さりはま書房徒然日誌2024年3月1日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー普段意識しない存在の意義を見つめる視線ー

十一月十六日は「私は空気だ」で始まる。
以下引用文にある空気が語る、自身の役割が私には新鮮である。「しっかり結び付けるために」「生と死を仲違いさせないために」……そう言われてみたらそうなのかもしれない。大きな視点にたち、人間以外の在り方に目を向ける姿勢が、従来の小説とは違うと思う。

さらには
   植物と動物を
      動物と鉱物を
        鉱物と植物をしっかり結び付けるために、

        あるいは
           生と死を仲違いさせないために
              仲介の労を執る。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」188ページ

以下引用文。そんな結び付ける働きをする「空気」が見えれば、世一は「絶望的なくいちがいなどひとつとして読み取っていない」存在なのだ。
普段「結び付ける」とか「くいちがい」とか全く意識しないで暮らしているので、そんな当たり前に意義を見出す視線が印象に残る。

しかしこの私だけは
   彼のなかに絶望的なくいちがいなどひとつとして読み取っていないし
      来るべき破局も予見しておらず
         彼ほどの現世的な原理に則った存在を他に知らないのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」189ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年2月29日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー重なり合うイメージが散文詩となってゆくー

「私は歌だ」で始まる十一月十五日は、もう誰からも歌われなくなった「まほろ町」の町歌が語る。

以下引用文。忘れられていた町歌を突然世一が歌いだした後に続く文である。


なぜ、この箇所が気になってしまったのだろう……と考える。


「青みがかった灰色の脳」と表現される少年世一の脳と「灰色が占めていた羽毛の全体に 青色が急速に広がり始めたオオルリ」「瑠璃色のさえずり」というオオルリが、形も、色も重なり合う。
このイメージの重なり合いが、「とりとめもない雑多な思考が 無秩序に渦を巻いている」世一が変化して、美しいオオルリに変化してゆくように思えてくるからではないだろうか。

つまり
   とりとめもない雑多な思考が
      無秩序に渦を巻いている

         少年世一の青みがかった灰色の脳のなかで
            なんの前触れもなく
               だしぬけに蘇生された。

思うに
   これまでは灰色が占めていた羽毛の全体に
      青色が急速に広がり始めたオオルリの
         まさしく瑠璃色のさえずりに
            強い刺激を受けたせいではないだろうか。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」183ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年2月28日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー虚と実ー

「私は鏡だ」で始まる十一月十四日は、「まほろ町が電話ボックスの三方に設置した 等身大の鏡」が語る。その鏡を覗き込んで反応する女たち、男たち、子どもたち、年寄りたち、犬ども……それぞれのイメージを捉え、ユーモラスに反応を語っている。私自身なら、そんな三方に等身大の鏡がある電話ボックスなんて入る気にならないかも……とふと思う。

以下引用文。世一に「誰だ、おまえは?」と訊かれた鏡が、訊き返す場面。
最後の「おのれから無限に隔たったおのれの世界へと帰って行った。」という言葉に、実像と虚像の関係とはこういうことなのかもしれない……となぜか納得してしまう。
そして世一という不思議な存在を感じる文だと思った。

だから苦し紛れに
   「おまえこそ誰だ?」と訊き返し、

    すると世一はにやりと笑い
       おのれから無限に隔たったおのれの世界へと帰って行った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」181頁 

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さりはま書房徒然日誌2024年2月27日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」を読む

ー悲惨さを打ち消すイメージー

十一月十三日の語り手は「快晴」である。快晴が見つめ語るのは「妻子ある男と私通」した挙句、青い花束を買って松の木で首吊り自殺をする女。「快晴」のとことん晴れ渡っている様子と女に象徴される何とも悲しい人間の世界、この対比が以下二箇所の「快晴」の描写によって際立っている気がする。

一年に一度
   もしかすると十年に一度
      あるかないかの
         透明度が尋常ではない
            完全無欠の快晴だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」174ページ

しかし
   私はいささかも動じず
      素知らぬ体を装って長時間をやり過ごし、

      美し過ぎる落日を迎えて
         夜の帷が降りてからも
            完璧さを保ちつづけ、

            一片の雲も
            ひとかけらの感傷も寄せつけなかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」177ページ)

以下引用文。無惨な最後をとげた女だが、「白い花束」「青い花束」「ぴかぴかの月」のイメージが清浄な世界を示しているようで、自殺の事実にも関わらず救いを感じさせてくれる。

泣くだけ泣いた女友だちが
   松の根元に供えた白い花束は青い野の花をさらに引き立たせ
      ぴかぴかの月にもよく馴染んでいた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」177ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月26日

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーエッセイ「言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から」と重なる世界ー

「私はカマキリだ」で始まる十一月十二日には、カマキリとトノサマバッタのやり取りが出てくる。

いつも見慣れている自然の一コマが、丸山先生の言葉で語られると、どこか別の次元に浮遊しているような、不思議な感覚を覚える。
自然界が幻想味を帯び、ユーモラスな光と声にあふれてくる魅力は、丸山先生が今noteで書かれているエッセイ「言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から」の世界に重なるものがある。
元々、丸山先生の中には、こういう世界が、言葉があったのだなあと思いながら読んだ。
以下引用文はカマキリに答えるトノサマバッタの箇所。自然を優しく見つめ、そこから自分の哲学を構築される丸山先生の視線を感じる。

そう愚痴った私に対して
   ただ生きているだけで自足の境地に浸ることが可能という
     全身に偉大な跳躍の力を秘めたトノサマバッタが
        おまえはいったい自分を何さまだと思っているのかと
        そう言って嗤い、

        ただ生きているだけという
           それ以上の充足はなく、

           最高の生涯の証しにほかならないとまで
              言ってのけた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」171ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年2月25日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を読む

ー漢字が多いのも意図があるのでは?ー

十一月十一日は「私は紋章だ」で始まる。
まほろ町に進出した「死んで元々だという見え見えの虚勢に色付けされた覚悟」を「黒い三階建てのビルに飾った」紋章が語る。何の「紋章」かは最後まで具体的に明かすことはないが、はっきりとどういう人たちであるのかが分かってくる書き方である。

この箇所は随分と漢字が多いのが印象的だった。紋章の金属感、普通の人を拒絶する雰囲気を漢字で表現しようとしているのだろうか。以下引用文もそうである。

正面切って世間に逆らい
   表社会を足蹴にし
      法律に真っ向から楯突く証である私は
         無難な日常を拒絶して
            常識や良識からおよそ掛け離れて生きざまを
               殊更強調して見せつける


(丸山健二「千にちの瑠璃 終結1)166頁 

以下引用文。悪のシンボルである紋章の光を撥ね返せるのは世一だけ……という描き方が、不自由なところのある世一の強さを表現していて心に残った。

因みに
   私が撥ね返す陽光をさらに撥ね返すことができるのは
      今のところ
         取り憑かれた難病を逆手に取って真骨頂を発揮する少年のみだ。

(丸山健二「千にちの瑠璃 終結1)169頁 

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さりはま書房徒然日誌2024年2月24日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーただ一つの文に心情を滲ませてー

「私は温泉だ」で始まる十一月十日は、四人の農夫たちがうつせみ山の麓に掘った温泉が語る。
湯に浸かる農夫たちを語り、次に登場するのは丸山先生を思わせる小説家。大事に飼っていたという黒のむく犬まで登場する。
黒のチャウチャウ犬を飼われていたようだが、残念ながらチャウチャウ犬の写真は見つからなかった。黒い犬で出てくるのはブルドッグ、ヨークシャーテリア、柴犬だ。チャウチャウ犬は珍しい犬のようである。

「仏頂面が板に付いた男」が「真っ黒いむく犬」を温泉に入れて洗う場面、どこかユーモラスである。
「バスタオルですっぽりくるんだ犬を抱えて」という言葉にも、先生の実体験が伺えるようで飼っていた犬への愛情が想像できる。(私の芝犬は身震いして、天日干しだったなあ……と反省する)

「どこでもいいどこかへと 混沌の影を落としつつも 大胆不敵な足取りで帰って行った。」というわずか一文に、作者の心情が余すところなく込められている気がした。

小説家であることを地元民にほとんど知られていない
   仏頂面が板に付いた男が
      ふらりと現われ、

      彼は連れてきた真っ黒いむく犬を
         私のなかにどっぷり浸けこんだかと思うと
            たわしを使ってごしごし洗いながら
               「それにしても汚いお湯だなあ」を

                   さかんに連発した。

そして
   自分では入ろうとせず
      バスタオルですっぽりくるんだ犬を抱えて
         どこでもいいどこかへと

            混沌の影を落としつつも
               大胆不敵な足取りで帰って行った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」164頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月23日(金)

村山槐多「京都人の冬景色」を読む

(絵は村山槐多「乞食と女」。行方不明の絵だそう。乞食は槐多自身、女は憧れの女性と言われている)

福島泰樹先生がNHK青山カルチャーで開講されている「文学のバザール浅草」は村山槐多について。
村山槐多の詩を朗読したりしたが、次の詩「京都人の冬景色」がとりわけ心に残った。
特に最後の「なんで、ぽかんと立つて居るのやろ あても知りまへんに。」。この最後の部分で、もしかしたら村山槐多が語ってきた冬景色は、死者の目、もしくは死者になりかけた者の目で、川という境界線に立って語られているのかも……と思い、また読み返してしまう。そうすると街の景色、空の色がまた別のものに思えてくる。

それにしても、この詩の朗読はとてもハードルが高そうだ。京都人が朗読したらどんな感じになるのだろうか。


京都人の夜景色

村山槐多

ま、綺麗やおへんかどうえ
このたそがれの明るさや暗さや
どうどつしやろ紫の空のいろ
空中に女の毛がからまる
ま、見とみやすなよろしゆおすえな
西空がうつすらと薄紅い玻璃みたいに
どうどつしやろえええなあ

ほんまに綺麗えな、きらきらしてまぶしい
灯がとぼる、アーク燈も電気も提灯も
ホイツスラーの薄ら明かりに
あては立つて居る四条大橋
じつと北を見つめながら

虹の様に五色に霞んでるえ北山が
河原の水の仰山さ、あの仰山の水わいな
青うて冷たいやろえなあれ先斗町の灯が
きらきらと映つとおすわ
三味線が一寸もきこえんのはどうしたのやろ
芸妓はんがちらちらと見えるのに

ま、もう夜どすか早いえな
お空が紫でお星さんがきらきらと
たんとの人出やな、美しい人ばかり
まるで燈と顔との戦場
あ、びつくりした電車が走る
あ、こはかつた

ええ風が吹く事、今夜は
綺麗やけど冷めたい晩やわ
あては四条大橋に立つて居る
花の様に輝く仁丹の色電気
うるしぬりの夜空に

なんで、ぽかんと立つて居るのやろ
あても知りまへんに。

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さりはま書房徒然日誌2024年2月22日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー言葉だから可能な表現ー

「千日の瑠璃終結」十一月九日は「私は絵葉書だ」で始まる。「平凡過ぎて不人気な絵葉書」が語り手となる文は、散文ならではの魅力が存分に伝わってくる。

これが映画なら膨大な情報量に埋もれて、絵葉書の存在は目にも入らないかもしれない。見えたとしても、ほんの一瞬で終わってしまうだろう。

だが「千日の瑠璃 終結」の絵葉書は、町長や世一の住んでいる家、その家族、バス停での姉妹の別離、新婚夫婦の食卓、孫と川遊びをする老女、旅館の宿泊客、離れ猿(前日に出てきた離れ猿だろうか?)、町の雰囲気まで語ってゆく。

映像は瞬間で終わってしまうもの。でも散文は語られてゆく過程を、読み手も想像力を駆使して楽しむもので時間がかかる……昨今、そんな楽しみ方がなおざりにされている気がする。

以下引用文。絵葉書が自分の写真に写されている世一の家を語る場面。「てくてく歩いて行く」「飛翔している小鳥の姿」「外套の裾が突風に翻って」という言葉のおかげだろうか、写真の中の世一の姿が動画の中にいるように健気に動き出す感じがする。

そして
   四季折々の光が
      ぼろ家に邸宅の雰囲気を授け、

      陽光を反射する窓という窓には
         逸楽の日々すら感じられ、

         これはまだ誰にも気づかれていないことで
            数ある私のなかの一枚に
               丘の斜面に刻まれた道をてくてく歩いて行く
                  今より幼かった頃の世一の後ろ姿が
                     点のように認められた。



どこか飛翔している小鳥の姿に似ていたのは
   たぶん
      外套の裾が突風に翻っていたからだろう。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」159頁)

以下引用文。

写真では中々表現できない歴史への非難、町の雰囲気までも言葉にすれば表現できるのかと思った。

さらには
   国家の栄誉のためと称して始められ
      惨敗に終わった戦争の残渣としての
         抒情的な暗さまでもが
            ちゃんと写っていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」161頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月21日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー語り手をどうするかで、双方の立場を語ることが可能になってくる!ー

「私は追放だ」で始まる十一月八日は、一方的に群れを追放された猿を「追放」が語る。

以下引用文。
「群れの猿」でもなく、「追放された猿」でもなく、「追放」が語ることで、両者の生き方の差が、どちらかに偏ることなく鮮やかに描かれている気がした。

そして
   どこまでも腹黒い列座の面々は
      猿として生きなくてはならぬ本筋を再三再四逸脱したという
         そんな理由をもって
            生き物として独立した一個の存在たり得ている
               少々アクの強いその猿と
                  きっぱり袂を分かつことに決めたのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」155頁

以下引用文。丸山先生は追放された猿に世一を重ね、自分自身も重ねているようにも思えてくる。

離れ猿は
   どこか獣的な身ごなしと叫び声に深い共感を覚えたのか
      少年にすっかり魅了されて


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」157頁

以下引用文。こういう情景描写は、ずっと信濃大町で暮らしている丸山先生だから生まれてくる文なのかもしれない。

ほどなくして谷という谷が
  猿らしく生きることしか知らぬ猿たちの嘲りの声でいっぱいに埋め尽くされた


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」157頁

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さりはま書房徒然日誌2024年2月20日(火)

丸山健二「風死す」1巻を少し読む

ー映画では出来ない、文章だから可能な表現ー

昨日、「千日の瑠璃 終結」について、映画好きな丸山先生は時々映画の場面を思わせるような情景をつくると書いた。
丸山先生は映画でこそできる表現、できない表現というものを考え、時として「映画ではできない表現」に言葉をぶつける気がする。


以下引用文も、言葉だから可能な表現なのでは……と思う。


主人公の目に「高層ビルの最上階から遠望される」風景。

映画なら一瞬で終わってしまう場面だろう。

でも言葉で表現されると、読み手の頭にその景色が浮かんでくるまで言葉と言葉を結びつけ、想像して……という複雑な過程を踏むことになる。
でも大抵、その過程が面倒くさかったり、実用的な文が良しとされる最近の国語教育の風潮を思えば理解されなかったりするのだろうが、この実に頭を使う面倒臭い過程こそが、人間である楽しみなのではないだろうか?

引用文に作者が込めた現代社会への批判的な視線……この視点こそが書く行為の根本姿勢ではないだろうか、現代日本では軽んじられているけど……と思ってくださる方がどこかにいたら嬉しいです。


このレイアウトがサイト上に綺麗に表示されるか心許ないのですが……。

「風死す」はそのうち神保町PASSAGE SOLIDA 詩歌の専門棚にある「さりはま書房」の棚に置く予定です。神保町散策の折、ちらりと立ち読みしに棚に寄って頂ければ幸いです。

そして 太古の昔から聳え立っているかのような高層ビルの最上階から遠望されるのは

  地球規模に蔓延する巨悪であり 忌避の対象としては充分な 異様な事物群であり

    産業予備軍の緊縛にはどうしても打ち克てない 弱体化が進み行く立場であり

      購買意欲をそそる 膨大な数の商品が 所狭しと並んでいる陳列棚であり

        繁文縟礼のきらいが多分にある 埋め合わせ的な お役所仕事であり

          高談雄弁が飛び交う抗議集会であり クスリに淫する風潮であり

            やけに軽弾みな言動であり 憤死の源であり 嘘偽りであり

              人口の稠密度がおそろしく高くて破滅が臭う空間であり

                寝食を忘れて最終兵器の研究に打ちこむ学者であり

                  隣接区域を残らず買占める無秩序な噴出であり

                    世に遍く知られている非現実的な夢であり

                      錯乱の光景であり 危険の源泉であり

                        煩いの種であり 薄ら笑いであり
                          性腺から出るホルモンであり
                            荒れそうな空模様であり
  
              才気煥発な子であり

                死ぬ巨木であり

朝霧であり

                  心的な錯乱
                    であり、

さもなければ 憂悶の情に堪えない 未来を完全に奪われてしまった不幸な時代であり

  生を威圧してやまぬ緩慢な死であり 詩才の限界を超出して精選された言霊であり

    その筋の専門家に貢献する鋭敏な鑑識眼であり 胸に響く忠告のたぐいであり

      持参金の多少によって評価される人物像であり 萌え出る若草の原であり

        やきもきさせられる問題解決のもたつきであり 避難先の花壇であり

          同業者の離間を企てたがる著名な経済人であり 直行の士であり 

            創作に筆を染めた芸術家であり 過酷な大地を好む命であり

              定かにはわからぬ他人の事情であり 権力の継承であり

                世を儚んでの入水であり 接岸する大型艦船であり

  国旗を先頭に押し立てて行進する愛国者であり

    みるみる肥立ってゆくまだ若い産婦であり

      親子の情を見せつけられる情景であり

        長年の努力が無になる瞬間であり

          苦しみながらの断末魔であり

            本震並の揺り返しであり

              煩多な力仕事であり

                魂の亀裂であり

                  涙声であり


                  軍事的危機
                  である。

(丸山健二「風死す」1巻540〜544頁)
   

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さりはま書房徒然日誌2024年2月19日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーその物に相応しいストーリーを楽しむー

昨日書いた文を読んでくださった方が、「丸山先生の『死』に語らせるという発想、それから五感を使った描写に新鮮さとユニークさを感じた。こういう発想はどこから生まれてくるのでしょうか」という趣旨の感想をくださった。拙文を読んでくださり有難い限りである。

「死」に語らせた場面は、無類の映画好きの丸山先生らしい、映画の一場面であっても不思議ではない書き方のような気がした。丸山作品には、時々、映画を思わせる場面が出てくることがよくある。
語ることのない物たちが語りながら進んでゆく……という「千日の瑠璃 終結」の設定も、その物ならではのストーリーもあり、表現もあるようで楽しみながら読んでいる。

さて十一月七日は「私はラジオだ」で始まる。それも「鉱石の検波器を用いた 高齢者に懐かしがられてやまぬラジオ」と年代物のラジオのようである。
そんなラジオの持ち主は「殊に軍隊時代の話は避けている男」である。
新しいラジオをプレゼントされても、古いラジオを手放そうとしない主のために見せるラジオの思いやりが、なんとも幻想味があって心を打つものがある。

たしかにこういうストーリーはどこから生まれてくるのだろうか……不思議である。

だから私は
   せめてもの感謝の意を込めて
      死んだり離れたりして遠のいた身内や戦友の声に
         限りなく近い声のみを選び出し、

それをより誇張して
            彼の心の奥まで送り届けてやり
               ときには涙を受け止めてやった。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」151頁

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さりはま書房徒然日誌2024年2月18日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー感覚のない筈の死体を感覚をフルに発揮して書けば……ー

十一月六日は「私は死だ」で冒頭が始まる。そのあとは以下引用文のように続く。この「死」がどうやって語り手になるのやら、一瞬戸惑う。

ついさっきまでこの世に在ることの喜びと
   限界の速度に挑むことの陶酔を満喫していた人間を奇襲した
      あまりに呆気ない死だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」146ページ)

だが、その後に続く以下引用文にあるように、死の場面が、音、体温、周囲の田んぼの景色と五感で具体的に語られるおかげだろう。抽象的な死が、急に身近な語り手に思えてくる。
しかも田んぼの一点として語ることで、視点が若者の死に否応なしに向けられる気がする。

死体のまわりの感覚をとらえ、しかも死体を広い空間に置いて眺めることで、映像が鮮やかに浮かんでくる。だから語り手が死であっても納得できる気がする。

私は今
   まだエンジンがぶんぶんと唸りをあげている最新型のオートバイと
      体温を急速に下げつつある若者と共に
         取り入れが済んでから大分経つ田んぼの片隅に
            無様にひっくり返っている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」146ページ


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さりはま書房徒然日誌2024年2月17日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー作者が色濃く投影されている!ー

「私は野良犬だ」で始まる十一月五日は、「明日のことなど考えたこともない 典型的な野良犬」が世一を語る。

作者の理想とする姿が野良犬に投影されているようでもあり、また世一にも作者の想いを見るような気がする箇所である。

以下引用箇所。野良犬が語る自身の姿。「自由の大きさと深さ」という言葉は、自由を大事にしている丸山先生だからこそ、心から発する表現のように思えてならない。

わが自由の大きさと深さを心底から理解してくれているのは
   世一ただひとりでしかなく、

   少なくとも私の方は
      世一の自由の素晴らしさを充分過ぎるほどわかっているつもりだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」143頁) 

以下引用箇所。読み手が抱いていた不自由なところのある世一……という姿をくるりと回転させ、考えさせ始める表現である。

彼はまさに人間でありながら
   同時に人間以外のすべてでもあって


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」144頁) 

以下引用は、この日の最後の部分。
「されど孤にあらず」は丸山先生のエッセイのタイトルだ。世一は、丸山先生自身と宣言する言葉のように思え、作者の世一への深い共感を感じてならない。

子供らしからぬ声で
   「されど孤にあらず」と
      そう言い放ったのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」145頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年2月16日(金)

酒を語る文がかくも違うとは!「千日の瑠璃 終結」「風死す」の酒が出てくる場面を比べる

最近、丸山先生がNOTEに書かれているエッセー「言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から」を楽しく拝見している。
エッセーの文体、「千日の瑠璃 終結」の文体、「風死す」の文体……それぞれが違っていて、それぞれ別の良さがある。
丸山先生の色んな部分を見る思いがするし、一人でこれだけ文体を書き分けるとは!と驚く。

さて「酒」を題材にしても、まったく語り方が異なるもの……と思った箇所を「千日の瑠璃 終結」と「風死す」から見てみたい。

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー場末感ー

以下引用文。「臓物のごとく入り組んだ袋小路」「焼酎」「売れ残りの干物」と場末感がたっぷりである。

私は酒場だ、

   臓物のごとく入り組んだ袋小路の一角にあって
      酒は焼酎
         肴は売れ残りの干物しか出さない
            田舎暮らしを侘びる連中のための酒場だ。


(丸山健二「千日の瑠璃」138頁)

以下引用文。そんな場末にやってくる者たちらしい描写である。

全ての文が「者」で終わって、普通なら重苦しさを感じる筈なのに重圧感がなく、かえってリズムが生まれている気がする。

なぜなのだろうか?分からない。

「者」の前にくる言葉がすべて音を発する言葉だから、重苦しい気が発散されたまま「者」という言葉に収束されるのだろうか?

最初が「怒鳴り散らす者」で、最後が「床にぶっ倒れてしまう者」とド派手な点も、重苦しさを消し去っているのかもしれない。

にこやかな笑みを突然消し去って怒鳴り散らす者
   唯一の得がたい体験を幾度となく語る者
      意気消沈の臭い芝居を延々とつづける者
         放心状態で後悔と怨念の歌をくり返し口ずさむ者
            髀肉の嘆を託つうちに床にぶっ倒れてしまう者、

(丸山健二「千日の瑠璃」138頁)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー踊り子たちの動きが見えてくる!ー

同じように酒を飲むなら、こういう体験をする方がいいなと思った。
延々と続く長い文が、酔眼をとおして眺める「踊り子たち」の舞い、揃いの着物、華やかな集団を表現している気がした。

春の月夜に酩酊して浮かれ歩こうと思い 暖かいそよ風が吹く河畔に沿った直後に
   満開の桜の下で差す手引く手も鮮やかに舞う 揃いの着物を纏う踊り子たちの
      それ以上望むべくもないほど華やかな集団と ばったり出会ったところで
         なぜかは知らぬが しこたま飲んだ酒の効き目はまったく認められず


(丸山健二「風死す」1巻534頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年2月15日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結 1」を少し読む

ー漢字一字でイメージがガラリと変わる!ー

十一月三日は「私は頽廃だ」で始まる。

「頽廃」も「退廃」も意味、読みは同じだと思うが、辞書で調べてみれば「頽」には「崩れる」という意味があり、「退」には「しりぞく」という意味があるのだろうか。
だから「頽廃」の方がより荒んだイメージが出るように思う。

世一が住む「まほろ町」を覆う「頽廃」が語る町の様子も、人々の様子も、「まほろ町」というよりも、日本全体を表しているような気がしてならない。

以下引用文。
「停滞の底に横座りになる」「気休めの言葉の上に 長々と寝そべる」という言葉が、「まほろ町」の住民の雰囲気をよく表しているし、ここまで飛躍して表現できるのかと参考になった。

住民の精神はとことん朽ち果てて
   もはや先行きの心配すらしなくなり
      深刻な難局に当面しているという自覚も持ち合わせておらず、

      絵に描いたような僥倖を待ちくたびれたかれらは
         痺れをきらして安寧もどきの停滞の底に横座りになるか
            さもなくば

               一時不安を解消する気休めの言葉の上に
                  長々と寝そべるばかりだ。


(丸山健二「風死す 終結 1」135頁 


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さりはま書房徒然日誌2024年2月14日(水)

丸山健二「風死す」1を少し再読する

ー思いもよらないイメージ同士がピッタリハマる不思議さ!ー

目に見えないもの、嫌なものをこういう形で表現するか……と新鮮な驚きがある。いつまでもズルズルと引きずっている感じ、どこか権威的な滑稽なところがあるイメージがピッタリ自己嫌悪と重なって、すごく印象に残る。これから映画やテレビドラマで大名行列の場面を見るたびに、この文を思い出してしまいそうだ。

大名行列の供揃いに似た形で連なり行く自己嫌悪のあれとこれを
  すっぱりと断ち切ってから

(丸山健二「風死す」1巻512頁)

以下引用文。近づく死を語る主人公の言葉。「ぽっかり浮かび」「どうでもよく」「崩れ果て」「滅びてゆき」という言葉に、「死が差し迫って」いる感じがよく出ている気がした。遠くに何かを眺めながら、周囲が崩れてゆく……という感覚になるのかもしれない。

今さらおめおめと帰れぬあの郷里が
  薄明の夜の片隅にぽっかり浮かび

  未見の地と人はどうでもよく

    胸に宿る実在の魂が崩れ果て

      正義が永劫に滅びてゆき

        悪魔の代弁者と化し

          答弁は玉虫色で



          死が差し迫って
            肉の情念が
              弱まる。


(丸山健二「風死す」1巻512頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月13日(火)

移りゆく日本語の風景

ー「お前」という言葉ー

「お前」という言葉の変遷については、はるか昔、高校時代に古典の時間でやったかも……という気もしなくもないが、復習を兼ねてもう一度。

文楽2月公演第3部「双蝶々曲輪日記」を観ていたら、見受けされた遊女・吾妻が姑に「さりながら。お前」と呼びかけていた。この時代の「お前」の使われ方は、現代とは違うのだなあと日本国大辞典で調べてみた。


「お前」の意味、用例、語誌ついてー日本国大辞典よりー

(1)目上の人に対し、敬意をもって用いる語。近世前期までは、男にも女にも用い、また、男女とも使用した。

*蜻蛉日記〔974頃〕中・天祿二年「御まへにもいとせきあへぬまでなん、おぼしためるを見たてまつるも、ただおしはかり給へ」

*打聞集〔1134頃〕「此所をば寺に立て給へ。をまへにゆづりまうす」

*うたたね〔1240頃〕「あな心憂。御まへは人の手を逃げ出で給か」

*歌舞伎・姫蔵大黒柱〔1695〕一「是はお前を祝ひましての事で御座ります程に、構へてお腹を立てさしゃんすな」

*浮世草子・世間娘容気〔1717〕一・男を尻に敷金の威光娘「お前にもあんまりこはだかに物おほせられて下さりますな」

(2)対等もしくは下位者に対して用いる。親愛の意を込めて用いる場合もある。江戸後半期に至って生じた言い方。

*俚言集覧〔1797頃〕「御前(オマヘ)。人を尊敬して云也、今は同輩にいふ」

*滑稽本・浮世風呂〔1809~13〕前・上「西光(せへかう)さん、おまへの頭巾(づきん)はいつもよりあたらしくなったやうだ。わたしが目(め)のかすんだせへかの」

*安愚楽鍋〔1871~72〕〈仮名垣魯文〉二・上「ネエおはねどん、おまへのまへだが、伊賀はんといふ人もあんまりひけうなひとじゃァないか」

*尋常小学読本(明治三六年)〔1903〕〈文部省〉五・六「おまへは、人が、なつ、かぶる麦藁帽子は、なんで、こしらへたのだか、しってゐますか」

*墨東綺譚〔1937〕〈永井荷風〉六「馴染の女は『君』でも『あんた』でもなく、ただ『お前』といへばよかった」

語誌

【二】の例は、江戸前期までは、敬意の強い語として上位者に対して用いられたが、明和・安永(一七六四~八一)頃には上位もしくは対等者に、さらに文化・文政(一八〇四~三〇)頃になると、同等もしくは下位者に対して用いられるようになり今日に至った。ただし方言としては、今も上位もしくは対等者を呼ぶところが点在する。


最後に…。

敬意の意味での例文の最後は1717年、対等の意味での例文は1797年のものである。わずか80年の間に「お前」の使われ方が敬意を表すものから、対等を表すものへ変化したのである。ずいぶん変遷が早いのではないだろうか。

「双蝶々曲輪日記」が最初に上演されたのは1749年、書かれたのも同じ年だろう。まだ1749年の上方では、「お前」という言葉は敬意を込めた表現だったことがわかるのではないだろうか。それから48年後には、「お前」は対等表現に変わるのである。

日本語という言葉はなんと移り変わりの激しい言葉なのだろうと思う。それだけ変化を受け入れやすい柔軟な言葉なのかもしれないが。
10年先、20年先の日本語はどこに向かっているのだろうか?きっと「お前」に匹敵する変化があるのではないだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2024年2月12日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーとても小さな物で人間を語る面白さ!ー

十一月二日は「私は茶柱だ」で始まり、「あしたへ希望を繋ぐことなど到底不可能な 貧相な茶柱」が世一とその家族を観察する。
茶柱一本でこうも家族の反応が違うのか……それぞれの精神状態を描けるのかと感心する。
以下引用箇所。母親の胃袋へと飲み込まれた茶柱……その目を通して語られる胃の内部や茶柱の様子がどこか物悲しくもあり、ユーモラスでもある。

茶柱一本でかくも人間を語ることができるとは……と思った。

粗末な朝食や
   悲哀の断片や
      儚い望みなんぞで
         ぎっしりと埋まった胃袋のなかであっても
            私はかなり無理をして
               垂直の姿勢を辛うじて保っていた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」133頁)


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さりはま書房徒然日誌2024年2月11日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

ー世俗の垢にまみれた存在とは対照的な世一!ー

十一月一日「私はバスだ」で始まる。
「観光客の数を少しでも増やすための窮余の一策」であるボンネットバスが、乗客や運転手や車掌、世一を語る。


噂好きで若い二人の乗客の会話に聞き入りながら、肝心な本質、「二人が駆け落ちしてきている」にまったく気がつかない……この車掌の愚かしさは、作者が嫌う田舎に暮らす人間特有のものなのだろうか?


若い二人を語る口調も辛辣である。

その場を言い繕うことに長け
   赤の他人に調子を合わせることが巧みで
      特にこれといって目途とするものがなくても易々と生きてゆかれる
         そんな手合いで


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」127頁 

若い二人がこんなに世間ずれしているだろうか……と疑問も湧くが。
そんな汚泥の中にあるような人間たちとは対照的なのが、最後に出てくる世一である。
若い二人がバスに手を振ると、世一は……

がらんとした通りを横切りつつある少年世一が
   私に成り代わって危なっかしい若者に手を振り返す。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」129頁 

「危なっかしい」若者も恐れる気配のない世一が、この世の狭苦しい常識を超えた大きな存在に思えてくる。



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さりはま書房徒然日誌2024年2月10日()

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー記憶の断片に自分と重なる顔を見つけることもあるー

スタイルはあっても、いわゆる起承転結できちっと収まるストーリーらしきストーリーがあまりない「風死す」……中々読み進まないという声もちらほら聞く。頑張ってストーリーとして理解されようとしているのではないだろうか……とも思う。

以下引用文にあるように、「通りすがりの他者の生の断片が」「不明な意味を有し」「順不同のまま」「迫り」なのだから、そこにストーリーを見つけようとしたら溺死してしまうのではないだろうか?

そうした 取り留めもない流浪の途中で偶然見かけた 通りすがりの他者の生の断片が
  まったくもって不明な意味を有し 順不同のままひとまとめにされて どっと迫り

(丸山健二「風死す」1巻507頁)

507頁の前の数ページでは、およそ40人の生がそれぞれ二行か三行で語られている。読んでいる方は道を通り過ぎる色んな通行人を眺める心地になってくる。

そのうち「あ、これは自分だ」という人物もいてハッとする。例えば以下の箇所。


たくさん語られている人物のうち、よく眺めると自分と似た顔を発見する……そんな楽しみもあるような気がする。

給料から天引きされることで実感が湧かず
  そのせいでいつまでも気づかぬ搾取を
    ふとした拍子に理解した労働者が


(丸山健二「風死す」1巻505頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月9日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー少年世一のピュアな行動ー

十月三十一日は「私は義手だ」で始まる。
キノコ狩の名人を支えてきた義手。

だがマムシを見かけた主人は鎌を大事にするあまり、義手で毒蛇を殺す。
その心無い行動に義手は傷つく。
義手だからこそ、ストレートに発散される傷心ぶりも、心動かされるものがある。

主人公・世一はキノコ狩りの名人の冷淡さとは対照的な行動をとる。そのピュアな部分が、「おのれの腕と見比べ」「実の籠もった握手」「言葉ではない言葉で別れを告げ」という言葉に強くあらわされている気がした。

全身の揺れが片時も止まらぬ
   奇々怪々にして気の毒な病人は
      きめ細かい川砂を丹念に擦りつけて私を洗い、

ついで
   自分のシャツでもって水気を拭き取り、

    それからおのれの腕と見比べながら
      実の籠もった握手を求め、

      日当たりのいい岩頭の上にそっと置いて
         言葉ではない言葉で別れを告げてから
            泳ぐような身のこなしで去った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」125頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月8日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー語らずして辛さを想像させるー

十月三十日は「私は嫌悪だ」で始まる。
嫌悪とは縁のなかった「心映えのいい人であった」女……。
彼女が身籠ると同時に腹に宿した「嫌悪」が、主人公・世一を、自分自身を語ってゆく。


この妊婦がどういう暮らしをしている人なのか具体的に作者は語らない。ただ冒頭の数行をもって、きっと辛い思いをしている人なのだろう……だから「心映えのいい人」が嫌悪を腹に宿すようになったのだろう……と推察させる。

そこから幾つもの切ないストーリーが、読み手の脳裏に生まれてくる気がする。

まだ若い妊婦の
   苛酷一辺倒の現世に向かってぽんと張り出した
      滑稽にして無様な形状の腹に宿る
         いかんともしがたい嫌悪だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」118頁)

妊婦の腹に宿る「嫌悪」が語る世一の姿は「さまざまな風を引き連れて」と相変わらず自由で不思議な存在である。
また「昼となく夜となく」という言葉にどこか不気味な存在でもあるように感じた。

半分ほど登ってから立ち止まって振り返った彼女は
   さまざまな風を引き連れて
      昼となく夜となく
         生地の隅から隅までを徘徊する少年を
            さも憎々しげにもう一度見やり


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」120頁
   


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さりはま書房徒然日誌2024年2月7日(水)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー二行の文に一つのストーリーが凝縮されている!ー

495頁「されど 命旦夕に迫った今となって 生々しくも思い出されてならないのは」という文のあと、「〜でもなく」という否定で終わる文が12続く。

そのあとで「たとえば」で始まる思い出される事柄を記した文が27続いた後、最後「かれらの記憶が 束になって 寄せる」(503頁)と締め括られる。

この辺りの文の形で戸惑い、分からなくなってしまう人が出るのかもしれない……。

でも、英語圏の小説家にはこういう文を書く人がいたような記憶がある。not で始まる文が連続、for example で始まる文が連続……という英文に苦しんだ記憶があるのだが。はて誰だったのだろうか。

戸惑うかもしれないが、慣れてしまうと12篇の小説が、27篇の小説が凝縮されて並んでいるようで楽しい。

以下引用は、そんな思い出されることを記した27の文のうちの一つである。

戦中の体験に不快の念を持って未だに翻弄されつづけながら
  皇室に冷然たる眼差しを投げかけられない高齢者であり


(丸山健二「風死す」1巻498頁)

こうした二行単位の文に記された死を間近に控えた青年の記憶……わずかな文だけで自分の頭の中にストーリーが浮かんでくるような気がする。


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さりはま書房徒然日誌2024年2月6日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー躍動感のもとになる言葉ー

十月二十九日は「私は畑だ」で始まる。
語り手は蕎麦畑。耕している禅宗のお坊さんたちのことを皮肉を込めて語り、しびれを切らして「落石のごとき突然」な世一の出現を待ちわびる。

丸山先生が普段眺めているだろう大町の光景が浮かんでくるような文である。
「蕎麦などはむしろ手を掛けてやらないほうが上質になる」(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」115頁)ということも知らなかったし、
禅宗のお坊さんたちが蕎麦畑で作業をする……という姿も思い浮かべたことがなかった。
大町では、もしかしたら目にすることのある風景なのかもしれない。

登場した世一が随分と躍動感あふれるのは「ジグザグに突っ走り」「好きなだけ踏みしだき」「びゅんびゅん振り回してという強い言葉にあるのかもしれない。
さらに「陽光を撥ね返すほどの暗い奇声」「人間である限りは何をしても無駄」……そんな世一の不可思議な姿を考えてしまう。

「神も仏もあったものではない そんな世一を制止できる僧侶は皆無だ」(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」115頁)という最後の言葉はどこかユーモラスであり、作者の宗教への考え方を反映しているようにも思う。

だしぬけに登場した彼は
   高い土地から低い土地へジグザグに突っ走り
      収穫寸前の蕎麦を好きなだけ踏みしだき
         棒切れをびゅんびゅん振り回して薙ぎ倒し、


         降り注ぐ陽光を撥ね返すほどの暗い奇声を発し
            人間である限りは何をしても無駄という
               そんな意味の笑声を撒き散らして

                  悟り澄ました空間を
                     大いにかき乱した。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」116頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月5日(月)

変わりゆく日本語の風景

ー昼食(チュウジキ)から昼食(チュウショク)へー

文楽公演1部「仮名手本忠臣蔵」を観に行った。文楽は江戸時代の上方の言葉のままで語られる。言葉のタイムトラベルを楽しめるのも文楽の醍醐味の一つだと思う。一方、歌舞伎は分かりやすさを求めてだろうか……言葉をほぼ現代のものに置き換えている。
今日「後に残るは昼食(チュウジキ)の握り飯」という官兵衛の義父の言葉が心に引っかかった。
昼食(チュウジキ)は、今では殆ど使われない言葉のように思う。いったい、どんな風にして昼食(チュウジキ)から昼食(チュウショク)に変わっていったのだろうか?

日本国語大辞典でまず昼食(チュウジキ)の例文を調べてみる。

室町時代から明治時代まで使われていたようで例文がある。


*運歩色葉集〔1548〕「昼食 チウジキ」

*日葡辞書〔1603~04〕「Chùjiqi (チュウジキ)。すなわち、ヒルイイ。または、ヒルメシ〈訳〉正午の食事」

*浮世草子・新色五巻書〔1698〕二・一「風呂敷より握飯の昼食(チウジキ)喰しもふと始まり」

*破戒〔1906〕〈島崎藤村〉一一・一「昼食(チウジキ)の後、丑松は叔父と別れて」


次に昼食(チュウショク)の例文を調べてみる。
昭和以降の例文しかないから、もしかしたら昼食(チュウショク)という読み方は比較的最近になって生まれたのかもしれない。


*苦心の学友〔1930〕〈佐々木邦〉若様の御手術「先生から予め注意があったので昼食(チュウショク)は取らない」

*白い士官〔1930〕〈阿部知二〉五「昼食(チウショク)がをはった。堀田はうとうとゐねむりする」


さらに日本国語大辞典「昼食」の語誌の箇所にあった説明を要約すると以下。どうやら食生活の習慣と共に表記も変化してきたようである。


古代の日本人の食生活は、現在とは異なり朝食と夕食の二食であり、昼に食べる食事は間食として意識されていた。これが正午(日中)に食する 食事と時間的に近く、朝と夕の中間ということも表わすので朝食と夕食との間にとる食事 の意が生じた。後、次第に三食が一般化したことにより、朝食、夕食に対して昼にとる食事ということで、同音の「昼食」とも表記されるようになったと思われる。(日本国語大辞典より要約)


習慣と共に言葉も変化してゆく。孤食、飽食の現代、食を表す言葉はどう変化するのだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2024年2月4日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーイメージを考えることで余韻が生まれる気がするー

「私は扉だ」で始まる十月二十八日。

まほろ町に開設された「小型の火器を懐に帯び」「いずれもが欠損している異様な手」の男たちが出入りする事務所の扉が語る。


常識の範囲で生きる「まほろ町」の住民たちが男たちや事務所を恐れる様子、恐れられている男たちの様子……そうしたものがどこかユーモラスに書かれている。


そんな町民たちが恐れる事務所の扉に落書きをする世一は、どこか不思議な存在である。


最後が「その絵は鳥のようでもあり髑髏のようであった」とあるので、世一が飼っているオオルリの姿なんだろうか、それが髑髏に見えるとはどんな形?と思い浮かべ、しばし余韻を楽しんだ。

ところが
   夜更けになってやってきた
      不治の病のせいなのか
         怖れというものを知らない少年が
            拾ったチョークを使って
               私の面に落書きをし


               その絵は鳥のようでもあり
                  髑髏のようであった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」113頁)  

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さりはま書房徒然日誌2024年2月3日(土)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー「詩」を語っているような言葉ー

以下引用文。
「魂の上澄みをすくって飲んだようなそんな思い」という箇所で、「魂の上澄み」ってどんな色、どんな味?と感覚に訴えてくるものがある。


「雨といっしょに舞い降りた 霊像のごとき雅な詩」という箇所、「雨といっしょに舞い降りた」という感覚が、詩人の主人公が詩を語るのにぴったりな表現だと心に残る。


「まろびゆく世界をかく在るべき姿に変えて」という表現も、 詩の働きをよく表しているように思う。


「銀灰調の光」も詩語のイメージだし、「心不在の嘆き」という語も一瞬どういうことだろうと考えたが、本来の詩は言葉が感情より先頭に立って紡いで行くものなのかも……と思った。

        こ
       う言っ
      てよければ
     魂の上澄みをす
    くって飲んだような
   そんな思いで 清廉な心
  地に浸ることができた 雨と
 いっしょに舞い降りた 霊像のご

  とき雅な詩が まろびゆく世
   界をかく在るべき姿に変
    えて 銀灰調の光が
     速やかに流れ去
      った 心不
       在の嘆
        き 


     (丸山健二「風死す」1巻)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーボートにこれほど思いを込めるとは!ー

十月二十七日「私は交情だ」と始まる。
二人の老人の間に続く交情が、老人を、まほろ町の人々や風景、世一を語る。
そのなかでも、まほろ町の湖に浮かぶボートを語る文に、ありふれた存在にかくも見えないロマンと性格を感じるのだろうか……と作者の視線が心に残った。

湖上に浮動する物体は
   死者の魂を好んで運びたがるボートで
      かなり大胆な自己顕示欲であるにもかかわらず
         菊の花の鮮やかさに圧倒されて
            人々の目に止まることはない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」109頁

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さりはま書房徒然日誌2024年2月2日(金)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー同じアウトサイダーを語っても文体が違う!ー

「千日の瑠璃」の主人公・世一は脳に麻痺のある少年。
「風死す」の主人公は犯罪者にして詩人、癌患者の二十代。
どちらも、この世では外れて生きている者たちである。

だが二人を語る文体はガラリと変わっている気がする。どう違うのか問われると困るのだが。

以下引用文。主人公が自分自身を語っている箇所だが、理屈っぽい生意気でギャングみたいな姿が浮かんでくるのは、「激動の二十一世紀の目抜通り」とか「ド派手な街着を纏って闊歩する」「暗喩を用いての説明が可能な」など大胆な言い回し、漢字を多用しているせいなのだろうか?

