さりはま書房徒然日誌2024年9月17日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月十四日を読む

ー「調子のいい韻律」という言葉の面白さー

八月十四日は「私はトモロコシだ」で始まる。力仕事を終えた若者が、畑から家畜用の実の少ないトウモロコシを畑からもぎ取ってきて火にくべる場面である。「調子のいい韻律」という言葉が、火の爆ぜる音、若者の骨格の見える痩せた体と重なるようで面白いと思った。

待ちきれない彼は
   まだぱちぱちと爆ぜている生焼けの私にかぶりつき
      さも美味そうにむしゃむしゃと貪りながら、

      かなり傾いたとはいえ
         まだまだ荒くれている夏の太陽を前にして
            皮下脂肪のかけらもない手足や胴や頭に
               調子のいい韻律を与えた。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』72ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月16日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月十一日を読む

ー竜を威嚇する強さー

八月十一日は「私は竜だ」で始まる。「山車の 四本の豪華な柱をぎゅっと締めあげ」る竜が語る。

以下引用文。竜が「傲岸」とまで語る少年世一。世一の天真爛漫さ、他人のとらえる自分の弱さをきっぱり拒絶する強さが心に残る。

近頃では
   「ハッタリはよせ!」などと言って私を威嚇する
       およそ恐れというものを知らぬ子どもさえ現れる始末で、

傲岸にもその少年は
   私のみならず自身の病すら認めようとしないばかりか
      不自由な肉体に付き纏って離れぬ
         深い孤独や疎外感さえも認めていないのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』61頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月14日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月十日を読む

ー老人と傷んだボートー

八月十日は「私は刷毛だ」で始まる。湖で傷んだボートを発見した元大学教授は、刷毛でボートにペンキを塗りつけてゆく。
以下引用文。傷んだボートが「溺死体」にも、「自分が浮いている」ようにも思う元教授がもうこの世から心が去りつつあるのかと思えば、「ボートをあっさり死なせたくない」と思うあたりに、命のしぶとさを思う。

余生を楽しむ振りが大好きな元大学教授は
   そのボートを一週間ほど前に偶然発見し、

見つけた直後は
   なぜか溺死体に思えたと
      そう妻に伝え、

ついで
   誰にも聞こえない声で
      自分が浮いているようにも思えたと
         そうつづけた。

過剰な親近感のせいで
   彼はボートをあっさり死なせたくないと考え、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』54頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月12日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月九日を読む

ーまさに夏の昼下がりー

八月九日は「私は昼下がりだ」で始まる。フェーン現象のせいで暑くなった日の昼下がりが語る。夏の昼下がりとはまさにこんな感じ、気怠さと勢いを増す自然がコントラストを描いて心に残る。

まほろ町をすっぽりと包みこんだ私は
   午睡をする人の数をいつもの倍に増やして
      街道の交通量をいつもの半分に減らし、

ついでに
   底意や小策の数も大幅に少なくしてやり、


そして
   ひたすらきらめくうたかた湖と
      その周辺の屈折した光景を
         さながら油絵のように塗り固め
            押し固めてやり

夏場だけ開店する湖上のレストランを
   夢うつつへと限りなく近づける。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』50頁)


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さりはま書房徒然日誌2024年9月11日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月八日を読む

ー若者の不安と光が一体となってー

八月八日は「私はピラミッドだ」で始まる。少年世一がそれが何なのかも分からず、海外旅行のパンフレットを見たことも忘れ、ただ無心に作り上げたピラミッド。湖畔の砂でできた、少年がよじ登ることのできる大きさである。
以下引用文。湖畔でキャンプする若者たちがピラミッドを眺める様子。
「光と光の僅かな隙間にちらついている さほど明るくない未来」という言葉に、湖畔の風景と若者の不安と希望がないまぜになった心が見える気がする。
「直線的で相対的な私」の「相対的」の意味、何だか受験の国語の問題に出てきそうだけれど、どういう意味なのだろうと考えてしまう。

かれらは
   ひと泳ぎしては浜辺に寝そべって甲羅を干し、

光と光の僅かな隙間にちらついている
   さほど明るくはない未来を垣間見るたびに顔を背け
      不安でいっぱいになった目を
         今度は世一と私に向けるのだ。

そんなかれらはおそらく
   極めて曲線的な動きをする少年が
      直線的で相対的な私を造り上げたことに魅了されており、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』48頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月10日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月五日を読む

ー体験が滲む文ー

八月五日は「私は大鎌だ」で始まる。「食べて眠るだけの生活」にも、「そのときの気分で踊るアドリブのダンス」にも飽きた青年が、新しい職を求めていくなかで出会った下草刈り用の大鎌が語る。
丸山先生の田舎暮らしと作庭の体験から出てくる言葉が、意識してなのか無意識になのか定かではないが、渦巻いているような文だと思った。

たちまちにしてコツを呑みこむと
   同僚の誰にも負けぬ勢いで
      私をブンブン振り回し、

クマザサを薙ぎ払い
   派手な色合いの蛇の頭をすっぱりと刎ね
      小石にぶつかるたびに火花を飛ばし、

そのついでと言ってはなんだが
   思い出したくもない過去と
      汗といっしょに断ち切った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』35頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月9日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月四日を読む

ー母親たちともうひとりの母親のコントラストー

八月四日は「私は日傘だ」で始まる。「うたかた湖の水と光に戯れるわが子を見張る母親たちが差す」日傘が語る。
以下引用文。子供達を眺めながらその未来を案じる母親たち。「日傘」をアンテナ見立てて、心配に乱れる脳波を夏空に拡散したり、日差しが安心させようとする声が伝わってくる様子が、どこか漫画チックで面白い場面だと思った。

そして
   心配が募るたびに乱れる脳波は
      さながらラジオの電波のように
         この私をアンテナ代わりにして
            焦げ臭い夏空へと野放図に拡散し、

すると
   強烈な日差しが
      やはり私を通して
         「心配するに及ばない」を
             くり返し説くのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』31頁)

以下引用文。最後に世一の母親が通り過ぎる様子が出てくる。日傘を差した母親たちの様子が漫画チックに書かれている分、障害のある世一を育てる母親の現在の姿が強烈なコントラストとなって迫ってくる。

すでにして母親の立場に飽き飽きした年配の女は
   私の方など見向きもせず、

   それでも丘を半分登ったところで
      なぜか急に足を止めてこっちを振り返り
         大はしゃぎをする子らの甲高い声にじっと聞き入って
            おのが少女時代の夏が
               まさにそこに在ることを実感する。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』33頁)

 

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さりはま書房徒然日誌2024年9月8日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月三日を読む

ーラジオ体操に罪はないけれどー

八月三日は「私はラジオ体操だ」で始まる。ラジオ体操は、自分の周りに集まってくる人々の背後にある国家の狙いを鋭く見つめる。ラジオ体操はともかく、今の学校教育はまさにそうであろうと思う。
ただ狙いは「現人神の影にひれ伏せさせるため」なのだろうか?
戦前、現人神が戦争をすることでやってきた荒稼ぎを、今度は現人神抜きで自分達がやってやる……という輩が跋扈しているような今の世、「強欲な現人神の真似をしている者たち」なのかもしれない。

健康な者と不健康な者を厳しく選り分けて
   後者を疎外し
      前者には連携と服従の精神を植え付ける
         そんな魂胆の私は、


物事をあまり深く考えないで集まってくる
   能天気な人々に暗示を掛け、

月並みな終わり方をしそうな
   そして
      それをよしとする生涯を
         いざという段には
            喜んで国家に捧げるように仕向ける。


つまり
   遠いように見えながらも
      実際には目睫に迫っている
         現人神の影にひれ伏せさせるための基礎訓練を
            今から積ませており、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』26頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月7日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月二日を読む
ーどちらも真実ー

八月二日は「私は紅炎だ」で始まる。太陽の「紅炎」(こうえん)が語る。

以下引用文。「紅炎」が世一とオオルリに向けて送る声援。相反するメッセージが響き合って、自然とこの世にある生の意味が何の矛盾もなく心にストンと落ちてくる。

存りのままでいいという
   そのままでいけないという
      そんな背理の見解を込めた
         熱い声援を送りつづける。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』23頁)

以下引用文。世一の父親に「おれの代わりにどんどん燃えてくれ おれは燃えることができんのだ!」と喚き散らかされると、宇宙の様子までもが変化してゆく。世一の父親の絶望がどこかユーモラスに書かれている。
紅炎の世一とオオルリへの矛盾した思い。宇宙を歪める世一の父親の絶望。どちらもこの世の真実なのだなあと思う。

ところでこの箇所は、引用箇所以外は難しい、初めて知る漢字が結構多かった。なぜなのだろう。引用しても、変換が難しいかも……という安易な理由でやめてしまったが。

その途端
   辺り一帯に異様な悲壮感が漂い始め、

汲み尽くしがたいはずの
   無限説が濃厚の大宇宙が
      たちまちにして下降と凋落の世界に成り下がってゆくように思え、

加速度的に膨張の一途を辿っていた空間のそこかしこに
   ひび割れが生じてゆくように感じられ
      存在の意味を問う声すら押し潰されそうになって
         私は慌てて勢いを増す。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』25頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月6日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月一日を読む

ー意外なイメージ同士がピッタリー

八月一日は「私は静寂だ」で始まる。暴力団らしきメンバーの葬式が行われたまほろ町。警官や人々の緊張もほぐれつつある様子を、町に戻りつつある「静寂」が物語る。

以下引用文。元に戻りつつある町に意外にも不満そうにしている人々。ふらら歩きながら、その聲を耳にして真似する世一。「不満の言葉や不毛の言葉」のイメージと「散歩中のハリネズミよろしくぶつぶつ呟き」というイメージが、かけ離れたものなのにピッタリする表現の不思議さを感じた。

そんな病児は
   町のあちこちで耳にした
      不満の言葉や不毛の言葉を
         散歩中のハリネズミよろしくぶつぶつ呟きながら、

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』21頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月5日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月二十八日を読む

ー抽象的なものを語り手にする効果ー

七月二十八日は「私は救済だ」で始まる。世一の飼い鳥のオオルリが「神に入るさえずりの妙技で遠回しに示す かなりの気高さを秘めた」救済が語る。
以下引用文。救済が叫べど、まほろ町の人々の反応は冷ややか。
「救済」という抽象的なものを語り手にすると、作者の素顔がストレートに出てくる感じがした。
他の人の視点に降り立って、その人の一人称で語るときは作者はあまり見えないものだけれど。
作者自身の考えをストレートに、でも若干弱めて伝えるには「救済」という抽象的な語り手もいいのかもしれない……などと考えた。

けれども
   そうしたかれらのそうした冷ややかな反応こそが
      実は私が最もこいねがうところのものであり、

ひっきょう
   私の詭弁に酔い痴れ
      私が授けるお情けにすがっているあいだは
         ぐずぐずになった精神世界が救われることなど

            絶対にあり得ない話で、

かれらを救えるのは
   かれら自身を措いておらず、

神仏なんぞは論外であって
   頼ったその段階で
      魂は即死を迎えてしまう。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』5頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月4日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月二十五日を読む

ー帰還兵の心の闇ー

七月二十五日は「私は熱風だ」で始まる。丸山作品は地名が素敵で、よくある平凡な町の風景が地名のおかげで幻想的な世界に思えてくる。

私は熱風だ、

   あやまち川を遡り
      うたかた湖を渡ってもけっして冷えないどころか
         却って勢いづいてしまう
            かなり世慣れた熱風だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』390頁)

以下引用文。帰還兵の心の闇を描いて戦争の悲惨を訴えてくる丸山作品の中にあって、この老人は少し異質な気がする。でも戦争に至る心の闇が誰にでもあると仄めかしているのかもしれない。

おのれの軍装の写真を唯一の心の拠り所にして
   小心翼々として七十五年を生きてきた老人が
      床に安臥して間もなく
         その命をついに全うする。

大往生の部類に属す死者は
   戦争のために南方で残害した無辜の民を思い出しても
      もはや良心の呵責を覚えることがなく、

      さりとて
         一時期は現人神とまで崇めた天皇と同じ年に死ねることを
            さほど誇りに思ったりもせず、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』392頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月3日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月二十四日を読む

ー目の見えない少女に天の川を説明するとー


七月二十四日は「私は天の川だ」で始まる。うたかた湖のボートの上で、父親が盲目の娘に「天の川」を説明しようとしている。

以下引用文。「天の川」が自ら語る自分の姿である。醜いもの、清らかなもののコントラストが印象的な文である。

倦怠のまほろ町の爛れた夜空を横切り
   けっして世を厭うことのない盲目の少女の
      いつも静かな胸のうちをよぎる
         幻想としての天の川だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』386頁)

以下引用文。盲目の娘に天の川とはどんなものか……と必死に説明する父親、それに対する少女の反応である。自分が父親の立場ならどう説明するだろうと考えてしまった。宇宙の底知れぬ怖さを語らないのは父親の思いやりなのだろうか。

星とはつまり
   天に咲く花のようなものだと
      そう説明し、

すると少女は
   いい匂いがして
      ふんわりしたものが流れている
         大きな川なのかと訊き返す。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』387頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月2日

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月二十三日を読む

ー世一への思いー

七月二十三日は「私は記事だ」で始まる。まほろ町に数十年ぶりに発生した殺人事件の記事が語る。
組員と一緒に記事の写真に写り込んでいた世一をこう語る。「反社会的な存在」「存在することの恐怖」「社会通念を愚弄」という言葉に、丸山先生が世一に託した想いを感じる。
意図せずして、そういう存在になり得る世一は丸山先生にとって理想的な存在なのかもしれない。

それにしてもたまたま写された少年は
   当事者である組員本人よりも
      なぜかは知らぬが
         反社会的な存在に成り得て
            存在することの恐怖を物語り、

少なくともこの私にはそう思えてならず
   要するに彼は
      不自由な肢体のすべてを用いて
         社会通念を愚弄している。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』385頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月1日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月十六日を読む

ー「夏」が語る戦後日本ー

七月十六日は「私は夏だ」で始まる。
敗戦時に責任をうやむやにして問うべき責任をきっちり問わず、曖昧なままスタートした日本の戦後がいよいよ崩壊しかけているような昨今、思わず目にとまった文である。ただ「屈辱」と言うよりは、「愚かさ」やら「身の錆」やらの方が、私の心情的にはしっくりくる気がする。

そして私は
   無条件降伏という屈辱を戦勝国に押しつけられたせいで
      今もって民主主義のなんたるかを理解していない
         身の程知らずのこの小国を、
            永久に振り捨てられそうにない
               島国根性と共に
                  すっぽりと覆う。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』

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さりはま書房徒然日誌2024年8月31日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月十四日を読む

ー「魂に汗して生きる」という表現、心に残るー

七月十四日は「私は積乱雲だ」で始まる。まほろ町のいろんな住民を観察し見守る積乱雲は、丸山先生そのもののような気がする。積乱雲が語る世一の「魂に汗して生きる」「最高にして最低の存在」の姿も、清々しいような、哀しいような存在である。人の世を見つめる積乱雲の束の間の存在が心に残る。

そして
   この世を見極めることにかけては
      今や入神の域に達しつつあるかもしれぬ
         魂に汗して生きつづける
            最高にして最低の存在たる
               少年世一。


私はそんなかれらのひとりひとりに
   じっくりと見入り
      そして魅入っており、


なぜならば
   全員にそれだけの存在価値が
      充分過ぎるほど具わっているからで、


かれらを認め
   かれらの至高至純の魂の震動によって膨張しながら
      いつもの夏を
         いつもの現世を構成してゆく。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』349頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年8月30日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月十三日を読む

ー思いがけないイメージの方が心に残るものー

七月十三日は「私は荒涼だ」で始まる。この箇所は意外性に満ちていたので心に残る。
以下引用文。私は杏が好きだが、「可愛い」というイメージのある杏の枯れ木に「荒涼」を見出すという展開に、思わずどんな木の残骸なのだろうと考えてしまう。

もう何年も前に雷火に焼かれ
   さらに落石によって幹を真っぷたつに裂かれて
      とうとう枯れてしまった杏の大木に宿る
         ごくありふれた荒涼だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』

以下引用文。丸山先生らしい作家が出てくる。だが杏の枯れ木に宿る荒涼に怖じ気づいて逃げ帰ってしまう……という意外さに、どんな荒涼なのだろうと考えてしまう。

すらすら繋がるイメージよりも、思いがけないイメージの方が考えさせるものだと思った。

物好きにもわざわざ私に会いにやってきた
   ときにはおのれ自身を虫けら扱いしたがる小説家もまた
      私をひと目見るなり
         犬を連れてこなかったことを後悔し

核心に迫る言葉を発見するどころか
   尻尾を巻いて逃げ帰り、


あとには
   筆禍を招きそうな文章の二つ三つを
      置き去りにし、

一般の気受けがあまりよろしくなく
   とかく風評のある彼の背中に
      私は悪態の連打を浴びせる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』343頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月29日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月十一日を読む

ー悲惨と隣り合わせだからこその慈愛ー

七月十一日は「私は慈愛だ」で始まる。孵卵器で孵ったばかりのアヒルの雛に童女が注ぐ慈愛が語る。

前半の慈愛に満ちた世界の穏やかさ。後半のその穏やかさが「知らない方がいいことを知らずにいて、 ために 底なしの無邪気さが保たれている」という事実。このコントラストを皮肉をまじえないで、真摯に見つめる視線に「この世とは……?」と思わず考えてしまう。

以下引用文。童女の慈愛の世界。

ここには
   手遅れで策の施しようがないことなどひとつだってありはしないし、
      それにまた
         華奢を極めた生活にはどうしても抜け落ちてしまいがちな
            質素な暮らしのなかにこそ宿る
               温かい条件がすべて用意されている。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』335頁)

以下引用文。

童女からさほど離れていない場所では、母親が手慣れた手つきで雄の雛を「ぐらぐらと煮え滾る熱湯のなかへ無造作に投げこんでいる」
また医師免許を失った元医師が「母親になりたくない女が宿した子を 密かに始末している」

そんな現実を知らないからこそ、慈愛は「崩壊を免れ」「全体を意味し」「生きるに値する何かを 有している」
ひどい現実と隣り合わせだから、慈愛の存在は強いのだなあと思うけど、「知らずに済んでいて」だからかどうか……慈愛はそんなにやわなものではない気もする。

幸いにも知らずに済んでいて
   だからこその天国の気配に満ち、

   崩壊を免れている私は
      この世の一部でありながら
         全体を意味し、

         生きるに値する何かを
            有している。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』337頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月28日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月九日を読む

ーふと見える作者の素顔ー

七月九日は「私は浮きだ」で始まる。
「効果抜群の 夜釣り用の浮き」が語る鯉釣りをしている男。若い頃、やはり夜に鯉釣りをしていた……という丸山先生ならではの、対象への同化が感じられる。
「おのれの気配を消して闇に成りきり あるいは水に成りきって」という言葉も、体験から語っているのだなあと作者の素顔が感じられる。
それにしても鯉釣りに「他の時間は死んだも同然」とまで思うものなんだろうか……と釣りを全くしない私は不思議に思いつつ、そうなんだろうなと納得させる迫力がある。

丈夫一点張りの鯉釣り用の竿を握る男は
   おのれの気配を消して闇に成りきり
      あるいは水に成りきって
         ひと晩に一度あるかなしかの
            ときめきの嵐をひたすら待っている。

狩猟本能に直結した感動が
   さながら電流のごとく全身を駆け巡るあの一瞬のために
      彼は過酷なこの世を生きており、

      つまり
         他の時間は死んだも同然ということになり、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』326ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月27日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月八日を読む

ー足音に想いを宿してー

七月八日は「私は足音だ」で始まる。「疲労困憊して帰宅した少年世一」が階段を登って行く足音に、風邪で伏せっている母親は耳を傾ける。

以下引用文。階段を登って行く足音に、母親は「長男の孤独の深さを今さら思い知り」と世一の孤独に思いを寄せる。ふだんは世一を見ないようにしている母親が、ふと情味を取り戻すようでハッとする一瞬である。その衝撃が「 わが子に見切りをつけて久しい事実を  突如として再認識」させる様に、ふだん世俗にまみれて生きているお母さんに、自分の内面を見つめさせる世一の力を思う。

おのれが辿った五十数年をそっと抱き締めながら
   私に耳をそばだて、

   そして
      長男の孤独の深さを今さら思い知り
少なからず衝撃を受け、

         併せて
                  わが子に見切りをつけて久しい事実を

                      突如として再認識し
愕然となり、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』322ページ) 

以下引用文。最後の部分。雨音に孤独を募らせてゆく母親の心、「私は消え失せる」という静かな諦念に満ちた終わり方が心に残る。

丘を駆け下る水の音がさらに強まって
   世一の母の耳を塞ぎ
      ついでに心までも塞いでしまい、

      彼女は毛布にひしと抱きつき
         世一は鳥籠にしがみつき
            そして私は消え失せる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』325ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年8月26日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月七日を読む

ー少し視点を変えたら世界が新鮮ー

七月七日は「私はバスタオルだ」で始まる。
「まだ新しい ずば抜けた吸湿性の 黄色いバスタオル」が語る。

以下引用文。「綺麗に」「聞き古した」「投げやりな気分で」とタオルの目線になって丸山先生が語っているのが面白い。いつもは人間目線でタオルを見ている私としては、少し世界がひっくり返った感じになる。

きのうと同じように
   私はシャワーの滴を綺麗に吸い取り
      聞き古した自問自答をどこか投げやりな気分で吸い取り、

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』318頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月22日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月五日を読む

ー転換の鮮やかさー

七月五日は「私は雨音だ」で始まる。
以下引用文。このあと、雨の陰惨さが人々に及ぼす影響が雨音が打ちつけるように幾つも列挙される。だが最後にオオルリが登場して、負の光景から陽に変えるところが鮮やかだなあと思う。

すでにして二十時間余りも間断なくつづき
   まほろ町の人々の胸にぶつぶつと穴を開ける
      無情にして有害な雨音だ。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』310頁)

以下引用文。「私の意のままにならず」と雨に嘆かせるオオルリが登場する場面である。生と死が隣り合わせているような囀りが聞こえてきそうである。

この私が
   まほろ町の隅々に沁みこませる陰の力を
      悉く吸い取って陽の力に変換し、

なんと
   生を死に見立ててしまうほどの
      華麗なさえずりを
         惜しげもなくばら撒く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』312頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月21日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月一日を読む

ー不自由、自由を象徴するものー

七月一日は「私は雲だ」で始まる。「まほろ町立病院のベッドに横たわった患者たちが 各々自分しか見ていないものと思いこんで仰いでいる」雲が語る。
以下引用文。入院患者が眺める雲ではじまって、「自由の利かない」世一の体の動きを「のろのろと」「倦怠に塗りこめられた」と表現しながら視点が移る。
そのあと、「小さなつむじ風」に「羽音によく似た風音」「各病室の窓を軽く叩いて回る」と動きを託す。
やがて世一が羽ばたく動作をしてみせたことで、雲まで届くつむじ風が発生する……。
不自由から自由へ……という流れを、病院のベッドの患者の視界、世一の動き、つむじ風、竜巻に象徴した書き方が心に残る。

私とはすでにして相識の間柄にある少年世一が
   病院の外壁を掌で触れて楽しむしかない
      あまりに自由の利かない体を持て余しながら
         のろのろと世間の外れを横切って行き、

倦怠に塗りこめられたその間に
   小さなつむじ風が生じて
      羽音によく似た風音が
         各病室の窓を軽く叩いて回る。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』296頁)

そうした快活な声が集まったところで
   世一はだしぬけに羽ばたきの動作に転じ、

そのせいかどうか
   ほとんど同時に新たなつむじ風が発生し、

みるみる勢いを増して
   ほとんど竜巻の様相を呈し
      私のところまで届いてしまう。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』297頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月20日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月三十日を読む

ー世の人が振り向きもしないところに美は宿るー

六月三十日は「私は色彩だ」で始まる。「花屋の裏手のゴミ捨て場に まったくもって無作為にちりばめられている 頽廃的にして幻想的な色彩」が語る。
「現代美術の最先端を走っている」というゴミの描写も、本当に現代美術の展示会さながらで読んでいて楽しい。
以下引用文。「難病の反動によるものか 殊のほか色感豊かな少年」である世一は、ゴミの美を完全なものにしようと夢中になるが合点がどうしてもゆかない。ゴミの「色彩」が説明するその理由が、なんとも思いがけない。
世の人が見ようともしないところに、美を感じとる眼差しが心に響く。

それでも納得がゆかないのか
   しまいには私のなかでのた打ち回り始めたというのに
      まだまだ不満の様子で、

尤も作品としての自分に言わせてもらえば
   彼はおのれを色のひとつとして見ることを忘れており、

飛び入り参加してくれたおかげで
   非の打ちどころがない美に到達できたのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』203頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月19日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十八日を読む

ー弱い存在に光をあててー

六月二十八日は「私は嗅覚だ」で始まる。「光を知らぬおかげで闇を知らなくて済む盲目の少女」の嗅覚が語る。

以下引用文。「千日の瑠璃」には人間に対する容赦ない視点もあるけれど、一方で盲目の少女や少年世一という本来なら救い難い存在に、「根拠なき希望」「晴れやかな微笑」と希望の光をたっぷり見い出しているところが魅力のように思う。

私は大抵の物ならばほぼ正確に捉えることが可能で
   たとえば
      こっちへ向かって吹いてくる潮風と
         その切ない風を受けてやってくる少年世一を捉え、

彼がもっと接近すると
   その胸をいっぱいに轟かせている
      根拠なき希望をも捉えることができ、

さらには
   満面を覆う
      晴れやかな微笑をも捉えられる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』282頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月18日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十七日を読む

ー骨太な幻想文学でもある丸山作品ー

六月二十七日は「私は亡霊だ」で始まる。うたかた湖で釣りをしながら息絶えた世一の祖父が亡霊となって、朝早く一家が朝食をとっている場に現われる。
丸山作品の「亡霊」は、もう一つの世界とこちら側の世界がクロスした瞬間に現われる存在に思える。亡霊が訴えているのは不気味さではない。生のエネルギーがより純化された形で、もう一つの世界から映し出されている気がする。
意外と丸山作品は、幽霊とか不思議な存在が出てくる幻想文学でありながら、骨太さゆえ大半の幻想文学ファンからスルーされているのが惜しい気がする。

ようやく騒ぎ始めた生者にかまわず
   私は燦然たる光の中を通り抜けて
      崖っぷちの揺らぎ岩のところまで進み出ると
         真下に広がるうたかた湖をまじまじと見つめ
            そうしているとなんだか釣りがしたくなり
               思わず知らず竿を振る仕種をくり返した。


高々と跳ねる巨鯉がはっきりと見え
   やや遅れて届いた水音を感知したとき
      私は戸口に茫然と佇んでいる四人の方をおもむろに振り返り、

主として世一に向かって手を振り
   それから
      壮大な動きで渦を巻き始めた光に溶けて消えた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』281頁)  

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さりはま書房徒然日誌2024年8月17日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十六日を読む

ーくつろぎにあふれているのは?ー


六月二十六日は「私はくつろぎだ」で始まる。旅館で養生中の骨折した娼婦の感じる「くつろぎ」が語る。

以下引用文。本当に「くつろぎ」が感じられる文なのはなぜ?と考えてしまう。
「きのう」や「あした」という時間を表す言葉が平仮名なのは、丸山作品によく見られる特徴だ。
丸山先生の好みなのかもしれないが、この場合、「きのう」「あした」と平仮名にすることで時間の観念が消えて、のんびりした感じになってくる。

私も「きのう」「あした」と平仮名感覚で、更にのんびりモードで生きていきたい。

生来の楽天家である彼女は
   きのうまでのあれこれを
      どうでもいい夢のようにして忘れ去り、

      あしたを気に病むこともなく
         よく冷えたビールのなかへ
            いささかくたびれた自意識を大胆に解き放つ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』275頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月16日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十三日を読む

=抽象的な世界から具体的な世界へ、万華鏡の変化ー

六月二十三日は「私は万華鏡だ」で始まる。
以下引用文。少年・世一がオオルリの抜けた羽やら混ぜて作ったお手製の万華鏡が、世一に見せてやる世界。最初はどこか抽象的な、救い難い世界が示される。

来世の門辺に茫然と佇んで
   さっぱり要領を得ない返事を反復するばかりの
      八百万の無能な神々と、

徒にうろたえて騒ぎ立てるしか能がない
   無様にして憐れな人間どもと、

簇生する筍のごとく逞しい日々の
   予測を許さぬ前途と、


果てしない闘争と逃走の連鎖でしかない
   意味不明の世界を垣間見せてやった。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』263頁)

以下引用文。これまでの抽象的な世界とは真逆の、具体的な事象を万華鏡は見せはじめる。いくつか文が並んでいるが、後半を引用。抽象的な世界から具体性を帯びた世界へ……万華鏡の見え方にはそういう感じがあるのかもしれない。

世界崩壊が迫ってきていることをずばりと予言する
   両性具有の占い師と、

その他多くの人畜が抱えこんでいる
   どうしようもない苦悩のあれこれを、

なんとも鮮やかに
   そしてグロテスクに形象化してみせた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』264頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月15日

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十二日を読む

ー絶望の闇ー

六月二十二日は「私は暗がりだ」で始まる。
以下引用文。「暗がり」にこめられた悲しみに、そこがもうこの世ではない気すらしてくる。

誤って人を轢き殺したことがある女
   そんな彼女が好んで佇む
      街灯と街灯の死角に生じる
         ありきたりな暗がりだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』258頁

以下引用文。深夜に徘徊する妻、その姿を見守る夫。妻の絶望感、やりきれない悲しみが伝わってくる。
同時に「電柱十本分くらい」という表現が入ることで、妻の歩く風景がリアルなものに思えてくる。
でも「電柱十本くらい」とはっきり言いながら、同時に曖昧でもあるイメージを用いることで、悲しみがふつふつと感じられてくる。

自宅から電柱十本分くらいの距離を俯き加減にてくてくと歩く妻の目は
   どこまでも虚ろで
      ほとんど何もみておらず、

果たしてそこがどこであるのか
   そうやっている自身がいったい誰であるのかという
      常識的な認識すら怪しく、

のみならず
   生の原動力の大半が
      すでにして溶解しているのでは……。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』259頁)

ただ最後、世一にぶつかって女が無様な格好をとるとき、急に場面が生き生きと明るくなるのが不思議である。

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さりはま書房徒然日誌2024年8月14日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十一日を読む

ー難しい言葉だけでない魅力ー

六月二十一日は「私は麦だ」と国に「米はもう充分だ これ以上作っても腐らせてしまうだけだ」と言われて「やむなく育てられた麦」が語る。

以下引用文。

麦の上に身を横たえた世一と麦の間に交わされる会話。
どこか童話めいたやり取りが心に残る。
世間から「難しい、難しい」と思われがちな丸山先生の作品ではあるが、こうした大人のための童話とも言えるやり取りに魅力の一つがあるように思う。決して難しい言葉ばかりではないのでは?

異様なまでに研ぎ澄まされた感性を
   そっくりそのまま委ね、

   湖の力を借りて
      米ではないおのれを恥じよと言い、

      それに対して
         猿ではないおのれを恥じよと
            そう言い返す。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』257頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月13日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月十八日を読む

ー二つの色に込められた思いー

六月十八日は「私は梅雨だ」で始まる。
以下引用文。土蔵にこもって暮らす青年が雨の動きを真似して踊り始め、体の不自由な少年・世一も一緒に踊りだす。
「銀色」「瑠璃色」という二つの色に、青年と世一が象徴されるようで、その心やこれまでが鮮やかに浮かんでくる。
「愉悦の流れに乗せ」「虚無を吹き飛ばして」「秩序整然たる宇宙に穴をあけ」「世界は果てしない苦悶の連鎖であるという説を押しこんでしまい」という言葉を読んでいると、自分の狭い基準とは違うところで回転しているこの世の歌が聞こえてくるように思えてくる。

〈雨〉を踊る彼の魂は銀色に染まり
   あとからやってきて参加した病児の
      踊りと呼ぶには壮絶に過ぎる踊りは
         瑠璃色に輝いて私を愉悦の流れに乗せ
            大地に充満する虚無を吹き飛ばして
               この世との同化作用を促進させる。
 

若者と少年の自由奔放な踊りは
   どこまでも生命的な神々を彷彿とさせて
      秩序整然たる宇宙に穴をあけ
         世界は果てしない苦悶の連鎖であるという説を押しこんでしまい、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』245頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月11日(日)

人生初の製本体験!

本づくり協会のワークショップに参加、角背上製本を作ってみました!

