さりはま書房徒然日誌2024年12月11日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月十八日「私は絶叫だ」を読む

十一月十八日は「私は絶叫だ」と「絶叫」が語る。誰からも気がつかれない絶叫であり、「一瞬息を止めても すぐに私を錯覚と見なし」てしまう絶叫である。

そういう不可思議な絶叫も、以下引用文も、どこか現実の一本向こうにある不思議な世界の趣きがある。丸山文学の魅力に、こうした幻想めいたところがあると思うのだが、初期作品にはあまりこうした感覚はなく、徹底的に現実を見据えている気がする。

作品にどんどん幻想めいた要素が入り込み変化していったせいで、初期の読者はついていけなかったかもしれない。また幻想文学ファンは、初期作品のイメージが強くて、あまり手に取ろうとしないのかもしれない。残念なことだと思う。

それでも私は
   捨て身で敵陣を突破する兵士のように突っ走り
      四囲の暗黒の山に撥ね返され
         無人のボートが密かに死者の魂を運ぶ山上湖をさまようのだ。


丸山健二『千日の瑠璃 終結5』57ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年12月10日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月六日「私はマツタケだ」を読む

十一月六日は「私はマツタケだ」と「マツタケ」が語る。
ちっぽけなマツタケがとらえる世一の姿の不可思議な複雑さに、人間の神秘を感じ、色々あれどそう捨てたものではない……という気持ちになってくる。
それにしても七割、二割、一割……という表現とか、どうしたら思いつくのだろうか。

というか
   私のほうがその少年を発見したと言うべきであり、

ヒスイなんぞよりはるかに珍しく
   もしかすると希元素よりずっと貴重な存在かもしれぬ
      七割の青
         二割の白
            そして一割の影をもって
               不自由な身を固めている病児との出会いは
                  奇跡と呼べる遭遇だった。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』46ページ)

事の本質を喝破しそうな眼差しを注いできて

(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』47ページ)

本心の在り処がまったくわからぬその少年は
   沈黙と凝視によって
      なんとも奇妙な威圧感をつづけ、

(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』48ページ)

存在の価値というものがいかに曖昧であるかという意味の
   いかにも残忍な嘲笑を浴びせかけるのだった。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』49ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年12月9日(月)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』より「時は常に朧なり」を読む

大町で暮らす丸山先生が庭の花々の開花に陶然とする言葉の勢いに圧倒されつつ、大町の冬の厳しい寒さを思う。
寒い分だけ春の訪れを堪能できる丸山先生の心と、私が身を置いている冬もぬくぬく暮らせる便利さとではどちらがいいのだろうかとも思う。
花々の開花をこんな風に感じることはできない己に、冬の間おそらく雪で真っ白な世界に暮らす丸山先生が羨ましくなる。

でもやはり雪も寒さも嫌なのだが。

それらの開花が複雑に絡み合って織り成す空間のど真ん中に八十年間生きた身をそっと置き、色とりどり、形状さまざまな花が奏でる、不協和音を多用した現代音楽的な交響曲に陶然となる数日間、

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』30ページ

精神の蟄居が突然解除されたかのような、あるいは魂の餓死から免れたかのような、そんなひと時に浸ることができれば、

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』30ページ


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さりはま書房徒然日誌2024年12月8日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月十三日「私は自転だ」を読む

十一月十三日は「私は自転だ」と少年世一を軸にした自転が語る。
「夜と思えば夜」「昼と決めれば昼」「早くもなり遅くもなり」と自転をつかさどる世一。
思うようにならないことが多い世だけれど、言葉を使い考えるときだけは、私たちも世一のように自転をつかさどって、時まで支配することができるのかもしれない。
それこそが言葉を使う意味であり、文学の役割であるのかもしれない。

少年世一を軸に
   人知れず
      人物のたぐいにも知られずに
         密かに回っている
            まほろ町の自転だ。

私には周期というものはなく
   世一が夜と思えば夜
      世一が昼と決めればそこには昼が存在し、

彼の望み次第
   好み次第によって
      私は速くも遅くもなり
         ときには完全に停止することさえあり、


しかしながらその認識は
   生死のいずれも関知しない彼には
      見事なまでに欠落している。

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』34ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年12月7日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月十二日「私は観菊会だ」を読む

まほろ町の観菊会に来ても、菊はそっちのけで飲み食いに夢中になる年寄りの見苦しい一行。その有り様を擬音語を使って強調、菊人形にまで反映している文が面白いなあと読む。

がつがつ食べ
   がぶがぶ飲み
      ずるずるすすりこむ音が
         私の雰囲気をいっぺんでぶち壊し、


一番繊細な種類などは
   花弁を散らせてしまうありさまで、

菊人形の大半がその上品な顔を曇らせた。


丸山健二『千日の瑠璃 終結5』32ページ

 私は、観菊会の菊はあまりに作り込まれた感じがして好きではない。でも苦心して作られた不自然な菊も、それをいっぺんでぶち壊す老人も、どっちも自然な美しさとはかけ離れている点ではどっちもどっちだろうか

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さりはま書房徒然日誌2024年12月5日(木)

製本基礎講座 「帙」(ちつ)をつくる

まるみず組の基礎製本講座で「帙」を二回かけて作る。今日はその一回め。
「帙」は和綴本をくるりと包んで保護する巻物。私が作った帙は天地がない。面だけ保護する。あとは並べて積んでおくらしい。

世界大百科辞典で「帙」を調べていると、「黄巻青秩」という表現が出てきた。以下説明より

布には濃紺,書物そのものには黄ばんだ紙が用いられることが多かったので,書庫に積み上げられた蔵書の山を〈黄巻青帙〉と形容することがある。帙でおおわれると,本が横になってその上下の黄色い面が露出するためである。

今の生活では馴染みがなく、私は製本講座で「帙」という言葉を知った。だが日本には八世紀頃から存在していたらしい。また中国から伝わってきたものらしいので、中国ではもっと昔から使われていたのだろう。

昔から存在するものだろうと製本の大事なポイントは同じ。「角は直角になるようにすっきり」が出来てなくて、天地がダブダブした状態に。最後、先生が丁寧にもう一度そのダブダブ部分をやり直してくださった。
製本のときは直角マインド、忘れないようにしたい。

(まだ途中までながら私の作っている帙。次回、爪や紐、内側に布や紙を貼る予定)

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さりはま書房徒然日誌2024年12月4日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月八日「私は水晶だ」を読む

十一月八日は「私は水晶だ」と、世一の亡くなった祖父と世一しか存在を知らない、岩の奥にひっそりと存在する水晶が語る。
『千日の瑠璃』は「私は◯◯だ」と物に語らせる掌編を千以上書いてから、床に散らしたその文を拾いあげ、だんだんと一つのストーリーにしていった……というような成立過程を、丸山先生のオンラインサロンで伺った記憶がある。

以下引用文。
このあたりで欲望について記した文をまとめたのだろうか……という気もする。


一つ前の十一月七日では、世一の家族に大金を掲示して、丘の上の家と湖を結ぶケーブルカーの話をする女二人が出てくる。

十一月八日は、ひっそりと存在することに飽きてしまった水晶が、欲望の視線を求め、こう語ってみせる。

以下引用文で人間の欲望について語る水晶。その姿の不思議な佇まいに読んでいる方も思わず手に取って眺めてみたくなって、自然に欲望にかられてしまう。

私が見たいのは
   欲望を剥き出しにした
      ぎらぎらと燃えるような眼であり、

徒労とわかっていながら
   なお執拗に迫ってくる
      擦過傷だらけの腕であって
         それ以外ではなかった。

その辺にいくらでも転がっている石ではなく
   豆粒大のちっぽけな水晶でもない
      稀有な私は
         その中心部に青い鳥の羽毛を閉じこめている
            まさに奇跡の宝石なのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』17ページ)

 

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さりはま書房徒然日誌2024年12月3日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月六日「私は神輿だ」を読む

十一月六日は「私は神輿だ」と、「神輿」がまほろ町の住人たちを語る。

以下引用文。神輿が少年世一に呟かせる「高がこれしきの世を生きるのに 何を斟酌する必要があろうかという」という言葉、そういう思いはあっても、やはり祭りの勢いの中でないと呟けない、強気な言葉なのかも知れない。いや普段から、こうした思いを抱いて生きたいもの、と思った。

最後に私は
   酒なんぞ飲まなくても四六時中千鳥足で歩くことが可能な少年に
      高がこれしきの世を生きるのに
         何を斟酌する必要があろうかという
            そんな意味の言葉を呟かせ、

とはいえ
   それが本当に彼の口から出たのかどうかは疑わしく、

ひょっとすると
   彼自身の魂から迸り出た
      天の声なのかもしれない。


      
丸山健二『千日の瑠璃 終結5』9ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年12月2日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』より十一月四日「私は徘徊だ」を読む

十一月四日は「私は徘徊だ」と「子どものいない夫婦によって ペットとして飼われているホルスタイン種の牛が ふと思いついて深夜に試みた」徘徊が語る。
丸山先生をどこか思わせる夫妻である。牛は飼ったことはないと思うが、大型犬を飼われていたとき、こんな脱走劇があったのでは……と想像してしまう。
以下引用文。そんな脱走を試みるペットの心情に、自分の理想とする生き方とのギャップを重ねた文が心に残る。
そういう満ち足りた環境から脱出したい……と思う心から、まず言葉が、文学の芽が生まれてくるものなのかもしれない。

何不自由ない暮らしと
   惜しげもなく注がれる慈愛に
      押し潰されるのではないかと危惧した牛は
         降り注ぐ青々とした月光に刺激されて悶々とし

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』398ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月30日(土)

見台の敵を知る

根津美術館で開催された浄瑠璃「傾城阿波鳴門 順礼歌の段」を聞きに行く。太夫は呂勢太夫さん、三味線は藤蔵さんである。

この企画は、阿波徳島藩主・蜂須賀家に伝来した重要文化財「百草蒔絵薬箪笥」の展示に合わせたもの。ぜひ徳島ゆかりの浄瑠璃を美術館で!と文楽好きの学芸員さんが願い、実現したとか。ありがたい限りである。


浄瑠璃の前に呂勢太夫さんのお話が20分ほどある。呂勢太夫さんは、若太夫襲名のときの口上も鮮やかであったが、本当にこういうトークも軽妙洒脱、ユーモアと博学の混ざった語りが楽しい。


色々印象に残る話をしてくださったが、そのなかでも特に記憶に残ったことをひとつ。

それは漆で塗られた見台は乾燥に弱い、ということ。劇場は乾燥しているので、見台が一日でひび割れたりすることもあるとか。そんなに乾燥しているとは!意外であった。

見台がそれほど傷むなら、人形のお肌や髪もダメージを受けるのでは?などと思ったりもした。新しくなる筈の国立劇場が、太夫さんが見台へのダメージを心配することなく置いておけるような劇場になれば、とも思ったりした一日であった。

↑呂勢太夫さんの今日の見台。見台の漆細工は客席からよく見えるようにデザインされたものが多く、根津美術館に展示されているような近くで眺める漆細工とは趣が違うそうだ。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月29日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』より十月二十九日「私は想起だ」を読む

十月二十九日は「私は想起だ」と、「少年世一のどこまでも不完全でありながら 同時に完全でもあり、 万事にあけすけな脳から次々に生まれる 変幻自在の想起」が語る。

以下引用文。
私たちの脳裡をとりとめもなく過ぎっていく想起の数々。
いったい何処から生まれるのだろう。過去の日々か現在の無意識か未来の予感、それとも別次元に存在している知らない私の記憶?
理解できていなかったり、意識になかったり、そのときには意味もなかった場面や言葉が浮かんでくる記憶の不思議さを思う。
たしかに「想起」こそ人間の証拠なのかなあと思う。

ときとして彼は
   生まれてくる前にどこかで得た体験とどこかで仕入れた知識でもって
      私を仰天させることがあり、

たとえば
   笛や太鼓に囃されてひと差し舞った日々や
      たとえば
         立憲君主制の打倒に欠かせぬ言葉の数々が
            突如として甦ることが間々あり、

それこそが
   人間のなかの人間である
      何よりの証拠なのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』375ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年11月28日(木)

和綴じ・麻の葉綴じにトライする……難しい、でも楽しい!

まるみず組製本基礎コースで、和綴じ・麻の葉綴じにトライする。
かがり糸が一筆書きになるように、麻の葉模様になるように考えた昔の人はすごい。中国の綴じ方を部分的に取り入れた麻の葉綴じ(と思う)は、アジアの知恵が詰まっている。

そんな知恵の結晶、スイスイ作るのは難しい。

今日もかがっている途中で「あれ、変!」と思うこと二度。その度に糸を解いて後戻り……しようとしても和綴じは丈夫、頑丈。中々解けない。自分の失敗を解くことすら出来なくなって先生に解いて頂く……こと二度。情けない限り。

私は麻の葉を見たことがないが成長旺盛で、健康に育つシンボルだそう。そんな願いを糸で表現する昔の人の雅を感じながらの麻の葉綴じ。また家で練習して、今度はしくじらないようにしたい。

↓今回は裏打ちした布を表紙に使用。柄物だと穴の印が見にくいことに気がつく。糸に悪戦苦闘しているうちにヨレヨレになってしまい、本文が表紙からはみ出している!

天地を半分にしたサイズで作れば、詩集に向くのではないだろうか。和紙で出来た詩集もいい気がする。頑張って復習制作しよう。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月27日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』より十月二十八日「私は棘だ」を読む

十月二十八日は「私は棘だ」と、バラの棘が世一の母を語る。

私は棘だ、

枯れた花を見下しがちな世一の母親の人差し指の腹を突き刺すことにより
   バラとしての威厳を保とうとする
      針のように鋭い棘だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』170ページ)

「千日の瑠璃」でバラが出てきたのは、このページが最初だったのではないだろうか。
バラの庭をつくってきた丸山先生が、まず最初に棘に語らせるとは!たぶん手入れをされながら、散々棘に刺されてきたのではないだろうか?
その棘にも「バラとしての威厳を保とうとする」と見るあたりに、バラへの深い愛情を感じてしまう。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月26日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』より十月二十二日「私は教室だ」を読む。

十月二十二日は「私は教室だ」と教室が語る。
まず冒頭の教室の様子や場所を語る「なんとも古びた木造校舎の あやまち川に最も近い教室だ」という言葉に、丸山先生から見た教育の危ない有り様が端的に語られていると思う。

以下引用文。そんな教室の中で育てられる子供たちの姿。これは今も変わらないのだろう。だから不登校の生徒が年々増えてきているのかも、真っ当な感覚の持ち主なら耐え難いものがあるのかも、と思った。

これまで私が仕立て上げてきたのは
   お上の後ろ盾を得たときのみ屈強になり
      果断な行動に出る
         ロボット的な兵士と
            教唆煽動や威嚇に弱い腰抜けの国民のみで


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』348ページ)

以下引用文。深夜の教室に少年・世一が忍び込んで、教師役、生徒役を演じる。生徒の言葉に丸山先生が理想とする思いが滲んでいるように思う。


教師は黒板にオオルリの絵を描いて
   「ぼくはこの鳥に従うが、きみはどうかね?」と
       そう尋ね、

すかさず生徒は
   「従わせようとしない者に従う」と
       そうきっぱり答え、

授業はそれきり終了し
   あとに残されたのは
      自立の精神の余韻と
         自由の息吹だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』349ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月25日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』より十月二十一日「私は精進料理だ」を読む

十月二十一日は「私は精進料理だ」と精進料理が語る。
丸山先生の作品にはよく禅寺や禅僧が出てくる気がするが、どちらかと言うと批判的な視点で書かれていることの方が多い。ごくたまに神秘的な存在として書かれていることがあっても、揶揄するような視線が感じられる。
以下引用文もそうではないだろうか?

応量器と呼ばれる漆器の鉢に盛られた
   彼らの情よりも薄い粥、

石と石頭で漬けこまれたタクアンと
   胃袋に溜まった怒りを鎮めるためのゴマ塩
      それが朝餉のすべてであり、

昼餉は
   歯応えがあり過ぎる麦飯と
      少しはまともな味がする汁


飛竜頭と名付けられた
   未練がましいがんもどきと
      野菜の煮付けにタクアン、

そして夕餉は
   その残り物。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』342ページ)

禅寺の台所の戸口から覗き込んでいるようなリアルさが、言葉にあるような気がする。
応量器と呼ばれる漆器の鉢に盛られた 彼らの情よりも薄い粥という言葉に、何があったのだろう……禅僧への怒りが「応量器」や「薄い粥」という言葉に皮肉たっぷりに込められている
それにしても禅寺の食器のことを応量器と言うなんて、ここで初めて知った。私には禅寺の精進料理は、身体に良さそうな食事に思えてならないのだが。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月24日(日)

手製本・和綴・四つ目綴じに再度トライ

今月まるみず組の製本基礎講座で四つ目綴じにトライしたばかりなので迷ったが、飯田橋にある本づくり協会で美篶堂さんの四つ目綴じ講座を受けてきた。
こちらでも学ぶこと多々、再度トライしてよかった。

手製本の世界にいる方々は、どこの工房の先生も丁寧に、手を抜くことなく、それぞれ独自の工夫を凝らしている。今の社会には珍しくどこでも同じやり方……ではない。それぞれに良いところがある


そしてどこの工房でも五感をフルに働かせて、私のモタモタの原因を教えてくださる……指摘される私のマズイ点がその都度違う。私って360度改善の余地があるんだ……と驚くやら、呆れるやら、感心するやら。


そうした指摘は、それぞれの先生方の日頃の工夫があるからかなあ……と余り具体的に書かないようにしているのだが、この位なら許されるだろうか……

目打ち(千枚通し)を和綴にあて、かしわ棒(たたく木の棒)で叩き、表紙、本文、裏表紙に穴をあけようとしていた時のことだ。
私の叩く音が「ドンドン」と低くどこか変だ……と先生が耳をすます。それから和綴の押さえ方、かしわ棒の握り方、手首の曲げ方、肘の角度……を色々変えて試してみる。
するとそのうち音が「ドンドン」から「トントン」と高い音に変わって、目打ちが紙にスッと入っていってくれた、アラ不思議。
この話を友人にしたら「そんなことが」と笑っていたが、本当に持ち方が変わると音も変わり、穴もあけやすくなる。


伊那にいらっしゃる美鈴堂の上島松男親方(十五歳で製本職人になられた)は、かしわ棒をとても軽快に打つらしい。伊那の空に親方の「トトントントン」というかしわ棒のリズムが響く様子を想像する。いいなあ…。

多分、かしわ棒も目打ちも日常生活では縁がないから、この握り方の感触をすぐ忘れてしまうだろうけど、「トトントントン」というリズムで本を作る製本職人さん・上島親方の話はきっと忘れない。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月23日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』より「私は相似だ」を読む

十月二十日は「私は相似だ」と意地の悪い双子の姉妹の相似が語る。相似が語るとは不思議……な気もする。

以下引用文。
最後の方で相似(今度は世一のドッペルゲンガー)が追いかけるあたりで、丸山文学によく出てくるドッペルゲンガー的世界になる。

「もう一人の世一」とか言わないで「相似」とだけ言い切ることで、もう一人の自分の存在がシンプルに、強く感じられる気がする。
丸山先生によれば、物理学的にもう一つの世界は存在する……とのこと。

彼と瓜ふたつの
   もうひとりの少年を錯覚させてやり、

だから行く先々で
   自分と同一人物に出会ってしまうのだ。

石段で頭を打って人事不省に陥ったおのれを
   湖岸に佇んで怒気を含んだ声を発しているおのれを
      万物を弁えるために生まれてきたおのれを、

はたまた
   宇宙の茫漠たる広がりの一隅にうずくまっている
      救いがたいおのれを
         至るところで目撃する。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』341ページ)
    

この場面を想像しながら読むと、そんな自分に出会ったら嫌だなあ、怖いなあと思う。自分のドッペルゲンガーと遭遇したら近いうちに死んでしまう……という言い伝えがあるのも無理もない気がしてくる。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月22日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』より十月十九日「私は鵺だ」を読む。

丸山文学の意外な魅力にこの世と別の次元に彷徨わせてくれる幻想文学的な部分がある。でも昔からの丸山ファンは、そういう風にはほとんど思わない。幻想文学ファンも、丸山健二と幻想文学を結びつけないのが残念である。
以下引用文。怪鳥鵺の飛びまわる様子が幻想的だなあと思う。引用はしていないが、この声を聞いた人々の心の変化も印象的である。

濛々と降り注ぐ陰雨がまほろ町の夜に持ちこまれ
   発情した鹿が林野を駆け巡るのをやめ
      沼沢地で水禽が灰色の眠りに就く頃、

私は密かに山を下り
   屍蝋と化した獣のかたわらをすり抜け
      古い町並野外れに存する
         これまた古い神社へと潜りこみ、


そして
   落雷やら人々の願いやらに捻じ曲げられた
      杉の御神木の梢に止まり、


弱者の耳朶を打つ奇声を
   おもむろに張りあげる。

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』337ページ

エックスの投稿を読んでいたら、ある物書きさん&編集者&蔵書家の人が、「日本の小説家はもっと真面目に小説を書いてほしい。ぜんぜん面白くない」と書かれていた。
エックスの短い文だと意図されていたところはよく分からないが、小説とか短歌や詩文はこの現実世界への鵺の叫び声的部分もあるのでは……ギョッとしたり息を止めることがあっても、面白さだけを求めるのは違うんじゃないだろうか……そんなことを思ったりもした。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月21日(木)

製本基礎講座で和綴じ・亀甲綴じ・くるみ綴じにトライする……亀甲がバラバラだ

手製本工房まるみず組の製本基礎コースも今日で七回目。モタモタしつつも丁寧なご指導のおかげで何とか七回目を迎えた。

手製本は非日常的な作業。しかも私は不器用。なので毎週一度一年の講座は、ちょうど忘れた頃にやる感があってよい。
ちなみに二年かかるが月一度、一日午前午後とフルに受ける同じ基礎講座もある。
だが私の場合、一つ作るだけで頭がパンパンになる気がするので、週に一度通う今のペースがいい気がする。

五回目から講座開始前に復習の製本ドリルというものがスタート。二問くらいのドリルで、ちょうど理解があやふやなところ、大切なところを復習できるので有難いし、この歳でドリルという体験も新鮮である。


製本講座も毎回少しずつ反復しながら複雑な(私にとっては)内容に進む感じで、覚えては忘れ、思い出しては忘れ……の繰り返しが良い。


和綴じも前回が四つ目綴じ、今回が亀甲綴じ、次回が麻の葉綴じ……と複雑さがアップしていく。


前回四つ目綴じをやったのに、もう忘れている。糸でかがっている途中で形が変なことに気がつく。後戻りしようにも和本の綴じ糸はすごく頑丈で解けない。
なんとか完成したが亀甲の模様がバラバラ。


でも先生のは形も大きさも同じ亀甲が並んでいて素敵!
和綴は作りやすい、軽い、丈夫……の利点がある。自分で日常的に読む本や書き溜めた文や短歌のアウトプットは、和綴で作りたいなと思った。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月20日

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』より「駄目なものは駄目」を読む

「ソメイヨシノを軸にした有名観光地の桜のたぐいは間違っても植えまい」と決心した丸山先生。柑橘系の方向を放つ「匂い桜」という品種を数本植え楽しまれていたのだが、ある大きさになると弱り、枯れ始め、やがて全滅。
桜から撤退するも「庭にぽっかりと生じた虚無的な空間を他の草木では埋められない」とマメザクラを五本植え、やがて開花。

「駄目なものは駄目なんですよ」とは、植物に詳しい知人の言い得て妙なる真理です。

「植えてみて十年くらい経たなければわかりませんよ」もまた彼の名言なのです。

(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』28ページ)

 私はヒメシャラのツルツル光る赤みを帯びた樹皮が好きなので、家に植えてみた。植えて十五年経過した。まあまあ元気だったのだが、今年の暑さが暑さに弱いヒメシャラにはこたえたようで半分くらい枯れてしまった。さて、どうしようかと途方に暮れている最中なので、この言葉が心に沁みた次第である。
(↓ヒメシャラ。花は椿みたいな白)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月16日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』より十月十八日「私はルアーだ」を読む

十月八日は「私はルアーだ」で始まる。まほろ町に駆け落ちしてきた青年が悪事に手を染め、その代わり豊かになって、うたかた湖で釣りを楽しむひとときが描かれている。
以下引用文。この何も考えていないように思われる青年の、なんとも頼りない無軌道さ。釣りに不安、遣る瀬無さを紛らわす姿。そうした心がルアーさながらまやかしの派手な色となって、眼前に漂って見えてきそうな気がする。

竿がぐっとしなって
   私がびゅっと飛び出して行くたびに
      彼の未来は
         さほどの根拠もなく
            湖面のように輝く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』331ページ)

裕福の味の片鱗を知った彼は
   タバコ銭にも困っていた
      ちょっと前の自分を
         私の先に引っかけて湖底へ沈め、

それと同じようにして
   駆け落ちを決意した際の情熱やら
      貧苦に耐える力やら
         異郷で暮らす侘しさやらを
            山上湖のあちこちに投げ捨てる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』333ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月15日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』より十月十六日「私は少数意見だ」を読む

十月十六日は「私は少数意見だ」で始まる。「まほろ町の議会において少しも尊重されず 相手にもされないで あとはもういじけるしかない 他勢に無勢もいいところ」の、裏社会の人間の権利を擁護しようとする少数意見が語る。

丸山文学の魅力に、少数意見の立場、見方をよく行き届いた、愛情深い筆致で書いている点があると思う。
以下引用文。少数意見をねじ伏せようとする議員が「自分たちの体にも良い細菌だけが巣くっているわけではなく 悪い菌もうじゃうじゃいて そのバランスが命を保っている」と語る。

反対派は「あの菌は 数が少なくても命取りになりかねぬ最悪の菌ではないか」と反論する。

そのときある声が響いてくる。自分たちが正しい、強いと思い、少数意見を菌扱いする心の思い上がりを静かに語ってくるような場面。

するとそのとき
   「何もおまえらが良い菌とは限るまい」という
       そんな声が議場に飛びこんできて、

痛いところを突かれた一同は
   束の間怯んで沈黙し、

ややあって気を取り直し
   きっとなっていっせいにそっちを見やり、

ところが
   窓の向こうにいる人間は
      重い病を背負って歩きつづける
         健気な少年ただひとり。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』325ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月13日(水)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』より「いいよねえ、この感じって」を読む

「いいよねえ」で五文字、「この感じって」で七文字、最後の五文字はない。丸山先生が五七五を意識したのかは知らないが、何が入るのだろう?と読む前にまず考え、心が惹きつけられる。
そして読み終わった後も、「いいよねえ、この感じって」で一句出来そうで何が入るかと延々考えて愉しんでしまう。

丸山先生は「春一番とおぼしき風が感知された」瞬間、そのあとのご自身の変化、奥様やペットのオウム、バロン君の変化を見えるように書かれ、そういう変化が「いいよねえ、この感じって」なのである。

以下引用文。春一番を感知した瞬間の丸山先生の思い。春一番を感じると、「埃っぽい」「目が痛い」とブツブツ言っている私とは大違いである。この感性の差は言葉に影響大なのだろう……どうすればいいのだろうか、途方に暮れるばかりである。

夢見るような心地の刹那、季節の境界線とやらが眼前を過ったのです。

(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』20ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月12日(火)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』より「幸福は葉陰から覗くサクランボ」を読む

この章のタイトル「幸福は葉陰から覗くサクランボ」は一字だけ字余りだけど、五、八、五になっている……。
思わず脱線してサクランボを季語にした俳句を眺めてみる。だが、どうもしっくりこない……句が多いのは、日常的な風景のようでいて、実はちょっと高い果物だからなのだろうか。


その点「幸福は葉陰から覗くサクランボ」は、丸山先生の普段目にする光景から自然に出たような勢いがあって、心打たれるものがある。
「葉陰」も、「覗く」も、「サクランボ」も、それぞれの言葉が「幸福」のイメージを醸している気がする。


スノードロップやスノーフレークの花に囲まれている時の心境を記した丸山先生の文に、「幸福とはこういう状態であった……」と教えてもらう気になる。


名前にも、居場所にもこだわる自分の心を反省。「足取りも軽く故郷へと向かう若者の後ろ姿」が脳裏に浮かぶ心境に近づきたいもの。

 そうした救済の意味を込めた小花に囲まれているうちに、自分の名前なんぞは必要に思えなくなり、さらには自分自身の居場所へのこだわりがたちまち薄れてゆくのです。
 併せて、ねじくれていた思考が水平に戻りました。ついで、足取りも軽く故郷へと向かう若者の後ろ姿が、ぽっと脳裏に浮かびました。


丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』18ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年11月11日(月)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』より「この世のいっさいは幻想」を読む

丸山先生の庭仕事は冬の間もお休みにはならないらしい。「落下した枯れ枝を拾い集め」、細かく細断して落ち葉と混ぜて土に還して肥料にする様子が書かれている。


枯れ枝を同じように、かつて飼っていた大型犬たちも寿命が尽きたとき、先生の手で庭の一画に葬られ、やがてそこに美しいバラが咲く。


以下引用文。生と死が隣り合わせている……緊張感のある感覚が、大町の庭を見つめ養われ、丸山先生の小説に根づいているのだと思う。

やがて理想的な養分と化したかれらは、オールドローズやワイルドローズの花を立派に咲かせて、まだ死んでいない人間の目を楽しませたものです。そしてちょっと切ないその感動は、共に過ごしたその時間へといざなってくれました。

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』15ページ

枯れ枝を小脇に抱えてしばらくその場に佇んでいるうちに、生と死が延々とくり返されることで成り立つこの世に、なんとも遣る瀬ない愛おしさを覚えるのはどうしてなのでしょう。

「この世のいっさいは幻想なんですよ」と朽ち木が口を揃えて言いました。

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』15ページ16ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年11月9日(土)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』より「何が面白くて生きるのか」を読む

ー八十歳の作家が語る老いは辛くもあり、癒しもありー

本書の魅力は、八十歳になる丸山先生の心境が率直に丁寧に書かれているところにもあるのかと思う。だいたい男性作家の方は早くに亡くなる方が多い。八十歳の心境をかくも真摯に見つめ書いた男性作家は稀なのではないだろうか。

八十歳になっても「焦燥感」や「不安」や「怯え」から解放されないものか……と生きる辛さを思う。

でも長寿社会ならではの老いに北アルプスの自然を重ね、奥様とオウムのバロン君と共に日々を過ごす生き方には癒されるものがある。


「そう長い寿命を与えられているわけでもないのに、青春時代に覚えたような安っぽい焦燥感に駆られます」11ページ

「一介の凡夫としての私は、生きても生きても悟りの境地とやらに迫ることができず、不安と怯えの数が増すばかりで、救いようがない体たらくです」12ページ


「何が面白くて生きているのか?」とバロン君が毎朝仏頂面で尋ねてきます。 13ページ

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』より

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さりはま書房徒然日誌2024年11月7日(木)

製本基礎講座へ
ーくるみ綴じ 四つ目綴じにトライー

製本講座も落ちこぼれつつも、まるみず先生のご指導のおかげで何とか6回目を迎えた。しばらく和綴じの講座が続く。

今回は「くるみ綴じ 四つ目綴じ」である。たしか、この製本方法は体験レッスンでやったのに、綺麗さっぱり忘れている。だから何度やっても新鮮……なのは喜ぶべきか、悲しむべきか。
色々失敗したのだけど、その一つは端まで糸を通すところを手前でリターン(プリントには丁寧な図解があるのだけど、だんだん作業していると頭がぼーっとしてきて見えなくなる)。途中で気がついて糸をほどこうとしたら、ほどけない。和綴って丈夫なんだと思いつつ、最初からやり直す。


隣席の方はイタリアから来た方らしく、高度な製本をされていた。
私がようやく出来上がると、”Do you finish?”と声をかけてくださる。私がもたもた作った和綴本を手にのせて表紙の和紙や本文の半紙の感触を楽しむ表情に、和紙ってこんなに外国の方の心にアピールする魅力があるんだ……と知る。
そして、まるみず組の手製本の技術にも、はるばる異国から何度も学びに訪れたくなる魅力があるんだ……と知る。


でも小説を書いたり、短歌を詠んだりする界隈にいる者は(私も含めて)、こうして外国の方の心を強烈に惹きつける日本ならではの本づくりをほとんど意識していないのでは……と反省。少し反映できるようになるといいな。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月6日(水)

北村透谷『蓬莱曲』を読む

ー自費出版の時代は活字が綺麗な時代でもあったー

1889年に自費出版をした『楚囚之詩』に続いて、1891年(明治24年)に自費出版された第二冊目が『蓬莱曲』である。戯曲でもあり、長編詩でもある。北村透谷といい、宮沢賢治『春と修羅』といい、その他にもあまたある自費出版をした明治、大正の詩人、作家のエネルギーを思いながら読む。

量的にも、文章の流れるような調べも、第一作の『楚囚之詩』よりパワーアップして、第一作からの三年間にわたってコツコツと書き続ける北村透谷の姿が思い浮かんでくる。

以下の引用文に、明治45年になると「自由」という価値観がだいぶ日本に浸透したのだなあとも思う。
またこの年夏目漱石「彼岸過迄」の連載が朝日新聞に開始された。北村透谷が書き綴る文と新聞でもてはやされる夏目漱石の文……そのギャップに苦しみもあったのでは……と思いつつ、透谷の調べを味わうようにして読む。

自分の弟のところから自費出版で出したようだが、活字がとても綺麗な気がする。現代の書籍より活字が語りかけてくる感じがある。なぜなのだろう?印刷は同じ京橋の印刷屋に頼んだらしい。この時代、ルビもこんなに綺麗に入れられたのだ……と明治の印刷職人さんに感心してしまう。

またわが術にして世の、見えずして権勢【ちから】つよきものの緊縛【なわめ】をほどく「自由」てふものを憤【いか】り概【なげける】ものの手に渡し、嬉【たの】しみの声を高く挙げしむる。

(北村透谷『蓬莱曲』より)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月4日(月)

中綴じとスイス装の手製本ワークショップへ参加

手製本と古本のヨンネ先生が西荻窪アトリエハコで開催された「手のひらスイス装(中綴じとスイス装)」に参加してきた。
最初ヨンネ先生からスイス装の「弱い」という弱点も教えてもらい、でもZINEとか薄くて手のひらサイズの小さい冊子なら壊れにくいし可愛くなる……というような説明を聞く。

↑は出来上がった私のスイス装ノート。たしかにスイス装の手のひらサイズって可愛らしさに溢れている!