とにかく、また「風死す」の世界に戻ってこれて嬉しい。

下劣な発想と さもしい心根とに大きく左右される 激動の二十一世紀の目抜通りを
  家族や社会に隷属していない立場を表わす ド派手な街着を纏って闊歩する


(丸山健二「風死す」1巻479ページ

かくして俺は直喩を用いての説明が可能な 単純明快に過ぎる流しの犯罪者と定まって
  平野に点在した村落などにはまだまだ残されている醇風美俗を知りつつも荒れ狂い

(丸山健二「風死す」1巻481ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年2月1日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー腐った牛乳の怒り、哀しみを吹き飛ばす世一のピュアな心ー

十月二十六日「私は牛乳だ」で始まる。
語り手は停電のせいで腐敗してしまった牛乳。そんな己を飲んだ世一を眺めながら、牛乳はユーモラスに怒り、やがて自分と世一のことを哀れにも思う。
だが、そんな腐った牛乳の思いを吹き飛ばす世一の行為が……。
あらためて不自由な少年・世一に寄せる作者の想いの強さを感じる展開だった。
以下引用文。腐った牛乳がユーモラスに怒りを語る。

なんだか酷く汚らしい胃袋に流しこまれた私は
   その腹いせに
      ここ一両日中に爆発的に数を増やした
         命取りにもなりかねぬ
            幾種類もの菌をぶちまけてやり、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」103頁

以下引用文。腐った牛乳は自分と世一のことを悲観的に捉えるが……この後の世一のある行為が、腐った牛乳から毒を消し去る。

無価値な者と無価値な物というマイナス同士が結びつくことで
   共に仲良く消え失せる
      これこそが理に適った淘汰ではないかと


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」104頁

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さりはま書房徒然日誌2024年1月31日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーそっと言葉が想いを、場面を紡いでゆくー

十月二十五日は「私は虹だ」で始まる。

「ありふれた」虹が、人の世をを語り、だんだん自分へと近づこうとしてくる世一、定年退職した元大学教授の二人に対象を絞り、ついに最後には諦めることのない元大学教授ただ一人を語る。

広い世界から、ぎゅっと焦点をフォーカスしてゆく最中に、吹き抜ける風のような世一の存在も「万物とよしみを通じている」と虹ならではの見方が印象的である。


以下引用文。「限りない索漠さを秘めた冷たい雨」が降った後だからなのだろうか、「不整合だらけの地上」という言葉がずしりと心に重く響く。

最後の「振り仰ぐ」という言葉に、「仰ぐ」だけではなく「振り仰ぐ」にしたからこそ、ちっぽけな人間が広大な空にかかる虹を眺める様子が浮かんでくる気がする。

限りない索漠さを秘めた冷たい雨がようやく上がって
   不整合だらけの地上は
      ふたたびいくばくかの可能性を孕んだ陽気な光に
         遍く覆われてゆき、

         そして
            いつまでも正義の大道を踏み行えぬ者や
               どうやっても晩節を全うできそうにない者が

                  さも眩しげに顔をしかめて
                     私を振り仰ぐ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」98頁

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さりはま書房徒然日誌2024年1月30日(火)

ポール・ヴァレリー「ムッシュー・テスト」より序(清水徹訳)を読む

ー読んだり書いたりする行為の根本にあるものー

以前、酷い翻訳物に連続で遭遇したことが祟って、ずいぶん海外文学から遠ざかっていた。
でもヴァレリーは、セットの海辺の墓地詣でしたくらい好きだし、神保町で棚を借りているPASSAGEの棚の名前もポール・ヴァレリーだし……と、勝手に縁を感じて読んでみることにした。
清水徹訳は細かなニュアンスまで忠実に捉え、しかも日本語として美しく訳されているように思う。

「ムッシュー・テスト」は、ヴァレリー唯一の小説だそうである。「序」を読んだら、チャレンジフルな精神がどっと流れこんできて、幾度も繰り返して読む。

以下引用文に、私たちが読んだり、書いたりする行為の根本的動機を見るように思う。

自分が手に入れたもっとも稀なものを自分の死後にまで生きのびさせようとする奇怪な本能の本質ではないか。

(ポール・ヴァレリー「ムッシュー・テスト」清水徹訳11頁

ヴァレリーが「ムッシュー・テスト」と名付けた不思議な主人公。
以下引用文は、読み進めるうちに次第に重なってくる読み手と作中の人物の在り方を示しているようで興味深い。

なにゆえにムッシュー・テストは不可能なのか?ーーーこの問いこそは彼の魂だ。この問いがあなたをムッシュー・テストに変えてしまう。というのも、彼こそは可能性の魔そのものに他ならないからである。自分には何ができるか、その総体への関心が彼を支配している。彼はみずからを観察する、彼は操る、操られることをのぞまない。

(ポール・ヴァレリー「ムッシュー・テスト」清水徹訳12頁)

以下引用文。
そんな摩訶不思議なムッシュー・テストを語るには、どういう言葉を道具として使えばいいのだろうか……という問題にヴァレリーの考えが示されている。
これを実行した本作品、いったいどんな短編が繰り広げられるのか楽しみである。

このような怪物について何らかの観念をあたえ、その外見と習性を描写すること(途中略)、それは、無理を強いた言語、ときには思い切って抽象的な言語を創出する(途中略)。くだけた表現も同じように必要(途中略)。俗悪な表現やしまりのない表現もすこしばかりは必要(以下略)。

(ポール・ヴァレリー「ムッシュー・テスト」(清水徹訳12頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月29日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー無邪気でもあり、一風変わっている少年世一ー

十月二十四日は「私はハングライダーだ」で始まって、都会の若者が操るハングライダーが田舎町まほろ町の住民の様子、隙あらば……と墜落の機会を伺っている自然を語り、やがて少年・世一に気がつく。

ハングライダーが迷惑げに語る世一の天真爛漫さに、心がしばし明るくなってくる。

二番目の段落「この際 言うべきことは つまり」という短い語句を行を変え連ねることで、ハングライダーの葛藤を感じてしまう。

少年・世一のことも、「鳥の羽ばたきを執拗に真似る少年」「私から離れようとしない羨望の塊」と無邪気とも、どこか一風変わったところがあるようにも語っている。

世一の熱狂ぶりとハングライダーのクールさが妙に心に残った。

鳥の羽ばたきを執拗に真似る少年の熱い思いが
   私を追いかけては付き纏い、

   ほどなく嬉しさを通り越してありがた迷惑を覚え
      この際
         言うべきことは
            つまり
              どうやったところで人は鳥にはなれない現実を

                 きちんと言っておいたほうがいいと思い、

                 ところが
                    私から離れようとしない羨望の塊は
                       まったく耳を貸さない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」96頁

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さりはま書房徒然日誌2024年1月28日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

ーささやかな一語に作者の皮肉を込めてー

十月二十三日「私は脳だ」で始まり、少年世一の脳が語る。
引用文の最初、「世一」と繰り返すことで、世一の存在を強烈に主張している気がする。
さらに「複雑怪奇」から漢字の多い言葉を使うことで、脳らしさ、複雑な機能が伝わってくる。

二番目の段落「健常者と称する」という言葉に、そう言う人達への作者の冷ややかな視線を感じる。

世一の脳、健常者と称する人たちを並べて語ることで、前者の素晴らしさ、後者の欺瞞を描いているのではないだろうか?

いささかの麻痺はあっても
   世一を世一たらしめ
      世一の自我の拠り所となっている
         複雑怪奇な機能にして
            単純明快な構造の
               美術作品にも匹敵する脳だ。


世一の感情作用が完全に鈍麻していると
   実の親ですらそう誤解するのは
      ひとえに手足や表情筋の動きがてんでんばらばらで
         その手の病魔に浸されていない
健常者と称する人々の日常表現とは
                 大きくかけ離れているからだろう。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」90頁 

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さりはま書房徒然日誌2024年1月27日(日)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー目に見える筈のないものが見えてくる不思議ー

「胸中の母屋に掲げっぱなしだった黒い反旗」が、だんだん動きを止め、消えてゆく……というイメージに託した心の動きがひしひしと伝わってくる。いちいち悲しいとか、苦しいとか書かれるよりも、ただ「黒い反旗」に託して書く方が、心に喚起されるものがあるように思う。

「哲学的抱負の上にぐっと張り出した心の無用な苦痛」という抽象的概念を表す言葉もなぜか情景が見えてくる。「ぐっと張り出した」という建築物を語るような表現ゆえ見えてくるのだろうか?

「魂の奥で密やかに咲く象牙色の花や 大宇宙の最古の星が」という箇所も、見たこともないものが見えてくるようで心惹かれる表現である。
「象牙色」という実際にある色を用いながら、「象牙色の花」という目にしない色表現をすることで、現実には見えない「泣きぬる風を吹かせ」という不思議な光景を見させてくれているような気がする。

養父母を亡くしてからずっと胸中の母屋に掲げっぱなしだった黒い反旗が
  まったくと言ってもいいほどはためかなくなってだらりと垂れ下がり


  のみならず 今この瞬間に その旗自体が消えてなくなりつつあって
    哲学的抱負の上にぐっと張り出した心の無用な苦痛が希薄になり


    柔弱な魂の奥で密やかに咲く象牙色の花や 大宇宙の最古の星が
      ねっとりと粘つく情念を伴った 泣きぬる風なんぞを吹かせ

(丸山健二『風死す」1巻477頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月26日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結 1」を少し読む

ー紅葉、尻……それぞれの色を表現する言葉の面白さー

「千日の瑠璃 終結」十月十二日は、「私は木漏れ日だ」で始まる。
「木漏れ日」が語るのは、自然界の温もりや生命の逞しいシステム。それと相反する人間界の醜悪さを代表する屋外で抱き合う男女の姿。見つめる世一。
「紅葉」を「どぎつい色」と表現するのも初めて見る気がするし、「木々の葉を縫って進む私」という言葉に「木漏れ日の姿が見えてくる。
それとは反対に、男女の「剥き出しの尻」を「安っぽい紙のごとき白さ」と表現する言葉にも、人間への嫌悪感が伝わってくる。

例年になくどぎつい色に紅葉した木々の葉を縫って進む私は
   ふかふかに降り積もった落ち葉や
      僅かな熱源も見逃さない
         したたかなテントウムシを温めてやり


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」86頁)

互いに相手の年相応の肉体を激しくかき抱き
   下劣な魂を貪り合う
      どこか哀しげな雰囲気を醸してやまぬ男女の
         剥き出しの尻を
            安っぽい紙のごとき白さで光らせる


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」86頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月25日(木)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー行が進むにつれて平仮名濃度がアップして文が軽やかになってゆく!ー

以下引用文は、33字のうち平仮名は13字だけ、残り20字は全て漢字である。
最近の国語の教科書が目指す分かりやすい実用的な文章とは、真っ向から喧嘩をしているような文である。
こんなふうに漢字にこだわることで、文にどんな影響があるのだろうか?


まず私の場合、意味のわからない、あるいは読めない漢字を調べるから、必然的に文章に向かい合う時間が長くなる。


それから漢字には、特に普段使われていない漢字には、意味だけでなく部首や形から、イメージを膨らませる効果があると思う。
だから短い語数でも無限に世界が広がってゆく気がする。


でも、これだけ漢字が多いと、普通は硬くて読みにくい文になりそうな者だが、そんなことはなく流れるように進んでゆく。

なぜか?

最初の行の平仮名4字/全体13字
二番目の行の平仮名4字/全体11字
最後の行の平仮名5字/全体9字


各行の平仮名の数は変わらないようでいて、行が進むにつれて平仮名濃度が濃くなってきている。だから風が抜けるような軽やかさが増してきているのかもしれない。

日本語は漢字、平仮名のリズムで成立している複雑な言葉(本来は)なんだと思った。

都邑に漲る空虚な喧騒の最中
  抒情的で不羈なる譚詩が
    次から次へと浸出し


(丸山健二「風死す」1巻466頁)

ちなみに読めなかったり、意味が分からなかった言葉を日本国大辞典で調べて以下にメモ。


ふ‐き 【不羈・不羇】

(形動)

(「羈」「羇」はともにつなぐ意)

しばりつけることができないこと。束縛されないこと。あるいは、才能や学識があまりにもすぐれていて、常規では律しにくいこと。また、そのさま。


たん‐し 【譚詩】

({フランス}ballade の訳語)

中世ヨーロッパの吟遊詩人によって歌われた歌謡の一形式。多くは神話・伝説に基づいた物語の要素を伴うが、文芸の分類では抒情詩に属する。譚歌。バラード。

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さりはま書房徒然日誌2024年1月24日(水)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー今日の状況を語るような文ー

まさに今日、私たちが置かれている状況を語るような文が心に残る。
二番目の「遠い遠い」と重ねることで、実現不可能な未来への悲しみが強く伝わってくる気がする。
「平和」が「非現実の典型となって眼前に横たわり」という抽象的な主語が具体的な動作をとる形の文……なぜかダリの絵が浮かんできた。

人類においては至上至高の情熱の発露であるやも知れぬ 宿命的な戦争行為がもたらす
  破滅に直結して破局の一端を担う 現世の恐ろしさに気づいてもどうしようもなく


  永遠の安寧を吹きこんでくれ 晴朗の心地が遠い遠い未来までつづくはずの平和が
    透徹した理解など断じて得られない 非現実の典型と相なって眼前に横たわり


(丸山健二「風死す」1巻450頁)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーどこかユーモアのある表現ー

十月二十日「私は写真だ」と、まほろ町町役場を飾る六十年前の航空写真が語る。その口調は、田舎の社会にかなりうんざりしている。航空写真も、不自由な少年世一の不思議さに気がつく。

うたかた湖の北の外れに
   ぽつんと点のように映っている淡い影が
      鳥の形に似た人間の屍であるなどと
         そう言って少年が騒ぎ立て

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」81頁)

十月二十一日「私はボートだ」とおんぼろボートが語る。世一を憐れんだボートは、一緒に湖底に沈もうとするが……。
「遠慮がちに差し出す死の優待券」という表現に、なんとも言えないユーモアがある……英語圏の小説なら、こういう表現はある気がするが、日本の小説では珍しいのではないだろうか?

私が遠慮がちに差し出す「死の優待券」には目もくれず
   不自由な体ながらも元気いっぱい生の道を歩みつづけていた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」85頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月23日(火)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー天体という大きな視点で見つめる魅力ー

丸山作品の魅力の一つに、太陽や月、地球という天体を向いて語る視点があると思う。
矮小な人間というものを語っていたかと思えば、次の瞬間には天体へと視点がジャンプして、限りなく大きな存在から人間というものを見つめる……そんな大きな存在である「創造と破壊の恒星」太陽を語る引用文の言葉に、抗えない運命の中で生きている人間というものが見えてくるのではないだろうか。

まばゆい限りの中天に悠々と案座して 大袈裟な玉座に居座ったまま
  愚かなる人類を救いつづけ はたまた 大破局へと導き続ける
    創造と破壊の恒星は 核心を突いた言葉で世の空爆を強調し

(丸山健二「風死す」1巻417頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月22日(月)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ーストレートに言わない、漢字のイメージを効かすって大事ー

引用文は詩人にして犯罪者、末期癌の20代を描いた箇所。
「野生種の堅果を想わせる目玉」という表現に、「どんぐり眼」とかストレートに言わない方が色々想像して楽しめると思ったり、「野生」「堅」という漢字が主人公のイメージを喚起して、次の「鋭い視線」にすんなり移行する気がしたりした。

それでもなお 野生種の堅果を想わせる目玉をぎょろつかせつつ 鋭い視線を飛ばして
  取りとめもない愛おしさを覚えずにはいられぬ ありとあらゆる対象と物象を物色し

(丸山健二「風死す」1巻412頁)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー月が語るからこそ納得ー

十月十八日の箇所は、「私は月だ」で始まる。
以下引用文。月が語る己の姿に、いつも夜空に浮かんでいる身近な存在でありながら、私達から遠いところを静々と進んでゆく……月の神秘性をあらためて意識する。

久遠の時の流れに沿って
   どこまでも現世の縁を滑って行く私は
      さかしらなきらめきを発する流れ星を牽制してやり、

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」70頁)

そんな月が語る世一……。月が語るからこそ、ありのままを語る残酷さ、世一の他にはない個性……という二つが、矛盾せずにあるのだと思った。

将来において
   一人前の体を持てるかどうか極めて疑わしい
      この少年は、


      私と他の星々を分け隔てなく扱って
      区別もしなければ差別もせず、


      さりとて
         双方を同一視することもない。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」73頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月21日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

ー「私は黄昏だ」……黄昏が時に美しく時に冷酷に語るー

十月十七日「私は黄昏だ」で始まる。湖で亡くなった世一の祖父を偲ぶ老人に黄昏が声をかけたり、見つめたり……。
以下引用文。
「転げ落ち」るわけのない「嘆声」なのに、なぜかハッと納得する表現である。「転げ落ち」る筈も、「運ばれてゆく」こともない嘆声のシルエットが黄昏にくっきり浮かんでくる。
「親しかった友の来世への安着を知らせる波」という表現に、なんとも優しい心を感じる。
黄昏は見えないものも美しく見せながら、でも最後には「むさ苦しい死に損ないを一挙に払いのけるや」と冷酷でもある。
時に美しく、時に冷酷……と自然界がそのまま書かれている気がした。

すると
   あらぬ方を見やっていた老いぼれの嘆声が
      眼前の砂浜に転げ落ち、

      めっきり視力が衰えた当人を無視して
         沖合へと運ばれてゆき、

         しばらくの後、
            親しかった友の来世への安着を報せる波が
               ひたひたと足元に打ち寄せる。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1)68頁 


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さりはま書房徒然日誌2024年1月20日(土)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー言葉がつないでゆくイメージの美しさよ!ー

1巻396ページ「唄え!」の前2ページに配置された菱形部分は、片側が死について、片側が生と格闘する主人公についてイメージを喚起するように書かれている。

引用箇所について。
まず死が聴覚的、絵画的に語られた後、犯罪者である主人公と重なる悪のイメージへと展開してゆく。
「個体の終末」「雨音にかき消され」「悪事は狂的な信仰」「古びた港まで曳航される老朽船」この言葉による連想の仕方が、意識下に深い映像を送り込むようで面白い……というか、この送られてくる映像がすごく気に入った。


「古びた港」から「掃き溜め」と、飛躍しているようで「水っぽくてゴタゴタしている」というイメージがつながり、無数の生の泡が見えてくる気がする。


それから生の没義道ぶりを語って、次のページの犯罪者の主人公へと繋げていっているのではないだろうか?


そんなふうに言葉の連想ゲームで脳内に不思議な絵画が描かれるひとときを楽しんだ。

         死
      は個体
     の終末とい
    う声が雨音にか
   きけされてゆく 悪
  事は狂的な信仰 さもな
 ければ 古びた港まで曳航さ
れる老朽船 ともあれ 掃き溜め
 に棄てるほどある生命は 法
  に即しての行為をけっし
   て求めず 自由に敵
    対するものとし
     て排除した
      がるの

       

(丸山健二「風死す」1巻

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さりはま書房徒然日誌2024年1月19日(金)

変わりゆく日本語の風景 ーういなやつー

文楽にしょっちゅう出てくる言葉の一つに「ういなやつ」がある。
「うい」は漢字で書くと「愛い」で、意味としては「健気な」という意味があって、年下を褒めるのに使われるようだ。

「近頃河原の達引』では、こんな風に会話文で使われている。

ムムでかした愛【う】いなやつ

(「近頃河原の達引 四条河原の段」より)

「ういな」という語感のせいだろうか? 他の言葉に置き換えても、しっくりしない気がする。「ういな」という言葉のリズムには、相手への愛情が滲んでいる気がする。

日本国語大辞典で「うい」の意味、用例などを調べると、以下のように書かれている。

好ましい。愛すべきだ。殊勝だ。けなげだ。主に目下の者をほめるのに用いる。

*浄瑠璃・本朝三国志〔1719〕一「うゐわかい者。出かした、出かした」

*浄瑠璃・義経千本桜〔1747〕二「今の難義を救ふたるは業に似ぬうい働」

*浄瑠璃・本朝二十四孝〔1766〕四「それを取得にお抱へなされて下されうなら、望んでなりと御奉公仕度きお屋敷。ホホ出かした愛(ウ)い奴」

ヨキ、ヨイ(好)の転か〔大言海〕。

(日本国語大辞典より抜粋)


浄瑠璃文に出てくる「ういなやつ」に滲む愛情は、どうも現代の日本語には見つけることが出来ない気がする。

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さりはま書房徒然日誌2024年1月18日(木)

変わりゆく日本語の風景

ーかつて「道理」という言葉には共感があったのではないだろうか?ー

文楽は、江戸時代の上方の言葉のまま上演されているそうで、言葉のタイムトラベルを楽しむ楽しさもある。

ずいぶん変わった言葉もあれば、言葉そのものは変わっていないけど、ただ意味合いというかニュアンスがだいぶ異なっていると思う言葉もある。


「道理」も、形は現代と同じだけど、使われ方が違うのでは……という言葉の一つである。


文楽作品では、若い娘も、ヒロインもやたら「道理」を連発する。
同じ言葉を連発されると、普通うんざりしてくるのだが、「道理」にはそれがない。
まず若い娘も、ヒロインも日常会話の中で「おお、道理、道理」とよく繰り返す。そんな使われ方からして、現代の「道理」の少し硬いイメージとは違うのではないだろうか……という気もしてくる。

道理の意味は現代と違いはない気もするが……

正しいことわり。筋道。そうあるべきこと。

(小学館全文全訳古語辞典)

日本国語辞典の説明の最後の一文に、「道理」という言葉が文楽作品で発する哀しさがあるのだろうか……という気もする。
もしかしたら「世間一般には分かってもらえないかもしれないけれど、私には分かります」という気持ちも込められた言葉だったのではないだろうか。

現代では、物事の正しい筋道・論理・必然性等を広く指すが、種々の物事についての個別的な筋道・正当性・論拠などの意でも用いられ、特に政治・法律に関わる分野に用例が多い。

この語は、古くは正当性の基準をかなり具体的に持つことがあった。たとえば、除目における「道理」の場合、才能・芸能・栄華・年労・戚里といった、人事の基準を示すものであって、一般的・普遍的な正当性を示すものではない。従って、一般的・普遍的には不当と思われることでも、個々の分野の基準としては「道理」になり得るわけである。

(日本国語大辞典)

文楽2部「伽羅先代萩」に出てくる命を狙われる若君を守る乳人・政岡は、毒殺を避けるため他からの食べ物は拒んでひもじい思いをしている若君に

ヲヲ御道理でございます

「御道理」という言葉を幾度も繰り返す。現代の「道理」にはないシンパシー、労りを太夫さんの語りに感じつつ聞いていたが、さて当時の「道理」にはどんな思いがあったのだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2024年1月17日(水)

変わりゆく日本語の風景ー「未来」ー

文楽公演3部「平家女護島」「伊達娘恋緋鹿子」を観に行った。
文楽によく出てくるキーワードの中には、現代の日本語とは少し意味が違うかな……という言葉も結構ある。


その一つが「未来」だ。
以下引用文は「伊達娘恋緋鹿子」のお七の言葉より。

死なば一緒と言ひ交はした私を捨てて死なうとは胴欲なむごたらしい。別れ別れに死ぬるとも、未来はやつぱり変わらぬ女夫、言うた詞違やうか

お七の言う「未来」は、私たちが「明るい未来」というように使う意味ではない。「未来世」、つまり死後の世界のことである。

この時代にも、これから起きる世界という意味で「未来」が使われることはあったようである。

ただ文楽、浄瑠璃作品での「未来」は圧倒的に死後の世界を指しているのではないだろうか……。

いい加減なダメ男が、恋人には今を誓い、妻には未来、死後の世界で一緒……と誓う作品もあったような気がする。


今、日本の政治家が「皆さんの未来のために」とか抜け抜けと言っているのは、果たしてどちらの意味での未来なのだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2024年1月16日(火)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー魔術みたいにイメージが繋がっていく!ー

丸山先生が次々と切り出す思いがけないイメージが愉しい。
突拍子もない言葉と言葉が、丸山先生の文で繋がって、何だか世界が思いがけない方向に広がっていく爽快さがある。

「大型回遊魚」という少し獰猛そうな生き物の気泡から思い起こされるのは、流れるように生きている主人公。

「高層ビルの先端の揺れがわかる地震」「執拗な余震」という嫌なイメージから一気に「美しい暮夜」「きらめき」と美しく反転。

「絶壁の上に生えた高木」「するするとよじ登り」とまた揺れるイメージが復活。

「朝春の潮」「凄まじい怒号」と音が喚起されたところで、「胸に納め」最後に「微笑む」の三文字にパンチを感じる。

大型回遊魚の気泡を思わせる奔放な気性と
  それに伴う現状に一も二もなく休んじ


  高層ビルの先端の揺れがわかる地震と
    執拗な余震がすっかり収まった頃
      密やかに訪れた美しい暮夜が
        まだ震える際にきらめき



        絶壁の上に生えた高木に
          するするとよじ登り
            浅春の潮を眺め



            凄まじい怒号を
              胸に納めて
                微笑む。


(丸山健二「風死す」1巻388ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月15日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー万物の視点で語ることのできる、散文ならではの可能性ー

「私は落ち葉だ」(十月十三日 木曜日)
「私は神木だ」(十月十四日 金曜日)
「私は怒りだ」(十月十五日 土曜日)
「私は日曜日だ」(十月十六日 日曜日)


落ち葉、神木、怒り、日曜日が、不自由なところのある主人公・世一を語っていく。


一人称で語りながら、人以外のあらゆるものの視点で語ることができる……というのが、散文の大きな特徴というか、強みなのだ……と、短歌を少しかじって思うようになった。


短歌は必然的に一人称詩型である。ただ自分以外の誰かの視点に降り立ち、代わりにその人物の思いを歌うことができる

「千日の瑠璃」は、物の、感情の、曜日の、万物の視点に立って語ることのできる散文……の忘れられている可能性を示していると思う。


そんな人ではない存在たちが見つめる世一は、次第にただの憐れむべき不自由な存在から不思議な力を持つ少年に見えてくる……。

それも人ではない存在が語るからではないだろうか?

以下引用文は、日曜日が語っている。日曜日だからこそ、「覗きこむ」ことも、「逃げ帰る」こともできるのであり、そうした日曜日の姿?に世一のこの世のものではない力を感じる。

そのオオルリは
   まさに囚われの身でありながら
      飼い主のそれにも匹敵する
         非の打ち所がない
            無碍の境地に達しているかのように思えてならない。


きょうという新鮮さをバネにして
   私は世一とオオルリの双方の心を覗きこもうとしたものの、


   残念ながら
      影と闇とが複雑に入り混じる
         底なしの淵に引きずりこまれそうになり、

         慌ててそこを飛び出し
            光輝の世界へと大急ぎで逃げ帰る。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」65ページ 

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さりはま書房徒然日誌2024年1月14日(日)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ーすごく大きな存在から小さな存在まで僅か数行で語る対象が変化する!ー

以下引用文。
語られている対象は、まずは人智を超えた大きな存在である。
それが段々と身近な存在や主人公自身の感情へと収縮してゆく。
そんなふうに対象が変化してゆく過程をとおして見ると、意外とちっぽけな人間にもロマンがあるのだなあと心打たれるものがある。

「定かなる宿命と 定かならざる運命」というフレーズに、まず運命の神様みたいな語り口で格好いいと惹きつけられる。

最初の段落が「高らかに舞い上がり」で終わり、次の段落が「東の空に利鎌のごとき月が架かる」と空の高いところにある月の描写で始まっている。
よくは意味が分かっていなくても、何となく「高い」繋がりでイメージが連続するから、分かっているような錯覚に陥る。

同じように「利鎌」「月」「銀泥」とイメージがかすかに心の中で結びついている。

「銀泥のような」ではなくて、「銀泥に酷似した」と言えば「のような」のオンパレードを避けられると学習する。

……ああ心に残る文!と思い、なぜだろうと野暮なことに追及してしまった。

定かなる宿命と 定かならざる運命が複雑に絡み合って
  天命の潮流が宇宙の彼方から運んでくる快楽主義が
    疲労の極に達して埃と共に高らかに舞い上がり


    東の空に利鎌のごとき月が架かる秋の夕間暮れ
      銀泥に酷似した色合いの大海原を前にして
        花筵の上で密やかに茶を立てる粋人が
          はっと思い当たったことに驚いて
            思わず張り上げた短い叫びが
              蛇行した河岸を独り行く
                俺の胸にいたく響き


(丸山健二「風死す」1巻375頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月13日

佐多稲子「私の東京地図」を読む

ー関東大震災前後の東京の風景が実に細かく書かれているー

先日受けた福島泰樹先生の「文学のバザール浅草」講座の資料に出てきた佐多稲子の浅草を語る文の鮮やかさ、躍動感に惹かれて、佐多稲子「私の東京地図」(講談社学芸文庫)を手にする。
「私の東京地図」「版画」「橋にかかる夢」「下町」「池之端今昔」「挽歌」の六篇を読む。

関東大震災前後の上野、浅草、日本橋界隈の風景が実に細かく書かれている。だが、どんなものなんだろうか……と想像し難いものも結構あって、さらに街並みも今とはすっかり違って、まったく知らない国を旅している気分になる。
たまに不忍池の描写が出てくると、「ああ、変わらない」と安堵したりする。

今とは色々違うことばかり……

この時代、棺桶は丸桶だったんだ……葬儀屋の人夫さんが死体の足をポキポキ折って丸桶に座らせるんだ……

足袋屋さんでは「文数に合せた木型に足袋をはめて、竹べらで指先の切り込みを押え、木槌で叩いて型を仕上げてくれた」(佐多稲子「池之端今昔」)

丸善の入り口には下足番のお爺さんが二人いた……。

丸善の左右に内側へ開く入口のとっつきに、赤い鼻緒の麻うらがずらりと並べてある。下駄の客はこれに履きかえて下足の札を子の老人たちから受け取って店内へ上る。靴の人は、この老人たちに茶っぽい靴カバーをはめてもらう。東京の町の道路がまだそういうことを必要としていた。

(佐多稲子「挽歌」)

丸善で佐多稲子の同僚女性は、大杉栄が洋書売り場にいたと騒ぐ。

「大杉栄の目はすごいわよう。キラキラ光っているわよ。あの目だけで魅惑されてしまうわよ』

(佐多稲子「挽歌」)

こんなに書店員からキャーキャー騒がれる大杉栄が惨殺されたのだから、世間への衝撃、あるいは見せしめの度合いはさぞ……と思ってしまった。

関東大震災前後の東京の街が、そこで逞しく働く佐多稲子の動きが、映画を観ているように浮かんでくる作品である。

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さりはま書房徒然日誌2024年1月12日(金)

短歌の師、散文の師……二人の師の共通する教え

不思議にも短歌の師・福島泰樹先生と散文の師・丸山健二先生は、教えががぴたり重なることがよくある。
たぶん会ったことはない二人の師が同じことを言われるのに驚き、片方の師の講義のおさらいをしている気分になることしばしば。
真摯に書く……という創作行為の原点は短歌であれ、散文であれ、共通するものがあるのだろうか?

そんな共通する教えの一つが「いつも手帳を」。
今日も「言葉は降ってくるものだから、いつも手帳を用意して言葉を受けとめるように、言葉はすぐ消えてしまうから」と福島先生から教えて頂く。
「いつも手帳を」は、丸山先生もよく言われていることだ。
ただし手帳の使い方は、やはりそれぞれ違うようだ。詩文と散文の違い故だろうか?具体的な使い方を知りたければ講義を受けてみてはどうだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2024年1月11日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し再読する

ー「口笛」という見えない語り手が見えてくる!ー

十月十日は「私は口笛だ」で、十月十一日は「私は噂だ」で、十月十二日は「私は靴だ」で始まる。

不自由な世一が吹き鳴らす「へたくそのひと言ではとても片づけられない 切々たる響きを伴う口笛」を語る以下引用文に、不思議な者としての世一の存在を感じる。

けっしてきのうの延長などではない
   未知なるきょうに向かって吹かれ、

   控えめな進行ではあっても
      確実に狂ってゆくこの世に向かって吹かれ


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」38ページ)


遠くの山々に谺する口笛を描く以下引用文。高峰に寄せる想いに「そういう感情もあるなあ」と気がつく。気持ちが高きへ向かった後なので、世一の口笛に反応する家族の反応がリアルに感じられる。

きらきらと輝く陽光がもたらす風によってはるか遠くまで運ばれ
   亡き者の面影を偲びたがる人々が必ず仰ぐ高峰
      うつせみ山に撥ね返された私は
         ふたたびこの片丘へと舞い戻り、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」39,40ページ)


「私は靴だ」で始まる文を読み、「靴」で世一の父親の外見から人生、心境をこんなに語れるものか……と丸山先生の観察眼に驚いた。

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さりはま書房徒然日誌2024年1月10日(水)

福島泰樹短歌絶叫コンサートへ

ー「風に献ず」と「賢治幻想」の世界を楽しむー

福島泰樹短歌絶叫コンサートを聴きに吉祥寺のライブハウス曼荼羅に行ってきた。ぼーっと聴いていたから、間違いも多々あるかもしれないが、当てにならない記憶に残っていることを少しメモ。

毎月10日に開催されている短歌絶叫コンサートは、今年で40周年を迎えるそうである……。

今回ギターを演奏して歌ってくれた佐藤龍一さんと福島先生が最初に短歌絶叫コンサートを開いたのは、アテネ・フランセ……という場所も意外であった。

短歌絶叫コンサートをはじめたキッカケは、「当時は詩人が詩のコンサートをよく開いていた。でも短歌の歌といえば、宮中の歌会の節回しか牧水の歌のようなリズムしかなかった、短歌は歌謡なのに」という思いから始められた……と語られていた気がする。

短歌は短いから苦労もあったようだが、まず福島先生がコンサートの台本を書き、その台本を見て佐藤龍一さんたちが音楽を作り……。その逆の場合もあるそうだ。
それにしても40年、1200くらいのステージをこなしてきたとは凄いなあと思う。

今回はまず岸上大作の歌を歌い、福島先生の第一歌集「バリケード1966年2月」を歌いながら、「詩の使命とは、文学の使命とは次の世代に伝えていくこと」と語る。
そして「学生たちがこれほど熱意をこめて社会を変えようとした時代があったのに、72年の連合赤軍から流れが変わってしまい、そうした動きを避けるように、語らないようになってきてしまった」とも嘆かれる。
たしかにこれだけの学生たちの熱量が蒸発してしまった背景……もっと知らなくてはとも思った。

福島先生が中原中也の「別離」について、「こんなにいい詩なのにあまり知られず論評もされていない」と残念そうに言われていた気がする。「別離」は短歌絶叫コンサートではしょっちゅう歌われるから、とても有名な詩なのかと思い込んでいた。

佐藤龍一さんの詩「合わせ鏡」も、合わせ鏡に合わせたようなイメージが次々と繰り出される詩で、こんな風にイメージが膨らませられるのかと驚いた。

私が今書いている長文でも、実は合わせ鏡のイメージを使っているのだが、こんなに展開していない……と反省することしきり。
もう今からでは遅いし。でも「合わせ鏡」ってイメージを刺激する存在だよね、と思いついた自分を褒めて納得する。

以前も引用したと思うが、中原中也の別離を以下に。
この詩は聞くたびに印象が変わる。
朗読者が何に別離を言おうとしているのかで印象が変わるのかもしれない。

別離

中原中也

さよなら、さよなら!
  いろいろお世話になりました
  いろいろお世話になりましたねえ
  いろいろお世話になりました

さよなら、さよなら!
  こんなに良いお天気の日に
  お別れしてゆくのかと思ふとほんとに辛い
  こんなに良いお天気の日に

さよなら、さよなら!
  僕、午睡ひるねの夢から覚めてみると
  みなさん家をけておいでだつた
  あの時を妙に思ひ出します

さよなら、さよなら!
  そして明日あしたの今頃は
  長の年月見馴れてる
  故郷の土をば見てゐるのです

さよなら、さよなら!
  あなたはそんなにパラソルを振る
  僕にはあんまりまぶしいのです
  あなたはそんなにパラソルを振る

さよなら、さよなら!
さよなら、さよなら!

 僕、午睡から覚めてみると、
みなさん、家を空けてをられた
 あの時を、妙に、思ひ出します

 日向ぼつこをしながらに、
つめ摘んだ時のことも思ひ出します、
 みんな、みんな、思ひ出します

芝庭のことも、思ひ出します
 薄い陽の、物音のない昼下り
あの日、栗を食べたことも、思ひ出します

干された飯櫃おひつがよく乾き
裏山に、烏が呑気に啼いてゐた
あゝ、あのときのこと、あのときのこと……

 僕はなんでも思ひ出します
僕はなんでも思ひ出します
  でも、わけて思ひ出すことは
わけても思ひ出すことは……
――いいえ、もうもう云へません
決して、それは、云はないでせう

忘れがたない、にじと花
  忘れがたない、虹と花
  虹と花、虹と花
どこにまぎれてゆくのやら
  どこにまぎれてゆくのやら
  (そんなこと、考へるの馬鹿)
その手、そのくち、そのくちびるの、
  いつかは、消えてゆくでせう
  (みぞれとおんなじことですよ)
あなたは下を、向いてゐる
  向いてゐる、向いてゐる
  さも殊勝らしく向いてゐる
いいえ、かういつたからといつて
  なにも、おこつてゐるわけではないのです、
  怒つてゐるわけではないのです

忘れがたない虹と花、
  虹と花、虹と花、
  (霙とおんなじことですよ)

 何か、僕に、食べさして下さい。
何か、僕に、食べさして下さい。
  きんとんでもよい、何でもよい、
  何か、僕に食べさして下さい!

いいえ、これは、僕の無理だ、
    こんなに、野道を歩いてゐながら
    野道に、食物たべもの、ありはしない。
    ありません、ありはしません!

向ふに、水車が、見えてゐます、
  こけむした、小屋の傍、
ではもう、此処からお帰りなさい、お帰りなさい
  僕は一人で、行けます、行けます、
僕は、何を云つてるのでせう
  いいえ、僕とて文明人らしく
もつと、ほかの話も、すれば出来た
  いいえ、やつぱり、出来ません出来ません。

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さりはま書房徒然日誌2024年1月9日(火)

丸山健二「風死す」1を少し再読する

ー比喩は難しいけれど面白いー

「這い纏わる蔓草の奧」も不気味、「じっと潜む薬用の蛇」も不気味……と進んだところで、「発煙筒を使って燻し出す」と大きく展開するから、一瞬呆気にとられる。
そのあと「幸運を無造作につかもうとした」という行為が重なるから、さらに驚きつながらも「薬用の蛇」と「幸運」とは重なるものか……薬効という点で重なるのかも……と強烈に印象に残る。
「はっと我に返り」で「蛇」に重ねて読んでいた方も目が覚める気がする。
比喩ってかけ離れている方が面白いと思うけれど、それがこんな風に上手くハマる……のは難しいと思う。

這い纏わる蔓草の奥にじっと潜む薬用の蛇を 発煙筒を使って燻し出すように
  幸運を無造作につかもうとした一時期が 懐かしく思い出されたところで
    はっと我に返り その際に覚えた恥辱のために 心の沈黙を強いられ

(丸山健二「風死す」1巻363ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月8日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー「雨」から「風土」まで万物の視点から自在に語ることができるところに散文の凄さがあるのかも!ー

「千日の瑠璃 終結1」と「風死す」を交互に読んでいくと、あらためて文体がまったく違う、どっちもチャレンジフルなんだけど違う……と思う。

「千日の瑠璃 終結」は散文がスキップしながら思いがけない表現にジャンプする感じだけど、「風死す」は最初から哲学詩、物理詩……という感じがする。
この違いはどこから来るのだろうか?「千日の瑠璃 終結」は、まだストーリーというものが核にあって、小説寄りだからなのかもしれない。

十月六日は「私はため息だ」で始まる。
世一の姉がつくため息が、田舎の図書館に勤務しつつロマンス小説にはけ口を求める切ない彼女の日々を語る。

十月七日は「私は九官鳥だ」で始まる。
世一が捕まえたオオルリの幼鳥と比べたら「オオルリと比べたらおまえなんぞ鳥のうちに入らん」とペットショップの主人に罵倒される九官鳥が語る。
鳥を飼うのが大好きな丸山先生らしい箇所である。

十月八日は「私は雨だ」で始まる。
雨は「もう長いこと生活にくたびれ果てていることに まったく気づいていない母親の目を覚まさせる」のだが、そんな母親を語る口調が雨らしく、時にしっとりと、時に荒々しいのが面白い。

十月九日は「私は風土だ」で始まる。まほろ町の風土が語る田舎の嫌な雰囲気は、ずっと田舎に住んでじっと田舎の人間模様を観察してきた丸山先生だから書ける文だろう。

ひたすら権門に媚び
   後難を極度に恐れ
      弱者の心を汲み取るような気高い観点が苦手で


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」35ページ

権力と金力を背景に国家を牛耳ろうとする野心家に
   一も二もなく盲従する態勢を常に備えている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」35ページ

そういう田舎町に暮らす丸山先生を彷彿とさせる小説家も登場する。

芸術家にあるまじき堅物でありながら
   病的なほど穿鑿好きな小説家も
      私のことを文学の宝庫と買い被ってくれており、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」37ページ

田舎の醜い部分には、人間模様が濃縮されているのだろうか……?
一番最初の勤務がど田舎で、「田舎の人間関係は私には無理!」と思った私には、田舎に身を置いて冷静に観察して小説を書く丸山先生はすごいと思う。
「私は◯◯だ」と、九官鳥から風土に至るまで万物の視点で語ることができる……というのは、散文の凄みなのかもしれない。


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さりはま書房徒然日誌2024年1月7日(日)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー今この瞬間は脈略のない追想でいっぱいなのかもー

以下引用文の後半の方で「著しく脈略に欠けた追憶の目まぐるしさ」と書かれているように、前半は主人公の、いや丸山先生の一瞬の意識に反映されている過去のバラバラの断片なのだろう。

追憶と言えば、美しいもの、甘いもの、哀しいもの……というイメージがあるが、実際には苦いものから格好悪いものまで追憶は様々。
そうしたチグハグな記憶から、私たちの現在の一瞬は成立しているのかもしれない。

ただバラバラの追憶なんだけれど、イメージが喚起されるようにそれぞれの場面がうまく言葉で表されている。

それに「静まり返った法廷」から「連日の大入満員に沸く大相撲」、そして「陸稲の畦道」へ……ほんとうに目まぐるしい追憶である。

比べると、私の追憶はモノトーンの単調な画面かもしれない。

検事の論告に静まり返った法廷を想わせる重苦しさのなかで自身の靴音を聞き

  連日の大入り満員に沸く大相撲を余生の糧にする人々が殉教者に思え

    陸稲の畦道で松露を掘っていた農夫が急に悪心を催して激しく吐瀉し


      アルコールを溶媒に用いた安直な香水が 解熱剤の役目を果たし


        すべての紛争の内因は差別待遇にあると 年長けた男が呟き


          今冬に病が難路に差しかかるという予感は 見事に外れ




          そのような 著しく脈略に欠けた追憶のめまぐるしさが
            肉に属する霊の付け根の辺りをちくちくと刺激して
              真っ当であるべき思念を惑わせて感傷を抑制し


(丸山健二「風死す」1巻359ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月6日

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ークラゲのパンチ力ー

ガンという病に侵されつつ逃亡する主人公の心細さがよく伝わってくる箇所だと思った。

元素まで持ち出すことで人間的なドロドロしたものが消え去って、ポツンとした感じだけが残る。「うつけ」と「クラゲ」と「ふらふら」というイメージが重なり、「クラゲ」から「うっすらとした」にも「ひしと抱きつき」にも違和感なくイメージが飛んでゆく気がする。

「クラゲ」が効いている文だと思った。

すべての元素が融合を開始した大宇宙の初めまで遡って
  あらゆる存在がうつけのように思えてしまう空間を
    クラゲにでもなった気分でふらふらと漂いつつ
      うっすらとした自己認識にひしと抱きつき

(丸山健二「風死す」1巻340ページ)

丸山健二「千日の瑠璃 終結 1」を少し読む

ー作者の身近な物が語ると作者の姿がよく見えてくるー

十月四日は「私は鳥籠だ」と漆塗りの和籠が語り、十月五日は「私はボールペンだ」とボールペンが語る。どちらも丸山先生が普段から親しんでいる存在だから、文の至る所に作者の気配がする。

以下引用文。野鳥が大好きな丸山先生ならではのリアリティあふれる文だと思う。幼鳥の嘴が柔らかいという感覚は、言われると納得するのだが、自分ではとても思いつきそうにない。


それから餌の蜘蛛は脚をもぎ取るのか……私には鳥を飼うのはとても無理そうだ。

餌鉢にまだ柔らかい嘴を近づけて
  逃げ出さないよう肢を全部もぎ取ってある
    大小の蜘蛛つつき回し


丸山健二「千日の瑠璃 終結 1」17ページ

十月五日の「書くために生きるのか 生きるために書きつづけるのか」わかっていない、分かろうともしない小説家……には、丸山先生の姿が濃く反映されているのだろう。

「仔熊にそっくりな黒いむく犬」をハンドルにしがみつかせてスクーターで走る姿も、
「悩みらしい悩みを知らぬ妻とふたりきりで 粗末だが幸せな食事をとる」という姿も、
「言葉に頼り過ぎて本質を見失った書き手が多過ぎる」という思いも、
すべて丸山先生自身のものであろう。

そして最後の呟きも、おそらく丸山先生の思いではないだろうか?

