丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む
ー自然を語る言葉の面白さ、平仮名と漢字のメリハリを思うー
未読の方も多いだろうから、粗筋は最低限にとどめ、文体や作者の考え方に魅力を感じたところを取り上げてきたつもりである。
さてラスト近くになってきた。黒牛、逸れ鳥、瞽女の娘、特攻隊くずれの青年、堕落した僧侶……それぞれの不思議な結末を巡りが原は見届ける。
ラストが近づいてきた以下引用箇所、「闘争好きのつむじ風」「自由のすべてを排除してしまうような勢いだった雲」「稲妻と雷鳴の数が激減」「目減りする一方の陽光」と、自然を語る言葉は私が今まで見たこともない言葉が使われていながら、物語が生まれるような美しさがあると思う。
それから入力していて、とりわけこの箇所は風景について語る文は平仮名が多く、精神や思考を表す言葉で漢字が使われているような気がした。
平仮名で書くことによって巡りが原の柔らかな緑が浮かび、漢字を眺めると思いの複雑さを感じる気がするのだが……はたして、どうなのだろうか?
ほどなく
あちこちに渦巻いていた
闘争好きのつむじ風が空中に散らばり始め
あれほどまでに濃密で
自由のすべてを排除してしまうような勢いだった雲がみるみる薄まってゆき
それにつれて稲妻と雷鳴の数が激減し
ついには消え消えとなり
「巡りが原」の様相が玄妙にして不可思議な寂寞へとむかう
代わりに真昼の陽光がもどってくるのかと思いきや
それはなく
というのも
すでにして太陽が山陰に隠れかけていたからで
ひたすら長い影を草原に落とすシラビソの巨樹は
何事もなかったかのように
雨のしずくをやどしてきらきらと輝き
おのれの根本に発生したとほうもない怪事にたいしてもいっさい私情をまじえず
然りとも否とも言わず
目減りする一方の陽光のなかにあって
静かで高尚な自己満足にひたりながら
あくまで素知らぬふりを決めこんでいる
(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻445頁〜447頁)