丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻を読みながら比喩を少し考える
丸山文学の面白さのひとつに、思いもよらない比喩表現がある。
こんな例えは出会ったことがない……という表現に次から次へと遭遇。
その度に、わたしの思い込みの激しい頭で決めつけていた世界が少しずつ崩壊して、新しい目でこの世を眺めている面白さがある。
だが考えてみれば、学校の国語教育では「比喩」の意味を教わることはあっても、その楽しみ方や比喩にチャレンジした作文なんて教えを受けることはほとんどなかった。
こんな現状では、たぶん丸山作品の面白い比喩に出会っても、たいがいの人は「これなに、分からない」で終わってしまうのではないだろうか?残念なことではある。
さて、船頭の大男がゆきずりの女との恋を楽しみ、屋形船おはぐろとんぼが憤りにかられつつも、次第に諦めてゆく場面。
全体にぬらりとした感じの妖美を漂わせる
紫がかった峰の端に
なぜか碾き割麦を彷彿とさせる月がゆらりと昇る頃には
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻582頁)
心になぜか「碾き割麦を彷彿とさせる月がゆらりと昇る頃」というフレーズが刺さり、イメージを反復したり、なぜ気になるのか……考えてしまう。
まず無知の悲しさで「碾き」という漢字の読みが自信なく、調べて「ひき」でよい……と確認。
さらに「碾き割麦」というものがイメージできないながら、麦畑の麦のイメージと月を重ねることで、心惹かれてゆく。
「碾き割麦」を調べてみると、イメージとは少し違うなあ……
ミューズリーの押し麦みたいなものかなあ……
サイズ感は違ってもゴツゴツした感じが月とぴったりかも……
小さい感じが夜空に遠く見える感じと重なってよいかも……などと思う。
「碾き割麦」も、「月」も自然界のものだから、かなりイメージが違うようでも、意外とぴったりするのだろうか?
それとも、ここは大男の恋の場面だから、「ぬらり」「峰」「碾き麦」とかセクシュアルな意味も重ねているのだろうか?
英語だったら、”as”とか”like”が使われて、訳文も「〜のように」とワンパターンになりがちだけど、日本語だと「彷彿とさせる」という言い方でバリエーションをつけられるのも面白いと思う。
続く大男が女との恋に激情を感じる場面でも、麦関連の比喩で例えている。
有数の穀倉地帯に
突如として殷々たる砲声が轟くような
強烈な衝撃が立てつづけに走り
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻582頁)
読んでいると違和感がなく、かけ離れた例えが不思議に心に残る。穀倉地帯も、恋も自然の営みだからなのだろうか?
そういえば、丸山健二塾でご指導をいただいていると、こんな発想で比喩を使うのか!とやはり比喩がとても勉強になることを思い出した。