さりはま書房徒然日誌2024年7月12日

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月一日を読む

ー違う次元から眺めているような美しさー

五月一日は「私は粒子だ」で始まる。「粒子」の視点というのは、丸山先生の素に近いものがあるのだろうか?この箇所は、ひときわ心に残る文がある。明日に分けて見ていきたい。
以下引用文。「粒子」の語るまほろ町は「因果律のいっさいを余すところなく抱えこむ」、少年世一は「麻痺した脳に幾千億個もの恒星の輝きをちりばめている」、オオルリは「魂の形状そのものとしか思えぬ」であり、違う次元から眺めているような美しさが感じられる。

そこへもってきて私は
   四方を青い山々に囲繞されてはいても
      現世のすべての物象や現象
         それに因果律のいっさいを余すところなく抱えこむまほろ町や、


眺望が利き過ぎる片丘のてっぺんに住んで
   麻痺した脳に幾千億個もの恒星の輝きをちりばめている
      難病によって未来への扉を閉ざされた少年世一や、


そんな病児と奇しき出会いでもって固く結ばれた
   魂の形状そのものとしか思えぬ
      一羽の若いオオルリをも
         しっかりと形成している。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』51頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月11日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』四月二十九日を読む

ー「時と共に直進する」ー

四月二十八日は「私はカラマツ林だ」で始まる。
以下引用文。カラマツ林の下で元大学教授夫妻は子供たちの四十年前を思い出すうちに、回想に耐えられなくなってしまう

やがて夫妻は
   回想の重さに気づき
      それに耐えられなくなって
         私から離れて行ってしまった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』45頁)

以下引用文。元大学教授夫妻が過去にとらわれ、その重みに耐えられなくなっている姿とは対照的に、世一には過去もなければ、未来もなく、動物のように現在だけを生きている。時の感じ方の違いも、そういう様子を「現在と共に直進する」と表現しているところも面白い。

ほどなくして今度は
   振り返ることも
      先を見ることもしないで
         現在と共に直進する
            青尽くめの病児が訪れた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』45頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月10日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』四月二十七日を読む

ー言葉ならではの心の発酵過程ー

四月二十七日は「私はモクレンだ」で始まる。「一本の木に白と紫の両方の色を半々に咲かせた」「派手なのか地味なのかよくわからないモクレン」が語る。
以下引用文。モクレンのもとに冬の間咲き続けたシクラメンを休めようとする娼婦、寂れた宿・三光鳥の女将が写真を撮ろうとしたところに世一も割り込んで、二人の女たちと共に笑い転げながなら写真を撮る……という一瞬である。
映像であれば一瞬で終わってしまう場面である。でも不幸であるはずの三人が笑っている……という事実に、「幸せとは?」と考え、「無罪を勝ち取る」という言葉に罪深く思える者たちへの肯定を読み取り、そうこうしているうちに「現世の嘆きから瞬時に解き放たれ」という文に読んでいる側も自由が見えてくる気がする。

今日、故人の写真から生前の動きや表情を再生するAIを搭載したアプリの、死者の再生動画の投稿をたまたま目にした。若くして亡くなったお母さんの写真からの再生ということで、再生した方ご自身もお母さんに再会して感動、その動画を見た大多数の人も肯定的なコメントを寄せていた。

 でも……嬉しい気持ちは分かるのだが、本物の母でなくアプリが再生した母親に感動してよいものだろうかとも思った。
 そしてアプリによる再生が感動を与える時代、文章による表現は益々厳しいものになって大半は討ち死にしてしまうだろう。
 作家による表現、それを脳内に喚起して愉しむ読者……という関係、アプリが再生する画像を楽しむユーザー……とでは根本から反応が違うのかもしれない。以下の引用文が心に引き起こす反応を振り返ったとき、そう思えてきた。
 アプリ再生画像は誰の心でも揺さぶることが可能である。そう仕向けることが実に簡単である。
 でも文章による再生は、書く方も、読む方も、鍛錬しないと難しい。でもその分、脳と脳が絡み合って思いがけない方向に展開してゆく面白さがあるのだと思う。

そんな三人の底抜けの明るさに釣られたのか
   当分のあいだ花を付けないシクラメンが笑い
      今を盛りと咲き誇る私もついつい笑ってしまい、

      要するに私たちは皆
         挙って束の間の幸福に浸っており、

たとえ造物主と言えども
   その歴然たる事実は否定できないはずで、


      シャッターが切られるまでのあいだに
         春の光によって公平な裁きを受け
            全員揃って無罪を勝ち取り、

カシャッという小気味のいい音によって
   現世の嘆きから瞬時に解き放たれ、

   まほろ町の生きとし生けるものすべてが
      歓談に時を忘れて
         きらきらと輝き、


         この世に存する意義が
            急浮上してくる。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』37頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月9日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結3」四月二十五日を読む

ー世一という不条理ー

四月二十五日は「私はエプロンだ」で始まる。「母親の立場にようやく慣れてきた女の」エプロンが語る。

以下引用文。母親のエプロンをつかむ幼い双子たちがそっくりであることに、世一は興味をいだき「嬉々としてなおも迫ってくる」
そうした世一に幼い双子たちが感じる「この世にあることの不条理」……そうした不条理を冷静に、目を逸らすことなく見つめるところが、丸山作品の魅力のひとつかもしれない。

生まれて初めてそうした異形の同類を目の当たりにした
   ほとんど瓜ふたつの一卵性双生児は
      たじろぎ
         怯えて
            萎縮し、

            それから
               なんとも形容しがたい複雑な気持ちのなかで
                  この世に在ることの不条理を
                     早くも体験したのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』27ページ)

以下引用文。最初、世一に優しい対応をしていた母親も、そのうち目で追い払うようになり、やがて世一が自分のエプロンで青鼻をかんでいることに気がつくと、「怒り心頭に発して少年を思いきり突き飛ばし」てしまう。
そんな母親の激変を目にした双子たちも、「純なる瞳をたちまち濁らせてゆく」……という終わり方に、人間の心がいかに折れやすいか、その変化が子供達にどう影響してゆくか……丸山先生は客観的に書きながら、そうした人間に哀しみを感じているようにも思えた。

そんな挙に出た彼女に仰天した双子は
   あまりのことに泣き叫ぶことを忘れ、

   茫然自失の体へと移行したかと思うと
      その純なる瞳をたちまち濁らせてゆく。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』29ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月8日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』四月二十三日を読む

ー流されるタイヤの自由ー

四月二十三日は「私はタイヤだ」と、大型トラックの荷台から振り落とされてしまったタイヤが語る。
以下引用文。タイヤが転がってゆく疾走感、暴れ回る感じが面白いなと読んだ。

運転手は気づかぬまま走り去り
   思いきって世間へと飛び出して行った私は
      土手の斜面を一気に駆け下り、

      さらにその下へとつづく坂道をごろごろと転がって
         熟しかけている夜の奥へと分け入り、

         まほろ町という名の片田舎へ突入して暴れこみ
            過酷にも程がある現実の障壁を
               次々にぶち破って行く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』18ページ)

タイヤはまほろ町の住人たちを観察しながら進んでゆく。
以下引用文。世一を避けて通ろうとした気遣いが仇となって、調子を崩したタイヤはやがて欄干にぶつかって川へと転落してゆく。

タイヤが流されてゆく有り様に、自由を重ねて思う視点が丸山先生らしいと思って読んだ。

いずれは大河へと通じる川へ転落した私は
   大量の水しぶきや自暴自棄の心を飛び散らせて
      ゆるやかな流れに乗って遠い海をめざし、

      自由な存在とは
         要するにこんな立場なのかもしれないと
            そんな思いを強めながらどんどん下って行く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』21頁

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さりはま書房徒然日誌2024年7月7日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』四月二十二日を読む

ー生と死ー

四月二十二日は「私は墓地だ」で始まる。「裏の崖が崩れて以来 訪れる者がぱったりと絶え、ために 埋葬された死者たちと共に忘れ去られようとしている 山中の墓地」が語る。

以下引用文。なじみである世一がやってくるが、墓地はその顔に厭な思いをさせられたような痕跡を認める。
それでも墓地を歩き回るうちに、世一が見た「希望にきらめく四月の彼方」が心に残る。
その直後、足元に見たむき出しになった白骨という展開も、生と死というこの世のあり方を告げているようである。
ちなみに丸山先生の幼い頃、大町のあたりは当然ながら土葬だったようで、土から掘り起こされる白骨の思い出を丸山先生が語っていた記憶がある。「希望にきらめく四月の彼方」と「人骨を一本」という世界は、実際に目にした記憶なのかもしれない。

大きく波打つ五体を持て余しながらも
   希望にきらめく四月の彼方を見やり、

   その目を足元に落とした拍子に
      人骨を一本発見し、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』16頁)

以下引用文。白骨を一本振り回してみせる世一も、もしかしたら丸山先生が実際に目にした少年の姿なのかもしれない。
そうした光景を語る文の、「勇ましく咬みつく」世一の姿も、「この世はこんなものだ」と諭しにかかる墓地の諦めも、ともに丸山先生の思いを重ねているから心に響くのかもしれないと思う。

青々と輝く無辺際の宇宙そのものに
   勇ましく咬みつく彼の思弁は、

   一方においては正しくもあり
      他方においては的外れでもあった。

そこで私は
   「こんなものだ」と言ってやり
      「どうせこの世はこんなものだ」といい重ね、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』16頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月6日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結3」四月二十一日を読む

ー観察が文に発酵するとー

四月二十一日は「私は牛だ」で始まる。

以下引用文。丸山先生は通行人とか電車で隣り合わせた行きずりの人をよく観察して文にすると言われていた。
多分、次

の場面もどこか不自由なところのある少年が飼い牛のそばに近づき、その乳房をしゃぶるという場面を実際に目にしたのでは?
だが、ただ描写するにとどまらず、少年が求めるもの、少年が与えたものを作家が考え、言葉にしてゆく過程に面白さを感じる。

少年はその都度乳をせがみ
   むげに断るわけにもゆかないので
      一滴たりとも出ない乳房をしゃぶらせてやり、

      つまりはこういうことで
         私は彼が所望する愛に似て非なるものを与え
            先方はこっちのなかに溜まりに溜まった
               退嬰やら倦怠やらを
                  余さず吸い取ってくれたのだ。


思いなしか
   その病児の体の震えが和らいだかのように見えることもあった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結3」13ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年7月5日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』

ー世一の不思議な力ー

四月二十日は「私は路地裏だ」で始まる。一つの独立した童話のような趣があって、とても好きな箇所である。

神仏のたぐいと肩を並べるほどの勢いの太陽が
   まほろ町の上空に差し掛かってもなお
      ひたすら隠に籠もりつづける路地裏だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』6頁)

そんな路地裏を通過するとき、世一は「なぜか足音を立てず 口笛をも吹かず 訳のわからない独り言を吐いたりもしない。」

以下引用文。通り過ぎる世一に路地裏はこう諭す。

ここは
   生きることを諦め
      さりとて死ぬに死ねない者だけが
         ひっそりと固まって暮らす場所だと


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』7頁)

以下引用文。
路地裏の諭す言葉を聞いた世一はしばし無言になったあと、「遣りきれないため息を残してひっそりと立ち去り」。
だが、そのため息が次第に変化して、人々に働きかける力に変化してゆく。その有様が抽象的な言葉を使っているのに、目に見える不思議さがある。

その微かな余韻は
   ほどなく
      実に生々しい質感を伴って
         波紋状の広がりを見せ、
 
         やがて
            押しも押されもしない
               堂々たる弁駁と化し、

               そこかしこで
                  大きな渦を巻く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』8頁)

以下引用文。路地裏は世一のため息の「禍々しい渦をひとつずつ潰しに」かかる。
だが世一のため息は、ひっそりと暮らしていた路地裏の人々を変えてしまう。
疎まれていた世一が、人々を変えてゆくという展開に、丸山先生の弱い者の不思議な力を信じる思いが強く心に残った。

しかし
   時すでに遅く
      これまでひっそり閑としていたあちこちの家から
         微笑があふれ出した。

ほどなくして
   窓や戸が開け放たれる音が相次ぎ
      あたかも祭りでも始まるかのごとき
         そんな浮いた雰囲気が募ってゆく。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』9頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月4日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」四月十六日を読む

ー自由ー

昨日から二日分戻って四月十六日「私は風呂敷だ」で始まる箇所へ。風呂敷に魚の素干した塩干しをぎっしり詰めこんだ行商の娘が書かれている。もしかしたら日本海側からバスに乗って信濃大町まで行商に来た娘を、丸山先生が観察して「千日の瑠璃」に登場させたのではないだろうか?

私は風呂敷だ

   素干しや塩干しにした魚をぎっしり詰めこんだ箱を
      いっぺんに五つも包んでしまう
         唐草模様の大きな風呂敷だ。

まだ二十歳そこそこだというのに
   私を用いて行商をしている娘は

      私と同様
         体の芯まで魚臭が染みついていた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」390頁)

以下引用文。なぜ、この行商の娘を書こうと思ったのか……媚びない人間の魅力を感じたのだろうか……作者の心を考える。

彼女は客に対して
   礼の言葉も発しなければ
      申し訳程度の愛想笑いすら浮かべず、

      にもかかわらず
         けっして悪い印象を与えることがなく、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」391頁)

以下引用文。売れ残った魚を丘の上の世一の家に置いてきた娘は、風呂敷を「いっぱいに広げてオオルリのさえずりをくるみ それを代金として受け取る」
娘の姿に「自由」を見ているのではないだろうか……という気がしてくる一文である。

バスを待つあいだ
   暖かい風に吹かれながら
      気分で購入した板チョコをぼりぼりと齧り、

      鼻歌を唄いつつ
         どこか遠くへ目をやって
            周りに誰もいないのに
               素晴らしい笑みを浮かべるのだった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」 393頁)


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さりはま書房徒然日誌2024年7月3日

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」四月十八日を読む

ー正しさの幻想を吹き飛ばしてー

四月十八日は「私は紙芝居だ」で始まる。「辻公園の片隅で 年に数回ほど 老いぼれたデブの歯科医が道楽で演じる紙芝居」が語る。

以下引用文。集まってきた子供達に「甲斐甲斐しく立ち働く者がけっして無駄骨を折ることがないことや 金銭に目が眩んだ者が幸福になれた試しがないこと」を教える紙芝居は、己の正しさへの自信に満ち溢れている。

要するに私は
   この世は生きるに値すると
      そうきっぱり言いきっており、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」400頁)

以下引用文。己の正しさを信じている紙芝居だが、少年世一は病にもかかわらず嘲笑を投げつけてくる。
信念というものの偽善を思わずにいられない場面である。

外見以上に手強そうな彼は
   歯などいくら磨いても虚しくなるほどの
      重くて厄介な病に全身を蝕まれており、

      にもかかわらず
         出会うたびに
            石礫のごとき嘲笑を投げつけ、


            にもかかわらず
               出会うたびに
                  石つぶてのごとき嘲笑を投げつけ、

                  げらげらと笑われるたびに
                     畏縮へと落ちこんでゆく。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」401頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月2日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」四月十四日を読む

ー天真爛漫な心ー

四月十四日は「私はたも網だ」で始まる。
以下引用文。世一は目が粗くて使い古された「たも網」の欠点に気がつかず、「波が運んでくる銀色の魚影を見つけるたびに 性懲りもなく さっと私を」くりだす。

魚を捉えることができなくても充たされてゆく世一の心を語る文の、「ぴちぴちと跳ねる銀鱗の数」や「幸福の青い色を差し招く」という表現や、銀や青の色、鱗、風が、世一の心の邪気のなさ、天真爛漫を表しているようで心惹かれた。

それでも世一の狩猟本能は
   充分に満たされて
      胸のうちでぴちぴちと跳ねる銀鱗の数が次第に増してゆき、
         
      しまいには
         幸福の青い風を差し招くほどになり、

      ともあれ
         私の本音としては
            どんな雑魚でもかまわないから
               せめて一匹くらいはなんとかしたいのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」382頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月1日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結2』四月八日を読む

ーちっぽけな蟻の目がとらえるこの世ー

四月八日は「私は蟻だ」で始まる。

以下引用文。貸しボート屋の親父の頭に登った蟻が目に(?)する風景は、生、勤勉な仲間たち、その仲間が世一に踏み潰されるという不条理……が書かれ、この世の姿が凝縮している文のように思った。

そんな男の頭のてっぺんから遠く沖を見晴らす私は
   薫風にそよいで光るヤナギの若葉にうっとりと見とれ、
      
   ひたすらまばゆい湖面では
      数珠繋ぎにされて出番を待つボートが
         うねりに合わせて揺れ
            互いに擦れ合ってのどかな旋律を奏でていた。


そして地面では
   存在のなんたるかも知らずに
      せわしなく動き回る私の仲間たちが、

      どう頑張っても真っ直ぐに歩けない少年によって
         次から次へと踏み殺されていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」361頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月30日(日)

神奈川県立図書館ボランティア朗読会 雑感その2

昨日も6月29日(土)神奈川県立図書館ボランティア朗読会「光るキミへ」の感想を書いたが、少し追加。


昨日も紹介させて頂いたが、普段から朗読会で短歌作品もあればいいのにな……と思っていた私にとって、以下の図書を紹介、朗読してくださった29日の読書会はとても嬉しく、興味深いものがあった。

・『愛するより愛されたい 令和言葉・奈良弁で訳した万葉集① 』佐々木良 著 万葉社

・『現代語訳 竹取物語』川端康成訳 河出文庫

 『竹取物語』星新一訳 角川文庫

 『竹取物語』江國香織 文 新潮文庫

・『光の帝国 常野物語』恩田陸 著 集英社

・『平安ガールフレンズ』酒井順子 著 角川文庫

・『木の声が聞こえますか 日本初の女性樹木医・塚本こなみ物語』池田まき子著 岩崎書店

・『窯変 源氏物語』橋本治 著 中央公論社

 短歌は、「宿命的に一人称が主体となる詩型。ただし無数の「私」に降り立つことで、他者に成り代わって歌を詠むことができる」と短歌創作を教わっている福島泰樹先生にたしか教わった気がする。

 随筆もやはり一人称の文学である。

 古典の朗読は穏やかで丁寧なもの……というイメージがある。
 ゆったりとしたリズムで普段音読されている、でも実は一人称の文学である……という作品群を朗読する……のはチャレンジフルだったのではないだろうか。
 朗読のことはさっぱり分からないながら、一人称の場合の方が感情移入が激しくなるのではないだろうか?でも古典の朗読は、なぜか穏やかな調べのものが多い気がする。このギャップに苦労されたりしたのではないだろうか?


 万葉集の朗読をされた方は、奈良弁での朗読に切り替えたときに感情を思いっきり込めて朗読をされていた。


『平安ガールフレンズ』の朗読者も、耳に心地よい悠々としたリズムで古文を読まれながら、清少納言や紫式部の気持ちを現代語で表現するときは、二人になりきって鋭い感情表現を放っていた。


 どの朗読も面白かったけれど、このお二人の朗読が古典らしいリズムと思いっきり感情を込めた一人称らしい朗読との切り替えが鮮やかで、とりわけ印象に残る。


 短歌も、随筆も一人称なのだから、元々はこういう強い感情を含んで音読されていたのかもしれない……と思った。


 そもそも万葉の時代、どんなふうに音読していたのだろうかとも考えたりもした。
 意外と奈良弁の現代語訳を朗読された方のように、ナマの感情をストレートに強く声に表現していたのかもしれないと想像したりもした。


 短歌は五七で調べもいいし、もともと声に出すことを前提にして書かれているし、時間に制限がある朗読会の場合、朗読する歌をチョイスすることで時間調整もうまく出来るし、ぼーっと聞いていても頭に残るものがあるし……と朗読会に向いている気がする。


その割には余り朗読されない。現代短歌になると、さらに知られていない。
もっと短歌が朗読されたらいいな……と思う。


それも出来れば古典だけでなく、広島あり、家庭内暴力あり……と現代の私たちの心を短歌にしている、でも殆ど知られていない現代短歌から作品が朗読されたらいいな……とも思ったりした。


 選書から作品説明、朗読まで色々ご努力されてきたことが伝わる会だった。

 清少納言は短歌が嫌い、藤は千年生きる……など知らないことを朗読を聞きながら色々教えて頂いた。
 司会の方々も原稿を見ないで、朗読会や朗読作品への想いを分かりやすく伝えて下さっていた。
 回を追うごとに充実していく朗読会を楽しみに、また伺いたいなあと思う。

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さりはま書房徒然日誌2024年6月29日(土)

神奈川県立図書館ボランティア朗読会へ

紅葉坂を登ってフォロワーさんが運営に参加されている神奈川県立図書館ボランティア朗読会へ。
朗読会の今回のテーマは「光るキミへ」。
様々な視点から選ばれた本の朗読。とりわけ五七調の調べのいい古典を音読する喜び、聴く喜びを感じた一日だった。
朗読会も回を重ねるごとにお客さんの数もどんどん増え、朗読の声も益々深みを増してゆく様子に、運営スタッフの皆様のご苦労と努力を思う。
今回、朗読してくださった本は以下の通り。

・『愛するより愛されたい 令和言葉・奈良弁で訳した万葉集① 』佐々木良 著 万葉社

・『現代語訳 竹取物語』川端康成訳 河出文庫

 『竹取物語』星新一訳 角川文庫

 『竹取物語』江國香織 文 新潮文庫

・『光の帝国 常野物語』恩田陸 著 集英社

・『平安ガールフレンズ』酒井順子 著 角川文庫

・『木の声が聞こえますか 日本初の女性樹木医・塚本こなみ物語』池田まき子著 岩崎書店

・『窯変 源氏物語』橋本治 著 中央公論社

原文の音読だといかにも古典らしい典雅な朗読が、現代語訳になると朗読者の思いが弾けるような読み方にも変化するようで興味深く聞いていた。
おそらく図書館の朗読会でも古典や短歌の朗読は試みが少ないのでは……と貴重な時を共有して愉しませて頂いたようにも思う。
関係者の皆様に感謝しながら、紅葉坂の青紅葉を眺め帰途へ。

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さりはま書房徒然日誌2024年6月28日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」四月四日を読む

ー「街道」がただの「街道」でなくなるー

四月四日は「私は街道だ」で始まる。この四月四日はとりわけ好きな箇所である。
「街道」という運ぶとか通行するという機能のためにある存在。それが丸山先生の視点を通して語られると、別の意味を帯びた存在へと揺らぐ。この世界の在り方への丸山先生の思いが、文となって迸るような気がしてくる。

まほろ町と世間を結び
   誤った観念と世人の目を瞞着する情報の数々を
      昼夜分かたずに運びつづける
         獣道が源の古い街道だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」342頁)

以下引用文。そうした街道を通る様々な人間群像が、全部で十一の姿となって書かれていく。以下はその一部である。通行人の姿を繰り返すことで、この世の多様性が心に響いてくる気がする。

今年初めて陽炎を立ち昇らせた私の上を
   勃々たる野心を姑息な手段によって実現させたがる者が通り
      全財産をすってからやっと故地を訪ねる気持ちになった者が通り、

      別にどうということもない精神的苦痛のせいで
         仏を渇仰してやまぬ者が通り、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」342頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月27日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」四月一日を読む

ー幼な子に壮大な運命を感じる視点ー

四月一日は「私は離乳食だ」で始まる。
「離乳食」が自分を食べている幼な子のことを「まほろ町では最年少の 自立した人間」とも、
「食べることに集中しながら 周辺の動きに周密な観察を加え、いつかきっと役立つ知識として 柔軟性に富んだ脳に しっかりと刻みつけている」とも語る。

以下引用文。離乳食が幼な子に寄せる思いの壮大さに心打たれる。「英名を馳せる者」になるか、「鉄窓に呻く者」になるか、あるいはその両方か。善悪にこだわらずに、人間の運命そのものに興味を持とうとする視点に心惹かれる。

そうやって私をひと口すするたびに
   将来において極めて有望な
      才覚を具えた者としての
         型破りな性格と
            そこから派生する運命の展開が形成されてゆき、

            もしできることなら
               この子の行く末を見届けたいと思う。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」332頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月26日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月三十一日を読む

ーひたすら観察ー

三月三十一日は「私は凄みだ」で始まる。
以下引用文。丸山先生を思わせる作家にやくざ者が凄みを放つ瞬間である。

悪趣味とはいえ
   それなりのセンスでめかしこんだ
      長身痩躯の若いやくざ者が
         およそ小説を書くしか能がない男に対して
            振り向きざまに放った凄みだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」326頁

以下引用文。やくざ者や世一のあとを付け回す作家にやくざ者は「なぜ?」と凄みをきかせて問いかける。
丸山先生は、周囲をよく観察して、観察結果をミックスして書かれるような話をされていたことがある。
こんな風に凄みのある男を観察していたことも、もしかしたら本当にあったのかもしれない。
観察して混ぜ合わせた事実のコラージュを、ご自分の言葉で別の世界に創り出しているのだなあと思う。

すると
   窮地に陥ったその中年男は
      懸命に作り笑いを浮かべて
         自分の仕事がいかに特殊なものであるかを説明し、

         とはいえ
            けっして詫びたりはせず
               二度としないという約束もしなかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」328頁)           

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さりはま書房徒然日誌2024年6月25日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十七日を読む

ープランクトンを語り手にすることで見えてくるものー

三月二十七日は「私はプランクトンだ」で始まる。うたかた湖の動物性のプランクトンが自身を、そして身体に不自由なところのある少年・世一を語る。

以下引用文。もし人間の視点で語れば「世一は体を揺らして湖面を見つめていた」で終わってしまう場面である。

プランクトンが語り手となることで、「数億年の進化の隔たり」という科学的にして大袈裟な言葉もしっくりとくる気がする。
「不敵な夢想家の眼差し」「この世における存在の意義なんぞを探っている」という実際にはあり得ない描写も、プランクトンが語ることで説得力をもってくる。

この世における文学の役割は、固定化された見方から解き放って、人を自由にするところにもあるのかもしれない。

体全体が意思に反して波のごとく揺れ動く少年が
   岸辺にしゃがみこみ
      数億年という進化の隔たりをものともしない
         不敵な夢想家の眼差しで
            私のことをじっと見つめ
               この世における存在の意義なんぞを探っている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」313頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月24日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十六日を読む

ー田舎暮らしを冷静に見つめる視点ー

三月二十六日は「里心」が語る。湖畔の別荘で過ごそうとする元大学教授の夫婦を振り回す都会生活への「里心」が語る。
里心が指摘する「まほろ町」の欠点。私も伊東にある山小屋に移り住もうかなと思う度に、「いや、やはり」と足踏みをしてしまう田舎暮らしの欠点が幾つか重なっていた。
さすが田舎に暮らしながら、田舎暮らしの欠点を冷静に観察している丸山先生らしいと思った。
伊東のスーパーは欠品中の商品もチラホラあったり、値段も東京下町よりも客が少ないせいか高い。

特に魚は地元にまわらないのか、地元民は魚の値段を把握しているのか東京近郊より少なく、値段も高い。美味しい金目鯛のお頭とかは、東京近郊だと100円以下で売っていたりするが、伊東の方は500円近くする。
静寂をいいように解釈してドラムの練習やカラオケが大音量で響いてきたりする。
油断しているとゴミ焼却場が近くに建設…ということも聞く話である。

あと丸山先生は書かれていないけど、病院はあっても病院の選択肢がない……というのも伊東の山暮らしの欠点である。丸山先生はあまり病院に行かないような気がするから関係ないのかもしれない。

家庭菜園をしようにも、野生動物を追い払うためにフェンスを張ったりしなくてはならずコストがかかってしまうのも、伊東の山暮らしの欠点である。丸山先生は菜園を作ったりはしないだろうから、これも関係ないのかもしれない。
丸山先生は自分の周りを冷静によく観察して文を書かれていると、あらためて思った。

ここには文化の香りというものが皆無であり
   身近に広がる自然美への自覚も持たず
      無為に生きることが慢性化しており、

      山の冷気が
汚染された都会の空気よりも老化を早めると
            思いつくままにまくし立てた。

ろくな商品がなく
   もっと大きな街のスーパーマーケットで売れ残った商品が回され、


   静寂も度が過ぎると有害で
      違法なゴミ焼却が目当ての産廃業者が横行し、

      民度があまりに低くて
         動物並か
            それ以下で、

            近頃では
               雪かき作業が煩わしい。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」307頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年6月20日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十五日を読む

ー元兵士の悲惨ー

三月二十五日は「私は夕闇だ」で始まる。
以下引用文。「まほろ町にひたひたと押し寄せる いつもながらの」夕闇だけを友とする男。その男が背負う戦争の体験を、丸山先生は以下のように語る。
戦争から帰ってきた元兵士の心の悲惨、戦災孤児の悲惨をずっと書いてきた丸山先生らしい箇所である。

家々を焼き払い
   無辜の民を大量に屠った
      異邦の地における言語道断の日々と
         幾度殺しても飽き足らぬおのれを
            しっかりと再確認する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」304頁

以下引用文。そんな戦争の記憶をいまだ心に引きずる男に、夕闇はこう諭してみる。いつまでも癒えることのない戦争の傷というものをあらためて思う文である。

ついで
   旧時を知る人も少なくなったのだから
      そろそろこの辺りで自分を赦してやったらどうかと
         真心を込めて説得しても、

         きのうと同様
            なんの効果も認められない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」304頁

以下引用文。少年・世一が現れ、銃声の口真似をしてみせる場面。口真似の銃声に男はよろめくが、その顔に深い安堵が浮かんでいた……という描写に、生きて帰ってきても死ぬまで戦場の記憶から解放されない元兵士の悲惨を思う。

私のなかへ逃げ込もうとする男の背中を狙って
   口真似した銃声をだしぬけに浴びせかけ、

   すると
      撃たれた相手は大きくよろめいて私に倒れかかり、

      その一瞬の顔には
         深い安堵の色が浮かんでおり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」305頁

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さりはま書房徒然日誌2024年6月18日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十一日を読む

ー映像より雄弁に語る文ー

三月二十一日は「私は大波だ」で始まる。「うたかた湖では十年に一度おきるかどうかもわからぬ」大波が語る。
以下引用文。大波が「ありきたりな波と化し」ていく場面。映像なら一瞬で終わるかもしれないし、こんな風に同時にいくつもの存在をいきいきと語ることは難しい気がする。
ひいてゆく波に被せるようにして、オオルリから時代の風潮まで森羅万象を語る文が心に残る。

ありきたりな波と化して
   沖へ静かに引いて行く私に付いてきてくれるのは、

   丘のてっぺんから絶え間なく迸る
      美し過ぎることで却って虚しく響くオオルリのさえずりと、


   うつせみ山の禅寺の墓地に葬られてようとしている
      長寿を全うした誰でもいい誰かの親戚縁者が漏らす
         安堵を込めたため息と、

         長身痩躯の若いやくざ者が拳銃の試し撃ちをする
            断続的な銃声と、


            無欲な暮らしをとことん嘲笑い
               辛辣な揶揄を浴びせる
                  不純な時代の冷笑のみだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」289頁)   

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さりはま書房徒然日誌2024年6月17日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月二十日を読む

ー「燻されたタヌキ」という言葉に場面を想像してしまうー

三月二十日は「私は恥だ」と「恥を恥とも思わぬ若者が 今後の身の振り方について かなり真剣に考えているときに初めて知った」恥が語る。

以下引用文。恥に詰られた若者が突拍子もない行動に出る様子がユーモラスに書かれている。

すると彼は
   燻されたタヌキのように
      堪らず土蔵の外へ飛び出して
         しどろもどろで何やら言い訳めいたことを呟き、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」284頁)

以下引用文。「生き恥」をテーマに踊る青年と一緒に世一も踊り出す。二人して踊っているうちに、恥というものがどうでもよくなってしまう。
踊る部分のあたりは平仮名で書かれている文字が多いせいか、青年と世一が無邪気に踊る場面が自然と浮かんでくる。
後半、恥が自然消滅してゆく箇所は心なしか漢字が多く、恥というものが概念であることが伝わってくる気がする。

すると
   そうやってかれらがいっしょに踊る最中
      私はいつしか自然消滅の道を辿り、

      要するに
         さほど大した価値観ではなくなって
            無の底へと堕ちて行った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」285頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月16日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2 」三月十四日を読む

ー単純だけど心に残る会話ー

三月十四日は「私は落書きだ」で始まる。ドライブインの塀に描かれた落書きが語る。
以下引用文。落書きの中でも、無抵抗の世一を塀に押しつけて三色スプレーを吹きかけて描かれた落書き。
愛犬が「わん」と吠えたことで、その落書きに気がついた盲目の少女の反応と言葉が心に残る。

丸山先生は滅多に会話を使わないけれど、その分、使う時は雄弁に物語る会話になっている気がする。「ああ、よいっちゃんだ」という簡潔な言葉に、盲目の少女の声音、表情が浮かんでくるような、世一への思いが溢れている。
「しまいには 単なる平面にぴたりと自分の体を寄せた」という少女の行動の後だけに、「私が心底からおのれのことを誇るに足る存在と感じたのは それが最初で最後だった。」という落書きの言葉は深く納得してしまう。

すると少女は
   少しもためらうことなく
      まっしぐらに私のところへ近づき
         指先の感触のみを頼りに
            たちまち世一を探り当て、

            「ああ、よいっちゃんだ、よいっちゃんだ」と幾度も呟いて
                しまいには
                   単なる平面にぴたりと自分の体を寄せた。

私が心底からおのれのことを誇るに足る存在と感じたのは
   それが最初で最後だった。


(丸山健二 「千日の瑠璃 終結2」261頁」  

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さりはま書房徒然日誌2024年6月15日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月十三日を読む

ーフィルムにはない文章表現ならではの魅力ー

三月十三日は「私はカメラだ」で始まる。まほろ町に新婚旅行に訪れた夫婦は、通りがかった世一に写真を撮ってくれと頼む。
以下引用文。世一が体を揺らしながら写した風景。フィルムに摂りこまれた風景を映像で見れば一瞬で過ぎ去ってしまう。
でも、こうして文で描かれると一つ一つの情景が別々に心にたちのぼってくるようで、文章ならではの表現の魅力を感じる。

しかしながら
   私がフィルムに摂りこんだのは
      着水に失敗して無様につんのめる
         経験不足の若い白鳥と
            ボートを浮かべてワカサギ釣りを楽しむ隻腕の男、

            ほかには
               結婚式までしか考えていなかった男女の
                  頼りない笑みの底にこびり付いている
                     一抹の不安のみだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」255頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月14日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月十一日を読む

ー「焦燥」が語ればー


三月十一日は「私は焦燥だ」で始まる。世一の姉に取りついた恋の焦燥が語る。
以下引用文。焦燥の語る言葉。姉が自分の言葉で語ったりすれば、あまりにも生々しくなりすぎるかもしれない。作者の視点で語れば、冷たく感じられるかもしれない。
でも「焦燥」という有り得ない視点で語ることで、娘の様子が哀れにも、コミカルにも思えてくる気がする。

「これまでおまえに興味を示した男がひとりでもいるのかな?」と訊き
   「いなければ、これからだって絶対に現れないぞ」と決めつけ、

   その意味においては
      弟の方がまだましというもので、

      オオルリという連れ合いがいるばかりか
         住民のほぼ全員に関心を持たれており
            その意味においては幸福な人生だと
               嫌みたっぷりにつづける。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」249頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月13日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月十日を読む

ー文章で出会う世界ー

三月十日は「私は雪崩だ」と「うつせみ山の南側の急斜面に発生すべくして発生した」「雪崩」が語る。

長年、信濃大町に住んでいる丸山先生らしい感覚にあふれた箇所だと思う。まだ雪崩を体験したことがない私は、その音や気配、雪崩を迎える山国の人の心境を知る。私なら思わず怖くなって布団を頭から被ってしまいそうだが、山国の住民にとっては「春を知って 束の間心をときめかせ」るものと知って意外だった。

