丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む
ー言葉だから可能な表現ー
「千日の瑠璃終結」十一月九日は「私は絵葉書だ」で始まる。「平凡過ぎて不人気な絵葉書」が語り手となる文は、散文ならではの魅力が存分に伝わってくる。
これが映画なら膨大な情報量に埋もれて、絵葉書の存在は目にも入らないかもしれない。見えたとしても、ほんの一瞬で終わってしまうだろう。
だが「千日の瑠璃 終結」の絵葉書は、町長や世一の住んでいる家、その家族、バス停での姉妹の別離、新婚夫婦の食卓、孫と川遊びをする老女、旅館の宿泊客、離れ猿(前日に出てきた離れ猿だろうか?)、町の雰囲気まで語ってゆく。
映像は瞬間で終わってしまうもの。でも散文は語られてゆく過程を、読み手も想像力を駆使して楽しむもので時間がかかる……昨今、そんな楽しみ方がなおざりにされている気がする。
以下引用文。絵葉書が自分の写真に写されている世一の家を語る場面。「てくてく歩いて行く」「飛翔している小鳥の姿」「外套の裾が突風に翻って」という言葉のおかげだろうか、写真の中の世一の姿が動画の中にいるように健気に動き出す感じがする。
そして
四季折々の光が
ぼろ家に邸宅の雰囲気を授け、
陽光を反射する窓という窓には
逸楽の日々すら感じられ、
これはまだ誰にも気づかれていないことで
数ある私のなかの一枚に
丘の斜面に刻まれた道をてくてく歩いて行く
今より幼かった頃の世一の後ろ姿が
点のように認められた。
どこか飛翔している小鳥の姿に似ていたのは
たぶん
外套の裾が突風に翻っていたからだろう。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」159頁)
以下引用文。
写真では中々表現できない歴史への非難、町の雰囲気までも言葉にすれば表現できるのかと思った。
さらには
国家の栄誉のためと称して始められ
惨敗に終わった戦争の残渣としての
抒情的な暗さまでもが
ちゃんと写っていた。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」161頁)