( ↑ あちこちアラだらけで恥ずかしいのですが、私の人生初製本です)

本づくり協会の製本ワークショップに参加。人生初の製本体験をしてきました。製本は手間もかかるし、時間もかかるし、ちょっとした力加減で歪んだりするし……初めて製本屋さんのご苦労を知りました。
でも出来はともかく、ばらばらの紙が自分の手で本になっていく過程は楽しいし、不器用ながら無心になれるひとときを満喫。
これもスタッフを複数配置して、細やかに指導してくれた本づくり協会のおかげと感謝しています。

本づくり協会は、手製本を得意とする製本会社の美篶堂(みすずどう)さんが中心になって、活版印刷の嘉瑞工房、出版社ゆめある舎、出版社ビーナイスの四社で運営されている団体のようです。
本づくり協会、美篶堂さんの事務所は、長野県伊那市、それから東京の二ヶ所にあります。東京事務所は飯田橋駅から徒歩8分くらいのところにあります。

今日の製本講座は、東京の本づくりHOUSEでの参加組、リモートでの参加組が同時に受講しました。現地参加組には、こういうキットと製本道具やノリ、ボンドが用意されています。

↑今日用意して頂いた材料。こうした材料と定規、カッター、ヘラ、下敷き、重しなどがあれば、出来はともかくハードカバーの本が自分で作れる!ということが嬉しい発見でした。

↑本文の用紙45枚を黙々と折り続け、ついにラスト一枚に。

↑上の写真は『美篶堂とつくる美しい手製本 本づくりの教科書 12のレッスン』14頁からです。紙を折るにしてもこんなに細やかに折るとは!知りませんでした。私の折った山の写真からは、この丁寧さが伝わらないので引用させて頂きました。

↑見返し用の茶色い紙も二つ折りにして本文をはさんで……

↓だんだん記憶も曖昧模糊に。見返しをボンドで貼り、栞をはさみ、花布、寒冷紗を貼って……と進行していったような。

↑花布を半分に切って、天と地にひっかけ……
寒冷紗を貼って

↓表紙をくるむ作業に

↓溝を指で押してつけ、竹ひご2本輪ゴムで留め、上から重石をのせて……

この他、細かな作業もたくさんありましたが、ざっと流れを思い出してメモしました。写真を見ると、我ながら何て雑な作業をしていたのか……と呆れてしまいますが。

でも、こうしてハードカバーの本が出来るなんて不思議だし、製本は書くのと同じ位にえらく手前のかかることなんだなあと、初めて製本屋さんの苦労を知り、とても勉強になりました。

出来はともかく、頼めばとても高くなるハードカバーも、自分でちまちま作れば材料費と製本キットだけで出来る!、いつか神保町PASSAGEの私の棚に、中身、装丁ともにこの世に数冊だけの自家製本を並べられたら……と能天気に思います。

美篶堂さんの製本講座はとても丁寧で、リモートの方々も私よりも早く作業されていました。これからも興味深い講座が続々とあるようですよ!

https://shop.honzukuri.org/

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さりはま書房徒然日誌2024年8月10日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月十五日を読む

ー選別される鯉に人間を重ねてー

六月十五日は「私は稚魚だ」で始まる。錦鯉の稚魚が世一の叔父と世一を語る。

以下引用文。

稚魚の選別をする男もまた「社会や国家によって 実にむごたらしい選別を受けてきた」という視点の冷徹さ。その見方を支えるような「魂はすでに絶命しているのかも」という情け容赦ない言葉に、自分のことを言われているようでグサリとくる。

そんな叔父とは対照的な世一の「生者の中の生者」という言葉に救われるようで、ふと考えさせられるものがある。

思うに
   見る影もない姿の彼自身もまた
      これまで幾度となく
         社会や国家によって
            実にむごたらしい選別を受けてきた。

彼はまだ死んでおらず
   ともあれ生きてはいても
      その魂はすでにして絶命しているのかもしれず、

しかしそんな叔父を訪ねてきた甥はというと
   判断の基準が非常に難しく
      ひょっとすると
         生者のなかの生者であるのかもしれないのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』233頁)
   

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さりはま書房徒然日誌2024年8月9日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月十四日を読む

ー何を踏んで生きている?ー

六月十四日は「私は足の裏だ」で始まる。「芝生を踏んでひた走りに走る 死ぬことを忘れたとしか思えぬ」老人の足の裏が、これまで踏んできた十五の風景を語る。
途中から世一の足の裏が踏んでいるものが四つ語られる。
老人の足の裏が踏むのは、シビアなこの世。世一の足の裏が踏むのは、人間の精神の素晴らしさ、不思議さに思え、このコントラストがわずか4ページに凝縮されている。
以下引用文。老人の足の裏が踏んできたもの。

陰に陽に力になってくれた友からの真情の籠もった手紙を踏んだことがあり
   夜な夜な怪火が飛び交う湿地帯の草を踏んだことがあり
      処女地に鍬を入れるために北の大地を踏んだことがあり、

そして私は
   痛感する時弊と
      少しも変わらぬ性根を踏みつづけ、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』227頁)

以下引用文。世一の足の裏が踏んできた世界。
私は誰に踏まれ、何を踏んで生きているのだろう……と思った。

世一のそれが踏みつけているのは
   放恣な想像力から生まれたとおぼしき
      底なしに素晴らしい夢のあれこれであり、

もしくは
   この世におけるいっさいが非現実的であるとする
      永遠の暗示であり、

さもなくば
   運命の浮沈などものともせぬ
      不滅の言葉であり、

はたまた
   おのれの何者なるかを知らずに
      がむしゃらに生きることの
         素晴らしさである。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』228頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月8日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月十二日を読む

ー「馬」を語る文ののびやかさー

六月十二日は「私は馬だ」で始まる。うたかた湖の近くで飼い主に捨てられた乗馬用の馬が語る。
以下引用文。丸山先生の書く馬の姿は、どの作品でも実に気持ちよさそうな雰囲気がある。この捨てられた馬にしても、「波打際」「冷たくて甘みのある水」「柔らかくて香りのいい青草」という言葉から浮かんでくるのは、のんびりと生を味わっている姿である。

人気はなく
   聞こえるのは鳥のさえずりと羽音のみで、

   少しばかり落着きを取り戻したところで
      私は波打際をまで行き
         冷たくて仄かな甘みがある水を飲み、

         それから
            岸辺に生えている柔らかくて香りのいい青草を
               しみじみと味わいながら食んだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』219頁)

以下引用文。捨てられることで馬が獲得した自由も、「突風になびく草にも似た動きをする少年」と語られている世一の姿も、やはり自由そのもので心に刻み付けられる。

要するに
   まだおのれが置かれた状況や立場を充分に理解しておらず、
      行き先についてもはや誰の示教を仰がなくていいこと
         今後の展開の万事がわが方寸に在ること
            それを知らず、

            知ろうともしないまま
               角を曲がったところで
                  突風になびく草にも似た動きをする少年と
                     ばったり出くわし、
                     その刹那
                        運命的な出会いを直感した。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』220頁)   

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さりはま書房徒然日誌2024年8月7日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月十一日を読む

ー重い文やら軽やかな文やらー

六月十一日は「私は笑声だ」と、「気立ての優しい盲目の少女 彼女のバラ色の唇から迸る 屈託のない 透明な笑声」が語る。
笑い声が届く様々な人々の、重苦しい其々の生。その直後に描かれる少女の笑声の軽やかさ、純真さが対照的。このコントラストが鮮やかだなあと思う。

以下引用文。少女の笑声は様々な人々に届く。私はどれにあたるのだろうか……と思わず探してしまう。

長年連れ添った夫の顔を顔を見忘れるほど惚けた者も
   どこまでも生命的なる存在として神を崇めたてまつる者も
      世界は果てしない罪悪の連鎖であるとする者も、
         不満の鬱憤はらしを探している者も、


はたまた
   年甲斐もなく修羅を燃やす者も
      耐乏生活を送っている者も
         知友を亡くして間もない者も
            皆一様に相好を崩す。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』215ページ)

以下引用文。少女の笑声が届いた人々の重苦しい描写とは一転、不自由ではあっても軽やかな少女の様子が心に残る。

上天気のきょう
   少女は初めて湖へ入ることを許され、

   波と波にゆすぶられる白砂に両足をくすぐられた彼女は
      母親の方を振り返って笑い
         水しぶきを跳ね上げて駆け回る白い犬に笑い、


         そして私は
            程良い風に乗ってはるか遠くへ散ってゆく。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』216ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月6日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月八日を読む

ー葡萄酒が曝け出す元教授のねじくれた心ー

六月八日は「私は葡萄酒だ」で始まる。湖畔の別荘地に住む元大学教授によって、ボートからロープに結えられ湖の水で冷やされた葡萄酒が語る。

以下引用文。葡萄酒はボートに引き上げられ、グラスに注がれ、元大学教授にちびちび飲まれ始める。
葡萄酒を湖の水で冷やすという山国らしい風景が一転するのは、葡萄酒が元教授のちっぽけな存在を語りだすあたりから。元教授の心に巣食う偏見を暴いていく……という静かなる葡萄酒の反乱に心惹かれる。

その間
   ボートは波と風のまにまに漂い
      彼の余生もまた然りというわけだ。

博聞で通っている彼のような者にとって
   私は単なる酒ではなく、

つまり
   アルコール分のほかに
      知性やら情熱やら文化やら歴史やらまでもが溶けこんでいると
         そう信じており、


確信することによって
   日本酒にはそうしたものが
      ほんの僅かしか含まれていないと
         勝手に決めつける。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』201頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月5日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月七日を読む
ー小さな鳥にも母性が宿るー

六月七日は「私は巣だ」と「キジバトの巣」が語る。

以下引用文。キジバトの巣を覗きんだ少年・世一に、キジバトの母鳥は毅然として向かい合う。
小さい鳥ながら母親らしく得体の知れない世一に対峙しようとする心が、「気丈に」「逃げ出そうとはせず」「きっと睨みつけ」「嘴で突いてやろうと身構え」という言葉の端々に現れている。
母鳥の緊迫感が「するとどうだ」で一転して和らげられ、世一が真似るオオルリの囀りと共に消えて心が軽くなる。

「巣」という小さな存在が語る母鳥の大きな愛情が心に残る。

それでも母親は気丈に振舞い
   間違っても逃げ出そうとはせず
      得体の知れぬ相手をきっと睨みつけ、

もし手出しをしようものなら
   視点の定まらぬ目玉を
      嘴で突いてやろうと身構え、

するとどうだ
   なんと少年は
      「なるようにしかならんぞ」という
          一端の口を利き
             オオルリのさえずりを真似た。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』201頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月4日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月六日を読む

ーコーラに象徴されるものー

六月六日は「私は空き缶だ」で始まる。

以下引用文。「下請けのまた下請けの町工場へ働きに出かけた青年」のやるせなさ、夏の無情が一気に伝わってくる文である。

私は空き缶だ、

   飲み干されると同時に
      ひたすら夏へ向かって突き進む太陽めがけて
         思いきり投げつけられた
            コーラの空き缶だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』194頁)

以下引用文。コーラは資本の象徴なのだろうか。そう思うと、コーラを放ったときの下請けで働く青年の憎悪、コーラが青年の胃袋で揺れている様子、そしてアスファルトを転がっていく様子が切ない。

されど
   資本の力と同様
      この世を支配する重力には到底逆らえず、

      早くも溶けかかっているアスファルトの路面に落下して
         からからと転がり、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』196頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月3日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結1』六月五日を読む

ー様々なピースに娼婦の人生を重ねてー

六月五日は「私はタバコだ」と娼婦がくわえるタバコが語る。

以下引用文。吐き出されるタバコの煙に娼婦の人生を重ね、「擦り切れた畳の面」や「秋を待つシクラメン」という言葉にも娼婦の人生が重なるようである。煙が夕闇に呑みこまれ、春の憂いに人間愛を重ねる文も、少し疲れた娼婦に人間性を見出そうとする視点と重なる気がする。

話し相手がいなくなったことで
   娼婦はたちまち私に興味を失くし
      亀をかたどったガラスの灰皿にぽいと投げ棄て、

口のなかの煙といっしょに
   法律の裏をかいて生き抜くための虚勢のかけらと
      どこかに刻みつけられている
         浸しがたい気品をそっと吐き出す。

そしてそれは

   擦り切れた畳みの面を滑って
      縁側から庭へと降り、

 地面に移植されて気長に秋を待つシクラメンのかたわらを通り
    いかにも恵み深そうな雰囲気を醸しているうたかた湖が生み出す
       夕闇に呑みこまれてゆき、


       どこまでも切ない春の憂いが
          真っ当な人間愛のごとく濃厚になる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結』192頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月30日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月四日を読む
ー童話的な世界ー

六月四日は「私は春月だ」で始まる。「春月」だけが知る「まほろ町に厭な出来事がひとつもなく」という珍しい日。
以下引用文。そんな稀なる日を語る「春月」の口調には、どこか童話めいたものがある。『千日の瑠璃』は大人のための童話なのかもしれない、と読んでいて思うときがよくある。なかなかこんな風に過ごし難いのが人間なのかもしれないが、心に刻んでおきたい言葉である。

まほろ町に住する人々は皆
   休日のきょう一日
      それぞれ分に応じた暮らしを送り、

      身知らずな考えを持たず
         無計画な行動に走らず
            この世に存することの意義を裏切らず、

            そしてそのことをよしとして
               いつもより多く笑った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』189頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月29日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月三日を読む

ー野のオオルリ対籠のオオルリー

六月三日は「私はオオルリだ」で始まる。「野に生きるオオルリ」が世一に飼われる「籠のなかのオオルリ」に攻撃を仕掛ける。
以下引用文。世一の住む丘が気に入った野のオオルリは、丘を明け渡すように世一のオオルリに迫って囀る。
結局、野のオオルリはこんな捨て台詞を吐きながら退いてゆく。
野のオオルリの言葉ももっともだ。
言い返す世一のオオルリの強さは生意気だけど、確かに「鳥を超越した存在」に思えてくる。

人間の庇護の元に育ち
   牝と番うことも子孫を残すこともなく
      ただ生きて死んでゆくだけのそいつは
         自分は鳥を超越した存在なのだから
            同類扱いは迷惑千万だと言い放ち、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』185頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月28日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月一日を読む

ー世一の心とはほど遠いところにー

六月一日は「私は緑野だ」で始まる。
以下引用文。
世一の眼前に広がる「緑野」。
その「緑野」を眺める世一の心。
両者の心持ちとは遠いところにいる自分自身に気がつく。私は「それがどうしたなどと憎まれ口を叩く鳥」なのだなあと思い、ふと悲しみを覚える。

私にしても
   はたまた世一にしても
      ひたすら自分自身でしかあり得ないものを探し求め、

      偽りの生を本物の生から区別し
         真理に至る近道を通り
            幸運の星に恵まれたものと思いこみ
               美しい時代をくぐり抜けているものと信じこみ、

               だからこそ
                  おのれの寿命を数えたりせず、

                  それがどうしたなどと
                     憎まれ口を叩く鳥は
                        一羽もいない。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』177頁)  

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さりはま書房徒然日誌2024年7月27日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月三十日を読む

ー燃やされるブナの声ー

五月三十日は「私はブナだ」で始まる。
丸山先生を思わせる「いくら住んでもまほろ町に馴染めず さりとてほかの町へ移り住む気にもなれない」作家が、山からブナの若木を庭に移植しようとする。
でも上手くいかない。
五月に落葉樹のブナを移植するには無理があるのかもしれない。
枯れてしまったブナは引き抜かれ、「狙い通りの文章に組み立てられなかった原稿を燃やすための 耐火レンガ製の焼却炉へ投げ入れ」られてしまう。
そんなブナの最後の声を、丸山先生の内なる声のようにも思いながら読んだ。

灰と化してゆく途中で私は
   火が爆ぜる音を利用して
      そんな彼に説論を加えてやり、

      だらだらと読み継がれる
         安直な国民的な作品よりも
            百年後二百年後に日の目を当たるような
画期的にして先鋭的な作品を物するようにと言い、

               とはいえ
                  果たして心耳に届いたかどうかは定かではない。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』169ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月26日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十九日

ー詩情とは縁遠い存在が詩情を帯びてくるー

五月二十九日は「私はネオンサインだ」で始まる。
以下引用文。こういう詩的とは言い難いものに語らせる……というところが好きである。

まほろ町では最も古く
   最も毒々しい色合いの光を単調な間合いで点滅させている
      パチンコ店のネオンサインだ。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』162ページ)

以下引用文。パチンコ店の主人はヤクザ者にからまれつつも、きっぱりとはねのける。主人とヤクザ者のやり取りが、ネオンサインの模様に反映されているような書き方も面白い。
また詩情に欠けているかに思えたネオンサインが最後「青い鳥そっくりに」という展開も意外で心に残る。

すると私は
   どんどん赤色を失ってゆき
      ついには青い鳥そっくりになった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』165ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月25日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十八日を読む

ーシビアな語りも「地力」が語れば穏やかに聞こえてくるー

五月二十八日は「私は地力だ」で始まる。「土中に含まれる酵素も酸素も飽和狀態に達し 水分も程良く保たれ」た地力とは、作庭にこだわる丸山先生らしい表現だと思いつつ読む。

以下引用文。そんな地力のある土がありながら、世一の父親はかつて夢中だった家庭菜園はもちろん、花の種すら播こうとしない。
そんな父親の人生を「地力」は以下引用文のように分析する。よくある人間像だが、もし「地力」でなく作者自身が語る形をとれば、あまりの辛辣さに耐えられなくなってしまうかもしれない。「地力」だからこそ、シビアな声もどこか遠くから響いてくるような気がする。

日ごとに老いている彼のその目には
   すでに夢のかけらさえ宿っておらず、

   貫き通すほどの素志も
      遂げなくてはならぬ本望も
         これといった趣味も持たなかった男は、

         この分だと
            晩年を根拠なき失意のうちに送る羽目になるやもしれない。

ほかの人々と同様
   本来はあらゆる可能性を秘めていたはずなのに
      いつしか地方公務員の枠内にちんまりと納まり返ってしまい、

      希望の目を育てることを放棄して
         あたらべんべんと
            徒に時をやり過ごし、



(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』160ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年7月24日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十七日を読む

ー戦後間もない風景だろうかー

五月二十四日は「私は缶切りだ」で始まる。まほろ町に流れてきた物乞いは旧式の缶切りに紐をつけて胸からぶら下げ、世一と言葉を交わしたりしている。
以下引用文。丸山先生が戦後間もない時代に目にした風景なのでは……?
もしかしたら男は帰還兵……?
もしかかしたら「この世にいるはずもない幼い弟と妹」とは、戦災で亡くなったのでは……?
そんな気がしてくるほど哀切さがある文である。

結局は全部食べてしまうくせに
   なぜか中身をきっちりと三等分し、

   もはやこの世にいるはずもない幼い弟と妹に向かって
      「さあ、みんなで食おうか」と呼び掛け、

   そう言いながら
      まずひとり分を平らげ、

      「なんだ食べないのか、勿体ない」と言って
          もうひとり分に手をつけ、

          残りのひとり分を
             通りかかった世一を呼び止めて
                無理やり食べさせた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』156頁)

以下引用文。「心の缶詰を次々に開け」という文に、かつての幸せを思い出しては浸っている男の様子が浮かび、切々とした思いが込み上げてくる。

また独りになると
   私を用いて心の缶詰を次々に開け
      懐かし過ぎる幸福の時代を
         ゆっくり味わうのであった。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』157頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月23日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十六日を読む

ー矢の様子から色んな思いが伝わってくるー

五月二十六日は「私は矢だ」で始まる。
以下引用文。「天に向かって票と放たれ」た矢は地上のあらゆる姿を観察しながら天に向かうが、やがて力尽きて田舎町まほろ町に落下してしまう。
町への軽蔑の念が「腹立たしい限りの」という言葉に出ているようでもあり……。
「ぐさりと」という言葉から復讐をしたいとでも言いたげな「矢」の思いが迸るようでもあり……。
「ぶるぶるっと」から着地した様子が伝わってくるようにも、人の世界への嫌悪感が伝わってくるようにも思えるのである。

陰険な覚悟を固めないことには生きてゆけそうにない
   腹立たしい限りの惑星の面に
      ぐさりと突き刺さって
         ぶるぶるっと震える。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結』153ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月22日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十三日を読む

ーどこか童話的な世界ー

五月二十三日は「私は雷だ」で始まる。
以下引用文。不自由な少年・世一が住む丘に狙いをつけた雷だが、予想に反してオオルリも、世一もただならぬ喜び様となる。
世一とオオルリの雷に喜ぶ様子を読んでいると、「千日の瑠璃」はどこか童話めいたところもあるように思えてくる。

普通ならば間違いなく火の手が上がるはずなのに
   意外にもそうはならず、
      しかも
         その家で飼っているオオルリなどは
            却って喜悦のさえずりを発して
               声の調子を一段と高め、

               飼い主の少年に至っては
                  私に向かって手を振る始末だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』139頁)
        

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さりはま書房徒然日誌2024年7月21日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十二日を読む

ー生命の律動感ー

五月二十二日は「私は小魚だ」で始まる。「うたかた湖の純白の浜に」打ち上げられた「満身創痍の小魚」が語る。

以下引用文。不自由な少年・世一が瀕死の小魚を拾い上げて、仲良しの盲目の少女の手にのせる。「小魚」というものだと母親に教えられた少女が感覚器官を使って生命を探る姿、応えるような小魚の「ぴちっと」という動き、その動きに「あっ」と叫ぶ少女……どれも生命というものの律動感が読んでいる者の心にもありありと伝わってくる気がする。

好奇心まる出しの少女は
   人差し指を
      つづいて鼻を
         しまいには耳まで使って
            私を把握しようと努め、

            そんな彼女のために
               私は最後の力を振り絞って
                  尾鰭をぴちっと動かしてやった。


「あっ」と小さく叫ぶ少女の顔いっぱいに
    紛うことなき幸福がみるみる広がって、

    そのとき少年は
       事切れることを素早く察知して
          私を湖へ投げ、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』136頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月20日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十一日を読む

ー喪失の予感ー

五月二十一日は「私は友情だ」で始まる。身体の不自由な少年・世一と彼が可愛がって世話をしているオオルリとの間に芽生える友情が語る。

以下引用文。オオルリに夢中になっている世一の無邪気さ、天真爛漫さに微笑みかけている心に「互いに相手を失った際の深刻さについて理解が及ばず」という言葉が、なんとも不吉な、悲しい展開を仄めかす。

そんな風に思ってシュンとしてしまった読み手の心に、オオルリの思い描く様々な生き物の姿は一際悲しく、囀りが沁みるように響きわたる。

けれども
   当のかれらはまだ私に気づいておらず、

   ために
      互いに相手を失った際の深刻さについて理解が及ばず、


    きょうのオオルリは
       乱伐によって荒れ果ててしまった遠くの山々と
          供応のために小さな集落の片隅で絞殺された家禽、

          自由の大敵たる国家の片棒を担ぐおのれを嘆く男と
             テンの奇襲を受けてまる齧りされているマムシ、


             日々の営みが
                理由なき行為の連続でしかないという疑いを
                   どうしても拭いきれない学生、

                   そうした生き物を想い描いて
                      頻りにさえずる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』133頁)  

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さりはま書房徒然日誌2024年7月19日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3五月二十日を読む

ー倒影を眺めるとき、知らない自分と会話しているかもー

五月二十日は「私は倒影だ」で始まる。「倒影」の方が「実像では絶対に識別不可能なものまで くっきり表現している」という文が心に残る。
そういえば倒影を見るとき、影と対話している気分になることがあるかもしれない……倒影を眺めることは、知らない自分や世界に目を配ることなのかもしれない。

鳥の羽毛一枚
   草一本
      アブラムシ一匹
         花粉一個に至るまで精確に映し出し、

         そして
            元大学教授の徒爾に終わるかもしれぬ一生をも正しく映し、


         しかも
            実像では絶対に識別不可能なものまでも
               くっきりと表現している。

くだらないことで朝っぱらから夫婦喧嘩してしまった苦々しさ
   この世にいつまでも存することの苛立ちと哀しみ、


   この歳まで生きてこられたことへの感慨
      学者としてもう少しなんとかなったはずだという後悔、

      果ては
         不遇の鬱憤晴らしもできない惨めさ、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』127頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月18日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』

ーよいっちゃんの存在感ー

五月十九日は「私はギプスだ」で始まる。「娼婦の折れた二の腕の骨を固定し 併せて 彼女の心をも安定させている 霊験あらたかなるギプス」が語る。

以下引用文。丸山先生にしては珍しくこの箇所は会話が多い。中でも、この娼婦が発する言葉「よいっちゃんに会いたい」は、不自由なはずの世一への信頼が迸るようで心に残る。

苛立ちが限界に達したところで
   「よいっちゃんに会いたい」などと
       まったくもって理解不可能な願いを口走った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』125頁)

以下引用文。やくざ者の青年が娼婦のために世一を連れてくる。だが世一の関心は娼婦からすぐに逸れていく。娼婦のことをすぐ忘れ、モンシロチョウを追いかけてゆく姿に世一の天真爛漫さを思う。

黙って縁側から離れると
   モンシロチョウの乱舞に見とれて
      それを追いかけ
         どこかへ行ってしまった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』125頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月17日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月十七日を読む

ー世一という存在にある美ー

五月十六日は「私はリコーダーだ」で始まる。下校中の小学生が吹き鳴らすリコーダーにも「この先ずっと彼を救うことになるやもしれぬ 癒しの調べ」と随分言葉を尽くして語っている。

だが以下引用文。世一が吹き鳴らす口笛には、そうしたリコーダーの音色の描写を凌駕するものがある……。「無意味な痙攣は 魂そのものの振動」という箇所に、丸山先生が不自由な体の世一の魂にこそ美の存在を見い出しているんだという気力を感じた

見るからに危なっかしい足取りで
   平然と街道を横切って行く
      病児が吹く口笛には到底敵わない。

要するにその口笛には
   いかにへたくそであっても
      至高の生の精髄が込められており、

      全身の無意味な痙攣は
         魂そのものの震動を鮮やかに表象しているのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』

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さりはま書房徒然日誌2024年7月16日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月十四日を読む

ーこの世ならぬ雰囲気へー

五月十四日は「私は午睡だ」で始まる。人生がうまくいかず、うつせみ山の竹林の草庵にこもる老人がむさぼる午睡が語る。

以下引用文。彼、すなわち体の不自由な少年世一が午睡中の老人と私(午睡)に気がついて近寄ってくる。
そして鼾の真似をすると「老体にずっしりとのしかかって 私ですらどうにもできなかった重荷が たちまち崩壊」する。
そんなあり得ないようなことも、うっすら目を開けて鼾の真似をする世一の無邪気な様子やら竹林の神秘めいた描写に、読み手も思わず納得して「この世ならぬ雰囲気」へと一緒に進んでゆく気がする。

ほどなく彼は濡れ縁の年寄りに気づき
   ほとんど同時に私にも気づいて好奇心が刺激され
      ふらふら近づいてくると
         何を思ったのか
            その隣にそっと体を横たえて
               うっすらと目を開けたまま
                  鼾の真似を始める。

すると
   どうだ、

   老体にずっしりとのしかかって
      私ですらどうにもできなかった重荷が
         たちまち崩壊し、

         少年の鼾や竹の葉擦れの音によって
            もしかするとあの世とやらへ運び去られそうな
               そんな気配が濃厚になり
                  付近一帯にこの世ならぬ雰囲気が漂い始める。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』105頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月16日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月十三日を読む

ー世一の悲しみー

五月十三日は「私は丘陵だ」で始まる。「丘陵」が見つめる少年世一はいつもと違って体の揺れもなく、微動だにしない。

以下引用文。やがて丘陵は世一の心の悲しみに気がつく。

最初の「世一は〈無〉それ自体を眼中に納め 〈虚〉を表象して止まぬ震え声を微かに発しており」という文から、悲しみが抽象的な画像となって浮かんでくる。

風の「だしぬけに甦った 幼心にも悲しい記憶」という言葉から、「静かに去って行く」姿から、世一の悲しみがひしひしと伝わってくる。

素手で足元に穴を掘る世一の姿にも悲しみが溢れそうである。

「いっしょに投げこみ 土をかぶせて埋め戻し」の悔しさ、やりきれなさに波立つのはうたかた湖の湖面か、それとも私の心なのか……。

世一は〈無〉それ自体を眼中に納め
   〈虚〉を表象して止まぬ震え声を微かに発しており、

   打ち見たところ
      何やら事情がありそうで、

         そこで私は
            当人を避けて
               いったいどうしたのかと
                  風に訊いてみる。


すると風は
   だしぬけに甦った
      幼心にも悲しい記憶に
         ああして耐えているのだと
            そう答えて
               静かに去って行く。


耐えるだけ耐えた世一は
   やがて素手で足元に穴を掘り、

   ついでその穴に
      母親が確かに吐いた「あの子はもう駄目よ」と
         父親が口癖のように呟いた「駄目なものは駄目さ」という言葉を

            いっしょに投げこみ
               土をかぶせて埋め戻し、

               そんな彼の悲痛な叫びが私にこだまして

                  うたかた湖が一面に波立つ。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』101ページ)  


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さりはま書房徒然日誌2024年7月14日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二日を読む

ー丸山先生がそっと作品に挿入する己の姿ー

五月二日は「私は才能だ」で始まる。自分の家に火をつけたがる子どもは、親を含めすべての大人たちから見放されている。そんな子供に備わった「天賦の才能」が語り主である。
以下引用文。そんな放火しようとする子供に「ライターよりペンを持つべきだ」三度くり返して止めに入る小説家は、黒いむく犬と言い、じろじろ観察するところと言い、メモ帳にすぐメモするところと言い、「質を高めようと奮闘する」ところと言い、丸山先生そのものではないか。丸山先生が語るご自身の姿に思わず微笑ましくなってしまった。

スクーターに熊の仔そっくりな黒いむく犬を乗せてひたすら走り回り
   まほろ町の隅から隅までを無礼千万な眼差しでじろじろと観察し
      何かに気づくたびにメモ帳を取り出して記載する男、



売れないことを承知で物した著書をよしとしながらも
   もっと質を高めようと奮闘する
      さほど文学好きとは思えぬ小説家が
         まさにそれだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』57頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月13日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月一日を読む

ー粒子にロマンを感じてー

昨日に続けて「私は粒子だ」で始まる五月一日について。
以下引用文2箇所。粒子の無機的な動きに感情を重ね、この世の在り方、人間の運命について想いを馳せる文を読んでいるうちに、「粒子」という感情のない存在から叙情が響いてくる。
その旋律に耳を傾けていると、自分のいる普段の世界が別の空間に思えてくる……。
『千日の瑠璃』の中でも好きな箇所である。

思えば私は若い頃、フランシス・ポンジュの詩とか、無機質な対象を書く詩が好きだった。その名残が今もあるのかもしれない。

私は粒子だ、

   その辺のどこにでも無限に存在して
      現れたり滅したりをくり返しながら
         気随気ままに飛び交っている
            落ち着きのない原子核を成す粒子だ。


我ながら惚れ惚れするほど美しい放物線を描いたり
   有頂天になるほど完璧な渦をもたらしたりしながら
      何処からともなくやってきては
         また何処へともなく去って行く私は、

光と闇の配分が絶妙な
   整然たるこの宇宙をしかと組成する源であり
      重力及び時の流れを制御する支配層であり
         存在の存在たる所以を解く唯一の鍵である。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』50ページ) 

動くことこそが私の本質であり
   核心であり
      創造主に課せられた使命そのものであり、

絶え間ない動きは
   大小さまざまな変化を生み出し、

      
   変化は誕生と死滅を差し招き、

   生と死は互いに申し合わせ
      手を取り合って
         回転運動に興じる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』52ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月12日

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月一日を読む

ー違う次元から眺めているような美しさー

五月一日は「私は粒子だ」で始まる。「粒子」の視点というのは、丸山先生の素に近いものがあるのだろうか?この箇所は、ひときわ心に残る文がある。明日に分けて見ていきたい。
以下引用文。「粒子」の語るまほろ町は「因果律のいっさいを余すところなく抱えこむ」、少年世一は「麻痺した脳に幾千億個もの恒星の輝きをちりばめている」、オオルリは「魂の形状そのものとしか思えぬ」であり、違う次元から眺めているような美しさが感じられる。

そこへもってきて私は
   四方を青い山々に囲繞されてはいても
      現世のすべての物象や現象
         それに因果律のいっさいを余すところなく抱えこむまほろ町や、