それほど大した規模ではない私であっても
   だが音だけは立派で
      たちまちのうちに落ちかかる雷火のごとき轟音に成長したかと思うと
         まほろ町の夜明けをびりびりと振動させ、

         物凄まじい気配で目を覚ました住民たちは
            いよいよ間近に迫った春を知って
               束の間心をときめかせ、

               根拠に頼ることなく
                  何やらいいことが起きるのではないかと
                     本気で期待する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」242頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月12日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月六日を読む

ー「自由」ー

三月六日は「私は自由だ」で始まる。
「この島国の無能さを徹底的に暴露するに至ったあの戦争は 彼から家と家族をあっさりと奪い ついでに希望のひとかけまでをも根こそぎにし」と書かれる物乞いの老人。その老人の「かれこれ半世紀ものあいだ付き纏って離れない」自由が語る。

「自由」は、自由を選ぶことでとても厳しい状況になろうとも、丸山先生自身が一番大事にされていること。
丸山文学の主人公たちも自由を求めて流離う姿が心に残る。

そんな丸山先生が「千日の瑠璃」で自由を見出している登場人物は、戦争で家も家族も失った物乞いの老人。
それから身体と脳に不自由なところがある世一……。
そんな設定に丸山先生の考える自由の在り方を見る思いがする。そして、世一がこれからどんな自由を求め旅を始めるのか……と楽しみにしているうちに、ふと己の不自由を忘れる自分がいる。

そして
   いつ果てるとも知れぬ放浪の日々のなかから
      この私を発見して手元に引き寄せたのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」227頁)

すると彼は
   仰向けに倒れた亀のようにもがく少年の目のなかに
      私をはるかに凌ぐほどの
         ほとんど無碍に近い自由を見て取り、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」229頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月11日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月五日を読む

ー「瑠璃色の才能」とはー

三月五日は「私は春一番だ」で始まる。まほろ町に吹き始めた春一番が語る。
以下引用文。「雪の白に幽閉されて」という部分と「生来の瑠璃色の才能が徐々に開花してゆく」という部分、コントラストの鮮やかさが心に残る。細々としたことは語らずして、色が与えるイメージだけで物語ってゆくような箇所である。「生来の瑠璃色の才能」ってどんな才能なのだろう……と思わず立ち止まって考えたくなる。

雪の白に幽閉されて
   魂を縮こめているしかなかった少年世一の
      意味も目的もなしに
         淡々と命を長らえさせるという
            重い病と引き換えに付与された
               生来の瑠璃色の才能が
                  徐々に開花してゆく。

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さりはま書房徒然日誌2024年6月10日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」を読む

ー「髪」が語ればー

三月四日は「私は髪だ」で始まる。
以下引用文。「四十三年間生きてきた」女の髪が語る。まるで竹下夢二が描く女を思わせる描写でありながら、作者が「女」のことを語るのでなく、「女の髪」が「女」を語ることで変な生々しさは消え、女の生命力が歌うように書かれているような気がした。

それでも私は
   山間を流れる小川のように
      どこまでもしなやかで、

      彼女のすっと気持ちよく伸びた華奢な首にも
         逃げ水のごとく儚い感じのうなじにも
            よく似合っており、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」218頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月9日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月三日を読む

ー一瞬の光が時をかけてゆくー

三月三日は「私は乱反射だ」で始まる。うたかた湖の水面と氷の乱反射が語ってゆくのは、世一の生き生きとした姿、死の直前の老人、死後の魂……一瞬の光のきらめきから生、死、死後を描き切る文に、肉体の縛りからも、時の縛りからも解き放たれて自由になった気がしてくる。
以下引用文。「乱反射」を「縫い針の束をぶちまけた」と語る描写が心に残る。

うたかた湖の大気よりも澄みきっている水と
   急速に溶けてゆく氷とが相まって生み出す
      まるで縫い針の束をぶちまけたような乱反射だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」214頁)

以下引用文。世一の目に「ひとつの巨大な光源」とも写り、「めざましい躍動」を楽しむ「うたかた湖」は、生を感じさせる存在である。

雪解けが進んでどろどろにぬかった丘の道を
   ふらふらと下ってくる青尽くめの少年は、

   あたかも湖面全体がひとつの巨大な光源であるかのように錯覚して
      私のめざましい躍動を存分に楽しんでいる。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」215頁)

以下引用文。「眠るがごとく寂滅してゆく」老人の目に映る乱反射。「顔を向け」「瞳孔いっぱいに私を取りこんで」という丁寧な描写に、瀕死の老人のノロノロした動きを感じる。
「おのれの非を悟る」という言葉に、「乱反射」が罪を映し出す鏡のようにも思えてくる。

やおら起き上がった彼は
   湖の方へ顔を向け、

   開きかけている瞳孔いっぱいに私を取り込んでから

      翻然としておのれの非を悟る。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」216頁)

以下引用文。老人が亡くなって魂となってゆく場面。
「坂道を転がり落ち」「仮眠中の絶命」「「ひっそりと息を引き取る」と言葉を変え、丁寧に描写してゆく文から、老人の死への敬意が感じられる。
さらに「魂のきらめき」「増すばかりだ」という言葉に丸山先生の死生観が強く感じられ、老人の死が新たな旅立ちのように思えてくる。

だがしかし
   太陽が位置を変えることで
      私が天井から離れてしまうと
         彼はみるみる衰弱の坂道を転がり落ち、


         世一のように全身を震わせたりせずに
            あたかも仮眠中の絶命のようにして
               ひっそりと息を引き取ってゆくものの
                  その魂のきらめきは一向に衰えず
                     むしろ増すばかりだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」217頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月8日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」三月一日を読む

ー丸山作品の「  」の不思議さー

三月一日は「私は骸骨だ」で始まる。まほろ町立中学校の理科室の教材用骸骨が、こっそり忍び込んできた世一を相手にする。
以下引用文。丸山先生は会話でストーリーを進める書き方を大変嫌っている。たしかに他の丸山作品と同様に以下の会話も、形こそ「   」で括られて、一見会話の形はとっている。

でも日常会話ではなく、どちらかと言うとアフォリズムのような趣きがある。丸山作品で「  」が出てくると、だらだらと会話でストーリーが展開するのではなく、ピリッと閃く丸山先生の思いに触れる気がする。

いかにも気怠げな口調で
「おまえ、誰?」と訊き、

    そこで私は
       わざと無念やる方ない表情を作り、

    「おれか、おれはおまえだよ」と

        素っ気なく答えた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」207頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月7日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月二十八日を読む

ーあたえる者へー

二月二十八日は「私はすき焼きだ」で始まる。まほろ町の湖畔の旅館・三光荘の女将と長逗留の女客が食べていた「すき焼き」が語る。
以下引用文。二人の女に招かれて、世一も一緒にすき焼きを食べる。
何も持っていないし、食べる動作さえ苦労する世一なのに、一緒にいると二人の女は「希望とも言えぬささやかな希望を感知」して、「心のあちこちに穿たれてしまった風穴が 一時的であるにせよ 確実に埋まってゆくのを覚えた」のである。
 何も持たない者、世から疎まれる者が与える者になる一瞬を信じているし、そんな瞬間を見い出すのが丸山作品の魅力だと思う。そして、そんな視点は特殊学級に入れられてしまった小学校時代、特殊学級の仲間たちとの交情から生まれてきたものではないだろうか。

ひっきりなしに身をよじりながら私を相手に格闘する
   健気な少年をつくづく眺めているうちに
      ふたりの女はなんだか不思議な心持ちになり、


      つまり
         希望とも言えぬささやかな希望を感知し、

         生きるために余儀なくした陰気な行為のあれやこれやに蝕まれて
            心のあちこちに穿たてしまった風穴が

               一時的であるにせよ
                  確実に埋まってゆくのを覚えた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」203頁

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さりはま書房徒然日誌2024年6月6日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十八日を読む

ー意外な本への思いー

二月十八日は「私は頭痛だ」で始まる。都会を離れ、山暮らしを始めた元大学教授がまほろ町の図書館を訪れ、久しぶりにたくさんの本を目にしたときに襲ってきた「頭痛」が語る。
以下引用文。大学教授という本を通して物事を見てきた筈の人が、こんな思いを本に抱くとは……一瞬、意外に思う。
でも丸山先生自身、いつかオンラインサロンで好きな書店は?と訊かれて、「リアルの書店に行くのは好きでない。本に囲まれると圧迫感を感じる」というような意外な答えをしていたのを思い出した。そんな丸山先生だから、こんな言葉が出てくるのではないだろうか?

確か彼は
   本には二度と手を出すまい
      これからは他人の言葉を通さずに現実を直視しよう
         おのれの目で見ておのれの頭で判断しようと
            そう自身に誓ったはずで、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」163頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月5日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十六日を読む

ー「見る」とは?ー

二月十六日は「私は炎だ」で始まる。盲目の少女の前に置かれ、やがて消えてしまうロウソクの炎が語る。
以下、三箇所からの引用文。
盲目の少女の目、世一の目に映る炎、世一の心眼に焼きついた炎、それぞれが描写されている。

同じ「見る」行為とはいえ、どこで見るのか、どう映るのかは様々なのだと思う。
そして書き手が言葉によって読み手に「見せる」行為とは……とも考える。それは最後の引用文にあるように、読み手の心眼に時も次元も超えた炎を宿らせることなのではないだろうか……そんなことも思った。

少女の見えない目と
   彼女の膝の上にちょこなんと座っている白い仔犬の純一無垢な瞳には
      それぞれ私が鮮やかに映じており

      その四つの虚像は
         ひとつの実像をはるかに超越した
            かなり見事なものであり、

            しかしながら
               彼女の魂に結ばれた映像の素晴らしさには
                  遠く及ばず、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」155頁)

もちろん少年の目にも私が映っており
   ところが
      彼の瞳のなかの私ときたら
         なぜか虚像ですらないほど頼りなく、

         にもかかわらず
            実像より数倍も生々しいのは
               いったいどうしたことだろう?


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」157頁)

瞬時にして少年の心眼に焼き付いた私は
   またしても激しくなってきた雪のなかを
      いかにも危なかっしくゆらゆらと揺れながらも
         けっして消えることなく
            まほろ町のあちこちを
               住民たちの有りようを照らしつつ
                  どこまでも進んで行く。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」157頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月4日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十五日を読む

ー自然に人間の世界を重ねるー

二月十五日は「私はカモメだ」と猛吹雪で海岸線を見失い、山の中まで迷ってしまったカモメが語る。
以下引用文。迷い鳥のカモメがまるでさすらいの旅人のようにも、カラスが俗物根性丸だしの人間たちのようにも思えてくる描写である。
丸山先生の目は、自然界の在り方にも人間の世界を重ねて見ているのだろうか?

いよいよ天運尽きた私は覚悟を固めたことで
   さばさばした気分になり、

   雪の重みで押し潰されそうになった長い桟橋の突端で翼を休め
      眼前に広がる見慣れぬ光景を夢心地で眺めた。


すると
   閉鎖的で排他的な田舎者根性まる出しのカラスどもが
      迷い鳥の私をいびり殺そうと集まり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」152頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月3日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十四日を読む

ー風船一個を語るにも語り口が印象的ー

二月十四日は「私は風船だ」と「くたくたになって山と湖の町へ辿り着いた 青い風船」が語る。
私なんかがこの風船を語るなら、「空色の丸い風船」とか安直にすぐ書いてしまいそうだが、丸山先生はそうではないと知る。
以下引用文。丸山先生は、風船の青い色を「〜のようだ」と語るのではなく、「〜にも似ておらず」と否定の形で語る。「水」「空」「死に顔」「オオルリ」にも似ていない青って、どんな色なのだろう……と読んでいる方の心にぽっかり「想像してごらん」という声が谺する穴をあけられる気がする。

私の色は
   水にも空にも
      そして
         死に顔にもオオルリにも似ておらず、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」146ページ)

以下引用文。風船の動きを「彼女の体熱と町そのものが暖めた大気によって上昇し」と語り、また「人魂を思わせる形状を保ったまま」と描写することで、風船がただの物からどこか人間らしさを帯びて感じられてくる気がする。

彼女の体熱と町そのものが暖めた大気によって上昇し
   人魂を思わせる形状を保ったまま
      一軒家の方へと引き寄せられて
         二階の部屋の窓枠に引っかかる。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」148ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年6月2日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十三日を読む

ー自然描写に重ねる思いー

二月十三日は「私はハーモニカだ」で始まる。刑務所を出所して鯉の世話をしながら暮らす世一の叔父が吹き鳴らすハーモニカだ。
以下引用文。まほろ町の夕暮れから夜にさしかかる冬の描写が、丸山先生らしい奥行きのある表現に思える。自然を見つめながら、この世と別の世について思いを巡らす丸山先生の思いも伝わってくるようで好きな箇所である。
「希薄な存在感の太陽」はいかにも冬らしく、それでいて別の世界を示しているようにも思える。
「然るべき方向」も、いったいどの方向を指しているのやら……と考えてしまう。
「漠とした落日を漫然と迎える」というまほろ町も、人の生き方を暗示しているようである。
「いかにも啓示的な闇」とは?と考えてしまう。
自然描写に重ねる思いがあるようで、それを考えながら読んでいくのが面白い。

やがて
   希薄な存在感の太陽が然るべき方向へと傾き、

   まほろ町が漠とした落日を漫然と迎えるや
      いかにも啓示的な闇が
         地の底から湧き上がってくる。

すると
   厳冬の夜が私をたしなめて
      もうよさないかと言い

         そろそろやめてはどうかと言い、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」143ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年6月1日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十二日を読む

ー同じ望遠鏡から覗いた世界なのにまったく違って見える不思議さー

二月十二日は「私は望遠鏡だ」で始まる。世一の父親がゴミ捨て場からそっと拾ってきて、ピカピカに磨きあげた望遠鏡が語る。
同じ望遠鏡に目をあてているのに、世一の父親が覗く世界と世一が見つめる世界は全く異なる印象を受ける。見つめる人の視点、心の持ちようで、こうも異なるものだろうか。
以下引用文。世一の父親が覗いた世界。私の目に映る世界のようで、思わずため息をつきたくなる。

私をどの方角へ向けようと
   そこにはすでに知られている現実が存在するばかりで、

   もしくは
      辟易するおのれの五十数年間が
         呆れ返るほどだらしない格好で横たわっているだけで、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」139ページ)

以下引用文。冬の厳しさを描きながらも、世一が望遠鏡を通して見つめる世界は宇宙的神秘さのある世界。「虚無そのものの広がり」という捉え方が、何となく丸山先生らしいと思ったり、こういう世界を感じたいと反省したりもした。

最初に捉えたのは
   灰色がどこまでも広がる
      実に味気ない冬の空間で、

      鳥が飛んでいるわけでもなければ、
         雲が流れているわけでもない、

         なんの変哲もないというか
            虚無そのものの広がりにすぎなかった。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」140ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月30日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十日を読む

ーヒトでない者の声が聞こえてくる「  」ー

二月十日は「私は氷だ」と、うたかた湖を隅々まで埋め尽くした氷が語る。
その氷の上で世一が「ときおり つつうっと滑ったり」という様子が微笑ましい。
以下引用文。そんな世一に警告しようとする「氷」。「軽すぎる体」「重すぎる魂」と氷が語る世一の姿は、人間界の常識を離れた姿にも思えてくる。

その都度私は不気味な音を発して警告を与え
   軽すぎる体のほうはともあれ
      あまりに重過ぎる魂まではとても支えきれないと
         そう言ってやり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」136ページ)

以下引用文。「氷」が心配するように湖の中に落ちることなく無事に帰ってゆく世一。
「氷」はふた言だけ呟く。
丸山作品では「  」の部分は普通の会話ではなく、天から響いてくる言葉のようでもある。
以下も「運」「不運」がコントラストをなして、やはり人間ではない者の言葉に聞こえてくる。

「おまえって奴はどこまで運に恵まれているんだ」と
    そう言ってから
       「そのくせ、どこまで不運な奴なんだ」とづづけ、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」137ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月30日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十日を読む

ー箒と箒売りの充足感に幸せとは?と思うー

二月十日は「私は箒だ」で始まる。
行商の男がまほろ町をまわったにもかかわらず、売れ残ってしまった箒が物語る。
以下引用文。箒売りの行商が丘の家の世一の家を見て「何かある」と感じて登り始める場面。箒の行商人という今ではあり得ない職業からもたらされるイメージが、仙人めいた千里眼的行動とよく合っている感じがする。

ただ気づいただけではなく
   そこにはきっと何かが在る
      ほかの家には絶対ない何かが在ると直感して
         心のどこかが激しく揺さぶられ
            すぐさま出かけてみようと思い立った。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」131頁)

以下引用文。世一の家にたどり着いたものの、いるのはオオルリだけ、あとは誰もいない。行商人は「お前をこの家にくれてやるからな」と箒を玄関の下駄箱の横に置いて帰る。
ただ、それだけの行為なのに、箒も、行商人も満ち足りてしまう……その姿に「幸せとは?」と思わず考えてしまった。

使ってもらってこその私であるのだから
   願ってもないことで
      元より異存などあろうはずもなく、

      雪に足を取られながら丘を下って行く男の後ろ姿が
         いつになく幸福の色に満ちあふれ
            夕日に染まったその背中には見るべき価値が感じられた。


 (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」133頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月29日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月八日を読む

ー覗き見の効果ー

二月八日は「私は節穴だ」と、路地と歯科医の家を分かつ塀の節穴が語る。「截然と」(セツゼン)(意味は「区別のはっきりしているさま」)という見かけない言葉が、路地と歯科医の家の違いを強く主張しているように響いてくる。

節穴から歯科医の同級生が覗き込み、多少嫉妬混じりの小さな嫌がらせをする。
次に世一が覗き込むと、歯科医の息子の進路をめぐる家庭内騒動が持ち上がる。思わず世一も一緒に騒ぎ立て……と展開してゆく。

ここで思い出したのだが、他の登場人物が覗き込む中、物語が進行してゆく……というのは、浄瑠璃にとても多い設定である。文楽ファンなら、覗き見で進むストーリーには慣れすぎるくらいに慣れてしまっているのではないだろうか。舞台の左手からも、右手からも覗き見……で舞台が進むのは、浄瑠璃くらいではないだろうか。

覗き見という手法をとると、違う世界の人間でも、自分の所属とは違う世界であっても、我が事のように反応する様子を自然に観察できる……と「千日の瑠璃」のこの箇所に思った。

文楽の場合も、覗き見する方、覗き見される方、両方の人形の動きを眺めることで、物語の世界を重層化していくようにも思う。

それにしても覗き見が当たり前の浄瑠璃の世界。これはやはり塀や障子という覗き見しやすい日本の住環境が影響しているのだろうか?

私は節穴だ、

   ほんのたまにしか人の通らないうらぶれた路地と
      歯科医の家の敷地を截然と分かつ
         かなり古びた板塀の節穴だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」122頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月28日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月六日を読む

ーX線のごとき存在とは?ー

二月六日は「私はX線だ」と世一の身体を調べるX線が、その心までも情け容赦なく調べる。その結果は……以下引用文。
「醜悪な外貌」と対をなす「心の表情」という言葉には、喚起してくるイメージがたっぷりとあって、世一の心の豊かさを思わせてくれる。
「彼の魂は 不可視なものではなく」という箇所に、人間の魂を見通せる光があれば……とも想像する。人間の魂を見通せる存在……なんて嫌だし、煙ったいとは思うけれど、そういう存在が作家なのかも、とも思う。つまりX線は丸山先生自身のことなのかもしれない。

ひっきょう
   世一を見かけだけで誤解してはならず、

   彼のふた目と見られぬ醜悪な外貌は
      断じて心の表情と一致するものではなく、

   彼と接する連中の
      人間としての程度や真価を試すものでもない。

そして彼の魂は
   必ずしも不可視なものではなく
      残酷極まりない神に成り代わって
         この私がそのことを証明する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」117ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月26日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月五日を読む

ーパラレル・ワールドは救いか、絶望か?ー

二月五日は「私は星雲だ」で始まる。蠍座の星雲は、世一の飼っているオオルリの囀りを通して遥か彼方のまほろ町のことをよく知っていると語る。
丸山先生は以前、量子力学の観点からパラレルワールド、もう一つの世界は存在する……そんなことを話されていた。以下引用文にも、そんな丸山先生の考えがよく現れていると思う。

そして
   私のほうもまた
      自身のどこかにいる青い鳥が
         そっくり同じことをしており、

         つまり
            私のなかにもまほろ町が在り
               少年世一が存するのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」111頁)

以下引用文。己の星雲がある世界から、世一のいるもう一つの世界へ……そんな不思議なやり取りが書かれている。
くどくどとストーリーが展開するのを楽しむのでなく、もうひとつの世界を感じる大きな視点に気がついてハッとする。そんな楽しさが「千日の瑠璃」を始めとした丸山作品にはあるように思う。
その分、ストーリーを楽しんだり、教えを請う人には不向きなのかもしれないが……。

もう一つの世界でも私は「千日の瑠璃」を読んでいるのだろうか……そんなことを思うと、こちらの世界の諸々の不安が消えていくような気がする。パラレルワールドを信じることは救いになるのか、それとも同じ苦労をしていると絶望を深めるだけなのか?「千日の瑠璃」にその答えがあるのかもしれない。

きょうもまた私は
   そっちのまほろ町の
      そっちのオオルリに対して
         詳細な報告をし、

         それから
            こっちの世一が岸辺に佇むだけで
               うたかた湖の深浅を正しく把握できるまでに

                  成長した旨を伝え、

                  はてさて
                     そっちの世一はどうかと尋ねてみる。

 (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」112頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月25日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月四日を読む

ー缶バッジが語れば、偉そうな物言いも何故か気にならないー

二月四日は「私はバッジだ」と、まほろ町に駆け落ちしてきた娘のセーターを飾る「青い鳥をかたどった 派手なバッジ」が語る。

以下引用文。バッジが実は自分が娘の行動を決めている……と語る。バッジにズバッとありえないことを宣言させるおかげで、普通に書いていたらモタモタしてしまいそうな余分な贅肉が削ぎ落とされスッキリしている気がする。
バッジという実に庶民的なものが、娘の行動を決める神のごとき存在……という設定も丸山先生らしいと思う。

彼女は私を気に入っているばかりか
   信頼しきっており、

   駆け落ちを決意させたのも
      実はこの私というわけで、

      まほろ町に住むことも
         スーパーマーケットで働くことも
            全部決めてやった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」106ページ) 

以下引用文。スーパーの先輩(世一の母親)と娘をバッジが観察する。もし、ここで作者が語っているなら「なんて失礼な」と思うかもしれないが、バッジが語っていると思うと不思議と気にならない。

どんなに厚化粧をしたところで
   生活の疲れを隠せないその先輩は
      素顔でも溌剌としている後輩をつかまえ
         冷ややかな物言いで
            「それ、なんて鳥なの?」と訊き、

             鳥の名を度忘れした娘は
                とにかく幸福を招く鳥だと答えた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」107ページ)      

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さりはま書房徒然日誌2024年5月24日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月三日を読む

ー田舎暮らしの残酷さを思い出したー

二月三日は「私は散弾だ」と密猟者たちが禁猟区で放った散弾が語る。散弾が仕留めたのは白鳥。密猟者たちはなんと白鳥を解体して、少ない肉と肝臓を手に入れると、塩焼きにしたり、鍋料理にしたり、串焼きにしたりする。
以下引用文。「ぶっ殺してやる!」という部分も効いているし、「肉にめりこみ 血管を破り 内臓を裂き 骨を砕き」と畳みかけるような短い文も、インパクトのある動詞も、散弾の威力を効果的にあらわしている。

私は散弾だ、

   ひとえに炸薬の力を頼みとして
      「ぶっ殺してやる!」などとわめきながら風のなかに飛び出す
          やや大粒の散弾だ。


狙いは違わず
   ぶすぶすと獲物に命中した私は
      一瞬にして羽毛をぱっと散らせ
         肉にめりこみ
            血管を破り
               内臓を裂き
                  骨を砕き
                     指頭大の魂をも粉砕する。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」102ページ) 

密猟で手にした白鳥を食べてしまう……といういささかショッキングなこの場面は、田舎の生活の残酷さも描いているのかもしれない。
みずから動物を仕留め、解体して、食べてしまう……という行為は、私も田舎暮らしでよく見かけた。そして「私には無理だ」と田舎暮らしを断念させた大きな要素でもある。
だって本当に伊東で窓の向こうを見たら、隣家の物干しに猪から剥ぎ取った毛皮がかけてあったり……
田舎に引っ込んだ元同僚は、町内会のメンバーと共に害獣駆除のため猪を仕留め、解体して、肉は冷凍して、耳は切り取って市役所に持参して報奨金をもらう……という仕事を、地域の一員として当然のようにこなしていた。
そんな姿に「私には田舎暮らしは絶対に無理だ」と思った。命をいただく行為、それを残酷と取るか、幸せととるかは人様々とは思う。また、すべての田舎がそうだとは限らないだろう。
でもとにかく私には田舎暮らしは絶対無理である……と思ったことを思い出した。

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さりはま書房徒然日誌2024年5月23日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月二日を読む

ー小さな大豆にも思いは尽きることなくー

二月二日は「私は大豆だ」で始まる。物騒な輩に知らずして土地を売ったため、町中から非難されるまほろ町の八百屋の主が、いわくつきの連中が住むビルに向かって豆をまく。ところがその連中が来て、豆を買いに来ると……。
先ほどまでの勢いはどこにやら?途端にびくびくし始める八百屋の主人の小物感。
そんな恐れられる連中でも豆をまく……という意外さに人間らしさを感じる。

極道者ですら鬼を忌み嫌い
   福に巡り合いたがっていることに八百屋の主人が気づいたとき、

   ビルの窓から撒かれた私を
      いかんともしがたい不幸を背負って歩く青尽くめの少年が
         ひと粒ずつ丹念に拾って食べている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」101ページ

小さな大豆でもよく観察すれば、忌み嫌われる者たちを、忌み嫌う者を、世一の心を表している……。
そんなことを思ううちに、亡くなった女流義太夫の三味線弾きさんが、亡くなる一ヶ月前にたしか可愛い赤鬼の仮面と大豆の写真をアップされ「鬼は外」と呟かれていた記憶がよみがえった。とても辛い、死を覚悟されながらの「鬼は外」、どんな思いであったのだろうか。
その三味線弾きさんとは幻想文学の講演会でたまたま席が隣だったり、愚息を連れて義太夫の公演に行った時も偶然席が隣になって愚息に「眠くなったら寝ちゃっていいのよ」と優しく声をかけてくださったこともあった。
そんなことを思い出すうちに、その三味線弾きさんの舞台での凛々とした音色も聴こえてくるような気がしてきた。
小さな大豆でもそこから紡がれる記憶は無限、それを発掘して残してゆくのも、人間の大事なミッションなのかもしれない。

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さりはま書房徒然日誌2024年5月22日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月一日を読む

ー「退学」が語る学校ー

二月一日は「私は退学だ」と、普通の高校生が当人の事情でした「退学」が、学校をやめて解放感に溢れている高校生の喜びを語ることで学校という存在の矛盾を問いかける。

以下引用文。「退学」が見つめる学校の在り方は、丸山先生の心にある思いなのだろう。まさにその通りの場である。
でも最近では「優秀な労働者」どころか、物言わぬ労働者、物言わぬ市民を大量生産するための場になり下がっているいる気もする。
「おのれの意志と決断」「飛び出した」という言葉に、「退学」した若者の心がよく表されている気がする。

従順で在りながら
   適度に優秀な労働者となる若者を選りすぐるための
      窮屈で堅苦しい
         疑問だらけの場、

         彼はどこまでもおのれの意志と決断でもって
            そこから飛び出したのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」95ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月21日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月三十一日を読む

ー遺影もじっと見ているのかもしれないー

一月三十一日は「私は遺影だ」で始まる。「胸が潰れるほどの悲しみを撥ね返してくれそうな 金ぴかの仏壇の前に」飾られた、松林で首をつって死んだ娘の遺影が語る。
「遺影」を語り手にしてみたら、家族のそれぞれの勝手な思いやら、線香をあげにきた友人の虫のいい願いやらを、感情を交えることなく、じっくりと人ごとのような視点で物語れるものと思った。
そういえば「遺影」を前にしたときは、自分の心を隠すことなく、正直になっている気がする。
以下引用文。線香をあげにきた世一の姉が、自分の恋はあなたと違って上手くいきそうだ、と勝手な思いを語る場面である。
「凝然として動かぬ私」という言葉にたしかに「遺影」はそうだなあと思い、「くどくどと」「見つめ直し」「一方的な頼み」という言葉から世一の姉が浮かんでくる。

つまり赤の他人同然の異性について
   くどくどと語り、
   
   あげくに
      凝然として動かぬ私をまじまじと見つめ直し、

      どうにかこの恋の行方を見守っていてほしいと
         好ましい出発を願ってほしいと
            そんな一方的な頼みをする。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」93ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月20日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十九日、三十日を読む

ー想像するのが楽しくなる色の語り方ー

一月二十九日は「私は雪道だ」で始まり、三十日は「私は口紅だ」で始まる。二日通づけて対照的な色が出てくるので印象に残る。
ただし「雪道」の方では様々なものを「白い」と表現しているのに対して、「口紅」の方では具体的な色の描写は出てこない。色の表現方法が違うにもかかわらず、どちらも色が浮かんでくる不思議さを感じた。

以下引用文。「私は雪道だ」の二十九日より。「時間」や「父と子の心」のように抽象的なものを白いと表現しているので、どんな時間か、どんな心か想像する楽しさがある。

その重さに耐えられずに折れてしまった無数の枝が
   私の上にも無惨に散らばっていて、

   しかし
      一様なためにさほど見苦しくはなく
         どうにか清らかな白を保っており、

         辺りに漂う大気も白く
            穏やかに流れる時間も白く、

         はたまた
            私に沿って歩きつづける父と子の心も白い、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」82ページ)

以下引用文は三十日「私は口紅だ」より。はっきりと色の名前は書かれていないが、「シクラメンの花の色にもよく似合い」「浮いた立場にもぴったりと合っている」「不確定な要素を孕んだ」と表現される口紅の色を想像する楽しさがある。

シクラメンの花の色にもよく似合い
   彼女の浮いた立場にもぴったりと合っている
      かなり不確定な要素を孕んだ口紅だ。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」86ページ)

白、口紅の色と出てきたあと、最後は世一の着ている服の色で終わる。「娼婦に成るべくして生まれついた」女を引き寄せるオオルリの色のセーター。最後に世一の、オオルリの力を感じる。
どの色にしても想像するのが楽しくなる書き方だと思った。

娼婦に成るべくして生まれついたような女の目は
   不治の病に侵された少年が纏っている衣服の青の素晴らしさに見惚れていた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」89ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月19日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十八日を読む

ー反復されることで本心からの叫びに思えてくるー

一月二十八日は「私はビデオテープだ」とレンタルビデオ屋から大学教授夫妻のもとへと貸し出されたビデオテープが語る。観た後、大学教授夫妻は内容について散々けなす。
以下引用文。けなした後で大学教授の妻が野鳥への愛を語る場面。
「名画であろうと名作であろうと」が繰り返され、「たとえば」が反復されることによって、野鳥への賛歌が大学教授の妻の心の底からの思いにも聴こえてくる。

妻の言葉に思わず納得したところで聞こえてくるのは、世一のオオルリを真似たさえずり。絶妙なタイミングに、この少年は人間なのだろうか、それとも……と世一が人間を超えた存在に思えてくる。

窓の向こうに広がる
   一面雪に覆われた雑木林に目を移し、

   いかなる名画であろうと名作であろうと
      結局のところ
         野鳥一羽分の感動すら与えることができず、

         傑作中の傑作というのは
            たとえばオオルリであり
               たとえばクロツグミであり
                  たとえばミソサザイであり
                     それを超えるものはないと

                        言い切った。

ちょうどそこへ
   オオルリのさえずりを上手に真似る少年が通りがかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」81ページ)  

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さりはま書房徒然日誌2024年5月18日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十七日を読む

ー「風死す」を思わせる書き方ではー

一月二十七日は「私は境界だ」で始まる。目には見えない「境界」によって、あらゆるものを区切る……そうすることで浮かんでくる様々な存在が、わずか四ページの中におよそ41にわたって書かれている。
語を、短い文を連ねることで境界で区切られる姿をあらわそうとする書き方は、最後の長編小説「風死す」にもつながるのでは……と興味深く読んだ。
そして41は素数である。もしかしたら素数を森羅万象を律するリズムにして、まほろ町の様々な境界を描こうとされたのだろうか。

私は境界だ、

   言ってしまえば有象無象の集まりから成るまほろ町を
      入り組んだ線でもって複雑に区切っている
         けっして目には見えない境界だ。


分けつづけ

   分けずにはいられない私は

   生者と死者を
      死者と統治者を、

   肥立ちのいい赤ん坊を背負っていそいそと立ち働く若妻と

      嬌態のすっかり板に付いてしまった淫をひさぐ女を、

      堅忍不抜の精神で日夜勉学に勤しむ若者と
         家名を著しく落として悪友の下宿に転がりこんだ放蕩児を


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」74ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月17日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十六日を読む

ーありえないモノの視点で語るからこそー

一月二十六日は「私は忠告だ」で始まる。昼休みを利用して空の別荘で逢引きをしている町役場の職員たち。そんな二人に気がついた上司(世一の父親)が男を呼び出して与える「忠告」が語る。スキャンダルが大好きな田舎の住民の好奇心に晒されてもいいのか、自分も面白がっているのだから……などと忠告する。
「忠告」が情景を描写する……という有り得なさがなければ、こうした場面は安っぽい陳腐な場面になりがちではないだろうか……と以下引用文を写しながら思った。
もし作者が語るような形で「そんなことで色を着けるしかない人生」とか「男の干物になり下がっている」とか「面白くもなんともない仕事」と書いてしまえば、そこには反感が芽生えるかもしれない。だが「忠告」が語るという形だからこど、何となくアイロニーもユーモアも感じられるのではないだろうか。

目を伏せて頷く部下の肩にそっと手を置いて
   気持ちはわかると呟き
      そんなことで色を着けるしかない人生だものと言い、

      定年まで勤め上げて
         退職金や年金をもらう頃には
            いっさいの色恋沙汰と縁がない
               男の干物に成り下がっていると
                  きっぱり結論付けた。

そして
   いい歳をしたふたりは
      午後の面白くもなんともない仕事へと戻っていった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」73ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月16日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十五日を読む

ー散文ならではの魅力、詩歌と変わらなぬ魅力ー

一月二十五日は「私は氷原だ」と、「俘虜としてシベリアの厳冬を体験した男が 全面結氷したうたかた湖から激しく追走する めくるめく氷原」が語る。
以下引用文は、そんな元俘虜の男の目がとらえた現代社会だ。
この文を写しているうちに、散文の良さを教えてくれる文のような気がしてきた。


「跡目を継ぐことになった」という微妙な表現に、こうした制度への疑念やらが感じられてくる。
「隙あらば」「少しでもいい思いをしよう」という言葉から、現代社会を抜け目なく渡ってゆく黒い輩の姿が浮かんでくる。
「無知」「動物的な習性」という言い方に悲しき私たちの在り方を思う。