この生地はタイの手織り布パーカオマーを裏打ちしたものだそう。

スイス装は片側の見返しを接着しないので、開くと裏表紙と見返しがパカリと見える……のも可愛らしい。

綴じ糸はいつものようにユワユワしてしまった、反省。

ZINEを作成している方、数部だけでも好きな色の糸で綴じ、やはり好きな見返しをつけると楽しいのではないだろうか?

同じようなことをまるみず組で学んだばかりなのに、やり方を忘れていること多々。
さらに出来ないことだらけの私は、講座を受ける都度異なる改善すべき点を指摘される……ので飽きない。

今日も先生から目視で一ミリのズレを指摘される。定規で測ったつもりなのに……ミリ単位できちんと測れるようになりたい、といつもの反省である。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月3日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』十月十一日「私は蚊だ」を読む。

十月十一日は「私は蚊だ」と蚊が語る。少年・世一の血を吸った蚊の気持ちがなんともユーモラスに書かれている。血を吸ったときの蚊の気持ち……を書いた文は、これが初めてではないだろうか?

なんて酷い味だ
   私が知っているなかでは最悪の血だ、

吸えば吸うほど頭がくらくらして
   ひょっとすると
      吸われているのはこっちのほうかもしれないと
         そう思った途端
            長の患いから派生した恨み辛みが
               どっと侵入してきて、


その余りの勢いに押されて
   たじたじとなる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』305頁)

北村透谷『楚囚之詩』を読む

北村透谷が20歳のとき自費刊行した長編叙事詩『楚囚之詩』を読む。経歴を見てみると、自由民権運動に感化されるも過激さを増してゆく運動から離脱。結婚。この詩集を刊行。そして25歳で自殺。
そんな濃くも激しい人生を暗示しているような処女作。獄中にある自分、やはり獄中の花嫁や仲間……合わせて四人がいる獄中……を思い、当時はきっと費用のかかった自費刊行をするとは……。何が北村透谷をここまで追い込んだのだろうか?

 獄舎は狭し
 狭き中にも両世界ー
彼方の世界に余の半身あり、
此方の世界に余の半身あり、
彼方が宿か此方が宿か?
 余の魂は日夜独り迷ふなり!


北村透谷『楚囚之詩』

ちなみに「楚囚」とは、日本国語大辞典によれば「とらわれた楚の人。転じて、敵国にとらわれの身となって、望郷の思いの切なる人。囚人。とりこ。」だそうである。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月2日(土)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』(田畑書店)「何はともあれ、生きてみようか」を読む

ーお見舞いにもよいし、エッセイの書き方を学ぶにもよい本ー

『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』の目次を眺めていると、なんとも前向きになれそうな言葉が並んでいる。一章あたりの長さといい、前向きな章題といい、病院に入院している人へのお見舞いにもよさそうな本である。

大町の庭の自然に人生をかぶせ、長野の風景から思いを語る本書は、今時の日本の作家には珍しく哲学とユーモアが溶け合って、エッセイの醍醐味に満ちている。


四季も自然も失われつつあり、国語教育でも実用的な文書が重んじられる昨今、こういう深くて軽妙なエッセイに触れる機会が少なくなったのでは?


エッセイを書いてみたい方にとっても、本書は良い指針になるのでは無いだろうか?

そしてこの冬もまた、厳寒に閉ざされたがために発生した御神渡りよろしく、魂の湖面を人間的にして文学的な言葉が突き破って飛び出しました。創作活動を止められない所以が、きっとここにあるのでしょう。

(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』10ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月1日(金)

宮沢賢治『ポラーノの広場』を読む

『ポラーノの広場』に限らず、宮沢賢治作品にはよく知っている場所に出来た異空間を覗きこむような味わいがある。

モリーオ市、イーハトーヴォ、センダードの市、にぎやかながら荒んだトキーオの市、ポラーノの広場……という岩手を、東京を思わせながら異国風の地名。
主人公のモーリオ市の博物館に勤めるキュースト。
キューストが知り合う少年ファゼーロとその友達で羊飼いのミーロ。
地主のテーモ。
山猫博士のボーガント・デストゥパーゴ。

馴染みのある地、想像ができる人物なんだけど、どこかこの世のものではない響きがある名前の人物が、異空間を覗かせるような地名の地で、こんな言葉を発すると、もう心は遠くどこかを彷徨うのではないだろうか。

「おや、つめくさのあかりがついたよ」
 なるほど向うの黒い草むらのなかに小さな円いぼんぼりのような白いつめくさの花があっちにもこっちにもならび、そこらはむっとした蜜蜂のかおりでいっぱいでした。

宮沢賢治『ポラーノの広場』上23ページ田畑書店ポケットアンソロジーより

さらに大正末期、昭和初期に書かれた作品なのに、登場人物は夏用フロックコートを着ていたり、カフスをしていたり、現代の大量生産のフリース姿が歩いている街より、服装も個性的である。
さらに食べ物もオートミールとか……。

宮沢賢治の財政面での豊かさが、嫌味のない形で異空間に溶け込んでいる気がする。
ポラーノの広場の語源は、種子ポランに由来するという説も聞いたことがある。そうかもしれないが、人民を意味するイタリア語ポポラーノの意味もあるといいなと思いつつページを閉じる。

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さりはま書房徒然日誌2024年10月31日

製本基礎講座第5回

ー製本ドリルスタート!バインダー作りー

製本基礎講座も第5回。


今日から講座の開始時に製本ドリルというおさらいの短いドリルがスタートした。今まで学んだことについての確認を短いドリル形式で講座開始前にやるそうである。

緊張するけれど、少しずつコツコツ積み重ねていける(私の場合、積み重なっていないけど)のが、手製本工房まるみず組の講座の魅力の一つだと思う。


今日のドリルは紙の目について。よく分かっていなかったところである。なので早速答えを間違え、先生に再度説明して頂き、家でまた調べ、薄ぼんやり「紙の目」なるものが感じられてきた(呑み込みが悪い)。


製本をする方々はみんな「目」「目」「目」と言われ、「目」って本を作る上で大事なものなのだ……と、そこだけは理解。
でも編集者や書き手、ZINEを作成している人たちで「紙の目」にこだわっている人、知っている人はあまりいない気がする。仕事の種類が違うせいもあるかもしれない。

でも製本をするサイドが心から大切にしている紙の目を、編集者、書き手、ZINE発行者がほとんど意識されていない……というギャップに、どちらも本を作っているのに脳内に浮かぶ本という存在が違うのでは……それでいいのだろうかとも考える。
紙あっての本……という意識が薄い本づくりは、だんだん本としての魅力を失っていくのでは?

などと偉そうなことは言えない。
今日のバインダー作り、測る場所を間違え、正確にラインを引いたつもりが2ミリの誤差が。
さっと見ただけで2ミリの誤差に気がつく先生はすごい。言われると確かに2ミリ分おかしく見える。
それにしても定規を使っていたのになぜ私は正確に測れないのだろうか……。

先生のおかげで無事に完成したバインダー。布、糊、ボール紙、金具だけで形になるとは……不思議である。


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さりはま書房徒然日誌2024年10月30日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』十月七日を読む

ー最期の瞬間に垣間見る緑の火ー

私は火だ、

不幸にして生後日ならずしてあっさり死んでしまった嬰児が
   短い滞在期間であったこの世を離れる
      その最期の瞬間に垣間見た
         緑がかった火だ。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』286ページ)

私の父は亡くなる前日だったろうか、病院の個室の白い壁を見て「綺麗な緑の光だなあ」と晴明な意識の中で言い、何も見えていない私の様子に悟った顔をした。
あのとき父が見た緑の光とは薬の副作用なのか、あるいは彼岸の世界が見えていたのだろうか……。
それとも丸山先生が「そして私は 周辺の森や林で造られた酸素を 精根込めていっぱいに摂りこみ」と書かれているように、現実世界が父を送り出そうと見せてくれた火だったのだろうか。
いずれにしても、この世を去る直前、私には見えない、なんとも美しい緑の光に心打たれていた父の顔の安らかさ、純真さをふと思い出した。

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さりはま書房徒然日誌2024年10月29日(水)

私だけのポケットアンソロジーRAEDING NOTEBOOKつくりにトライして、製本基礎講座「一折り中とじ」の復習をする

ーチリが現れる筈なのに……!ー

手製本工房まるみず組製本基礎コースで教えてもらった「一折り中とじ」を復習する。一折り中とじは、絵本によくあるようなページ数の少ない時の製本方法である。

田畑書店ポケットアンソロジーは色んな短編や詩歌を綴じない形で販売。素敵なファイルが各種販売されているので、読者はみずからがアンソロジストとなって好きな短編を選び、ファイルに綴じていくことができる。


READING NOTEBOOKはポケットアンソロジーと同じ書籍用高級用紙を使い、同じスタイルをとりながら、中は自由に感想や絵が描けるように白紙になっている。

(以下、READING NOTEBOOKの元々の姿。ページをめくると白紙になっている)


製本講座のときは本文から折っていくが、ポケットアンソロジーはもう折丁になっているから少し楽である。

でも相変わらず、思いがけないところでつまずく。

背に貼る寒冷紗はどちらも同じ感触に思え、どちらが糊ボンドを塗る面なのだろう……と迷う。

糸でかがっていくけど、最後まで来てどこか違う……よくテキストを見たら「一つ飛ぶ」と注意書きのあった箇所をスルーしていたのに気がつき、最初からため息をつきつつかがり直す。

ボール紙も相変わらずカッターでは中々切れない。ボール紙無間地獄にいる気分になりながら、カッターをいつまでも滑らせる。

折丁の背と表紙の背を糊ボンドでつける……でも中々くっつかない。

ようやく見返しと表紙をくっけるところまで到達。くっついた!でも「ちり」が現れない。薄く小さいだけにミリ単位できちんと測らないとと反省。一応ミリ単位で測ってはいるのですが、測る、切るって難しい。

下の写真が失敗作。ブヨブヨしているのは、やはりミリ単位できちんと測れていないせいだと思う。

反省する点の多い失敗作だけれど、それでも私だけのREADING NOTEは愛おしいもの。

田端書店のポケットアンソロジー、素敵なファイルに綴じてもよし、頑張って私だけのこの世に一冊の手製本作りにトライしてもよし、色んな楽しみ方がありそうである。

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さりはま書房徒然日誌2024年10月28日(月)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』(田畑書店)より「初めまして」を読む

この本について年下の女性が「最初、私自身が読んでから、そのあと両親にプレゼントするつもりなんです。両親からどんな感想がかえってくるか楽しみなんです」と言われていた。そうか、この本に限らないけれど、良い本というものは異なる年齢をつなぐ存在なのだなあと思った。
以下引用文に年をとる切なさを思い、でも切ないだけではない素晴らしさも思う。「言の葉が束になってどっと溢れ出」る八十歳になってみたいものだ……その前に夜明けの執筆ができるように夜更かし生活を変えなくては……と反省。

芽吹きを待つ気持ちが募り、というか今年が最後の花見になるのではないかという切ない焦りに駆られたりもします。
たぶん、その反動のせいでしょう。凛とした夜明けの執筆では頭が異常なまでに冴え返り、言霊に限りなく近い言の葉が束になってどっと溢れ出ます。

(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』6ページ)

昨夜は気がつかなかったが、この本は表紙、花ぎれ(本文の天と表紙の間のリリアンみたいなもの)、しおりの色合いが美しい。他社の本と比較してみたけれど、こういう美しさを感じる本はなかった。
製本講座を少し受けてみて、ここまでビシッと決める難しさを知るようになった。
花ぎれやしおりを選ぶ頃には疲労困憊してヨレヨレで、適当に選んでしまっていた……のを反省。奧付きを見れば、装丁は「田畑書店デザイン室」とある。これから田端書店の本の装丁、隅々までじっと見て学ばせて頂くことにしよう。

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さりはま書房徒然日誌2024年10月27日(日)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』(田畑書店)が我が家にも到着した!

ー信濃大町の風が吹いてくるような装丁ー


丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』(田畑書店)が我が家にも到着。待ちに待った丸山先生の新作エッセイとの家での対面となる。

装丁で丸山先生の世界をすべて表現しているようで素敵。
信濃大町の丸山先生の庭を思わせるような表紙の緑には、雪をかぶった北アルプスの稜線の絵がラインでお洒落に描かれている。

緑の表紙には、丸山先生の人柄さながらに小さく白字で「丸山健二」と控えめに記されている。
見返し部分は雪のような優しいクリーム色めいた白。

帯も扉も同じ黒。この黒はもしかしたらNTラシャ黒の中でも黒が一番濃い「漆黒」なのでは?と私の手元にある「漆黒」と比べる。
実は田畑書店のポケットアンソロジーを糸でかがって、NTラシャ「漆黒」で表紙をつけて鞄に入れて毎日持ち歩いているのだ。
比べてみるとやはり同じ色のような気がして、何だか嬉しい。写真ではこの黒を綺麗に再現できないのが残念。

この帯は、通常の帯と比べてかなりデカくてインパクトがある。もしかしたら製本機械で帯を折るのは無理だったのでは?田畑書店の方々が手で折ったのでは?と色々想像する。
大きな帯にも、扉にも黒を使われたのは、丸山先生のシンボルカラーが黒だからなのでは?至る所に丸山先生へのレスペクトを感じる装丁である。
帯には金のラインで北アルプスの稜線が絵が描かれている、朝日?夕焼け?どっちなのだろうか?
扉絵は雪をかぶった北アルプスの稜線だろう、銀色のラインで絵が描かれている。

手にしただけで信濃大町の自然がどどっと雪崩れ込んでくる。
さらにページを開けて、丸山先生の文を読み始めると完全に大町にいる感じになる。でもその感想はまた後日。


とにかく手にした瞬間に紙の本の醍醐味、丸山先生の世界を味わうことのできる装丁である。もちろん丸山先生の文は切なくなってくるほど大町から世界を書いている。それについてはまた後日。

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さりはま書房徒然日誌2024年10月26日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』十月六日を読む

ーキツツキのドラミングが意識に働きかけるー

十月六日は「私はキツツキだ」で始まる。キツツキがうたかた町の人間模様を語る。

以下引用文。日頃キツツキを眺めて暮らしている丸山先生らしい文だと思った。

才覚以上の山気に富んだ男は
   私が鞭打ち症にならない謎を解き明かし
      画期的なヘルメットを発明してひと儲けを企み、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』282頁)

キツツキのドラミングが契機となって、様々な人間達が色々な思いや過去を連想していく有様が面白い。確かにキツツキの鋭い連打は意識を揺さぶるものがあるのかもしれない。

一兵卒として大陸へ送られ
   命じられるままに暴虐の限りを尽くしたことを
      今でも戦功と固く信じてやまぬ男は
         私が立てる音から重機関銃を連想して
            全身の血を大いに沸かせる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』283頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月25日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』十月五日を読む

ー素朴な美しい言葉ー

十月五日は「私は奢りだ」で始まる。少年世一の、盲目の少女と彼女の飼い犬への奢りが語る。
以下引用文。「ただ青いだけ」という世一の言葉も、「おもむろに天と地を示した」という終わり方も、理解を超えた美しい何かをあらわしているような気がする。

少女がほっそりした指で沖の方を示すと
   すかさず世一は
      「ただ青いだけ」と的確な答えを提示し、

少女と犬と母親が軽自動車で去ったあと
   世一は震える二本の人差し指を用いて
      おもむろに天と地を示した。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』281頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月24日(木)

ー製本講座で布の裏打ちに挑戦ー

手製本工房まるみず組製本講座基礎コース第4回で、布の裏打ち、本の表紙に使う布の裏側に紙を貼る技術を教わる。

裏打ちには和紙、包装紙、ピュアガードなど、色んな紙が使えること……
新聞に入っているチラシや菓子折りの包装でも裏打ちができること……
仕上がりの感触を考えて接着剤も変えること……など初めて知ることばかりである。


包装紙でも裏打ちに使えるなら大切にしなくては……と思うものの、相変わらず私は不器用。布を裁つのも真っ直ぐのつもりがジグザグになるし、水で濡らした紙を布にかけようとつまんだら水の重みで「ビリリ」と破けたり……前途多難である。

でも自分でモノをつくるという機会が失われつつある現代、時間をかければ自分の手でオンリーワンの本がなんとか出来上がる……のは楽しみ。頑張ろう。

布はユザワヤのネットショッピングで購入したウイリアム・モリス柄。これでバインダー、和本、布装ノート、夫婦箱を作る予定 。どうかうまくいきますように。

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さりはま書房徒然日誌2024年10月23日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』十月三日を読む

ーダメになっていくのもどこかユーモラスー

十月三日は「私は馬肉だ」で始まり、落ちこぼれた青年によって河原でさくら鍋にされている馬肉が語る。
以下引用文。「落ちこぼれた若者」に及ぼすさくら鍋の効果にびっくり。

ついで
   富者と貧者をきっちり分別したがる
      時の権力の壁を苦もなく取り払う力を与え、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』268頁)

以下引用文。「たったコップ一杯の焼酎」のせいで、若者のやる気がみるみる崩されてゆく様子が「焦げ付いた私」によってユーモラスに語られている。

その大鼾には自暴自棄と遣りきなさと
   破滅を導く悲しみとが込められていて
      鍋底に焦げ付いた私が立ち昇らせる煙と
         なぜかよく調和している。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』269頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月22日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』九月二十九日を読む

ー心に残る象ー

九月二十九日は「私はサーカスだ」と、まほろ町を訪れた「二流にも属さぬ お粗末なサーカス」が語る。
以下引用文。お粗末なサーカスの象の哀れな様子が心に残る。「夜になると涙を流していた」という文が、象の佇まいや目を思い浮かべると、しっくりくるものがある。

その象にしても
   かなり老いぼれて
      耳はずたずたに破れ、

頼みの象使いに出奔されてしまったために
   今では単なる客寄せの道具に成り下がり、

それか知らずか
   夜になると涙を流していた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』254ページ)

以下引用文。サーカスの観客席から青い鳥の声を発しながら大はしゃぎで象を眺める世一。「疑問符の形」という表現が、何に対する疑問符なのだろうか……と考えてしまう。

彼の動きを真似て悲しい巨体をさかんにくねらせたかと思うと
   まだ誰からも教えられていない
      まるめた鼻を疑問符の形にするという
         前代未聞の新しい芸を
            さも得意げに披露したのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』257ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月22日(火)

製本の復習をしたけど失敗!

製本基礎講座の二回目で習った糊を使わない製本の復習をする。だが失敗。

二週間前にやったばかりなのに「どうやったのだろう?」と立ち止まる。でも頂いた詳しい資料があるから大丈夫と安心して、きちんと全部読まないで作業したのが主な敗因。
よく読んでみたら
「最後また使いますので残しておく(かがり糸の最初の部分のこと)」
「裏側の紙は、一番小口側の穴だけ開けないで下さい」とちゃんと資料に書いてある。
でも糸は切ってしまった!一箇所小口がわに穴を開けてしまった!と切ってから、穴を開けてから、ハッと自分のミスに気がつく。

そのようなわけで失敗作になってしまったが、製本の復習をしてみると、これでもかこれでもかと自分が分かっていなかったところを認識する。

講座のときは失敗作にならないように先生が見守ってくれていたのだなとあらためて感謝する。

それから今回の復習には、田畑書店ポケットアンソロジーより宮沢賢治「ポラーノの広場」上、中、下を使用した。ポケットアンソロジーは紙の質がいいのだろう。切り込みを入れたり、糸でかがるときに抵抗感があってモタモタ苦労した。

でも軽い紙の表紙をつけ、糸でかがると、ポケットアンソロジーは軽々としていながら丈夫で読みやすさがアップする。失敗作とはいえ、読むのには支障はなく読みやすさはアップした。
ポケットアンソロジーでの製本の復習にハマってしまいそうである。
↓(悲しの失敗作)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月20日(日)

神奈川県立図書館ボランティア朗読会「秋といえば……」へ

神奈川県立図書館Lib活1期生の方々が二年かけて積み重ねてこられた朗読の学びを発表するボランティア朗読会、今回は1期生の活動の最後となる卒業発表だそうだ。楽しみなような、寂しいような心持ちで紅葉坂の急な坂を登る。
活動の様子を拝見していると、Lib活の皆さんもこの急な坂を足繁く登り、朗読の練習をされたり、朗読会に向けて企画をされたりしていたようである。暑い日、雨の日は大変だったろう……と思いつつ、座れそうな場所を見つけては休み休み紅葉坂を登る。


今回のテーマは「秋といえば……」で、朗読者其々が秋に因んだ作品を選び朗読して下さった。中には懐かしい作品もあれば、知らない作品もあって、朗読を聴きながら「読んでみたいな」と思う。

今回、朗読して頂いた作品。
・『としょかんライオン』ミシェル・ヌードセン
・『アガワ家の危ない食卓』『風々録その後』より「混沌の秘境」阿川佐知子
・『日本の文学34 内田百閒・牧野信一・稲垣足穂』より「件(くだん)」
・『ごくらくちんみ』より「ぎんなん」杉浦日向子
・『校訂 新美南吉全集第十巻』より「権狐 赤い鳥に投ず」新美南吉

↓写真はプログラムより。朗読者よりのひとことも興味深い。

拝聴しながら思ったのは、それぞれの方の声や読み方の個性と作品世界の特徴がぴったりマッチして、一体化しているということ。「秋といえば……」というテーマで、各人が思い入れのある作品を朗読してくださったからなのだろう。

たとえば、『アガワ家の危ない食卓』「混沌の秘境」の朗読では、まさに混沌の秘境と化した実家の冷蔵庫を片そうとする娘と母のユーモラスなやり取りが、娘の冷蔵庫の様子へのかすかな嫌悪感やら驚き、母親の少し言い訳するようなトーンの朗読によって生き生きと浮かんできた。
もしかしたら朗読者の方の、自分の母親を気遣う気持ちも滲んでいるのでは……と思うほど情のこもった朗読だった。
冷蔵庫の様子に、娘が自分のバッグの様子を重ね、思わず発する嫌悪の言葉が、聞き手の私の心にも刺さってくる。「私もカバンの中を片さないと……」

朗読者を介して、見知らぬ大勢の人たちと作品世界を共有できたひとときのおかげか、紅葉坂のまだ青い紅葉の葉のトンネルが清々しい。帰りは足取り軽く坂を下った。
素晴らしいときをつくってくださった朗読者の方々、神奈川県立図書館に感謝!

またどこかでこのメンバーの朗読に再会する機会がありますように!

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さりはま書房徒然日誌2024年10月19日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』九月二十五日を読む

ー生々しい筈の場面が不思議な感じを帯びてくるー

九月二十五日は「私はカレイだ」と、世一の姉が煮返そうと冷蔵庫から取り出したカレイが語る。
以下引用文。彼女の貯金を狙ってか結婚への甘い言葉を囁くストーヴ職人とのやり取りを振り返る姉。生々しいメロドラマになりやすい場面かと思うが、「深海魚」の例えや鍋の音から「わからん、わからん」という言葉に重ねることで、人間の世界を脱出して、なんとも愉しいメルヘン的色彩を帯びている気がする。

そんなことを呟く際の彼女の顔は
   ほかの魚をまる呑みにして生きてゆく深海魚にどこか似ており
      なんとも不気味で、

すっかり怯えきった私は、
   そうしたことを訊くならほかの者にしてはどうかと勧め、

しかし

   沸騰へ向かって突き進む鍋は
      「わからん、わからん」をくり返すばかりで、

その間にどんどん煮詰まってゆき
   せっかくのおかずが焦げ付き、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』241ページ)  

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さりはま書房徒然日誌2024年10月18日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』九月二十四日を読む

ー自我とバランスを取り難くー

九月二十四日は「私は存在だ」で始まり、「少年世一の自我としての揺るぎない存在」が語る。

以下引用文を読み、人間とは自我を超えて過剰に怒ったり、喜こんだり、悲しんだりする生き物なのかもしれない……でも、そこが人間たる所以なのだろうか……そんなことを思った。

つまり世一は
   必要以上に私の前にしゃしゃり出ることもなければ
      私の背後からしぶしぶ付いてくるということもなく、

そうした生き方が可能なのは
   まほろ町ではおそらく彼ひとりくらいなもので、


しかしまあ
   人間以外の生き物では
      動物にしても植物にしても
         それが当たり前のことだった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』235頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月18日(木)

ひと折り中とじに挑戦したら、冊子が可愛い上製本に変身!

製本基礎講座三回目の今日は、まず、製本の大切な材料であるのりやボンドについて、成分やら作り方、保管方法など細かくレクチャーを受ける。のりでもメーカーによって成分が違うとは知らなかった。

今日はひと折り中とじに挑戦。絵本によく見られる製本方法だそう。

コピー用紙を半分に切って、真ん中部分を糸でかがる。私がかがると糸がゆわーんとしてしまう。でもすぐに先生が直してくださる。

小さな冊子でも、寒冷紗をつけ本文と接着、クロスにボール紙をのせ見返しに接着すれば、小さいながら本らしい感じに。

今日の作業は記憶の彼方に霞みつつあるけど、授業は毎回詳細に手順を記したテキストを配布して頂ける……なので家で復習しようと、色々買い込んだもののどうなるやら?

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さりはま書房徒然日誌2024年10月16日(水)

PASSAGEにある本です!