眺望が利き過ぎる片丘のてっぺんに住んで
   麻痺した脳に幾千億個もの恒星の輝きをちりばめている
      難病によって未来への扉を閉ざされた少年世一や、


そんな病児と奇しき出会いでもって固く結ばれた
   魂の形状そのものとしか思えぬ
      一羽の若いオオルリをも
         しっかりと形成している。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』51頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月11日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』四月二十九日を読む

ー「時と共に直進する」ー

四月二十八日は「私はカラマツ林だ」で始まる。
以下引用文。カラマツ林の下で元大学教授夫妻は子供たちの四十年前を思い出すうちに、回想に耐えられなくなってしまう

やがて夫妻は
   回想の重さに気づき
      それに耐えられなくなって
         私から離れて行ってしまった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』45頁)

以下引用文。元大学教授夫妻が過去にとらわれ、その重みに耐えられなくなっている姿とは対照的に、世一には過去もなければ、未来もなく、動物のように現在だけを生きている。時の感じ方の違いも、そういう様子を「現在と共に直進する」と表現しているところも面白い。

ほどなくして今度は
   振り返ることも
      先を見ることもしないで
         現在と共に直進する
            青尽くめの病児が訪れた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』45頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月10日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』四月二十七日を読む

ー言葉ならではの心の発酵過程ー

四月二十七日は「私はモクレンだ」で始まる。「一本の木に白と紫の両方の色を半々に咲かせた」「派手なのか地味なのかよくわからないモクレン」が語る。
以下引用文。モクレンのもとに冬の間咲き続けたシクラメンを休めようとする娼婦、寂れた宿・三光鳥の女将が写真を撮ろうとしたところに世一も割り込んで、二人の女たちと共に笑い転げながなら写真を撮る……という一瞬である。
映像であれば一瞬で終わってしまう場面である。でも不幸であるはずの三人が笑っている……という事実に、「幸せとは?」と考え、「無罪を勝ち取る」という言葉に罪深く思える者たちへの肯定を読み取り、そうこうしているうちに「現世の嘆きから瞬時に解き放たれ」という文に読んでいる側も自由が見えてくる気がする。

今日、故人の写真から生前の動きや表情を再生するAIを搭載したアプリの、死者の再生動画の投稿をたまたま目にした。若くして亡くなったお母さんの写真からの再生ということで、再生した方ご自身もお母さんに再会して感動、その動画を見た大多数の人も肯定的なコメントを寄せていた。

 でも……嬉しい気持ちは分かるのだが、本物の母でなくアプリが再生した母親に感動してよいものだろうかとも思った。
 そしてアプリによる再生が感動を与える時代、文章による表現は益々厳しいものになって大半は討ち死にしてしまうだろう。
 作家による表現、それを脳内に喚起して愉しむ読者……という関係、アプリが再生する画像を楽しむユーザー……とでは根本から反応が違うのかもしれない。以下の引用文が心に引き起こす反応を振り返ったとき、そう思えてきた。
 アプリ再生画像は誰の心でも揺さぶることが可能である。そう仕向けることが実に簡単である。
 でも文章による再生は、書く方も、読む方も、鍛錬しないと難しい。でもその分、脳と脳が絡み合って思いがけない方向に展開してゆく面白さがあるのだと思う。

そんな三人の底抜けの明るさに釣られたのか
   当分のあいだ花を付けないシクラメンが笑い
      今を盛りと咲き誇る私もついつい笑ってしまい、

      要するに私たちは皆
         挙って束の間の幸福に浸っており、

たとえ造物主と言えども
   その歴然たる事実は否定できないはずで、


      シャッターが切られるまでのあいだに
         春の光によって公平な裁きを受け
            全員揃って無罪を勝ち取り、

カシャッという小気味のいい音によって
   現世の嘆きから瞬時に解き放たれ、

   まほろ町の生きとし生けるものすべてが
      歓談に時を忘れて
         きらきらと輝き、


         この世に存する意義が
            急浮上してくる。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』37頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月9日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結3」四月二十五日を読む

ー世一という不条理ー

四月二十五日は「私はエプロンだ」で始まる。「母親の立場にようやく慣れてきた女の」エプロンが語る。

以下引用文。母親のエプロンをつかむ幼い双子たちがそっくりであることに、世一は興味をいだき「嬉々としてなおも迫ってくる」
そうした世一に幼い双子たちが感じる「この世にあることの不条理」……そうした不条理を冷静に、目を逸らすことなく見つめるところが、丸山作品の魅力のひとつかもしれない。

生まれて初めてそうした異形の同類を目の当たりにした
   ほとんど瓜ふたつの一卵性双生児は
      たじろぎ
         怯えて
            萎縮し、

            それから
               なんとも形容しがたい複雑な気持ちのなかで
                  この世に在ることの不条理を
                     早くも体験したのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』27ページ)

以下引用文。最初、世一に優しい対応をしていた母親も、そのうち目で追い払うようになり、やがて世一が自分のエプロンで青鼻をかんでいることに気がつくと、「怒り心頭に発して少年を思いきり突き飛ばし」てしまう。
そんな母親の激変を目にした双子たちも、「純なる瞳をたちまち濁らせてゆく」……という終わり方に、人間の心がいかに折れやすいか、その変化が子供達にどう影響してゆくか……丸山先生は客観的に書きながら、そうした人間に哀しみを感じているようにも思えた。

そんな挙に出た彼女に仰天した双子は
   あまりのことに泣き叫ぶことを忘れ、

   茫然自失の体へと移行したかと思うと
      その純なる瞳をたちまち濁らせてゆく。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』29ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月8日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』四月二十三日を読む

ー流されるタイヤの自由ー

四月二十三日は「私はタイヤだ」と、大型トラックの荷台から振り落とされてしまったタイヤが語る。
以下引用文。タイヤが転がってゆく疾走感、暴れ回る感じが面白いなと読んだ。

運転手は気づかぬまま走り去り
   思いきって世間へと飛び出して行った私は
      土手の斜面を一気に駆け下り、

      さらにその下へとつづく坂道をごろごろと転がって
         熟しかけている夜の奥へと分け入り、

         まほろ町という名の片田舎へ突入して暴れこみ
            過酷にも程がある現実の障壁を
               次々にぶち破って行く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』18ページ)

タイヤはまほろ町の住人たちを観察しながら進んでゆく。
以下引用文。世一を避けて通ろうとした気遣いが仇となって、調子を崩したタイヤはやがて欄干にぶつかって川へと転落してゆく。

タイヤが流されてゆく有り様に、自由を重ねて思う視点が丸山先生らしいと思って読んだ。

いずれは大河へと通じる川へ転落した私は
   大量の水しぶきや自暴自棄の心を飛び散らせて
      ゆるやかな流れに乗って遠い海をめざし、

      自由な存在とは
         要するにこんな立場なのかもしれないと
            そんな思いを強めながらどんどん下って行く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』21頁

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さりはま書房徒然日誌2024年7月7日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』四月二十二日を読む

ー生と死ー

四月二十二日は「私は墓地だ」で始まる。「裏の崖が崩れて以来 訪れる者がぱったりと絶え、ために 埋葬された死者たちと共に忘れ去られようとしている 山中の墓地」が語る。

以下引用文。なじみである世一がやってくるが、墓地はその顔に厭な思いをさせられたような痕跡を認める。
それでも墓地を歩き回るうちに、世一が見た「希望にきらめく四月の彼方」が心に残る。
その直後、足元に見たむき出しになった白骨という展開も、生と死というこの世のあり方を告げているようである。
ちなみに丸山先生の幼い頃、大町のあたりは当然ながら土葬だったようで、土から掘り起こされる白骨の思い出を丸山先生が語っていた記憶がある。「希望にきらめく四月の彼方」と「人骨を一本」という世界は、実際に目にした記憶なのかもしれない。

大きく波打つ五体を持て余しながらも
   希望にきらめく四月の彼方を見やり、

   その目を足元に落とした拍子に
      人骨を一本発見し、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』16頁)

以下引用文。白骨を一本振り回してみせる世一も、もしかしたら丸山先生が実際に目にした少年の姿なのかもしれない。
そうした光景を語る文の、「勇ましく咬みつく」世一の姿も、「この世はこんなものだ」と諭しにかかる墓地の諦めも、ともに丸山先生の思いを重ねているから心に響くのかもしれないと思う。

青々と輝く無辺際の宇宙そのものに
   勇ましく咬みつく彼の思弁は、

   一方においては正しくもあり
      他方においては的外れでもあった。

そこで私は
   「こんなものだ」と言ってやり
      「どうせこの世はこんなものだ」といい重ね、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』16頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月6日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結3」四月二十一日を読む

ー観察が文に発酵するとー

四月二十一日は「私は牛だ」で始まる。

以下引用文。丸山先生は通行人とか電車で隣り合わせた行きずりの人をよく観察して文にすると言われていた。
多分、次

の場面もどこか不自由なところのある少年が飼い牛のそばに近づき、その乳房をしゃぶるという場面を実際に目にしたのでは?
だが、ただ描写するにとどまらず、少年が求めるもの、少年が与えたものを作家が考え、言葉にしてゆく過程に面白さを感じる。

少年はその都度乳をせがみ
   むげに断るわけにもゆかないので
      一滴たりとも出ない乳房をしゃぶらせてやり、

      つまりはこういうことで
         私は彼が所望する愛に似て非なるものを与え
            先方はこっちのなかに溜まりに溜まった
               退嬰やら倦怠やらを
                  余さず吸い取ってくれたのだ。


思いなしか
   その病児の体の震えが和らいだかのように見えることもあった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結3」13ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年7月5日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』

ー世一の不思議な力ー

四月二十日は「私は路地裏だ」で始まる。一つの独立した童話のような趣があって、とても好きな箇所である。

神仏のたぐいと肩を並べるほどの勢いの太陽が
   まほろ町の上空に差し掛かってもなお
      ひたすら隠に籠もりつづける路地裏だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』6頁)

そんな路地裏を通過するとき、世一は「なぜか足音を立てず 口笛をも吹かず 訳のわからない独り言を吐いたりもしない。」

以下引用文。通り過ぎる世一に路地裏はこう諭す。

ここは
   生きることを諦め
      さりとて死ぬに死ねない者だけが
         ひっそりと固まって暮らす場所だと


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』7頁)

以下引用文。
路地裏の諭す言葉を聞いた世一はしばし無言になったあと、「遣りきれないため息を残してひっそりと立ち去り」。
だが、そのため息が次第に変化して、人々に働きかける力に変化してゆく。その有様が抽象的な言葉を使っているのに、目に見える不思議さがある。

その微かな余韻は
   ほどなく
      実に生々しい質感を伴って
         波紋状の広がりを見せ、
 
         やがて
            押しも押されもしない
               堂々たる弁駁と化し、

               そこかしこで
                  大きな渦を巻く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』8頁)

以下引用文。路地裏は世一のため息の「禍々しい渦をひとつずつ潰しに」かかる。
だが世一のため息は、ひっそりと暮らしていた路地裏の人々を変えてしまう。
疎まれていた世一が、人々を変えてゆくという展開に、丸山先生の弱い者の不思議な力を信じる思いが強く心に残った。

しかし
   時すでに遅く
      これまでひっそり閑としていたあちこちの家から
         微笑があふれ出した。

ほどなくして
   窓や戸が開け放たれる音が相次ぎ
      あたかも祭りでも始まるかのごとき
         そんな浮いた雰囲気が募ってゆく。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』9頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月4日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」四月十六日を読む

ー自由ー

昨日から二日分戻って四月十六日「私は風呂敷だ」で始まる箇所へ。風呂敷に魚の素干した塩干しをぎっしり詰めこんだ行商の娘が書かれている。もしかしたら日本海側からバスに乗って信濃大町まで行商に来た娘を、丸山先生が観察して「千日の瑠璃」に登場させたのではないだろうか?

私は風呂敷だ

   素干しや塩干しにした魚をぎっしり詰めこんだ箱を
      いっぺんに五つも包んでしまう
         唐草模様の大きな風呂敷だ。

まだ二十歳そこそこだというのに
   私を用いて行商をしている娘は

      私と同様
         体の芯まで魚臭が染みついていた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」390頁)

以下引用文。なぜ、この行商の娘を書こうと思ったのか……媚びない人間の魅力を感じたのだろうか……作者の心を考える。

彼女は客に対して
   礼の言葉も発しなければ
      申し訳程度の愛想笑いすら浮かべず、

      にもかかわらず
         けっして悪い印象を与えることがなく、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」391頁)

以下引用文。売れ残った魚を丘の上の世一の家に置いてきた娘は、風呂敷を「いっぱいに広げてオオルリのさえずりをくるみ それを代金として受け取る」
娘の姿に「自由」を見ているのではないだろうか……という気がしてくる一文である。

バスを待つあいだ
   暖かい風に吹かれながら
      気分で購入した板チョコをぼりぼりと齧り、

      鼻歌を唄いつつ
         どこか遠くへ目をやって
            周りに誰もいないのに
               素晴らしい笑みを浮かべるのだった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」 393頁)


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さりはま書房徒然日誌2024年7月3日

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」四月十八日を読む

ー正しさの幻想を吹き飛ばしてー

四月十八日は「私は紙芝居だ」で始まる。「辻公園の片隅で 年に数回ほど 老いぼれたデブの歯科医が道楽で演じる紙芝居」が語る。

以下引用文。集まってきた子供達に「甲斐甲斐しく立ち働く者がけっして無駄骨を折ることがないことや 金銭に目が眩んだ者が幸福になれた試しがないこと」を教える紙芝居は、己の正しさへの自信に満ち溢れている。

要するに私は
   この世は生きるに値すると
      そうきっぱり言いきっており、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」400頁)

以下引用文。己の正しさを信じている紙芝居だが、少年世一は病にもかかわらず嘲笑を投げつけてくる。
信念というものの偽善を思わずにいられない場面である。

外見以上に手強そうな彼は
   歯などいくら磨いても虚しくなるほどの
      重くて厄介な病に全身を蝕まれており、

      にもかかわらず
         出会うたびに
            石礫のごとき嘲笑を投げつけ、


            にもかかわらず
               出会うたびに
                  石つぶてのごとき嘲笑を投げつけ、

                  げらげらと笑われるたびに
                     畏縮へと落ちこんでゆく。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」401頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月2日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」四月十四日を読む

ー天真爛漫な心ー

四月十四日は「私はたも網だ」で始まる。
以下引用文。世一は目が粗くて使い古された「たも網」の欠点に気がつかず、「波が運んでくる銀色の魚影を見つけるたびに 性懲りもなく さっと私を」くりだす。

魚を捉えることができなくても充たされてゆく世一の心を語る文の、「ぴちぴちと跳ねる銀鱗の数」や「幸福の青い色を差し招く」という表現や、銀や青の色、鱗、風が、世一の心の邪気のなさ、天真爛漫を表しているようで心惹かれた。

それでも世一の狩猟本能は
   充分に満たされて
      胸のうちでぴちぴちと跳ねる銀鱗の数が次第に増してゆき、
         
      しまいには
         幸福の青い風を差し招くほどになり、

      ともあれ
         私の本音としては
            どんな雑魚でもかまわないから
               せめて一匹くらいはなんとかしたいのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」382頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月1日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結2』四月八日を読む

ーちっぽけな蟻の目がとらえるこの世ー

四月八日は「私は蟻だ」で始まる。

以下引用文。貸しボート屋の親父の頭に登った蟻が目に(?)する風景は、生、勤勉な仲間たち、その仲間が世一に踏み潰されるという不条理……が書かれ、この世の姿が凝縮している文のように思った。

そんな男の頭のてっぺんから遠く沖を見晴らす私は
   薫風にそよいで光るヤナギの若葉にうっとりと見とれ、
      
   ひたすらまばゆい湖面では
      数珠繋ぎにされて出番を待つボートが
         うねりに合わせて揺れ
            互いに擦れ合ってのどかな旋律を奏でていた。


そして地面では
   存在のなんたるかも知らずに
      せわしなく動き回る私の仲間たちが、

      どう頑張っても真っ直ぐに歩けない少年によって
         次から次へと踏み殺されていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」361頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月30日(日)

神奈川県立図書館ボランティア朗読会 雑感その2

昨日も6月29日(土)神奈川県立図書館ボランティア朗読会「光るキミへ」の感想を書いたが、少し追加。


昨日も紹介させて頂いたが、普段から朗読会で短歌作品もあればいいのにな……と思っていた私にとって、以下の図書を紹介、朗読してくださった29日の読書会はとても嬉しく、興味深いものがあった。

・『愛するより愛されたい 令和言葉・奈良弁で訳した万葉集① 』佐々木良 著 万葉社

・『現代語訳 竹取物語』川端康成訳 河出文庫

 『竹取物語』星新一訳 角川文庫

 『竹取物語』江國香織 文 新潮文庫

・『光の帝国 常野物語』恩田陸 著 集英社

・『平安ガールフレンズ』酒井順子 著 角川文庫

・『木の声が聞こえますか 日本初の女性樹木医・塚本こなみ物語』池田まき子著 岩崎書店

・『窯変 源氏物語』橋本治 著 中央公論社

 短歌は、「宿命的に一人称が主体となる詩型。ただし無数の「私」に降り立つことで、他者に成り代わって歌を詠むことができる」と短歌創作を教わっている福島泰樹先生にたしか教わった気がする。

 随筆もやはり一人称の文学である。

 古典の朗読は穏やかで丁寧なもの……というイメージがある。
 ゆったりとしたリズムで普段音読されている、でも実は一人称の文学である……という作品群を朗読する……のはチャレンジフルだったのではないだろうか。
 朗読のことはさっぱり分からないながら、一人称の場合の方が感情移入が激しくなるのではないだろうか?でも古典の朗読は、なぜか穏やかな調べのものが多い気がする。このギャップに苦労されたりしたのではないだろうか?


 万葉集の朗読をされた方は、奈良弁での朗読に切り替えたときに感情を思いっきり込めて朗読をされていた。


『平安ガールフレンズ』の朗読者も、耳に心地よい悠々としたリズムで古文を読まれながら、清少納言や紫式部の気持ちを現代語で表現するときは、二人になりきって鋭い感情表現を放っていた。


 どの朗読も面白かったけれど、このお二人の朗読が古典らしいリズムと思いっきり感情を込めた一人称らしい朗読との切り替えが鮮やかで、とりわけ印象に残る。


 短歌も、随筆も一人称なのだから、元々はこういう強い感情を含んで音読されていたのかもしれない……と思った。


 そもそも万葉の時代、どんなふうに音読していたのだろうかとも考えたりもした。
 意外と奈良弁の現代語訳を朗読された方のように、ナマの感情をストレートに強く声に表現していたのかもしれないと想像したりもした。


 短歌は五七で調べもいいし、もともと声に出すことを前提にして書かれているし、時間に制限がある朗読会の場合、朗読する歌をチョイスすることで時間調整もうまく出来るし、ぼーっと聞いていても頭に残るものがあるし……と朗読会に向いている気がする。


その割には余り朗読されない。現代短歌になると、さらに知られていない。
もっと短歌が朗読されたらいいな……と思う。


それも出来れば古典だけでなく、広島あり、家庭内暴力あり……と現代の私たちの心を短歌にしている、でも殆ど知られていない現代短歌から作品が朗読されたらいいな……とも思ったりした。


 選書から作品説明、朗読まで色々ご努力されてきたことが伝わる会だった。

 清少納言は短歌が嫌い、藤は千年生きる……など知らないことを朗読を聞きながら色々教えて頂いた。
 司会の方々も原稿を見ないで、朗読会や朗読作品への想いを分かりやすく伝えて下さっていた。
 回を追うごとに充実していく朗読会を楽しみに、また伺いたいなあと思う。

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さりはま書房徒然日誌2024年6月29日(土)

神奈川県立図書館ボランティア朗読会へ

紅葉坂を登ってフォロワーさんが運営に参加されている神奈川県立図書館ボランティア朗読会へ。
朗読会の今回のテーマは「光るキミへ」。
様々な視点から選ばれた本の朗読。とりわけ五七調の調べのいい古典を音読する喜び、聴く喜びを感じた一日だった。
朗読会も回を重ねるごとにお客さんの数もどんどん増え、朗読の声も益々深みを増してゆく様子に、運営スタッフの皆様のご苦労と努力を思う。
今回、朗読してくださった本は以下の通り。

・『愛するより愛されたい 令和言葉・奈良弁で訳した万葉集① 』佐々木良 著 万葉社

・『現代語訳 竹取物語』川端康成訳 河出文庫

 『竹取物語』星新一訳 角川文庫

 『竹取物語』江國香織 文 新潮文庫

・『光の帝国 常野物語』恩田陸 著 集英社

・『平安ガールフレンズ』酒井順子 著 角川文庫

・『木の声が聞こえますか 日本初の女性樹木医・塚本こなみ物語』池田まき子著 岩崎書店

・『窯変 源氏物語』橋本治 著 中央公論社

原文の音読だといかにも古典らしい典雅な朗読が、現代語訳になると朗読者の思いが弾けるような読み方にも変化するようで興味深く聞いていた。
おそらく図書館の朗読会でも古典や短歌の朗読は試みが少ないのでは……と貴重な時を共有して愉しませて頂いたようにも思う。
関係者の皆様に感謝しながら、紅葉坂の青紅葉を眺め帰途へ。

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さりはま書房徒然日誌2024年6月28日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」四月四日を読む

ー「街道」がただの「街道」でなくなるー

四月四日は「私は街道だ」で始まる。この四月四日はとりわけ好きな箇所である。
「街道」という運ぶとか通行するという機能のためにある存在。それが丸山先生の視点を通して語られると、別の意味を帯びた存在へと揺らぐ。この世界の在り方への丸山先生の思いが、文となって迸るような気がしてくる。

まほろ町と世間を結び
   誤った観念と世人の目を瞞着する情報の数々を
      昼夜分かたずに運びつづける
         獣道が源の古い街道だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」342頁)

以下引用文。そうした街道を通る様々な人間群像が、全部で十一の姿となって書かれていく。以下はその一部である。通行人の姿を繰り返すことで、この世の多様性が心に響いてくる気がする。

今年初めて陽炎を立ち昇らせた私の上を
   勃々たる野心を姑息な手段によって実現させたがる者が通り
      全財産をすってからやっと故地を訪ねる気持ちになった者が通り、

      別にどうということもない精神的苦痛のせいで
         仏を渇仰してやまぬ者が通り、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」342頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月27日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」四月一日を読む

ー幼な子に壮大な運命を感じる視点ー

四月一日は「私は離乳食だ」で始まる。
「離乳食」が自分を食べている幼な子のことを「まほろ町では最年少の 自立した人間」とも、
「食べることに集中しながら 周辺の動きに周密な観察を加え、いつかきっと役立つ知識として 柔軟性に富んだ脳に しっかりと刻みつけている」とも語る。

以下引用文。離乳食が幼な子に寄せる思いの壮大さに心打たれる。「英名を馳せる者」になるか、「鉄窓に呻く者」になるか、あるいはその両方か。善悪にこだわらずに、人間の運命そのものに興味を持とうとする視点に心惹かれる。

そうやって私をひと口すするたびに
   将来において極めて有望な
      才覚を具えた者としての
         型破りな性格と
            そこから派生する運命の展開が形成されてゆき、

            もしできることなら
               この子の行く末を見届けたいと思う。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」332頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月26日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月三十一日を読む

ーひたすら観察ー

三月三十一日は「私は凄みだ」で始まる。
以下引用文。丸山先生を思わせる作家にやくざ者が凄みを放つ瞬間である。

悪趣味とはいえ
   それなりのセンスでめかしこんだ
      長身痩躯の若いやくざ者が
         およそ小説を書くしか能がない男に対して
            振り向きざまに放った凄みだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」326頁

以下引用文。やくざ者や世一のあとを付け回す作家にやくざ者は「なぜ?」と凄みをきかせて問いかける。
丸山先生は、周囲をよく観察して、観察結果をミックスして書かれるような話をされていたことがある。
こんな風に凄みのある男を観察していたことも、もしかしたら本当にあったのかもしれない。
観察して混ぜ合わせた事実のコラージュを、ご自分の言葉で別の世界に創り出しているのだなあと思う。

すると
   窮地に陥ったその中年男は
      懸命に作り笑いを浮かべて
         自分の仕事がいかに特殊なものであるかを説明し、

         とはいえ
            けっして詫びたりはせず
               二度としないという約束もしなかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」328頁)           

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さりはま書房徒然日誌2024年6月25日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十七日を読む

ープランクトンを語り手にすることで見えてくるものー

三月二十七日は「私はプランクトンだ」で始まる。うたかた湖の動物性のプランクトンが自身を、そして身体に不自由なところのある少年・世一を語る。

以下引用文。もし人間の視点で語れば「世一は体を揺らして湖面を見つめていた」で終わってしまう場面である。

プランクトンが語り手となることで、「数億年の進化の隔たり」という科学的にして大袈裟な言葉もしっくりとくる気がする。
「不敵な夢想家の眼差し」「この世における存在の意義なんぞを探っている」という実際にはあり得ない描写も、プランクトンが語ることで説得力をもってくる。

この世における文学の役割は、固定化された見方から解き放って、人を自由にするところにもあるのかもしれない。

体全体が意思に反して波のごとく揺れ動く少年が
   岸辺にしゃがみこみ
      数億年という進化の隔たりをものともしない
         不敵な夢想家の眼差しで
            私のことをじっと見つめ
               この世における存在の意義なんぞを探っている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」313頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月24日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十六日を読む

ー田舎暮らしを冷静に見つめる視点ー

三月二十六日は「里心」が語る。湖畔の別荘で過ごそうとする元大学教授の夫婦を振り回す都会生活への「里心」が語る。
里心が指摘する「まほろ町」の欠点。私も伊東にある山小屋に移り住もうかなと思う度に、「いや、やはり」と足踏みをしてしまう田舎暮らしの欠点が幾つか重なっていた。
さすが田舎に暮らしながら、田舎暮らしの欠点を冷静に観察している丸山先生らしいと思った。
伊東のスーパーは欠品中の商品もチラホラあったり、値段も東京下町よりも客が少ないせいか高い。

特に魚は地元にまわらないのか、地元民は魚の値段を把握しているのか東京近郊より少なく、値段も高い。美味しい金目鯛のお頭とかは、東京近郊だと100円以下で売っていたりするが、伊東の方は500円近くする。
静寂をいいように解釈してドラムの練習やカラオケが大音量で響いてきたりする。
油断しているとゴミ焼却場が近くに建設…ということも聞く話である。

あと丸山先生は書かれていないけど、病院はあっても病院の選択肢がない……というのも伊東の山暮らしの欠点である。丸山先生はあまり病院に行かないような気がするから関係ないのかもしれない。

家庭菜園をしようにも、野生動物を追い払うためにフェンスを張ったりしなくてはならずコストがかかってしまうのも、伊東の山暮らしの欠点である。丸山先生は菜園を作ったりはしないだろうから、これも関係ないのかもしれない。
丸山先生は自分の周りを冷静によく観察して文を書かれていると、あらためて思った。

ここには文化の香りというものが皆無であり
   身近に広がる自然美への自覚も持たず
      無為に生きることが慢性化しており、

      山の冷気が
汚染された都会の空気よりも老化を早めると
            思いつくままにまくし立てた。

ろくな商品がなく
   もっと大きな街のスーパーマーケットで売れ残った商品が回され、


   静寂も度が過ぎると有害で
      違法なゴミ焼却が目当ての産廃業者が横行し、

      民度があまりに低くて
         動物並か
            それ以下で、

            近頃では
               雪かき作業が煩わしい。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」307頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年6月20日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十五日を読む

ー元兵士の悲惨ー

三月二十五日は「私は夕闇だ」で始まる。
以下引用文。「まほろ町にひたひたと押し寄せる いつもながらの」夕闇だけを友とする男。その男が背負う戦争の体験を、丸山先生は以下のように語る。
戦争から帰ってきた元兵士の心の悲惨、戦災孤児の悲惨をずっと書いてきた丸山先生らしい箇所である。

家々を焼き払い
   無辜の民を大量に屠った
      異邦の地における言語道断の日々と
         幾度殺しても飽き足らぬおのれを
            しっかりと再確認する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」304頁

以下引用文。そんな戦争の記憶をいまだ心に引きずる男に、夕闇はこう諭してみる。いつまでも癒えることのない戦争の傷というものをあらためて思う文である。

ついで
   旧時を知る人も少なくなったのだから
      そろそろこの辺りで自分を赦してやったらどうかと
         真心を込めて説得しても、

         きのうと同様
            なんの効果も認められない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」304頁

以下引用文。少年・世一が現れ、銃声の口真似をしてみせる場面。口真似の銃声に男はよろめくが、その顔に深い安堵が浮かんでいた……という描写に、生きて帰ってきても死ぬまで戦場の記憶から解放されない元兵士の悲惨を思う。

私のなかへ逃げ込もうとする男の背中を狙って
   口真似した銃声をだしぬけに浴びせかけ、

   すると
      撃たれた相手は大きくよろめいて私に倒れかかり、

      その一瞬の顔には
         深い安堵の色が浮かんでおり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」305頁

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さりはま書房徒然日誌2024年6月18日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十一日を読む

ー映像より雄弁に語る文ー

三月二十一日は「私は大波だ」で始まる。「うたかた湖では十年に一度おきるかどうかもわからぬ」大波が語る。
以下引用文。大波が「ありきたりな波と化し」ていく場面。映像なら一瞬で終わるかもしれないし、こんな風に同時にいくつもの存在をいきいきと語ることは難しい気がする。
ひいてゆく波に被せるようにして、オオルリから時代の風潮まで森羅万象を語る文が心に残る。

ありきたりな波と化して
   沖へ静かに引いて行く私に付いてきてくれるのは、

   丘のてっぺんから絶え間なく迸る
      美し過ぎることで却って虚しく響くオオルリのさえずりと、


   うつせみ山の禅寺の墓地に葬られてようとしている
      長寿を全うした誰でもいい誰かの親戚縁者が漏らす
         安堵を込めたため息と、

         長身痩躯の若いやくざ者が拳銃の試し撃ちをする
            断続的な銃声と、


            無欲な暮らしをとことん嘲笑い
               辛辣な揶揄を浴びせる
                  不純な時代の冷笑のみだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」289頁)   

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さりはま書房徒然日誌2024年6月17日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十日を読む

ー「燻されたタヌキ」という言葉に場面を想像してしまうー

三月二十日は「私は恥だ」と「恥を恥とも思わぬ若者が 今後の身の振り方について かなり真剣に考えているときに初めて知った」恥が語る。

以下引用文。恥に詰られた若者が突拍子もない行動に出る様子がユーモラスに書かれている。

すると彼は
   燻されたタヌキのように
      堪らず土蔵の外へ飛び出して
         しどろもどろで何やら言い訳めいたことを呟き、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」284頁)

以下引用文。「生き恥」をテーマに踊る青年と一緒に世一も踊り出す。二人して踊っているうちに、恥というものがどうでもよくなってしまう。
踊る部分のあたりは平仮名で書かれている文字が多いせいか、青年と世一が無邪気に踊る場面が自然と浮かんでくる。
後半、恥が自然消滅してゆく箇所は心なしか漢字が多く、恥というものが概念であることが伝わってくる気がする。

すると
   そうやってかれらがいっしょに踊る最中
      私はいつしか自然消滅の道を辿り、

      要するに
         さほど大した価値観ではなくなって
            無の底へと堕ちて行った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」285頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月16日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2 」三月十四日を読む

ー単純だけど心に残る会話ー

三月十四日は「私は落書きだ」で始まる。ドライブインの塀に描かれた落書きが語る。
以下引用文。落書きの中でも、無抵抗の世一を塀に押しつけて三色スプレーを吹きかけて描かれた落書き。
愛犬が「わん」と吠えたことで、その落書きに気がついた盲目の少女の反応と言葉が心に残る。

丸山先生は滅多に会話を使わないけれど、その分、使う時は雄弁に物語る会話になっている気がする。「ああ、よいっちゃんだ」という簡潔な言葉に、盲目の少女の声音、表情が浮かんでくるような、世一への思いが溢れている。
「しまいには 単なる平面にぴたりと自分の体を寄せた」という少女の行動の後だけに、「私が心底からおのれのことを誇るに足る存在と感じたのは それが最初で最後だった。」という落書きの言葉は深く納得してしまう。

すると少女は
   少しもためらうことなく
      まっしぐらに私のところへ近づき
         指先の感触のみを頼りに
            たちまち世一を探り当て、

            「ああ、よいっちゃんだ、よいっちゃんだ」と幾度も呟いて
                しまいには
                   単なる平面にぴたりと自分の体を寄せた。

