丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む
ーなんとドッペルゲンガーを見ている青年は自殺していた!
ということは、どっちがドッペルゲンガーやら?=
津波を生きのびた青年が、自宅で見つけた男の死体。それは自分のドッペルゲンガー。土中に埋めた筈なのに、いつの間にか復活しているではないか!
ドッペルゲンガーと対峙しているうちに、男は自分の過去を思い出す。
自殺したこと……。
辛い母子家庭の境遇……。
なんと、この青年は自殺していたのか!
すると幽霊が、幽霊のドッペルゲンガーを見ていることになるのか?
どういう展開になるのだろうか?
先は分からないながら、自死したことを思い出した青年の幽霊が、ドッペルゲンガーと向かいあう場面。
これも一つの長い文、ワンセンテンスである。
前半の、青年の幽霊がおのれのドッペルゲンガーを語る言葉は、どこかユーモラスに観察している気がする。
「見かけだけは完璧なまでにおれ自身」
「そら音を吐くことが上手そう」
「至れり尽せりの環境でもって促成栽培」
……と突き放して、辛辣に自分のドッペルゲンガーを観察している。
それが段々非難めいた口調に移り変わってゆく。
「言語道断」「恩知らず」「からかうような挙」「面当て」「嫌味ったらしい芝居」と厳しい。
「第二幕」を語るあたりから、青年の幽霊はおのれのことを
「身に覚えのない異界への参入を余儀なくされた ただひとりの観客」
とかなり被害者めいた意識で捉えている。
ドッペルゲンガーには「罪多くして死に至ったのかもしれぬ己を棚に上げ」と辛辣である。
文の最後は「自死を決意する直接の引き金」「冷酷無比に模写しよう」と次の暗くなりそうな展開が仄めかされる。
一つの文の中で、トーンがユーモラス、非難がましい、被害者めく、辛辣と変わってゆく。
丸山先生から指導を受け、丸山先生の文にはたまたまそうなった……ということがないと知る。
丸山先生は隅々まで考えて言葉を選んでいる。
たとえ私をはじめ、殆どの読者が気がつかなくても絶対に手を抜かない。
そこから緊張感が生まれ、作品を引き締めているように思う。
さて、
今や見かけだけは完璧なまでにおれ自身である、
肩をそびやかしながらそら音を吐くことが上手そうな、
ちゃんとしたおとなに諭されているそばから大はしゃぎするような、
至れり尽せりの環境でもって促成栽培されたかのごとき、
二十歳そこそこの若造はというと、
死から復活して生を為す者を装うだけでも言語道断だというのに
恩知らずにも
埋葬してやった者をからかうような挙におよび、
ともすると山頂にそっくり移設させた建造物のように思えてしまう
大津波に押し上げられた漁船を舞台に見立てて、
そっとしておいてやりたい亡霊個人の活動の範疇をはるかに逸脱した
まったくもって面当てとしか思えぬ
目を背けたくなるような
嫌味ったらしい芝居をだらだらとつづけ、
それだけならまだしも、
いい加減にしてほしい
その第二幕においては、
おのれ自身との調和を達成できるという
かなり明確な世界観に至っていたにもかかわらず
身に覚えのない異界への参入を余儀なくされた
ただひとりの観客に
さらなる苦渋を与えんがために、
気随気儘な生により罪多くして死に至ったのかもしれぬ己を棚に上げ、
憂慮すべき歴程としての
つまり
自死を決意する直接の引き金となった直前のこのおれのありようを
冷酷無比に模写しようと
大づかみながら明晰な熱演を繰り広げていた。
(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻133頁)