PASSAGE 1階にある本

神田古本祭りも近いし、丸山健二先生の「言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から 」発売も間近だし……と、PASSAGEとSOLIDAにある本を確認。いつの間にやら増殖していった感があります。こちらに記入漏れや記載ミスもあるやもしれません。価格は税込です。

栗林佐知さんのけいこう舎の本があります。「ぱん歴」も近日中に補充します。

吟醸掌篇vol.4(短篇小説を愉しむ文芸誌)1210円

山﨑ノ箱 1760円

超短篇画集 丘の団欒(まどい)

吟醸掌篇vol.5 ~女性作家ミステリ号~

以上、けいこう舎の本でした。他にもあります。

重信房子 パレスチナ解放闘争史: 1916-2024

シリーズ紙礫18血の九月(SOLIDA出張応援販売に出ているようで、SOLIDAの私の棚か、その近辺にあるかと思います)

季刊さりはま2号

丸山健二文学賞第4回受賞作品「恍惚のトルソー」澤間静吉

丸山健二文学賞第5回受賞作品「終の稜線」中谷嘉秀

丸山健二文学賞第6回受賞作品「流謫の行路」秋沢陽吉

丸山健二「千日の瑠璃 終結」2〜10

丸山健二「人の世界」1980円

(1が売れて再度注文していますが、現在版元が出荷を一時停止されているとのこと。丸山先生がだいぶ手をいれて直しているので早く再開されるようにと思います。ただ厳しい昨今です……)

いぬわし書房のフリーペーパー無料丸山健二先生の最近の文が読めますよ。

SOLIDA2階にある本

出張応援販売ということで、下の棚にも一時的に置いて下さっています。
エチカ・一九六九年以降 福島泰樹歌集 3000円

寺山修司全歌論集1900円

美しき独断 中城ふみ子全歌集 3000円

伊藤裕作「寺山修司 母の歌、斧の歌、そして父の歌」1980円

伊藤裕作「心境短歌 水、厳かに【わたくしたんか みず、おごそかに】」

丸山健二「ラウンド・ミッドナイト 風の言葉」2860円

福島泰樹「うたで描くエポック 大正行進曲」3300円

重信房子「歌集 暁の星」2200円

万葉集 全訳注原文付(1)〜(4)

藤島昌司 「なんじょすっぺ 福島からのメッセージ」200円

綿田友恵 「歌集 父、母、赤鉛筆……」1870円

歌誌月光86号 1100円

中原中也全詩集 角川ソフィア文庫 1606円

寺山修司全歌集(講談社学術文庫 2070) 1386円

沙果、林檎そして: 李正子歌集  1650円

生野幸吉 「闇の子午線パウル・ツェラン」1550円

いぬわし書房のフリーペーパー無料

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さりはま書房徒然日誌2024年10月15日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』九月二十一日を読む

ー藍染だからこその力強さー

九月二十一日は「私は藍だ」で始まる。手織りの布を藍で染め、寝たきりの夫を介護する老婆の染める藍が語る。
以下引用文。老婆は世一を呼び止め、身体を測る。そしてしばらくしてから……が以下の展開である。今まで世の謗りを受けてヨレヨレになったシャツ、老婆が仕立てた藍染のシャツとのコントラストが心に残る。「初秋の空に溶けて 別格の存在に」と語られる世一も……。そうした言葉にこもる思いの強さも丸山先生らしいなあと思う。

汗や土埃
  差別や偏見
     嫌悪や憎悪
        憂いや憤り
           そんなものにまみれてよれよれになった半袖のシャツを手に、


私が全情熱を傾けて染めた
   真新しい長袖のシャツを着こんで
      丘の家へとつづく道をてくてく歩いて登る
         必ずしも儚い命とは言えぬ少年は
            たちまちにして初秋の空に溶けて
               別格の存在と化した。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』225ページ)
    

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さりはま書房徒然日誌2024年10月14日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』九月十六日を読む

ー宇宙は無数にー

九月十六日は「私は体積だ」で始まり、世一の体の体積が語る。

以下引用文。丸山先生らしい「宇宙は無数に存在」するという考えが出ている箇所で興味深い。だんだんイメージが追いつかなくなったところで、ホウセンカの種が出てきて、なみみ深いこの世に帰ってくる感じがある。

こうした宇宙は無数に存在して
   さながら水泡のごとく
      ひっきりなしに消えたり現れたりしているのだから
         少しも貴重ではなく、

つまり
   永遠の存在もなければ
      永遠の無もなく、


無は自身のあまりの空しさに耐えきれずに
   のべつ揺らぎ、

その揺らぎが限界に達したところで
   特異点と化し、

そこから新しい世界の種が
   ホウセンカの種のように
      ポンと飛び出すのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』204頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月13日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』9月15日を読む

ー生から一転して死の世界へー

九月十五日は「私はサルスベリだ」で始まる。なんとも幻想味漂う箇所である。

以下引用文。寺の境内に咲くサルスベリ。その姿が生気にあふれる分だけ、死霊たちとのコントラストが鮮やかで印象的である。

私はサルスベリだ、

まだまだいくらでも花を咲かせつづけて夏を限界まで引き延ばす
   動物並の生気に満ちあふれた
      この界隈では一番古手のサルスベリだ。

ありったけの紅色を武器にして
   境内に漂う死の気配を相手に孤軍奮闘している私は、

隙あらばこの世に舞い戻ろうと機を窺う死霊たちの
   虫のいい願いを押し返しており、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』198ページ)

豪雨で崖が崩れ、寺の墓石も全部土砂に埋まるなか、サルスベリは墓地の水分を吸い上げる。すると花は黒く変色して落下。

枝にとまった青い鳥が「おまえは死んだのさ」と鳴く。
生にあふれていたサルスベリが死んだ木に一変する展開に、華やかな生が死に転じることで不思議な色を帯びてくるのを感じる。

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さりはま書房徒然日誌2024年10月11日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』九月十二日を読む

ー楽器の音色が語りかけてきそうー

九月十二日は「私は楽器だ」で始まる。薪ストーブ作りの男が久しぶりに手にした「金属製のリード楽器」が語る。

以下引用文。楽器の奏でる音が聞こえてくるような気がするのは「滑り」「吸いこまれ」「諭し」というサ行音の効果だろうか、それとも「吸いこまれ」「失いつづけ」と平仮名の量が多いせいなのだろうか?楽器の音が流れてゆく風景、その音に託した楽器の、丸山先生の声が聞こえてきて印象に残る。

十数年ぶりに私が発する震動は
   夜気を震わせて湖面を滑り
      星夜へと吸いこまれ
         奏者自身の胸のうちへと逆流し、

あれから何を失ったのかをやんわりと諭し
   今なお失いつづけて
      このままでは芯から腐ってしまうことを
         厳しく指摘して警告を与えてやった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』189ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月10日(木)

製本基礎コースに行ってきました

ー糊を使わない製本ー

まるみず組での製本基礎コース第2回に行ってきました。
今回は糊を使わない製本です。

定規で測った筈なのにズレている……
モタモタして中々カッターで切れない……
すぐに手順を忘れてしまう……など情けないかぎり。

定規できちんと線が引けるって才能だなあと嘆きつつも、根気強い先生のおかげで無事に完成!でも背の糸がアンバランス……なのは次回の反省に。

材料は紙とクロスと麻ひもだけ。それだけで完成するとはすごい。
リボンの位置や太さは自由に変えられます。

ちなみに中に写真を貼ったり、短歌を貼ったり、色々貼れそうです。
訊いてみたら田畑書店のポケットアンソロジーは、この綴じ方を使っても、あるいは別の綴じ方でも変身させられるとのこと。ポケットアンソロジーで製本の復習をしてみるのも楽しそう。


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さりはま書房徒然日誌2024年10月8日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』九月五日を読む

ー子供らしくないのに心に残る世一の言葉ー

九月五日は「私は躊躇だ」で始まる。丘の上の家から下ってくる途中の世一がかられた「躊躇」が語る。
以下引用文。滅多に会話文を使わない丸山先生の「なんなら人間を辞めてもいいんだが」という子供らしくない台詞はどこか挑戦的で、不気味で、心に引っかかるものがある。

生きる勇気をさかんに鼓舞する青い鳥も次第に疲れを見せ始め
   ために
      私が再度勢いづいたことでその場にうずくまった世一は
         「なんなら人間を辞めてもいいんだが」
            そんなことを口走った。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』161頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月7日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』九月四日を読む

ー身近な自然の美しさー

九月四日は「私はトマトだ」で始まる。退院した世一が自宅の庭のトマトからもぎとって食べる黄色い実が語る。
以下引用文。世一がもぎとったトマトをかじる場面。丸山先生の文は、こういう身近にある自然を描くとき、万物の真理がパッと開くような美しさがあるなあと思う。

ともあれ死なずに済んだ世一は
   食べるのを中断して
      私のことをしげしげと見つめ直し、

日にかざして
   色の鮮やかさにうっとりと見とれる。

そのついでに
   おのれの手を流れる血液の赤と
      太陽の金色を半ば夢見心地で眺めながら、

二階の部屋の
   さながら天国の門のごとく開け放たれた窓から
      惜しげもなくばら撒かれる
         青い鳥のさえずりにじっと聴き入る。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』155頁)

 

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さりはま書房徒然日誌2024年10月6日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』九月三日を読む

ー自然と共にある生活感ー

(↑ カエデの黄葉。赤く紅葉するカエデもあるみたいだけど、たまたま黄色の黄葉に)


九月三日は「私はカエデだ」と世一の家の「星の形の葉をいっぱいに付けたカエデ」が籠に入れたオオルリと一緒に木に登ってきた世一のことを語る。
「星の形をいっぱいに付けたカエデ」という表現にも、以下引用文にも丸山先生の自然に向ける眼差し、その中で生を紡いでいらっしゃるのだなあ……と著者の生活感覚が滲んでくる素敵な文のように思った。

そしてオオルリと共に
   私の上で食べ
      私の上で飲み
         私の上で唄い
            私の上で排泄し
               私の上でこの世を満喫する。


そんな私たちの上空を
   夏を惜しむ白い雲が流れて行き
      充足の季節を心ゆくまで謳歌した鳥たちが
         黙したまま渡って行き
            生きとし生けるものすべての運命を司る時間が 

   さりげなく移って行く。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』152ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月5日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』九月二日を読む

ー爪弾きにされている者達なのに自由で美しくー

九月二日は「私は背中だ」で始まる。ようやく退院した世一をおぶって連れ帰るのは、刑務所を出所した後緋鯉を飼って暮らす叔父。その背中が語る。
以下引用文。丸山先生が描くこの場面は、刑務所に入っていた叔父、体も心も不自由な世一、物乞い……と爪弾きにされている人物を描いているのに、なんて自由でのびのびしていることか……自然もそうした人間を包容してただただ美しい、と思った。

ぽこんと突き出た腹を
   太陽の方角へ向けて
      桟橋に寝そべっていた物乞いが
         世一に気がつくと手を振り
            それに応えて世一も手を振り返し、

その間に
   いよいよヒグラシが鳴き始めて
      陽光の輝度が半減し、


ひんやりした一陣の風が
   人情の機微に触れながら
      松林を吹き抜けていった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』148ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月4日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』九月一日を読む

ーオオルリの鳴き声に姉への想いを反応させてー

九月一日は「私は相談だ」で始まる。世一の姉が最近態度が冷たくなってきている恋人・ストーヴ作りの男のことをオオルリに相談する。
以下二箇所からの引用。オオルリの鳴き声に姉への助言を込めた作者の視点、変わりゆくオオルリの様子が印象に残る。

するとオオルリは
   報恩の念にあふれた声でひとしきりさえずり、

   ついで
      だしぬけに荒々しい声に切り替え
         ずけずけと物を言い、

         つまり
            あいつは男のクズだと鳴き


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』145ページ)

それから
   最後にひと際厳しい声で
      恋愛の行方は女の出方いかんで決まると鳴き
         私への揺るぎない回答とした。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』145頁)


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さりはま書房徒然日誌2024年10月2日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月三十一日を読む

ー想いを色々な表現に託してー

八月三十一日は「私は回復だ」で始まる。

以下引用文。回復した世一が吹き鳴らす口笛の「瑠璃色のさえずり」という表現に、生命が戻ってきたという感じが込められている。

患者の口笛による瑠璃色のさえずりが
   素晴らしい調子で響き渡るたびに
      気高い音波が
         体内に僅かに残っている
            ろくでもない最近と
               悪い毒素を排除した。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』139頁)

以下引用文、世一の回復を喜びつつ、すぐに元々の病気は回復していないという現実に戻されてゆく母親の心を足音に託しているのが心に残る。

その足音は初めのうちだけ軽やかでも
   階段を下って行くにつれて
      いつものあまり幸福とは言えぬ境界線をさまよう者の気配を
         どんどん濃くしていった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』141頁)

以下引用文。医師にオオルリの呼び名を訊かれた世一。元々の病は治ってはいない……ということを「限界に達し やがて煮詰まってしまった」と書いているところが面白い。

すると
   名前などは付けていないと答える世一のなかで
      私はほぼ限界に達し
         やがて煮詰まってしまった。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』141頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月1日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月三十日を読む

ーどこかとぼけた語り口ー

八月三十日は「私は奇跡だ」で始まる。世一の姉がこっそり布を被せて病室に持ち込んだ籠のオオルリが引き起こす奇跡が語る。

全体にどこかとぼけたような、ユーモラスな雰囲気のある箇所である。そういう風にしないと、いかにも取ってつけたような奇跡になってしまうからなのかもしれない。

最初、オオルリが「ベッドに張り着くようにして横たわっている人間」が世一であることに気がつき、地鳴きを繰り返しても「カセットテープのさえずり程度の効果」しかなく、「私の出番など どこにも在りはしなかった」。

世一の姉が屋上に出て恋人の家を眺めているときに、奇跡は起きる。姉が戻ってくると「なんとベッドから離れ 晴れ晴れとした顔つきで歩き回って」いる。

以下引用文。何が起きたのか作者は語らず、以下のようにとぼけて締めくくることで、読み手に想像させて楽しませているのかもしれない。

平然たる態度のオオルリは
   練り餌をついばむ振りをして私のことを飲み下し
      手のうちを完全に隠してしまった。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』137頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月30日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月二十九日を読む

ー弱い者に視線を向けるとき束の間ひとは真人間になるー

八月二十九日は「私は見舞いだ」で始まる。瀕死の世一を病院の外側から案じる盲目の少女の見舞いが語る。
以下引用文。少女に病院までの道を訊かれた物乞い、修行僧、青年やくざの反応を「おのれの立場を束の間忘れ去り ただの人間に戻って」という文に、どんな人間にも宿る弱い者への優しい視線を見つめる作者を感じる。

道を教えたあとで
   相手が盲人であることに気づいた三人は
      それぞれにおのれの立場を束の間忘れ去り、

ただの人間に戻って
   相手が間違いのない方向へ進んで行くかどうかを
      しばしば見守っていた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』132頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月29日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月二十八日を読む

ー家族の本音ー

八月二十八日は「私はカセットテープだ」で始まる。世一の姉が瀕死の弟のためにオオルリの鳴き声を吹き込んだカセットテープが語る。

以下引用文。我が子・世一の命がおそらく長くはないと知った母親の残酷な反応を静かに赤裸々に描いている。

疲労しているはずの目には
   わが子の命が解き放たれる日が間近いことを確信する
      なんとも言いようがない
         鈍い輝きが見て取れた。

そして彼女は
   重荷でしかない病児を娘に任せ、

   ひと眠りするために
      さもなければ
         厄介者が消えたあとの日々を夢想して楽しむために
            町場より涼しい丘の家へと帰って行った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』127頁)

以下引用文。姉の真意を見つめるカセットテープの言葉が印象的である。ただ百年後の人がこの文を読んだら、たぶんカセットテープで躓き、文意が取れないかもしれない。百年後もおそらく変わらない自然が語り手なら理解してもらえそうだが、物に語らせる危うさはあるのかもしれないと、ふと思った。

微動だにしない弟を相手に
   姉はこう弁解し、

   青い鳥のさえずりの力を借りて命を救おうとしただけであって
      断じてその逆ではないと言い張り、

      その間私は
         沈黙によって疑念を深め
            果たして本当にそうなのかという
               声なき声を連発していた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』129頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月27日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月二十七日を読む

ー自由への想いー

八月二十七日は「私は追憶だ」で始まる。「午前零時を回っても 思い出したように発作的にさえずるオオルリのせいで 留まるところを知らぬ」追憶が語る。
上記の文だが「回る」「発作的にさえずる」「留まるところを知らぬ」という言葉が絡み合って、追憶がからから回るような映像が浮かんでくる。


以下引用文。世一の母親の追憶の一コマ。「鳥になるべきだ」の一言に、丸山先生の自由を大切にされる生き方がおもわれる。

つれないことをさらりと言ってのけることと
   好男子であることで評判の占い師は
      「この子は鳥になるべきだ」と
         そうひと言呟いただけで、

         母親が幾度聞き直しても
            鳥の意味についてはまったく触れなかった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』123頁) 

以下引用文。入院していて空っぽの世一のベッドを見つめる父親は、オオルリに怒鳴る。やはり、ここでも自由への切実な思いが伝わってくる。

まったくだしぬけに
   「黙れ!」とオオルリを一喝し
       鳥になりたいのは自分だと言った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』125頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月26日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月二十五日を読む
ー平易だけど心に残る表現ー

八月二十五日は「私は異変だ」とまほろ町に次々と起きる異変が語る。
以下引用文。「夏と交わりたがる大勢の人間」とか「ぐうの音も出ないほど貧しさにやりこめられた」とか、平易なんだけれど思いつかない面白い表現だなと思う。

されど
   湖岸にも湖上にも
      夏と交わりたがる大勢の人間がいたにもかかわらず
         誰ひとりそれを目撃しなかった。

ついで私は
   ぐうの音も出ないほど貧しさにやりこめられた路地裏へと移り、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』116頁)

以下引用文。最後の四行からオオルリが激しくさえずる姿が浮かんでくるのはなぜだろうと思った。もしかしたら「オオルリ」のところまでは、わりと開けた感じの文字を使い、「オオルリ」以降は画数の多い漢字がきているせいもあるのだろうか?

少年世一の広大な人生を祝してさえずる
   籠の鳥であっても究極の自由を味わいつづける
      オオルリが
         小さな脳髄に宿る大きな魂を
            激しく震わせながら
               人間に限りなく近い
                  絶叫を発した。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』117頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月24日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月二十三日を読む

ー作者のようにも思える姿ー

八月二十三日は「私は衰弱だ」と、食あたりで弱った世一を心身ともに痛めつける「衰弱」が語る。以下引用文。これは世一というより、なんだかご自身の生を見つめる丸山先生の声のように思った。

そして当の世一はというと
   幸福に思えなくもないオオルリとの日々へ埋没したまま
      生温かいジュースをちびちび飲みながら
         青い鳥を相手に雑談に耽り、


畳に腹這いになってあらぬ思いに耽りつつ
   午前中をだらだらと過ごし、

この世に存するおのれを持て余すことなく
   時の流れに私を委ねている。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』108ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月23日(月)

手製本にトライしてみた
ーフランス装ノートー
ー文庫本を布張り上製本ー

東京・飯田橋から徒歩8分くらいの場所にある本づくり協会&美篶堂さんの手製本単発講座を受講、しかも欲張って午前、午後と二つの講座を受けてきた。

製本作業の合間に美篶堂さんがして下さる手製本の道具の状況や紙についての話も興味深いものがあった。

道具も少しずつ絶えて

手製本の道具を作る人が絶えたり、道具の材料も減りつつあるとのこと。一方で海外では日本の製本の道具が見直されているそう。

紙を折るときに使う折りべら、折り目や筋をつけるのに用いる「かけべら」は竹で出来ている。でも最近、ちょうどいい太さの竹の入手が難しく、どんどん「へら」の幅が狭くなってきているとのこと。

でも海外の製本家のあいだでは竹のへらが再評価され、去年もかなりの数が輸出されたとか。

「いちょう」という本に溝をつける道具は、つくる会社がなくなってしまったとも言われていた。

「紙を見る」姿勢

「紙を見る」ことから教えようとしてくださる言葉に、紙への愛情がひしひしと伝わってくる。

「紙の表裏を見る」……紙は表から切るのが基本。だから裏には「バリ」(裁断時にできる突起)がある。これを指で確認するようにとのこと。

「紙の目(繊維の流れ)」を見る……紙を丸めてみると、繊維の流れに従っている場合抵抗が弱く、抗っていると抵抗が強い。言われて試してみたら確かにそうだった。
紙の目が背の天地と平行に流れるように本を作らないといけない。そうでないと壊れやすい本になると。

フランス装を終えて

美篶堂さんや本づくり協会の方々が丁寧にサポートしてくださったおかげで、午前、午後共に何とか私でも本が完成!

美篶堂さんも「最初は綺麗に重ならないものよ」と言われていたけど、何とかフランス装で本の形にはなっても、見返しを織り込んだ表紙が微妙に大きさが違ったり何ともアンバランス……なのはなぜ?と反省。
綺麗に折る秘訣を求め、またトライしたい。

(写真の表紙をめくるとアンバランスな折り込みがあらわれますが恥ずかしいので)

「紙を切る」姿勢

文庫本を布貼り上製本に仕立て直す講座では、福島泰樹先生の文学講座のテキスト「中原中也全詩集」を使用。
あまりの厚みの本に周囲に驚かれ、「この本がバラバラで終わったら今週の講義はどうしよう?」と不安になる。
でも丁寧にサポートして頂いたおかげで無事上製本に変身して安堵。

表紙寸法を自分で計算して、三つのパートに分けてボール紙から型を切り取っていく……のだが、ボール紙をカッターで切るのがこんなに大変とは思いもしなかった。

カッターでグリグリ切ろうとしたら、美篶堂さんには「鉛筆でなぞるように力を入れないで優しく」と言われる。
そこでそっと撫でるようにボール紙にカッターを滑らす。10回滑らすとボール紙がスッと切れる。不思議!

このバーツ切り出しだけでカッターを120回滑らしただろうか?切るだけでもシンドイものである。
だから切っていると、体がだんだん斜めになったりしてしまう。切るという動作だけでも色々コツがあるような気がした。

それぞれのこだわりがほんの佇まいをつくるような気が

手製本の方々は刷毛の持ち方とか紙の押さえ方とか、細かいところに其々の工夫があって、それが本の佇まいを作っているような気もする。
見てはすぐ忘れる私だけど、なるべく多くのやり方を学んで試してみたいなあと思う。

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さりはま書房徒然日誌2024年9月22日

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月二十二日を読む

ー生と死が隣り合わせている世界ー

八月二十二日は「私は迷鳥だ」で始まる。老人に拾われた「惨めったらしい迷鳥」が語る。
以下引用文は最後の箇所だが、元気を回復して飛び立つ迷鳥に「死が待つだけの天空へまっしぐら」と言って終わるあたりに、丸山先生の生と死が隣り合わせている世界を見るような気がした。

オオルリがさえずり、

それが何よりの餌となり特効薬となって
   急に元気を回復した私は
      礼も言わずにさっと飛び立ち
         絶妙な羽ばたきを見せて
            死が待つだけの天空へとまっしぐら。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』105

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さりはま書房徒然日誌2024年9月21日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月二十一日を読む

ー宇宙とは厳しい戦いの場でもあり調和の場でもありー

八月二十一日は「私は土星だ」で始まる。食あたりで体調を崩した世一の夢に現れる土星が語る。


以下引用文。
世一に昼食をふるまった物乞いは、宇宙についてこう語る。厳しい生活を送る人の目がとらえるこの宇宙の緊張感が心に残る。

人々と同様
   星々もまた至る所で壮絶な死闘をくり広げており、

   そうするほかに生と存在を認識する術がないのだと
      きっぱり言い切って


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』99ページ)

以下引用文。土星が世一に語る宇宙の姿。宇宙とは、物乞いが語る緊迫感あふれるものかもしれないし、土星が語るように調和のとれた穏やかな世界なのかもしれない。どちらも真実であるような気がする。

この世が故意に造られたものではなく
   誰かの過失による偉大な産物というわけでもなく
      あくまで調和の上に成り立つ世界であることを
         知らしめようとした。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』100ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年9月20日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月十八日を読む

ー世一の目がとらえるこの世ー

八月十八日は「私は洞察だ」で始まる。少年世一の「意識下に潜むあまりに鋭い洞察」が語る。
以下引用文。世一の洞察が語る「まほろ町」は平易な言葉でありながら、どこか寓意的でもある。

私に言わせると
   閉じた社会でもなければ
      開かれた社会でもなく、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』86頁)

以下引用文。世一の意識下の洞察は、まほろ町に住む人々も次々ととらえていく。その姿は「青や赤や紫の思想」という言葉のように、説明する言葉を失いながら的確に核心をついている。
理解する言葉を持たない世一の視点に降りたって、この世を眺める不思議さがある。

そうかと思うと
   青や赤や紫の思想を漂白して
      舌戦をくり広げたがる連中もいるし、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』86頁)


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さりはま書房徒然日誌2024年9月19日(木)

初めての和綴じ四つ目綴じ製本体験

東京都板橋区にある手製本工房まるみず組で、人生初の和綴じ本の制作体験をしてきました。器用とは言えない私ですが、親切に分かりやすく教えてくださるまるみず組の先生のおかげで(手順を説明したプリントも頂けます)、無事に四つ目綴じの和本が完成しました。

この和綴本の制作を通して、和綴じ本の魅力を発見したり、驚いたり……。

和綴じ本に驚いたことやら感じた魅力やら

其の一 材料も道具もあまりコストをかけずに本ができる!時間は多少かかりますが、不器用な私がモタモタ作っても1時間半で完成しました。

其の二 こより用の用紙SILティッシュはすごく儚げなのに、よじると途端に丈夫になる。でも不器用な私は、こよりを捻るところからモタモタしてしまいました。

其の三 和綴じ本はすごく軽い。出先とか旅行先に携帯しやすい。

其の四 それでいてすごく丈夫。パカっと真ん中で綺麗に開いた状態で静止してくれる。文鎮不要。片方にフランス語の詩、片方に訳文とか配置してボーッと眺めるのにいいかも。

其の五 今回はページにあたる部分は白紙の半紙で作りましたが、目にすごく優しい気がします。半紙でなく他の和紙なら更に優しく感じるのでは。

其の六 今回、表紙は千代紙を使いました。千代紙もデザインが豊富でずいぶんお洒落な紙があって楽しい。着物の生地を表紙に使うこともあるそうですよ。背の角ぎれ、かがり紐の色、かがりの形と組み合わせるとデザインは無限。

和綴じ本という名前ながらアジア諸国の叡智の結晶

ちなみに日本に紙が伝わったのは高麗から、紙を二つ折りの袋綴じにする形は明から伝わったそうです。
和綴じ本とは言いますが、背景にはアジア諸国の叡智が詰まっているのです。

手製本工房まるみず組について

手製本工房まるみず組は広々とした場所に、大きな作業台があります。さらに無数の紙やら製本グッズがあって本好きにはたまらない場所だと思います。オンライン販売のところに単発の製本レッスンも幾つかあります。興味のある方は検討されてみてはどうでしょうか?

↑私の初めての和綴じ本。兎柄の千代紙に泉鏡花を連想して選びました。

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さりはま書房徒然日誌2024年9月18日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月十五日を読む

ー実体のない語り手の存在を感じさせるにはー

八月十五日は「私は説明だ」で始まる。「少年世一が盲目の少女を相手にだらだらとくり返す 実意を込めた 懸命の説明」が、盲目の少女にオオルリとはどんなものなのか説明しようとする。
鉛筆や牛乳ならともかく「説明」が語る……というのはハードルが高いのかもしれない。だからだろうか?八月十五日の文は具体的に見えるように進み、丸山先生にしては珍しく世一と少女の会話まである。これも「説明」という実体のない語り手に、骨と肉を与えようとしているからではないだろうか?

むしろ見えないことによって培われた想像力が
   存分に働き、

   おかげで私は
      本物を凌駕するかもしれない青い鳥を
         ものの見事に
            いまだ光を知らぬ胸のうちに飛ばしてやれ、

            「どう、わかったあ?」と
                そう訊く世一の声に濁りはなく、

            「わかったあ」と答えて深々と頷く
                相手の笑みは至上のものだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』76ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月17日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月十四日を読む

ー「調子のいい韻律」という言葉の面白さー

八月十四日は「私はトモロコシだ」で始まる。力仕事を終えた若者が、畑から家畜用の実の少ないトウモロコシを畑からもぎ取ってきて火にくべる場面である。「調子のいい韻律」という言葉が、火の爆ぜる音、若者の骨格の見える痩せた体と重なるようで面白いと思った。

待ちきれない彼は
   まだぱちぱちと爆ぜている生焼けの私にかぶりつき
      さも美味そうにむしゃむしゃと貪りながら、

      かなり傾いたとはいえ
         まだまだ荒くれている夏の太陽を前にして
            皮下脂肪のかけらもない手足や胴や頭に
               調子のいい韻律を与えた。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』72ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月16日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月十一日を読む

ー竜を威嚇する強さー

八月十一日は「私は竜だ」で始まる。「山車の 四本の豪華な柱をぎゅっと締めあげ」る竜が語る。

以下引用文。竜が「傲岸」とまで語る少年世一。世一の天真爛漫さ、他人のとらえる自分の弱さをきっぱり拒絶する強さが心に残る。

近頃では
   「ハッタリはよせ!」などと言って私を威嚇する
       およそ恐れというものを知らぬ子どもさえ現れる始末で、

傲岸にもその少年は
   私のみならず自身の病すら認めようとしないばかりか
      不自由な肉体に付き纏って離れぬ
         深い孤独や疎外感さえも認めていないのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』61頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月14日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月十日を読む

ー老人と傷んだボートー

八月十日は「私は刷毛だ」で始まる。湖で傷んだボートを発見した元大学教授は、刷毛でボートにペンキを塗りつけてゆく。
以下引用文。傷んだボートが「溺死体」にも、「自分が浮いている」ようにも思う元教授がもうこの世から心が去りつつあるのかと思えば、「ボートをあっさり死なせたくない」と思うあたりに、命のしぶとさを思う。

余生を楽しむ振りが大好きな元大学教授は
   そのボートを一週間ほど前に偶然発見し、

見つけた直後は
   なぜか溺死体に思えたと
      そう妻に伝え、

ついで
   誰にも聞こえない声で
      自分が浮いているようにも思えたと
         そうつづけた。

過剰な親近感のせいで
   彼はボートをあっさり死なせたくないと考え、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』54頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月12日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月九日を読む

ーまさに夏の昼下がりー

八月九日は「私は昼下がりだ」で始まる。フェーン現象のせいで暑くなった日の昼下がりが語る。夏の昼下がりとはまさにこんな感じ、気怠さと勢いを増す自然がコントラストを描いて心に残る。

まほろ町をすっぽりと包みこんだ私は
   午睡をする人の数をいつもの倍に増やして
      街道の交通量をいつもの半分に減らし、

ついでに
   底意や小策の数も大幅に少なくしてやり、


そして
   ひたすらきらめくうたかた湖と
      その周辺の屈折した光景を
         さながら油絵のように塗り固め
            押し固めてやり

夏場だけ開店する湖上のレストランを
   夢うつつへと限りなく近づける。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』50頁)


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さりはま書房徒然日誌2024年9月11日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月八日を読む

ー若者の不安と光が一体となってー

八月八日は「私はピラミッドだ」で始まる。少年世一がそれが何なのかも分からず、海外旅行のパンフレットを見たことも忘れ、ただ無心に作り上げたピラミッド。湖畔の砂でできた、少年がよじ登ることのできる大きさである。
以下引用文。湖畔でキャンプする若者たちがピラミッドを眺める様子。
「光と光の僅かな隙間にちらついている さほど明るくない未来」という言葉に、湖畔の風景と若者の不安と希望がないまぜになった心が見える気がする。
「直線的で相対的な私」の「相対的」の意味、何だか受験の国語の問題に出てきそうだけれど、どういう意味なのだろうと考えてしまう。

かれらは
   ひと泳ぎしては浜辺に寝そべって甲羅を干し、

光と光の僅かな隙間にちらついている
   さほど明るくはない未来を垣間見るたびに顔を背け
      不安でいっぱいになった目を
         今度は世一と私に向けるのだ。

そんなかれらはおそらく
   極めて曲線的な動きをする少年が
      直線的で相対的な私を造り上げたことに魅了されており、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』48頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月10日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月五日を読む

ー体験が滲む文ー

八月五日は「私は大鎌だ」で始まる。「食べて眠るだけの生活」にも、「そのときの気分で踊るアドリブのダンス」にも飽きた青年が、新しい職を求めていくなかで出会った下草刈り用の大鎌が語る。
丸山先生の田舎暮らしと作庭の体験から出てくる言葉が、意識してなのか無意識になのか定かではないが、渦巻いているような文だと思った。

たちまちにしてコツを呑みこむと
   同僚の誰にも負けぬ勢いで
      私をブンブン振り回し、

クマザサを薙ぎ払い
   派手な色合いの蛇の頭をすっぱりと刎ね
      小石にぶつかるたびに火花を飛ばし、

そのついでと言ってはなんだが
   思い出したくもない過去と
      汗といっしょに断ち切った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』35頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月9日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月四日を読む

ー母親たちともうひとりの母親のコントラストー

八月四日は「私は日傘だ」で始まる。「うたかた湖の水と光に戯れるわが子を見張る母親たちが差す」日傘が語る。
以下引用文。子供達を眺めながらその未来を案じる母親たち。「日傘」をアンテナ見立てて、心配に乱れる脳波を夏空に拡散したり、日差しが安心させようとする声が伝わってくる様子が、どこか漫画チックで面白い場面だと思った。

そして
   心配が募るたびに乱れる脳波は
      さながらラジオの電波のように
         この私をアンテナ代わりにして
            焦げ臭い夏空へと野放図に拡散し、