不可思議な制度を、ずる賢い連中たちを、哀れなる私たち自身を、まさに無駄のない的確な言葉の三連発でずばりと語った後にくるのは、「〈蟻の思想〉の扶植」である。
「〈蟻の思想〉の扶植」というよくは分からないながら、イメージをモコモコ自由に喚起させる不思議な語句が待ち受けている。無駄のない表現の後だから、この不可思議な言葉の結びつきが心に迫って、「自由にイメージせよ」と呼びかけてくる。
こうした構成に散文ならではの魅力を思う
またストーリーから離れて、読み手に発想を自由に委ねてくれる……そんな詩歌と変わらない魅力が本来なら散文、小説にはあるのだなあと思う。

跡目を継ぐことになった次の天皇を
   隙あらば象徴以上の地位に返り咲かせて
      少しでもいい思いをしようと企む輩は、
         国民の無知と強い者には訳もなく従うという動物的な習性に付け入って
            またしても〈蟻の思想〉の扶植に熱を入れ始めていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」67ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月15日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十四日を読む

ー与える者へー

一月二十四日は「私は縫いぐるみだ」で始まる。愛犬が老衰のせいで死んでしまった盲目の少女。彼女の哀しみを癒そうと与えられた犬の縫いぐるみが語る。
以下引用文。縫いぐるみは世一のことを「小癪な奴」だと思うが、次の瞬間には……。
不自由な筈の世一が、少女の心を本当に慰めることのできる「生きた本物の仔犬」を渡すのだ。
この世における世一の役割と存在が、弱く、憐れまれる者から、与えることのできる者へと変わる一瞬。その劇的な変換が、「少年は突然奪って 突然与え」という短い繰り返しに表されているようにも思った。

少年は突然奪って
   突然与え、

   つまり私は
      あっという間に彼の手に移ったかと思うと
         すぐさま今度は
            雪よりも白い
               生きた本物の仔犬が少女の手に渡ったのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」64ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月14日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十三日を読む

ー目にするものから物語が無限に生まれる!ー

一月二十三日は「私は無精髭だ」と「無精髭」が語る。
周囲にいる知らない人をそっと観察することから、小説は生まれてくる……丸山先生がそんなことを以前言われていたような気がする。

以下引用文からも、無精髭を生やしている人をそっと観察している丸山先生の様子が想像される。丸山先生の眼を通すと、街ですれ違う人の無精髭からもストーリーが無限に生まれてくるのだなあと思った。

彼はさかんに私を撫で回しながら
   うちなる何かとのべつ闘い、

   あるいは
      自分で自分を痛めつける言葉でも探していたのかもしれず、

      あるいはまた
         私を仮面の代わりにして
            まったく別の人間になろうとしていたのかもしれず、

            さもなければ
               おのれ自身を私のなかへ埋没させて

               完全に消し去ろうとしていたのだろうか。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」59ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年5月13日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十二日を読む

ー偏見は生まれたときからなのかー

一月二十二日は「私は手だ」と「乳児の 魂そのものよりも柔らかい手」が語る。
乳児の手を語る文にその形や動きを思い浮かべ、納得しつつ途中まで読む。
以下、「   」内はすべて丸山健二「千日の瑠璃2」より。

「たとえ天変地異に見舞われたとしても親を放すまいとする 
    凄い圧力を秘めた私」

「私自身の接し方は
    猫にも人間にも分け隔てがなく」

以下引用文。そんな乳児の手も、世一のことは忌み嫌う……と書かれたのは、なぜだろうか。
人間の心には、理不尽な偏見が生まれついたときから根付いている……そんな思いもあって、こうした文を入れたのだろうか?
そうだとしたら人間の心に生まれついた時から巣食う偏見に、世一は
どう向かい合っていくのだろうか?
今後の展開が楽しみになってくる。

しかし
   何事にも例外があり、

   勝手に頭がぐらぐら動いてしまうせいで脇見が普通になっている
      あの少年がそれで

      私が忌み嫌うそいつが
         今また無断で敷地内に入りこみ
            庭を横切って迫ってくる。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」56ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月12日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十一日を読む

ー「暖炉」が象徴する様々なものー

一月十二日は「私は薪ストーヴだ」と、世一の姉が好きになったストーヴ作りの職人に注文して完成した薪ストーヴが語る。
世一の家へと向かう坂道を「古い毛布をあてがった製作者の背中に 登山用のロープでしっかりと括りつけられ」運ばれてゆく薪ストーヴの言葉を読んでいると、このストーヴが象徴しているのはゆらゆら揺れる炎さながら「世間一般の声」であり、「青年」「世一の姉」それぞれの愚かしく哀しいまでの生き方であるような気もしてきた。
以下引用文。薪ストーヴの声は世間の声にも思えてくる。

ついでに
   隙あらば彼の将来をも併せて押し潰そうと企み、

   あげくに
   「こんな女はやめておけ」と忠告し、

   それから
      「結局は前の女のときと同じことだぞ」と脅かしつけてやる。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」51ページ)

以下引用文。青年が背負う薪ストーヴの重みは、これから背負うことになる世一の姉の重みでもある。

男はまったく動じず、

恐ろしく滑り易い急坂を一歩一歩着実に突き進む彼自身は
   再度の失敗をまったく想定しておらず、

   私のみならず
      すでに長いこと暗欝のなかに生きてきた
         ために
            その反動としての幸福に期待し過ぎる
               そんな女までをも背負うつもりだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」52ページ)

以下引用文。世一の姉の青年への思いは、ストーヴの炎にうっとりと見とれる人のものでもある。

片や女はというと
   烟突のみならず      
      ふらつきながら自分の前を行く男の
         なんだか胡散臭い半生を
            ときめきに惑わされて
               まるごと抱えこもうとしている。

薪ストーヴというものに、様々な立場を反映させているようで面白く読んだ。それにしても薪ストーヴを背負って坂道を登るとはすごい。


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さりはま書房徒然日誌2024年5月11日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十日を読む

ー小難しい漢字が入ると文が老人めいてくるー

一月二十日は「私は老衰だ」で始まる。途中まで「老衰」が語る箇所は、「私は懸河の弁を揮って」の「懸河」とか、「後進を誘掖したのも」の「誘掖」など小難しい漢字が出てくる。
ちなみに日本国大辞典で調べれば
「懸河」(けんが)は「弁舌のよどみのないさまのたとえ」
「誘掖」(ゆうえき)は「みちびき助けること。補佐すること」だそうである。
いかにも老人らしい、気難しい表現が続いた後、世一のオオルリが「常に強い心組みで臨むべし」「そのひと言をもって瞑すべし!」と囀ると、老衰は素直な言葉で語り始め退散してしまう。
小難しい漢字を入れると、老人らしくなる……と思った。

鳥の言葉とは到底思えぬ
   気高い勢いに気圧され、

   生きる意味などとうとう得られなかった
      得ようともしなかった
         締まりのない生涯に
            今さらながら気づかされた私としては
               もはや早々に退散するしかなく

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」49ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年5月10日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十九日を読む

ー見方を変えれば「檻」の意味も変わってくるー

一月十九日は「私は檻だ」とまほろ町営動物園の「人間とそうでない物の領域をきっちりと分け隔てる 頑丈この上ない檻」が語る。
檻の中の麒麟の様子を語る文に、キリンの動作やキリンといる時間が思い出されてくる。たしかにキリンなんだけれど、自分ではこう書けないのはなぜなのだろうとも思う。

舞台女優並みの大仰な瞬きを物憂げにつづけて
   ふざけきった形の口をもごもごさせながら
   
   おのれの身の上を決して悲観せず
      時間を時間とも思わずに
         ゆったりとくつろいでいる。


  (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」42ページ)

キリン専用の檻。キリンという動物以外には意味のない檻だし、普通の価値観で考えたら「檻」なんて鬱陶しいものである。その常識を突き破って檻に憧れる世一に、今まで抱いていた価値観がひっくり返される不思議さを感じる。

だが少年世一だけは
   キリンではなく
      この私のことを主役と認めて
         多大な関心を払ってくれ、

         それだけに留まらず
            一度でいいから私の中へ入ってみたいと
               そう真剣に願っているのだ。


  (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」44ページ)

以下引用文。キリンの檻に入りそうになっている世一を見つけた飼育係は背後から抱き止めながら、こう語る。
飼育係にとって檻は檻だし、病の世一の体もまた檻なのである。
何を檻と見なすかで生き方や価値観も変わってくる……と、そっと教えてくれているような気がした。

「それでなくてもおまえは病気に閉じこめられているんだぞ!」と
    そう言ったあと
       「その檻から生きて出られんぞ!」と怒鳴る。


  (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」45ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月9日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十八日を読む

ー書き手と読み手が共有できる色のイメージー

一月十八日は「私は敵意だ」で始まる。「鋼鉄製の反社会的な形状の扉」に向かってぶつけられようとした「敵意」が跳ね返され、そのまま置き去りにされたところで徘徊中の世一と出会う。

以下二つの引用文。色の使い方が印象に残る。意外と色は人によって喚起されるイメージが違うもの……と短歌をつくっていて思うようになった。
でもオオルリの羽のイメージと世一のピュアな心を表しているだろう「青々とした印象の少年」にしても、簡単に「白い」とは言わずに「雪と同じ色の吐息」と表現される白にしても、色からイメージを喚起しつつ、作者の思い描くイメージと読者の描くイメージにズレがないなあと思った。

ところが
   その青々とした印象の少年は付け入る隙がまるでなく
胸のうちに潜りこめる余地もなく、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」41ページ)

だが憐れな病児は
   雪と同じ色の息を吐き散らしながら
      手と足をもつれさせるだけもつれさせ
         却って寂しさを募らせるばかりの街灯を縫って進み、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」41ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年5月8日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十七日を読む

ーありふれた風景を変えてしまう力ー

一月十七日は「私は桟橋だ」で始まる。昨日の「十字路」もよかったが、この箇所も好きな箇所である。私はありふれた日常風景に詩情を感じ、別の意味を感じる心が気になるらしい。
以下引用文も、場面としては湖に突き出た桟橋で不自由な世一が遊んでいる……ただ、それだけの場面である。
だが、そんな風景に次元を超えた世界への憧れを込める作者の視点が好きである。

うたかた湖の南側の岸辺から北の沖へ向かって
   もしかすると来世へと繋がっているかもしれぬ
      是非そうあってほしい
         不必要なまでに長い桟橋だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」34ページ)

以下引用文。桟橋にいる世一はもう不自由な少年ではなく、妖精のように自然と語り戯れる存在である。そんな風に視点を変える力が「千日の瑠璃」の魅力のようにも思う。

危なっかしい足取りで突端まで進み出て
   陶酔の面持ちを深め
      今現在を吹く風の精髄を全身でしっかりと感知し、

      物怖じせずに

         一部の隙もない自説を得々と述べる波音に
            そっと耳を傾ける。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」35ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月7日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十六日を読む

ーありふれた空間が意味をもってくる不思議さー

一月十六日は「私は十字路だ」とまほろ町の中心部にある「なんの取り柄もない 平々凡々たる十字路」が語る。
以下引用文。平凡な道ではあっても、十字路とは思いがけない者同士が出会う不思議な空間であることに気がつく。
現実には、十字路で世一と丸山先生を思わせる作家がばったり出会った……ただ、それだけの場面である。
その風景を散文にすると、こんなふうに意味を持たせ、別の時が流れているように書けるのかと思った。

そんななか
   霧の海を泳ぐようにして
      北の方角から忽然と現れたのは
         あの少年世一で、

         時を同じくして
            南の方から
               黒いむく犬を連れた
                  よんどころない事情で小説家になった
                     いかにも我の強そうな男がやってくる。


そして
   西の通りから〈肯定〉が悠然と近づき
      東の通りから物知り顔の〈否定〉が悠然と迫り、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」31ページ)  

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さりはま書房徒然日誌2024年5月6日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十五日を読む

ー人ではない存在「橇」が語れば子供の遊びもこう見えてくるー

一月十五日は「私は橇だ」と「少年世一を乗せて」走る「安っぽいプラスチック製の橇」が語る。
以下引用文。世一を「この際思いきって変えてしまおう」と橇は思いたつ。
実際には橇に世一がはしゃいでいる場面かと思うが、人間ならざる存在「橇」の視点に寄せて語れば、不自由な筈の世一が超人のように思えてくる。
それは「生きる者に変え」という畳みかけるリズムの繰り返し、
漢字の多い行頭からその漢字のイメージから離れた言葉で行末を終える意外な展開の続き(例「惻隠の情」と「蹴散らす」)
「俯瞰できる者」から「鳥に近づけ」というように上昇してゆくイメージを膨らませているせいなのだろうか。

競争激甚の世をすばしこく生きる者に変え
   降りかかる災難を事前に察知する者に変え
      惻隠の情を蹴散らす者に変え、

      はたまた
         徒手空拳で生きる者に変え
            社会の安寧を乱す者に変え
               まほろ町を俯瞰できる者に変える。

そして世一は
   速度が増すにつれて
      その存在をどこまでも鳥に近づけ、

      私がちょっとした瘤に乗り上げて宙を飛ぶ一瞬などは

         完全に鳥の目で世間を眺めており、

 (丸山健二「千日の瑠璃 終結2」26ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年5月5日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十一日を読む

ー目には見えない幸運が伝わってくるー

一月十三日は「私は幸運だ」で始まる。
「愚鈍そのものの顔つきの これまで良いことも悪いこともしてこなかった高校生が 生まれて初めて自分の小遣いで買った しかもたった一枚の宝くじ」が、「百万の桁を超えていない」金額で当たった……という幸運が語る。
以下引用文。宝くじが当たった高校生へのまほろ町の人々の反応を、「温かい牛乳のように」と物に即して書いたり、金額も「百万を超えていない」と具体的に書くことで、だんだんその目には見えない幸運が伝わってくるようなところがある。

程良い金額は
   私を健全な形で保ってくれ、

   いくら生きても何ひとつとしていいことがない者たちを
      落胆させることもなく、
         温かい牛乳のように
            かれらの胃袋にすんなりと納まった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」19ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年5月4日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十二日を読む

ー丸山先生が「土蔵」に込めた思いとはー

一月十二日は「私は土蔵だ」と始まり、農家の土蔵が語る。江戸川乱歩とか坪内逍遥とか土蔵を書庫代わりに使い、まだその土蔵が残っている作家もいる。でも丸山先生の場合、土蔵はあくまで生活の風景の一部のようである。たしかオンラインサロンで幼いとき土蔵に暮らしたことがある……などと語っていらしたような記憶もある。
以下引用文の土蔵の描写に、丸山先生の記憶にある土蔵の役割が浮かんでくる。そんな土蔵を見捨ててゆく夫婦の様子も細かいことは書かないながら、収穫したばかりの米を炊いて食べ、蔵の古米を売り……という文に、大変な稲作を愛すれどどうにもならない現状が伝わってくる。

でたらめに過ぎる農政にとことん失望し
   先行きに絶望してまほろ町を離れた農家の
      まだまだ充分使用に耐える
         古びた分だけ風情を醸す土蔵だ。

昨年の暮れ

   老夫婦は秋に収穫したばかりの米を炊いて食べてから
      私が貯蔵していた古米の果てまで売り飛ばし
         先祖伝来の田畑を見捨て、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」14ページ)

以下引用文。そんな家からとうに家を飛び出していた五男が戻ってくる。母屋には目もくれないで、ただ土蔵だけを見つめる……のはなぜなのだろう。
丸山先生が「ただひたすら私のみを見つめた」とだけ書いてある、その背後にある物語を考えてしまう箇所である。書かずして物語を語る……ということもできるのだなと思った。

身ひとつでこっそり帰郷した彼は
   誰もいない母屋にも
      荒れ果てた耕作地にも
         立ち枯れた果樹にも
            四方を囲むカラマツの凄まじい成長にも

               さして驚かず、

                       そんな代物には目もくれないで
ただ私のみを見つめた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」15ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月3日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十一日を読む

ー一つの文に過去から現在、恍惚から恐怖がすっきりおさまっている!ー

一月十一日は「私は秘密だ」で始まる。役場の休憩時間と冬の別荘を利用して逢瀬を重ねる男女の「秘密」が語る。

以下引用文。逢瀬を終えて役場に戻ろうとした二人は、思いもよらず上司の車に遭遇する。

「串刺しにされ」という言葉から緊張感と恐怖が迫ってくる。
「両人の一抹の寂しさが付き纏う粋事がみるみる恐怖に染まり」は、一つの短い文の中に過去から現在、恍惚から恐怖が描かれていて見事だなと思った。
「秘密」自らが、「かくして私は 隠れもない事実と相なり」と変化を語る箇所も、そんなことはありえない筈なのに納得させる不思議な言葉の運びがある。

残念ながら手遅れで
   思わぬ相手の視線に串刺しにされ
      両人の一抹の寂しさが付き纏う粋事がみるみる恐怖に染まり、

かくして私は
         隠れもない事実と相なり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」12ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月2日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月十日を読む

ー「洗濯物」とやり取りする少年の自由な心ー

一月十日は「私は洗濯物だ」で始まる。
以下引用文。冬の寒さが厳しい信濃大町にずっと住んでいる丸山先生らしい、実体験あふれる描写だと思う。

マイナス6度の風に吹き晒されたことで
   がちがちに凍りつき、

   却って生々しい形状になってしまった
      丘の上の洗濯物だ。

(丸山健二「千日の瑠璃」6ページ)

以下引用文。「洗濯物」と不自由なところのある世一が交わすやり取りである。
互いに相手の特徴を鋭く突きながらも、お互いに負けずに言い返しているところが何ともユーモラスである。そして洗濯物を相手に自由にやり取りする世一の心がひたすら羨ましくなってくる。

ときおり彼は
   ごわごわに固まっている私を見ながら
      少しは動いたらどうかとという意味のことを言い、

      そこで私は
         少しはじっとしていたらどうかと言い返し、


         病児はなおも食い下がって
            動かない奴は死んだ奴だななどと宣い、

            こっちも引き下がらずに
               動き過ぎる奴も生きているとは言いがたいと
                  そう決めつけてやった。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」8ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年5月1日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月九日を読む

ー対照的な二つの死ー

「千日の瑠璃」は各話を書き上げたあと、其々の話をどう並べていくか床一面に原稿を広げながら考えた……そんな話をオンラインサロンで丸山先生から伺ったような記憶がある。
天皇の死の後に来るのは、盲目の少女が可愛がって飼っていた黄色い老犬の死である。形ばかり大袈裟な死の儀式、愛犬の死に衝撃を受ける少女……この対比が印象的な配置である。
一月九日は「私は食器だ」と老犬のステンレスの食器が語る。老犬が食器に託した飼い主の少女を思いやるメッセージ、食器を手にする少年世一……ちっぽけな犬用食器に老犬が込めた真心が、不自由な少年にも伝わってゆく。そんな様子が前日の形式的なことに終始する死とは対照的である。

にもかかわらず
   老犬が最後の力を振り絞り
      舌を使って私に記した
この子をどうかよろしくという意味の意志は消えず、

         私を拾い上げてくれた少年の心にも
            正しく伝わり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」5ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月30日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月八日を読む

ーこの一日を記憶している人達の存在ー

一月八日は「私はテレビだ」で始まる。そう言えば、この日のテレビ番組はどれも同じような番組だったのか……。
私はこの日付すら「千日の瑠璃」を読むまで完全に忘れていた。
でも丸山先生と同じように鮮明に一月八日のことを覚えている人から感想をいただいたりした。
この一月八日という日に「なぜ?」という思いを抱え、テレビを、国旗を睨みつけていた人は、丸山先生以外にもしっかりといる……という事実に、あらためて「千日の瑠璃」を読む意義を思う。

天皇の老死がすべてのチャンネルを占領してしまったせいで
   少年世一の家族に愛想尽かしをされた
      とうに買い替えの時期を過ぎていながら
         丘の上の家だからこそ映りのいいテレビだ。

どの局でも
   この日を予期して

      予め用意しておいた特別番組をだらだらと流し、

      間違っても事の核心に触れるような際どい言葉を吐かない
         安全で無難な文化人をスタジオに招き、

         死以上のものと化したそのありふれた死に対して

            元々在りもしない威厳を持たせるための
               露骨で滑稽な装飾的なコメントを

                  延々と並べている。

(丸山健二「千日の瑠璃」398ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年4月29日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月七日を読む

ー旗を睨む作者の姿が見えてくるー

一月七日は「私は国旗だ」と国旗が、しかも「旗竿の先端に黒いリボンを結んで弔意を表し」ている国旗が語る。
「千日の瑠璃」は、ある年を選び、曜日も実際の通りにしているそうである。

突然、弔意をあらわす国旗をあげることになった一月七日。その日にちにしても事実のままである。その日、国旗をあげることになったのはまほろ町だけでなく、日本中の至る所であげられたことだろう。


国旗をめぐる人々の反応の書かれ方も様々で面白い。「朝食も食べず」に家を飛び出して「作法通りに」旗をあげた役場の男。国旗の上げ方に作法なんてあるとは。知らなかった。


「人間ひとりが高齢のせいで寿命が尽きたという それだけのことではないか」と疑問をぶつける若者。


以下引用文。そんな一月七日の様子を見て、丸山先生の耳には国旗がこう語りかけているように本当に思えたのかもしれない。

道行く普通の人々に
   いつの時代であってもおとなしく従ってしまう国民に
      あるいは
         戦争責任を鋭く難詰することなど
            まずもって不可能な連中に対して、

            「謹んで哀悼の意を表せ!」と
                声高に叫んでやった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結」396ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月28日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月六日を読む

ーちっぽけなものを語りながら、大きな存在を忘れない視点にポエジーを感じるー

一月六日は「私は惑星だ」で始まる。「千日の瑠璃」の中でも一段と丸山作品の魅力が表れている箇所だと思う。
ものすごく小さくて猥雑な存在のまほろ町と対をなす「飽くことなく自転と公転をくり返す 水と罪の惑星だ」という大きな存在。小さなものを語りつつ、包み込む大なる存在を決して忘れることがない……という点が丸山文学の魅力の一つだと思う。大小のコントラストとが詩的なイメージを感じさせてくれる。

でこぼこした岩石の表面に
   みずからを省察できないまほろ町を載せて
      飽くことなく自転と公転をくり返す
         水と罪の惑星だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」390ページ)

以下引用文。そんな岩石惑星・地球が世一に語りかける言葉にもやはり同じような魅力がある。
さらに「回る」を繰り返すことで、恒星の動きから世一の駆け回る様子まで同一線上にある動きとして感じられてくる。たとえ片方は分子レベルの動きで、もう片方は星々の回転だとしてもだ。

私が輝ける恒星の周りを回るように
   おまえはきらめく青い鳥を巡って存分に回るがいい、

   私が回れなくなるまで回るように
   おまえもまた回ることができなくなるまで回りつづけるがいい。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」392ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年4月27日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月五日を読む

ー小さなホオジロの死に寄せる思いー

一月五日は「私はホオジロだ」で始まる。季節外れの大雪に見舞われて逃げ場を失ったホオジロが語る。

以下引用文。窓越しに世一に飼われているオオルリの「自然界にはない堕落の餌をついばみ」「夏場の華やかなさえずり」をばら撒いている姿を見ながら、寒さに死んでゆくホオジロの姿と思いを描いている。
自然界の小さな死の尊厳を見つめる丸山先生らしい視線を感じる文である。同時に凍死しようとも野鳥としての自分らしさを保とうとするホオジロに理想を感じているようにも思えてくる。

自分は野鳥としての職務を忠実に果たしてきたのだと
   そうおのれに言い聞かせることで
      死を受け容れようと務め、

そして
   いよいよその段が訪れそうになったとき
      ぬくぬくした生活を送っている青い鳥に
         「それでもおれの方がましだぞ」と
             窓越しに言ってやったが
                まったく通じなかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」389ページ) 

 

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さりはま書房徒然日誌2024年4月26日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月四日を読む

ー厳しい世だから世一の世界を心に抱いてー

一月四日は「私は自動販売機だ」で始まる。あやまち川沿いの街道に立つカップラーメンの自動販売機らしい。
以下引用文。自動販売機が語る馴染みの客・世一の姿は、丸山先生が時々エッセイで語るペットのタイハクオウム、バロン君の「現在という概念しかない」というような言葉で表現されていた姿を思わせる。「時間の概念やら明日の予定やらとはいっさい無縁」という在り方が、丸山先生が理想とされる、でも現実には中々厳しい生き方なのではないだろうか。
でも厳しくなるばかりの世だからこそ、心に世一を住まわせ、ダイハクオウムのバロンくんを思い描いて生きていきたいものである。

かかるところへ
   時間の観念やら明日の予定やらとはいっさい無縁な
      かの少年世一が忽然と現れた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」382ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月25日

丸山健二「千日の瑠璃」十月二十四日を終結版、ネット版で読み比べる

ーネット版では世一の存在感がアップしている気がするー

「千日の瑠璃」は最初1992年に刊行。
2021年に丸山先生がご自分で立ち上げたいぬわし書房からかなり書き改めた形で「終結」として文庫で刊行。
今回ネットバージョンにさらに書き直されnoteで有料公開されている。note版は横書きになったというだけではない。「終結」版と比べながら読むと、丸山先生が書き直した箇所には文を深く、立体的にするコツが詰まっているように思う。

十月二十四日「私はハングライダーだ」で始まる箇所から一部分を見比べてみる。
以下引用文。ハングライダーがいくら憧れたところで鳥にはなれない現実を世一に言い聞かせた後に続く文である。
どちらも同じ箇所だが、背景が緑の箇所は終結版である。

ところが
   私から離れようとしない羨望の塊は
      まったく耳を貸さない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結」96ページ)

以下、背景が水色の箇所は一番新しいネット版である。

ところが
そんな私から離れようとしない羨望に彩られた純なる魂は聞く耳を持たないのです。


丸山健二「千日の瑠璃 ネット版」

世一という体も頭も不自由なところはありながら不思議な魅力をもつ少年を語るのに、「羨望の塊」とだけ語るより、「羨望に彩られた純なる魂」とした方が、世一の魅力がアップする感がある。
さらに「まったく耳を貸さない」だと確かに老人が「耳を貸さない」イメージとも重なってしまうが、「聞く耳を持たないのです」だと子供らしさが出てくる気がする。
いぬわし文庫版、ネット版と見比べて読み、変更のあった箇所を考えてみれば、日本語を深くするコツが少し見えてくる気がする。

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さりはま書房徒然日誌2024年4月21日

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月三日を読む

ーわずかな文字数で様々な思い、現在、過去、未来を語るのは散文だからなんだろうか?ー

一月三日は「私は凧だ」で始まる。
「千日の瑠璃」は一日ごとに語り手が順々に変わるが、一日がおそらく640字程度で書かれいるのだろうか(正確に数えた訳ではなく、おおよその目算である)。短歌にすれば二十首ほどになる。


一月三日も他の日と同じようにわずか4ページで語られてゆく。

そこで語られるのは凧の思い、世一、世一の飼うオオルリの囀りが跳ね返す平凡な日常、出所した世一の伯父の獄の日々と現在と未来である。

散文と短歌それぞれの魅力があるとは思うけれど、短歌二十首でこれほど語ることは、一人称視点や五七五七七の縛りがあるから、私には難しい気がする。そういう縛りがあるから短歌は面白くもあるのだが。
わずかな文字数でここまで語ることが出来るのは、そうした縛りがない散文ならではの強み……のような気もする。
とにかく、よくぞこれだけ短い文字数で語るもの……と感心する。

以下引用文。様々な想いを語ったあと、凧は世一によって爪切りで糸を切られ、空へ飛んでいく。

色々語った後で、世一が点のように見える終わり方が映画のようでもあって印象に残る。

ほとんど理想的な風を絶え間なく受けて
   心憎いほど巧みな造化と天工の中心へ向かって
      測り知れぬ自負を背負ったまま
         私は高々と舞い上がってゆき、

         今や世一は
            取るに足らない点の存在だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」381ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年4月20日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー繰り返される「世一の」に込められた思いー

一月二日は「私は酒だ」で始まる。「昨晩からずっと私だけを相手にしてきた世一の父は」と正月らしい、朝から晩まで飲んでいる風景が書かれている。
以下引用文。世一の母と姉が火鉢で餅を焼いて弟に食べさせている風景である。
繰り返しを嫌う丸山先生が、一月二日のページでは「世一の父」「世一の母」「世一の姉」というように「世一の」を反復しているのは何故なのだろうか?
どんな思いを込めて「世一の」を繰り返しているのだろうか?
世一という重しを背負って生きていく彼らは、世間一般の父、母、姉とは異なる苦しみ、優しさがあるという思いを込めて「世一の」を繰り返しているのかもしれない。

世一の母は火鉢を使って餅を焼き
   世一の姉は焼き上がった餅を細かく千切って弟の喉を通り易くしてやり
      世一はその餅をせっせと口へ放りこんでいた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」375ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月19日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー門松と段ボール箱にイメージを重ねて語る面白さー

一月一日は「私は門松だ」で始まる。銀行に飾られたものの、「天皇が老衰で死にかけている」ために、撤去されてゴミ捨て場に追いやられた門松が語る。

世の中も「先の戦争について言い渋る気配が濃厚に」なっていく中、門松はゴミ捨て場の段ボール箱たちにこう怒りをぶちまける。
段ボールにこの国の戦後の人々を重ねているような視点が面白くもあり、痛くもある。

しかし
   製造されたときから身の程を弁え過ぎるくらい弁えている
      見ているだけで腹が立つほど従順なかれらは
         皆黙りこくって
            消耗品としての身の上を甘受していた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」371ページ) 

以下引用文。門松も同様に人々の上に立つ「象徴」を象徴する存在かと面白く思った。ゴミ捨て場の門松と段ボール箱に、戦後日本社会の象徴と人々を思い描く視点は、丸山先生ならではと思う。

自分はこれからも生きてゆかなければならぬ人々を祝うための
   象徴的な存在であり、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」372ページ)

以下引用文。象徴である存在にも臆することなく、元の場所に戻してやる世一の行為を描くことで、不自由である筈の世一が象徴より上の存在に思えてくる。「遠い春の方向へゆらゆらと立ち去った」という文が、世一の不思議な存在を強調しているようでもある。

だがそいつは
   震える手をいきなり差し伸べ
      私を抱くようにして銀行の正面玄関へと運び
         元通りの位置に置き直してから
            まだ遠い春の方向へゆらゆらと立ち去った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」373ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年4月18日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー丸山先生の世界とも重なる風景ー

十二月三十一日は「私は鐘だ」で始まる。無人の古寺にある全自動式の鐘が鐘が語る。
ありがたみの無さにまほろ町の人から馬鹿にされている鐘の音でも、世一とオオルリは聞き惚れる。そんな彼らに申し訳なく思った鐘が、百九番目の音をおまけして盛大に放つ。

以下引用文。そんな百九番目の音に対する世一とオオルリの反応を語る言葉が興味深い。「元々数というものに頓着しない少年と小鳥」に、この二者の不思議な魅力ある世界が語られているように思う。

先日、丸山先生がnoteに書かれていたエッセイにも「俗に言われるところの〈天然の性格〉、幸いにもそれを見事に備えた妻と、現在という時間の観念しか持っていないタイハクオウムのバロン君こそが頼みの綱なのです。」という一節があった。
世一とオオルリのこんな世界にも近い風景に思え、ほのぼのとしたものを感じてしまった。

世一とオオルリに自分の世界を重ねた丸山先生の心境なのかもしれない……とも思う

されど
   元々数というものに頓着しない少年と小鳥に
      私の意図を推し量ることなど到底できず、

      そんな彼らに発生した純なる感激は
         そっくりそのまま次なる年へと静かに持ち越されてゆき
            願わくば
               より幸福ならんと祈るばかりだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」369ページ)

丸山先生のnote記事へのリンク 

https://note.com/maruyama_kenji/n/n981e053fe5c4


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さりはま書房徒然日誌2024年4月17日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー説明のない「書きかけの手紙」「食べかけのミカン」が物語を語るー

十二月三十日「私は隙間風だ」で始まる。まほろ町に駆け落ちしてきた二人(オオルリのバッジをセーターにつけた二人)が借りたあばら家に吹く風である。
以下引用文。そんな二人の生活が立ち現れるような、文である。どこ宛とは書いていないだけに、「書きかけの手紙」が一層気になってくる。親を説得する手紙なのだろうか。
「根拠なき希望がぎっしりと詰まった部屋」で普段の二人の会話が見えてくるようである。
「食べかけのミカン」の存在も、「根拠なき希望」と重なって思えてくる。

食べかけのミカンと
   書きかけの手紙のあいだを擦り抜けつつ
      根拠なき希望がぎっしりと詰まった部屋を
         でたらめに走り抜ける。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」364ページ) 

以下引用文。不自由な世一の動きをかくも美しく、この世にある存在の重さを伝えてくれる文だと思った。

そして
   累積する矛盾で成り立っているかのような
      夢幻的な歩行でさまよう少年に纏わりつき


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」365ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月16日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー塩分を嫌う丸山先生らしい文ー

十二月二十九日は「私は新巻き鮭だ」で始まる。湖畔の別荘で暮らす元大学教授のもとに届いた新巻き鮭が語る。
以下引用文。最初は庭先に吊るして楽しんでいた元教授だが、世一の姿に健康への執着が強まり、新巻き鮭は人に送ってしまう。
健康には人一倍気を遣い、塩分は「人類最初の麻薬」とまで言い切る丸山先生らしい反応だと思う。もしかしたら、ご自身の体験なのだろうか。
「通りがかるや」のあとで「突如として」と語を持ってきているおかげで、文が立体的に見える気がする。
「まだまだ死にたくはない」「せめてあと十年は生きたい」の箇所は、ひらがなの多い表記のせいか「 」がなくても、老人の声のように思えてくる。

つまり
   森と湖に挟まれた小道を
      意思に反して動いてしまう奇妙な体を持つ少年が通りがかるや
         かれらは突如として病の恐怖を思い出し、

         自分たちの健康を気遣って
            塩分の摂り過ぎがどうのこうのと言い出した。


まだまだ死にたくはない
   せめてあと十年は生きたい
      十年後には食べたくても食べられない体になっている
         こうした物はこれまでにもたくさん食べてきた、


         そんな会話がやり取りされるなか

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」360ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月15日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー小さな存在に向ける視線の優しさ、「鳴く」の繰り返し効果ー

十二月二十八日は「私はコオロギだ」で始まる。

「風呂場の予熱に頼って 少しでも長く生き延びようと頑張る ぼろぼろのコオロギ」と、刑務所を出所してきて背中に緋鯉の刺青がある男が五右衛門風呂に入るひとときを語っている。

コオロギ、それから刑務所から出てきた男……という世間から見られることのない存在に、あたたかい視線をそそいで語るところも、丸山文学の魅力だと思う。


以下引用文。そんなボロボロのこおろぎの思いを語りながら、小さな生き物でも自然界の一員である……そんな思いが伝わってくる。


同じ言葉の繰り返しを嫌う丸山先生にしては珍しく「鳴く」を繰り返している。そのせいでコオロギの鳴く声が聞こえてくる気がする。

私はただ漠然と命の糸を紡いでいるだけでなく
   消えがたい印象を残そうと常に心掛けながら
      我ながら健気に生きる自身のために鳴き
         大地に縦横に走るさまざまな命の形跡のために鳴き、
            終末なき世界であることをひたすら祈って鳴き、


            そして
                毎晩のように長湯をする
                   この家の主人を励ますために鳴く。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」354ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月14日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を読む

ー平凡な人間への慈しみ、「暦」と「カレンダー」のイメージの違いー

十二月二十七日は「私は暦だ」で始まる。
カレンダーではなく、暦なんだろうか……と思ったけれど、以下引用文を読んだら、やはりカレンダーではなく、暦のイメージなのかもしれないと納得する。

「暦」という言葉になぜか付きまとう地味さは何なのだろう?田舎町まほろ町のイメージに合うのは、やはり「暦」なのだ。

まほろ町の宣伝のために
   役場が少ない予算をやり繰りして作り
      関係先のあちこちに配ったものの
         評判がさほど芳しくない暦だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」350ページ)