私が心底からおのれのことを誇るに足る存在と感じたのは
   それが最初で最後だった。


(丸山健二 「千日の瑠璃 終結2」261頁」  

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さりはま書房徒然日誌2024年6月15日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月十三日を読む

ーフィルムにはない文章表現ならではの魅力ー

三月十三日は「私はカメラだ」で始まる。まほろ町に新婚旅行に訪れた夫婦は、通りがかった世一に写真を撮ってくれと頼む。
以下引用文。世一が体を揺らしながら写した風景。フィルムに摂りこまれた風景を映像で見れば一瞬で過ぎ去ってしまう。
でも、こうして文で描かれると一つ一つの情景が別々に心にたちのぼってくるようで、文章ならではの表現の魅力を感じる。

しかしながら
   私がフィルムに摂りこんだのは
      着水に失敗して無様につんのめる
         経験不足の若い白鳥と
            ボートを浮かべてワカサギ釣りを楽しむ隻腕の男、

            ほかには
               結婚式までしか考えていなかった男女の
                  頼りない笑みの底にこびり付いている
                     一抹の不安のみだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」255頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月14日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月十一日を読む

ー「焦燥」が語ればー


三月十一日は「私は焦燥だ」で始まる。世一の姉に取りついた恋の焦燥が語る。
以下引用文。焦燥の語る言葉。姉が自分の言葉で語ったりすれば、あまりにも生々しくなりすぎるかもしれない。作者の視点で語れば、冷たく感じられるかもしれない。
でも「焦燥」という有り得ない視点で語ることで、娘の様子が哀れにも、コミカルにも思えてくる気がする。

「これまでおまえに興味を示した男がひとりでもいるのかな?」と訊き
   「いなければ、これからだって絶対に現れないぞ」と決めつけ、

   その意味においては
      弟の方がまだましというもので、

      オオルリという連れ合いがいるばかりか
         住民のほぼ全員に関心を持たれており
            その意味においては幸福な人生だと
               嫌みたっぷりにつづける。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」249頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月13日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月十日を読む

ー文章で出会う世界ー

三月十日は「私は雪崩だ」と「うつせみ山の南側の急斜面に発生すべくして発生した」「雪崩」が語る。

長年、信濃大町に住んでいる丸山先生らしい感覚にあふれた箇所だと思う。まだ雪崩を体験したことがない私は、その音や気配、雪崩を迎える山国の人の心境を知る。私なら思わず怖くなって布団を頭から被ってしまいそうだが、山国の住民にとっては「春を知って 束の間心をときめかせ」るものと知って意外だった。

それほど大した規模ではない私であっても
   だが音だけは立派で
      たちまちのうちに落ちかかる雷火のごとき轟音に成長したかと思うと
         まほろ町の夜明けをびりびりと振動させ、

         物凄まじい気配で目を覚ました住民たちは
            いよいよ間近に迫った春を知って
               束の間心をときめかせ、

               根拠に頼ることなく
                  何やらいいことが起きるのではないかと
                     本気で期待する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」242頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月12日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月六日を読む

ー「自由」ー

三月六日は「私は自由だ」で始まる。
「この島国の無能さを徹底的に暴露するに至ったあの戦争は 彼から家と家族をあっさりと奪い ついでに希望のひとかけまでをも根こそぎにし」と書かれる物乞いの老人。その老人の「かれこれ半世紀ものあいだ付き纏って離れない」自由が語る。

「自由」は、自由を選ぶことでとても厳しい状況になろうとも、丸山先生自身が一番大事にされていること。
丸山文学の主人公たちも自由を求めて流離う姿が心に残る。

そんな丸山先生が「千日の瑠璃」で自由を見出している登場人物は、戦争で家も家族も失った物乞いの老人。
それから身体と脳に不自由なところがある世一……。
そんな設定に丸山先生の考える自由の在り方を見る思いがする。そして、世一がこれからどんな自由を求め旅を始めるのか……と楽しみにしているうちに、ふと己の不自由を忘れる自分がいる。

そして
   いつ果てるとも知れぬ放浪の日々のなかから
      この私を発見して手元に引き寄せたのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」227頁)

すると彼は
   仰向けに倒れた亀のようにもがく少年の目のなかに
      私をはるかに凌ぐほどの
         ほとんど無碍に近い自由を見て取り、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」229頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月11日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月五日を読む

ー「瑠璃色の才能」とはー

三月五日は「私は春一番だ」で始まる。まほろ町に吹き始めた春一番が語る。
以下引用文。「雪の白に幽閉されて」という部分と「生来の瑠璃色の才能が徐々に開花してゆく」という部分、コントラストの鮮やかさが心に残る。細々としたことは語らずして、色が与えるイメージだけで物語ってゆくような箇所である。「生来の瑠璃色の才能」ってどんな才能なのだろう……と思わず立ち止まって考えたくなる。

雪の白に幽閉されて
   魂を縮こめているしかなかった少年世一の
      意味も目的もなしに
         淡々と命を長らえさせるという
            重い病と引き換えに付与された
               生来の瑠璃色の才能が
                  徐々に開花してゆく。

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さりはま書房徒然日誌2024年6月10日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」を読む

ー「髪」が語ればー

三月四日は「私は髪だ」で始まる。
以下引用文。「四十三年間生きてきた」女の髪が語る。まるで竹下夢二が描く女を思わせる描写でありながら、作者が「女」のことを語るのでなく、「女の髪」が「女」を語ることで変な生々しさは消え、女の生命力が歌うように書かれているような気がした。

それでも私は
   山間を流れる小川のように
      どこまでもしなやかで、

      彼女のすっと気持ちよく伸びた華奢な首にも
         逃げ水のごとく儚い感じのうなじにも
            よく似合っており、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」218頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月9日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月三日を読む

ー一瞬の光が時をかけてゆくー

三月三日は「私は乱反射だ」で始まる。うたかた湖の水面と氷の乱反射が語ってゆくのは、世一の生き生きとした姿、死の直前の老人、死後の魂……一瞬の光のきらめきから生、死、死後を描き切る文に、肉体の縛りからも、時の縛りからも解き放たれて自由になった気がしてくる。
以下引用文。「乱反射」を「縫い針の束をぶちまけた」と語る描写が心に残る。

うたかた湖の大気よりも澄みきっている水と
   急速に溶けてゆく氷とが相まって生み出す
      まるで縫い針の束をぶちまけたような乱反射だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」214頁)

以下引用文。世一の目に「ひとつの巨大な光源」とも写り、「めざましい躍動」を楽しむ「うたかた湖」は、生を感じさせる存在である。

雪解けが進んでどろどろにぬかった丘の道を
   ふらふらと下ってくる青尽くめの少年は、

   あたかも湖面全体がひとつの巨大な光源であるかのように錯覚して
      私のめざましい躍動を存分に楽しんでいる。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」215頁)

以下引用文。「眠るがごとく寂滅してゆく」老人の目に映る乱反射。「顔を向け」「瞳孔いっぱいに私を取りこんで」という丁寧な描写に、瀕死の老人のノロノロした動きを感じる。
「おのれの非を悟る」という言葉に、「乱反射」が罪を映し出す鏡のようにも思えてくる。

やおら起き上がった彼は
   湖の方へ顔を向け、

   開きかけている瞳孔いっぱいに私を取り込んでから

      翻然としておのれの非を悟る。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」216頁)

以下引用文。老人が亡くなって魂となってゆく場面。
「坂道を転がり落ち」「仮眠中の絶命」「「ひっそりと息を引き取る」と言葉を変え、丁寧に描写してゆく文から、老人の死への敬意が感じられる。
さらに「魂のきらめき」「増すばかりだ」という言葉に丸山先生の死生観が強く感じられ、老人の死が新たな旅立ちのように思えてくる。

だがしかし
   太陽が位置を変えることで
      私が天井から離れてしまうと
         彼はみるみる衰弱の坂道を転がり落ち、


         世一のように全身を震わせたりせずに
            あたかも仮眠中の絶命のようにして
               ひっそりと息を引き取ってゆくものの
                  その魂のきらめきは一向に衰えず
                     むしろ増すばかりだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」217頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月8日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月一日を読む

ー丸山作品の「  」の不思議さー

三月一日は「私は骸骨だ」で始まる。まほろ町立中学校の理科室の教材用骸骨が、こっそり忍び込んできた世一を相手にする。
以下引用文。丸山先生は会話でストーリーを進める書き方を大変嫌っている。たしかに他の丸山作品と同様に以下の会話も、形こそ「   」で括られて、一見会話の形はとっている。

でも日常会話ではなく、どちらかと言うとアフォリズムのような趣きがある。丸山作品で「  」が出てくると、だらだらと会話でストーリーが展開するのではなく、ピリッと閃く丸山先生の思いに触れる気がする。

いかにも気怠げな口調で
「おまえ、誰?」と訊き、

    そこで私は
       わざと無念やる方ない表情を作り、

    「おれか、おれはおまえだよ」と

        素っ気なく答えた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」207頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月7日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月二十八日を読む

ーあたえる者へー

二月二十八日は「私はすき焼きだ」で始まる。まほろ町の湖畔の旅館・三光荘の女将と長逗留の女客が食べていた「すき焼き」が語る。
以下引用文。二人の女に招かれて、世一も一緒にすき焼きを食べる。
何も持っていないし、食べる動作さえ苦労する世一なのに、一緒にいると二人の女は「希望とも言えぬささやかな希望を感知」して、「心のあちこちに穿たれてしまった風穴が 一時的であるにせよ 確実に埋まってゆくのを覚えた」のである。
 何も持たない者、世から疎まれる者が与える者になる一瞬を信じているし、そんな瞬間を見い出すのが丸山作品の魅力だと思う。そして、そんな視点は特殊学級に入れられてしまった小学校時代、特殊学級の仲間たちとの交情から生まれてきたものではないだろうか。

ひっきりなしに身をよじりながら私を相手に格闘する
   健気な少年をつくづく眺めているうちに
      ふたりの女はなんだか不思議な心持ちになり、


      つまり
         希望とも言えぬささやかな希望を感知し、

         生きるために余儀なくした陰気な行為のあれやこれやに蝕まれて
            心のあちこちに穿たてしまった風穴が

               一時的であるにせよ
                  確実に埋まってゆくのを覚えた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」203頁

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さりはま書房徒然日誌2024年6月6日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十八日を読む

ー意外な本への思いー

二月十八日は「私は頭痛だ」で始まる。都会を離れ、山暮らしを始めた元大学教授がまほろ町の図書館を訪れ、久しぶりにたくさんの本を目にしたときに襲ってきた「頭痛」が語る。
以下引用文。大学教授という本を通して物事を見てきた筈の人が、こんな思いを本に抱くとは……一瞬、意外に思う。
でも丸山先生自身、いつかオンラインサロンで好きな書店は?と訊かれて、「リアルの書店に行くのは好きでない。本に囲まれると圧迫感を感じる」というような意外な答えをしていたのを思い出した。そんな丸山先生だから、こんな言葉が出てくるのではないだろうか?

確か彼は
   本には二度と手を出すまい
      これからは他人の言葉を通さずに現実を直視しよう
         おのれの目で見ておのれの頭で判断しようと
            そう自身に誓ったはずで、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」163頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月5日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十六日を読む

ー「見る」とは?ー

二月十六日は「私は炎だ」で始まる。盲目の少女の前に置かれ、やがて消えてしまうロウソクの炎が語る。
以下、三箇所からの引用文。
盲目の少女の目、世一の目に映る炎、世一の心眼に焼きついた炎、それぞれが描写されている。

同じ「見る」行為とはいえ、どこで見るのか、どう映るのかは様々なのだと思う。
そして書き手が言葉によって読み手に「見せる」行為とは……とも考える。それは最後の引用文にあるように、読み手の心眼に時も次元も超えた炎を宿らせることなのではないだろうか……そんなことも思った。

少女の見えない目と
   彼女の膝の上にちょこなんと座っている白い仔犬の純一無垢な瞳には
      それぞれ私が鮮やかに映じており

      その四つの虚像は
         ひとつの実像をはるかに超越した
            かなり見事なものであり、

            しかしながら
               彼女の魂に結ばれた映像の素晴らしさには
                  遠く及ばず、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」155頁)

もちろん少年の目にも私が映っており
   ところが
      彼の瞳のなかの私ときたら
         なぜか虚像ですらないほど頼りなく、

         にもかかわらず
            実像より数倍も生々しいのは
               いったいどうしたことだろう?


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」157頁)

瞬時にして少年の心眼に焼き付いた私は
   またしても激しくなってきた雪のなかを
      いかにも危なかっしくゆらゆらと揺れながらも
         けっして消えることなく
            まほろ町のあちこちを
               住民たちの有りようを照らしつつ
                  どこまでも進んで行く。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」157頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月4日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十五日を読む

ー自然に人間の世界を重ねるー

二月十五日は「私はカモメだ」と猛吹雪で海岸線を見失い、山の中まで迷ってしまったカモメが語る。
以下引用文。迷い鳥のカモメがまるでさすらいの旅人のようにも、カラスが俗物根性丸だしの人間たちのようにも思えてくる描写である。
丸山先生の目は、自然界の在り方にも人間の世界を重ねて見ているのだろうか?

いよいよ天運尽きた私は覚悟を固めたことで
   さばさばした気分になり、

   雪の重みで押し潰されそうになった長い桟橋の突端で翼を休め
      眼前に広がる見慣れぬ光景を夢心地で眺めた。


すると
   閉鎖的で排他的な田舎者根性まる出しのカラスどもが
      迷い鳥の私をいびり殺そうと集まり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」152頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月3日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十四日を読む

ー風船一個を語るにも語り口が印象的ー

二月十四日は「私は風船だ」と「くたくたになって山と湖の町へ辿り着いた 青い風船」が語る。
私なんかがこの風船を語るなら、「空色の丸い風船」とか安直にすぐ書いてしまいそうだが、丸山先生はそうではないと知る。
以下引用文。丸山先生は、風船の青い色を「〜のようだ」と語るのではなく、「〜にも似ておらず」と否定の形で語る。「水」「空」「死に顔」「オオルリ」にも似ていない青って、どんな色なのだろう……と読んでいる方の心にぽっかり「想像してごらん」という声が谺する穴をあけられる気がする。

私の色は
   水にも空にも
      そして
         死に顔にもオオルリにも似ておらず、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」146ページ)

以下引用文。風船の動きを「彼女の体熱と町そのものが暖めた大気によって上昇し」と語り、また「人魂を思わせる形状を保ったまま」と描写することで、風船がただの物からどこか人間らしさを帯びて感じられてくる気がする。

彼女の体熱と町そのものが暖めた大気によって上昇し
   人魂を思わせる形状を保ったまま
      一軒家の方へと引き寄せられて
         二階の部屋の窓枠に引っかかる。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」148ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月2日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十三日を読む

ー自然描写に重ねる思いー

二月十三日は「私はハーモニカだ」で始まる。刑務所を出所して鯉の世話をしながら暮らす世一の叔父が吹き鳴らすハーモニカだ。
以下引用文。まほろ町の夕暮れから夜にさしかかる冬の描写が、丸山先生らしい奥行きのある表現に思える。自然を見つめながら、この世と別の世について思いを巡らす丸山先生の思いも伝わってくるようで好きな箇所である。
「希薄な存在感の太陽」はいかにも冬らしく、それでいて別の世界を示しているようにも思える。
「然るべき方向」も、いったいどの方向を指しているのやら……と考えてしまう。
「漠とした落日を漫然と迎える」というまほろ町も、人の生き方を暗示しているようである。
「いかにも啓示的な闇」とは?と考えてしまう。
自然描写に重ねる思いがあるようで、それを考えながら読んでいくのが面白い。

やがて
   希薄な存在感の太陽が然るべき方向へと傾き、

   まほろ町が漠とした落日を漫然と迎えるや
      いかにも啓示的な闇が
         地の底から湧き上がってくる。

すると
   厳冬の夜が私をたしなめて
      もうよさないかと言い

         そろそろやめてはどうかと言い、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」143ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年6月1日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十二日を読む

ー同じ望遠鏡から覗いた世界なのにまったく違って見える不思議さー

二月十二日は「私は望遠鏡だ」で始まる。世一の父親がゴミ捨て場からそっと拾ってきて、ピカピカに磨きあげた望遠鏡が語る。
同じ望遠鏡に目をあてているのに、世一の父親が覗く世界と世一が見つめる世界は全く異なる印象を受ける。見つめる人の視点、心の持ちようで、こうも異なるものだろうか。
以下引用文。世一の父親が覗いた世界。私の目に映る世界のようで、思わずため息をつきたくなる。

私をどの方角へ向けようと
   そこにはすでに知られている現実が存在するばかりで、

   もしくは
      辟易するおのれの五十数年間が
         呆れ返るほどだらしない格好で横たわっているだけで、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」139ページ)

以下引用文。冬の厳しさを描きながらも、世一が望遠鏡を通して見つめる世界は宇宙的神秘さのある世界。「虚無そのものの広がり」という捉え方が、何となく丸山先生らしいと思ったり、こういう世界を感じたいと反省したりもした。

最初に捉えたのは
   灰色がどこまでも広がる
      実に味気ない冬の空間で、

      鳥が飛んでいるわけでもなければ、
         雲が流れているわけでもない、

         なんの変哲もないというか
            虚無そのものの広がりにすぎなかった。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」140ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月30日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十日を読む

ーヒトでない者の声が聞こえてくる「  」ー

二月十日は「私は氷だ」と、うたかた湖を隅々まで埋め尽くした氷が語る。
その氷の上で世一が「ときおり つつうっと滑ったり」という様子が微笑ましい。
以下引用文。そんな世一に警告しようとする「氷」。「軽すぎる体」「重すぎる魂」と氷が語る世一の姿は、人間界の常識を離れた姿にも思えてくる。

その都度私は不気味な音を発して警告を与え
   軽すぎる体のほうはともあれ
      あまりに重過ぎる魂まではとても支えきれないと
         そう言ってやり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」136ページ)

以下引用文。「氷」が心配するように湖の中に落ちることなく無事に帰ってゆく世一。
「氷」はふた言だけ呟く。
丸山作品では「  」の部分は普通の会話ではなく、天から響いてくる言葉のようでもある。
以下も「運」「不運」がコントラストをなして、やはり人間ではない者の言葉に聞こえてくる。

「おまえって奴はどこまで運に恵まれているんだ」と
    そう言ってから
       「そのくせ、どこまで不運な奴なんだ」とづづけ、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」137ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月30日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十日を読む

ー箒と箒売りの充足感に幸せとは?と思うー

二月十日は「私は箒だ」で始まる。
行商の男がまほろ町をまわったにもかかわらず、売れ残ってしまった箒が物語る。
以下引用文。箒売りの行商が丘の家の世一の家を見て「何かある」と感じて登り始める場面。箒の行商人という今ではあり得ない職業からもたらされるイメージが、仙人めいた千里眼的行動とよく合っている感じがする。

ただ気づいただけではなく
   そこにはきっと何かが在る
      ほかの家には絶対ない何かが在ると直感して
         心のどこかが激しく揺さぶられ
            すぐさま出かけてみようと思い立った。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」131頁)

以下引用文。世一の家にたどり着いたものの、いるのはオオルリだけ、あとは誰もいない。行商人は「お前をこの家にくれてやるからな」と箒を玄関の下駄箱の横に置いて帰る。
ただ、それだけの行為なのに、箒も、行商人も満ち足りてしまう……その姿に「幸せとは?」と思わず考えてしまった。

使ってもらってこその私であるのだから
   願ってもないことで
      元より異存などあろうはずもなく、

      雪に足を取られながら丘を下って行く男の後ろ姿が
         いつになく幸福の色に満ちあふれ
            夕日に染まったその背中には見るべき価値が感じられた。


 (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」133頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月29日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月八日を読む

ー覗き見の効果ー

二月八日は「私は節穴だ」と、路地と歯科医の家を分かつ塀の節穴が語る。「截然と」(セツゼン)(意味は「区別のはっきりしているさま」)という見かけない言葉が、路地と歯科医の家の違いを強く主張しているように響いてくる。

節穴から歯科医の同級生が覗き込み、多少嫉妬混じりの小さな嫌がらせをする。
次に世一が覗き込むと、歯科医の息子の進路をめぐる家庭内騒動が持ち上がる。思わず世一も一緒に騒ぎ立て……と展開してゆく。

ここで思い出したのだが、他の登場人物が覗き込む中、物語が進行してゆく……というのは、浄瑠璃にとても多い設定である。文楽ファンなら、覗き見で進むストーリーには慣れすぎるくらいに慣れてしまっているのではないだろうか。舞台の左手からも、右手からも覗き見……で舞台が進むのは、浄瑠璃くらいではないだろうか。

覗き見という手法をとると、違う世界の人間でも、自分の所属とは違う世界であっても、我が事のように反応する様子を自然に観察できる……と「千日の瑠璃」のこの箇所に思った。

文楽の場合も、覗き見する方、覗き見される方、両方の人形の動きを眺めることで、物語の世界を重層化していくようにも思う。

それにしても覗き見が当たり前の浄瑠璃の世界。これはやはり塀や障子という覗き見しやすい日本の住環境が影響しているのだろうか?

私は節穴だ、

   ほんのたまにしか人の通らないうらぶれた路地と
      歯科医の家の敷地を截然と分かつ
         かなり古びた板塀の節穴だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」122頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月28日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月六日を読む

ーX線のごとき存在とは?ー

二月六日は「私はX線だ」と世一の身体を調べるX線が、その心までも情け容赦なく調べる。その結果は……以下引用文。
「醜悪な外貌」と対をなす「心の表情」という言葉には、喚起してくるイメージがたっぷりとあって、世一の心の豊かさを思わせてくれる。
「彼の魂は 不可視なものではなく」という箇所に、人間の魂を見通せる光があれば……とも想像する。人間の魂を見通せる存在……なんて嫌だし、煙ったいとは思うけれど、そういう存在が作家なのかも、とも思う。つまりX線は丸山先生自身のことなのかもしれない。

ひっきょう
   世一を見かけだけで誤解してはならず、

   彼のふた目と見られぬ醜悪な外貌は
      断じて心の表情と一致するものではなく、

   彼と接する連中の
      人間としての程度や真価を試すものでもない。

そして彼の魂は
   必ずしも不可視なものではなく
      残酷極まりない神に成り代わって
         この私がそのことを証明する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」117ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月26日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月五日を読む

ーパラレル・ワールドは救いか、絶望か?ー

二月五日は「私は星雲だ」で始まる。蠍座の星雲は、世一の飼っているオオルリの囀りを通して遥か彼方のまほろ町のことをよく知っていると語る。
丸山先生は以前、量子力学の観点からパラレルワールド、もう一つの世界は存在する……そんなことを話されていた。以下引用文にも、そんな丸山先生の考えがよく現れていると思う。

そして
   私のほうもまた
      自身のどこかにいる青い鳥が
         そっくり同じことをしており、

         つまり
            私のなかにもまほろ町が在り
               少年世一が存するのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」111頁)

以下引用文。己の星雲がある世界から、世一のいるもう一つの世界へ……そんな不思議なやり取りが書かれている。
くどくどとストーリーが展開するのを楽しむのでなく、もうひとつの世界を感じる大きな視点に気がついてハッとする。そんな楽しさが「千日の瑠璃」を始めとした丸山作品にはあるように思う。
その分、ストーリーを楽しんだり、教えを請う人には不向きなのかもしれないが……。

もう一つの世界でも私は「千日の瑠璃」を読んでいるのだろうか……そんなことを思うと、こちらの世界の諸々の不安が消えていくような気がする。パラレルワールドを信じることは救いになるのか、それとも同じ苦労をしていると絶望を深めるだけなのか?「千日の瑠璃」にその答えがあるのかもしれない。

きょうもまた私は
   そっちのまほろ町の
      そっちのオオルリに対して
         詳細な報告をし、

         それから
            こっちの世一が岸辺に佇むだけで
               うたかた湖の深浅を正しく把握できるまでに

                  成長した旨を伝え、

                  はてさて
                     そっちの世一はどうかと尋ねてみる。

 (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」112頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月25日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月四日を読む

ー缶バッジが語れば、偉そうな物言いも何故か気にならないー

二月四日は「私はバッジだ」と、まほろ町に駆け落ちしてきた娘のセーターを飾る「青い鳥をかたどった 派手なバッジ」が語る。

以下引用文。バッジが実は自分が娘の行動を決めている……と語る。バッジにズバッとありえないことを宣言させるおかげで、普通に書いていたらモタモタしてしまいそうな余分な贅肉が削ぎ落とされスッキリしている気がする。
バッジという実に庶民的なものが、娘の行動を決める神のごとき存在……という設定も丸山先生らしいと思う。

彼女は私を気に入っているばかりか
   信頼しきっており、

   駆け落ちを決意させたのも
      実はこの私というわけで、

      まほろ町に住むことも
         スーパーマーケットで働くことも
            全部決めてやった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」106ページ) 

以下引用文。スーパーの先輩(世一の母親)と娘をバッジが観察する。もし、ここで作者が語っているなら「なんて失礼な」と思うかもしれないが、バッジが語っていると思うと不思議と気にならない。

どんなに厚化粧をしたところで
   生活の疲れを隠せないその先輩は
      素顔でも溌剌としている後輩をつかまえ
         冷ややかな物言いで
            「それ、なんて鳥なの?」と訊き、

             鳥の名を度忘れした娘は
                とにかく幸福を招く鳥だと答えた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」107ページ)      

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さりはま書房徒然日誌2024年5月24日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月三日を読む

ー田舎暮らしの残酷さを思い出したー

二月三日は「私は散弾だ」と密猟者たちが禁猟区で放った散弾が語る。散弾が仕留めたのは白鳥。密猟者たちはなんと白鳥を解体して、少ない肉と肝臓を手に入れると、塩焼きにしたり、鍋料理にしたり、串焼きにしたりする。
以下引用文。「ぶっ殺してやる!」という部分も効いているし、「肉にめりこみ 血管を破り 内臓を裂き 骨を砕き」と畳みかけるような短い文も、インパクトのある動詞も、散弾の威力を効果的にあらわしている。

私は散弾だ、

   ひとえに炸薬の力を頼みとして
      「ぶっ殺してやる!」などとわめきながら風のなかに飛び出す
          やや大粒の散弾だ。


狙いは違わず
   ぶすぶすと獲物に命中した私は
      一瞬にして羽毛をぱっと散らせ
         肉にめりこみ
            血管を破り
               内臓を裂き
                  骨を砕き
                     指頭大の魂をも粉砕する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」102ページ) 

密猟で手にした白鳥を食べてしまう……といういささかショッキングなこの場面は、田舎の生活の残酷さも描いているのかもしれない。
みずから動物を仕留め、解体して、食べてしまう……という行為は、私も田舎暮らしでよく見かけた。そして「私には無理だ」と田舎暮らしを断念させた大きな要素でもある。
だって本当に伊東で窓の向こうを見たら、隣家の物干しに猪から剥ぎ取った毛皮がかけてあったり……
田舎に引っ込んだ元同僚は、町内会のメンバーと共に害獣駆除のため猪を仕留め、解体して、肉は冷凍して、耳は切り取って市役所に持参して報奨金をもらう……という仕事を、地域の一員として当然のようにこなしていた。
そんな姿に「私には田舎暮らしは絶対に無理だ」と思った。命をいただく行為、それを残酷と取るか、幸せととるかは人様々とは思う。また、すべての田舎がそうだとは限らないだろう。
でもとにかく私には田舎暮らしは絶対無理である……と思ったことを思い出した。

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さりはま書房徒然日誌2024年5月23日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月二日を読む

ー小さな大豆にも思いは尽きることなくー

二月二日は「私は大豆だ」で始まる。物騒な輩に知らずして土地を売ったため、町中から非難されるまほろ町の八百屋の主が、いわくつきの連中が住むビルに向かって豆をまく。ところがその連中が来て、豆を買いに来ると……。
先ほどまでの勢いはどこにやら?途端にびくびくし始める八百屋の主人の小物感。
そんな恐れられる連中でも豆をまく……という意外さに人間らしさを感じる。

極道者ですら鬼を忌み嫌い
   福に巡り合いたがっていることに八百屋の主人が気づいたとき、

   ビルの窓から撒かれた私を
      いかんともしがたい不幸を背負って歩く青尽くめの少年が
         ひと粒ずつ丹念に拾って食べている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」101ページ

小さな大豆でもよく観察すれば、忌み嫌われる者たちを、忌み嫌う者を、世一の心を表している……。
そんなことを思ううちに、亡くなった女流義太夫の三味線弾きさんが、亡くなる一ヶ月前にたしか可愛い赤鬼の仮面と大豆の写真をアップされ「鬼は外」と呟かれていた記憶がよみがえった。とても辛い、死を覚悟されながらの「鬼は外」、どんな思いであったのだろうか。
その三味線弾きさんとは幻想文学の講演会でたまたま席が隣だったり、愚息を連れて義太夫の公演に行った時も偶然席が隣になって愚息に「眠くなったら寝ちゃっていいのよ」と優しく声をかけてくださったこともあった。
そんなことを思い出すうちに、その三味線弾きさんの舞台での凛々とした音色も聴こえてくるような気がしてきた。
小さな大豆でもそこから紡がれる記憶は無限、それを発掘して残してゆくのも、人間の大事なミッションなのかもしれない。

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さりはま書房徒然日誌2024年5月22日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月一日を読む

ー「退学」が語る学校ー

二月一日は「私は退学だ」と、普通の高校生が当人の事情でした「退学」が、学校をやめて解放感に溢れている高校生の喜びを語ることで学校という存在の矛盾を問いかける。

以下引用文。「退学」が見つめる学校の在り方は、丸山先生の心にある思いなのだろう。まさにその通りの場である。
でも最近では「優秀な労働者」どころか、物言わぬ労働者、物言わぬ市民を大量生産するための場になり下がっているいる気もする。
「おのれの意志と決断」「飛び出した」という言葉に、「退学」した若者の心がよく表されている気がする。

従順で在りながら
   適度に優秀な労働者となる若者を選りすぐるための
      窮屈で堅苦しい
         疑問だらけの場、

         彼はどこまでもおのれの意志と決断でもって
            そこから飛び出したのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」95ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月21日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月三十一日を読む

ー遺影もじっと見ているのかもしれないー

一月三十一日は「私は遺影だ」で始まる。「胸が潰れるほどの悲しみを撥ね返してくれそうな 金ぴかの仏壇の前に」飾られた、松林で首をつって死んだ娘の遺影が語る。
「遺影」を語り手にしてみたら、家族のそれぞれの勝手な思いやら、線香をあげにきた友人の虫のいい願いやらを、感情を交えることなく、じっくりと人ごとのような視点で物語れるものと思った。
そういえば「遺影」を前にしたときは、自分の心を隠すことなく、正直になっている気がする。
以下引用文。線香をあげにきた世一の姉が、自分の恋はあなたと違って上手くいきそうだ、と勝手な思いを語る場面である。
「凝然として動かぬ私」という言葉にたしかに「遺影」はそうだなあと思い、「くどくどと」「見つめ直し」「一方的な頼み」という言葉から世一の姉が浮かんでくる。

つまり赤の他人同然の異性について
   くどくどと語り、
   
   あげくに
      凝然として動かぬ私をまじまじと見つめ直し、

      どうにかこの恋の行方を見守っていてほしいと
         好ましい出発を願ってほしいと
            そんな一方的な頼みをする。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」93ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月20日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十九日、三十日を読む

ー想像するのが楽しくなる色の語り方ー

一月二十九日は「私は雪道だ」で始まり、三十日は「私は口紅だ」で始まる。二日通づけて対照的な色が出てくるので印象に残る。
ただし「雪道」の方では様々なものを「白い」と表現しているのに対して、「口紅」の方では具体的な色の描写は出てこない。色の表現方法が違うにもかかわらず、どちらも色が浮かんでくる不思議さを感じた。

以下引用文。「私は雪道だ」の二十九日より。「時間」や「父と子の心」のように抽象的なものを白いと表現しているので、どんな時間か、どんな心か想像する楽しさがある。

その重さに耐えられずに折れてしまった無数の枝が
   私の上にも無惨に散らばっていて、

   しかし
      一様なためにさほど見苦しくはなく
         どうにか清らかな白を保っており、

         辺りに漂う大気も白く
            穏やかに流れる時間も白く、

         はたまた
            私に沿って歩きつづける父と子の心も白い、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」82ページ)

以下引用文は三十日「私は口紅だ」より。はっきりと色の名前は書かれていないが、「シクラメンの花の色にもよく似合い」「浮いた立場にもぴったりと合っている」「不確定な要素を孕んだ」と表現される口紅の色を想像する楽しさがある。

