丸山健二「風死す」1巻を少し再読する
ーほとんどの行が平仮名で終わっている!ー
ー短歌&俳句歴の長い方は「風死す」にすっと入れた!ー
注意力散漫なせいだろうか。読んでいるときには素通りしていたけれど、入力してみて初めて気がつくことがある。
「風死す」各行はほぼ平仮名で終わっている……ということも、入力して初めて気がついた。
ざっと見たところ1巻100ページまでのうち、漢字で終わっている箇所は24頁「結果」と30頁「最中」の二箇所のみの気がする。
これはどういう意図なのだろうか?終わりが平仮名だと、やわらかく次の行につながる気もするのだが……。たぶん私には分からない意図が働き、きっと効果を生み出しているのだと思う。
「風死す」を短歌歴、俳句歴がおそらく半世紀以上の方に見せたら、レイアウトの美しさに感心され、短歌と同じ発想が働いている箇所がある!と教えてくださった。
そして「読んでみたい」と。
丸山塾の塾生も戸惑う「風死す」の世界に、丸山文学に馴染みのない、でも歌人歴、俳人歴の長い方が違和感なくすっと入り込んでいく。
その姿に、「風死す」の楽しみ方は通常の小説を読むようなスタイルではなく、散文詩のように読んでいくものなのだろうか……とも思った。
そうだ!「風死す」というタイトルそのものが、俳句の季語なのである。
「風死す」の世界に入るには、小説のことを忘れ、短歌や俳句の創作にトライするといいのかもしれない。
さて以下引用箇所である。
そんな散文詩のような世界にも、オンラインサロンとかで伺った話と重なる丸山先生自身の記憶が、形を変えて散りばめられているような気がした。
小さな家柄を鼻にかけていた養父母の
敗色濃厚な人生模様を想像するや
たちまちに忘恩の徒となって
とうとう家出を決意した
あの日のあの夕刻に
端を発する際の
勇気溌溂が
復活し、
(丸山健二「風死す」97頁)
偽りの家族愛に溶け合う日々をいきなり見限ったかと思うと
節くれだった気構えと 自主独立の心の持ち主に変身し
幸福もどきの家庭環境の急激な失墜を全面的に受け容れ
のみならず またとない好機と捉えて ギアを替え
(丸山健二「風死す」98頁)