丸山健二「風死す」1を少し再読する
ーもう一人の自分が無数にある世界ー
丸山先生は作品にあわせて文体を変えるとよく言われる。
初期の簡潔な通信士のような文体からスタートして、時代ごとに随分と変化していると思う。
私は後期作品から丸山作品に入ったので、どちらかと言えば後期作品の方が読んでいて楽しい。
一方で初期の頃から読んでいた長いファンの方にすれば、散文詩のような後期の作品はどうも読みにくいらしい……。
そういえば、随分とお若い方が私のこちらのサイトを真剣に読んでくださっているようで有り難く思っている……。
昔からの丸山ファンの多くが後期作品から離れて行ったのに、とてもお若い方が後期作品を真摯に読んでくださる……この違いは何だろうか、わからない。
寺山修司にも、今でも20歳くらいの熱烈なファンがいると聞いたことがある。
余計なことながらミステリは、あまりその類の話を聞かない気がする。若者の好み、年配者の好みがくっきり分かれてしまっているのではないだろうか。
年齢差を乗り越えられる文学、年齢で層が固定してしまう文学の違いはどこにあるのだろうか……。
閑話休題。
丸山ファンも中々読破できないでいる「風死す」に戻る。
この作品は、丸山先生が、丸山先生の記憶や意識が、たくさん散らばった万華鏡のような世界だと思う。
先日も書いたと思うが、丸山先生の姿を発見しては「あ、こんなところにいた!」と楽しむこともできるのではないだろうか。
引用箇所一番目、左斜め下りのレイアウトが綺麗に再現できず読みにくいと思うが……。
ここで出てくる「突風」は丸山先生自身の姿、今の思いではないだろうか?そう思って読むと切なくなるような、しみじみしてしまう箇所である。
引用箇所二番目、「もう一人の自分」というのは量子力学的に必ず在ると丸山先生は確信をもって語られる。
「もう一人の自分」ドッペルゲンガーは、丸山作品の大切なテーマなのである。
「風死す」では、「もう一人の自分」が無数に出てくる気がする。だから混乱するのかもしれないが、矛盾だらけの一人の人間の内面を気楽に旅されるのもいいのかもしれない。
山間部の僻地にこそ相応しい 自由な分だけ奔放にして無頼な突風は
やがて 草木と木木の植物で埋め尽くされた遠景へと呑みこまれ
途中で関わり合ったすべての人間に纏わる一身上の余所事に
乾いた別離の言葉を投げて 妖しい光の奥へ吸いこまれ
それきり消滅して その後に何ひとつとして残さず
(丸山健二「風死す」1巻34頁)
髪を逆立てて 心身を硬直させた 間抜けなもうひとりの俺のすぐかたわらに
よしんば目玉をくり抜かれたところで見ることを止めない俺をそっと据え
(丸山健二「風死す」1巻38頁)