丸山健二「風死す」1巻を少し再読する
ー今度こそ〈苦悶の智者〉〈苦悩の覇者〉〈煩悩の富者〉〈絶望の覇者〉で落ちこぼれないようにしたいー
「風死す」では、〈苦悶の智者〉〈苦悩の覇者〉〈煩悩の富者〉〈絶望の覇者〉という四つの存在が語られている。
一回目に読んだときは、どれがどれだか分からなくなって落ちこぼれ状態で読み進めた。
もしかしたら、それでもいいのかもしれない……この社会はそうした存在が入り乱れているのだから。
でも、やはり再読なのだから、少しは違いを把握したいもの……と幾分丁寧に読む。
以下引用文は「苦悶の智者」について語っている箇所より少し抜粋。
最初の引用箇所の「生者のほぼ全員が帰依せざるを得ない」という表現は、「苦悶」というものを巧みに表現しているなあと思う。
「苦悶の智者」が口ずさんでいる歌について「なんとも陳腐極まりない おそらく安っぽい鎮魂歌」と表現することで、「苦悶の智者」が等身大の存在に見えてくる。
一方でその次の「壮大な丸天井としての蒼穹を背に 人の耳には聞こえぬ超低音で唄い」で、やはりコレは人でない感が強まってくる。
さらにこの文の中だけでも、〈苦悶の智者〉のイメージは「淑やかな足の運び」「破滅のカレンダー」「生と死の対立をそれとなく煽り」「旨みのない人生」「安っぽい希望」という様々な言葉で語られている。
嫌な存在としての「苦悶の智者」を喩える言葉が、次々と現れるところが面白さなのだろうか。
ときとして創造の ときとして破壊の象徴でもある天下無敵の絶対者は
生者のほぼ全員が帰依せざるを得ない かの名高き〈苦悶の智者〉は
(丸山健二「風死す」1巻115頁)
なんとも陳腐極まりない おそらく安っぽい鎮魂歌のたぐいを口ずさんで
壮大な丸天井としての蒼穹を背に 人の耳には聞こえぬ超低音で唄い
実に淑やかな足の運びで 気づかないうちに近づいてきたかと思うと
これ見よがしに 一番見易い位置に破滅のカレンダーを掲示して
密接な関係にある生と死の対立をそれとなく煽り立てながら
旨みのない人生を力んで生きても無駄であることを諭し
特用品としては申し分のない 安っぽい希望のかけらを
入り用な代物を信じさせて かなり強引に押し付け
(丸山健二「風死す」1巻117頁)