すると
   強烈な日差しが
      やはり私を通して
         「心配するに及ばない」を
             くり返し説くのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』31頁)

以下引用文。最後に世一の母親が通り過ぎる様子が出てくる。日傘を差した母親たちの様子が漫画チックに書かれている分、障害のある世一を育てる母親の現在の姿が強烈なコントラストとなって迫ってくる。

すでにして母親の立場に飽き飽きした年配の女は
   私の方など見向きもせず、

   それでも丘を半分登ったところで
      なぜか急に足を止めてこっちを振り返り
         大はしゃぎをする子らの甲高い声にじっと聞き入って
            おのが少女時代の夏が
               まさにそこに在ることを実感する。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』33頁)

 

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さりはま書房徒然日誌2024年9月8日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月三日を読む

ーラジオ体操に罪はないけれどー

八月三日は「私はラジオ体操だ」で始まる。ラジオ体操は、自分の周りに集まってくる人々の背後にある国家の狙いを鋭く見つめる。ラジオ体操はともかく、今の学校教育はまさにそうであろうと思う。
ただ狙いは「現人神の影にひれ伏せさせるため」なのだろうか?
戦前、現人神が戦争をすることでやってきた荒稼ぎを、今度は現人神抜きで自分達がやってやる……という輩が跋扈しているような今の世、「強欲な現人神の真似をしている者たち」なのかもしれない。

健康な者と不健康な者を厳しく選り分けて
   後者を疎外し
      前者には連携と服従の精神を植え付ける
         そんな魂胆の私は、


物事をあまり深く考えないで集まってくる
   能天気な人々に暗示を掛け、

月並みな終わり方をしそうな
   そして
      それをよしとする生涯を
         いざという段には
            喜んで国家に捧げるように仕向ける。


つまり
   遠いように見えながらも
      実際には目睫に迫っている
         現人神の影にひれ伏せさせるための基礎訓練を
            今から積ませており、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』26頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月7日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月二日を読む
ーどちらも真実ー

八月二日は「私は紅炎だ」で始まる。太陽の「紅炎」(こうえん)が語る。

以下引用文。「紅炎」が世一とオオルリに向けて送る声援。相反するメッセージが響き合って、自然とこの世にある生の意味が何の矛盾もなく心にストンと落ちてくる。

存りのままでいいという
   そのままでいけないという
      そんな背理の見解を込めた
         熱い声援を送りつづける。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』23頁)

以下引用文。世一の父親に「おれの代わりにどんどん燃えてくれ おれは燃えることができんのだ!」と喚き散らかされると、宇宙の様子までもが変化してゆく。世一の父親の絶望がどこかユーモラスに書かれている。
紅炎の世一とオオルリへの矛盾した思い。宇宙を歪める世一の父親の絶望。どちらもこの世の真実なのだなあと思う。

ところでこの箇所は、引用箇所以外は難しい、初めて知る漢字が結構多かった。なぜなのだろう。引用しても、変換が難しいかも……という安易な理由でやめてしまったが。

その途端
   辺り一帯に異様な悲壮感が漂い始め、

汲み尽くしがたいはずの
   無限説が濃厚の大宇宙が
      たちまちにして下降と凋落の世界に成り下がってゆくように思え、

加速度的に膨張の一途を辿っていた空間のそこかしこに
   ひび割れが生じてゆくように感じられ
      存在の意味を問う声すら押し潰されそうになって
         私は慌てて勢いを増す。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』25頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月6日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月一日を読む

ー意外なイメージ同士がピッタリー

八月一日は「私は静寂だ」で始まる。暴力団らしきメンバーの葬式が行われたまほろ町。警官や人々の緊張もほぐれつつある様子を、町に戻りつつある「静寂」が物語る。

以下引用文。元に戻りつつある町に意外にも不満そうにしている人々。ふらら歩きながら、その聲を耳にして真似する世一。「不満の言葉や不毛の言葉」のイメージと「散歩中のハリネズミよろしくぶつぶつ呟き」というイメージが、かけ離れたものなのにピッタリする表現の不思議さを感じた。

そんな病児は
   町のあちこちで耳にした
      不満の言葉や不毛の言葉を
         散歩中のハリネズミよろしくぶつぶつ呟きながら、

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』21頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月5日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月二十八日を読む

ー抽象的なものを語り手にする効果ー

七月二十八日は「私は救済だ」で始まる。世一の飼い鳥のオオルリが「神に入るさえずりの妙技で遠回しに示す かなりの気高さを秘めた」救済が語る。
以下引用文。救済が叫べど、まほろ町の人々の反応は冷ややか。
「救済」という抽象的なものを語り手にすると、作者の素顔がストレートに出てくる感じがした。
他の人の視点に降り立って、その人の一人称で語るときは作者はあまり見えないものだけれど。
作者自身の考えをストレートに、でも若干弱めて伝えるには「救済」という抽象的な語り手もいいのかもしれない……などと考えた。

けれども
   そうしたかれらのそうした冷ややかな反応こそが
      実は私が最もこいねがうところのものであり、

ひっきょう
   私の詭弁に酔い痴れ
      私が授けるお情けにすがっているあいだは
         ぐずぐずになった精神世界が救われることなど

            絶対にあり得ない話で、

かれらを救えるのは
   かれら自身を措いておらず、

神仏なんぞは論外であって
   頼ったその段階で
      魂は即死を迎えてしまう。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』5頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月4日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月二十五日を読む

ー帰還兵の心の闇ー

七月二十五日は「私は熱風だ」で始まる。丸山作品は地名が素敵で、よくある平凡な町の風景が地名のおかげで幻想的な世界に思えてくる。

私は熱風だ、

   あやまち川を遡り
      うたかた湖を渡ってもけっして冷えないどころか
         却って勢いづいてしまう
            かなり世慣れた熱風だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』390頁)

以下引用文。帰還兵の心の闇を描いて戦争の悲惨を訴えてくる丸山作品の中にあって、この老人は少し異質な気がする。でも戦争に至る心の闇が誰にでもあると仄めかしているのかもしれない。

おのれの軍装の写真を唯一の心の拠り所にして
   小心翼々として七十五年を生きてきた老人が
      床に安臥して間もなく
         その命をついに全うする。

大往生の部類に属す死者は
   戦争のために南方で残害した無辜の民を思い出しても
      もはや良心の呵責を覚えることがなく、

      さりとて
         一時期は現人神とまで崇めた天皇と同じ年に死ねることを
            さほど誇りに思ったりもせず、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』392頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月3日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月二十四日を読む

ー目の見えない少女に天の川を説明するとー


七月二十四日は「私は天の川だ」で始まる。うたかた湖のボートの上で、父親が盲目の娘に「天の川」を説明しようとしている。

以下引用文。「天の川」が自ら語る自分の姿である。醜いもの、清らかなもののコントラストが印象的な文である。

倦怠のまほろ町の爛れた夜空を横切り
   けっして世を厭うことのない盲目の少女の
      いつも静かな胸のうちをよぎる
         幻想としての天の川だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』386頁)

以下引用文。盲目の娘に天の川とはどんなものか……と必死に説明する父親、それに対する少女の反応である。自分が父親の立場ならどう説明するだろうと考えてしまった。宇宙の底知れぬ怖さを語らないのは父親の思いやりなのだろうか。

星とはつまり
   天に咲く花のようなものだと
      そう説明し、

すると少女は
   いい匂いがして
      ふんわりしたものが流れている
         大きな川なのかと訊き返す。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』387頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月2日

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月二十三日を読む

ー世一への思いー

七月二十三日は「私は記事だ」で始まる。まほろ町に数十年ぶりに発生した殺人事件の記事が語る。
組員と一緒に記事の写真に写り込んでいた世一をこう語る。「反社会的な存在」「存在することの恐怖」「社会通念を愚弄」という言葉に、丸山先生が世一に託した想いを感じる。
意図せずして、そういう存在になり得る世一は丸山先生にとって理想的な存在なのかもしれない。

それにしてもたまたま写された少年は
   当事者である組員本人よりも
      なぜかは知らぬが
         反社会的な存在に成り得て
            存在することの恐怖を物語り、

少なくともこの私にはそう思えてならず
   要するに彼は
      不自由な肢体のすべてを用いて
         社会通念を愚弄している。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』385頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月1日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月十六日を読む

ー「夏」が語る戦後日本ー

七月十六日は「私は夏だ」で始まる。
敗戦時に責任をうやむやにして問うべき責任をきっちり問わず、曖昧なままスタートした日本の戦後がいよいよ崩壊しかけているような昨今、思わず目にとまった文である。ただ「屈辱」と言うよりは、「愚かさ」やら「身の錆」やらの方が、私の心情的にはしっくりくる気がする。

そして私は
   無条件降伏という屈辱を戦勝国に押しつけられたせいで
      今もって民主主義のなんたるかを理解していない
         身の程知らずのこの小国を、
            永久に振り捨てられそうにない
               島国根性と共に
                  すっぽりと覆う。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』

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さりはま書房徒然日誌2024年8月31日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月十四日を読む

ー「魂に汗して生きる」という表現、心に残るー

七月十四日は「私は積乱雲だ」で始まる。まほろ町のいろんな住民を観察し見守る積乱雲は、丸山先生そのもののような気がする。積乱雲が語る世一の「魂に汗して生きる」「最高にして最低の存在」の姿も、清々しいような、哀しいような存在である。人の世を見つめる積乱雲の束の間の存在が心に残る。

そして
   この世を見極めることにかけては
      今や入神の域に達しつつあるかもしれぬ
         魂に汗して生きつづける
            最高にして最低の存在たる
               少年世一。


私はそんなかれらのひとりひとりに
   じっくりと見入り
      そして魅入っており、


なぜならば
   全員にそれだけの存在価値が
      充分過ぎるほど具わっているからで、


かれらを認め
   かれらの至高至純の魂の震動によって膨張しながら
      いつもの夏を
         いつもの現世を構成してゆく。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』349頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年8月30日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月十三日を読む

ー思いがけないイメージの方が心に残るものー

七月十三日は「私は荒涼だ」で始まる。この箇所は意外性に満ちていたので心に残る。
以下引用文。私は杏が好きだが、「可愛い」というイメージのある杏の枯れ木に「荒涼」を見出すという展開に、思わずどんな木の残骸なのだろうと考えてしまう。

もう何年も前に雷火に焼かれ
   さらに落石によって幹を真っぷたつに裂かれて
      とうとう枯れてしまった杏の大木に宿る
         ごくありふれた荒涼だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』

以下引用文。丸山先生らしい作家が出てくる。だが杏の枯れ木に宿る荒涼に怖じ気づいて逃げ帰ってしまう……という意外さに、どんな荒涼なのだろうと考えてしまう。

すらすら繋がるイメージよりも、思いがけないイメージの方が考えさせるものだと思った。

物好きにもわざわざ私に会いにやってきた
   ときにはおのれ自身を虫けら扱いしたがる小説家もまた
      私をひと目見るなり
         犬を連れてこなかったことを後悔し

核心に迫る言葉を発見するどころか
   尻尾を巻いて逃げ帰り、


あとには
   筆禍を招きそうな文章の二つ三つを
      置き去りにし、

一般の気受けがあまりよろしくなく
   とかく風評のある彼の背中に
      私は悪態の連打を浴びせる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』343頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月29日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月十一日を読む

ー悲惨と隣り合わせだからこその慈愛ー

七月十一日は「私は慈愛だ」で始まる。孵卵器で孵ったばかりのアヒルの雛に童女が注ぐ慈愛が語る。

前半の慈愛に満ちた世界の穏やかさ。後半のその穏やかさが「知らない方がいいことを知らずにいて、 ために 底なしの無邪気さが保たれている」という事実。このコントラストを皮肉をまじえないで、真摯に見つめる視線に「この世とは……?」と思わず考えてしまう。

以下引用文。童女の慈愛の世界。

ここには
   手遅れで策の施しようがないことなどひとつだってありはしないし、
      それにまた
         華奢を極めた生活にはどうしても抜け落ちてしまいがちな
            質素な暮らしのなかにこそ宿る
               温かい条件がすべて用意されている。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』335頁)

以下引用文。

童女からさほど離れていない場所では、母親が手慣れた手つきで雄の雛を「ぐらぐらと煮え滾る熱湯のなかへ無造作に投げこんでいる」
また医師免許を失った元医師が「母親になりたくない女が宿した子を 密かに始末している」

そんな現実を知らないからこそ、慈愛は「崩壊を免れ」「全体を意味し」「生きるに値する何かを 有している」
ひどい現実と隣り合わせだから、慈愛の存在は強いのだなあと思うけど、「知らずに済んでいて」だからかどうか……慈愛はそんなにやわなものではない気もする。

幸いにも知らずに済んでいて
   だからこその天国の気配に満ち、

   崩壊を免れている私は
      この世の一部でありながら
         全体を意味し、

         生きるに値する何かを
            有している。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』337頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月28日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月九日を読む

ーふと見える作者の素顔ー

七月九日は「私は浮きだ」で始まる。
「効果抜群の 夜釣り用の浮き」が語る鯉釣りをしている男。若い頃、やはり夜に鯉釣りをしていた……という丸山先生ならではの、対象への同化が感じられる。
「おのれの気配を消して闇に成りきり あるいは水に成りきって」という言葉も、体験から語っているのだなあと作者の素顔が感じられる。
それにしても鯉釣りに「他の時間は死んだも同然」とまで思うものなんだろうか……と釣りを全くしない私は不思議に思いつつ、そうなんだろうなと納得させる迫力がある。

丈夫一点張りの鯉釣り用の竿を握る男は
   おのれの気配を消して闇に成りきり
      あるいは水に成りきって
         ひと晩に一度あるかなしかの
            ときめきの嵐をひたすら待っている。

狩猟本能に直結した感動が
   さながら電流のごとく全身を駆け巡るあの一瞬のために
      彼は過酷なこの世を生きており、

      つまり
         他の時間は死んだも同然ということになり、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』326ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月27日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月八日を読む

ー足音に想いを宿してー

七月八日は「私は足音だ」で始まる。「疲労困憊して帰宅した少年世一」が階段を登って行く足音に、風邪で伏せっている母親は耳を傾ける。

以下引用文。階段を登って行く足音に、母親は「長男の孤独の深さを今さら思い知り」と世一の孤独に思いを寄せる。ふだんは世一を見ないようにしている母親が、ふと情味を取り戻すようでハッとする一瞬である。その衝撃が「 わが子に見切りをつけて久しい事実を  突如として再認識」させる様に、ふだん世俗にまみれて生きているお母さんに、自分の内面を見つめさせる世一の力を思う。

おのれが辿った五十数年をそっと抱き締めながら
   私に耳をそばだて、

   そして
      長男の孤独の深さを今さら思い知り
少なからず衝撃を受け、

         併せて
                  わが子に見切りをつけて久しい事実を

                      突如として再認識し
愕然となり、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』322ページ) 

以下引用文。最後の部分。雨音に孤独を募らせてゆく母親の心、「私は消え失せる」という静かな諦念に満ちた終わり方が心に残る。

丘を駆け下る水の音がさらに強まって
   世一の母の耳を塞ぎ
      ついでに心までも塞いでしまい、

      彼女は毛布にひしと抱きつき
         世一は鳥籠にしがみつき
            そして私は消え失せる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』325ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年8月26日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月七日を読む

ー少し視点を変えたら世界が新鮮ー

七月七日は「私はバスタオルだ」で始まる。
「まだ新しい ずば抜けた吸湿性の 黄色いバスタオル」が語る。

以下引用文。「綺麗に」「聞き古した」「投げやりな気分で」とタオルの目線になって丸山先生が語っているのが面白い。いつもは人間目線でタオルを見ている私としては、少し世界がひっくり返った感じになる。

きのうと同じように
   私はシャワーの滴を綺麗に吸い取り
      聞き古した自問自答をどこか投げやりな気分で吸い取り、

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』318頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月22日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月五日を読む

ー転換の鮮やかさー

七月五日は「私は雨音だ」で始まる。
以下引用文。このあと、雨の陰惨さが人々に及ぼす影響が雨音が打ちつけるように幾つも列挙される。だが最後にオオルリが登場して、負の光景から陽に変えるところが鮮やかだなあと思う。

すでにして二十時間余りも間断なくつづき
   まほろ町の人々の胸にぶつぶつと穴を開ける
      無情にして有害な雨音だ。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』310頁)

以下引用文。「私の意のままにならず」と雨に嘆かせるオオルリが登場する場面である。生と死が隣り合わせているような囀りが聞こえてきそうである。

この私が
   まほろ町の隅々に沁みこませる陰の力を
      悉く吸い取って陽の力に変換し、

なんと
   生を死に見立ててしまうほどの
      華麗なさえずりを
         惜しげもなくばら撒く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』312頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月21日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月一日を読む

ー不自由、自由を象徴するものー

七月一日は「私は雲だ」で始まる。「まほろ町立病院のベッドに横たわった患者たちが 各々自分しか見ていないものと思いこんで仰いでいる」雲が語る。
以下引用文。入院患者が眺める雲ではじまって、「自由の利かない」世一の体の動きを「のろのろと」「倦怠に塗りこめられた」と表現しながら視点が移る。
そのあと、「小さなつむじ風」に「羽音によく似た風音」「各病室の窓を軽く叩いて回る」と動きを託す。
やがて世一が羽ばたく動作をしてみせたことで、雲まで届くつむじ風が発生する……。
不自由から自由へ……という流れを、病院のベッドの患者の視界、世一の動き、つむじ風、竜巻に象徴した書き方が心に残る。

私とはすでにして相識の間柄にある少年世一が
   病院の外壁を掌で触れて楽しむしかない
      あまりに自由の利かない体を持て余しながら
         のろのろと世間の外れを横切って行き、

倦怠に塗りこめられたその間に
   小さなつむじ風が生じて
      羽音によく似た風音が
         各病室の窓を軽く叩いて回る。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』296頁)

そうした快活な声が集まったところで
   世一はだしぬけに羽ばたきの動作に転じ、

そのせいかどうか
   ほとんど同時に新たなつむじ風が発生し、

みるみる勢いを増して
   ほとんど竜巻の様相を呈し
      私のところまで届いてしまう。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』297頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月20日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月三十日を読む

ー世の人が振り向きもしないところに美は宿るー

六月三十日は「私は色彩だ」で始まる。「花屋の裏手のゴミ捨て場に まったくもって無作為にちりばめられている 頽廃的にして幻想的な色彩」が語る。
「現代美術の最先端を走っている」というゴミの描写も、本当に現代美術の展示会さながらで読んでいて楽しい。
以下引用文。「難病の反動によるものか 殊のほか色感豊かな少年」である世一は、ゴミの美を完全なものにしようと夢中になるが合点がどうしてもゆかない。ゴミの「色彩」が説明するその理由が、なんとも思いがけない。
世の人が見ようともしないところに、美を感じとる眼差しが心に響く。

それでも納得がゆかないのか
   しまいには私のなかでのた打ち回り始めたというのに
      まだまだ不満の様子で、

尤も作品としての自分に言わせてもらえば
   彼はおのれを色のひとつとして見ることを忘れており、

飛び入り参加してくれたおかげで
   非の打ちどころがない美に到達できたのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』203頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月19日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十八日を読む

ー弱い存在に光をあててー

六月二十八日は「私は嗅覚だ」で始まる。「光を知らぬおかげで闇を知らなくて済む盲目の少女」の嗅覚が語る。

以下引用文。「千日の瑠璃」には人間に対する容赦ない視点もあるけれど、一方で盲目の少女や少年世一という本来なら救い難い存在に、「根拠なき希望」「晴れやかな微笑」と希望の光をたっぷり見い出しているところが魅力のように思う。

私は大抵の物ならばほぼ正確に捉えることが可能で
   たとえば
      こっちへ向かって吹いてくる潮風と
         その切ない風を受けてやってくる少年世一を捉え、

彼がもっと接近すると
   その胸をいっぱいに轟かせている
      根拠なき希望をも捉えることができ、

さらには
   満面を覆う
      晴れやかな微笑をも捉えられる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』282頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月18日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十七日を読む

ー骨太な幻想文学でもある丸山作品ー

六月二十七日は「私は亡霊だ」で始まる。うたかた湖で釣りをしながら息絶えた世一の祖父が亡霊となって、朝早く一家が朝食をとっている場に現われる。
丸山作品の「亡霊」は、もう一つの世界とこちら側の世界がクロスした瞬間に現われる存在に思える。亡霊が訴えているのは不気味さではない。生のエネルギーがより純化された形で、もう一つの世界から映し出されている気がする。
意外と丸山作品は、幽霊とか不思議な存在が出てくる幻想文学でありながら、骨太さゆえ大半の幻想文学ファンからスルーされているのが惜しい気がする。

ようやく騒ぎ始めた生者にかまわず
   私は燦然たる光の中を通り抜けて
      崖っぷちの揺らぎ岩のところまで進み出ると
         真下に広がるうたかた湖をまじまじと見つめ
            そうしているとなんだか釣りがしたくなり
               思わず知らず竿を振る仕種をくり返した。


高々と跳ねる巨鯉がはっきりと見え
   やや遅れて届いた水音を感知したとき
      私は戸口に茫然と佇んでいる四人の方をおもむろに振り返り、

主として世一に向かって手を振り
   それから
      壮大な動きで渦を巻き始めた光に溶けて消えた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』281頁)  

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さりはま書房徒然日誌2024年8月17日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十六日を読む

ーくつろぎにあふれているのは?ー


六月二十六日は「私はくつろぎだ」で始まる。旅館で養生中の骨折した娼婦の感じる「くつろぎ」が語る。

以下引用文。本当に「くつろぎ」が感じられる文なのはなぜ?と考えてしまう。
「きのう」や「あした」という時間を表す言葉が平仮名なのは、丸山作品によく見られる特徴だ。
丸山先生の好みなのかもしれないが、この場合、「きのう」「あした」と平仮名にすることで時間の観念が消えて、のんびりした感じになってくる。

私も「きのう」「あした」と平仮名感覚で、更にのんびりモードで生きていきたい。

生来の楽天家である彼女は
   きのうまでのあれこれを
      どうでもいい夢のようにして忘れ去り、

      あしたを気に病むこともなく
         よく冷えたビールのなかへ
            いささかくたびれた自意識を大胆に解き放つ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』275頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月16日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十三日を読む

=抽象的な世界から具体的な世界へ、万華鏡の変化ー

六月二十三日は「私は万華鏡だ」で始まる。
以下引用文。少年・世一がオオルリの抜けた羽やら混ぜて作ったお手製の万華鏡が、世一に見せてやる世界。最初はどこか抽象的な、救い難い世界が示される。

来世の門辺に茫然と佇んで
   さっぱり要領を得ない返事を反復するばかりの
      八百万の無能な神々と、

徒にうろたえて騒ぎ立てるしか能がない
   無様にして憐れな人間どもと、

簇生する筍のごとく逞しい日々の
   予測を許さぬ前途と、


果てしない闘争と逃走の連鎖でしかない
   意味不明の世界を垣間見せてやった。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』263頁)

以下引用文。これまでの抽象的な世界とは真逆の、具体的な事象を万華鏡は見せはじめる。いくつか文が並んでいるが、後半を引用。抽象的な世界から具体性を帯びた世界へ……万華鏡の見え方にはそういう感じがあるのかもしれない。

世界崩壊が迫ってきていることをずばりと予言する
   両性具有の占い師と、

その他多くの人畜が抱えこんでいる
   どうしようもない苦悩のあれこれを、

なんとも鮮やかに
   そしてグロテスクに形象化してみせた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』264頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月15日

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十二日を読む

ー絶望の闇ー

六月二十二日は「私は暗がりだ」で始まる。
以下引用文。「暗がり」にこめられた悲しみに、そこがもうこの世ではない気すらしてくる。

誤って人を轢き殺したことがある女
   そんな彼女が好んで佇む
      街灯と街灯の死角に生じる
         ありきたりな暗がりだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』258頁

以下引用文。深夜に徘徊する妻、その姿を見守る夫。妻の絶望感、やりきれない悲しみが伝わってくる。
同時に「電柱十本分くらい」という表現が入ることで、妻の歩く風景がリアルなものに思えてくる。
でも「電柱十本くらい」とはっきり言いながら、同時に曖昧でもあるイメージを用いることで、悲しみがふつふつと感じられてくる。

自宅から電柱十本分くらいの距離を俯き加減にてくてくと歩く妻の目は
   どこまでも虚ろで
      ほとんど何もみておらず、

果たしてそこがどこであるのか
   そうやっている自身がいったい誰であるのかという
      常識的な認識すら怪しく、

のみならず
   生の原動力の大半が
      すでにして溶解しているのでは……。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』259頁)

ただ最後、世一にぶつかって女が無様な格好をとるとき、急に場面が生き生きと明るくなるのが不思議である。

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さりはま書房徒然日誌2024年8月14日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十一日を読む

ー難しい言葉だけでない魅力ー

六月二十一日は「私は麦だ」と国に「米はもう充分だ これ以上作っても腐らせてしまうだけだ」と言われて「やむなく育てられた麦」が語る。

以下引用文。

麦の上に身を横たえた世一と麦の間に交わされる会話。
どこか童話めいたやり取りが心に残る。
世間から「難しい、難しい」と思われがちな丸山先生の作品ではあるが、こうした大人のための童話とも言えるやり取りに魅力の一つがあるように思う。決して難しい言葉ばかりではないのでは?

異様なまでに研ぎ澄まされた感性を
   そっくりそのまま委ね、

   湖の力を借りて
      米ではないおのれを恥じよと言い、

      それに対して
         猿ではないおのれを恥じよと
            そう言い返す。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』257頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月13日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月十八日を読む

ー二つの色に込められた思いー

六月十八日は「私は梅雨だ」で始まる。
以下引用文。土蔵にこもって暮らす青年が雨の動きを真似して踊り始め、体の不自由な少年・世一も一緒に踊りだす。
「銀色」「瑠璃色」という二つの色に、青年と世一が象徴されるようで、その心やこれまでが鮮やかに浮かんでくる。
「愉悦の流れに乗せ」「虚無を吹き飛ばして」「秩序整然たる宇宙に穴をあけ」「世界は果てしない苦悶の連鎖であるという説を押しこんでしまい」という言葉を読んでいると、自分の狭い基準とは違うところで回転しているこの世の歌が聞こえてくるように思えてくる。

〈雨〉を踊る彼の魂は銀色に染まり
   あとからやってきて参加した病児の
      踊りと呼ぶには壮絶に過ぎる踊りは
         瑠璃色に輝いて私を愉悦の流れに乗せ
            大地に充満する虚無を吹き飛ばして
               この世との同化作用を促進させる。
 

若者と少年の自由奔放な踊りは
   どこまでも生命的な神々を彷彿とさせて
      秩序整然たる宇宙に穴をあけ
         世界は果てしない苦悶の連鎖であるという説を押しこんでしまい、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』245頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月11日(日)

人生初の製本体験!

本づくり協会のワークショップに参加、角背上製本を作ってみました!