以下引用文。役場の中間管理職である世一の父親が、役場からもらってきた暦を見る様子……希望も予定もなく、そのことに不満があるわけでもなく、平凡な人間の生活とはこういうことなのだろうと思う。
どこかユーモラスな父親の姿に、平凡であることへの慈しみの視線を感じる。

だからといって
   来年の予定を立てるためでも
      漠とした希望を胸に年を越すためでも
         歳月の虚しさを改めて噛みしめるためでもなく、


         彼のどんぐり眼は
            私の三分の二を占めている
               郷土出身の演歌歌手に注がれているのだ。


 (丸山健二「千日の瑠璃 終結1」351ページ)

それにしても「暦」と「カレンダー」では、どこか違うのだろうか……と日本国語大辞典を調べてみた。
以下引用文は、日本国語大辞典より「暦」の説明。例文は省略したが、日本書紀720年から1862年までの例文が載っていた。昔から使われ、でも近代ではあまり頻繁に見かけなくなった語なのかもしれない。

時の流れを、一日を単位として年・月・週などによって区切り、数えるようにした体系。また、それを記載したもの。昼夜の交替による日の観念から出発し、月・太陽の運行と季節感との関係などに注目して発達した。太陰暦・太陰太陽暦・太陽暦などに分けられる。現在用いられているのはグレゴリオ暦。なお、現在日常用いられる暦表には、月ごとに曜日と対照させたものや、日めくりの類がある。

以下引用文は「カレンダー」について日本国語辞典より説明と引用文。説明もあっさりしている。例文を見てみると、暦にカレンダーとルビがふってあり、暦と比べるとお洒落な印象のある言葉なのだろうか……と思う。

暦(こよみ)。特に、一年間の月日、曜日、祝祭日などを、日を追って記載したもの。鑑賞用の絵、写真が添えられていることが多い。
*社会百面相〔1902〕〈内田魯庵〉女学者・下「外国製の美くしい暦(カレンダー)」
*嘲る〔1926〕〈平林たい子〉七「小山は、カレンダーを一枚はいだ。三十一日は青紙だった」

田舎町まほろ町で配られるのは、どこか昔風の響きのある「暦」がいいのかもしれないと思った。

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さりはま書房徒然日誌2024年4月13日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー「千日の瑠璃」終結とネットバージョン、其々の魅力ー

先日、丸山先生が主宰されている「いぬわし書房」から、「千日の瑠璃 終結」を更に書き改めた「千日の瑠璃 ネットバージョン」が十日分公開された。今回は無料だそうである。

現在私が読んでいる「終結」とはパッと見ただけでも違うところが多々ある。

ネットバージョンはまず横書きである。左揃えである。そして終結の「〜だ」調から「〜です」へ変化している。
そのせいかイメージがガラリと変わっている。
私が思うに「〜だ」調だと、語り手の物たちに人の意思が反映されているように感じる。
これが「〜です」調になると、意思が排除され、より物が語る世界めいてきて、幻想味が強くなる気がする。
どちらの語り方にも、それぞれの魅力があるように思う。

さらに「終結」と「ネットバージョン」を比べると、言い回しを書き直されている箇所が無限にある。「終結」の文からネットバージョンの書き直しをされている箇所は、普通なら気がつかないで通り過ぎてしまう表現である。
でも、ここで立ちどまって、丸山先生が書き直した箇所を見てみると、言い回しを変えることで文の生命力がさらにアップしていることに気がつく。

一日め「私は風だ」(終結)、「私は風です」(ネットバージョン)で始まる双方の文を見比べてみる。

以下引用文は紙版の「終結」から。

気紛れ一辺倒の私としては
   きょうもまた日がな一日
      さながらこの渾沌とした世界のように
         大した意味もなく
            岸辺に沿ってひたすらぐるぐると回るつもりだった。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結」2ページ)

以下引用文は「千日の瑠璃 ネットバージョン」から。

気紛れ一辺倒の私としましては
きょうもまた日がな一日
さながら混沌に支配されたこの世界よろしく
特にこれといった意味もなく
曲がりくねった岸辺に沿ってひたすらぐるぐると回るつもりでした。


(丸山健二「千日の瑠璃 ネットバージョン」)

「混沌に支配されたこの世界よろしく」の方が文が生き生きと、「岸辺」だけよりも「曲がりくねった岸辺」の方が、読み手も勝手にだけど岸辺の形を想像して遊べていいな……と思った。

以下が公開中の「千日の瑠璃 ネットバージョン」のアドレス。
「終結」を片手に読み比べると、小さなこだわりで文章が生き生きしてくる変化を味わってみるのも楽しいと思う。

https://note.com/maruyama_kenji/n/n5c99aff8edb3

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さりはま書房徒然日誌2024年4月12日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーイメージを排除することでオオルリの青が鮮やかになるー

十二月二十六日は「私は青だ」で始まる。
以下引用文。きっぱりと「青」とだけ言い切って、他のイメージは一切否定する潔さが、青のイメージを際立たせる。そうして凝縮した「青」が、世一の視点で「瑠璃色」「オオルリの羽の色」と変化して、読んでいる者も世一の心をいつしか楽しんでいる。

水色でも空色でもなく
   悲しみの色でもない、

   青いから青としか言いようがない
      青の世界に確然と存在する
         紛うことなき青だ。

しかし少年世一は
   そんな私のことを瑠璃色と決めつけ
      オオルリの羽の色そっくりだと信じきっていて、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」346ページ)

以下引用文。世一は「青」のセーターを編み始めた姉に、もう一色入れるようにせがむ。ここでも「雪の白でも 死の白でもない」とイメージを否定することで、世一が見つめる白が読む者の心に再生される気がする。

そして
   オオルリの腹部を占めている白を、

   雪の白でも
      死の白でもない、

      ひとえに私に添えて
         引き立たせるための白を
            色見本として見せ、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」347ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年4月11日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーユーモラスのあとの悲哀だから心に沁みるー

十二月二十五日は「私はケーキだ」で始まる。半額にしても買い手のつかないクリスマスケーキが語る。

以下引用文。ケーキに「私の寿命をあと一時間と区切り」「あっという間に五十九分が過ぎ去り」と語らせるところにユーモラスなものを感じる。

さらにクリスマスケーキが見たケーキ屋の主人も「死刑執行人のぼってりした手」と何ともユーモラスに語られている。

世一に売れ残りのケーキをやろうとラッピングまでしたところで、やはり思い留まってゴミ箱に捨ててしまう。

そのあとで店を訪れた世一と母親が、高いケーキを見て買わずに帰る遣る瀬なさ。
ユーモラスな場面の後なので、その悲哀がじわじわ沁みてくる感じがある。

菓子屋の主人はさんざん舌打ちをしてから
   私の寿命をあと一時間と区切り、

   すると
      あっという間に五十九分が過ぎ去り、


      とうとうガラスケースが開けられて
         死刑執行人のぼってりした手がみるみるこっちへ伸びてきて、

         あわやというときに
            糸のように細い彼の目が
               ショーウィンドーの向こうを行く
                  青い帽子をかぶった少年の姿を捉えた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」342ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月10日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー作者の理想像にも思えるストーヴつくりの青年ー

十二月二十四日は「私は口実だ」で始まる。
世一の姉が一方的に好意を抱くストーヴつくりの青年。姉がその青年に近づくための「口実」である。ストーヴつくりに没頭する青年の背後から、注文したい旨を伝えるが気がついてもらえず……。

以下引用文は、その後の展開である。高倉健が演じたら決まりそうな場面だと思いつつ読む。もしかしたらストーヴつくりに浸る青年は、丸山先生の理想とする姿なのかもしれない。
ガスバーナーの炎の動きは、たしかに「火花が織り成す抽象模様の次元」という描写がしっくりくると、思いもよらない表現に感心する。

しばらくして気を取り直した彼女は
   いつでもかまわないと言い
      気長に待つと言ってから
         相手の正面に回りこんで名乗ろうとしたとき、

         男は「わかった」とひと言呟いて
            ふたたび炎の色を青に戻し、

            火花が織り成す抽象模様の次元へ没入して
               二度と客に注意を向けななかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」341ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月9日

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

ーひとつの作品の中に百面相のように作家の様々な顔が見えるー

十二月二十三日は「私は誕生日だ」で始まる。この日は実際、丸山先生自身の誕生日でもあるところに、なんとも微笑ましいものを感じる。
「色褪せてしまった 売れない小説家の誕生日だ」などと書いてはいるが。

丸山先生の生活を思わせる「まだ夜が開けきらぬうちに目を覚まし」「午前中いっぱい書きつづけ」「普段と変わらぬ質素な献立」「スクーターに真っ黒いむく犬を乗せ」という言葉が散りばめられているのも楽しい。

以下引用文。
己を無視して、普段通りの執筆を続ける作家に腹をたてた誕生日が発する言葉である。また、これは作家の内心にひっそり巣食う思いのような気もする。
一歩距離をおいて自身の心、妻の反応をユーモラスに書くこの世界は、現在丸山先生がnoteに執筆されているエッセイとも共通する部分があるように思う。
ここではなんとも言えない、書いているのが楽しくて仕方ないという想いが漂ってくる。
楽しんだり、悲しんだり、怒ったり……ひとつの作品の中でも、作家が見せる顔は様々……どれが本当の顔なのだろうか。

取り残されたというか
   置いてきぼりを食らってしまった私は
      遠ざかって行く彼の背中に向かって
         「それがどうしたあ!」と怒鳴ってやり

ついで
            真実や真理を知ったところで
               何がどうなるものではないだろうと
                  そんなことをわめき散らし、

                  すると彼の妻に
                     「もっと言ってやって!」と
                         炊きつけられてしまい、

              
                         なんだかそれきり興醒めして
                            出番を完全に失った。 

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」337ページ    

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さりはま書房徒然日誌2024年4月8日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーまほろ町では育てるのが難しいシクラメンを登場させた心は?ー

十二月二十二日は「私はシクラメンだ」で始まる。「根は不精者のくせに人一倍見栄っ張りの女」に抱えられて、まほろ町にやってきた真紅のシクラメンが語る。
丸山先生はシクラメンがお好きなのだろうか?お庭見学に伺ったとき、シクラメンの中でも丈夫だという、原種の小さなシクラメンが庭に植えられていた記憶がある。
以下引用文を読むと、あらためてシクラメンを大町の気候風土で育てる難しさを思い、まほろ町で育てるのはかなりハードルが高いシクラメンの鉢を登場させた意図を考える。やはりシクラメンが好きなのだろうか?

鼻歌を唄いながらきらきらと輝く瞳を窓の外に向ける女は
   たとえ地獄だろうとたちまち馴染んでしまう能天気な雰囲気を醸し、

   それに引き換え私の方はそうもゆかず
      過酷な自然でいっぱいのこの土地は
         園芸種の柔な植物に適しておらず、

         寒気のみならず
            どうやっても馴染めそうにない原始的な空気が
               そこかしこに漂っていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」331ページ)   

以下引用文。そんなシクラメンが語る世一の姿である。
「クラクションなどものともしない」「クラゲのごとき動き」「もたもたと」と語られる世一にも、語るシクラメンにも、双方にこの世離れした不思議なものを感じてしまう。

そこへもってきて
   クラクションなどものともしない少年が
      まるでクラゲのごとき動きでもって
         前方をもたもたと横切っていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」332ページ) 

  

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さりはま書房徒然日誌2024年4月7日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー帽子ひとつに世一の心を反映させてー

十二月二十一日は「私は帽子だ」で始まる。
雪原を転がっている途中、世一が拾い上げ「つばの部分にじょきじょきと鋏を入れて両端を切り落とし、尖端を三角定規のように あるいは鳥の嘴のように尖らせた」帽子である。


以下引用文。「つむじのない頭」で世一の尋常ではない様子が少し仄めかされる気がする。

「長い影をじっと見つめ」「私の角度をあれこれ変えて」「鳥に近い形の影を作り」というところに、無邪気で打算のない世一の姿が少しずつ鮮明に見えてくる。
「一羽の鳥と化したのだ」という文で、世一のピュアな心が頂点に達する気がする。

そして私をつむじのない頭に載せると
   すぐにまた外へ飛び出して
      傾きかけた太陽に背を向けながら
         足元に落ちているおのれの長い影をじっと見つめ、

         それから私の角度をあれこれ変えて
            最も鳥に近い形の影を作り、

            かくして
               一羽の鳥と化したのだ。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」327ページ)
            

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さりはま書房徒然日誌2024年4月6日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー画数の多い漢字が強欲な老人のイメージと重なってくるー

十二月二十日は「私は野望だ」で始まる。通りすがりに世一の住んでいる町が気に入り、一帯を買い占めてゴルフ場にしてしまおうとする老人の心に巣食う野望が語る。

以下引用文。老人を描写する箇所、やたらに画数の多い漢字ばかりである。
そのせいかクセがありそうで、欲深い老人の姿が自然に喚起されてくる。

「累卵」(るいらん)なんて言葉、ここで初めて知った。
日本国語大辞典によれば「卵を積み重ねること。きわめて不安定で危険な状態のたとえ。」だそうである。
嫌な老人ばかり登場すれば、私の語彙力もアップするかもしれない。

身に纏っている物はともかく
   凡人とそう変わらぬ風貌の
      しかし
         これまで一度も他人の意見を参酌したことがなく
            累卵の危機を幾度となく切り抜けてきた
               矍鑠たる老人は嬉しそうにこう呟いた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」

以下引用文。世一を見かけた老人が、世一の手に紙幣を渡す場面。
世間的な欲望とは無縁の世一の反応が心に残る。だんだん話が進むにつれて、世一は病弱な少年というより、世俗を超越した強さのある存在に思えてきた。

けれども
   財界の大立者に手招きされた彼が
      秘書の手から高額紙幣を一枚受け取るや
         ふたたび私は際限なく膨張してゆき、

老人は呵々大笑し
            秘書は苦笑し
               病児は冷笑した。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」325ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年4月5日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーフクロウに世一のイメージを重ねてー

十二月十九日は「私はフクロウだ」で始まる。「哲学的な風貌とは言いがたい いつしか老いてしまったフクロウ」が鳴くのは「湖畔の別荘でひっそりと余生を送っている元大学教授」のためだ。
以下引用文。その大学教授をふくろうはこう語る。世の中に多い御用学者でしかない研究者を激しく非難する、丸山先生らしい言葉である。

そして昨夜の彼は
   ひたすら政府の御用学者をめざして
      あれこれとあくどい画策を試みた日々を深く恥じ、

      今宵の彼は
         奮闘空しくその立場に立てなかったことを残念がり


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」320ページ)

以下引用文。この箇所で登場する世一は、フクロウさながら夜の森の生き物を思わせる。「魑魅魍魎」という画数の多い漢字も、「ぬっと」という音の響きも、世一の得体の知れない不気味さを表している気がする。
それでいながら「そんな奴にはもう構うな」とこれまでになく大人びた言葉を発するのである。

するとそのとき
   私とは見知り越しの仲である少年世一が
      真っ暗な森の奥から
         魑魅魍魎を想わせる動きでぬっと現われ、

         そんな奴にはもう構うなと
            吐き棄てるようにして言う。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」321ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月4日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー飾りを虚しく思う心が丸山作品らしいー

十二月十八日は「私はクリスマスツリーだ」で始まる。
「まほろ町のうらぶれた商店街の真ん中にでんと据えられた」クリスマスツリーに憧れるのではなく、むしろその虚さを語ってゆく視点が、丸山先生らしい。

以下引用文。盲目の少女は父親が抱き抱えて、クリスマスツリーに触れさせても何の興味も示さない。
少女が待ち焦がれるもの……に、装飾よりも大事なものとは……と語りかけてくる丸山先生の視点を感じる。

ところが
   少女の心は何やら別の思いで塞がっているらしく
      人工的な虚飾など入りこめる余地がまったくない。

そんな彼女がひしと抱きしめたのは
   結局のところ私などではなく
      あとから遅れてやってきた黄色い老犬で、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」316ページ

以下引用文。クリスマスツリーを見て、世一がとったまさかの行動。
クリスマスツリーの言葉に、飾りという存在の虚しさを感じる。

その虚ろな響きのなかで
   自分には与えてやれるものが何もないことを
      つくづくと思い知らされるばかりだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」317ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月3日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー天空から降ってくるような言葉ー

十二月十七日は「私は羽毛だ」で始まる。空中でハヤブサに捕獲されバラバラになって散らばったツグミの羽毛が語る。
以下引用文。与一はそっと羽毛をつまみあげる。そのとき「双方が同時に打算的な錯覚に」陥る。
その錯覚の美しさ、羽をまとえば飛べるだろうという錯覚にかられて羽を拾い集め自分のセーターに刺す世一の純な心が印象的。
「熱き肉体」「翼の元」という言葉に、この世のものではない世界を感じてしまう。

私は少年から熱き肉体を借り受け
   少年は私から翼の元を譲り受けようとし、

   つまり
      少年は数十本にも及ぶ私を丹念に拾い集めて
         それを青いセーターに丁寧に突き刺し、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」312ページ)

以下引用文。「夢を飛ばすことがあたわず」「魂すら羽ばたかせられず」「心はすでにして大空に在り」という言葉にも、天空から語りかけてくるような、自由な視点を感じる。

結局私は少年の夢を飛ばすことがあたわず
   魂すら羽ばたかせられず、

   とはいえ
      当人自身はまったく意に介しておらず
         心はすでにして大空に在り、


(丸山健二「千日も瑠璃 終結1」313ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年4月2日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーよく観察している目から生まれるリアリティー

十二月十六日は「私はゴム長靴だ」で始まる。
しかも「少年世一が家族のために丘の麓まで抱えて運んで行く 底に滑り止めのスパイクが打ち込まれた 雪国ならではのゴム長靴だ」とある。
どうやら丘の頂の家に住む世一の一家は、丘の麓の小屋に通勤用自転車とかを置いてあるらしい。そこで靴の履き替えをするのだろう。
そういうスパイク付きの長靴があることも、坂道はそういう長靴で登ることも、長靴を並べた様子がオットセイに見えるという発想も、信濃大町に住まわれている丸山先生の実体験が滲んでいる文である。

その並べ方に満足して独り悦に入って
   オットセイの群れに似ているなどと思いながら
      上機嫌で口笛を鳴らした。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」307ページ)

以下引用文。人間に関しても、色々な人間を観察してコラージュして文にする……というようなことを話されていた記憶がある。やはり実となる存在が根底にあるせいだろうか、世一を描写する文に迫真性がある気がする。「けらけら」の繰り返し、「ばんばん」という平仮名で表記された言葉も文に動きを出している感じがある。

すると世一は
   だしぬけにけらけらと笑い
      笑いながら私に平手打ちを飛ばし、

      横倒しになった私を見おろしては
         またけらけらと笑い、

         それからいきなりわしづかみにして
            釘の先端があちこちにはみ出している板壁に
               容赦なくばんばんと叩きつけた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」308ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月1日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー今では失われたボーナスをめぐる風景ー

十二月十五日は「私はボーナスだ」で始まる。世一の父と姉のボーナスを囲む家族の風景が語られてゆく。しかも「小銭に至るまで」現金だ。そして炬燵の上に広げられる。
昔、口座振り込みでない人は、現金でボーナスをもらっていた……とはるか昔の勤務先での光景を思い出す。
引用文では、使い道について家族会議が開かれている。今の時代では失われつつある風景のような気がして、なんとも温かい気持ちがこみあげてくる。

世一の父と姉の心を去年と同じくらいに弾ませ
   一年の遣りきれない疲れを癒す
      待ちに待った暮れのボーナスだ。

一旦世一の母の手に渡った私は
   そのあと
      小銭に至るまできちんと炬燵の上に並べられ、

例年通り
        使徒について
           名ばかりの家族会議が開かれた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」302ページ)

以下引用文。姉は薪ストーブを七万円で買う約束をしてきた……と言い、母親と言い争いになる。おそらく好きな男がつくるストーブを申し込んだのだろう。そんな母親と姉の諍いには知らんそぶりの、父親と世一の様子が見えてくる文である。

父親は我関せずといった態度で酒をちびちびと飲み、
   世一はというと
      鼻息で私を吹き飛ばそうと大真面目に頑張っていた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」305ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月31日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーゴミ袋が宇宙にも思えてくる不思議さー

十二月十四日は「私はゴミ袋だ」で始まる。
ゴミ袋という捨てられるだけの存在が、なんとも哲学的に美しく、そしてそのユーモラスな存在に思えてくる丸山先生の語り口である。

さながら宇宙のごとく膨張した私たちは
夜中に降りた霜に覆われて
      うたかた湖の近くの空地にうずたかく積み上げられ、

      そして
         中身についてはお互いに触れないよう心掛け、

      少しでも早く片付けられて
         無へと帰せられるその時をひたすら願う。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」298ページ)  

以下引用文。世一が登場して「見るも無惨な姿になった私たちを丹念に拾い集めて 丁寧に折り畳んでから そっと寄り添ってくれる」
そんな世一とカラスの言葉のないやり取りが続く。世一の優しさ、不思議な強さが感じられる箇所である。

残飯漁りに余念がないカラスどもはというと
   生きるということはこういうことだとでも言わんばかりの
      そんな視線を少年の方へ投げ
         少年のほうでもまったく同じ意味を込めた眼差しを
            数倍もの強さで投げ返す。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」301ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年3月30日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー虚無と不似合いな相手、虚無らしくない色が印象的ー

十二月十三日は「私は虚無だ」で始まる。
以下引用文。
虚無に取り憑かれる人が羅列され、その意外性も、リズミカルな並べ方も思わず考えてしまう。
さらに「私の餌食となる」という表現に、虚無が腕をのばしてくる姿が、見えない筈の姿が見えてくる不思議さがある。

さらに「黄金色の光をいっぱいに浴びた私」という虚無のイメージには似つかわしくない光景と色が美しく印象に残る。


「この世そのものを裁く権利を有しているかもしれない少年世一」という言葉に、丸山先生の怒りやら少年世一の不思議さやらを思ってしまった。

不用意に生きている者
   幸福に慣れ親しんだ者
      価値ある一時に潜心する者
         常に先見ある行動を取れる者
            存分に才腕を発揮できる者……
私の餌食となるのはそうした人々だ。


黄金色の光をいっぱいに浴びた私は
   もしかするとこの世そのものを裁く権利を有しているかもしれない
      少年世一と共に丘の坂道を下り、 


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」295ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月29日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー宿が生きているように思えてくる文の不思議さー

十二月十二日は「私は宿だ」で始まる。かなり歴史のある、でも古びた感じのある宿が語り手である。
宿の名前は「三光鳥」、ここでも鳥が使われている。「千日の瑠璃」では、あるいは丸山先生にとって鳥はライフワーク的存在なのかもしれない。

以下引用文。「呑みこんでは吐き出し」を繰り返すことで、宿に生命が宿っているような気がして、宿が語るということに不自然さがなくなってくる。

そんな客を呑みこんでは吐き出し
   吐き出しては呑みこみながら


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」290ページ)     

以下引用文。どの語り手のときも、世一がさりげなく登場してその存在が語られてゆく。ここでは「水と土のちょうど境目辺り」「陽炎のごとく」「色即是空を地でゆく」と表現されることで、世一の現実離れした不思議さが伝わってくる。

今朝方女将は
   わが敷地の一部になっている湖岸で
      水と土のちょうど境目辺りに
         陽炎のごとくゆらゆらと揺れている
            色即是空を地でゆくような存在の少年を
               見るともなしに見て、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」293ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年3月28日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー見えない「矛盾」がふらふらする場面では「あ音」が多くなっている!ー

十二月十一日は「私は矛盾だ」で始まる。
うたかた湖に生徒と出かけた教師が「白鳥と人間の命の重さになんらの差はない」と説く。
生徒たちは教師の話に感激しながら「面白半分で世一のことを突き飛ばし」てしまう。


気づいた貸ボート屋のおやじは白鳥の餌やりを中断する。
そして「弱い者いじめをした子どものひとりひとり」に「猛烈な平手打ちを食らわせたのだ」。


教師は「子どもに暴力を揮うような者に白鳥を愛する資格はない」と言う。
おやじの方は「自然の大切さを教える前に 弱者をどう扱うべきか」教えるようと言う。


以下引用文。
このどっちにも言い分のある矛盾した主張の最中、白鳥と世一が食パンの耳を巡っての大騒ぎを起こす。
「矛盾」が身の置き所を失って、天に、地に彷徨う。


この箇所は、入力していて「あ音」が多いのに気がついた。

「あ音」はひらけるイメージ、浮上するイメージがあるようにも思う。
丸山先生はそこまで意識されたのだろうか。
矛盾という目に見えないものが、ふらふら彷徨う様を書いているうちに、知らずと「あ音」が多くなったのかもしれない。

そして私は
   身の置き所を失ったことで破れかぶれとなり、

   あげくに
      風船のように膨らんで空中へと逃れてから
         喧騒の上空をすいすいと飛び回り、

         あるいは
   岸辺に打ち寄せる単調な波と戯れ、

あるいはまた
               桟橋の突端に舞い降りるや
                  冷徹自若として佇んだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」289ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年3月27日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー焚火という言葉には表現し難い存在は、こう語ることもできる!ー

十二月十日「私は焚火だ」で始まる。「焚火」とは風情のあるものだが、いざ文で語ろうとすると難しいもの。
以下引用文。丸山先生はまず焚火のもととなる枯れ葉から仔細に語っていくから、悲しい雰囲気がそれとなく伝わってくる。

寒々しい袋小路の突き当たりに吹き溜まるのを待って
   丹念にかき集められた枯れ葉による
      落日の光景によく似合う

         それでいてどこか物悲しい焚火だ。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」282ページ)

以下引用文。さらに火を囲んでいる人間や動物が語られてゆくと、そうした周りにいる者たちの性格が、火にも投影されるようで、どこか幻想的なものに思えてくる。
丸山先生はあまりこういうことを指摘する人は少ないようにも思うけど、子供の世界、童話めいた世界を書いてもピッタリするところがあるように思う。

私の番をしてくれているのは
   どこか白ウサギを想わせる少女で、

   そして
      盲目の彼女を見張っているのは
         痩せさらばえた黄色い老犬だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」282ページ)

以下引用文。焚火の煙に人の生き様を重ねる丸山先生の視点にも、ユニークなものを感じる。
このあと世一が出てきて、盲目の少女から焼き芋をもらい、ガツガツ食べる場面も微笑ましい。
焚火という生なき存在が、周囲の人の世界をつぶさに観察する声に、炎の揺らぎを感じつつ読む。

私のほうでも
   少女が放つ並々ならぬ温もりをしっかりと感知しつつ
      青く澄んだ芳しい煙を
         人々それぞれの運命の方向へ
            真っすぐに立ち昇らせている。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」283ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月26日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー鳥のイメージが繰り返され、読み手の頭の中で一つにまとまってゆくー

十二月九日は「私はかんざしだ」で始まる。この箇所では、小鳥がふんだんについた「かんざし」から、老いた芸者の顔の鳥の形をした痣まで、形を変えながら鳥のイメージが丁寧に語られている。
以下引用文。こんな可愛らしいかんざしがあるのだろうか……そんなかんざしを老いぼれの芸者がしている意外さ。

老いぼれ果てた芸者の頭で小気味よく揺れる
   金と銀の小鳥をふんだんにちりばめた
      鼈甲のかんざしだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」278ページ)

かんざしが語る、それも小鳥をふんだんに散りばめたかんざし……という有り得ない感じが、「合計十五羽」と具体的に数字が出てくることでピューっと消えてゆく。

すっかり凍えた手に息を吹きかけて
   ひと足踏み出すたびに
      私は合計十五羽の鳥をいっせいにさえずらせる。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」278ページ)

以下引用文。
老いぼれ芸者の顔の痣も鳥の形になぞらえている。
「千日の瑠璃」では、世一と与一が飼っているオオルリが大切な鍵なのだろう。モノが順々に語って話を進めてゆく……という突拍子もない形を取りながら、オオルリという鳥のイメージなど全体を貫く共通項があるから、馴染んでしまえば追いかけやすい気がする。

飛んでいる鳥がガラス戸にぶつかって
   そのまま貼り付いたとしか思えぬほどの

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」279ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年3月25日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー辛い過去もさらさらと、でもしっかりと流してゆく筆力ー

十二月八日は「私は日溜まりだ」で始まり、「年寄りたちに迫りくる死の足音を 意識の外へ追い出してしまうほどの 申し分のない日溜まり」が語る。

以下引用文。二人の老人が「目下死にかけている天皇」について話題にしている。昭和天皇のことだろうか。


老人たちのさりげないやり取りの中に、戦争責任へのはっきりとした丸山先生の考え方がうかがえる。

そんな厳しい現実を一瞬にして「聖なる領域へと」運び去る川の流れ。「聖なる領域」とは、どんな領域なのだろう?川の下流の茫漠とした感じが、戦争で亡くなっていった者たちの取り返しのつかない哀しみとかぶさってくる気がする。

厳しいことをさらりと書き、辛い現実を大きな哀しみに変えるところに魅力を感じる。

大分苦しんでいる様子ではないかと
   ひとりが言うと、

   もうひとりが
      自分だけあっさり死んでしまったのでは申し訳が立たないとでも
         思っているのではないかと言い、

         すると
            川面がきらきらっと光ったかと思うと
               かれらのそんな言葉を
                  聖なる領域へと運び去ってしまう。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」275ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月24日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー丸山作品には子どもや異界の者たちがよく似合う気がするー

十二月七日は「私は出会いだ」で始まる。「だしぬけに少年世一を訪れた めくるめく出会い」の相手とは、うたかた湖の主である巨鯉である。

以下引用文。「地球の回転に合わせつつ今を生きる」という表現に、世一の不自由な体を表していながら、世間一般の常識の基準にとらわれない天衣無縫さを感じる。

常に地球の回転に合わせつつ今を生きる少年世一に

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」270ページ)

以下引用文。「摩訶不思議な人間の子ども」という「出会い」が語る言葉に、なんとも異界に住む者たちらしさ感がある。
「ぶつくさ呟き」「ガスで膨らんだ溺死体」と表現される巨鯉も、湖の主らしい性格が滲み出る文である。
丸山作品は、こういう子どもと異界の者たちを主人公にしてもピッタリするようなユーモア、優しさ、常識にとらわれない感じがあると思う。

冬眠を中断しても見ておく価値のある
   なんとも摩訶不思議な人間の子どもがいるとかなんとか言って唆すと
      その鯉は
         嘘だったらただではおかないなどとぶつくさ呟きながら
            ガスで膨らんだ溺死体のように
               ゆっくり浮上してきた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」271ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月23日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ークレーンという語り手にぴったりの冷ややかな言葉ー

十二月五日は「私はクレーンだ」で始まる。

以下引用文。上棟式のために使われる大型のクレーンが見つめるのは、「孫の誕生に期待して資金の全部を出した双方の親」だ。

だがそうした行為が、子供夫婦から「与えた以上のものを奪ってしまった」と冷ややかに語る。このクールさも、クレーンという無機質な存在だから違和感がない気がする。

「生きる目的の半分と描いて楽しむ夢の半分をあっさり失った」「あてがわれた幸福を前にして幼児同然」という言葉に、丸山先生が理想とする生き方が見えてくる気がする。

要するに
   これで若いふたりは
      生きる目的の半分と
         描いて楽しむ夢の半分をあっさり失ったことになり、

         いくら言っても言い甲斐のないかれらは
            あてがわれた幸福を前にして
               幼児同然の体たらくだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」264ページ)

そんなクレーンが見つめる、上棟式の餅まきを必死になって拾い集める人々の中に、世一もいたり、丸山先生らしき人物も紛れ込んでいるのに思わず微笑んでしまう。
自分自身の姿を表現するのに、こんなふうに絵画のようにして、距離を置きながらユーモアを込めて描く方法もあるのかと思った。

私に吊るされて鳥を演じてみたいと本気で願う少年や
   思索の疲れを癒してくれそうな黒いむく犬を連れた男が
      無様に地べたを這いずって
         天から降ってくる
            さほど心が籠っているとは思えぬ金品を
               血眼になって拾い集めていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」265ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年3月22日(金)

PASSAGEでお世話になっている小声書房さん主催、田畑書店会場のポケットアンソロジー読書会に行ってきました!
文アル好きにはたまらない会だと思います。
文アル組ではない私も楽しかったです!

