丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む
ー個である大切さ、両性具有の魅力を思うー
丸山文学の魅力の一つに、「独立した個人」とは何か?と問いかけ、日々の慌しさに見失いがちな「孤である個」の意義を思い出させてくれるという点がある。
以下の引用もそうした箇所で、目の見えない瞽女の娘に独立した個人の姿を見い出す巡りが原の言葉である。
その歳にして早くも
いっさいの飾りを欠いた在り方をよしとし
どんなに世間の荒波をかぶっても瓦解しない知恵を育み
どこのだれにも追い落とされない静謐な威厳を身に付け
常に心を奮い立たさずにはおかぬ正当な動機に従い
たとえば
国家権力の管理者たちを凌【しの】ぐほどの
たとえば
正義をつらぬき通す豪胆な反乱者を上回るほどの
たとえば
群れ集うことを嫌悪し
完全に独立した個人という
明快かつ単純なかたちで生きる哲人に優るほどの
征服されざる人物としての重々しい風格を具えている
(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」7頁)
瞽女の娘は両性具有の存在である。
以下引用箇所から、語り手の巡りが原も自身を両性具有の存在だと考えていることがわかる。
川やシラビソがそういうシンボルになるのかと、両性具有を「融通をきかす」「柔軟な解釈」ととらえるのか……そういう考え方が素敵な世界だと思った。
なぜとなれば
この私にしてからが
あらためて考えてみると不思議でならぬ
性別なる条件を具備されていない身であるからだ
大半の生き物にぴったりと貼りつけられている雌雄の尺度を無理やり当てはめようとすれば
「巡りが原」を縫って流れる川を女の証しと見ることもできるし
また
真ん中に一本
国威の顕揚にも似た勢いで
天空にむかってでんとそそり立つ
シラビソの大木を男の象徴と見なすことだってあながち不自然ではない
ために私は
いかようにも融通をきかすことができ
とほうもなく柔軟な解釈が成立させられる
その分だけ慎重な言い回しが必要な
彼女のような人間と同類というわけだ
(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻18頁)