( ↑ あちこちアラだらけで恥ずかしいのですが、私の人生初製本です)

本づくり協会の製本ワークショップに参加。人生初の製本体験をしてきました。製本は手間もかかるし、時間もかかるし、ちょっとした力加減で歪んだりするし……初めて製本屋さんのご苦労を知りました。
でも出来はともかく、ばらばらの紙が自分の手で本になっていく過程は楽しいし、不器用ながら無心になれるひとときを満喫。
これもスタッフを複数配置して、細やかに指導してくれた本づくり協会のおかげと感謝しています。

本づくり協会は、手製本を得意とする製本会社の美篶堂(みすずどう)さんが中心になって、活版印刷の嘉瑞工房、出版社ゆめある舎、出版社ビーナイスの四社で運営されている団体のようです。
本づくり協会、美篶堂さんの事務所は、長野県伊那市、それから東京の二ヶ所にあります。東京事務所は飯田橋駅から徒歩8分くらいのところにあります。

今日の製本講座は、東京の本づくりHOUSEでの参加組、リモートでの参加組が同時に受講しました。現地参加組には、こういうキットと製本道具やノリ、ボンドが用意されています。

↑今日用意して頂いた材料。こうした材料と定規、カッター、ヘラ、下敷き、重しなどがあれば、出来はともかくハードカバーの本が自分で作れる!ということが嬉しい発見でした。

↑本文の用紙45枚を黙々と折り続け、ついにラスト一枚に。

↑上の写真は『美篶堂とつくる美しい手製本 本づくりの教科書 12のレッスン』14頁からです。紙を折るにしてもこんなに細やかに折るとは!知りませんでした。私の折った山の写真からは、この丁寧さが伝わらないので引用させて頂きました。

↑見返し用の茶色い紙も二つ折りにして本文をはさんで……

↓だんだん記憶も曖昧模糊に。見返しをボンドで貼り、栞をはさみ、花布、寒冷紗を貼って……と進行していったような。

↑花布を半分に切って、天と地にひっかけ……
寒冷紗を貼って

↓表紙をくるむ作業に

↓溝を指で押してつけ、竹ひご2本輪ゴムで留め、上から重石をのせて……

この他、細かな作業もたくさんありましたが、ざっと流れを思い出してメモしました。写真を見ると、我ながら何て雑な作業をしていたのか……と呆れてしまいますが。

でも、こうしてハードカバーの本が出来るなんて不思議だし、製本は書くのと同じ位にえらく手前のかかることなんだなあと、初めて製本屋さんの苦労を知り、とても勉強になりました。

出来はともかく、頼めばとても高くなるハードカバーも、自分でちまちま作れば材料費と製本キットだけで出来る!、いつか神保町PASSAGEの私の棚に、中身、装丁ともにこの世に数冊だけの自家製本を並べられたら……と能天気に思います。

美篶堂さんの製本講座はとても丁寧で、リモートの方々も私よりも早く作業されていました。これからも興味深い講座が続々とあるようですよ!

https://shop.honzukuri.org/

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さりはま書房徒然日誌2024年8月10日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月十五日を読む

ー選別される鯉に人間を重ねてー

六月十五日は「私は稚魚だ」で始まる。錦鯉の稚魚が世一の叔父と世一を語る。

以下引用文。

稚魚の選別をする男もまた「社会や国家によって 実にむごたらしい選別を受けてきた」という視点の冷徹さ。その見方を支えるような「魂はすでに絶命しているのかも」という情け容赦ない言葉に、自分のことを言われているようでグサリとくる。

そんな叔父とは対照的な世一の「生者の中の生者」という言葉に救われるようで、ふと考えさせられるものがある。

思うに
   見る影もない姿の彼自身もまた
      これまで幾度となく
         社会や国家によって
            実にむごたらしい選別を受けてきた。

彼はまだ死んでおらず
   ともあれ生きてはいても
      その魂はすでにして絶命しているのかもしれず、

しかしそんな叔父を訪ねてきた甥はというと
   判断の基準が非常に難しく
      ひょっとすると
         生者のなかの生者であるのかもしれないのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』233頁)
   

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さりはま書房徒然日誌2024年8月9日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月十四日を読む

ー何を踏んで生きている?ー

六月十四日は「私は足の裏だ」で始まる。「芝生を踏んでひた走りに走る 死ぬことを忘れたとしか思えぬ」老人の足の裏が、これまで踏んできた十五の風景を語る。
途中から世一の足の裏が踏んでいるものが四つ語られる。
老人の足の裏が踏むのは、シビアなこの世。世一の足の裏が踏むのは、人間の精神の素晴らしさ、不思議さに思え、このコントラストがわずか4ページに凝縮されている。
以下引用文。老人の足の裏が踏んできたもの。

陰に陽に力になってくれた友からの真情の籠もった手紙を踏んだことがあり
   夜な夜な怪火が飛び交う湿地帯の草を踏んだことがあり
      処女地に鍬を入れるために北の大地を踏んだことがあり、

そして私は
   痛感する時弊と
      少しも変わらぬ性根を踏みつづけ、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』227頁)

以下引用文。世一の足の裏が踏んできた世界。
私は誰に踏まれ、何を踏んで生きているのだろう……と思った。

世一のそれが踏みつけているのは
   放恣な想像力から生まれたとおぼしき
      底なしに素晴らしい夢のあれこれであり、

もしくは
   この世におけるいっさいが非現実的であるとする
      永遠の暗示であり、

さもなくば
   運命の浮沈などものともせぬ
      不滅の言葉であり、

はたまた
   おのれの何者なるかを知らずに
      がむしゃらに生きることの
         素晴らしさである。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』228頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月8日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月十二日を読む

ー「馬」を語る文ののびやかさー

六月十二日は「私は馬だ」で始まる。うたかた湖の近くで飼い主に捨てられた乗馬用の馬が語る。
以下引用文。丸山先生の書く馬の姿は、どの作品でも実に気持ちよさそうな雰囲気がある。この捨てられた馬にしても、「波打際」「冷たくて甘みのある水」「柔らかくて香りのいい青草」という言葉から浮かんでくるのは、のんびりと生を味わっている姿である。

人気はなく
   聞こえるのは鳥のさえずりと羽音のみで、

   少しばかり落着きを取り戻したところで
      私は波打際をまで行き
         冷たくて仄かな甘みがある水を飲み、

         それから
            岸辺に生えている柔らかくて香りのいい青草を
               しみじみと味わいながら食んだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』219頁)

以下引用文。捨てられることで馬が獲得した自由も、「突風になびく草にも似た動きをする少年」と語られている世一の姿も、やはり自由そのもので心に刻み付けられる。

要するに
   まだおのれが置かれた状況や立場を充分に理解しておらず、
      行き先についてもはや誰の示教を仰がなくていいこと
         今後の展開の万事がわが方寸に在ること
            それを知らず、

            知ろうともしないまま
               角を曲がったところで
                  突風になびく草にも似た動きをする少年と
                     ばったり出くわし、
                     その刹那
                        運命的な出会いを直感した。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』220頁)   

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さりはま書房徒然日誌2024年8月7日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月十一日を読む

ー重い文やら軽やかな文やらー

六月十一日は「私は笑声だ」と、「気立ての優しい盲目の少女 彼女のバラ色の唇から迸る 屈託のない 透明な笑声」が語る。
笑い声が届く様々な人々の、重苦しい其々の生。その直後に描かれる少女の笑声の軽やかさ、純真さが対照的。このコントラストが鮮やかだなあと思う。

以下引用文。少女の笑声は様々な人々に届く。私はどれにあたるのだろうか……と思わず探してしまう。

長年連れ添った夫の顔を顔を見忘れるほど惚けた者も
   どこまでも生命的なる存在として神を崇めたてまつる者も
      世界は果てしない罪悪の連鎖であるとする者も、
         不満の鬱憤はらしを探している者も、


はたまた
   年甲斐もなく修羅を燃やす者も
      耐乏生活を送っている者も
         知友を亡くして間もない者も
            皆一様に相好を崩す。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』215ページ)

以下引用文。少女の笑声が届いた人々の重苦しい描写とは一転、不自由ではあっても軽やかな少女の様子が心に残る。

上天気のきょう
   少女は初めて湖へ入ることを許され、

   波と波にゆすぶられる白砂に両足をくすぐられた彼女は
      母親の方を振り返って笑い
         水しぶきを跳ね上げて駆け回る白い犬に笑い、


         そして私は
            程良い風に乗ってはるか遠くへ散ってゆく。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』216ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月6日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月八日を読む

ー葡萄酒が曝け出す元教授のねじくれた心ー

六月八日は「私は葡萄酒だ」で始まる。湖畔の別荘地に住む元大学教授によって、ボートからロープに結えられ湖の水で冷やされた葡萄酒が語る。

以下引用文。葡萄酒はボートに引き上げられ、グラスに注がれ、元大学教授にちびちび飲まれ始める。
葡萄酒を湖の水で冷やすという山国らしい風景が一転するのは、葡萄酒が元教授のちっぽけな存在を語りだすあたりから。元教授の心に巣食う偏見を暴いていく……という静かなる葡萄酒の反乱に心惹かれる。

その間
   ボートは波と風のまにまに漂い
      彼の余生もまた然りというわけだ。

博聞で通っている彼のような者にとって
   私は単なる酒ではなく、

つまり
   アルコール分のほかに
      知性やら情熱やら文化やら歴史やらまでもが溶けこんでいると
         そう信じており、


確信することによって
   日本酒にはそうしたものが
      ほんの僅かしか含まれていないと
         勝手に決めつける。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』201頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月5日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月七日を読む
ー小さな鳥にも母性が宿るー

六月七日は「私は巣だ」と「キジバトの巣」が語る。

以下引用文。キジバトの巣を覗きんだ少年・世一に、キジバトの母鳥は毅然として向かい合う。
小さい鳥ながら母親らしく得体の知れない世一に対峙しようとする心が、「気丈に」「逃げ出そうとはせず」「きっと睨みつけ」「嘴で突いてやろうと身構え」という言葉の端々に現れている。
母鳥の緊迫感が「するとどうだ」で一転して和らげられ、世一が真似るオオルリの囀りと共に消えて心が軽くなる。

「巣」という小さな存在が語る母鳥の大きな愛情が心に残る。

それでも母親は気丈に振舞い
   間違っても逃げ出そうとはせず
      得体の知れぬ相手をきっと睨みつけ、

もし手出しをしようものなら
   視点の定まらぬ目玉を
      嘴で突いてやろうと身構え、

するとどうだ
   なんと少年は
      「なるようにしかならんぞ」という
          一端の口を利き
             オオルリのさえずりを真似た。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』201頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月4日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月六日を読む

ーコーラに象徴されるものー

六月六日は「私は空き缶だ」で始まる。

以下引用文。「下請けのまた下請けの町工場へ働きに出かけた青年」のやるせなさ、夏の無情が一気に伝わってくる文である。

私は空き缶だ、

   飲み干されると同時に
      ひたすら夏へ向かって突き進む太陽めがけて
         思いきり投げつけられた
            コーラの空き缶だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』194頁)

以下引用文。コーラは資本の象徴なのだろうか。そう思うと、コーラを放ったときの下請けで働く青年の憎悪、コーラが青年の胃袋で揺れている様子、そしてアスファルトを転がっていく様子が切ない。

されど
   資本の力と同様
      この世を支配する重力には到底逆らえず、

      早くも溶けかかっているアスファルトの路面に落下して
         からからと転がり、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』196頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月3日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結1』六月五日を読む

ー様々なピースに娼婦の人生を重ねてー

六月五日は「私はタバコだ」と娼婦がくわえるタバコが語る。

以下引用文。吐き出されるタバコの煙に娼婦の人生を重ね、「擦り切れた畳の面」や「秋を待つシクラメン」という言葉にも娼婦の人生が重なるようである。煙が夕闇に呑みこまれ、春の憂いに人間愛を重ねる文も、少し疲れた娼婦に人間性を見出そうとする視点と重なる気がする。

話し相手がいなくなったことで
   娼婦はたちまち私に興味を失くし
      亀をかたどったガラスの灰皿にぽいと投げ棄て、

口のなかの煙といっしょに
   法律の裏をかいて生き抜くための虚勢のかけらと
      どこかに刻みつけられている
         浸しがたい気品をそっと吐き出す。

そしてそれは

   擦り切れた畳みの面を滑って
      縁側から庭へと降り、

 地面に移植されて気長に秋を待つシクラメンのかたわらを通り
    いかにも恵み深そうな雰囲気を醸しているうたかた湖が生み出す
       夕闇に呑みこまれてゆき、


       どこまでも切ない春の憂いが
          真っ当な人間愛のごとく濃厚になる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結』192頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月30日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月四日を読む
ー童話的な世界ー

六月四日は「私は春月だ」で始まる。「春月」だけが知る「まほろ町に厭な出来事がひとつもなく」という珍しい日。
以下引用文。そんな稀なる日を語る「春月」の口調には、どこか童話めいたものがある。『千日の瑠璃』は大人のための童話なのかもしれない、と読んでいて思うときがよくある。なかなかこんな風に過ごし難いのが人間なのかもしれないが、心に刻んでおきたい言葉である。

まほろ町に住する人々は皆
   休日のきょう一日
      それぞれ分に応じた暮らしを送り、

      身知らずな考えを持たず
         無計画な行動に走らず
            この世に存することの意義を裏切らず、

            そしてそのことをよしとして
               いつもより多く笑った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』189頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月29日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月三日を読む

ー野のオオルリ対籠のオオルリー

六月三日は「私はオオルリだ」で始まる。「野に生きるオオルリ」が世一に飼われる「籠のなかのオオルリ」に攻撃を仕掛ける。
以下引用文。世一の住む丘が気に入った野のオオルリは、丘を明け渡すように世一のオオルリに迫って囀る。
結局、野のオオルリはこんな捨て台詞を吐きながら退いてゆく。
野のオオルリの言葉ももっともだ。
言い返す世一のオオルリの強さは生意気だけど、確かに「鳥を超越した存在」に思えてくる。

人間の庇護の元に育ち
   牝と番うことも子孫を残すこともなく
      ただ生きて死んでゆくだけのそいつは
         自分は鳥を超越した存在なのだから
            同類扱いは迷惑千万だと言い放ち、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』185頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月28日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月一日を読む

ー世一の心とはほど遠いところにー

六月一日は「私は緑野だ」で始まる。
以下引用文。
世一の眼前に広がる「緑野」。
その「緑野」を眺める世一の心。
両者の心持ちとは遠いところにいる自分自身に気がつく。私は「それがどうしたなどと憎まれ口を叩く鳥」なのだなあと思い、ふと悲しみを覚える。

私にしても
   はたまた世一にしても
      ひたすら自分自身でしかあり得ないものを探し求め、

      偽りの生を本物の生から区別し
         真理に至る近道を通り
            幸運の星に恵まれたものと思いこみ
               美しい時代をくぐり抜けているものと信じこみ、

               だからこそ
                  おのれの寿命を数えたりせず、

                  それがどうしたなどと
                     憎まれ口を叩く鳥は
                        一羽もいない。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』177頁)  

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さりはま書房徒然日誌2024年7月27日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月三十日を読む

ー燃やされるブナの声ー

五月三十日は「私はブナだ」で始まる。
丸山先生を思わせる「いくら住んでもまほろ町に馴染めず さりとてほかの町へ移り住む気にもなれない」作家が、山からブナの若木を庭に移植しようとする。
でも上手くいかない。
五月に落葉樹のブナを移植するには無理があるのかもしれない。
枯れてしまったブナは引き抜かれ、「狙い通りの文章に組み立てられなかった原稿を燃やすための 耐火レンガ製の焼却炉へ投げ入れ」られてしまう。
そんなブナの最後の声を、丸山先生の内なる声のようにも思いながら読んだ。

灰と化してゆく途中で私は
   火が爆ぜる音を利用して
      そんな彼に説論を加えてやり、

      だらだらと読み継がれる
         安直な国民的な作品よりも
            百年後二百年後に日の目を当たるような
画期的にして先鋭的な作品を物するようにと言い、

               とはいえ
                  果たして心耳に届いたかどうかは定かではない。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』169ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月26日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十九日

ー詩情とは縁遠い存在が詩情を帯びてくるー

五月二十九日は「私はネオンサインだ」で始まる。
以下引用文。こういう詩的とは言い難いものに語らせる……というところが好きである。

まほろ町では最も古く
   最も毒々しい色合いの光を単調な間合いで点滅させている
      パチンコ店のネオンサインだ。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』162ページ)

以下引用文。パチンコ店の主人はヤクザ者にからまれつつも、きっぱりとはねのける。主人とヤクザ者のやり取りが、ネオンサインの模様に反映されているような書き方も面白い。
また詩情に欠けているかに思えたネオンサインが最後「青い鳥そっくりに」という展開も意外で心に残る。

すると私は
   どんどん赤色を失ってゆき
      ついには青い鳥そっくりになった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』165ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月25日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十八日を読む

ーシビアな語りも「地力」が語れば穏やかに聞こえてくるー

五月二十八日は「私は地力だ」で始まる。「土中に含まれる酵素も酸素も飽和狀態に達し 水分も程良く保たれ」た地力とは、作庭にこだわる丸山先生らしい表現だと思いつつ読む。

以下引用文。そんな地力のある土がありながら、世一の父親はかつて夢中だった家庭菜園はもちろん、花の種すら播こうとしない。
そんな父親の人生を「地力」は以下引用文のように分析する。よくある人間像だが、もし「地力」でなく作者自身が語る形をとれば、あまりの辛辣さに耐えられなくなってしまうかもしれない。「地力」だからこそ、シビアな声もどこか遠くから響いてくるような気がする。

日ごとに老いている彼のその目には
   すでに夢のかけらさえ宿っておらず、

   貫き通すほどの素志も
      遂げなくてはならぬ本望も
         これといった趣味も持たなかった男は、

         この分だと
            晩年を根拠なき失意のうちに送る羽目になるやもしれない。

ほかの人々と同様
   本来はあらゆる可能性を秘めていたはずなのに
      いつしか地方公務員の枠内にちんまりと納まり返ってしまい、

      希望の目を育てることを放棄して
         あたらべんべんと
            徒に時をやり過ごし、



(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』160ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年7月24日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十七日を読む

ー戦後間もない風景だろうかー

五月二十四日は「私は缶切りだ」で始まる。まほろ町に流れてきた物乞いは旧式の缶切りに紐をつけて胸からぶら下げ、世一と言葉を交わしたりしている。
以下引用文。丸山先生が戦後間もない時代に目にした風景なのでは……?
もしかしたら男は帰還兵……?
もしかかしたら「この世にいるはずもない幼い弟と妹」とは、戦災で亡くなったのでは……?
そんな気がしてくるほど哀切さがある文である。

結局は全部食べてしまうくせに
   なぜか中身をきっちりと三等分し、

   もはやこの世にいるはずもない幼い弟と妹に向かって
      「さあ、みんなで食おうか」と呼び掛け、

   そう言いながら
      まずひとり分を平らげ、

      「なんだ食べないのか、勿体ない」と言って
          もうひとり分に手をつけ、

          残りのひとり分を
             通りかかった世一を呼び止めて
                無理やり食べさせた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』156頁)

以下引用文。「心の缶詰を次々に開け」という文に、かつての幸せを思い出しては浸っている男の様子が浮かび、切々とした思いが込み上げてくる。

また独りになると
   私を用いて心の缶詰を次々に開け
      懐かし過ぎる幸福の時代を
         ゆっくり味わうのであった。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』157頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月23日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十六日を読む

ー矢の様子から色んな思いが伝わってくるー

五月二十六日は「私は矢だ」で始まる。
以下引用文。「天に向かって票と放たれ」た矢は地上のあらゆる姿を観察しながら天に向かうが、やがて力尽きて田舎町まほろ町に落下してしまう。
町への軽蔑の念が「腹立たしい限りの」という言葉に出ているようでもあり……。
「ぐさりと」という言葉から復讐をしたいとでも言いたげな「矢」の思いが迸るようでもあり……。
「ぶるぶるっと」から着地した様子が伝わってくるようにも、人の世界への嫌悪感が伝わってくるようにも思えるのである。

陰険な覚悟を固めないことには生きてゆけそうにない
   腹立たしい限りの惑星の面に
      ぐさりと突き刺さって
         ぶるぶるっと震える。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結』153ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月22日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十三日を読む

ーどこか童話的な世界ー

五月二十三日は「私は雷だ」で始まる。
以下引用文。不自由な少年・世一が住む丘に狙いをつけた雷だが、予想に反してオオルリも、世一もただならぬ喜び様となる。
世一とオオルリの雷に喜ぶ様子を読んでいると、「千日の瑠璃」はどこか童話めいたところもあるように思えてくる。

普通ならば間違いなく火の手が上がるはずなのに
   意外にもそうはならず、
      しかも
         その家で飼っているオオルリなどは
            却って喜悦のさえずりを発して
               声の調子を一段と高め、

               飼い主の少年に至っては
                  私に向かって手を振る始末だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』139頁)
        

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さりはま書房徒然日誌2024年7月21日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十二日を読む

ー生命の律動感ー

五月二十二日は「私は小魚だ」で始まる。「うたかた湖の純白の浜に」打ち上げられた「満身創痍の小魚」が語る。

以下引用文。不自由な少年・世一が瀕死の小魚を拾い上げて、仲良しの盲目の少女の手にのせる。「小魚」というものだと母親に教えられた少女が感覚器官を使って生命を探る姿、応えるような小魚の「ぴちっと」という動き、その動きに「あっ」と叫ぶ少女……どれも生命というものの律動感が読んでいる者の心にもありありと伝わってくる気がする。

好奇心まる出しの少女は
   人差し指を
      つづいて鼻を
         しまいには耳まで使って
            私を把握しようと努め、

            そんな彼女のために
               私は最後の力を振り絞って
                  尾鰭をぴちっと動かしてやった。


「あっ」と小さく叫ぶ少女の顔いっぱいに
    紛うことなき幸福がみるみる広がって、

    そのとき少年は
       事切れることを素早く察知して
          私を湖へ投げ、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』136頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月20日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十一日を読む

ー喪失の予感ー

五月二十一日は「私は友情だ」で始まる。身体の不自由な少年・世一と彼が可愛がって世話をしているオオルリとの間に芽生える友情が語る。

以下引用文。オオルリに夢中になっている世一の無邪気さ、天真爛漫さに微笑みかけている心に「互いに相手を失った際の深刻さについて理解が及ばず」という言葉が、なんとも不吉な、悲しい展開を仄めかす。

そんな風に思ってシュンとしてしまった読み手の心に、オオルリの思い描く様々な生き物の姿は一際悲しく、囀りが沁みるように響きわたる。

けれども
   当のかれらはまだ私に気づいておらず、

   ために
      互いに相手を失った際の深刻さについて理解が及ばず、


    きょうのオオルリは
       乱伐によって荒れ果ててしまった遠くの山々と
          供応のために小さな集落の片隅で絞殺された家禽、

          自由の大敵たる国家の片棒を担ぐおのれを嘆く男と
             テンの奇襲を受けてまる齧りされているマムシ、


             日々の営みが
                理由なき行為の連続でしかないという疑いを
                   どうしても拭いきれない学生、

                   そうした生き物を想い描いて
                      頻りにさえずる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』133頁)  

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さりはま書房徒然日誌2024年7月19日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3五月二十日を読む

ー倒影を眺めるとき、知らない自分と会話しているかもー

五月二十日は「私は倒影だ」で始まる。「倒影」の方が「実像では絶対に識別不可能なものまで くっきり表現している」という文が心に残る。
そういえば倒影を見るとき、影と対話している気分になることがあるかもしれない……倒影を眺めることは、知らない自分や世界に目を配ることなのかもしれない。

鳥の羽毛一枚
   草一本
      アブラムシ一匹
         花粉一個に至るまで精確に映し出し、

         そして
            元大学教授の徒爾に終わるかもしれぬ一生をも正しく映し、


         しかも
            実像では絶対に識別不可能なものまでも
               くっきりと表現している。

くだらないことで朝っぱらから夫婦喧嘩してしまった苦々しさ
   この世にいつまでも存することの苛立ちと哀しみ、


   この歳まで生きてこられたことへの感慨
      学者としてもう少しなんとかなったはずだという後悔、

      果ては
         不遇の鬱憤晴らしもできない惨めさ、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』127頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月18日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』

ーよいっちゃんの存在感ー

五月十九日は「私はギプスだ」で始まる。「娼婦の折れた二の腕の骨を固定し 併せて 彼女の心をも安定させている 霊験あらたかなるギプス」が語る。

以下引用文。丸山先生にしては珍しくこの箇所は会話が多い。中でも、この娼婦が発する言葉「よいっちゃんに会いたい」は、不自由なはずの世一への信頼が迸るようで心に残る。

苛立ちが限界に達したところで
   「よいっちゃんに会いたい」などと
       まったくもって理解不可能な願いを口走った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』125頁)

以下引用文。やくざ者の青年が娼婦のために世一を連れてくる。だが世一の関心は娼婦からすぐに逸れていく。娼婦のことをすぐ忘れ、モンシロチョウを追いかけてゆく姿に世一の天真爛漫さを思う。

黙って縁側から離れると
   モンシロチョウの乱舞に見とれて
      それを追いかけ
         どこかへ行ってしまった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』125頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月17日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月十七日を読む

ー世一という存在にある美ー

五月十六日は「私はリコーダーだ」で始まる。下校中の小学生が吹き鳴らすリコーダーにも「この先ずっと彼を救うことになるやもしれぬ 癒しの調べ」と随分言葉を尽くして語っている。

だが以下引用文。世一が吹き鳴らす口笛には、そうしたリコーダーの音色の描写を凌駕するものがある……。「無意味な痙攣は 魂そのものの振動」という箇所に、丸山先生が不自由な体の世一の魂にこそ美の存在を見い出しているんだという気力を感じた

見るからに危なっかしい足取りで
   平然と街道を横切って行く
      病児が吹く口笛には到底敵わない。

要するにその口笛には
   いかにへたくそであっても
      至高の生の精髄が込められており、

      全身の無意味な痙攣は
         魂そのものの震動を鮮やかに表象しているのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』

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さりはま書房徒然日誌2024年7月16日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月十四日を読む

ーこの世ならぬ雰囲気へー

五月十四日は「私は午睡だ」で始まる。人生がうまくいかず、うつせみ山の竹林の草庵にこもる老人がむさぼる午睡が語る。

以下引用文。彼、すなわち体の不自由な少年世一が午睡中の老人と私(午睡)に気がついて近寄ってくる。
そして鼾の真似をすると「老体にずっしりとのしかかって 私ですらどうにもできなかった重荷が たちまち崩壊」する。
そんなあり得ないようなことも、うっすら目を開けて鼾の真似をする世一の無邪気な様子やら竹林の神秘めいた描写に、読み手も思わず納得して「この世ならぬ雰囲気」へと一緒に進んでゆく気がする。

ほどなく彼は濡れ縁の年寄りに気づき
   ほとんど同時に私にも気づいて好奇心が刺激され
      ふらふら近づいてくると
         何を思ったのか
            その隣にそっと体を横たえて
               うっすらと目を開けたまま
                  鼾の真似を始める。

すると
   どうだ、

   老体にずっしりとのしかかって
      私ですらどうにもできなかった重荷が
         たちまち崩壊し、

         少年の鼾や竹の葉擦れの音によって
            もしかするとあの世とやらへ運び去られそうな
               そんな気配が濃厚になり
                  付近一帯にこの世ならぬ雰囲気が漂い始める。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』105頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月16日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月十三日を読む

ー世一の悲しみー

五月十三日は「私は丘陵だ」で始まる。「丘陵」が見つめる少年世一はいつもと違って体の揺れもなく、微動だにしない。

以下引用文。やがて丘陵は世一の心の悲しみに気がつく。

最初の「世一は〈無〉それ自体を眼中に納め 〈虚〉を表象して止まぬ震え声を微かに発しており」という文から、悲しみが抽象的な画像となって浮かんでくる。

風の「だしぬけに甦った 幼心にも悲しい記憶」という言葉から、「静かに去って行く」姿から、世一の悲しみがひしひしと伝わってくる。

素手で足元に穴を掘る世一の姿にも悲しみが溢れそうである。

「いっしょに投げこみ 土をかぶせて埋め戻し」の悔しさ、やりきれなさに波立つのはうたかた湖の湖面か、それとも私の心なのか……。

世一は〈無〉それ自体を眼中に納め
   〈虚〉を表象して止まぬ震え声を微かに発しており、

   打ち見たところ
      何やら事情がありそうで、

         そこで私は
            当人を避けて
               いったいどうしたのかと
                  風に訊いてみる。


すると風は
   だしぬけに甦った
      幼心にも悲しい記憶に
         ああして耐えているのだと
            そう答えて
               静かに去って行く。


耐えるだけ耐えた世一は
   やがて素手で足元に穴を掘り、

   ついでその穴に
      母親が確かに吐いた「あの子はもう駄目よ」と
         父親が口癖のように呟いた「駄目なものは駄目さ」という言葉を

            いっしょに投げこみ
               土をかぶせて埋め戻し、

               そんな彼の悲痛な叫びが私にこだまして

                  うたかた湖が一面に波立つ。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』101ページ)  


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さりはま書房徒然日誌2024年7月14日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二日を読む

ー丸山先生がそっと作品に挿入する己の姿ー

五月二日は「私は才能だ」で始まる。自分の家に火をつけたがる子どもは、親を含めすべての大人たちから見放されている。そんな子供に備わった「天賦の才能」が語り主である。
以下引用文。そんな放火しようとする子供に「ライターよりペンを持つべきだ」三度くり返して止めに入る小説家は、黒いむく犬と言い、じろじろ観察するところと言い、メモ帳にすぐメモするところと言い、「質を高めようと奮闘する」ところと言い、丸山先生そのものではないか。丸山先生が語るご自身の姿に思わず微笑ましくなってしまった。

スクーターに熊の仔そっくりな黒いむく犬を乗せてひたすら走り回り
   まほろ町の隅から隅までを無礼千万な眼差しでじろじろと観察し
      何かに気づくたびにメモ帳を取り出して記載する男、



売れないことを承知で物した著書をよしとしながらも
   もっと質を高めようと奮闘する
      さほど文学好きとは思えぬ小説家が
         まさにそれだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』57頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月13日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月一日を読む

ー粒子にロマンを感じてー

昨日に続けて「私は粒子だ」で始まる五月一日について。
以下引用文2箇所。粒子の無機的な動きに感情を重ね、この世の在り方、人間の運命について想いを馳せる文を読んでいるうちに、「粒子」という感情のない存在から叙情が響いてくる。
その旋律に耳を傾けていると、自分のいる普段の世界が別の空間に思えてくる……。
『千日の瑠璃』の中でも好きな箇所である。

思えば私は若い頃、フランシス・ポンジュの詩とか、無機質な対象を書く詩が好きだった。その名残が今もあるのかもしれない。

私は粒子だ、

   その辺のどこにでも無限に存在して
      現れたり滅したりをくり返しながら
         気随気ままに飛び交っている
            落ち着きのない原子核を成す粒子だ。


我ながら惚れ惚れするほど美しい放物線を描いたり
   有頂天になるほど完璧な渦をもたらしたりしながら
      何処からともなくやってきては
         また何処へともなく去って行く私は、

光と闇の配分が絶妙な
   整然たるこの宇宙をしかと組成する源であり
      重力及び時の流れを制御する支配層であり
         存在の存在たる所以を解く唯一の鍵である。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』50ページ) 

動くことこそが私の本質であり
   核心であり
      創造主に課せられた使命そのものであり、

絶え間ない動きは
   大小さまざまな変化を生み出し、

      
   変化は誕生と死滅を差し招き、

   生と死は互いに申し合わせ
      手を取り合って
         回転運動に興じる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』52ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月12日

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月一日を読む

ー違う次元から眺めているような美しさー

五月一日は「私は粒子だ」で始まる。「粒子」の視点というのは、丸山先生の素に近いものがあるのだろうか?この箇所は、ひときわ心に残る文がある。明日に分けて見ていきたい。
以下引用文。「粒子」の語るまほろ町は「因果律のいっさいを余すところなく抱えこむ」、少年世一は「麻痺した脳に幾千億個もの恒星の輝きをちりばめている」、オオルリは「魂の形状そのものとしか思えぬ」であり、違う次元から眺めているような美しさが感じられる。

そこへもってきて私は
   四方を青い山々に囲繞されてはいても
      現世のすべての物象や現象
         それに因果律のいっさいを余すところなく抱えこむまほろ町や、


眺望が利き過ぎる片丘のてっぺんに住んで
   麻痺した脳に幾千億個もの恒星の輝きをちりばめている
      難病によって未来への扉を閉ざされた少年世一や、


そんな病児と奇しき出会いでもって固く結ばれた
   魂の形状そのものとしか思えぬ
      一羽の若いオオルリをも
         しっかりと形成している。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』51頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月11日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』四月二十九日を読む

ー「時と共に直進する」ー

四月二十八日は「私はカラマツ林だ」で始まる。
以下引用文。カラマツ林の下で元大学教授夫妻は子供たちの四十年前を思い出すうちに、回想に耐えられなくなってしまう

やがて夫妻は
   回想の重さに気づき
      それに耐えられなくなって
         私から離れて行ってしまった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』45頁)

以下引用文。元大学教授夫妻が過去にとらわれ、その重みに耐えられなくなっている姿とは対照的に、世一には過去もなければ、未来もなく、動物のように現在だけを生きている。時の感じ方の違いも、そういう様子を「現在と共に直進する」と表現しているところも面白い。

ほどなくして今度は
   振り返ることも
      先を見ることもしないで
         現在と共に直進する
            青尽くめの病児が訪れた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』45頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月10日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』四月二十七日を読む

ー言葉ならではの心の発酵過程ー

四月二十七日は「私はモクレンだ」で始まる。「一本の木に白と紫の両方の色を半々に咲かせた」「派手なのか地味なのかよくわからないモクレン」が語る。
以下引用文。モクレンのもとに冬の間咲き続けたシクラメンを休めようとする娼婦、寂れた宿・三光鳥の女将が写真を撮ろうとしたところに世一も割り込んで、二人の女たちと共に笑い転げながなら写真を撮る……という一瞬である。
映像であれば一瞬で終わってしまう場面である。でも不幸であるはずの三人が笑っている……という事実に、「幸せとは?」と考え、「無罪を勝ち取る」という言葉に罪深く思える者たちへの肯定を読み取り、そうこうしているうちに「現世の嘆きから瞬時に解き放たれ」という文に読んでいる側も自由が見えてくる気がする。

今日、故人の写真から生前の動きや表情を再生するAIを搭載したアプリの、死者の再生動画の投稿をたまたま目にした。若くして亡くなったお母さんの写真からの再生ということで、再生した方ご自身もお母さんに再会して感動、その動画を見た大多数の人も肯定的なコメントを寄せていた。

 でも……嬉しい気持ちは分かるのだが、本物の母でなくアプリが再生した母親に感動してよいものだろうかとも思った。
 そしてアプリによる再生が感動を与える時代、文章による表現は益々厳しいものになって大半は討ち死にしてしまうだろう。
 作家による表現、それを脳内に喚起して愉しむ読者……という関係、アプリが再生する画像を楽しむユーザー……とでは根本から反応が違うのかもしれない。以下の引用文が心に引き起こす反応を振り返ったとき、そう思えてきた。
 アプリ再生画像は誰の心でも揺さぶることが可能である。そう仕向けることが実に簡単である。
 でも文章による再生は、書く方も、読む方も、鍛錬しないと難しい。でもその分、脳と脳が絡み合って思いがけない方向に展開してゆく面白さがあるのだと思う。

