることは見込みがありそうだった。それが肝心な事柄だった。ハーバー・レーンからの品物で、この店をいっぱいにしたことも、ヒックがおさめた成功だった。ハーバー・レーンから密かに、夜、手押し車にのせ、くすくす笑いながら運んできたのだが、それはカニングさんが狡猾な、延期作戦にでてからのことだった。彼は照れながらも大喜びでその話を語り、また店が哀しいことに空っぽになっていたことやら、ダンキンさんが月曜日の朝になって新しい自分の支店を開店したときの混乱ぶりやらについて語ったのだった。そしてアイザックおじさんが―姪の新しい店のことは、とっくの昔に知っていた―、聞き手にしばしば請け合うのは、ヒックス氏が広範囲にわたる商売のやり手であり、企業経営の天才であるということであった。

「そう、天才だと言っているんだ、コッタムさん。非凡な才能の持ち主で、天才なんだよ。雨がぱらつく昼下がりに、コッタムさんとヒックスは、波止場近くの倉庫で雨宿りをしていた。やがて波止場から戻ってくる途中の、アイザックおじさんも、そこで合流した。

コッタムさんは鼻をならした。彼は、以前、二回ほどアイザックおじさんに会ったことがあった。

「閣下」アイザックおじさんは話しかけると、賞賛の眼差しで、不安げなヒックスを見つめた。「閣下! もう少し野心というものがあれば、さらにご活躍されると思いますよ。なんて輝きが外交問題の亡者たちに射すことか。企業経営について話してください。どうして企業とか、ええっと、そうした組織がいいのかと。そう、ええっと、女王陛下の所有物にたいする大使のようなものだと、私は日ごろから言っているのですが」

にわか雨の勢いが弱まり、男達は波止場へと出た。コッタムさんは、腰かけていたロープの山から立ち上がると、その場から視線をそらし、アイザックおじさんの頭上の壁を見つめた。「マンディさん!」彼は、期待にみちた群衆にむかって話をはじめるときの様子で、声高に呼びかけた。人さし指で相手の肩にふれると、そのまま、その指をアイザックおじさんの胸の上までおろした。「マンディさん!」

それから彼が口をつぐむと、アイザックおじさんは言った。「やめてくれよ、コッタッムさん」

沈黙はつづき、強烈なものになった。親方が顔をほころばせ、視線を下におとしていくと、やがてアイザックおじさんの目とあった。すると親方はくすりと笑い、ふざけて人さし指で突いた。「なんておしゃべりだ、冗談ばかり言って」コッタムさんは言った。そして波止場をどしどし歩いていくと、くすりと笑い、ずっとほくそ笑んでいた。

36章

 

こうして日々が過ぎ去り、月日がたつうちに、ナンの悲しみは心から消え去り、そのつらい思い出も、彼女の記憶から失われていった。新たな日々が、あたらしい平和をもたらした。おそらく新たな日々は、退屈ですらあった。ここは退屈な場所であり、通りは立体感のない壁でできていて、汚れ、心配そうな通行人が通る場所であった。でも外が退屈なこと位、たいしたことではなかった。やらなくてはいけない大変な仕事が彼女にはたくさんあるし、自慢の息子もいるのだから。

ノラにとって悲しいことに、だれにも相談することができなかった。彼女がよく知っている病院のベッドのことも、その枕にもたれかかる灰色の顔が弱っていく有様も、まわりの様子がわからなくなっていく様子のことも。そしてついに涙をながしながら、粘土色の墓地にたつ日がおとずれた。それは孤独な日であったが、不思議なことに、退屈なくらいに心は平穏であった。

だが、こうした日々も、他の日々と同様に過ぎていき、年月が過ぎた。通りは冬になればぬかるみ、夏になれば埃っぽくなった。煤けたゼラニウムが窓の下枠で花を頑張って咲かせ、やがて枯れていった。何マイルも離れたところで、森は新緑から、茶色く紅葉の時期をむかえ、やがて白銀の世界へと変化していった。新緑の時期がくると、森を追われた一家は、年に一度だが、森をながめに行くのであった。だが、その姿は今でも、ベッシーの夢のなかでひろがっていた。