安物の原稿用紙をぐいと引き寄せ
  蚊の鳴くような声で「それでも書いてやる」と呟いた

丸山健二「千日の瑠璃 終結 1」21ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年1月5日(金)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー比喩は難しいけれど面白い!ー

「風死す」や他の丸山文學の後期作品を読んでいると、散文の比喩はここまで可能なんだ……言葉と言葉の組み合わせもここまであり得るんだ……と、ホーっと感心することしばしば。
でも丸山健二塾でトライしてみると、「ぶっ飛びすぎている」と言われたり「ありきたり」と言われ、中々比喩の著地點決めるのは難しいものだと思う。


 
引用文について。犯罪者にして詩人、癌患者という青年が逃亡の日々の中で、「腹持ちのいい 美味なおかずのみを小皿に取り分けるようにして」「精神的な飢餓をどうにか凌いでやり」と語る文は、比喩とそんな主人公の身の上が重なって、妙にぴったりくる表現だと思った。

「からからの方寸への注水」という擬音語、「方寸」「注水」という語の組み合わせも、こんな組み合わせが可能なんだ……やけに喚起するものがあると思った。

「粘着性に富んだ生き方をしてきらめき」は、こういう人たちのことを「粘着性に富んだ」と言うのか……「粘着性」という言葉が放つイメージに驚いた。

あまりにも重い疲労困憊を少しでも癒そうと 宿泊の予定を延長して
  指名手配の写真とはいっさい無縁な 深い山奥の温泉場へ埋没し


    腹持ちのいい 美味なおかずのみを小皿に取り分けるようにして
      脳裏に芽生えかけている精神的な飢餓をどうにか凌いでやり



      だからといって 慈雨により田畑の作物や庭先の樹木が潤う
        そうしたたぐいの劇的な効果はまったく得られない上に
          からからの方寸への注水やら いつまでもあたわず


            ひとりひとりゴボウ抜きにされる デモの参加者や
              ある日突然失業して 食い詰めた一家のほうが
                まだ粘着性に富んだ生き方をしてきらめき

(丸山健二「風死す」1巻323頁〜324頁)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

ー隣りあう生と死ー

「千日の瑠璃」は早く先を読みたくもあり、でも一日分の話だけで完結しているような世界なので、一日一話をゆっくり読みたくもあり……心迷う作品であるが、やはり味読派になろう。

十月三日は「私は棺だ」で始まり、「白木の棺」が世一の家族があまり豊かでないことを、死んだ祖父の弔いをするために集まった人々の様子を語る。

世一は棺の上に瀕死の幼鳥をおく。棺の蓋を打ちつけようとした拍子に世一がこさえた指の傷から滴る血をすすると、鳥は元気を取り戻す。

棺にできた血の微かな染みが、うたかた湖の形だった……という場面が、なぜかイメージ鮮やかに浮かんでくる。

よくよく目を凝らしてみるとその染みは
  なんと
    うたかた湖の形状と寸分変わらず、

    私はその発見をよしとし
      ほぼ望み通りの最後を迎えた死者自身もまた
        それをよしとした


(丸山健二「風死す」1巻13ページ)

わずか四ページに、生と死というテーマが語られている。
血のしたたりをすすって生が蘇る鳥、うたかた湖と同じ形状の棺の血の染み、よしとする死者……を読むうちに、生と死の近さ、生がもたらす不思議、生きている者たちを見守る死者たち……がひしひしと感じられてくる。語り手が棺だもの……。


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さりはま書房徒然日誌2024年1月4日(木)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ーリズムを感じる!ー

ぼーっと読んでいる私は、幾度も繰り返される「風死す」の後にだけ「。」があるのに、ようやく今日気がついたような気がする。

「風死す」を他の人に見せると「章がない……」と驚かれることもある。章の代わりに、全体を律するリズムのようなものをつくり出そうとされて、文のレイアウトに、全く脈略のない記憶の流れのように見える文に、工夫が凝らされている気がする。


以下引用文は、普通の小説で言えば、章と章の区切れにあたる部分だと思う。現世へのやりきれなさが左斜め下りのレイアウで記され、やがて「風死す。」と終わる。


次の菱形部分を半分くらいだけ引用してみた。最初「死んだ思想は」で始まるが、「幸あれ」とだんだん浮上してくる感がある。こうして次なる章が始まる……。


そんなリズムを感じながら読んでみよう。

立ちこめる霧の魅惑に身を委ねて
  現世の存在に不審を抱きつつ
    悲しみを強いる出来事に
      軽々に扱われがちな
        おのれの存在を
          不憫に思い

          その一瞬後
            風死す。


        死
       んだ思
      想は 無の
     底へと沈んでゆ
    く 家を捨てて放恣
   な生活を送る者に幸あれ
  混じりけなしの悲しみが徐々
 に薄らいでゆく 

 
(丸山健二「風死す」1巻311頁からページ数のないページより)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1巻を少し読む

ー闇と明け方にコントラストを、バトンタッチを感じる!ー

十月二日は「私は闇だ、」で始まって「いつもながらの闇」が語り手となる。

そんな闇の存在感を「さざ波と力を合わせ」とか「これ以上ないほどの優しさを込めてそっと包みこむ」と、池に横たわる老人の骸への接し方であらわす視点も面白いなあと思う。


あと「そら豆に似た形状の頭」という幼鳥のあらわし方も、「そら豆」でグッと喚起される気がする。

ここでなんと言っても光を放つのは、「麻痺している脳のせいで 意思に関係がない動きを選択しがちな肉体を授けられ」という少年世一の存在感だ。
「双方の目と目が合った刹那 鳥は鳥であることを忘れ 少年は人である立場を忘れ」というように、鳥と心を通わす不思議な存在。


祖父の骸から幼鳥を助け出すと、世一は祖父のことは忘れて家に戻る。
そのとき死者が倒れてゆく描写が、命をバトンタッチしたという安堵感に溢れていて好きだ。

「私は闇だ、」で始まるこの箇所の最後が、以下引用文のように、祖父の骸を染めてゆく朝陽というのも、対照的で鮮烈に心に残るし、バトンタッチというテーマが繰り返されているような気もする。

「 」内は「千日の瑠璃 終結1」より引用。

そして
   私といっしょに輝ける昧爽へすっと呑みこまれたかと思うと
      大気をまんべんなく染める黄金色の坩堝に
         無造作に投げこまれて
                  どろどろに溶かされてゆく


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」9ページ 

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さりはま書房徒然日誌2024年1月3日

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー作者の影がひっそりまぎれこんでいるように感じることもあるー

以下引用箇所を読むと、いぬわし書房のオンラインサロンで丸山先生が語っていた自らについての言葉が思い出される。

「風死す」の主人公は、時として著者自身の心情が濃厚に反映されているのかも……。そんな風に、ふと思ってしまうような文言がさりげなく散りばめられている。

幼心にも悲しかった 何かに付けて隣人が浴びせかけてくる 極めて露骨な白眼視やら
  複雑さ故の悲しい出生に纏わる 聞こえよがしの悪口やらを ふと思い出すたびに
    それが反発心の種となって ついつい過剰に生きてしまう原動力へと変換され

(丸山健二「風死す」1巻304頁)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

一「生」と「死」がテーマの散文詩のような最初の四頁ー

前回「トリカブトの花が咲く頃」を読み終えたあと、次の丸山文学は何を読もうか……?と迷いつつ、中々決め難かった。

私は比較的最近の読者である。後期の丸山文学から読み始めたので、読んでいない作品がたくさんある。

丸山先生のお庭見学の時に他の方と「風死す」の話を他の方としたことがきっかけで、なんとなく「風死す」の再読を始めた……。

すると初読時には気がつかなかったことが次から次に出てくる。
やはり、「風死す」は何度も再読したい本だ。

でも他の作品も読みたい……と迷っていたら、神保町PASSAGE書店に借りている棚から「千日の瑠璃 終結」1を、どなたかが購入してくださった。
この本を読んでいる人がいる……と思うと、釣られて読みたくなるものである。それに「千日の瑠璃」は、最初の方しか読んでいないし……と読むことにした。

「千日の瑠璃 終結」は見開き4ページで一日が一話になって進む形になっている。
出だしは「私は◯◯だ」と、人間でないものたちが少し不自由なところのある少年与一を物語っていく。

十月一日は「私は風だ、」で始まる。
「名もなき風」が語る「一段と赤みを増した太陽」、「不憫な老人」の死、老人の死体に温もりを求める「ちっぽけな野鳥」……。
このたった四ページだけで生と死が存分に語られているような充足感がある。

十月一日の最後は以下引用の、紅葉の描写で終わる。大町に住んでいる丸山先生だから浮かんでくる紅葉風景だと思った。

どこまでも天界に近い峰々の紅葉が燃えに燃える
  静寂と絢爛の錯綜に終始した
    なんとも優雅にして平和な
      掛け替えのない黄昏時のことであった


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」5頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年1月2日(火)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー「記憶の流れ」とは読むのも、書くのも楽しいものかもしれないー

作家の晩年の作品は、わりとこの登場人物はもしや作者自身なのだろうか……と、作者に似た登場人物を発見することがよくある気がする。

「風死す」は、丸山先生自身が「記憶の流れ」と言われているように、至る所に丸山先生の記憶が飛び散っている。ただし語り方、表現の仕方は様々な形に変えて……。

今まで丸山文学を読んできた読者なら、「こんなことを思っていらしたのだろうか」と感慨に打たれるかもしれない。
丸山文学を読んだことがない方でも、詩や短歌に関心がある方なら「こんな表現が、こんなレイアウトができるのか!」と興味をもって頂けるようだ。

以下引用文も、丸山先生の八十年間の人生のどこかの断片、いや瞬間を語っているのではないだろうか?

引用箇所の二番目の段落。
意味の世界(どういうことだろう?実在の社会ということだろうか?)の復活を「舌触りが良くない焼き菓子の」「ほぼ半分程度の美味さ」と味覚に関連づけて例えているから、あまり居心地の良くなさそうな世界を感覚的に捉えることができる。

三番目の段落。
「断じて触れてはならない」という「生の要点と骨子」とは何だろうか。最後に来ている「青みがかった夏の夜を堪能」が幾つものストーリーを示している気がする。

意気地なしにして陰険な 不逞な考えと行為が病み付きになった
  健全な社会から除外すべき奴輩の黒い影が急速に滲んでゆき


    意味の世界が徐々に復活して 舌触りが良くない焼き菓子の
      ほぼ半分程度の美味さを 自己破壊的な精神力で味わい

      生の要点と骨子については 断じて触れてはならないと
        声なき声が切言する 青みがかった夏の夜を堪能し


(丸山健二「風死す」1巻297頁)

小説では「記憶の流れ」に任せて……という形は珍しいと思うが、短歌では「記憶の流れ」を文字にしているような部分もあるのではないだろうか?
自分の記憶の流れを追いかけ文字にする過程は、案外楽しいものかもしれない……と、まずは短歌で「記憶の流れ」をあらわしたいと思う。
小説だと、やはり私なんかが試みるとバラバラになりそうだが、五七五七七のフォルムがある短歌なら、なんとか分解しないで少しは形になるだろうか……。
そう考えてみると、散文で「記憶の流れ」を記した丸山先生はすごいなあと思う。

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さりはま書房徒然日誌2024年1月1日(月)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読

ー言葉の冒険をしているようでしっかりイメージが湧いてくる!ー

詩人でありガン患者である主人公の思いを、「言表行為」という固い表現を使うことで、一見、冷静に観察しているようにも思える。
でも「言葉同士が互いに排除し合って」というように、ここまで言葉の冒険ができるんだな……と思える部分もある。


二段落め。死者や死後の世界を語りながら、どこかユーモラスな印象も受けるのは「後を絶たない無数の死者たち」「これまで通り揃って似たような処遇」「次々に呑みこまれていった異空間の実体と実情」という思いもがけない言葉で、死後の世界の不思議さを語っているせいなのかもしれない。

三段落め。主人公が自分を語る「悪や善とのべつ境を接しつづけてきた欠点だらけの未完成なる自我」というシンプルで的確な言葉。
その後に続く「隈なく吟味などせぬ」という意外な言葉が心に残る。

名もなき一介の詩人が 語り手としての言表行為から取り逃がしてしまった 哀悼の辞は
  苛々するほどまだるこくて 言葉同士が互いに排除し合ってばかりで 埒が明かず

  後を絶たない無数の死者たちが これまで通り揃って似たような処遇を受けながら
    次々に呑みこまれていった異空間の実体と実情がどうであっても少しも構わず

まず差し当たっての不可欠な心構えは 悪や善とのべつ境を接しつづけてきた
      欠点だらけの未完成なる自我を隈なく吟味などせぬという固い決意であり


(丸山健二「風死す」1巻287頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月31日(日)

篠田真由美「レディ・ヴィクトリア 完全版 セイレーンは翼を連ねて飛ぶ」を読む

ー19世紀後半へタイムトラベルを楽しませてくれると同時に、弱者への温かい視点を感じさせてくれる一冊!ー

10月に篠田先生にサインをしていただいた「レディ・ヴィクトリア 完全版 セイレーンは翼を連ねて飛ぶ」で2023年の読書は終わり、2024年へと踏み出すことに。年末と年始をまたぐのにふさわしい魅力あふれる本。


ストーリーを追ううちに、登場人物の会話に耳を傾けているうちに、19世紀後半のロンドンの、パリの、アメリカの南部の、ヴェネツィアの、そして日本の生活のディティールが怒涛の如く流れ込んでくる。

まるでタイムトラベルをしているかのように、当時の人間の気持ちで建物を眺めたり、娼館を歩きまわって娼婦の衣装を眺めたりしている。

でも、そんな楽しさが散りばめられた文を書くのに、どれほど調べ物が必要だったことだろう。
作者が調べものに費やしただろう莫大な時間を思い、その知識が魅力あふれる登場人物たちとなり語りかけてくれていることに感謝あるのみである。

各登場人物にむける作者の視線も、社会の底辺で生きる人たちへの共感に満ちた温かい視点が感じられ惹きつけられる。
例えば、以下引用文の主人公レディ・ヴィクトリアが娼婦について語る言葉にも、作者の底辺に生きる人への想いが伝わってくる。

生まれつき娼婦にしかなれない女などおりません。けれど他に生計を立てる方法を知らず、学ぶ機会も与えられないまま、辛い勤めを続けておのれの尊厳を日々の糧に換えていれば、心はいつしかすり減り疲れ切って、目の前の刺激と快楽で毎日をやり過ごすしかできなくなってしまう。

篠田真由美「レディ・ヴィクトリア 完全版 セイレーンは翼を連ねて飛ぶ」178頁)

作者が後書きで書いているように、主人、召使いという枠を超えて、互いを信頼し合い家族のように暮らす……という登場人物たちは、現実の歴史像からは異なるのかもしれない。
でも、そういう理想をかかげてストーリーをまとめる作者の信念には、今のような世であるからこそ、人と人のつながりとは何か……と問いかけてくる強いメッセージを感じる。

「主人と使用人が互いに信じ合い、互いを守る家族だと?」

篠田真由美「レディ・ヴィクトリア 完全版 セイレーンは翼を連ねて飛ぶ」322頁)

以下引用文も、この歳になると、ほんとうにそう……と頷き、慰められるような言葉である。

亡くなった人のことは想像してみるしかできないんですもの。死に際に会えなかったのは悲しいけれど、その分元気だったときの顔を覚えていられる。そしてその思い出や、残してくれたものを抱きしめることができる

篠田真由美「レディ・ヴィクトリア 完全版 セイレーンは翼を連ねて飛ぶ」219頁)

過ぎ去りし時代の日常風景に関する知識をさりげなく散りばめ、読み手を楽しませてくれる。
さらに今急速に失われつつある弱者への温かい視点……その豊かさを教えてくれる本書は、年末年始にふさわしい一冊であった。

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さりはま書房徒然日誌2023年12月30日

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー「風死す」のテーマの一つに「死」があるー

「風死す」の主人公は二十七歳の癌患者……ということで、「死」も「風死す」の大切なテーマなのかもと思う。

最初の引用文。死の世界の深さ、謎を表現する言葉が面白いと思った。
二番目の引用文。犯罪者として生死の境を彷徨う主人公に見えてくる死の世界を表現しているのだろうか?


「生死の境界線」「絶頂」「一刹那」「未来への逃亡経路」「行き詰まりを打破」という言葉に、作者が抱いている死生観が見えてくるように思う。


「現実を離脱」「新たな光の下に姿を現す幻想的な枠組み」という言葉からも、決してネガティブではない死生観が見えてくるように思う。

生の世界がそうであるように 死の世界もまた 深い謎に包まれた宇宙における構造や
  ある日を境に突如として滅した古代文明の象形文字などより 遥かに不可解であり

(丸山健二「風死す」278頁)

生死の境界線を越えるときに発生する 絶頂を迎えた陶酔の
  その一刹那に集約された 状況の巡り合わせたる運命を
    未来への逃走経路と解釈して 行き詰まりを打破し


    現実を離脱したことに端を発する癒しがたい弱点を
      新たな光の下に姿を現す幻想的な枠組みで補い


(丸山健二「風死す」279頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月30日

丸山健二「風死す」1巻を少し再読

=この墜落感は?と文字数を数えたら字足らずだった!ー

以下引用文。情景が見えてくるようで心に残るし、なんだか切ない墜落感が伝わってくる……なぜだろう?と考えてみた。

「実を結ぶ」(五文字)、「努力への」(六文字)、「架け橋は」(五文字)、「渡る途中で」(八文字)、「墜ちてゆき」(五文字)
ほとんど五、七、五、七ときながら、最後は大きく字足らずで五文字である。


この字足らずが不安定さをかもしているのだろうか……とも思った。

五七五七七というリズムにあてはめるだけで、何でもない文が生き生きとしてくる……と短歌を学んで思うようになった。
その安定のリズムを最後で崩しているから、墜落という不安定さが表現されているのかも……という気がする。

実を結ぶ努力への架け橋は
  渡る途中で墜ちてゆき

(丸山健二「風死す」1巻246頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月28日(木)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー様々な生の形が多様な語り口で語られているー

以下引用文。カケスの鳴き声は、たしかに赤ん坊の泣き声のようでもあり、何かを論じているようでもある……。この突拍子もない比喩が妙に納得できて立ち止まってしまう。

さらに「柱頭に花粉を付着させた頭状花」という自然科学のテキストに出てくるような文、そのあとに続く「俯き加減で咲くことの意味を語り」という詩的な文との対比が鮮やかで心惹かれる。

「独り草むしりをする」のは丸山先生自身の思いと重ねているのだろうか……「毎日草むしりをして雑草との戦いです」と言われていたこともあるし。

断崖の地層の段落も、たしかにそうだ……と納得してしまう。

こうして様々な儚い生の形を語られたあと、「生と死のいずれの側も」と語られると、妙にストンと納得させられる感じがある。

赤子の泣き声を実に器用に真似るカケスが
  生誕の意味の広狭について巧みに論じ

  柱頭に花粉を付着させた頭状花たちが
    俯き加減で咲くことの意味を語り

    豪壮な邸内で独り草むしりをする
      頭に積雪を置いた高齢者らの
        途切れることなき咳嗽は
          突然死を希っており


          数十本の線条が走る
            断崖の地層には
              その時代が
                刻まれ、

深くて激しい陰鬱な背景を負う生と死のいずれの側も 無から創造される者ではなく
  双方のあいだには 揺るぎなき類縁関係がきっちり成立していると そう理会され

(丸山健二「風死す」238頁239頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月27日(水)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー思考を目に見えるように表現すればー

人間の思考の営みを表現した面白い言葉だと心に残った。

「神の国とやらを探求し始め」とは、宗教的、哲学的思考に没入し始めたことを指しているのだろうか。

そうした見えない思考の過程を、形而上「認識できないもの。超自然的、理念的なもの」と形而下「認識できるもの。現象的世界に形をとって存在するもの」のあいだに「なんとも穏やかな段差を設け」と目に見えるように表現している。


読んでいる方も楽しみつつ、納得できてしまうところがすごいなと思った。

両の眼を涙で曇らせながらも 苦々しげな顔つきを保って 神の国とやらを探求し始め
  形而上と形而下のあいだになんとも穏やかな段差を設けて 自由な往来を実現させ

(丸山健二「風死す」1巻224頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月26日(火)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読

ー感覚の断片が突き刺さる!ー

犯罪者にして詩人、がん患者という二十代の主人公。
「風死す」は「記憶の文学」という丸山先生の言葉のとおり、一見かけ離れたように思える状況でも、やはりそこには丸山先生が感じてきた感覚の、記憶の断片が散りばめられている気がしてならない。
そしてその痛みが、主人公の、丸山先生自身の核になっているのかも……とも思った。

同母兄の実在なんぞを夢想しながら孤独な身を癒し

(丸山健二「風死す」211頁)

「それが人の世の習いというものなのだから仕方がない」と
  くり返し呟くことで 自我の最も繊細な一部分を傷つけ

  そもそも生涯の始まりから心の歯車が狂い放しのせいで
    常に加害者の立場に身を置いて生きるしか術がなく


(丸山健二「風死す」1巻216頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月25日

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー文章のトーンも様々!ー

〈煩悩の富者〉〈絶望の覇者〉〈苦悶の智者〉まだどんな存在なのか、よく認識できていない。

ただ、こんな存在に遭遇したら嫌だ!と思った絶妙のタイミングで、「なるべく出くわしたくない それら三強に」と書かれているから思わず苦笑してしまう。

前半部分の重いトーンから一転、「先方がちょっかいを出してくる前に死んだ振りでもしよう」とどこかユーモラスになっている気がする。

よくイメージできないところはそのままにして、文章から吹いてくるいろんな風を受けとめる……のが、「風死す」を楽しむ方法の一つではないだろうか。

四六時中絶対者を演じたがる いちいち構ってなどいられない 〈煩悩の富者〉

  憧憬に後続する夢物語を打ち壊す 人類共通の敵対者である〈絶望の覇者〉

    ささやかなる営為の果てまでも 完全否定して止まない〈苦悶の智者〉



    なるべく出くわしたくない それら三強に ぐるりを包囲された上に
      組み敷かれてしまうという 明らかに手に余る窮地に陥った俺は
        先方がちょっかいを出してくる前に死んだ振りでもしようと
          溶岩大地のただ中で余命をしっかり保って微動だにせず



          人間という生き物を神仏とは別な目で見ているそ奴らは
            死に瀕した二十六歳を お手並み拝見といった目で
              安易な観察を加えながら 気に障る態度を取り 


(丸山健二「風死す」1巻213頁214頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月24日(日)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ーかけ離れた語彙同士が見事にマッチングして描くイメージの愉しさ!ー

記憶について書かれた以下引用文。
科学的な語彙が文学的な言葉を思いがけずよくマッチングして、かけ離れたイメージが頭の中で不思議な一つの像を結ぶ気がする。


記憶を「混信して聞き取りにくい電波」「伝染する欠伸」に喩える不思議さがありながら、妙にしっくりしている。

「春眠覚めやらぬひととき」「匂い袋が放つ 控えめな陶酔感」という甘美な言葉が「脳幹まで運んでゆき」という意外な結末で終わるので、余計印象に残る気がする。

混信して聞き取りにくい電波のごとく入り乱れ
  伝染する欠伸よろしく胸に去来する記憶を
    さらなる逆巻きへ強引に引きずりこみ

    春眠覚めやらぬひと時を錯覚させては
      匂い袋が放つ 控えめな陶酔感を
        じわりと脳幹まで運んでゆき


(丸山健二「風死す」1巻203頁204頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月23日(土)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー同じようで違う〈煩悩の富者〉〈苦悶の智者〉

〈煩悩の富者〉とか〈苦悶の智者〉とか他には何があっただろうか……私のようにまったくそういうことを考えないで生きている者にとっては、相違を見い出すのが難しい。

でも最初の引用文の「歩行を好み しかも素足で少しずつにじり寄る」で、人間のような、でも人間とは違うような、不思議感を感じてしまう。

〈煩悩の富者〉に対する「俺」の反応を読めば、「少しも怯まぬ」「不服従の色」「つべこべ言わずに」「先制攻撃を食らわせて」と、どこか話に伺う丸山先生の学生時代を彷彿とさせる姿で、丸山先生の記憶が強く滲んでいる箇所なのではないだろうか。

二番目の引用文の「黄金色の陽光をかき分けて ふらつきながら接近してくる」「またもや心を奪われかけてしまい」という「苦悶の智者」は、この箇所からだけだと女性的存在にも思え、作者の青春時代の輝かしい存在であった女性にも思えてきた……。

歩行を好み しかも素足で少しずつにじり寄る
  かの〈煩悩の富者〉がおぼろげに認識され


  少しも怯まぬ俺は 不服従の色を滲ませて
    「つべこべ言わずに引っこんでいろ」
      と先制攻撃を食らわせてやりつつ
        付けこまれる油断がないかを
          素早く再確認するために
            自我の観察に努めて
              落着きを復活し



              黄金色の光線を
                味方にして
                  構える。


(丸山健二「風死す」1巻199頁)

具体案を出せぬうちに 黄金色の陽光をかき分けて
  ふらつきながら接近してくる〈苦悶の智者〉に
    案の定 またもや心を奪われかけてしまい


(丸山健二「風死す」1巻201頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月22日(金)

宮沢賢治「ポランの広場」を読む

ー宮沢賢治と浅草、浅草オペラの接点を知るー
ー「ポラン」という言葉の意味を調べる!ー

福島泰樹先生の「人間のバザール浅草」講座で、「宮沢賢治の浅草」というテーマで講義を受けた。宮沢賢治と浅草、そしてオペラ……という思ってもいない接点を、浅草オペラに賑わっていた時代を教えて頂いた。

思えば賢治が上京を繰り返した、大正五年から(関東大震災)をはさむ昭和六年までの十五年間(上京数八回、滞在日数延べ日数三五〇日)は浅草が最も活気に満ちた時代であった。日本の大衆文化、いや文化そのものを浅草が担ったといっても過言ではない。

(福島泰樹「宮沢賢治の浅草」資料より)

浅草オペラの誕生は「ゴンドラの歌」が流行した翌年の大正六年二月一日、常盤座。

(福島泰樹「宮沢賢治の浅草」資料より)


大正六年十月から「コロッケの唄」「カルメン」「ブン大将」「ボッカチオ」など和製ミュージカル、オペラ、オペレッタが続々と浅草で上演され、田谷力三や藤原義江の時代に。
やがて大正十一年にエノケンが登場……という説明を受けたあと、浅草オペラの曲を次々と聴かせてもらう。

思わず口ずさみたくなるような、心温まる声である。おそらく宮沢賢治もこの歌声に心躍らせて聴いたことだろう。

自作の劇を演出、生徒たちに上演させ、劇中にはきまって浅草オペラさながらに歌がはめこまれた。

(福島泰樹「宮沢賢治の浅草」資料より)

そんな曲がはめこまれた宮沢賢治作品をいくつか紹介してくださった。

その中でも、「ポランの広場」という作品が気に入ってしまった。まず「ポラン」という言葉の響きが、とても魅力的である。

何か意味があるのだろうか……と調べてみれば、pollen (ポラン)には「花粉」という意味があるらしい。ただし宮沢賢治がこの英単語から「ポラン」と書いたのかは不明ではあるが……。

私は日本語で言わないで英語で言おうとする風潮は嫌いなのだが、このポランだけは別である。響きも、小さい形も、「花粉」と書くより「ポラン」の方がしっくりくる気がするのだ。

「ポランの広場」の冒頭のト書き部分を読めば、やはり宮沢賢治が見ただろう浅草オペラの舞台がくっきりと浮かんでくる。

ベル、
人数の歓声、Hacienda, the society Tango のレコード、オーケストラ演奏、甲虫の翅音、
幕あく。
舞台は、中央よりも少し右手に、赤楊の木二本、電燈やモールで美しく飾られる。
その左に小さな演壇、
右手にオーケストラバンド、指揮者と楽手二名だけ見える。そのこっち側 右手前列に 白布をかけた卓子と椅子、給仕が立ち、山猫博士がコップをなめながら腰掛けて見てゐる。
曠原紳士、村の娘たち、牧者、葡萄園農夫等 円舞。
衣裳係は六七着の上着を右手にかけて、後向きに左手を徘徊して新らしい参加者を待つ。
背景はまっくろな夜の野原と空、空にはしらしらと銀河が亘ってゐる。
すべてしろつめくさのいちめんに咲いた野原のまん中の心持、
円舞終る。コンフェットー。歓声。甲虫の羽音が一さう高くなる。衣裳係暗をすかし見て左手から退場。
みんなせはしくコップをとる、給仕酒を注いでまはる。山猫博士ばかり残る。


(宮沢賢治「ポランの広場」)

以下は山猫博士が歌う歌。

つめくさの花の 咲く晩に
ポランの広場の 夏まつり
ポランの広場の 夏のまつり
酒を呑まずに  水を呑む
そんなやつらが でかけて来ると
ポランの広場も 朝になる
ポランの広場も 白ぱっくれる。


(宮沢賢治「ポランの広場」)

以下は山猫博士に対抗して、ファリーズ小学校生徒のファゼロが歌う歌。

 つめくさの花の かほる夜は
 ポランの広場の 夏まつり
 ポランの広場の 夏のまつり
 酒くせのわるい 山猫が
 黄いろのシャツで出かけてくると
 ポランの広場に 雨がふる
 ポランの広場に 雨が落ちる


(宮沢賢治「ポランの広場」)

「ポランの広場」は短いながら、幻想味が強く、どこかユーモラスで印象に残る。青空文庫にあり短いので、興味のある方は読まれてみては……と思う。

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さりはま書房徒然日誌2023年12月21日(木)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー躍動感の秘密を考えるー

「半透明の荒馬」「夏の真昼時であっても闇」と詩的な言葉が続いた直後、「人体の組織で構成された〈煩悩の富者〉」と理科の言葉と詩の言葉が合わさったような表現がくる。
科学的な表現が混ざることで、詩的な表現が強調されるようにも、逆に科学的表現の面白さも感じる。

「はてさて」「引っ提げて」という言葉からユーモアが漂い、「亡霊が横行闊歩する」「あの世への 強引な勧誘」とどこかブラックユーモアめいた表現が心に残る。

「死」と「詩」を語る言葉にユーモアを混ぜることで、文に躍動感が生まれている気がする。

半透明の荒馬に颯爽と跨った 夏の真昼時であっても闇に近い印象をけっして弱めない
  どこまでも魂の救済者を装って止まぬ 人体の組織で構成された〈煩悩の富者〉が
    はてさていったい何を引っ提げてやってくるのか おおよその見当はついても
      果たしてそれが死そのものであるかどうかについて 今はなんとも言えず
        ひょっとすると 寂滅為楽とはまったく無関係にして亡霊が横行闊歩する
          要するに この世と大差ないあの世への 強引な勧誘なのかもしれず


(丸山健二「風死す」179頁180頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月21日(木)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー文頭がほとんど漢字、文末がすべて平仮名の箇所もあって独特の視覚的リズムがあるような気がする!ー

以下引用箇所、突如記憶に現れた感じの二番目の段落のエピソードがやけに心に残る……なぜだろうと眺める。

まじまじと見つめていると、二段落目は、最初の文字が場面を語る行ではすべて漢字であることに気がつく。
「そうした場面が」だけが平仮名で始まっているので、場面の切り替えの合図のように思え、それまでのピアノのエピソードが鮮やかに浮かんでくる気がする。
行の終わりは、他の箇所もだが、ほとんどすべて平仮名である。

最初に読んだときは、こういうことは気にもならず気が付かずだったが、短歌の作り方を学んでようやく目が向くようになった……。短歌は、この文字を漢字にした場合、平仮名にした場合のイメージを考えてつくるものらしい。

一段落め、「鰐口」という言葉が強烈で〈絶望の覇者〉の風体を想像してしまう。


次の行で「無遠慮な通り名で呼ばれている もうひとつ別の分身は」とあるから、〈絶望の覇者〉とは主人公のことでもあるのだろうか……と考える。

「沈黙へと逃げこみ」のあと、行が空き、ピアノのエピソードが始まる。この空いた行が「沈黙」そのものに思える。
二段落めの脈略なく思えるエピソードは、無意識を漂う主人公の記憶の残像のようにも見えてこないだろうか?モノクロームに思えるイメージだが、その中で「真っ赤に充血した」という箇所が鮮やかに心に刺さる。

おもむろに鰐口を開こうとしている 〈絶望の覇者〉という
  無遠慮な通り名で呼ばれている もうひとつ別の分身は
    徹底的に究明すべき人間性の課題を投げ出したまま
      そのほうが得策と判断して 沈黙へと逃げこみ


      流木が引っ掛かった橋脚が崩壊するありさまを
        真っ赤に充血した目でそっと見やりながら
          古いピアノで難曲を巧みに弾きこなす
            盲目の乙女が独りで住む家の前に
              隣人らがわんさと押しかけて
                洪水の危険を報せながら
                  家具を外へ運び出す
                               そうした場面が
                                  突如として

                                     現れる。

(丸山健二「風死す」1巻168頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月19日(火)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読

ー余韻の秘密を考えてみるー

たしか先日開催された「いぬわし書房」のオンラインサロンで、丸山先生は「読み終わったあと、引きずるもの、余韻を感じてもらいたいと思っている。数日間モヤモヤ、切なさが心に渦巻いて、そんな状況の分析を楽しむ読後感が残るように、想像力を喚起させる文章を書きたい」という趣旨のことを話されていたように思う。

たしかに以下引用箇所など、読んだとにいつまでも余韻が残る。なぜだろうとその魔法を考える。


菱形部分の半分くらいを引用させて頂いた。


語句のイメージの重なりによって、心の中で世界がどんどん広がっていく気がする。


たとえば「地」と「影法師」と「犯罪者」と「善と悪」というダークカラーのイメージ。

それから一転して「黄金分割」と「ヨイマチグサ」(夕方、黄色の花を開き、日の出頃には橙色になってしぼむ)と「夕べ」と「落日」というように、黄色から橙色のイメージで繋がる語句が並んでいる気がする。

陰から陽へのイメージの転換が、さりげなく配置された語によって無意識のうちに誘導され、そこから余韻が生まれるように思う。

なぜこんなに余韻が残るのか……考えてみて言葉の秘密を探し出すのも丸山文学の楽しさだと思う。きっと私が気がつかないでいる秘密がたくさんあると思う。

ちなみにこの菱形レイアウトの部分はページ数がない。何ヶ所もあるので、丸山先生、編集者さん、印刷所の方、それぞれが大変だったと思う。その甲斐あってレイアウトの美しさが際立っている。

           地
          面に映
         った俺の長
        い影法師 弱冠
       にして天下に名を馳
      せる犯罪者に憧れる奴は
     善と悪の黄金分割を象徴する
    ヨイマチグサの芳香が漂う夕べに
     落日の大観が 

(丸山健二「風死す」1巻) 

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さりはま書房徒然日誌2023年12月18日(月)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ースペースには大切な意味があるのかも!ー
ーイメージが繋がるように言葉を散りばめてくれている!ー

以下引用は、「咎を小脇に抱えての流浪」(「風死す」1巻150頁)をしている主人公の心中を描写している箇所。
「咎を小脇に抱えての流浪」という言葉だけで、主人公の胸中が迫ってくる表現だと惹きつけられる。


引用箇所はとても心に残るものがあって、なぜだろうと入力した後もじっと眺めてリフレインしてしまう。


スペースにも大事な意味があるのかもしれない……という気がしてきた。

「究極の安らいの深層部に到達すべき」は、切言が響かなくなっているのに諦めずに語りかけてくる〈絶望の覇者〉の声のようでもあり、流浪を続ける主人公の声のようでもあり……。

「孤独な寂滅」が行の最後にくることで、次の「水面下に没して」というイメージが言葉より先に形成されている。

スペースがあることで「命の輪郭線が滲み」という深い言葉が、鮮烈に心に残る。

前の段落の「寂滅」という言葉に脳が刺激されて、次の段落の「地獄への道連れ」も、「かけそき楽の音」も、「穢土」も、どこか「寂滅」繋がりで結びついてゆく気がする。

前の段落の「海原」も、次の段落の「ゆるゆると」や「呑みこまれ」に言葉のイメージが結びつく。

だから少し難しいように思える文だけれど、丸山先生がイメージをさりげなく繋がるように言葉をばら撒いてくれているから、難破することなく文をたどっていける気がする。

〈絶望の覇者〉なればこその切言が胸に響かなくなって
  究極の休らいの深層部に到達すべき 孤独な寂滅が
    生の海原の水面下に没して 命の輪郭線が滲み

    地獄への道連れにしてはあまりにも芳しくない
      かけそき楽の音が空をゆるゆるとよぎって
        何が成し遂げられるわけでもないまま
          束の間の穢土の八方に呑みこまれ


(丸山健二「風死す」1巻151頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月17日(日)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー主人公の心が乱れるところでまた素数が!ー

短歌の集まりの席でたまたま「風死す」を20代の方にお見せした。すると菱形のフォルムや左斜め下りのレイアウトや言葉に興味を持ってくださり「読んでみます!」との力強い言葉が。
ただし丸山健二を知らない20代に購入を勧めるには、いくら内容が良くてもちょっと値段に躊躇してしまうのが辛いところ。

それにしても丸山塾で学んだ方々が戸惑われる「風死す」に、短歌のお若い方がこんなにも素直に感嘆してくださるのはとても嬉しいし、「風死す」の読み方というものを考えてしまう。

そんなことを思いながら引用部分を眺めていたら、ここにも素数の文学・短歌(怒られてしまうだろうか……)と同じく素数が働いている気がする。
ただし短歌のように音に素数が働いているのでなく、文字数である。

主人公が〈絶望の覇者〉に戦いを挑もうとして苦しむ場面である。

自身へ目を向けすぎることを忌み

  人界における各等級を黙殺し

    困難や苦難など乗り越え

      月遅れの正月に酔い

        厭軍思想を愛し
 
          限界に挑み



           直接行動を

             支持し


(丸山健二「風死す」1巻147頁)

上記の文の各行の文字数を数え、行の終わりに記した。

自身へ目を向けすぎることを忌み(15字 素数でない)

  人界における各等級を黙殺し(13字 素数)

    困難や苦難など乗り越え(11字 素数)

      月遅れの正月に酔い(9字 素数でない)

        厭軍思想を愛し(7字 素数)
 
          限界に挑み(5字 素数)

          
          
          直接行動を(5字 素数)

             支持し
、(3字 素数)

(丸山健二「風死す」1巻147頁)

ポジティブな意味合いの行は素数で終わり、ネガティブな意味合いの行は破調になるのだろうか……素数でない数字で終わっている気がする。
丸山先生は、素数のことをいまだ解明されていない神秘の数字とも語り、行数を素数にこだわって書くことで文に抑制が生じるとも言われていた。

この箇所は、主人公が〈絶望の覇者〉と格闘する場面なので、素数にこだわることで主人公の葛藤に引きずられないように工夫された……ということはないだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2023年12月16日(土)

神奈川県立図書館ボランティア朗読会「日々のこと」へ

ー朗読を聴く幸せを満喫!本を選び、練習して……という長い時の積み重ねを感じた!ー

神奈川県立図書館4階学び交流エリアにて開催された、図書館ボランティアスタッフによる朗読会に行ってきた。

神奈川県立図書館は昨年秋に新しい建物に生まれ変わったばかりの、歴史はあるけれど、施設は新しく快適な図書館である。

今日朗読されたりお手伝いされたりしていたボランティアの方々は、図書館で開催された令和四年度Lib活「本を選び、本を読み、本を朗読する講座」で学ばれたそうで、令和五年から県立図書館ボランティアとして定期的にテーマを決めた朗読会で活動されているとのこと。

ボランティアスタッフの年齢の幅広さが意外であった。
年齢を積まれた方々は予想できたが、働き盛りのお若い方々がお忙しいだろうに生き生きと参加されているのには驚いた。
かつては朗読といえば演劇から入ってくる方々が多く、中々足を踏み込みがたい雰囲気があったように思うが……。最近では文アル、文ストブームに加え、声優の方々の活躍が朗読の層を広げたのだろうか……。
私が学校に勤務していた頃、声優に憧れて毎日割り箸を口にくわえてボイストレーニングに励んでいた女子生徒がいたっけ……と思い出す。朗読を真摯に楽しむ……という文化が、私より若い方々には広がっているのを感じる。
何はともあれ、多くの方々が本を朗読してくださるのは嬉しいし、そういう志のある方々に学びや実践の場を提供してくださる神奈川県立図書館の司書の方々にも感謝したい。

ボランティアスタッフと図書館司書の方々が、とても意気のあった感じで活動されているように思えた。今回の朗読会のテーマ「日々のこと」は、図書館司書の方が3階企画棚シコウの窓に「日記」と関連した展示をされていることから決められたそうである。

今回の朗読本は、「方丈記」(鴨長明 高橋源一郎訳)、「病牀六尺」(正岡子規)、「ぶぅぶぅママ」(小路智子)、「無人島の二人~120日以上生きなくちゃ日記~」の四冊である。
古典から絵本、現代作家までバラエティ豊かである。

そのうちの二冊が、病の床で書かれた日記である。病の床にあるとき、日記を記したくなる人の心というものを思う。

「方丈記」も、「病牀六尺」も穏やかな女性の声で朗読してもらうと、まるで音楽のように言葉の音韻が浸透してきて大変心地よい。

「ぶぅぶぅママ」は第34回日産童話と絵本のグランプリ童話大賞受賞作だそうで、どうやらこの一作だけの作者のようである。
どこかほのぼの、でもブラックユーモアも効いている……という作品に、この朗読会に来なければ出会えなかっただろう。
知らない作品に出会える……というのも、この朗読会の面白さである。