そんな三人の底抜けの明るさに釣られたのか
   当分のあいだ花を付けないシクラメンが笑い
      今を盛りと咲き誇る私もついつい笑ってしまい、

      要するに私たちは皆
         挙って束の間の幸福に浸っており、

たとえ造物主と言えども
   その歴然たる事実は否定できないはずで、


      シャッターが切られるまでのあいだに
         春の光によって公平な裁きを受け
            全員揃って無罪を勝ち取り、

カシャッという小気味のいい音によって
   現世の嘆きから瞬時に解き放たれ、

   まほろ町の生きとし生けるものすべてが
      歓談に時を忘れて
         きらきらと輝き、


         この世に存する意義が
            急浮上してくる。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』37頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月9日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結3」四月二十五日を読む

ー世一という不条理ー

四月二十五日は「私はエプロンだ」で始まる。「母親の立場にようやく慣れてきた女の」エプロンが語る。

以下引用文。母親のエプロンをつかむ幼い双子たちがそっくりであることに、世一は興味をいだき「嬉々としてなおも迫ってくる」
そうした世一に幼い双子たちが感じる「この世にあることの不条理」……そうした不条理を冷静に、目を逸らすことなく見つめるところが、丸山作品の魅力のひとつかもしれない。

生まれて初めてそうした異形の同類を目の当たりにした
   ほとんど瓜ふたつの一卵性双生児は
      たじろぎ
         怯えて
            萎縮し、

            それから
               なんとも形容しがたい複雑な気持ちのなかで
                  この世に在ることの不条理を
                     早くも体験したのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』27ページ)

以下引用文。最初、世一に優しい対応をしていた母親も、そのうち目で追い払うようになり、やがて世一が自分のエプロンで青鼻をかんでいることに気がつくと、「怒り心頭に発して少年を思いきり突き飛ばし」てしまう。
そんな母親の激変を目にした双子たちも、「純なる瞳をたちまち濁らせてゆく」……という終わり方に、人間の心がいかに折れやすいか、その変化が子供達にどう影響してゆくか……丸山先生は客観的に書きながら、そうした人間に哀しみを感じているようにも思えた。

そんな挙に出た彼女に仰天した双子は
   あまりのことに泣き叫ぶことを忘れ、

   茫然自失の体へと移行したかと思うと
      その純なる瞳をたちまち濁らせてゆく。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』29ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月8日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』四月二十三日を読む

ー流されるタイヤの自由ー

四月二十三日は「私はタイヤだ」と、大型トラックの荷台から振り落とされてしまったタイヤが語る。
以下引用文。タイヤが転がってゆく疾走感、暴れ回る感じが面白いなと読んだ。

運転手は気づかぬまま走り去り
   思いきって世間へと飛び出して行った私は
      土手の斜面を一気に駆け下り、

      さらにその下へとつづく坂道をごろごろと転がって
         熟しかけている夜の奥へと分け入り、

         まほろ町という名の片田舎へ突入して暴れこみ
            過酷にも程がある現実の障壁を
               次々にぶち破って行く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』18ページ)

タイヤはまほろ町の住人たちを観察しながら進んでゆく。
以下引用文。世一を避けて通ろうとした気遣いが仇となって、調子を崩したタイヤはやがて欄干にぶつかって川へと転落してゆく。

タイヤが流されてゆく有り様に、自由を重ねて思う視点が丸山先生らしいと思って読んだ。

いずれは大河へと通じる川へ転落した私は
   大量の水しぶきや自暴自棄の心を飛び散らせて
      ゆるやかな流れに乗って遠い海をめざし、

      自由な存在とは
         要するにこんな立場なのかもしれないと
            そんな思いを強めながらどんどん下って行く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』21頁

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さりはま書房徒然日誌2024年7月7日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』四月二十二日を読む

ー生と死ー

四月二十二日は「私は墓地だ」で始まる。「裏の崖が崩れて以来 訪れる者がぱったりと絶え、ために 埋葬された死者たちと共に忘れ去られようとしている 山中の墓地」が語る。

以下引用文。なじみである世一がやってくるが、墓地はその顔に厭な思いをさせられたような痕跡を認める。
それでも墓地を歩き回るうちに、世一が見た「希望にきらめく四月の彼方」が心に残る。
その直後、足元に見たむき出しになった白骨という展開も、生と死というこの世のあり方を告げているようである。
ちなみに丸山先生の幼い頃、大町のあたりは当然ながら土葬だったようで、土から掘り起こされる白骨の思い出を丸山先生が語っていた記憶がある。「希望にきらめく四月の彼方」と「人骨を一本」という世界は、実際に目にした記憶なのかもしれない。

大きく波打つ五体を持て余しながらも
   希望にきらめく四月の彼方を見やり、

   その目を足元に落とした拍子に
      人骨を一本発見し、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』16頁)

以下引用文。白骨を一本振り回してみせる世一も、もしかしたら丸山先生が実際に目にした少年の姿なのかもしれない。
そうした光景を語る文の、「勇ましく咬みつく」世一の姿も、「この世はこんなものだ」と諭しにかかる墓地の諦めも、ともに丸山先生の思いを重ねているから心に響くのかもしれないと思う。

青々と輝く無辺際の宇宙そのものに
   勇ましく咬みつく彼の思弁は、

   一方においては正しくもあり
      他方においては的外れでもあった。

そこで私は
   「こんなものだ」と言ってやり
      「どうせこの世はこんなものだ」といい重ね、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』16頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月6日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結3」四月二十一日を読む

ー観察が文に発酵するとー

四月二十一日は「私は牛だ」で始まる。

以下引用文。丸山先生は通行人とか電車で隣り合わせた行きずりの人をよく観察して文にすると言われていた。
多分、次

の場面もどこか不自由なところのある少年が飼い牛のそばに近づき、その乳房をしゃぶるという場面を実際に目にしたのでは?
だが、ただ描写するにとどまらず、少年が求めるもの、少年が与えたものを作家が考え、言葉にしてゆく過程に面白さを感じる。

少年はその都度乳をせがみ
   むげに断るわけにもゆかないので
      一滴たりとも出ない乳房をしゃぶらせてやり、

      つまりはこういうことで
         私は彼が所望する愛に似て非なるものを与え
            先方はこっちのなかに溜まりに溜まった
               退嬰やら倦怠やらを
                  余さず吸い取ってくれたのだ。


思いなしか
   その病児の体の震えが和らいだかのように見えることもあった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結3」13ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年7月5日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』

ー世一の不思議な力ー

四月二十日は「私は路地裏だ」で始まる。一つの独立した童話のような趣があって、とても好きな箇所である。

神仏のたぐいと肩を並べるほどの勢いの太陽が
   まほろ町の上空に差し掛かってもなお
      ひたすら隠に籠もりつづける路地裏だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』6頁)

そんな路地裏を通過するとき、世一は「なぜか足音を立てず 口笛をも吹かず 訳のわからない独り言を吐いたりもしない。」

以下引用文。通り過ぎる世一に路地裏はこう諭す。

ここは
   生きることを諦め
      さりとて死ぬに死ねない者だけが
         ひっそりと固まって暮らす場所だと


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』7頁)

以下引用文。
路地裏の諭す言葉を聞いた世一はしばし無言になったあと、「遣りきれないため息を残してひっそりと立ち去り」。
だが、そのため息が次第に変化して、人々に働きかける力に変化してゆく。その有様が抽象的な言葉を使っているのに、目に見える不思議さがある。

その微かな余韻は
   ほどなく
      実に生々しい質感を伴って
         波紋状の広がりを見せ、
 
         やがて
            押しも押されもしない
               堂々たる弁駁と化し、

               そこかしこで
                  大きな渦を巻く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』8頁)

以下引用文。路地裏は世一のため息の「禍々しい渦をひとつずつ潰しに」かかる。
だが世一のため息は、ひっそりと暮らしていた路地裏の人々を変えてしまう。
疎まれていた世一が、人々を変えてゆくという展開に、丸山先生の弱い者の不思議な力を信じる思いが強く心に残った。

しかし
   時すでに遅く
      これまでひっそり閑としていたあちこちの家から
         微笑があふれ出した。

ほどなくして
   窓や戸が開け放たれる音が相次ぎ
      あたかも祭りでも始まるかのごとき
         そんな浮いた雰囲気が募ってゆく。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』9頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月4日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」四月十六日を読む

ー自由ー

昨日から二日分戻って四月十六日「私は風呂敷だ」で始まる箇所へ。風呂敷に魚の素干した塩干しをぎっしり詰めこんだ行商の娘が書かれている。もしかしたら日本海側からバスに乗って信濃大町まで行商に来た娘を、丸山先生が観察して「千日の瑠璃」に登場させたのではないだろうか?

私は風呂敷だ

   素干しや塩干しにした魚をぎっしり詰めこんだ箱を
      いっぺんに五つも包んでしまう
         唐草模様の大きな風呂敷だ。

まだ二十歳そこそこだというのに
   私を用いて行商をしている娘は

      私と同様
         体の芯まで魚臭が染みついていた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」390頁)

以下引用文。なぜ、この行商の娘を書こうと思ったのか……媚びない人間の魅力を感じたのだろうか……作者の心を考える。

彼女は客に対して
   礼の言葉も発しなければ
      申し訳程度の愛想笑いすら浮かべず、

      にもかかわらず
         けっして悪い印象を与えることがなく、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」391頁)

以下引用文。売れ残った魚を丘の上の世一の家に置いてきた娘は、風呂敷を「いっぱいに広げてオオルリのさえずりをくるみ それを代金として受け取る」
娘の姿に「自由」を見ているのではないだろうか……という気がしてくる一文である。

バスを待つあいだ
   暖かい風に吹かれながら
      気分で購入した板チョコをぼりぼりと齧り、

      鼻歌を唄いつつ
         どこか遠くへ目をやって
            周りに誰もいないのに
               素晴らしい笑みを浮かべるのだった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」 393頁)


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さりはま書房徒然日誌2024年7月3日

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」四月十八日を読む

ー正しさの幻想を吹き飛ばしてー

四月十八日は「私は紙芝居だ」で始まる。「辻公園の片隅で 年に数回ほど 老いぼれたデブの歯科医が道楽で演じる紙芝居」が語る。

以下引用文。集まってきた子供達に「甲斐甲斐しく立ち働く者がけっして無駄骨を折ることがないことや 金銭に目が眩んだ者が幸福になれた試しがないこと」を教える紙芝居は、己の正しさへの自信に満ち溢れている。

要するに私は
   この世は生きるに値すると
      そうきっぱり言いきっており、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」400頁)

以下引用文。己の正しさを信じている紙芝居だが、少年世一は病にもかかわらず嘲笑を投げつけてくる。
信念というものの偽善を思わずにいられない場面である。

外見以上に手強そうな彼は
   歯などいくら磨いても虚しくなるほどの
      重くて厄介な病に全身を蝕まれており、

      にもかかわらず
         出会うたびに
            石礫のごとき嘲笑を投げつけ、


            にもかかわらず
               出会うたびに
                  石つぶてのごとき嘲笑を投げつけ、

                  げらげらと笑われるたびに
                     畏縮へと落ちこんでゆく。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」401頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月2日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」四月十四日を読む

ー天真爛漫な心ー

四月十四日は「私はたも網だ」で始まる。
以下引用文。世一は目が粗くて使い古された「たも網」の欠点に気がつかず、「波が運んでくる銀色の魚影を見つけるたびに 性懲りもなく さっと私を」くりだす。

魚を捉えることができなくても充たされてゆく世一の心を語る文の、「ぴちぴちと跳ねる銀鱗の数」や「幸福の青い色を差し招く」という表現や、銀や青の色、鱗、風が、世一の心の邪気のなさ、天真爛漫を表しているようで心惹かれた。

それでも世一の狩猟本能は
   充分に満たされて
      胸のうちでぴちぴちと跳ねる銀鱗の数が次第に増してゆき、
         
      しまいには
         幸福の青い風を差し招くほどになり、

      ともあれ
         私の本音としては
            どんな雑魚でもかまわないから
               せめて一匹くらいはなんとかしたいのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」382頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月1日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結2』四月八日を読む

ーちっぽけな蟻の目がとらえるこの世ー

四月八日は「私は蟻だ」で始まる。

以下引用文。貸しボート屋の親父の頭に登った蟻が目に(?)する風景は、生、勤勉な仲間たち、その仲間が世一に踏み潰されるという不条理……が書かれ、この世の姿が凝縮している文のように思った。

そんな男の頭のてっぺんから遠く沖を見晴らす私は
   薫風にそよいで光るヤナギの若葉にうっとりと見とれ、
      
   ひたすらまばゆい湖面では
      数珠繋ぎにされて出番を待つボートが
         うねりに合わせて揺れ
            互いに擦れ合ってのどかな旋律を奏でていた。


そして地面では
   存在のなんたるかも知らずに
      せわしなく動き回る私の仲間たちが、

      どう頑張っても真っ直ぐに歩けない少年によって
         次から次へと踏み殺されていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」361頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月30日(日)

神奈川県立図書館ボランティア朗読会 雑感その2

昨日も6月29日(土)神奈川県立図書館ボランティア朗読会「光るキミへ」の感想を書いたが、少し追加。


昨日も紹介させて頂いたが、普段から朗読会で短歌作品もあればいいのにな……と思っていた私にとって、以下の図書を紹介、朗読してくださった29日の読書会はとても嬉しく、興味深いものがあった。

・『愛するより愛されたい 令和言葉・奈良弁で訳した万葉集① 』佐々木良 著 万葉社

・『現代語訳 竹取物語』川端康成訳 河出文庫

 『竹取物語』星新一訳 角川文庫

 『竹取物語』江國香織 文 新潮文庫

・『光の帝国 常野物語』恩田陸 著 集英社

・『平安ガールフレンズ』酒井順子 著 角川文庫

・『木の声が聞こえますか 日本初の女性樹木医・塚本こなみ物語』池田まき子著 岩崎書店

・『窯変 源氏物語』橋本治 著 中央公論社

 短歌は、「宿命的に一人称が主体となる詩型。ただし無数の「私」に降り立つことで、他者に成り代わって歌を詠むことができる」と短歌創作を教わっている福島泰樹先生にたしか教わった気がする。

 随筆もやはり一人称の文学である。

 古典の朗読は穏やかで丁寧なもの……というイメージがある。
 ゆったりとしたリズムで普段音読されている、でも実は一人称の文学である……という作品群を朗読する……のはチャレンジフルだったのではないだろうか。
 朗読のことはさっぱり分からないながら、一人称の場合の方が感情移入が激しくなるのではないだろうか?でも古典の朗読は、なぜか穏やかな調べのものが多い気がする。このギャップに苦労されたりしたのではないだろうか?


 万葉集の朗読をされた方は、奈良弁での朗読に切り替えたときに感情を思いっきり込めて朗読をされていた。


『平安ガールフレンズ』の朗読者も、耳に心地よい悠々としたリズムで古文を読まれながら、清少納言や紫式部の気持ちを現代語で表現するときは、二人になりきって鋭い感情表現を放っていた。


 どの朗読も面白かったけれど、このお二人の朗読が古典らしいリズムと思いっきり感情を込めた一人称らしい朗読との切り替えが鮮やかで、とりわけ印象に残る。


 短歌も、随筆も一人称なのだから、元々はこういう強い感情を含んで音読されていたのかもしれない……と思った。


 そもそも万葉の時代、どんなふうに音読していたのだろうかとも考えたりもした。
 意外と奈良弁の現代語訳を朗読された方のように、ナマの感情をストレートに強く声に表現していたのかもしれないと想像したりもした。


 短歌は五七で調べもいいし、もともと声に出すことを前提にして書かれているし、時間に制限がある朗読会の場合、朗読する歌をチョイスすることで時間調整もうまく出来るし、ぼーっと聞いていても頭に残るものがあるし……と朗読会に向いている気がする。


その割には余り朗読されない。現代短歌になると、さらに知られていない。
もっと短歌が朗読されたらいいな……と思う。


それも出来れば古典だけでなく、広島あり、家庭内暴力あり……と現代の私たちの心を短歌にしている、でも殆ど知られていない現代短歌から作品が朗読されたらいいな……とも思ったりした。


 選書から作品説明、朗読まで色々ご努力されてきたことが伝わる会だった。

 清少納言は短歌が嫌い、藤は千年生きる……など知らないことを朗読を聞きながら色々教えて頂いた。
 司会の方々も原稿を見ないで、朗読会や朗読作品への想いを分かりやすく伝えて下さっていた。
 回を追うごとに充実していく朗読会を楽しみに、また伺いたいなあと思う。

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さりはま書房徒然日誌2024年6月29日(土)

神奈川県立図書館ボランティア朗読会へ

紅葉坂を登ってフォロワーさんが運営に参加されている神奈川県立図書館ボランティア朗読会へ。
朗読会の今回のテーマは「光るキミへ」。
様々な視点から選ばれた本の朗読。とりわけ五七調の調べのいい古典を音読する喜び、聴く喜びを感じた一日だった。
朗読会も回を重ねるごとにお客さんの数もどんどん増え、朗読の声も益々深みを増してゆく様子に、運営スタッフの皆様のご苦労と努力を思う。
今回、朗読してくださった本は以下の通り。

・『愛するより愛されたい 令和言葉・奈良弁で訳した万葉集① 』佐々木良 著 万葉社

・『現代語訳 竹取物語』川端康成訳 河出文庫

 『竹取物語』星新一訳 角川文庫

 『竹取物語』江國香織 文 新潮文庫

・『光の帝国 常野物語』恩田陸 著 集英社

・『平安ガールフレンズ』酒井順子 著 角川文庫

・『木の声が聞こえますか 日本初の女性樹木医・塚本こなみ物語』池田まき子著 岩崎書店

・『窯変 源氏物語』橋本治 著 中央公論社

原文の音読だといかにも古典らしい典雅な朗読が、現代語訳になると朗読者の思いが弾けるような読み方にも変化するようで興味深く聞いていた。
おそらく図書館の朗読会でも古典や短歌の朗読は試みが少ないのでは……と貴重な時を共有して愉しませて頂いたようにも思う。
関係者の皆様に感謝しながら、紅葉坂の青紅葉を眺め帰途へ。

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さりはま書房徒然日誌2024年6月28日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」四月四日を読む

ー「街道」がただの「街道」でなくなるー

四月四日は「私は街道だ」で始まる。この四月四日はとりわけ好きな箇所である。
「街道」という運ぶとか通行するという機能のためにある存在。それが丸山先生の視点を通して語られると、別の意味を帯びた存在へと揺らぐ。この世界の在り方への丸山先生の思いが、文となって迸るような気がしてくる。

まほろ町と世間を結び
   誤った観念と世人の目を瞞着する情報の数々を
      昼夜分かたずに運びつづける
         獣道が源の古い街道だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」342頁)

以下引用文。そうした街道を通る様々な人間群像が、全部で十一の姿となって書かれていく。以下はその一部である。通行人の姿を繰り返すことで、この世の多様性が心に響いてくる気がする。

今年初めて陽炎を立ち昇らせた私の上を
   勃々たる野心を姑息な手段によって実現させたがる者が通り
      全財産をすってからやっと故地を訪ねる気持ちになった者が通り、

      別にどうということもない精神的苦痛のせいで
         仏を渇仰してやまぬ者が通り、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」342頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月27日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」四月一日を読む

ー幼な子に壮大な運命を感じる視点ー

四月一日は「私は離乳食だ」で始まる。
「離乳食」が自分を食べている幼な子のことを「まほろ町では最年少の 自立した人間」とも、
「食べることに集中しながら 周辺の動きに周密な観察を加え、いつかきっと役立つ知識として 柔軟性に富んだ脳に しっかりと刻みつけている」とも語る。

以下引用文。離乳食が幼な子に寄せる思いの壮大さに心打たれる。「英名を馳せる者」になるか、「鉄窓に呻く者」になるか、あるいはその両方か。善悪にこだわらずに、人間の運命そのものに興味を持とうとする視点に心惹かれる。

そうやって私をひと口すするたびに
   将来において極めて有望な
      才覚を具えた者としての
         型破りな性格と
            そこから派生する運命の展開が形成されてゆき、

            もしできることなら
               この子の行く末を見届けたいと思う。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」332頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月26日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月三十一日を読む

ーひたすら観察ー

三月三十一日は「私は凄みだ」で始まる。
以下引用文。丸山先生を思わせる作家にやくざ者が凄みを放つ瞬間である。

悪趣味とはいえ
   それなりのセンスでめかしこんだ
      長身痩躯の若いやくざ者が
         およそ小説を書くしか能がない男に対して
            振り向きざまに放った凄みだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」326頁

以下引用文。やくざ者や世一のあとを付け回す作家にやくざ者は「なぜ?」と凄みをきかせて問いかける。
丸山先生は、周囲をよく観察して、観察結果をミックスして書かれるような話をされていたことがある。
こんな風に凄みのある男を観察していたことも、もしかしたら本当にあったのかもしれない。
観察して混ぜ合わせた事実のコラージュを、ご自分の言葉で別の世界に創り出しているのだなあと思う。

すると
   窮地に陥ったその中年男は
      懸命に作り笑いを浮かべて
         自分の仕事がいかに特殊なものであるかを説明し、

         とはいえ
            けっして詫びたりはせず
               二度としないという約束もしなかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」328頁)           

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さりはま書房徒然日誌2024年6月25日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十七日を読む

ープランクトンを語り手にすることで見えてくるものー

三月二十七日は「私はプランクトンだ」で始まる。うたかた湖の動物性のプランクトンが自身を、そして身体に不自由なところのある少年・世一を語る。

以下引用文。もし人間の視点で語れば「世一は体を揺らして湖面を見つめていた」で終わってしまう場面である。

プランクトンが語り手となることで、「数億年の進化の隔たり」という科学的にして大袈裟な言葉もしっくりとくる気がする。
「不敵な夢想家の眼差し」「この世における存在の意義なんぞを探っている」という実際にはあり得ない描写も、プランクトンが語ることで説得力をもってくる。

この世における文学の役割は、固定化された見方から解き放って、人を自由にするところにもあるのかもしれない。

体全体が意思に反して波のごとく揺れ動く少年が
   岸辺にしゃがみこみ
      数億年という進化の隔たりをものともしない
         不敵な夢想家の眼差しで
            私のことをじっと見つめ
               この世における存在の意義なんぞを探っている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」313頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月24日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十六日を読む

ー田舎暮らしを冷静に見つめる視点ー

三月二十六日は「里心」が語る。湖畔の別荘で過ごそうとする元大学教授の夫婦を振り回す都会生活への「里心」が語る。
里心が指摘する「まほろ町」の欠点。私も伊東にある山小屋に移り住もうかなと思う度に、「いや、やはり」と足踏みをしてしまう田舎暮らしの欠点が幾つか重なっていた。
さすが田舎に暮らしながら、田舎暮らしの欠点を冷静に観察している丸山先生らしいと思った。
伊東のスーパーは欠品中の商品もチラホラあったり、値段も東京下町よりも客が少ないせいか高い。

特に魚は地元にまわらないのか、地元民は魚の値段を把握しているのか東京近郊より少なく、値段も高い。美味しい金目鯛のお頭とかは、東京近郊だと100円以下で売っていたりするが、伊東の方は500円近くする。
静寂をいいように解釈してドラムの練習やカラオケが大音量で響いてきたりする。
油断しているとゴミ焼却場が近くに建設…ということも聞く話である。

あと丸山先生は書かれていないけど、病院はあっても病院の選択肢がない……というのも伊東の山暮らしの欠点である。丸山先生はあまり病院に行かないような気がするから関係ないのかもしれない。

家庭菜園をしようにも、野生動物を追い払うためにフェンスを張ったりしなくてはならずコストがかかってしまうのも、伊東の山暮らしの欠点である。丸山先生は菜園を作ったりはしないだろうから、これも関係ないのかもしれない。
丸山先生は自分の周りを冷静によく観察して文を書かれていると、あらためて思った。

ここには文化の香りというものが皆無であり
   身近に広がる自然美への自覚も持たず
      無為に生きることが慢性化しており、

      山の冷気が
汚染された都会の空気よりも老化を早めると
            思いつくままにまくし立てた。

ろくな商品がなく
   もっと大きな街のスーパーマーケットで売れ残った商品が回され、


   静寂も度が過ぎると有害で
      違法なゴミ焼却が目当ての産廃業者が横行し、

      民度があまりに低くて
         動物並か
            それ以下で、

            近頃では
               雪かき作業が煩わしい。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」307頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年6月20日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十五日を読む

ー元兵士の悲惨ー

三月二十五日は「私は夕闇だ」で始まる。
以下引用文。「まほろ町にひたひたと押し寄せる いつもながらの」夕闇だけを友とする男。その男が背負う戦争の体験を、丸山先生は以下のように語る。
戦争から帰ってきた元兵士の心の悲惨、戦災孤児の悲惨をずっと書いてきた丸山先生らしい箇所である。

家々を焼き払い
   無辜の民を大量に屠った
      異邦の地における言語道断の日々と
         幾度殺しても飽き足らぬおのれを
            しっかりと再確認する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」304頁

以下引用文。そんな戦争の記憶をいまだ心に引きずる男に、夕闇はこう諭してみる。いつまでも癒えることのない戦争の傷というものをあらためて思う文である。

ついで
   旧時を知る人も少なくなったのだから
      そろそろこの辺りで自分を赦してやったらどうかと
         真心を込めて説得しても、

         きのうと同様
            なんの効果も認められない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」304頁

以下引用文。少年・世一が現れ、銃声の口真似をしてみせる場面。口真似の銃声に男はよろめくが、その顔に深い安堵が浮かんでいた……という描写に、生きて帰ってきても死ぬまで戦場の記憶から解放されない元兵士の悲惨を思う。

私のなかへ逃げ込もうとする男の背中を狙って
   口真似した銃声をだしぬけに浴びせかけ、

   すると
      撃たれた相手は大きくよろめいて私に倒れかかり、

      その一瞬の顔には
         深い安堵の色が浮かんでおり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」305頁

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さりはま書房徒然日誌2024年6月18日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十一日を読む

ー映像より雄弁に語る文ー

三月二十一日は「私は大波だ」で始まる。「うたかた湖では十年に一度おきるかどうかもわからぬ」大波が語る。
以下引用文。大波が「ありきたりな波と化し」ていく場面。映像なら一瞬で終わるかもしれないし、こんな風に同時にいくつもの存在をいきいきと語ることは難しい気がする。
ひいてゆく波に被せるようにして、オオルリから時代の風潮まで森羅万象を語る文が心に残る。

ありきたりな波と化して
   沖へ静かに引いて行く私に付いてきてくれるのは、

   丘のてっぺんから絶え間なく迸る
      美し過ぎることで却って虚しく響くオオルリのさえずりと、


   うつせみ山の禅寺の墓地に葬られてようとしている
      長寿を全うした誰でもいい誰かの親戚縁者が漏らす
         安堵を込めたため息と、

         長身痩躯の若いやくざ者が拳銃の試し撃ちをする
            断続的な銃声と、


            無欲な暮らしをとことん嘲笑い
               辛辣な揶揄を浴びせる
                  不純な時代の冷笑のみだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」289頁)   

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さりはま書房徒然日誌2024年6月17日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十日を読む

ー「燻されたタヌキ」という言葉に場面を想像してしまうー

三月二十日は「私は恥だ」と「恥を恥とも思わぬ若者が 今後の身の振り方について かなり真剣に考えているときに初めて知った」恥が語る。

以下引用文。恥に詰られた若者が突拍子もない行動に出る様子がユーモラスに書かれている。

すると彼は
   燻されたタヌキのように
      堪らず土蔵の外へ飛び出して
         しどろもどろで何やら言い訳めいたことを呟き、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」284頁)

以下引用文。「生き恥」をテーマに踊る青年と一緒に世一も踊り出す。二人して踊っているうちに、恥というものがどうでもよくなってしまう。
踊る部分のあたりは平仮名で書かれている文字が多いせいか、青年と世一が無邪気に踊る場面が自然と浮かんでくる。
後半、恥が自然消滅してゆく箇所は心なしか漢字が多く、恥というものが概念であることが伝わってくる気がする。

すると
   そうやってかれらがいっしょに踊る最中
      私はいつしか自然消滅の道を辿り、

      要するに
         さほど大した価値観ではなくなって
            無の底へと堕ちて行った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」285頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月16日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2 」三月十四日を読む

ー単純だけど心に残る会話ー

三月十四日は「私は落書きだ」で始まる。ドライブインの塀に描かれた落書きが語る。
以下引用文。落書きの中でも、無抵抗の世一を塀に押しつけて三色スプレーを吹きかけて描かれた落書き。
愛犬が「わん」と吠えたことで、その落書きに気がついた盲目の少女の反応と言葉が心に残る。

丸山先生は滅多に会話を使わないけれど、その分、使う時は雄弁に物語る会話になっている気がする。「ああ、よいっちゃんだ」という簡潔な言葉に、盲目の少女の声音、表情が浮かんでくるような、世一への思いが溢れている。
「しまいには 単なる平面にぴたりと自分の体を寄せた」という少女の行動の後だけに、「私が心底からおのれのことを誇るに足る存在と感じたのは それが最初で最後だった。」という落書きの言葉は深く納得してしまう。

すると少女は
   少しもためらうことなく
      まっしぐらに私のところへ近づき
         指先の感触のみを頼りに
            たちまち世一を探り当て、

            「ああ、よいっちゃんだ、よいっちゃんだ」と幾度も呟いて
                しまいには
                   単なる平面にぴたりと自分の体を寄せた。

私が心底からおのれのことを誇るに足る存在と感じたのは
   それが最初で最後だった。


(丸山健二 「千日の瑠璃 終結2」261頁」  

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さりはま書房徒然日誌2024年6月15日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月十三日を読む

ーフィルムにはない文章表現ならではの魅力ー

三月十三日は「私はカメラだ」で始まる。まほろ町に新婚旅行に訪れた夫婦は、通りがかった世一に写真を撮ってくれと頼む。
以下引用文。世一が体を揺らしながら写した風景。フィルムに摂りこまれた風景を映像で見れば一瞬で過ぎ去ってしまう。
でも、こうして文で描かれると一つ一つの情景が別々に心にたちのぼってくるようで、文章ならではの表現の魅力を感じる。

しかしながら
   私がフィルムに摂りこんだのは
      着水に失敗して無様につんのめる
         経験不足の若い白鳥と
            ボートを浮かべてワカサギ釣りを楽しむ隻腕の男、

            ほかには
               結婚式までしか考えていなかった男女の
                  頼りない笑みの底にこびり付いている
                     一抹の不安のみだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」255頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月14日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月十一日を読む

ー「焦燥」が語ればー


三月十一日は「私は焦燥だ」で始まる。世一の姉に取りついた恋の焦燥が語る。
以下引用文。焦燥の語る言葉。姉が自分の言葉で語ったりすれば、あまりにも生々しくなりすぎるかもしれない。作者の視点で語れば、冷たく感じられるかもしれない。
でも「焦燥」という有り得ない視点で語ることで、娘の様子が哀れにも、コミカルにも思えてくる気がする。