21日北風がピューピュー吹きつけるなか、PASSAGEでとてもお世話になっている小声書房さん開催の読書会に行ってきました。
小声書房さんはまだお若いながら、埼玉北本で個性あふれる書店を経営されている方。PASSAGEにも週に何日か勤務され、搬入のときによくお世話になっています。


ポケットアンソロジー読書会ですが、通常は月に一度北本にある小声書房さんの書店で10時から開催……なので夜型人間の私には時間的にハードルがすごく高くて、気になりつつも参加できずにいました。
ところが今回は田畑書店を会場に18時15分から開催とのこと。これならいくら何でも寝過ごさない、時間的に大丈夫!(なんて情けない……)


さらに田畑書店さんの本はPASSAGEの私の棚にも数冊置いていますが、どれも持った時の感触の良さ、レイアウトの美しさ、校正ミスのなさがすごく心に残ります。この丁寧な本が作られている現場を拝見したいと参加を申し込むことに……。

参加しての感想ですが、非常に楽しく過ごすことができました。
そして私も2015年4月からミステリ読書会を開催してきていますが、小声書房さんの楽しさあふれる読書会と比べて反省するところ多々、お若い小声さんの読書会への姿勢に学び……というか、良い意味で衝撃を受けました。

私が開催している日比谷ミステリ読書会は、ゲストに翻訳家、ミステリ評論家、作家の方々に来ていただき、時によりけりですがお話していただいた後に語りあう……形。
元々先生方のお話を聞く、知識を得るということを楽しみにされる方が多く、できれば自分から語りたくない……というシャイな方が多いようにも感じています……。
なので昨日の読書会は「なぜこんなに楽しそうに語るのだろう?」と私も楽しみながら、小声書房さん、田畑書店さんの、皆さんから会話を引き出す魔法の杖の振り方にも見とれていました。

https://x.com/infotabata1968/status/1770752348169658470?s=61&t=0IAvG-WbAxkiVd1OmwzreQ

まず八人がけのテーブルに五人で座る、田畑書店社主の大槻さんは一歩離れたところに控えめに座る……という距離感が、読書会としては丁度いいのかもしれません。
日比谷ミステリ読書会の場合、24人、16人くらいの会場にロの字のことが多く……。皆さん声は大きいから余り気にしていませんでしたが、ロの字より、小声書房さんのようにテーブルを囲む方が話しやすい雰囲気が生まれる気がしました。

https://x.com/kogoeshobo/status/1770782709897384138?s=46&t=Ki4ptikIXq-WAEIIqi7hGQ


さて読書会が始まって自己紹介やら挨拶をしたあと、ザザッとテーブルの上に田畑書店ポケットアンソロジーの見本が広げられます。
みるみるうちにテーブルの中央がポケットアンソロジーの海と化します。
参加者はこの海に溺れながら、これから自分が紹介するポケットアンソロジーを一冊探します。
「◯◯のポケットアンソロジーがあれば教えて下さい!」という声が飛び交い、はじまって直ぐにみんなで何やら宝物探しをしている気分になります。
取り上げるポケットアンソロジーが決まったところで30分ほどかけて読み、その30分で紹介内容やら感想やら考えます。
その場で読んで参加できる……というハードルの低さも、ポケットアンソロジーならでは。
日比谷ミステリ読書会の場合、原則読んでの参加をお願いしていますが、皆さん忙しく、開始直前に読了される方もいらっしゃったりして、忙しい現代人が本を読んで読書会に参加する難しさも思います。

ポケットアンソロジーの海から参加者が選んだのは以下。見事にバラバラです。参加者はめいめい秘密の数字が渡され、感想を言い終えた方が好きな数字を選び、その数字の方が感想を語るという形です。まずは小声書房さんからスタートしました。

・マリオ・コーヒー年代記 吉田篤弘
・おじいさんのランプ 新美南吉
・秋 芥川龍之介
・生涯の垣根 室生犀星
・みちのく 岡本かの子
・沈黙と失語 石原吉郎

https://x.com/infotabata1968/status/1770752800537915861?s=61&t=0IAvG-WbAxkiVd1OmwzreQ



これだけバラけた選書で話になるのか……と思われるかもしれません。
でも、そこは小声書房さんがそれぞれの本の魅力、感想のツボを抑えてリードされ、話はぐんぐん盛り上がっていきます。

さらに今回はポケットアンソロジーの生誕地、田畑書店での開催ということもあって、田畑書店社主・大槻さんがそれぞれの作品の感想に応える形で作品の魅力を語ってくださいました。あれだけたくさんあるポケットアンソロジーの中の一文を記憶され、ささっと引用されるあたり、版元さんの熱意を感じました。

本を販売される小声書房さん、本を作られる版元の田畑書店さんならではの本への愛情、感想を語る読者への感謝が伝わってきます。小声書房さん、田畑書店さん、どちらも感想にピピっと反応して、さらに作品への想いが深まるような見方や知識を提供してくださり有難かったです。

かたや翻訳家や評論家をゲストにお願いしてきたわが日比谷ミステリ読書会ですが……読み手の感想へのリアクションが悪かったなあと反省をすることしきり。
そして同じ本に関わる仕事でも、版元、書店、翻訳家、評論家では、読者の反応への関心の度合いがまったく違ってくる……当たり前かもしれませんがそんなことを思いました。

次回の日比谷ミステリ読書会のゲストは著者を招く予定ですが、著者の場合、どんな風に反応するのだろうか……今から楽しみです。

こうして楽しく読書会が終わると、若い参加者たちは見知らぬ者同士でもこれまで収集してきた文アルグッズを手にまた熱く盛り上がり……。
私のような年寄りは、実物の作家よりもはるかに美化された顔の作家たちに驚くやら羨むやら。
でも文アルという年寄りには思いも寄らない入り口から入って、田畑書店のポケットアンソロジーを指針に、作品を読み、一人で読書会に参加されようとする若さがひたすら眩しかったです。

文アル好きの方は小声書房さんのポケットアンソロジー読書会、おすすめです。
さらにポケットアンソロジー発祥の地、田畑書店でまた開催されることがあれば、ポケットアンソロジー見本の海をわさわさかき回す幸せを体験できるのでお勧めです
そして読書会でワイワイ話しているときも、部屋の奥で黙々と作業されている田畑書店のスタッフの姿が見えました。両手に手袋をはめ、ポケットアンソロジーを一冊ずつ透明のビニール袋に大事そうに入れていく様子に、田畑書店の丁寧な本の秘密を、ほんのちょびっと見たように思います。

感想で発表したポケットアンソロジーを一冊、お土産に頂き帰途へ。

今回のお若い方の姿に反省しながら次回、日比谷ミステリ読書会の準備を少しずつ進めていきます。

次回日比谷ミステリ読書会の案内

課題本 篠田真由美「ミステリな建築 建築なミステリ」

ゲスト 篠田真由美

https://www.xknowledge.co.jp/book/9784767832616

日時 2024年6月16日(日)13:30〜16:30

場所 早稲田奉仕園222号室 教会の隣2階

会費 場所代+資料代を人数で割る予定、千円くらい

定員 15人
(要申込 biblio⭐︎ssugiyama.xsrv.jp までメールでお申し込み下さい。
 ⭐︎は@に変換ください。返信が届いて申し込みが確定になります)

ゲストより 必ず本を読んでご参加ください。
      できれば事前に質問くださると有難いです。 

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さりはま書房徒然日誌2024年3月21日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーありふれた食べ物が多いのは?ー

十二月四日は「私は電気毛布だ」で始まる。瀕死の状態のオオルリが世一と一緒に電気毛布で温まる場面が微笑ましく書かれている。

丸山先生の作品には、食べ物を食べる場面が時々出てくる。その食べ物の中で多いのが「卵かけご飯」だったように思う。


以下引用文。
この場面では、世一が「夜食のジャムパン」を頬張る様が書かれている。食べ物を食べる様子にも、世一なら子供らしさが出ているようで、ありふれた食べ物にもその人らしさがでる気がする。
普通の、どちらかと言えば大変な境遇にあることの多い人物を書く丸山先生だから、食べ物もすごくありふれた物になるのだろうか……と思った。

世一とオオルリが交わす会話にも、両者の気取りのない、率直な間柄が伝わってくる。

四六時中付き纏う孤影をどうにか追い払った世一は
   夜食のジャムパンを半分以上口の外へこぼしながら
      むしゃむしゃと頬張り、

      そうやって
         寝食を共にする両者は
            目と目を見交わしながら
               打ち割った話をし、

               おまえはおれに看取られて死ぬのだと

                  そんなことを少年が言うと、
                  オオルリは
                     寸分違わぬ言葉をそっくりそのまま返す。

そんなかれらは
   丘にぶつかって砕け散る風の音と併せて
      私の温もりに浸りながら

         現世の過酷さから解き放たれるための眠りに就き、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」261ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月20日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーエスカレートする喧嘩が目に浮かんでくるようー

十二月三日は「私は喧嘩だ」で始まる。
以下引用文。「せいぜい意見の相違」から勃発した二人の男たちの喧嘩が、あっという間にエスカレートしてゆく様が、「罵り合った」「すさまじい殴り合い」「どこか滑稽な取っ組み合い」と目に浮かぶように、丁寧に書かれている。

「ドブネズミの縄張り争いを彷彿とさせる」という言葉にも、「一興に値する光景」という言葉にも、どこか距離を置いて眺めているような心が感じられる。

よほど虫の居所が悪かったのだろう
   いい歳をしたかれらは
      束の間罵り合ったかと思うと
         すぐさま殴り合いへと移行して
            凄まじくもどこか滑稽な取っ組み合いへと転じ、

            互いに鼻血を流して路上をごろごろ転がる様は
               ドブネズミの縄張り争いを彷彿とさせる
                  一興に値する光景だった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」255ページ)

以下引用文。喧嘩している風景に世一や犬を点在させ、「折れたばかりの血の付いた前歯を奪い合った」とその姿を書くことで、ケンカの風景がますます賑やかなものに感じられてくる。

徘徊が生きる縁のすべてとなっている病気の少年などは
小躍りして喜び
      犬と競って
         折れたばかりの血の付いた前歯を奪い合った。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」257ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月19日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー初雪に重なる生の儚いイメージー

十二月二日は「私は初雪だ」で始まる。
「例年より二週間も早く」とあるが、丸山先生の住まわれている信濃大町の初雪の時期もそのくらいなのだろうか?早い初雪に修行中の禅寺の禅僧たちも心をかき乱され、自分たちの修行に疑念が生じる様子がどこかユーモラスに書かれている。
以下引用文。初雪にはしゃぐ世一の姿、「単純不動な鉛色の天空」、「誕生と死滅に挟まれた命の世界に響き渡り」という言葉で表現される一瞬の場面に、丸山先生のテーマでもある「誕生と死滅に挟まれた命」が初雪のイメージと重なって、その切なさ、素晴らしさ、儚さが伝わってくる。

片や世一はというと
   ただもう無邪気に私を求めて止まず、

   喜び勇んで飛び跳ねながら
      単純不動な鉛色の天空に向かって

         震えの止まらぬ腕をいっぱいに突き出し
            恐ろしく素っ頓狂な声を張り上げ、

その朗々たる奇声は
               誕生と死滅に挟まれた命の世界に響き渡り、


            そんな彼の並外れた神気の強さに圧倒され
               恐れを成した私は
                  直ちに融けて消えた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」253頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年3月18日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーなぜか色彩を感じる文ー

「私は本だ」で始まる十二月一日は、世一の姉が勤める図書館の本が、最近、ロマンス小説も読もうとしなくなった姉の心に起きつつある変化を語る。
そうした姉の心境を語る以下引用文。どの文も難解な言葉を使っている訳でもないのに、なぜか姉の心境がグラデーションの色彩となって見えてくる。なぜだろう。「退色した日常」「気持ちよく晴れ渡った日にあっさり首を吊った」「きららのごときまばゆい変化」という言葉から喚起される何らかの心象風景があって、文に色を感じさせてくれるのかもしれない。

たとえば
   嫌でも生きてゆかねばならぬ退色した日常に
      真っ向からぶつかってゆく覚悟を固めたのでもなければ、

      たとえば
        気持ちよく晴れ渡った日に
           あっさりと首を吊った親友の流儀に倣おうとしたのでもない。


要するに
   私のなかでしか起き得なかったロマンというやつが
      もしくは
         いつだって赤の他人の身の上にしか生じない
            きららのごときまばゆい変化が
               とうとう彼女の人生にも発生しつつあったのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」248ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月17日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」を少し読む

ー世一の目に映る世界とは?ー

十一月三十日は「私は消火栓だ」で始まる。
「古過ぎる消火栓」の側を通り過ぎてゆく様々な生ー酔っ払いたち、「放し飼いにされている犬ども」、「野育ちの典型である少年世一」、腰が曲がった認知症の老婆ーがユーモラスに描かれている。
こうした消火栓が見つめる生の模様も、文字による表現だから面白みがあるのだろう。
映像の場合、消火栓にここまで観察させて語らせることは出来ないのではないだろうか?

以下引用文。認知症の老婆と不自由なところのある少年・世一のやりとりが不思議と心に残る。
中でも「これは自分なのだ」と、「相変わらずちっとも目立ってくれず 甚だもって情けない立場に置かれた 古過ぎる消火栓」のことを語る世一の目は、どう世界を捉えているのだろう……と考え、心に残った。

さかんに私を撫で回す世一に向かって
   「おまえはこの子の友だちかい?」と尋ね、

   すると彼は
      全身に震えをもたらしている
         負のエネルギーを唇に集中し、

         途切れ途切れではあっても
            友だちなどではない旨を
               きっぱりと告げ、


その直後に
                            これは自分なのだと
                                そう付け加えた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結」244頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年3月16日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーそれぞれの鯉が意味しているものー

十一月二十九日は「私は池だ」で始まる。
以下引用文。池は自分のことをこう語る。「滲みや斑のない錦鯉」はまるで世間並みの人生を歩んできた人々のようであり、「緋鯉の彫り物を背負った男」(世一の叔父)とは対照的に思えてくる。

どこにも滲みや斑のない色彩と
   見応えのある模様に覆われた錦鯉を抱えこみ、

   緋鯉の彫り物を背負った男を
      くっきりと水面に映している
         山中の池だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」238ページ)

以下引用文。池のほとりで急に服を脱いだ男。その背中に彫られた巨大な緋鯉が、「ほとんど血の色に染まるや」という箇所に、男のこれまでの人生が重なって浮かんでくる文である。
餌に期待して浮上していた錦鯉の群れが「いっせいに怯えてさっと散り その日は二度と姿を見せず」という箇所は、まるで大衆の行動を見るようである。「底へと降りていった」という錦鯉の動きにも、希望から縁遠い大衆の姿を見るような気がする。

その背中を私の方へ向け、

滝を登る巨大な緋鯉が夕日に映えて
   ほとんど血の色に染まるや
      餌に期待して浮上していた錦鯉の群れが
         いっせいに怯えてさっと散り
            その日は二度と姿を見せず、

            夜が更けるにつれて
               底へと降りて行った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」241ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月15日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー強風が迫ってくる書き方ー

十一月二十八日は「私は夜風だ」と「山国特有のめまぐるしい気圧の変化」から「生まれた気紛れな夜風」が語る。
以下引用文。山国の風が激しく吹く様子を描写している。
私なんかだったら「強い風がゴウゴウ吹きました」で終わりにしてしまうかもしれない箇所だ。
丸山先生は自然の中での暴風を描いてから、徐々に人間の暮らしへと風を近づける。そのため強風がだんだん近づいてくるような感覚を覚える。
また湖から木々へ、と広い場所から小さな物へと視点を移していくのも、風が近づいてくる感じをよく醸していると思う。
「死んだ枝」の次に「産院からほとばしる呱々の声」がくるコントラストも鮮やか。
「薬屋の看板を倒す」の箇所も「薬屋」で生のイメージを訴え、「倒す」で死につながる気がする。

最新の天気予報でも予測し得なかった私は
   手始めにうたかた湖を隅々まで波立たせ
      ついで
         湖畔の木々をのたうち回らせてから
            一挙に町を襲い、

            街路樹にしぶとくしがみついていた枯れ葉を

               一枚残らず吹き飛ばして
                  死んだ枝を振り落とし、
                     産院からほとばしる呱々の声を
                        地べたに叩きつけ、
                        近日開店の運びとなった
                           薬屋の看板を倒す。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」234ページ) 

だが、そんな夜風に世一は怯むことなく「はったと睨み」対峙する。それは青い鳥オオルリのおかげだ。

以下引用文。「千日の瑠璃」の青い鳥は、なんとも気迫を感じる鳥ではないか。

後ろ盾となっているのは
   超感覚的な力を具えているかもし
れぬ
      一羽の青い鳥だ。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」234ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月14日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を読む

ー作者と近い存在が語ると言葉が固く、厳しく、理屈っぽくなる気がするー

十一月二十七日は「私は印象だ」で始まる。以下引用文のように丸山先生を思わせる作家が、少年世一に対して感じる印象である。

収入の都合でやむなくまほろ町に移り住み
   かつかつの暮らしを維持するために
      せっせと小説を書き続ける男の
         少年世一に対する当初の印象だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」230ページ)

丸山先生らしき作家が抱いている印象が語っているせいだろうか。「印象」が語る箇所はすべて言葉が難しく、固い言葉が多く、語調も厳しく、漢字が多いなあと感じた。これは意識してのことなのだろうか?それとも自分の視点に近い位置から語っていたら、無意識のうちに文体がこうなったのだろうか?真相は分からないながら、そんなことを感じた。

のべつ何かしらの助力を誰彼の見境もなく仰ぐ者にして
   同世代の仲間から完全に放逐された者であり、

   なお且つ
      ただそこにそうして存在しているだけで
         ただ他人の心の領土を容赦なく蚕食する
            始末の悪い厄介者なのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」230ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月13日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーベンチだからこそ感じられるものー

十一月二十六日は「私はベンチだ」で始まる。語り手のベンチは「悲哀に満ちあふれた 粗末な造りのベンチだ」で、その上に座っている四人の男たちの人生が仄めかされる気がする。

以下引用文。試合が終わっても「居残って 帰宅しようともせず」という老人たちの心の描写に「ああ、やっぱり粗末なベンチのイメージと重なる」と思ってしまう。

そうすることで
   きょうという日を少しでも長引かせ、
      そうすることで
         家族の心の負担を減らそうとしている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」226ページ)

以下引用文。ベンチに腰かけていた男たちが世一を哀れんで呼び寄せ、ベンチに座らせる。

そのとき
   みしっという音を立てたのは
      予想外の重さのせいで、

      だからといって
         体重のことを言っているわけではなく、

         魂の重さときたら
            それはもう尋常ではなかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」229ページ)

ベンチが世一の魂の重さに驚く展開に、今後どうなるのだろうかと楽しみになる。でも「魂の重さ」なんてものを感じられるのはベンチだからこそ。万物を語り手にする「千日の瑠璃」の面白さはここにある気がする。

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さりはま書房徒然日誌2024年3月12日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む」

ー青い鳥なのに可愛げのない囀りをする意外さー

十一月二十五日は「私は芝生だ」で始まる。
「うたかた湖岸辺」の「思い通りには根付かず ぶちになってしまった芝生」が物語るのは、無鉄砲にも駆け落ちをしてきた若い男女のひと組だ。


上手く根付かなかった芝生が語ることで、なんとなくこの男女の行く末も見えてくる気がする。うたかた湖から吹いてくる風も詰るようであり、とことん見放された感じのする二人。


だが以下引用文の箇所にくると、それまでしょんぼりした二人にいきなり強烈な光があてられるような気がする。

「揃いの手編みのセーター」という幼さ、純粋さが感じられる代物の上に付けられたオオルリのバッジ。
このバッジの描写が「赤とも金ともつかぬひかり」「非難しそうな表情」「嘴をかっと大きく開いて」と、二人の幼さを叱りつけ、駆逐してしまうように思えてならない。

揃いの手編みのセーターの胸のところに
   それぞれ付けられたオオルリのバッジは
      赤とも金ともつかぬ色のひかりを浴びて
         さも人の伝為をいちいち非難しそうな表情で
            嘴をかっと大きく開いている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」224頁)

以下引用文。普通、「青い鳥」といえば幸せのシンボル、優しいイメージがある。だが「千日の瑠璃」の青い鳥は、冷徹に丘の家に住む世一一家の現実を囀る、可愛げのない鳥である。
鳥にこんな意地悪なことを言わせようと思うのは、エッセイにも度々出てくるように丸山先生が鳥を飼っているからなのだろうか。
さらにこの場面で初めて、世一が飼っている鳥が囀るのである。それなのに、こんなに意地の悪い囀りをするのだ。

すると
   バッジの青い鳥が
      若いと言うことだけで幸せなのに
         あんな家が幸福に見えてしまうのは残念だと
            そんな意味のことをさえずり、

            否、そう鳴いたのは
その家で飼われている正真正銘のオオルリだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」225頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年3月11日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」を少し読む。

ー言葉が映画よりインパクトを与えるときー

十一月二十四日は「私はヘッドライトだ」で始まる。

金に糸目を付けずに改造されたクルマのヘッドライトが、自分の光に映し出される様々な人たちを、首吊り自殺をした娘の幻影にぶつけるようにして身分不相応な改造車を走らせる男の心のうちを、丁寧に語ってゆく。

この場面は映画ならほんの一瞬で終わってしまうだろう。
最近の書き手も映画やドラマの場面に慣れているのか、あっという間の映像として書いてしまうことが多いように思う。

だが丸山先生は、こういう場面こそ言葉の本領発揮と考えているのではないだろうか。実に丁寧に書いている。これも丸山先生が映画好きだからこそ、映像では無理な表現というものを言葉に追い求めているのだろう。

そういうこととは関係ないが以下引用文。
様々な登場人物の心のうちが書かれたあと、最後に自死した娘のもとへ行こうと、男が湖へと車を走らせる場面である。

ボートにしても、少年世一にしても、この場面は短歌になってしまいそうな、抒情性、幻想味がある場面だと思い心に残った。

そのとき
   漕ぎ手がいないにもかかわらず
      ひとりでに岸へ寄ってくる古くて不吉なボートが見え、

      それの意味するところはとうに承知しており
         要するにお迎えの舟というわけだ。

つづいて
   どこがどうというわけではなくても
      全体の雰囲気が鳥を想わせる少年が忽然と出現し
         ふらふらと私の前を横切り、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」221頁)


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さりはま書房徒然日誌2024年3月10日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー連想ゲームみたいに連なる言葉から見えてくる姿ー

十一月二十三日は「私は薄笑いだ」で始まる。
まほろ町にあらわれた白いクルマを乗りまわして薄笑いを浮かべる青年に、町の人は恐れをなしてしまう。

この青年の職業?が書かれていなくても、青年の様子や町の人の反応で何となく察せられるところろが面白い。
そんな青年にびびる町の人たちの様子に、なんとも情けない小市民ぶりが出ている。悪に反応する様子から、常識人たちの虚を描いているところも面白い。

以下引用文。青年の薄笑いを真似ようとする世一。その様子を残酷なまでに思い描かせる言葉の展開を興味深く読む。
「骨なし動物」「奇妙な動き」「つかつか」「穴があくほど」「恐ろしく締りのない」「さかんに歪める」「ぐにゃぐにゃ」
……そんな風にイメージが繋がる言葉が続くことで、世一の姿を絵のように容赦無く浮かび上がらせてくれる気がした。

ところが
   骨なし動物のごとき不気味な動きをする少年だけは別で、

   つかつかと進み出た彼は
      穴があくほど青年をまじまじと見つめ、

      あげくに
         私を真似ようとして
            恐ろしく締りのないその唇を
               さかんに歪める。


だがどうしても上手くゆかず
   しまいには収拾がつかなくなってぐにゃぐにゃになり
   それでも思わず吹き出したのは
         結局のところ私だけだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」

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さりはま書房徒然日誌2024年3月9日(土)

神奈川県立図書館第四回ボランティア朗読会「ともに……」へ

ー知らない本との出会いをつくってくれたことに感謝ー

神奈川県立図書館は新しく建て替えてまだ二年……らしい。閲覧席から青空や港のビルが目に入る開放的な建物である。
またLib活「本を読み、本を朗読する講座」なるものを開講、受講者の方々は県立図書館ボランティアとして活動される……という素敵な試みをされているらしい。そういう取り組みのない自治体に住んでいる身としては羨ましい限りである。

知っている方がこの講座を受講され、第四回朗読会で朗読をされるので聴きに行ってきた。

文学作品を耳から味わう……という体験は、振り返ってみれば演劇、文楽、女流義太夫、落語……と色々してきているのだけれど、図書館ボランティアの朗読はそうした語りとはまた別の良さ、素晴らしさがあると思った。


前者のグループの場合、こちらも聞くときにガチガチに緊張しているなあと気がついた。そのうちベッドに寝たきりになったら浄瑠璃がある!と思っていたが、浄瑠璃のテンションの高さ、緊張を強いる語りはベッドの上の弱った身には無理かもしれない……と今日ふと思った。

図書館ボランティアの方の朗読を聴いていると、穏やかに、静かに、すーっと自然に体が海水に浮遊するみたいに作品の中に入ってゆく。まるで病床で何かを読み聞かせてもらっているように、リラックスした気分で物語が染み込んでくる。
病院でベッドの上で聞くなら、浄瑠璃よりも、こういう朗読の方がいいかも……と考えをあらためた。

今、図書館の棚に「共に生きる」をテーマに人権に関する本が並べられているそうだ。
朗読会も「ともに……」をテーマにして、ボランティアの方々が様々なジャンルから選書されたとのこと。おかげで知らない本にたくさん出会えた。

なかでも非常に興味深く印象に残ったのは知里幸恵「アイヌ神謡集」という本との出会いだ。知里幸恵さんはアイヌの方。アイヌで初めて物語を文字化したそうだ。
「アイヌ神謡集」を本にするもわずか19歳で亡くなる。
知里さんの言葉を朗読して頂いて、静かな、祈るような言葉が心に残る。
ちなみに「アイヌ神謡集」が本になって一ヶ月後、関東大震災が襲う。

https://www.ginnoshizuku.com/知里幸恵とは/


「くまとやまねこ」は、毎日の朗読練習の様子を聞いているだけに、クリアな声も、くま、鳥、それぞれの動物たちの個性あふれる声も、メリハリのある読みも、いつまでも情景が残る語りも楽しみつつ、ここまで上達されるにはどれだけ練習を重ねたことか……と、背景に隠された時間の積み重ねに感謝しつつ聞いていた。

昨夜の講義で、福島泰樹先生が情感たっぷりに一人称の朗読をされた方のことを、「これまでこの人はずっと対話の朗読をしてきたから、それぞれの語り手の感情を込めて読むようになって、今、一人称の文をこれだけ感情移入して読むのですよ」などという趣旨のことを言われていた……と「ああ、なるほど」と思い出した。
これから、どんな朗読を聞かせてもらえるのだろうか……また人生の楽しみが一つ増えた思いである。

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さりはま書房徒然日誌2024年3月8日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を読む

ー影は影でも語り方でずいぶん違ったものに思えてくるー

十一月二十二日は「私は影だ」と様々な影が語り手となる。どれも同じ影の筈なのに、其々の人生を色濃く滲ませ書かれているのが心に残る。

以下引用文。「長く且つ憂色の濃い」という言葉に、思わずどんな影なのだろうと想像してしまう。

私は影だ、

   へとへとにくたびれ果てて帰宅を急ぐ工員たちが
      砂利道の上に落とす
         長く且つ憂色の濃い
            くっきりとした影だ。


私をあたかも足枷のように引きずり
   浮かぬ顔で歩を進めるかれらのなかには


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」210ページ)

以下引用文。「匍匐性の外来植物」「しぶとくてがっちりと」「大地をつかみ」「びくともしない」としつこいイメージを連ねて表現することで、影もずいぶんとたくましく違ったものに見えてくる。

しかし
   ともあれきょうの私はというと
      地力の衰えた耕地をびっしりと覆い尽くす匍匐性の外来植物のごとく
         どこまでもしぶとくてがっちりとまほろ町の大地をつかみ
            天下無敵の少年
               あの世一に踏まれてもびくともしない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」213ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月7日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー凡庸な地に詩情あふれる名前を、人間にはいつも同じような名前をつけることで浮かんでくるものー

十一月二十一日は「私は橋だ」で始まる。
「鉄筋コンクリート製の 当たり障りのない形状の 要するに無骨一点張りの橋だ」というロマンに欠けた橋が語り手だ。
正式な名称があるにもかかわらず、町民は「かえらず橋」と呼んでいる。

「千日の瑠璃」に限らず、他の丸山作品もそうだと思うが、ありふれた町や山や橋に、詩情あふれる名前がついている……「まほろ町」「かえらず橋」「うたかた湖」「うつせみ山」「あやまち川」。

それとは逆に人間にはありふれた名前、いつも同じような名前ー男なら忠夫、女なら八重子だっただろうかーがついている。

凡庸な風景に思いもよらない名前をつけることで、平凡な場面が一気にポエジーの域に達する気がする。

そして人間には、いつも同じような名前をつけることで、どんな人間にも共通する想いに集約されてゆく気がする。

以下引用文。なんと「まほろ町」「かえらず橋」「あやまち川」という名前にそぐわない町であることか!
この現実と地名の乖離が、不思議な詩情と幻想へつながってゆく気がする。

あれからすでに十二年という歳月が流れていても
   まほろ町にさしたる変化はなく
      期待された高利益はもたらされず
         いまだに旧態依然たる田舎町の典型でしかなく、

         私の下をくぐり抜けるあやまち川と同様
            華やかな時代は
               ただ通り過ぎて行くばかりで、

               文明も文化も
                  所詮は他人事でしかない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」207ページ 

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さりはま書房徒然日誌2024年3月6日(水)

ジョージ・オーウェル「動物農場」(高畠文夫訳)を読む

ーこれは今の日本と同じではないか!ー

「動物農場」は農園の専制君主ジョーンズ氏を追い出した動物たち。最初は上手くいっていたが、動物たちの権力闘争やら離脱もあって、やがて豚が人間に代わって権力を握りしめ独裁者と化してゆく……というストーリーである。

若い頃の私には「動物農場」の恐ろしさ、面白さがよく分からなかった。いま読んでみれば、まるで現代の日本について皮肉たっぷりに書かれたような作品である。

でも「動物農場」は、解説によれば「ソビエト的ファシズムをの実態を広く世界に訴え、警告を与えたい」という意図のもとに書かれたとのこと。
そうか……いま私がいるこの日本は、民主主義の仮面を被ったソビエト的ファシズムの国なのだ。

以下引用文。
農園主ジョーンズ氏を追放して独立を勝ち取った動物たち。だが主人に支配される状態を当たり前としてきた感覚から、そう容易く脱出できない。まるで私たちのように。

動物たちの中には、自分たちが「主人」と呼んでいるジョーンズ氏に対して忠実であるのは、むしろ義務とであるというものや、「ジョーンズさんが、われわれを養ってくれているんだぜ。もしあの人がいなくなったら、われわれは飢え死にするじゃないか」という、幼稚な発言をするものがいた。

(ジョージ・オーウェル「動物農場」より)

以下引用文。豚の横暴な支配下、厳しい暮らしを我慢している動物たち。でも人間に支配されていた頃はもっと酷かったと、現実を正しく見ることができない。そう、私たちのように。

彼らは、現在の生活がきびしい最低のものであること、しょっちゅう腹がペコペコだったり寒かったりすること、眠っていないときは、たいてい働いていることなど知っていた。しかし、あのころは、たしかに今よりもっとひどかったのだ。彼らは心からそう信じた。

(ジョージ・オーウェル「動物農場」より)

以下引用文。
引退年齢を迎えた馬である。
人間から独立した当初は、引退年齢が定められ、その年になったら労働を免れる筈であった。だが豚が横暴な支配者になるにつれ、そんな話は消えてしまう。
今の日本のようだ。

彼女は、引退年齢を二年も過ぎていたが、実際、ほんとに引退した動物は、まだ一ぴきもいなかった。老齢退職した動物のために、放牧場の一角を保留しておくという話は、とっくの昔に立ち消えになってしまっていた。

(ジョージ・オーウェル「動物農場」より)

「動物農場」の恐ろしさを我が事のように読んでしまう今の日本。だからこそ読みたい本である。

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さりはま書房徒然日誌2024年3月5日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー「モノ」だからこそ「私」が連発されても気にならないし、かえって興味がわいてくるー

十一月二十日は「私は火花だ」で始まる。火花に魅せられて、ストーヴ作りをするようになったーそれも火花がよく見える夜にー男を火花が語る。

書き写していると「千日の瑠璃 終結」には、「私」が本当に多いと思う。
人間でないモノたちが語るからこそ、こんなに「私」が出てくるし、出てきても気にならないのだろう。それどころか「私」って「火花」ではないか、何を言うつもりか?と気になってしまう。

以下引用文。

火花に見惚れる男。その男をじっと見つめる世一の姉。その傍に立つ世一……という構成が、短い行数にもかかわらず、それぞれの心を語って深みを醸しているように思えた。

彼のほかに
   垣根越しに私をじっと見つめる者がいて
      ひとりの女が我を忘れて……、

      否、そういうことではなく
         彼女が私に魅了されたわけではなく
            私が照らし出す男を注視しており、

            そして今そのかたわらには
               奇妙よりも奇怪という表現がぴったりの少年が
                  前後左右に全身を揺らしながら立っていた。


  (丸山健二「千日の瑠璃 終結1」205ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月4日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー「北」からこんなに物語が生まれるとは!ー

「私は北だ」で始まる十一月十九日。なんと「北」が語り手である。もし「北」をテーマに物語を作れ、短歌を作れ……と言われたら、どんな文が思いつくだろうか……と自問自答してしまう。

丸山先生は「北」を語り手にして、人間社会の理不尽を撃ち、そして束の間の幻想を見せてくれる。

以下引用文。「理不尽」が「大津波のごとく どっとなだれこんだ」という表現に、すべての男たちが兵隊にとられた時代への丸山先生の怒りを感じる。

そして
   年寄りと子どもを除いた男という男を
      ひとり残らず兵士に仕立てずにはおかぬ
         恐るべき理不尽は
            東の方から
               大津波のごとく
                  どっとなだれこんだ。


丸山健二「千日の瑠璃 終結1」199ページ

以下引用文。いかにも死の象徴らしい「北」が、「さまよえるボートを差し向けるから それに乗って遊びにくるがいいと唆す。」という言葉に表されている。童話の一節を読んでいるような気がしてくる箇所である。

この町で私のことを差別しない唯一の人間
   少年世一は今わが主張を口笛で代弁し

   その礼と言ってはなんだが
      できることなら彼の辛過ぎる悲しみを取り去ってやりたくて
         こっちへこないかと誘い、

         さまよえるボートを差し向けるから
            それに乗って遊びにくるがいいと唆す。



ところがとんだ邪魔立てが入り

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」201ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年3月3日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー「 」の会話文にしないことで生まれる効果ー

「私は弱音だ」で始まる十一月十八日。
「不治の病に浸された」世一の母親が勤務先のスーパーでレジ打ちをしながら漏らす「弱音」が語り手である。

この箇所を、普通の書き方にして母親の言葉を「 」の会話文にしてしまうと、感情に走ったり湿っぽいだけの文になってしまうと思う。

だが以下引用文のように、母親から吐き出された「弱音」が自在にスーパーの店内を駆け巡って聞き手を探したり、客の様子を観察したりする。

そんなあり得ない情景はどこかユーモラスであり、湿った悲哀から解放してくれる。それでいながら母親の孤独を語ってくれるのではないだろうか?