作者・山本文緒さんが癌で亡くなるまで書かれていた日記「無人島の二人~120日以上生きなくちゃ日記~」を聴いていると、山本さんやご主人の姿がありありと浮かんできた。
私の短歌の師・福島泰樹先生が短歌絶叫コンサートで「死者は死んではいない。死者は言葉の中に生きている。その言葉を朗読することで死者は蘇るんだ」と言いながら、朗読されている姿と重なる。
どの朗読者もだが、山本文緒さんの作品を朗読された方も、時間をかけ迷いながら作品を選び、おそらく13分くらいの持ち時間のために果てしなく朗読の練習をされたのだろう。
そのおかげで私は山本さんの最期の日々をしっかりと追いかけることができた……と思い、朗読の、言葉の力を感じた。

最後、この朗読会のことを教えてくれた年下のフォロワーさんがエレベーターまでお見送りしてくださりながら、短い時間で色々とー丸山健二「真文学の夜明け」を一生懸命に読んでくださっていることやら「真文学の夜明け」のレイアウトが読みやすいことやらーお話しして下さってとても嬉しかった。
朗読会であるだけでなく、さりげなく本の話もできるリアルな場である……という機会を提供してくださる神奈川県立図書館とボランティアの方々に心から感謝したい。

次回は3月9日(土)14時半から、テーマは「ともに……」だそうである。

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さりはま書房徒然日誌2023年12月15日(金)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読

ーイメージしやすい文もあれば、イメージし難い文もあって、いろんな風が吹いているような「風死す」の世界ー

煩悩を刈り取っていくという〈煩悩の富者〉のイメージは、煩悩だらけの私にはとても想像しやすい。
自分が刈り取られていくような思いで、以下引用文を読んだ。

使われている語彙も、「魑魅魍魎」「血みどろの闘争」「ぎらぎらした利鎌」「びゅんびゅんと揮い」「穀物のようにして横死をせっせと刈り入れ」と、おどろおどろしいイメージが具体的に浮かんでくる表現である。

この分かりやすい表現から4ページ後には、昨日書いた記憶の流れを刻もうとするような、不思議な、何度も繰り返してようやく見えてくる(?)文が現れる。

「風死す」の文のトーンは常に難しい訳でもなく、常に優しい訳でもない。
風が吹くように、文も自由自在に流れていると思う。その時の気分に合う文だけを反復しながら読んでもいいような気もする。

すると間もなくして 魑魅魍魎のたぐいのごとく なんとも妖しい雰囲気のみで存在し 
  いつものように自空間の鉄壁をいとも簡単に突き抜けて 勿然たる出現を呈するや
    揺るぎない核心と 永遠化された卓絶性と 血みどろの闘争という幻影に
      色濃く染め上げられた ぎらぎらした利鎌を びゅんびゅんと揮いながら
        穀物のようにして横死をせっせと刈り入れる かの〈煩悩の富者〉は
          いかにも大様な ざっくらばんな態度で弱者に手を差し伸べ

(丸山健二「風死す」1巻137頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月14日(木)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読

ー「記憶の流れ」を追いかけているような文ー

以下引用文は、句のかかり方をおそらく意識的に飛ばしたり、不鮮明にしたりしているのだと思う。
その結果、記憶がゆらめく中で思考しているようにも思えて面白く感じた。
引用文の箇所は、どうもレイアウトが再現できず説明しにくいので、写真を掲載させて頂いた。

「果てしなく流れつづけよ」は、直後に続いていくようにも、あるいは「おのれにしっかり託された病的な使命は」に続くようにも思える。

どちらが続きの文なのかと選択することで、「果てしなく流れつづけよ」という言葉への意識が変わってくるのではないだろうか。
どこに続いているのか判断を変えることで、二つの意識がせめぎ合うような文ではないだろうか。

「行けるところまで行くしかない」という言葉も、前の「おのれにしっかり託された病的な使命は」に続いているようにも、あるいは「おのれにしっかり託された病的な使命は」にかかっているようにも、どちらにも取れるように、わざと書いている気がする。

「精神の全体を衝き動かす」も、前の「おのれにしっかり託された病的な使命は」に続いているようにも、あるいは「魚形水雷に似た何か」にかかっているようにも思える。

こんなふうにどっちとも取れる文を故意に散りばめることで、記憶の流れを行ったり来たり……している感じがする。

丸山先生は「風死す」を「記憶の流れ」と言われたが、まさに記憶の流れにふさわしい書き方ではないだろうか。

「果てしなく流れつづけよ」という 従属せざるを得ない分だけ実に嘆かわしく思える
  そうなるとあとはもう 「正当化以外に何が考えられようか」とでも言うしかなく
    存在そのものを無に帰せしめてしまうほどの 実に虚しい欺瞞を小脇に抱えて
      行けるところまで行くしかない おのれにしっかり託された病的な使命は
        精神の全体を衝き動かす 魚形水雷に似た何かを闇雲に求めた結果が
          底なしの泥の沼に引きずりこまれて 漠とした戦慄に取りこまれ 


(丸山健二「風死す」1巻141頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月13日(水)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー丸山文学には、もう一人の自分がよく出てきますね=

〈絶望の覇者〉について語る以下引用箇所は、さながら絵画を観ているような心地がしてくる。
丸山先生は、音楽を繰り返し聴いて、その旋律のイメージを言葉にする……と語られ、「音楽 → 耳 → 脳 → 文字」というように音楽が文字になることを語られていた。
絵画から文章が浮かんでくることはないのだろうか……と、この文章にふと思った。

よしや最期の日がきょうであったとしても 黒い馬に跨って死の坑道を通って迫りくる
  〈絶望の覇者〉の姿が鮮明になり 精神界における望みなき紛糾が一段と活発化し

(丸山健二「風死す」1巻128頁)

以下引用箇所。「もう一人の自分(別な人格を有する自分)」は、「風死す」の、丸山文学の大きなテーマだと思う。
ただ自分が、もう一人の自分と対話しているのだから、おそらく矛盾や齟齬もあるのかもしれない。
私は「もう一人の自分」が出てくる時は、あまり意味にこだわらず、視覚的イメージや音楽のような、シンフォニーのような、文章の流れを楽しむことにしている。

少なくとも上辺だけは満ち足りているように思える世間が 見渡す限りを埋め尽くして
  おそらく自身が案出したであろう悪事の芽が 次々と萌え出でる青春の真っ最中に
     「心底からそうしたいのか?」と問うたのに対して 別な人格を有する自分は
「ほかに道はないのだ」ときっぱり答え 両者は互いに策応して事を運び
         強烈な指示を出す運命に決然と挺身し そのための権勢を執拗に求め

(丸山健二「風死す」1巻135頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月13日(水)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読

ー〈苦悩の覇者〉の存在を感じたら、たしかにイライラするかもー

〈苦悩の覇者〉と主人公が語る存在が、悩みだらけの私にはあまりに遠く、最初に読んだときはよくイメージをつかめないまま、ささっと素通りしてしまったような気がする。

以下引用文は、〈苦悩の覇者〉、おそらく苦悩を乗り越えた者を語る言葉を取り出したもの。

読んでみると、善なるもの、醜悪なるもの、この両方がバランスをとって存在している……という状態が、苦悩を乗り越えた存在なのだろうか?

主観と客観との純粋な同一性によって成り立つ、近寄りがたき〈苦悩の覇者〉

(丸山健二「風死す」1巻121頁)

陽光の金糸と紫黒色の粗悪な銀糸によって紡がれた 啓発的な存在

(丸山健二「風死す」1巻121頁)

〈苦悩の覇者〉と対峙しているうちに、主人公は苛立ってくる。こんなスーパーな存在を相手にしたら、誰だって苛立つだろう。

〈苦悩の覇者〉とイライラと向かいあっているとき、主人公が「もうひとりの自分」を呼ぶ姿が心に残る。

どうやっても到達できそうにない相手を前にしたとき、私たちは「もうひとりの自分」に助けを呼ぶのかもしれない。

もうひとりの自分をいくら呼んでも返事がなく
  とうとうしびれを切らして 怒鳴りまくり

(丸山健二「風死す」1巻122頁

以下引用文は〈苦悩の覇者〉を感じたあとの青年の心象風景。

「船が島影にに隠れるようにして」という悲しみに満ちた比喩。

「街灯が転じられるたびに」の後の意外な展開。

「完全離脱を疑問視」する心のやるせなさ。

「精神的な内玄関」という抽象的な事物を具体的なもので表現する面白さ。

「銅臭」という知覚に働きかける文で考えさせる意外。

最後「楽しむ」という三文字には、どこかそっと背徳を楽しむ雰囲気がある。

船が島影に隠れるようにしてささやかな希望が失せ

  街灯が点じられるたびに 人生設計が立ち消え

    破滅への恐ろしさで その場に居すくまり

      二十代の年齢層に見られる傾向が濁り

        属する集団の完全離脱を疑問視し

          精神的な内玄関がないと悟り

            銅臭を嫌う者を忌み嫌い

              獲物に目星を付けて

                身体内部を欺き

                  正当を欠き

                 
                  様変わりを
                    楽しむ。

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さりはま書房徒然日誌2023年12月11日(月)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー今度こそ〈苦悶の智者〉〈苦悩の覇者〉〈煩悩の富者〉〈絶望の覇者〉で落ちこぼれないようにしたいー

「風死す」では、〈苦悶の智者〉〈苦悩の覇者〉〈煩悩の富者〉〈絶望の覇者〉という四つの存在が語られている。

一回目に読んだときは、どれがどれだか分からなくなって落ちこぼれ状態で読み進めた。
もしかしたら、それでもいいのかもしれない……この社会はそうした存在が入り乱れているのだから。

でも、やはり再読なのだから、少しは違いを把握したいもの……と幾分丁寧に読む。

以下引用文は「苦悶の智者」について語っている箇所より少し抜粋。

最初の引用箇所の「生者のほぼ全員が帰依せざるを得ない」という表現は、「苦悶」というものを巧みに表現しているなあと思う。


「苦悶の智者」が口ずさんでいる歌について「なんとも陳腐極まりない おそらく安っぽい鎮魂歌」と表現することで、「苦悶の智者」が等身大の存在に見えてくる。

一方でその次の「壮大な丸天井としての蒼穹を背に 人の耳には聞こえぬ超低音で唄い」で、やはりコレは人でない感が強まってくる。

さらにこの文の中だけでも、〈苦悶の智者〉のイメージは「淑やかな足の運び」「破滅のカレンダー」「生と死の対立をそれとなく煽り」「旨みのない人生」「安っぽい希望」という様々な言葉で語られている。

嫌な存在としての「苦悶の智者」を喩える言葉が、次々と現れるところが面白さなのだろうか。

ときとして創造の ときとして破壊の象徴でもある天下無敵の絶対者は
  生者のほぼ全員が帰依せざるを得ない かの名高き〈苦悶の智者〉は

(丸山健二「風死す」1巻115頁)

なんとも陳腐極まりない おそらく安っぽい鎮魂歌のたぐいを口ずさんで
  壮大な丸天井としての蒼穹を背に 人の耳には聞こえぬ超低音で唄い

実に淑やかな足の運びで 気づかないうちに近づいてきたかと思うと
  これ見よがしに 一番見易い位置に破滅のカレンダーを掲示して
    密接な関係にある生と死の対立をそれとなく煽り立てながら
      旨みのない人生を力んで生きても無駄であることを諭し


特用品としては申し分のない 安っぽい希望のかけらを
        入り用な代物を信じさせて かなり強引に押し付け

(丸山健二「風死す」1巻117頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月10日(日)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ーほとんどの行が平仮名で終わっている!ー
ー短歌&俳句歴の長い方は「風死す」にすっと入れた!ー

注意力散漫なせいだろうか。読んでいるときには素通りしていたけれど、入力してみて初めて気がつくことがある。

「風死す」各行はほぼ平仮名で終わっている……ということも、入力して初めて気がついた。
ざっと見たところ1巻100ページまでのうち、漢字で終わっている箇所は24頁「結果」と30頁「最中」の二箇所のみの気がする。

これはどういう意図なのだろうか?終わりが平仮名だと、やわらかく次の行につながる気もするのだが……。たぶん私には分からない意図が働き、きっと効果を生み出しているのだと思う。

「風死す」を短歌歴、俳句歴がおそらく半世紀以上の方に見せたら、レイアウトの美しさに感心され、短歌と同じ発想が働いている箇所がある!と教えてくださった。
そして「読んでみたい」と。
丸山塾の塾生も戸惑う「風死す」の世界に、丸山文学に馴染みのない、でも歌人歴、俳人歴の長い方が違和感なくすっと入り込んでいく。
その姿に、「風死す」の楽しみ方は通常の小説を読むようなスタイルではなく、散文詩のように読んでいくものなのだろうか……とも思った。
そうだ!「風死す」というタイトルそのものが、俳句の季語なのである。
「風死す」の世界に入るには、小説のことを忘れ、短歌や俳句の創作にトライするといいのかもしれない。

さて以下引用箇所である。
そんな散文詩のような世界にも、オンラインサロンとかで伺った話と重なる丸山先生自身の記憶が、形を変えて散りばめられているような気がした。

小さな家柄を鼻にかけていた養父母の
  敗色濃厚な人生模様を想像するや
    たちまちに忘恩の徒となって
      とうとう家出を決意した
        あの日のあの夕刻に
          端を発する際の
            勇気溌溂が
              復活し、

(丸山健二「風死す」97頁)

偽りの家族愛に溶け合う日々をいきなり見限ったかと思うと
  節くれだった気構えと 自主独立の心の持ち主に変身し

  幸福もどきの家庭環境の急激な失墜を全面的に受け容れ
    のみならず またとない好機と捉えて ギアを替え


(丸山健二「風死す」98頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月9日(土)

丸山健二「風死す」1巻を少し読む

ー無機質な言葉が詩的な衣をまとう不思議さー

引用箇所は、犯罪者にして詩人、末期癌患者の20代の心を語っている。

犯罪へと傾いていく心を語りながら、感情を表す言葉は少なく、むしろ反対の数学や物理と関係のあるような言葉「生の傾斜角度」「善の水準器」という言葉がイメージをふくらませ、不思議な詩的世界が現れている。

無機質な言葉が詩的に思えてくるマジックが、丸山文学の特徴の一つにも思える。

ちなみに写真は水準器(水平器)なるものだが、初めて見た。写真を見ると、ジワジワと殺意が高まる感覚が伝わってくる気がした。

何かにつけて空虚な弁解を発するばかりの さもしい心根が
  いつしか知らず屈折した 生の傾斜角度をきちんと測る
   冷酷無比にまで精度の高い善の水準器と定まったり

(丸山健二「風死す」1巻96頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月8日(金)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読

ー言葉の連想ゲームでイメージを紡ぐ楽しみー

以下引用文は主人公の青年が次々と人を殺めたあと、しばらくしてから出てくる文である。

「種皮を被っての発芽にも似た心地を」という思いがけない語句の組み合わせが、頭の中でリフレインする。さらにそうした心が「淡い色と形の鉢に活けられた野の花が連想され」とは、どういうことなのだろうか……分からないからアレコレ思いをめぐらして楽しい。

突拍子もない表現だけれど、私の頭の中にスッと入ってくるのは「種子」「野の花」と植物つながりの語であるからなのかもしれない。
人知れず生命を輝かせるイメージが、流離う主人公と繋がっていく気がする。

「風死す」には、こういう言葉の連想ゲームみたいな楽しみ方もできるのではないだろうか?

あと先日の田畑書店のポケットアンソロジーもそうだけれど、丸山先生と関わった人たちが分からないような形でそっと作品の中に出てきている気がする。

なんかこれは私によく似ている……という人物の一文も、最後の巻にあった。
そんな隠された丸山先生の記憶のピースを探すのも楽しみ方の一つなのかもしれない。

今となっては 固唾を飲むほど素晴らしい 胸が躍る光景を目の当たりにしたところで 
  理知的な渇きがすっと癒されることがなくても種皮を被っての発芽にも似た心地を 
    のべつ自覚することが可能で 淡い色と形の鉢に活けられた野の花が連想され

(丸山健二「風死す」1巻95頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月7日(木)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー図形の比喩、かけ離れた言葉での比喩がイメージを広げる不思議ー

以下引用箇所も主人公の犯罪者にして詩人、末期癌患者の20代の心の言葉である。

丸山作品の中には、時々、図形が思いがけないところで比喩のような形で使われている。図形の比喩を用いることで、なぜか心に不思議なイメージが喚起される気がする。
「仮象の円弧」「流線形の決断力がますます冴え渡って」図形には人智を超越した、宇宙的な力があるのだろうか……無機質な筈の図形が豊かなイメージを生み出す事実に驚く。


それからもう一つ、かけ離れた語と語を用いる比喩を眺めていると、その言葉同士だけで一つの物語が生まれる気がする。


以下引用の「偽装染みた今生」「硫酸化鉄の青を想わせる色相の天空」「苦い思いのすべてを浮かんだ端から布のようにして気持ちよく裁断できる」とか……。

私は丸山塾で語と語が離れすぎていると「ぶっ飛びすぎている」と言われ、あまりに陳腐な語と語だと「語が弾けていない」と言われ……難しいものである。


このくらいの表現なら、語がかけ離れていてもOKなんだな……と、どこまで散文でジャンプできるのか探りながら読むのも楽しい気がする。

あくる日の夜明けまでには 見事なまでに美しい 仮象の円弧を描きながら
  まだるこしい永遠を前提としてどこまでも回転する 偽装染みた今生を
    なんとか無事に迎えられて 硫酸化鉄の青を想わせる色相の天空を
      どうにか振り仰ぐことが可能になったものの ただそれだけで

(丸山健二「風死す」1巻70頁)

苦い思いのすべてを浮かんだ端から布のようにして気持ちよく裁断できる
  流線形の決断力がますます冴え渡って 非業の死を遂げる最期に憧れ

(丸山健二「風死す」1巻89頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月6日(水)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー「風死す」の主人公が常時携行しているのはポケットアンソロジー的な本!たしかにポケットアンソロジーが似合う!ー

以下二つの引用箇所に描かれた主人公ー犯罪者にして詩人、末期癌患者である20代ーの内面に、人間がバタバタと足掻いて生きる苦しさ、美しさを思う。

月の明らかな深夜に太陽に背いて立つおのれを夢想したところで意味はないと
  そう弁えながらも試さずにはいられず というか 気づいた際には実行し

(丸山健二「風死す」1巻60頁)

とうとう分解が不可能なところまで追い詰められた おのが乱れし身魂は
  またしても激しく揺さぶられて 湯玉飛び散る危険な沸点へと近づき

(丸山健二「風死す」1巻62頁)

上記引用の苦しみつつ生きる思いは分かるけれど、私はいい加減に生きているから……と思った矢先に、自分と重なる箇所を発見、途端に「同志よ」という気分になってくる。

以下引用箇所を読めば、「風死す」の主人公は田畑書店のポケットアンソロジーみたいな本を愛読しているではないか……と発見。

たしかに風のように生きる主人公にはポケットアンソロジーが似合うと思い、私でも分かる感覚のおかげでぐいと引き寄せられる。

数冊の小冊子を綴じ合わせて作った自分専用の本を常時携え

(丸山健二「風死す」1巻63頁)

さらに以下の引用箇所、薬を廃棄するのも、喧嘩を見物するのも、私みたいだ……と難解そうな「風死す」が一気に近く感じられてくる。
ただし「指呼の間にある彼岸」だけはどういう感覚なのだろう……と想像して楽しむ。

すべてがわかるわけでないから面白くもあるし、難しいなかに自分と重なる部分を少しでも見つけると距離が一気に縮まっていく。

処方箋によって調剤された薬を廃棄し

指呼の間に在る彼岸を前に嘆息し

街中の派手な喧嘩を見物し

(丸山健二「風死す」1巻63頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月5日(火)

丸山健二「風死す」1巻を少し再読する

ー意識を束ねてゆく言葉の力ー

私自身、駅のミルクスタンドで飲む牛乳も好きだし、深夜のホットミルクも好きなせいか、以下引用文が目に留まった。

主人公が駅の売店で購入したホットミルクを飲むほんの一瞬、意識に働きかけてくる様々な記憶が描かれている。

読んでいるときは気がつかなかったが、字数をレイアウトに合わせることで文が凝縮されてゆき、だんだん己に目が向いていく感じがある。
「強者には絶対付き従わず 獣の人間化に邁進し」という漢字が多いせいか強い印象のある言葉で思いが頂点に達するように見える。

「旅の空に病んで」からは緩み、詩的になり始めてゆく気もする。

「生の守備一貫を 投げ捨て 安らぐ」は、まさにホットミルクを飲んで様々な時を流離う主人公の思いを表現しているだろう。

人によっては、ホットミルクを飲んでいるだけではないか……と言うかもしれない。
でもホットミルクを飲んでいる一瞬を描きつつ、言葉が時を縦横無尽に束ねているようで、言葉の持つ可能性というものを考えた箇所である。

人混みに弱いことを自覚して身辺に気を配りつつ 駅構内を歩き
  売店で購入した温かい牛乳を飲むと 切実な問い掛けが生じ

  回避不能な無がひと塊りになって 心の上にどっとのしかかり

    必需品を納めた小物入れでも紛失したかのように狼狽し

      自我からいっさいの意味をみずからの手で消し去り

       異論百出が胸の四方八方を微動だにせず睥睨し

         昔時を現代という名の槍で激しく突き上げ

           政権の醜悪な争奪戦を冷ややかに眺め

             和菓子を調進する若い女将に惚れ

               角目立っての口論を受け流し

                 強者には絶対付き従わず

                   獣の人間化に邁進し

                     旅の空に病んで

                     生の首尾一貫を
                        投げ捨てて
                        安らぐ。

(丸山健二「風死す」1巻56頁57頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月4日(月)

丸山健二「風死す」1を少し再読する

ー人間の意識と無意識の境界を書いているような二行だと思ったー

人間の意識というものを散文で表現すると、引用文のような状態になるのかもしれないと面白く読んだ。

「人間的な規範」を考えていくと、たしかに「際どい放物線」を描いてゼロに近づいていくのだろうか……という気がする。
「際どい」とは、どういうことなのだろうか?否定されたり、肯定されたり……という営みを指しているのだろうか?
「その先には無が広がり」という感覚も、とても頷ける、素敵な文だと思った。

昨日、昔からの丸山文学ファンが散文詩のような文体を敬遠して後期作品から離れている一方で、私の拙いブログを読んでくださっているお若い方のように、いきなり後期の丸山作品を真摯に読んでくださっている方もいる……と書いた。

その違いは……?と考えているうちに、昔からのファンの方は今よりストーリー性の強い初期作品に馴染んでいたり、あるいはバイクに乗ったり、船に乗ったり……そんな丸山先生の若い頃の生き方に憧れていたのだろうかという気もしてきた。

一方、いきなり後期丸山作品を真摯に読んでくださるお若い方は、丁寧に一語一句を読んでくださっている。さらに図書館で朗読活動もされている方だ……おそらく細かく作品をイメージしながら、言葉を楽しみながら、読むことを習慣にされている方なのだろう。

たぶん後期丸山作品を楽しむには、朗読の準備をするような心持ちで、ゆっくりと読むことが必要なのかもしれない。

引用した文も、この数行だけで満足がある世界ではないだろうか?

人間的な あまりに人間的な規範のあれこれが 際どい放物線を描きつつ
  哲学的妄念に包みこまれて落下の一途を辿り その先には無が広がり

(丸山健二「風死す」1巻46頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月3日(日)

丸山健二「風死す」1を少し再読する

ーもう一人の自分が無数にある世界ー

丸山先生は作品にあわせて文体を変えるとよく言われる。

初期の簡潔な通信士のような文体からスタートして、時代ごとに随分と変化していると思う。

私は後期作品から丸山作品に入ったので、どちらかと言えば後期作品の方が読んでいて楽しい。

一方で初期の頃から読んでいた長いファンの方にすれば、散文詩のような後期の作品はどうも読みにくいらしい……。
そういえば、随分とお若い方が私のこちらのサイトを真剣に読んでくださっているようで有り難く思っている……。
昔からの丸山ファンの多くが後期作品から離れて行ったのに、とてもお若い方が後期作品を真摯に読んでくださる……この違いは何だろうか、わからない。
寺山修司にも、今でも20歳くらいの熱烈なファンがいると聞いたことがある。

余計なことながらミステリは、あまりその類の話を聞かない気がする。若者の好み、年配者の好みがくっきり分かれてしまっているのではないだろうか。
年齢差を乗り越えられる文学、年齢で層が固定してしまう文学の違いはどこにあるのだろうか……。

閑話休題。
丸山ファンも中々読破できないでいる「風死す」に戻る。
この作品は、丸山先生が、丸山先生の記憶や意識が、たくさん散らばった万華鏡のような世界だと思う。
先日も書いたと思うが、丸山先生の姿を発見しては「あ、こんなところにいた!」と楽しむこともできるのではないだろうか。

引用箇所一番目、左斜め下りのレイアウトが綺麗に再現できず読みにくいと思うが……。
ここで出てくる「突風」は丸山先生自身の姿、今の思いではないだろうか?そう思って読むと切なくなるような、しみじみしてしまう箇所である。


引用箇所二番目、「もう一人の自分」というのは量子力学的に必ず在ると丸山先生は確信をもって語られる。
「もう一人の自分」ドッペルゲンガーは、丸山作品の大切なテーマなのである。
「風死す」では、「もう一人の自分」が無数に出てくる気がする。だから混乱するのかもしれないが、矛盾だらけの一人の人間の内面を気楽に旅されるのもいいのかもしれない。

山間部の僻地にこそ相応しい 自由な分だけ奔放にして無頼な突風は
 やがて 草木と木木の植物で埋め尽くされた遠景へと呑みこまれ 
   途中で関わり合ったすべての人間に纏わる一身上の余所事に
     乾いた別離の言葉を投げて 妖しい光の奥へ吸いこまれ
       それきり消滅して その後に何ひとつとして残さず


(丸山健二「風死す」1巻34頁)

髪を逆立てて 心身を硬直させた 間抜けなもうひとりの俺のすぐかたわらに
  よしんば目玉をくり抜かれたところで見ることを止めない俺をそっと据え

(丸山健二「風死す」1巻38頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月2日(土)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を読了

ー自然讃歌と人の世への糾弾を行きつ戻りつするうちに読了ー

「巡りが原」が語る物語、ゆっくり読んでいたせいかすごく長い時の流れのように感じていた。

だが最後に近づくと、巡りが原が「わずか半日」というようなことを繰り返して言うので、ハッと現実に戻される。
「トリカブトの花が咲く頃」は、ある日の午後のわずか数時間たらずを語った小説なのだ。

でもテーマの重さといい、自然の美しさといい、時間を自由自在にたわめ、いつまでも哀しい繰り返しを続けてしまう人の世を見つめているような小説だと思った。

引用文の逸れ鳥の囀り「世界は人間に無関心であり 救世主はいまだ到來せず 人間は平和に無関心であり ために戦爭が獣性の遺産となる」という身も蓋もない事実が、丸山文学の大切なテーマでもある。

一方で「あした開く花は欲も得もなく眠りこけている」という文は、毎日庭づくりに励まれている丸山先生だから出てくる文だと思う。

自然を語る美しい文、人の世を糾弾する厳しい文……そのあいだを行きつ戻りつするうちに、時の流れを忘れてしまう「トリカブトの花が咲く頃」には、たしかに「。」は不要なのかもしれない。

あの逸れ鳥が
 
 ひときわまばゆい光彩を放つ落日を背にし
  かなり皮肉な調子で
   こんなさえずりを放っている

世界は人間に無関心であり
 救世主はいまだ到来せず

人間は平和に無関心であり
 ために戦争が獣性の遺産となる

ほどなく
 「巡りが原」に淡い影を散らす夜が落ちかかり

美しいが上にも美しい
 多大の真理をふくんだ月光は
  現世におけるかぎりない試練の数々と
   死に満腹してしまったトリカブトの花々を優しく照らし

すえ枯れた花は「罪とは何か」を問いかけ
 きょう満開の花はひたすら至福の高みにあり
  あした開く花は欲も得もなく眠りこけている

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻487頁488頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年12月1日(金)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー醜い人の世と自然の美しさのコントラストが鮮やか!ー

社会のあり方、人間のあり方について、丸山文学は手厳しいことを遠慮なく語る。
だが、そうしたものとは対極に位置する自然界を詩情豊かに、言葉を凝らして書く。
だから、いくら非難しても、決してスローガンにはならず、儚いものを言葉に刻む芸術としての美しさがある……以下、ラストに近い引用文にもそんなことを思う。


「巡りが原」の面……という引用部分に、先日の丸山塾での一コマを思い出す。私が無神経に「アブラナの上」と書いた箇所を、丸山先生は「菜花の面」と直された。「上」と「面」では、どうして喚起されるイメージがかくも違うのやら……ただただ不思議である。

月白は皓として輝き
 宵の明星が放つ金色はどこまでも清らかで

ほどなく
 雲ひとつなく
  しっとりとした夜が天空の堂宇をおおいつくす

つれなさをおぼえるほど深閑とした「巡りが原」の面には
 月の色をした霊気がゆるゆると立ち昇り

つまり
 心次第で在り方が決まってゆく生者の気配などはどこにもなく

多様多彩な有機体がひしめくあたり一帯には
 すり切れてゆくばかりの時間の断片や
  存在のちぐはぐな在り方や
   全能者の歯切れの悪い口調や
    幸運にみちた人生の儚さといったものを
     如実にあらわす蛍の光だけが
      不必要に数多く散見されるばかりだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」453頁454頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月30日(木)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー自然を語る言葉の面白さ、平仮名と漢字のメリハリを思うー

未読の方も多いだろうから、粗筋は最低限にとどめ、文体や作者の考え方に魅力を感じたところを取り上げてきたつもりである。

さてラスト近くになってきた。黒牛、逸れ鳥、瞽女の娘、特攻隊くずれの青年、堕落した僧侶……それぞれの不思議な結末を巡りが原は見届ける。


ラストが近づいてきた以下引用箇所、「闘争好きのつむじ風」「自由のすべてを排除してしまうような勢いだった雲」「稲妻と雷鳴の数が激減」「目減りする一方の陽光」と、自然を語る言葉は私が今まで見たこともない言葉が使われていながら、物語が生まれるような美しさがあると思う。


それから入力していて、とりわけこの箇所は風景について語る文は平仮名が多く、精神や思考を表す言葉で漢字が使われているような気がした。

平仮名で書くことによって巡りが原の柔らかな緑が浮かび、漢字を眺めると思いの複雑さを感じる気がするのだが……はたして、どうなのだろうか?

ほどなく
 あちこちに渦巻いていた
   闘争好きのつむじ風が空中に散らばり始め

あれほどまでに濃密で
 自由のすべてを排除してしまうような勢いだった雲がみるみる薄まってゆき

それにつれて稲妻と雷鳴の数が激減し
 ついには消え消えとなり
 「巡りが原」の様相が玄妙にして不可思議な寂寞へとむかう


代わりに真昼の陽光がもどってくるのかと思いきや
 それはなく

というのも
 すでにして太陽が山陰に隠れかけていたからで

ひたすら長い影を草原に落とすシラビソの巨樹は
 何事もなかったかのように
  雨のしずくをやどしてきらきらと輝き
   おのれの根本に発生したとほうもない怪事にたいしてもいっさい私情をまじえず
然りとも否とも言わず

 目減りする一方の陽光のなかにあって
  静かで高尚な自己満足にひたりながら
   あくまで素知らぬふりを決めこんでいる

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻445頁〜447頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月29日

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー太陽の問いに躊躇する巡りが原におのれが重なるー

瀕死の特攻隊くずれの青年を救おうとする瞽女の娘を見て、巡りが原は助けたいと思えども、望むように動けぬ身に苛立つ。

そんな巡りが原の葛藤は、私たちが毎日できるだけ考えないように誤魔化している生の不安に他ならないのではないだろうか?

語の繰り返しは嫌う丸山先生だけれど「『ぎらぎら』という言葉は別。繰り返しても大丈夫」と言われていた記憶がある。
たしかに「ぎらぎら」には繰り返されても、どきりと迫る何かがある。

いや
 是が非でも助けてやらなければならず

また
 それくらいのことができずして
  意識と知性と慈愛をさずかっている「巡りが原」の存在意義はないのだ

 ぎらぎらの太陽が
  ぎらぎらの言葉で
   ぎらぎらの問いをこの私に投げかけてくる


そもそも汝は何者ぞ?


しかし
 自己の根拠を何に求めていいのか
  どうやって自分自身に折り合いをつけていいのか
   さっぱりわからぬ私としては
    ただただこう答えるしかない

それを問いたもうな!

なぜとなれば
 すべての存在がその件で思い悩み
  苦しんでいるのだから!

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻405頁〜406頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月28日(火)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー死に神も生き生きと美しくー

巡りが原にやってきた瀕死の特攻隊崩れの兵士。瞽女の娘はシラビソの木の下でなんとかその命を救おうと試みる……。

「巨樹の形を無断拝借した」という表現に、死の気配すらも自然の一部分として受けとめ、少し忌々しく思いながらもユーモアを保ち、死にも美を感じているような作者の視線を感じる。

青年の上に奇怪な影を落としているのは
 四季を通じて超然とした態度を保ち
  耐えて逆境に打ち克つシラビソなどではなく

たぐい稀なる巨樹の形を無断拝借した
 この世のいたるところで跳梁し
  暗躍している

   生を圧迫し
    生者を葬り去ろうとしてやまぬ
     額に無情のしわをきざんだ死に神にほかならない

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻390頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月27日(月)

丸山健二「風死す」1を少し再読する

ー最後の「風死す」に至るまでの間に風も変化している!ー

詩人にして犯罪者、末期癌患者の20代青年が主人公の「風死す」。
ストーリーがないようでいながら、最後「風死す」に至るまでの間に風もじわじわ変化している……と、以下引用箇所に思う。


最初は「最小のつむじ風」とか「ケチな規模の旋風」であったことに、再読で気がつく。
ストーリーが進むにつれて風も変化してゆくのだ。
今度は、風の移り変わりにも注意しながら読んでいってみよう。

やくざな根なし草の典型として 旅烏や流れ者や風来坊と称され
  重苦しい立場に纏わる胸のうちを 最小のつむじ風が渦巻き

(丸山健二「風死す」25頁)

さらに しばらくの後 そのケチな規模の旋風は 薄っぺらなおぼろ雲に似て掻き消え

(丸山健二「風死す」25頁)

以下引用箇所、主人公の選択に迷う気持ちを表現している。二十代の青年が迷うのに相応しい、格好いい表現だなあと思う。

蒼穹を仰ぎ見るか小流を渡るかのいずれかで

(丸山健二「風死す」27頁)

ストーリーがないようでいながら、底に流れる丸山先生の思いはやはり変わらず……と以下引用箇所に思った。

高額な報酬やまずまずの出世をすっかり諦めた官僚よろしく
組織からの解放が至上の喜悦であることを再確認した後


(丸山健二「風死す」27頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月26日(日)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」

ー巡りが原の言葉に生きることのしんどさを思うー

以下引用部分は高原・巡りが原がおのれを語る箇所。
巡りが原のことでもあり、丸山先生自身のことを語っているようでもあり、人間全般を語っているような箇所だと思った。


「生の存在であることからは そう簡単に脱出できない」という言葉に、生きていることへのしんどい思いも感じられる。


そういえば、いつかオンラインサロンで死後の世界を尋ねられた丸山先生が、たしか「もう一つの世界は物理学的に必ずあると思っている。でも、また生きていくのなら、それはしんどい、勘弁してもらいたい」というようなことを言っていたと思い出す。

夢を抱きやすく夢を放棄しやすい
 そのくせいつまでも目を覚まさぬ
  自分に都合のよいときだけ強がりを言ってみせる弱者でいっぱいの
   いたずらに騒々しい俗世間に近似している

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」354頁)

けっして放恣な想像力から生まれたわけではなく
 現世における空虚な付け足しでもないこの私が

無防備な意識と
 果てしない倦怠と
  望んでも得られぬ定めをさずかった
   生の存在であることからは
    そう簡単に脱出できない

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」355頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月25日(土)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー刹那の美、発見!ー

醜いこの世をコテンパンに描く丸山文学だけれども、それでも読み手が倦むことなく読み続けるのは、言葉と言葉が刹那の美を喚起してくるからであり、悲劇的な状況でも視線が未来を追いかけているからのような気がする。

「トリカブトの花が咲く頃」に出てくる自然は、巡りが原にしても、黒牛にしても、それぞれ象徴するものがあるように思う。


なかでも黒牛の角にとまっている逸れ鳥は、丸山文学の魅力である「刹那の美」「未来」を象徴しているようで心に残る。


以下、逸れ鳥が出てくる引用箇所。

他方

日々を織りなす現実になんの不都合も感じず
 およそ頓挫というものを知らぬように思えてしまう

  あたかも富裕な門閥のごとき
   はたまた抑圧者の権勢のごとき

    傲岸不遜な雰囲気を具えた
     韜晦趣味が似合いそうな
      そのくせ喧嘩早そうな逸れ鳥はというと

相変わらず陽気に過ぎる歌を朗唱し
 疑問の余地なき自明の理としての自由を讃歌し

なおかつ
 生まれゆく世界と死にゆく世界のあわいに存し
  まさに消えんとする今現在そのものの明確な意図をどこまでも絶賛し

太初以来連綿としてつづく過去にはいささかも拘泥せず
 未来にたいしてはあり余るほどの秋波を送る

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」306頁〜307頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月24日(金)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー詩と散文のあわいを進む文ー
ー巡りが原とは誰?ー

以前、どなたかが丸山先生に「詩と散文の違いは?」と尋ねられていたことがある。
先生が何と答えたかは定かに記憶していないが、「詩になりかけながら、踊るようにして散文を書いたっていいじゃないかと思う」そんなことを言われていたような記憶がある。

以下引用文にそんな言葉がよみがえってきた。
たしかに踊りながら散文と詩のあわいを進んでゆくような、丸山先生ならではの独自の文体だと思う。

げんに

祝婚の歌と踊りが似合いそうな
 今を盛りとはびこる豪奢な夏のなかにあって
  それぞれが運命を読み解く鍵を握っているにちがいない万物が

   存在者としての節度を守りつつも
    こぞってこんなことを叫んでいる


「現世は虚構にすぎん!」

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」288頁〜289頁)

以下の引用文を読んで、「いかなる権力にも従わぬ」「常に独立している」という巡りが原は、丸山先生自身の姿を投影した存在なのだと思った。
高原に作家が自分の思いを託して語ると、人間が語るときにはないような深み、ユーモア、説得力があるように思う。

いくらひろがっても全体をうしなうことのない
 底なしに明媚な碧緑の地のなかで
  不可視なる波目模様を描きつつ
   入り乱れながら野を飛ぶ光と風は

狂騒の季節の完璧を期すべく
 無欲な暮らしが似合いそうな
  あっけらかんとした夏空を背にして
   自由奔放さをいかんなく発揮し

深い無関心を装いながらも
 ある種の呪力をもって

「巡りが原」という
ひょっとすると不滅かもしれぬ民間伝承の名を穢すことなく
いかなる権力にも従わぬことを旨とするこの私を再構成し
常に独立しているわが哲学をさらに錬成するのだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」304頁〜305頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月23日(木)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー悲惨さから広大無辺へ、小さな命の輝きへと視線を向けさせてくれるー

環境破壊、繰り返される戦争……このままだと人間そのものが、みずから自然消滅していってしまうのではないだろうかと憂鬱になる昨今である。
丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」でも、戦死した者たちの悲惨を下記引用文のようにピシャリと書いている。

戦死者からのいっさいの意味を奪い去り
 行き場を失くしたかれらの魂をほったらかしにし


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」256頁) 

だが丸山文学の素晴らしさは、徹底的に糾弾はしても、読み手の視線を悲惨さから、もっと広い存在へと向けさせる点にある。

先ほどの引用文のすぐ後には、空を語る文がつづく。下に引用した「始まらんとする命が何よりもまず天をふり仰ぐのもそのせいで」の言葉に、私の視線も思わず上を向いてしまう。

その次に「天体の輝きを彷彿とさせる」と天と繋げるようにして、小さな甲虫の命を言葉を尽くして書く。

私の心の中で、人間である悲惨さ、空の無限、小さな甲虫の輝きが、ひとつになって浮かんでくる文である。

忌避しえぬ未来にしっかりと食いこんでいる
  青い球形の
   ひょっとすると存在と無の境界かもしれぬ
    現世の天蓋としての空は
     かならずしも逃れる術もない束縛の世を象徴するものでもなく

 そうではなくて
  重力の薫陶よろしきを得た万物が持ちつ持たれつの関係にあることをそれとなくほのめかすものであり

  また
   つぎからつぎへと湧きあがる傲慢な欲望を吸い取る受け皿としての役目もきっちりと果たしており

 時代が一新され
  刷新されつづけるのはひとえにそのせいで
   始まらんとする命が何よりもまず天をふり仰ぐのもそのせいで

 はたまた
  今回の平和はたんに言葉だけのものではなさそうだという
   人間の無能さにもとづいた
    毎度お馴染みの錯覚が堂々とまかり通っているのも
     じつはそのせいなのだ

 華々しい引退をもくろむ天体の輝きを彷彿とさせる
 色とりどりの宝石をちりばめた黄金の王冠のごとき反射光を放つ鞘翅【さやばね】をいっぱいにひろげ
 凄まじい勢いでそれをぶるぶるとふるわせながら
  恐るべき不羈【ふき】の力を発揮し
   ひとつ間違うと命取りにもなりかねぬ熱風に逆らって果敢に飛ぶ甲虫のたぐいは

 目が覚めるほど美しい光芒を辺りに拡散させることによって自然の非情な部分をぐっと和らげ

 蜂とはひと味ちがう重厚な羽音を響かせることによって悪だくみとは無関係な軽微な罪を赦し

 夢見るような曲線的な飛行をもってして
生きているだけで事足れりとする柔和な雰囲気を押しひろげる

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」258頁〜260頁)

丸山先生は諸々にNOと言い、糾弾し続けたせいで、色々と失ったものも多かったと思う。
それでも否と言い続けてくれることに、読む者の目に、広大無辺な天空から小さな命の美しさを、言葉であらわしていってくれることに、ただ感謝しつつ読む

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さりはま書房徒然日誌2023年11月22日(水)

丸山健二「風死す」を少し再読する

ーもう一人の自分がたくさんいるー

たしか「風死す」には、主人公の「もうひとりの自分」的存在にあたるものが、名前は忘れてしまったが三つくらい出てきたような気がする。
わたしたちの記憶の中では、複數のもうひとりの自分が叫んで、それぞれの物語を紡いでいるのかもしれない……。
だが、そんなことを深く気に留めずに一回目は読んだ
今度は主人公の複数の「もうひとりの自分」の声に耳を傾けながら再読したいものだ。

宿命の延長としか思えぬ身の縮む思いの数々や 居場所を与えられぬための煩悶が
 常に方図もないことを言いつづけるもうひとりの自分に 丸ごと呑み込まれ


(丸山健二「風死す」18頁)

色々書き方は変化すれども、以下引用文のように丸山先生の思いは変わらず。かつてよりも強烈に、鮮明になってきているかも。

殊のほか手間取った国家予算編成に纏わる 思わぬ弱点の数々が
 次から次にさらけ出されて公益優先の原則と原理が無視され


 か弱き立場の国民が支配者層に死ぬことを求められる機会は
  愛国と護国の美名の下に急速に増大しつつあると見なし

(丸山健二「風死す」23頁)


丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー帰還兵の悲惨を知るー

巡りが原に衰弱した帰還兵が現れる。
今まで私が抱いていた帰還兵のイメージとは、無事に帰ってきたことを喜び、周囲から祝福される姿だった。
だが巡りが原が語る帰還兵の身の置き所のなさ、やるせなさに、戦争に行った兵士たちの死ぬも地獄、生きて帰るも地獄……を思う。
同時にそういう若者を大量に生み出しながら、「おめおめと」居座り続ける存在が、それを問うこともない社会のいい加減さが見えてくる。

ことほどさように急激な秩序の崩壊と権威の失墜のなかにあって
 唯一の拠り所であった武力にいきなりくつわを嵌められ
  だしぬけに戦闘とは何も関係ない事柄にぐるっと包囲されてしまった生き残りの兵士のひとりとして