「これまでおまえに興味を示した男がひとりでもいるのかな?」と訊き
   「いなければ、これからだって絶対に現れないぞ」と決めつけ、

   その意味においては
      弟の方がまだましというもので、

      オオルリという連れ合いがいるばかりか
         住民のほぼ全員に関心を持たれており
            その意味においては幸福な人生だと
               嫌みたっぷりにつづける。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」249頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月13日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月十日を読む

ー文章で出会う世界ー

三月十日は「私は雪崩だ」と「うつせみ山の南側の急斜面に発生すべくして発生した」「雪崩」が語る。

長年、信濃大町に住んでいる丸山先生らしい感覚にあふれた箇所だと思う。まだ雪崩を体験したことがない私は、その音や気配、雪崩を迎える山国の人の心境を知る。私なら思わず怖くなって布団を頭から被ってしまいそうだが、山国の住民にとっては「春を知って 束の間心をときめかせ」るものと知って意外だった。

それほど大した規模ではない私であっても
   だが音だけは立派で
      たちまちのうちに落ちかかる雷火のごとき轟音に成長したかと思うと
         まほろ町の夜明けをびりびりと振動させ、

         物凄まじい気配で目を覚ました住民たちは
            いよいよ間近に迫った春を知って
               束の間心をときめかせ、

               根拠に頼ることなく
                  何やらいいことが起きるのではないかと
                     本気で期待する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」242頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月12日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月六日を読む

ー「自由」ー

三月六日は「私は自由だ」で始まる。
「この島国の無能さを徹底的に暴露するに至ったあの戦争は 彼から家と家族をあっさりと奪い ついでに希望のひとかけまでをも根こそぎにし」と書かれる物乞いの老人。その老人の「かれこれ半世紀ものあいだ付き纏って離れない」自由が語る。

「自由」は、自由を選ぶことでとても厳しい状況になろうとも、丸山先生自身が一番大事にされていること。
丸山文学の主人公たちも自由を求めて流離う姿が心に残る。

そんな丸山先生が「千日の瑠璃」で自由を見出している登場人物は、戦争で家も家族も失った物乞いの老人。
それから身体と脳に不自由なところがある世一……。
そんな設定に丸山先生の考える自由の在り方を見る思いがする。そして、世一がこれからどんな自由を求め旅を始めるのか……と楽しみにしているうちに、ふと己の不自由を忘れる自分がいる。

そして
   いつ果てるとも知れぬ放浪の日々のなかから
      この私を発見して手元に引き寄せたのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」227頁)

すると彼は
   仰向けに倒れた亀のようにもがく少年の目のなかに
      私をはるかに凌ぐほどの
         ほとんど無碍に近い自由を見て取り、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」229頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月11日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月五日を読む

ー「瑠璃色の才能」とはー

三月五日は「私は春一番だ」で始まる。まほろ町に吹き始めた春一番が語る。
以下引用文。「雪の白に幽閉されて」という部分と「生来の瑠璃色の才能が徐々に開花してゆく」という部分、コントラストの鮮やかさが心に残る。細々としたことは語らずして、色が与えるイメージだけで物語ってゆくような箇所である。「生来の瑠璃色の才能」ってどんな才能なのだろう……と思わず立ち止まって考えたくなる。

雪の白に幽閉されて
   魂を縮こめているしかなかった少年世一の
      意味も目的もなしに
         淡々と命を長らえさせるという
            重い病と引き換えに付与された
               生来の瑠璃色の才能が
                  徐々に開花してゆく。

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さりはま書房徒然日誌2024年6月10日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」を読む

ー「髪」が語ればー

三月四日は「私は髪だ」で始まる。
以下引用文。「四十三年間生きてきた」女の髪が語る。まるで竹下夢二が描く女を思わせる描写でありながら、作者が「女」のことを語るのでなく、「女の髪」が「女」を語ることで変な生々しさは消え、女の生命力が歌うように書かれているような気がした。

それでも私は
   山間を流れる小川のように
      どこまでもしなやかで、

      彼女のすっと気持ちよく伸びた華奢な首にも
         逃げ水のごとく儚い感じのうなじにも
            よく似合っており、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」218頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月9日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月三日を読む

ー一瞬の光が時をかけてゆくー

三月三日は「私は乱反射だ」で始まる。うたかた湖の水面と氷の乱反射が語ってゆくのは、世一の生き生きとした姿、死の直前の老人、死後の魂……一瞬の光のきらめきから生、死、死後を描き切る文に、肉体の縛りからも、時の縛りからも解き放たれて自由になった気がしてくる。
以下引用文。「乱反射」を「縫い針の束をぶちまけた」と語る描写が心に残る。

うたかた湖の大気よりも澄みきっている水と
   急速に溶けてゆく氷とが相まって生み出す
      まるで縫い針の束をぶちまけたような乱反射だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」214頁)

以下引用文。世一の目に「ひとつの巨大な光源」とも写り、「めざましい躍動」を楽しむ「うたかた湖」は、生を感じさせる存在である。

雪解けが進んでどろどろにぬかった丘の道を
   ふらふらと下ってくる青尽くめの少年は、

   あたかも湖面全体がひとつの巨大な光源であるかのように錯覚して
      私のめざましい躍動を存分に楽しんでいる。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」215頁)

以下引用文。「眠るがごとく寂滅してゆく」老人の目に映る乱反射。「顔を向け」「瞳孔いっぱいに私を取りこんで」という丁寧な描写に、瀕死の老人のノロノロした動きを感じる。
「おのれの非を悟る」という言葉に、「乱反射」が罪を映し出す鏡のようにも思えてくる。

やおら起き上がった彼は
   湖の方へ顔を向け、

   開きかけている瞳孔いっぱいに私を取り込んでから

      翻然としておのれの非を悟る。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」216頁)

以下引用文。老人が亡くなって魂となってゆく場面。
「坂道を転がり落ち」「仮眠中の絶命」「「ひっそりと息を引き取る」と言葉を変え、丁寧に描写してゆく文から、老人の死への敬意が感じられる。
さらに「魂のきらめき」「増すばかりだ」という言葉に丸山先生の死生観が強く感じられ、老人の死が新たな旅立ちのように思えてくる。

だがしかし
   太陽が位置を変えることで
      私が天井から離れてしまうと
         彼はみるみる衰弱の坂道を転がり落ち、


         世一のように全身を震わせたりせずに
            あたかも仮眠中の絶命のようにして
               ひっそりと息を引き取ってゆくものの
                  その魂のきらめきは一向に衰えず
                     むしろ増すばかりだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」217頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月8日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月一日を読む

ー丸山作品の「  」の不思議さー

三月一日は「私は骸骨だ」で始まる。まほろ町立中学校の理科室の教材用骸骨が、こっそり忍び込んできた世一を相手にする。
以下引用文。丸山先生は会話でストーリーを進める書き方を大変嫌っている。たしかに他の丸山作品と同様に以下の会話も、形こそ「   」で括られて、一見会話の形はとっている。

でも日常会話ではなく、どちらかと言うとアフォリズムのような趣きがある。丸山作品で「  」が出てくると、だらだらと会話でストーリーが展開するのではなく、ピリッと閃く丸山先生の思いに触れる気がする。

いかにも気怠げな口調で
「おまえ、誰?」と訊き、

    そこで私は
       わざと無念やる方ない表情を作り、

    「おれか、おれはおまえだよ」と

        素っ気なく答えた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」207頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月7日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月二十八日を読む

ーあたえる者へー

二月二十八日は「私はすき焼きだ」で始まる。まほろ町の湖畔の旅館・三光荘の女将と長逗留の女客が食べていた「すき焼き」が語る。
以下引用文。二人の女に招かれて、世一も一緒にすき焼きを食べる。
何も持っていないし、食べる動作さえ苦労する世一なのに、一緒にいると二人の女は「希望とも言えぬささやかな希望を感知」して、「心のあちこちに穿たれてしまった風穴が 一時的であるにせよ 確実に埋まってゆくのを覚えた」のである。
 何も持たない者、世から疎まれる者が与える者になる一瞬を信じているし、そんな瞬間を見い出すのが丸山作品の魅力だと思う。そして、そんな視点は特殊学級に入れられてしまった小学校時代、特殊学級の仲間たちとの交情から生まれてきたものではないだろうか。

ひっきりなしに身をよじりながら私を相手に格闘する
   健気な少年をつくづく眺めているうちに
      ふたりの女はなんだか不思議な心持ちになり、


      つまり
         希望とも言えぬささやかな希望を感知し、

         生きるために余儀なくした陰気な行為のあれやこれやに蝕まれて
            心のあちこちに穿たてしまった風穴が

               一時的であるにせよ
                  確実に埋まってゆくのを覚えた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」203頁

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さりはま書房徒然日誌2024年6月6日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十八日を読む

ー意外な本への思いー

二月十八日は「私は頭痛だ」で始まる。都会を離れ、山暮らしを始めた元大学教授がまほろ町の図書館を訪れ、久しぶりにたくさんの本を目にしたときに襲ってきた「頭痛」が語る。
以下引用文。大学教授という本を通して物事を見てきた筈の人が、こんな思いを本に抱くとは……一瞬、意外に思う。
でも丸山先生自身、いつかオンラインサロンで好きな書店は?と訊かれて、「リアルの書店に行くのは好きでない。本に囲まれると圧迫感を感じる」というような意外な答えをしていたのを思い出した。そんな丸山先生だから、こんな言葉が出てくるのではないだろうか?

確か彼は
   本には二度と手を出すまい
      これからは他人の言葉を通さずに現実を直視しよう
         おのれの目で見ておのれの頭で判断しようと
            そう自身に誓ったはずで、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」163頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月5日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十六日を読む

ー「見る」とは?ー

二月十六日は「私は炎だ」で始まる。盲目の少女の前に置かれ、やがて消えてしまうロウソクの炎が語る。
以下、三箇所からの引用文。
盲目の少女の目、世一の目に映る炎、世一の心眼に焼きついた炎、それぞれが描写されている。

同じ「見る」行為とはいえ、どこで見るのか、どう映るのかは様々なのだと思う。
そして書き手が言葉によって読み手に「見せる」行為とは……とも考える。それは最後の引用文にあるように、読み手の心眼に時も次元も超えた炎を宿らせることなのではないだろうか……そんなことも思った。

少女の見えない目と
   彼女の膝の上にちょこなんと座っている白い仔犬の純一無垢な瞳には
      それぞれ私が鮮やかに映じており

      その四つの虚像は
         ひとつの実像をはるかに超越した
            かなり見事なものであり、

            しかしながら
               彼女の魂に結ばれた映像の素晴らしさには
                  遠く及ばず、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」155頁)

もちろん少年の目にも私が映っており
   ところが
      彼の瞳のなかの私ときたら
         なぜか虚像ですらないほど頼りなく、

         にもかかわらず
            実像より数倍も生々しいのは
               いったいどうしたことだろう?


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」157頁)

瞬時にして少年の心眼に焼き付いた私は
   またしても激しくなってきた雪のなかを
      いかにも危なかっしくゆらゆらと揺れながらも
         けっして消えることなく
            まほろ町のあちこちを
               住民たちの有りようを照らしつつ
                  どこまでも進んで行く。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」157頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月4日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十五日を読む

ー自然に人間の世界を重ねるー

二月十五日は「私はカモメだ」と猛吹雪で海岸線を見失い、山の中まで迷ってしまったカモメが語る。
以下引用文。迷い鳥のカモメがまるでさすらいの旅人のようにも、カラスが俗物根性丸だしの人間たちのようにも思えてくる描写である。
丸山先生の目は、自然界の在り方にも人間の世界を重ねて見ているのだろうか?

いよいよ天運尽きた私は覚悟を固めたことで
   さばさばした気分になり、

   雪の重みで押し潰されそうになった長い桟橋の突端で翼を休め
      眼前に広がる見慣れぬ光景を夢心地で眺めた。


すると
   閉鎖的で排他的な田舎者根性まる出しのカラスどもが
      迷い鳥の私をいびり殺そうと集まり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」152頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月3日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十四日を読む

ー風船一個を語るにも語り口が印象的ー

二月十四日は「私は風船だ」と「くたくたになって山と湖の町へ辿り着いた 青い風船」が語る。
私なんかがこの風船を語るなら、「空色の丸い風船」とか安直にすぐ書いてしまいそうだが、丸山先生はそうではないと知る。
以下引用文。丸山先生は、風船の青い色を「〜のようだ」と語るのではなく、「〜にも似ておらず」と否定の形で語る。「水」「空」「死に顔」「オオルリ」にも似ていない青って、どんな色なのだろう……と読んでいる方の心にぽっかり「想像してごらん」という声が谺する穴をあけられる気がする。

私の色は
   水にも空にも
      そして
         死に顔にもオオルリにも似ておらず、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」146ページ)

以下引用文。風船の動きを「彼女の体熱と町そのものが暖めた大気によって上昇し」と語り、また「人魂を思わせる形状を保ったまま」と描写することで、風船がただの物からどこか人間らしさを帯びて感じられてくる気がする。

彼女の体熱と町そのものが暖めた大気によって上昇し
   人魂を思わせる形状を保ったまま
      一軒家の方へと引き寄せられて
         二階の部屋の窓枠に引っかかる。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」148ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月2日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十三日を読む

ー自然描写に重ねる思いー

二月十三日は「私はハーモニカだ」で始まる。刑務所を出所して鯉の世話をしながら暮らす世一の叔父が吹き鳴らすハーモニカだ。
以下引用文。まほろ町の夕暮れから夜にさしかかる冬の描写が、丸山先生らしい奥行きのある表現に思える。自然を見つめながら、この世と別の世について思いを巡らす丸山先生の思いも伝わってくるようで好きな箇所である。
「希薄な存在感の太陽」はいかにも冬らしく、それでいて別の世界を示しているようにも思える。
「然るべき方向」も、いったいどの方向を指しているのやら……と考えてしまう。
「漠とした落日を漫然と迎える」というまほろ町も、人の生き方を暗示しているようである。
「いかにも啓示的な闇」とは?と考えてしまう。
自然描写に重ねる思いがあるようで、それを考えながら読んでいくのが面白い。

やがて
   希薄な存在感の太陽が然るべき方向へと傾き、

   まほろ町が漠とした落日を漫然と迎えるや
      いかにも啓示的な闇が
         地の底から湧き上がってくる。

すると
   厳冬の夜が私をたしなめて
      もうよさないかと言い

         そろそろやめてはどうかと言い、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」143ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年6月1日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十二日を読む

ー同じ望遠鏡から覗いた世界なのにまったく違って見える不思議さー

二月十二日は「私は望遠鏡だ」で始まる。世一の父親がゴミ捨て場からそっと拾ってきて、ピカピカに磨きあげた望遠鏡が語る。
同じ望遠鏡に目をあてているのに、世一の父親が覗く世界と世一が見つめる世界は全く異なる印象を受ける。見つめる人の視点、心の持ちようで、こうも異なるものだろうか。
以下引用文。世一の父親が覗いた世界。私の目に映る世界のようで、思わずため息をつきたくなる。

私をどの方角へ向けようと
   そこにはすでに知られている現実が存在するばかりで、

   もしくは
      辟易するおのれの五十数年間が
         呆れ返るほどだらしない格好で横たわっているだけで、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」139ページ)

以下引用文。冬の厳しさを描きながらも、世一が望遠鏡を通して見つめる世界は宇宙的神秘さのある世界。「虚無そのものの広がり」という捉え方が、何となく丸山先生らしいと思ったり、こういう世界を感じたいと反省したりもした。

最初に捉えたのは
   灰色がどこまでも広がる
      実に味気ない冬の空間で、

      鳥が飛んでいるわけでもなければ、
         雲が流れているわけでもない、

         なんの変哲もないというか
            虚無そのものの広がりにすぎなかった。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」140ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月30日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十日を読む

ーヒトでない者の声が聞こえてくる「  」ー

二月十日は「私は氷だ」と、うたかた湖を隅々まで埋め尽くした氷が語る。
その氷の上で世一が「ときおり つつうっと滑ったり」という様子が微笑ましい。
以下引用文。そんな世一に警告しようとする「氷」。「軽すぎる体」「重すぎる魂」と氷が語る世一の姿は、人間界の常識を離れた姿にも思えてくる。

その都度私は不気味な音を発して警告を与え
   軽すぎる体のほうはともあれ
      あまりに重過ぎる魂まではとても支えきれないと
         そう言ってやり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」136ページ)

以下引用文。「氷」が心配するように湖の中に落ちることなく無事に帰ってゆく世一。
「氷」はふた言だけ呟く。
丸山作品では「  」の部分は普通の会話ではなく、天から響いてくる言葉のようでもある。
以下も「運」「不運」がコントラストをなして、やはり人間ではない者の言葉に聞こえてくる。

「おまえって奴はどこまで運に恵まれているんだ」と
    そう言ってから
       「そのくせ、どこまで不運な奴なんだ」とづづけ、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」137ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月30日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十日を読む

ー箒と箒売りの充足感に幸せとは?と思うー

二月十日は「私は箒だ」で始まる。
行商の男がまほろ町をまわったにもかかわらず、売れ残ってしまった箒が物語る。
以下引用文。箒売りの行商が丘の家の世一の家を見て「何かある」と感じて登り始める場面。箒の行商人という今ではあり得ない職業からもたらされるイメージが、仙人めいた千里眼的行動とよく合っている感じがする。

ただ気づいただけではなく
   そこにはきっと何かが在る
      ほかの家には絶対ない何かが在ると直感して
         心のどこかが激しく揺さぶられ
            すぐさま出かけてみようと思い立った。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」131頁)

以下引用文。世一の家にたどり着いたものの、いるのはオオルリだけ、あとは誰もいない。行商人は「お前をこの家にくれてやるからな」と箒を玄関の下駄箱の横に置いて帰る。
ただ、それだけの行為なのに、箒も、行商人も満ち足りてしまう……その姿に「幸せとは?」と思わず考えてしまった。

使ってもらってこその私であるのだから
   願ってもないことで
      元より異存などあろうはずもなく、

      雪に足を取られながら丘を下って行く男の後ろ姿が
         いつになく幸福の色に満ちあふれ
            夕日に染まったその背中には見るべき価値が感じられた。


 (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」133頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月29日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月八日を読む

ー覗き見の効果ー

二月八日は「私は節穴だ」と、路地と歯科医の家を分かつ塀の節穴が語る。「截然と」(セツゼン)(意味は「区別のはっきりしているさま」)という見かけない言葉が、路地と歯科医の家の違いを強く主張しているように響いてくる。

節穴から歯科医の同級生が覗き込み、多少嫉妬混じりの小さな嫌がらせをする。
次に世一が覗き込むと、歯科医の息子の進路をめぐる家庭内騒動が持ち上がる。思わず世一も一緒に騒ぎ立て……と展開してゆく。

ここで思い出したのだが、他の登場人物が覗き込む中、物語が進行してゆく……というのは、浄瑠璃にとても多い設定である。文楽ファンなら、覗き見で進むストーリーには慣れすぎるくらいに慣れてしまっているのではないだろうか。舞台の左手からも、右手からも覗き見……で舞台が進むのは、浄瑠璃くらいではないだろうか。

覗き見という手法をとると、違う世界の人間でも、自分の所属とは違う世界であっても、我が事のように反応する様子を自然に観察できる……と「千日の瑠璃」のこの箇所に思った。

文楽の場合も、覗き見する方、覗き見される方、両方の人形の動きを眺めることで、物語の世界を重層化していくようにも思う。

それにしても覗き見が当たり前の浄瑠璃の世界。これはやはり塀や障子という覗き見しやすい日本の住環境が影響しているのだろうか?

私は節穴だ、

   ほんのたまにしか人の通らないうらぶれた路地と
      歯科医の家の敷地を截然と分かつ
         かなり古びた板塀の節穴だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」122頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月28日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月六日を読む

ーX線のごとき存在とは?ー

二月六日は「私はX線だ」と世一の身体を調べるX線が、その心までも情け容赦なく調べる。その結果は……以下引用文。
「醜悪な外貌」と対をなす「心の表情」という言葉には、喚起してくるイメージがたっぷりとあって、世一の心の豊かさを思わせてくれる。
「彼の魂は 不可視なものではなく」という箇所に、人間の魂を見通せる光があれば……とも想像する。人間の魂を見通せる存在……なんて嫌だし、煙ったいとは思うけれど、そういう存在が作家なのかも、とも思う。つまりX線は丸山先生自身のことなのかもしれない。

ひっきょう
   世一を見かけだけで誤解してはならず、

   彼のふた目と見られぬ醜悪な外貌は
      断じて心の表情と一致するものではなく、

   彼と接する連中の
      人間としての程度や真価を試すものでもない。

そして彼の魂は
   必ずしも不可視なものではなく
      残酷極まりない神に成り代わって
         この私がそのことを証明する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」117ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月26日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月五日を読む

ーパラレル・ワールドは救いか、絶望か?ー

二月五日は「私は星雲だ」で始まる。蠍座の星雲は、世一の飼っているオオルリの囀りを通して遥か彼方のまほろ町のことをよく知っていると語る。
丸山先生は以前、量子力学の観点からパラレルワールド、もう一つの世界は存在する……そんなことを話されていた。以下引用文にも、そんな丸山先生の考えがよく現れていると思う。

そして
   私のほうもまた
      自身のどこかにいる青い鳥が
         そっくり同じことをしており、

         つまり
            私のなかにもまほろ町が在り
               少年世一が存するのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」111頁)

以下引用文。己の星雲がある世界から、世一のいるもう一つの世界へ……そんな不思議なやり取りが書かれている。
くどくどとストーリーが展開するのを楽しむのでなく、もうひとつの世界を感じる大きな視点に気がついてハッとする。そんな楽しさが「千日の瑠璃」を始めとした丸山作品にはあるように思う。
その分、ストーリーを楽しんだり、教えを請う人には不向きなのかもしれないが……。

もう一つの世界でも私は「千日の瑠璃」を読んでいるのだろうか……そんなことを思うと、こちらの世界の諸々の不安が消えていくような気がする。パラレルワールドを信じることは救いになるのか、それとも同じ苦労をしていると絶望を深めるだけなのか?「千日の瑠璃」にその答えがあるのかもしれない。

きょうもまた私は
   そっちのまほろ町の
      そっちのオオルリに対して
         詳細な報告をし、

         それから
            こっちの世一が岸辺に佇むだけで
               うたかた湖の深浅を正しく把握できるまでに

                  成長した旨を伝え、

                  はてさて
                     そっちの世一はどうかと尋ねてみる。

 (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」112頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月25日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月四日を読む

ー缶バッジが語れば、偉そうな物言いも何故か気にならないー

二月四日は「私はバッジだ」と、まほろ町に駆け落ちしてきた娘のセーターを飾る「青い鳥をかたどった 派手なバッジ」が語る。

以下引用文。バッジが実は自分が娘の行動を決めている……と語る。バッジにズバッとありえないことを宣言させるおかげで、普通に書いていたらモタモタしてしまいそうな余分な贅肉が削ぎ落とされスッキリしている気がする。
バッジという実に庶民的なものが、娘の行動を決める神のごとき存在……という設定も丸山先生らしいと思う。

彼女は私を気に入っているばかりか
   信頼しきっており、

   駆け落ちを決意させたのも
      実はこの私というわけで、

      まほろ町に住むことも
         スーパーマーケットで働くことも
            全部決めてやった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」106ページ) 

以下引用文。スーパーの先輩(世一の母親)と娘をバッジが観察する。もし、ここで作者が語っているなら「なんて失礼な」と思うかもしれないが、バッジが語っていると思うと不思議と気にならない。

どんなに厚化粧をしたところで
   生活の疲れを隠せないその先輩は
      素顔でも溌剌としている後輩をつかまえ
         冷ややかな物言いで
            「それ、なんて鳥なの?」と訊き、

             鳥の名を度忘れした娘は
                とにかく幸福を招く鳥だと答えた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」107ページ)      

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さりはま書房徒然日誌2024年5月24日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月三日を読む

ー田舎暮らしの残酷さを思い出したー

二月三日は「私は散弾だ」と密猟者たちが禁猟区で放った散弾が語る。散弾が仕留めたのは白鳥。密猟者たちはなんと白鳥を解体して、少ない肉と肝臓を手に入れると、塩焼きにしたり、鍋料理にしたり、串焼きにしたりする。
以下引用文。「ぶっ殺してやる!」という部分も効いているし、「肉にめりこみ 血管を破り 内臓を裂き 骨を砕き」と畳みかけるような短い文も、インパクトのある動詞も、散弾の威力を効果的にあらわしている。

私は散弾だ、

   ひとえに炸薬の力を頼みとして
      「ぶっ殺してやる!」などとわめきながら風のなかに飛び出す
          やや大粒の散弾だ。


狙いは違わず
   ぶすぶすと獲物に命中した私は
      一瞬にして羽毛をぱっと散らせ
         肉にめりこみ
            血管を破り
               内臓を裂き
                  骨を砕き
                     指頭大の魂をも粉砕する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」102ページ) 

密猟で手にした白鳥を食べてしまう……といういささかショッキングなこの場面は、田舎の生活の残酷さも描いているのかもしれない。
みずから動物を仕留め、解体して、食べてしまう……という行為は、私も田舎暮らしでよく見かけた。そして「私には無理だ」と田舎暮らしを断念させた大きな要素でもある。
だって本当に伊東で窓の向こうを見たら、隣家の物干しに猪から剥ぎ取った毛皮がかけてあったり……
田舎に引っ込んだ元同僚は、町内会のメンバーと共に害獣駆除のため猪を仕留め、解体して、肉は冷凍して、耳は切り取って市役所に持参して報奨金をもらう……という仕事を、地域の一員として当然のようにこなしていた。
そんな姿に「私には田舎暮らしは絶対に無理だ」と思った。命をいただく行為、それを残酷と取るか、幸せととるかは人様々とは思う。また、すべての田舎がそうだとは限らないだろう。
でもとにかく私には田舎暮らしは絶対無理である……と思ったことを思い出した。

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さりはま書房徒然日誌2024年5月23日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月二日を読む

ー小さな大豆にも思いは尽きることなくー

二月二日は「私は大豆だ」で始まる。物騒な輩に知らずして土地を売ったため、町中から非難されるまほろ町の八百屋の主が、いわくつきの連中が住むビルに向かって豆をまく。ところがその連中が来て、豆を買いに来ると……。
先ほどまでの勢いはどこにやら?途端にびくびくし始める八百屋の主人の小物感。
そんな恐れられる連中でも豆をまく……という意外さに人間らしさを感じる。

極道者ですら鬼を忌み嫌い
   福に巡り合いたがっていることに八百屋の主人が気づいたとき、

   ビルの窓から撒かれた私を
      いかんともしがたい不幸を背負って歩く青尽くめの少年が
         ひと粒ずつ丹念に拾って食べている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」101ページ

小さな大豆でもよく観察すれば、忌み嫌われる者たちを、忌み嫌う者を、世一の心を表している……。
そんなことを思ううちに、亡くなった女流義太夫の三味線弾きさんが、亡くなる一ヶ月前にたしか可愛い赤鬼の仮面と大豆の写真をアップされ「鬼は外」と呟かれていた記憶がよみがえった。とても辛い、死を覚悟されながらの「鬼は外」、どんな思いであったのだろうか。
その三味線弾きさんとは幻想文学の講演会でたまたま席が隣だったり、愚息を連れて義太夫の公演に行った時も偶然席が隣になって愚息に「眠くなったら寝ちゃっていいのよ」と優しく声をかけてくださったこともあった。
そんなことを思い出すうちに、その三味線弾きさんの舞台での凛々とした音色も聴こえてくるような気がしてきた。
小さな大豆でもそこから紡がれる記憶は無限、それを発掘して残してゆくのも、人間の大事なミッションなのかもしれない。

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さりはま書房徒然日誌2024年5月22日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月一日を読む

ー「退学」が語る学校ー

二月一日は「私は退学だ」と、普通の高校生が当人の事情でした「退学」が、学校をやめて解放感に溢れている高校生の喜びを語ることで学校という存在の矛盾を問いかける。

以下引用文。「退学」が見つめる学校の在り方は、丸山先生の心にある思いなのだろう。まさにその通りの場である。
でも最近では「優秀な労働者」どころか、物言わぬ労働者、物言わぬ市民を大量生産するための場になり下がっているいる気もする。
「おのれの意志と決断」「飛び出した」という言葉に、「退学」した若者の心がよく表されている気がする。

従順で在りながら
   適度に優秀な労働者となる若者を選りすぐるための
      窮屈で堅苦しい
         疑問だらけの場、

         彼はどこまでもおのれの意志と決断でもって
            そこから飛び出したのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」95ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月21日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月三十一日を読む

ー遺影もじっと見ているのかもしれないー

一月三十一日は「私は遺影だ」で始まる。「胸が潰れるほどの悲しみを撥ね返してくれそうな 金ぴかの仏壇の前に」飾られた、松林で首をつって死んだ娘の遺影が語る。
「遺影」を語り手にしてみたら、家族のそれぞれの勝手な思いやら、線香をあげにきた友人の虫のいい願いやらを、感情を交えることなく、じっくりと人ごとのような視点で物語れるものと思った。
そういえば「遺影」を前にしたときは、自分の心を隠すことなく、正直になっている気がする。
以下引用文。線香をあげにきた世一の姉が、自分の恋はあなたと違って上手くいきそうだ、と勝手な思いを語る場面である。
「凝然として動かぬ私」という言葉にたしかに「遺影」はそうだなあと思い、「くどくどと」「見つめ直し」「一方的な頼み」という言葉から世一の姉が浮かんでくる。

つまり赤の他人同然の異性について
   くどくどと語り、
   
   あげくに
      凝然として動かぬ私をまじまじと見つめ直し、

      どうにかこの恋の行方を見守っていてほしいと
         好ましい出発を願ってほしいと
            そんな一方的な頼みをする。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」93ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月20日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十九日、三十日を読む

ー想像するのが楽しくなる色の語り方ー

一月二十九日は「私は雪道だ」で始まり、三十日は「私は口紅だ」で始まる。二日通づけて対照的な色が出てくるので印象に残る。
ただし「雪道」の方では様々なものを「白い」と表現しているのに対して、「口紅」の方では具体的な色の描写は出てこない。色の表現方法が違うにもかかわらず、どちらも色が浮かんでくる不思議さを感じた。

以下引用文。「私は雪道だ」の二十九日より。「時間」や「父と子の心」のように抽象的なものを白いと表現しているので、どんな時間か、どんな心か想像する楽しさがある。

その重さに耐えられずに折れてしまった無数の枝が
   私の上にも無惨に散らばっていて、

   しかし
      一様なためにさほど見苦しくはなく
         どうにか清らかな白を保っており、

         辺りに漂う大気も白く
            穏やかに流れる時間も白く、

         はたまた
            私に沿って歩きつづける父と子の心も白い、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」82ページ)

以下引用文は三十日「私は口紅だ」より。はっきりと色の名前は書かれていないが、「シクラメンの花の色にもよく似合い」「浮いた立場にもぴったりと合っている」「不確定な要素を孕んだ」と表現される口紅の色を想像する楽しさがある。

シクラメンの花の色にもよく似合い
   彼女の浮いた立場にもぴったりと合っている
      かなり不確定な要素を孕んだ口紅だ。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」86ページ)

