リチャード・ミドルトンの部屋

ブライトン街道にて リチャード・ミドルトン

 

ゆるりゆるりと太陽が硬く、白い丘陵をのぼっていき、謎めいた夜明けの儀式も束の間、ついに雪がきらめく世界に燦然と姿をあらわした。きつい霜が夜のあいだにおりていた。そして鳥たちはあちらこちらを跳び歩いていたが、命に耐えるだけの力もなく、銀の道には、鳥たちの移動の跡は残されていなかった。ところどころ、雪から守られた灌木の暗がりが、色彩あふれる大地をおおう白銀の単調さをやぶっていた。頭上の空は朱色から濃紺へと、濃紺から瑠璃色に溶けだしていき、あまりに淡い色なものだから、広大な空間というよりは、薄い紙でできた衝立のようだった。平坦な野原を横切ってくるのは、冷え冷えとした、音のない風で、木々から美しい雪塵を吹き飛ばしたが、それでも雪兜をいだいた灌木がゆらぐ気配はなかった。地平線上に姿をみせると、太陽はみるみる速度をまして上昇していった。高くなるにつれて、凍てつく風の鋭さと混沌としながら、太陽は熱を放ちはじめた。

かくも奇妙な、熱気と冷気のいれかえのせいで、夢のなかにいた放浪者の眠りが乱されたのかもしれなかった。彼はしばらくのあいだ、自分をおおった雪を相手にもがいたが、それは寝床の敷布がからみ、不快そうに体をひねる男の仕草そののであった。それから目をみはりながら、体をおこした。「これはなんと! 寝床にいるかと思っていたのに」彼はつぶやきながら、荒涼とした風景を見つめた。「それなのに、ずっとこんな雪っぱらにいたとは」彼は両の足をのばすと、苦労しながら立ち上がり、体から雪をはらった。そうしているうちに風に震えあがり、今までいた寝床の温かさを思うのであった。

「おやまあ、すごく気分がいいじゃないか」彼は思った。「ついているじゃないか、ここで目が覚めたなんて。それとも、ついていないのか…戻ってやるほどの仕事もないなんて」彼は視線をあげると、青を背景にして輝いている丘陵地帯をながめたが、それはまるで絵葉書のアルプスのようであった。「また四十マイルかそこらを歩くことになる、おそらく」彼は陰鬱につぶやいた。「昨日、なにをしてたのやら。ひたすら歩いて、くたくたになるまで歩いたというのに、まだブライトンから十二マイルしか離れていない。雪もいまいましい、ブライトンもいまいましい、何もかもいまいましい」太陽は、徐々に高度をあげていった。彼は丘陵に背をむけ、辛抱強く道を歩きはじめた。

「よろこぶべきか、嘆くべきか、訪れたのが眠りだけとは。よろこぶべきか、嘆くべきか、よろこぶべきか、嘆くべきか?」彼の思考を編曲しているものは、ドサッドサッという規則的な足音の伴奏のように思え、彼は自分に問いかけながらも、その答えを探そうとはしていなかった。歩き出しているというだけで、十分満足していた。

そうこうしているうちに、だらだらとした歩みで里程塚を三つすぎた頃、ひとりの少年を追いこしたが、その少年は身をかがめ、煙草に火をつけていた。彼は外套を着ることもなく、雪のなかのその姿は、語ることができないほど弱々しいものだった。「この道をいくの、おじさん」通りすぎたとき、その少年がかすれ声で訊ねてきた。

「ああ、そうだと思う」放浪者はこたえた。

「よかった! それなら少し一緒に歩くよ。あまり速く歩かないならだけど。この時分に歩くのは、少し寂しいからね」

放浪者は頷いた。その少年はおぼつかない足どりで、彼のかたわらを歩きはじめた。

「歳は十八なんだけど」彼はふといった。「ぜったい、それより年下だと思っていたよね」

「十五歳。きかれたら、そう答えていた」

「負け馬に賭けていたよ。去年の八月で、十八歳になったんだ。この道をさすらいはじめて、もう六年になる。小さい頃、家から五回くらい逃げ出した。そのたびに警察が連れ戻しに来た。優しくしてくれたけど、警察のひとたちは。今は、逃げ出す家もないんだ」

「わたしにもない」放浪者は穏やかに言った。

「そうか、どういう人なのか見当がついた」少年は息をきらした。「落ちぶれているけど、昔はいい家のひとだったんだ。それなら、ずっと辛いよね」放浪者は、おぼつかない足どりの、弱々しい相手をながめ、歩く速度をおとした。