シクラメンの花の色にもよく似合い
   彼女の浮いた立場にもぴったりと合っている
      かなり不確定な要素を孕んだ口紅だ。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」86ページ)

白、口紅の色と出てきたあと、最後は世一の着ている服の色で終わる。「娼婦に成るべくして生まれついた」女を引き寄せるオオルリの色のセーター。最後に世一の、オオルリの力を感じる。
どの色にしても想像するのが楽しくなる書き方だと思った。

娼婦に成るべくして生まれついたような女の目は
   不治の病に侵された少年が纏っている衣服の青の素晴らしさに見惚れていた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」89ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月19日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十八日を読む

ー反復されることで本心からの叫びに思えてくるー

一月二十八日は「私はビデオテープだ」とレンタルビデオ屋から大学教授夫妻のもとへと貸し出されたビデオテープが語る。観た後、大学教授夫妻は内容について散々けなす。
以下引用文。けなした後で大学教授の妻が野鳥への愛を語る場面。
「名画であろうと名作であろうと」が繰り返され、「たとえば」が反復されることによって、野鳥への賛歌が大学教授の妻の心の底からの思いにも聴こえてくる。

妻の言葉に思わず納得したところで聞こえてくるのは、世一のオオルリを真似たさえずり。絶妙なタイミングに、この少年は人間なのだろうか、それとも……と世一が人間を超えた存在に思えてくる。

窓の向こうに広がる
   一面雪に覆われた雑木林に目を移し、

   いかなる名画であろうと名作であろうと
      結局のところ
         野鳥一羽分の感動すら与えることができず、

         傑作中の傑作というのは
            たとえばオオルリであり
               たとえばクロツグミであり
                  たとえばミソサザイであり
                     それを超えるものはないと

                        言い切った。

ちょうどそこへ
   オオルリのさえずりを上手に真似る少年が通りがかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」81ページ)  

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さりはま書房徒然日誌2024年5月18日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十七日を読む

ー「風死す」を思わせる書き方ではー

一月二十七日は「私は境界だ」で始まる。目には見えない「境界」によって、あらゆるものを区切る……そうすることで浮かんでくる様々な存在が、わずか四ページの中におよそ41にわたって書かれている。
語を、短い文を連ねることで境界で区切られる姿をあらわそうとする書き方は、最後の長編小説「風死す」にもつながるのでは……と興味深く読んだ。
そして41は素数である。もしかしたら素数を森羅万象を律するリズムにして、まほろ町の様々な境界を描こうとされたのだろうか。

私は境界だ、

   言ってしまえば有象無象の集まりから成るまほろ町を
      入り組んだ線でもって複雑に区切っている
         けっして目には見えない境界だ。


分けつづけ

   分けずにはいられない私は

   生者と死者を
      死者と統治者を、

   肥立ちのいい赤ん坊を背負っていそいそと立ち働く若妻と

      嬌態のすっかり板に付いてしまった淫をひさぐ女を、

      堅忍不抜の精神で日夜勉学に勤しむ若者と
         家名を著しく落として悪友の下宿に転がりこんだ放蕩児を


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」74ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月17日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十六日を読む

ーありえないモノの視点で語るからこそー

一月二十六日は「私は忠告だ」で始まる。昼休みを利用して空の別荘で逢引きをしている町役場の職員たち。そんな二人に気がついた上司(世一の父親)が男を呼び出して与える「忠告」が語る。スキャンダルが大好きな田舎の住民の好奇心に晒されてもいいのか、自分も面白がっているのだから……などと忠告する。
「忠告」が情景を描写する……という有り得なさがなければ、こうした場面は安っぽい陳腐な場面になりがちではないだろうか……と以下引用文を写しながら思った。
もし作者が語るような形で「そんなことで色を着けるしかない人生」とか「男の干物になり下がっている」とか「面白くもなんともない仕事」と書いてしまえば、そこには反感が芽生えるかもしれない。だが「忠告」が語るという形だからこど、何となくアイロニーもユーモアも感じられるのではないだろうか。

目を伏せて頷く部下の肩にそっと手を置いて
   気持ちはわかると呟き
      そんなことで色を着けるしかない人生だものと言い、

      定年まで勤め上げて
         退職金や年金をもらう頃には
            いっさいの色恋沙汰と縁がない
               男の干物に成り下がっていると
                  きっぱり結論付けた。

そして
   いい歳をしたふたりは
      午後の面白くもなんともない仕事へと戻っていった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」73ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月16日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十五日を読む

ー散文ならではの魅力、詩歌と変わらなぬ魅力ー

一月二十五日は「私は氷原だ」と、「俘虜としてシベリアの厳冬を体験した男が 全面結氷したうたかた湖から激しく追走する めくるめく氷原」が語る。
以下引用文は、そんな元俘虜の男の目がとらえた現代社会だ。
この文を写しているうちに、散文の良さを教えてくれる文のような気がしてきた。


「跡目を継ぐことになった」という微妙な表現に、こうした制度への疑念やらが感じられてくる。
「隙あらば」「少しでもいい思いをしよう」という言葉から、現代社会を抜け目なく渡ってゆく黒い輩の姿が浮かんでくる。
「無知」「動物的な習性」という言い方に悲しき私たちの在り方を思う。

不可思議な制度を、ずる賢い連中たちを、哀れなる私たち自身を、まさに無駄のない的確な言葉の三連発でずばりと語った後にくるのは、「〈蟻の思想〉の扶植」である。
「〈蟻の思想〉の扶植」というよくは分からないながら、イメージをモコモコ自由に喚起させる不思議な語句が待ち受けている。無駄のない表現の後だから、この不可思議な言葉の結びつきが心に迫って、「自由にイメージせよ」と呼びかけてくる。
こうした構成に散文ならではの魅力を思う
またストーリーから離れて、読み手に発想を自由に委ねてくれる……そんな詩歌と変わらない魅力が本来なら散文、小説にはあるのだなあと思う。

跡目を継ぐことになった次の天皇を
   隙あらば象徴以上の地位に返り咲かせて
      少しでもいい思いをしようと企む輩は、
         国民の無知と強い者には訳もなく従うという動物的な習性に付け入って
            またしても〈蟻の思想〉の扶植に熱を入れ始めていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」67ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月15日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十四日を読む

ー与える者へー

一月二十四日は「私は縫いぐるみだ」で始まる。愛犬が老衰のせいで死んでしまった盲目の少女。彼女の哀しみを癒そうと与えられた犬の縫いぐるみが語る。
以下引用文。縫いぐるみは世一のことを「小癪な奴」だと思うが、次の瞬間には……。
不自由な筈の世一が、少女の心を本当に慰めることのできる「生きた本物の仔犬」を渡すのだ。
この世における世一の役割と存在が、弱く、憐れまれる者から、与えることのできる者へと変わる一瞬。その劇的な変換が、「少年は突然奪って 突然与え」という短い繰り返しに表されているようにも思った。

少年は突然奪って
   突然与え、

   つまり私は
      あっという間に彼の手に移ったかと思うと
         すぐさま今度は
            雪よりも白い
               生きた本物の仔犬が少女の手に渡ったのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」64ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月14日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十三日を読む

ー目にするものから物語が無限に生まれる!ー

一月二十三日は「私は無精髭だ」と「無精髭」が語る。
周囲にいる知らない人をそっと観察することから、小説は生まれてくる……丸山先生がそんなことを以前言われていたような気がする。

以下引用文からも、無精髭を生やしている人をそっと観察している丸山先生の様子が想像される。丸山先生の眼を通すと、街ですれ違う人の無精髭からもストーリーが無限に生まれてくるのだなあと思った。

彼はさかんに私を撫で回しながら
   うちなる何かとのべつ闘い、

   あるいは
      自分で自分を痛めつける言葉でも探していたのかもしれず、

      あるいはまた
         私を仮面の代わりにして
            まったく別の人間になろうとしていたのかもしれず、

            さもなければ
               おのれ自身を私のなかへ埋没させて

               完全に消し去ろうとしていたのだろうか。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」59ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年5月13日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十二日を読む

ー偏見は生まれたときからなのかー

一月二十二日は「私は手だ」と「乳児の 魂そのものよりも柔らかい手」が語る。
乳児の手を語る文にその形や動きを思い浮かべ、納得しつつ途中まで読む。
以下、「   」内はすべて丸山健二「千日の瑠璃2」より。

「たとえ天変地異に見舞われたとしても親を放すまいとする 
    凄い圧力を秘めた私」

「私自身の接し方は
    猫にも人間にも分け隔てがなく」

以下引用文。そんな乳児の手も、世一のことは忌み嫌う……と書かれたのは、なぜだろうか。
人間の心には、理不尽な偏見が生まれついたときから根付いている……そんな思いもあって、こうした文を入れたのだろうか?
そうだとしたら人間の心に生まれついた時から巣食う偏見に、世一は
どう向かい合っていくのだろうか?
今後の展開が楽しみになってくる。

しかし
   何事にも例外があり、

   勝手に頭がぐらぐら動いてしまうせいで脇見が普通になっている
      あの少年がそれで

      私が忌み嫌うそいつが
         今また無断で敷地内に入りこみ
            庭を横切って迫ってくる。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」56ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月12日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十一日を読む

ー「暖炉」が象徴する様々なものー

一月十二日は「私は薪ストーヴだ」と、世一の姉が好きになったストーヴ作りの職人に注文して完成した薪ストーヴが語る。
世一の家へと向かう坂道を「古い毛布をあてがった製作者の背中に 登山用のロープでしっかりと括りつけられ」運ばれてゆく薪ストーヴの言葉を読んでいると、このストーヴが象徴しているのはゆらゆら揺れる炎さながら「世間一般の声」であり、「青年」「世一の姉」それぞれの愚かしく哀しいまでの生き方であるような気もしてきた。
以下引用文。薪ストーヴの声は世間の声にも思えてくる。

ついでに
   隙あらば彼の将来をも併せて押し潰そうと企み、

   あげくに
   「こんな女はやめておけ」と忠告し、

   それから
      「結局は前の女のときと同じことだぞ」と脅かしつけてやる。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」51ページ)

以下引用文。青年が背負う薪ストーヴの重みは、これから背負うことになる世一の姉の重みでもある。

男はまったく動じず、

恐ろしく滑り易い急坂を一歩一歩着実に突き進む彼自身は
   再度の失敗をまったく想定しておらず、

   私のみならず
      すでに長いこと暗欝のなかに生きてきた
         ために
            その反動としての幸福に期待し過ぎる
               そんな女までをも背負うつもりだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」52ページ)

以下引用文。世一の姉の青年への思いは、ストーヴの炎にうっとりと見とれる人のものでもある。

片や女はというと
   烟突のみならず      
      ふらつきながら自分の前を行く男の
         なんだか胡散臭い半生を
            ときめきに惑わされて
               まるごと抱えこもうとしている。

薪ストーヴというものに、様々な立場を反映させているようで面白く読んだ。それにしても薪ストーヴを背負って坂道を登るとはすごい。


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さりはま書房徒然日誌2024年5月11日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十日を読む

ー小難しい漢字が入ると文が老人めいてくるー

一月二十日は「私は老衰だ」で始まる。途中まで「老衰」が語る箇所は、「私は懸河の弁を揮って」の「懸河」とか、「後進を誘掖したのも」の「誘掖」など小難しい漢字が出てくる。
ちなみに日本国大辞典で調べれば
「懸河」(けんが)は「弁舌のよどみのないさまのたとえ」
「誘掖」(ゆうえき)は「みちびき助けること。補佐すること」だそうである。
いかにも老人らしい、気難しい表現が続いた後、世一のオオルリが「常に強い心組みで臨むべし」「そのひと言をもって瞑すべし!」と囀ると、老衰は素直な言葉で語り始め退散してしまう。
小難しい漢字を入れると、老人らしくなる……と思った。

鳥の言葉とは到底思えぬ
   気高い勢いに気圧され、

   生きる意味などとうとう得られなかった
      得ようともしなかった
         締まりのない生涯に
            今さらながら気づかされた私としては
               もはや早々に退散するしかなく

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」49ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年5月10日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十九日を読む

ー見方を変えれば「檻」の意味も変わってくるー

一月十九日は「私は檻だ」とまほろ町営動物園の「人間とそうでない物の領域をきっちりと分け隔てる 頑丈この上ない檻」が語る。
檻の中の麒麟の様子を語る文に、キリンの動作やキリンといる時間が思い出されてくる。たしかにキリンなんだけれど、自分ではこう書けないのはなぜなのだろうとも思う。

舞台女優並みの大仰な瞬きを物憂げにつづけて
   ふざけきった形の口をもごもごさせながら
   
   おのれの身の上を決して悲観せず
      時間を時間とも思わずに
         ゆったりとくつろいでいる。


  (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」42ページ)

キリン専用の檻。キリンという動物以外には意味のない檻だし、普通の価値観で考えたら「檻」なんて鬱陶しいものである。その常識を突き破って檻に憧れる世一に、今まで抱いていた価値観がひっくり返される不思議さを感じる。

だが少年世一だけは
   キリンではなく
      この私のことを主役と認めて
         多大な関心を払ってくれ、

         それだけに留まらず
            一度でいいから私の中へ入ってみたいと
               そう真剣に願っているのだ。


  (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」44ページ)

以下引用文。キリンの檻に入りそうになっている世一を見つけた飼育係は背後から抱き止めながら、こう語る。
飼育係にとって檻は檻だし、病の世一の体もまた檻なのである。
何を檻と見なすかで生き方や価値観も変わってくる……と、そっと教えてくれているような気がした。

「それでなくてもおまえは病気に閉じこめられているんだぞ!」と
    そう言ったあと
       「その檻から生きて出られんぞ!」と怒鳴る。


  (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」45ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月9日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十八日を読む

ー書き手と読み手が共有できる色のイメージー

一月十八日は「私は敵意だ」で始まる。「鋼鉄製の反社会的な形状の扉」に向かってぶつけられようとした「敵意」が跳ね返され、そのまま置き去りにされたところで徘徊中の世一と出会う。

以下二つの引用文。色の使い方が印象に残る。意外と色は人によって喚起されるイメージが違うもの……と短歌をつくっていて思うようになった。
でもオオルリの羽のイメージと世一のピュアな心を表しているだろう「青々とした印象の少年」にしても、簡単に「白い」とは言わずに「雪と同じ色の吐息」と表現される白にしても、色からイメージを喚起しつつ、作者の思い描くイメージと読者の描くイメージにズレがないなあと思った。

ところが
   その青々とした印象の少年は付け入る隙がまるでなく
胸のうちに潜りこめる余地もなく、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」41ページ)

だが憐れな病児は
   雪と同じ色の息を吐き散らしながら
      手と足をもつれさせるだけもつれさせ
         却って寂しさを募らせるばかりの街灯を縫って進み、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」41ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年5月8日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十七日を読む

ーありふれた風景を変えてしまう力ー

一月十七日は「私は桟橋だ」で始まる。昨日の「十字路」もよかったが、この箇所も好きな箇所である。私はありふれた日常風景に詩情を感じ、別の意味を感じる心が気になるらしい。
以下引用文も、場面としては湖に突き出た桟橋で不自由な世一が遊んでいる……ただ、それだけの場面である。
だが、そんな風景に次元を超えた世界への憧れを込める作者の視点が好きである。

うたかた湖の南側の岸辺から北の沖へ向かって
   もしかすると来世へと繋がっているかもしれぬ
      是非そうあってほしい
         不必要なまでに長い桟橋だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」34ページ)

以下引用文。桟橋にいる世一はもう不自由な少年ではなく、妖精のように自然と語り戯れる存在である。そんな風に視点を変える力が「千日の瑠璃」の魅力のようにも思う。

危なっかしい足取りで突端まで進み出て
   陶酔の面持ちを深め
      今現在を吹く風の精髄を全身でしっかりと感知し、

      物怖じせずに

         一部の隙もない自説を得々と述べる波音に
            そっと耳を傾ける。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」35ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月7日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十六日を読む

ーありふれた空間が意味をもってくる不思議さー

一月十六日は「私は十字路だ」とまほろ町の中心部にある「なんの取り柄もない 平々凡々たる十字路」が語る。
以下引用文。平凡な道ではあっても、十字路とは思いがけない者同士が出会う不思議な空間であることに気がつく。
現実には、十字路で世一と丸山先生を思わせる作家がばったり出会った……ただ、それだけの場面である。
その風景を散文にすると、こんなふうに意味を持たせ、別の時が流れているように書けるのかと思った。

そんななか
   霧の海を泳ぐようにして
      北の方角から忽然と現れたのは
         あの少年世一で、

         時を同じくして
            南の方から
               黒いむく犬を連れた
                  よんどころない事情で小説家になった
                     いかにも我の強そうな男がやってくる。


そして
   西の通りから〈肯定〉が悠然と近づき
      東の通りから物知り顔の〈否定〉が悠然と迫り、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」31ページ)  

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さりはま書房徒然日誌2024年5月6日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十五日を読む

ー人ではない存在「橇」が語れば子供の遊びもこう見えてくるー

一月十五日は「私は橇だ」と「少年世一を乗せて」走る「安っぽいプラスチック製の橇」が語る。
以下引用文。世一を「この際思いきって変えてしまおう」と橇は思いたつ。
実際には橇に世一がはしゃいでいる場面かと思うが、人間ならざる存在「橇」の視点に寄せて語れば、不自由な筈の世一が超人のように思えてくる。
それは「生きる者に変え」という畳みかけるリズムの繰り返し、
漢字の多い行頭からその漢字のイメージから離れた言葉で行末を終える意外な展開の続き(例「惻隠の情」と「蹴散らす」)
「俯瞰できる者」から「鳥に近づけ」というように上昇してゆくイメージを膨らませているせいなのだろうか。

競争激甚の世をすばしこく生きる者に変え
   降りかかる災難を事前に察知する者に変え
      惻隠の情を蹴散らす者に変え、

      はたまた
         徒手空拳で生きる者に変え
            社会の安寧を乱す者に変え
               まほろ町を俯瞰できる者に変える。

そして世一は
   速度が増すにつれて
      その存在をどこまでも鳥に近づけ、

      私がちょっとした瘤に乗り上げて宙を飛ぶ一瞬などは

         完全に鳥の目で世間を眺めており、

 (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」26ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年5月5日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十一日を読む

ー目には見えない幸運が伝わってくるー

一月十三日は「私は幸運だ」で始まる。
「愚鈍そのものの顔つきの これまで良いことも悪いこともしてこなかった高校生が 生まれて初めて自分の小遣いで買った しかもたった一枚の宝くじ」が、「百万の桁を超えていない」金額で当たった……という幸運が語る。
以下引用文。宝くじが当たった高校生へのまほろ町の人々の反応を、「温かい牛乳のように」と物に即して書いたり、金額も「百万を超えていない」と具体的に書くことで、だんだんその目には見えない幸運が伝わってくるようなところがある。

程良い金額は
   私を健全な形で保ってくれ、

   いくら生きても何ひとつとしていいことがない者たちを
      落胆させることもなく、
         温かい牛乳のように
            かれらの胃袋にすんなりと納まった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」19ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年5月4日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十二日を読む

ー丸山先生が「土蔵」に込めた思いとはー

一月十二日は「私は土蔵だ」と始まり、農家の土蔵が語る。江戸川乱歩とか坪内逍遥とか土蔵を書庫代わりに使い、まだその土蔵が残っている作家もいる。でも丸山先生の場合、土蔵はあくまで生活の風景の一部のようである。たしかオンラインサロンで幼いとき土蔵に暮らしたことがある……などと語っていらしたような記憶もある。
以下引用文の土蔵の描写に、丸山先生の記憶にある土蔵の役割が浮かんでくる。そんな土蔵を見捨ててゆく夫婦の様子も細かいことは書かないながら、収穫したばかりの米を炊いて食べ、蔵の古米を売り……という文に、大変な稲作を愛すれどどうにもならない現状が伝わってくる。

でたらめに過ぎる農政にとことん失望し
   先行きに絶望してまほろ町を離れた農家の
      まだまだ充分使用に耐える
         古びた分だけ風情を醸す土蔵だ。

昨年の暮れ

   老夫婦は秋に収穫したばかりの米を炊いて食べてから
      私が貯蔵していた古米の果てまで売り飛ばし
         先祖伝来の田畑を見捨て、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」14ページ)

以下引用文。そんな家からとうに家を飛び出していた五男が戻ってくる。母屋には目もくれないで、ただ土蔵だけを見つめる……のはなぜなのだろう。
丸山先生が「ただひたすら私のみを見つめた」とだけ書いてある、その背後にある物語を考えてしまう箇所である。書かずして物語を語る……ということもできるのだなと思った。

身ひとつでこっそり帰郷した彼は
   誰もいない母屋にも
      荒れ果てた耕作地にも
         立ち枯れた果樹にも
            四方を囲むカラマツの凄まじい成長にも

               さして驚かず、

                       そんな代物には目もくれないで
ただ私のみを見つめた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」15ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月3日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十一日を読む

ー一つの文に過去から現在、恍惚から恐怖がすっきりおさまっている!ー

一月十一日は「私は秘密だ」で始まる。役場の休憩時間と冬の別荘を利用して逢瀬を重ねる男女の「秘密」が語る。

以下引用文。逢瀬を終えて役場に戻ろうとした二人は、思いもよらず上司の車に遭遇する。

「串刺しにされ」という言葉から緊張感と恐怖が迫ってくる。
「両人の一抹の寂しさが付き纏う粋事がみるみる恐怖に染まり」は、一つの短い文の中に過去から現在、恍惚から恐怖が描かれていて見事だなと思った。
「秘密」自らが、「かくして私は 隠れもない事実と相なり」と変化を語る箇所も、そんなことはありえない筈なのに納得させる不思議な言葉の運びがある。

残念ながら手遅れで
   思わぬ相手の視線に串刺しにされ
      両人の一抹の寂しさが付き纏う粋事がみるみる恐怖に染まり、

かくして私は
         隠れもない事実と相なり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」12ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月2日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十日を読む

ー「洗濯物」とやり取りする少年の自由な心ー

一月十日は「私は洗濯物だ」で始まる。
以下引用文。冬の寒さが厳しい信濃大町にずっと住んでいる丸山先生らしい、実体験あふれる描写だと思う。

マイナス6度の風に吹き晒されたことで
   がちがちに凍りつき、

   却って生々しい形状になってしまった
      丘の上の洗濯物だ。

(丸山健二「千日の瑠璃」6ページ)

以下引用文。「洗濯物」と不自由なところのある世一が交わすやり取りである。
互いに相手の特徴を鋭く突きながらも、お互いに負けずに言い返しているところが何ともユーモラスである。そして洗濯物を相手に自由にやり取りする世一の心がひたすら羨ましくなってくる。

ときおり彼は
   ごわごわに固まっている私を見ながら
      少しは動いたらどうかとという意味のことを言い、

      そこで私は
         少しはじっとしていたらどうかと言い返し、


         病児はなおも食い下がって
            動かない奴は死んだ奴だななどと宣い、

            こっちも引き下がらずに
               動き過ぎる奴も生きているとは言いがたいと
                  そう決めつけてやった。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」8ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月1日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月九日を読む

ー対照的な二つの死ー

「千日の瑠璃」は各話を書き上げたあと、其々の話をどう並べていくか床一面に原稿を広げながら考えた……そんな話をオンラインサロンで丸山先生から伺ったような記憶がある。
天皇の死の後に来るのは、盲目の少女が可愛がって飼っていた黄色い老犬の死である。形ばかり大袈裟な死の儀式、愛犬の死に衝撃を受ける少女……この対比が印象的な配置である。
一月九日は「私は食器だ」と老犬のステンレスの食器が語る。老犬が食器に託した飼い主の少女を思いやるメッセージ、食器を手にする少年世一……ちっぽけな犬用食器に老犬が込めた真心が、不自由な少年にも伝わってゆく。そんな様子が前日の形式的なことに終始する死とは対照的である。

にもかかわらず
   老犬が最後の力を振り絞り
      舌を使って私に記した
この子をどうかよろしくという意味の意志は消えず、

         私を拾い上げてくれた少年の心にも
            正しく伝わり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」5ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月30日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月八日を読む

ーこの一日を記憶している人達の存在ー

一月八日は「私はテレビだ」で始まる。そう言えば、この日のテレビ番組はどれも同じような番組だったのか……。
私はこの日付すら「千日の瑠璃」を読むまで完全に忘れていた。
でも丸山先生と同じように鮮明に一月八日のことを覚えている人から感想をいただいたりした。
この一月八日という日に「なぜ?」という思いを抱え、テレビを、国旗を睨みつけていた人は、丸山先生以外にもしっかりといる……という事実に、あらためて「千日の瑠璃」を読む意義を思う。

天皇の老死がすべてのチャンネルを占領してしまったせいで
   少年世一の家族に愛想尽かしをされた
      とうに買い替えの時期を過ぎていながら
         丘の上の家だからこそ映りのいいテレビだ。

どの局でも
   この日を予期して

      予め用意しておいた特別番組をだらだらと流し、

      間違っても事の核心に触れるような際どい言葉を吐かない
         安全で無難な文化人をスタジオに招き、

         死以上のものと化したそのありふれた死に対して

            元々在りもしない威厳を持たせるための
               露骨で滑稽な装飾的なコメントを

                  延々と並べている。

(丸山健二「千日の瑠璃」398ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年4月29日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月七日を読む

ー旗を睨む作者の姿が見えてくるー

一月七日は「私は国旗だ」と国旗が、しかも「旗竿の先端に黒いリボンを結んで弔意を表し」ている国旗が語る。
「千日の瑠璃」は、ある年を選び、曜日も実際の通りにしているそうである。

突然、弔意をあらわす国旗をあげることになった一月七日。その日にちにしても事実のままである。その日、国旗をあげることになったのはまほろ町だけでなく、日本中の至る所であげられたことだろう。


国旗をめぐる人々の反応の書かれ方も様々で面白い。「朝食も食べず」に家を飛び出して「作法通りに」旗をあげた役場の男。国旗の上げ方に作法なんてあるとは。知らなかった。


「人間ひとりが高齢のせいで寿命が尽きたという それだけのことではないか」と疑問をぶつける若者。


以下引用文。そんな一月七日の様子を見て、丸山先生の耳には国旗がこう語りかけているように本当に思えたのかもしれない。

道行く普通の人々に
   いつの時代であってもおとなしく従ってしまう国民に
      あるいは
         戦争責任を鋭く難詰することなど
            まずもって不可能な連中に対して、

            「謹んで哀悼の意を表せ!」と
                声高に叫んでやった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結」396ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月28日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月六日を読む

ーちっぽけなものを語りながら、大きな存在を忘れない視点にポエジーを感じるー

一月六日は「私は惑星だ」で始まる。「千日の瑠璃」の中でも一段と丸山作品の魅力が表れている箇所だと思う。
ものすごく小さくて猥雑な存在のまほろ町と対をなす「飽くことなく自転と公転をくり返す 水と罪の惑星だ」という大きな存在。小さなものを語りつつ、包み込む大なる存在を決して忘れることがない……という点が丸山文学の魅力の一つだと思う。大小のコントラストとが詩的なイメージを感じさせてくれる。

でこぼこした岩石の表面に
   みずからを省察できないまほろ町を載せて
      飽くことなく自転と公転をくり返す
         水と罪の惑星だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」390ページ)

以下引用文。そんな岩石惑星・地球が世一に語りかける言葉にもやはり同じような魅力がある。
さらに「回る」を繰り返すことで、恒星の動きから世一の駆け回る様子まで同一線上にある動きとして感じられてくる。たとえ片方は分子レベルの動きで、もう片方は星々の回転だとしてもだ。

私が輝ける恒星の周りを回るように
   おまえはきらめく青い鳥を巡って存分に回るがいい、

   私が回れなくなるまで回るように
   おまえもまた回ることができなくなるまで回りつづけるがいい。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」392ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年4月27日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月五日を読む

ー小さなホオジロの死に寄せる思いー

一月五日は「私はホオジロだ」で始まる。季節外れの大雪に見舞われて逃げ場を失ったホオジロが語る。

以下引用文。窓越しに世一に飼われているオオルリの「自然界にはない堕落の餌をついばみ」「夏場の華やかなさえずり」をばら撒いている姿を見ながら、寒さに死んでゆくホオジロの姿と思いを描いている。
自然界の小さな死の尊厳を見つめる丸山先生らしい視線を感じる文である。同時に凍死しようとも野鳥としての自分らしさを保とうとするホオジロに理想を感じているようにも思えてくる。

自分は野鳥としての職務を忠実に果たしてきたのだと
   そうおのれに言い聞かせることで
      死を受け容れようと務め、

そして
   いよいよその段が訪れそうになったとき
      ぬくぬくした生活を送っている青い鳥に
         「それでもおれの方がましだぞ」と
             窓越しに言ってやったが
                まったく通じなかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」389ページ) 

 

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さりはま書房徒然日誌2024年4月26日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月四日を読む

ー厳しい世だから世一の世界を心に抱いてー

一月四日は「私は自動販売機だ」で始まる。あやまち川沿いの街道に立つカップラーメンの自動販売機らしい。
以下引用文。自動販売機が語る馴染みの客・世一の姿は、丸山先生が時々エッセイで語るペットのタイハクオウム、バロン君の「現在という概念しかない」というような言葉で表現されていた姿を思わせる。「時間の概念やら明日の予定やらとはいっさい無縁」という在り方が、丸山先生が理想とされる、でも現実には中々厳しい生き方なのではないだろうか。
でも厳しくなるばかりの世だからこそ、心に世一を住まわせ、ダイハクオウムのバロンくんを思い描いて生きていきたいものである。

かかるところへ
   時間の観念やら明日の予定やらとはいっさい無縁な
      かの少年世一が忽然と現れた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」382ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月25日

丸山健二「千日の瑠璃」十月二十四日を終結版、ネット版で読み比べる

ーネット版では世一の存在感がアップしている気がするー

「千日の瑠璃」は最初1992年に刊行。
2021年に丸山先生がご自分で立ち上げたいぬわし書房からかなり書き改めた形で「終結」として文庫で刊行。
今回ネットバージョンにさらに書き直されnoteで有料公開されている。note版は横書きになったというだけではない。「終結」版と比べながら読むと、丸山先生が書き直した箇所には文を深く、立体的にするコツが詰まっているように思う。

十月二十四日「私はハングライダーだ」で始まる箇所から一部分を見比べてみる。
以下引用文。ハングライダーがいくら憧れたところで鳥にはなれない現実を世一に言い聞かせた後に続く文である。
どちらも同じ箇所だが、背景が緑の箇所は終結版である。

ところが
   私から離れようとしない羨望の塊は
      まったく耳を貸さない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結」96ページ)

以下、背景が水色の箇所は一番新しいネット版である。

ところが
そんな私から離れようとしない羨望に彩られた純なる魂は聞く耳を持たないのです。


丸山健二「千日の瑠璃 ネット版」

世一という体も頭も不自由なところはありながら不思議な魅力をもつ少年を語るのに、「羨望の塊」とだけ語るより、「羨望に彩られた純なる魂」とした方が、世一の魅力がアップする感がある。
さらに「まったく耳を貸さない」だと確かに老人が「耳を貸さない」イメージとも重なってしまうが、「聞く耳を持たないのです」だと子供らしさが出てくる気がする。
いぬわし文庫版、ネット版と見比べて読み、変更のあった箇所を考えてみれば、日本語を深くするコツが少し見えてくる気がする。

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さりはま書房徒然日誌2024年4月21日

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月三日を読む

ーわずかな文字数で様々な思い、現在、過去、未来を語るのは散文だからなんだろうか?ー

一月三日は「私は凧だ」で始まる。
「千日の瑠璃」は一日ごとに語り手が順々に変わるが、一日がおそらく640字程度で書かれいるのだろうか(正確に数えた訳ではなく、おおよその目算である)。短歌にすれば二十首ほどになる。


一月三日も他の日と同じようにわずか4ページで語られてゆく。

そこで語られるのは凧の思い、世一、世一の飼うオオルリの囀りが跳ね返す平凡な日常、出所した世一の伯父の獄の日々と現在と未来である。

散文と短歌それぞれの魅力があるとは思うけれど、短歌二十首でこれほど語ることは、一人称視点や五七五七七の縛りがあるから、私には難しい気がする。そういう縛りがあるから短歌は面白くもあるのだが。
わずかな文字数でここまで語ることが出来るのは、そうした縛りがない散文ならではの強み……のような気もする。
とにかく、よくぞこれだけ短い文字数で語るもの……と感心する。