そして
   さまざま憐笑の間隙を縫って突き進み
      親身になって私の話に耳を傾けてくれそうな相手を
         あるいは
             私などもう恥じ入るしかない
                もっと凄い悲劇を背負った母親を
                   懸命に探し回る。


しかし
   どの客もしっかりと財布を握りしめて
         まずまずの幸福の領域に身を置き、

      生鮮食品を品定めする鋭い眼差しは

         ともあれきょうを生きることに満足して
            それなりの輝きを放っている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」194ページ  

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さりはま書房徒然日誌2024年3月2日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー言葉を尽くして書くことで見えてくるものー

十一月十七日は「私はくす玉だ」で始まる。
くす玉の中から放たれた「貧乏くさい白い鳩」が、「オリンピックのメダルを手にして故郷に錦を飾ることができず」というマラソン選手の頭から、「厄介な病のせいで走ることなど思いも寄らぬ少年の頭」へ移動してゆく。
それにつれて人々の反応が変わってゆく様子を、動かぬ身であるくす玉がよく観察しているところが面白い。

以下引用文。「私が今し方放ったばかりの白い鳩」がマラソン選手の青年の頭に止まった瞬間、人々が浮かれる様子が「気」やら手を打つ様子、歓声で描かれている。
どよめきもありがちな会話で進めてしまうのではなく、「まだ期待が持てるかもしれないという意味に相違ない どよめきが広がってゆく」と丁寧に書かれている。

最近よく見かける小説なら、“「すごい」と拍手した“、と一瞬で終わるだろう箇所が、これだけ言葉を尽くして書かれることで、やけに立体的な文に見え、白い鳩のシンボルやら人々の愚かさ、可愛らしさを考えてしまう。

しかし、くす玉も最近ではほとんど見なくなった気がする。鳩入りのくす玉にはお目にかかったことが一度もないかもしれない。

ただそれだけのことで和やかな気が漂い
   一同は手を打って喜び
     ちょっとした歌が渦巻き、

     もしかすると
まだ期待が持てるかもしれないという意味に相違ない
           前向きなどよめきが広がってゆく。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」193ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年3月1日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー普段意識しない存在の意義を見つめる視線ー

十一月十六日は「私は空気だ」で始まる。
以下引用文にある空気が語る、自身の役割が私には新鮮である。「しっかり結び付けるために」「生と死を仲違いさせないために」……そう言われてみたらそうなのかもしれない。大きな視点にたち、人間以外の在り方に目を向ける姿勢が、従来の小説とは違うと思う。

さらには
   植物と動物を
      動物と鉱物を
        鉱物と植物をしっかり結び付けるために、

        あるいは
           生と死を仲違いさせないために
              仲介の労を執る。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」188ページ

以下引用文。そんな結び付ける働きをする「空気」が見えれば、世一は「絶望的なくいちがいなどひとつとして読み取っていない」存在なのだ。
普段「結び付ける」とか「くいちがい」とか全く意識しないで暮らしているので、そんな当たり前に意義を見出す視線が印象に残る。

しかしこの私だけは
   彼のなかに絶望的なくいちがいなどひとつとして読み取っていないし
      来るべき破局も予見しておらず
         彼ほどの現世的な原理に則った存在を他に知らないのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」189ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年2月29日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー重なり合うイメージが散文詩となってゆくー

「私は歌だ」で始まる十一月十五日は、もう誰からも歌われなくなった「まほろ町」の町歌が語る。

以下引用文。忘れられていた町歌を突然世一が歌いだした後に続く文である。


なぜ、この箇所が気になってしまったのだろう……と考える。


「青みがかった灰色の脳」と表現される少年世一の脳と「灰色が占めていた羽毛の全体に 青色が急速に広がり始めたオオルリ」「瑠璃色のさえずり」というオオルリが、形も、色も重なり合う。
このイメージの重なり合いが、「とりとめもない雑多な思考が 無秩序に渦を巻いている」世一が変化して、美しいオオルリに変化してゆくように思えてくるからではないだろうか。

つまり
   とりとめもない雑多な思考が
      無秩序に渦を巻いている

         少年世一の青みがかった灰色の脳のなかで
            なんの前触れもなく
               だしぬけに蘇生された。

思うに
   これまでは灰色が占めていた羽毛の全体に
      青色が急速に広がり始めたオオルリの
         まさしく瑠璃色のさえずりに
            強い刺激を受けたせいではないだろうか。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」183ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年2月28日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー虚と実ー

「私は鏡だ」で始まる十一月十四日は、「まほろ町が電話ボックスの三方に設置した 等身大の鏡」が語る。その鏡を覗き込んで反応する女たち、男たち、子どもたち、年寄りたち、犬ども……それぞれのイメージを捉え、ユーモラスに反応を語っている。私自身なら、そんな三方に等身大の鏡がある電話ボックスなんて入る気にならないかも……とふと思う。

以下引用文。世一に「誰だ、おまえは?」と訊かれた鏡が、訊き返す場面。
最後の「おのれから無限に隔たったおのれの世界へと帰って行った。」という言葉に、実像と虚像の関係とはこういうことなのかもしれない……となぜか納得してしまう。
そして世一という不思議な存在を感じる文だと思った。

だから苦し紛れに
   「おまえこそ誰だ?」と訊き返し、

    すると世一はにやりと笑い
       おのれから無限に隔たったおのれの世界へと帰って行った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」181頁 

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さりはま書房徒然日誌2024年2月27日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」を読む

ー悲惨さを打ち消すイメージー

十一月十三日の語り手は「快晴」である。快晴が見つめ語るのは「妻子ある男と私通」した挙句、青い花束を買って松の木で首吊り自殺をする女。「快晴」のとことん晴れ渡っている様子と女に象徴される何とも悲しい人間の世界、この対比が以下二箇所の「快晴」の描写によって際立っている気がする。

一年に一度
   もしかすると十年に一度
      あるかないかの
         透明度が尋常ではない
            完全無欠の快晴だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」174ページ

しかし
   私はいささかも動じず
      素知らぬ体を装って長時間をやり過ごし、

      美し過ぎる落日を迎えて
         夜の帷が降りてからも
            完璧さを保ちつづけ、

            一片の雲も
            ひとかけらの感傷も寄せつけなかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」177ページ)

以下引用文。無惨な最後をとげた女だが、「白い花束」「青い花束」「ぴかぴかの月」のイメージが清浄な世界を示しているようで、自殺の事実にも関わらず救いを感じさせてくれる。

泣くだけ泣いた女友だちが
   松の根元に供えた白い花束は青い野の花をさらに引き立たせ
      ぴかぴかの月にもよく馴染んでいた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」177ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月26日

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーエッセイ「言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から」と重なる世界ー

「私はカマキリだ」で始まる十一月十二日には、カマキリとトノサマバッタのやり取りが出てくる。

いつも見慣れている自然の一コマが、丸山先生の言葉で語られると、どこか別の次元に浮遊しているような、不思議な感覚を覚える。
自然界が幻想味を帯び、ユーモラスな光と声にあふれてくる魅力は、丸山先生が今noteで書かれているエッセイ「言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から」の世界に重なるものがある。
元々、丸山先生の中には、こういう世界が、言葉があったのだなあと思いながら読んだ。
以下引用文はカマキリに答えるトノサマバッタの箇所。自然を優しく見つめ、そこから自分の哲学を構築される丸山先生の視線を感じる。

そう愚痴った私に対して
   ただ生きているだけで自足の境地に浸ることが可能という
     全身に偉大な跳躍の力を秘めたトノサマバッタが
        おまえはいったい自分を何さまだと思っているのかと
        そう言って嗤い、

        ただ生きているだけという
           それ以上の充足はなく、

           最高の生涯の証しにほかならないとまで
              言ってのけた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」171ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年2月25日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を読む

ー漢字が多いのも意図があるのでは?ー

十一月十一日は「私は紋章だ」で始まる。
まほろ町に進出した「死んで元々だという見え見えの虚勢に色付けされた覚悟」を「黒い三階建てのビルに飾った」紋章が語る。何の「紋章」かは最後まで具体的に明かすことはないが、はっきりとどういう人たちであるのかが分かってくる書き方である。

この箇所は随分と漢字が多いのが印象的だった。紋章の金属感、普通の人を拒絶する雰囲気を漢字で表現しようとしているのだろうか。以下引用文もそうである。

正面切って世間に逆らい
   表社会を足蹴にし
      法律に真っ向から楯突く証である私は
         無難な日常を拒絶して
            常識や良識からおよそ掛け離れて生きざまを
               殊更強調して見せつける


(丸山健二「千にちの瑠璃 終結1)166頁 

以下引用文。悪のシンボルである紋章の光を撥ね返せるのは世一だけ……という描き方が、不自由なところのある世一の強さを表現していて心に残った。

因みに
   私が撥ね返す陽光をさらに撥ね返すことができるのは
      今のところ
         取り憑かれた難病を逆手に取って真骨頂を発揮する少年のみだ。

(丸山健二「千にちの瑠璃 終結1)169頁 

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さりはま書房徒然日誌2024年2月24日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーただ一つの文に心情を滲ませてー

「私は温泉だ」で始まる十一月十日は、四人の農夫たちがうつせみ山の麓に掘った温泉が語る。
湯に浸かる農夫たちを語り、次に登場するのは丸山先生を思わせる小説家。大事に飼っていたという黒のむく犬まで登場する。
黒のチャウチャウ犬を飼われていたようだが、残念ながらチャウチャウ犬の写真は見つからなかった。黒い犬で出てくるのはブルドッグ、ヨークシャーテリア、柴犬だ。チャウチャウ犬は珍しい犬のようである。

「仏頂面が板に付いた男」が「真っ黒いむく犬」を温泉に入れて洗う場面、どこかユーモラスである。
「バスタオルですっぽりくるんだ犬を抱えて」という言葉にも、先生の実体験が伺えるようで飼っていた犬への愛情が想像できる。(私の芝犬は身震いして、天日干しだったなあ……と反省する)

「どこでもいいどこかへと 混沌の影を落としつつも 大胆不敵な足取りで帰って行った。」というわずか一文に、作者の心情が余すところなく込められている気がした。

小説家であることを地元民にほとんど知られていない
   仏頂面が板に付いた男が
      ふらりと現われ、

      彼は連れてきた真っ黒いむく犬を
         私のなかにどっぷり浸けこんだかと思うと
            たわしを使ってごしごし洗いながら
               「それにしても汚いお湯だなあ」を

                   さかんに連発した。

そして
   自分では入ろうとせず
      バスタオルですっぽりくるんだ犬を抱えて
         どこでもいいどこかへと

            混沌の影を落としつつも
               大胆不敵な足取りで帰って行った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」164頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月23日(金)

村山槐多「京都人の冬景色」を読む

(絵は村山槐多「乞食と女」。行方不明の絵だそう。乞食は槐多自身、女は憧れの女性と言われている)

福島泰樹先生がNHK青山カルチャーで開講されている「文学のバザール浅草」は村山槐多について。
村山槐多の詩を朗読したりしたが、次の詩「京都人の冬景色」がとりわけ心に残った。
特に最後の「なんで、ぽかんと立つて居るのやろ あても知りまへんに。」。この最後の部分で、もしかしたら村山槐多が語ってきた冬景色は、死者の目、もしくは死者になりかけた者の目で、川という境界線に立って語られているのかも……と思い、また読み返してしまう。そうすると街の景色、空の色がまた別のものに思えてくる。

それにしても、この詩の朗読はとてもハードルが高そうだ。京都人が朗読したらどんな感じになるのだろうか。


京都人の夜景色

村山槐多

ま、綺麗やおへんかどうえ
このたそがれの明るさや暗さや
どうどつしやろ紫の空のいろ
空中に女の毛がからまる
ま、見とみやすなよろしゆおすえな
西空がうつすらと薄紅い玻璃みたいに
どうどつしやろえええなあ

ほんまに綺麗えな、きらきらしてまぶしい
灯がとぼる、アーク燈も電気も提灯も
ホイツスラーの薄ら明かりに
あては立つて居る四条大橋
じつと北を見つめながら

虹の様に五色に霞んでるえ北山が
河原の水の仰山さ、あの仰山の水わいな
青うて冷たいやろえなあれ先斗町の灯が
きらきらと映つとおすわ
三味線が一寸もきこえんのはどうしたのやろ
芸妓はんがちらちらと見えるのに

ま、もう夜どすか早いえな
お空が紫でお星さんがきらきらと
たんとの人出やな、美しい人ばかり
まるで燈と顔との戦場
あ、びつくりした電車が走る
あ、こはかつた

ええ風が吹く事、今夜は
綺麗やけど冷めたい晩やわ
あては四条大橋に立つて居る
花の様に輝く仁丹の色電気
うるしぬりの夜空に

なんで、ぽかんと立つて居るのやろ
あても知りまへんに。

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さりはま書房徒然日誌2024年2月22日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー言葉だから可能な表現ー

「千日の瑠璃終結」十一月九日は「私は絵葉書だ」で始まる。「平凡過ぎて不人気な絵葉書」が語り手となる文は、散文ならではの魅力が存分に伝わってくる。

これが映画なら膨大な情報量に埋もれて、絵葉書の存在は目にも入らないかもしれない。見えたとしても、ほんの一瞬で終わってしまうだろう。

だが「千日の瑠璃 終結」の絵葉書は、町長や世一の住んでいる家、その家族、バス停での姉妹の別離、新婚夫婦の食卓、孫と川遊びをする老女、旅館の宿泊客、離れ猿(前日に出てきた離れ猿だろうか?)、町の雰囲気まで語ってゆく。

映像は瞬間で終わってしまうもの。でも散文は語られてゆく過程を、読み手も想像力を駆使して楽しむもので時間がかかる……昨今、そんな楽しみ方がなおざりにされている気がする。

以下引用文。絵葉書が自分の写真に写されている世一の家を語る場面。「てくてく歩いて行く」「飛翔している小鳥の姿」「外套の裾が突風に翻って」という言葉のおかげだろうか、写真の中の世一の姿が動画の中にいるように健気に動き出す感じがする。

そして
   四季折々の光が
      ぼろ家に邸宅の雰囲気を授け、

      陽光を反射する窓という窓には
         逸楽の日々すら感じられ、

         これはまだ誰にも気づかれていないことで
            数ある私のなかの一枚に
               丘の斜面に刻まれた道をてくてく歩いて行く
                  今より幼かった頃の世一の後ろ姿が
                     点のように認められた。



どこか飛翔している小鳥の姿に似ていたのは
   たぶん
      外套の裾が突風に翻っていたからだろう。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」159頁)

以下引用文。

写真では中々表現できない歴史への非難、町の雰囲気までも言葉にすれば表現できるのかと思った。

さらには
   国家の栄誉のためと称して始められ
      惨敗に終わった戦争の残渣としての
         抒情的な暗さまでもが
            ちゃんと写っていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」161頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月21日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー語り手をどうするかで、双方の立場を語ることが可能になってくる!ー

「私は追放だ」で始まる十一月八日は、一方的に群れを追放された猿を「追放」が語る。

以下引用文。
「群れの猿」でもなく、「追放された猿」でもなく、「追放」が語ることで、両者の生き方の差が、どちらかに偏ることなく鮮やかに描かれている気がした。

そして
   どこまでも腹黒い列座の面々は
      猿として生きなくてはならぬ本筋を再三再四逸脱したという
         そんな理由をもって
            生き物として独立した一個の存在たり得ている
               少々アクの強いその猿と
                  きっぱり袂を分かつことに決めたのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」155頁

以下引用文。丸山先生は追放された猿に世一を重ね、自分自身も重ねているようにも思えてくる。

離れ猿は
   どこか獣的な身ごなしと叫び声に深い共感を覚えたのか
      少年にすっかり魅了されて


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」157頁

以下引用文。こういう情景描写は、ずっと信濃大町で暮らしている丸山先生だから生まれてくる文なのかもしれない。

ほどなくして谷という谷が
  猿らしく生きることしか知らぬ猿たちの嘲りの声でいっぱいに埋め尽くされた


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」157頁

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さりはま書房徒然日誌2024年2月20日(火)

丸山健二「風死す」1巻を少し読む

ー映画では出来ない、文章だから可能な表現ー

昨日、「千日の瑠璃 終結」について、映画好きな丸山先生は時々映画の場面を思わせるような情景をつくると書いた。
丸山先生は映画でこそできる表現、できない表現というものを考え、時として「映画ではできない表現」に言葉をぶつける気がする。


以下引用文も、言葉だから可能な表現なのでは……と思う。


主人公の目に「高層ビルの最上階から遠望される」風景。

映画なら一瞬で終わってしまう場面だろう。

でも言葉で表現されると、読み手の頭にその景色が浮かんでくるまで言葉と言葉を結びつけ、想像して……という複雑な過程を踏むことになる。
でも大抵、その過程が面倒くさかったり、実用的な文が良しとされる最近の国語教育の風潮を思えば理解されなかったりするのだろうが、この実に頭を使う面倒臭い過程こそが、人間である楽しみなのではないだろうか?

引用文に作者が込めた現代社会への批判的な視線……この視点こそが書く行為の根本姿勢ではないだろうか、現代日本では軽んじられているけど……と思ってくださる方がどこかにいたら嬉しいです。


このレイアウトがサイト上に綺麗に表示されるか心許ないのですが……。

「風死す」はそのうち神保町PASSAGE SOLIDA 詩歌の専門棚にある「さりはま書房」の棚に置く予定です。神保町散策の折、ちらりと立ち読みしに棚に寄って頂ければ幸いです。

そして 太古の昔から聳え立っているかのような高層ビルの最上階から遠望されるのは

  地球規模に蔓延する巨悪であり 忌避の対象としては充分な 異様な事物群であり

    産業予備軍の緊縛にはどうしても打ち克てない 弱体化が進み行く立場であり

      購買意欲をそそる 膨大な数の商品が 所狭しと並んでいる陳列棚であり

        繁文縟礼のきらいが多分にある 埋め合わせ的な お役所仕事であり

          高談雄弁が飛び交う抗議集会であり クスリに淫する風潮であり

            やけに軽弾みな言動であり 憤死の源であり 嘘偽りであり

              人口の稠密度がおそろしく高くて破滅が臭う空間であり

                寝食を忘れて最終兵器の研究に打ちこむ学者であり

                  隣接区域を残らず買占める無秩序な噴出であり

                    世に遍く知られている非現実的な夢であり

                      錯乱の光景であり 危険の源泉であり

                        煩いの種であり 薄ら笑いであり
                          性腺から出るホルモンであり
                            荒れそうな空模様であり
  
              才気煥発な子であり

                死ぬ巨木であり

朝霧であり

                  心的な錯乱
                    であり、

さもなければ 憂悶の情に堪えない 未来を完全に奪われてしまった不幸な時代であり

  生を威圧してやまぬ緩慢な死であり 詩才の限界を超出して精選された言霊であり

    その筋の専門家に貢献する鋭敏な鑑識眼であり 胸に響く忠告のたぐいであり

      持参金の多少によって評価される人物像であり 萌え出る若草の原であり

        やきもきさせられる問題解決のもたつきであり 避難先の花壇であり

          同業者の離間を企てたがる著名な経済人であり 直行の士であり 

            創作に筆を染めた芸術家であり 過酷な大地を好む命であり

              定かにはわからぬ他人の事情であり 権力の継承であり

                世を儚んでの入水であり 接岸する大型艦船であり

  国旗を先頭に押し立てて行進する愛国者であり

    みるみる肥立ってゆくまだ若い産婦であり

      親子の情を見せつけられる情景であり

        長年の努力が無になる瞬間であり

          苦しみながらの断末魔であり

            本震並の揺り返しであり

              煩多な力仕事であり

                魂の亀裂であり

                  涙声であり


                  軍事的危機
                  である。

(丸山健二「風死す」1巻540〜544頁)
   

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さりはま書房徒然日誌2024年2月19日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーその物に相応しいストーリーを楽しむー

昨日書いた文を読んでくださった方が、「丸山先生の『死』に語らせるという発想、それから五感を使った描写に新鮮さとユニークさを感じた。こういう発想はどこから生まれてくるのでしょうか」という趣旨の感想をくださった。拙文を読んでくださり有難い限りである。

「死」に語らせた場面は、無類の映画好きの丸山先生らしい、映画の一場面であっても不思議ではない書き方のような気がした。丸山作品には、時々、映画を思わせる場面が出てくることがよくある。
語ることのない物たちが語りながら進んでゆく……という「千日の瑠璃 終結」の設定も、その物ならではのストーリーもあり、表現もあるようで楽しみながら読んでいる。

さて十一月七日は「私はラジオだ」で始まる。それも「鉱石の検波器を用いた 高齢者に懐かしがられてやまぬラジオ」と年代物のラジオのようである。
そんなラジオの持ち主は「殊に軍隊時代の話は避けている男」である。
新しいラジオをプレゼントされても、古いラジオを手放そうとしない主のために見せるラジオの思いやりが、なんとも幻想味があって心を打つものがある。

たしかにこういうストーリーはどこから生まれてくるのだろうか……不思議である。

だから私は
   せめてもの感謝の意を込めて
      死んだり離れたりして遠のいた身内や戦友の声に
         限りなく近い声のみを選び出し、

それをより誇張して
            彼の心の奥まで送り届けてやり
               ときには涙を受け止めてやった。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」151頁

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さりはま書房徒然日誌2024年2月18日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー感覚のない筈の死体を感覚をフルに発揮して書けば……ー

十一月六日は「私は死だ」で冒頭が始まる。そのあとは以下引用文のように続く。この「死」がどうやって語り手になるのやら、一瞬戸惑う。

ついさっきまでこの世に在ることの喜びと
   限界の速度に挑むことの陶酔を満喫していた人間を奇襲した
      あまりに呆気ない死だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」146ページ)

だが、その後に続く以下引用文にあるように、死の場面が、音、体温、周囲の田んぼの景色と五感で具体的に語られるおかげだろう。抽象的な死が、急に身近な語り手に思えてくる。
しかも田んぼの一点として語ることで、視点が若者の死に否応なしに向けられる気がする。

死体のまわりの感覚をとらえ、しかも死体を広い空間に置いて眺めることで、映像が鮮やかに浮かんでくる。だから語り手が死であっても納得できる気がする。

私は今
   まだエンジンがぶんぶんと唸りをあげている最新型のオートバイと
      体温を急速に下げつつある若者と共に
         取り入れが済んでから大分経つ田んぼの片隅に
            無様にひっくり返っている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」146ページ


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さりはま書房徒然日誌2024年2月17日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー作者が色濃く投影されている!ー

「私は野良犬だ」で始まる十一月五日は、「明日のことなど考えたこともない 典型的な野良犬」が世一を語る。

作者の理想とする姿が野良犬に投影されているようでもあり、また世一にも作者の想いを見るような気がする箇所である。

以下引用箇所。野良犬が語る自身の姿。「自由の大きさと深さ」という言葉は、自由を大事にしている丸山先生だからこそ、心から発する表現のように思えてならない。

わが自由の大きさと深さを心底から理解してくれているのは
   世一ただひとりでしかなく、

   少なくとも私の方は
      世一の自由の素晴らしさを充分過ぎるほどわかっているつもりだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」143頁) 

以下引用箇所。読み手が抱いていた不自由なところのある世一……という姿をくるりと回転させ、考えさせ始める表現である。

彼はまさに人間でありながら
   同時に人間以外のすべてでもあって


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」144頁) 

以下引用は、この日の最後の部分。
「されど孤にあらず」は丸山先生のエッセイのタイトルだ。世一は、丸山先生自身と宣言する言葉のように思え、作者の世一への深い共感を感じてならない。

子供らしからぬ声で
   「されど孤にあらず」と
      そう言い放ったのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」145頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年2月16日(金)

酒を語る文がかくも違うとは!「千日の瑠璃 終結」「風死す」の酒が出てくる場面を比べる

最近、丸山先生がNOTEに書かれているエッセー「言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から」を楽しく拝見している。
エッセーの文体、「千日の瑠璃 終結」の文体、「風死す」の文体……それぞれが違っていて、それぞれ別の良さがある。
丸山先生の色んな部分を見る思いがするし、一人でこれだけ文体を書き分けるとは!と驚く。

さて「酒」を題材にしても、まったく語り方が異なるもの……と思った箇所を「千日の瑠璃 終結」と「風死す」から見てみたい。

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー場末感ー

以下引用文。「臓物のごとく入り組んだ袋小路」「焼酎」「売れ残りの干物」と場末感がたっぷりである。

私は酒場だ、

   臓物のごとく入り組んだ袋小路の一角にあって
      酒は焼酎
         肴は売れ残りの干物しか出さない
            田舎暮らしを侘びる連中のための酒場だ。


(丸山健二「千日の瑠璃」138頁)

以下引用文。そんな場末にやってくる者たちらしい描写である。

全ての文が「者」で終わって、普通なら重苦しさを感じる筈なのに重圧感がなく、かえってリズムが生まれている気がする。

なぜなのだろうか?分からない。

「者」の前にくる言葉がすべて音を発する言葉だから、重苦しい気が発散されたまま「者」という言葉に収束されるのだろうか?

最初が「怒鳴り散らす者」で、最後が「床にぶっ倒れてしまう者」とド派手な点も、重苦しさを消し去っているのかもしれない。

にこやかな笑みを突然消し去って怒鳴り散らす者
   唯一の得がたい体験を幾度となく語る者
      意気消沈の臭い芝居を延々とつづける者
         放心状態で後悔と怨念の歌をくり返し口ずさむ者
            髀肉の嘆を託つうちに床にぶっ倒れてしまう者、

(丸山健二「千日の瑠璃」138頁)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー踊り子たちの動きが見えてくる!ー

同じように酒を飲むなら、こういう体験をする方がいいなと思った。
延々と続く長い文が、酔眼をとおして眺める「踊り子たち」の舞い、揃いの着物、華やかな集団を表現している気がした。

春の月夜に酩酊して浮かれ歩こうと思い 暖かいそよ風が吹く河畔に沿った直後に
   満開の桜の下で差す手引く手も鮮やかに舞う 揃いの着物を纏う踊り子たちの
      それ以上望むべくもないほど華やかな集団と ばったり出会ったところで
         なぜかは知らぬが しこたま飲んだ酒の効き目はまったく認められず


(丸山健二「風死す」1巻534頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年2月15日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結 1」を少し読む

ー漢字一字でイメージがガラリと変わる!ー

十一月三日は「私は頽廃だ」で始まる。

「頽廃」も「退廃」も意味、読みは同じだと思うが、辞書で調べてみれば「頽」には「崩れる」という意味があり、「退」には「しりぞく」という意味があるのだろうか。
だから「頽廃」の方がより荒んだイメージが出るように思う。

世一が住む「まほろ町」を覆う「頽廃」が語る町の様子も、人々の様子も、「まほろ町」というよりも、日本全体を表しているような気がしてならない。

以下引用文。
「停滞の底に横座りになる」「気休めの言葉の上に 長々と寝そべる」という言葉が、「まほろ町」の住民の雰囲気をよく表しているし、ここまで飛躍して表現できるのかと参考になった。

住民の精神はとことん朽ち果てて
   もはや先行きの心配すらしなくなり
      深刻な難局に当面しているという自覚も持ち合わせておらず、

      絵に描いたような僥倖を待ちくたびれたかれらは
         痺れをきらして安寧もどきの停滞の底に横座りになるか
            さもなくば

               一時不安を解消する気休めの言葉の上に
                  長々と寝そべるばかりだ。


(丸山健二「風死す 終結 1」135頁 


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さりはま書房徒然日誌2024年2月14日(水)

丸山健二「風死す」1を少し再読する

ー思いもよらないイメージ同士がピッタリハマる不思議さ!ー

目に見えないもの、嫌なものをこういう形で表現するか……と新鮮な驚きがある。いつまでもズルズルと引きずっている感じ、どこか権威的な滑稽なところがあるイメージがピッタリ自己嫌悪と重なって、すごく印象に残る。これから映画やテレビドラマで大名行列の場面を見るたびに、この文を思い出してしまいそうだ。

大名行列の供揃いに似た形で連なり行く自己嫌悪のあれとこれを
  すっぱりと断ち切ってから

(丸山健二「風死す」1巻512頁)

以下引用文。近づく死を語る主人公の言葉。「ぽっかり浮かび」「どうでもよく」「崩れ果て」「滅びてゆき」という言葉に、「死が差し迫って」いる感じがよく出ている気がした。遠くに何かを眺めながら、周囲が崩れてゆく……という感覚になるのかもしれない。

今さらおめおめと帰れぬあの郷里が
  薄明の夜の片隅にぽっかり浮かび

  未見の地と人はどうでもよく

    胸に宿る実在の魂が崩れ果て

      正義が永劫に滅びてゆき

        悪魔の代弁者と化し

          答弁は玉虫色で



          死が差し迫って
            肉の情念が
              弱まる。


(丸山健二「風死す」1巻512頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月13日(火)

移りゆく日本語の風景

ー「お前」という言葉ー

「お前」という言葉の変遷については、はるか昔、高校時代に古典の時間でやったかも……という気もしなくもないが、復習を兼ねてもう一度。

文楽2月公演第3部「双蝶々曲輪日記」を観ていたら、見受けされた遊女・吾妻が姑に「さりながら。お前」と呼びかけていた。この時代の「お前」の使われ方は、現代とは違うのだなあと日本国大辞典で調べてみた。


「お前」の意味、用例、語誌ついてー日本国大辞典よりー

(1)目上の人に対し、敬意をもって用いる語。近世前期までは、男にも女にも用い、また、男女とも使用した。

*蜻蛉日記〔974頃〕中・天祿二年「御まへにもいとせきあへぬまでなん、おぼしためるを見たてまつるも、ただおしはかり給へ」

*打聞集〔1134頃〕「此所をば寺に立て給へ。をまへにゆづりまうす」

*うたたね〔1240頃〕「あな心憂。御まへは人の手を逃げ出で給か」

*歌舞伎・姫蔵大黒柱〔1695〕一「是はお前を祝ひましての事で御座ります程に、構へてお腹を立てさしゃんすな」

*浮世草子・世間娘容気〔1717〕一・男を尻に敷金の威光娘「お前にもあんまりこはだかに物おほせられて下さりますな」

(2)対等もしくは下位者に対して用いる。親愛の意を込めて用いる場合もある。江戸後半期に至って生じた言い方。

*俚言集覧〔1797頃〕「御前(オマヘ)。人を尊敬して云也、今は同輩にいふ」

*滑稽本・浮世風呂〔1809~13〕前・上「西光(せへかう)さん、おまへの頭巾(づきん)はいつもよりあたらしくなったやうだ。わたしが目(め)のかすんだせへかの」

*安愚楽鍋〔1871~72〕〈仮名垣魯文〉二・上「ネエおはねどん、おまへのまへだが、伊賀はんといふ人もあんまりひけうなひとじゃァないか」

*尋常小学読本(明治三六年)〔1903〕〈文部省〉五・六「おまへは、人が、なつ、かぶる麦藁帽子は、なんで、こしらへたのだか、しってゐますか」

*墨東綺譚〔1937〕〈永井荷風〉六「馴染の女は『君』でも『あんた』でもなく、ただ『お前』といへばよかった」

語誌

【二】の例は、江戸前期までは、敬意の強い語として上位者に対して用いられたが、明和・安永(一七六四~八一)頃には上位もしくは対等者に、さらに文化・文政(一八〇四~三〇)頃になると、同等もしくは下位者に対して用いられるようになり今日に至った。ただし方言としては、今も上位もしくは対等者を呼ぶところが点在する。


最後に…。

敬意の意味での例文の最後は1717年、対等の意味での例文は1797年のものである。わずか80年の間に「お前」の使われ方が敬意を表すものから、対等を表すものへ変化したのである。ずいぶん変遷が早いのではないだろうか。

「双蝶々曲輪日記」が最初に上演されたのは1749年、書かれたのも同じ年だろう。まだ1749年の上方では、「お前」という言葉は敬意を込めた表現だったことがわかるのではないだろうか。それから48年後には、「お前」は対等表現に変わるのである。

日本語という言葉はなんと移り変わりの激しい言葉なのだろうと思う。それだけ変化を受け入れやすい柔軟な言葉なのかもしれないが。
10年先、20年先の日本語はどこに向かっているのだろうか?きっと「お前」に匹敵する変化があるのではないだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2024年2月12日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーとても小さな物で人間を語る面白さ!ー

十一月二日は「私は茶柱だ」で始まり、「あしたへ希望を繋ぐことなど到底不可能な 貧相な茶柱」が世一とその家族を観察する。
茶柱一本でこうも家族の反応が違うのか……それぞれの精神状態を描けるのかと感心する。
以下引用箇所。母親の胃袋へと飲み込まれた茶柱……その目を通して語られる胃の内部や茶柱の様子がどこか物悲しくもあり、ユーモラスでもある。

茶柱一本でかくも人間を語ることができるとは……と思った。

粗末な朝食や
   悲哀の断片や
      儚い望みなんぞで
         ぎっしりと埋まった胃袋のなかであっても
            私はかなり無理をして
               垂直の姿勢を辛うじて保っていた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」133頁)


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さりはま書房徒然日誌2024年2月11日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

ー世俗の垢にまみれた存在とは対照的な世一!ー

十一月一日「私はバスだ」で始まる。
「観光客の数を少しでも増やすための窮余の一策」であるボンネットバスが、乗客や運転手や車掌、世一を語る。


噂好きで若い二人の乗客の会話に聞き入りながら、肝心な本質、「二人が駆け落ちしてきている」にまったく気がつかない……この車掌の愚かしさは、作者が嫌う田舎に暮らす人間特有のものなのだろうか?


若い二人を語る口調も辛辣である。

その場を言い繕うことに長け
   赤の他人に調子を合わせることが巧みで
      特にこれといって目途とするものがなくても易々と生きてゆかれる
         そんな手合いで


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」127頁 

若い二人がこんなに世間ずれしているだろうか……と疑問も湧くが。
そんな汚泥の中にあるような人間たちとは対照的なのが、最後に出てくる世一である。
若い二人がバスに手を振ると、世一は……

がらんとした通りを横切りつつある少年世一が
   私に成り代わって危なっかしい若者に手を振り返す。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」129頁 

「危なっかしい」若者も恐れる気配のない世一が、この世の狭苦しい常識を超えた大きな存在に思えてくる。



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さりはま書房徒然日誌2024年2月10日()

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー記憶の断片に自分と重なる顔を見つけることもあるー

スタイルはあっても、いわゆる起承転結できちっと収まるストーリーらしきストーリーがあまりない「風死す」……中々読み進まないという声もちらほら聞く。頑張ってストーリーとして理解されようとしているのではないだろうか……とも思う。

以下引用文にあるように、「通りすがりの他者の生の断片が」「不明な意味を有し」「順不同のまま」「迫り」なのだから、そこにストーリーを見つけようとしたら溺死してしまうのではないだろうか?

そうした 取り留めもない流浪の途中で偶然見かけた 通りすがりの他者の生の断片が
  まったくもって不明な意味を有し 順不同のままひとまとめにされて どっと迫り

(丸山健二「風死す」1巻507頁)

507頁の前の数ページでは、およそ40人の生がそれぞれ二行か三行で語られている。読んでいる方は道を通り過ぎる色んな通行人を眺める心地になってくる。

そのうち「あ、これは自分だ」という人物もいてハッとする。例えば以下の箇所。


たくさん語られている人物のうち、よく眺めると自分と似た顔を発見する……そんな楽しみもあるような気がする。

給料から天引きされることで実感が湧かず
  そのせいでいつまでも気づかぬ搾取を
    ふとした拍子に理解した労働者が


(丸山健二「風死す」1巻505頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月9日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー少年世一のピュアな行動ー

十月三十一日は「私は義手だ」で始まる。
キノコ狩の名人を支えてきた義手。

だがマムシを見かけた主人は鎌を大事にするあまり、義手で毒蛇を殺す。
その心無い行動に義手は傷つく。
義手だからこそ、ストレートに発散される傷心ぶりも、心動かされるものがある。

主人公・世一はキノコ狩りの名人の冷淡さとは対照的な行動をとる。そのピュアな部分が、「おのれの腕と見比べ」「実の籠もった握手」「言葉ではない言葉で別れを告げ」という言葉に強くあらわされている気がした。

全身の揺れが片時も止まらぬ
   奇々怪々にして気の毒な病人は
      きめ細かい川砂を丹念に擦りつけて私を洗い、

ついで
   自分のシャツでもって水気を拭き取り、

    それからおのれの腕と見比べながら
      実の籠もった握手を求め、

      日当たりのいい岩頭の上にそっと置いて
         言葉ではない言葉で別れを告げてから
            泳ぐような身のこなしで去った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」125頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月8日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー語らずして辛さを想像させるー

十月三十日は「私は嫌悪だ」で始まる。
嫌悪とは縁のなかった「心映えのいい人であった」女……。
彼女が身籠ると同時に腹に宿した「嫌悪」が、主人公・世一を、自分自身を語ってゆく。


この妊婦がどういう暮らしをしている人なのか具体的に作者は語らない。ただ冒頭の数行をもって、きっと辛い思いをしている人なのだろう……だから「心映えのいい人」が嫌悪を腹に宿すようになったのだろう……と推察させる。

そこから幾つもの切ないストーリーが、読み手の脳裏に生まれてくる気がする。

まだ若い妊婦の
   苛酷一辺倒の現世に向かってぽんと張り出した
      滑稽にして無様な形状の腹に宿る
         いかんともしがたい嫌悪だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」118頁)

妊婦の腹に宿る「嫌悪」が語る世一の姿は「さまざまな風を引き連れて」と相変わらず自由で不思議な存在である。
また「昼となく夜となく」という言葉にどこか不気味な存在でもあるように感じた。

半分ほど登ってから立ち止まって振り返った彼女は
   さまざまな風を引き連れて
      昼となく夜となく
         生地の隅から隅までを徘徊する少年を
            さも憎々しげにもう一度見やり


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」120頁
   


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さりはま書房徒然日誌2024年2月7日(水)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー二行の文に一つのストーリーが凝縮されている!ー

495頁「されど 命旦夕に迫った今となって 生々しくも思い出されてならないのは」という文のあと、「〜でもなく」という否定で終わる文が12続く。

そのあとで「たとえば」で始まる思い出される事柄を記した文が27続いた後、最後「かれらの記憶が 束になって 寄せる」(503頁)と締め括られる。

この辺りの文の形で戸惑い、分からなくなってしまう人が出るのかもしれない……。

でも、英語圏の小説家にはこういう文を書く人がいたような記憶がある。not で始まる文が連続、for example で始まる文が連続……という英文に苦しんだ記憶があるのだが。はて誰だったのだろうか。

戸惑うかもしれないが、慣れてしまうと12篇の小説が、27篇の小説が凝縮されて並んでいるようで楽しい。

以下引用は、そんな思い出されることを記した27の文のうちの一つである。

戦中の体験に不快の念を持って未だに翻弄されつづけながら
  皇室に冷然たる眼差しを投げかけられない高齢者であり


(丸山健二「風死す」1巻498頁)

こうした二行単位の文に記された死を間近に控えた青年の記憶……わずかな文だけで自分の頭の中にストーリーが浮かんでくるような気がする。


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さりはま書房徒然日誌2024年2月6日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー躍動感のもとになる言葉ー

十月二十九日は「私は畑だ」で始まる。
語り手は蕎麦畑。耕している禅宗のお坊さんたちのことを皮肉を込めて語り、しびれを切らして「落石のごとき突然」な世一の出現を待ちわびる。

丸山先生が普段眺めているだろう大町の光景が浮かんでくるような文である。
「蕎麦などはむしろ手を掛けてやらないほうが上質になる」(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」115頁)ということも知らなかったし、
禅宗のお坊さんたちが蕎麦畑で作業をする……という姿も思い浮かべたことがなかった。
大町では、もしかしたら目にすることのある風景なのかもしれない。

登場した世一が随分と躍動感あふれるのは「ジグザグに突っ走り」「好きなだけ踏みしだき」「びゅんびゅん振り回してという強い言葉にあるのかもしれない。
さらに「陽光を撥ね返すほどの暗い奇声」「人間である限りは何をしても無駄」……そんな世一の不可思議な姿を考えてしまう。

「神も仏もあったものではない そんな世一を制止できる僧侶は皆無だ」(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」115頁)という最後の言葉はどこかユーモラスであり、作者の宗教への考え方を反映しているようにも思う。

だしぬけに登場した彼は
   高い土地から低い土地へジグザグに突っ走り
      収穫寸前の蕎麦を好きなだけ踏みしだき
         棒切れをびゅんびゅん振り回して薙ぎ倒し、


         降り注ぐ陽光を撥ね返すほどの暗い奇声を発し
            人間である限りは何をしても無駄という
               そんな意味の笑声を撒き散らして

                  悟り澄ました空間を
                     大いにかき乱した。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」116頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月5日(月)

変わりゆく日本語の風景

ー昼食(チュウジキ)から昼食(チュウショク)へー

文楽公演1部「仮名手本忠臣蔵」を観に行った。文楽は江戸時代の上方の言葉のままで語られる。言葉のタイムトラベルを楽しめるのも文楽の醍醐味の一つだと思う。一方、歌舞伎は分かりやすさを求めてだろうか……言葉をほぼ現代のものに置き換えている。
今日「後に残るは昼食(チュウジキ)の握り飯」という官兵衛の義父の言葉が心に引っかかった。
昼食(チュウジキ)は、今では殆ど使われない言葉のように思う。いったい、どんな風にして昼食(チュウジキ)から昼食(チュウショク)に変わっていったのだろうか?