 この若者もまた
  あまりにも開けっぴろげな強国によって新たに敷かれた国家的枠組みと社会的基盤にどうしても馴染めず
 駐留軍の兵士が投げかける勝ち誇りの眼差しと蔑みのほほ笑みにいつまでも憤れず
 望みもしない時代に強く拘束されることに耐えきれなくなり
  未来が何ひとつ実を結びそうにないように思え
   心の空白を何によって埋め合わせていいのかわからなくなってしまったのだろう


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」176頁)

相も変わらず不条理な高みに鎮座まします天皇と同様
 いまだにおめおめと生きており
  荒廃した祖国に冷徹自若として佇んでいるおのれにどうしても我慢ならなくなったのだろう

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」178頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月21日(火)

丸山健二「風死す」1巻少し再読する

ーちまちま韻律を見つける楽しさー

記憶の流れがテーマの「風死す」は、様々な断片が散りばめられている。
そのピースがバラバラになってしまわないように、丸山先生は独自の韻律で束ねようと試みられていると思う。
まず形。菱形、テーマを歌うような四、五行まとまりの斜め長方形、そして斜め左下りに連なる文。
説明しにくいので、いぬわし書房のサイトに掲載されている「風死す」の写真を使わせていただく。

再読してようやく右頁下の左下り文が、頁をめくるごとに徐々に行数が増えていっているのに気がつく。

左下りの文の連なりが最初に終わる12頁では、「覚える」の一語が右頁一番下にポツンと配置されている。(写真一番上)
もう一頁めくって、14頁の右頁一番下の左下がりの文は3行。(写真真ん中)
16頁は5行(3行、スペース、2行)以下(、)でスペースひとつ
18頁は6行(1行、3行、2行)
20頁は5行(3行、2行)
22頁は5行(1行、1行、、3行)
24頁は10行(3行、、4行、、3行)
26頁は12行(3行、、2行、、2行、、3行、、2行)
28頁は16行(2行、、2行、、4行、、2行、、2行、、2行、、2行)
30頁は20行(3行、、2行、、3行、、3行、、3行、、2行、、4行)
32頁は22行(2行、、1行、1行、1行、1行、、5行、、2行、、5行、、4行)

それぞれの段落?の構成行数も、もしかしたら何か意味のある数字なんだろうか?とカッコの中に書いてみたが、わからない。
とにかくだんだん行数が多くなっていって、また振り出しに戻って同じ形が繰り返される。

ラベルのボレロみたいに音が繰り返されながら、終局に向かって段々音が強くなっていくイメージ。

こんな試みをちまちま見つけるのも楽しい。

なかには「それがどうした?」と言われる方もいるかもしれない。でも短歌を学んで、韻律は言葉の表現の要、侮れないと思うようになった。
そして自分ならどんな形の韻律を考えてトライしようか……小説の韻律とは……と考えてみるのも楽しい。

短歌や詩歌と比べ、小説の歴史はとても浅い。
歴史の長い短歌には色々とそれまでのあり方を覆そうとする試みがあったようだけれど、小説にはそこまでの変化があまり起きていないと思う。

小説は新聞や雑誌に効率のいい形で発展していったが、その母胎となっていたメディアは今や衰退した。
読者もゲームや漫画、映画にかなり分散していった。

小説もこのまま衰弱死するのだろうか?たしかに映像で一気に伝え、迫ってくる映画や漫画には負ける部分がある。
でも言葉が喚起するイメージは無限大。言葉の魅力を追求していく形でこそ魅力的にひっそり生きながらえるのではないだろうか?とも思う。

そしてPASSAGEの棚主をみれば、丸山先生的試みの詩集を継続的に刊行されている詩の若い書き手さんとかがいらっしゃる。
新しい在り方を試みようとしている流れはすでに始まっているのだ。それを楽しみにしている人も多くはなくても、確実にいる。

だから「風死す」を眺めつつ、どんな韻律が使われているのか見つけ、他にどんなフォルムや言葉が可能か、丸山先生がやっていないことを考えるのも楽しい。生意気だが……


「風死す」のようなボリュームにいきなりトライはできないけれど、20頁くらいの小冊子なら色々実験できると思う。墨の色に濃い淡いがあるように、内容によってフォントの色をかすかに変えていくとかそんなことをあれこれ思いながら、読んでいくのも楽しい。

以下、表現が面白いなあと心に残った文。

至福感の極みとやらをデフォルメした 黄金色の夢と幻を強く暗示し
(丸山健二「風死す」1巻10頁)

悪い環境に染まって発熱した心を認め
(丸山健二「風死す」1巻13頁)

悪と罪の裂け目を満たすのは
きめの粗い狂熱くらいで
(丸山健二「風死す」1巻15頁)


丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー他の作家が言わないことをばっさり語ってくれる有り難さー

或る出版社のブログを拝見していたら、かつて富岡多恵子が日本芸術会会員となったことについて、そういう選択をする人だったとは思っていなかった……と失望した旨が書かれていた。
詩人が、作家が、国家に認められ、そしてその象徴たる存在のお墨付きをもらい、ご褒美としての芸術院会員の年金をもらうということが、これほど厳しい目で見られるとは……と思ったものだ。
ただ伝統芸能の世界では、芸術院会員とかはめでたいという感覚のようだから、伝統芸能に詳しい冨岡多恵子にすれば何ら問題を感じることなく受け容れてしまったのかもしれない。

以下引用文を読みながら、冨岡多恵子へのそんな失望の声を思い出した。引用文のかくもはっきり咎める声に爽快感を覚える。
ただ今の若い人たちは、かなり勉強のできる人であっても天皇や皇后の名前も知らず、宮内庁なる組織の名前すらも知らず……完全に無関心である。

このままフェードアウトしていってくれるのか、それとも無知につけ込まれていいように復活するのか……とも迷ったりもする昨今である。

それから
 命そのものであったはずの神道の衣をあっさり脱ぎ捨てたかと思うと
  今度はその精神を一挙にアメリカ主義に転化させ

   国民を象徴する
    人格高潔にして善良で聡明な存在という
     苦肉の策からもたらされた異様な地位に活路を見いだし

あろうことか

見え見えの権威に手もなく欺かれ
 どれほど話にならぬような酷い時代であってもすんなり受け容れてしまう
  無思慮にして無分別な国民に急接近を試み

じつは自分も国民と同じ人間なのだという
 苦笑する気にもなれないほどあけすけで
  あまりにも厚かましく
   あまりにもくだらない
    まさに噴飯ものの宣言を臆面もなくやってのけたのだ

そうやって天皇は
 苦悩と腐心を精いっぱい装うことによって人目をくらまし

相前後して
 卑屈なまでにぎごちない恭順な態度を取り
  どこまでも作為的で不器用な愛想笑いを浮かべて戦勝国の元帥にすり寄り

 側近の入れ知恵でもあるそうした策がみごと功を奏し
  多少の失態は演じたものの
   侵略戦争に象徴される国家的犯罪と手をむすんだことなどただの一度もありはしない
 要するに
  一滴の血にも穢されていない
   戦前の天皇をはるかに凌ぐ公明正大な温厚な人物として

    当分のあいだ価値観の大きなゆらぎと極度の貧困にあえがなければならない国民から
 好感をもって迎え入れられることに成功したのだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」174頁〜176頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月20日

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー自然の美と戦争ー

以下引用文は、巡りが原の風景を、その上を進んでゆく牛、鳥、盲人を語っている。語り手は巡りが原。
句点のない文から、「踊る陽炎」「草の海」「綾織模様」「謎絵」「魔術的風景」と巡りが原の自然を語る言葉から、巡りが原の自然が美しく、草が揺れるように脳裏に無限に広がってゆく。

言葉の魔力を感じる箇所である。

そして
 踊る陽炎と草の海とが目にもあざやかな綾織紋様を描きだす
  謎絵のごとき魔術的風景をかき分けていくらも行かないうちに
   牛と鳥を引き連れての盲人の旅という
    まったくもって荒唐無稽な組み合わせによる純粋な体験がたちまち発酵状態にたっし

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」150頁)

「トリカブトの花が咲く頃」に限らず、丸山文学は片方の手で自然の美しさを書き、もう片方の手で戦争の悲惨さや矛盾を、終わった後に帰還してきた兵士や戦災孤児、平然と居座る者たちを通して書いている。
この二つの対立する世界を追いかける視点と文に魅力を感じる。
詩のような文体に移行してから、このテーマがさらに強烈になっていったのではないだろうか。
それなのにテーマの重さゆえか、文体ゆえか、段々読む人が少なくなっていったことは残念である。

彼は紛れもなく戦争そのものの犠牲者であり
 私は戦争の歴史を長いことくぐりぬけられたことによる犠牲者であり

両者は
 たんに時代の表皮が変わったにすぎぬ時の流れに翻弄されるばかりの
  いつ沈むかわかったものではない木の葉の舟に乗せられて激流を下る蟻のごとき存在なのだ

 戦争!
  ああ
   なんたる愚行!

 戦争!
  ああ
   なんたる悲劇!

 戦争!
  ああ
   なんたる徒労!

 戦争!
  ああ
   なんたる常習!


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」166頁)


丸山健二最後の長編「風死す」一巻を少し再読する

ー「風死す」を楽しむには……私の場合ー

丸山先生の最後の長編小説「風死す」を購入された方々と話をすると、中々読み進めることができないでいると言われる方が多い。
読むそばからストーリーを忘れてゆく私が、とりあえず「風死す」全巻を読破したのは何故だろうと不思議な気がしている。
もしかしたら、すぐにストーリーを忘れていくキャパシティの小さな脳ゆえに読了したのかもしれない。

丸山先生は「文体について教えてくれる人は誰もいなかった」というようなことを言われていたと思う。

作品ごとに一人で文体を変え、「風死す」の文体に到達した丸山先生。

そんな丸山先生の文章についての考えと、歌人・福島泰樹先生の教えはぴったり重なることが多くて驚く。

短歌のことをよく知らない私が言うのもなんだが、丸山先生は文体を極めようと努力されるうち、短歌的発想とオーバーラップするところもある文体に近づいたのでは……?
日本語の文体を極めようとすれば、知らず知らずのうちに短歌の考えと重なってくるのでは?……とも思う。
丸山先生は短歌的発想で文体にこだわりながら、この長大な作品「風死す」を書いたのではないだろうか。

丸山先生は「風死す」を記憶の流れと言い、福島先生は「短歌は追憶再生装置」であると言い……。

以下の福島泰樹「自伝風 私の短歌の作り方」で示されている福島先生の考えは、短歌だけではなく「風死す」の世界を楽しむときの鍵になるような気がしている。

人体とはまさに、時間という万巻のフィルムを内蔵した記憶再生装置にほかならず、短歌の韻律とは、その集積した一刹那を摘出し、一瞬のうちに現像させてみせる追想再生装置にほかならない。現在もまた刻々の記憶のうちに、溶解され闇に消えてゆくのである。

(福島泰樹「自伝風 私の短歌のつくり方」246頁)


「風死す」の本文に入る前の文にも、「風死す」で記憶の流れを追いかけていく……という丸山先生の思いが、爽快に語られている気がした。

とうとう生の末期を迎えてもなお
  不幸にして意識がしっかり保たれているとき

 さまざまな想念やら体験やらが
    なんの脈略もないまま
       しかも生々しく脳裏に蘇り

       だがそれは
         人生の一部でありながら
            その全体も象徴し


(丸山健二「風死す」前書きより)

「風死す」には約35頁おきごとに、菱形に文字が配置された頁がある。

以下引用箇所もそうした菱形に文字を配置したものである。ただし本文は縦書きである。
たしか丸山先生はスペインの詩集でこの形を見かけ、「目」のようと言われていたか、それとも「窓」のようと言われていたか明確に覚えていないが、興味を持たれたらしい。


形はともかく、以下引用文を音読してみれば、80歳になろうとする丸山先生の追想が、そのまま聞こえてくるような文である。


さらにこうしてじっと見つめていると、「流」「生」「死」「影」「美」という文字が浮かび上がり、「俺たちは丸山文学の大事なテーマ!」と叫んでいるようでもある。


あと丸山先生がこだわる神秘の数字、素数で文を引き締めている気がする。
引用箇所はほとんどの箇所の文字数が素数。
ただし死と光の箇所は素数でない、乱調だからだろうか?
素数で文に律を持たせようとするところも、素数の文学である短歌と重なる。

       
      思うに
     流れても流

    れなくても 生
   は生でしかなく 死
  は死でしかなかった 影
 が薄まる瞬間は ただもう美
しく 光が強まる刹那は ひたす
 ら切なかった


      (丸山健二「風死す」)

この菱形に納められた散文の後には、一語の命令形がきて、斜め下りの文が続いてゆく。
以下引用箇所も、今の丸山先生はこういう心境なのだろうかとも思った。

すでにしてこの世に住んでいない人々の まだまだおのれの内部に掟を有する
 不特定多数の霊と共に手に手を携えて 炎天下の扇状地を横滑りしてゆく

(丸山健二「風死す」より)

あと以下は、ほぼ「五、七、七」になっているから、「五、七」を上に付け加えたら短歌になるかな……と考えるうちに、ストーリーを完全に忘れ楽しむ。私の場合。

さらさらと たださらさらと吹き渡って

(丸山健二「風死す」より)

「風死す」は丸山先生になった気分で音読してもよし、
クロスワードをするみたいに文字をじっと見つめてもよし、
素数を見つけるもよし、
丸山先生の文は素敵な五七調になっている箇所も多いから五七探検して短歌にしちゃうのもよし……
とにかくストーリーを忘れ、文が内包する一瞬一瞬を色々楽しんでしまえばいいのではないかという気がする。

(「風死す」写真はいぬわし書房のサイトより使用しました)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月19日(日)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー戦後の日本社会を糾弾する言葉は厳しくも、どこか抒情性があるー

戦争の間、眠りについていた高原・巡りが原が覚醒してゆけば、吹き渡る風がこの国の戦後を語りかける。
手厳しい言葉ではあるけれど、人間を超越した風や高原が語れば、まさに真実と素直に耳を傾けたくなる。

同時に戦後の社会を糾弾しながら、やはり風だもの、高原だもの、語る言葉は決してプロパガンダにならず、権威の象徴を乗せた列車も「はるか遠くできらめく玻璃の海に沿った線路をがたごと走って行き」「すっとぼけた音色の汽笛ときたら」とどこか抒情性がある。

非難しつつもその言葉には美しさがある……点も、丸山文学の魅力の一つと思う。
ただ、その非難に心を重ねられる人が圧倒的に少ないのが現状だろうか……それでも声をあげ続ける丸山文学を読んでいきたいと思う。

さまざまな方向からさまざまな風が「巡りが原」を通過するたびに
 敗戦によって弱体化されたこの国のありさまが
  長い眠りから目覚めた私のなかでどんどんあきらかになってゆく

時折しも
 恥も外聞もない命乞いが功を奏してからくも処刑を免れ
その感謝のしるしとして
 全国津々浦々にお詫びの行脚に赴く天皇を乗せた特別仕立ての列車が
  菊の紋という威光の残渣を象徴してやまぬ白い蒸気と
   行い澄ました救済を装う黒い煙を懸命に吐き散らし
    人間宣言をした後もいまだ現人神としての影響を色濃く投げかけながら
 はるか遠くできらめく玻璃の海に沿った線路をがたごとと走って行き

また
 すっとぼけた音色の汽笛ときたら
  どう頑張ったところで困惑をおぼえずにはいられぬ
   ほとんど破滅的な惑溺に根ざした響きを有し
    所詮はたんなる空語にすぎない
     口先だけの謝辞を端的に表している

しかし
 依然として皇室は民望をうしなっておらず

帝国主義によって精神が去勢されたままの国民は
 自分たちの血を無駄に流させたばかりか
  魂そのものまでをも足蹴にしたにもかかわらず
   いまだ罰せられることもなく存続する天皇にたいし
    人間を超越した無垢なる対象とみなして
     過多なる敬愛の眼差しを投げ

それだけにとどまらず
 心をそっくり統握されてもかまわぬ相手というほどの入れ込みようで
  手足をもがれた傷痍軍人までもがなにがしかの尊敬をはらっているらしいのだ

それが証拠に
 人心の混乱は最小限におさえられ

天皇制の是非についてとことん突きつめて論じられることもなく
 地球規模の巨悪にたいして由々しい非難を浴びせることもなく

  取り返しのつかぬ大罪を犯した張本人をあっさりと赦し
   新時代に咲く復活の花という解釈でふたたび認容され

ゆえにどうにかして再生を果たした《朕》は

 無邪気に過ぎるどころの騒ぎではない
  孤独で冷たい自由よりも圧政下の不自由に温もりと郷愁を感じてやまぬ
   そんな幼児以下の愚民にたいし
    あっけらかんと戦時中の労をねぎらい
     勿体ぶった言い回しで感謝の意を表し
      通り一遍の励ましの言葉を掛け
       少しも説明になっていない言い訳でもって責任の所在についてお茶を濁すのだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」128頁〜131頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月18日(土)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー句点「。」のない文体が表しているものは?ー

以前、丸山先生が主宰する「いぬわし書房」のオンラインサロンで、「トリカブトの花が咲く頃」の文体について質問したことがある。

「トリカブトの花が咲く頃」には、読点「、」や感嘆符「!」は少なめながら存在する。
だが句点「。」は一箇所もない。

そして「トリカブトの花が咲く頃」以降の作品では、句点「。」が復活している。
それはなぜなのでしょうか?」と質問した。

丸山先生の答えは、「作品のテーマや内容によってふさわしいスタイルに変えている」とのこと。

「トリカブトの花が咲く頃」は、なぜ句点なしのスタイルが相応しいのか……としばらく考えていた。

すると以下引用箇所の文が目にとまった。

生い茂った夏草が暑気のせいでうなだれ
 長い年月を費やして強い光と熱をものともしない変種になったトリカブトの花が
 不気味な艶やかさを放って咲き乱れ
 おそろしく丈の長い陽炎がそこかしこで
  くねくねした淫らな踊りを踊っているばかりだ


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻75頁)

この作品は、トリカブトの花が咲き乱れる高原・巡りが原を舞台にしている。

本で読んでいると、一行一行がトリカブトの茎にも思え、高さの不揃いな行も野草が生えている様にも思えてくる。

本作品では余白は土、一行一行が植物の一本一本なのではないだろうか。

そうであるなら、句点「。」というものは不要なのかもしれない……あくまで私の勝手な想像ではある。
丸山先生が聞いたら苦笑されるかもしれないが。

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さりはま書房徒然日誌2023年11月17日(金)

移りゆく日本語の風景を文楽の中に少し見る

ー「でえす」から「です」へー

時々、人形浄瑠璃文楽を観に行く。
文楽で語られる言葉は、江戸時代の上方の言葉がそのままの形で、当時のイントネーションで語られているそうだ。
だから文楽を観ていると、社会背景や風俗だけでなく、太夫さんの語りによって言葉のタイムトラベルを楽しんでいる気分がしてくる。
そんな私に「これは江戸時代の言葉」と教えてくれる方もいる。
「でえす」も、そんな風にして教わった言葉の一つだ。
現在、私たちが「です」と発音している言葉は、江戸時代は「でえす」と発音していたそうで、文楽でもしょっちゅう「でえす」という形で語られる。
今日見てきた「双蝶々曲輪日記」でも、しょっちゅう相撲取りの主人公が「でえす」を連発していた。

「イヤ、コレ関取、何やら話したいことがあると人おこさんしたはそのことでえすか」

(「双蝶々曲輪日記」より)

「コノ長吉は方便商売でえすわい」

(「双蝶々曲輪日記」より)

「でえす」を日本国語大辞典で調べてみれば、以下の通り。

(「えす」は「あります」または「ござります」の変化した「えんす」がさらに変化したものか。活用形は「でえす」の形しか見られない)
…です。近世、多く男伊達、遊女などの間で用いられた。丁寧の意は薄く、尊大な語感を伴う。

今度は「です」について、やはり日本国語大辞典で調べてみる。

〔二〕(「でござります」→「でござんす」→「であんす」→「でえす」→「です」の経路で生じたものという)丁寧な断定に用いる。
(イ)江戸中期は、遊女・男伊達・医者・職人など限られた人々の間でほとんど文末の終止にだけ用いられた。でげす。

「でえす」が「です」になるまでの間、少しずつ言葉が変化、意味合いも「尊大な語感」から「丁寧な断定」へと変化していったのかもしれない。文楽を見ていると、たしかに「でえす」を使う人物は男伊達や遊女たちのような気がするし、自分で発音してみると「でえす」だと尊大な心持ちになってくる。
文楽を通しての言葉のタイムトラベル、これからも少しずつ楽しんでいきたい。

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さりはま書房徒然日誌2023年11月16日(木)

小豆洗はじめ「季節の階調 冬」を読む

ー詩人が言葉を紡いで詩集を編むことの素晴らしさを、詩人の言葉に出会えるPASSAGEという存在の魅力を思った一冊でしたー

小豆洗はじめさんの詩に出会ったのは、一棚一棚に棚主がいる神保町PASSAGE書店でのこと。
小豆洗はじめさんもPASSAGEの棚主の一人で詩集を中心に取り扱う棚を持たれている。

その棚の中でも小豆洗さんがご自分で編まれた小ぶりの詩集のシリーズが、ベージュの色といい、小ぶりの形といい、なんとも目をひく。
手にとってみれば、小豆洗さんは季節ごとに、テーマごとに詩を書かれ、ご自分でレイアウトやフォントまで細かく考えて詩集を作られている。

表現しつつ、詩集を制作するという小豆洗さんの創作姿勢も、詩人が自分の言葉を棚に置くことができ、ふらりと立ち寄った者がその言葉を持ち帰ることができるPASSAGEという存在も、共に素敵だなあと思う。

今回、購入した「季節の階調 冬」のフォントの色は空色で始まり、雪景色の写真の次のページから濃い青のフォントが続く。最後の「幻」「尺八の景色」「あとがきにかえて 川原のオリオン」で真っ黒なフォントに変わる。フォントの色の変化に、一日の雪景色の変化を見るような思いがした。


罪のない子供達が一方的に殺されてゆく悲しいニュースがあふれる世のせいか、「天使のパン」という詩が心に染みた。以下、「天使のパン」の冒頭より。

天使のパン

ときどき現れる
「天使のパン」という名の本屋で
手にした本は
まるで天使のようなこどもたちの心の
血肉となり栄養となって
かれらを支えつづけると聞く


(小豆洗はじめ「天使のパン」より)

小豆洗さんの見つめる世界は私も確かに見ている世界。でも詩人のレンズをとおして見ると、世界がまったく違って見えてくる。だから詩を手にすることは面白いと思う。

戻る過去は一定ではなく
そのたび新たな場所と時間を
はじめていることに

いつしか気がつくことだろう

(小豆洗はじめ「the day」より)

幻、という漢字を書くとき、いつも線を一本描き忘れているような気がして、頼りない。

(小豆洗はじめ「幻」より)

「季節の階調 冬」には「津軽三味線」「尺八の景色」と和楽器をテーマにした詩が二篇入っている。なぜかは分からないが、和楽器と冬はイメージが重なると思う。
そういえば、私にとって詩集を読むときの場所というものがすごく大事なのだが、「季節の階調 冬」は国立文楽劇場で開幕までのひとときや幕間のざわめきの中で読んだ。和楽器が近くにある場所で読むと、小豆洗さんの「季節の階調 冬」の言葉が浮かび上がってくるような気がした。


以下、神保町PASSAGE書店小豆洗はじめさんの棚のURLです。いろいろ詩の本やらご自分の詩集やらポストカードやらがありますよ。

https://passage.allreviews.jp/store/QY4PCVLSFTCSQ64XUZ3VPDXD


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さりはま書房徒然日誌2023年11月15日(水)

ロマンチック過失漫画
山﨑まどか「山﨑ノ箱」(けいこう舎)を読む


ー極限状況にある人たちが教えてくれるメッセージー

山﨑まどかさんは、けいこう舎が刊行されている短編を楽しむ文芸誌「吟醸掌篇」の表紙の装丁を1号から手がけているイラストレーターさんである。同時に福祉施設の支援業務に携わり、そこでチラシ制作や山谷の冊子「あじいる」掲載の作品も描いているいる方だ。
そんな山﨑さんがご自身の結婚や出産、仕事を見つめ語る言葉が詩のように鋭く、そして優しく、生きづらい世を語る。

そして冷たい世にそれでいいのかと問いかける。
そのメッセージをどこか童歌の世界を思い出させる優しさにあふれた漫画が包み込み、そっと心の奥まで届けてくれる。

どんなに早く走ろうと焦っても
スローモーションのように
地団駄踏むばかり

(山﨑まどか「山﨑の箱」 第一話 赤縄より)

押し寄せる突起物のうねり
眠ることを拒む道の果てに
人はどんな夢を見るというのか


(山﨑まどか「山﨑の箱」 第五話 眠れぬ森の美女より)

 児童養護施設で育ち、路上生活をしているところを「ほしの家」シスターに救われた木村史代さんの作品も、心象風景が切々と伝わってくるようで心に残る。
病で48歳で亡くなるまでの間に「ほとばしるように生み出された切り絵や詩、短編作品は膨大な量にのぼります」「作品は今も『ほしの家』で大切に保管されています」とあった。
極限状況で表現を続けた木村さんの生に、表現することの意味を思う。

「禅略 三太様。」で始まる「あんぽんたん三太」は山谷の雑誌「あじいる」に掲載された作品とのこと。
その中に出てくる三太さんの話も、刑務所で俳句に出会った三太さんの世界が変わっていく様子に、やはり表現することとはと思い、また過去のせいで犯罪を犯した人への社会のあり方も考えさせられた。

生まれて初めてのことだった。
何者にも
何事にも
邪魔されず

かき乱されず
目の前の文字を追い
言葉だけに
向き合い、
吸収していく。

この時
肉体は閉じられた空間に在りながらも
三太の意識は

どこまでも自在に
広がっていった。


考えもつかなかった
他者の生き方や思想
哲学、宗教。

三太は
辞書を引き、
猛烈に本を読み
そして俳句に出会う。

秋時雨 小鳥は寝屋に急ぐなり

三太の句は刑務所の中で開かれた
全国大会で二席に選ばれ

表彰された。

自らが感じた世界を
言葉によって表現し、
他者に響いて
認められる体験となった。

水を得た魚のように
自分の中に
感じた世界を
句にしていく。


(山﨑まどか「山﨑の箱」 『あんぽんたん三太』より)

山﨑さんたちは「ホームレス」とは言わずに、「野宿経験のある仲間」と言う。
そしてその仲間から、色々辛い時の過ごし方を学ばれて本書で伝えてくださっている。
私も山﨑さんから、そして仲間の方々から教えて頂いたように思う。
たとえば以下引用のこんな心も……。

だから多くの道の上に
繰り返し
「どうぞ」と椅子を
置きつづける


(山﨑まどか「山﨑の箱」 第五話 眠れぬ森の美女より)

カバーをはがすと、カバーとは少しだけ違う絵があらわれます。



現在、山﨑まどか「山﨑ノ箱」は神保町PASSAGEさりはま書房の棚にもあります。よければご覧ください。

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さりはま書房徒然日誌2023年11月14日(火)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー絶望的な人の世と対極的な自然、宇宙ー

丸山文学は冷徹に容赦なく人の世を語ってくれる。
ふだんぼんやりと思っていた怒りや不安をずばりと言葉にしてもらい、その通りだとあらためて気がつく。
一方で、あまりに救いがない世である事実に途方にくれる。
だが丸山文学は人の世について糾弾しながらも、私達の視線を自然界へと誘い、地球の外へと向かわせようとする。
もしかしたらこの島国ごと消えてしまうのではないだろうか……という気もしてくる昨今の状況である。
だが人が消えても宇宙の彼方に静かに存在する恒星があるという事実に思いを向けてくれる丸山文学は、ある種の救いでもある。

以下、二つの引用箇所は高原・巡りが原が太陽について語る箇所。太陽の存在が、まるで人のようにも思えてくる。

ストーリーは、また娘に襲いかかろうとした僧の成れの果ての青年を、黒牛が角で宙に飛ばして娘を助けるというように進行していく。

そして
 燦々と照り映える陽光が
  天から見放された土地であるかのような「巡りが原」にまことに優雅な甘美さをさずけ

 想定外の奇異な事態の真上にでんと居座るこの恒星は
  今の今まで無責任な傍観者に徹していたくせに

   事ここにいたって太陽という絶対者の立場をあらためて思い出したのか
    急に無関心ではいられなくなり
     才気煥発な存在者を気取っていきなり口を開き

罪に継ぐ罰という因果律の定番でも念頭においてるのか
 迂遠な心理であっても簡単に喝破しそうな
  画定がきわめて困難なはずの識閾を自由自在に出入りできそうな
   そんないかにも偉そうな言い回しで
    思慮分別に富んだ
     定義可能な生き方について声高に語るのだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻94、95頁)

いずれにしても
 無為無策にして無定見の
  野次馬根性まるだしの太陽の世迷い言にいちいち耳をそばだてる酔狂者は私しかおらず

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻99頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月13日(月)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー今の時代を予見するような言葉ー

「トリカブトの花が咲く頃」が刊行されたのは2014年。
東日本大震災から3年、まだまだ辛い状況にある人々もいるけれど、2023年の今日のように円が弱くなって、まさに引用文にあるように「資本主義経済にいきなり強烈な肩すかしを食わされ」という状況になっていると予見した者がどれだけいるだろうか。

丸山先生が厳しい言葉で語る過去から現在の歴史は、なかなかそうはっきり書いてくれる作家は少ないように思うけど、まさにそのとおりだと思う。
そうであるなら、文の最後の方に書かれている未来もそうなるのだろうか……。
でも、こうして真実をはっきりと語る作家が多くなれば、忌まわしい未来は避けられるのかもしれないが、さて、どうだろうか。

以下引用部分は、高原・巡りが原が裸になって洗濯をしている娘を眺めているうちに、この国の過去から現在を語る言葉。


このあと、この娘に淫らな心を抱いて落ちぶれた僧侶の青年がやってくるが、娘の反撃に遭い、いったん諦める。

むろん
 天運に精選された偉大な傑物が颯爽と登場したところで
  今すぐにどうにかなるはずもなく

なぜとならば
 およそ精細を欠いた国民に巣くう事大主義という名の病根はあまりにも深く

しかし
 実際には子ども騙しの値打ちもない
  噴飯ものの現人神を大真面目に担ぎあげた皇国のプロパガンダによって均一化されていた
 異様に熱い思念が急激に冷めてゆき

全体主義の恐るべき威力によって恐ろしいまでに平準化されていた個人が
 てんでんばらばらの性格へと立ち返る


そして
 無知から知への道をたどり始め

常に新兵器の開発競争に勝利しながら
 世界制覇を念頭に置いて密議に明け暮れる超大国の将来を見据えた打算によって
 辛うじて処刑を免れた天皇といっしょに押しつけられた民主主義と自由の方向へと頭を切り替える


とはいうものの
 ろくすっぽ考えもしないで新たなる国家体制をよしとし
  身の皮を剝ぐ暮らしを送りつつも
   未来につながる努力と確信して
    ただもうひたすらに過酷な労働に献身し

ために
 あとはもう
  猛烈に欲するいびつな本能と冷徹なる利便性に支えられた経済が暴力的なまでの活況を呈し
 金力をバネにして暗過ぎる過去からの遁走を図るしかないのだ

 やがて
  あくまで見せかけの信用本意社会における
   なりふりかまわぬ利潤追求の市場が殷賑をきわめ

    民生の向上が限界にたっした
     将来のある日

 ありとあらゆる物質を支配できるはずの資本主義経済にいきなり強烈な肩すかしを食わされ

 才覚次第でたんまり儲けることができる幸福は後日のために控えているという期待感が
 結局は幻想や妄想のたぐいでしかなかったことを思い知らされ

 その果てに
  膨張しすぎた繁栄が狂喜乱舞のうちに虚ろな音を立てて破裂するという蹉跌をきたし
 成り上がり者の立場から一挙に転落した人々にありがちないじけた劣等意識が蔓延し

それの強烈な反動として
 平板な自尊心をくすぐってくれることで人口に膾炙された愛国主義の雛型に情緒的意義をおぼえるようになり

神道と天皇制のあわいに生まれた
 哲学的奇想よりもはるかにお粗末な虚構をまる呑みし

すると
 異様なまでの国民的結束にしか救いと未来が感じられなくなり
  隣国にたいしての謂われなき侮蔑が正義の皮をかぶった憤慨へと移行し

そうした怒りは殺してやりたいほどの憎悪へと変わり
 双方ともに相手の立場に身を置いての発想が不可能になり

ほどなくして
 犠牲者の数が十倍以上にものぼるであろうつぎの戦争へとかり立てられ
  またしても国土の大半が血なまぐさい乱闘の場と化す羽目におちいるのだろうか

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻44〜46頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月12日

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む

ー個である大切さ、両性具有の魅力を思うー

丸山文学の魅力の一つに、「独立した個人」とは何か?と問いかけ、日々の慌しさに見失いがちな「孤である個」の意義を思い出させてくれるという点がある。
以下の引用もそうした箇所で、目の見えない瞽女の娘に独立した個人の姿を見い出す巡りが原の言葉である。

その歳にして早くも
 いっさいの飾りを欠いた在り方をよしとし
  どんなに世間の荒波をかぶっても瓦解しない知恵を育み
   どこのだれにも追い落とされない静謐な威厳を身に付け
    常に心を奮い立たさずにはおかぬ正当な動機に従い

たとえば
国家権力の管理者たちを凌【しの】ぐほどの

たとえば
正義をつらぬき通す豪胆な反乱者を上回るほどの

たとえば
群れ集うことを嫌悪し
 完全に独立した個人という
  明快かつ単純なかたちで生きる哲人に優るほどの

征服されざる人物としての重々しい風格を具えている

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」7頁)

瞽女の娘は両性具有の存在である。
以下引用箇所から、語り手の巡りが原も自身を両性具有の存在だと考えていることがわかる。
川やシラビソがそういうシンボルになるのかと、両性具有を「融通をきかす」「柔軟な解釈」ととらえるのか……そういう考え方が素敵な世界だと思った。

なぜとなれば
 この私にしてからが
  あらためて考えてみると不思議でならぬ
   性別なる条件を具備されていない身であるからだ

大半の生き物にぴったりと貼りつけられている雌雄の尺度を無理やり当てはめようとすれば
 「巡りが原」を縫って流れる川を女の証しと見ることもできるし

また

真ん中に一本
 国威の顕揚にも似た勢いで
  天空にむかってでんとそそり立つ
   シラビソの大木を男の象徴と見なすことだってあながち不自然ではない

ために私は

いかようにも融通をきかすことができ
 とほうもなく柔軟な解釈が成立させられる
  その分だけ慎重な言い回しが必要な
   彼女のような人間と同類というわけだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻18頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月11日(土)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー丸山文学の魅力を少し考えたー
ー「トリカブトの花が咲く頃」はどうやら両性具有がテーマの幻想文学でもあるらしいー

丸山文学の魅力を思いつくままに……。
まず普通の作家なら言わないような社会の問題、たとえば現人神の戦争責任について、それをうやむやにしている戦後の社会のいい加減さについて繰り返し厳しく追及している点である。

さらに量子力学への関心から、この世と同じ世が別のところにある(そんな考えが量子力学にはあるらしい)と考え、ドッペルゲンガーも大事なテーマとして繰り返し出てくる不思議な幻想味にある。

丸山文学の場合、ドッペルゲンガーで怖がらせようとするのではなく、かならずもう一つの世界があると強く確信して、もう一つの世界の視点から自分を見つめ、存在を見つめ、書いている点にある。

そして先日のオンラインサロンで丸山先生が文学と美についてこんな風に語られていたと思う(ただし私のうろ覚え)。


「文学の感動は言葉そのものに頼っている。普通の語彙では、取り込めないものである。文学の感動とは一言で言えば『美』である。『美』とは非日常的なものであり、滅多に出会えない作為的秩序であり、そうしたことを自然に感じることが文学の感動になる」

重いテーマを語りながらも、そこに美を求めようと、そのために「美」を支える言葉を見つけようとするところも、丸山文学独自の魅力ではないだろうか。


以下引用箇所は、やはり高原・巡りが原が語っている。

身につけていた衣類を脱いだ娘に、巡りが原が美を感じる箇所から少し抜き出してみた。
このあと、上巻の最後のページで巡りが原は、娘が両性具有であることに気がつく。どうやら「トリカブトの花が咲く頃」は、両性具有をテーマにした幻想文学でもあるようだ……。


 そこに在る
   生きた美が

    胸に響く忠告のように
     私を捉えて放さない

彼女はひたすら美しく
 存在そのものが明敏で聡明な光輝につつまれている

野草愛好家たちのあいだで口碑の的と化している
 トリカブトの変種としての白花さえも
  彼女の肌の白さにはおよびもつかない


癒し効果にあふれた深みといい
 天の川銀河を凌ぐほどのきらめきの度合いといい
  きめ細かに秩序づけられた並々ならぬ吸引力の強さといい

それは
 ただそこの一点に究極の美が集中したかのような光輝にあふれ


あらゆる種類の緊張が解かれたうえで
 さらに新たな緊張が生みだされ

すべての美意識が廃棄されたうえで
 さらに新たな美意識が誕生しつづけているのだ


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻451頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月10日(金)

ロアンの名前の響きの良さに惹かれて小沢蘆庵の歌を一首鑑賞する


昨日、西崎憲氏が制作された奥村晃作氏が短歌について語るドキュメンタリー動画を視聴していたら、「ロアン」なる昔の歌人の名前が頻出。
歌のことはまったく知らない私は、「ロアン」なんてすごく響きのいい名前!と印象に残り、動画終了後さっそく調べてみる。「ロアン」とは江戸時代の歌人「小沢蘆庵」のことらしい。
以下、日本百科全書の「小沢蘆庵」の説明より引用。

江戸中期の歌人。名は玄仲 (はるなか) 、通称は帯刀 (たてわき) 。観荷堂と号する。父はもと大和宇陀 (やまとうだ) (奈良県)の藩主織田 (おだ) 家に仕えた小沢喜八郎実郡(実邦)(さねくに) 。大坂で育ち、尾張 (おわり) 藩成瀬家(また竹腰家)の京都留守居役本庄勝命(ほんじょうかつな) の養子となり本庄七郎と称した。30歳ごろ冷泉為村 (れいぜいためむら) に入門して歌道を学んだが、51歳ごろ破門される。35歳ごろ小沢氏に復姓。このころから鷹司輔平 (たかつかさすけひら) に仕えたが、1765年(明和2)43歳のときに出仕を止められ、その後は歌道に専念する。享和 (きょうわ) 元年7月11日没。寛政 (かんせい) 期(1789~1801)京都地下 (じげ) 歌人四天王の一人に数えられ、伴蒿蹊 (ばんこうけい) 、上田秋成(あきなり) 、本居宣長 (もとおりのりなが) などと親交があった。門人には妙法院宮真仁(しんにん) 法親王をはじめ小川布淑 (ふしゅく) 、前波黙軒 (まえばもくけん) 、橋本経亮(つねあきら) など多くの歌人がある。歌は心情を自然のまま技巧を凝らさずに詠出すべきであるとする「ただこと歌」の説を提唱する。これが、教えを受けた香川景樹 (かげき) などによって、江戸後期の京坂地下歌壇の主流となる。家集に『六帖詠草 (ろくじょうえいそう) 』がある。歌論書に『ちりひぢ』『振分髪 (ふりわけがみ) 』『布留 (ふる) の中道 (なかみち) 』がある。古典和歌の研究にも熱心で、多くの歌書の写本を所蔵していた。
(日本百科全書)

ちなみに小沢蘆庵が唱えていた「ただごとの歌」は、日本国大辞典には以下のように説明があった。

「古今集」仮名序に示された歌の六義(りくぎ)の一つ。真名序の「雅(が)」に当たり、「ただごと」は正言の義で、雅の直訳。のちに、物にたとえていわないで直接に表現する歌、深い心を平淡に詠む歌と解され、小沢蘆庵の歌論の中心になる。(日本国語大辞典)

「魯庵」という名前の響きといい、唱えたという「ただごとの歌」という言葉の響きといい、響きだけで気になる。
ただ、比喩とかを楽しみたい私には「ただごとの歌」の精神は方向性が違う気もするけれど。
とにかく、こんな素敵な響きの名前や言葉を思いついた魯庵の歌を見てみようと、ジャパンナレッジに収録されている新編 日本古典文学全集68巻「近世和歌集」の小沢魯庵の歌を見てみる。


鶯はそこともいはず花にねて古巣の春や忘れはつらむ

意味
鶯は特に場所を定めるわけではなく次から次へと宿とすべき花を替えて、古巣で過ごした春のことをすっかり忘れているいるだろう。

解説
転居の多かった蘆庵のこと、あるいは自己像を重ねているのかもしれない。

語句解説
そこともいわず……特に場所を定めるわけではなく


(新編 日本古典文学全集68巻「近世和歌集」より)

ただごとの歌とは「物にたとえて言わないで直接に表現する」と唱えていたの割には、最初から「鶯」に自分自身を重ねている。

でも、この重ね方がなんとも可憐で風流である。

「日本の歳時記」によれば、「鶯」のことを「歌詠鳥」とも言うらしいから、たぶん蘆庵自身のことを言っているのだろう。

また鶯は季節によって住む場所を変える鳥だそうだ。
解説にあるように、転居の多かった蘆庵の人生を重ねているのかもしれないし、師に破門された自身の歌人人生を重ねているのかもしれない。
「花にねて」という言葉が飄々としてるから、破門された悲壮感がなく、少しだけ悲しみと諦念があって「忘れはつらむ」と自分に言い聞かせている気持ちに親近感を覚えた。

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さりはま書房徒然日誌2023年11月9日(木)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー盲目の娘の輝ける生命、死、不甲斐ない人の世のコンストラストがひたすら美しいー

盲目の瞽女の娘は自死を思いとどまる。
蝶の群れが彼女を追いかける描写は、先ほどまで盲目の娘を追い詰めていた死の世界とコントラストをなすようで、ひたすら美しい。
蝶は「死」のシンボルでもあったと思うが、丸山文学の蝶は生の喜びに輝いている。
「敬慕の情を表す」なんて表現は、毎日庭仕事をされて、たぶん蝶も身近に感じている丸山先生ならの思いではないだろうか。

太陽の熱が高まったせいで
 思う存分怠惰に惚けたくなるような上昇気流が実感される頃

清々しい涼気に富んだ亜高山帯にのみ生息する
 大小さまざま
  色とりどりの蝶が

蜜たっぷりの花でも発見したかのように
 いっせいに娘をめざして飛来し

その一匹一匹が
 優雅にして華麗な飛翔により
  誰あらぬ彼女にむけて敬慕の情を表す

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」387頁)

以下の引用箇所。戦後の不甲斐ない時代を、娘の生命力と対比させることで鮮やかに描いていると思う。

そうした娘が

高地であるにもかかわらず草いきれがむんむんする草の原を
 戦時下よりもさらに悲惨さが増すことになった貧困を

敗戦によってもたらされた凋落した時代を
 自由を得てもまだ個性の消滅している社会を

無限に細分化されてゆく民主の気風を
 大局的に自主性を消失したままの不甲斐ない国家を

淀みながらも滔々と流れる大河のごとき
 しなやかな動きでもって
   苦悩の縛めを永久に解いてくれない現世を
     堂々と横切って行くさまは
       ただもうみごとと言うほかない

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」396頁)

以下、引用箇所。
「錯誤の時代はひとまず去った」とある。
だが今まさに渦中にある人の世を書いているようだ……。
やはり戦の世になると眠くなる巡りが原はもう眠りに落ちているかもしれない……と思いつつ読む。

 どう飾り立てて見せたところで国家の面汚しにすぎぬ現人神の前に諦めをもって膝を屈するしかない

無謀にも権力支配の永遠化を大真面目に図り
 民衆浄化の悪臭をぷんぷんさせ
  帝国主義の衣を剥がす正義の問いにたいして忌まわしい凶行でしか答えぬ

 そんなはなはだしい錯誤の時代はひとまず去った

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」405頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月8日(水)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー世に戦が近づくと眠りにつく巡りが原は、もう睡魔に襲われているのだろうかー

