丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む」
ー青い鳥なのに可愛げのない囀りをする意外さー
十一月二十五日は「私は芝生だ」で始まる。
「うたかた湖岸辺」の「思い通りには根付かず ぶちになってしまった芝生」が物語るのは、無鉄砲にも駆け落ちをしてきた若い男女のひと組だ。
上手く根付かなかった芝生が語ることで、なんとなくこの男女の行く末も見えてくる気がする。うたかた湖から吹いてくる風も詰るようであり、とことん見放された感じのする二人。
だが以下引用文の箇所にくると、それまでしょんぼりした二人にいきなり強烈な光があてられるような気がする。
「揃いの手編みのセーター」という幼さ、純粋さが感じられる代物の上に付けられたオオルリのバッジ。
このバッジの描写が「赤とも金ともつかぬひかり」「非難しそうな表情」「嘴をかっと大きく開いて」と、二人の幼さを叱りつけ、駆逐してしまうように思えてならない。
揃いの手編みのセーターの胸のところに
それぞれ付けられたオオルリのバッジは
赤とも金ともつかぬ色のひかりを浴びて
さも人の伝為をいちいち非難しそうな表情で
嘴をかっと大きく開いている。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」224頁)
以下引用文。普通、「青い鳥」といえば幸せのシンボル、優しいイメージがある。だが「千日の瑠璃」の青い鳥は、冷徹に丘の家に住む世一一家の現実を囀る、可愛げのない鳥である。
鳥にこんな意地悪なことを言わせようと思うのは、エッセイにも度々出てくるように丸山先生が鳥を飼っているからなのだろうか。
さらにこの場面で初めて、世一が飼っている鳥が囀るのである。それなのに、こんなに意地の悪い囀りをするのだ。
すると
バッジの青い鳥が
若いと言うことだけで幸せなのに
あんな家が幸福に見えてしまうのは残念だと
そんな意味のことをさえずり、
否、そう鳴いたのは
その家で飼われている正真正銘のオオルリだ。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」225頁)