丸山健二「風死す」1巻を少し再読する
ー「記憶の流れ」とは読むのも、書くのも楽しいものかもしれないー
作家の晩年の作品は、わりとこの登場人物はもしや作者自身なのだろうか……と、作者に似た登場人物を発見することがよくある気がする。
「風死す」は、丸山先生自身が「記憶の流れ」と言われているように、至る所に丸山先生の記憶が飛び散っている。ただし語り方、表現の仕方は様々な形に変えて……。
今まで丸山文学を読んできた読者なら、「こんなことを思っていらしたのだろうか」と感慨に打たれるかもしれない。
丸山文学を読んだことがない方でも、詩や短歌に関心がある方なら「こんな表現が、こんなレイアウトができるのか!」と興味をもって頂けるようだ。
以下引用文も、丸山先生の八十年間の人生のどこかの断片、いや瞬間を語っているのではないだろうか?
引用箇所の二番目の段落。
意味の世界(どういうことだろう?実在の社会ということだろうか?)の復活を「舌触りが良くない焼き菓子の」「ほぼ半分程度の美味さ」と味覚に関連づけて例えているから、あまり居心地の良くなさそうな世界を感覚的に捉えることができる。
三番目の段落。
「断じて触れてはならない」という「生の要点と骨子」とは何だろうか。最後に来ている「青みがかった夏の夜を堪能」が幾つものストーリーを示している気がする。
意気地なしにして陰険な 不逞な考えと行為が病み付きになった
健全な社会から除外すべき奴輩の黒い影が急速に滲んでゆき
意味の世界が徐々に復活して 舌触りが良くない焼き菓子の
ほぼ半分程度の美味さを 自己破壊的な精神力で味わい
生の要点と骨子については 断じて触れてはならないと
声なき声が切言する 青みがかった夏の夜を堪能し
(丸山健二「風死す」1巻297頁)
小説では「記憶の流れ」に任せて……という形は珍しいと思うが、短歌では「記憶の流れ」を文字にしているような部分もあるのではないだろうか?
自分の記憶の流れを追いかけ文字にする過程は、案外楽しいものかもしれない……と、まずは短歌で「記憶の流れ」をあらわしたいと思う。
小説だと、やはり私なんかが試みるとバラバラになりそうだが、五七五七七のフォルムがある短歌なら、なんとか分解しないで少しは形になるだろうか……。
そう考えてみると、散文で「記憶の流れ」を記した丸山先生はすごいなあと思う。