以下引用文。様々な想いを語ったあと、凧は世一によって爪切りで糸を切られ、空へ飛んでいく。

色々語った後で、世一が点のように見える終わり方が映画のようでもあって印象に残る。

ほとんど理想的な風を絶え間なく受けて
   心憎いほど巧みな造化と天工の中心へ向かって
      測り知れぬ自負を背負ったまま
         私は高々と舞い上がってゆき、

         今や世一は
            取るに足らない点の存在だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」381ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年4月20日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー繰り返される「世一の」に込められた思いー

一月二日は「私は酒だ」で始まる。「昨晩からずっと私だけを相手にしてきた世一の父は」と正月らしい、朝から晩まで飲んでいる風景が書かれている。
以下引用文。世一の母と姉が火鉢で餅を焼いて弟に食べさせている風景である。
繰り返しを嫌う丸山先生が、一月二日のページでは「世一の父」「世一の母」「世一の姉」というように「世一の」を反復しているのは何故なのだろうか?
どんな思いを込めて「世一の」を繰り返しているのだろうか?
世一という重しを背負って生きていく彼らは、世間一般の父、母、姉とは異なる苦しみ、優しさがあるという思いを込めて「世一の」を繰り返しているのかもしれない。

世一の母は火鉢を使って餅を焼き
   世一の姉は焼き上がった餅を細かく千切って弟の喉を通り易くしてやり
      世一はその餅をせっせと口へ放りこんでいた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」375ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月19日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー門松と段ボール箱にイメージを重ねて語る面白さー

一月一日は「私は門松だ」で始まる。銀行に飾られたものの、「天皇が老衰で死にかけている」ために、撤去されてゴミ捨て場に追いやられた門松が語る。

世の中も「先の戦争について言い渋る気配が濃厚に」なっていく中、門松はゴミ捨て場の段ボール箱たちにこう怒りをぶちまける。
段ボールにこの国の戦後の人々を重ねているような視点が面白くもあり、痛くもある。

しかし
   製造されたときから身の程を弁え過ぎるくらい弁えている
      見ているだけで腹が立つほど従順なかれらは
         皆黙りこくって
            消耗品としての身の上を甘受していた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」371ページ) 

以下引用文。門松も同様に人々の上に立つ「象徴」を象徴する存在かと面白く思った。ゴミ捨て場の門松と段ボール箱に、戦後日本社会の象徴と人々を思い描く視点は、丸山先生ならではと思う。

自分はこれからも生きてゆかなければならぬ人々を祝うための
   象徴的な存在であり、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」372ページ)

以下引用文。象徴である存在にも臆することなく、元の場所に戻してやる世一の行為を描くことで、不自由である筈の世一が象徴より上の存在に思えてくる。「遠い春の方向へゆらゆらと立ち去った」という文が、世一の不思議な存在を強調しているようでもある。

だがそいつは
   震える手をいきなり差し伸べ
      私を抱くようにして銀行の正面玄関へと運び
         元通りの位置に置き直してから
            まだ遠い春の方向へゆらゆらと立ち去った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」373ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年4月18日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー丸山先生の世界とも重なる風景ー

十二月三十一日は「私は鐘だ」で始まる。無人の古寺にある全自動式の鐘が鐘が語る。
ありがたみの無さにまほろ町の人から馬鹿にされている鐘の音でも、世一とオオルリは聞き惚れる。そんな彼らに申し訳なく思った鐘が、百九番目の音をおまけして盛大に放つ。

以下引用文。そんな百九番目の音に対する世一とオオルリの反応を語る言葉が興味深い。「元々数というものに頓着しない少年と小鳥」に、この二者の不思議な魅力ある世界が語られているように思う。

先日、丸山先生がnoteに書かれていたエッセイにも「俗に言われるところの〈天然の性格〉、幸いにもそれを見事に備えた妻と、現在という時間の観念しか持っていないタイハクオウムのバロン君こそが頼みの綱なのです。」という一節があった。
世一とオオルリのこんな世界にも近い風景に思え、ほのぼのとしたものを感じてしまった。

世一とオオルリに自分の世界を重ねた丸山先生の心境なのかもしれない……とも思う

されど
   元々数というものに頓着しない少年と小鳥に
      私の意図を推し量ることなど到底できず、

      そんな彼らに発生した純なる感激は
         そっくりそのまま次なる年へと静かに持ち越されてゆき
            願わくば
               より幸福ならんと祈るばかりだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」369ページ)

丸山先生のnote記事へのリンク 

https://note.com/maruyama_kenji/n/n981e053fe5c4


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さりはま書房徒然日誌2024年4月17日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー説明のない「書きかけの手紙」「食べかけのミカン」が物語を語るー

十二月三十日「私は隙間風だ」で始まる。まほろ町に駆け落ちしてきた二人(オオルリのバッジをセーターにつけた二人)が借りたあばら家に吹く風である。
以下引用文。そんな二人の生活が立ち現れるような、文である。どこ宛とは書いていないだけに、「書きかけの手紙」が一層気になってくる。親を説得する手紙なのだろうか。
「根拠なき希望がぎっしりと詰まった部屋」で普段の二人の会話が見えてくるようである。
「食べかけのミカン」の存在も、「根拠なき希望」と重なって思えてくる。

食べかけのミカンと
   書きかけの手紙のあいだを擦り抜けつつ
      根拠なき希望がぎっしりと詰まった部屋を
         でたらめに走り抜ける。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」364ページ) 

以下引用文。不自由な世一の動きをかくも美しく、この世にある存在の重さを伝えてくれる文だと思った。

そして
   累積する矛盾で成り立っているかのような
      夢幻的な歩行でさまよう少年に纏わりつき


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」365ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月16日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー塩分を嫌う丸山先生らしい文ー

十二月二十九日は「私は新巻き鮭だ」で始まる。湖畔の別荘で暮らす元大学教授のもとに届いた新巻き鮭が語る。
以下引用文。最初は庭先に吊るして楽しんでいた元教授だが、世一の姿に健康への執着が強まり、新巻き鮭は人に送ってしまう。
健康には人一倍気を遣い、塩分は「人類最初の麻薬」とまで言い切る丸山先生らしい反応だと思う。もしかしたら、ご自身の体験なのだろうか。
「通りがかるや」のあとで「突如として」と語を持ってきているおかげで、文が立体的に見える気がする。
「まだまだ死にたくはない」「せめてあと十年は生きたい」の箇所は、ひらがなの多い表記のせいか「 」がなくても、老人の声のように思えてくる。

つまり
   森と湖に挟まれた小道を
      意思に反して動いてしまう奇妙な体を持つ少年が通りがかるや
         かれらは突如として病の恐怖を思い出し、

         自分たちの健康を気遣って
            塩分の摂り過ぎがどうのこうのと言い出した。


まだまだ死にたくはない
   せめてあと十年は生きたい
      十年後には食べたくても食べられない体になっている
         こうした物はこれまでにもたくさん食べてきた、


         そんな会話がやり取りされるなか

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」360ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月15日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー小さな存在に向ける視線の優しさ、「鳴く」の繰り返し効果ー

十二月二十八日は「私はコオロギだ」で始まる。

「風呂場の予熱に頼って 少しでも長く生き延びようと頑張る ぼろぼろのコオロギ」と、刑務所を出所してきて背中に緋鯉の刺青がある男が五右衛門風呂に入るひとときを語っている。

コオロギ、それから刑務所から出てきた男……という世間から見られることのない存在に、あたたかい視線をそそいで語るところも、丸山文学の魅力だと思う。


以下引用文。そんなボロボロのこおろぎの思いを語りながら、小さな生き物でも自然界の一員である……そんな思いが伝わってくる。


同じ言葉の繰り返しを嫌う丸山先生にしては珍しく「鳴く」を繰り返している。そのせいでコオロギの鳴く声が聞こえてくる気がする。

私はただ漠然と命の糸を紡いでいるだけでなく
   消えがたい印象を残そうと常に心掛けながら
      我ながら健気に生きる自身のために鳴き
         大地に縦横に走るさまざまな命の形跡のために鳴き、
            終末なき世界であることをひたすら祈って鳴き、


            そして
                毎晩のように長湯をする
                   この家の主人を励ますために鳴く。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」354ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月14日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を読む

ー平凡な人間への慈しみ、「暦」と「カレンダー」のイメージの違いー

十二月二十七日は「私は暦だ」で始まる。
カレンダーではなく、暦なんだろうか……と思ったけれど、以下引用文を読んだら、やはりカレンダーではなく、暦のイメージなのかもしれないと納得する。

「暦」という言葉になぜか付きまとう地味さは何なのだろう?田舎町まほろ町のイメージに合うのは、やはり「暦」なのだ。

まほろ町の宣伝のために
   役場が少ない予算をやり繰りして作り
      関係先のあちこちに配ったものの
         評判がさほど芳しくない暦だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」350ページ)

以下引用文。役場の中間管理職である世一の父親が、役場からもらってきた暦を見る様子……希望も予定もなく、そのことに不満があるわけでもなく、平凡な人間の生活とはこういうことなのだろうと思う。
どこかユーモラスな父親の姿に、平凡であることへの慈しみの視線を感じる。

だからといって
   来年の予定を立てるためでも
      漠とした希望を胸に年を越すためでも
         歳月の虚しさを改めて噛みしめるためでもなく、


         彼のどんぐり眼は
            私の三分の二を占めている
               郷土出身の演歌歌手に注がれているのだ。


 (丸山健二「千日の瑠璃 終結1」351ページ)

それにしても「暦」と「カレンダー」では、どこか違うのだろうか……と日本国語大辞典を調べてみた。
以下引用文は、日本国語大辞典より「暦」の説明。例文は省略したが、日本書紀720年から1862年までの例文が載っていた。昔から使われ、でも近代ではあまり頻繁に見かけなくなった語なのかもしれない。

時の流れを、一日を単位として年・月・週などによって区切り、数えるようにした体系。また、それを記載したもの。昼夜の交替による日の観念から出発し、月・太陽の運行と季節感との関係などに注目して発達した。太陰暦・太陰太陽暦・太陽暦などに分けられる。現在用いられているのはグレゴリオ暦。なお、現在日常用いられる暦表には、月ごとに曜日と対照させたものや、日めくりの類がある。

以下引用文は「カレンダー」について日本国語辞典より説明と引用文。説明もあっさりしている。例文を見てみると、暦にカレンダーとルビがふってあり、暦と比べるとお洒落な印象のある言葉なのだろうか……と思う。

暦(こよみ)。特に、一年間の月日、曜日、祝祭日などを、日を追って記載したもの。鑑賞用の絵、写真が添えられていることが多い。
*社会百面相〔1902〕〈内田魯庵〉女学者・下「外国製の美くしい暦(カレンダー)」
*嘲る〔1926〕〈平林たい子〉七「小山は、カレンダーを一枚はいだ。三十一日は青紙だった」

田舎町まほろ町で配られるのは、どこか昔風の響きのある「暦」がいいのかもしれないと思った。

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さりはま書房徒然日誌2024年4月13日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー「千日の瑠璃」終結とネットバージョン、其々の魅力ー

先日、丸山先生が主宰されている「いぬわし書房」から、「千日の瑠璃 終結」を更に書き改めた「千日の瑠璃 ネットバージョン」が十日分公開された。今回は無料だそうである。

現在私が読んでいる「終結」とはパッと見ただけでも違うところが多々ある。

ネットバージョンはまず横書きである。左揃えである。そして終結の「〜だ」調から「〜です」へ変化している。
そのせいかイメージがガラリと変わっている。
私が思うに「〜だ」調だと、語り手の物たちに人の意思が反映されているように感じる。
これが「〜です」調になると、意思が排除され、より物が語る世界めいてきて、幻想味が強くなる気がする。
どちらの語り方にも、それぞれの魅力があるように思う。

さらに「終結」と「ネットバージョン」を比べると、言い回しを書き直されている箇所が無限にある。「終結」の文からネットバージョンの書き直しをされている箇所は、普通なら気がつかないで通り過ぎてしまう表現である。
でも、ここで立ちどまって、丸山先生が書き直した箇所を見てみると、言い回しを変えることで文の生命力がさらにアップしていることに気がつく。

一日め「私は風だ」(終結)、「私は風です」(ネットバージョン)で始まる双方の文を見比べてみる。

以下引用文は紙版の「終結」から。

気紛れ一辺倒の私としては
   きょうもまた日がな一日
      さながらこの渾沌とした世界のように
         大した意味もなく
            岸辺に沿ってひたすらぐるぐると回るつもりだった。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結」2ページ)

以下引用文は「千日の瑠璃 ネットバージョン」から。

気紛れ一辺倒の私としましては
きょうもまた日がな一日
さながら混沌に支配されたこの世界よろしく
特にこれといった意味もなく
曲がりくねった岸辺に沿ってひたすらぐるぐると回るつもりでした。


(丸山健二「千日の瑠璃 ネットバージョン」)

「混沌に支配されたこの世界よろしく」の方が文が生き生きと、「岸辺」だけよりも「曲がりくねった岸辺」の方が、読み手も勝手にだけど岸辺の形を想像して遊べていいな……と思った。

以下が公開中の「千日の瑠璃 ネットバージョン」のアドレス。
「終結」を片手に読み比べると、小さなこだわりで文章が生き生きしてくる変化を味わってみるのも楽しいと思う。

https://note.com/maruyama_kenji/n/n5c99aff8edb3

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さりはま書房徒然日誌2024年4月12日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーイメージを排除することでオオルリの青が鮮やかになるー

十二月二十六日は「私は青だ」で始まる。
以下引用文。きっぱりと「青」とだけ言い切って、他のイメージは一切否定する潔さが、青のイメージを際立たせる。そうして凝縮した「青」が、世一の視点で「瑠璃色」「オオルリの羽の色」と変化して、読んでいる者も世一の心をいつしか楽しんでいる。

水色でも空色でもなく
   悲しみの色でもない、

   青いから青としか言いようがない
      青の世界に確然と存在する
         紛うことなき青だ。

しかし少年世一は
   そんな私のことを瑠璃色と決めつけ
      オオルリの羽の色そっくりだと信じきっていて、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」346ページ)

以下引用文。世一は「青」のセーターを編み始めた姉に、もう一色入れるようにせがむ。ここでも「雪の白でも 死の白でもない」とイメージを否定することで、世一が見つめる白が読む者の心に再生される気がする。

そして
   オオルリの腹部を占めている白を、

   雪の白でも
      死の白でもない、

      ひとえに私に添えて
         引き立たせるための白を
            色見本として見せ、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」347ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年4月11日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーユーモラスのあとの悲哀だから心に沁みるー

十二月二十五日は「私はケーキだ」で始まる。半額にしても買い手のつかないクリスマスケーキが語る。

以下引用文。ケーキに「私の寿命をあと一時間と区切り」「あっという間に五十九分が過ぎ去り」と語らせるところにユーモラスなものを感じる。

さらにクリスマスケーキが見たケーキ屋の主人も「死刑執行人のぼってりした手」と何ともユーモラスに語られている。

世一に売れ残りのケーキをやろうとラッピングまでしたところで、やはり思い留まってゴミ箱に捨ててしまう。

そのあとで店を訪れた世一と母親が、高いケーキを見て買わずに帰る遣る瀬なさ。
ユーモラスな場面の後なので、その悲哀がじわじわ沁みてくる感じがある。

菓子屋の主人はさんざん舌打ちをしてから
   私の寿命をあと一時間と区切り、

   すると
      あっという間に五十九分が過ぎ去り、


      とうとうガラスケースが開けられて
         死刑執行人のぼってりした手がみるみるこっちへ伸びてきて、

         あわやというときに
            糸のように細い彼の目が
               ショーウィンドーの向こうを行く
                  青い帽子をかぶった少年の姿を捉えた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」342ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月10日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー作者の理想像にも思えるストーヴつくりの青年ー

十二月二十四日は「私は口実だ」で始まる。
世一の姉が一方的に好意を抱くストーヴつくりの青年。姉がその青年に近づくための「口実」である。ストーヴつくりに没頭する青年の背後から、注文したい旨を伝えるが気がついてもらえず……。

以下引用文は、その後の展開である。高倉健が演じたら決まりそうな場面だと思いつつ読む。もしかしたらストーヴつくりに浸る青年は、丸山先生の理想とする姿なのかもしれない。
ガスバーナーの炎の動きは、たしかに「火花が織り成す抽象模様の次元」という描写がしっくりくると、思いもよらない表現に感心する。

しばらくして気を取り直した彼女は
   いつでもかまわないと言い
      気長に待つと言ってから
         相手の正面に回りこんで名乗ろうとしたとき、

         男は「わかった」とひと言呟いて
            ふたたび炎の色を青に戻し、

            火花が織り成す抽象模様の次元へ没入して
               二度と客に注意を向けななかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」341ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月9日

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

ーひとつの作品の中に百面相のように作家の様々な顔が見えるー

十二月二十三日は「私は誕生日だ」で始まる。この日は実際、丸山先生自身の誕生日でもあるところに、なんとも微笑ましいものを感じる。
「色褪せてしまった 売れない小説家の誕生日だ」などと書いてはいるが。

丸山先生の生活を思わせる「まだ夜が開けきらぬうちに目を覚まし」「午前中いっぱい書きつづけ」「普段と変わらぬ質素な献立」「スクーターに真っ黒いむく犬を乗せ」という言葉が散りばめられているのも楽しい。

以下引用文。
己を無視して、普段通りの執筆を続ける作家に腹をたてた誕生日が発する言葉である。また、これは作家の内心にひっそり巣食う思いのような気もする。
一歩距離をおいて自身の心、妻の反応をユーモラスに書くこの世界は、現在丸山先生がnoteに執筆されているエッセイとも共通する部分があるように思う。
ここではなんとも言えない、書いているのが楽しくて仕方ないという想いが漂ってくる。
楽しんだり、悲しんだり、怒ったり……ひとつの作品の中でも、作家が見せる顔は様々……どれが本当の顔なのだろうか。

取り残されたというか
   置いてきぼりを食らってしまった私は
      遠ざかって行く彼の背中に向かって
         「それがどうしたあ!」と怒鳴ってやり

ついで
            真実や真理を知ったところで
               何がどうなるものではないだろうと
                  そんなことをわめき散らし、

                  すると彼の妻に
                     「もっと言ってやって!」と
                         炊きつけられてしまい、

              
                         なんだかそれきり興醒めして
                            出番を完全に失った。 

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」337ページ    

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さりはま書房徒然日誌2024年4月8日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーまほろ町では育てるのが難しいシクラメンを登場させた心は?ー

十二月二十二日は「私はシクラメンだ」で始まる。「根は不精者のくせに人一倍見栄っ張りの女」に抱えられて、まほろ町にやってきた真紅のシクラメンが語る。
丸山先生はシクラメンがお好きなのだろうか?お庭見学に伺ったとき、シクラメンの中でも丈夫だという、原種の小さなシクラメンが庭に植えられていた記憶がある。
以下引用文を読むと、あらためてシクラメンを大町の気候風土で育てる難しさを思い、まほろ町で育てるのはかなりハードルが高いシクラメンの鉢を登場させた意図を考える。やはりシクラメンが好きなのだろうか?

鼻歌を唄いながらきらきらと輝く瞳を窓の外に向ける女は
   たとえ地獄だろうとたちまち馴染んでしまう能天気な雰囲気を醸し、

   それに引き換え私の方はそうもゆかず
      過酷な自然でいっぱいのこの土地は
         園芸種の柔な植物に適しておらず、

         寒気のみならず
            どうやっても馴染めそうにない原始的な空気が
               そこかしこに漂っていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」331ページ)   

以下引用文。そんなシクラメンが語る世一の姿である。
「クラクションなどものともしない」「クラゲのごとき動き」「もたもたと」と語られる世一にも、語るシクラメンにも、双方にこの世離れした不思議なものを感じてしまう。

そこへもってきて
   クラクションなどものともしない少年が
      まるでクラゲのごとき動きでもって
         前方をもたもたと横切っていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」332ページ) 

  

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さりはま書房徒然日誌2024年4月7日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー帽子ひとつに世一の心を反映させてー

十二月二十一日は「私は帽子だ」で始まる。
雪原を転がっている途中、世一が拾い上げ「つばの部分にじょきじょきと鋏を入れて両端を切り落とし、尖端を三角定規のように あるいは鳥の嘴のように尖らせた」帽子である。


以下引用文。「つむじのない頭」で世一の尋常ではない様子が少し仄めかされる気がする。

「長い影をじっと見つめ」「私の角度をあれこれ変えて」「鳥に近い形の影を作り」というところに、無邪気で打算のない世一の姿が少しずつ鮮明に見えてくる。
「一羽の鳥と化したのだ」という文で、世一のピュアな心が頂点に達する気がする。

そして私をつむじのない頭に載せると
   すぐにまた外へ飛び出して
      傾きかけた太陽に背を向けながら
         足元に落ちているおのれの長い影をじっと見つめ、

         それから私の角度をあれこれ変えて
            最も鳥に近い形の影を作り、

            かくして
               一羽の鳥と化したのだ。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」327ページ)
            

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さりはま書房徒然日誌2024年4月6日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー画数の多い漢字が強欲な老人のイメージと重なってくるー

十二月二十日は「私は野望だ」で始まる。通りすがりに世一の住んでいる町が気に入り、一帯を買い占めてゴルフ場にしてしまおうとする老人の心に巣食う野望が語る。

以下引用文。老人を描写する箇所、やたらに画数の多い漢字ばかりである。
そのせいかクセがありそうで、欲深い老人の姿が自然に喚起されてくる。

「累卵」(るいらん)なんて言葉、ここで初めて知った。
日本国語大辞典によれば「卵を積み重ねること。きわめて不安定で危険な状態のたとえ。」だそうである。
嫌な老人ばかり登場すれば、私の語彙力もアップするかもしれない。

身に纏っている物はともかく
   凡人とそう変わらぬ風貌の
      しかし
         これまで一度も他人の意見を参酌したことがなく
            累卵の危機を幾度となく切り抜けてきた
               矍鑠たる老人は嬉しそうにこう呟いた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」

以下引用文。世一を見かけた老人が、世一の手に紙幣を渡す場面。
世間的な欲望とは無縁の世一の反応が心に残る。だんだん話が進むにつれて、世一は病弱な少年というより、世俗を超越した強さのある存在に思えてきた。

けれども
   財界の大立者に手招きされた彼が
      秘書の手から高額紙幣を一枚受け取るや
         ふたたび私は際限なく膨張してゆき、

老人は呵々大笑し
            秘書は苦笑し
               病児は冷笑した。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」325ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年4月5日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーフクロウに世一のイメージを重ねてー

十二月十九日は「私はフクロウだ」で始まる。「哲学的な風貌とは言いがたい いつしか老いてしまったフクロウ」が鳴くのは「湖畔の別荘でひっそりと余生を送っている元大学教授」のためだ。
以下引用文。その大学教授をふくろうはこう語る。世の中に多い御用学者でしかない研究者を激しく非難する、丸山先生らしい言葉である。

そして昨夜の彼は
   ひたすら政府の御用学者をめざして
      あれこれとあくどい画策を試みた日々を深く恥じ、

      今宵の彼は
         奮闘空しくその立場に立てなかったことを残念がり


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」320ページ)

以下引用文。この箇所で登場する世一は、フクロウさながら夜の森の生き物を思わせる。「魑魅魍魎」という画数の多い漢字も、「ぬっと」という音の響きも、世一の得体の知れない不気味さを表している気がする。
それでいながら「そんな奴にはもう構うな」とこれまでになく大人びた言葉を発するのである。

するとそのとき
   私とは見知り越しの仲である少年世一が
      真っ暗な森の奥から
         魑魅魍魎を想わせる動きでぬっと現われ、

         そんな奴にはもう構うなと
            吐き棄てるようにして言う。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」321ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月4日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー飾りを虚しく思う心が丸山作品らしいー

十二月十八日は「私はクリスマスツリーだ」で始まる。
「まほろ町のうらぶれた商店街の真ん中にでんと据えられた」クリスマスツリーに憧れるのではなく、むしろその虚さを語ってゆく視点が、丸山先生らしい。

以下引用文。盲目の少女は父親が抱き抱えて、クリスマスツリーに触れさせても何の興味も示さない。
少女が待ち焦がれるもの……に、装飾よりも大事なものとは……と語りかけてくる丸山先生の視点を感じる。

ところが
   少女の心は何やら別の思いで塞がっているらしく
      人工的な虚飾など入りこめる余地がまったくない。

そんな彼女がひしと抱きしめたのは
   結局のところ私などではなく
      あとから遅れてやってきた黄色い老犬で、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」316ページ

以下引用文。クリスマスツリーを見て、世一がとったまさかの行動。
クリスマスツリーの言葉に、飾りという存在の虚しさを感じる。

その虚ろな響きのなかで
   自分には与えてやれるものが何もないことを
      つくづくと思い知らされるばかりだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」317ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月3日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー天空から降ってくるような言葉ー

十二月十七日は「私は羽毛だ」で始まる。空中でハヤブサに捕獲されバラバラになって散らばったツグミの羽毛が語る。
以下引用文。与一はそっと羽毛をつまみあげる。そのとき「双方が同時に打算的な錯覚に」陥る。
その錯覚の美しさ、羽をまとえば飛べるだろうという錯覚にかられて羽を拾い集め自分のセーターに刺す世一の純な心が印象的。
「熱き肉体」「翼の元」という言葉に、この世のものではない世界を感じてしまう。

私は少年から熱き肉体を借り受け
   少年は私から翼の元を譲り受けようとし、

   つまり
      少年は数十本にも及ぶ私を丹念に拾い集めて
         それを青いセーターに丁寧に突き刺し、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」312ページ)

以下引用文。「夢を飛ばすことがあたわず」「魂すら羽ばたかせられず」「心はすでにして大空に在り」という言葉にも、天空から語りかけてくるような、自由な視点を感じる。

結局私は少年の夢を飛ばすことがあたわず
   魂すら羽ばたかせられず、

   とはいえ
      当人自身はまったく意に介しておらず
         心はすでにして大空に在り、


(丸山健二「千日も瑠璃 終結1」313ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年4月2日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーよく観察している目から生まれるリアリティー

十二月十六日は「私はゴム長靴だ」で始まる。
しかも「少年世一が家族のために丘の麓まで抱えて運んで行く 底に滑り止めのスパイクが打ち込まれた 雪国ならではのゴム長靴だ」とある。
どうやら丘の頂の家に住む世一の一家は、丘の麓の小屋に通勤用自転車とかを置いてあるらしい。そこで靴の履き替えをするのだろう。
そういうスパイク付きの長靴があることも、坂道はそういう長靴で登ることも、長靴を並べた様子がオットセイに見えるという発想も、信濃大町に住まわれている丸山先生の実体験が滲んでいる文である。

その並べ方に満足して独り悦に入って
   オットセイの群れに似ているなどと思いながら
      上機嫌で口笛を鳴らした。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」307ページ)

以下引用文。人間に関しても、色々な人間を観察してコラージュして文にする……というようなことを話されていた記憶がある。やはり実となる存在が根底にあるせいだろうか、世一を描写する文に迫真性がある気がする。「けらけら」の繰り返し、「ばんばん」という平仮名で表記された言葉も文に動きを出している感じがある。

すると世一は
   だしぬけにけらけらと笑い
      笑いながら私に平手打ちを飛ばし、

      横倒しになった私を見おろしては
         またけらけらと笑い、

         それからいきなりわしづかみにして
            釘の先端があちこちにはみ出している板壁に
               容赦なくばんばんと叩きつけた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」308ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月1日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー今では失われたボーナスをめぐる風景ー

十二月十五日は「私はボーナスだ」で始まる。世一の父と姉のボーナスを囲む家族の風景が語られてゆく。しかも「小銭に至るまで」現金だ。そして炬燵の上に広げられる。
昔、口座振り込みでない人は、現金でボーナスをもらっていた……とはるか昔の勤務先での光景を思い出す。
引用文では、使い道について家族会議が開かれている。今の時代では失われつつある風景のような気がして、なんとも温かい気持ちがこみあげてくる。

世一の父と姉の心を去年と同じくらいに弾ませ
   一年の遣りきれない疲れを癒す
      待ちに待った暮れのボーナスだ。

一旦世一の母の手に渡った私は
   そのあと
      小銭に至るまできちんと炬燵の上に並べられ、

例年通り
        使徒について
           名ばかりの家族会議が開かれた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」302ページ)

以下引用文。姉は薪ストーブを七万円で買う約束をしてきた……と言い、母親と言い争いになる。おそらく好きな男がつくるストーブを申し込んだのだろう。そんな母親と姉の諍いには知らんそぶりの、父親と世一の様子が見えてくる文である。

父親は我関せずといった態度で酒をちびちびと飲み、
   世一はというと
      鼻息で私を吹き飛ばそうと大真面目に頑張っていた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」305ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月31日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーゴミ袋が宇宙にも思えてくる不思議さー

十二月十四日は「私はゴミ袋だ」で始まる。
ゴミ袋という捨てられるだけの存在が、なんとも哲学的に美しく、そしてそのユーモラスな存在に思えてくる丸山先生の語り口である。

さながら宇宙のごとく膨張した私たちは
夜中に降りた霜に覆われて
      うたかた湖の近くの空地にうずたかく積み上げられ、

      そして
         中身についてはお互いに触れないよう心掛け、

      少しでも早く片付けられて
         無へと帰せられるその時をひたすら願う。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」298ページ)  

以下引用文。世一が登場して「見るも無惨な姿になった私たちを丹念に拾い集めて 丁寧に折り畳んでから そっと寄り添ってくれる」
そんな世一とカラスの言葉のないやり取りが続く。世一の優しさ、不思議な強さが感じられる箇所である。

残飯漁りに余念がないカラスどもはというと
   生きるということはこういうことだとでも言わんばかりの
      そんな視線を少年の方へ投げ
         少年のほうでもまったく同じ意味を込めた眼差しを
            数倍もの強さで投げ返す。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」301ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年3月30日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー虚無と不似合いな相手、虚無らしくない色が印象的ー

十二月十三日は「私は虚無だ」で始まる。
以下引用文。
虚無に取り憑かれる人が羅列され、その意外性も、リズミカルな並べ方も思わず考えてしまう。
さらに「私の餌食となる」という表現に、虚無が腕をのばしてくる姿が、見えない筈の姿が見えてくる不思議さがある。

さらに「黄金色の光をいっぱいに浴びた私」という虚無のイメージには似つかわしくない光景と色が美しく印象に残る。


「この世そのものを裁く権利を有しているかもしれない少年世一」という言葉に、丸山先生の怒りやら少年世一の不思議さやらを思ってしまった。

不用意に生きている者
   幸福に慣れ親しんだ者
      価値ある一時に潜心する者
         常に先見ある行動を取れる者
            存分に才腕を発揮できる者……
私の餌食となるのはそうした人々だ。


黄金色の光をいっぱいに浴びた私は
   もしかするとこの世そのものを裁く権利を有しているかもしれない
      少年世一と共に丘の坂道を下り、 


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」295ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月29日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー宿が生きているように思えてくる文の不思議さー

十二月十二日は「私は宿だ」で始まる。かなり歴史のある、でも古びた感じのある宿が語り手である。
宿の名前は「三光鳥」、ここでも鳥が使われている。「千日の瑠璃」では、あるいは丸山先生にとって鳥はライフワーク的存在なのかもしれない。

以下引用文。「呑みこんでは吐き出し」を繰り返すことで、宿に生命が宿っているような気がして、宿が語るということに不自然さがなくなってくる。

そんな客を呑みこんでは吐き出し
   吐き出しては呑みこみながら


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」290ページ)     

以下引用文。どの語り手のときも、世一がさりげなく登場してその存在が語られてゆく。ここでは「水と土のちょうど境目辺り」「陽炎のごとく」「色即是空を地でゆく」と表現されることで、世一の現実離れした不思議さが伝わってくる。

今朝方女将は
   わが敷地の一部になっている湖岸で
      水と土のちょうど境目辺りに
         陽炎のごとくゆらゆらと揺れている
            色即是空を地でゆくような存在の少年を
               見るともなしに見て、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」293ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年3月28日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー見えない「矛盾」がふらふらする場面では「あ音」が多くなっている!ー

十二月十一日は「私は矛盾だ」で始まる。
うたかた湖に生徒と出かけた教師が「白鳥と人間の命の重さになんらの差はない」と説く。
生徒たちは教師の話に感激しながら「面白半分で世一のことを突き飛ばし」てしまう。