「君ほど長いあいだ、辛い思いをしてきたわけではないが」彼は認めた。

「そうだね。歩き方をみればわかるよ。まだ疲れていないもの。たぶん道のむこうにあるものに期待しているでしょ?」

放浪者はしばらく考えにふけった。「どうだか」彼は苦々しい思いでこたえた。「いつも道の先に何かあると思っているのだが」

「そのうち、そんなこと思わなくなるよ」少年はいった。「ロンドンのほうがあたたかいけど、食べ物にありつくのは大変だから。本当にめったにありつけない」

「それでも、そこに行けば、同情してくれる人に会うこともあるかもしれない…」

「いなかのひとの方が優しいよ」少年がさえぎった。「ゆうべ、納屋にただで泊めてもらって、牛といっしょに寝たんだ。朝になると、そこの農家の主に叩き起こされたけど、それでも、体がとても小さいからといって、お茶とパンをだしてくれた。いなかでは、うまくやれる。でも、これがロンドンだと…。夜になってエンバンクメントの河岸通りでスープの施しをもらうのがやっと、あとは始終おまわりさんに追いかけられることになる」

「昨夜、道端で倒れたんだが、そのまま倒れたところで寝ていた。死ななかったのが不思議なくらいだ」放浪者はいった。少年はするどく相手を見つめた。

「どうして分かるの、死んでないってことが?」彼はいった。

「さあ、どうしてだろう」ややしてから、放浪者はいった。

「教えてあげるよ」少年はかすれ声でいった。「自分たちみたいな人間はね、この状況から逃げられないんだ、逃げ出したくても。いつもお腹がすいて、喉がからからなのに、始終歩きどおしなんだ。それなのに素敵な住まいと仕事をもらっても、胃が痛くなるんだ。体力がありそうに見えるかい? わかっているよ。歳のわりに、体が小さいってことは。それでも、こうやって六年のあいだ、放浪してきたんだ。それに思っているだろう、話している相手は死者じゃないと。マーゲートで水に入っていて溺れたこともあるし、太釘を握りしめたジプシーに殺されたこともあるんだよ。ジプシーに頭を殴られたけど、それでも、まだ今でも、この道を歩いて、ロンドンまで歩いていって、それから、また、そこから歩いてくるんだ。どうしても、歩かないでいられないから。死んでも。逃げ出したくても、逃げ出すわけにはいかないんだ」

少年が言葉をとぎらせ、咳きこんだので、放浪者は足をとめると、相手が落ち着くのを待った。

「すこしのあいだ、外套を貸してあげよう、トミー」彼はいった。「咳がひどいじゃないか」

「よけいなお世話だ」少年はつっけんどんに言うと、煙草をしきりにふかした。「大丈夫だから。道について話していたんだ。まだ、分かっていないようだけど、じきに分かるよ。みんな、死んでいるんだよ、この道をいく者はだれもかも。みんな、へとへとに疲れているんだ。それでも、どうしても離れられないんだ。たしかに夏になれば、いい香りがただようよ。埃と藁の香りがね。暑い日には、風が顔をなでてくれるし、晴れた朝、露にぬれた草のなかで目が覚めるのも素敵だよ。なんだか、わからないけどたぶん…」いきなり、彼が前によろめいたので、放浪者は両腕でささえた。

「具合が」少年はか細い声でいった。「具合がわるい」

放浪者は街道をぐるりと見わたしたが、家もなければ、助けとなりそうなものもなかった。道の真ん中で、不安にかられながら少年をささえていると、そう遠くないところに自動車があらわれ、雪のうえを滑るように近づいてきた。

「どうかしましたか?」運転していた男は車をとめると、静かに訊いた。「私は医者ですが」彼は少年に鋭い視線をはしらせ、その切迫した呼吸に耳を傾けた。

「肺炎だ」彼はいった。「車で診療所まで連れていくが、もしよければ一緒に」

放浪者は救貧院行きかと思い、かぶりをふった。「それでも歩いた方がいいので」彼はいった。車に運ばれながら、少年はかすかに目くばせをした。

「ライゲートをこえたら、また会おう」彼は放浪者につぶやいた。「またね」車は白い道のむこうに消えていった。

午前中、放浪者は解けた雪をはねながら歩いた。だが真昼になると、農家の戸口をたたいてパンを乞い、それからひと気のない納屋へ忍び入ると、そのパンを食べた。納屋のなかは暖かかったので、食事がすむと、彼は藁のなかで眠りにおちた。暗くなった頃、彼は目覚め、また雪がとけた道をぽつねんと歩きはじめた。

ライゲートをこえて二マイルのところで、人影がみえた。弱々しい姿が、暗闇からそっと出てくると、彼の前にあらわれた。

「この道をいくの、おじさん?」かすれた声がしてきた。「それなら、少し一緒に歩くよ、あまり速く歩かないならだけど。この時分に歩くのは、少し寂しいからね」

「でも、肺炎じゃないのか」放浪者は総毛立つものを感じながら、叫び声をあげた。

「もう死んだよ、今朝、クローリィでね」少年はいった。