巡りが腹へとフラフラおぼつかない足取りでやってきた盲目の娘。
どうやら瞽女らしいと巡りが原は察する。
でも集団で行動する筈の瞽女がなぜ?と訝しむ。

瞽女の娘を観察する巡りが原の言葉から、娘の苦しい生活ぶりに寄せる温かい思いが感じられる。
また黒牛、逸れ鳥、巡りが原が瞽女の娘を歓迎して浮かれる様子はどこか微笑ましい。

破れた菅笠の下には使いこんだ手拭い

擦り切れた手拭いの下にはもつれた髪

緑の黒髪の下にはうっすらと汗ばんだ額

聡明そうな広い額の下には
 つぶらな眼と
  ちんまりとした鼻と
   形のいいおちょぼ口と
    円満な日々を象徴するかのごときふくよかな顎

円かな曲線で成り立つ顎の下には
 ほっそりとしながらも
  まんべんなくふくよかな肢体

全体としては素朴な造りの土雛を彷彿とさせる
 そんな風貌の彼女の気持ちをなびかせようとして

まずは
 黒牛が妙に上品ぶった声で鳴き

ついで
 保護色とは正反対のいろどりの逸れ鳥が
  情のこまやかさという点においては他をぬきん出ている
   如才のない声でさえずる

それは図らずも和声を奏でることになり
 うまの合う旋律となって三味線の音に同調する

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」348頁)

だが盲目の娘がトリカブトに顔を近づけた途端、巡りが原は娘が一人でここにやってきた目的を理解する。
こういう辛い状況にある人間に寄せる共感や理解も、丸山文学の魅力のひとつだと思う。

盲目の娘の訪問の目的
 それは自死にほかならない

おのれの生を無理やり終了させ
 みずからに死をさずけることが眼目だ

それ以外にはありえない

彼女の魂は重い障害を背負った肉体を避けたがっている

いや
 すっぱりと縁を切りたがっている

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」355頁)

盲目の娘への共感がだんだん激してゆく巡りが原。
2014年の作品だが、後半の巡りが原の叫びは2023年現在の社会情勢とも被さってゆく。

さらに語っているのが高原だからこそ、読み手も反発することなく共感できるのだろう。
これが細かな人物設定とかしてある生身の人間だと、矛盾や破綻に気づいてしまい、ここまで共感はできない気がする。

おそらく
 トリカブトはぬきがたい困難をきれいに消し去ってくれるだろう

そして
 目もあやな安静へといざなってくれるだろう

なんなら私がいっしょに死んでやってもいい

「彼女のために死ぬのなら本望だ」

 そう言わざるをえないほど正気を失くした私がここにいる


もっとありていに言えば

もはや私は
 あまりにも冷酷な摂理の支配に身をゆだねるしかないこの世に飽き飽きしており

思弁的観念などまったく役に立たぬ過酷な現実社会と
 結局は戦争と平和のくり返しでしかない人間界と
  悪行のみが報われるという憂き世に
   とことんうんざりしているのだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」365頁)

深刻な胸の内の吐露を聞きつつ、思わず次の言葉に笑んでしまう。
困難な状況が語られているけれど、語り手が「巡りが原」という高原だからこそ生まれる微笑み、ゆとりのようなものも感じる。

だが
 自殺の方法がわからない

果たして私はどうすれば死ねるのだろうか

なにせ数千株数万株にもおよぶトリカブトをやどしていながら命を長らえさせているくらいなのだから
 尋常一様なことでは死ねないだろう

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」368頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月7日(火)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー戦争の愚かさを思ったり、太陽の面白さを思ったり……視点が聖俗を彷徨うー

最近、この日誌にその日読んだ後期丸山文学について書いていることが多い。
後期丸山文学は、文体が散文詩のように変化、脱ストーリー性を志向している。
それまでの丸山文学ファンも「ついていけない」と離れていったようだ。
それなのに、私の拙い文で書いた日誌を読んでコメントくださるお若い方がいらっしゃる……ただ、ただ感謝あるのみ。

後期丸山文学の魅力は文体の面白さもさりながら、戦争へとむかってゆく人間の愚かしさを描く目が一段と冷静に、冴え渡っている点にあると思う。
同時にそんな嘆かわしい生き物である人間が存在する自然の美しさ、宇宙の大きさに思いを寄せずにはいられない視点が、神のごとき高さに思えてくる。
愚かしいもの、壮大で美しいものがシンフォニーのように響き合いながら詩のような文体で語られている……ところも魅力のように思う。


それにしても人間の愚かしさに向ける厳しい視線に、昨今の状況が重なり「やはり人間はダメだんだろうか」とも思う。
以下引用部分は、そんな人間の愚昧さを語る「巡りが原」の言葉。

だが
 人は常に思慮深い人生から離れたがり
  理性に反する行いに魅せられ
   邪心によって変調をきたす精神をよしとし

ために
 のべつそっちへむけて自身を焚きつけ
  鮫のように敏感に血の臭いを嗅ぎつけ
 知らぬ間に
  ご法度の最たるものである殺戮を堂々と世界のすみずみまでゆきわたらせてしまっている

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻311頁)

「トリカブトの花が咲く頃」の文に、本の外の世界の状況に、このままだと人間は滅んでしまうのではないだろうか……とも思いかける。
そのとき、以下引用文のように「巡りが原」が太陽の愉悦を語る。
思わず読み手も太陽に、他の恒星に、大きな存在に目を向けたくなる文である。


地球上の人間がダメになって消え飛んだとしても、この宇宙のどこかにその愚かしさを見ている超越した存在があるのかも……と思えてきて、静かな心になってくる。

あまりにも真っ正直に高く昇り過ぎたことで
 結果として天空に身を売りわたすかたちとなった太陽は

残念なことに
 詩的緊張にみちた躍動の気配からいささか遠のき

自信たっぷりの意見表明を得意とする
 ともすると激情に流されやすい
  自己自身の本姿からも大分離れてしまう

とはいえ
 われらが太陽はそのことを少しも苦にせず

宇宙にごまんと在る
 ありふれた恒星としての地位を平静に保ち

のべつ生存の崩壊の危機に見舞われつづけている人間への
 くどいほどの心情的な関与を極力避け

核融合による究極の燃焼の持続という
 至上の快楽にひたすら熱中し
  感銘深い真昼の輝かしい時間帯に
   なんとか静止しようと努めている

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻318頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月6日(月)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ーかくして戦争は始まった……と語る「巡りが原」の言葉に耳を傾けてほしいー

黒牛の鳴き声がこだまする「巡りが原」
牛の鳴き声に含まれる深いメッセージの数々が、巡りが原に象徴される自然の懐に連れ去ってくれる。
以下引用箇所は、そうした牛の鳴き声の一つ。

死は生の必須条件なり!

 
  かなり不人情な思いを込めて鳴き


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻279頁)

丸山先生は1943年生まれ。
幼い心に戦争の記憶が、戦争を体験した負傷兵や戦災孤児の記憶が刻まれているのだろう。

丸山先生が語る言葉は冷静に、戦争へと呑み込まれてゆく人々を仔細に語っている。
こういう風にして、戦争について語ることのできる作家は数少ないのではないだろうか。
もっと読まれてほしいと思う。
以下引用箇所は、巡りが原が戦争について色々思うところ。

国家間同士のおとなげない縄張り根性と底なしの強欲が原因で始まり
笑止千万な民族主義に毒されてしまったために
寛大な態度を保てなくなった国民全体が
臆病な不信のなかに落ちこみ
藁をもつかむ気持ちで天孫降臨説を信奉し

ついには
おのれの本分を全うすることはすなわち戦死であるという
あまりに自虐的にして短絡的な謬見を抱き

その結果
頭数だけあった意見がたったひとつに絞りこまれ
誠実と慎みにあふれた真っ当な愛国者が批判の矢面に立たされ
幼稚な恐怖にみちびかれることで際限なくふくれあがっていった
凶悪無惨な悲惨事……


それは
例によって少数の富裕層のふところをさらに肥やそうという
ただそれだけの目的のために強大な軍部がいつまでも強情を張り通し

どこからどう見てもありふれた人間の典型でしかない
疑いだせばきりがない伝統のみが頼りの天皇を神の座につかせ
名誉職を得たことのみで大満足している能天気な政治家を威圧し
真実を語る煙ったい相手を執拗に弾圧し
この難局を打開するにはほかに手立てはないという
一方的な結論を愚かな国民にやすやすと植え付け

厳密には誰もそんなことなど望んでいなかったはずなのに
いつの間にやら戦争が否定せざるをえぬ究極の悪ではなくなってしまい

それどころか
開戦が妥当な共通認識となり
たちまちのうちに異常事態へと発展し
怖れと怒りの入り混じった戦場における華々しい活躍こそが男子の本懐のすべてとなり

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻283頁)

以下引用箇所も、巡りが原が語る戦争についての言葉。すべての人の想いである筈なのに……と、人の世の現状との乖離が悲しい。

ただし
そんなかれらが頻繁にくり返す
民族の運命を賭けた戦と
それに類する行為にだけはどうしても慣れないし

できれば永久に無理解のままでいたいと思う


戦争だけはやめてほしい


意に染まないどころではない


一瞥することだってご免こうむりたい


戦という名の
暗黙のうちに公認されている
人間の営みの必須条件のせいで
この災厄の星の運命を読み取ることが一段と難しくなってきている

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻291頁)

平和と戦争の分岐点を躊躇いもせずに、片方へと曲がりかけている今だからこそ……。
以下引用箇所で巡りが原が語る言葉を記憶し、戦争の兆しが見える風景に身をおいていないか問いかけたいもの。

平和の時代が分岐点にさしかかるたびに
衆愚の力を恃んで
大規模にくりひろげられる戦……


悲惨な状況から大衆の目を逸らして危険思想を植えつけ
どこまでも利己的な欲望に沿って
国策の大幅な方向転換を図る統治者……


兵役を強要され
人殺しの手ほどきを受けて修練をつまされ
敵の銃弾をかいくぐらなければならぬ青年たち……


双方互いに相手を等しく根絶やしにしてしまおうとする
反理性的な
根拠なき剥きだしの憎悪……


過激化の一途をたどるばかりの
元も子もなくしてしまいそうな
言語道断な新兵器の数々……


愛国だけを理由に遠ざけられる
自身にのみ服従するという
気高くして当然の権利……


ひとたび蔓延ってしまった戦争という名の巨悪の根を
どうあってもぬき取れない
生半可な教養と無知から出た利害への執心……

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻307頁)

まずは言葉で戦争とは……と知ることが、戦争の悲惨を抑止する第一歩になると思う。
だが、そう試みる書き手も、読み手も少なくなっている現状に、また暗い戦争の時代がシメシメと近づいてきているような気がする。

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さりはま書房徒然日誌2023年11月5日(日)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー巡りが原の思いは丸山先生の思いでもあってー

青年僧のことを嫌っていた巡りが原だが、青年のふとした言動がきっかけで親しみを抱きはじめる。
親近感を感じる言葉の内容がいかにも丸山先生らしい。

以下引用部分。
高原・巡りが原が語る青空も、青年僧の毒舌も、島国の賃金労働者たちの生活も、それぞれの魅力があって、別の内容でありながら、最後には丸山先生の目となって融和して一つの世界になってゆく。

それぞれが微妙な曲面を呈す
真っ白な雲がぽっかり浮かんでいる
ただそれだけの青空にむかって
つぎつぎに矢を射こむ酔余の暴言は

何かしらのきっかけを得て
適当な時期におのれを虐待することをやめた売僧の
憮然とした面持ちによく似合い

存在することへの恨み辛みというありふれた執見と陳腐な嘆きを
卑劣きわまりない振る舞いを
手きびしく面罵するときの口調で
痛憤をこめて口汚く毒づいているばかりであるにもかかわらず

嫋々たる余韻の美しさと奥深さには洞察への並々ならぬ力量が示され
ただもう舌を巻くばかりだ


争いにみちた世界と老廃してゆく時代にいちゃもんをつけ
短兵急な主戦論にのめりこみ
社会的なむすびつきを強固にし過ぎた苦悩の島国にたいして
いくら罵声を浴びせてみても

富者が強いる犠牲の下でしか生きられぬ賃金労働者たちの
不平たらたらのありさまとは似ても似つかず

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻257頁)

青年僧がつく悪態も、丸山先生の歴史観がさりげなく語られている気がする。
ここは気がつかないでスルーしてしまう読者と「よく言ってくれた!」と拍手したくなる読者の分岐点ではないだろうか?
ここで頷く読み手なら、丸山先生の文体がいくら変わっていっても、追いかけていくのではないだろうか。

多くの愚者たちによって人間を超越した者と固く信じこまれている架空の存在を
自分なりに敷衍してあしざまに言う
この狂人まがいの素っ裸の男を


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻260頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月4日(土)

今日を静かに糾弾しているような塔和子さんの詩「嘔吐」
ぜひお読みください

ハンセン病資料館友の会の方々が、国立ハンセン病資料館映像ホールでドキュメンタリー映画「風の舞」を上映、映画終了後は宮崎信恵監督の講演会という企画を開催してくださった。

映画で初めて塔和子さんの姿を見た。

真剣に詩を書き、自分では動くことのできない体を起こしてもらって読者の手紙の音読に聞き入っている時の真摯な表情が忘れられない。

塔和子さんの言葉が読んだ人の心を救い、読んだ人の言葉が塔さんがこの世に生きている証になっている……そんな風にして、動くことのできない塔さんが言葉で人とつながってゆく姿に心を揺さぶられた。

塔和子さんは昭和4年8月31日生まれ。昭和16年ハンセン病により国立療養所大島青松園に入園。26年に歌人の赤沢正美と結婚して短歌を詠み始め、のち自由詩の創作を始める。平成11年第15詩集「記憶の川出」で高見順賞を受賞。平成25年8月28日死去。83歳。13歳で療養所に入所し70年にわたって療養所で生活した。

宮崎監督が幾篇か塔さんの詩を教えてくださった。

中でも「嘔吐」という詩が、他人の悲惨や不幸を見て冷笑している、そんな現在の状況にも通じるようで心に残った。

この詩に記されている冷笑は実に嫌なものだけれど、実際、今の世は冷笑にあふれている。
人の不幸に冷笑を浮かべて楽しむ……という人間の悲しい性を、塔さんは嫌というほど体験してきたのだろう。

以下、塔和子さんの詩「嘔吐」である。

嘔吐

台所では

はらわたを出された魚が跳ねるのを笑ったという
食卓では
まだ動くその魚を笑ったという
ナチの収容所では
足を切った人間が斬られた人間を笑ったという

切った足に竹を突き刺し歩かせて
ころんだら笑ったという
ある療養所では
義眼を入れ

かつらをかむり
義足をはいて
やっと人間の形にもどる
欠落の悲哀を笑ったという
笑われた悲哀を

世間はまた笑ったという
笑うことに
苦痛も感ぜず
嘔吐ももよおさず
焚火をしながら
ごく

自然に笑ったという

(塔和子さんの詩)


「嘔吐」だけでは悲しいので、きっと嫌な体験をされながらも塔さんが残された「蕾」という詩を以下に引用したい。



最も深い思いをひめて
もっとも高貴な美しさをひめて
もっとも明るい希望をひめて

明日へ
明日へ
静かに膨らみは大きくなる
こらえきれぬ言葉を
胸いっぱいにしている少女のように


つつましいべに色を
澄んだ空間にかざして
ボタンの蕾がふくらんでいる


(塔和子さんの詩)

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さりはま書房徒然日誌2023年11月3日(金)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ーひとではない高原が語るおもしろさー

「トリカブトの花が咲く頃」の舞台でもあり、語り手である高原・巡りが原がおのれの役割について語る箇所。
他の丸山文学と同様、人でないモノ、高原が語るこの小説は幻想文学であると思うのだが、丸山文学を幻想文学として語った人は石堂藍から見かけない気がする。
丸山文学ファンは純文学としてのみ捉え、幻想文学としての魅力を語る人が殆どいないという現状をとても残念に思う。

標高千数百メートルに位置する
憐れみ深いこの地は

やむにやまれぬ理由でおとずれた者たちを
最後の手段として胸を圧する苦悶の縛めから解き放ってやり
この世にふたたび生を受けないようにしてやるための

すなわち
真の救済に直結する
神聖な死に場所なのだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻210頁)

巡りが原も、すっかり俗物となってしまった青年僧だけは我慢ならず、かくも語る。
高原が語るから、どこか距離を置いて読むことができるような気がする。
人間なら余計な感情が入り込んでしまうと思う。

つまり
 月が太陽に席をゆずるたびに彼が支配力を強め
ついには
 私をさしおいて「巡りが原」の主人と化してしまうことだ


それだけはどうにも我慢ならない


だから
なんとしても阻止する

またここで大往生をむかえさせるようなことがあってもならない


ここで死なれても私にはなんの慰めにもならないどころか

その腐肉の一片の果てまで溶けてなくなり
 骨片のひとかけまで消え去ったあとでも
  不快な気分は長いことつづき

そして
 おぞましい残留物をすっかり追いはらえるようになるまでには

ひょっとすると
 つぎの戦争と
  そのあとに訪れる平和を待たなければならないかもしれない

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻223頁)

日本幻想作家名鑑に石堂藍が記した丸山健二の項目。

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さりはま書房徒然日誌2023年11月2日(木)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー草原が語る、しかも人の世に戦いが近づくと眠くなる不思議な草原ー

何やら嫌な存在に気がついた黒牛は姿を消す。
牛が逃げてゆく様子を書く文から、高原の緑、草いきれ、光がどっと押し寄せてくるよう……。とても好きな文である。

夏に甘やかされた風を追いかけて
ふたたび草と光の中へ出て行き

たちまちにして陽炎の大渦に巻きこまれ
太初の混沌のごとき絢爛たる光彩を放つ季節のうち奥奧へと
あっさり呑み込まれてしまう

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻156頁)

おそらく第二次世界大戦のことだろう。戦いの気配に眠りにつき始める巡りが原。
高原が語る。
しかも人の世に戦いが始まれば眠りにつく高原……という設定が、なんとも幻想味があっていい。

突如として太平洋上から急激にひろがってきた
何やらきな臭い気配が
わが感覚的世界をおぼろにさせ
いかんともしがたい睡魔に襲われ

そのせいで

より精神的な生き物に昇華するための
「解脱」という世にも稀なる結果を見ることなく
私は急を要する事態に投げだされ

人間の魂とはかならずしも合致しない
わが魂の存立に必要不可欠な眠りに落ちてゆき

かくして
あとはそれっきりになった


(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻165頁)

巡りが原が眠りから目が覚めてみれば、戦さの前とではすっかり変わってしまった巡礼僧の姿があった……。
戦争を体験してきた者の戦後から、戦争の悲惨を描こうとしてきた丸山文学。
「トリカブトの花が咲く頃」にも、そうした戦争への問いかけあるのではないだろうか……という予感がしてきた。

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さりはま書房徒然日誌2023年11月1日(水)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー小さなトリカブトの花に、国家の嫌らしさを思い、弱き人々を思いー

私は山道に咲く花の名前を教えてもらっては、すぐにころりころりと忘れてしまう。
だが、それでも深い青色をしたトリカブトの花がひっそりと咲く様だけは忘れることができない。そんな訴えかけるものが、この花にはある。


以下の引用箇所。

「腹黒い国家体制や独占社会がもたらす底なしに根深い貧困」の中で、「経済的無力のほかに政治的無力にも突き落とされる」のは、我々のようでもあり、理不尽な恐怖に怯えている遠方の人々に重なるようでもある。

近年、こういう至極真っ当な怒りを書いてくれる書き手は、日本では非常に少なくなったように思う。

上層階級のふところを肥やすばかりの腹黒い国家体制や独占社会がもたらす底なしに根深い貧困と

そこに源を発する
病苦にみちた思い出やら
最小限の愛との断絶やら
人生の没落やらといったことから
絶えず圧力を受けつづけて気の休まる暇もなく

ついには
経済的無力のほかに政治的無力にも突き落とされるという
あまりに社会的立場の弱い人々が

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻139頁)

弱い立場にいる人々がトリカブトを目にしたとき心を駆け巡る思い。
こんなふうに思わせる魔力が、この花にはある。

花をとおして、国家を、弱い人を見る視点が丸山先生らしい気がする。

恥ずべき落ちこぼれである自分なんぞを大喜びでむかえ入れてくれるのはこの花だけだと
そう頭から決めつけてしまう


とたんに
それまで八方塞がりだった筈の眼路が広々と開け

執念深い虚無やだらしない厭世の統制下にあるおのれにはたと気づいて虫唾が走り
決め手を欠く人生に降りかかってくるのは不幸のみだと理会し
完璧な自由のなかでしか幸福の翼が羽ばたかないことを翻然と悟り

そしてしまいには
命からさえも自由になりたいと願わずにはいられなくなるのだ

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻140頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月31日

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー丸山文学の文体は変われど、怒りの芯は変わらずー

こうしてチビチビと書いていると、たまには読んでくださる有難い方もいらっしゃるらしい。
中には、丸山文学の文体がかなり変わってしまったから……と最近の作品から遠のいてしまった方も、こうして見てみると丸山文学の芯は変わっていないでないか……。
そう思われたのか、神保町PASSAGE書店の私の棚から購入してくださった方もいらっしゃる。

実際、この独特のレイアウトで「小説じゃなくて詩だ」と敬遠して離れていった読者が多いような気がする。


だが私の知人で日頃それほど文学に馴染んでない人間も、最近の作品、このレイアウトで描かれた「おはぐろとんぼ夜話」から丸山文学に入って、すっかりハマってしまった。
知人は文学にほとんど関心なかったのだが、社会への怒りの炎をたぎらせていた人間だ。
その怒りのポイントが丸山文学とぴったり一致、「よくぞこの思いを語ってくれた!」という気持ちになるらしい。

「うまく言葉にできないでいる怒りを代弁してくれている!同志よ!」的感覚で読むことのできる方なら、丸山文学の文体が変わっていっても追いかけることができるのかもしれない。

以下、引用箇所も怒りを分かち合える人、そうでない人に分かれる箇所で、丸山文学が好きになれるかどうかの分かれ目になるポイントの一つかもしれない。

まず最初は、アナーキストのシンボルカラーの黒にも例えられた黒牛を語る箇所。
牛であって、でも牛ではないアナーキスト的存在の不思議さ。
これが人間として語られると、矛盾とか反感とかあると思うけど、牛だもの。思わず頷くしかない。

絶え間なき心変わりとはいっさい無縁そうな
まったき存在者としての
この牡牛にしっかりと具わり
特徴づけているのは

もっぱら真理のみに訴える
事をなすための生きた力であり

あくまで心眼に依拠した
事物の終わりまで看破できる
素晴らしい予見能力であり

苦悩の棘をあざやかにぬき取ってくれる
底なしの優しさであり

権力の中枢を狙って撃つ
無言の銃弾であり

強者の権利から派生する
いかなる誤りをも正さずにはおかぬ
真剣味であり

社会の底辺にうごめく
物言う術すら知らぬ
卑しく育たざるをえなかった人々にそそぐ
慈愛の眼差しであり

そして
生命のけなげな要求に救済の光を当てる
神の視点である

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻105頁)

以下の箇所は牛の角にとまった鳥の言葉だが、日本の歴史をどう俯瞰するか……で頷く人、否定する人に分かれる箇所だろう。
頷く人間にとっては、こういう歴史観で語ってくれる書き手の存在にただ感謝あるのみだ

理性の光の前に砕け散らぬ戦争はない!

敗戦のおかげで圧政の濃い影の下に立たなくてもいい時代が到来した!

未開の精神に支えられた国体をつらぬく死は
反楽園を楽園に変えるであろう!

だが
心せよ!
新たな悲劇の幕開けかもしれん!

なぜとならば
国民の塊に深々と突き刺さった毒針としての天皇は
まだ完全にはぬけ落ちていないからだ!

暴力が猖獗(しょうけつ)を極める時は
えてして知らぬ間に差しせまっているものだ!

武装解除できぬ世界は
死に瀕する世界にすぎん!

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻126頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月30日(月)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー巡りが原の自然への賛歌と国家や戦争への怒りがぶつかり合っている!ー

昨日は、丸山先生が素数、合成数を意識しながら文字数を考え、光の描写の箇所を書いたのではないだろうか……というところまで書いて終わってしまった。なぜ光の描写のところで素数なのか。何も意識しないで光を書いていけば、自然相手だもの、散漫になってしまうのではないだろうか。素数を意識することで、文に律が生まれるのかもしれない。
さて読み進めてゆくと、巡りが原の自然、それに対立するような人間世界……という二つの対立する世界に想いを巡らす文が渦巻いている。巡りが腹の自然はそれぞれ何かを象徴している気もしてくる……がはっきりとは分からない。
巡りが原の住人その1 ・・・シラビソ
シラビソってこういう木なんだと初めて知る。清々しそうな木である。「力強い慰め」とあるが、たしかに慰めてくれそうである。

ど真ん中に風格にあふれたシラビソの古木を一本だけあしらい
力強い慰めをあたえてくれるその巨木を軸にし

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻69頁)

巡りが原の住人その2・・・トリカブト

巡りが原の住人その3・・・一本道。きっとこの道から物語が展開していくのだろうという予感にあふれている

欲望の専制に従い
世間に順応し過ぎた罰として
生を奪うことも可能なトリカブトの花をまんべんなく散らし
蛇行して流れる川と並行した一本道が白っぽく輝く
目を見晴らせるほどの風景たりうる
危ない風土としての
この「巡りが原」には
とうてい適うまい

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻69頁)

巡りが原の住人その4・・・黒牛。黒牛の黒から無政府主義者の黒を連想するとは。この牛はどんな運命を辿るのだろうか……。

全身をぬりこめているつやつやの漆黒は
真理に仕える無政府主義者がまとう衣の色を想わせ
現世をいろどる無用な複雑さを一掃する力をひめており

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻87頁)

さて、これから引用する箇所は巡りが原と対照的な人の世界、国家。
丸山先生の怒りに頷くことがあれば、たぶんこの先を読み進めていっても大丈夫。
この怒りに同感するかどうかが、丸山文学の世界に入っていける鍵になるのかもしれない。
ということで鍵になりそうな文を三つ引用してみた。

絶大なる権限を手中におさめた
ひどく滑稽な分だけ醜怪な現人神という悪が
罪の世界の理想の地位に就くことによって

自由主義は当然
当たり障りのない無色無臭の思想までが弾圧の対象にされ

その間に

卑劣で臆病な愚者であることをいっこうに克服できない国民の数がますます増えてゆき
戦争の気配が煮詰まってゆくにつれて
まともな人間でありたいと本気で願う者の姿を見かけなくなり
しまいには声すらも聞かれなくなり
気配すらも感じられなくなり

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻85頁)

砲声轟く激戦地に送りこまれた兵士のごとき«捨てられる肉»でないことは保証できる

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻92頁)

事大主義が骨の髄まで染みついている
あまりにも嘆かわしく
あまりにも生ぬるい人々が

国民から主体性を奪いつづけ
人間性を圧迫しつづけて
血にまみれた結論しかひき出せぬ天皇と

打算の力で天皇制を担ぎ上げることによって
理不尽に過ぎる暴利をむさぼろうとする
性悪な資本家どもの
完膚なき搾取に甘んじてはいても

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻97頁)

この怒りの鍵が心にぴたりと合う方がいましたら、どうぞ引用箇所からでも少しずつ一緒に読んでいってくださいますように。

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さりはま書房徒然日誌2023年10月29日(日)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー丸山作品によく潜んでいる不思議の数、素数を見つけてみませんか!ー

直進する光
回析する光
反射する光
入り乱れる光
影と連動する光……

自制心を欠いた光
分けへだてのない光
瞬間の情趣をやどした光
気持ちを激しくゆり動かされる光
人間の下等性を容赦なく暴き立てる光……

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻61頁)

ある時期から、丸山作品に何らかの形で素数が潜んでいることが多くなったのではないだろうか?

たしかオンラインサロンでどなたかに2011年『眠れ、悪しき子』のページが素数であることを質問されて、丸山先生がこう答えていたように思う。

「頁の行数が素数になるようにした。素数にこだわると、流されずに律して書くことができる。素数は未だ解明されていないところのある不思議な数字だ」
うろ覚えだが、そんなことを丸山先生は言われていた。

その時は「素数にこだわって書いて、そんなに効果があるんだろうか……?」と半信半疑だった。

だが今年四月より短歌創作の講義を受けるようになって、素数にこだわることでリズムと律する流れが生まれる!と思うようになった。

短歌は五七五七七と素数が基本となる文学形式である。
それなりの事情がある時は字余り、字足らずになる。
五、七の字余り、字足らずはどちらも合成数である。

状況引用箇所は、巡りが原の光について書かれた箇所。
自然なイメージ、プラスのイメージの箇所の文字数(音ではない)は素数。
乱れる箇所、負のイメージの箇所は、合成数の文字数になっている気がした。
たぶん素数、合成数の文字のリズムが、わたしの頭に知らずしてリズムを刻んでいるのだと思う。

行数だったり文字数だったり……丸山作品の思いがけないところに隠れている素数の法則、読むのに疲れたら気分転換に見つけてみませんか?余計疲れてしまうでしょうか……

直進する光 (5字)素数
回析する光 (5字)素数
反射する光 (5字)素数
入り乱れる光 (6字)合成数
影と連動する光……(7字)素数

自制心を欠いた光(8字)合成数
分けへだてのない光(9字)合成数
瞬間の情趣をやどした光(11字)素数
気持ちを激しくゆり動かされる光(15字)合成数
人間の下等性を容赦なく暴き立てる光……(17字)素数

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さりはま書房徒然日誌2023年10月28日(土)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ーすぐ眠くなる「高原」が語るからこそ頷きたくなる過激な言葉ー

人の世に戦争が近づくと、意識朦朧となってクタッと眠ってしまう……そんな少し情けない高原「巡りが原」が語り手である。
だから戦争の愚かしい歴史や人類の今後について悲観的な見通しを語られても、「そうだよね」と思わず頷きたくなる。
これが人の形をしたもの、「木樵のお爺さん」とか「校長先生」や「天狗」とかだったらうるさく感じてしまうだろう。
すぐに眠たくなる高原・巡りが原が語るから、思わず納得するのである……という幻想文学らしい世界が、純文学読みには分かってないのかも……という感想を見かける気がする。

以下の引用箇所は、多分、先の大戦について巡りが原が語っている。あの戦争を語れば、まさにこういうことだった……と納得したり、発見させてくれたり、「私もこう言いたかった」と拍手したくなった箇所だ。
あと読点が一箇所だけあった。なくても大丈夫な気もする箇所だが、何か意図があるのだろうか?

はてさて
今回の終戦によって
果たしてどんな時代の入り口に立つことができたのだろう


前景へと踏み出せる勝ち戦だったのか


それとも、
後景へと退くしかない負け戦だったのか


現人神とやらの俗悪陳腐で悪趣味な偶像を
恥ずかしげもなく狭量な精神の軸に据え

本来同等の権利を持つはずの人間的尊厳を毛ほども尊重せず

国益の幅をまずます狭く限定し

地震列島の上を漂う
折衷案のない
押しつけがましい理念は
より徹底され
国民に窮乏生活を強いて軍事力を異様に肥大させ

戦争はもっと筋の通った合目的が必要だと唱える少数者を
拷問と処刑によって封じこめ
益なく血を流すことをなんとも思わぬ
破滅的な覇権主義に凝り固まり

とうとう狂気そのものの顔立ちになった帝国は
時代を衝動的欲求とも言える開戦へとひきずりこみ
有無を言わせぬ生き甲斐として戦死を強引に押しつけ
実際には人間の尺度に合わぬ戦争の極限に行き着いたのだ


そして恐ろしい神の仮面をつけた天皇の威信に惑わされ
弱い立場を宿命づけられ
一丸となって事大主義の虜となった魂の持ち主たる国民は

人格崩壊に突き落とされ
冷静な現実から切り離され
とてつもなく堅苦しい社会性を強いられ

その窮屈さから生じる
集団的にして感染的な怒りにかられ

白人の魔手をはね返すためのアジアの統一という
一理はある口実で捏造された欺瞞の理想をあたまから信じこみ

あまりに無謀な目的に囲いこまれたあげくに
みずからを拘束し

慈悲の心を完全にうしない
他国の人間を人間として認めぬ
大量殺戮を追う視線の果てに
いったい何を見たのだろう

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻35頁)

以下、戦争について、平和について、その間の歴史について語れば、確かにこうなのかもしれない……と内容と表現の格好良さに心惹かれた。

直感という名の羅針盤が
戦争と個人的な殺人についての終わりなき論争における
差異と類似のあいだでいまだに迷いつづけ
常に気まぐれで無責任なかたちで訪れる
平和の始点と終点のあいだをひっきりなしに行き来している

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻41頁

以下の引用箇所、やはり語り手が巡りが原という高原だから成立する言葉。人間が語り手だと、この思いはそっぽを向かれてしまうと思った。

死んだのは人間どもであって
山河ではない

より劣った生き物の特性として
自己疎外の葛藤を抱えこんだ人類の歴史は

空洞のごとき生から逃れんとして墓穴を掘り
みずからかくも残酷なきびしい裁きを下しつつ
陰々滅々とつづく

しかし

よしんば人間界に絶滅の戦争の嵐が吹き荒れることがあったとしても
究極の最終兵器によって人類が激越な最後の時代をむかえたとしても

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻56頁)

人間よりも大きな存在でありながら、巡りが原という少し頼りない高原が語っている……というところに面白さがあるのに、この面白さが感じられない人が多いのは残念なことだ。

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さりはま書房徒然日誌2023年10月27日(金)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ー人間でない「高原」が語り手になる面白さー
ー句読点がないのがこんなにスッキリ見えるとは!ー

私はごく最近丸山文学を読みはじめた。
それも余り人が読まない後期の作品から読みはじめた。
時の流れを遡るようにして、少しずつ丸山文学を遡ってゆくという天邪鬼的読み方だ。

最近では左右社から出ている三作品「おはぐろとんぼ夜話」「我ら亡きあとに津波よ来たれ」「夢の夜から口笛の朝まで」と幻想味あふれる作品を楽しんだ。

今回、もう一つ前の作品「トリカブトの花が咲く頃」を読むことにした。「トリカブトの花が咲く頃」も、後期の作品の特徴である斜めの形に文を揃える詩のようなスタイルである。
さらに「トリカブトの花が咲く頃」には句読点がない。
だが意味はとりやすいし、視覚的にも句読点がないのはスッキリする……というのが不思議な発見だった。
ざあっと見てみると、感嘆符は見かける。
なぜ、この後の作品では句読点が復活したのだろうか?

どうやら「トリカブトの花咲く頃」の語り手は「巡りが原」と呼ばれている高原らしい。
高原が語り手となってストーリーが進行する……とは、それだけで幻想文学読みの心を刺激するのではないだろうか……。

巡りが原が語る自分の姿。
客観的に語りながら、じつに生命の躍動感あふれる文だと思う。

動物で言うところの血管
植物で言うところの導管に匹敵する
わが体内を縦横無尽につらぬく水脈や
体外を好き勝手に走る細流の絶え間ない運動が
じつに生々しく自覚され

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻11頁)

巡りが原の真ん中に一本だけ生えているシラビソも、良識のシンボルなのだろうか?これも幻想的である。
さらに風が発する多様な言葉の面白さも、幻想文学読みを惹きつける気がする。

それまではたんなる草の海にすぎなかった私の真ん中に
一本だけ生えてきたシラビソの成長とともに

なんと
良識の徒を自負できるまでに育ち

私の意思の表れとしてさまざまな種類の嵐が発する
乾いた言葉や
偽りなき言葉や
辛辣な言葉や
空疎な言葉により

戦争と平和という
常に急を要し
幸福の根幹にかかわる課題について激論が交わされ
正義の尺度に波紋が投げかけられるようになり

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻28頁)

この不思議な巡りが原は、戦争が始まると眠りにつくらしい……。
巡りが原が戦いの気配を察知して、いつの間にか眠りにつく描写に、丸山先生の世界が始まる予感がする。

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さりはま書房徒然日誌2023年10月26日(木)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上下巻読了

ー明るくて詩人のようなドッペルゲンガーがしょっちゅう出てきた!ー

再度、砂浜に穴を掘ってドッペルゲンガーを埋めたところで、またしても大津波に襲われ、青年は穴に墜落。
だがドッペルゲンガーの上に落ちたかと思いきや、そこには誰もいなかった……。
去ってゆくドッペルゲンガーの姿が見えるのみ。

考えてみたら「我ら亡きあとに津波よ来たれ」は津波で死んだ青年、そのドッペルゲンガー、ドッペルゲンガーが映じる介護が必要な義母の忌まわしい思い出だけから成り立っている。

つまり実質、登場人物は一人だけなのである。たった一人の登場人物でこれだけ長い小説が書けるのか……と驚く。

「我ら亡きあとに津波よ来たれ」はドッペルゲンガーも主要登場人物で、しょっちゅうドッペルゲンガーが出てくる。

丸山先生がドッペルゲンガーをよく作品で取り上げるのは、量子力学にはこの宇宙と同じ宇宙が複数あるという考えがあるからとのこと。同じ宇宙があるなら、もう一人の自分は確実にいるとの考えがあるようだ。

そんな考えのもとに書かれるドッペルゲンガーはどこかユーモラスでもあり、哲学的でもあり……。

他の作家のドッペルゲンガー作品は不気味で、ドッペルゲンガーと会って主人公は死ぬ……という暗いパターンの短編が多い。

だが丸山文学のドッペルゲンガーは以下の引用箇所にもあるように、明るく、時も自由に駆けてゆき、どこか詩人のようである。そして不幸な生い立ちの現世とはかけ離れた姿をしている。
この他にはないドッペルゲンガーの捉え方こそが、「我ら亡きあとに津波よ来たれ」の魅力の一つでもある。

初回に匹敵する大津波の音が痛々しく響くなか、

どこまでも人懐っこい嘲弄を置きみやげに
おれを見捨てて
いずこへともなく去って行く、

高潔な態度と微温的な物腰の両方を持することによって
ほかの誰よりも人間的な風味を添え、
真っ当に生きて
幸福に死んだあ奴は、

なんと、

へだたりを広げるにつれてどんどん若返り、

たちまちにして少年時代を通り過ぎ、

今ではもうよちよち歩きの幼児そのものと化しており、


しかも、

いつしか孤立の状態から解き放たれていて、

驚くべきことに
その両側にはふたりのおとなの男女がぴったりと付き添い、
それは
誰が見ても生みの親に違いなく

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻579頁

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さりはま書房徒然日誌2023年10月25日(水)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー植物への愛情が滲む文は丸山先生ならではー


以下引用箇所は、庭づくり命!で毎日庭仕事をされている丸山先生にしか書けない文だと思った。

丸山塾で指導を受けていると、時々「その風の頃に咲く花は何?」と訊かれて狼狽えることがある。
丸山先生の頭の中には、季節の植物のカレンダーが組み込まれているのでは……とよく思う。
さらに丸山先生の植物カレンダーは信濃大町基準のカレンダーで、東京近郊とはずれがあるようだ。
とにかく植物と庭は丸山先生の人生の中心なのだろう。
「真剣そのものに咲き初める花々と 面白半分に咲き誇る花々」などという表現は、毎日いつも植物のことを見つめている丸山先生にしか書けない文だと思う。
「克服しがたい偏見のなかに見る影絵」という表現もはっきりとは分からないながら美しい文だと思う。

このあたりドッペルゲンガーについても面白い箇所があったが、寒さと雷がゆっくり体を休めるように……と言っているようだ。それはまた後日。

ごつごつした感触の終末の予感が処々方々で生まれかけている被災地に
真剣そのものに咲き初める花々と
面白半分に咲き誇る花々とが
克服しがたい偏見のなかに見る影絵のように
わが脳裏をかすめてゆくなかで

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻546頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月24日(火)

丸山健二「我ら亡きあと津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー丸山文学のドッペルゲンガーの面白さとは?ー

引用箇所で、主人公は自分のことを軽蔑しているドッペルゲンガーを仔細に観察している。
それが他のドッペルゲンガー文学にはない、丸山先生ならではの面白さである。
だいたいドッペルゲンガーが出てくる小説は、「ある日、自分のドッペルゲンガーを見た。しばらくして死んでしまった」というワンパターンが多い気がする。
怖がらせる存在に過ぎない多くのドッペルゲンガーと比べ、丸山文学では実に細かく観察している。
それは丸山先生が量子力学に基づいた多元宇宙というものを確信しているからだろうか?
現前すると同時に不在でもある畏友」というドッペルゲンガーの捉え方はいかにも丸山先生らしく、恐れずにもう一人の自分と対峙するところに丸山文学のドッペルゲンガーの面白さがある気がする。

やむなく、

所詮はおれの複製のくせに
現在することを盾に取って
抗弁らしき言葉をずらりと並べてみせ、

それでいて、

まさしくオリジナルそのものであるこのおれのことを
自分とは相容れない
はなはだ激しやすい性質の愚者と一方的に決めつけたらしく
敬遠を超えた嫌悪の素振りをあからさまに示し、

併せて、

完全に疎通を欠いてしまったことによる
痛々しいまでの自覚がほの見える体たらくを
いやというほどさらけ出したが、

しかし、

こう言ってよければ、
博愛心という固定観念を依然として存続するそ奴は
現前すると同時に不在でもある畏友
ということになるやもしれなかった。

(丸山健二「我ら亡きあと津波よ来たれ」下巻502頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月23日(月)

丸山健二「我ら亡きあと津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー量子力学&パラレルワールドの影響から生まれた丸山健二文学のドッペルゲンガーの面白さ!ー

丸山先生になぜドッペルゲンガーがよく作品に出てくるのか質問したことがある。
丸山先生がドッペルゲンガーを書くのは、量子力学の影響が大きいらしい。
なんでも量子力学には、この世界が無数にある……というパラレルワールドの考えがあるそうだ(うろ覚え)。
この世界が無数にあるなら、もう一人の自分というものも確かにある……という思いからドッペルゲンガーを書かれているらしい。
ぼんやりした、うろ覚えの理解ではあるが)。
複数のページから一部ドッペルゲンガーの箇所を以下に抜粋した。
パラレルワールドを確信する丸山先生が書かれるドッペルゲンガーは、やけにリアル。
パラレルワールドの書き方も面白いと思う。
でもドッペルゲンガーと自分には微妙な差異がある。自分とドッペルゲンガーの違いを見つめ書いた作家というのは、あまり他にいないのではないだろうか?