気づいた貸ボート屋のおやじは白鳥の餌やりを中断する。
そして「弱い者いじめをした子どものひとりひとり」に「猛烈な平手打ちを食らわせたのだ」。


教師は「子どもに暴力を揮うような者に白鳥を愛する資格はない」と言う。
おやじの方は「自然の大切さを教える前に 弱者をどう扱うべきか」教えるようと言う。


以下引用文。
このどっちにも言い分のある矛盾した主張の最中、白鳥と世一が食パンの耳を巡っての大騒ぎを起こす。
「矛盾」が身の置き所を失って、天に、地に彷徨う。


この箇所は、入力していて「あ音」が多いのに気がついた。

「あ音」はひらけるイメージ、浮上するイメージがあるようにも思う。
丸山先生はそこまで意識されたのだろうか。
矛盾という目に見えないものが、ふらふら彷徨う様を書いているうちに、知らずと「あ音」が多くなったのかもしれない。

そして私は
   身の置き所を失ったことで破れかぶれとなり、

   あげくに
      風船のように膨らんで空中へと逃れてから
         喧騒の上空をすいすいと飛び回り、

         あるいは
   岸辺に打ち寄せる単調な波と戯れ、

あるいはまた
               桟橋の突端に舞い降りるや
                  冷徹自若として佇んだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」289ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年3月27日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー焚火という言葉には表現し難い存在は、こう語ることもできる!ー

十二月十日「私は焚火だ」で始まる。「焚火」とは風情のあるものだが、いざ文で語ろうとすると難しいもの。
以下引用文。丸山先生はまず焚火のもととなる枯れ葉から仔細に語っていくから、悲しい雰囲気がそれとなく伝わってくる。

寒々しい袋小路の突き当たりに吹き溜まるのを待って
   丹念にかき集められた枯れ葉による
      落日の光景によく似合う

         それでいてどこか物悲しい焚火だ。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」282ページ)

以下引用文。さらに火を囲んでいる人間や動物が語られてゆくと、そうした周りにいる者たちの性格が、火にも投影されるようで、どこか幻想的なものに思えてくる。
丸山先生はあまりこういうことを指摘する人は少ないようにも思うけど、子供の世界、童話めいた世界を書いてもピッタリするところがあるように思う。

私の番をしてくれているのは
   どこか白ウサギを想わせる少女で、

   そして
      盲目の彼女を見張っているのは
         痩せさらばえた黄色い老犬だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」282ページ)

以下引用文。焚火の煙に人の生き様を重ねる丸山先生の視点にも、ユニークなものを感じる。
このあと世一が出てきて、盲目の少女から焼き芋をもらい、ガツガツ食べる場面も微笑ましい。
焚火という生なき存在が、周囲の人の世界をつぶさに観察する声に、炎の揺らぎを感じつつ読む。

私のほうでも
   少女が放つ並々ならぬ温もりをしっかりと感知しつつ
      青く澄んだ芳しい煙を
         人々それぞれの運命の方向へ
            真っすぐに立ち昇らせている。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」283ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月26日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー鳥のイメージが繰り返され、読み手の頭の中で一つにまとまってゆくー

十二月九日は「私はかんざしだ」で始まる。この箇所では、小鳥がふんだんについた「かんざし」から、老いた芸者の顔の鳥の形をした痣まで、形を変えながら鳥のイメージが丁寧に語られている。
以下引用文。こんな可愛らしいかんざしがあるのだろうか……そんなかんざしを老いぼれの芸者がしている意外さ。

老いぼれ果てた芸者の頭で小気味よく揺れる
   金と銀の小鳥をふんだんにちりばめた
      鼈甲のかんざしだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」278ページ)

かんざしが語る、それも小鳥をふんだんに散りばめたかんざし……という有り得ない感じが、「合計十五羽」と具体的に数字が出てくることでピューっと消えてゆく。

すっかり凍えた手に息を吹きかけて
   ひと足踏み出すたびに
      私は合計十五羽の鳥をいっせいにさえずらせる。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」278ページ)

以下引用文。
老いぼれ芸者の顔の痣も鳥の形になぞらえている。
「千日の瑠璃」では、世一と与一が飼っているオオルリが大切な鍵なのだろう。モノが順々に語って話を進めてゆく……という突拍子もない形を取りながら、オオルリという鳥のイメージなど全体を貫く共通項があるから、馴染んでしまえば追いかけやすい気がする。

飛んでいる鳥がガラス戸にぶつかって
   そのまま貼り付いたとしか思えぬほどの

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」279ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年3月25日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー辛い過去もさらさらと、でもしっかりと流してゆく筆力ー

十二月八日は「私は日溜まりだ」で始まり、「年寄りたちに迫りくる死の足音を 意識の外へ追い出してしまうほどの 申し分のない日溜まり」が語る。

以下引用文。二人の老人が「目下死にかけている天皇」について話題にしている。昭和天皇のことだろうか。


老人たちのさりげないやり取りの中に、戦争責任へのはっきりとした丸山先生の考え方がうかがえる。

そんな厳しい現実を一瞬にして「聖なる領域へと」運び去る川の流れ。「聖なる領域」とは、どんな領域なのだろう?川の下流の茫漠とした感じが、戦争で亡くなっていった者たちの取り返しのつかない哀しみとかぶさってくる気がする。

厳しいことをさらりと書き、辛い現実を大きな哀しみに変えるところに魅力を感じる。

大分苦しんでいる様子ではないかと
   ひとりが言うと、

   もうひとりが
      自分だけあっさり死んでしまったのでは申し訳が立たないとでも
         思っているのではないかと言い、

         すると
            川面がきらきらっと光ったかと思うと
               かれらのそんな言葉を
                  聖なる領域へと運び去ってしまう。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」275ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月24日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー丸山作品には子どもや異界の者たちがよく似合う気がするー

十二月七日は「私は出会いだ」で始まる。「だしぬけに少年世一を訪れた めくるめく出会い」の相手とは、うたかた湖の主である巨鯉である。

以下引用文。「地球の回転に合わせつつ今を生きる」という表現に、世一の不自由な体を表していながら、世間一般の常識の基準にとらわれない天衣無縫さを感じる。

常に地球の回転に合わせつつ今を生きる少年世一に

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」270ページ)

以下引用文。「摩訶不思議な人間の子ども」という「出会い」が語る言葉に、なんとも異界に住む者たちらしさ感がある。
「ぶつくさ呟き」「ガスで膨らんだ溺死体」と表現される巨鯉も、湖の主らしい性格が滲み出る文である。
丸山作品は、こういう子どもと異界の者たちを主人公にしてもピッタリするようなユーモア、優しさ、常識にとらわれない感じがあると思う。

冬眠を中断しても見ておく価値のある
   なんとも摩訶不思議な人間の子どもがいるとかなんとか言って唆すと
      その鯉は
         嘘だったらただではおかないなどとぶつくさ呟きながら
            ガスで膨らんだ溺死体のように
               ゆっくり浮上してきた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」271ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月23日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ークレーンという語り手にぴったりの冷ややかな言葉ー

十二月五日は「私はクレーンだ」で始まる。

以下引用文。上棟式のために使われる大型のクレーンが見つめるのは、「孫の誕生に期待して資金の全部を出した双方の親」だ。

だがそうした行為が、子供夫婦から「与えた以上のものを奪ってしまった」と冷ややかに語る。このクールさも、クレーンという無機質な存在だから違和感がない気がする。

「生きる目的の半分と描いて楽しむ夢の半分をあっさり失った」「あてがわれた幸福を前にして幼児同然」という言葉に、丸山先生が理想とする生き方が見えてくる気がする。

要するに
   これで若いふたりは
      生きる目的の半分と
         描いて楽しむ夢の半分をあっさり失ったことになり、

         いくら言っても言い甲斐のないかれらは
            あてがわれた幸福を前にして
               幼児同然の体たらくだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」264ページ)

そんなクレーンが見つめる、上棟式の餅まきを必死になって拾い集める人々の中に、世一もいたり、丸山先生らしき人物も紛れ込んでいるのに思わず微笑んでしまう。
自分自身の姿を表現するのに、こんなふうに絵画のようにして、距離を置きながらユーモアを込めて描く方法もあるのかと思った。

私に吊るされて鳥を演じてみたいと本気で願う少年や
   思索の疲れを癒してくれそうな黒いむく犬を連れた男が
      無様に地べたを這いずって
         天から降ってくる
            さほど心が籠っているとは思えぬ金品を
               血眼になって拾い集めていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」265ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年3月22日(金)

PASSAGEでお世話になっている小声書房さん主催、田畑書店会場のポケットアンソロジー読書会に行ってきました!
文アル好きにはたまらない会だと思います。
文アル組ではない私も楽しかったです!

21日北風がピューピュー吹きつけるなか、PASSAGEでとてもお世話になっている小声書房さん開催の読書会に行ってきました。
小声書房さんはまだお若いながら、埼玉北本で個性あふれる書店を経営されている方。PASSAGEにも週に何日か勤務され、搬入のときによくお世話になっています。


ポケットアンソロジー読書会ですが、通常は月に一度北本にある小声書房さんの書店で10時から開催……なので夜型人間の私には時間的にハードルがすごく高くて、気になりつつも参加できずにいました。
ところが今回は田畑書店を会場に18時15分から開催とのこと。これならいくら何でも寝過ごさない、時間的に大丈夫!(なんて情けない……)


さらに田畑書店さんの本はPASSAGEの私の棚にも数冊置いていますが、どれも持った時の感触の良さ、レイアウトの美しさ、校正ミスのなさがすごく心に残ります。この丁寧な本が作られている現場を拝見したいと参加を申し込むことに……。

参加しての感想ですが、非常に楽しく過ごすことができました。
そして私も2015年4月からミステリ読書会を開催してきていますが、小声書房さんの楽しさあふれる読書会と比べて反省するところ多々、お若い小声さんの読書会への姿勢に学び……というか、良い意味で衝撃を受けました。

私が開催している日比谷ミステリ読書会は、ゲストに翻訳家、ミステリ評論家、作家の方々に来ていただき、時によりけりですがお話していただいた後に語りあう……形。
元々先生方のお話を聞く、知識を得るということを楽しみにされる方が多く、できれば自分から語りたくない……というシャイな方が多いようにも感じています……。
なので昨日の読書会は「なぜこんなに楽しそうに語るのだろう?」と私も楽しみながら、小声書房さん、田畑書店さんの、皆さんから会話を引き出す魔法の杖の振り方にも見とれていました。

https://x.com/infotabata1968/status/1770752348169658470?s=61&t=0IAvG-WbAxkiVd1OmwzreQ

まず八人がけのテーブルに五人で座る、田畑書店社主の大槻さんは一歩離れたところに控えめに座る……という距離感が、読書会としては丁度いいのかもしれません。
日比谷ミステリ読書会の場合、24人、16人くらいの会場にロの字のことが多く……。皆さん声は大きいから余り気にしていませんでしたが、ロの字より、小声書房さんのようにテーブルを囲む方が話しやすい雰囲気が生まれる気がしました。

https://x.com/kogoeshobo/status/1770782709897384138?s=46&t=Ki4ptikIXq-WAEIIqi7hGQ


さて読書会が始まって自己紹介やら挨拶をしたあと、ザザッとテーブルの上に田畑書店ポケットアンソロジーの見本が広げられます。
みるみるうちにテーブルの中央がポケットアンソロジーの海と化します。
参加者はこの海に溺れながら、これから自分が紹介するポケットアンソロジーを一冊探します。
「◯◯のポケットアンソロジーがあれば教えて下さい!」という声が飛び交い、はじまって直ぐにみんなで何やら宝物探しをしている気分になります。
取り上げるポケットアンソロジーが決まったところで30分ほどかけて読み、その30分で紹介内容やら感想やら考えます。
その場で読んで参加できる……というハードルの低さも、ポケットアンソロジーならでは。
日比谷ミステリ読書会の場合、原則読んでの参加をお願いしていますが、皆さん忙しく、開始直前に読了される方もいらっしゃったりして、忙しい現代人が本を読んで読書会に参加する難しさも思います。

ポケットアンソロジーの海から参加者が選んだのは以下。見事にバラバラです。参加者はめいめい秘密の数字が渡され、感想を言い終えた方が好きな数字を選び、その数字の方が感想を語るという形です。まずは小声書房さんからスタートしました。

・マリオ・コーヒー年代記 吉田篤弘
・おじいさんのランプ 新美南吉
・秋 芥川龍之介
・生涯の垣根 室生犀星
・みちのく 岡本かの子
・沈黙と失語 石原吉郎

https://x.com/infotabata1968/status/1770752800537915861?s=61&t=0IAvG-WbAxkiVd1OmwzreQ



これだけバラけた選書で話になるのか……と思われるかもしれません。
でも、そこは小声書房さんがそれぞれの本の魅力、感想のツボを抑えてリードされ、話はぐんぐん盛り上がっていきます。

さらに今回はポケットアンソロジーの生誕地、田畑書店での開催ということもあって、田畑書店社主・大槻さんがそれぞれの作品の感想に応える形で作品の魅力を語ってくださいました。あれだけたくさんあるポケットアンソロジーの中の一文を記憶され、ささっと引用されるあたり、版元さんの熱意を感じました。

本を販売される小声書房さん、本を作られる版元の田畑書店さんならではの本への愛情、感想を語る読者への感謝が伝わってきます。小声書房さん、田畑書店さん、どちらも感想にピピっと反応して、さらに作品への想いが深まるような見方や知識を提供してくださり有難かったです。

かたや翻訳家や評論家をゲストにお願いしてきたわが日比谷ミステリ読書会ですが……読み手の感想へのリアクションが悪かったなあと反省をすることしきり。
そして同じ本に関わる仕事でも、版元、書店、翻訳家、評論家では、読者の反応への関心の度合いがまったく違ってくる……当たり前かもしれませんがそんなことを思いました。

次回の日比谷ミステリ読書会のゲストは著者を招く予定ですが、著者の場合、どんな風に反応するのだろうか……今から楽しみです。

こうして楽しく読書会が終わると、若い参加者たちは見知らぬ者同士でもこれまで収集してきた文アルグッズを手にまた熱く盛り上がり……。
私のような年寄りは、実物の作家よりもはるかに美化された顔の作家たちに驚くやら羨むやら。
でも文アルという年寄りには思いも寄らない入り口から入って、田畑書店のポケットアンソロジーを指針に、作品を読み、一人で読書会に参加されようとする若さがひたすら眩しかったです。

文アル好きの方は小声書房さんのポケットアンソロジー読書会、おすすめです。
さらにポケットアンソロジー発祥の地、田畑書店でまた開催されることがあれば、ポケットアンソロジー見本の海をわさわさかき回す幸せを体験できるのでお勧めです
そして読書会でワイワイ話しているときも、部屋の奥で黙々と作業されている田畑書店のスタッフの姿が見えました。両手に手袋をはめ、ポケットアンソロジーを一冊ずつ透明のビニール袋に大事そうに入れていく様子に、田畑書店の丁寧な本の秘密を、ほんのちょびっと見たように思います。

感想で発表したポケットアンソロジーを一冊、お土産に頂き帰途へ。

今回のお若い方の姿に反省しながら次回、日比谷ミステリ読書会の準備を少しずつ進めていきます。

次回日比谷ミステリ読書会の案内

課題本 篠田真由美「ミステリな建築 建築なミステリ」

ゲスト 篠田真由美

https://www.xknowledge.co.jp/book/9784767832616

日時 2024年6月16日(日)13:30〜16:30

場所 早稲田奉仕園222号室 教会の隣2階

会費 場所代+資料代を人数で割る予定、千円くらい

定員 15人
(要申込 biblio⭐︎ssugiyama.xsrv.jp までメールでお申し込み下さい。
 ⭐︎は@に変換ください。返信が届いて申し込みが確定になります)

ゲストより 必ず本を読んでご参加ください。
      できれば事前に質問くださると有難いです。 

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さりはま書房徒然日誌2024年3月21日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーありふれた食べ物が多いのは?ー

十二月四日は「私は電気毛布だ」で始まる。瀕死の状態のオオルリが世一と一緒に電気毛布で温まる場面が微笑ましく書かれている。

丸山先生の作品には、食べ物を食べる場面が時々出てくる。その食べ物の中で多いのが「卵かけご飯」だったように思う。


以下引用文。
この場面では、世一が「夜食のジャムパン」を頬張る様が書かれている。食べ物を食べる様子にも、世一なら子供らしさが出ているようで、ありふれた食べ物にもその人らしさがでる気がする。
普通の、どちらかと言えば大変な境遇にあることの多い人物を書く丸山先生だから、食べ物もすごくありふれた物になるのだろうか……と思った。

世一とオオルリが交わす会話にも、両者の気取りのない、率直な間柄が伝わってくる。

四六時中付き纏う孤影をどうにか追い払った世一は
   夜食のジャムパンを半分以上口の外へこぼしながら
      むしゃむしゃと頬張り、

      そうやって
         寝食を共にする両者は
            目と目を見交わしながら
               打ち割った話をし、

               おまえはおれに看取られて死ぬのだと

                  そんなことを少年が言うと、
                  オオルリは
                     寸分違わぬ言葉をそっくりそのまま返す。

そんなかれらは
   丘にぶつかって砕け散る風の音と併せて
      私の温もりに浸りながら

         現世の過酷さから解き放たれるための眠りに就き、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」261ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月20日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーエスカレートする喧嘩が目に浮かんでくるようー

十二月三日は「私は喧嘩だ」で始まる。
以下引用文。「せいぜい意見の相違」から勃発した二人の男たちの喧嘩が、あっという間にエスカレートしてゆく様が、「罵り合った」「すさまじい殴り合い」「どこか滑稽な取っ組み合い」と目に浮かぶように、丁寧に書かれている。

「ドブネズミの縄張り争いを彷彿とさせる」という言葉にも、「一興に値する光景」という言葉にも、どこか距離を置いて眺めているような心が感じられる。

よほど虫の居所が悪かったのだろう
   いい歳をしたかれらは
      束の間罵り合ったかと思うと
         すぐさま殴り合いへと移行して
            凄まじくもどこか滑稽な取っ組み合いへと転じ、

            互いに鼻血を流して路上をごろごろ転がる様は
               ドブネズミの縄張り争いを彷彿とさせる
                  一興に値する光景だった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」255ページ)

以下引用文。喧嘩している風景に世一や犬を点在させ、「折れたばかりの血の付いた前歯を奪い合った」とその姿を書くことで、ケンカの風景がますます賑やかなものに感じられてくる。

徘徊が生きる縁のすべてとなっている病気の少年などは
小躍りして喜び
      犬と競って
         折れたばかりの血の付いた前歯を奪い合った。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」257ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月19日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー初雪に重なる生の儚いイメージー

十二月二日は「私は初雪だ」で始まる。
「例年より二週間も早く」とあるが、丸山先生の住まわれている信濃大町の初雪の時期もそのくらいなのだろうか?早い初雪に修行中の禅寺の禅僧たちも心をかき乱され、自分たちの修行に疑念が生じる様子がどこかユーモラスに書かれている。
以下引用文。初雪にはしゃぐ世一の姿、「単純不動な鉛色の天空」、「誕生と死滅に挟まれた命の世界に響き渡り」という言葉で表現される一瞬の場面に、丸山先生のテーマでもある「誕生と死滅に挟まれた命」が初雪のイメージと重なって、その切なさ、素晴らしさ、儚さが伝わってくる。

片や世一はというと
   ただもう無邪気に私を求めて止まず、

   喜び勇んで飛び跳ねながら
      単純不動な鉛色の天空に向かって

         震えの止まらぬ腕をいっぱいに突き出し
            恐ろしく素っ頓狂な声を張り上げ、

その朗々たる奇声は
               誕生と死滅に挟まれた命の世界に響き渡り、


            そんな彼の並外れた神気の強さに圧倒され
               恐れを成した私は
                  直ちに融けて消えた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」253頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年3月18日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーなぜか色彩を感じる文ー

「私は本だ」で始まる十二月一日は、世一の姉が勤める図書館の本が、最近、ロマンス小説も読もうとしなくなった姉の心に起きつつある変化を語る。
そうした姉の心境を語る以下引用文。どの文も難解な言葉を使っている訳でもないのに、なぜか姉の心境がグラデーションの色彩となって見えてくる。なぜだろう。「退色した日常」「気持ちよく晴れ渡った日にあっさり首を吊った」「きららのごときまばゆい変化」という言葉から喚起される何らかの心象風景があって、文に色を感じさせてくれるのかもしれない。

たとえば
   嫌でも生きてゆかねばならぬ退色した日常に
      真っ向からぶつかってゆく覚悟を固めたのでもなければ、

      たとえば
        気持ちよく晴れ渡った日に
           あっさりと首を吊った親友の流儀に倣おうとしたのでもない。


要するに
   私のなかでしか起き得なかったロマンというやつが
      もしくは
         いつだって赤の他人の身の上にしか生じない
            きららのごときまばゆい変化が
               とうとう彼女の人生にも発生しつつあったのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」248ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月17日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」を少し読む

ー世一の目に映る世界とは?ー

十一月三十日は「私は消火栓だ」で始まる。
「古過ぎる消火栓」の側を通り過ぎてゆく様々な生ー酔っ払いたち、「放し飼いにされている犬ども」、「野育ちの典型である少年世一」、腰が曲がった認知症の老婆ーがユーモラスに描かれている。
こうした消火栓が見つめる生の模様も、文字による表現だから面白みがあるのだろう。
映像の場合、消火栓にここまで観察させて語らせることは出来ないのではないだろうか?

以下引用文。認知症の老婆と不自由なところのある少年・世一のやりとりが不思議と心に残る。
中でも「これは自分なのだ」と、「相変わらずちっとも目立ってくれず 甚だもって情けない立場に置かれた 古過ぎる消火栓」のことを語る世一の目は、どう世界を捉えているのだろう……と考え、心に残った。

さかんに私を撫で回す世一に向かって
   「おまえはこの子の友だちかい?」と尋ね、

   すると彼は
      全身に震えをもたらしている
         負のエネルギーを唇に集中し、

         途切れ途切れではあっても
            友だちなどではない旨を
               きっぱりと告げ、


その直後に
                            これは自分なのだと
                                そう付け加えた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結」244頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年3月16日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーそれぞれの鯉が意味しているものー

十一月二十九日は「私は池だ」で始まる。
以下引用文。池は自分のことをこう語る。「滲みや斑のない錦鯉」はまるで世間並みの人生を歩んできた人々のようであり、「緋鯉の彫り物を背負った男」(世一の叔父)とは対照的に思えてくる。

どこにも滲みや斑のない色彩と
   見応えのある模様に覆われた錦鯉を抱えこみ、

   緋鯉の彫り物を背負った男を
      くっきりと水面に映している
         山中の池だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」238ページ)

以下引用文。池のほとりで急に服を脱いだ男。その背中に彫られた巨大な緋鯉が、「ほとんど血の色に染まるや」という箇所に、男のこれまでの人生が重なって浮かんでくる文である。
餌に期待して浮上していた錦鯉の群れが「いっせいに怯えてさっと散り その日は二度と姿を見せず」という箇所は、まるで大衆の行動を見るようである。「底へと降りていった」という錦鯉の動きにも、希望から縁遠い大衆の姿を見るような気がする。

その背中を私の方へ向け、

滝を登る巨大な緋鯉が夕日に映えて
   ほとんど血の色に染まるや
      餌に期待して浮上していた錦鯉の群れが
         いっせいに怯えてさっと散り
            その日は二度と姿を見せず、

            夜が更けるにつれて
               底へと降りて行った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」241ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月15日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー強風が迫ってくる書き方ー

十一月二十八日は「私は夜風だ」と「山国特有のめまぐるしい気圧の変化」から「生まれた気紛れな夜風」が語る。
以下引用文。山国の風が激しく吹く様子を描写している。
私なんかだったら「強い風がゴウゴウ吹きました」で終わりにしてしまうかもしれない箇所だ。
丸山先生は自然の中での暴風を描いてから、徐々に人間の暮らしへと風を近づける。そのため強風がだんだん近づいてくるような感覚を覚える。
また湖から木々へ、と広い場所から小さな物へと視点を移していくのも、風が近づいてくる感じをよく醸していると思う。
「死んだ枝」の次に「産院からほとばしる呱々の声」がくるコントラストも鮮やか。
「薬屋の看板を倒す」の箇所も「薬屋」で生のイメージを訴え、「倒す」で死につながる気がする。

最新の天気予報でも予測し得なかった私は
   手始めにうたかた湖を隅々まで波立たせ
      ついで
         湖畔の木々をのたうち回らせてから
            一挙に町を襲い、

            街路樹にしぶとくしがみついていた枯れ葉を

               一枚残らず吹き飛ばして
                  死んだ枝を振り落とし、
                     産院からほとばしる呱々の声を
                        地べたに叩きつけ、
                        近日開店の運びとなった
                           薬屋の看板を倒す。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」234ページ) 

だが、そんな夜風に世一は怯むことなく「はったと睨み」対峙する。それは青い鳥オオルリのおかげだ。

以下引用文。「千日の瑠璃」の青い鳥は、なんとも気迫を感じる鳥ではないか。

後ろ盾となっているのは
   超感覚的な力を具えているかもし
れぬ
      一羽の青い鳥だ。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」234ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月14日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を読む

ー作者と近い存在が語ると言葉が固く、厳しく、理屈っぽくなる気がするー

十一月二十七日は「私は印象だ」で始まる。以下引用文のように丸山先生を思わせる作家が、少年世一に対して感じる印象である。

収入の都合でやむなくまほろ町に移り住み
   かつかつの暮らしを維持するために
      せっせと小説を書き続ける男の
         少年世一に対する当初の印象だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」230ページ)

丸山先生らしき作家が抱いている印象が語っているせいだろうか。「印象」が語る箇所はすべて言葉が難しく、固い言葉が多く、語調も厳しく、漢字が多いなあと感じた。これは意識してのことなのだろうか?それとも自分の視点に近い位置から語っていたら、無意識のうちに文体がこうなったのだろうか?真相は分からないながら、そんなことを感じた。

のべつ何かしらの助力を誰彼の見境もなく仰ぐ者にして
   同世代の仲間から完全に放逐された者であり、

   なお且つ
      ただそこにそうして存在しているだけで
         ただ他人の心の領土を容赦なく蚕食する
            始末の悪い厄介者なのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」230ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月13日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーベンチだからこそ感じられるものー

十一月二十六日は「私はベンチだ」で始まる。語り手のベンチは「悲哀に満ちあふれた 粗末な造りのベンチだ」で、その上に座っている四人の男たちの人生が仄めかされる気がする。

以下引用文。試合が終わっても「居残って 帰宅しようともせず」という老人たちの心の描写に「ああ、やっぱり粗末なベンチのイメージと重なる」と思ってしまう。

そうすることで
   きょうという日を少しでも長引かせ、
      そうすることで
         家族の心の負担を減らそうとしている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」226ページ)

以下引用文。ベンチに腰かけていた男たちが世一を哀れんで呼び寄せ、ベンチに座らせる。

そのとき
   みしっという音を立てたのは
      予想外の重さのせいで、

      だからといって
         体重のことを言っているわけではなく、

         魂の重さときたら
            それはもう尋常ではなかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」229ページ)

ベンチが世一の魂の重さに驚く展開に、今後どうなるのだろうかと楽しみになる。でも「魂の重さ」なんてものを感じられるのはベンチだからこそ。万物を語り手にする「千日の瑠璃」の面白さはここにある気がする。

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さりはま書房徒然日誌2024年3月12日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む」

ー青い鳥なのに可愛げのない囀りをする意外さー

十一月二十五日は「私は芝生だ」で始まる。
「うたかた湖岸辺」の「思い通りには根付かず ぶちになってしまった芝生」が物語るのは、無鉄砲にも駆け落ちをしてきた若い男女のひと組だ。


上手く根付かなかった芝生が語ることで、なんとなくこの男女の行く末も見えてくる気がする。うたかた湖から吹いてくる風も詰るようであり、とことん見放された感じのする二人。


だが以下引用文の箇所にくると、それまでしょんぼりした二人にいきなり強烈な光があてられるような気がする。

「揃いの手編みのセーター」という幼さ、純粋さが感じられる代物の上に付けられたオオルリのバッジ。
このバッジの描写が「赤とも金ともつかぬひかり」「非難しそうな表情」「嘴をかっと大きく開いて」と、二人の幼さを叱りつけ、駆逐してしまうように思えてならない。

揃いの手編みのセーターの胸のところに
   それぞれ付けられたオオルリのバッジは
      赤とも金ともつかぬ色のひかりを浴びて
         さも人の伝為をいちいち非難しそうな表情で
            嘴をかっと大きく開いている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」224頁)

以下引用文。普通、「青い鳥」といえば幸せのシンボル、優しいイメージがある。だが「千日の瑠璃」の青い鳥は、冷徹に丘の家に住む世一一家の現実を囀る、可愛げのない鳥である。
鳥にこんな意地悪なことを言わせようと思うのは、エッセイにも度々出てくるように丸山先生が鳥を飼っているからなのだろうか。
さらにこの場面で初めて、世一が飼っている鳥が囀るのである。それなのに、こんなに意地の悪い囀りをするのだ。

すると
   バッジの青い鳥が
      若いと言うことだけで幸せなのに
         あんな家が幸福に見えてしまうのは残念だと
            そんな意味のことをさえずり、

            否、そう鳴いたのは
その家で飼われている正真正銘のオオルリだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」225頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年3月11日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」を少し読む。

ー言葉が映画よりインパクトを与えるときー

十一月二十四日は「私はヘッドライトだ」で始まる。

金に糸目を付けずに改造されたクルマのヘッドライトが、自分の光に映し出される様々な人たちを、首吊り自殺をした娘の幻影にぶつけるようにして身分不相応な改造車を走らせる男の心のうちを、丁寧に語ってゆく。

この場面は映画ならほんの一瞬で終わってしまうだろう。
最近の書き手も映画やドラマの場面に慣れているのか、あっという間の映像として書いてしまうことが多いように思う。

だが丸山先生は、こういう場面こそ言葉の本領発揮と考えているのではないだろうか。実に丁寧に書いている。これも丸山先生が映画好きだからこそ、映像では無理な表現というものを言葉に追い求めているのだろう。

そういうこととは関係ないが以下引用文。
様々な登場人物の心のうちが書かれたあと、最後に自死した娘のもとへ行こうと、男が湖へと車を走らせる場面である。

ボートにしても、少年世一にしても、この場面は短歌になってしまいそうな、抒情性、幻想味がある場面だと思い心に残った。

そのとき
   漕ぎ手がいないにもかかわらず
      ひとりでに岸へ寄ってくる古くて不吉なボートが見え、

      それの意味するところはとうに承知しており
         要するにお迎えの舟というわけだ。

つづいて
   どこがどうというわけではなくても
      全体の雰囲気が鳥を想わせる少年が忽然と出現し
         ふらふらと私の前を横切り、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」221頁)


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さりはま書房徒然日誌2024年3月10日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー連想ゲームみたいに連なる言葉から見えてくる姿ー

十一月二十三日は「私は薄笑いだ」で始まる。
まほろ町にあらわれた白いクルマを乗りまわして薄笑いを浮かべる青年に、町の人は恐れをなしてしまう。

この青年の職業?が書かれていなくても、青年の様子や町の人の反応で何となく察せられるところろが面白い。
そんな青年にびびる町の人たちの様子に、なんとも情けない小市民ぶりが出ている。悪に反応する様子から、常識人たちの虚を描いているところも面白い。

以下引用文。青年の薄笑いを真似ようとする世一。その様子を残酷なまでに思い描かせる言葉の展開を興味深く読む。
「骨なし動物」「奇妙な動き」「つかつか」「穴があくほど」「恐ろしく締りのない」「さかんに歪める」「ぐにゃぐにゃ」
……そんな風にイメージが繋がる言葉が続くことで、世一の姿を絵のように容赦無く浮かび上がらせてくれる気がした。

ところが
   骨なし動物のごとき不気味な動きをする少年だけは別で、

   つかつかと進み出た彼は
      穴があくほど青年をまじまじと見つめ、

      あげくに
         私を真似ようとして
            恐ろしく締りのないその唇を
               さかんに歪める。


だがどうしても上手くゆかず
   しまいには収拾がつかなくなってぐにゃぐにゃになり
   それでも思わず吹き出したのは
         結局のところ私だけだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」

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さりはま書房徒然日誌2024年3月9日(土)

神奈川県立図書館第四回ボランティア朗読会「ともに……」へ

ー知らない本との出会いをつくってくれたことに感謝ー

神奈川県立図書館は新しく建て替えてまだ二年……らしい。閲覧席から青空や港のビルが目に入る開放的な建物である。
またLib活「本を読み、本を朗読する講座」なるものを開講、受講者の方々は県立図書館ボランティアとして活動される……という素敵な試みをされているらしい。そういう取り組みのない自治体に住んでいる身としては羨ましい限りである。