二年が過ぎ去り、ジョニーはあと五ヶ月で二十一歳となるが、そのときがくれば彼の見習い期間は終わりになるのだ。見習い期間が終わりに近づいた八月のある日、彼は森をひとりで歩いていた。来年は、森には遠足にいくわけにはいかないだろう。その頃には、運にめぐまれていたなら、彼は海上にいるのだから。会社が推薦状を書くと約束してくれたので、その推薦状があれば、彼は四等機関士として、航海に一年間でることになるだろう。

ベッシーとノラも、その休日をともに過ごしていた。だが、ふたりはボブ・スモールピースの小屋にとどまって休んでいた。ボブはがっしりと日に焼けて、皮のように固い肌で、あいかわらず昔のままであった。彼はジョニーとベッシーには毎年会っていたが、母親には会っていなかった。最後に会ったのは―姉に会いにロンドンに行ったときのことだ。ロンドンにまたすぐ行くべきかどうか、彼にはわからなかった。しばらくのあいだ、彼は客に紅茶をいれた。

彼らは丘をのぼって、祖父の墓へいった。すると墓は緑につつまれ、手入れがされていた。そのかたわらには、最近埋葬されたばかりの、別の墓があった。そこに葬られたのは誰なのだろうか。モンク・ウッドで花をあつめ、ラフトン・キャンプに長い間とどまった。グレン・サイドにあるコテージを再訪した。ジョニーは、帽子を落とさないように、ドアのところで前かがみにならなければならなかった。彼はボブ・スモールピースと二インチしか身長が変わらなくなっていた。そして今、ジョニーはひとりになると、ウォームリィトン・ピットへの道をたどっていた。最後にこの道にきたのは六年前のことであった。もう再び、この道を歩くことはないだろう。

道はだいたいのところ、かつて彼がスモモの籠を運んだ日と変わらず、祖父が最後になる蛾の採集をおこなったあの夜のままであった。ジョニーは、もう何年も前から、子どもっぽい幻想を抱かなくなっていた。今や、木はただの木でしかなかった。他と比べて恐ろしいものではなく、陽光のなかで青々と輝いていた。だが、あの夜ですら、彼の心はロンドンをかけめぐっていた。ロンドンに憧れる気持ちは、今や彼の奥深いところに根づき、古くさい街の臭いも、なじみのあるものになっていた。もう一度、老人が亡くなったときの不思議な状況について考えてみたが、次にこうした機会が訪れるのがいつになるのか予想はつかなかった。

小道の分岐点にさしかかったが、そこから彼はゼイドンへむかった。あの木の下で、老人のランタンの灯りに気がついたのだ。やがて谷がひらけ、そこにはヒースが咲き乱れていた。穴のまわりに茂る木イチゴや草藪は変化していた。草丈は高くなり、広がっていたが、もう枯れていた。穴のなかでも、小さい方の穴は、六フィート近くある男の目には、どうやら浅いもののように思えた。ピットと呼ばれている深い方の穴は、一番離れたところにあった。ジョニーは、ぼんやりとではあるが見覚えのある男に気がついた。その男は、穴の縁にしゃがんでいた。

彼はでこぼこした土地をすすみ、むこうに見知らぬ男がいる穴のところまできた。その穴は、老人がかつて命をうしなった穴であった。おそらく、底は流れ込んできた砂利のせいで、一インチは高くなっていたが、真ん中の石ははっきりと見えていた。

向こう側の男は、ポケットナイフで木のくいを切り取っていた。彼が着ているコーデュロイの型に、ジョニーは見覚えがあった。ジョニーがしばらく見つめていると、男は皮のように硬い、赤銅色の顔をあげた。するとジョニーは、相手が誰なのかわかった。アモス・ハニーウェルだ。密猟者として知られている男で、密猟一家の頭だ。アモスは木のくいをポケットにしまいこむと、また別のくいに取りかかった。