げんに、

誰あらぬこのおれに化体し
真の自由への脈略をつける過程で頓挫した
知能も志も背丈も低いそ奴は、

紛うことなき死者のくせに
もっと大まかな言い方をすれば
<命を持たぬがらくた>であるにもかかわらず、

死者としての存在を拡大解釈しつつ
生者との境界を突き崩し、

本来生と同等の意味を持つはずの肉体から
魂の自由という権利をみずから剥奪して
あとはもう遺棄するしかない
無用なはずの身体を取り戻していたのだ。

(丸山健二「我ら亡きあと津波よ来たれ」下巻478頁)

呼吸音のみならず生きている人間そのものの臭いまで放ち

(丸山健二「我ら亡きあと津波よ来たれ」下巻478頁)

あの世とこの世のどこの存在でもなく
恐れ入るほかない精緻な色合いの幻影の

(丸山健二「我ら亡きあと津波よ来たれ」下巻483頁)

そうやって差し出される罪に関した言葉に大きな食い違いはなくても
実像としての本人のそれとは微妙な差異が感じられ、

たとえば、

前後の文言からして
地位や名誉という無化の宝以下の
死んだ価値を引きずっていることは確かで、

こちらの版元が出している丸山作品はどれも非常に幻想味があって好きなのだが、もう版元には在庫がないとのこと。
日本の古本屋にもあまりない。
だが図書館には比較的多く置かれているようだ。
幻想文学好きの方、丸山文学ファンの方が、図書館でこちらの版元の丸山作品に出会いますように。

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さりはま書房徒然日誌2023年10月22日(日)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー丸山作品にトリスタン・ツァラ的精神を感じるー

丸山作品は後期になるにつれてストーリー性がどんどん薄くなって、言葉と記憶の断章の世界になってゆく……というようなことがよく言われている。
私もそう思う。
だがストーリー性が薄くなることを、難しくなるように捉えている人が多いが、果たしてそうなのだろうか?
学生時代、ダダやシュールレアリスムのフランス詩界隈が専門だった私にすれば、赤の他人がこしらえたストーリーにのって追体験することの方がはるかに難しく感じられる。
さらに他人が創ったストーリーを隅々まで記憶している人に出会うとびっくりする。
私は言葉は記憶しても、ストーリーはすぐに忘れてしまうところがある。

さて後期の丸山先生の作品を読んでいると、ダダの詩人トリスタン・ツァラの「帽子の中の言葉」を思い出す。
新聞の単語をチョキチョキ鋏で切って、帽子の中に入れて、取り出した単語を並べて、そのまま詩にする……というダダの詩の試みだ。
「帽子の中の言葉」というのは一種のポーズのような部分があるかもしれないが、アトランダムに並べられた言葉には機能性や意味性の手垢にまみれていない美しさを感じた。

後期の丸山作品にも、まったく思いがけない言葉と言葉を組み合わせることで、ある種の美しさが生まれ、新しい小宇宙が続々と誕生するような気がする。


トリスタン・ツァラで文学に触れた私にすれば、人生のカウントダウンをそろそろしようかな……というときに日本のトリスタン・ツァラと言いたくなる丸山文学に出会ったのは必然かも……と言うか、また出発点に戻ったという気がする。


思いもよらない言葉と言葉、概念と概念が出会って生まれる比喩の世界。面白いと思った箇所を抜き出してみた。

どこが面白いと思ったか分かって頂けるだろうか?

夕影がゆらめく生者と死者の夢幻的な境界という
神仏ですらうかつに接近できぬ帯域に身を置くことになり、


すると、

数千年ものあいだ収蔵されていた古文書を
なんの注釈を付けずにいきなり見せられたときに似た戸惑いを感じてしまい、

見境もなく我を忘れる混乱の終盤のあたりで
全的な人格崩壊に突き落とされ、

意味と尊厳を具えていたはずの人生が
たちまちにして没落してしまったのだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻467頁)

妙音を奏でながら田園地帯を通過する村時雨のさなか
無紋の布地のごとき心になったかと思うと

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻473頁)

あたかも、

単調な歌を詠唱しながら
畜舎から逃げだした仔牛を連れ帰る農夫が味わうような、

心の堡塁のなかに
好ましい追憶と夢だけを集めることに成功したような、

さもなければ、

よもやま話を満載した夜船とすれ違うときにも似た
そんな豊かな印象をおぼえたような、

希望の光が射し始めたとしか聞こえぬ
年季の入った鳥笛の音を耳にしたような、

昔語りに時を忘れる懐かしき人々のかたわらを
そっと通り過ぎて行くような、

底なしに深い安堵感と
けっして限界づけられぬ崇高な陶酔感に
いっぱいに満たされた。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻473頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月21日(土)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー丸山文学の四つの魅力が織り込まれた長いワンセンテンス!ー

津波を生きのびた青年は、死せる自分のドッペルゲンガーに出会い、その姿に過去の映像を見る。義母の介護にヘトヘトになり、ついに殺めてしまったことを。そして飛び出していったことも。

次の引用箇所は、長いワンセンテンスである。

出だしの表現の美しさに釣られて読み、さらに丸山先生らしい国家や社会への見方に頷きながら読む。
最後のあたりは哲学的な部分も多く、私にはよく分からないながらも、「物分かりのいい現実」とか面白い表現に思わず読んでしまう。

この長い一文には、丸山文学の三大魅力、表現の美しさ面白さ、国家や社会に流されない目、哲学的な文がすべて織り込まれているのだなあと思う。

全部わからなくてもいいから、その魅力のうちどれか一つでも感じて読み進めてゆく……のが、後期の丸山文学を読むポイントになるのかもしれない。

それから「さらさらと流れゆく者」も、丸山文学に度々出てくる魅力的な存在で、理想とされるような生き方だろうか。
「さらさらと流れゆく」生き方に魅力を感じるかどうかが、丸山文学を好きになれるかどうか……なのかの分かれ目になるのかもしれない。

とはいえ、

目を奪わんばかりの推進力をもって
月が夜を織り
日が昼を織るなか、

経済という名の化け物が
有無を言わせぬ強大な力を発揮して
仕事にあぶれた者たちを等しく根絶やしにするという、

上層階級のふところを肥やすだけの政策を遮二無二達成したがる
国家の統治者という、

資本主義体制において随時行われている
法律の空洞化という、

お上の統制下にある真理にしか仕えられない
親譲りの愚民という、

市場価値を持たぬ者に対しては即座に心を石にしてしまう
冷血な吝嗇家という、

そんな理不尽かつ過酷な社会情勢などいっさい度外視して
さらさらと流れゆく者にとっては、

たとえ
どこの地であっても、

よしんばそこが
資本家どもの驕りと
それに付帯する利潤の容赦ない争奪の場である
花の都とやらであっても、

人里離れた辺境という
さびれきった印象が強調され、

そのせいかはともかく、

標準的な意義を宿す生涯の始点と終点にも、

より明確な形であの世と境を接するこの世にも、

物分かりのいい現実から切り離された良風美俗にも、

合目的性などまったく不必要な生き残り競争の激化にも、

独力でおのれを守る理想的な自己完結性にも、

斬新かつ絶大な慈しみの再発見にも、

まったく興味を持てなくなってしまった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻438頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月20日

子規に、大道寺に、一箇所に留まることが書き手にとって大切な理由を見る思いがした

先週末、お庭見学のときに丸山健二先生は
「書き手はあちこちを移動したらダメなんだ。旅行しながら書くなんてもっての外」
というような趣旨のことを言われていた(うろ覚えだが)。
なぜか、その言葉が私の心に沈殿する。

そして20日、福島泰樹先生の「人間のバザール浅草」の講義は、中原中也、正岡子規、大道寺将司と濃密な講義。


子規にしても、大道寺にしても動くこと能わず、じっとしたままダイナミックで深い句を詠んでいるのはなぜだろう……と、その視線を想像する。

福島先生のヴォリュームたっぷりの資料からごく一部だけを引用させて頂く。

病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。わずかに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団ふとんの外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。はなはだしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤まひざい、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽をむさぼ果敢はかなさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、しゃくにさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寐て居た病人の感じは先づこんなものです

(正岡子規「病床六尺」より一部抜粋)

病に倒れてから、わずか六尺の布団の大きさの中で激痛に耐えながら生きた子規。
その歌の中でも、教科書によく採られているのが次の歌だそうだ。

瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり

この歌は教科書によく掲載されている有名な歌らしいが、結構、解釈は色々分かれている気がする。

私は、脊椎カリエスに侵された自分の寿命を藤の短い花房に例えた無念の歌のような気がするのだが。
あと房の短い藤は芳香の強い品種なのでは……とも想像する。
強い香りを放ちつつも畳に届かない藤の花は、まさに自分の人生そのものに思えたのでは?と私は想像した。

ただ人によって、房と畳の間に空いた隙間の発見を面白いと思って詠んだ歌とか解釈も色々あるようである。

それから大道寺将司の句も色々教えて頂く。
名前も初めて聞く俳人だ。
三菱重工爆破事件で民間人の犠牲を出してしまい、死刑宣告を受けた。
40年間も窓のない独房に過ごし、犠牲者の冥福を祈り、最後は病で亡くなったそうだ。

以下、引用は福島原発事故以後を詠んだ句。

窓もない独房でどうやって想像したのだろうか?
鞦韆はブランコのことらしい。

波荒き暗礁(いくり)に立てる海鵜(うみう)かな

漕ぐ人もなき鞦韆(しゅうせん)の揺れにけり

荒布(あらめ)揺る森を汚染の水浸す

人絶えし里に非理なし蝉時雨

死にしまま風に吹かれる秋の蝉

(大道寺将司「残(のこん)の月」)

それから次の句も、狭い独房の中にいて何故こんなにスケールの大きな、躍動感あふれる句を詠むことができたのかと不思議な気がした。

海底(うなぞこ)の山谷渡る鯨かな

(大道寺将司「残(のこん)の月」)

福島先生の「子規は、病になってから心象風景の中でしか生きられない。」「大道寺は外界から切り離され、追憶の中にしかいない」という趣旨の言葉(大体の記憶でおぼろ)が心に残る。

心象風景のみに、追憶のみに生きて書いたからこそ、心に迫る作品を残したのかもしれない。

書き手にとって大事なことは、あちらこちら見て回ることよりも、一点を見つめ追憶を、心の風景を引き出して言葉に結びつけてゆくことなのかもしれない。

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さりはま書房徒然日誌2023年10月19日(木)

篠田真由美「螺鈿の小箱」より「暗い日曜日」を読む

ー箱はそれぞれ違うストーリーを秘めている!ー

(写真 楼閣人物蒔絵宝石箱 プラハ国立美術館 19世紀)

全部で七つの短編からなる「螺鈿の小箱」は、それぞれの短編に「螺鈿の小箱」が出てくるらしい……。
と、二つ目の短編「暗い日曜日」で気がつく。
一つ目の「人形遊び」では「鞭」が、二つ目の「暗い日曜日」にはまた違う身近なものが収められている。
それぞれの箱の中身の思いがけない使われ方が面白い。

またラストの幻想味あふれる、意外な終わり方も素敵。
トリックも上手くいくかドキドキして、無事にミッションが遂げられた時には思わず安堵。
シャンソン「暗い日曜日」や様々なカクテルも。
(ただしノンアル派の私にはまったく分からないがでも飲める方なら更に楽しめるだろう)

何よりもいいと思うのは、米兵相手に歌を歌い、時に子供を廊下に置いてホテルの部屋に行かざるをえない女たちを書きながら、作者の目は女たちを咎めることはなく、むしろ寄り添う視点が感じられる点である。

……それにしても箱にはストーリーがあるもの。
出先なので歌自体は思い出せないのだが……。
前回の歌会で、桐の小箱に自分の子供時代の写真をしまっている母親との、はるか昔のやりとりを詠んでらした年配の女性がいた。
桐の箱に我が子の写真をずっと入れている……という風景に、一つの物語を感じてしまった。
そう、箱には無限のストーリーがあるのかもしれない。
そんなストーリーを「螺鈿の小箱」で読んでいくのが、楽しみである。

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さりはま書房徒然日誌2023年10月18日(水)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ードッペルゲンガーの心情も、ドッペルゲンガーを見る方の心情もつぶさに語られている!ー

自分のドッペルゲンガーを見つめている「おれ」。
ドッペルゲンガーの心情を考え、批判的に眺めている幽霊の「おれ」。
ドッペルゲンガーが伝える義母殺害、自殺してからの自分への「おれ」の今の思い。

だんだん誰が誰なのか分からなくなってくる。

いや、どれもが「おれ」なのだ。

「我ら亡きあとに津波よ来たれ」ほど、ドッペルゲンガーの心も、ドッペルゲンガーを見る方の心もつぶさに語っている作品はない気がする。

まずは「おれ」が観察する船の上のドッペルゲンガー。

その船首に物憂げな様子で独り座し、

紛うことなき死者でありながら
永遠化へと昇華される稀有な存在を気どり、

重大な意味を孕む蛮行に出た生者になりきり
根源的な罪を枝葉末節なものとして片づけたがるおれになりきっている
そ奴は今

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻408頁)

このドッペルゲンガーは、死んだ状態で「おれ」に発見され、すでに埋葬されている。
そんな埋められた筈のドッペルゲンガーが、あれこれ自殺するまでを演じてみせる滑稽さを、以下のようにこう表現するか!と思った。

しかし、

ひとたび埋葬された者が
何をどうやってみたところで
その行為のどれもがおのれを愚化する隠語のように伝わりづらく、

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻413頁)

そして「実際のおれ」は以下。
でも自殺しているから、生きているわけではない。

ならば、

陰々滅々とつづく空洞のごとき生からひたすら逃れんとする
あれからここに至るまでの
実際のおれはどうだったかというと、

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻419頁)

何が真実で、何がドッペルゲンガーなのやら……文字を追いかけるうちに混沌としてくる感覚。不思議な体験である。

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さりはま書房徒然日誌2023年10月17日(火)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー「夏の流れ」冒頭の文と比べ、丸山先生の文体と格闘する旅路を思うー

「我ら亡きあとに津波よ来たれ」はワンセンテンスがとても長いが、今回の引用箇所はとりわけ長い。
これでワンセンテンスである。

長いから引用しようと思ったのではない。
「もう一人の自分」的発想に、ドッペルゲンガーの存在を思わせる箇所に、社会への想いが記された箇所に共感したから引用したのだ。

だが入力しているうちに、そういう当初の目的を忘れかける。
入力するだけでも疲れる。
これを頭の中で組み立てて文にまとめるとは、丸山先生はどんな発想で文を書き進めているのだろうか……。

ちなみに丸山先生の二十三歳の作品「夏の流れ」の冒頭の文は
「まだ五時なのに夏の強い朝の光は、カーテンのすきまから一気に差しこんできた。」
ととてもシンプルである。

通信士の文体のように簡潔な「夏の流れ」から半世紀以上、常に文体を進化させようと試みてきた丸山先生……。
このうねるような長文に到達するまでにどれほど手間と時間をかけてきたことか……。
ワンセンテンスに丸山先生が苦闘された長い時を感じてしまう。

文の中ほど「冷笑するもうひとりのおれを意識せざるをえなくなり」に、丸山先生にとってドッペルゲンガーは自分を冷ややかに眺めている存在なのだと思った。

文の最後「真っ昼間に出現した亡霊のように くっきりと透けて見えるのだった。」も、見えてくるのは望ましくない世界の姿ながら、もう一つの世界を示唆して、なんとなくドッペルゲンガー的。

冒頭「煢然」という言葉は知らず、辞書で調べてしまった。
日本国語大辞典によれば、「煢然」(けいぜん)は「孤独で寂しいさま。たよりないさま」とのこと。
「徹底的な煢然」とイカつい字面の漢字が並んでいると、半端ない孤独感が伝わってくる。

文の最後「惨めな未来」も、「独占社会」も大きく頷ける部分があった。
「現世」を「苦悩と情熱にあふれた色彩空間」と表現したのもまさにその通りだと心に残る

日本語は接続詞でつなげば、こんな風に長い文になるもの……だろうか。

昼間作業をしていたコワーキングでのこと。仕事の電話をしていた方が「文は長いと読んでもらえないから、できるだけ短く書いてください」と指示していた。


丸山先生は、そうした分かりやすい文を求める世の流れにわざわざ抗って、短い文体からこの長い文体に到達されたのだ……どれほど孤独な旅路であったことだろうか。

ゆえに、

その徹底的な煢然を
ありふれた空語にすぎぬなどとは軽々に決めつけられなくなり、

孤絶の道を一歩進むごとに
片時も気の休まらない状況に投げこまれて
これまでとはまた別種の厳しい日々を迎えそうな
そんな不安が急激に膨張し、

急に怒りっぽくなったかと思うと
今度はおのれ自身を虐待し始め、

その典拠を挙示することなく
自我を敵と見なして鎮撫に乗り出し、

だから、

よしや
虚偽ならぬ真理の含蓄全体が無意義であったとしても、

個々の人々の合図がいくら多種多様であったとしても、

かような現実の雛型はあまりにも厭わしく、

少しでももののわかった人間であるならば

絶対にこんな真似はしなかったはずだという意味を含めて
さかんに不平を鳴らし、

しからば
何ものにもましてこうした事態を避けるべきではなかったかと
そう言って冷笑する
もうひとりのおれを意識せざるをえなくなり、

果ては、

善の空白をいくら悪で補填したところで
なお虚無の疑念が残ってしまうばかりで、

両肩で世に吹き荒れる烈風をつんざきながら
満天下の耳目をそば立たせるほどの成果へと突き進むどころか、

病的な憎悪をかき立てる赤裸々な宿命や
取るに足らぬ出自を補って余りある
安逸な生活を送ることさえ不可能に思え、

かつ、

生き抜くための周到な努力を重ね、

真なるものを説く人物に親炙し、

絶対の信頼を置く相手に助言を求め、

のみならず修練を積み上げたものの、

暮らしそのものが虚飾に陥ることによって
心的に最大の損失を招くことになり、

それでもなお、

いかんともしがたい至らなさに付きまとわれ
純潔な精神を真剣に欲しながら終日のらくら過ごしてしまうという

そんな惨めな未来が、

悪業のみが報われる
代わり映えのしない独占社会と、

撹乱戦法がその出だしからしてきわめて順調に推移する
夏の凄まじい勢いの嵐と、

苦悩と情熱にあふれた色彩空間としての
無益に骨を折らせる無意味な奮起を強いる現世のかなたに、

真っ昼間に出現した亡霊のように
くっきりと透けて見えるのだった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻395頁

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さりはま書房徒然日誌2023年10月16日(月)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を読む

「風死す」にも繋がる世界がある!
ちなみに私が勝手に考える「風死す」を楽しむ方法

丸山先生の最後の長編小説「風死す」の話になると、悲しそうな顔をして全四巻のうちの1巻の最初あたりをまだ彷徨っているんです……と言われる方によく出会う。
先日、お庭見学のときもそんなことを言われている方がいた……。

そういう言葉を聞く度にに「なぜ、理解力の劣る私が全部読了したのだろうか?」と自分でも不思議に思う。
今も本棚で「風死す」の頁をペラペラ繰っては「読んだんだ、とりあえず」と確かめてきた。
「風死す」の読書体験は決して苦痛ではなく、すごく愉しみ溢れるものだった。
(学生時代、ダダの詩が専門だったので、私は元々ストーリー性や意味性のあまりない世界の方が親しみやすい特異体質、理解力軽視派なのかも)

私が考える「風死す」の楽しみ方を以下に四点ほど書いた。

「風死す」の楽しみ方其の1

「風死す」の頁を開けば、思いがけない言葉の組み合わせが怒涛の如く流れ込んでくる。意味を考えずに、童心に帰って、言葉のカレイドスコープをガシャガシャ動かして覗き込む気持ちでページを繰ってゆく……

「風死す」の楽しみ方其の2

普段無意識に思っていても言葉が思いつかなくて言えないような国家や偉い連中への鬱憤を語る部分をクローズアップして読んでスッキリする……

「風死す」の楽しみ方其の3

本のどこかに丸山先生自身が潜んでいることが多い。そんな隠れ丸山先生を探して「あ、いた!」と発見して、そういうことを考えていたんだ……と気づく

「風死す」の楽しみ方其の4

丸山先生の哲学、物理学などへの思いが語られていることも多く、たしかにその度に頭がついていけず優等生を前にした劣等生の気分になる。
でも大体の読者は丸山先生よりも年下ではないだろうか?
丸山先生の年まで頑張って勉強したら、こういう哲学的世界が分かるかも!と難しい考えはそのうち分かるかもとスルーして、ただ長生きしようと前向きに思う……もちろん理解できれば更に楽しいと思う。

以上、私が思う「風死す」の楽しみ方。
手にしている「風死す」は言葉のカレイドスコープだもの。ガシャガシャ動かす度に現れる言葉の形を楽しんで、ストーリーはあまり考えない方がいいのではないだろうか?

こんな「風死す」の楽しみ方を書けば、怒られてしまいそうだが。

でも先日、ある小説家(丸山先生ではない)が語られた言葉が心に残る(うろ覚えだけれど)。
ずっと詩歌の方が小説より格上だった。そもそも小説なんて詩歌と比べたら、たった200年の歴史しかないんだもの」と語られていたような……。
たしかに詩歌と比べたら、歴史の浅い小説だから形はこれから変わっていくだろうし、いろんな試みがあっていいのではないだろうか。

「我ら亡きあとに津波よ来たれ」は、そんな「風死す」の楽しみ方に繋がる部分のある、でも「風死す」よりはストーリー性のある作品だと思う。

「我ら亡きあとに津波よ来たれ」の以下引用部分は、丸山先生ご自身の書くことへの思い、それから社会への批判的思いがよく伝わってくる箇所のような気がする。
義母を殺めた青年がだんだん立ち直る場面。
ワンセンテンスの途中から部分的に引用。

それどころか、

心に刻印されている習熟した全てを語り尽くそうとし、

終わりなき服従を強いる文明を真正面から告発し、

理知に欠けるうらみがある伝統主義を墨守するための権威を失墜させ、

阿諛追従を重ねるしか能がない衆俗を激しく嫌悪し、

社会の仮面を暴く真理の片鱗をちりばめた、

それほどの熱い意志が言外に含まれている
まるで炎で書かれたのかのような、

そして、

絶品と目され
優雅な甘美さを具えた刀剣を想わせるような、

まさしく<次世代の詩>の濫觴をそこに見た思いがするような、

また
ありとあらゆる飾りを欠いた生の在り方を猛烈に欲するような、

その冷淡さはしかし
むしろ温情の裏返しではないかと思えるような、

生来の弱点を克服するという
おれをしてその境地へ至らしめるような、

自律的主体性を奪い
魂を縛るための拘禁服としての社会的統制を嗤えるような、

そんな斬新な作品を
干からびた心に命を吹きこむ文芸の蘊奥として
あざやかにものすることができそうに思えたのだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻347頁)

「風死す」は、丸山先生の出版組織いぬわし書房でまだ販売中だと思う。
興味のある方は以下をご覧ください。

https://inuwashishobo.amebaownd.com/pages/4062993/page_202007180848

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さりはま書房徒然日誌2023年10月15日(日)

信濃大町の丹精こめた丸山庭園が秋の歌を運んできた!

丸山健二先生の最後の長編小説「風死す」の購入特典で、信濃大町の丸山先生のお庭を見学する。

丸山先生が長い年月をかけてつくってきた庭。
毎日コツコツ草むしりをされ、庭木を掘っては配置換えをしたり、実生でツツジを育てたり、庭を横切る木の通路は先生みずからホームセンターで材木を購入して電動工具を使って補修されたり……

そんな時間と手間がたっぷりかけられた庭をゆっくり鑑賞した。

庭の至る所にある背の高い木はイロハカエデだろうか?
今年は暑さのせいで紅葉が遅れている……と丸山先生が残念そうにされていた。
それでも木の上の方はとても鮮やかな赤になっていた。

そんな庭の様子やら丸山先生の言葉やらに触発されたのだろうか。
帰りの電車の中で秋の短歌ばかりを読む。
ジャパンナレッジのおかげで、日本古典文学全集に収録されている万葉集やら古今和歌集などの歌集が、スマホでさっと読める時代はありがたい。
現代短歌もさっと読める時代だと更に嬉しいが……。

紅葉真っ盛りにならず残念そうな丸山先生の様子を思い出しながら読むうちに、次の歌が目にとまった。



しぐれよとなにいそげん紅葉(もみぢ)ばの千(知)しほになれば秋ぞとまらぬ

(為相百首「秋二十首」より)

意味

「しぐれなさい」と、どうして急がせるのだろうか。紅葉が紅に染められてしまば、秋という季節も留まらず逝ってしまうのに。


歌の心

早く時雨が来て紅葉を赤く染めよ、と思う一方、そうなると秋という季節も去ってしまう、と嘆く。


語句解説
・しぐれよとなにいそげん


 紅葉を染めるしぐれよ、早く降れ、というのである。

・千(ち)しほ

 幾度も染めること。紅の紅葉を「ちしほ」と形容することは鎌倉期から多くなる。


日本国語大辞典では、以下のように「ちしお」を説明
何回も染め液に浸して色を染めること。色濃く染めること。また、濃く染まった色や物。また、そのさま。

はるか昔1300年代の歌。

最初「しぐれよ」とサ行ラ行ヤ行でスタートするせいか勢いがあって、「いそぎけん」で加速する感があって面白い。
それに「しぐれよ」と「なに」の音の響きが清涼系の音、粘着系の音と対照的な気がする。


結句で「紅葉ば」と鮮やかに転換。
「千しほ」で更に強調。
スピードダッシュ、加速、華麗なる転換、強調とくるから、最後の「秋ぞとまらぬ」が印象的。秋がとまっちゃう……と不意打ちを喰らう気がする。


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さりはま書房徒然日誌2023年10月14日(土)

変わる言葉の風景ー喫茶店ー
時は経過すれど「ル・プティ・ニ」という空間は変わらず

もう35年以上前になるが、地下鉄早稲田駅を出てすぐの建物の2階に「ル・プティ・ニ」(フランス語で「小さな巣」の意味)という喫茶店があった。

昼でも薄暗い照明が心地よく、木の梁を見せるような内装、アンティーク調の家具、香りのいいコーヒー……。
学生には少し高い値段だったので、そうしょっちゅうは行けなかったけれど、私が喫茶店文化に触れた最初の店だ。

そんなル・プティ・ニも、社会人になってしばらくしてから早稲田の街を訪れてみれば、影も形もなく……。

駅の界隈から懐かしい蕎麦屋も、喫茶店も消えて、チェーンのコーヒー店とコンビニばかりが目立つ寂しい街になっていた。

それでも早稲田の街を訪れるたびに、ル・プティ・ニで過ごした友達との語らいのひとときがふと浮かんでくる。

その度に「あのときはどこに消えてしまったのだろうか……?」と思わずひっそり問いかけていた……。


さて今回、長野の方に用事があってきた。
途中どこかでコーヒーでも飲んで休憩しようと検索してみたら、「ル・プティ・ニ3」という店名の店が軽井沢にあるではないか。
同じ名前だ、ひょっとして……と物好きにも足を運べば、やはり同じ店だった。

早稲田に開店してから今年で45年め、早稲田のあとは目白、目白から軽井沢と、店の場所を変えつつ、続けられていたらしい。

店内の照明も、家具も早稲田のまま。
流れている音楽もあのときと同じ。
使われているコーヒーカップも見覚えがある……。
訊けば、カップは代えつつも同じメーカーの同じ柄のものを使われているそうだ。
コーヒーは、軽井沢に来てから自分で焙煎までするようになった……とのことで、更に美味しく、値段は多分早稲田の頃よりは安くなっていた。

大切な空間の光、音、香りが35年経過しても変わらず……学生を見守っていてくれたマスターたちは優しく軽井沢で迎えてくれ……変わらない空間があることに嬉しくなった。

(写真はル・プティ・ニ3の店内)

世界大百科事典で「喫茶店」の項目を調べてみる。

以下に英国の喫茶店、イスラム社会の喫茶店マクハー、日本の喫茶店について書かれている箇所を抜粋引用する。
それぞれ国ごとに喫茶店のミッションというか歴史が違うのだなと思った。

パリやロンドンの誰かが読み上げる新聞を聞く場としての喫茶店、
イスラム社会の若手作家が読者たちと語り合わす場としての喫茶店も魅力がある。
そして静かに軽井沢で時を刻むル・プティ・ニも……。

「喫茶店」についてー世界大百科事典より、英国、イスラム社会、日本の場合

イギリスの場合は,コーヒーと同時期にもたらされた紅茶,チョコレートなどのエキゾティックな飲料をも供した。しかし,喫茶店の歴史的意義は,それが文化面のみならず,政治や経済の面でも,情報交換と世論形成の場となった点にある。イギリスでは,新聞をはじめ初期のジャーナリズム,文芸批評,証券・商品取引などはほとんどコーヒー・ハウスを舞台として成立した。パリでもロンドンでも,初期の新聞は喫茶店でだれかが読みあげるのを〈聞く〉ものであったし,南海泡沫事件(1720)に至る異常な株式ブームの舞台もコーヒー・ハウスであった。世界の海運情報を独占し,大英帝国を支えたロイズ海上保険会社もコーヒー・ハウスから出発した。喫茶店はまた,反体制派のたまり場となることが多かったので,17,18世紀にはイギリスでもフランスでも,営業時間や内部での談論内容の規制が試みられた。しかし,イギリスの〈コーヒー・ハウス禁止令〉(1675)が11日で撤回されたように,規制は成功しなかった。 自由な雰囲気をもったイギリスのコーヒー・ハウスは18世紀中ごろから急に衰え,上流階級のクラブと都市下層民のパブにとって代わられてゆく。それは,コーヒーに代わって紅茶が国民的飲料となったうえ,紅茶が家庭内で飲まれるようになったこと,また大地主による支配体制が確立して社会の階層秩序が固定化したためである。コーヒー・ハウスとは異なり,クラブやパブは酒類を供し,各階層の表象となる。パリのカフェが芝居や音楽会と結びついて発展したのに対し,すでに19世紀のロンドンではコーヒー・ハウスはほとんどみられなくなる。

イスラム社会の場合

酒が厳しく禁じられているイスラム世界にあっては,マクハーこそが庶民のくつろぎの場であり,またマクハーには庶民の生活のたくましい鼓動が脈打っている。マクハーは娯楽の場であると同時に,社会生活に深く根ざしたものであり,アフガーニーやムハンマド・アブドゥフなど,近代のイスラムの改革思想家たちもカイロ下町のアタバ広場のマクハーに夜ごとに座り,エジプトの歴史を決する政治談義が繰り広げられた。またマクハーは文化を支える役割も果たしてきたが,その伝統は今でも残っており,たとえばエジプト文壇の第一人者,ナギーブ・マフフーズは金曜日の夜,カイロのリーシェというマクハーに必ず現れ,若手作家や読者たちと文学論を交わす風景が見られるが,そのような例はほかにも多い。

日本の場合

ヨーロッパの清涼飲料を飲ませる店であるソーダファウンテン,パリのコーヒーを飲ませる店のカフェをまねたのが,日本での喫茶店のはじまりであった。1888年(明治21)東京下谷黒門町にカフェをまねた〈可否茶館〉が開店したが,これは時期が早すぎて客の入りが少なく,すぐに閉店した。1911年東京銀座南鍋町に開店したカフェ・パウリスタをはじめとして,明治の末に東京や大阪の盛場にコーヒー等を飲ませる店としてカフエができた。日本の工業化を背景として,モダンな気分がするカフエは商売として成り立ち定着した。しかし,パリのカフェレストランをまねて,酒類や西洋料理を提供し,ウェートレスを客の横にはべらせてサービスをさせる店ができて,それはカフェーと称するようになった。昭和初期に音質,音量ともにすぐれた電気録音のレコードと電気蓄音器ができたので,それを使ってクラシック音楽を聞かせ,コーヒー等を飲ませる店として,まず名曲喫茶と称する喫茶店ができた。ミルクホールより高価にコーヒー等を売り,町娘風のウェートレスが持運びをしたので,カフェーよりも清楚で安価でモダンな感じがする喫茶店は知的な若者たちに支持された。つづいて軽音楽を聞かせる喫茶店ができてカフェーの客をうばった。それで,場末のカフェーなどのうち,歌謡曲や浪花節のレコードを聞かせて社交喫茶などと称する店ができた。江戸時代の水茶屋の現代化が喫茶店だとそのころはいわれた。


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さりはま書房徒然日誌2023年10月13日(金)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー言葉の思いがけない組み合わせを楽しむー

今日も読んだ箇所のあちらこちらから、気になった言葉を抜き出してみる。

こんなふうに、こんなところまで表現してもいいんだ!と思ったところもあれば、丸山先生らしい考えだなと思った箇所もある。

丸山健二塾ではオンラインだけれども、一語一語、一文一文、丸山先生と文の表現を確認してゆく。
「それはぶっ飛びすぎている」「それはわざとらしさが過ぎて嫌みな文である」「それは平板すぎる」……と細かくよく見てくださる。
それでは私がくじけると思うのか、たまにだけど優しく褒めてくれることもある。

そんなことをして何になるのか……と思う方も多いだろう。
芥川賞をはじめ文学賞のコメントを見ても、現在、文体について言及している方はほとんどいない。
大体の現代の文学関係者にとって、文体はどうでもいいことなのかもしれない。

でも短歌の方にとって、まずは文体(歌体?)ありき……のようである。

私が短歌をはじめたと知った知人は、その方の師である歌人、高瀬一誌の教えとして「他人と似ていない歌をつくれ」という言葉を引用されながら、
「歌はつくっているうちに自分の文体ができてくる」とヒヨッコの私にまず教えてくれた。

世間一般の小説と短歌の違いは、こうした文体へのこだわりの違いにあるように思う。

ただ、丸山先生の文体へのこだわりは、短歌の世界に匹敵するところがある。
丸山先生と短歌の福島先生は、指摘が重なる点も多い。
「それは説明的すぎる」とか……これは丸山先生が言ってらしたフレーズだと福島先生の短歌創作の講義でよく思う。

丸山先生は三十一文字をつくる感覚で、三十一文字を連ねるような感覚で、一語一語一文一文を大切にしながら小説を書いているのだと思う。それがわかる読者がとても少ないとしても決して妥協せず……。

丸山塾で指導を受けなかったら、たぶん短歌の世界に飛び込んでみようとは思わなかっただろう。丸山先生や福島先生のおかげで短歌まで世界が広がったなあと感謝しなければ。

浄福や薄幸の接ぎ目となる多彩な偶発

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻311頁)

まったくだしぬけに
比重がでたらめな複雑な感情が湧き起こって


(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻313頁)

世界は因果性の原理に支配されている

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻315頁)

けなげな労働者に対して目も耳も持たぬ搾取の世界を全面的に否定し

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻319頁)

自由は退却するという抜きがたい執念の棘を抜き取り

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻319頁)

歓喜と懸念はいつでも相関的な関係であり

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻321頁)

人は総じて根拠を欠いた存在であるとしながら

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻329頁)

宗教が善へと導くための目に余る不条理にも似た混濁

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻333頁)

精神の突然死

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻334頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月12日(木)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー心に残った言葉を抜き出してみたー
ー五音七音が多い!日本語の美は五音七音に宿るのかもー

津波を生きのびた青年が思い出してゆく介護の果てに義母を殺めた記憶、おのれも自殺した記憶。
今日は義母を殺めた場面を読む。


そして今日はワンセンスではなく、心に残った語をあちこちの文からパパッと抜き出してみた。

丸山先生の作品には、「楕円軌道」とか「連鎖」とか時々見かけて、妙に印象に残る言葉が幾つかある。

そうした言葉は、その都度違う使われ方をしている。
紙の本の方がいいけれど、こういうときは電書の方が比較できて便利な気もする。

ちなみに短歌は、小説からいいなあと思ったフレーズを取り出して、歌に組み入れることはよいそうである。

トリビュート丸山健二」……なんてテーマの、丸山作品から好きな言葉を抜いて短歌をみんなでつくる歌会があれば楽しそう……とも夢想する。

とりあえず次回の八丁堀の歌会、七首のうちの二首は今日の引用部分にある「連鎖」が心に残ったのか、自然と「連鎖」をいじりたくなり歌ができた。

「連鎖」という言葉は、何を持ってくるかでイメージ、世界がガラリと変わる言葉だと思う。

引用した他の箇所「あるかなしかのおのが存在」も、タイトルの「我ら亡きあとに津波よ来たれ」も数えたらほぼ七七でそのまんま下の句になる。
あとは上の句を考えたら一首できるなあ、でも下の句丸々だと工夫がないし……

「楕円軌道」や「輪郭線」も一字足せば七音になる……
なんて指折り数えつ丸山作品を読んでいる酔狂な読者は私だけだろうか…。

それにしても丸山作品の語をカウントしてみると、五音七音のフレーズが多い。日本語の美を追求すると、五音七音になるのかも。

魂の無意識のフォルムはただもう素晴らしいの一語に尽きる

(「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻284頁)

人生の初口に立ち勝るその末尾が
くっきりとした輪郭線に縁取られ


(「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻285頁)

心情の楕円軌道

(「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻290頁)

のべつ先祖帰り的な動きをする
畜生同然の人間の生


(「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻290頁)

否認の余地がない因果の連鎖を背に

(「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻291頁)


互いに排除し合う無と有が織りなす
およそちんぷんかんぷんな意味における
あるかなしかのおのが存在


(「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻296頁)



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さりはま書房徒然日誌2023年10月12日(木)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー平仮名、カタカナのさりげない選択で文が生き生きしている!ー

津波から助かった青年が、おのれのドッペルゲンガーを眺めるうちに自死した記憶、義母の介護の苦労を思い出し、ついには義母を殺してしまう。

引用箇所は、殺義母が最後の声にもならぬ声をあげて死んでゆく場面。
これもワンセンテンスである。

入力していると、「ここは漢字なんだ!」「ここは平仮名なんだ!」と読んでいるときはスルーしていたことを発見する。

丸山先生は「漢字、ひらがなは好みで、感覚で」と言われ、

短歌の福島先生は(短歌という限られた字数のせいもあるのだろうか)「漢字は象形文字。視覚的効果がある」と漢字にしたい箇所、ひらがなにしたい箇所のこだわりがあるようなことを言われ、

ちなみに女流義太夫の越若さんは「ここは漢字で語りたい。ここは平仮名で語りたい」と謎めいたことを言われ……(越若さんの言葉、いまだにどういうことなのか私には分からない。だが浄瑠璃をやっている方には分かる言葉のようである)、

とにかく日本語は平仮名、漢字、そしてカタカナから出来ている豊かな言葉なのだなあと思う。

丸山先生も「好みで、感覚で」と言われつつも、漢字とひらがなをしっかり使い分けされている……と入力しながら思った。

「強烈な圧迫によってすっかり閉じられた声門からわずかに漏れるのは」の箇所も、「強烈な圧迫」という漢字は目にずいぶんとインパクトがある。
「わずかに」と平仮名のせいで弱々しく絶えてゆく様が伝わってくる。

最後の「ほとんど解脱にも似た 喜ばしい最終回答が浮上」という表現は面白いなあと思う。「浮上」のパンチが効いて、天国にこれから行くんだという感じがある。

「魂の震撼が、妖異なる託宣に魅せられる神秘的な自意識が、忘れようとして忘れられぬ養母の生涯を包みこみ、渾然たるその精神をまるごと捉え、」という箇所、嫌でたまらない義母の姿がふっと消え、生は抜けてゆけど尊い存在に思えてくる。

最後の「なんだか……なんだかそうとしか思えなかったのだ。」の平仮名だらけの箇所は、平仮名ゆえに青年の慟哭が伝わってくる気がする。

漢字、平仮名、カタカナから成る日本語はほんとうに奥が深いと思う。

でも「誰とも似ていない歌をつくれ」と高瀬一志の言葉を教えてくれた知人が示すように、誰とも似ていない文を書かなくては……いや下手すぎて、タドタドしすぎて誰とも似ていないかもしれないとも思う。

だから、

もはや真情の結晶とやらを拠り所にして言い飾ることが困難な、

やむをえぬ場合以外はけっして慈愛のたぐいをせがまないという
悟性的理性の欠如が顕著な、

良識によって行いと言葉を律することができず、

不撓なはずの魂を改めて採寸してみれば
無に等しいただのがらくたにすぎないという、

そんなどこまでも本能的な自分と化し、

そこへもってきて、

魂を劫掠されっぱなしの
因業な老いさらばえた女という
哀れな犠牲者の口もとに締まりがないのは
すっかりがたがきた身体が最終的な休息を要求しているからだと気づき、

また、

強烈な圧迫によってすっかり閉じられた声門からわずかに漏れるのは
恐怖の悲鳴でもなければ
呪いつづけてきた世間にむけて救いを求める言葉でもなく、

いずれ灰燼と化す運命にある慰安を探し求めるかのような
無限に細分化できる
移ろいやすい呻きのみで、

おぞましいにもほどがある
その音源の道筋をたどってゆくと、

意図とは異なる結果によって
これが最後の生存となり
もはやふたたびこの世に生を受けないという、

ほとんど解脱にも似た

喜ばしい最終回答が浮上して、

歪曲された生と死の一体性が、

京楽的営為の終局に訪れる魂の震撼が、

妖異なる託宣に魅せられる神秘的な自意識が、

忘れようとして忘れられぬ養母の生涯を包みこみ、

渾然たるその精神をまるごと捉え、

なんだか……

なんだかそうとしか思えなかったのだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻268頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月10日(火)

福島泰樹短歌絶叫コンサート「大正十二年九月一日」へ

吉祥寺のライブハウス曼荼羅で毎月10日に福島泰樹先生が開催されている短歌絶叫コンサートに行ってきた。

このライブハウスはそんなに広くはないけれど、入るとなぜか安堵を感じる。

まず内装がどこか少しロマネスクの石でできた素朴な教会を思わせるところがあるからだろうか。

周囲の席を見渡せば、早稲田の短歌創作講座やNHK青山カルチャー「人間のバザール浅草」で一緒に受けている方々の優しいお顔があちこちに見えて、さらにリラックスする。

ステージには、華道の池田柊月さんという方がその時のステージのテーマに合わせたお花を献花してくださるのが毎回楽しみ。

空間とそこにいる人間が醸す心地よさが、ステージ開始前から短歌絶叫コンサートにはある。

ステージが始まれば、岸上大作や樺美智子、寺山修司……道半ばにしてこの世を去っていった者たちの言葉が谺する……福島泰樹先生の「残していった言葉がある限り、死者は死んではいない。ここに戻ってくるんだ」の想いに支えられながら。

今回は袴田巌さんのお話や、大逆事件で死刑にされたアナーキストたちの歌、関東大震災で軍隊が活躍したこともあって震災後すぐに戦争へと進んでいった大正と現代を重ねる言葉が心に残った。

危機を鋭く予告、告発するのは、小説よりも、書き手の叫びである詩や短歌の方が適任なのかもしれない……という気もした。

「いい言葉だけを残して死んでいけばいいんだよ」という福島先生の言葉が心に残りつつ、こうして駄文を連ねてしまう。



私の駄文の口直しに以前にも引用したが、短歌絶叫コンサートの締めによく朗読される中原中也「別離」を引用する。

別離

中原中也

さよなら、さよなら!
  いろいろお世話になりました
  いろいろお世話になりましたねえ
  いろいろお世話になりました

さよなら、さよなら!
  こんなに良いお天気の日に
  お別れしてゆくのかと思ふとほんとに辛い
  こんなに良いお天気の日に

さよなら、さよなら!
  僕、午睡ひるねの夢から覚めてみると
  みなさん家をけておいでだつた
  あの時を妙に思ひ出します

さよなら、さよなら!
  そして明日あしたの今頃は
  長の年月見馴れてる
  故郷の土をば見てゐるのです

さよなら、さよなら!
  あなたはそんなにパラソルを振る
  僕にはあんまりまぶしいのです
  あなたはそんなにパラソルを振る

さよなら、さよなら!
さよなら、さよなら!

 僕、午睡から覚めてみると、
みなさん、家を空けてをられた
 あの時を、妙に、思ひ出します

 日向ぼつこをしながらに、
つめ摘んだ時のことも思ひ出します、
 みんな、みんな、思ひ出します

芝庭のことも、思ひ出します
 薄い陽の、物音のない昼下り
あの日、栗を食べたことも、思ひ出します

干された飯櫃おひつがよく乾き
裏山に、烏が呑気に啼いてゐた
あゝ、あのときのこと、あのときのこと……

 僕はなんでも思ひ出します
僕はなんでも思ひ出します
  でも、わけて思ひ出すことは
わけても思ひ出すことは……
――いいえ、もうもう云へません
決して、それは、云はないでせう

忘れがたない、にじと花
  忘れがたない、虹と花
  虹と花、虹と花
どこにまぎれてゆくのやら
  どこにまぎれてゆくのやら
  (そんなこと、考へるの馬鹿)
その手、そのくち、そのくちびるの、
  いつかは、消えてゆくでせう
  (みぞれとおんなじことですよ)
あなたは下を、向いてゐる
  向いてゐる、向いてゐる
  さも殊勝らしく向いてゐる
いいえ、かういつたからといつて
  なにも、おこつてゐるわけではないのです、
  怒つてゐるわけではないのです

忘れがたない虹と花、
  虹と花、虹と花、
  (霙とおんなじことですよ)

 何か、僕に、食べさして下さい。
何か、僕に、食べさして下さい。
  きんとんでもよい、何でもよい、
  何か、僕に食べさして下さい!

いいえ、これは、僕の無理だ、
    こんなに、野道を歩いてゐながら
    野道に、食物たべもの、ありはしない。
    ありません、ありはしません!