白、口紅の色と出てきたあと、最後は世一の着ている服の色で終わる。「娼婦に成るべくして生まれついた」女を引き寄せるオオルリの色のセーター。最後に世一の、オオルリの力を感じる。
どの色にしても想像するのが楽しくなる書き方だと思った。

娼婦に成るべくして生まれついたような女の目は
   不治の病に侵された少年が纏っている衣服の青の素晴らしさに見惚れていた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」89ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月19日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十八日を読む

ー反復されることで本心からの叫びに思えてくるー

一月二十八日は「私はビデオテープだ」とレンタルビデオ屋から大学教授夫妻のもとへと貸し出されたビデオテープが語る。観た後、大学教授夫妻は内容について散々けなす。
以下引用文。けなした後で大学教授の妻が野鳥への愛を語る場面。
「名画であろうと名作であろうと」が繰り返され、「たとえば」が反復されることによって、野鳥への賛歌が大学教授の妻の心の底からの思いにも聴こえてくる。

妻の言葉に思わず納得したところで聞こえてくるのは、世一のオオルリを真似たさえずり。絶妙なタイミングに、この少年は人間なのだろうか、それとも……と世一が人間を超えた存在に思えてくる。

窓の向こうに広がる
   一面雪に覆われた雑木林に目を移し、

   いかなる名画であろうと名作であろうと
      結局のところ
         野鳥一羽分の感動すら与えることができず、

         傑作中の傑作というのは
            たとえばオオルリであり
               たとえばクロツグミであり
                  たとえばミソサザイであり
                     それを超えるものはないと

                        言い切った。

ちょうどそこへ
   オオルリのさえずりを上手に真似る少年が通りがかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」81ページ)  

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さりはま書房徒然日誌2024年5月18日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十七日を読む

ー「風死す」を思わせる書き方ではー

一月二十七日は「私は境界だ」で始まる。目には見えない「境界」によって、あらゆるものを区切る……そうすることで浮かんでくる様々な存在が、わずか四ページの中におよそ41にわたって書かれている。
語を、短い文を連ねることで境界で区切られる姿をあらわそうとする書き方は、最後の長編小説「風死す」にもつながるのでは……と興味深く読んだ。
そして41は素数である。もしかしたら素数を森羅万象を律するリズムにして、まほろ町の様々な境界を描こうとされたのだろうか。

私は境界だ、

   言ってしまえば有象無象の集まりから成るまほろ町を
      入り組んだ線でもって複雑に区切っている
         けっして目には見えない境界だ。


分けつづけ

   分けずにはいられない私は

   生者と死者を
      死者と統治者を、

   肥立ちのいい赤ん坊を背負っていそいそと立ち働く若妻と

      嬌態のすっかり板に付いてしまった淫をひさぐ女を、

      堅忍不抜の精神で日夜勉学に勤しむ若者と
         家名を著しく落として悪友の下宿に転がりこんだ放蕩児を


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」74ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月17日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十六日を読む

ーありえないモノの視点で語るからこそー

一月二十六日は「私は忠告だ」で始まる。昼休みを利用して空の別荘で逢引きをしている町役場の職員たち。そんな二人に気がついた上司(世一の父親)が男を呼び出して与える「忠告」が語る。スキャンダルが大好きな田舎の住民の好奇心に晒されてもいいのか、自分も面白がっているのだから……などと忠告する。
「忠告」が情景を描写する……という有り得なさがなければ、こうした場面は安っぽい陳腐な場面になりがちではないだろうか……と以下引用文を写しながら思った。
もし作者が語るような形で「そんなことで色を着けるしかない人生」とか「男の干物になり下がっている」とか「面白くもなんともない仕事」と書いてしまえば、そこには反感が芽生えるかもしれない。だが「忠告」が語るという形だからこど、何となくアイロニーもユーモアも感じられるのではないだろうか。

目を伏せて頷く部下の肩にそっと手を置いて
   気持ちはわかると呟き
      そんなことで色を着けるしかない人生だものと言い、

      定年まで勤め上げて
         退職金や年金をもらう頃には
            いっさいの色恋沙汰と縁がない
               男の干物に成り下がっていると
                  きっぱり結論付けた。

そして
   いい歳をしたふたりは
      午後の面白くもなんともない仕事へと戻っていった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」73ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月16日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十五日を読む

ー散文ならではの魅力、詩歌と変わらなぬ魅力ー

一月二十五日は「私は氷原だ」と、「俘虜としてシベリアの厳冬を体験した男が 全面結氷したうたかた湖から激しく追走する めくるめく氷原」が語る。
以下引用文は、そんな元俘虜の男の目がとらえた現代社会だ。
この文を写しているうちに、散文の良さを教えてくれる文のような気がしてきた。


「跡目を継ぐことになった」という微妙な表現に、こうした制度への疑念やらが感じられてくる。
「隙あらば」「少しでもいい思いをしよう」という言葉から、現代社会を抜け目なく渡ってゆく黒い輩の姿が浮かんでくる。
「無知」「動物的な習性」という言い方に悲しき私たちの在り方を思う。

不可思議な制度を、ずる賢い連中たちを、哀れなる私たち自身を、まさに無駄のない的確な言葉の三連発でずばりと語った後にくるのは、「〈蟻の思想〉の扶植」である。
「〈蟻の思想〉の扶植」というよくは分からないながら、イメージをモコモコ自由に喚起させる不思議な語句が待ち受けている。無駄のない表現の後だから、この不可思議な言葉の結びつきが心に迫って、「自由にイメージせよ」と呼びかけてくる。
こうした構成に散文ならではの魅力を思う
またストーリーから離れて、読み手に発想を自由に委ねてくれる……そんな詩歌と変わらない魅力が本来なら散文、小説にはあるのだなあと思う。

跡目を継ぐことになった次の天皇を
   隙あらば象徴以上の地位に返り咲かせて
      少しでもいい思いをしようと企む輩は、
         国民の無知と強い者には訳もなく従うという動物的な習性に付け入って
            またしても〈蟻の思想〉の扶植に熱を入れ始めていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」67ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月15日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十四日を読む

ー与える者へー

一月二十四日は「私は縫いぐるみだ」で始まる。愛犬が老衰のせいで死んでしまった盲目の少女。彼女の哀しみを癒そうと与えられた犬の縫いぐるみが語る。
以下引用文。縫いぐるみは世一のことを「小癪な奴」だと思うが、次の瞬間には……。
不自由な筈の世一が、少女の心を本当に慰めることのできる「生きた本物の仔犬」を渡すのだ。
この世における世一の役割と存在が、弱く、憐れまれる者から、与えることのできる者へと変わる一瞬。その劇的な変換が、「少年は突然奪って 突然与え」という短い繰り返しに表されているようにも思った。

少年は突然奪って
   突然与え、

   つまり私は
      あっという間に彼の手に移ったかと思うと
         すぐさま今度は
            雪よりも白い
               生きた本物の仔犬が少女の手に渡ったのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」64ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月14日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十三日を読む

ー目にするものから物語が無限に生まれる!ー

一月二十三日は「私は無精髭だ」と「無精髭」が語る。
周囲にいる知らない人をそっと観察することから、小説は生まれてくる……丸山先生がそんなことを以前言われていたような気がする。

以下引用文からも、無精髭を生やしている人をそっと観察している丸山先生の様子が想像される。丸山先生の眼を通すと、街ですれ違う人の無精髭からもストーリーが無限に生まれてくるのだなあと思った。

彼はさかんに私を撫で回しながら
   うちなる何かとのべつ闘い、

   あるいは
      自分で自分を痛めつける言葉でも探していたのかもしれず、

      あるいはまた
         私を仮面の代わりにして
            まったく別の人間になろうとしていたのかもしれず、

            さもなければ
               おのれ自身を私のなかへ埋没させて

               完全に消し去ろうとしていたのだろうか。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」59ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年5月13日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十二日を読む

ー偏見は生まれたときからなのかー

一月二十二日は「私は手だ」と「乳児の 魂そのものよりも柔らかい手」が語る。
乳児の手を語る文にその形や動きを思い浮かべ、納得しつつ途中まで読む。
以下、「   」内はすべて丸山健二「千日の瑠璃2」より。

「たとえ天変地異に見舞われたとしても親を放すまいとする 
    凄い圧力を秘めた私」

「私自身の接し方は
    猫にも人間にも分け隔てがなく」

以下引用文。そんな乳児の手も、世一のことは忌み嫌う……と書かれたのは、なぜだろうか。
人間の心には、理不尽な偏見が生まれついたときから根付いている……そんな思いもあって、こうした文を入れたのだろうか?
そうだとしたら人間の心に生まれついた時から巣食う偏見に、世一は
どう向かい合っていくのだろうか?
今後の展開が楽しみになってくる。

しかし
   何事にも例外があり、

   勝手に頭がぐらぐら動いてしまうせいで脇見が普通になっている
      あの少年がそれで

      私が忌み嫌うそいつが
         今また無断で敷地内に入りこみ
            庭を横切って迫ってくる。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」56ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月12日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十一日を読む

ー「暖炉」が象徴する様々なものー

一月十二日は「私は薪ストーヴだ」と、世一の姉が好きになったストーヴ作りの職人に注文して完成した薪ストーヴが語る。
世一の家へと向かう坂道を「古い毛布をあてがった製作者の背中に 登山用のロープでしっかりと括りつけられ」運ばれてゆく薪ストーヴの言葉を読んでいると、このストーヴが象徴しているのはゆらゆら揺れる炎さながら「世間一般の声」であり、「青年」「世一の姉」それぞれの愚かしく哀しいまでの生き方であるような気もしてきた。
以下引用文。薪ストーヴの声は世間の声にも思えてくる。

ついでに
   隙あらば彼の将来をも併せて押し潰そうと企み、

   あげくに
   「こんな女はやめておけ」と忠告し、

   それから
      「結局は前の女のときと同じことだぞ」と脅かしつけてやる。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」51ページ)

以下引用文。青年が背負う薪ストーヴの重みは、これから背負うことになる世一の姉の重みでもある。

男はまったく動じず、

恐ろしく滑り易い急坂を一歩一歩着実に突き進む彼自身は
   再度の失敗をまったく想定しておらず、

   私のみならず
      すでに長いこと暗欝のなかに生きてきた
         ために
            その反動としての幸福に期待し過ぎる
               そんな女までをも背負うつもりだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」52ページ)

以下引用文。世一の姉の青年への思いは、ストーヴの炎にうっとりと見とれる人のものでもある。

片や女はというと
   烟突のみならず      
      ふらつきながら自分の前を行く男の
         なんだか胡散臭い半生を
            ときめきに惑わされて
               まるごと抱えこもうとしている。

薪ストーヴというものに、様々な立場を反映させているようで面白く読んだ。それにしても薪ストーヴを背負って坂道を登るとはすごい。


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さりはま書房徒然日誌2024年5月11日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十日を読む

ー小難しい漢字が入ると文が老人めいてくるー

一月二十日は「私は老衰だ」で始まる。途中まで「老衰」が語る箇所は、「私は懸河の弁を揮って」の「懸河」とか、「後進を誘掖したのも」の「誘掖」など小難しい漢字が出てくる。
ちなみに日本国大辞典で調べれば
「懸河」(けんが)は「弁舌のよどみのないさまのたとえ」
「誘掖」(ゆうえき)は「みちびき助けること。補佐すること」だそうである。
いかにも老人らしい、気難しい表現が続いた後、世一のオオルリが「常に強い心組みで臨むべし」「そのひと言をもって瞑すべし!」と囀ると、老衰は素直な言葉で語り始め退散してしまう。
小難しい漢字を入れると、老人らしくなる……と思った。

鳥の言葉とは到底思えぬ
   気高い勢いに気圧され、

   生きる意味などとうとう得られなかった
      得ようともしなかった
         締まりのない生涯に
            今さらながら気づかされた私としては
               もはや早々に退散するしかなく

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」49ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年5月10日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十九日を読む

ー見方を変えれば「檻」の意味も変わってくるー

一月十九日は「私は檻だ」とまほろ町営動物園の「人間とそうでない物の領域をきっちりと分け隔てる 頑丈この上ない檻」が語る。
檻の中の麒麟の様子を語る文に、キリンの動作やキリンといる時間が思い出されてくる。たしかにキリンなんだけれど、自分ではこう書けないのはなぜなのだろうとも思う。

舞台女優並みの大仰な瞬きを物憂げにつづけて
   ふざけきった形の口をもごもごさせながら
   
   おのれの身の上を決して悲観せず
      時間を時間とも思わずに
         ゆったりとくつろいでいる。


  (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」42ページ)

キリン専用の檻。キリンという動物以外には意味のない檻だし、普通の価値観で考えたら「檻」なんて鬱陶しいものである。その常識を突き破って檻に憧れる世一に、今まで抱いていた価値観がひっくり返される不思議さを感じる。

だが少年世一だけは
   キリンではなく
      この私のことを主役と認めて
         多大な関心を払ってくれ、

         それだけに留まらず
            一度でいいから私の中へ入ってみたいと
               そう真剣に願っているのだ。


  (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」44ページ)

以下引用文。キリンの檻に入りそうになっている世一を見つけた飼育係は背後から抱き止めながら、こう語る。
飼育係にとって檻は檻だし、病の世一の体もまた檻なのである。
何を檻と見なすかで生き方や価値観も変わってくる……と、そっと教えてくれているような気がした。

「それでなくてもおまえは病気に閉じこめられているんだぞ!」と
    そう言ったあと
       「その檻から生きて出られんぞ!」と怒鳴る。


  (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」45ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月9日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十八日を読む

ー書き手と読み手が共有できる色のイメージー

一月十八日は「私は敵意だ」で始まる。「鋼鉄製の反社会的な形状の扉」に向かってぶつけられようとした「敵意」が跳ね返され、そのまま置き去りにされたところで徘徊中の世一と出会う。

以下二つの引用文。色の使い方が印象に残る。意外と色は人によって喚起されるイメージが違うもの……と短歌をつくっていて思うようになった。
でもオオルリの羽のイメージと世一のピュアな心を表しているだろう「青々とした印象の少年」にしても、簡単に「白い」とは言わずに「雪と同じ色の吐息」と表現される白にしても、色からイメージを喚起しつつ、作者の思い描くイメージと読者の描くイメージにズレがないなあと思った。

ところが
   その青々とした印象の少年は付け入る隙がまるでなく
胸のうちに潜りこめる余地もなく、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」41ページ)

だが憐れな病児は
   雪と同じ色の息を吐き散らしながら
      手と足をもつれさせるだけもつれさせ
         却って寂しさを募らせるばかりの街灯を縫って進み、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」41ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年5月8日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十七日を読む

ーありふれた風景を変えてしまう力ー

一月十七日は「私は桟橋だ」で始まる。昨日の「十字路」もよかったが、この箇所も好きな箇所である。私はありふれた日常風景に詩情を感じ、別の意味を感じる心が気になるらしい。
以下引用文も、場面としては湖に突き出た桟橋で不自由な世一が遊んでいる……ただ、それだけの場面である。
だが、そんな風景に次元を超えた世界への憧れを込める作者の視点が好きである。

うたかた湖の南側の岸辺から北の沖へ向かって
   もしかすると来世へと繋がっているかもしれぬ
      是非そうあってほしい
         不必要なまでに長い桟橋だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」34ページ)

以下引用文。桟橋にいる世一はもう不自由な少年ではなく、妖精のように自然と語り戯れる存在である。そんな風に視点を変える力が「千日の瑠璃」の魅力のようにも思う。

危なっかしい足取りで突端まで進み出て
   陶酔の面持ちを深め
      今現在を吹く風の精髄を全身でしっかりと感知し、

      物怖じせずに

         一部の隙もない自説を得々と述べる波音に
            そっと耳を傾ける。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」35ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月7日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十六日を読む

ーありふれた空間が意味をもってくる不思議さー

一月十六日は「私は十字路だ」とまほろ町の中心部にある「なんの取り柄もない 平々凡々たる十字路」が語る。
以下引用文。平凡な道ではあっても、十字路とは思いがけない者同士が出会う不思議な空間であることに気がつく。
現実には、十字路で世一と丸山先生を思わせる作家がばったり出会った……ただ、それだけの場面である。
その風景を散文にすると、こんなふうに意味を持たせ、別の時が流れているように書けるのかと思った。

そんななか
   霧の海を泳ぐようにして
      北の方角から忽然と現れたのは
         あの少年世一で、

         時を同じくして
            南の方から
               黒いむく犬を連れた
                  よんどころない事情で小説家になった
                     いかにも我の強そうな男がやってくる。


そして
   西の通りから〈肯定〉が悠然と近づき
      東の通りから物知り顔の〈否定〉が悠然と迫り、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」31ページ)  

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さりはま書房徒然日誌2024年5月6日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十五日を読む

ー人ではない存在「橇」が語れば子供の遊びもこう見えてくるー

一月十五日は「私は橇だ」と「少年世一を乗せて」走る「安っぽいプラスチック製の橇」が語る。
以下引用文。世一を「この際思いきって変えてしまおう」と橇は思いたつ。
実際には橇に世一がはしゃいでいる場面かと思うが、人間ならざる存在「橇」の視点に寄せて語れば、不自由な筈の世一が超人のように思えてくる。
それは「生きる者に変え」という畳みかけるリズムの繰り返し、
漢字の多い行頭からその漢字のイメージから離れた言葉で行末を終える意外な展開の続き(例「惻隠の情」と「蹴散らす」)
「俯瞰できる者」から「鳥に近づけ」というように上昇してゆくイメージを膨らませているせいなのだろうか。

競争激甚の世をすばしこく生きる者に変え
   降りかかる災難を事前に察知する者に変え
      惻隠の情を蹴散らす者に変え、

      はたまた
         徒手空拳で生きる者に変え
            社会の安寧を乱す者に変え
               まほろ町を俯瞰できる者に変える。

そして世一は
   速度が増すにつれて
      その存在をどこまでも鳥に近づけ、

      私がちょっとした瘤に乗り上げて宙を飛ぶ一瞬などは

         完全に鳥の目で世間を眺めており、

 (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」26ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年5月5日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十一日を読む

ー目には見えない幸運が伝わってくるー

一月十三日は「私は幸運だ」で始まる。
「愚鈍そのものの顔つきの これまで良いことも悪いこともしてこなかった高校生が 生まれて初めて自分の小遣いで買った しかもたった一枚の宝くじ」が、「百万の桁を超えていない」金額で当たった……という幸運が語る。
以下引用文。宝くじが当たった高校生へのまほろ町の人々の反応を、「温かい牛乳のように」と物に即して書いたり、金額も「百万を超えていない」と具体的に書くことで、だんだんその目には見えない幸運が伝わってくるようなところがある。

程良い金額は
   私を健全な形で保ってくれ、

   いくら生きても何ひとつとしていいことがない者たちを
      落胆させることもなく、
         温かい牛乳のように
            かれらの胃袋にすんなりと納まった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」19ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年5月4日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十二日を読む

ー丸山先生が「土蔵」に込めた思いとはー

一月十二日は「私は土蔵だ」と始まり、農家の土蔵が語る。江戸川乱歩とか坪内逍遥とか土蔵を書庫代わりに使い、まだその土蔵が残っている作家もいる。でも丸山先生の場合、土蔵はあくまで生活の風景の一部のようである。たしかオンラインサロンで幼いとき土蔵に暮らしたことがある……などと語っていらしたような記憶もある。
以下引用文の土蔵の描写に、丸山先生の記憶にある土蔵の役割が浮かんでくる。そんな土蔵を見捨ててゆく夫婦の様子も細かいことは書かないながら、収穫したばかりの米を炊いて食べ、蔵の古米を売り……という文に、大変な稲作を愛すれどどうにもならない現状が伝わってくる。

でたらめに過ぎる農政にとことん失望し
   先行きに絶望してまほろ町を離れた農家の
      まだまだ充分使用に耐える
         古びた分だけ風情を醸す土蔵だ。

昨年の暮れ

   老夫婦は秋に収穫したばかりの米を炊いて食べてから
      私が貯蔵していた古米の果てまで売り飛ばし
         先祖伝来の田畑を見捨て、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」14ページ)

以下引用文。そんな家からとうに家を飛び出していた五男が戻ってくる。母屋には目もくれないで、ただ土蔵だけを見つめる……のはなぜなのだろう。
丸山先生が「ただひたすら私のみを見つめた」とだけ書いてある、その背後にある物語を考えてしまう箇所である。書かずして物語を語る……ということもできるのだなと思った。

身ひとつでこっそり帰郷した彼は
   誰もいない母屋にも
      荒れ果てた耕作地にも
         立ち枯れた果樹にも
            四方を囲むカラマツの凄まじい成長にも

               さして驚かず、

                       そんな代物には目もくれないで
ただ私のみを見つめた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」15ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月3日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十一日を読む

ー一つの文に過去から現在、恍惚から恐怖がすっきりおさまっている!ー

一月十一日は「私は秘密だ」で始まる。役場の休憩時間と冬の別荘を利用して逢瀬を重ねる男女の「秘密」が語る。

以下引用文。逢瀬を終えて役場に戻ろうとした二人は、思いもよらず上司の車に遭遇する。

「串刺しにされ」という言葉から緊張感と恐怖が迫ってくる。
「両人の一抹の寂しさが付き纏う粋事がみるみる恐怖に染まり」は、一つの短い文の中に過去から現在、恍惚から恐怖が描かれていて見事だなと思った。
「秘密」自らが、「かくして私は 隠れもない事実と相なり」と変化を語る箇所も、そんなことはありえない筈なのに納得させる不思議な言葉の運びがある。

残念ながら手遅れで
   思わぬ相手の視線に串刺しにされ
      両人の一抹の寂しさが付き纏う粋事がみるみる恐怖に染まり、

かくして私は
         隠れもない事実と相なり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」12ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月2日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十日を読む

ー「洗濯物」とやり取りする少年の自由な心ー

一月十日は「私は洗濯物だ」で始まる。
以下引用文。冬の寒さが厳しい信濃大町にずっと住んでいる丸山先生らしい、実体験あふれる描写だと思う。

マイナス6度の風に吹き晒されたことで
   がちがちに凍りつき、

   却って生々しい形状になってしまった
      丘の上の洗濯物だ。

(丸山健二「千日の瑠璃」6ページ)

以下引用文。「洗濯物」と不自由なところのある世一が交わすやり取りである。
互いに相手の特徴を鋭く突きながらも、お互いに負けずに言い返しているところが何ともユーモラスである。そして洗濯物を相手に自由にやり取りする世一の心がひたすら羨ましくなってくる。

ときおり彼は
   ごわごわに固まっている私を見ながら
      少しは動いたらどうかとという意味のことを言い、

      そこで私は
         少しはじっとしていたらどうかと言い返し、


         病児はなおも食い下がって
            動かない奴は死んだ奴だななどと宣い、

            こっちも引き下がらずに
               動き過ぎる奴も生きているとは言いがたいと
                  そう決めつけてやった。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」8ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月1日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月九日を読む

ー対照的な二つの死ー

「千日の瑠璃」は各話を書き上げたあと、其々の話をどう並べていくか床一面に原稿を広げながら考えた……そんな話をオンラインサロンで丸山先生から伺ったような記憶がある。
天皇の死の後に来るのは、盲目の少女が可愛がって飼っていた黄色い老犬の死である。形ばかり大袈裟な死の儀式、愛犬の死に衝撃を受ける少女……この対比が印象的な配置である。
一月九日は「私は食器だ」と老犬のステンレスの食器が語る。老犬が食器に託した飼い主の少女を思いやるメッセージ、食器を手にする少年世一……ちっぽけな犬用食器に老犬が込めた真心が、不自由な少年にも伝わってゆく。そんな様子が前日の形式的なことに終始する死とは対照的である。

にもかかわらず
   老犬が最後の力を振り絞り
      舌を使って私に記した
この子をどうかよろしくという意味の意志は消えず、

         私を拾い上げてくれた少年の心にも
            正しく伝わり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」5ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月30日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月八日を読む

ーこの一日を記憶している人達の存在ー

一月八日は「私はテレビだ」で始まる。そう言えば、この日のテレビ番組はどれも同じような番組だったのか……。
私はこの日付すら「千日の瑠璃」を読むまで完全に忘れていた。
でも丸山先生と同じように鮮明に一月八日のことを覚えている人から感想をいただいたりした。
この一月八日という日に「なぜ?」という思いを抱え、テレビを、国旗を睨みつけていた人は、丸山先生以外にもしっかりといる……という事実に、あらためて「千日の瑠璃」を読む意義を思う。

天皇の老死がすべてのチャンネルを占領してしまったせいで
   少年世一の家族に愛想尽かしをされた
      とうに買い替えの時期を過ぎていながら
         丘の上の家だからこそ映りのいいテレビだ。

どの局でも
   この日を予期して

      予め用意しておいた特別番組をだらだらと流し、

      間違っても事の核心に触れるような際どい言葉を吐かない
         安全で無難な文化人をスタジオに招き、

         死以上のものと化したそのありふれた死に対して

            元々在りもしない威厳を持たせるための
               露骨で滑稽な装飾的なコメントを

                  延々と並べている。

(丸山健二「千日の瑠璃」398ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年4月29日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月七日を読む

ー旗を睨む作者の姿が見えてくるー

一月七日は「私は国旗だ」と国旗が、しかも「旗竿の先端に黒いリボンを結んで弔意を表し」ている国旗が語る。
「千日の瑠璃」は、ある年を選び、曜日も実際の通りにしているそうである。

突然、弔意をあらわす国旗をあげることになった一月七日。その日にちにしても事実のままである。その日、国旗をあげることになったのはまほろ町だけでなく、日本中の至る所であげられたことだろう。


国旗をめぐる人々の反応の書かれ方も様々で面白い。「朝食も食べず」に家を飛び出して「作法通りに」旗をあげた役場の男。国旗の上げ方に作法なんてあるとは。知らなかった。


「人間ひとりが高齢のせいで寿命が尽きたという それだけのことではないか」と疑問をぶつける若者。


以下引用文。そんな一月七日の様子を見て、丸山先生の耳には国旗がこう語りかけているように本当に思えたのかもしれない。

道行く普通の人々に
   いつの時代であってもおとなしく従ってしまう国民に
      あるいは
         戦争責任を鋭く難詰することなど
            まずもって不可能な連中に対して、

            「謹んで哀悼の意を表せ!」と
                声高に叫んでやった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結」396ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月28日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月六日を読む

ーちっぽけなものを語りながら、大きな存在を忘れない視点にポエジーを感じるー

一月六日は「私は惑星だ」で始まる。「千日の瑠璃」の中でも一段と丸山作品の魅力が表れている箇所だと思う。
ものすごく小さくて猥雑な存在のまほろ町と対をなす「飽くことなく自転と公転をくり返す 水と罪の惑星だ」という大きな存在。小さなものを語りつつ、包み込む大なる存在を決して忘れることがない……という点が丸山文学の魅力の一つだと思う。大小のコントラストとが詩的なイメージを感じさせてくれる。

でこぼこした岩石の表面に
   みずからを省察できないまほろ町を載せて
      飽くことなく自転と公転をくり返す
         水と罪の惑星だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」390ページ)

以下引用文。そんな岩石惑星・地球が世一に語りかける言葉にもやはり同じような魅力がある。
さらに「回る」を繰り返すことで、恒星の動きから世一の駆け回る様子まで同一線上にある動きとして感じられてくる。たとえ片方は分子レベルの動きで、もう片方は星々の回転だとしてもだ。

私が輝ける恒星の周りを回るように
   おまえはきらめく青い鳥を巡って存分に回るがいい、

   私が回れなくなるまで回るように
   おまえもまた回ることができなくなるまで回りつづけるがいい。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」392ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年4月27日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月五日を読む

ー小さなホオジロの死に寄せる思いー

一月五日は「私はホオジロだ」で始まる。季節外れの大雪に見舞われて逃げ場を失ったホオジロが語る。

以下引用文。窓越しに世一に飼われているオオルリの「自然界にはない堕落の餌をついばみ」「夏場の華やかなさえずり」をばら撒いている姿を見ながら、寒さに死んでゆくホオジロの姿と思いを描いている。
自然界の小さな死の尊厳を見つめる丸山先生らしい視線を感じる文である。同時に凍死しようとも野鳥としての自分らしさを保とうとするホオジロに理想を感じているようにも思えてくる。

自分は野鳥としての職務を忠実に果たしてきたのだと
   そうおのれに言い聞かせることで
      死を受け容れようと務め、

そして
   いよいよその段が訪れそうになったとき
      ぬくぬくした生活を送っている青い鳥に
         「それでもおれの方がましだぞ」と
             窓越しに言ってやったが
                まったく通じなかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」389ページ) 

 

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さりはま書房徒然日誌2024年4月26日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月四日を読む

ー厳しい世だから世一の世界を心に抱いてー

一月四日は「私は自動販売機だ」で始まる。あやまち川沿いの街道に立つカップラーメンの自動販売機らしい。
以下引用文。自動販売機が語る馴染みの客・世一の姿は、丸山先生が時々エッセイで語るペットのタイハクオウム、バロン君の「現在という概念しかない」というような言葉で表現されていた姿を思わせる。「時間の概念やら明日の予定やらとはいっさい無縁」という在り方が、丸山先生が理想とされる、でも現実には中々厳しい生き方なのではないだろうか。
でも厳しくなるばかりの世だからこそ、心に世一を住まわせ、ダイハクオウムのバロンくんを思い描いて生きていきたいものである。

かかるところへ
   時間の観念やら明日の予定やらとはいっさい無縁な
      かの少年世一が忽然と現れた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」382ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月25日

丸山健二「千日の瑠璃」十月二十四日を終結版、ネット版で読み比べる

ーネット版では世一の存在感がアップしている気がするー

「千日の瑠璃」は最初1992年に刊行。
2021年に丸山先生がご自分で立ち上げたいぬわし書房からかなり書き改めた形で「終結」として文庫で刊行。
今回ネットバージョンにさらに書き直されnoteで有料公開されている。note版は横書きになったというだけではない。「終結」版と比べながら読むと、丸山先生が書き直した箇所には文を深く、立体的にするコツが詰まっているように思う。

十月二十四日「私はハングライダーだ」で始まる箇所から一部分を見比べてみる。
以下引用文。ハングライダーがいくら憧れたところで鳥にはなれない現実を世一に言い聞かせた後に続く文である。
どちらも同じ箇所だが、背景が緑の箇所は終結版である。

ところが
   私から離れようとしない羨望の塊は
      まったく耳を貸さない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結」96ページ)

以下、背景が水色の箇所は一番新しいネット版である。

ところが
そんな私から離れようとしない羨望に彩られた純なる魂は聞く耳を持たないのです。


丸山健二「千日の瑠璃 ネット版」

世一という体も頭も不自由なところはありながら不思議な魅力をもつ少年を語るのに、「羨望の塊」とだけ語るより、「羨望に彩られた純なる魂」とした方が、世一の魅力がアップする感がある。
さらに「まったく耳を貸さない」だと確かに老人が「耳を貸さない」イメージとも重なってしまうが、「聞く耳を持たないのです」だと子供らしさが出てくる気がする。
いぬわし文庫版、ネット版と見比べて読み、変更のあった箇所を考えてみれば、日本語を深くするコツが少し見えてくる気がする。

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