日本国語大辞典でまず昼食(チュウジキ)の例文を調べてみる。

室町時代から明治時代まで使われていたようで例文がある。


*運歩色葉集〔1548〕「昼食 チウジキ」

*日葡辞書〔1603~04〕「Chùjiqi (チュウジキ)。すなわち、ヒルイイ。または、ヒルメシ〈訳〉正午の食事」

*浮世草子・新色五巻書〔1698〕二・一「風呂敷より握飯の昼食(チウジキ)喰しもふと始まり」

*破戒〔1906〕〈島崎藤村〉一一・一「昼食(チウジキ)の後、丑松は叔父と別れて」


次に昼食(チュウショク)の例文を調べてみる。
昭和以降の例文しかないから、もしかしたら昼食(チュウショク)という読み方は比較的最近になって生まれたのかもしれない。


*苦心の学友〔1930〕〈佐々木邦〉若様の御手術「先生から予め注意があったので昼食(チュウショク)は取らない」

*白い士官〔1930〕〈阿部知二〉五「昼食(チウショク)がをはった。堀田はうとうとゐねむりする」


さらに日本国語大辞典「昼食」の語誌の箇所にあった説明を要約すると以下。どうやら食生活の習慣と共に表記も変化してきたようである。


古代の日本人の食生活は、現在とは異なり朝食と夕食の二食であり、昼に食べる食事は間食として意識されていた。これが正午(日中)に食する 食事と時間的に近く、朝と夕の中間ということも表わすので朝食と夕食との間にとる食事 の意が生じた。後、次第に三食が一般化したことにより、朝食、夕食に対して昼にとる食事ということで、同音の「昼食」とも表記されるようになったと思われる。(日本国語大辞典より要約)


習慣と共に言葉も変化してゆく。孤食、飽食の現代、食を表す言葉はどう変化するのだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2024年2月4日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーイメージを考えることで余韻が生まれる気がするー

「私は扉だ」で始まる十月二十八日。

まほろ町に開設された「小型の火器を懐に帯び」「いずれもが欠損している異様な手」の男たちが出入りする事務所の扉が語る。


常識の範囲で生きる「まほろ町」の住民たちが男たちや事務所を恐れる様子、恐れられている男たちの様子……そうしたものがどこかユーモラスに書かれている。


そんな町民たちが恐れる事務所の扉に落書きをする世一は、どこか不思議な存在である。


最後が「その絵は鳥のようでもあり髑髏のようであった」とあるので、世一が飼っているオオルリの姿なんだろうか、それが髑髏に見えるとはどんな形?と思い浮かべ、しばし余韻を楽しんだ。

ところが
   夜更けになってやってきた
      不治の病のせいなのか
         怖れというものを知らない少年が
            拾ったチョークを使って
               私の面に落書きをし


               その絵は鳥のようでもあり
                  髑髏のようであった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」113頁)  

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さりはま書房徒然日誌2024年2月3日(土)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー「詩」を語っているような言葉ー

以下引用文。
「魂の上澄みをすくって飲んだようなそんな思い」という箇所で、「魂の上澄み」ってどんな色、どんな味?と感覚に訴えてくるものがある。


「雨といっしょに舞い降りた 霊像のごとき雅な詩」という箇所、「雨といっしょに舞い降りた」という感覚が、詩人の主人公が詩を語るのにぴったりな表現だと心に残る。


「まろびゆく世界をかく在るべき姿に変えて」という表現も、 詩の働きをよく表しているように思う。


「銀灰調の光」も詩語のイメージだし、「心不在の嘆き」という語も一瞬どういうことだろうと考えたが、本来の詩は言葉が感情より先頭に立って紡いで行くものなのかも……と思った。

        こ
       う言っ
      てよければ
     魂の上澄みをす
    くって飲んだような
   そんな思いで 清廉な心
  地に浸ることができた 雨と
 いっしょに舞い降りた 霊像のご

  とき雅な詩が まろびゆく世
   界をかく在るべき姿に変
    えて 銀灰調の光が
     速やかに流れ去
      った 心不
       在の嘆
        き 


     (丸山健二「風死す」1巻)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーボートにこれほど思いを込めるとは!ー

十月二十七日「私は交情だ」と始まる。
二人の老人の間に続く交情が、老人を、まほろ町の人々や風景、世一を語る。
そのなかでも、まほろ町の湖に浮かぶボートを語る文に、ありふれた存在にかくも見えないロマンと性格を感じるのだろうか……と作者の視線が心に残った。

湖上に浮動する物体は
   死者の魂を好んで運びたがるボートで
      かなり大胆な自己顕示欲であるにもかかわらず
         菊の花の鮮やかさに圧倒されて
            人々の目に止まることはない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」109頁

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さりはま書房徒然日誌2024年2月2日(金)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー同じアウトサイダーを語っても文体が違う!ー

「千日の瑠璃」の主人公・世一は脳に麻痺のある少年。
「風死す」の主人公は犯罪者にして詩人、癌患者の二十代。
どちらも、この世では外れて生きている者たちである。

だが二人を語る文体はガラリと変わっている気がする。どう違うのか問われると困るのだが。

以下引用文。主人公が自分自身を語っている箇所だが、理屈っぽい生意気でギャングみたいな姿が浮かんでくるのは、「激動の二十一世紀の目抜通り」とか「ド派手な街着を纏って闊歩する」「暗喩を用いての説明が可能な」など大胆な言い回し、漢字を多用しているせいなのだろうか?

とにかく、また「風死す」の世界に戻ってこれて嬉しい。

下劣な発想と さもしい心根とに大きく左右される 激動の二十一世紀の目抜通りを
  家族や社会に隷属していない立場を表わす ド派手な街着を纏って闊歩する


(丸山健二「風死す」1巻479ページ

かくして俺は直喩を用いての説明が可能な 単純明快に過ぎる流しの犯罪者と定まって
  平野に点在した村落などにはまだまだ残されている醇風美俗を知りつつも荒れ狂い

(丸山健二「風死す」1巻481ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年2月1日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー腐った牛乳の怒り、哀しみを吹き飛ばす世一のピュアな心ー

十月二十六日「私は牛乳だ」で始まる。
語り手は停電のせいで腐敗してしまった牛乳。そんな己を飲んだ世一を眺めながら、牛乳はユーモラスに怒り、やがて自分と世一のことを哀れにも思う。
だが、そんな腐った牛乳の思いを吹き飛ばす世一の行為が……。
あらためて不自由な少年・世一に寄せる作者の想いの強さを感じる展開だった。
以下引用文。腐った牛乳がユーモラスに怒りを語る。

なんだか酷く汚らしい胃袋に流しこまれた私は
   その腹いせに
      ここ一両日中に爆発的に数を増やした
         命取りにもなりかねぬ
            幾種類もの菌をぶちまけてやり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」103頁

以下引用文。腐った牛乳は自分と世一のことを悲観的に捉えるが……この後の世一のある行為が、腐った牛乳から毒を消し去る。

無価値な者と無価値な物というマイナス同士が結びつくことで
   共に仲良く消え失せる
      これこそが理に適った淘汰ではないかと


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」104頁

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さりはま書房徒然日誌2024年1月31日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーそっと言葉が想いを、場面を紡いでゆくー

十月二十五日は「私は虹だ」で始まる。

「ありふれた」虹が、人の世をを語り、だんだん自分へと近づこうとしてくる世一、定年退職した元大学教授の二人に対象を絞り、ついに最後には諦めることのない元大学教授ただ一人を語る。

広い世界から、ぎゅっと焦点をフォーカスしてゆく最中に、吹き抜ける風のような世一の存在も「万物とよしみを通じている」と虹ならではの見方が印象的である。


以下引用文。「限りない索漠さを秘めた冷たい雨」が降った後だからなのだろうか、「不整合だらけの地上」という言葉がずしりと心に重く響く。

最後の「振り仰ぐ」という言葉に、「仰ぐ」だけではなく「振り仰ぐ」にしたからこそ、ちっぽけな人間が広大な空にかかる虹を眺める様子が浮かんでくる気がする。

限りない索漠さを秘めた冷たい雨がようやく上がって
   不整合だらけの地上は
      ふたたびいくばくかの可能性を孕んだ陽気な光に
         遍く覆われてゆき、

         そして
            いつまでも正義の大道を踏み行えぬ者や
               どうやっても晩節を全うできそうにない者が

                  さも眩しげに顔をしかめて
                     私を振り仰ぐ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」98頁

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さりはま書房徒然日誌2024年1月30日(火)

ポール・ヴァレリー「ムッシュー・テスト」より序(清水徹訳)を読む

ー読んだり書いたりする行為の根本にあるものー

以前、酷い翻訳物に連続で遭遇したことが祟って、ずいぶん海外文学から遠ざかっていた。
でもヴァレリーは、セットの海辺の墓地詣でしたくらい好きだし、神保町で棚を借りているPASSAGEの棚の名前もポール・ヴァレリーだし……と、勝手に縁を感じて読んでみることにした。
清水徹訳は細かなニュアンスまで忠実に捉え、しかも日本語として美しく訳されているように思う。

「ムッシュー・テスト」は、ヴァレリー唯一の小説だそうである。「序」を読んだら、チャレンジフルな精神がどっと流れこんできて、幾度も繰り返して読む。

以下引用文に、私たちが読んだり、書いたりする行為の根本的動機を見るように思う。

自分が手に入れたもっとも稀なものを自分の死後にまで生きのびさせようとする奇怪な本能の本質ではないか。

(ポール・ヴァレリー「ムッシュー・テスト」清水徹訳11頁

ヴァレリーが「ムッシュー・テスト」と名付けた不思議な主人公。
以下引用文は、読み進めるうちに次第に重なってくる読み手と作中の人物の在り方を示しているようで興味深い。

なにゆえにムッシュー・テストは不可能なのか?ーーーこの問いこそは彼の魂だ。この問いがあなたをムッシュー・テストに変えてしまう。というのも、彼こそは可能性の魔そのものに他ならないからである。自分には何ができるか、その総体への関心が彼を支配している。彼はみずからを観察する、彼は操る、操られることをのぞまない。

(ポール・ヴァレリー「ムッシュー・テスト」清水徹訳12頁)

以下引用文。
そんな摩訶不思議なムッシュー・テストを語るには、どういう言葉を道具として使えばいいのだろうか……という問題にヴァレリーの考えが示されている。
これを実行した本作品、いったいどんな短編が繰り広げられるのか楽しみである。

このような怪物について何らかの観念をあたえ、その外見と習性を描写すること(途中略)、それは、無理を強いた言語、ときには思い切って抽象的な言語を創出する(途中略)。くだけた表現も同じように必要(途中略)。俗悪な表現やしまりのない表現もすこしばかりは必要(以下略)。

(ポール・ヴァレリー「ムッシュー・テスト」(清水徹訳12頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月29日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー無邪気でもあり、一風変わっている少年世一ー

十月二十四日は「私はハングライダーだ」で始まって、都会の若者が操るハングライダーが田舎町まほろ町の住民の様子、隙あらば……と墜落の機会を伺っている自然を語り、やがて少年・世一に気がつく。

ハングライダーが迷惑げに語る世一の天真爛漫さに、心がしばし明るくなってくる。

二番目の段落「この際 言うべきことは つまり」という短い語句を行を変え連ねることで、ハングライダーの葛藤を感じてしまう。

少年・世一のことも、「鳥の羽ばたきを執拗に真似る少年」「私から離れようとしない羨望の塊」と無邪気とも、どこか一風変わったところがあるようにも語っている。

世一の熱狂ぶりとハングライダーのクールさが妙に心に残った。

鳥の羽ばたきを執拗に真似る少年の熱い思いが
   私を追いかけては付き纏い、

   ほどなく嬉しさを通り越してありがた迷惑を覚え
      この際
         言うべきことは
            つまり
              どうやったところで人は鳥にはなれない現実を

                 きちんと言っておいたほうがいいと思い、

                 ところが
                    私から離れようとしない羨望の塊は
                       まったく耳を貸さない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」96頁

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さりはま書房徒然日誌2024年1月28日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

ーささやかな一語に作者の皮肉を込めてー

十月二十三日「私は脳だ」で始まり、少年世一の脳が語る。
引用文の最初、「世一」と繰り返すことで、世一の存在を強烈に主張している気がする。
さらに「複雑怪奇」から漢字の多い言葉を使うことで、脳らしさ、複雑な機能が伝わってくる。

二番目の段落「健常者と称する」という言葉に、そう言う人達への作者の冷ややかな視線を感じる。

世一の脳、健常者と称する人たちを並べて語ることで、前者の素晴らしさ、後者の欺瞞を描いているのではないだろうか?

いささかの麻痺はあっても
   世一を世一たらしめ
      世一の自我の拠り所となっている
         複雑怪奇な機能にして
            単純明快な構造の
               美術作品にも匹敵する脳だ。


世一の感情作用が完全に鈍麻していると
   実の親ですらそう誤解するのは
      ひとえに手足や表情筋の動きがてんでんばらばらで
         その手の病魔に浸されていない
健常者と称する人々の日常表現とは
                 大きくかけ離れているからだろう。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」90頁 

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さりはま書房徒然日誌2024年1月27日(日)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー目に見える筈のないものが見えてくる不思議ー

「胸中の母屋に掲げっぱなしだった黒い反旗」が、だんだん動きを止め、消えてゆく……というイメージに託した心の動きがひしひしと伝わってくる。いちいち悲しいとか、苦しいとか書かれるよりも、ただ「黒い反旗」に託して書く方が、心に喚起されるものがあるように思う。

「哲学的抱負の上にぐっと張り出した心の無用な苦痛」という抽象的概念を表す言葉もなぜか情景が見えてくる。「ぐっと張り出した」という建築物を語るような表現ゆえ見えてくるのだろうか?

「魂の奥で密やかに咲く象牙色の花や 大宇宙の最古の星が」という箇所も、見たこともないものが見えてくるようで心惹かれる表現である。
「象牙色」という実際にある色を用いながら、「象牙色の花」という目にしない色表現をすることで、現実には見えない「泣きぬる風を吹かせ」という不思議な光景を見させてくれているような気がする。

養父母を亡くしてからずっと胸中の母屋に掲げっぱなしだった黒い反旗が
  まったくと言ってもいいほどはためかなくなってだらりと垂れ下がり


  のみならず 今この瞬間に その旗自体が消えてなくなりつつあって
    哲学的抱負の上にぐっと張り出した心の無用な苦痛が希薄になり


    柔弱な魂の奥で密やかに咲く象牙色の花や 大宇宙の最古の星が
      ねっとりと粘つく情念を伴った 泣きぬる風なんぞを吹かせ

(丸山健二『風死す」1巻477頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月26日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結 1」を少し読む

ー紅葉、尻……それぞれの色を表現する言葉の面白さー

「千日の瑠璃 終結」十月十二日は、「私は木漏れ日だ」で始まる。
「木漏れ日」が語るのは、自然界の温もりや生命の逞しいシステム。それと相反する人間界の醜悪さを代表する屋外で抱き合う男女の姿。見つめる世一。
「紅葉」を「どぎつい色」と表現するのも初めて見る気がするし、「木々の葉を縫って進む私」という言葉に「木漏れ日の姿が見えてくる。
それとは反対に、男女の「剥き出しの尻」を「安っぽい紙のごとき白さ」と表現する言葉にも、人間への嫌悪感が伝わってくる。

例年になくどぎつい色に紅葉した木々の葉を縫って進む私は
   ふかふかに降り積もった落ち葉や
      僅かな熱源も見逃さない
         したたかなテントウムシを温めてやり


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」86頁)

互いに相手の年相応の肉体を激しくかき抱き
   下劣な魂を貪り合う
      どこか哀しげな雰囲気を醸してやまぬ男女の
         剥き出しの尻を
            安っぽい紙のごとき白さで光らせる


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」86頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月25日(木)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー行が進むにつれて平仮名濃度がアップして文が軽やかになってゆく!ー

以下引用文は、33字のうち平仮名は13字だけ、残り20字は全て漢字である。
最近の国語の教科書が目指す分かりやすい実用的な文章とは、真っ向から喧嘩をしているような文である。
こんなふうに漢字にこだわることで、文にどんな影響があるのだろうか?


まず私の場合、意味のわからない、あるいは読めない漢字を調べるから、必然的に文章に向かい合う時間が長くなる。


それから漢字には、特に普段使われていない漢字には、意味だけでなく部首や形から、イメージを膨らませる効果があると思う。
だから短い語数でも無限に世界が広がってゆく気がする。


でも、これだけ漢字が多いと、普通は硬くて読みにくい文になりそうな者だが、そんなことはなく流れるように進んでゆく。

なぜか?

最初の行の平仮名4字/全体13字
二番目の行の平仮名4字/全体11字
最後の行の平仮名5字/全体9字


各行の平仮名の数は変わらないようでいて、行が進むにつれて平仮名濃度が濃くなってきている。だから風が抜けるような軽やかさが増してきているのかもしれない。

日本語は漢字、平仮名のリズムで成立している複雑な言葉(本来は)なんだと思った。

都邑に漲る空虚な喧騒の最中
  抒情的で不羈なる譚詩が
    次から次へと浸出し


(丸山健二「風死す」1巻466頁)

ちなみに読めなかったり、意味が分からなかった言葉を日本国大辞典で調べて以下にメモ。


ふ‐き 【不羈・不羇】

(形動)

(「羈」「羇」はともにつなぐ意)

しばりつけることができないこと。束縛されないこと。あるいは、才能や学識があまりにもすぐれていて、常規では律しにくいこと。また、そのさま。


たん‐し 【譚詩】

({フランス}ballade の訳語)

中世ヨーロッパの吟遊詩人によって歌われた歌謡の一形式。多くは神話・伝説に基づいた物語の要素を伴うが、文芸の分類では抒情詩に属する。譚歌。バラード。

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さりはま書房徒然日誌2024年1月24日(水)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー今日の状況を語るような文ー

まさに今日、私たちが置かれている状況を語るような文が心に残る。
二番目の「遠い遠い」と重ねることで、実現不可能な未来への悲しみが強く伝わってくる気がする。
「平和」が「非現実の典型となって眼前に横たわり」という抽象的な主語が具体的な動作をとる形の文……なぜかダリの絵が浮かんできた。

人類においては至上至高の情熱の発露であるやも知れぬ 宿命的な戦争行為がもたらす
  破滅に直結して破局の一端を担う 現世の恐ろしさに気づいてもどうしようもなく


  永遠の安寧を吹きこんでくれ 晴朗の心地が遠い遠い未来までつづくはずの平和が
    透徹した理解など断じて得られない 非現実の典型と相なって眼前に横たわり


(丸山健二「風死す」1巻450頁)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーどこかユーモアのある表現ー

十月二十日「私は写真だ」と、まほろ町町役場を飾る六十年前の航空写真が語る。その口調は、田舎の社会にかなりうんざりしている。航空写真も、不自由な少年世一の不思議さに気がつく。

うたかた湖の北の外れに
   ぽつんと点のように映っている淡い影が
      鳥の形に似た人間の屍であるなどと
         そう言って少年が騒ぎ立て

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」81頁)

十月二十一日「私はボートだ」とおんぼろボートが語る。世一を憐れんだボートは、一緒に湖底に沈もうとするが……。
「遠慮がちに差し出す死の優待券」という表現に、なんとも言えないユーモアがある……英語圏の小説なら、こういう表現はある気がするが、日本の小説では珍しいのではないだろうか?

私が遠慮がちに差し出す「死の優待券」には目もくれず
   不自由な体ながらも元気いっぱい生の道を歩みつづけていた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」85頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月23日(火)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー天体という大きな視点で見つめる魅力ー

丸山作品の魅力の一つに、太陽や月、地球という天体を向いて語る視点があると思う。
矮小な人間というものを語っていたかと思えば、次の瞬間には天体へと視点がジャンプして、限りなく大きな存在から人間というものを見つめる……そんな大きな存在である「創造と破壊の恒星」太陽を語る引用文の言葉に、抗えない運命の中で生きている人間というものが見えてくるのではないだろうか。

まばゆい限りの中天に悠々と案座して 大袈裟な玉座に居座ったまま
  愚かなる人類を救いつづけ はたまた 大破局へと導き続ける
    創造と破壊の恒星は 核心を突いた言葉で世の空爆を強調し

(丸山健二「風死す」1巻417頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月22日(月)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ーストレートに言わない、漢字のイメージを効かすって大事ー

引用文は詩人にして犯罪者、末期癌の20代を描いた箇所。
「野生種の堅果を想わせる目玉」という表現に、「どんぐり眼」とかストレートに言わない方が色々想像して楽しめると思ったり、「野生」「堅」という漢字が主人公のイメージを喚起して、次の「鋭い視線」にすんなり移行する気がしたりした。

それでもなお 野生種の堅果を想わせる目玉をぎょろつかせつつ 鋭い視線を飛ばして
  取りとめもない愛おしさを覚えずにはいられぬ ありとあらゆる対象と物象を物色し

(丸山健二「風死す」1巻412頁)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー月が語るからこそ納得ー

十月十八日の箇所は、「私は月だ」で始まる。
以下引用文。月が語る己の姿に、いつも夜空に浮かんでいる身近な存在でありながら、私達から遠いところを静々と進んでゆく……月の神秘性をあらためて意識する。

久遠の時の流れに沿って
   どこまでも現世の縁を滑って行く私は
      さかしらなきらめきを発する流れ星を牽制してやり、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」70頁)

そんな月が語る世一……。月が語るからこそ、ありのままを語る残酷さ、世一の他にはない個性……という二つが、矛盾せずにあるのだと思った。

将来において
   一人前の体を持てるかどうか極めて疑わしい
      この少年は、


      私と他の星々を分け隔てなく扱って
      区別もしなければ差別もせず、


      さりとて
         双方を同一視することもない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」73頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月21日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

ー「私は黄昏だ」……黄昏が時に美しく時に冷酷に語るー

十月十七日「私は黄昏だ」で始まる。湖で亡くなった世一の祖父を偲ぶ老人に黄昏が声をかけたり、見つめたり……。
以下引用文。
「転げ落ち」るわけのない「嘆声」なのに、なぜかハッと納得する表現である。「転げ落ち」る筈も、「運ばれてゆく」こともない嘆声のシルエットが黄昏にくっきり浮かんでくる。
「親しかった友の来世への安着を知らせる波」という表現に、なんとも優しい心を感じる。
黄昏は見えないものも美しく見せながら、でも最後には「むさ苦しい死に損ないを一挙に払いのけるや」と冷酷でもある。
時に美しく、時に冷酷……と自然界がそのまま書かれている気がした。

すると
   あらぬ方を見やっていた老いぼれの嘆声が
      眼前の砂浜に転げ落ち、

      めっきり視力が衰えた当人を無視して
         沖合へと運ばれてゆき、

         しばらくの後、
            親しかった友の来世への安着を報せる波が
               ひたひたと足元に打ち寄せる。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1)68頁 


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さりはま書房徒然日誌2024年1月20日(土)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー言葉がつないでゆくイメージの美しさよ!ー

1巻396ページ「唄え!」の前2ページに配置された菱形部分は、片側が死について、片側が生と格闘する主人公についてイメージを喚起するように書かれている。

引用箇所について。
まず死が聴覚的、絵画的に語られた後、犯罪者である主人公と重なる悪のイメージへと展開してゆく。
「個体の終末」「雨音にかき消され」「悪事は狂的な信仰」「古びた港まで曳航される老朽船」この言葉による連想の仕方が、意識下に深い映像を送り込むようで面白い……というか、この送られてくる映像がすごく気に入った。


「古びた港」から「掃き溜め」と、飛躍しているようで「水っぽくてゴタゴタしている」というイメージがつながり、無数の生の泡が見えてくる気がする。


それから生の没義道ぶりを語って、次のページの犯罪者の主人公へと繋げていっているのではないだろうか?


そんなふうに言葉の連想ゲームで脳内に不思議な絵画が描かれるひとときを楽しんだ。

         死
      は個体
     の終末とい
    う声が雨音にか
   きけされてゆく 悪
  事は狂的な信仰 さもな
 ければ 古びた港まで曳航さ
れる老朽船 ともあれ 掃き溜め
 に棄てるほどある生命は 法
  に即しての行為をけっし
   て求めず 自由に敵
    対するものとし
     て排除した
      がるの

       

(丸山健二「風死す」1巻

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さりはま書房徒然日誌2024年1月19日(金)

変わりゆく日本語の風景 ーういなやつー

文楽にしょっちゅう出てくる言葉の一つに「ういなやつ」がある。
「うい」は漢字で書くと「愛い」で、意味としては「健気な」という意味があって、年下を褒めるのに使われるようだ。

「近頃河原の達引』では、こんな風に会話文で使われている。

ムムでかした愛【う】いなやつ

(「近頃河原の達引 四条河原の段」より)

「ういな」という語感のせいだろうか? 他の言葉に置き換えても、しっくりしない気がする。「ういな」という言葉のリズムには、相手への愛情が滲んでいる気がする。

日本国語大辞典で「うい」の意味、用例などを調べると、以下のように書かれている。

好ましい。愛すべきだ。殊勝だ。けなげだ。主に目下の者をほめるのに用いる。

*浄瑠璃・本朝三国志〔1719〕一「うゐわかい者。出かした、出かした」

*浄瑠璃・義経千本桜〔1747〕二「今の難義を救ふたるは業に似ぬうい働」

*浄瑠璃・本朝二十四孝〔1766〕四「それを取得にお抱へなされて下されうなら、望んでなりと御奉公仕度きお屋敷。ホホ出かした愛(ウ)い奴」

ヨキ、ヨイ(好)の転か〔大言海〕。

(日本国語大辞典より抜粋)


浄瑠璃文に出てくる「ういなやつ」に滲む愛情は、どうも現代の日本語には見つけることが出来ない気がする。

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さりはま書房徒然日誌2024年1月18日(木)

変わりゆく日本語の風景

ーかつて「道理」という言葉には共感があったのではないだろうか?ー

文楽は、江戸時代の上方の言葉のまま上演されているそうで、言葉のタイムトラベルを楽しむ楽しさもある。

ずいぶん変わった言葉もあれば、言葉そのものは変わっていないけど、ただ意味合いというかニュアンスがだいぶ異なっていると思う言葉もある。


「道理」も、形は現代と同じだけど、使われ方が違うのでは……という言葉の一つである。


文楽作品では、若い娘も、ヒロインもやたら「道理」を連発する。
同じ言葉を連発されると、普通うんざりしてくるのだが、「道理」にはそれがない。
まず若い娘も、ヒロインも日常会話の中で「おお、道理、道理」とよく繰り返す。そんな使われ方からして、現代の「道理」の少し硬いイメージとは違うのではないだろうか……という気もしてくる。

道理の意味は現代と違いはない気もするが……

正しいことわり。筋道。そうあるべきこと。

(小学館全文全訳古語辞典)

日本国語辞典の説明の最後の一文に、「道理」という言葉が文楽作品で発する哀しさがあるのだろうか……という気もする。
もしかしたら「世間一般には分かってもらえないかもしれないけれど、私には分かります」という気持ちも込められた言葉だったのではないだろうか。

現代では、物事の正しい筋道・論理・必然性等を広く指すが、種々の物事についての個別的な筋道・正当性・論拠などの意でも用いられ、特に政治・法律に関わる分野に用例が多い。

この語は、古くは正当性の基準をかなり具体的に持つことがあった。たとえば、除目における「道理」の場合、才能・芸能・栄華・年労・戚里といった、人事の基準を示すものであって、一般的・普遍的な正当性を示すものではない。従って、一般的・普遍的には不当と思われることでも、個々の分野の基準としては「道理」になり得るわけである。

(日本国語大辞典)

文楽2部「伽羅先代萩」に出てくる命を狙われる若君を守る乳人・政岡は、毒殺を避けるため他からの食べ物は拒んでひもじい思いをしている若君に

ヲヲ御道理でございます

「御道理」という言葉を幾度も繰り返す。現代の「道理」にはないシンパシー、労りを太夫さんの語りに感じつつ聞いていたが、さて当時の「道理」にはどんな思いがあったのだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2024年1月17日(水)

変わりゆく日本語の風景ー「未来」ー

文楽公演3部「平家女護島」「伊達娘恋緋鹿子」を観に行った。
文楽によく出てくるキーワードの中には、現代の日本語とは少し意味が違うかな……という言葉も結構ある。


その一つが「未来」だ。
以下引用文は「伊達娘恋緋鹿子」のお七の言葉より。

死なば一緒と言ひ交はした私を捨てて死なうとは胴欲なむごたらしい。別れ別れに死ぬるとも、未来はやつぱり変わらぬ女夫、言うた詞違やうか

お七の言う「未来」は、私たちが「明るい未来」というように使う意味ではない。「未来世」、つまり死後の世界のことである。

この時代にも、これから起きる世界という意味で「未来」が使われることはあったようである。

ただ文楽、浄瑠璃作品での「未来」は圧倒的に死後の世界を指しているのではないだろうか……。

いい加減なダメ男が、恋人には今を誓い、妻には未来、死後の世界で一緒……と誓う作品もあったような気がする。


今、日本の政治家が「皆さんの未来のために」とか抜け抜けと言っているのは、果たしてどちらの意味での未来なのだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2024年1月16日(火)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー魔術みたいにイメージが繋がっていく!ー

丸山先生が次々と切り出す思いがけないイメージが愉しい。
突拍子もない言葉と言葉が、丸山先生の文で繋がって、何だか世界が思いがけない方向に広がっていく爽快さがある。

「大型回遊魚」という少し獰猛そうな生き物の気泡から思い起こされるのは、流れるように生きている主人公。

「高層ビルの先端の揺れがわかる地震」「執拗な余震」という嫌なイメージから一気に「美しい暮夜」「きらめき」と美しく反転。

「絶壁の上に生えた高木」「するするとよじ登り」とまた揺れるイメージが復活。

「朝春の潮」「凄まじい怒号」と音が喚起されたところで、「胸に納め」最後に「微笑む」の三文字にパンチを感じる。

大型回遊魚の気泡を思わせる奔放な気性と
  それに伴う現状に一も二もなく休んじ


  高層ビルの先端の揺れがわかる地震と
    執拗な余震がすっかり収まった頃
      密やかに訪れた美しい暮夜が
        まだ震える際にきらめき



        絶壁の上に生えた高木に
          するするとよじ登り
            浅春の潮を眺め



            凄まじい怒号を
              胸に納めて
                微笑む。


(丸山健二「風死す」1巻388ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月15日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー万物の視点で語ることのできる、散文ならではの可能性ー

「私は落ち葉だ」(十月十三日 木曜日)
「私は神木だ」(十月十四日 金曜日)
「私は怒りだ」(十月十五日 土曜日)
「私は日曜日だ」(十月十六日 日曜日)


落ち葉、神木、怒り、日曜日が、不自由なところのある主人公・世一を語っていく。


一人称で語りながら、人以外のあらゆるものの視点で語ることができる……というのが、散文の大きな特徴というか、強みなのだ……と、短歌を少しかじって思うようになった。


短歌は必然的に一人称詩型である。ただ自分以外の誰かの視点に降り立ち、代わりにその人物の思いを歌うことができる

「千日の瑠璃」は、物の、感情の、曜日の、万物の視点に立って語ることのできる散文……の忘れられている可能性を示していると思う。


そんな人ではない存在たちが見つめる世一は、次第にただの憐れむべき不自由な存在から不思議な力を持つ少年に見えてくる……。

それも人ではない存在が語るからではないだろうか?

