丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む
ー語り手をどうするかで、双方の立場を語ることが可能になってくる!ー
「私は追放だ」で始まる十一月八日は、一方的に群れを追放された猿を「追放」が語る。
以下引用文。
「群れの猿」でもなく、「追放された猿」でもなく、「追放」が語ることで、両者の生き方の差が、どちらかに偏ることなく鮮やかに描かれている気がした。
そして
どこまでも腹黒い列座の面々は
猿として生きなくてはならぬ本筋を再三再四逸脱したという
そんな理由をもって
生き物として独立した一個の存在たり得ている
少々アクの強いその猿と
きっぱり袂を分かつことに決めたのだ。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」155頁
以下引用文。丸山先生は追放された猿に世一を重ね、自分自身も重ねているようにも思えてくる。
離れ猿は
どこか獣的な身ごなしと叫び声に深い共感を覚えたのか
少年にすっかり魅了されて
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」157頁
以下引用文。こういう情景描写は、ずっと信濃大町で暮らしている丸山先生だから生まれてくる文なのかもしれない。
ほどなくして谷という谷が
猿らしく生きることしか知らぬ猿たちの嘲りの声でいっぱいに埋め尽くされた。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」157頁