「やあ、アモス」ジョニーは、穴のむこうから呼びかけた。「ぼくのことが分からないかい?」

その男は顔をあげて見つめた。「ああ」彼はいった。「わからない」

ジョニーは、相手に自分の名前を告げた。

「なんだって」アモスは答えると、片付いていないくいをおしやった。「ジョニー・メイか? 蝶とりの老メイのところにいた男の子なのか。この穴に落ちて、事故で亡くなったんだよな」

「ああ、もし事故なら」

「まあ、もう仕方ないことだ。でも、お前は倍くらいの身長になった。長いこと会っていなかったからなあ」アモスは口をつぐむと、ジョニーを強く見つめ、自分の腿をぴしゃりと叩いた。「それにしても」彼はいった。「まったく奇妙なめぐりあわせだ。ここでお前に会うなんて。この前の水曜日の葬式のときに来ていたのか」

「いや。どこで葬式があったんだい?」

「おじいさんが葬られている教会だよ。まあ、お前はこのあたりに住んでいるわけじゃないからな。それにしても、これは奇妙な再会だよ。この穴でお前と会うなんて。この前の水曜日に死んだ男も、事故で死んだんだよ。干し草の山から落ちて」

「誰なんだい」

「クーパーセールという男だ。スタイルズの家の者だ。ここに六年間ほど住んでいた。けれど彼のことは知らないだろう。事故をおこしたのは、あの男なんだ」

「事故をおこしたって。どういうことなんだ」

アモス・ハニーウェルは立ち上がると、穴の底へと親指をつきだした。「この穴だったな」彼はいった。「お前のおじいちゃんが亡くなったのは」

「彼がおじいちゃんを殺したということなのか?」

「お前が何を言おうと、もう問題じゃない。今では、あいつも死んでしまったのだから。だが、おじいちゃんが殺されたと言うつもりはない」アモスは、穴の縁のところでうつむき、話をしながらやってきた。「わかってほしい。やつはクーパーセールの者だったけど、ここには来たばかりで、ほとんど何も知らなかった。だから、ここは兎とかを獲るのにいい場所だと思って、くいと罠をしかけたんだ。暗くなったばかりの頃だ。覚えているだろう。その最中に、奇妙な老人がランタンをもって近づいてくるのが見えた。探し物をしていた。何を探しているんだろう。罠をどうしょう。もちろん、やつは考えた。彼は、木いちごの茂みに隠れていた。でも老人はだんだん近づいてきた。すぐにスタイルズは、おじいちゃんが罠にかかってしまうと気がついた。そこで突然飛び出して、おじいちゃんを押し倒してから、罠をつかんでボルトをしめた。でもおじちゃんは、そのまま穴に落ちていった。どうすることもできないまま落ちていった。ああ、そのあとはお前も知ってのとおりだ。

「いつから気がついたんだ?」

「いつから気がついただと? ずっと気がついていたさ。他の連中も同じだ」

「それなのに一言も言わなかったんだな。警察にも」

「あいつだって可哀想なもんだよ、辛い目にあわせたくないじゃないか」

これが謎めいた事件の真相だった。不思議でも何でもなかった。ふと線がまじわった偶然にすぎなかった。ただの偶然にすぎず、他の出来事と同じようなものであった。そしてアモスは、そうした考え方からすれば、たしかに正しかった。

陽の光は、丘のうしろに消えていった。そして夕闇に顔が分からなくなりながらも、管理人は友達に手を振り続けた。そうだ、近々彼らに会いにロンドンに行こう。いつ頃になるだろうか。そうだ、近いうちに行こう。

三人は一緒に、いい香りが漂う道を戻っていった。白い幽霊蛾がその道に舞い、新しい冒険の世界へと飛び立っていった。(完)