さりはま書房徒然日誌2023年10月2日

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む
ーこの世のものとは思われない風景が見えてくるような文、そこには作者の姿も見えた!ー

旧ツィッター(エックス)のフォロワーさんのなかに、毎日、朗読の練習をされては、どの箇所が、なぜ面白いのか考えて、投稿文を書かれている方がいる。

お若い方なのに偉いなあと思う。

私なんか若い頃は本の感想を聞かれても「面白かった」としか言えず、「どこがどんな風に面白いのか具体的に説明しなさい」と叱られたものだ。

今でも、いいなあと思った箇所があると、こうして写したりしているが、なぜいいと思ったのか……問われると答えにつまるところがある。

「いいと思ったからいいのだ」と答えたくなるが、お若いフォロワーさんがきちんと自分の言葉でいいと思う理由を説明されている姿に、「いけない」と反省する……。

さて引用文は、「心のぼろ船」で精神の旅に出た青年の心の旅を語る文。

長い文である。これで一つの文である。文そのものが旅しているような文である。

真ん中くらいの箇所「浮き世の波のまにまに漂よいながら」という一帯に、この世には実在しない風景がいっとき見える気がする……。
そんな視覚に訴えてくるパワーを感じて心惹かれた。
読んでいる方も、旅しているような錯覚に誘い込む文である。

そしてこの文には、丸山先生自身の姿も色濃く反映されている気がする。

「人類の御世が」から「不滅性」までのの嘆きや感慨は、丸山先生の思いそのものではないだろうか。

「そんな複雑怪奇な つかみどころのない世界のなんたるかを知りたくて」という言葉も、丸山先生の心からの叫びのような気がする。

「単なる傍観者であり目撃者であるにすぎぬ 自称<自由の回復に関する精通者>にして<傑出の詩人>という青年の姿に、丸山先生の姿が重なるようで感慨深く読んだ。

しかし写すだけで疲れる長い一文である。この文を書くのに、丸山先生はどれだけ言葉と想いの火花を散らされたことだろうか……。

さらに、

滑走とも言うべき奔放な推進の作用と反作用を存分に弁え
だしぬけの座礁や嵐による転覆や不注意がもたらす船火事といった
悲惨きわまりない遭難をとっくりと覚悟しながらも、


あるいは、

人類の御世が終わりを告げつつあるという認めがたい現実や、

世相を如実に活写する言葉などはもはや無用であることや、

偽装された不純な時代の終焉や、

今やすっかり色蒼ざめてしまった晴朗の世や、

人間の所業とは思えぬ行為と常に境を接している事実や、

天空の高みに息づいている不滅性といったことなどを、

それこそ充分過ぎるほど承知しつつ、


それでもやはり、

一方においては
色とりどりの多様性に満たされていることによって
ときとして美的作用が導き出されることもあり、

他方においては
万物をつかさどる自然の摂理によって
生類たちをその台座ごと打ち倒すこともある、

そんな複雑怪奇な
つかみどころのない世界のなんたるかを知りたくて、


もしくは、

聴く耳だけを持ち
どこまでも受動的な存在でしかない
騒乱のうちに影のように座している絶対者の幻影にいざなわれて、

浮き世の波のまにまに漂よいながら
ときおりじれったげな罵声を発して
うららかな朝空の下に満ちる静寂を乱したり
沈みゆく太陽のバラ色の頂を穢したりするばかりの
単なる傍観者であり目撃者であるにすぎぬ
自称<自由の回復に関する精通者>にして<傑出の詩人>は、

そのさすらいの最深の根底に
きっと喜ばしい何かが横たわっているものと確信し
苦い経験と甘い経験が相まって最善の答えを出すものと盲信して、

まるで肉欲のはけ口が見つかったときさながらに
瞳をらんらんと燃え上がらせ、

際限のない破壊という
最も顕著な結果に支配された
現世という大海原に乗り出し、

あとはもうよくなるばかりという崇高な宿命を予感し
「いかなる命も必ずや実り豊かな成果をもたらす
それが自然の法則というもの」
などと口走りながら、

どんな啓発も厭いはしない
終わりなき漂流を始めていたのだ。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻82頁)

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