以下引用文は、日曜日が語っている。日曜日だからこそ、「覗きこむ」ことも、「逃げ帰る」こともできるのであり、そうした日曜日の姿?に世一のこの世のものではない力を感じる。

そのオオルリは
   まさに囚われの身でありながら
      飼い主のそれにも匹敵する
         非の打ち所がない
            無碍の境地に達しているかのように思えてならない。


きょうという新鮮さをバネにして
   私は世一とオオルリの双方の心を覗きこもうとしたものの、


   残念ながら
      影と闇とが複雑に入り混じる
         底なしの淵に引きずりこまれそうになり、

         慌ててそこを飛び出し
            光輝の世界へと大急ぎで逃げ帰る。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」65ページ 

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さりはま書房徒然日誌2024年1月14日(日)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ーすごく大きな存在から小さな存在まで僅か数行で語る対象が変化する!ー

以下引用文。
語られている対象は、まずは人智を超えた大きな存在である。
それが段々と身近な存在や主人公自身の感情へと収縮してゆく。
そんなふうに対象が変化してゆく過程をとおして見ると、意外とちっぽけな人間にもロマンがあるのだなあと心打たれるものがある。

「定かなる宿命と 定かならざる運命」というフレーズに、まず運命の神様みたいな語り口で格好いいと惹きつけられる。

最初の段落が「高らかに舞い上がり」で終わり、次の段落が「東の空に利鎌のごとき月が架かる」と空の高いところにある月の描写で始まっている。
よくは意味が分かっていなくても、何となく「高い」繋がりでイメージが連続するから、分かっているような錯覚に陥る。

同じように「利鎌」「月」「銀泥」とイメージがかすかに心の中で結びついている。

「銀泥のような」ではなくて、「銀泥に酷似した」と言えば「のような」のオンパレードを避けられると学習する。

……ああ心に残る文!と思い、なぜだろうと野暮なことに追及してしまった。

定かなる宿命と 定かならざる運命が複雑に絡み合って
  天命の潮流が宇宙の彼方から運んでくる快楽主義が
    疲労の極に達して埃と共に高らかに舞い上がり


    東の空に利鎌のごとき月が架かる秋の夕間暮れ
      銀泥に酷似した色合いの大海原を前にして
        花筵の上で密やかに茶を立てる粋人が
          はっと思い当たったことに驚いて
            思わず張り上げた短い叫びが
              蛇行した河岸を独り行く
                俺の胸にいたく響き


(丸山健二「風死す」1巻375頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月13日

佐多稲子「私の東京地図」を読む

ー関東大震災前後の東京の風景が実に細かく書かれているー

先日受けた福島泰樹先生の「文学のバザール浅草」講座の資料に出てきた佐多稲子の浅草を語る文の鮮やかさ、躍動感に惹かれて、佐多稲子「私の東京地図」(講談社学芸文庫)を手にする。
「私の東京地図」「版画」「橋にかかる夢」「下町」「池之端今昔」「挽歌」の六篇を読む。

関東大震災前後の上野、浅草、日本橋界隈の風景が実に細かく書かれている。だが、どんなものなんだろうか……と想像し難いものも結構あって、さらに街並みも今とはすっかり違って、まったく知らない国を旅している気分になる。
たまに不忍池の描写が出てくると、「ああ、変わらない」と安堵したりする。

今とは色々違うことばかり……

この時代、棺桶は丸桶だったんだ……葬儀屋の人夫さんが死体の足をポキポキ折って丸桶に座らせるんだ……

足袋屋さんでは「文数に合せた木型に足袋をはめて、竹べらで指先の切り込みを押え、木槌で叩いて型を仕上げてくれた」(佐多稲子「池之端今昔」)

丸善の入り口には下足番のお爺さんが二人いた……。

丸善の左右に内側へ開く入口のとっつきに、赤い鼻緒の麻うらがずらりと並べてある。下駄の客はこれに履きかえて下足の札を子の老人たちから受け取って店内へ上る。靴の人は、この老人たちに茶っぽい靴カバーをはめてもらう。東京の町の道路がまだそういうことを必要としていた。

(佐多稲子「挽歌」)

丸善で佐多稲子の同僚女性は、大杉栄が洋書売り場にいたと騒ぐ。

「大杉栄の目はすごいわよう。キラキラ光っているわよ。あの目だけで魅惑されてしまうわよ』

(佐多稲子「挽歌」)

こんなに書店員からキャーキャー騒がれる大杉栄が惨殺されたのだから、世間への衝撃、あるいは見せしめの度合いはさぞ……と思ってしまった。

関東大震災前後の東京の街が、そこで逞しく働く佐多稲子の動きが、映画を観ているように浮かんでくる作品である。

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さりはま書房徒然日誌2024年1月12日(金)

短歌の師、散文の師……二人の師の共通する教え

不思議にも短歌の師・福島泰樹先生と散文の師・丸山健二先生は、教えががぴたり重なることがよくある。
たぶん会ったことはない二人の師が同じことを言われるのに驚き、片方の師の講義のおさらいをしている気分になることしばしば。
真摯に書く……という創作行為の原点は短歌であれ、散文であれ、共通するものがあるのだろうか?

そんな共通する教えの一つが「いつも手帳を」。
今日も「言葉は降ってくるものだから、いつも手帳を用意して言葉を受けとめるように、言葉はすぐ消えてしまうから」と福島先生から教えて頂く。
「いつも手帳を」は、丸山先生もよく言われていることだ。
ただし手帳の使い方は、やはりそれぞれ違うようだ。詩文と散文の違い故だろうか?具体的な使い方を知りたければ講義を受けてみてはどうだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2024年1月11日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し再読する

ー「口笛」という見えない語り手が見えてくる!ー

十月十日は「私は口笛だ」で、十月十一日は「私は噂だ」で、十月十二日は「私は靴だ」で始まる。

不自由な世一が吹き鳴らす「へたくそのひと言ではとても片づけられない 切々たる響きを伴う口笛」を語る以下引用文に、不思議な者としての世一の存在を感じる。

けっしてきのうの延長などではない
   未知なるきょうに向かって吹かれ、

   控えめな進行ではあっても
      確実に狂ってゆくこの世に向かって吹かれ


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」38ページ)


遠くの山々に谺する口笛を描く以下引用文。高峰に寄せる想いに「そういう感情もあるなあ」と気がつく。気持ちが高きへ向かった後なので、世一の口笛に反応する家族の反応がリアルに感じられる。

きらきらと輝く陽光がもたらす風によってはるか遠くまで運ばれ
   亡き者の面影を偲びたがる人々が必ず仰ぐ高峰
      うつせみ山に撥ね返された私は
         ふたたびこの片丘へと舞い戻り、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」39,40ページ)


「私は靴だ」で始まる文を読み、「靴」で世一の父親の外見から人生、心境をこんなに語れるものか……と丸山先生の観察眼に驚いた。

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さりはま書房徒然日誌2024年1月10日(水)

福島泰樹短歌絶叫コンサートへ

ー「風に献ず」と「賢治幻想」の世界を楽しむー

福島泰樹短歌絶叫コンサートを聴きに吉祥寺のライブハウス曼荼羅に行ってきた。ぼーっと聴いていたから、間違いも多々あるかもしれないが、当てにならない記憶に残っていることを少しメモ。

毎月10日に開催されている短歌絶叫コンサートは、今年で40周年を迎えるそうである……。

今回ギターを演奏して歌ってくれた佐藤龍一さんと福島先生が最初に短歌絶叫コンサートを開いたのは、アテネ・フランセ……という場所も意外であった。

短歌絶叫コンサートをはじめたキッカケは、「当時は詩人が詩のコンサートをよく開いていた。でも短歌の歌といえば、宮中の歌会の節回しか牧水の歌のようなリズムしかなかった、短歌は歌謡なのに」という思いから始められた……と語られていた気がする。

短歌は短いから苦労もあったようだが、まず福島先生がコンサートの台本を書き、その台本を見て佐藤龍一さんたちが音楽を作り……。その逆の場合もあるそうだ。
それにしても40年、1200くらいのステージをこなしてきたとは凄いなあと思う。

今回はまず岸上大作の歌を歌い、福島先生の第一歌集「バリケード1966年2月」を歌いながら、「詩の使命とは、文学の使命とは次の世代に伝えていくこと」と語る。
そして「学生たちがこれほど熱意をこめて社会を変えようとした時代があったのに、72年の連合赤軍から流れが変わってしまい、そうした動きを避けるように、語らないようになってきてしまった」とも嘆かれる。
たしかにこれだけの学生たちの熱量が蒸発してしまった背景……もっと知らなくてはとも思った。

福島先生が中原中也の「別離」について、「こんなにいい詩なのにあまり知られず論評もされていない」と残念そうに言われていた気がする。「別離」は短歌絶叫コンサートではしょっちゅう歌われるから、とても有名な詩なのかと思い込んでいた。

佐藤龍一さんの詩「合わせ鏡」も、合わせ鏡に合わせたようなイメージが次々と繰り出される詩で、こんな風にイメージが膨らませられるのかと驚いた。

私が今書いている長文でも、実は合わせ鏡のイメージを使っているのだが、こんなに展開していない……と反省することしきり。
もう今からでは遅いし。でも「合わせ鏡」ってイメージを刺激する存在だよね、と思いついた自分を褒めて納得する。

以前も引用したと思うが、中原中也の別離を以下に。
この詩は聞くたびに印象が変わる。
朗読者が何に別離を言おうとしているのかで印象が変わるのかもしれない。

別離

中原中也

さよなら、さよなら!
  いろいろお世話になりました
  いろいろお世話になりましたねえ
  いろいろお世話になりました

さよなら、さよなら!
  こんなに良いお天気の日に
  お別れしてゆくのかと思ふとほんとに辛い
  こんなに良いお天気の日に

さよなら、さよなら!
  僕、午睡ひるねの夢から覚めてみると
  みなさん家をけておいでだつた
  あの時を妙に思ひ出します

さよなら、さよなら!
  そして明日あしたの今頃は
  長の年月見馴れてる
  故郷の土をば見てゐるのです

さよなら、さよなら!
  あなたはそんなにパラソルを振る
  僕にはあんまりまぶしいのです
  あなたはそんなにパラソルを振る

さよなら、さよなら!
さよなら、さよなら!

 僕、午睡から覚めてみると、
みなさん、家を空けてをられた
 あの時を、妙に、思ひ出します

 日向ぼつこをしながらに、
つめ摘んだ時のことも思ひ出します、
 みんな、みんな、思ひ出します

芝庭のことも、思ひ出します
 薄い陽の、物音のない昼下り
あの日、栗を食べたことも、思ひ出します

干された飯櫃おひつがよく乾き
裏山に、烏が呑気に啼いてゐた
あゝ、あのときのこと、あのときのこと……

 僕はなんでも思ひ出します
僕はなんでも思ひ出します
  でも、わけて思ひ出すことは
わけても思ひ出すことは……
――いいえ、もうもう云へません
決して、それは、云はないでせう

忘れがたない、にじと花
  忘れがたない、虹と花
  虹と花、虹と花
どこにまぎれてゆくのやら
  どこにまぎれてゆくのやら
  (そんなこと、考へるの馬鹿)
その手、そのくち、そのくちびるの、
  いつかは、消えてゆくでせう
  (みぞれとおんなじことですよ)
あなたは下を、向いてゐる
  向いてゐる、向いてゐる
  さも殊勝らしく向いてゐる
いいえ、かういつたからといつて
  なにも、おこつてゐるわけではないのです、
  怒つてゐるわけではないのです

忘れがたない虹と花、
  虹と花、虹と花、
  (霙とおんなじことですよ)

 何か、僕に、食べさして下さい。
何か、僕に、食べさして下さい。
  きんとんでもよい、何でもよい、
  何か、僕に食べさして下さい!

いいえ、これは、僕の無理だ、
    こんなに、野道を歩いてゐながら
    野道に、食物たべもの、ありはしない。
    ありません、ありはしません!

向ふに、水車が、見えてゐます、
  こけむした、小屋の傍、
ではもう、此処からお帰りなさい、お帰りなさい
  僕は一人で、行けます、行けます、
僕は、何を云つてるのでせう
  いいえ、僕とて文明人らしく
もつと、ほかの話も、すれば出来た
  いいえ、やつぱり、出来ません出来ません。

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さりはま書房徒然日誌2024年1月9日(火)

丸山健二「風死す」1を少し再読する

ー比喩は難しいけれど面白いー

「這い纏わる蔓草の奧」も不気味、「じっと潜む薬用の蛇」も不気味……と進んだところで、「発煙筒を使って燻し出す」と大きく展開するから、一瞬呆気にとられる。
そのあと「幸運を無造作につかもうとした」という行為が重なるから、さらに驚きつながらも「薬用の蛇」と「幸運」とは重なるものか……薬効という点で重なるのかも……と強烈に印象に残る。
「はっと我に返り」で「蛇」に重ねて読んでいた方も目が覚める気がする。
比喩ってかけ離れている方が面白いと思うけれど、それがこんな風に上手くハマる……のは難しいと思う。

這い纏わる蔓草の奥にじっと潜む薬用の蛇を 発煙筒を使って燻し出すように
  幸運を無造作につかもうとした一時期が 懐かしく思い出されたところで
    はっと我に返り その際に覚えた恥辱のために 心の沈黙を強いられ

(丸山健二「風死す」1巻363ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月8日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー「雨」から「風土」まで万物の視点から自在に語ることができるところに散文の凄さがあるのかも!ー

「千日の瑠璃 終結1」と「風死す」を交互に読んでいくと、あらためて文体がまったく違う、どっちもチャレンジフルなんだけど違う……と思う。

「千日の瑠璃 終結」は散文がスキップしながら思いがけない表現にジャンプする感じだけど、「風死す」は最初から哲学詩、物理詩……という感じがする。
この違いはどこから来るのだろうか?「千日の瑠璃 終結」は、まだストーリーというものが核にあって、小説寄りだからなのかもしれない。

十月六日は「私はため息だ」で始まる。
世一の姉がつくため息が、田舎の図書館に勤務しつつロマンス小説にはけ口を求める切ない彼女の日々を語る。

十月七日は「私は九官鳥だ」で始まる。
世一が捕まえたオオルリの幼鳥と比べたら「オオルリと比べたらおまえなんぞ鳥のうちに入らん」とペットショップの主人に罵倒される九官鳥が語る。
鳥を飼うのが大好きな丸山先生らしい箇所である。

十月八日は「私は雨だ」で始まる。
雨は「もう長いこと生活にくたびれ果てていることに まったく気づいていない母親の目を覚まさせる」のだが、そんな母親を語る口調が雨らしく、時にしっとりと、時に荒々しいのが面白い。

十月九日は「私は風土だ」で始まる。まほろ町の風土が語る田舎の嫌な雰囲気は、ずっと田舎に住んでじっと田舎の人間模様を観察してきた丸山先生だから書ける文だろう。

ひたすら権門に媚び
   後難を極度に恐れ
      弱者の心を汲み取るような気高い観点が苦手で


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」35ページ

権力と金力を背景に国家を牛耳ろうとする野心家に
   一も二もなく盲従する態勢を常に備えている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」35ページ

そういう田舎町に暮らす丸山先生を彷彿とさせる小説家も登場する。

芸術家にあるまじき堅物でありながら
   病的なほど穿鑿好きな小説家も
      私のことを文学の宝庫と買い被ってくれており、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」37ページ

田舎の醜い部分には、人間模様が濃縮されているのだろうか……?
一番最初の勤務がど田舎で、「田舎の人間関係は私には無理!」と思った私には、田舎に身を置いて冷静に観察して小説を書く丸山先生はすごいと思う。
「私は◯◯だ」と、九官鳥から風土に至るまで万物の視点で語ることができる……というのは、散文の凄みなのかもしれない。


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さりはま書房徒然日誌2024年1月7日(日)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー今この瞬間は脈略のない追想でいっぱいなのかもー

以下引用文の後半の方で「著しく脈略に欠けた追憶の目まぐるしさ」と書かれているように、前半は主人公の、いや丸山先生の一瞬の意識に反映されている過去のバラバラの断片なのだろう。

追憶と言えば、美しいもの、甘いもの、哀しいもの……というイメージがあるが、実際には苦いものから格好悪いものまで追憶は様々。
そうしたチグハグな記憶から、私たちの現在の一瞬は成立しているのかもしれない。

ただバラバラの追憶なんだけれど、イメージが喚起されるようにそれぞれの場面がうまく言葉で表されている。

それに「静まり返った法廷」から「連日の大入満員に沸く大相撲」、そして「陸稲の畦道」へ……ほんとうに目まぐるしい追憶である。

比べると、私の追憶はモノトーンの単調な画面かもしれない。

検事の論告に静まり返った法廷を想わせる重苦しさのなかで自身の靴音を聞き

  連日の大入り満員に沸く大相撲を余生の糧にする人々が殉教者に思え

    陸稲の畦道で松露を掘っていた農夫が急に悪心を催して激しく吐瀉し


      アルコールを溶媒に用いた安直な香水が 解熱剤の役目を果たし


        すべての紛争の内因は差別待遇にあると 年長けた男が呟き


          今冬に病が難路に差しかかるという予感は 見事に外れ




          そのような 著しく脈略に欠けた追憶のめまぐるしさが
            肉に属する霊の付け根の辺りをちくちくと刺激して
              真っ当であるべき思念を惑わせて感傷を抑制し


(丸山健二「風死す」1巻359ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月6日

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ークラゲのパンチ力ー

ガンという病に侵されつつ逃亡する主人公の心細さがよく伝わってくる箇所だと思った。

元素まで持ち出すことで人間的なドロドロしたものが消え去って、ポツンとした感じだけが残る。「うつけ」と「クラゲ」と「ふらふら」というイメージが重なり、「クラゲ」から「うっすらとした」にも「ひしと抱きつき」にも違和感なくイメージが飛んでゆく気がする。

「クラゲ」が効いている文だと思った。

すべての元素が融合を開始した大宇宙の初めまで遡って
  あらゆる存在がうつけのように思えてしまう空間を
    クラゲにでもなった気分でふらふらと漂いつつ
      うっすらとした自己認識にひしと抱きつき

(丸山健二「風死す」1巻340ページ)

丸山健二「千日の瑠璃 終結 1」を少し読む

ー作者の身近な物が語ると作者の姿がよく見えてくるー

十月四日は「私は鳥籠だ」と漆塗りの和籠が語り、十月五日は「私はボールペンだ」とボールペンが語る。どちらも丸山先生が普段から親しんでいる存在だから、文の至る所に作者の気配がする。

以下引用文。野鳥が大好きな丸山先生ならではのリアリティあふれる文だと思う。幼鳥の嘴が柔らかいという感覚は、言われると納得するのだが、自分ではとても思いつきそうにない。


それから餌の蜘蛛は脚をもぎ取るのか……私には鳥を飼うのはとても無理そうだ。

餌鉢にまだ柔らかい嘴を近づけて
  逃げ出さないよう肢を全部もぎ取ってある
    大小の蜘蛛つつき回し


丸山健二「千日の瑠璃 終結 1」17ページ

十月五日の「書くために生きるのか 生きるために書きつづけるのか」わかっていない、分かろうともしない小説家……には、丸山先生の姿が濃く反映されているのだろう。

「仔熊にそっくりな黒いむく犬」をハンドルにしがみつかせてスクーターで走る姿も、
「悩みらしい悩みを知らぬ妻とふたりきりで 粗末だが幸せな食事をとる」という姿も、
「言葉に頼り過ぎて本質を見失った書き手が多過ぎる」という思いも、
すべて丸山先生自身のものであろう。

そして最後の呟きも、おそらく丸山先生の思いではないだろうか?

安物の原稿用紙をぐいと引き寄せ
  蚊の鳴くような声で「それでも書いてやる」と呟いた

丸山健二「千日の瑠璃 終結 1」21ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年1月5日(金)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー比喩は難しいけれど面白い!ー

「風死す」や他の丸山文學の後期作品を読んでいると、散文の比喩はここまで可能なんだ……言葉と言葉の組み合わせもここまであり得るんだ……と、ホーっと感心することしばしば。
でも丸山健二塾でトライしてみると、「ぶっ飛びすぎている」と言われたり「ありきたり」と言われ、中々比喩の著地點決めるのは難しいものだと思う。


 
引用文について。犯罪者にして詩人、癌患者という青年が逃亡の日々の中で、「腹持ちのいい 美味なおかずのみを小皿に取り分けるようにして」「精神的な飢餓をどうにか凌いでやり」と語る文は、比喩とそんな主人公の身の上が重なって、妙にぴったりくる表現だと思った。

「からからの方寸への注水」という擬音語、「方寸」「注水」という語の組み合わせも、こんな組み合わせが可能なんだ……やけに喚起するものがあると思った。

「粘着性に富んだ生き方をしてきらめき」は、こういう人たちのことを「粘着性に富んだ」と言うのか……「粘着性」という言葉が放つイメージに驚いた。

あまりにも重い疲労困憊を少しでも癒そうと 宿泊の予定を延長して
  指名手配の写真とはいっさい無縁な 深い山奥の温泉場へ埋没し


    腹持ちのいい 美味なおかずのみを小皿に取り分けるようにして
      脳裏に芽生えかけている精神的な飢餓をどうにか凌いでやり



      だからといって 慈雨により田畑の作物や庭先の樹木が潤う
        そうしたたぐいの劇的な効果はまったく得られない上に
          からからの方寸への注水やら いつまでもあたわず


            ひとりひとりゴボウ抜きにされる デモの参加者や
              ある日突然失業して 食い詰めた一家のほうが
                まだ粘着性に富んだ生き方をしてきらめき

(丸山健二「風死す」1巻323頁〜324頁)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

ー隣りあう生と死ー

「千日の瑠璃」は早く先を読みたくもあり、でも一日分の話だけで完結しているような世界なので、一日一話をゆっくり読みたくもあり……心迷う作品であるが、やはり味読派になろう。

十月三日は「私は棺だ」で始まり、「白木の棺」が世一の家族があまり豊かでないことを、死んだ祖父の弔いをするために集まった人々の様子を語る。

世一は棺の上に瀕死の幼鳥をおく。棺の蓋を打ちつけようとした拍子に世一がこさえた指の傷から滴る血をすすると、鳥は元気を取り戻す。

棺にできた血の微かな染みが、うたかた湖の形だった……という場面が、なぜかイメージ鮮やかに浮かんでくる。

よくよく目を凝らしてみるとその染みは
  なんと
    うたかた湖の形状と寸分変わらず、

    私はその発見をよしとし
      ほぼ望み通りの最後を迎えた死者自身もまた
        それをよしとした


(丸山健二「風死す」1巻13ページ)

わずか四ページに、生と死というテーマが語られている。
血のしたたりをすすって生が蘇る鳥、うたかた湖と同じ形状の棺の血の染み、よしとする死者……を読むうちに、生と死の近さ、生がもたらす不思議、生きている者たちを見守る死者たち……がひしひしと感じられてくる。語り手が棺だもの……。


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さりはま書房徒然日誌2024年1月4日(木)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ーリズムを感じる!ー

ぼーっと読んでいる私は、幾度も繰り返される「風死す」の後にだけ「。」があるのに、ようやく今日気がついたような気がする。

「風死す」を他の人に見せると「章がない……」と驚かれることもある。章の代わりに、全体を律するリズムのようなものをつくり出そうとされて、文のレイアウトに、全く脈略のない記憶の流れのように見える文に、工夫が凝らされている気がする。


以下引用文は、普通の小説で言えば、章と章の区切れにあたる部分だと思う。現世へのやりきれなさが左斜め下りのレイアウで記され、やがて「風死す。」と終わる。


次の菱形部分を半分くらいだけ引用してみた。最初「死んだ思想は」で始まるが、「幸あれ」とだんだん浮上してくる感がある。こうして次なる章が始まる……。


そんなリズムを感じながら読んでみよう。

立ちこめる霧の魅惑に身を委ねて
  現世の存在に不審を抱きつつ
    悲しみを強いる出来事に
      軽々に扱われがちな
        おのれの存在を
          不憫に思い

          その一瞬後
            風死す。


        死
       んだ思
      想は 無の
     底へと沈んでゆ
    く 家を捨てて放恣
   な生活を送る者に幸あれ
  混じりけなしの悲しみが徐々
 に薄らいでゆく 

 
(丸山健二「風死す」1巻311頁からページ数のないページより)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1巻を少し読む

ー闇と明け方にコントラストを、バトンタッチを感じる!ー

十月二日は「私は闇だ、」で始まって「いつもながらの闇」が語り手となる。

そんな闇の存在感を「さざ波と力を合わせ」とか「これ以上ないほどの優しさを込めてそっと包みこむ」と、池に横たわる老人の骸への接し方であらわす視点も面白いなあと思う。


あと「そら豆に似た形状の頭」という幼鳥のあらわし方も、「そら豆」でグッと喚起される気がする。

ここでなんと言っても光を放つのは、「麻痺している脳のせいで 意思に関係がない動きを選択しがちな肉体を授けられ」という少年世一の存在感だ。
「双方の目と目が合った刹那 鳥は鳥であることを忘れ 少年は人である立場を忘れ」というように、鳥と心を通わす不思議な存在。


祖父の骸から幼鳥を助け出すと、世一は祖父のことは忘れて家に戻る。
そのとき死者が倒れてゆく描写が、命をバトンタッチしたという安堵感に溢れていて好きだ。

「私は闇だ、」で始まるこの箇所の最後が、以下引用文のように、祖父の骸を染めてゆく朝陽というのも、対照的で鮮烈に心に残るし、バトンタッチというテーマが繰り返されているような気もする。

「 」内は「千日の瑠璃 終結1」より引用。

そして
   私といっしょに輝ける昧爽へすっと呑みこまれたかと思うと
      大気をまんべんなく染める黄金色の坩堝に
         無造作に投げこまれて
                  どろどろに溶かされてゆく


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」9ページ 

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さりはま書房徒然日誌2024年1月3日

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー作者の影がひっそりまぎれこんでいるように感じることもあるー

以下引用箇所を読むと、いぬわし書房のオンラインサロンで丸山先生が語っていた自らについての言葉が思い出される。

「風死す」の主人公は、時として著者自身の心情が濃厚に反映されているのかも……。そんな風に、ふと思ってしまうような文言がさりげなく散りばめられている。

幼心にも悲しかった 何かに付けて隣人が浴びせかけてくる 極めて露骨な白眼視やら
  複雑さ故の悲しい出生に纏わる 聞こえよがしの悪口やらを ふと思い出すたびに
    それが反発心の種となって ついつい過剰に生きてしまう原動力へと変換され

(丸山健二「風死す」1巻304頁)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

一「生」と「死」がテーマの散文詩のような最初の四頁ー

前回「トリカブトの花が咲く頃」を読み終えたあと、次の丸山文学は何を読もうか……?と迷いつつ、中々決め難かった。

私は比較的最近の読者である。後期の丸山文学から読み始めたので、読んでいない作品がたくさんある。

丸山先生のお庭見学の時に他の方と「風死す」の話を他の方としたことがきっかけで、なんとなく「風死す」の再読を始めた……。

すると初読時には気がつかなかったことが次から次に出てくる。
やはり、「風死す」は何度も再読したい本だ。

でも他の作品も読みたい……と迷っていたら、神保町PASSAGE書店に借りている棚から「千日の瑠璃 終結」1を、どなたかが購入してくださった。
この本を読んでいる人がいる……と思うと、釣られて読みたくなるものである。それに「千日の瑠璃」は、最初の方しか読んでいないし……と読むことにした。

「千日の瑠璃 終結」は見開き4ページで一日が一話になって進む形になっている。
出だしは「私は◯◯だ」と、人間でないものたちが少し不自由なところのある少年与一を物語っていく。

十月一日は「私は風だ、」で始まる。
「名もなき風」が語る「一段と赤みを増した太陽」、「不憫な老人」の死、老人の死体に温もりを求める「ちっぽけな野鳥」……。
このたった四ページだけで生と死が存分に語られているような充足感がある。

十月一日の最後は以下引用の、紅葉の描写で終わる。大町に住んでいる丸山先生だから浮かんでくる紅葉風景だと思った。

どこまでも天界に近い峰々の紅葉が燃えに燃える
  静寂と絢爛の錯綜に終始した
    なんとも優雅にして平和な
      掛け替えのない黄昏時のことであった


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」5頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月2日(火)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー「記憶の流れ」とは読むのも、書くのも楽しいものかもしれないー

作家の晩年の作品は、わりとこの登場人物はもしや作者自身なのだろうか……と、作者に似た登場人物を発見することがよくある気がする。

「風死す」は、丸山先生自身が「記憶の流れ」と言われているように、至る所に丸山先生の記憶が飛び散っている。ただし語り方、表現の仕方は様々な形に変えて……。

今まで丸山文学を読んできた読者なら、「こんなことを思っていらしたのだろうか」と感慨に打たれるかもしれない。
丸山文学を読んだことがない方でも、詩や短歌に関心がある方なら「こんな表現が、こんなレイアウトができるのか!」と興味をもって頂けるようだ。

以下引用文も、丸山先生の八十年間の人生のどこかの断片、いや瞬間を語っているのではないだろうか?

引用箇所の二番目の段落。
意味の世界(どういうことだろう?実在の社会ということだろうか?)の復活を「舌触りが良くない焼き菓子の」「ほぼ半分程度の美味さ」と味覚に関連づけて例えているから、あまり居心地の良くなさそうな世界を感覚的に捉えることができる。

三番目の段落。
「断じて触れてはならない」という「生の要点と骨子」とは何だろうか。最後に来ている「青みがかった夏の夜を堪能」が幾つものストーリーを示している気がする。

意気地なしにして陰険な 不逞な考えと行為が病み付きになった
  健全な社会から除外すべき奴輩の黒い影が急速に滲んでゆき


    意味の世界が徐々に復活して 舌触りが良くない焼き菓子の
      ほぼ半分程度の美味さを 自己破壊的な精神力で味わい

      生の要点と骨子については 断じて触れてはならないと
        声なき声が切言する 青みがかった夏の夜を堪能し


(丸山健二「風死す」1巻297頁)

小説では「記憶の流れ」に任せて……という形は珍しいと思うが、短歌では「記憶の流れ」を文字にしているような部分もあるのではないだろうか?
自分の記憶の流れを追いかけ文字にする過程は、案外楽しいものかもしれない……と、まずは短歌で「記憶の流れ」をあらわしたいと思う。
小説だと、やはり私なんかが試みるとバラバラになりそうだが、五七五七七のフォルムがある短歌なら、なんとか分解しないで少しは形になるだろうか……。
そう考えてみると、散文で「記憶の流れ」を記した丸山先生はすごいなあと思う。

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さりはま書房徒然日誌2024年1月1日(月)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読

ー言葉の冒険をしているようでしっかりイメージが湧いてくる!ー

詩人でありガン患者である主人公の思いを、「言表行為」という固い表現を使うことで、一見、冷静に観察しているようにも思える。
でも「言葉同士が互いに排除し合って」というように、ここまで言葉の冒険ができるんだな……と思える部分もある。


二段落め。死者や死後の世界を語りながら、どこかユーモラスな印象も受けるのは「後を絶たない無数の死者たち」「これまで通り揃って似たような処遇」「次々に呑みこまれていった異空間の実体と実情」という思いもがけない言葉で、死後の世界の不思議さを語っているせいなのかもしれない。

三段落め。主人公が自分を語る「悪や善とのべつ境を接しつづけてきた欠点だらけの未完成なる自我」というシンプルで的確な言葉。
その後に続く「隈なく吟味などせぬ」という意外な言葉が心に残る。

名もなき一介の詩人が 語り手としての言表行為から取り逃がしてしまった 哀悼の辞は
  苛々するほどまだるこくて 言葉同士が互いに排除し合ってばかりで 埒が明かず

  後を絶たない無数の死者たちが これまで通り揃って似たような処遇を受けながら
    次々に呑みこまれていった異空間の実体と実情がどうであっても少しも構わず

まず差し当たっての不可欠な心構えは 悪や善とのべつ境を接しつづけてきた
      欠点だらけの未完成なる自我を隈なく吟味などせぬという固い決意であり


(丸山健二「風死す」1巻287頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月31日(日)

篠田真由美「レディ・ヴィクトリア 完全版 セイレーンは翼を連ねて飛ぶ」を読む

ー19世紀後半へタイムトラベルを楽しませてくれると同時に、弱者への温かい視点を感じさせてくれる一冊!ー

10月に篠田先生にサインをしていただいた「レディ・ヴィクトリア 完全版 セイレーンは翼を連ねて飛ぶ」で2023年の読書は終わり、2024年へと踏み出すことに。年末と年始をまたぐのにふさわしい魅力あふれる本。


ストーリーを追ううちに、登場人物の会話に耳を傾けているうちに、19世紀後半のロンドンの、パリの、アメリカの南部の、ヴェネツィアの、そして日本の生活のディティールが怒涛の如く流れ込んでくる。

まるでタイムトラベルをしているかのように、当時の人間の気持ちで建物を眺めたり、娼館を歩きまわって娼婦の衣装を眺めたりしている。

でも、そんな楽しさが散りばめられた文を書くのに、どれほど調べ物が必要だったことだろう。
作者が調べものに費やしただろう莫大な時間を思い、その知識が魅力あふれる登場人物たちとなり語りかけてくれていることに感謝あるのみである。

各登場人物にむける作者の視線も、社会の底辺で生きる人たちへの共感に満ちた温かい視点が感じられ惹きつけられる。
例えば、以下引用文の主人公レディ・ヴィクトリアが娼婦について語る言葉にも、作者の底辺に生きる人への想いが伝わってくる。

生まれつき娼婦にしかなれない女などおりません。けれど他に生計を立てる方法を知らず、学ぶ機会も与えられないまま、辛い勤めを続けておのれの尊厳を日々の糧に換えていれば、心はいつしかすり減り疲れ切って、目の前の刺激と快楽で毎日をやり過ごすしかできなくなってしまう。

篠田真由美「レディ・ヴィクトリア 完全版 セイレーンは翼を連ねて飛ぶ」178頁)

作者が後書きで書いているように、主人、召使いという枠を超えて、互いを信頼し合い家族のように暮らす……という登場人物たちは、現実の歴史像からは異なるのかもしれない。
でも、そういう理想をかかげてストーリーをまとめる作者の信念には、今のような世であるからこそ、人と人のつながりとは何か……と問いかけてくる強いメッセージを感じる。

「主人と使用人が互いに信じ合い、互いを守る家族だと?」

篠田真由美「レディ・ヴィクトリア 完全版 セイレーンは翼を連ねて飛ぶ」322頁)

以下引用文も、この歳になると、ほんとうにそう……と頷き、慰められるような言葉である。

亡くなった人のことは想像してみるしかできないんですもの。死に際に会えなかったのは悲しいけれど、その分元気だったときの顔を覚えていられる。そしてその思い出や、残してくれたものを抱きしめることができる

篠田真由美「レディ・ヴィクトリア 完全版 セイレーンは翼を連ねて飛ぶ」219頁)

過ぎ去りし時代の日常風景に関する知識をさりげなく散りばめ、読み手を楽しませてくれる。
さらに今急速に失われつつある弱者への温かい視点……その豊かさを教えてくれる本書は、年末年始にふさわしい一冊であった。

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さりはま書房徒然日誌2023年12月30日

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー「風死す」のテーマの一つに「死」があるー

「風死す」の主人公は二十七歳の癌患者……ということで、「死」も「風死す」の大切なテーマなのかもと思う。

最初の引用文。死の世界の深さ、謎を表現する言葉が面白いと思った。
二番目の引用文。犯罪者として生死の境を彷徨う主人公に見えてくる死の世界を表現しているのだろうか?


「生死の境界線」「絶頂」「一刹那」「未来への逃亡経路」「行き詰まりを打破」という言葉に、作者が抱いている死生観が見えてくるように思う。


「現実を離脱」「新たな光の下に姿を現す幻想的な枠組み」という言葉からも、決してネガティブではない死生観が見えてくるように思う。

生の世界がそうであるように 死の世界もまた 深い謎に包まれた宇宙における構造や
  ある日を境に突如として滅した古代文明の象形文字などより 遥かに不可解であり

(丸山健二「風死す」278頁)

生死の境界線を越えるときに発生する 絶頂を迎えた陶酔の
  その一刹那に集約された 状況の巡り合わせたる運命を
    未来への逃走経路と解釈して 行き詰まりを打破し


    現実を離脱したことに端を発する癒しがたい弱点を
      新たな光の下に姿を現す幻想的な枠組みで補い


(丸山健二「風死す」279頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月30日

丸山健二「風死す」1巻を少し再読

=この墜落感は?と文字数を数えたら字足らずだった!ー

以下引用文。情景が見えてくるようで心に残るし、なんだか切ない墜落感が伝わってくる……なぜだろう?と考えてみた。

「実を結ぶ」(五文字)、「努力への」(六文字)、「架け橋は」(五文字)、「渡る途中で」(八文字)、「墜ちてゆき」(五文字)
ほとんど五、七、五、七ときながら、最後は大きく字足らずで五文字である。


この字足らずが不安定さをかもしているのだろうか……とも思った。

五七五七七というリズムにあてはめるだけで、何でもない文が生き生きとしてくる……と短歌を学んで思うようになった。
その安定のリズムを最後で崩しているから、墜落という不安定さが表現されているのかも……という気がする。

実を結ぶ努力への架け橋は
  渡る途中で墜ちてゆき

(丸山健二「風死す」1巻246頁)

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