丸山健二「千日の瑠璃 終結」を少し読む。
ー言葉が映画よりインパクトを与えるときー
十一月二十四日は「私はヘッドライトだ」で始まる。
金に糸目を付けずに改造されたクルマのヘッドライトが、自分の光に映し出される様々な人たちを、首吊り自殺をした娘の幻影にぶつけるようにして身分不相応な改造車を走らせる男の心のうちを、丁寧に語ってゆく。
この場面は映画ならほんの一瞬で終わってしまうだろう。
最近の書き手も映画やドラマの場面に慣れているのか、あっという間の映像として書いてしまうことが多いように思う。
だが丸山先生は、こういう場面こそ言葉の本領発揮と考えているのではないだろうか。実に丁寧に書いている。これも丸山先生が映画好きだからこそ、映像では無理な表現というものを言葉に追い求めているのだろう。
そういうこととは関係ないが以下引用文。
様々な登場人物の心のうちが書かれたあと、最後に自死した娘のもとへ行こうと、男が湖へと車を走らせる場面である。
ボートにしても、少年世一にしても、この場面は短歌になってしまいそうな、抒情性、幻想味がある場面だと思い心に残った。
そのとき
漕ぎ手がいないにもかかわらず
ひとりでに岸へ寄ってくる古くて不吉なボートが見え、
それの意味するところはとうに承知しており
要するにお迎えの舟というわけだ。
つづいて
どこがどうというわけではなくても
全体の雰囲気が鳥を想わせる少年が忽然と出現し
ふらふらと私の前を横切り、
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」221頁)