知っている方がこの講座を受講され、第四回朗読会で朗読をされるので聴きに行ってきた。

文学作品を耳から味わう……という体験は、振り返ってみれば演劇、文楽、女流義太夫、落語……と色々してきているのだけれど、図書館ボランティアの朗読はそうした語りとはまた別の良さ、素晴らしさがあると思った。


前者のグループの場合、こちらも聞くときにガチガチに緊張しているなあと気がついた。そのうちベッドに寝たきりになったら浄瑠璃がある!と思っていたが、浄瑠璃のテンションの高さ、緊張を強いる語りはベッドの上の弱った身には無理かもしれない……と今日ふと思った。

図書館ボランティアの方の朗読を聴いていると、穏やかに、静かに、すーっと自然に体が海水に浮遊するみたいに作品の中に入ってゆく。まるで病床で何かを読み聞かせてもらっているように、リラックスした気分で物語が染み込んでくる。
病院でベッドの上で聞くなら、浄瑠璃よりも、こういう朗読の方がいいかも……と考えをあらためた。

今、図書館の棚に「共に生きる」をテーマに人権に関する本が並べられているそうだ。
朗読会も「ともに……」をテーマにして、ボランティアの方々が様々なジャンルから選書されたとのこと。おかげで知らない本にたくさん出会えた。

なかでも非常に興味深く印象に残ったのは知里幸恵「アイヌ神謡集」という本との出会いだ。知里幸恵さんはアイヌの方。アイヌで初めて物語を文字化したそうだ。
「アイヌ神謡集」を本にするもわずか19歳で亡くなる。
知里さんの言葉を朗読して頂いて、静かな、祈るような言葉が心に残る。
ちなみに「アイヌ神謡集」が本になって一ヶ月後、関東大震災が襲う。

https://www.ginnoshizuku.com/知里幸恵とは/


「くまとやまねこ」は、毎日の朗読練習の様子を聞いているだけに、クリアな声も、くま、鳥、それぞれの動物たちの個性あふれる声も、メリハリのある読みも、いつまでも情景が残る語りも楽しみつつ、ここまで上達されるにはどれだけ練習を重ねたことか……と、背景に隠された時間の積み重ねに感謝しつつ聞いていた。

昨夜の講義で、福島泰樹先生が情感たっぷりに一人称の朗読をされた方のことを、「これまでこの人はずっと対話の朗読をしてきたから、それぞれの語り手の感情を込めて読むようになって、今、一人称の文をこれだけ感情移入して読むのですよ」などという趣旨のことを言われていた……と「ああ、なるほど」と思い出した。
これから、どんな朗読を聞かせてもらえるのだろうか……また人生の楽しみが一つ増えた思いである。

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さりはま書房徒然日誌2024年3月8日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を読む

ー影は影でも語り方でずいぶん違ったものに思えてくるー

十一月二十二日は「私は影だ」と様々な影が語り手となる。どれも同じ影の筈なのに、其々の人生を色濃く滲ませ書かれているのが心に残る。

以下引用文。「長く且つ憂色の濃い」という言葉に、思わずどんな影なのだろうと想像してしまう。

私は影だ、

   へとへとにくたびれ果てて帰宅を急ぐ工員たちが
      砂利道の上に落とす
         長く且つ憂色の濃い
            くっきりとした影だ。


私をあたかも足枷のように引きずり
   浮かぬ顔で歩を進めるかれらのなかには


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」210ページ)

以下引用文。「匍匐性の外来植物」「しぶとくてがっちりと」「大地をつかみ」「びくともしない」としつこいイメージを連ねて表現することで、影もずいぶんとたくましく違ったものに見えてくる。

しかし
   ともあれきょうの私はというと
      地力の衰えた耕地をびっしりと覆い尽くす匍匐性の外来植物のごとく
         どこまでもしぶとくてがっちりとまほろ町の大地をつかみ
            天下無敵の少年
               あの世一に踏まれてもびくともしない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」213ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月7日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー凡庸な地に詩情あふれる名前を、人間にはいつも同じような名前をつけることで浮かんでくるものー

十一月二十一日は「私は橋だ」で始まる。
「鉄筋コンクリート製の 当たり障りのない形状の 要するに無骨一点張りの橋だ」というロマンに欠けた橋が語り手だ。
正式な名称があるにもかかわらず、町民は「かえらず橋」と呼んでいる。

「千日の瑠璃」に限らず、他の丸山作品もそうだと思うが、ありふれた町や山や橋に、詩情あふれる名前がついている……「まほろ町」「かえらず橋」「うたかた湖」「うつせみ山」「あやまち川」。

それとは逆に人間にはありふれた名前、いつも同じような名前ー男なら忠夫、女なら八重子だっただろうかーがついている。

凡庸な風景に思いもよらない名前をつけることで、平凡な場面が一気にポエジーの域に達する気がする。

そして人間には、いつも同じような名前をつけることで、どんな人間にも共通する想いに集約されてゆく気がする。

以下引用文。なんと「まほろ町」「かえらず橋」「あやまち川」という名前にそぐわない町であることか!
この現実と地名の乖離が、不思議な詩情と幻想へつながってゆく気がする。

あれからすでに十二年という歳月が流れていても
   まほろ町にさしたる変化はなく
      期待された高利益はもたらされず
         いまだに旧態依然たる田舎町の典型でしかなく、

         私の下をくぐり抜けるあやまち川と同様
            華やかな時代は
               ただ通り過ぎて行くばかりで、

               文明も文化も
                  所詮は他人事でしかない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」207ページ 

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さりはま書房徒然日誌2024年3月6日(水)

ジョージ・オーウェル「動物農場」(高畠文夫訳)を読む

ーこれは今の日本と同じではないか!ー

「動物農場」は農園の専制君主ジョーンズ氏を追い出した動物たち。最初は上手くいっていたが、動物たちの権力闘争やら離脱もあって、やがて豚が人間に代わって権力を握りしめ独裁者と化してゆく……というストーリーである。

若い頃の私には「動物農場」の恐ろしさ、面白さがよく分からなかった。いま読んでみれば、まるで現代の日本について皮肉たっぷりに書かれたような作品である。

でも「動物農場」は、解説によれば「ソビエト的ファシズムをの実態を広く世界に訴え、警告を与えたい」という意図のもとに書かれたとのこと。
そうか……いま私がいるこの日本は、民主主義の仮面を被ったソビエト的ファシズムの国なのだ。

以下引用文。
農園主ジョーンズ氏を追放して独立を勝ち取った動物たち。だが主人に支配される状態を当たり前としてきた感覚から、そう容易く脱出できない。まるで私たちのように。

動物たちの中には、自分たちが「主人」と呼んでいるジョーンズ氏に対して忠実であるのは、むしろ義務とであるというものや、「ジョーンズさんが、われわれを養ってくれているんだぜ。もしあの人がいなくなったら、われわれは飢え死にするじゃないか」という、幼稚な発言をするものがいた。

(ジョージ・オーウェル「動物農場」より)

以下引用文。豚の横暴な支配下、厳しい暮らしを我慢している動物たち。でも人間に支配されていた頃はもっと酷かったと、現実を正しく見ることができない。そう、私たちのように。

彼らは、現在の生活がきびしい最低のものであること、しょっちゅう腹がペコペコだったり寒かったりすること、眠っていないときは、たいてい働いていることなど知っていた。しかし、あのころは、たしかに今よりもっとひどかったのだ。彼らは心からそう信じた。

(ジョージ・オーウェル「動物農場」より)

以下引用文。
引退年齢を迎えた馬である。
人間から独立した当初は、引退年齢が定められ、その年になったら労働を免れる筈であった。だが豚が横暴な支配者になるにつれ、そんな話は消えてしまう。
今の日本のようだ。

彼女は、引退年齢を二年も過ぎていたが、実際、ほんとに引退した動物は、まだ一ぴきもいなかった。老齢退職した動物のために、放牧場の一角を保留しておくという話は、とっくの昔に立ち消えになってしまっていた。

(ジョージ・オーウェル「動物農場」より)

「動物農場」の恐ろしさを我が事のように読んでしまう今の日本。だからこそ読みたい本である。

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さりはま書房徒然日誌2024年3月5日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー「モノ」だからこそ「私」が連発されても気にならないし、かえって興味がわいてくるー

十一月二十日は「私は火花だ」で始まる。火花に魅せられて、ストーヴ作りをするようになったーそれも火花がよく見える夜にー男を火花が語る。

書き写していると「千日の瑠璃 終結」には、「私」が本当に多いと思う。
人間でないモノたちが語るからこそ、こんなに「私」が出てくるし、出てきても気にならないのだろう。それどころか「私」って「火花」ではないか、何を言うつもりか?と気になってしまう。

以下引用文。

火花に見惚れる男。その男をじっと見つめる世一の姉。その傍に立つ世一……という構成が、短い行数にもかかわらず、それぞれの心を語って深みを醸しているように思えた。

彼のほかに
   垣根越しに私をじっと見つめる者がいて
      ひとりの女が我を忘れて……、

      否、そういうことではなく
         彼女が私に魅了されたわけではなく
            私が照らし出す男を注視しており、

            そして今そのかたわらには
               奇妙よりも奇怪という表現がぴったりの少年が
                  前後左右に全身を揺らしながら立っていた。


  (丸山健二「千日の瑠璃 終結1」205ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月4日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー「北」からこんなに物語が生まれるとは!ー

「私は北だ」で始まる十一月十九日。なんと「北」が語り手である。もし「北」をテーマに物語を作れ、短歌を作れ……と言われたら、どんな文が思いつくだろうか……と自問自答してしまう。

丸山先生は「北」を語り手にして、人間社会の理不尽を撃ち、そして束の間の幻想を見せてくれる。

以下引用文。「理不尽」が「大津波のごとく どっとなだれこんだ」という表現に、すべての男たちが兵隊にとられた時代への丸山先生の怒りを感じる。

そして
   年寄りと子どもを除いた男という男を
      ひとり残らず兵士に仕立てずにはおかぬ
         恐るべき理不尽は
            東の方から
               大津波のごとく
                  どっとなだれこんだ。


丸山健二「千日の瑠璃 終結1」199ページ

以下引用文。いかにも死の象徴らしい「北」が、「さまよえるボートを差し向けるから それに乗って遊びにくるがいいと唆す。」という言葉に表されている。童話の一節を読んでいるような気がしてくる箇所である。

この町で私のことを差別しない唯一の人間
   少年世一は今わが主張を口笛で代弁し

   その礼と言ってはなんだが
      できることなら彼の辛過ぎる悲しみを取り去ってやりたくて
         こっちへこないかと誘い、

         さまよえるボートを差し向けるから
            それに乗って遊びにくるがいいと唆す。



ところがとんだ邪魔立てが入り

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」201ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年3月3日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー「 」の会話文にしないことで生まれる効果ー

「私は弱音だ」で始まる十一月十八日。
「不治の病に浸された」世一の母親が勤務先のスーパーでレジ打ちをしながら漏らす「弱音」が語り手である。

この箇所を、普通の書き方にして母親の言葉を「 」の会話文にしてしまうと、感情に走ったり湿っぽいだけの文になってしまうと思う。

だが以下引用文のように、母親から吐き出された「弱音」が自在にスーパーの店内を駆け巡って聞き手を探したり、客の様子を観察したりする。

そんなあり得ない情景はどこかユーモラスであり、湿った悲哀から解放してくれる。それでいながら母親の孤独を語ってくれるのではないだろうか?

そして
   さまざま憐笑の間隙を縫って突き進み
      親身になって私の話に耳を傾けてくれそうな相手を
         あるいは
             私などもう恥じ入るしかない
                もっと凄い悲劇を背負った母親を
                   懸命に探し回る。


しかし
   どの客もしっかりと財布を握りしめて
         まずまずの幸福の領域に身を置き、

      生鮮食品を品定めする鋭い眼差しは

         ともあれきょうを生きることに満足して
            それなりの輝きを放っている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」194ページ  

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さりはま書房徒然日誌2024年3月2日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー言葉を尽くして書くことで見えてくるものー

十一月十七日は「私はくす玉だ」で始まる。
くす玉の中から放たれた「貧乏くさい白い鳩」が、「オリンピックのメダルを手にして故郷に錦を飾ることができず」というマラソン選手の頭から、「厄介な病のせいで走ることなど思いも寄らぬ少年の頭」へ移動してゆく。
それにつれて人々の反応が変わってゆく様子を、動かぬ身であるくす玉がよく観察しているところが面白い。

以下引用文。「私が今し方放ったばかりの白い鳩」がマラソン選手の青年の頭に止まった瞬間、人々が浮かれる様子が「気」やら手を打つ様子、歓声で描かれている。
どよめきもありがちな会話で進めてしまうのではなく、「まだ期待が持てるかもしれないという意味に相違ない どよめきが広がってゆく」と丁寧に書かれている。

最近よく見かける小説なら、“「すごい」と拍手した“、と一瞬で終わるだろう箇所が、これだけ言葉を尽くして書かれることで、やけに立体的な文に見え、白い鳩のシンボルやら人々の愚かさ、可愛らしさを考えてしまう。

しかし、くす玉も最近ではほとんど見なくなった気がする。鳩入りのくす玉にはお目にかかったことが一度もないかもしれない。

ただそれだけのことで和やかな気が漂い
   一同は手を打って喜び
     ちょっとした歌が渦巻き、

     もしかすると
まだ期待が持てるかもしれないという意味に相違ない
           前向きなどよめきが広がってゆく。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」193ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年3月1日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー普段意識しない存在の意義を見つめる視線ー

十一月十六日は「私は空気だ」で始まる。
以下引用文にある空気が語る、自身の役割が私には新鮮である。「しっかり結び付けるために」「生と死を仲違いさせないために」……そう言われてみたらそうなのかもしれない。大きな視点にたち、人間以外の在り方に目を向ける姿勢が、従来の小説とは違うと思う。

さらには
   植物と動物を
      動物と鉱物を
        鉱物と植物をしっかり結び付けるために、

        あるいは
           生と死を仲違いさせないために
              仲介の労を執る。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」188ページ

以下引用文。そんな結び付ける働きをする「空気」が見えれば、世一は「絶望的なくいちがいなどひとつとして読み取っていない」存在なのだ。
普段「結び付ける」とか「くいちがい」とか全く意識しないで暮らしているので、そんな当たり前に意義を見出す視線が印象に残る。

しかしこの私だけは
   彼のなかに絶望的なくいちがいなどひとつとして読み取っていないし
      来るべき破局も予見しておらず
         彼ほどの現世的な原理に則った存在を他に知らないのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」189ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年2月29日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー重なり合うイメージが散文詩となってゆくー

「私は歌だ」で始まる十一月十五日は、もう誰からも歌われなくなった「まほろ町」の町歌が語る。

以下引用文。忘れられていた町歌を突然世一が歌いだした後に続く文である。


なぜ、この箇所が気になってしまったのだろう……と考える。


「青みがかった灰色の脳」と表現される少年世一の脳と「灰色が占めていた羽毛の全体に 青色が急速に広がり始めたオオルリ」「瑠璃色のさえずり」というオオルリが、形も、色も重なり合う。
このイメージの重なり合いが、「とりとめもない雑多な思考が 無秩序に渦を巻いている」世一が変化して、美しいオオルリに変化してゆくように思えてくるからではないだろうか。

つまり
   とりとめもない雑多な思考が
      無秩序に渦を巻いている

         少年世一の青みがかった灰色の脳のなかで
            なんの前触れもなく
               だしぬけに蘇生された。

思うに
   これまでは灰色が占めていた羽毛の全体に
      青色が急速に広がり始めたオオルリの
         まさしく瑠璃色のさえずりに
            強い刺激を受けたせいではないだろうか。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」183ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年2月28日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー虚と実ー

「私は鏡だ」で始まる十一月十四日は、「まほろ町が電話ボックスの三方に設置した 等身大の鏡」が語る。その鏡を覗き込んで反応する女たち、男たち、子どもたち、年寄りたち、犬ども……それぞれのイメージを捉え、ユーモラスに反応を語っている。私自身なら、そんな三方に等身大の鏡がある電話ボックスなんて入る気にならないかも……とふと思う。

以下引用文。世一に「誰だ、おまえは?」と訊かれた鏡が、訊き返す場面。
最後の「おのれから無限に隔たったおのれの世界へと帰って行った。」という言葉に、実像と虚像の関係とはこういうことなのかもしれない……となぜか納得してしまう。
そして世一という不思議な存在を感じる文だと思った。

だから苦し紛れに
   「おまえこそ誰だ?」と訊き返し、

    すると世一はにやりと笑い
       おのれから無限に隔たったおのれの世界へと帰って行った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」181頁 

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さりはま書房徒然日誌2024年2月27日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」を読む

ー悲惨さを打ち消すイメージー

十一月十三日の語り手は「快晴」である。快晴が見つめ語るのは「妻子ある男と私通」した挙句、青い花束を買って松の木で首吊り自殺をする女。「快晴」のとことん晴れ渡っている様子と女に象徴される何とも悲しい人間の世界、この対比が以下二箇所の「快晴」の描写によって際立っている気がする。

一年に一度
   もしかすると十年に一度
      あるかないかの
         透明度が尋常ではない
            完全無欠の快晴だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」174ページ

しかし
   私はいささかも動じず
      素知らぬ体を装って長時間をやり過ごし、

      美し過ぎる落日を迎えて
         夜の帷が降りてからも
            完璧さを保ちつづけ、

            一片の雲も
            ひとかけらの感傷も寄せつけなかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」177ページ)

以下引用文。無惨な最後をとげた女だが、「白い花束」「青い花束」「ぴかぴかの月」のイメージが清浄な世界を示しているようで、自殺の事実にも関わらず救いを感じさせてくれる。

泣くだけ泣いた女友だちが
   松の根元に供えた白い花束は青い野の花をさらに引き立たせ
      ぴかぴかの月にもよく馴染んでいた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」177ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月26日

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーエッセイ「言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から」と重なる世界ー

「私はカマキリだ」で始まる十一月十二日には、カマキリとトノサマバッタのやり取りが出てくる。

いつも見慣れている自然の一コマが、丸山先生の言葉で語られると、どこか別の次元に浮遊しているような、不思議な感覚を覚える。
自然界が幻想味を帯び、ユーモラスな光と声にあふれてくる魅力は、丸山先生が今noteで書かれているエッセイ「言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から」の世界に重なるものがある。
元々、丸山先生の中には、こういう世界が、言葉があったのだなあと思いながら読んだ。
以下引用文はカマキリに答えるトノサマバッタの箇所。自然を優しく見つめ、そこから自分の哲学を構築される丸山先生の視線を感じる。

そう愚痴った私に対して
   ただ生きているだけで自足の境地に浸ることが可能という
     全身に偉大な跳躍の力を秘めたトノサマバッタが
        おまえはいったい自分を何さまだと思っているのかと
        そう言って嗤い、

        ただ生きているだけという
           それ以上の充足はなく、

           最高の生涯の証しにほかならないとまで
              言ってのけた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」171ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年2月25日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を読む

ー漢字が多いのも意図があるのでは?ー

十一月十一日は「私は紋章だ」で始まる。
まほろ町に進出した「死んで元々だという見え見えの虚勢に色付けされた覚悟」を「黒い三階建てのビルに飾った」紋章が語る。何の「紋章」かは最後まで具体的に明かすことはないが、はっきりとどういう人たちであるのかが分かってくる書き方である。

この箇所は随分と漢字が多いのが印象的だった。紋章の金属感、普通の人を拒絶する雰囲気を漢字で表現しようとしているのだろうか。以下引用文もそうである。

正面切って世間に逆らい
   表社会を足蹴にし
      法律に真っ向から楯突く証である私は
         無難な日常を拒絶して
            常識や良識からおよそ掛け離れて生きざまを
               殊更強調して見せつける


(丸山健二「千にちの瑠璃 終結1)166頁 

以下引用文。悪のシンボルである紋章の光を撥ね返せるのは世一だけ……という描き方が、不自由なところのある世一の強さを表現していて心に残った。

因みに
   私が撥ね返す陽光をさらに撥ね返すことができるのは
      今のところ
         取り憑かれた難病を逆手に取って真骨頂を発揮する少年のみだ。

(丸山健二「千にちの瑠璃 終結1)169頁 

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さりはま書房徒然日誌2024年2月24日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーただ一つの文に心情を滲ませてー

「私は温泉だ」で始まる十一月十日は、四人の農夫たちがうつせみ山の麓に掘った温泉が語る。
湯に浸かる農夫たちを語り、次に登場するのは丸山先生を思わせる小説家。大事に飼っていたという黒のむく犬まで登場する。
黒のチャウチャウ犬を飼われていたようだが、残念ながらチャウチャウ犬の写真は見つからなかった。黒い犬で出てくるのはブルドッグ、ヨークシャーテリア、柴犬だ。チャウチャウ犬は珍しい犬のようである。

「仏頂面が板に付いた男」が「真っ黒いむく犬」を温泉に入れて洗う場面、どこかユーモラスである。
「バスタオルですっぽりくるんだ犬を抱えて」という言葉にも、先生の実体験が伺えるようで飼っていた犬への愛情が想像できる。(私の芝犬は身震いして、天日干しだったなあ……と反省する)

「どこでもいいどこかへと 混沌の影を落としつつも 大胆不敵な足取りで帰って行った。」というわずか一文に、作者の心情が余すところなく込められている気がした。

小説家であることを地元民にほとんど知られていない
   仏頂面が板に付いた男が
      ふらりと現われ、

      彼は連れてきた真っ黒いむく犬を
         私のなかにどっぷり浸けこんだかと思うと
            たわしを使ってごしごし洗いながら
               「それにしても汚いお湯だなあ」を

                   さかんに連発した。

そして
   自分では入ろうとせず
      バスタオルですっぽりくるんだ犬を抱えて
         どこでもいいどこかへと

            混沌の影を落としつつも
               大胆不敵な足取りで帰って行った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」164頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月23日(金)

村山槐多「京都人の冬景色」を読む

(絵は村山槐多「乞食と女」。行方不明の絵だそう。乞食は槐多自身、女は憧れの女性と言われている)

福島泰樹先生がNHK青山カルチャーで開講されている「文学のバザール浅草」は村山槐多について。
村山槐多の詩を朗読したりしたが、次の詩「京都人の冬景色」がとりわけ心に残った。
特に最後の「なんで、ぽかんと立つて居るのやろ あても知りまへんに。」。この最後の部分で、もしかしたら村山槐多が語ってきた冬景色は、死者の目、もしくは死者になりかけた者の目で、川という境界線に立って語られているのかも……と思い、また読み返してしまう。そうすると街の景色、空の色がまた別のものに思えてくる。

それにしても、この詩の朗読はとてもハードルが高そうだ。京都人が朗読したらどんな感じになるのだろうか。


京都人の夜景色

村山槐多

ま、綺麗やおへんかどうえ
このたそがれの明るさや暗さや
どうどつしやろ紫の空のいろ
空中に女の毛がからまる
ま、見とみやすなよろしゆおすえな
西空がうつすらと薄紅い玻璃みたいに
どうどつしやろえええなあ

ほんまに綺麗えな、きらきらしてまぶしい
灯がとぼる、アーク燈も電気も提灯も
ホイツスラーの薄ら明かりに
あては立つて居る四条大橋
じつと北を見つめながら

虹の様に五色に霞んでるえ北山が
河原の水の仰山さ、あの仰山の水わいな
青うて冷たいやろえなあれ先斗町の灯が
きらきらと映つとおすわ
三味線が一寸もきこえんのはどうしたのやろ
芸妓はんがちらちらと見えるのに

ま、もう夜どすか早いえな
お空が紫でお星さんがきらきらと
たんとの人出やな、美しい人ばかり
まるで燈と顔との戦場
あ、びつくりした電車が走る
あ、こはかつた

ええ風が吹く事、今夜は
綺麗やけど冷めたい晩やわ
あては四条大橋に立つて居る
花の様に輝く仁丹の色電気
うるしぬりの夜空に

なんで、ぽかんと立つて居るのやろ
あても知りまへんに。

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さりはま書房徒然日誌2024年2月22日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー言葉だから可能な表現ー

「千日の瑠璃終結」十一月九日は「私は絵葉書だ」で始まる。「平凡過ぎて不人気な絵葉書」が語り手となる文は、散文ならではの魅力が存分に伝わってくる。

これが映画なら膨大な情報量に埋もれて、絵葉書の存在は目にも入らないかもしれない。見えたとしても、ほんの一瞬で終わってしまうだろう。

だが「千日の瑠璃 終結」の絵葉書は、町長や世一の住んでいる家、その家族、バス停での姉妹の別離、新婚夫婦の食卓、孫と川遊びをする老女、旅館の宿泊客、離れ猿(前日に出てきた離れ猿だろうか?)、町の雰囲気まで語ってゆく。

映像は瞬間で終わってしまうもの。でも散文は語られてゆく過程を、読み手も想像力を駆使して楽しむもので時間がかかる……昨今、そんな楽しみ方がなおざりにされている気がする。

以下引用文。絵葉書が自分の写真に写されている世一の家を語る場面。「てくてく歩いて行く」「飛翔している小鳥の姿」「外套の裾が突風に翻って」という言葉のおかげだろうか、写真の中の世一の姿が動画の中にいるように健気に動き出す感じがする。

そして
   四季折々の光が
      ぼろ家に邸宅の雰囲気を授け、

      陽光を反射する窓という窓には
         逸楽の日々すら感じられ、

         これはまだ誰にも気づかれていないことで
            数ある私のなかの一枚に
               丘の斜面に刻まれた道をてくてく歩いて行く
                  今より幼かった頃の世一の後ろ姿が
                     点のように認められた。



どこか飛翔している小鳥の姿に似ていたのは
   たぶん
      外套の裾が突風に翻っていたからだろう。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」159頁)

以下引用文。

写真では中々表現できない歴史への非難、町の雰囲気までも言葉にすれば表現できるのかと思った。

さらには
   国家の栄誉のためと称して始められ
      惨敗に終わった戦争の残渣としての
         抒情的な暗さまでもが
            ちゃんと写っていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」161頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月21日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー語り手をどうするかで、双方の立場を語ることが可能になってくる!ー

「私は追放だ」で始まる十一月八日は、一方的に群れを追放された猿を「追放」が語る。

以下引用文。
「群れの猿」でもなく、「追放された猿」でもなく、「追放」が語ることで、両者の生き方の差が、どちらかに偏ることなく鮮やかに描かれている気がした。

そして
   どこまでも腹黒い列座の面々は
      猿として生きなくてはならぬ本筋を再三再四逸脱したという
         そんな理由をもって
            生き物として独立した一個の存在たり得ている
               少々アクの強いその猿と
                  きっぱり袂を分かつことに決めたのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」155頁

以下引用文。丸山先生は追放された猿に世一を重ね、自分自身も重ねているようにも思えてくる。

離れ猿は
   どこか獣的な身ごなしと叫び声に深い共感を覚えたのか
      少年にすっかり魅了されて


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」157頁

以下引用文。こういう情景描写は、ずっと信濃大町で暮らしている丸山先生だから生まれてくる文なのかもしれない。

ほどなくして谷という谷が
  猿らしく生きることしか知らぬ猿たちの嘲りの声でいっぱいに埋め尽くされた


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」157頁

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さりはま書房徒然日誌2024年2月20日(火)

丸山健二「風死す」1巻を少し読む

ー映画では出来ない、文章だから可能な表現ー

昨日、「千日の瑠璃 終結」について、映画好きな丸山先生は時々映画の場面を思わせるような情景をつくると書いた。
丸山先生は映画でこそできる表現、できない表現というものを考え、時として「映画ではできない表現」に言葉をぶつける気がする。


以下引用文も、言葉だから可能な表現なのでは……と思う。


主人公の目に「高層ビルの最上階から遠望される」風景。

映画なら一瞬で終わってしまう場面だろう。

でも言葉で表現されると、読み手の頭にその景色が浮かんでくるまで言葉と言葉を結びつけ、想像して……という複雑な過程を踏むことになる。
でも大抵、その過程が面倒くさかったり、実用的な文が良しとされる最近の国語教育の風潮を思えば理解されなかったりするのだろうが、この実に頭を使う面倒臭い過程こそが、人間である楽しみなのではないだろうか?

引用文に作者が込めた現代社会への批判的な視線……この視点こそが書く行為の根本姿勢ではないだろうか、現代日本では軽んじられているけど……と思ってくださる方がどこかにいたら嬉しいです。


このレイアウトがサイト上に綺麗に表示されるか心許ないのですが……。

「風死す」はそのうち神保町PASSAGE SOLIDA 詩歌の専門棚にある「さりはま書房」の棚に置く予定です。神保町散策の折、ちらりと立ち読みしに棚に寄って頂ければ幸いです。

そして 太古の昔から聳え立っているかのような高層ビルの最上階から遠望されるのは

  地球規模に蔓延する巨悪であり 忌避の対象としては充分な 異様な事物群であり

    産業予備軍の緊縛にはどうしても打ち克てない 弱体化が進み行く立場であり

      購買意欲をそそる 膨大な数の商品が 所狭しと並んでいる陳列棚であり

        繁文縟礼のきらいが多分にある 埋め合わせ的な お役所仕事であり

          高談雄弁が飛び交う抗議集会であり クスリに淫する風潮であり

            やけに軽弾みな言動であり 憤死の源であり 嘘偽りであり

              人口の稠密度がおそろしく高くて破滅が臭う空間であり

                寝食を忘れて最終兵器の研究に打ちこむ学者であり

                  隣接区域を残らず買占める無秩序な噴出であり

                    世に遍く知られている非現実的な夢であり

                      錯乱の光景であり 危険の源泉であり

                        煩いの種であり 薄ら笑いであり
                          性腺から出るホルモンであり
                            荒れそうな空模様であり
  
              才気煥発な子であり

                死ぬ巨木であり

朝霧であり

                  心的な錯乱
                    であり、

さもなければ 憂悶の情に堪えない 未来を完全に奪われてしまった不幸な時代であり

  生を威圧してやまぬ緩慢な死であり 詩才の限界を超出して精選された言霊であり

    その筋の専門家に貢献する鋭敏な鑑識眼であり 胸に響く忠告のたぐいであり

      持参金の多少によって評価される人物像であり 萌え出る若草の原であり

        やきもきさせられる問題解決のもたつきであり 避難先の花壇であり

          同業者の離間を企てたがる著名な経済人であり 直行の士であり 

            創作に筆を染めた芸術家であり 過酷な大地を好む命であり

              定かにはわからぬ他人の事情であり 権力の継承であり

                世を儚んでの入水であり 接岸する大型艦船であり

  国旗を先頭に押し立てて行進する愛国者であり

    みるみる肥立ってゆくまだ若い産婦であり

      親子の情を見せつけられる情景であり

        長年の努力が無になる瞬間であり

          苦しみながらの断末魔であり

            本震並の揺り返しであり

              煩多な力仕事であり

                魂の亀裂であり

                  涙声であり


                  軍事的危機
                  である。

(丸山健二「風死す」1巻540〜544頁)
   

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さりはま書房徒然日誌2024年2月19日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーその物に相応しいストーリーを楽しむー

昨日書いた文を読んでくださった方が、「丸山先生の『死』に語らせるという発想、それから五感を使った描写に新鮮さとユニークさを感じた。こういう発想はどこから生まれてくるのでしょうか」という趣旨の感想をくださった。拙文を読んでくださり有難い限りである。

「死」に語らせた場面は、無類の映画好きの丸山先生らしい、映画の一場面であっても不思議ではない書き方のような気がした。丸山作品には、時々、映画を思わせる場面が出てくることがよくある。
語ることのない物たちが語りながら進んでゆく……という「千日の瑠璃 終結」の設定も、その物ならではのストーリーもあり、表現もあるようで楽しみながら読んでいる。

さて十一月七日は「私はラジオだ」で始まる。それも「鉱石の検波器を用いた 高齢者に懐かしがられてやまぬラジオ」と年代物のラジオのようである。
そんなラジオの持ち主は「殊に軍隊時代の話は避けている男」である。
新しいラジオをプレゼントされても、古いラジオを手放そうとしない主のために見せるラジオの思いやりが、なんとも幻想味があって心を打つものがある。

たしかにこういうストーリーはどこから生まれてくるのだろうか……不思議である。

だから私は
   せめてもの感謝の意を込めて
      死んだり離れたりして遠のいた身内や戦友の声に
         限りなく近い声のみを選び出し、

それをより誇張して
            彼の心の奥まで送り届けてやり