向ふに、水車が、見えてゐます、
  こけむした、小屋の傍、
ではもう、此処からお帰りなさい、お帰りなさい
  僕は一人で、行けます、行けます、
僕は、何を云つてるのでせう
  いいえ、僕とて文明人らしく
もつと、ほかの話も、すれば出来た
  いいえ、やつぱり、出来ません出来ません。

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さりはま書房徒然日誌2023年10月9日(火)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ーはっきりと分からないながら格好よく思える表現、よく分かるって文の場合あまり格好よくないのかもー

津波を生きのびた青年が、死せるおのれのドッペルゲンガーに出会い、自死するまでの記憶を思い出す。
以下引用部分は、義母の介護に耐えられなくなって殺害へとどんどん心が傾きはじめる場面。これでワンセンテンスである。

しょっぱなから「晦渋な言い回しによって互いに罰し合う存在と無のごとき」と、ほんとうに晦渋な、でも格好いい言い回しで始まっているのが心に残る。

烈風を「恐ろしげな連中の刃にかかるほうがまだましに思えるほど」と形容するのも面白い。

「民意の写しにほかならぬ劣悪な住環境」という言葉も、丸山先生の社会への痛烈なパンチが効いた表現だと思う。

「死に神が名誉をかけて取り持つ仲となり」は、青年が義母に殺意を抱いたということなのだろうか……こういう言い方もひたすら格好いいと思う。

絶望のどん底という状態も、「心に点る灯明の明確な輪郭を失ってしまった」と言えば、やるせ無さがひしひしと伝わってくる。

「まさしく地獄へ通じているにちがいない 繊細ながらも角張った開口部」という表現も、どんな感じなのだろうと存在しないものを見せようと仕向ける表現である。

最後「粗雑な判断の結果ということは言を俟たない 猛悪な情念の眼目が鮮明になったのだ」は漢字のインパクトが強い文で、これから不吉なことが起きる……と予言しているようである。

そして、

晦渋な言い回しによって互いに罰し合う存在と無のごとき
凄まじいその流れに沿って、

今の今まで社会の底辺のまたその底辺で怖れと怒りの入り混じった変遷を重ね
苔むしたい岩の下で一生を過ごす虫けらのようにひっそりと生き
将来への希望を託すものとはいっさい相容れない日々を送ってきた、

悲惨な限りの養母と
孤独な限りの養子は、

恐ろしげな連中の刃にかかるほうがまだましに思えるほどの烈風のせいで
温かく思いやりに満ちた中流階級など見たくても見られない
民意の写しにほかならぬ劣悪な住環境がさらに乱されることによって
老朽家屋群がほとんど半壊状態に陥った
その夜を境に
死に神が名誉をかけて取り持つ仲となり、

人間の面汚しどもが暗躍する悲惨な貧困の世帯の片隅で
過剰なしがらみにぐいぐいと締めつけられ
心に点る灯明の明確な輪郭を失ってしまった双方は、

殺す者と殺される者という
立場における本質的な違いに対して
一点の疑念も感じぬまま
みるみる低落から消滅へと急接近し、

それが証拠に、

まさしく地獄へ通じているにちがいない
繊細ながらも角張った開口部が
あたかも天国の門のごとき華やかさでもって楚然として識別され、

なかば闇の状況にあっても決着をつけてしまおうと
ともあれ腹をくくって
そこをくぐり抜けるや
とたんに
無自覚のまま気が立ち、

粗雑な判断の結果ということは言を俟たない
猛悪な情念の眼目が鮮明になったのだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻232頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月8日(日)

文学的才能についての丸山先生の「真文学の夜明け」にある言葉は当たっている……と思った

ミステリ読書会をひらくようになって数年。
ありがたいことに、たまに小説の書き手の方々も参加してくださることもある。
そうした書き手の方々を見ていると、丸山先生が「真文学の夜明け」という本の中で書かれている以下の文は、まさにその通りだと思う。

狂気と正気のあいだをひっきりなしに往復する際に飛び散る火花を
異様に素早い言語中枢の働きによって捉えることが可能な者こそが
まさしく文学的才能の持ち主というわけで、

もっと具体的に言うならば
生来饒舌な人間が適しており
それが基本中の基本となっている。

(丸山健二「真文学の夜明け」182頁)

丸山先生もどんな質問や相談をぶつけられても、言葉が途切れることなく、溢れるように次から次へと答えてくださる。

読書会に参加してくださった書き手の方々も、言葉が湧き出る泉のようにスラスラと出てくるのに驚く。
おかげで小説の書き手の方が参加してくださると、心地よい饒舌を愉しむことができる。

引用文は以下のように続いてゆく。文学者のイメージはこうだけど、実はそうではないんだ……という趣旨の文である。

一般的に文学者というのは
寡黙で
瞑想に耽りがちで
人間嫌いで
内向的に過ぎ
女々しく
破滅的で
いつ自殺してもおかしくないような
そんなイメージが固定しており、

(丸山健二「真文学の夜明け」182頁)

今回参加してくださった二人の書き手は、他の参加者が職場で日の丸を拒否したらどうなったか……という顛末を話したところ、二人ともパチパチと拍手してくださった。
あまり読書会でのことは書かないようにしているのだが、これからどうなるのか先行き不明な、暗い世において、書き手が強い視点を失わない姿に光明を感じて嬉しくなった。
そしてそういう書き手たちの作品、ぜひ読んでみたいとも思う。


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さりはま書房徒然日誌2023年10月7日(土)

変わりゆく日本語の風景ー釜飯ー

先日、福島泰樹先生の「人間のバザール浅草」講座を受けたとき、何気なく雑談で、私たちが昔からあるように思っているけれど、中原中也の青春時代にはなかった……という食べ物を幾つか教えてくださった。
今日は、その一つ「釜飯」について調べてみた。
今では日本中どこに行っても見かける釜飯である。駅弁にもなっている。さぞ昔からあったのだろう……と思っていた。だが福島先生が言われたように、比較的近年になって登場した食べ物なのだ。
世界大百科事典で「釜飯」を調べてみると、関東大震災以後に登場した食べ物なのである。

本来は、釜で炊いた飯を飯櫃 (めしびつ) などに移さず、直接釜から取り出して食べるのをいうが、小さい釜型容器に盛り込んだ駅弁などを釜飯と称するように、釜飯の語意は二義ある。一般に釜で飯を炊くようになったのは明治以降で、共同生活の食事や給食などは大釜で飯を炊いた。そこで、同じ釜の飯を食べた仲間はお互いに親近感がある意が転じて、同じ職場で働いた者の意にも用いる。関東大震災(1923)直後の焼け跡で、ありあわせの釜で炊いた飯を、釜からじかに、または器に移して食べた人が多かった。これにヒントを得て、まもなく1人前用の小さい釜を用意して種々の変わった具を入れて炊くのを釜飯と称するようになった。それを専門または売り物にする業者ができ、その後、釜飯を一度に数多く炊く専用の炊事器もできている。また、陶器の釜型容器に種々の炊き込みご飯を詰めての市販品は、全国各地でみられる。

日本国語大辞典で「釜飯」の例文を調べてみると、少ない。わずか一つしかない。

「天下に釜飯くらゐ旨いものはないと言ってる」

(縮図〔1941〕〈徳田秋声〉)

関東大震災(1923年)以前には、どうやら釜飯はなかったらしい。


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さりはま書房徒然日誌2023年10月6日(金)

篠田真由美「螺鈿の小箱」より「人形遊び」を読む
ー聖女と人形をテーマにした幻想短編を二度読みするー

螺鈿細工は持っていないけれど、螺鈿の妖しい光は好きである……という理由で、タイトルに惹かれて本書を開く。
怪奇幻想短編が七篇おさめられている

まず冒頭の「人形遊び」を読む。
乱歩の「人でなしの恋」を読んで、文楽を観に行くようになった私としては、「人形」テーマの幻想譚は嬉しい。
興味惹かれて読み始めれば、アッと驚くラストに思わず二回読んでしまった。

それぞれの登場人物の語りで話しが進行する。最初は、抱きかかえた人形に亡き母から聞いた聖女たちの受難を聞かせる娘。
思わず私も一緒に聞いている心地になって、素直に娘の語りに耳を傾けてゆく。
聖女たちはこんなに惨たらしい受難に遭遇したのか……。
語り口から、作者の聖女たちの歴史への関心の深さと同時に、宗教の残酷さを厭う気持ちが伝わってきて、思わず素直にウンウンと頷いて読んでしまう。

語り言葉で進行してゆく物語の場合、時々、ちょっとしたところに作者の素顔が感じられることもあって、その視点が相入れない時は読み続けられなくなるものだ、私の場合。
だが、「人形遊び」は聖女たちへの視点、聖女たちになれなかったその他大勢の人を思う視点、ひとりで生きていかなければいけない若くもない女の視点……と語りに素直に耳を傾けたくなるものがあった。

てっきり最初はどこか外国が舞台なのか……と思いつつ読んでいたが、舞台は西伊豆と出てきたので驚く。
ひとけのない奥まった地……というイメージには西伊豆はピッタリなのかもしれない。平坦地が少ないから洋館を建てるのは大変な気もするが……。

ラストは誰なんでしょうね。
誰であってももっともであるような、其々に切ない理由がある気がした。
あとに残るのが不思議さ、切なさ……であって、嫌な後味でないのが私的にはよかった。

それにしても文楽人形にしても、人形の果たす大きな役割は「ころりと落ちる首」……(文楽では、首桶に入れておいた首をすり替えておく……とか生首トリックが出てくる)
首が落ちるのは、人形の宿命、それとも人形の象徴なのだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2023年10月5日(木)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む
ー主人公が義母殺害の決心をする箇所は、表現が知らずぐんぐん迫ってくる!ー

ツィッターが不安定だから、こちらのブログを再開。ブログに移行してよかった……と思うのは、ツィッターだと字数の関係で「いいな」と思った箇所も、文の中のごく一部しか紹介できなかったが、ブログだと字数も写真も無制限だということ。丸山先生の文は、長い文の中にも、緻密に計算された構成がある……ことに入力していて初めて気がつくこともしょっちゅう。やはりワンセンテンスはそのままの形で、途中や前後を省略することなく引用したい気がする。

さて、これまでの筋は……。
津波を生きのびた青年……
自分のドッペルゲンガーの死体と遭遇した青年……
自死したことを思い出した青年……
彼の心に義母を介護する辛い記憶がよみがえったようだ。


この箇所を引用しようと思ったのは、途中に心ときめく表現が集中している箇所があるから。

文のなかば、「ひっきょう」から「認められたのかもしれず」の箇所だ。


まず私の好きな「百家争鳴」と言う言葉が、小説で使われているのを初めて見た。

「百家争鳴」とは、デジタル大辞泉によれば「多くの知識人・文化人がその思想・学術上の意見を自由に発表し論争すること。中国共産党の文化政策スローガンのひとつ」だそうだ。

この言葉を知ったのは割と最近で、文楽関係のとても博識なフォロワーさんが、自己紹介のところに「百家争鳴する、自由闊達な世界が理想」と書かれていたので、初めてこの言葉を知った。

滅多に使われない「百家争鳴」が使われている!

しかも「百家争鳴といった観がある 実存主義の鉛直的な広がりも嘲笑する」とはっきり分からないながら魅力的な配置で!
「実存主義」と「鉛直」を並べた形の不思議さ!
こう眺めてみると「実存主義」は水平じゃなく、「鉛直的な広がり」の方が相応しいのかも……。
はっきり分からないながら心に残る。

さらに次の箇所「全宇宙の真空に君臨するという 欺瞞の上に成り立っている非人格的な誰かの配慮」も、人地の及ばない、どうしようもない運命の力感がある!

罪の宮殿」という言葉も、これからの展開を何とも魅力的に象徴している!

長い文の最後にくれば、おそらく、この青年は要介護の義母を殺害するのでは……という今後が「そっちの方向へ」と示唆される。


そして、私が比喩やら表現にときめいた箇所は、青年が殺人を決意する箇所。

きっと読み手の心に青年の決意が響くように、丸山先生が精魂込めて書かれたのではないだろうか?

かくしておれは、

生き恥をさらさぬための奥義のなかの奥義などとはいっさい無縁な、

ただひとつの癒しの道である絶対の孤独から逃れられない、

自身と世界の関係を変える毒素が混入してしまっている、

ために
常に心して生の本題に立ち返ることができる者ではなくなり、


その代わりと言ってはなんだが、

他人の気を悪くさせるような側面をあれこれ具えたうえに
のべつろくでもない画策を包み隠し、

憮然とした面持ちで
外からの助けなしでは自分自身を支配できない
などと
臆面もなく
しゃあしゃあと嘘をつくたびに、
殊のほか凶暴な怒りがよく似合う
ある種の階級の人々に属したような心地になり、


ひっきょう、

天上のどこかに住まい
危険な生業からいつまでも足を洗えぬ件の者をもろに愚弄して楽しみつつ
百家争鳴といった観がある
実存主義の鉛直的な広がりも嘲笑する、

全宇宙の真空に君臨するという
欺瞞の上に成り立っている非人格的な誰かの配慮によって、

何をしたところでけっして厳しい裁きが下されることのない
罪の宮殿に立ち入ることが認められたのかもしれず、

だからといって、
悪それ自体を求める熱情が結局何になるかということについては
まったくもって知るところではないと自分に言い聞かせながら、

どの命も日限が定められているのだという真実に目をつぶり
不合理さが付きまとう微妙な局面を無視して、

いちじるしく緊張感に欠ける分だけ不愉快な体験を断ち切るための
それ相応のちゃんとした理由がある殺害行為を
この荒天が成功に導いてくれるものと確信して
稲妻と烈風に背中を押されながら
ぎしぎしと軋みつづけるぼろ家に引き返し、

今にも吹き飛ばれそうな玄関の戸を押し開け
横殴りの雨といっしょに素早く入りこみ、


それでもなお、

良心とやらに最後の忠告を与えられて
正気の自分自身に引き戻されることなどいっさいなく、

つんと鼻を突く汚物の激臭をものともせずに
敢えてそっちの方向へ
土足のままぐんぐん迫っていった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻215頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月4日(水)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む
ー降る雨を語る言葉は心のざわめきと重なりてー

津波を生きのび、自分の死せるドッペルゲンガーと出会った青年。
青年は実は自死していた。
その過去が語られ、義母の介護に追い詰められてゆく言葉も心に刺さったが……。

自分と対話するうちに耐えきれなくなって、大雨の中に飛び出してゆく以下引用部分、青年の心のざわめきが伝わってくる表現が並んでいて、非常に印象深いものがある。
やはり、これで一つのワンセンテンスである。

文頭、「精神に鋼鉄の焼きなましのごとき効果」は、青年の激しい苦しみがぶちまけられる感がある表現である。


「この天体上で起きる全てのことを水に流し」
「正当な怒りが沈黙」
「非人間的な世界を浄化」
「まともに息もつけないほどの豪雨のなか」
と激しい雨に青年の苦しい心情がオーバーラップして切ない。

「突飛で」「斬新で」「偉大な」という三文字の言葉が並ぶ箇所は、なんだか言葉の雨粒みたいで面白いと思った。

「人生に刺さった棘としての粗野なおのれ自身を抜こうと、」は、なんて辛い、強い自己否定の言葉だろう。

「桜の若木といっしょに横倒しになった心情をほったらかし」も、散る花が美しい桜の若木だからこそ、青年が「いっしょに横倒し」と語る言葉もぴったりくる。

漢字が連なる思考の過程を経て、「悪しき存在」「ふた心ある神々」「一刻の猶予もなく排除されるべき」と次なる展開を暗示する言葉で文が終わる。
文の終わりを何となく次の文に繋がるイメージの言葉で終わらせる……のも、後期丸山作品の特徴のように思う。

そして、

そうすることで
精神に鋼鉄の焼きなましのごとき効果が得られれば
それで充分と思いながら
ひどい面構えの恐るべき痴鈍者を演じて
その方向へと過たずに肉迫し、

この天体上で起きる全てのことを水に流し
正当な怒りが沈黙させられる非人間的な世界を浄化してくれそうな
まともに息もつけないほどの豪雨のなかを、

突飛で
斬新で
偉大な
至高の意識に満ちた哲学的な意図でも探すかのように、

あるいは人生に刺さった棘としての粗野なおのれ自身を抜こうと、

全身濡れ鼠になって右往左往し、

そのうち、

吹きつのる風をまともに受けて
桜の若木といっしょに横倒しになった心情をほったらかしにし、

どこまでも自分自身の自由を行使することで他者を混乱に陥れてやり、

法的や論理的な解決が不可能である以上は力尽くが望ましいと思い、

同情を誘う立場からの逸脱はいかにして可能なのかと考え、

不完全ながらも突出した自由の尊厳をどこまでも守ろうと決め、


そうなると
あとはただもう、

自分にとっての悪しき存在者が
ふた心ある神々と同様に
一刻の猶予もなく排除されるべきだと
そう強く願うばかりだった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻170頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月3日(火)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ーなんとドッペルゲンガーを見ている青年は自殺していた!
ということは、どっちがドッペルゲンガーやら?=

津波を生きのびた青年が、自宅で見つけた男の死体。それは自分のドッペルゲンガー。土中に埋めた筈なのに、いつの間にか復活しているではないか!
ドッペルゲンガーと対峙しているうちに、男は自分の過去を思い出す。

自殺したこと……。
辛い母子家庭の境遇……。

なんと、この青年は自殺していたのか!


すると幽霊が、幽霊のドッペルゲンガーを見ていることになるのか?
どういう展開になるのだろうか?

先は分からないながら、自死したことを思い出した青年の幽霊が、ドッペルゲンガーと向かいあう場面
これも一つの長い文、ワンセンテンスである。

前半の、青年の幽霊がおのれのドッペルゲンガーを語る言葉は、どこかユーモラスに観察している気がする。

「見かけだけは完璧なまでにおれ自身」
「そら音を吐くことが上手そう」
「至れり尽せりの環境でもって促成栽培」
……と突き放して、辛辣に自分のドッペルゲンガーを観察している。

それが段々非難めいた口調に移り変わってゆく。
「言語道断」「恩知らず」「からかうような挙」「面当て」「嫌味ったらしい芝居」と厳しい。

「第二幕」を語るあたりから、青年の幽霊はおのれのことを
身に覚えのない異界への参入を余儀なくされた ただひとりの観客」
とかなり被害者めいた意識で捉えている。

ドッペルゲンガーには「罪多くして死に至ったのかもしれぬ己を棚に上げ」と辛辣である。

文の最後は「自死を決意する直接の引き金」「冷酷無比に模写しよう」と次の暗くなりそうな展開が仄めかされる

一つの文の中で、トーンがユーモラス、非難がましい、被害者めく、辛辣と変わってゆく。

丸山先生から指導を受け、丸山先生の文にはたまたまそうなった……ということがないと知る。

丸山先生は隅々まで考えて言葉を選んでいる。
たとえ私をはじめ、殆どの読者が気がつかなくても絶対に手を抜かない。
そこから緊張感が生まれ、作品を引き締めているように思う。

さて、

今や見かけだけは完璧なまでにおれ自身である、

肩をそびやかしながらそら音を吐くことが上手そうな、

ちゃんとしたおとなに諭されているそばから大はしゃぎするような、

至れり尽せりの環境でもって促成栽培されたかのごとき、

二十歳そこそこの若造はというと、

死から復活して生を為す者を装うだけでも言語道断だというのに
恩知らずにも
埋葬してやった者をからかうような挙におよび、

ともすると山頂にそっくり移設させた建造物のように思えてしまう
大津波に押し上げられた漁船を舞台に見立てて、

そっとしておいてやりたい亡霊個人の活動の範疇をはるかに逸脱した
まったくもって面当てとしか思えぬ
目を背けたくなるような
嫌味ったらしい芝居をだらだらとつづけ、


それだけならまだしも、

いい加減にしてほしい
その第二幕においては、

おのれ自身との調和を達成できるという
かなり明確な世界観に至っていたにもかかわらず
身に覚えのない異界への参入を余儀なくされた
ただひとりの観客に
さらなる苦渋を与えんがために、

気随気儘な生により罪多くして死に至ったのかもしれぬ己を棚に上げ、

憂慮すべき歴程としての
つまり
自死を決意する直接の引き金となった直前のこのおれのありようを
冷酷無比に模写しようと
大づかみながら明晰な熱演を繰り広げていた。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻133頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月2日

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む
ーこの世のものとは思われない風景が見えてくるような文、そこには作者の姿も見えた!ー

旧ツィッター(エックス)のフォロワーさんのなかに、毎日、朗読の練習をされては、どの箇所が、なぜ面白いのか考えて、投稿文を書かれている方がいる。

お若い方なのに偉いなあと思う。

私なんか若い頃は本の感想を聞かれても「面白かった」としか言えず、「どこがどんな風に面白いのか具体的に説明しなさい」と叱られたものだ。

今でも、いいなあと思った箇所があると、こうして写したりしているが、なぜいいと思ったのか……問われると答えにつまるところがある。

「いいと思ったからいいのだ」と答えたくなるが、お若いフォロワーさんがきちんと自分の言葉でいいと思う理由を説明されている姿に、「いけない」と反省する……。

さて引用文は、「心のぼろ船」で精神の旅に出た青年の心の旅を語る文。

長い文である。これで一つの文である。文そのものが旅しているような文である。

真ん中くらいの箇所「浮き世の波のまにまに漂よいながら」という一帯に、この世には実在しない風景がいっとき見える気がする……。
そんな視覚に訴えてくるパワーを感じて心惹かれた。
読んでいる方も、旅しているような錯覚に誘い込む文である。

そしてこの文には、丸山先生自身の姿も色濃く反映されている気がする。

「人類の御世が」から「不滅性」までのの嘆きや感慨は、丸山先生の思いそのものではないだろうか。

「そんな複雑怪奇な つかみどころのない世界のなんたるかを知りたくて」という言葉も、丸山先生の心からの叫びのような気がする。

「単なる傍観者であり目撃者であるにすぎぬ 自称<自由の回復に関する精通者>にして<傑出の詩人>という青年の姿に、丸山先生の姿が重なるようで感慨深く読んだ。

しかし写すだけで疲れる長い一文である。この文を書くのに、丸山先生はどれだけ言葉と想いの火花を散らされたことだろうか……。

さらに、

滑走とも言うべき奔放な推進の作用と反作用を存分に弁え
だしぬけの座礁や嵐による転覆や不注意がもたらす船火事といった
悲惨きわまりない遭難をとっくりと覚悟しながらも、


あるいは、

人類の御世が終わりを告げつつあるという認めがたい現実や、

世相を如実に活写する言葉などはもはや無用であることや、

偽装された不純な時代の終焉や、

今やすっかり色蒼ざめてしまった晴朗の世や、

人間の所業とは思えぬ行為と常に境を接している事実や、

天空の高みに息づいている不滅性といったことなどを、

それこそ充分過ぎるほど承知しつつ、


それでもやはり、

一方においては
色とりどりの多様性に満たされていることによって
ときとして美的作用が導き出されることもあり、

他方においては
万物をつかさどる自然の摂理によって
生類たちをその台座ごと打ち倒すこともある、

そんな複雑怪奇な
つかみどころのない世界のなんたるかを知りたくて、


もしくは、

聴く耳だけを持ち
どこまでも受動的な存在でしかない
騒乱のうちに影のように座している絶対者の幻影にいざなわれて、

浮き世の波のまにまに漂よいながら
ときおりじれったげな罵声を発して
うららかな朝空の下に満ちる静寂を乱したり
沈みゆく太陽のバラ色の頂を穢したりするばかりの
単なる傍観者であり目撃者であるにすぎぬ
自称<自由の回復に関する精通者>にして<傑出の詩人>は、

そのさすらいの最深の根底に
きっと喜ばしい何かが横たわっているものと確信し
苦い経験と甘い経験が相まって最善の答えを出すものと盲信して、

まるで肉欲のはけ口が見つかったときさながらに
瞳をらんらんと燃え上がらせ、

際限のない破壊という
最も顕著な結果に支配された
現世という大海原に乗り出し、

あとはもうよくなるばかりという崇高な宿命を予感し
「いかなる命も必ずや実り豊かな成果をもたらす
それが自然の法則というもの」
などと口走りながら、

どんな啓発も厭いはしない
終わりなき漂流を始めていたのだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻82頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年10月1日(日)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ー「心のぼろ船」の航海を喩える言葉に心惹かれてー

引用部分の半分以降、「心のぼろ船」の航海の喩えに心惹かれる。

思いもよらない語と語の結びつきを文の中に幾度も見かけ、そのあとには言葉によって刺激された私の意識が以前とは違った速度で流れている。

「擦り切れてゆく命によってすっかり錆びついた怒りを揚げ」とか、

「永遠の逼迫という残酷な型で打ち抜かれた人生の港」という表現もとても好きである。
ぼんやりとしか分からないながら、人生とはほんとうに辛くシンドいもの……と思えてくる。

「流動の波紋を描く生のしなやかな発露」も「流動」「波紋」「しなやか」も斬新な組み合わせながら、不思議とイメージが重なり合う表現だと思う。

「今を盛りとはびこる破局の毒針」も「今を盛りとはびこる」「破局の毒針」という語の意外な組み合わせに、切なくなってくる。

それにしても、どの表現も「五文字」「七文字」が多い。「五」「七」は、日本語の表現で魔法の響きを生み出す数字なのだと思う。

ために、

過ぎた日を語ろうとも思わず
いかなる状況におちいっても無限を志向してやまぬ性情という
どうして今の今まで気づかなかったのか不思議でならぬ
これに過ぎたるものはない有利な一面を自認したおれは、


生きてもいなかったし死んでもいなかった失意の立場を放棄し
この世との懸念に満ちた和解を放棄すべく、

度を越えたものにただならぬ愛着をおぼえ、

より真実らしい響きを持った言葉への激しい反発をおぼえ、

悪の最たるものとしての理想的満足をおぼえる、

おのれの命の主人たる詩魂のみを乗せた
放逸のための時は成就したと言わんばかりの心のぼろ船を
どうにか出航させようと意を決し、


ほどなくしてそれは、

空々しい日々のなかで擦り切れてゆく命によってすっかり錆びついた錨を揚げ、

永遠の逼迫という残酷な型で撃ち抜かれた人生の港を離れ、

おのれの運命に絶えず付きまとう不安の雲気を追い風にして帆走し、

どんどん迫ってくる重苦しい現実の決定的な超克を得るという目標を掲げ、

流動の波紋を描く生のしなやかな発露に導かれ、

今を盛りとはびこる破局の毒針を巧みに避け、

言葉にならない言葉を発しながら快適な軌道上をするすると滑り、

沈黙の語らいを天体の輝きに覆われた夜を音もなくよぎって行った。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻80頁)

丸山先生が書く津波後の国家が崩壊した世界。

実際、関東大震災後は「法に拘束される者は皆無」となったせいで流言飛語、虐殺が起きたわけだ。

だが本書では違う方向に展開しそうな気もする。果たして、どうなるのだろうか?

維持されつづける富者の支配体制に貧者が馴致されつづけるという
所詮は金の番人でしかない国家の均衡を大きく破れたせいで
権力の崩壊と死滅を望む神聖な性格を帯び
圧政に反逆して単身闘う者がかもすような雰囲気に呑みこまれてゆき、


つまり
服従と忠誠を要求できる決定的な役割を持つ者はいなくなり、

厳密に言えば
法に拘束される人間はもはや皆無となったにちがいなく

((丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻72頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月30日(土)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む

ードッペルゲンガー君も慣れると親しみがわくみたいだー

津波を生きのびた青年が無人の被災地をさまよい、自宅にたどり着けば、寝台に横たわる裸の男。
男は死んでいた。
しかも自分のドッペルゲンガーだった。
青年はドッペルゲンガーを地中に埋めた。
だが、ふと気がつくつと丘に乗り上げた船のマストの上に、ふたたび砂まみれのドッペルゲンガーがいた……。

以下、緑の引用部分はドッペルゲンガーを眺め、観察し、最後には呼びかける……という情景を描いた一つの文

引用部分の中でも、「吹きつのる爽快な風にすっかり心を奪われて、見張り台の上から色鮮やかな罪が世界を睥睨し」という言葉に心惹かれる。

「吹きつのる爽快な風」で五七ではないか!

「色鮮やかな罪が世界を睥睨し」も七七五ではないか!
「色鮮やかな罪」とか「色鮮やかな悪」とか「色鮮やかな恋」を練り込んだ短歌をつくってみるのも面白そう……と、まずこの部分の表現に目がゆく。

せっかくだから、この長い一文を写してみようと思い、入力すると、読んでいときはスルーしていた部分も心に引っかかってくる。

ドッペルゲンガーにもだいぶ慣れたのか、呼び方も「そ奴」と親近感がある。

ドッペルゲンガー体験も「面妖なこと」とどこかユーモラスに言い聞かせている。

「いろいろさまざま」と似たような言葉を平仮名で繰り返すことで、本当に無尽蔵にある感じが出ている。

少し青年は無理をしているんだな……という文がリピートされ「平静さを装い」のあと、「吹きつのる爽快な風にすっかり心を奪われて、見張り台の上から色鮮やかな罪が世界を睥睨し」という文に心がスカッとする。

「その肉体からその霊魂から全部ひっくるめておのれの死を愛し」というフレーズも、「その」の反復で全部という感じが強く伝わり、「おのれの死を愛し」という言葉がグサリと心に突き刺さる。

ドッペルゲンガーを語る「神の伴侶を自任しそうな やんごとなき身分の愚者にも似た相手を、」という面白い言葉に、どんな存在なのだろうと思わず立ちどまって考えてみたくなる。

「振り仰ぎ」の箇所……
丸山健二塾の個人レッスンで私の「仰ぐ」という言葉を、「振り仰ぐ」と訂正された後、丸山先生は「『仰ぐ』とだけ書くより『振り仰ぐ』の方が動きが出ます」と言われていた……と懐かしく思い出す。
たしかに動きが出る。

長い文の最後、「それでも、おれはおれなんだ!」「で、おまえは誰なんだ?」とドッペルゲンガーとの対話はどこかユーモラスでもあり、谺のようでもあり……と思いつつ、長い文を読み終える。

色々ちまちまと語ったが……。
今年4月から受講している福島泰樹先生の短歌創作講座では、いきなり他の受講生の歌についてどう思うか、三十一文字の世界について感想や意見を求められる。

三十一文字について、私はまだ思うように語れない。

でも他の皆さんは歌の内容だけではなく、語彙や表現の可能性、文体について感想をさっと言われる。

小説の批評で、語彙や表現、文体についてのコメントを目にしたことは余りない気がするが……。丸山先生の作品は短歌的視点で語ってみたくなる……舌足らずの近眼的視点だけれども。

さりとて、

絶対に説明の要があるそ奴の復活を気にもとめずに放置したり、

世の中にはそんな面妖なこともあるのだと自分に言い聞かせて黙許したり、

容認しうるいろいろさまざまな現象に無理やり分類したりするわけにもゆかず、

そこで、

ひとまず恐怖心のたぐいを残らず取り下げ、

不平をもたらすほど肝が据わっている者を演じ、

おのれの勇気を頼みとし過ぎることによって直面する危機を自覚し、

あたかも再々あることだと言わんばかりの平静さを装いながら、

吹きつのる爽快な風にすっかり心を奪われて、
見張り台の上から色鮮やかな罪が世界を睥睨し、

その肉体からその霊魂から全部ひっくるめておのれの死を愛し
神の伴侶を自任しそうな
やんごとなき身分の愚者にも似た相手を、

半信半疑のまま
いや
頑強な対立者として
多少の敬意を払いつつ
振り仰ぎ、

そして、

別段挙動不審というわけでもない侵入者に
さらなる好奇の眼差しを向け、

「それでも、おれはおれなんだ!」
と言い張れる自分をはっきり感じつつ、

ずばり
「で、おまえは誰なんだ?」という
当然至極の質問を投げつけてやった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻11頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月29日(金)

藤原龍一郎「叙情が目にしみる 現代短歌の危機」より「短歌表現者の誇り 福島泰樹の現在」を読む

短歌とは「五七五七七」としか知らず、福島先生の短歌創作講座を受講したのが今年四月。

たしか福島先生はこう言われた。
「短歌という詩型の歌う主体は、宿命的にこの<私>である。この一人称詩型短歌の<私>を逆手にとり、「不特定多数の<私>」に降り立つことができる」
そんなことができるのか!……と、この言葉が強烈に印象に残った。

「不特定多数の私の視点におりたつ」という考えで歌をつくると、文楽人形の気持ちになったり、関東大震災で自警団に惨殺された青年の視点になったり……自由自在に万物になった気分で、とりあえず楽しく歌もどきを詠むことができた。

藤原氏は、「不特定多数の視点におり立つ」という福島先生の短歌を三人称短歌として語られている。

福島泰樹の短歌の世界でのポジションが微妙に変化をみせ始めるのは、次の歌集『中也断唱』(1983年、思潮社)以降である。つまりこの時期から福島泰樹は活字メディアのみの現行為にはあきたらず、ライヴ即ち短歌絶叫という新たなジャンルの創造に挑み始めたからだろう。
 これは同時に、ある特定の存在に成り変わって詠うという三人称短歌の実現の過程でもあった。

(藤原龍一郎「叙情が目にしみる 現代短歌の危機」より「短歌表現者の誇り 福島泰樹の現在」109頁)

藤原龍一郎氏は、この文の次に福島先生のこの三首を紹介している。
哀切な響きと地名が心に残る歌である。

ゆくのだよかなしい旅をするのだよ大正も末三月の事

さなり十年、そして十年ゆやゆよん咽喉(のみど)のほかに鳴るものも無き

中也死に京都寺町今出川 スペイン式の窓に風吹く

(福島泰樹)

福島先生は毎月一回10日に短歌絶叫コンサートを開催されている。
絶叫とは何か……について、福島先生はこう語られているそうだ。

「だから、なぜ叫ぶかというと、それは自分だけの叫びじゃない。彼らの無念をおれが体現しているんだ。おれの体で肉体で受け止めて、それぞれの時代の無念、死んでいった彼らの無念をおれが歌うんだ、そういう思いが絶叫だね。それが絶叫コンサートの意義というかな。」

(藤原龍一郎「叙情が目にしみる 現代短歌の危機」より「短歌表現者の誇り 福島泰樹の現在」111頁福島先生の言葉)

そして藤原龍一郎氏によれば、「彼らの無念」の「彼ら」とは以下であるそうだ。

彼らとは、中也に限らず、寺山修司や岸上大作や村山槐多や沖田総司といった志なかばで斃れていった者たちのことだ。

(藤原龍一郎「叙情が目にしみる 現代短歌の危機」より「短歌表現者の誇り 福島泰樹の現在」112頁)

短歌絶叫コンサートは毎月行っても、その度に聞こえてくる響きが違って飽きることがない。
福島先生の鎮魂の思い、無念の思いを抱く者たち……その都度、両者が異なる叫びを発しているのかもしれない。
そして何度読んでも、聴いても飽きない……というところが、詩歌の魅力だろうか。

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さりはま書房徒然日誌2023年9月28日(木)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻読了

ーひとつの文の中に、ひとつの物語が内包されているようでもありー

津波を生きのびた青年。無人の被災地をさすらううちに、自分の家でおのれのドッペルゲンガーの死体を見つける。その死体を土に埋めるも……。

引用箇所はこれで一つの文。実に長い一つの文である。

長い文の中に読者の心を掴む導入、スイッチオンにする箇所、ドッペルゲンガー再来を予告するような箇所、だんだんやわに崩れようとする心が語られる。

一つの文の中に、一つのストーリーが内包されている。

長い文が始まる冒頭部分は、「朝の歓喜」とか「匂い立つ歓喜」という心を思わず引き寄せる言葉が並んでいる。
だから長い文も気にすることなくスッと入っていける。

次の「翼をいっぱいに広げた怪鳥」「いにしえのい日々」で、この長い文が語ろうとする世界へと、グッと心のスイッチが入る。

さらに「愛と憎悪の幻影」「無二の大舞台」と、このあとにまた復活するドッペルゲンガーを予告するような言葉が並んでいる。

だが「けだし」のあとに並べられている言葉は、凡庸な生き方へ堕ちてしまおうか……という自棄への誘惑である。

そういう言葉すらも「魂の方位盤が示す四方」「夢がふたたび若返る」「国家権力がもたらす害毒の呪縛」と魅力的な言葉が並び、いかにも丸山先生らしい考えが表れている。

世俗的考えに流されそうになったところで、このあと地中に埋めたはずのドッペルゲンガーが泥まみれの裸でマストの上に現れる。

丸山文学によく出てくるドッペルゲンガー……それは喝を入れるような存在なのだろうか?

すると、

夏のあいだずっと保たれそうな朝の活力を彷彿とさせる
匂い立つ歓喜が辺り一帯に放散されるなかで、

目もあやな空を背に巨大で頑丈な翼をいっぱいに広げた怪鳥にさらわれ
言葉を失うほど遠いいにしえの日々へと連れ去られ
世界観を曇らせる偏見のあれこれがことごとく払拭されたかのような
そんなさっぱりした心地になり、

しかも、

暗黒物質のさらなる増大によって天と地が分かたれるという
めくるめく偉大な物語の登場人物の一員であることが生々しく自覚され、

じつは、

始まりも終わりもないこの宇宙こそが
多大の犠牲を払いつづけるという苦い経験を通して
自身の胸から芽吹いた愛と憎悪の幻影を存分に楽しめる
唯一にして無二の大舞台ではないか、


さもなければ、

偏向なき自由意思によって
嬉々として破滅へ堕ちてゆくことが可能な
ほかのどこにも存在しえない天国ではないかと
そう思えてきて、


けだし、

ありとあらゆる悲劇や不幸のたぐいをいっさい含めて楽しむべきではないか、

人生の苦杯を舐めつづけるおのれを語ることになんの意味もないのではないか、

魂の方位盤が示す四方に沿って精神が純化されるという説は嘘ではないか、

精神生活が無為のうちに尽きてゆくことを恐れなくてもいいのではないか、

常に変わらぬ孤独に愛着をおぼえるのはあまりに危険ではないか、

遂げられなかった夢がふたたび若返ることなどないのではないか、

知性に依存する立場に正当な論拠を与えることは不可能ではないか、

面目躍如たるものがある反逆的行為など幻にすぎないのではないか、

国家権力がもたらす害毒の呪縛を脱することなど無理ではないか、

という
そんな結論にもならない結論が
速乾性の接着剤のように急激に固まりつつあった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻553頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月27日(水)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む

ー「ラウンド・ミッドナイト 風の言葉」(田畑書店)に採られていた言葉を発見!
このフレーズには定時制高校の生徒も惹きつけられていたと思い出す!ー

津波を生きのびた青年が無人の被災地で遭遇した死体。
それは自分のドッペルゲンガーだった。
おのれのドッペルゲンガーを葬ろうとして、もう一人の自分と対話するうちに前向きになってくる……
そんな場面。

さて、この箇所で丸山文学の素敵な言葉を集めた「ラウンド・ミッドナイト 風の言葉」(田畑書店)に採られている言葉を二つ発見。


「罪のうちに埋没する世界」と「おれがおれを生きるのに誰に遠慮がいるものか!」の二つだ。

「ラウンド・ミッドナイト 風の言葉」は弾き語りのthetaさんと言う方が言葉を選び、歌にされている。

thetaさんが歌う「ラウンドミッドナイト 風の言葉」を、いぬわし書房さんが素敵な動画に作成されたものがあった。リンクを下の方に貼らして頂く。

ちなみに、かつてこの歌を勤務していた夜間定時制高校のクラスの生徒に聞かせたことがあった。

生徒それぞれに、心に響く歌のフレーズがあるようだった。

引用箇所の「おれがおれを生きるのに誰に遠慮がいるものか!」と言う言葉は、断トツで定時制の生徒たちの心を捉えていた。

中には、この歌の歌詞に「(丸山先生のことを)尊敬します」ときっぱりと断言した生徒もいた。(非常に辛い過去と現在を生きる、尖った眼差しの生徒であった)

夜間定時制高校の生徒たちは過半数が外国籍の親のもとに育ち、非常にハードな人生を歩んできた者が多い。
そうした生徒たちの心を捉えるとは!と驚いた……。
丸山文学は、アプローチ次第では、厳しい状況の若者の心を捉える力だってある。
難しいと決めつけないで、もっと色々な人が読んでくれたら……と願う

そこで、

罪のうちに埋没する世界と
墓場へと急ぎ立てる嘆かわしい現状に抗して
自己の生存競争を遂行するという、

生の先頭に立って
独自の価値を熱望する
かくのごとき者を演技しながら
重大な経験によって鈍くなった曇りのない心を四方八方に飛ばし、

ややあって、

どうでもいい古い過去の追憶といっしょに
凡庸にして立派な訓戒のあれこれを視界から遠ざけながら
しこたま毒気を含んだ攻撃的な姿勢に切り替え、

目下推進している事態を正当に評価しつつ
「さあ、なんでもござれ!」
だの
「まさにこの時においてなすべきことをなせ!」
だのという
肉弾戦の先陣を切る者のように雄々しい
おのれ自身の力強いひと声で心を奮い立たせ

「おれがおれを生きるのに誰に遠慮がいるものか!」
という
古き良き時代の産物である
正当な権利に基づく主張を幾度もくり返した。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻537頁)

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さりはま書房徒然日誌2023年9月26日(火)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む
ーひとつの文のなかに込められた問いかけやら比喩やら思索にときめいてー

以下引用の文はこれで一つの長い文。

まず、読み手の心を誘いかける「時はもう夕暮れ」という柔らかな響きの言葉で始まる。

そして作者の思考を感じさせる「横暴を生む母体」「罪の舞台」という言葉が、読み手に問いかけてくる。

ため息をつきたくなったところで「生彩と独創性に満ちた清夜」と言う美しい言葉に気を取り直す。

「骨灰を思わせる真白き月」と言う思いがけない比喩に、読んでいる私の感情も一気に高ぶる。

その勢いで「陳腐な価値評価が異様なまでの高まり」と言う謎に満ちた言葉も理解したかのような幸せな誤解に包まれる。

丸山先生の思考に裏打ちされた言葉を完全に分かったとは言えないけれど.…。
「星影の表現が不明確で粗雑」「豊麗な星々が押し合いへし合いする」「天啓のごとき雰囲気を具えた流星」「没落の未来」「底意地の悪い将来」「命の環状線」「沈黙に侮辱されながら」
……と宝石箱から溢れたような比喩の数々を愉しむ。

そうこうしているうちに長い文も終結となって、「生と死のいずれが存在の実相」という謎めいた問いかけの語句で、この文は終わる。

たった一つの文を読むだけなのに、宇宙の奥まで、思考の深淵まで旅した気分になる……そんなときめきを感じた。

時はもう夕暮れ
日も落ちようとしており、


やがて、

たとえば心無い因襲の徒に具わりがちな不滅の活力に支えられ
横暴を生む母体としての
あからさまな罪の舞台にあって、

万事よしと自信をもって判断できるほどの
生彩と独創性に満ちた清夜を迎え、

すると、

骨灰を想わせる真白き月の下で
世界は公正であるとする陳腐な価値評価が
異様なまでの高まりを見せ、

どんなに星影の表現が不明確で粗雑であっても
べつにこれといった不都合は感じず、

おかげさまと言うかなんと言うか
狂気染みた情熱に恵まれたこのおれは、

偏在性への漠然とした懐疑や
移ろいやすい超越主義が無制限にあふれて
豊麗な星々が押し合いへし合いする
宇宙の大偉観に圧倒され、

ゆえに、

あたかも天啓のごとき雰囲気を供えた流星が
没落の未来を暗示することなど間違ってもなく、

過去をもう一度生き直さざるをえないような悲しみに包まれるという
大きな錯誤が永続的に作用することもなく、

ひどく底意地の悪い将来によって
自己依存の行き着くところが呑みこまれてしまうこともなく、

好むと好まざるとにかかわらず
命の環状線を一巡して
沈黙に侮辱されながら帰途に就くしかないという
そんな無防備な孤立状態に気づかされてうんざりすることもなく、

また、

生と死のいずれが存在の実相であるにせよ
それ式のことではもはや驚かなくなっていた

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻495頁)

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